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      ふと思い立ってブログデザインを変更した。

     

     初心者用の(?)ひな形テンプレートを使って、CSSを説明書き通りにいじって、段々要領が見えてきた気がしたので、大胆に変えてやろうとはりきり、結果全くうまくいかなかったのでもとに戻してこの辺に落ち着いた。人生で久しぶりに「一朝一夕にはいかない」をやったような。

     

     劇団ブログという名分を相変わらず温存しているので、何かそれっぽい画像をヘッダーに据えた。昔撮ってもらった公演のチラシ用写真から、使わなかったのを選んだ。もう10年前の写真になる。格好つけた写真だが、チラシ用なので格好つけている。


    防長路(4)

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      (続き)

       ちょうど友人と約束していた時間となり、仕事終わりの彼と合流して山口市内で酒を飲んだ。
       山口市は県庁所在地だが県内よその都市より存在感が薄い。津と似たようなものだ。余談ながら山口県の「やまぐち」と山口市の「やまぐち」は、アクセントが違う。そういう豆知識を友人から聞き、どこかで聞いた話だと思ったら、以前に依頼された原稿の中で自分で書いていた。何でこんなに麩が売っているんだろうと疑問に思っていたが、それも自分で書いていた。

       

       山口市内の中でも、他の地方都市とは異なるズレがあり、歓楽街は山口駅前ではなく一駅行った湯田温泉周辺にある。ユダ温泉。美しい顔についた傷も治りそうな名前だ。日ユ同祖論の証拠のような温泉だな。キツネが見つけた温泉という言い伝えがあり、湯田温泉駅には巨大なキツネ像がある。友人の案内で外湯に入ったが、スーパー銭湯と値段が同じだった。聞けば、普通の銭湯より安く入れるところもあるという。沸かす必要がないから?

       山口といえば「獺祭」である。ブームはひと段落した感があるが、いまだに獺祭が飲めることをアピールしている居酒屋をよく見かける。これに限らず、たまに全国的に爆発的に売れる銘柄があるが、日本酒など日本のあちこちに美味いのがあるので、1つの銘柄だけに評価が集中する理由がよくわからない。このため獺祭ブームも白けながら眺めていたが、旅先で地元の酒を飲むのは正しい。早速獺祭を頼んだ。なぜか実家で使っているのと同じ銚子で出てきたので、一本義を飲んでいる気分になった。
       ひさびさに酒のはしごをして、最後はごぼ天うどんでしめた。ごぼうの天ぷらをのせたうどんである。福岡名物で「華丸・大吉のなんしょうと?」で見るたびうまそうに思っていたが、おいしかった。この辺りは、福岡のコシのないうどん文化圏だそう。

       

       そうして飲み過ぎたが、高い日本酒ばかり飲んだせいか(正確には東京だと高い酒)二日酔いは軽かった。翌朝、着任以来ろくに観光していないという友人とともに市内を巡った。
       こちら山口市は維新よりは、大内氏、そしてザビエルだ。維新には飽きていたのでほっとした。大内氏は室町時代、明との貿易で京都より都会だったといわれる山口を築いた大名である。そういうイメージとは裏腹に、山口市は内陸の盆地だ。ついでに市街地と山が妙に近いので、緑がやけに印象的だった。


       ザビエルは、日本史ができない人間でもなぜか知っている超有名人だ。といっても何をしたのかといえば「キリスト教布教」以上のことはよく知らない。何年か前に、実はカッパ型に剃髪してはいなかったという逸話をテレビでやっていたせいか、以降、よくそういう話を耳にする。当地にある像も普通のヘアスタイルである。そして当地では「ザビエル」ではなく「サビエル」と表記する。ポルトガル語の発音では「サビエル」の方が近い。英語だと「ゼイビアー」。二つ混ざってザビエルなのだろうか。イギリス系以外の欧米人の名前はカタカナ表記がバラつきやすい。一部サッカー選手の名前はテレビ新聞報道各社バラバラだ。大リーグでも、移民元の言語で読むのか英語風に読むのかで安定しない。ピアッツァなのかピアザなのか、リンドーなのかリンドアなのかリンドルなのか。大手服屋のZARAは、スペインの会社なので「ザラ」ではなく「サラ」だと思うが、世間的には「ザラ」である。サビエル山口市民は「サラ」と読んで欲しいものだ。「ゲッペルス」じゃなくて「ゲッベルス」なのは、綴りがpじゃなくてbなので、こちらはただの勘違い。「いばらぎ」ではなく「いばらき」問題と一緒である。

       


       さて大内氏の方は、ガイドブックの最初に載っている瑠璃光寺と、二番目に載っている龍福寺の2つの史跡にそれぞれ像がある。前者は大内弘世で南北朝時代に基礎を作った人。後者は室町将軍を奉じて上洛し、明との貿易権を得て山口を栄えさせた大内義興である。その息子が謀反で死んで没落に至る義隆。大河ドラマ「毛利元就」では義興が細川俊之で、義隆が風間トオルだった。なかなか絶妙の配役である。
       話が逸れた。瑠璃光寺五重塔は、現存なので古くて立派で結構感動した。ギラついた個人の生きざま死にざま中心の幕末維新に疲れたので、権力者がどーんと建てた寺その他は安心して見ていられる。
      ちなみに本県においては、牋歐鍬瓩寮力は弱い。伊藤博文から現職に至るまで、首相を何人も輩出している保守王国だからだろうが、香川県民にとっての丸亀製麺のように、本家には映るからだと推測する。

       

       その他中原中也記念館などを見物して帰途についた。再びマツダスタジアムの横を通るのだが、ちょうど試合が終わったところで、球場から駅につながる道路はファンでごった返し、新幹線の高架上から眺めるとさながら赤い川のようで見事だった。最寄りのローソンまで赤く染まっている。狂気の都市といえよう。あ、でも京都のローソンは白黒だった。こちらは熱狂ではなく嫌味のせいだが、平安1200年プライドと並ぶ戦後70年プライド。それが広島なのである。


      防長路(3)

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        (続き)

         さてもう一つの見どころは、萩城と城下町ということになろうが、市の反対側なので遠い。桂小五郎のような身分の高い連中の家は城側にあり、貧乏武士は塾の側に家があるという構図のようだ。当然城下町には立派な旧家が今もあるというわけだ。今度は玉造から阿波座、マツダスタジアムから平和公園くらいの距離である。ちょうど市内循環バス「松陰先生」号が来たので乗った。それに揺られてあちこち行っているうち、疲れたのと飽きてきたのもあって、城下町は寄らずじまいだった。市内のあちらこちらの路上に地蔵菩薩のように維新の志士の人形が飾ってあり、それが逆効果に響いて飽和状態になった格好である。

         


         こちらは萩駅前に立つ井上勝像。「長州ファイブ」の1人で、日本の鉄道王とされる。「〇〇王」と呼ばれる人は、実際はマネジメントに秀でていただけで実務はやっていないというケースもあるが、彼の場合は「一旦教えると異常に吸収して師匠を超える」日本人お得意のパターンで黎明期の鉄道事業に奔走したなかなかの怪物である。以前にその怪物ぶりを本で読んだのだが、全部忘れた。余談だが五人衆のもう1人遠藤謹助は大阪人の好きな「桜の通り抜け」を作った人である。

         

         志士像同様、市内のあちこちで見かけるのは甘夏だ。桜よりたくさん見かけた。萩の名物らしい。すっかり見かけなくなった柑橘類で、幼少期の記憶では酸っぱかった。ちょうど時期で、収穫したのを二束三文で売っているが、勇気が出なかった。梅干も酢の物も酸辣湯も好きだが、なぜか酸っぱい柑橘類だけは苦手なのだ。後で喫茶店で「生絞り甘夏ジュース」というのを飲んだが、ガムシロップも添えられていた。実際酸っぱくて、ガムシロをちょっと入れると落ち着いて昔の柑橘のノスタルジアを楽しめた。親父によると、夏みかんしかなかった昔々、初めて甘夏を食べたときに「こんな甘いものがあるのか」と驚いたらしい。清見だのはるみだのはこういう積み重ねの上にあるのか。

         

         萩といえば萩焼でもある。以前に骨董市で萩焼コーナーの女性が、スノッブ的でまあまあ不愉快だったのでよろしくないイメージがついて回っている。それを払拭するため適当な店に立ち寄った。今度は話がわかりやすくて楽しいおばちゃんだった。「ほうほうなるほど」と聞いているうち買わないと出れない空気になってしまい、往生した。欲しいのがあればよいのだが、あまりなかったのもので。しょうがないのでおばちゃんが推す中でどうにか気に入ったものを選んで付き合った。おばちゃんは高台の部分を示して、ここがグラデーションになっているのは、薪で焼いた証拠であり、ガスで焼くとこうはならないのだと力説した。
         その後土産物屋で、こういうのがあればほしかったという安物を見つけてしまい、本末転倒といおうかとにかく少し悲しい事態になってしまった。高台部分を見ると、グラデーションなしの均等な焼き上がり具合だったので、ガスで焼いているのだろう。それにどんな意味があるのかとつい考えてしまうが、それは野暮というものである。

         

         その後博物館で見た解説によると、萩焼は、秀吉が唐入りのときに朝鮮から陶工を連れ帰ったのが始まりらしい。その陶工を今度は毛利輝元が萩に連れて行き生まれた。先ほどのおばちゃんの店で紹介していた作家氏が、韓国の展覧会にしょっちゅう出品していたのだが、そういう事情かと腑に落ちた。技術者が海を越えるのは、今も昔も(方法と方向が違うが)同じである。
         その陶工の一人李敬が、藩主より坂高麗左衛門の名をもらったとある。こういう話を読むと、ついつい織田信長が宣教師の連れてきた黒人青年に「お前は今日から弥助じゃ」と言い放つ大河ドラマの一場面を思い出して不条理に映るのだが、坂高麗左衛門はその後名跡になって現代まで受け継がれるのでそれとは別の話か。それとも「弥助」には弟子も継承する技術もなかっただけで、始まりの発想自体は同じなのか。

        (続く)


        防長路(2)

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          (続き)

           

           松陰神社は、境内に松下村塾や博物館等がある。というか正確には塾の近くに神社を作った。
           ここで白状しておくが、俺自身は幕末ファンでもなければ吉田松陰ファンでもない。「竜馬がゆく」に心躍らせた過去もあるが、演劇でさんざん見たせいか味覚が変わった。「吉田稔麿って誰すか?」と言うかっしゃんが吉田稔麿の役を頼まれるくらい小劇場では幕末は定番のモチーフである。そのせいかどうか、とにかく年を経るごとに、興味は負けた側であったり、明治以降であったりに移っていった。松陰神社の近くにある伊藤博文の家に行った際も、展示された写真の中で最も見入ったのは統監府時代の伊藤や、ハルビンの伊藤だった。
           そして吉田松陰については、勉強熱心なところと、弟子に慕われた点は見習いたい人物ではあるが、計画や戦略がないところ、むしろ計画性のない正面突破を潔しとしていたあたり、好きではない。彼の「至誠天に通ず」が大きな原動力を生んでいったのは否定できないし、美しくもある。美しさはときに厄介で、上澄みだけが伝播しやすい。「現実的に考えて無理だと思います」などと会議で発言すると、とたんにやる気のないやつ扱いになる日本社会の言霊ならぬポーズ霊風潮は、この人に責任があるのではないかとすら疑っている。

           

           というような話はもちろん、当地で口にするわけにはいかぬ。なにしろ偉い先生かつ若くして刑死しているので神格化もある。その証拠に神社がある。年寄りグループを案内している女性ガイドに、客が「花燃ゆ」を見たのか尋ねると、「面白くなかったですね」とガイドは言い、その理由が「細部の詰めが甘い」だったから、その熱狂も推して知るべしである。
           我が故郷には橋本佐内という松陰と若干似通った志士がいるので、その熱狂がなんとなくわかる。同じく勉強熱心でかつ安政の大獄で若くして死んだ人だ。何をしたのかというと、特に何もしていない(藩士として立派に勤務はしている)。ただし西郷隆盛以下、維新のヒーローたちがとかく褒めまくっているので尊敬されている。松陰と違って、市民から総じて慕われている知名度はないが、社会科の先生あたりに狂信的な人がいたものだった。「特に何もしていないが褒められたから人気者」などとヒネた評を言おうものなら鉄拳が飛んでくると思う。似たような空気が、ここ松陰神社にも立ち込めている。

           

           有名な松下村塾は、現物らしい。「花燃ゆ」で見たまんまなのでちょっと感動した。まあ取材して似せて作っているから当たり前なのだが、こうやって順序が逆転するのはフィクションの強さであるという話は満洲の時にも書いた。境内のあちこちには、岸、佐藤ら首相が寄贈した碑が目立つのだが、「すげー、首相も来たの?」みたいなことを言って眺めている観光客がいて、こちらも順序が逆である。


           隣には博物館がある。主な展示物は彼が遺した書き物だが、処刑の前夜に書いた「留魂録」はデジタルで全ページが見れる。ざっと数えると、原稿用紙10枚ほど。ワードでいうと、基本の書式で3枚ほどだ。死を前に一晩でこれだけ書けるのは、忙しいのを理由にブログの更新が滞っていた身からすると「反省」の二文字がぐさぐさと突き刺さる。

           何と、この遺言というべき、生涯のしめくくりの文章の中にも「橋本佐内に会えなかったのは残念だった」と書いてある。会ったことのない人にも褒められているとは、佐内先生もやはり相当の人物というほかない。

           この「留魂録」には、弟子の名前も何人も登場していて師匠としての人柄がうかがえる。エキセントリックで兄貴に心配ばかりかけていたくせに(花燃ゆ)、弟子には細かい気遣いが出来るんだな(まあ俺も、兄に心配ばかりかけているが、できない若人に対する気遣いは、兄よりは出来ると思っている)。ただし文中に登場する人物に有名どころはあまりおらず、歴史は後世の人間が作るという原則は、勝者が敗者を消し去るだけではないのだと感じさせられる。


           ここにはもう一つ、吉田松陰歴史館という施設がある。見るからにB級感漂う佇まいに、多くの観光客は横目で見るだけで通り過ぎていく。当然入った。500円也。松陰神社の宗教法人が作った施設らしい。「透徹した史観を主張する全く新しいタイプの歴史館です」という謳い文句に俄然不安を期待が芽生えるわけだが、展示物の解説文は案外冷静な筆致だった。そして館のしめくくりのあいさつ文には「このような表現方法には限界がございます」と一転へりくだっている。
           「このような表現方法」とは蝋人形のことだ。「密航を企てる松陰」「牢に入れられる松陰」「塾を開く松陰」「また牢に入れられる松陰」「お白洲にしょっぴかれる松陰」。松陰の人形が色んなことをさせられているので、だんだん不条理劇に見えてきてしまった。「花燃ゆ」の主人公・文の人形も登場していたが、橋田寿賀子→安田成美の歴史修正主義ほどではないが、ちょっと複雑な気分になる造形をしていた。

          (続く)
           


          防長路(1)

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           長期沈黙していた。ブログの管理ページがモデルチェンジしていて驚いた。皆さんお久しぶりです。
           「森友学園について大手の報道機関が取り上げないことが話題となっている中、このブログも長期沈黙していた。それというのも、維新から国政選挙に立候補した友人を持つ身なので、はばかること多々ありて、普段威勢がいいくせにダンマリを決め込む右翼しぐさの連中と同じく俺も頬っかむりを」とかなんとか、くだらない冗談から書き出そうと考えているうち、全社報道し出して、おかしなおじさんも急に宗旨替えして、桜の季節も連休も、とっくに過ぎた。五月病という症状は今時もあるのだろうかはや皐月。かの立候補友人はどうしておるだろうか。そこだけ事実というのがポイント。

           

           既に日付をちょろまかしてまとめて更新した中に書いたが、単純に「忙殺」という言葉がぴったりの忙しさが理由だ。実につまらない事情なのだが、こうも忙しいと誰かの陰謀のように思えてくる。こういうのは「謀殺」といって毛利元就あたりが得意技にしていた。

           

           そういう日々の中で、書いては滞り、滞ってはまた書ける時間が消え、を繰り返していた。主に森友に関連して、本筋とは別に思うところを書いてみようとしてまとまらない。何年も前から折に触れて書こうとしては毎度うまくまとまらず、今回はこの辺にとどめておくかと軽く触れるにとどめておいたこれらのまとめのようなものだ。ここ何年来、大阪で暮らしている中で引っかかっていることのすべてが関連しているような気がして、そりゃあまとめるのもままならない。そういうわけで、一転牧歌的な旅の話を。

           

           忙殺期がひと段落して、その他諸々、説明するまでもないような細かい事情が重なり、これ幸い関西を離れてやろうと新幹線に乗った。やがて車窓からマツダスタジアムが見えるが、本ブログ愛読者であるK氏が住まう軍港都市は今回は通過である。いやしかし、野球場を見るとわくわくする。もしや建築物の中で一番好きかもしれない。

           

           そうして到着したのは山口で、冒頭毛利元就が出てきたのもそのせいである。元就は広島だが、孫の代には萩に移る。その後、近代国家日本の出発点のような地になる。そういう点、タイムリーといえばそうなのか。

           かつて小郡といった新山口の駅から、直通バスに乗って萩に向かった。電車だとぐるり迂回していくことになるので、バスの方が速い。

           さて、山口県というと、静岡同様、多くの人が新幹線で通過してしまう県で、縁者でもなければなかなか訪れそうにない。個人的には山口県といえば今吉なのだが、彼は頑なに北海道民を自称しているので、縁者はいないことになる。大学時代、アルバイト先の友人が熊毛町の出だったが、合併してなくなった。彼ともとうに縁は切れた。卒業前にギターを取り返しておいてよかった。その後悟さんにあげた。

           

           20代のころ、下関には行ったことがある。下関条約調印の地を見物して、近くにある名画の題を冠したカフェに寄ったものだった。検索したらまだあるようだ。それでレトロな街並みでも見物するかと思ってさまよった。それは対岸の門司だという常識も持ち合わせていない若いころだった。

           

           そうして久々の訪問なのだが、友人が1人、この地に転勤してきたからであった。彼の個人的事情で行楽シーズンのこの時期の訪問となった。その日は日中、仕事で萩にいるというので、彼が仕事を終えるまで観光したというわけだ。

           萩は2本の川に挟まれた中州に広がる日本海に面した小さな町だ。北西の海辺に萩城跡があり、東に松下村塾その他松陰がらみの史跡がある。バスは市のど真ん中にある明倫館に到着した。藩校のあと小学校になり現在は観光施設となっている。一直線に横に長い校舎に、つい森友学園を思い出してしまった。とりあえず腹が減ったのでうどん屋に入った。香川のうどん屋のような古臭くて慌ただしい佇まいがよい。チェーンの看板を掲げているが、看板だけがチェーンで、中身は別々らしい。連休中日の平日なので、近所の勤め人が昼食を取りに来ている。先にレジで注文をいうのだが、俺の前に並んでいた作業着の男性が注文したのと同じものを頼んだ。福岡の腰のないうどんの文化圏だと事前に聞き及んでいたが、確かに腰がなくふわふわしていてうまかった。うどんの付け合わせはワカメをまぶしたおにぎりというのが当地のスタイルらしい。

           

           腹ごなしに歩き出した。とりあえず松下村塾に行くため町を東に向かって歩いた。大阪市内にあてはめると、明倫館を心斎橋付近とした場合、玉造の手前くらい。新宿からだと四谷の手前くらい。福井駅からだと親父の元職場くらいの位置にある。こうやって書くと東京の密度は尋常ではないな。

           道中には周布正之助の家の跡とか、よく知らない志士の家とか、色々あっていちいち表示がある。現役で使われているお宅もある。そういう古い住宅街を抜けて、松陰神社に到着した。

          (続く)



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