【やっつけ映画評】あん

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     名優の死によって、にわかに必見の作品に見えてきた。
     そういうわけで自宅で鑑賞したのだが、見始めてすぐどら焼きが食いたくてたまらなくなってしまった。食い物を扱う映画は珍しくないが旨そうに見えるのは思いのほか少ないものである。この時点で「とてもよい作品だ」と結論づけてよさそうな気がする。

     

     いずれにせよ、とりあえずどら焼きだ。スーパーに駆け込み、隣で見切り品になっていた黒糖饅頭(半額シール添え)も付け足して、あんこだらけの兵站を整え準備万端、仕切り直して再生した。そしたら今度は、仕事終わりの主人公が、渋い雰囲気のそば屋で天ざるを食い始めて「マジか」と完全に置いて行かれた気分になった。こちらも口の中が甘くなっているところへきて、「天ざる」とは。

     この調子で、甘い―しょっぱいの無限ループが繰り返される恐怖の映画か、何度スーパーを往復せなばならないのかと思ったが、この後登場したのは、ぜんざい―昆布のひとくだりで済んだので助かった。

     

     無口な菓子屋と不思議な雰囲気の婆様の短い付き合いを描いた静かな作品だ。もう一人、高校生にしかみえない女子中学生が絡んでくるが、居場所のなさという喪失を抱えているところがどら焼き店主と一致している。一方、婆様は似ているようでいてまったく異なるというのがポイントだろう。

     

     一見すると奇人変人にも思える婆様を、店主が一気に敬愛するようになるきっかけが「美味いあんこ」なのだが、冷静に振り返るとまるで「美味しんぼ」のような安易な展開だと思う。だが、まったくそう映らなかったのが、あんこという素材の説得力かもしれない。

     二十年ほど前、エアロスミスが新譜のツアーで来日した際、「ニュースステーション」に出演し、久米宏が「日本の食べ物で気に入ったものはあるか」と質問した。くっだらねえ質問するなあと思ってみていたら、メンバーが口々に「アズゥキィ」「azuki」と答えて、質問した当人も俺も面食らっていた。まさかの回答。ボーカルが「甘く似た茶色いビーンズがlegendaryにcoolだねyeah」(記憶想像訳。この人は歌うように喋り、時にホントに歌い出す)と説明を付け加えた。「王者」が枕詞につくロックスターをもうならせる力があんこにはあるのかと、結果的に面白い質問になったのだった。

     

     さて本作はハンセン病を扱っている。個人的に多少なりともかかわりがあった題材なので、心中色々とざわつきながら見た。本作で印象的に登場する「手」も、あれと同じような手をいくつも見たことがある。おかげで、監督の意図とは別の、何でもないカットで不意に涙に襲われた。本作を「面白かった」と言っていた知人に、どこそこの場面で泣いたと言ったら「そんなシーンありましたっけ??」との反応だったから、それくらい頓珍漢な落涙だったわけだが、年を取ると涙もろくなるというのは、つまりところ経験の積み重なりということなんでしょうな。ある意味困ったことだ。

     

     ほとんど忘れ去れた感すらある病気だけに、「あの人らいなんでしょ」と差別してくる大家の振舞いはちょっと苦しく感じたのだが、「私も本当はこんなこと言いたくないんだけど、でもね」と差別を正当化してくるロジックだとか、社会的な力関係によってそれを黙認せざるを得ない苦しさだとかはリアルで、店主の静かな悔し涙は迫るものがあった。この俳優、演技巧いんだな(今更)。そして差別に対して悟りの境地に達しているかのごとく対処する元患者の様子も、これまたいつか見た景色で、ここら辺の話は「ふたたび」のところで書いた。

     

     店主が差別を止められないのは、自分の人生がどん詰まりなせいだ。そして、どら焼き屋に居場所を求める女子中学生は、家庭がどん詰まりの様子である。二人とも落ち着く先がない喪失感に苛まれているわけだが、一方であんこ名人の徳江さんは、「居場所だけはある」という対比になっている。

     病気で隔離された経緯により、生活保障は国が面倒をみることになっており、療養所に居残る限りは路頭に迷うことはない。ただし彼女の10代、20代、30代、40代、50代はここから一歩たりとも出ることは許されなかった。だから預かった小鳥もすぐ逃がしてしまう。言わずもがな、この美味いあんこは、居場所だけは保障されている長い長い時間の中で生まれた名人芸である。その知られざる天才が世に出、人に伝わったというのは、何かを作るという行為の先にある幸せとしてこれ以上のものはない。

     

     非常に困難とはいえ、論理的には自由にどこでも行ける2人とは、徳江の立場は天地ほど違うのである。本作で描かれているのはそのような残酷な対比で、まったく異なる1人と2人が心とあんこを通わせるから、実に尊い軌跡となるのだ。それがわかったからこそ、ラストで無口な店主は似合わない大声を出して客を呼ぶのだろう。

     

    2015年日本
    監督:河鹹照
    出演:樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅


    撮影可だった

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       東洋陶磁で開催の高麗青磁の展覧会に行った。最終日にどうにか滑り込んだ格好。友人の壺先生が「行くべきだ」と、「阿部房次郎」のとき以上に目を見開いて力説していたからだった。


       北浜駅の周辺は、かつては配達の仕事でさんざん行き来していただけに、かつての赴任地を久々に訪れたときの感慨を希釈したような気分になる。またもタワマンが出来たんすか。しょうもない街にどんどんなっていきまんなあ。

       

       戦前、日本が半島を統治していた時代に、高麗青磁のコピーを作っていたという史実を辿る展示だった。確かに面白かった。植民地関連は個人的に萌え〜みたいなところがあるんである。このテーマおもろいやないか・・・、と飯のタネを見つけたような気分になるのは、いい展示の証である。よくできた映画とかマンガとか見て、俺もこんな話作ろうとにわかにやる気になる感覚とちょっと似ている。

       

        本展示は、写真撮影可だった。一眼を持ってくるべきだったと多少後悔した。隣の韓国人2人連れが、何事か熱心に話しながらごっついカメラで撮影している。阿部房次郎のときには中華系の客がいて、ちょっと感想を聞いてみたい気にもなったが、こちらはコピーであるから余計にちょっと感想を聞いてみたい気もする。

       

       美術館、博物館における展示品の撮影は、日本ではほとんどの場合禁止であるが、アジアの隣国ではOKの場合が多い。壺先生は保守的なので撮影には反対なのだが、東洋陶磁はそんな彼を置いていってしまったということか。

       

       ところで、写真を撮る場合、作品だけじゃなくて、説明書きも併せて撮っておいた方がいいですよ。有名絵画だったら見る前から名前を知ってる場合が多いけど、工芸品の場合、名前を知らない上、とても覚えられないような学名みたいな名前が添えられているしで。


      映画の感想:華氏119

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         本作の監督は、「アポなし突撃取材」が枕詞につくことが多く、実際、監督自身が映画の主人公となってどう立ち回るのかが展開を生んでいる作品もある。ただ、本作の前作に相当する「華氏911」は、必ずしもそうではなく、そして本作も突撃していくシーンはそれほどない。どちらかというと編集のうまさで見せる映画になっているように思う。

         政治なり政府なりが相手だと、さすがの監督も体当たりできる相手や場がそんなにないということだろうか。州知事の家に水を撒くシーンが象徴的で、笑えるシーンながら、同時に無力感も押し寄せてくる。突撃取材が炙り出せることが少ない。だからこそ余計にか、見ていて絶望的な気分が支配的になってしまい、どうしてわざわざお金を払ってこんな辛気臭いものを見に来ているのだろうと八つ当たりのようなことまで考えてしまった。


         編集の妙の点で1つメモしておくと、ヒトラーとの類似性を指摘するくだりは巧いと思った。
         前にも書いたと思うが、独裁的なスタンスの元首に対してヒトラーを持ち出して批判するのは、説得力を持ちにくい(「戦前回帰だ!」の批判に似ている)。安直に見えるからで、なぜ安直に見えるかといえば、「独裁」⇒「ヒトラー」と、類似のさせ方が大雑把に映るからだ。ついでに当人の特徴的な外見や喋り方、あるいは狂気の突出ぶりのせいで、極めて稀なケースの為政者にも思えてしまうことも影響しているように思う。あんな悪魔みたいなのはそうそう出ないだろ、と例外のように見えてしまっている人も多いのではなかろうか。


         しかし、民主制下の選挙で地位を獲得していった点や、当時の社会が今とそう変わらず、汽車や自動車、マスメディアや通信網がとっくにあった点を考えると、似たようなのが出てくる可能性は織田信長やナポレオンよりは遥かに高い。

         そして実際に登場した場合、当人はおそらくちょび髭でもタラちゃん頭髪でもなく、なんなら女性かもしれないから、わかりやすく似ていることなどありはしない。「支持を集める手法や世論の受け止め方が似ている」というような、共通点はしっかり比較考察しないと見えにくいに違いない(そしてヒトラーとの類似性を言う人は、ちゃんと細かい点を比べた上で指摘していることが多い)。

         こういった個々の類似点の考察を、学者のインタビューのつなぎ合わせのような文字レベルにとどめず、映像編集で見せている点は映画屋の面目躍如だと思った。

         

         余談のつもりが長くなってしまった。さて本作の本題は、トランプ批判というよりは「民主主義のあり方とは何ぞや」といった点にある。トランプかヒラリーかという2択に意味を見出せなかったいわゆる無党派が一番の多数派を占める中で誕生したトランプ大統領は、投票しなかった人々のうちの少なくない層に不利益やら不愉快やらを提供している。嫌な言い方をすれば、投票をサボった結果である。


         だったら次は自ら立候補しよう、次はちゃんと投票しよう、と中間選挙に向けて有権者が慌ただしく動き出すのが映画の終盤で、辛気臭い気分も少しは晴れてくる展開だ。結果はついこの前出て、映画に登場している新人候補の中には日本の報道でも当選が報じられた人もいる。つまりは「不断の努力」というやつだろうが、日本の場合は立候補するにも課題山積で、そちらの話は「黙殺」に譲る。


         「どうせ誰がやったところで変わりやしない」という投票に行かない理由の最たるものは、本当に「変わりない」ときだけギリギリ正当性を持つ。「変わりがある」ときに無投票を選んでも、その変化をとどめる効果はまったくない。そして「変化」はよい方向だけとは限らない。ある層にとって「よい」ことは、別の層には「悪い」ことになることがしばしばだから、「どうせ」と知らぬ顔をしているうちにひどい状況になっている可能性はいくらでもある。無論、同時に高笑いしている人もいる勘定になるが、候補者は投票しない人を配慮する必要がないので、無関心を決め込んでいるうちにとても過ごしやすい社会になっている可能性は極めて低い。


         その一つの例として本作でかなりの尺を割いて取り上げているのがミシガン州の水道の問題で、この話題だけで作った方がいいんじゃないのか?と思うくらい酷い話である。汚染水で病気になった住民が抗議しても柳に風なのが、汚染水で製造ラインに支障が出たGMの抗議はすぐ対応するのがとてもわかりやすく象徴的なシーンとなっている。

         

         話は逸れるが、水ビジネスは水が命に直結するものだからか、この件以外でも節度のない強欲ぶりが顕著に可視化されている。こんなものは10年前から指摘されていたはずだが、要するに南米で焼き畑が終わってしまったから自国を食い物にしたということだろうか。そうしてまた随分な時間差で日本に上陸してきている。外来種の流入には極めて神経質なくせに、こういうときには発揮されない。

         

         というわけで、サボったり諦めたりしても仕方ないですよ、というのが本作のメッセージなのだが、そこに「政党」を絡めて問いを発しているからもうちょっとだけ複雑な話にはなる。ただ、アメリカの場合は政党と議員の関係が、日本に比べてはるかに緩いのでまだ柔軟さが期待できる分マシともいえそうなのだが。
         この監督は、いつもナレーションで観客に呼びかけてくるのだが、今作はいつもに増して悲痛にも聞こえる言葉の選び方をしていたのが、やけに印象に残った。

         

        「FAHRENHEIT 11/9」2018年アメリカ
        監督:マイケル・ムーア


        ウニを最初に食べた人

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           前掲書では、満洲国建国後、移民した日本人が使っていたピジン、つまりこの場合は日本型中国語が紹介されている。そのほとんどは満洲国崩壊に伴い消えてしまったのだけど、生き残った言葉もいくつかあると読んでいて感じた。子供のころ使っていた意味不明の言葉と同じ文字列のものがあったからで、これは別にこの本に明記しているわけではなく、自分の幼少期を振り返って勝手にルーツを見つけた気になっただけという話である。

           

           子供の使う言葉、特にローカルなわらべ歌の類に歴史が刻まれているというのは「マスター・キートン」でも出てくるそれこそ「あるある」だろう。この本もそんな話から始まっている。


           アメリカ英語の成り立ちを分野ごとに追いかけていく内容だ。どちらかというと、「言葉」を切り口にしたアメリカ史の本といった方がいいかもしれない。英語圏の人なら単語等の話も「へえ〜、なるほど」と楽しめるのかもしれないが、高校英語止まりの身にはよく知らないマニアックな単語や言い回しがかなりを占めるので、その部分はろくについていけない。せいぜい、ロックバンドのバンド名や曲のタイトルなんかに使われているよくわからない英語の意味と成り立ちをいくつか確認できたくらいか。


           一方で歴史の話はとても興味深く読める。この著者は、網羅的なテーマを面白く書くのが滅法巧い。視点はマクロ的なくせに、小噺のような細かい話が随所に盛り込まれ、ついでにアングロサクソンお得意の皮肉が利いていてところどころ吹き出してしまう。例えば、アメリカ建国史の始祖たるピルグリムファーザーズは、乗り込んだ新大陸の大地や海がとても食べ物に恵まれていたのに、ヨーロッパから持ち込んだ食べ物以外ちっとも口に入れようとせず「豊穣の地で餓死しかけた」とか。また、7/4が独立記念日である必然性がないことや、タイヤで有名なグッドイヤーの秘話(悲話)など、それぞれはトリビアルに面白い話ながら、結構バラバラに見える種類の要素を破綻なくまとめていく技量がものすごい。


           このピルグリム・ファーザーズは、新大陸に移り住むという相当な冒険心で未知の大地に上陸したくせに、誰も鋤や鍬を持ってこなかった(その代わりに歴史の全集は持参していた)サバイバル能力に著しく欠けた人々だったらしく、結果全滅しかけたところをインディアンに助けられてどうにか生きながらえたらしいのだが、インディアンたちとどうやって意思疎通したかというと、英語を話せるインディアンがいたからだという。

           どうして遠く離れた地に、そんなご都合主義のバイリンガルがいたかというのは本書に譲るが、これを読んでふと思いついたことがある。ウニを食べるたび、「初めてウニを食べた人はどうやってこれが実は食べれると判断したのか」と、決まって誰かが言い出すこの長年の疑問の答えだ。「食べたことのある人に教えてもらった」が正解ではないか。

           

           こんな辻褄の合わないことを考えたのも、言葉をさかのぼっていくと何かと拡散していくと知ったからだ。
           北米はイギリス人以外にもフランス人やスペイン人が入植していた地域であり、もともとインディアンがおり、建国後も欧州各地から移民が押し寄せたから、アメリカ語は英語をベースとしつつも、これらの人々の言葉が混ざり合って出来ている。さらにイギリス人と一口にいっても方言があるから均一な英語を話していたわけでもなく、ついでにイギリスの先住民たるケルト由来の言葉もあったりする。

           そういうわけで、単語の意味が変遷するだけでなく、綴りや発音も時代によって大きく変わってきた上、過去にいくほどバリエーションが豊富になる(録音技術のない時代の発音がなぜわかるのか、については結構面白い)。これはおそらく、移動網や通信網、あるいは公教育の発展と関係しているのだろう。これらの発展によって〈標準語〉は確立・定着していっただろうから、これらが乏しい時代には、言葉の均一性はどうしたって下がる。

           

           なので日本語でも、ある言葉が「本来の意味と違って使用されている」と、よく文化庁や雑学本や教養バラエティ番組が指摘しているが、「本来の意味」とは、果たして確定しているものなのかという疑問が湧いてくる。「〇〇の本当の意味は◇◇なのに、テレビなんかでもよく△△の意味でつかっている」というとき、まるで昭和のころくらいまでは「本当の正しい意味」で使われ続けていたのに、最近になって言葉の乱れで違う意味になっている、といわんばかりのニュアンスが漂うものだが、そんな固定された岩盤のようなものは果たしてあるのか、と思ってしまう。そういう俺も、この手の国語雑学本の原稿を依頼されて書いたことがあるのだが。

           

           そして発音の変遷を見ていると、「正しい発音」にうるさい人が教条主義的に見えてしまう原因も見えてくるというものだ。まあ俺の場合は、教師もクラスの全員も思い切り訛りのある日本語を話している中で「正しい発音」とか言っている時点で、どこか不条理演劇だったものだ。

           

           「正しい発音」を練習することは、その言語に対する敬意、理解にも通じるから大切なことではあるにせよ、本書によれば時代によって相当に異なる上、英語の場合は世界のあちこちで公用語にもなっていてその国の訛りで発音されているだけに、1つの型を正解として示すのはそれはそれで問題がある(そもそもアメリカ語自体、イギリス人にはまったく理解不能だった時期もあるらしい)。まあ結局のところは通じるか通じないかだよね。

           

           俺の場合は、旅行や旅行者の道案内くらいでしか英語を話す機会はなく、大抵通じるので、ま、このカタカナ発音でいっか、くらいに開き直っているのだが、中国語発音はひとつも通じなかったので、「背後」を「せご」と読むのと大して変わらず、修正の必要性は大いにある。ほぼ諦めているが。


          うすら寒い台詞の考察

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             ベストセラー放言作家が日本史の本を出して、これが結構な事故本だとして話題になっている。歴史って、あんまりそう思われていないような気もするが、高度な数学と同じで素人では結構手に負えないもんすよ。


             その話がしたいわけではない。この男の品性を知らないころ、一冊だけ買ったことがある。話題になっている小説をたまには読まないといかんのじゃないかという義務感に、発作的に襲われたせいだ。それで例の戦闘機乗りの作品を読み始めたのだが、すぐにやめた。巷間言われているようなテーマ性等に引っかかったわけではない。台詞が妙に気色悪くて耐えられなかったからだ。

             

             試しに自分で書いてみるとすぐに確認できると思うのだが、「現代人の会話」を我々は普段常に耳にしていて自分も話しているはずなのに、いざ作り事の会話として書こうとすると、途端に作り物臭い不自然な調子になる。例えば「んもう、しょうがないんだから」とか「ば、ばっかやろう」とか、「さあね、どこかの誰かさんのせいなんじゃないか」とか(あくまで今思いついた例)、こんな喋り方するやつ実際おらんやろ、というような言葉遣いが目白押す。

             

             これはおそらく、「型」をなぞっているのが原因だ。小学生が図工の写生で、山を絵具チューブから搾りたての緑で、そして地面を同じく既存の茶色でそのまま塗りたくってしまうのと同じだ。極端な言い方をすれば、そう見えているから塗っているわけではなくて、「樹木=緑」「土=茶色」という色使いの約束事をなぞっているだけだ。まさにカントがいうごとく、見て認識するのではなく、見たものに自分のイメージを与えている。


             そして子供ならいざ知らず、絵描きと名乗る大人が描いた作品が約束事だけで塗りたくられていた場合、マジかと驚愕してしまうのと同様、型をなぞった台詞も読んでいてゾッとしてしまう。そういうわけで、まったく本題に入る前に本を閉じてしまったのだった。

             

             そのような類型的台詞の代表格として、女性の「だわ」、博士の「じゃよ」と並ぶ中国人の「アルヨ」について、その成立過程を追ったのが本書だ。俺が学生時代に所属していた学科の人が好きそうなテーマだと思ったら、俺が学生時代に所属していた学科の先生の著だった。

             

             別にゼンジー北京の発明というわけではなく、幕末〜明治の開国期にルーツはさかのぼる。そして相手が中国人だけに、明治以降の帝国の歴史がそのまま重なる。
             「アルヨ」は、まったくの創作というわけではなく、実際にあった言葉遣いの一部がことさら抽出されて類型化したようで、さらにそこに好ましくない歴史の歩みも混ざるから余計に諸々問題を孕んでいる表現だとわかる。「アルヨ」に限らず、人間を単純なカテゴリーに分類してそれを象徴する言葉遣いなり外見なりを記号として使い回すのは慎むべきとされるのがなぜなのか、顔の黒塗りよりは日本社会にとっては身近でわかりやすい素材かもしれない。


             まあ作り事の表現行為に記号は付き物なので、「やめましょう」「はーい」で済むことでもなく、時にこじれてしまうこともあるのだけど、手垢のついた表現をいつまでも使い回してもつまらんやん、という姿勢くらいは持ち続けておきたいものだ。
            例えば芸人がよくやる「日常風景のモノマネ」が面白いのは、いわれて初めて「あるある」と気づかされて共感するからで、言われる前からわかるようなことを披露されても古臭くてつまらないものにしか映らない。とはいえ、いわれて初めてわかるからこそ、自分が記号に縛られているのも気づきにくいのだろうが。

             

             そういうわけなので、台詞が類型的で寒いというのは、単に通ぶって細かいことにいちゃもんをつけているわけではなくて、ときにとても危ういことを含む無頓着な行為だといえるのである。



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