花鳥風月課長風月サブリミナル

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     久しぶりに在宅仕事を何もしなくても済む休みの日が訪れ、朝から快晴だった。レジャー気分が膨張しているが、何をするのかも思いつかず、思いついたのは花鳥風月だけだった。正確には花花風花といったところか。とにかく桜の写真を撮るという、写真としては大して面白くないが何だかんだ気分は晴れやかになるお遊びに出かけた。冒頭の写真は仕事で訪れた関大の桜。大学にしろ小学校にしろ学校にはほぼ確実に桜があるものだが、なぜだかありがたみが少し下がる印象がある。最もありがたみを感じないのはマンションの敷地内にある桜だ。

    写真は復路。始終こんな具合。

     とりあえず京都に。京福電鉄の「桜のトンネル」というのを一度見てやろうと嵐電に乗った。結構な人手である。本線から帷子ノ辻で北野白梅町行きに乗り換えて、鳴滝から宇多野の駅間にあるらしい。車両の先頭に早速人々が陣取り出すので俺もその中に混じった。隣にはEOS70Dをぶら下げて猟犬のような目をした婆様二人組が出発前から鼻息を荒くしている。前には小学生くらいの女の子がいて、母親から借りたスマートフォンで撮影しようとしていた。


     出発進行。窓に張り付いている初老男性がテスト撮影とばかりにEOSのもっと高そうなやつを構えてサララララとシャッター音を響かせている。ホンマのシャッター音は、携帯みたいにカシャーンとはいわないよね。俺のミラーレスはカシャっていうけど。

     そうして一つ目の駅を過ぎたころからにわかに緊張が高まり出す。前の女児もスマホでテスト撮影しようとしたのだが、使い方がわからなくなったのか、一歩ほど後ろにいる母親に近付いて使い方を再確認していた。つまり持ち場を離れてしまったわけで、その空いた空間にすかさず猟犬婆が体を割り込ませた。戻ろうとした女児はすでにその場が奪われていることにようやく気付き、目を丸くしていた。花鳥風月に全身全霊を捧げる年寄りの執着心の物凄さを、彼女は目の当たりにしたのだった。写真撮影とは、機材でも露出でもフレーミングでもなく、第一に場所取りだったりする。

     にしてもあまりに大人げない。頃合いを見計らって女児のために場所を空けてもらうよう頼もうかと思ったが、鳴滝駅に着いた途端、猟犬フォトマダムたちは何にセンサーが反応したのか、慌てて降りて行った。解決。

     さてくだんのトンネルというのは、想像したよりは短かった。こんなものか。EOSのおじさんに首尾を尋ねると、このまま次は仁和寺ですよと意気込んでいた。このため何となく俺はおじさんを見送り、仁和寺の次の龍安寺駅で降りた。たまたま降りただけなのだが、この駅の桜の方がはるかに見ごたえがあるような・・・。

    チューリップも楽しめる。
     どうせ混み合う名刹に行く意欲もなく、そのまま引き返し、四条通で本屋を覗いて京阪に揺られることにした。鴨川べりにもそれなりに桜があるようで、こちらも人が多い。

    日本で1、2位を争う風流な喫煙所

    国際化しておる。

    どちらかというと隣の見事に桜色なパンツに目が行く。
     普通電車に揺られながら読書と昼寝、という贅沢な時間を過ごすつもりが、ほとんど寝入ってしまった。そういえば天満橋にも桜があったっけ。昔は仕事でしょっちゅうあのあたりを通っていたので、個人的にはなじみ深い桜並木がある。


     日を改めて、出張。早めの新幹線に乗って、仕事の前に桜見物をした。福山城の桜を眺めるが、こちらはあちこち散発的に植えられている印象。昔仲間内よくやっていた大阪城の花見を思い出すにつけ、あの城はやはり天下人の居城なのだなあと感心することしきり。聞くところによると、大阪城敷地内は切り売りされて、最近大きな開発が始まっているらしい。徳川軍に内堀を埋められて以来の受難であるが、それでも余りある敷地を有している。ということは二三匹めのドジョウを狙う連中もいくらも出てくるのかもしれないが。

    右は由利公正像。橋本左内はすでに大河に登場したが、彼の出番はありやなしや。

     仕事的に怒涛の3月が終わったこともあり、帰省。久しぶりに地元の桜を見ることにしよう。関西よりちょっと遅いはずだし。
    我が故郷は、市内の真ん中を流れる川の堤防に、見事な桜並木がある。結構な距離にまたがっているのでなかなか壮観である。法規制で、現在はこのような堤防の桜並木は作れないらしいから、年々珍しい存在にもなっているといえる。

     高校生のころは、下校時にこの堤防の上を自転車で走ったものだった。いつか女子と青春な二人乗りが出来るのかと夢見たが、現実には幹の陰から棍棒で武装したヤンキーがカツアゲに現れる悪夢と遭遇するだけだった。
     休日なので家族連れでにぎわっており、さすがに武装集団の出番はない。人は多いが、押し合いへし合いにはならないのが地方都市のいいところである。しかし、人の密度も高くないと同時に、花の密度も低くはないか? 高校生のころの記憶だともっとトンネル状になっていたはずだが、花のつきが悪い印象。豪雪の影響か。それとも木が老齢になってきたからか。

    水仙も楽しめる。


     しかし実家の近所の桜並木は元気だった。同じく幹が総じてかさぶたようになっている老齢の木ばかりだが、こんもり花をつけておる。


     それでもののついでに、車で5分もかからないところにある桜並木を見に行ったのだが、こちらはまだ咲いていなかった。不思議。


     


    【やっつけ映画評】ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書

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       今度はこのおじさんが主人公(の一人)の作品。蝶ネクタイ姿だが話のわかるいい上司という、蝶ネクタイに対する己の偏見を再確認させられる「大統領の陰謀」の重要な脇役だ。本作では普通のネクタイ姿である。一方他の登場人物で蝶ネクタイの男がいたが、こちらは算盤勘定で主人公側に異を唱える役どころ。元の木阿弥、蝶ネクタイはヤなやつに再び収まるの巻であった。


       かの上司ベン・ブラッドリーは、なぜあんなに腹が据わった様子で若い2人を全面的に後押しできたのか。それがわかる気がしながら本作を見ていた。要するに内容としては「大統領の陰謀:エピソードゼロ」だと感じていたのが、ラストがまさしくそうなっていて、いやはや実にシビれた。まるで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような終わり方だが、「続く」の先は40年前の映画なのだから、30年前にタイムスリップするあの作品を超えている。ラストの意味がわからず「続編があるのか?」と思った人は、あるにはあるが午前10時の映画祭かBS日テレくらいでしか上映(放送)の機会はないのと思うでご注意を。


       本作でのワシントン・ポストは「特ダネ」を抜かれる側だ。ベトナム戦争についての政府の嘘を裏付ける機密文書をスクープしたのはニューヨーク・タイムズで、ポストはこの時点で煙の一筋もつかんでいない。エース記者の姿が最近見えないので「何か掴んでいるのでは」と探りを入れるセコいことまでやっている。それもむべなるかなポストの立ち位置は「地方紙」で、人も足りなければ金もない。オフィスの様子もどことなく辛気臭い。「陰謀」ではすっかりモダンな赤いデスクになっているが、家具を買い換えられる前の物語だ。


       抜かれたら抜き返せ、とばかりにここからポストの反撃が始まるのだが、本作は新聞記者の物語でありつつ、意外なことに取材のシーンはあまりない。問題の文書を手に入れる過程はスリリングに描かれてはいるが、逆に言えばそれくらい。じゃあほかは何かといえば、報道するかしないかの判断が物語の主軸となっている。もう少し格好よく言えば、敵はライバル大手紙ではなく、ニクソン政権の横暴ないしは歴代政権の欺瞞なのである。

       

       先にスクープしたタイムズは、国家機密の漏洩を理由に発行停止の処分をくらってしまった。抜き返すチャンスといえばそうだけど、追随すればポストも同じ目に遭う危険性がある。もしそうなると、株式上場をしたばかりという不安定な経営基盤が一気に崩れ去るかもしれない。だけど日和見で記事をひっこめれば、何人かの記者は退職すると息巻いている。


       この難局に立たされた、お嬢様育ちで気のいいだけが取り柄、だけに見える女社長がもう一人の主人公だ。場面が切り替わって彼女が登場するたび晩餐会か昼食会ばかりしているような人が、「殺伐」がアイデンティティのような男社会臭のきつい新聞社の社長を務めているのが面白い。「女=か弱い」という古典的偏見をなぞっているだけでなく、世襲の弊害をも体現しているような、そんな人に見えるのを見事に裏切ってくるからだ。

       

       政権を揺るがす記事と、会社の経営の二項対立は、外野からは「書くべし」以外答えのない、わかりきった問題に見える。ただし本作で何度か描かれる編集部門以外の人々の作業を見ていると、それも結構な思い上がりに思えても来る。活版の職人が版を組んで印刷機にかけ、仕上がった新聞を輸送部門の人がトラックに積み込み配送する。新聞は情報産業でありつつ、装置産業でもある。印刷や配送のいわゆるブルーカラーの人々にとって、紙面の内容はどれほど興味のあるものなのか。

       印刷屋での勤務経験がある身からすると、社長に限らず、業界の人は総じて印刷内容には全く目がいかず、刷りやすいか刷りにくいかでしか見ていないものだった。推測するに、売れる記事なら大歓迎、会社がつぶれる記事は御免被るといったところか。戦争に絡む記事なので身近に従軍者がいる場合は話はまた別かもしれないが、とにかくこの場面を見ていると、編集は会社の一部門に過ぎないことがよくわかる。同時に、ブラッドリーは所詮その一部門の責任者でしかなく、社長とは背負っているものの大きさがまるで違うことが明白だ。

       


      【やっつけ映画評】カティンの森

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         「残像」が妙に印象に残ったので、同じ監督の著名な作品を見ることにした。監督の名前で作品を選ぶことは俺はあまりしない。大変に楽しんだ作品を見た後、同じ監督の別作品を漁った経験は少ない。なのになぜか、といえば「残像」は作品が面白かったというよりは、何が面白いのかよくわからないが見入ってしまった映画で、そこに監督の怨念のようなものが渦を巻いていると思ったからだ。要するに、ワイダという人が気になったのである。


         タイトル通り、この事件をテーマにしている。名前は有名だが、森で人がたくさん虐殺されて埋められた事件、くらいの乏しい認識しかなく、勉強がてら見た部分もあるが、事件そのもののシーンがないまま残された家族たちの場面が続いていくところが面白い。これは「森で人がたくさん虐殺されて埋められた」という出来事なんだな、と強く再認識した。

         

         第二次世界大戦は、ドイツがポーランドに侵攻したところから始まる。同時に不可侵条約を結ぶソ連もポーランドに攻め入り、分割状態になった。冒頭、ドイツに追われて東へ逃げる民衆が、東から逃げてきた人々と橋の上で出くわす。状況が端的にわかる非常に印象的な場面である。

         

         そうしてポーランド軍兵士は捕虜になり、移送の途中でソ連軍に1万人以上(兵士以外も含む)が虐殺される。この蛮行を暴くのが悪の権化であるはずのナチス・ドイツだから話がややこしい。ついでに犯人側のソ連が最終的にはドイツを破り、ポーランドの牴鯤者瓩箸靴得鏝紊旅餡髪娠弔亡悗錣辰討るから、もひとつややこしい。

         

         映画は、この虐殺で犠牲になった将校の妻を中心に、その家族や生き延びた戦友ら、何らかの形で事件の被害者となった人々が入れ替わり立ち替わりして進んでいく。群像劇のようであるが、あの手法は、様々な登場人物がやがて交差し物語を盛り上げていくのが常なるところ、本作の場合、各自の生きざま死にざまをただ並べただけのような格好になっていて、話が見事に転がっていくというような展開は特にない。というわけで、ひどく散漫で退屈な内容に見えた人もいるだろう。

         

         だけど、事件を起こした側が被害者の国に、この後半世紀弱君臨するわけだから胸のすく物語は期待しようがないのは「残像」と同じだ。

         ここで描かれているのは、ある事実を国家が改竄したときに、何が失われるのかということだと思う。終盤で登場するあの無駄死ににしか見えない青年の暴走〜死が象徴的だ。いかにも若い命を粗末に散らし過ぎに見えて呆れてしまいそうになるが、それだけのことをもたらすということだ。彼以外にも命を散らしたり、自暴自棄になったりする人がいる一方で、膝を屈して生き残りを選ぶ人もいる。共通しているのは、「希望」が失せたということだ。あったものをないと言い出すと、あるべきものも消えるんだなというのがよくわかる。「この人誰だったっけ?」と、途中で混乱してしまうくらい、さして物語を転がすわけでもない総じて脇役っぽいあまたの登場人物のそれぞれの崩壊が生々しく、いちいち深入りしない描き方の分、こちらの感情移入が少ないだけまだ見ていられる。とてもつらい映画だ。

         

         生々しく感じるのは、虐殺の場面が出てこない演出によってリアルタイムな雰囲気が出ているからだろう。各登場人物は誰もその場面を見ていない。確かなことは待ち人が戻らいということと、伝聞で知るおぞましい事件について口にするとその後恐ろしいことになるということだけ。このもどかしさが臨場感を与えている。

         


        【やっつけ映画評】残像

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           芸術家が2時間、兵糧攻めに遭う物語だ。東西冷戦下、ソ連の属国状態にあるポーランドで、体制に与することをよしとしない反骨の画家兼大学教授が、やがて地位も仕事も絵具も奪われ追い詰められていく。
           同じ時期、敵方であるアメリカでも、映画脚本家が東側のスパイといわれて仕事を奪われている。この「トランボ」と、本作はおおまかには似たような内容だ。海を挟んで対峙する共産主義国家と反共産主義国家で似たようなことが行われているのは皮肉である。反中国しか思想のない人が中国共産党的独裁政権を好んだり、「北朝鮮との話し合い」と聞くと発狂する人の主張が北朝鮮的先軍政治になっていたりするのと同じような構造である。
           しかし「トランボ」がどうにか糧道を確保し生き延びる痛快な話なのに対し、本作はまったくもって小田原城だから、実に重苦しい内容となっている。ソ連がいつ崩壊するのかを考えれば、時代設定(1950年代)からいって主人公の戦いに救いがないのは冒頭から容易に予想がつく。ストーリーに特段起伏があるわけでもない。ハッピーエンドが期待できない地味で重苦しい映画。それでも最後まで惹きつけてしまうのは、これぞ世界的監督の力量か。どうしてこんなことが可能なのか、少しはわかったふりをしたいところだが、正直さっぱりわからない(タイトルに相応しく、色彩が印象的で映像に惹きつけられるから??)。同時代を同じく芸術家として生きた監督自身の怨念のなせる業か。だとすれば、二重に重い。これが遺作になってるし。
           ポーランドは、周囲の強国に幾度となく食い物にされる悲劇的な歴史を歩んでいる。第2次世界大戦でもドイツとソ連に攻め込まれ、ドイツ敗戦後にはソ連の傀儡政権が樹立された。鬼が去ったら別の鬼がやってきた格好で、前にも書いたが、この辺りの歴史を「映像の世紀」なんかで見るととても陰鬱な気分になる。映画は戦後まだ間もない1948年から始まっている。

           本作の主人公ストゥシェミンスキが、トランボと違って食扶持を確保できないのは、トランボが業界団体につまみ出されたのに対して、ストゥシェミンスキの場合は国家に弾かれるからだ。抜け道がない。トランボも、あれはあれで息苦しくなる話だったが、容赦のなさでは本作の方がはるか上をいく。
           トランボをつま弾いたのは、マッカーシーという1人の議員の妄言によって、強制されたわけでもないのに社会全体のムードが形成されていったからである。これは大変に気持ちの悪い現象だが、ムードではなく、国家の制度運用によって閉め出されてしまうのは「気持ち悪い」をはるかに通り越して、絶望と恐怖しかない。イメージ通りの共産主義国家とはいえるが、この場合は全体主義といった方が正確だろう。トランボと対立する人々が総じて敵意丸出しだったのに対し、ストゥシェミンスキの敵方である役人は、紳士的な鷹揚ささえ見せるほど余裕ぶっこいて見えるのも、この仕上がった全体主義システムがあるからこそなのか。改めて、国家というのはいくらでも恐ろしい枠組みになりえるのだと実感させられる。
           トランボが生きるために「宇宙船が現れて、そのうちおっぱいボヨヨーン」というようなくだらない脚本を書いたのと同様、ストゥシェミンスキも金のための仕事をやろうとする(抽象画家は実は写実画も上手いというズッコイ真実がまたここでも見られる)。だが、国のシステムから排除されてしまっているので途中でクビになったり給与がもらえなかったりする。最初から警告に従って膝を屈していればこんな目には遭わずに済んだのでは、という批判は一応成立するが、まあできないだろうね。会社員でも「嫌な仕事」レベルのものはさて置き、自分の良心に反する仕事はさすがに気を病むもので、画家のように自分の名前で勝負していれば尚更だ。そもそもなぜ当局に目をつけられたのかを考えると、言いつけ通り従順になるのは難しい相談である。言いつけを守ったところで安泰が確保されるわけでもない。何かにつけて同じようなことが蒸し返される可能性は容易に想像できる。
           このことはつまり、そこまで強大なシステムが、なぜ一介の画家兼大学教授に過ぎないストゥシェミンスキを恐れるのだろうかという問いに尽きる。

          わるいやつほどよくねむる

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             昨年のこの時期も全く更新ができなかったが、今年も同様。2月から首が回らぬ手が足らぬ。大学が春休みに入るので、ここぞとばかりに課外授業が詰め込まれるから、講師屋はあっちゃこっちゃに出向いて朝から晩まで喋り続けることになる。

             

             「ヒトラー、あるいはドイツ映画」という映画があって、7時間超の非常識な長尺で、それも前衛劇のような内容らしい。未見。本で紹介されているのをたまたま目にして、そんな映画があるのかとゾッとしたことがあるのだが、同じくらいの長さ、ずーっと一人で舞台上(教壇上)で演技(講義)しているから、聞いてる彼ら学生は、まるで「ヒトラー〜」の鑑賞者のようなもの好きな若人だなこりゃ。とそんな回りくどいことを想像するくらいには多少落ち着いた。

             

             講義が終わると無茶苦茶疲れている。年々酷くなる。ジムで鍛えるという選択肢が現実味を増している。で、帰宅して、資料作りと添削採点、「時事」の準備(後述)、それと確定申告の作業などなどなど、仕事と雑用があれやこれや。それらを抱えて出張。パソコン持っていったらホテルの客室に備えてあった。時代!

             

             青色申告に切り替えてから2年目。綺麗さっぱり作業工程は忘れているが、少なくとも早めにやっておいた方がいいことくらいはわかっていたので、1月の暇な時期から準備をしていたはずだが、こういう作業は「大体終わった」と思ってからが長い、というのが相場。商売をやっている人に比べれば、はるかに作業はマシだが、なんだかんだ細かく色々間違えるから、手間取る。ついでに昨年書いたように、この手の作業が本当に苦手。

             

             さて国税を巡っては周知のような人事につき、腹が立つから、こういう気分に相応しい曲をBGMにかけようとしていたら、ちょうどいいのが見つかった。「悪い奴ほどよく眠る」。20年前の曲だけど、歌詞は今を生きておる。人の命が軽い、というだけでなく、権利が紙切れのように軽いと表現しているところがよろしい。あいつの言葉がすべてを決めて、朝には現実になる、というのはこれは閣議決定のことだな。まさに何が起きても不思議ではない。そして歌詞中にある「荒れるカルト」というのは、制作年当時は、その数年前に事件を起こしたオウムをイメージしておるのだろうが、現在でいうと、宗教団体ではなくて、カルト宗教化しているWiLL界隈がはまりそう。だって連中「欲を満たすためだけ」だろ?

             

             そうして書類がなかなか仕上がらないうちに、改竄の記事が出て、くだんの長官が辞めて、麻生がなんか言ってる。「ヤツの寝息をかきけして狡猾なからくりを暴くロックンロールサンダー」とは朝日新聞のことであった。そして毎日が続き、死んでいたNHKが動き出した。一人あっぷあっぷとしているうちに、世間がアップデートされている。いつの間にかJRに建設中の新駅が開業していて、新春にコートを買った店が閉店していた。


             改竄どうのこうのというニュースを見ていると、俄然「テキトーでいいじゃん、間違えててもかめへんかめへん」という気分が支配的になり、書類作成が一気に進んだ。お役所に提出する書類って「きちんと正確に書かないといけない」という強迫観念が何よりも作業を重たくしてるんだよね。でも不備があっても、「書き換えといてよ」で済むやんと思うと、重しが取れて手が軽くなる。改竄のおかげでカイザー気分。万人の万人に対する闘争状態になるじゃないか。社会が壊れるぞ。

             

             世の中というのは、こういう些末なことからして「ちゃんとしないと」という善意で回ってるってことで、なんでそんな真面目に考えるかというと、そうやって教えられて育ったからで、なるほど彼らが戦後教育を憎むのは、こういうことだったのかと。ま、ただ今急に何かの変異で飛びぬけた不正が生まれたわけでなく、雪みたいなもんだ。1つ1つは地面に着地した瞬間消え失せるように見えるんだけど、気づいたらドンと積もってる、みたいなもので、それなりの積み重ねの中で必然行き着くところに行き着いた(まだ途中経過かもしれんけど)格好だろう。腰を落ち着けて組み立て直すしかない。

             

             とにかく書類をそろえ終わって仕事の合間を見つけて税務署に行ったらば、予想通り受付に出して一瞬で終わった。商売をしている人だと思うが、周りはどっさり色んな書類を抱えて窓口に立っているが、こちらはクリアケースに収まる数枚程度。子供のころの植物採集を思い出した。図鑑で調べても名前がわからないやつを専門の人が判別してくれる催しが、夏休みの児童会館かどっかで毎年開かれていて、夏休みの宿題で嫌々採集したのを持っていくのだけど、堤防の雑草でテキトーに済ませた己に比して、周囲はマニアックなシダ類なんかをキレーに台紙に張っているのを大量に持っていて、なんというか「この場所と時間は俺のためにあるのではない」という思いを抱いたものだった。説明を要した割には大して関連性のない思い出話だった。あのころは持ち込んでいる標本がショボ過ぎるから隣で母親が「恥ずかしい」を連発していたものだったが、確定申告にショボいも恥ずかしいもない。

             

             ところで俺の仕事的にはこの時期、時事問題試験の対策のために講義がまわってくる。昨年あった出来事をまとめたテキスト類が出版されるのが2月くらい。それを受け取ってひどいときは「来週授業よろしくです」という無茶なスケジュールになる。一応普段から横目では報道を見ているが、横目でしか見ていないので正確には把握していないし、全部を知るわけでもなし、事実上ゼロからのお勉強となる。これが今年はかなり苦痛。なんせ「人づくり革命」なんてなフレーズが太字になっている。今の政権が、出来損ないのキャッチフレーズみたいな政策(?)を乱発しているのは知ってはいたが、まるで歴史の教科書の「目安箱」とか「ナントの勅令」とかみたいに太字になって並んでいるのを見ると、勘弁してくれよという気分にそりゃなる。覚える学生もたまらんわな。ま、逆に覚えやすいといえばそうだけど。ただ学生たちは素直なので「やはり重要なのはおもてなしの精神である」という具合に、思い切り広告屋の作り出すフレーズを真に受けたことを論文に書いてくるから、一番恐れているのはそこでなんである。


             ところで試験用のこういうテキストは、ある課題についてこういう法制度が出来たとかやったとかが羅列されているだけなので、読んでいてもろくに頭に入らない。それで新聞社が出している時事用語解説本とか新聞記事とかを見ると、ああそういうことねとようやく腑に落ちることもしばしば。ブン屋の一日の長を如実に感じられる。ロックンロールライトニングが照らしてるんだろうな。



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