映画の感想:政治の映画2本

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     政治家、それも国家元首が主人公の作品を2つ見た。
     「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」。ダサい邦題だ。原題は「Margaret Thatcher」かと予想したが、「The Iron Lady」だった。「涙」をつけるところが邦題っぽいが、実際、「鉄の女」と「涙」が出てきたから内容通りの語彙選択だ。

     

     「鉄の女」は、主張を曲げない女性政治家に対してしばしば用いられる枕詞で、サッチャー以外にもそう呼ばれた政治家は、ウィキペディアが紹介するだけで十数人。でも政治家ってそういう仕事じゃないかしら。元首になる人ならなおさらのこと。要するに女だから、女は弱いという固定観念があるからこそ使われるのだろう。「鉄の男」はあまり聞かない。「鉄男」という映画が昔あったが、これは文字通り鉄になる男の話だった。「鉄人」は、頑健なスポーツ選手もしくは調理技術が長けてるっぽい人を指すから意味が異なる。
     「鉄の女」は過去の話ではなく、ドイツの現職首相にも用いられているのを見たことがある。「女帝」という陳腐にもほどがある表現も目にした。上沼恵美子じゃあるまいし。このような言語感覚が現在も流通しているのはいかがなものか。メルケルに何か枕をつけたいなら「ビール党」ではないのかと思うが、政治家に政党以外で「党」を使うとややこしい。

     

     タイトルだけを云々していると駄目な文芸選考委員のようであるが、このタイトルが割と中身を表しているように思う。
     「鉄の女の涙」から想像するのは、ときに冷血とも見える思い切った判断を下す豪腕の政治家でも、個人としては悲しみや孤独を抱えている――というような類型的な伝記ものである。テレビ局がやっつけで作るような、批評性皆無の顕彰まがいのあの手のような内容だ。本作は、引退後のサッチャーが、先立たれた夫の幻影と会話しながら過去を回想するという凝った構成ながら、全体的には表層的に来歴をなぞったようにしか見えなかった。政策判断の裏面や秘史が出てくるわけでもなく、当人の内面をえぐるわけでもなく、家族モノとして掘り下げるわけでもなく、回想スタイルを採用したのも、手際よくダイジェストでたどるための方便にしか見えなかった。どういう意図なのだろう。テンポがいいのと、無自覚な顕彰に陥らないように注意している点はうかがえるから、その辺は好感がもてる。

     

     作中ちょっとだけ登場する炭鉱労働者のストライキは、「パレードにようこそ」で描かれている舞台そのものだ。同性愛者の地位向上を訴える活動家が、サッチャーの炭鉱閉鎖に対抗する労働者と連帯しようと奮闘する非常に面白い映画だった。暴力として働く善意(道徳)と、手を差し伸べ、その手を握る理想形の善意が交差する感動的な作品だ。これを見ると「鉱」を虐げて何が鉄の女だとすっかり彼女が嫌いになってしまう。本作に期待したかったのは「さりとて首相にも一理ある」という反対側の視点だったのだが、「新自由主義」で済むような見出しレベルの描き方にとどまっていた。一つだけわかったのは、食料品店の娘から政治家にまでなった当人の負けん気と努力が小さな政府を志向させた点で、なりあがり系の人に多いタイプだと思うが、トワネット系ではないようだ。

     

     「リンカーン」。何のひねりもないタイトルながら、こちらは主題が明確だ。
     五十余年の生涯の最後の4カ月=4年続いた南北戦争の最後の4か月だけに的を絞っているところがその最大の理由だ。子供のころ読んだ伝記に登場する話はほとんど出てこない。的を絞るというのは、切り口が明確にもなる。


     この期間に何があったかといえば、奴隷制廃止を憲法に盛り込むための奮闘だ。南軍は和平したがっている。憲法をあきらめれば、これ以上国民を死なせることはない。一方で修正案を成立させるには、与党である共和党の温度差をまとめる必要があるし、それだけでは下院での票数が足りない。世界史を履修していれば結果は知っているはずだが、それでもどうなるのだろうとハラハラしてしまった。知らなければ余計だろう。そのようなエンタテイメント性もしっかり確保しつつ、奴隷制廃止という(後世から見れば)全くもって正しいことも、法制化するには色々難しいことがあることが示され、「法の支配」とは何か?といういい勉強にもなる。脇役の存在感も光っており、さすが手練れの監督による映画だと思わされる。

     

     この作品は与野党左右、双方に目配せしながら描いた「サッチャー」と異なり、作り手は思い切りリンカーンに肩入れする立場である。奴隷制廃止を巡る尽力を顕彰しているともとれる。それでも鼻白むことがなかったのはなぜだろう。

     仮に「サッチャー」が思い切りサッチャー寄りの内容だったら党派性が鼻について辟易していたと思う。フィクションに政治を持ち込むのはいくらでもありえるが、党派を持ちこむのはいただけない。プロパガンダになってしまう。

     

     


    【やっつけ映画評】否定と肯定

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       ホロコースト否定本を書いている男と、ユダヤ系アメリカ人の歴史学者の法廷闘争。と聞いて想像する内容とは違う箇所も多々ある作品だった。

       

       原題は「denial」。否定という意味だが、ホロコーストの否定だけではなく、複数の意味を持たされていることが明かされる。そこを踏まえると、邦題の「否定と肯定」も味わい深いタイトルに思えてくる。


       大学で教鞭をとるデボラは、イギリス人でホロコースト否定論者のアービングに訴えられる。自著でアービングを嘘つきだと断じたのが名誉毀損だというのだ。歴史の真偽を法廷で争うという特異な事件でありつつ、作品内容としては法廷劇が中心というのが本作のミソであると思う。

       

       アービングは既視感のある男だ。今時のある種の人々とよく似ている。10年以上昔の実話がベースなので、時系列からいえば「信長が信成に似ているのではなく信成が信長に似ているのだ」という類の話になるのだが、とにかく彼の振舞いは近頃の「歴史戦」に淫している面々と重なる点が多々ある。

       例えば冒頭、デボラに「私と議論しろ」と公衆の面前で持ちかけておいて自分の言いたいことだけを隙間なくまくし立てるところとか、痛いところを突かれると半笑いでやり過ごすところとか、あと生き証人に対していくらでも恥知らずになれる点は、サンフランシスコでも同じようなことをやった「歴史戦」な日本人がいると聞き及んでいる。水泳を練習すると体が逆三角形になるのと同様、この類の破廉恥な主張を嬉々として散布すると、アービングのごとき手つき顔つき口ぶりになる医学的な理由でも存在するのだろうか。というくらいの重なりようだった。まあこれ、劇映画なので、少なくとも顔つき口ぶりについては、俳優による演技ではあるのだが(本人の映像をyoutubeでちらっと見たが物凄く似ている演技というわけではなさそう)。

       

       このような人が語る「真実」の裏付けとなる「歴史家がひた隠す史実」とか「資料」とかは、陰謀論と似たところがあり、一見すると筋が通っていて「え?ホント?!」と驚かされることも少なくない。だが実のところは本家の専門家にとっくに判定が下されていることがしばしばで、鵜呑みにすると恥をかく。よく言えば、江戸川乱歩「化人幻戯」がごとく、ミスリードに踊らされた上ひっくり返される推理小説のようなカタルシスをえることができるともいえる。ユダヤ問題については教科書程度のことしか知らないので、いったいどんな「真説」が語られ、どう覆されるのかを期待していたら、映画の本筋は別のところだった。

       


      くじ引きの話

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         テレビでやっていたW杯の抽選を見た。ドラフトについてくだらないことをあれこれ書いた手前、くじ事には結果よりも過程に興味が湧いてしまう。

         

         強豪の潰し合いや、同地区対決を避けるため、抽選のシステムはちょっと複雑だが、要するに開催国と、FIFAランキング上位国は分散するような仕組みになっている。そして開催国は、Aブロックの1枠と最初から決まっているようなのだが、わざわざ印のついたくじを引くという儀式的な手続きを踏む。この、ぶっちゃけやらなくてもよさそうな行為が、抽選の1発目になるわけだが、なにせ1発目だから要領がわかりにくい。くじを引く人が、カプセルに入った中身を取り出すのにやけに手間取っていた。結果が不明なら手間取りも緊張感の演出に自動的になるが、ロシアはAの1と最初からわかっている。そのわかりきったことに、わちゃわちゃ手間取るから間抜けだった。やはりサッカー選手は手は苦手なのかとアホなことを考えたら、この人往年の名キーパーだそうで。

         

         くじを引くのは往年の名選手たちだ。当事国関係者は客席で見てるだけ。国名そのものがくじになっているため、当事者が引きようがないシステムだから必然なのだが、(不正のなささえ担保されれば)くじは誰が引いても確率的には同じという合理主義がいさぎよい。ここには右手左手の犧鄒鎰瓩發覆韻譴弌↓猝召世燭詭埃圻瓩發い覆ぁだってくじ引きだもん、という。そういう神のいたずらの中で、日本と韓国が最後まで残り、日本が残り物となったのは、ちょっとだけ感慨深かった。

         

         日本と1次リーグで対戦する国は、「どんなとこ?」とテレビで紹介されるので、知りたい国という基準で見ていた。コロンビアは前回結構紹介していたので、その点ちょっと残念である。お隣ペルーの方がよかったな。
         試合の方はまあ頑張れということで。オリンピック同様、汚職等々黒い金の流れが指摘され開催国は負債を抱える、という現実が、東京五輪を控えるだけに視界をちらちらして、素直な(ないしは無邪気な)応援を妨げるのである。


        ドラマの感想など

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           ドラマを何本か見ている。去年ぐらいからか、姪から「今何か見てるやつあるん?」と聞かれるから、というのが大きな理由。別にたくさんチェックして姪に気に入られようとしているわけではなく、これもひとつのいい機会だろうと思ったからなのだが、習慣があまりないので、すぐ忘れる。今年も終わりに近づき、ようやく何本か見たが、すぐ忘れるので飛び飛びである。


           唯一通年でほぼ毎回見ているのは「直虎」で、これは大河ドラマでは出色の出来栄えではなかろうか。ドラマが歴史に着られていないというか、歴史ドラマというよりは、実話に基づく物語、に近い内容で、これはまあ、史料があまり残ってない題材だから可能だったのだろう。男性中心の歴史の中で、女性を主人公にするのは相当題材が限られる。史料の少ない人物に焦点が当たるのは必然でもあろうが、創作の自由度が高いというだけでは当然の話、傑作は担保されない。若武者に主役が移っても主人公の存在が失速しないのは見事というほかない。あと内輪向けのくだらない話題としては、上地似の役者が毎回出ているのが気になって仕方がない。

           

           見始めると昼メロかよと呆れつつ、つい続きが気になる上手さがどうせあるだろうから、なるべく避けたい池井戸潤のドラマをつい見てしまって、案の定ズルズル見続けている。「陸王」。敵役の、外資大手シューズメーカーのピエール瀧にくっつくいわゆるスネオ的な悪役キャラを演じるのが小藪、というのが本作のベタさを代表していると思うが(もう一つは毎回クライマックスでかかる曲の選曲)、虎の威を借る狐的イヤなやつが目つきの悪い細面ブス男、というステレオタイプは、偏見差別を助長する危うさがあるんじゃねえのかと思ってしまう。実際のところ、この手の薄っぺらいやつは、うさん臭いくらいファッションと髪型にこだわっている何なら見バのいいタイプが多い気がする、というのもこれまた偏見であるが。
           この外資悪役コンビのような口先だけで手の平を平気で返すこれ見よがしの悪役は、いかにもドラマだけの存在のように思わせて実際いくらでもいるものだが、本作を見ていると、結局手元に何もない人間は、これしか生きる方法がないんだろうと思わされる。「才能ないやつはゴマすりを覚えろ」は野村克也の言だが、正確には「手に職も、浮世の理想もないやつは、ゴマすり、恫喝、手のひら返し、とにかく恥知らずになるほかない」ということか。勉強になる。問題は、今の世の中、恥知らずがしぶとく生きていることではなく、恥知らずに「本音の人」などと一定評価があることだ。事実は小説より奇、ってこんな意味だっけ。大企業にいじめられつつ奮闘する中小企業の話であるが、合間のCMが思い切り大企業ばかりなので、CMに入るたびちょっとソワソワする。

           

           「監獄のお姫さま」。クドカン氏の作品は、昔からなぜだか苦手だ。面白くないというわけではなく、嫌いというわけでもなく、苦手なのである。「あまちゃん」で老若男女あらゆる層をわしづかみにしてしまって以降は特に、この人を苦手というのは村上春樹を苦手というのと同じか、何だったらそれ以上、俺の感性がよほどダサいのだろうと思わされてしまう圧迫がある。今作も、やっぱり苦手だ。ちょけているようで、きっちり人とか現実とかを描けているからかなりの人だと思うが。

           会社を辞めて舞台をやり始めたころ、ちょうど彼が注目され出していて、おかげでクドカン風味の出来そこないの脚本をたくさん見る羽目になった。最初に食べたマトンがまずかったせいで羊が苦手、というのと似た構造かもしれない。

           

           「奥様は、取り扱い注意」。これはすごい。よくいえば、ぶっ飛んでる。悪くいえば無茶苦茶。最先端のような、昭和のはちゃめちゃドラマのような。

           メインの登場人物は女性3人。長女、次女、三女的な立ち位置と、次女相当が主人公、というのがまるでキャッツアイだが、この主人公だけほんとにキャッツアイ的な特異な設定で、あとの2人は普通の悩める主婦。こういう場合、全体の演出を、作り話っぽくするのか、それとも日常的な雰囲気にするのか難しいところだ。もちろん二者択一ではなく微妙なブレンドが要求されるのだが、このドラマ、その辺りが今一つノープランのまま作っているような印象で、仕上がりとしてはあかん意味でわけのわからんドラマになっていると思う。結果、重要な要素たる主婦の悩みないしは夫婦のすれ違いがステレオタイプに収まってしまってる。もしかすると結果というよりは、ここの描き方こそがスタート地点なのかもしれないが。

           

           「マチ工場のオンナ」。始まったばかりで感想はさしてないが、「奥様は〜」のせいだろう、父の遺した会社を継ぐと決めた主婦に対する夫の反応が、つまらなく見えてしまって仕方なかった。ま、いかにもつまらんこといいそうな夫、という点ではばっちりの配役だと思うが。

           

           フィクションつながりでついでに小説の話。今年読んだ中で面白かったのをいくつか。

            

           短編集ばかりなのは、根気がないから。大家ばかりなのは強迫観念にかられて。翻訳ものばかりなのは、読んだ日本の作品が有名どころないしはつまらいものばかりだったから。カート・ヴォネガットのは、死後に出た未発表短編集だが、結構おもしろい未発表作品がこんなにあるというのも、大家の場合さして珍しくもない現象かもしれないが、改めて「なんで?」と思ってしまう。
           


          真似ることの深い考察

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             贋作を膨大に描いたフランス人の自伝だ。冒頭警察に逮捕され、取調べの中で半生を語るという構成が「イミテーション・ゲーム」のようだった。こちらはまさしくイミテーションの話だからカブっている。

             

             ろくに教育すら受けられなかった恵まれない育ちの筆者が、様々な出会いを通じて絵の才能を開花させていく出世譚のていをなしている。本書からもにじみ出ているが、魅力的な人なのだろう。そして一旦絵筆を握ると一心不乱に集中できるところが筆者の才能の一つであるのは間違いない。チンピラみたいな連中とつるんで荒れた生活をしている間も、道端で死なずに済んだのはこの才能のゆえだろう。逆に金持ち連中との付き合いが生まれ、自分が何も知らないことを思い知り、必死に勉強して吸収していくところも感慨深い。学校教育の大事さを再確認させられる。当人も言っているが、筆者が充分に高等教育を受けられていれば、同じ画家の道を進むにしてもずいぶん違ったものになったはずだ。

             

             それくらい絵に貪欲でストイックで才能あふれる人ながら贋作者になっていくのだから、有名画家になるのは、ちょっとやそっとの画才ではかなわないといえる。ただ、本書のおもしろいのは、贋作を作り始めてからの方が当人が活き活きとしている点だ。

             

             当初この筆者リブは、画商の求めに応じて、風景画をメインに描いていた。売れ筋の綺麗な風景を器用に描けるだけでなく仕事も早い。画商にとってはありがたい存在だ。このため仕事依頼はじゃんじゃん来て食うには困らないが、描きたくて描いた絵ではないから画家自身に醍醐味はない。絵に限らず、色んな世界でいくらでもある話だ。依頼に応じて書いてほしい種類の原稿を速攻で書き上げられる人は、編集側には重宝する存在だから仕事は来るが、結局便利屋扱いで終わってしまう。米澤穂信 「満願」にもそんな話があった。

             

             こうしてリブはストレスを溜めていくのだが、その後に手を染める贋作の世界ではこれが全く逆になる。発注元は筆者を尊重して「描きたいものが描けたらもってこい」というスタンスなのである。このためリブは思う存分制作に集中することができる。描くのは贋作だから、有名画家の真似をするという「自分のない」作業であるはずが、爛リジナル瓩良景画を依頼されていたころより自分の好きなように取り組めるのだから皮肉だ。

             

             どうしてこうなるかといえば、贋作の場合、ピカソやマティスとしての値段がつくから、1作品あたりの値段がそれまでの風景画より格段に高いことがある。そして生半可な出来ではバレてしまうので、魂込めたオリジナルと同じ熱量を込めないと本物と誤解させる贋作は作れない。というわけで制作環境がぐっと恵まれるのである。何という矛盾か。

             そしてリブの手法は、ロバート・デ・ニーロの演技論がごとく、当人になりきるというアプローチだ。作品や経歴を資料をあさって吸収し、本当に演技がごとくなりきる。そのうえで、コピーではなく、未発表だか未発見だかの別の作品を描く。なのでサインがなければ、ただのオリジナルである。なので、彼の行為は「オリジナルとは何か」「絵の価値とは何か」という難しい問題を突き付けてくる。リブ自身も本書の中でそのような問題提起をしてくるが、ただし、古く見せるための偽装工作を施したり、完成後は証拠になりうる画材や資料を全部捨ててしまう隠蔽工作もしているので、ちょっと説得力は低い。ただ、パクリとオリジナルは、そんな明確な線引きが出来るものではないという、パクリ騒動が出るたび色んな人が指摘していることのわかりやすい例だとは思う。

             

             面白かったのは、リブが藤田嗣治の贋作を作ったときに、調子に乗ってサインを漢字にしたら、その漢字が微妙におかしくてバレてしまったというくだりだ。ピカソが描く一見単純な三角形が死ぬほど難しいと神経質にもほどがある模倣を突き詰める男なのに、漢字はミスするというのはこれはどういうことなのだろう。文字も図形の一種だといえるはずだが、図形とは違うものなのだろうか。その点あまり言及がなく、ただの笑い話としてサラっと終わっていたが、妙に気になった。

             

             このリブの不幸は、発注者の死によって制作スタイルの変更を余儀なくされた点だ。別の業者と付き合うことで、今度はただのコピーの乱造を要求されることになる。風景画の時代に逆戻りというわけだが、風景画と違って明らか偽物を作っているのでおそらくストレスは倍か二乗になる。皮肉を超えた皮肉である。結局捕まったときに「これで助かった」と思うほど精神的に追い詰められてしまうわけだが、一口に贋作といっても色々あるというのは、あれこれ考えさせられた。そしてピカソでも藤田でもなくリブ自身が描いた作品だと初めて明白にされての展示が、裁判での証拠開示の場だったというのも泣ける面白さである。

             加えて有罪確定で全部失った、と思わせておいて、彼のスキルが意外なところで合法的に活かされるラストも、人真似とはなんぞやを突きつけている。活字がデカいので、タイトルだけのスカスカの本かと思ったが、中身はかなり濃かった。



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