【やっつけ映画評】グリーンブック

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     肌の色にはじまり、何から何まで異なる2人の男が、アメリカ大陸を車で巡りながら、次第に互いへの経緯と友情を深めていく。いってしまえば手垢にまみれた構成ながら、アカデミー賞をにぎわせたのは、差別がテーマになっている点、なのは自明でありつつ、本作で描かれている差別はちょっと込み入っている。なるほどなあと頷きつつ、「音楽の力」についても考えさせられる作品だった。
     何もかも異なる2人の男の友情という点では「最強のふたり」と似ているが、本作の「2人」は、肌の色を基準にすると、あの作品とはちょうど正反対の関係になっている。

     

     イタリア系白人のトニーは(演じているのは北欧系の人だから、あんまりイタリアっぽくない印象)大柄で粗野で口の減らない男で金がない。勤め先のクラブが改装工事で閉鎖されたから一時的に失業中でもある。

     黒人のドクター・シャーリーは、幼いころから音楽の才能に溢れ、留学経験があり、すでにアルバムが売れているのだろう、暮らしぶりは豪華で、ついでに威厳と品格を備えていて口ぶりや物腰は極めて上品だ。彼の音楽仲間は相当に彼を尊敬している。

     

     所得や社会的地位からすると、トニーにとってシャーリーは雲の上の存在だ。しかし舞台は60年代初頭である。ちょうどキング牧師が活動を活発化させているころになるが、ということはこの時代、シャーリーには入店できないレストランや泊まれないホテルが公然とあるということだ。服は売ってくれても試着はさせてくれないし、夜間外出すると逮捕される等々、いたるところに厳然たる線引きがあり、要するに人間扱いされていない。

     

     対するトニーは白人だから、シャーリーのような不当な目には遭わないものの、イタリア系だからアメリカ社会での立場は低い。序盤で「ゴッドファーザー」でも見たような、アウトローと堅気の線引きが曖昧なイタリア系コミュニティの様子が登場する。全体的には貧しい。そしてブルーハーツの歌がごとく、弱い者がさらに弱い者を叩くの法則よろしく、コミュニティの誰も彼もが汚い言葉で黒人を侮蔑する。トニーも御多分に漏れず。

     

     差別の部分はさておき、このトニーは、フィクションに登場する典型的な黒人キャラクターをなぞったような人物といえる。貧しいがたくましくて腕っぷしも強く、がさつで口が減らないが、根はイイやつ。ついでにアメリカ黒人のソウルフードたるフライドチキンが大好物で、対するシャーリーは、育ちがいい上、外国暮らしが長かったので、皿もフォークもなしに素手でかぶりつく作法に困惑しきりである。このシーンなんか、双方の立場が逆だと類型的過ぎて鼻白むことこの上ないことになりそうだ。

     

     トニー本人も、「自分の方が黒人だ」と思っている。貧しいし、イギリス系には蔑まれるし、フライドチキンが好きだ。ついでに差別者のお約束「虐げられているのはこちらだ」ロジックも持ち出してもくる。ただ、シャーリーとの対比だけに限定すれば、2人は比べものにならないくらい所得格差があるから、トニーの「あんたは黒人差別を訴えるが、俺の方があんた以上に犧絞未気譴討い觜人瓩澄廚箸い主張は一見成立しているように見える。

     

     ところがそれがいかに間違っているかが作品の終盤ではっきりと示される。トニーも完全に打ちのめされる説得力で、差別を越えた分かり合いの部分が、ただの口当たりのよい博愛主義だけで済ませていないところにとても感じ入った。才覚と努力でのし上がった結果、いずこにも所属するコミュニティがなくなってしまい、何者ともみなされなくなってしまったという孤独に直面することになったという点、ふと新井将敬を思い出した。政治ではなく音楽の道に進んだことが、シャーリーには幸運だったのか。

     

     その「音楽の力」についてだ。
     音楽には、この世のさまざまな矛盾を解決するパワーをしばしば期待されるところがある。実際そういう側面があるのは間違いないとは思うが、そう単純でもない。

     本作でシャーリーは、アメリカでも特に差別が激しい南部を巡る。南部とはいえ、白人の客が大勢集まり拍手喝采を浴びる。ならば少なくともシャーリー個人は人種の壁を越えられているかというとそうでもなく、会場のホールでは黒人専用の掘立小屋のようなトイレを使うよう言われるし、会場のレストランでは食事を摂らせてもらえない。いずれも会場側に悪意はなく、だってそういう決まりだから、という無色の制度化された差別がそこにはある。あとは「非常事態」さえ加わればアイヒマンの出来上がりである。

     まあつまり、システムが音楽の前に立ちふさがっている構図だ。法的権力をかさにきて、悪意を露骨に差別してくる警察官も、無色ではないものの構造としては似たようなものだ。音楽は実に無力である。

     

     本作では、シャーリーを襲う種々の差別や暴力に対して、色んな種類の対処法が登場する。シャーリー自身は「やり返さない勇気」のジャッキー・ロビンソンと似た信念を持っていて、どんな目に遭っても怒らず我慢してとにかく威厳を保つことで差別と闘ってきたようなのだが、少なくとも短期的にはそれでは解決できないこともある。

     会場側が、演奏家が黒人だと蔑んで粗悪なピアノを用意したとき、トニーは「契約違反だ」と抗議し、それでも聞かないので一発殴る。酒場でシャーリーが差別暴力に絡まれたときには、トニーは「手を放さないと殺すぞ」という威嚇でもって助け出す。警察がシャーリーを捕まえたときは、得意の口八丁と賄賂で釈放させる。

     一方、差別的な警官を怒りに任せて殴れば即逮捕になるから腕力は無力だ。このピンチにものをいったのは、シャーリーがこれまでに培った広範な人脈に基づく政治力、つまりコネだった。「差別じゃなくて、そういう決まりなんです」の無色の差別に対しては、結局「信念」が抗う手段だった。

     

     というわけで音楽の出番はちっともない。シャーリーの強力なコネや信念を形作ったのは音楽によるから、そういう点で音楽の存在は大きいといえるがどうも地味だ。「NO MUSIC NO LIFE」のような華やかな万能感は見当たらない。

     

     このモヤモヤが回収されるのが、黒人クラブの演奏シーンだ。本作の脚本は、出てきた要素をいちいち丁寧に回収する巧さがある。
     これまでの「教養人ぶりたいから聞きに来ているだけ」の上品な白人客とはまるきり異なる客の表情とシャーリー自身の演奏がここでは描かれる。音楽というのは、それ自体に何かあるというよりは、誰に向けて演奏するのかが重要なのだろう。政治家に向けて弾けば、強力なコネが得られるかもしれないし、金持ち相手に演奏すれば、金が得られるかもしれない。市井の共感してくれる人々に向けて演奏すれば・・・、何か大きなうねりを期待したいところだが、さあそれはどうだろう。少なくとも、まったく水と油だった一人と深い友情で結ばれることになるくらいのことはもたらしてくれそうだ。ま、そこにたどり着くには、才能はともかく、めちゃくちゃ練習が要るんだけどね。
     「寂しいときは、自分から先に手を打て」という台詞がやたらと染み入ってしまったことを告白して終わる。

     

    「GREEN BOOK」2018年アメリカ
    監督:ピーター・ファレリー
    出演:ヴィゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ、リンダ・カーデリーニ


    年度末

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       例年、自転車操業的に追い立てられる2月3月が終了し、こうして駄文を書く余裕が戻った。一気更新。

       いやあ、今年も疲れた。これも野党がだらしないからだ。3月30日に、花見スポットの近くにある大学に行く予定があり、多忙な日々のしめくくりに桜を期待していたが、寒い日々が続いたせいか大して咲いていなかった(写真はトリックです)。土曜日なので花見客もあちこちにいたが、あてがはずれた上に雨が降り出し、それもかなりの本降りに。これも野党がだらしないからだ。31日には、我らの演劇のセンターフォワード・クローゼ黒瀬の結婚2次会に招待いただき、男前と何年ぶりかの再会を果たしたが、見バとは裏腹に相変わらずてへへてへへと照れ笑いだらけの喋り方でまったく締まらない挨拶をしていた。これも野党がだらしないからだな。

       「野党がだらしない」を言い出すテレビ出演者のだらしなさに過剰にむかっ腹が立つのは、パワーワード頼みで体裁だけ整えているところに、いわば「授業準備不足」を感じるからだ。なんせこっちは自転車操業授業準備に追われていたから。実務家教員がしくじる構造もこの辺にあるんじゃねえの。

       

       自転車操業になる理由は色々ある。例えば3月のこの時期は確定申告があるので、毎度書いている通り、苦手な会計にあっぷあっぷする。「更正」を強いられた去年の轍は踏むまいと臨んだが、やはり毎回、作業内容のほとんどを忘れていてゼロからの作業になる。まあそれだけに、終わらせて出したときの爽快感たるや。書き上げて郵便局から発送した直後の爽快感とちょっと似ているのだが、共有できる青色申告仲間がいないのが寂しいところだ。


       あと3つほどある理由のうちの1つが、前も書いたが「時事」という科目だ。科目の性格上、他にも色々混み合うこの時期にやるしかなく、科目の性質上、毎年大量の予習が必要になる。大学によってはコマ数の関係で練習問題を作らないといけないのだけど、これもまた科目の性質上、昨年のを流用できない。

       

       テキストは業者が出してる市販の試験対策本を使う(俺に決定権はない)。複数の業者が出しているが、最も有名なのが実務教育出版が出している「速攻の時事」。これが難儀な本である。前にも書いたが、昨年の法改正や新制度、統計を紹介しているだけの内容で、例えば「働き方改革」の項目ページには、時間外労働の上限規制や有給取得義務化などと並んで高度プロフェッショナル制度が紹介されているのであるが、明らか矛盾する制度が併存している疑問点も政府の主張も書いていないので、この本だけ読んでも、正直なんのこっちゃである。

       まあ、試験対策としては、とにかく単語を頭に入れておけというのは1つの方法であるから、あれこれ背景を説明してあるよりこれくらい無味乾燥な方が受験生には手ごろだということもできよう。


       しかしこの本、各項目見出しの下に、ポップさを出して親しみやすさを持たせようという演出なのか、くだけた雰囲気のキャプションがついていて、これがちょこちょこ酷い。

       例えば北朝鮮の核・ミサイル開発〜国連の制裁についてまとめたページには「暴挙」だの「怒れ」だのの煽情的な単語を交えたキャッチが添えてある。そりゃあ確かに暴挙だろうし、怒りを覚えるのもまたしかり。だけど週刊誌じゃあるまいし、仮にも教育を名乗る会社の試験参考書なんだから節度ってもんがあるでしょうよ。その他、イギリスのEU離脱については「記念出題があるかも」、児童虐待では「ネグレクトは命取り」。

       この軽薄さは、「防衛政策」のキャプションに「依然として「重大な脅威」にさらされる日本」と、思い切り政権の言い分に乗っかったことを書いている感覚と同一線上にある。要するに無邪気だ。まさに「右でも左でもない」の典型だな、これは。

       

       この出版社、他の科目のテキストは、いたって真面目なつくりになっている安定感があるのだが、「時事」になった途端ネジが狂ってるこの二重性は、本省課長が韓国の空港でくそしょうもない事件を起こしたり、司法の話をわかりやすく解説する弁護士が差別をまき散らしたりしてるのと重なって見えてくる。大袈裟?だといいけど、そうでもないと思うよ。

       ちなみに、賃金の統計を解説したページには「アベノミクスの成果!」などと添えてあったが、いい面の皮になってしまった。役所がちゃんと四角四面に仕事しないと、こういう地味な世界でも迷惑をこうむるのである。

       

       


      思い出横丁51番地4367号

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         テレビをつけたら、間もなくイチローが引退記者会見するぞするぞと言っていて、結局ZEROが冒頭のちょびっとを流しただけでタイムアップ。ネットで見ることになった。

         

         こういう機会なので思い出話を書いておこう。まだ「鈴木」だったころにギリギリ彼を知れたのは、今となってはささやかな自慢になるだろうか。「今年注目の若手」といった主旨の雑誌の紹介を読んだだけの話だが、山田太郎ばりの冗談みたいな名前だから嫌でも覚える。

         そうしたら、間もなく登録名がカタカナになり、「注目の若手」どころかどえらいブレイクになった。「200本に到達するかも」というあのときの熱気は、今となっては想像するのは難しい。打率4割を記録するようなものだろうか。「200」という数字は当時、それほど途方もなかった。

         

         熱気に押され、シーズン終盤のある日。授業終わりにそのまま一人で電車に乗って、神戸市営地下鉄・総合運動公園駅で降りた。「もしかすると本日200到達かも」という日だった。正確な本数を覚えていないが、その日時点で196とか197とか、少なくとも1本ではまだ200にとどかなかったはずだった。結果は達成ならずで、残り1本ではなかったから、まあそりゃそうだよなあとどこか納得しながら満員電車に揺られて帰ったものだったが、確か翌日だったか、4安打の固め打ちでさっさと200をクリアしていて、己の相性の悪さを呪ったのだった。


         その後、何度か見に行ったはずだが、唯一明確に覚えているのは、95年である。本拠地優勝がかかった対ロッテ、ホーム3連戦の3日目だった。日曜なので、野球好きの友人2人と、サッカー派だが祭りに乗っかったのが1人の計4人で再び総合運動公園駅に降り立った。

         ごった返す球場は、前年1人で200本安打を拝みに行ったときの比ではない熱狂に溢れかえっていて、ついでにベテラン岡田彰布の横っ飛び好捕なんかがあって、球場全体が「優勝」を疑わないムードに突き進む。ところがこの年ブレイクしたセーブ王の平井が、おもしろフォームで人気だったフランコの四球で怪しくなり、結局打ち込まれて敗退した。

         

         人生で初めて、プロ野球の胴上げを見れるものだと信じ切っていただけに、大いに落胆して球場を後にした。同行の野球ファン2人が「平井を降板させるべきだったか否か」で喧嘩になっていて、サッカー派の友人は隣でアホくさと首を掻いていた。後年平井は、あそこで代えなかった監督の采配で抑えの何たるかを知った的なことを語っていたから、まああれでよかったのだろう。

         そんなことだけ覚えているのだが、なぜかあの日のイチローのプレーについては一つも覚えていない。とにかく俺はまたもや、己の相性の悪さを呪うことになった。そして、震災からの優勝というドラマに冷や水をこれでもかとぶっかける野村ヤクルトの徹底マークの結果、日本シリーズでイチローのバットは空を切ってばかりになるわけだが、今季のイチローはあれとカブって見えた。

         

         さて、これまで彼が見せてきた数々のミラクルを思えば、もしかしたら覆るかもという期待はかすかにありつつ、東京ドームで引退の筋書きはほぼ既定路線だろうというのが大リーグ好きの大方の見方であったろうと思う。なのでニュースの街頭インタビューで「え?引退?!」などと驚いていた人は、イチローについて実はよく知らない人か、もしくは「驚かないといけない場面」という忖度が働いて演技をしてしまうバラエティ番組化が染みついてしまった人なのだろう。

         シーズン200本の連続が途切れた後、彼に残された記録はワールドチャンピオンだけだとここでも以前に書いたが、結局それが果たされずに終幕したのは惜しむべきことだ。まあ、彼自身がチーム選択には結構古典的な態度を示すのと、ヒットを量産する割には出塁率がそれほど高いわけではない分、昨今のデータ野球にあっては期待するほど欲しがられてはいなかったというのが事情としてはあると思うが。

         

         それでも母国で引退の花道がしつらえられたのは、最大限の敬意と見ていいと思うが、引退記者会見が日本で開かれる流れになったのは果たしてよかったのやら、とは思った。

         

         ここで話は一旦脱線するのだが、ちょっと前に、レポート採点中の大学教授が「学生がこういう文章を書くのはテレビのせいでは」と嘆くツイートをしているのを見かけた。文体や話の運び方が、テレビニュースの言葉遣いのモノマネのようになっているという趣旨だ。
         これは俺がここで以前に書いた話と重なる意見だと思う。ほとんどの大学生は、レポートなり小論文なり、何かしら世の中の物事について主張を組み立てる作業をする段になると共通した作法をなぞる。その1つが「自分が消える」といえばいいのか、模範解答をなぞろうとして、自分では微塵も思っていないことを書く。稚拙な例だと、「最近の子供は外で遊ばなくなった」で、先月も学生が書くそんな文章を読んだ。今時の若者でも相変わらずこんな古臭いロジックを書くというのは一つの発見ではあったが、読まされる方はたまらない。ここまで稚拙でなくても、自分の頭で考えていない点では有名大学でも似たり寄ったり。何より俺自身そうだった。学生なんてそんなものだろ、と思うかもしれないが、ではなぜ学生はそうなのかと問われると、確かに、ある型をなぞろうとする言葉遣いをするテレビの影響はあるかもね、とは思う。

         

         話をイチローに戻すと、居並ぶ報道陣が切り出す質問の多く、特にテレビは、この手の記者会見で尋ねる定型をなぞっているだけで、当人に確かめたいことがあって尋ねているわけではないと聞こえるものばかりだった。テレビなんてそんなものだろと、以前なら流しているところだが、以上のような経緯により、とんでもない害悪を垂れ流しているように思えて、大変にイライラとし、なんで日本で記者会見するんだ、アメリカでやった方がよほど面白かったんじゃないのかとも思った。

         

         ところが悲しいことに、俺も知りたい具体的な質問(朝日の2名が聞いていた「MLB以外でやる選択肢はなかったか」「引退を決めた自身の衰えは何か」など)は、さらっとはぐらかしちゃって、定型句質問の方にばかりイチローは饒舌だった。やっぱり相性悪いな。

         

         おそらくふわっとした質問の方が、彼にとっては自分の考えを逐一選び抜いた表現で言語化していく行為をやりやすいからだと推測する。若いころは相当に意味不明のことを語っていたが、年のせいか随分わかりやすく説明するようになった(あれでも)。

         その中で、自分が外国人になって考えが変わった等の印象的な話もあったが、一番引っかかったのは、試合後にファンが居残って声援を贈っていたことに対する驚きで、この人は、記録を達成するたび似たようなことを言っている。つまり、ファンやチームメイトが大いに祝福してくれることへの戸惑いで、毎度謙遜でもなんでもなく、本当に困惑した様子だった。

         「△△と感じる一方で、〇〇な自分もいる」のような、自身を客体化する話法の好きな御仁だが、世の中における自分が何者なのか、ちっともわかってないんだよな。まるで超頭脳明晰なのに「ナゼ泣イテイルノデスカ」のように人間の感情を一つも理解できない昔のSFのアンドロイドのようだ。と書いたところで、外国人の話す日本語をカタカナで表現しているバラエティ番組のテロップを見たが、まだそんなことやってんのか。そのステレオタイプももうやめた方がいい。理由は差別につながるからだが、どうせわかんないだろうから、クリーンハイスクールのフォアマンか!と言っておく。余計わかりにくそうだが、野球ファンなら知っておくべきだ。イチローだって、殿馬に衝撃を受け、岩鬼の悪球打ちを見て己の道を見つけたと巷間伝わっているじゃないか。

         

         話がとっちらかった。今年のマリナーズはガラリと顔ぶれが入れ替わり、優勝争いに食い込めるか注目。


        【やっつけ映画評】ROMA/ローマ

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           仕事終わりに、さっとそこのイオンで晩飯を済ませて、で帰宅してあの資料とこの書類を終わらせて・・・、などと算段を立てながら映画館の横を通ったらば、話題の作品がちょうどの時間に上映だった。自転車操業状態の日々に追い詰められていると、人はしばしばすべてをうっちゃって逃避を試みようとする。俺はレストラン街の中華屋で適当に炒飯をかきこみ、30分後には暗がりに居並んだ座席の1つに深く身を沈めていた。あの作業、この雑務、全部知るか。

           

           伝え聞く作品概要から察するに、疲労困憊の身でもあり、そのうち寝るんじゃないかと危惧していたが、終わってみればたいそう感動している己がいた。いやあ、確かにこれは素晴らしい作品だ。

           とはいえ、何が?と問われるとうまく説明できない。そもそも映画の内容からしてうまく説明できない。

           

           メキシコの比較的裕福な家庭で働く家政婦が主人公だ。70年代、冷戦が絶賛継続中のころ、メキシコは韓国や台湾同様、「反共」が全ての存在理由のような独裁政権下にあって、民主化を求める動きときな臭い対立関係にあった。

           そういう時代が舞台であるが、この辺りの要素は物語の背景にとどまっていて、家政婦クレオと主家の騒々しい家族の日常が綴られていく。そういう中で、いくつか家族やクレオを苦しませる問題事が起きるのだが、BGMがないせいか(ラジオから音楽が流れる場面はある)、全体的に抑揚がなく、静寂な印象を受ける。

           

           聞くところによると、監督の幼少期の思い出話がもとになっていて、ここで描かれる物語はほぼ実話らしい。道理で。
           そう納得したのは、物語の中核を担うはずのいくつかの厄介事と、何てことのない瑣末な要素を等価で並べるような描き方をしていたからだ。飼い犬のうんこがやたらと画面に登場するところとか、狭い空間に無理やり車幅の広い車を通そうとするシーンがくり返し登場するところとか、何かのメタファーなのかとも思ったが、単に事実がそうだったというだけなのかもしれない。個人の人生は割とそういうところがある。例えばかつて大好きだった彼女の顔は忘れかけているのに、好きでもないCMの唄は覚えているとか、記憶の残り具合はしばしば当人の思い入れとは何の整合性もないものだ。

           

           そういう「何でもない日常」として綴られる日々の中には、実は既に述べたような政治のかまびすしさがあり、移民白人と先住民との経済システムの中に組み込まれた支配/被支配の構造があり、家政婦との無邪気な思い出として済ますことを許さない重い矛盾が横たわっている。その中でも見終わって俺の中で一番残った沈殿物は、「男はしょうもない」だった。

           本作に出てくる男は総じてしょうもない。短慮で無責任で、そのくせ口先は大義を語るから、時に人を殺める。まともな男性はたまに出てくる運転手のおじさんと、病院のシーンで登場する医師くらいではないか。いずれもただ職務を遂行しているだけの存在としてだけ登場するから、男は真面目に仕事をする以外に存在意義がないのではないかという気もしてくる。

           

           以上のようなことが全部間接的な伏線となって、終盤の出産のシーンでたいそう感動したのだった。映画やドラマで出産のシーンはいくつも見たことがあるが、こんなに心をゆさぶられたのは初めてだった。おそらく何年か後には、本作については出産シーンと飼い犬のうんこしか覚えていない気がするが、これはそういう映画だ。

           

          蛇足:画面の中のメキシコは、コロニアル風建築の街に人と車が溢れていて、収拾がつかないほどうるさくて雑然としている。一昨年行ったインドとよく似ていると思いながら見ていたが、メキシコとインドが似ているわけではなく、今の日本社会がこれらと似ていないだけなのだろうと、少子高齢人口減社会を実感した。

           

          「ROMA」2018年メキシコ=アメリカ
          監督:アルフォンソ・キュアロン
          出演:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ


          オチのあるフランス文学話

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             以前に、海外の古典に関する個人的な事情について書いた。その後、何となく心惹かれたものからチャレンジしてみようと、図書館で何冊かを借りた。うち一冊がバルザック。近代以降の歴史を題材に扱った壮大な作品は、しばしばバルザックになぞらえられる。このため興味は湧くのだけど、壮大なだけに手を出しにくいのもまた事実。それで短めの作品から読んでみようと、ちくま文庫のバルザックコレクションなる傑作選的なものを借りた。

             

             うーん、しかし、読めん。頑張って辛抱しながらページを繰ってはみたものの、どうにもこうにも入り込めない。
             そんな己に多少落胆しながら、この日の仕事場である某大学へ赴き、何コマか授業をした。春休みのこの時期、正規の授業がお休みなので、俺が担当する課外授業は朝から夕方までぶっ通しになる。無論、かなり疲れる。グッタリして帰ろうとしたときである。本学主催のイベントのリーフレットが並んでいる棚の中に、バルザックの文字を見つけた。どうやらバルザックについての市民講座の類のようだった。何という偶然。さらに驚いたことに、語り部の先生は学生時代にフランス文学の授業で習った教授だった。

             

             正確には、記載の名前にもしやと思い検索したら、本学HPの教員紹介に行き着き、そこに見覚えのある顔がニコニコしている写真がドーンと掲載されていた次第なのであるが、メッセージ欄には「バルザックの研究をしています」とある。
             先生、そうでしたか。俺、授業受けてたんすか。
             いかにテキトーに受講していたか。被告人、つまりかつての俺のGuiltyが証明された瞬間であった。

             

             ささやかな驚きを胸に秘めて数日後、全然別の要件で大学時代の友人と電話で話すことになった。そして要件について話し終えた後「実は」と事の次第を説明し、昔話を多少楽しんだついでに、ところでお前さんはバルザックは読んだことあるのかと尋ねた。

             

            「鹿島茂が、とにかく40ページほど我慢して読んでくれ、みたいなことを言ってたので、我慢して40ページほど読んだが無理だった」

             

             著名な仏文研究者の名前がさらりと登場することからもわかるように、この友人は文学作品についてはかなりの読書家で、この友人が無理だったというのなら断念してよかろうという気分になってくる。

             

             中編の1つの序盤をかじった程度で知ったかぶりをすれば、これはつまり山田風太郎なのだろうと思った。山田風太郎には明治小説集なるシリーズがあり、長いの短いのから連作短編まで様々な形態で明治を描いている。食い詰めた旧幕臣が主役になったかと思えば、新時代に財を成した商人が主人公になったり、夜鷹の話になったり、バルザックの「人間喜劇」がごとく、あらゆる層の人物の生きざま死にざまが綴られる。実在の人物も数多く登場し、ある作品の主要キャラが別の作品ではただの脇役になるのもバルザックに同じ。

             

             そしてこのシリーズ、かなりの傑作もありつつ、結構退屈なのもありつつで、出来栄えは色々である。日本が舞台で戦後の文体で書かれているから多少退屈でも読めるのだけど、海外文学だったら結構難しい。さらにこのシリーズでは、わざとらしく登場する子供が実は後年の誰それ、といった具合に作者の歴史造詣の深さの誇示も随所に見られる。トリビア的に楽しめるのだけど、これは日本史をある程度知っているから「おお」となれるのであって、知らなかったらただの意味不明の脱線でしかない。

             

             なのでバルザックも、研究対象としては面白いだろうし、フランス史オタクならかなり楽しく読めるのだろうが、素人が手を出すのはなかなかレベルが高そうである。などと別の知識を持ち出してきて、さも知ったかのように分析する賢しらなことをこの読書家友人に語りながら、ふと手元のちくま文庫に目をやると、この本の訳者もまた、例の先生なのだった。


             先生、そうでしたか。俺、先生の翻訳読んでたんすか。
             この年になってまたもやGuilty確定。



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