【巻ギュー充棟】ああ月桂冠に涙

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     大坂なおみの行動が広がりを見せていて、彼女は21世紀のジャッキー・ロビンソンやトミー・スミスになっていくのではないかという印象もあり、今こそ「スゴイニッポン!」「同じ日本人として誇りに思う」の出番ではないかと思うが当然そうはならない(と思ったら、一部そういうことを言っている人もいた模様)。人類全体への問題提起なので民族性に回帰させても意味がないのだが、内弁慶の弱点をよく表しているようにも思う。

     その文脈もあり、さらに中公新書で評伝が出たこともあり、気になって読んだのが本書である。ベルリン五輪男子マラソン金メダリスト、「日本の長距離界」初の金メダリストでもあるランナーの自伝である。

     

     ソウル五輪の前に売れ行きを見込んで出版したのだろう。盧泰愚(当時組織委員長)の序文が寄せられていて、なかなか香ばしい作りになっている。資料価値以上のことをあまり期待せず読み始めたが、ライターの腕がいいのだろう、戦前の半島の様子が活写されており、ベルリン五輪での当人の戦いぶりなんかも手に汗握る筆致で、ノンフィクションとしても読ませる本だった。

     

     驚いたことのひとつは、まず孫氏の見切りの早さである。陸上に打ち込むなんて選択肢が取れそうもない貧困家庭に生まれ育ちながら、才能を見込んだ周囲の支援で人生が転がっていくのであるが、練習に専念できないと見るや、さっさとそこを辞して別の場所を探し求める。不満足でもそこで耐える、という発想は希薄で、悪くいえば実に自分勝手なのだが、そうでないと金メダルなど取れんのかもしれん。
     もうひとつ驚いたのは、ヒトラーと握手をしている点。ヒトラーはジェシー・オーエンスのような黒人メダリストには目もくれなかったのだが、アジア人とは握手したんだな。日独が接近していたから?

     

     孫氏はそのオーエンスや、五輪の記録映画を撮ったことで知られるレニ・リーフェンシュタールとも親交を深めており、やはり金メダリストの地位ってすごいんだなと思わされる。そういうわけで、「栄光のランナー」のスピンオフ作品のようにも読める。

     

     一方、日本国内での地位は低い。当時、日本国内のマラソン大会では孫氏も含めた朝鮮人が上位を占めていた。同じ「日本人」同士、内鮮一体、ともに頑張ろう、などという発想はなく、なるべく半島出身者より本土出身者中心で代表選手を構成しようとセコい画策をしていたようだ。内鮮一体なんて所詮そんなものである。

     

     大日本帝国は、朝鮮半島や台湾を国土としていた分、民族構成の多様さは今のアメリカっぽいところがある。アメリカにおける黒人は「こちらを殺してくるかもしれないアブナイやつ」とみなされ抑圧されるわけだが、当時の日本における朝鮮人は「独立を言い出しかねないアブナイやつ」といったところで、栄冠に輝いた後の孫氏は独立のシンボルになりかねないとして警察にしつこくマークされることになる。しつこく職質されるアメリカの黒人とダブって見えてしまうが、「嫌われる朝青龍」とも少し重なって見えた。

     

     BLMやそれに続く大坂を敵視する日本人がなぜ少なからずいるのか、源流をたどるとこの辺りに行きつくのではないかという気もしてくる。当時、孫氏の優勝に歓喜した日本人はそれなりにいたと思うが、彼の民族アイデンティティの葛藤に想像が及んだ人はどれくらいいたのだろう。大坂の場合、彼女が優勝したことによって、これまで彼女の棄権やBLMについて、他人事のようにしか語れていなかった報道の中にも、ようやく「自分たちの中の差別にも目を向けないといかんのでは」という意見が出始めている。その点では「同じ日本人として誇りに思う」ならぬ「あなたが日本国籍を選んでよかった」とは思う。でも日本社会が孫基禎を改めてとらえなおす、いわばそういうところから始めないといけないんじゃないのかなあ。源流はここなもんで。

     

     本書は孫氏の幼少期から始まっていている。彼の故郷は新義州、つまり北朝鮮側の町である。この時点で戦後の苦難が予想されるわけで、さて孫家はどうなるんだろうと思いながら読んだのだけど、戦後の分断については一応触れられてはいるものの、親族や知人がどうなったのかの説明がほとんどない。いかにも不自然な記述に首を傾げ、ああそうかと序文を寄せた盧泰愚の三文字を見返したのだった。まるで伏線じゃねえか。

     

     ソウル五輪に向かっていた当時の韓国がどういう社会だったかは、「1987」にしっかりと登場する。ああいう時代であれば、こういう記述にならざるを得なかったんだろうな。戦前は日本の警察に口を封じられ、戦後独立しても、やっぱりすべてを語ることはできなかったわけだ(そのあたり、中公新書の評伝を読むと書いているんだろうか。そっちを読んでからまとめて感想を書こうとしたが、とても手が回らなさそうなので本書だけで感想を書いた)。それを考えると、「怖れがあった」といいつつも大坂がしっかりと意思表示をできたことは、それだけでも大変によいことだと思えてしまう。

     

    「ああ月桂冠に涙―孫基禎自伝」講談社1985年


    【やっつけ映画評】南京!南京!

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       歴史関連の本はよく読むが、歴史小説はほとんど読まない。最近では小説にする意味はどこにあるのだろうとすら考えてしまうようになった。ある人物がなぜそのように行動したのか、心理描写や場面として示されるより、当人の立場や時代背景といった事実分析の方が面白く感じてしまう。簡単にいうと、小説はまどろっこしく感じてしまうことが多い。

       映画や大河ドラマのような映像作品になると話は別だ。映像の再現力に寄るところが大きいのだろうと思うが、もしかすると映像の方が小説よりも描き方が多様になっているのではないかとも思う。歴史小説をそんなに読んでいるわけではないのでただの偏見の可能性もある。少なくともここ数年、たまたま手に取った小説から受けた印象でいえば、いまだに「昔の大河ドラマ」のような文法で描かれているというのか、古臭さのようなものを感じることが多かった。

       

       タイトルがダサいが、そのまんま南京事件を描いた作品で、かなり面白かった。映画として制作することの意義がよく練られている。そんなことを思った。

       

       戦争を題材にした映画は多い。映画向きだからだろう。森とか砂漠とか都市とかいろんな風景の中をたくさんの人間が入り乱れ、文字通り生死が交錯しと、景色としても場面としても自動的に変化に富むことになりやすい。半沢さんのように、油断すると会議室で立ったり座ったりして喋ってる場面だらけになるビジネスものとは、ビジュアル面での前提がまるで異なる。

       

       さらに、命がむき出しでやり取りされる分、最初からドラマチックでありつつ、テーマがテーマだけに、ヒロイックさとかロマンスとか、わかりやすい娯楽方面に流れることには慎重になる。安易な描き方が許されない難しさが、作り手冥利には尽きるといえる。アメリカでは、ベトナム戦争やイラク戦争、第二次世界大戦、第一次世界大戦、今現在もこれらを題材に新作が制作されている。前者2つはアメリカが悪玉、後者2つはどちらかといえば善玉側、無論傑作駄作色々だが、色んな切口で積極的に作られている。

       

       日本だと、古い戦争映画は結構多いが、新しいものになると数はかなり限られる。金のかかるテーマだからという財布の事情もあろうが、今更古い話を持ち出して、それでも新鮮に描く方法が思い浮かばないという視点の痩せ細りもあるはずだ。本作が動画配信でしか見れない現状では、豊かな視点を持てるはずもない。せいぜい季節の風物詩がごとく、夏になると戦争モノのドラマが作られる程度。ワンパターンにならないような工夫は一応見れるが、映画とドラマと併せても「この世界の片隅に」がトップランナーなのが現状なのは寂しい限りだ。

       一方、本作の制作国である中国はさすが金はあるようで、陥落した南京のセットも、エキストラの数もかなりのものだ。日本兵を演じた俳優たちに著名な人は特に見当たらないが、こんな大がかりな作品に出演できるのは役者としてはありがたい。無名なら尚更だろう。こういう作品が外国で作られ、ネット配信でしか見れないというのは、凋落と原因がセットのようで象徴的に見えて仕方がない。ついでに、首相の辞任を海外メディアの方が先に報じていたこととも重なって見えてしまった。東ドイツ化が進んでいる。とりあえず、「一人っ子の国」と合わせ、元を取ったような気がしてきた。

       

       本作のコメント欄には、予想通り、あれがおかしいこれは捏造だとか熱心に書き連ねて★1をつけている感想が並んでいる。わざわざ本作を見た上で書いているので、この手のことでよくいる「見ずに酷評するバカ」とは異なる。一定以上の映画好きだろう。「面白くなかった」というのなら、それは好き好きなので自由だ。作品の出来自体を評価しつつも猯鮖棒鎰瓩鮖呂瓩討い襪里蓮映画の感想を党派性が上回っている点、なかなか深刻だと思う。

       

       他方で本作が、制作国の中国でも非難に晒されているのが面白い。日本軍に同情的だというような非難である。そう受け取る人がいてもやむを得なさそうな描き方ではあるが、そういう意見が大勢だと、これはこれで党派性が先を行っていると思う。
       いい/悪いとか、正しい/間違っているとかの二元論では回収できない部分をいかに描いていくかが、昔っから文学が追求してきたことの1つで、それは映画においても同じ。本作は政治的にデリケートなテーマに果敢に挑み、いかに劇映画として成立させるかという監督の苦労や心意気が垣間見えて、誠実ないい作品だと思った。


       それは例えば、序盤に登場するいかにも主人公っぽい男前の中国人がかなりあっさり殺されてしまうことだったり、中国人に対していくらでも傲慢で残虐な態度が取れる日本軍の伊田が、部隊内では兄貴肌のいい上官といういかにもあり得そうな二面性の描き方が実に自然だったり、慰安所の女性たちが、ぞっとするような空虚な目をするところであったり、日本軍に怯える南京市民のモブシーンが不謹慎にも妙に美しく見えてしまったりと、丁寧に考えられた印象に残るシーンによく現れている。

       

       本作には、これといったストーリーがない。虐殺シーンは割と序盤に用意されているのだが、なんであんなにたくさん殺されないといけないのか、これといった説明的要素はない。なんか知らんけどそうなっているという描き方だ。主役級の登場人物は何人かいるが、特に誰が話を転がしているというわけでもなく、単にその場その場でそれぞれが必死な様子が綴られるだけである。それでもぐいぐいと引き込まれたから制作陣の力量は大したものだ。このような描き方は、劇映画ならではかもれしれない。ドキュメンタリー風味ではあるが、この第三者視点的描き方は、ドキュメンタリーだと無責任な印象を受けそうな気がする。


       しかし、何で本作はモノクロなのだろう。モノクロしかなかった時代だから、本当っぽくなるようでありつつ、モノクロは話を過去に定着させるところはある。古いフィオルムをカラー化すると、途端に現代との地続き感が出るが、ちょうどそれの逆になるからだ。その点、保険にしたといえるかもしれない。ここまで金かけてセット組んだのだから、単純にもったいない話なのではとも思った。


      2009年中国
      監督:陸川
      出演:劉、高圓圓、中泉英雄


      【やっつけ映画評】一人っ子の国

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         アマゾンプライムの解約が話題になっていて、へえと眺めていたが、俺もいつの間にか加入していたのだった。知らないうちにプライム会員になっている件はよくあることのようで、映画好きの知人に聞いたらやはりそうだと言っていた。

         予想はしていたが、この解約運動について的外れの記事が散見した。そもそも問題の三浦瑠璃を有識者として新聞が使っているのだから矢が明後日に飛んでいくのは当たり前なのだった。

         

         そもそも覚えがなかった(正確にいうと、「身に覚えのない人」が加入してしまう典型的ケースに当てはまるクリックをした記憶は朧気ながらある)ところに加えてこの騒動なので、さっさと解約しようと思ったのだが、そういえばアマゾンプライムには、町山智浩が紹介していて何か気になったドキュメンタリーがあったようなと思い出した。とりあえずはそれを見てから、とセコセコ「ドキュメンタリー映画」のカテゴリを開いた。お、あったあった。

         

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         先日、仕事で某私大に行った。こちらが大学の教室に赴き学生はオンラインで受講するという「だったら俺も自宅でいいんじゃないか」というスタイルだが、まあ通信トラブルとか電気代とか、こちらが何も負わなくていいという点での判断だろう。各大学、ついでに専門学校も、俺が知っている現場の範囲内でも各位苦労しながら試行錯誤、それぞれ努力しているのはよくわかる。萩生田の仕事はせめて黙ってろというところだと出入り業者の俺ですら思う。


         話が逸れた。その大学ではあちこちに「フィジカルディスタンスを守りましょう」と貼り紙をしていた。「ソーシャルディスタンス」の方が広く使われているが、この言葉が英語圏に現れて一月後くらいに、いやこれソーシャルじゃなくてフィジカルだろとの指摘もあり、2つが並立した。試しに検索すると、現在どちらの言葉も使われているようだが、すくなくともニュース検索だと前者の件数の方が後者の3倍近くヒットする。

         

         英語の場合、どういうニュアンスを持つのか正確なところはわからない。直訳した場合の「社会的距離」「物理的距離」だったら日本語の意味合いにおいては後者の方が実態を捉えて正確だろう。この大学の場合、その意味の正確性を求めて、あえて馴染みの薄い表現を選択したのではないかと推測する。いかにも学問の府の発想といえばそうだが、残念なことに当該大学は英語が苦手な学生が多いので、どっちの単語もよく知らないというケースは珍しくないのだった。

         

         ラジオを聞いていると、コロナの流行からこの方、カタカナの新語があふれてついていけないと嘆く(主に年寄りからの)声が多い。日本国内だけでなく、全世界同時多発的に未知のウイルスに悩まされるから、急ピッチで新語が登場するし、そのほとんどは英語になる。必然、日本語においてはカタカナだらけになる。ついでに漢字で新語を生み出す素養がそもそも失われているので、「東京アラート」のように国産新語もカタカナに頼りがちになる。

         

         こうして人によっては「ついていけん」となるのだが、問題はカタカナがあふれていることより、用語をきちんと点検することだと思う。それは正確性を期すということももちろんのこと、プロパガンダ耐性という意味でも重要だと思う。「東京アラート」にしろ「ウィズコロナ」にしろ、典型的なプロパガンダだが、それどういう意味?と問う姿勢自体が、政治的思惑への警戒につながるのではないかと思う。

         

         タイトル通り一人っ子政策を取材している。一人っ子政策の苛烈さについては、多少は知っているつもりでいたが、全然無知だったと本作を見て痛感した。生まれた子供が男子じゃないと犬猫のように捨ててしまっていた実態は、仄聞したことはあるが本当だった、それも想像以上、という点ぞっとするし、背景にある男尊女卑の価値観も、これは日本社会でもお馴染みとはいえ、そこに子供の選別という事実が加わると醜悪にすら見えてきてこちらもぞっとした。監督は女性だが、出身地が田舎だったので、5年の間を空ければ2人目をこさえてよかった規則によって捨てられずに済んだ。その後弟が生まれるのだが、もしまた女児だったら捨てられる運命にあったらしく、その事実を反芻する弟氏の困惑の表情がとても印象的だった。

         

         


        補遺、42の日の訃報

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           下の記事を投稿して翌日、本日のベースボール・リーグ・メジャーはジャッキーロビンソンデーで、球辞苑・秋山翔吾も背番号42をつけて守備でしか見せ場がなかった。通常であれば、ジャッキー・ロビンソンがデビューした4/15に行われるのだが、今季は周知の事情で本日になったようなのだが、そんな日にチャドウィック・ボーズマンの訃報が届いてびっくりした。がん闘病中だったそうで、若いのに。


           言わずと知れた「42〜世界を変えた男」でジャッキー・ロビンソンを演じた俳優である。個人的にもちょうど昨日からの話の流れ、なんて日だ。スポーツ新聞で本日という日のこの巡り合わせについて触れていたのはニッカンだけだった。あとは零点だな。

           

           ところでニッカンといえば、先日、大坂なおみの棄権についての屁みたいなコラムが一部で話題になっていた。本ブログにおける「屁みたいな記事」の文言使用は3回目。駄目典型例のサンプル提供としてはありがとう。記名コラムを書ける立場としては首だ。

           

           「国内で肌の色で差別を受けた経験はない」「大坂が味わっているだろう深い悲しみや憤り、絶望感を想像できても、実感しているとは、とても言えない」という前置きをした上で、「ない知恵を絞って考えてみた」と称する結果は、何も考えていないという点、先日紹介した佐々木俊尚の映画評と同じである。「わからない」という前提を示しつつ否定から入るのは、自分からは一歩も動こうとしていない時点で、考察ゼロ。

           

           そのくせ、その考察ゼロの己を高みの第三者に置いているというわけではないので、その点佐々木俊尚の文章よりマシといえそうだが、自分の責任で自身の立場からものをいっているわけでは必ずしもないことは、特にまとめの辺りに濃厚に漂っている。意見を書く前にまず調べろって言ってんのに意見だけ書いてきて、それもその「意見」なるものも、真剣に考えたのではちっともなさそうなことをお前誰やねん的な神の視点ポジションで書いてくる大学1年生と同じである。

           

           この筆者の吉松忠弘テニス担当記者は、自身を「典型的な日本人のテニス担当おじさん記者」と称しているのだが、「典型的な日本人の」というところがまず象徴的だ。太平洋の向こうのブラック&ホワイトの話は縁遠過ぎておじさんよくわらないという典型的なしぐさだろう。あんたテニス見てるんじゃないのか、というところだが、球の行方しか見たことがないからだろう。

           「記事は試合だけじゃなくて人間を書くんだ」と若い衆を指導したことくらいあるかもしれないが、それでも目を配ったことがあるのは選手個人の汗どまりに違いない。MLBがBLMを掲げる社会性を自覚しているというような、社会の部分は見ようともしたことがないんだろうな。

           

           背番号42の男が、「世界を変えた」かどうかはわからない。少なくとも野球界は変えた。彼がもたらした米野球界の門戸開放は、何も米国内の黒人男性プレイヤーだけに対してだけではない。「ベーブルースを三振に仕留めた」でおなじみの沢村栄治は、詐欺(というより悪戯レベル)でメジャー球団の契約書にサインさせられたことがあるように、その実力は米球界も一目置くところだったが、仮にいかに彼が相応の実力を持っていたとしても米球界には入れなかった。ミスター42がまだいない当時の米球界は白人のクラブだったから、肌の色が違う時点で入れない。野球大好き典型的日本人おじさんには大変に関係のある話なのである。

           

           とはいえ、42が取った戦法(正確には球団オーナーから入団時に言い渡された戦法)は、吉松氏が書くところと相通じるやり方だった。一切言い返さないやり返さない、ましてやボイコットなどしない。それを象徴する劇中の台詞が「好かれなくてもいい、尊敬されなくてもいい、だけど自分には負けたくない」だ。

           大変に恰好いいのであるが、この方法では結局社会全体を変えるにまでは至らなかった。このため、後進に現れたのは言い返す男・拒否する男のモハメド・アリで、ロビンソンはアリに批判的だった。その点、ロビンソンは時代遅れになってしまったともいえるが、少なくとも彼がドジャースと契約したときは、「自分との戦い」にするしか戦法はなかった。なにせ一人ぼっちだから。

           彼を象徴する「言い返さない勇気」は、孤独な戦いを強いられた苦しみの結果である。外野のフリした人間が押し付けていいものではない。

           

           大坂なおみが棄権し、大会がそれに合わせて延期となり、MLBはBLMの洒落たロゴを作って全員が42をつけている。そういう変化を積み重ねてきた結構社会的な場所で、球は右に左に飛んでるんだよ。

           

           「ブラックパンサー」で何だか甘っちょろい王子を演じている俳優が、「42」の主演と同じ人とはしばらく気づかなかった。それだけ演じ分けの出来ているいい俳優ということだろうが、「42」の鬼気迫り勇気溢れる演技は見ものである。惜しい人だ。哀悼。

           


           


          邦題の洗浄問題(仮)について

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             何度か断片的に書いている話を改めてまとまった形で書いておこうと考えていたところ、人に話す機会があった。妙に興味を持たれたので、では早速書くことにした。これまで仮に「洗浄」と書いてきたが、いまだ適当な比喩表現が思い浮かばないまま。とりあえずは「映画邦題の洗浄について」としておこう。

             外国映画の邦題がダサいという例は枚挙にいとまがないと思うが、それとは似ているものの異なる話である。ここまず重要。

             

             本ブログで自分が書いたものを振り返ると、この問題に最初に言及したのは、「ドリーム」についてだった。本作の邦題は、添えられた副題が作品内容と全く関係がないので世間的にも大いに非難を浴びて副題部分が削除された。でも俺がひっかかったのはむしろ残ったメインタイトルの方だ。
             1960年前後の米NASAを舞台に、黒人女性3人組を主役とした物語である。コンピューターがまだなく、日々の計算業務を人力でやっていた時代、彼女たちはその計算係として雇われている。極めて優秀ながら性別や肌の色で不当に扱われており、その状況に抗っていく姿が描かれている。
             原題は「Hidden Figures」で、「隠された数字」「隠された人」といった二重の意味を載せていると推察される。彼女たちのうちの1人が、白人男性同僚から重要な数字を隠される場面があり、さらに人間計算機としてしか扱われない彼女たちはまさに隠された人々といえる。いや、この場合は隠されたというより「見えてない」くらいの表現の方が正確だ。数字を隠してくる白人同僚はともかく、本作に登場する人々は、総じて悪意がないかあっても自覚していない。つまり積極的に隠してくる主体は存在せず、彼女たちの苦境は他の登場人物たちには(見えてるはずなのに)見えていない。「シックスセンス」状態に近いが、当然本作は死人や霊能者の話ではない。

             というわけで本作は「ドリーム」、夢の話ではない。確かに彼女たちが逆境をはねのけ、成果をあげていく場面だけを見れば、夢に向かって前に突き進んでいく物語といえるのだが、ここで問われているのはその前提である。「ドリーム」という邦題は、その最重要ポイントである前提部分を見ていない。それは単に読解力がないという話にとどまらず、Hiddenの片棒を担ぐ行為になる。なにせ見ていない、もしくは見えていないわけだからね。

             

            「栄光のランナー/1936ベルリン」

             

             これは「ドリーム」の前に見た作品だ。当時の評では邦題のダサさと原題の掛詞(RACE=競走/人種)が消えたことしか指摘できていない。人種差別とかけて、100メートル走と解く、そのこころはどちらもだいたい重病/十秒です、という当時書いたなぞかけは我ながらよく出来ていたと思うので再録。
             本作の主人公は1936年のベルリン五輪で金メダルを4つ獲得する陸上選手なので、「栄光のランナー」であることは間違いない。ただしその「栄光」は手放しで喜べるものなのかを本作は問うている。
             このベルリン五輪は、ナチスが主導していたため、公然とユダヤ人差別をする連中に五輪を主催する資格はあるのかと問題視されていた。米国内でもボイコットすべしの論調が高まったのだが、一方で差別はドイツ国内だけにあるのではないぞと米国の黒人たちは自国を批判している。
             このような板挟みの中、主人公は出場するのだが、開催のために宥和のポーズを取ったドイツでは、当時米国内には存在した人種別トイレも人種別レストランもなく実に快適だという矛盾と出くわすことになる。そして主人公の活躍で最大の差別者であるヒトラーを見返すという胸のすくような展開がある一方で、もうひとつの差別はアメリカ選手団の中で進行し、主人公はそれに加担させられることになる。さらに「栄光」を手にして帰国すると、相変わらず自国のレストランでは入店を断られる。本作の邦題は、これら栄光の背後にある矛盾を反映していない。
             単に作品内容と題がズレているだけなら、読解力のなさに「ダセーなおい」と眉をひそめるだけだが、差別という重い作品主題をすっ飛ばして「逆境をはねのけ栄光」という口当たりのよい部分だけでタイトルを仕上げていく、その視座がどうも気色悪い。洗浄という比喩がまず浮かんだのはこのような構造による。


            「それでも夜は明ける」

             

             原題「12 Years Slave」のまま、12年間奴隷になる男の話だ。まだ奴隷制が存在した南北戦争前のアメリカが舞台で、主人公は奴隷制のない北部の自由州で暮らす市民だったが、騙されて拉致され、南部の農園主のもとで奴隷として働く羽目になってしまう。
             泥酔して目が覚めたら囚われの身になっていたという経緯はまさに、悪夢なら醒めてくれと言いたくなる絶望的な状況だが、残酷なことに現実である。その点「それでも夜は明けてしまう」という意味なら内容に合った邦題といえなくもない。しかし、こんな絶望的な状況でも明日という希望の日は訪れるのだ、というような意味だとすればどうだろう。
             確かに主人公はこの絶望的な状況でも絶対にもとの家に帰るんだという意志を保ち続けている。その点、希望を持つことの重要性を訴えている作品ともとれるが、そのような希望を抱ける主人公はレアケースであることが作中では示されている。もともと南部の奴隷として生まれた人たちは、いわば「それでも明日は奴隷」なのである。希望を持ったところで解決のしようはないし、そもそも多くの奴隷は希望を抱くという発想そのものが希薄である。最初から奪われた状態で生まれ育っているのだから当たり前だ。このような残酷な歴史を主題とした作品タイトルに、明日は来るよとポップソングのようなタイトルは能天気すぎる。


             脱線するが、似たようなタイトルの坂本九の歌があったと思い出して改めて歌詞を見たら、イメージと違う内容だった。明日に希望を抱いているというよりは、大事な問題を先送りしている臆病な坊やの自虐といった印象。その後ヒットしたウルフルズのバージョンでは中年のおっさんの「なあにまだまだ俺も」というような「明日=希望」を歌った内容になっている。wikiを見たら、作詞者は電通出の広告屋だった。本稿の主題ととこか根底でつながっているような気がする。

             邦題の話に戻る。黒人差別を扱った作品だけに見られる現象ではない。

             

            「ビリーブ 未来への大逆転」

             

             法曹界に女性差別が公然とまかり通った時代に、女性の権利のために闘う法学者を描いている。「ビリーブ」というカタカナ語は、「ドリーム」「明日」と同じような意味合いで使用されることが多く、その場合、すでに挙げたケース同様のズレた選択になる。どんな困難があっても自分を信じて明日を信じて、という側面も見い出せないわけではないが、根本的にそのような話ではない。「ビリーブ」を「信念」と解釈すれば、一応は強い信念を持った人の話なので合致割合は高くなるが、これもやはり「そういう話」ではないという点、本質部分をハズしている。
             本作の主人公は、最初にこういう主張をし出した人というわけではない。クライマックスの弁論で彼女自身が先達の歴史を語っている通り、これまでも多くの人が主張してきたことを代弁しているだけである。このため、自身の信念というより、事実がそこにあることを指摘しているという方が近い(まあ男女平等というのは科学でいうところの事実というよりは思想だろうから、その点では「信念」に帰結するのかもしれないが、一応それを事実として設定することで成立しているのが近代国家なので)。


            「パブリック 図書館の奇跡」

             

             寒波の夜に、行き場のないホームレスが図書館を占拠してシェルター代わりに居座る。その様子を通じて、公共とは何かを問いかけるような作品で、原題「The Public」をカタカナにした上で副題を添えるよくあるパターンの邦題だ。必然「パブリック」自体はハズしていないが、これは「奇跡」じゃねーだろという点、副題はズレている。
             「奇跡」とつけたのはこの場合、ホームレスが立てこもる事態を「ちょっとイイ話」くらいのほんわかハートウォーミングとして捉えているからだろう。だが本作のような出来事が起きたのは、やむにやまれぬ事情が理由だから奇跡というよりむしろ必然である。奇跡の部分はどちらかというと、主人公のアパートの大家代理を務めるがさつな美女が割と脈絡なくホレてくる点だろう。あの展開は、寂しんぼのおっさんにしてみると実にハートウォーミングな奇跡であるが、まったくもって作品の本題ではない。
             本作の場合、ラストのオチによって、タイトルが問いかける「パブリック」についてウヤムヤになってしまった感はある。このためこのような邦題を呼び寄せてしまったところはあるだろうが、「奇跡」とつけてはばからないのはあまりに無邪気でナイーブだ。わが国が、一億総トワネット社会なら「奇跡」として消費するのもやむを得ないが、実際のところは本作が描くところと何が違うというのか。むしろ日本の場合は図書館職員自体が要セーフティネットになっているのでより深刻だ。


            「テルアビブ・オン・ファイア」

             

             これは原題をカタカナにしただけなので邦題の問題ではない。たまたまチラシを見たので知ったのだが、添えられたキャッチコピーが酷い。「人気ドラマの結末をめぐり、民族の対立!?」「紛争なし!/爆発なし!/笑いあり!」。
             1つめは「!?」がすべてだ。「!」だけならまだよかった。民族は対立している。それを前提としている作品だから「?」が介在する余地はない。いや「民族の対立」という理解はパレスチナの実情にあてはめれば単純化し過ぎだ、という現場からの指摘があってそれを踏まえたと仮定するなら「?」はあり得るかもしれないが、当然そんな専門性豊かな厳密な視点があるはずはない。
             「?」を添えた発想は、2つめのコピーによく現れている。パレスチナで起きていることについては興味がないということだ。正確には、チラシを作った側が、パレスチナの深刻な部分を切り離さないと売れないと思ったということだろうが、広告屋自身もそこに興味があるかといえば、かなりあやしいと思う。
             本作の「笑い」、ひいては本作自体民族対立がなければ成立しない、というか、そもそも作る動機がない。別の言い方をすると、紛争や爆発が出てこなくても作中には民族対立がある。そこを切り離して「笑い」「笑劇のラスト」を強調することが、宣伝をするには現実的な判断だということなのだろうが、そう考える思考回路における現実とはいったいどのようなものなのだろう。


             いずれの邦題にも共通しているのは、差別なり民族問題なりに対する理解の貧しさだが、それは原因ではなく結果のようにも思う。改めてこれらの邦題を並べて感じるのは、作品で描かれている社会なり構造なりに対するまなざしのなさだ。個人の心持ちやアクションにしか目が向いておらず、社会はせいぜいその個人の奮闘が起きるための前フリでしかない。

             実際には主従が逆で、「テルアビブ〜」の場合、構造そのものは物語にならないから個人に象徴させて描いているというのが本当のところだと思うし、「それでも〜」も同様だ。「栄光〜」「ビリーブ」は名のある個人の伝記の側面が強いから、主従が逆は言い過ぎにしても、両輪であるのは間違いない。そこを切り離して個人のカッコよさだけにしか目がいかないのは、思考回路に社会が抜け落ちている分、感染症や災害に対して自助努力しか思いつかない発想とかなり近い距離にある。

             

             さらにもう一つマズい部分は、わが身に当てはめられない感覚である。黒人差別、女性差別、ホームレス、民族対立、全部がまるで遠い異世界の問題のようにとらえる感覚がぷんぷんと漂っている。よそへの蔑視に直結する発想ねこれ。

             

             さて一方で、ただのダサい邦題としては、このブログで取り上げたものでいうと「恋人までの距離(ディスタンス)」「恋はデジャ・ブ」がある。こちらはダサいのだが、作品内容からはそれほどハズれていない。「恋」という個人的なことが主題だからというのが大きいのではないか(ところで前者の俺の評を読み直したが、いやはや酷い内容で、俺も俺でダサかった)。

             

             ここまで書いて、新装版の「日本のいちばん長い日」で書いたことを思い出した。わざわざ焼き直しを作るにあたって、元作にないものを持ち出そうとした結果が「家族」なのはなぜだろうと問いを立てた割には、その答えを書かないまま終わっていた。いまいちわからなかったからだが、国家が無条件降伏を受諾するという思い切り社会的な話を前に、作り手側が考えられた「社会」が家族しかなかったということではないのだろうか(それも登場人物の挿絵程度にしか登場しないので厳密には「家族」ですらない気もする。戦後70年目の着地点がこれというのも…)。

             

             重いテーマを扱った作品を前に、その重い部分をしれっと捨象してしまう感覚、何だったらそれが商業的に正しいとしてしまう感覚は、今の日本社会を考える上でのかなり核心部分に近い一つのような気がして、長々と書いた。邦題はそのひとつの現れに過ぎず、問題は今の日本のありようなんだが、こういうのは目についたところから1つ1つ考え直していくしかない。まあ俺がこれらの作品を見れるのは、字幕つけて配給してくれる会社があるからで、そこは感謝するにしても、配給・宣伝する側の責任は見直してしかるべきではないのかね。
             そしてここまで書いてもまだいい比喩表現が思いつかない。



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