歴史ある爛ンライン授業

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     溜まったストレスがおかしな方向にポジティブ変容することが稀にある。俺の場合、繁忙期と年度の切り替わりが対応しているので、新年度を実感したいという欲求が後押しして、書店に寄った際にまとめて買ってしまった。


     買ってないのは、英語、フランス語、アラビア語。ストレス解消と実用性に相性があれば、誰も酒など飲んだくれない。当然英語は最初から眼中にない。大体英語は講座の種類がいっぱいあってどれがどれかようわからん。フランス語はどっちでもよかったが、どういうわけか食指が動かず。昔検定3級取ったからかな。全部忘れたけど。アラビア語はいかにも手におえなさそうなので今回はパス。

     

     じゃあ他は手に負えるのかというとそんなはずはないが、ロシア語以外は少なくとも文字にまだなじみがある。
     ラジオ講座にしたのは、テレビよりも内容が濃いだろうからと思ったからだが、録音する手段がない。通販で検索すると、ラジオの録音機というのは大変に限られた商品しかすでになかった。なのでスマホのアプリを利用することにしたのだが、初回から早速録音に失敗した。原因は判明したので2回目からは順調に録音できるようになったが、学生時代に触れたことがあるスペイン語やイタリア語はともかく、全く知らないドイツ語やロシア語を2回目から聞く気になれない。早速録音が溜まっていく。三日坊主ならぬゼロ日坊主の予感である。


     それにしても録音の作業が煩雑だ。録音設定のたびに広告が流れるのはそういうものだと思うにしても、テレビ録画のように番組表から選んでボタンで一発、というわけではなく、いちいち手入力なので、これだったらアナログのタイマー録音の方が楽だ。


     さて、これら7種の言語のうち、大学で習ったのはスペイン、イタリア、韓国(学術上は「朝鮮語」で大学での科目名もそうだったが、南北の対立でそれぞれ「朝鮮語」「韓国語」と呼称しているので当該法人ではいずれの呼称も避けて「ハングル講座」となっている。このため講座内では「この言語では」と表現していて、まるで明らか北朝鮮を指しているんだけど「あの国」としか台詞で言わない「外事警察」の映画版みたいである)。

     中国語も習ったが、単位を取ったのに「2、3回でドロップアウトした」と記憶の捏造が起こっていたくらいだから習ってないも同然である。ドイツ、ロシア、ポルトガルは全くの初めて。

     

     そうはいっても中国語以外も全部忘れてる、と思ったが、やはり若いころに習ったことがあるというのはそれなりに意味があるようで、スペイン、イタリアに関してはある程度「ながら聞き」が可能だった。そりゃ初回は「ブオンジョルノ」とか言うてるだけやからなのだが、それだけでは必ずしもない。発音や文法の超大枠だけは記憶に残っているからだと思う。

     

     面白いもので、それぞれの講座は授業の方針が微妙に違う。イタリア語は1週間、同じ会話のやり取りを細切れに学習していくスタイルの一方、スペイン語は毎回違う会話を習う。そしてスペイン語は初回から文法にうるさい(「話し手が女性なので語尾がaになります」などと男性形/女性形にうるさいのであるが、性別にこだわるのはやめましょうという風潮の昨今、どうにも分が悪く聞こえソワソワする)。

     他は総じて文法はおいおいやりましょうみたいなノリであるが、ドイツ語は発音の規則にうるさい。これはそれぞれ担当講師の方針なのだろうか、それともそれぞれの言語教育界での常道なのか。韓国、ロシアの場合は必然文字中心になり、中国語はやはり「マー、マー、マー、マー」から入っている。


     そして講座は、日本人の大学教員と、母語としている外国人1〜2人とで進められていくのが基本形なのだが、ロシア語だけロシア人とずぶの素人の落語家との組合せだった。これはやはり「ロシア語界隈亀山郁夫しか人いない問題」の現れなのだろうか。このロシア人が日本語堪能なので、彼女だけで足りるやんとつい思ってしまうが、そこはやはり落語家、話しぶりだけは達者なのだった。

     

     さて世間の大学関係者は現在、オンライン授業の模索中であり、俺もその端くれである。そういう立場から聞いてみると、ラジオ講座のこのスタイルはある程度確立された貫禄のようなものを感じるな。


    【やっつけ映画評】ホテル・ムンバイ

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       「ホテル・ルワンダ」のインド版のようなタイトルである。ホテルが武装勢力に襲われるのは同じ。といっても「帰ってきたムッソリーニ」ほどには同じではない。本作で襲ってくるのはイスラム過激派のテロリストなので、交渉の余地なく問答無用で殺してくる。限定的な空間内で、命からがら逃げまわる様子は「新感染」の方が近いといえそうだ。


       機関銃を持ち、かつ操れる人間相手に抵抗できることは「逃げる」「隠れる」くらいしかない、という現実を本作はよく表している。テロリストと警察以外の登場人物はとにかく逃げるか隠れるかしている。インド映画界にこの人以外イケメン枠の俳優はいないのか、というくらい毎度おなじみとなっているデーヴ・パテールも、手際のよさやコミュニケーション能力に卓越したところを見せるものの、基本は逃げて隠れてばかりだから、主人公要素は少ない。


       それでもぐいぐいと惹きつけてくるから見事な作品である。この緊迫感は実にインド映画らしからぬテンポ&展開だと思ったら、案の定、豪米との合作だった。踊りもしなければ聖人的バカも登場しない。こういうのは当のインド人にとってはどう見えるんだろう。


       テロリストたちは劇中「まだ子供じゃないか」と言われているので、かなり若い。若さゆえの潔癖さと貧しい生育環境を、どっかのおっさんに上手く利用されて実行犯に仕立て上げられているように描かれている。この辺の、それほど深入り・同情するわけでもなく、さりとてダイハードの悪役のようには描かない演出は上手い。

       おそらく彼らの話をじっくり聞けば、ある程度頷ける部分もあるのだろう。一方で被害者側は高級ホテルに泊まれる所得階層で、言動も若干鼻持ちならない人々が目立つ。だからどうというわけではないが、少なくとも背景まで踏み込まないと、毅然と断固たる態度、だけではなくならんわなあと思わされる。


       と書いて気づいたけど、「逃げる」「隠れる」以外に、もう一つあった。それこそ毅然と断固たるの類。「命をかけて抵抗する」である。

       


      【やっつけ映画評】帰ってきたムッソリーニ

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         ムッソリーニはヒトラーと並ぶ20世紀の悪役でかつ、ヒトラーが真似したファシストの先駆け男でもある。だのに知名度、注目度はずっと低く、例えば大阪市立図書館の蔵書検索では「ヒトラー」1942件(図書のみ)に対して「ムッソリーニ」151件、Movie Walkerの映画検索では同129件に対して40件と如実に差がついている。

         おかげでムッソリーニの方が先輩なのに、ついヒトラーの二番煎じのようなイメージをもってしまうが、本作においてその印象はさらに確定してしまったといえる。パクリでもパロディでもなく、モンテクリスト伯→巌窟王のような翻案作品といってよかろう。それくらい元作の「帰ってきたヒトラー」と同じだった。


         なぜか唐突に現代に甦ったムッソリーニが、物まね芸人と間違われてテレビでスターになる。大枠だけでなく、当初キヨスク的な売店の主に助けられてそこで新聞を読んで学習したり、旅先で犬を射殺したり、極右団体を訪問して論争したり、戦中世代の高齢者だけが本物と気づいたり、細かいエピソードも一緒である。なんならテレビ局の名前も同じで、この徹底ぶりは元作に敬意を表してということか。


         もちろんヒトラーではなくムッソリーニなので、当人の言動は当たり前だがそちらに合わせてある。そこで改めて気づかされるのは、どうしてヒトラーに影響を与えた男なのに二番煎じ格になってしまったかだ。言動がヒトラーに比べてそこまでキテレツではなく、ただの極右ポピュリストといった様子。見かけも、それなりの異形の相ではあろうが、ヒトラーほど特徴があるわけではない。

         

         なので裏を返せば、今もいくらでも現れる可能性がある御仁といえる。「右も左も力を失う中で俺しかいない」というような台詞を言うシーンがあるが、これなどまさしくトランプや、ブラジルのボルソナーロあたりとカブって聞こえる。大阪維新も同様。「新しい第三極」だとの期待が支持につながった勢力である。

         なので本家より「今でもありえる」という観点からゾッとする風刺に仕立てることができる題材だと思う。そこまで仕上げられると本家とはまた異なる傑作になりえたのでは、と想像すると惜しい。


         まあこれは、こちらがついテレビと政治にまつわる日本の状況を当てはめて見てしまうことからくる筋違いの期待かもしれない。とは思うものの、既視感を覚えるシーンもある。

         

         ムッソリーニを、ただのギャグ、ただの視聴率稼ぎ装置としてとらえるテレビ局社員たちの態度に業を煮やしたスタッフの1人が、ある日の会議で激昂しながら倫理観のなさを非難する。すると彼女に対してほぼ全員が「冗談の通じないやつ」「いやそういう話ちゃうやん」といった調子の半笑いを浮かべる。どこに既視感があるかといえば、俺自身がかつてそういう表情を浮かべたことがあるからだが、同じような態度を取るであろう業界人にもいくばくか心当たりがある。高須や百田らを面白がってご意見番扱いしているスポーツ新聞辺りも同じようなものだ。


         そこにあるのはメディア側の見識の浅はかさによる共犯関係であるが、それと松本人志の薄っぺらい時事放談や橋下徹のようなその場その場で言うことがまるで違うことを厭わない空虚な御仁に対して「一理ある」とみなす視点はごく近いところにあることが日本の事例からはわかる。

         

         これと同じく、甦ったムッソリーニ自身が政界で力を持つ展開は想像しにくくても(現実の彼も、ヒトラーに比べるとかなりアクロバティックな過程を経て政権の座についている)、彼が破壊して生まれた亀裂や穴ぼこに、別の人間が大穴開けて入り込むということはいくらでもあるのだと思う。「歴史は繰り返す」というのは、こういう形で行われるのだろう。

         

         そして日独伊三国同盟の最後の一角日本であるが、わが国の場合、現実世界がとっくに「帰ってきた」状態であるのがコロナ禍によって顕在化している。同じ感染症だから他国の成功例・失敗例を踏まえりゃいいのに他国に学ばない。それは日本が特殊だと思っている=他国を見下しているからで、つまりは科学軽視、数字軽視。なので個々人の心がけ(=精神論)偏重で、必然兵站軽視。まっとうな指摘は「頑張っているときに水を差す」と排除され、撤退できなくてずるずる。最後は神頼み。当然誰も責任なんて取らん。全部、「昭和陸軍の研究」あたりに出くてる話である。

         

         これら諸々の態度をひと言で表せという超難題に、「マスク2枚」という満額の答えをさらりと示してみせる彼らはある意味天才としかいいようがない。「帰ってきた誰それ」ならぬ、「返ってきたのがマスク2枚」である。そして本作のムッソリーニのように、唐突に何の脈絡もなく突然現れたわけではなく、ずっとそういうことをブレずにやってきて、それを積極的なり消極的なり支持してきた、そのただの必然の帰結である。カミュ「ペスト」の次にバカ売れしそうな本が見えてきたよジュンク堂の皆さん。


        「SONO TORNATO」2018年イタリア
        監督:ルカ・ミニエーロ
        出演:マッシモ・ポポリツィオ、フランク・マターノ、ステファニア・ロッカ


        【やっつけ映画評】新感染 ファイナル・エクスプレス

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          劇中何度も登場するデッキ部分の写真をかつて撮っていたのだった。

           

           未見だった数年前の話題作について、こういうご時世につきにわかに関心が湧いた。カミュ「ペスト」がバカ売れしているのと同じだ。ペストについてはNHKの「100分de名著」のテキストを読んで読了した気になっている。


           しかしながらパンデミック下の今、本作を見ると「いや感染症の怖さっててそういうことじゃないんだよ」と思えてしまって、ちょっと損した気分になった。コロナ禍以前に見ておくべきだったな。


           「ゾンビもの」といえるだろう。噛まれると感染し、間もなく人格を失いケダモノのように非感染者に襲い掛かってくる。そういう感染症が韓国内で流行する。主な舞台は韓国版新幹線のKTX車内で、ホラーというよりハイジャックやマシントラブルのパニック映画に近い。

           「新しい感染」という邦題(韓国に「新幹線」という特急列車はない上、感染と幹線は発音が異なる)と違ってこれといって新味はなく、よくあるモチーフを組み合わせただけといえばそうなのだが、そこは安定の韓国印、手垢のついた設定でおもしろく見せるのがすこぶる旨い。夜中に見始めて、眠くなったところで一旦停止しようと思っていたら、最後まで一気に見てしまった。

           

           ひとつは、この手の映画によくある「スリルを盛り上げるための予定調和的どん臭さ」がない点だ。電車内というスペースの限られた舞台設定とゾンビ風なくせに感染者の動きが俊敏なので、わざわざ転ぶ必要がないからだろうか。主人公の娘がやけに賢いのと、マ・ドンソクの安定の怪力ぶりが見ていて楽しい。

           

           リアルだなあと思ったのは、感染者がバイバイン式に一気に膨れ上がることがまずある。これは現在各国で見られることとも一致している。いうても3桁でしょ、と高をくくっているうちに5桁になる。ゾンビ風感染者があまりに一気に増えるので、ホラー性より不条理コメディのような滑稽さすら漂っている印象だ。

           政府が「感染者」ではなく「暴徒」と呼んでいるところの方が薄気味悪さがあって、こういう定義づけは政治の狡知というか権力そのものの現れの1つだと思わされる。感染者なら治療の必要があるが、暴徒だったら鎮圧するだけでよい。

           

           


          映画の感想:ファースト・マン

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             昨年、50周年記念だとかでアポロ11号が月面着陸した際の当時の中継を再放送していた。中継というのは、結果を知っている後代の人間にとってもリアルタイム感を感じられるものなんだなと割と感動した覚えがある。それと同時に、有名な出来事でも後の時代に伝わるのは一連の中のごく一部、という真理を再確認した。


             着陸に至るまでに、まあまあ細かくピンチがあったのは知らなかったし、着陸の際の台詞が「The Eagle Has Landed」というのも、これは有名だそうだが、恥ずかしながら知らなかった。字幕が「イーグルは舞い降りた」となっていたから、有名なスパイ小説&映画である「鷲は舞い降りた」(格好いいタイトルだが、結構地べたを這いずり回る物語である)を文字って言ったのかと勘違いした。「鷲は〜」の方が月面着陸の後に出版されているから、このスパイ小説がアームストロングの台詞をパクってタイトルにしている。

             ただ、字幕を「着陸した」ではなく「舞い降りた」にしているのは、おそらくこのスパイ小説の邦題の逆輸入だろう。おかげでまたどっちが先かこんがらがる。ちなみに本作の字幕も、「舞い降りた」になっていた。「風と共に去りぬ」同様、ほぼ直訳とはいえ印象に残るという点で見事な邦題である。


             本作も、その中継同様、当時のリアルタイムを疑似体験できる。ただし視点は中継ではなく、アームストロング当人。狭苦しい宇宙船内の顔面アップと手元アップの連続だけで描いている演出が功を奏している。これぞ実話をフィクションでやることの醍醐味といえよう。

             

             それにしてもこの息苦しい船内の様子が怖い。アポロに至るまで、アームストロングは何度か宇宙に行っているが、どのシーンも船内のきしみがすごくて今にも壊れるんじゃないかと思わされる。旅客機でも、特に離着陸のとき機体がギシギシいうたり、あと船でも海が荒れてるときなんか船体と海面がぶつかってバーン!と音がするものであるが、俺はああいうときに「南無阿弥陀仏」とにわか浄土真宗信者になる性質だもんで、ああ怖い。遣唐使船とまではいかなくても(造船技術が未熟だったので航海はほぼ博打だったとか)、リンドバーグの大西洋横断くらいの危うさはある。

             と思ったが、よくよく数えるとリンドバーグからアームストロングまで、40年くらいしか間はない。空を飛ぶことの発展てめちゃくちゃ早いんだなと思ったが、「Apple I」からiPhoneまでが30年だから、そんなものなのか?

             

             宇宙飛行士の家族たちはNASAの近くに集住しているのだが、同僚たちが事故で死んでいくから、近所づきあいが相当にキツい町内である。トップガンにおけるマザーグースがごとく、仲のいい同僚が命を散らし、2番目に月に降りたオルドリンは、その結果昇格(?)した超脇役だったというのが驚きつつ苦笑した。口さがないザコキャラ的な登場人物で、本作を見ると、こいつと月に行くのかよと若干絶望的な気分になる。当人は本作見たのかしら。


             当時、必ずしも世論は好意的ではなかった点が描かれているのも興味深い。中でもカート・ヴォネガットが反対していたシーンは、へえ〜と貴重な資料を見た気分だった。

             妙ちきりんなSFを書いてた御仁なのに、「税金はもっと暮らしに使うべきだ」とかって、えらく真面目な発言をしていた。それは別の人に任せればという気もせんでもないが、低所得者層が反発するのはよくわかる。戦争に使うよりはマシなのではと思いつつ、じゃあ五輪と比べるとどうなんだろうともなるわけで。そして現在、地球上には月に行けるロケットは存在していない。まあそれくらいの金食い虫ってことではあるのだろう。


             月のシーンもなかなか圧巻だった。夭折した娘をアームストロングが思い出すところで、がんは治せないのに月に行けるってのはどういう不条理なんだと思わされる。誰もいない、音もしない、岩と砂しかないひたすら荒涼とした景色に、「時間なるものは本当にあるのか」という「タイムトラベル」で読んだ話を思い出した。

             月面上で時間を意識しているのは、アームストロングとオルドリンの2人だけで、月にとってはただの珍客でしかない彼らがいなくなれば、同時に時を刻む存在も月面上にはいなくなる。誰のためでも何のためでもなく、月はただそこにあるだけだから、やはり時間というのはただの概念で、本当はそんなものないんじゃないかという気にさせられた。


            「FIRST MAN」2018年アメリカ
            監督:デイミアン・チャゼル
            出演:ライアン・ゴズリング、クレア・フォイ、ジェイソン・クラーク



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