BLM開幕2020

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    サン釜山シスコ・ジャイアンツ球場

     

     時の人ファウチ所長の始球式でMLBが開幕した。感染状況が他国より突出してエグいこといなっている中、シーズン終了までもつのかどうか。

     試合中はもともと日本より静かなので、無観客の違和感はNPBほどではないが、ひまわりのタネを筆頭に、口から何か吐くのは禁止だからそっちの方が選手はやりにくそう。

     監督がつけているマスクがチームロゴつきで格好いい。どうせお高いんでしょ?と検索したら、我らが首相が「朝日のマスクは高すぎる」とドヤっていた泉大津のマスクが8枚買える値段だった。


     MLBは、今年はBLMでもある。うまいこという。公式のマークを黒抜きにしてアメリカで広がるデモのキャッチフレーズとともに球場に掲げている。昨年、選挙対策でワシントン開催のワールドシリーズを訪れ、「投獄しろ」の大合唱に見舞われたトランプは、今年は選手の膝つき抗議を親指牽制していたのだけど、まんまと試合前に選手みんな膝つきをするお約束コントのような展開になっていた。無観客でも非難される大統領。時事ニュースてんこ盛りの開幕となった格好だが、同じころ日本では、池江が国立競技場で「五輪へ涙のメッセージ」(スポーツ報知)を読み上げる(読まされる?)、スピ風味もどこか漂う香ばしいセレモニーが行われていた。この現実世界との遊離具合の差たるや。日本のスポーツ界は幼稚だ。


     日本のスポーツ報道が、でもある。MLB→BLMの話も、日本のテレビではせいぜいが映像でちらっと映す程度。ネット上の日本語ニュースもAFPの転載ばっか。それは自分たちの仕事ではないと思っているから語る言葉を持ちあわせておらず、触れようがないんだろうな。

     42が全球団で永久欠番になっているとか、ファンなら誰でも知ってそうな話を思い返すだけで、スポーツ本体と地続きの問題であることはすぐにわかりそうなものだがな。42以前の時代だったら、イチローも大谷もMLBには入れてもらえなかったんだよ。解説者各位も、自身がかつてともにNPBでプレーした外国人選手に想いを馳せてほしいものだがね。


     田中将大は、直前の練習で頭部に打球を受けて出遅れてしまった。打ったスタントンは、さすが要らんところでは快音を響かせることでおなじみの強打者である。全日程がいつもの半分もない「これはレギュラーシーズンにカウントしていいの?」という今季だからこそ、スタントンの打力は爆発するだろう。


     アメリカ最古のプロ野球チーム、の流れをくむ(便利な言葉)伝統球団にして日本選手が初めて加わったレッズは、補強組の活躍で好調発進。前年弱小だったチームは、いかにスタートダッシュに成功しても途中で息切れするものだが、今季は半分しなかいのでチャンスである。絶滅危惧種フランチャイズプレーヤーの1人、ボットーをポストシーズンに連れて行くのだ秋山。

     

     大谷はメジャー史上初のタイブレークのランナーになった。タイブレークで日本人メジャー選手が二塁走者になるのは初。

     

     レイズ筒香は開幕戦でいきなり本塁打。デビュー戦でホームランを放った日本選手は前田健太以来。飛沫に要注意な今こそサイレントトリートメントの出番だが、特に何事もなく普通に歓迎されていた。

     

     筒香は社会問題について自分の言葉で語ることができる稀有なプロスポーツ選手でもある。彼にとっては、ある意味絶好の機会での渡米となっただろう。彼が米国で揉まれる中で、社会問題方面での日本社会へのフィードバックを少々期待しているのだが、仮にそうなったとしても取材するスポーツ記者の半数以上が理解できないのではないかとも思ってしまう。

     現にネット上に「スポーツライター・大学非常勤講師」という人が書いた膝つきの記事があったので読んだが、屁みたいな内容だった。日暮れて途遠し。先は長い。


    【やっつけ映画評】パブリック 図書館の奇跡

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       上下水道とゴミ収集の次に世話になっている公共サービスが、俺の場合は図書館だと思う。図書館ヘビーユーザーだった両親の影響もあるし、大学以降は調べものの利用も加わった。
       調査利用をする身からすると、希少資料を所蔵している図書館ほど「よい図書館」になる。国会図書館がその筆頭だが、地方の図書館は郷土資料はともかく、それ以外となると心もとない。所蔵資料の潤沢さ(さらにいうと、図書館そのものの種類の豊富さ)は都市部にアドバンテージがある。俺にとって図書館の充実は、有名作品の来る美術展、海外ロックバンドの来日と並ぶ「都会かどうか」の指標の一つだ。
       と思っていたが、こういう公共施設の充実は「無駄」ということになって久しい。維新を信用しない理由なんて、国際児童文学館を潰した一件だけで十分足りる(という言い方に違和感が出るくらい色々ありすぎるが)。代わりに中之島に「こどもの本の森」なるものが出来たが、図書館法に基づく図書館ではないといい、蔵書数からしてショボい。立地や見かけの話題性と合いまった羊頭狗肉ぶりはいかにも今の大阪である。


       そういう俺からすると、図書館を舞台にしている時点で俄然興味が湧いた本作であるが、図書館=蔵書という側面はあまり描かれていなかった。つまりこの原稿もこういう書き出しにする必要性は全くなかった。単に映画の邦題にかこつけて文句を書きたかっただけだ。

       

       以前に紹介した「ニューヨーク公共図書館」で示される図書館像と同じ「社会の受け皿」としての機能にフォーカスした内容だった。まさしくタイトル通り、パブリックとは何か、がテーマになっている。


       図書館とはセーフティーネットであるというのは、アメリカでは広く共有されている感覚なのだろうか。本作登場人物の台詞のいくつかは「ニューヨーク〜」で登場する本物の職員も口にしていた。日本でも一応そういう部分はあるのはあるが、当の司書の人々自身にセーフティーネットが必要な惨状になっているから存立危機事態である。


       主人公のスチュアートが勤める図書館には、毎日のようにホームレスのグループが訪れてトイレで歯を磨いたり、読書したり、インターネットで遊んでいたりする。スチュアートは彼らと真摯に接しており敬意を持たれているのだが、ある寒波の夜、ホームレスたちが「外に出たら凍死する。シェルターは満杯」として、閉館後の図書館に強引に居座ることとし、スチュアートは彼らの実力行使に巻き込まれることになる。
       そうして警察がやってきてにらみ合いとなるのだが、ここからの展開はまさに今アメリカで起きている出来事と同じで実にタイムリーだ(日本での公開が今になっただけで、2018年の映画だから予言的作品ともいえる)。ホームレスたち(と、彼らに同調することを選ぶスチュアート)は、単に居座っているだけだ。居場所がないことに加え、邪険に扱われていることへの抗議というデモ的な要素もある。不法占拠にはなるが、犯意という点では大したことではない。

       

       一方、現場に居合わせる検事は、スチュアートが「ホームレスたちを人質に立てこもった凶悪犯罪」であるとして強硬手段に訴えようとする。この検事を演じるのが久しぶりに見かけるクリスチャン・スレイターで、かつてのイケメン俳優もすっかりおっさんなのは時の経過から特に驚きもしないのだが、李明博に妙に似ていたのが意外だった。七三と眼鏡、高圧的で陰険な役どころが手伝っているのだろうが、それにしても瞬間瞬間そっくりになるところがあって可笑しかった。逆に考えると、外見には特に見るべきところもないあの元大統領も、若いころは男前だったということだろうか(現職文在寅の若いころは笑かすほど男前だが)。

       

       抗議行動に対して、意見に耳を傾けることをはまったくせず、犯罪者だとして警察を投入するのはトランプがやっていることと全く同じだ。彼が排除によって解決を図りたがるのは、これまでずっと差別的言動で支持を集めてきたから選挙対策ともいえるわけだが、本作の検事も、市長選に立候補中で、支持率の劣勢を挽回するためにやっている様子が描かれている。

       

       ただし、この検事は序盤で憲法が定める人権を根拠に、スチュアートたちを説教しており、どうもちぐはぐである。それ以外にも、交渉人刑事の息子が薬物中毒で家出中という設定が、(オピオイド問題という時事性はあるものの)物語の中で浮いていたりと、脚本はそれほど巧いわけではない。「がさつな美女は主人公に都合よく惚れがち」という部分も、時事性の強い作品だけに、その古臭さが目立っているように感じた。

       

       それでも要所要所に笑える部分があったり、図書館への愛がうかがえるところや、図書館職員が総じて誇り高いところ、なんでか納得させられてしまうラストのオチもあり、全体的にはおもしろいいい作品だと思う。

       

       さてこのラスト、笑いによってどこか問題をうやむやにされているような気もしないでもないが、抗議行動につきまとう敵愾心をどうするかという点では面白い提示といえるのかもなと思った。


       


      【逸脱の安息日】チョコミント

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        2009年撮影@ソウル(ピンボケにつき加工)

         

         コンビニに立ち寄ったとき、何気なくアイスの売り場を長めていると、商品が1つ目に留まった。「ブラックサンダーアイス チョコミント」。
         そもそもアイスを買うつもりすらもなかった俺だが、ついそれを手に取り、レジに向かった。チョコミントが好きだから、というわけではまったくない。むしろずいぶん昔に食べて受け付けなかったので、それ以来食べていない。それがいつなのか全く覚えていないが、大学1年生のときに初めて出演した舞台の台詞でチョコミントの存在を知った覚えがあるので、食べたのも四半世紀ほど前だろう。それほど長いこと食べていないものをコンビニなんていうイージーな場所で入手できるというのも、ちょっと不思議な気分になる。


         チョコミントは、定型化したつまらない議論の格好の的となる代表的存在である。うまいかまずいか、そんなものすきずきだろ、で終わる話だ。「すきずきだろ」はものによっては明快な答えのようでいて、実はただの無責任というケースもある。

        「先生、俺大学行った方がいいと思いますか」

        「すきずきだろ」

        いや先生の責務は!とか。

         だがチョコミントなどという、いってしまえば他愛もないおやつの場合、糖分摂取かカフェイン摂取に注意が必要な特別の事情がある人以外は「すきずき」で済む話だ。


         ある食べ物が嫌いという人の話は、まれに勉強になるときがある。へえ〜そんな感じ方があるのかというような発見である。そう感じた経験があるというだけで、具体的に何の食べ物についてどういう感想があったのか何ひとつ覚えていないので「勉強になる」は言いすぎだった。

         唯一覚えているのは、

        「なすびが嫌い、口が荒れるから」

        「緑茶が嫌い、口が渇くから」

        「ふりかけが嫌い、口がパサつくから」

        と口のコンディションに異常に潔癖な男(河崎)の話だが、この場合はへえ〜を超えて、彼が何を言っているのかよくわからなかった。


         「嫌い」の話はしかし、多くの場合は聞くだけ不愉快なだけだ。なぜか人はしばしば嫌いな食べ物については、自身が嫌いというにとどまらず、「好き」の人を攻撃する。「あんなの食べるやつの気がしれん」。こんな感じ。

         ただし「好き」の人が「嫌い」の人をなじるところからこの無駄な戦争が始まる場合も少なくない。「おいしいのに」「この旨さがわからんとは」。親が子供に好き嫌いをなくさせようとしているのならともかく、大人同士だ。相手の趣味嗜好を云々するのは慎重でなければならん。


         そしてチョコミントの場合、半ばお約束のように「うまい/まずい」論争が始まる。しいたけやナスのように、美味しい食べ物として供応された中にしっかり入っていて青ざめる、というような気まずい状況とは無縁の、嫌いなら嫌いで一生大過なく過ごせそうな食べ物だけに社会性はより低い。「うまい/まずい」論争のしょうもなさ指数はその分より高いと思うのだが、しょうもない話だけにかえってお約束が発動しやすいのだろうか。非難がオートマチック化すると、周囲が否定すればするほど殉教精神が芽生える不幸にもつながりかねない。


         定型化された話というのが嫌いである。先日も友人と話していた際、Zoomを使ったテレワークで、女性社員の背景に映り込んでいる自宅の様子に言及するとセクハラになる、という話の流れから友人が「そんなこと言い出したら何も言えんくなる」とコボすので、思わず「いくらでも仕事の話しろよ」と大きな声を出してしまった。

         セクハラやパワハラの話においてお約束の「そんなこといったら〇〇できなくなる」というボヤきの陳腐さに加え、「何も」言えなくなるはずがない科学合理性のなさについ苛立ってしまったからだった。ついでにもし本当に「何も言えなくなる」のだったら普段の言動が完全にセクハラ相談室行き案件になるのでダブルで「ちゃんと仕事しろ」という話である。


         そういうようなわけで、ブラックサンダーのチョコミント味を見かけたとき、俺の中で、チョコミントうまいまずいのくだらない論争に終止符を打たなければならないという義務感にかられたのだった。

         何せブラックサンダーである。戦前に存在していたら、ハーシーズなど駆逐して戦争にも勝ったんじゃないかという気すらしてくる信頼のブランドである。俺は賭けることにしたのだった。


         そしてやはりブラックサンダーは裏切らなかった。こうして俺はチョコミントを克服し、うまいまずいの論争に対して「別に好きでも嫌いでもないけど、まあモノによっては美味いんじゃない」と、この論争に対する最も白けるひと言を、実感を伴って言えるようになったのだった。

         そして探究心すら生まれてきて、結果、スーパーカップのチョコミントが今のところ最も美味いのではないかと感じている。ミントの香りがろくにしないからだが。


        【巻ギュー充棟】東欧革命1989:ソ連帝国の崩壊

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           かなり以前に書店で見かけて何となく気になっていた本をようやく読んだ。春先、コロナの自宅待機の中、読書するぞ!と思っていたが叶わず、ようやく色々ほっぽり出してかなりの大部を読了した。1/4過ぎたくらいでゴルバチョフが登場してからは一気に読んだ印象。それでも終盤でチャウシェスクが処刑されるくだりで、あれ?あの有名な裁判のシーンはないのか?と思ってしまった。改めて見返すと、序章に書いてあったのをすっかり忘れていたのだった。長い上に登場人物がめちゃくちゃ多くて濃いので、すぐに色々と忘れてしまう。


           とりあえず、ロックの正史においては壁を壊した貢献者ということになっているデビッド・ボウイもブルース・スプリングスティーンも一文字たりとも登場しない。代わりに当時のチェコスロバキアのバンドで政治犯になってしまうThe Plastic People of Universというのが登場する。YouTubeに上がっていたので聞いた。東欧的な雰囲気+共産主義時代の陰鬱な調子で、面白くはあるが、長く聞いていたいとは思えない。本書では「音楽的に優れたバンドではない」「とても革新的とはいえない」と容赦がなさ過ぎる。


           翻訳ものではしばしば見かけるから言語的特徴なだけかもしれないが、この酷評のように、本書は基本的に断定調で文章を綴っており、それが心地いい。新聞記事ではしばしば「らしい」「という」「とみられる」と断定を避ける。100%確定できないことを言い切るのは不正確になるからだ。俺もかつてそういう訓練をつまされたのでこのブログでもしばしばそういう表現を選んでいるし、文章におけるイロハのイなところはあるから、新聞に限らずジャンルによっては書籍でもしばしばそういう書き方をする。

           

           一方本書はほとんどが断定形。お前見たんかっていうくらい断定形である。めちゃくちゃ取材しているから出来る芸当だ。読んでいて心地いいのはその取材量に支えられた確かさを体感できるせいだ。まあ仮にめちゃくちゃ取材したとしてもバンドについて「優れていない」と断定的に書く勇気は俺にはないが。


           公文書+関係者のインタビュー、その他当時の記事等々で判明している事実を、時系列通り、飾り気のない調子でずーっと綴っているだけのはずなのだが、ぐいぐいと引き込まれた。無論、文章や構成のうまさがまずあるのだが、冒頭「本書はハッピーエンドの物語である」と始まっているように、共産圏の抑圧的かつアホらしい体制が、最後は崩壊することを知っているというのが大きい。吐き気や寒気しか覚えないような統治者たちが破局に向かっていく様子に続きが気になって仕方がない。最後に待ち構えるであろう大団円が、この大部の大きな牽引力である。

           

           1980年代末、俺は中学生だったから、リアルタイムでのニュース映像の記憶はある。本書の序盤でブレジネフ死後、アンドロポフ、チェルネンコと、ボスになった途端病死が続いたドタバタが描かれているが、この辺からよく覚えている。確かブレジネフは、死から発表までにタイムラグがあって(wikiによると3日)、その間ソ連の様子が何かおかしいから死んだんじゃねえかという憶測が流れたんじゃなかったっけか。事後に「実はそういう状態だった」と報道されたんだっけ? とにかく父親が「武田信玄に比べるとずいぶん短いな」と軽口をたたいていたのはよく覚えている(おそらく当時、日本の500万人くらいが同じ感想を言ってただろうな)。その後の革命状況については、もちろん大して理解していなかったものの、「何か凄いことになってるなあ」くらいは感じたものだ。その一方で、そこまで不思議な現象には感じていなかった。


           というのも当時の「政治」なり「支配」なりに対する俺の理解が、実に単純だったからである。俺は歴史好きだったので、マンガ日本の歴史だの世界の歴史だのをよく読んでいたのだけど、例えば中国史の場合、強大な権力を持っていたはずの董卓や煬帝が、家臣が裏切ってあっさり殺されハイ終了という事例がある。なのでそれと重ねて「いくらでもあること」と見ていたわけだ。

           

           ところが大人になって社会の仕組みが見えてくるにつれ、ことはそう単純ではないと感じ始める。大体煬帝だって、暗殺自体は唐突な一瞬のこととはいえ、そこに至るまでの諸々が積み重なった結果であり、子供向けに単純化された読み物で単純に理解していただけだ。ワイダ監督の「カティンの森」「残像」で描かれる恐ろしい体制を見ると、これがひっくり返るとは全く想像がつかない。

           それも戦争で外国に負けたわけではなく、市民運動で倒れていったのある。はてどういう事情なのか。こんなことが今更気になった理由は、そもそもの歴史好きに加えて、今の日本社会が当時の東欧のようになっているのではないかと、問題意識として身近になってしまったからだ。

           

           


          【やっつけ映画評】リチャード・ジュエル

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             「朝、遅刻しそうだとパンを加えながら慌てて駆けている女子学生が角で男子とぶつかって、というマンガでよくあるやつみたいな」などと若いのが言うのをつい先日目にした。今時の若い衆にもこの「あるある」は生きているんだなと何か発見をしたような気がしつつ、さてそもそも出典は何なのかが気になった。


             wikiの説明では、明確な出どころは確認されいないらしい。「運動会で順位をつけないために手をつないで横並びでゴールテープ」と同じく、都市伝説、要はデマの類ということだ。

             初出として確認されているのは「サルでも描けるまんが教室」で、この作品内ではすでに「あるある」として紹介されている。俺もリアルタイムで読んだ。兄が愛読していて「これ笑える」と見せてきたのだが、不思議なもので、その時点で俺も兄も既視感を覚えながらゲラゲラ笑ったのだった。本当は見たことがないのに、「あるある」と思って笑ったのはどういうメカニズムなのだろう。


             本作で登場する女性記者(実在の人物)が、色仕掛けで捜査官から情報を引き出すシーンは「ステレオタイプを助長する」と非難されている。このステレオタイプは俺も見聞きしたことがある。例えば「レディ・ジョーカー」では、週刊誌記者が「うちの爆弾娘が肉弾戦で凄いネタを取ってきた」などと語る台詞がある。

             これが本作と異なり妙にリアルなのは、男性の週刊誌記者が男性の新聞記者にそう話している(実際のその場面は描かれていない)という点だ。しばしば男性同士が「あいつはそうらしい」と語る。数年前にも知人がそう言うのを聞いて、いまだにソレは生きているのかとちょっと驚くと同時に、知人の生々しいミソジニー側面を知ってしまいたじろいでしまった。

             「体を使ってネタを取る」記者は過去に本当に存在したのだろうか。情報源のおっさんの側がそれを期待して「浮気しよう/縛っていい?」と迫るケースは財務省で1件、実在が確認されている。あと男性記者が賭け麻雀で情報源と犂愀賢瓩鮖って、結局何も記事に書いてない例が1件ある。


             この場合は、デキる女性に対する男性の嫉妬から発せられている&男性側に「女はそうに違いない」という蔑視が手伝う、というメカニズムは想像がつく分「パンの女子」よりは謎めいていないのであるが、本作の主人公リチャード・ジュエルについても、働いているメカニズムは似たようなところがある。


             「アイ,トーニャ」では虚言壁のバカ、「ブラック・クランズマン」では底辺白人至上主義者を演じた俳優が演じている。どちらも大変にそれっぽいというこちらの色眼鏡にかなった風貌の役者であり、本作ではずっと知性はあるものの、何だか危なかったしいところは共通の役どころを演じている。

             FBIが彼を重要参考人としてピックアップしていくプロファイリングという手法は、正味のところ「なんかアヤシイ」というだけの素人かよという捜査に過ぎないのだが、確かに「なんかアヤシイ」説得力はある。残酷なキャスティングである。いかにも友達がいなさそうで、承認欲求は強そうで、自作自演の爆弾事件で英雄になりたそうな外見、という色眼鏡である。

             90年代が舞台だが、今だとさしずめネトウヨを気取って民族差別デマを振りまいてそうな外見、という色眼鏡になる。これも、やたら太っちょのそういうヤツを見たり会ったりしたことがあるわけでもないのに、いかにもソレっぽいと思ってしまうのはなぜなのだろう(例えば「主戦場」の登場人物にこういう外見のは1人もいない)。

             

             決定的な証拠がないので、FBIも逮捕状を取れず、違法な捜査で外堀を埋めていこうとする。その1つとしてFBIが地元紙にリークしメディアスクラムが起きる。これだからマスゴミは、と非難するのは容易いのだが、そういう人は同時にリチャード・ジュエルの無実を信じることもしないんじゃないかしら。おかしなもんだ。単に見えている物事に対して反射的に嫌悪感を抱いているだけだからそうなるんだろうな。

             

             本作が、他の冤罪モノと異なる点の1つは、当人が捜査機関に対して非常に従順である点で、この部分は特に日本社会においては啓発ビデオ的な部分になるのではと思う。

             本邦社会は警察が好きだ。刑事ドラマでは悪徳上司が出てくるのが定番で、不祥事のニュースを見ると「また大阪府警か」と訳知り顔で呆れる割には、治安向上のため警察権力を強化する、なんてな話にはあんまり反対しないし、警察官が路上で男を押さえつけていたら、その男が悪人に違いないと疑いもしない。リチャードの場合は、警察官志望で夢かなわず警備員をやっているという人なので、その思いは余計に強い。

             

             仕事柄、警察官を志す若い衆をちょこちょこ相手にするのだが、悪を懲らしめるヒーローになりたい、といったリチャードのような素朴な憧憬を抱いているのも少なくない。そしてそういう学生はしばしば、シュタージか西部警察かっていうくらい憲法全無視の主張を無邪気にしてくるものだ。多分、リチャードが警官になれなかったのはそのせいだ。事件を通じてその考えが間違っていたことに悟った後の彼の足跡を見るとよくわかる。その点でも、刑事分野での人権を学ぶいい教科書みたいな作品だった。


             FBI側がろくに証拠もないまま立件しようとしている大変に筋悪な事件につき、法廷モノにありがちな敏腕弁護士の機知による大逆転とかの派手な展開は何もない。その地味な話を例によってソツなく重厚なドラマにしてくるタフガイジジイの演出力は、毎度のこととはいえどういうテクニックなのかしらと舌を巻く。

             あやしげな捜査を補うように報道にリークして既成事実化を狙う辺り、松本サリンの河野氏とリチャードは重なるのだけど、あちらをテーマにした「日本の黒い夏―冤罪」は、なんだか甘っちょろい作品だった。記者にフォーカスしたせいかもな、と、本作ではあくまでサブ的要素となっている地元紙とやり合うシーンを見て思った。


            「RICHARD JEWELL」2019年アメリカ
            監督:クリント・イーストウッド
            出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ



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