【やっつけ映画評】テルアビブ・オン・ファイア

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     出張先での仕事が終わるのが夕方、せっかくなので夜に何かしたい=通常なら現地の知人と酒、のところ、地元の渋い映画館で、ちょうどいい時刻に、関西では上映していない映画をやっている。それもこのイカしたタイトル。これはもう「見ろ」と天から命じられているに違いない。ついでにこの名演小劇場は、帰りの電車を途中下車するだけでよかったから好都合が山盛りである。


     演劇小屋みたいな名前だが、実際元はそうだったらしい。wikiの説明にはなかなか複雑な歴史が書いてあった。俺も一応演劇界の周辺者だが、へえかつてはこんな興行の仕組みだったのか。カラバッジョといいメキシコ・ルネサンスといい、この日は朝から知ることが多いな。味噌の国だからシルと縁が深い。

     

     映写室を出入りしているおっさんが、デニムシャツに長髪白髪にハチマキ姿で、何というかこれ以上ない完璧ないでたちである。受付には若干尖った雰囲気の若い女性、待合コーナーには、お前ナナゲイから来たやろという雰囲気のおっさん一人。知らん映画のポスターだらけの壁。喫煙所には巨大なドーナツの型抜きみたいな形をした、これはもう生産してないんじゃないかという形状の昭和のスタンド型灰皿。最高の空間ではないかね。館内は、コンクリ壁を黒塗りした小劇場スタイルで、いかにも劇団ころがる石が出演しそうな芝居小屋風だった。

     


     こうして素晴らしい道草の条件が整いまくっている中見た本作は、まったくもって「惜しい」と言わざるを得ない内容だった。
     イスラエル・パレスチナの対立をテーマにした映画は、いくらでもあってよさそうなところ、少なくとも日本で見れるものはあまり多くはない。このためテーマだけでかなり興味が湧く上、着想も極めて面白い。


     第三次中東戦争をパレスチナ視点で描いたテレビドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」の制作現場が舞台である。スパイものでありつつメインはラブロマンスで、日本でいう昼メロの類と考えてよさそうだ。

     主人公のサラームは、親戚のコネでこの現場にスタッフの末端として参加しているいかにも要領の悪そうな男だ。このサラームが、事情あって急遽脚本チームの一員に抜擢され、苦労しながらドラマの続きを描いていくサマが、本作の物語の根幹となっている。

     その過程で大きな役割を果たすことになるのが、検問所の責任者にして軍人のアッシだ。イスラエルとパレスチナ自治区の境界は厳重に管理されていて、検問所を通らなければならない。ドキュメンタリーやノンフィクションによると、この検問所のイスラエル軍はかなり高圧的で陰湿な印象を受けるのであるが(軍人or検問なんてそんなものだが)、アッシも概ね似た具合のいわば悪役である。検問に引っかかったサラームを尋問するうち、彼が「妻のドハマリしているドラマの脚本家」と知り、妻にいい顔をしたい&反ユダヤの内容が許せないという個人的・政治的思惑から脚本に口を出そうとする。
     つまり、パレスチナ側に立つ制作陣の一員でありつつ、イスラエル側の人間に干渉される中で、両者が納得する展開をひねり出していく難題をサラームは背負うことになるわけだ。すげえ面白い。はずなんだけど、この着想を上手く活かせているとは言い難く、何よりサラームのキャラ造形が全く好きになれない相当にイラつくやつだったので、特に前半は多少なりともウンザリしながら見た。チラシの煽り文句通り、ラストはなかなか見事だったから帳尻は合ったように思うが。

     

     あげつらっても仕方がないので以下、考えたことをダラダラと。
     イスラエルの軍人が「反ユダヤのドラマだ!」と嫌うような、パレスチナ側に寄ったドラマがイスラエルで堂々と放映されているのはなかなか驚きである。ラブロマンスなので視聴者の中心は女性なのだが、それらイスラエル側の視聴者がどう感じているかというと、政治の部分は「どうでもいい」ということらしい。沸騰するアッシをよそに、彼の妻はサスペンスの部分で手に汗握り、ロマンスの部分で「キャー」と喜悦し、この辺は日本の昼メロファンと変わりない。彼女によると「だってドラマじゃない」ということで、もしかすると俺の感覚の方がおかしいのかも。

     「いだてん」で関東大震災の朝鮮人虐殺とか、戦後間もないころのフィリピンの強烈な反日感情とかを描くだけで「よくぞ踏み込んだ!」と評価されるのが今の日本社会だから、ナイーブ過ぎる。その感覚に俺も染まってるから、アッシの妻たちが不思議に見えるのかしら。

     

     一方でパレスチナ側では事情が違うから、この分析は的外れかもしれない。アッシの親イスラエル的要求を脚本に盛り込んだ展開に反発が起きる。新聞に批判的な記事が載り、スポンサーが難色を示し出す。この辺から察するのは、両者のパワーバランスがこの反応の違いを生み出しているのではなかろうかという仮説だ。つまり優位にあるイスラエル側では、対立が日常風景として固定化しすぎているから「そういうもの」としていちいち知覚しない、一方何かと劣勢のパレスチナ側では、ドラマの持つ政治側面に俄然こだわる。

     

     そしてパレスチナの側も反イスラエルの一枚板ではないことが描かれる。アッシのゴリ押しを受け、融和的なラスト、つまりパレスチナ側にすれば親イスラエル的なラストを提案するサラームに、制作陣のチーフたる爺様(サラームをコネ入社させた親戚)は当然反発するのであるが、サラームはサラームで、そういう二択の発想はウンザリだ!を吐き捨てる。下の世代にはまた別の捉え方があるということだ(ただし、中盤まではノンポリ風のぼさっとしたキャラとして描かれている上、すぐその場しのぎの出まかせを言う男なので、どこまで真意かわからない。サラームのキャラ造形は単にイラつくだけでなく本作の最大の難点だ)。

     そういうサラーム自身にも、アラブのアイデンティティだったり、かつての歴史への彼なりの怒りなり忌避なりがあったりするから、アッシが求める通りの展開をそのまま書くわけにはいかない。

     

     「音楽に政治を持ち込む是非」の議論に代表される、娯楽(ないしは表現行為)と政治の関係について、政治が絡むとき、それはやむにやまれぬものからの発露である、という真実がここにはある。日本におけるその手の議論がしばしば稚拙なのは、この視点が抜けているからで、「政治を持ち込むな」を主張する連中が持ち込む「政治」が実にしょうもないのも、やむにやまれていないからだ。

     ついでに改めてこのチラシを見ると、「民族の対立⁉」のキャッチが典型的だが、思慮分別の欠如が著しい。社会的な重いテーマを扱った海外の映画を日本の会社が配給する際、映画ちゃんと見たのか?という無理解としばしば遭遇するものであるが、このチラシの場合、コメディ部分に過剰にすがっている点がナイーブすぎて辛い。そりゃあんな稚拙な議論も「一理ある」扱いされるわなあ。

     

     それはともかく、サラームがひねり出した結末は、ドラマの中においては現実の残酷さを示しているものの、本作自体の結末としてはあっけらかんとしたハッピーエンドになっている。救いのないラストと救いのあるラストが同居している。

     

     劇中劇を扱うフィクションは、劇を見ている人々を、我々鑑賞者が見ているという合わせ鏡のような構造を取るわけだが、この構造だからこそ悲劇と喜劇が同居するラストを提示できるわけで、この点は実に見事である。それだけに、もっとうまくできただろうにと恨めしくもあり、まあ現実自体が常に「もっとうまくやれたはず」の繰り返しだと自分を納得させた。

     

     そうして帰りの新幹線の電光ニュースで中村哲の死亡を知り、あんな映画を見た後に!と驚いてしまった。パレスチナとアフガニスタンを同じ括りでとらえている時点で世界地図の認識が相当にあやしいのであるが、対立を乗り越えようと模索する姿勢には共通点はないこともない(自己弁護)。立派過ぎる人につき、真似ること到底能わずであるが、他者を思いやる、くらいのことなら少しくらい誰だって出来るし、今の日本社会、せめてちょっとくらいそうならんといかんよなあ。

     


    イタリア〜メキシコ〜新京〜長久手

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       どこの国だったか、確かヨーロッパだったと思うのだが、とにかくテレビの国際ニュースでインタビューに答えていた男が誰かに似ている。これは誰だろうと思い出せないまま、またもや新大阪駅の喫煙所を訪れ、液晶画面を見て「こいつだった」と答えを見つけた。新幹線に乗るたびこいつを見ている。この富裕層なりすまし野郎が欠かせない体質になっている気がしてきた。


       そうして名古屋に着いた。仕事は昼からだが、せっかくなので早めに行って何かしよう。そう考えたが大したことが思いつかず結局「美術館」という想像力を欠いた選択をしている。名古屋市美の「カラヴァッジョ展」。どうせ大阪にも来るんだが、と自嘲しつつ、一方でとても贅沢だとも思う。田舎だとメジャーどころの美術展は本当に縁がないので母親なんかよく憎々しげに新聞の広告を見てたものだ。それが今日の俺ときたら「どうせ大阪でも開かれるけど名古屋に来たから見ておくか」だから、お前は何トワネットだよって話だ。


       うっかり「メジャーどこ」と書いたが、カラヴァッジョが何者かよくわかっていない。名前は知っているが、ジャコメッティとごっちゃになって収納されていたから「知っている」にはあたらない(菅かよ)。認識度合は「バウハウス」以下だな。

       

       バロック時代の画家だ。思い切り陰影をつけた画風がいかにもバロックであるが、この画家がそれを確立させたという位置づけになる。彼が築いたスタンダードにすっかり慣れた現代人が見るからか、どれもすごく「普通の西洋絵画」に見えて仕方がない。「リュート弾き」のような他とちょっとタッチの違う作品や、盾の凸面に描いたせいで立体的に見える「メデューサ」は楽しめたが、それ以外はどうにも退屈に思えてしまって損をした気分だ。おかげですぐ見終わってしまい、入念にもう一度見直したが昼食時までまだまだ時間がある。

       

       そういえば特別展のチケットで常設展も見れるな。しばしば特別展だけで疲れてしまったスルーされる常設展だが、時間も体力も余っているので階下に。冷やかし半分の気分だったが、ここの常設展はなかなかすごいな。「カラヴァッジョ展」より断然面白かった。

      ディエゴ・リベラ「プロレタリアの団結」


       県出身画家の活動の関係で、エコール・ド・パリの画家の作品を所蔵しており、モジリアーニ、シャガール、ローランサン、ユトリロ、そしてフジタとそろい踏み。もうひとつはメキシコ・ルネサンスで、こちらは全く知らなかったので勉強になった。メキシコ革命による民族意識や社会主義の盛り上がりと、ヨーロッパで興隆していたキュビズムやフォービスムが混ざってなかなかに力強い作品が生まれていったとか。写真はミュージアムショップで売っていた絵葉書。コミュニスト!というモチーフながら、社会主義国のあの冗談のような綺麗なタッチとは異なる泥くさい挑発的な作風。いい絵じゃん。

       これらに影響された県出身の画家の作品もなかなか面白かった。戦前の西洋絵画は生活史的な面白さもある。

       

       それで気分よく昼飯時を迎え、駅までの道すがらにあったベトコンラーメンを食した。名古屋の「新京」と、岐阜系の「香楽」と、同じ「ベトコンラーメン」でも隣県でそれぞれ別の店がある。岐阜出身の友人Nは熱烈に「香楽」を支持しているが、名古屋なので必然「新京」に入店した。
       それにしても「ベトコン」に「新京」とは、まず中国とベトナムが混ぜこぜになっている時点で、オリエンタリズムのような認識が漂う上、不穏な歴史用語でもある。「ビキニ」みたいに元の意味が風化して響きだけが残ったみたいなものか。そう思ったが、店内に掲示してあったあいさつ文には「ベストコンディション」の略とある。wikiを見ると、途中でそのように定義したとの由。「新京」は、ある世代までにとっては素朴なノスタルジアなんだろうな。
       味はというと、余計なことをしていないある意味工夫のないスープに、胸やけのしない細い麺で、ラーメンがすっかり苦手になった俺でもおいしくいただけた。

       

       そうして電車に乗り、仕事場に行くまでにまだ多少の時間があったため、途中下車して長久手古戦場に。池田恒興戦死の石碑と資料館がある以外は本当にただの公園で、特に戦国好きでもない身からすると何ということもないのだが、紅葉が終わりかけだったのがちょっと残念。さて仕事。


      【やっつけ映画評】国家が破産する日

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         本作を見るため、アメリカ村に足を踏み入れた。今でもここは若い衆の街である。少子高齢人口減少社会にあって、年寄りが眉をひそめる風体の若人をこんなに大量に見れる場所は関西では珍しくなっている。こんなエリアに不釣り合いなおっさんおばさんがうろついている場合、そこそこの確率でシネマート心斎橋の客である。俺しかり。まあ、老若入り混じる十三の雑踏の中でも見分けがついてしまうナナゲイの客に比べれば全然普通の風体だが。

         

         映画館が入居する商業施設の向かいには、楽器屋が3軒も並んでいる。我らがバンドがいつも利用しているスタジオの支店も反対側の向かいにある。ロックがとっくに年寄りの趣味になっている今時にあっては、こちらも不釣り合いな存在に思えてくるが、これはただの脱線。

         

         このアメ村で服を物色していた学生のころ、世の中は受け手が動かしているものだと思っていた。つまり「タピオカがブームだからタピオカ屋が続々開店する」といった図式である。しかし実際のところは逆で、それを仕掛けたやつがまずいて、受け手はその掌の上で踊っているだけというのが珍しくない(タピオカはあくまでたとえなので誤解なきよう蛇足ながら)。そして踊らされている方は大抵その自覚がない。あったとしてもせいぜいタピオカ屋の主にボラれている可能性を想像する程度。だけど実は店主も同じく踊らされている側で、仕掛け人はもっと奥にいるものだ。

         といっても別に裏のフィクサーとかそんな陰謀論めいた話ではなく、政治の世界の話として新聞にも堂々載っていたりする。普通の人はそこまで記事を読まないか、テクニカルな読み解き方をしないとわからないかで知る由もない。
         本作を見ながら、そんなことを想像した。

         

         20世紀末の通貨危機が題材だ。韓国版「マネー・ショート」。経済の話を上手く娯楽映画にまとめている。前にも書いたことを繰り返すが、韓国はこういう重厚な映画が生まれ、ヒットする社会である。過去を検証できない、顕彰しかできない日本社会が見下せることなんか何もねーよ。

         

         バブルがはじけて経済が崩壊していく中で、その危機を以前から警告していた中央銀行のチーム長(課長クラスくらい?)のハンと、なぜか彼女の動きを封じようとする政府高官パク、経済危機をいち早く嗅ぎ取って逆張りで大儲けしようとする金融屋ユン、思い切りこの恐慌に生活を脅かされる町工場の経営者ガプス、それぞれを主人公とする場面がテンポよくつながり、スリリングに経済危機を描いている。「マネー・ショート」と違って、政府側の人間が登場するから殺伐しているし、町工場のおっさんの追い詰められ具合もしっかり描かれるので、あの映画よりも重い。

         

         本作で最も印象的なのが、ユンのセリフだったか、この経済崩壊を国民が自分らのせいだと思うと指摘している場面だ。自分たちが(あるいは世の中の人々が)欲にかられたから、贅沢をし過ぎたから、こんな悲惨な事態に陥ったのだという認識である。そういう側面があったことを否定はできないだろうが、必ずしも市井の人々の熱病だけで起こったことではないと本作は描いている。

         

         


        ウィーンのモダン

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          どういう事情かこの絵だけ撮影可。

           

           もらったタダ券を使い切るために美術館通いが続いている。本末転倒臭がやや漂う辺り、自分が桐谷サンに思えてもくる。
           「ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道」。クリムトが呼び物なのは確かだが、何の展覧会かよくわからない。まあルーブル美術館展よりは楽しめるだろうと予想はするが、さて。


           会場の国立国際美術館は、兵庫県美と違って物理的にアクセスはよろしくない(京阪沿線の人は悪くないが)。俺の場合は大抵福島から歩いている。何だか久々だ。のもやんが住んでいたころはこの辺りの飲食店はかなり行ったもので、せいぜい顔と綽名くらいしか知らない文字通りの顔見知りたちと夜中まで酒飲んだり、全く無駄な時間を過ごしていた。こういうエリアの常で、当時行った店の多くはもうとっくにないだろう。同じく彼ら彼女らの多くも、俺みたいに、久々来たなあと勝手に懐かしむ立場になっているに違いない。


           駅からまっすぐ下ると朝日放送のデカい社屋と出くわす。こういうところに行きたいという学生を相手にしなくなって久しいからか、会社がロクな番組を制作していないからか、番組宣伝のでっかい掲示がどれも寒々しく見えてしまう。

           

           さてようやく着いた。今年の台風で川崎の美術館だの東京の大学図書館だのが水没したことを鑑みれば、川べりに立つ全地下の構造は狂気の沙汰に思えてくる。そのうち海外の美術館はどこも貸してくれなくなるんじゃないか。

           

           などと独り言ちながら地下三階の展示会場に入ると、さっそくマリア・テレジアの肖像画が出迎えた。オーストリアの実質的な皇帝を一時務めた女性にして、マリー・アントワネットの母親として「ベルサイユのばら」でもおなじみ。教科書で見る肖像画はそれだけで「おー」となるもので、シューベルトの肖像画に隣の同世代夫婦がきゃっきゃとなっている。ウィーン会議の絵とともに、メッテルニヒの鞄なるものも展示されていたのだが、傍らの若い衆が「メッテルニヒって会議で踊ってた人やったっけ?」と、当たらずとも遠からずな記憶をたどっており、この辺の歴史はまあまあ有名なんだな。

           個人的にはフランツ・ヨーゼフ1世の絵が気になった。オーストリア皇帝在位が70年近いムガベ大統領みたいな元気な爺さんで、イタリア統一戦争から第一次世界大戦まで近代帝国主義全部盛りの人生だった人である。のだが、山川の教科書に出てこないのでそんなに有名ではない。登場と同時にサラエボで死んでいる甥のフランツ・フェルディナンドは頻出度Aで、名前を拝借したロックバンドもそれなり人気なのだが。

           

           展示趣旨としては、マリア・テレジア以降、つまり神聖ローマ帝国が事実上消え去り、オーストリア帝国へと歩み出す時期から20世紀初頭にかけてのウィーンのあれやこれやを知る企画となっている。このため絵画のみならず、建築、衣服、食器、椅子など、展示の幅も広い。その1つとして、ウィーン画壇の新たな潮流としてクリムトやシーレが位置付けられているという格好。


           このため、先日のバウハウス展と似た雑多さがあるのだが、バウハウスと違ってこちらは帝室が中心なのでどれもこれも装飾が多く煌びやかである。なるほどこういう豪華さへのカウンターとしてあのシンプルさがあるわけだな。クリムトらが結成した分離派という不穏な名前からもうかがえるアウトロー的な団体のポスターも、バウハウスのポスターに通じる雰囲気を感じる。ただ、現代人はモダン側の美的感覚が標準になってしまっている分、帝国の豪華さの方が気になってしまった。

           B2に上がると館内所蔵品の展示。現代美術だらけで、19世紀の絢爛豪華さと、そこからの分離という運動を見た後では、実に自由に映ると同時に、迷走も感じてしまう。

           

           そのまま肥後橋から地下鉄で四ツ橋に行き、映画館に寄った後また戻ってジュンク堂大阪店を覗くと、反日種族なんちゃらいう本がどんだけ並べんねんというくらい、あちこちの棚に大量に置いてあった。ジュンク堂じゃなくてジャンク堂じゃん。ウィーンとの落差が酷い。荒涼としてんなあ。


          【巻ギュー充棟】オスマン帝国

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             このブログは、自身の備忘録でもある。先日、以前に自分が読んだ本について確認したくて当ブログをたどっていったのだが、確認するのに手間取ってしまった。映画に比べると、本の感想についてはタイトルの付け方に統一性がない等、記述のお約束が雑で、デジタルアーカイブとしてうまく機能していないと感じた。

             そういうわけで、いまさらながら整理しなおすことにした。とりあえず、ワッペンでもつけよう、と考えてこれがまた悩む。「著者の腕組み」というのを思いついたが、読書なのに「著者」というのもなあ。全然思いつかんので四字熟語をもじる安直な発想で済ませた。これもこれで意味わからんな。やっぱり「著者の腕組み」の方がいいかも。

             

             買ったままになっていたのをようやく手に取って読み始めたら、かなり面白くて一気に(というほどでもないが)読了した。小アジアの一勢力に過ぎなかったオスマン1世から始まり、第一次世界大戦敗北後のトルコ革命で退位するメフメト6世まで、全36人の君主を順番通りなぞっていく通史となっている。前に読んだ「フランス史」のときも思ったが、順番通りになぞっていく歴史の記述としてはド直球なこのスタイルは案外と面白いもんだ。不勉強だからだろうな。

             

             古代ならともかく、13C〜20Cまでの新しめの時代に600年ほども続いた王朝というだけで、かなり異質な存在だ。空前の大帝国という帯の惹句も決して大袈裟ではない。必然本書も、序盤は三国志か平家物語のような軍記物の感がある。特にアナトリアに一気に勢力を広げて稲妻王の異名を取るバヤズィット1世が、1代で大帝国を築いたティムールと激突するアンカラの戦いは、そういうのを好んで摂取していた中高生のころの趣味を思い出させられた。

             

             その後、コンスタンティノープルを陥落させるメフメト2世とか、最盛期と位置付けられるスレイマン1世とか、高校世界史でも頻出度Aクラスの帝王(スルタン)が登場するが、スレイマン1世のくだりでも本書はまだ中盤一歩手前である。このあと高校世界史ではろくに触れられない時期に突入していくが、「ミドハト憲法」とか、試験に出る山川世界史用語がたまに出てきて、おーつながったーと感慨深い。

             

             さて詳しくない地域の歴史を中心に見るのはヨーロッパが相対化されて面白い。中盤まではせいぜい神聖ローマ帝国と、あとは東欧の小国くらいしか登場しなかったのが、やがてイギリスだのドイツだのが現れ、ヨーロッパ世界の膨張を感じる。何より、国民国家という枠組みが、オスマン帝国視点で見ると全く異質のパラダイムの到来だとわかる。

             日本史とてそれは同じはずなのだが、島国で国境らしきものが最初からあることと、単一性の高い民族構成につき、国民国家の異質さというのがあまりピンとこない。
             一方でオスマン帝国は、イスラム帝国でありながらアラブ人ではないし、そもそもイスラム教の支配が異教徒の存在を前提としていることもあるしで、のっけからトルコ色が薄い。加えて版図がバカでかく、時代によって増えたり減ったりするので「トルコ人とそれ以外」という区別が支配層には特にない。ムスリムか否かの方がよほど重要であるが、一定の枠内で異教徒の存在も容認している。緩やかな専制と呼ばれる所以である。

             しかし、ヨーロッパ帝国主義との対決の中で、やがてトルコ人国家を構想せざるを得なくなる。それまでの500年以上の統治のあり方をとっくり見せられた後なので、ずいぶんスケールが小さくなった印象すら覚える。以前に「THE PROMISE 君への誓い」という金貸し屋みたいなタイトルの、アルメニア人虐殺を描いた映画を見て、感想もとくに書いていないのだけど、あの映画で描かれた様子も、変質していく帝国の一側面てことなんだろう。


             そのくせ支配の中枢の歴史はやたらと血塗られている。跡継ぎのたび兄弟抗争がえげつない。長子相続とは決まっておらず、一人がスルタンに就任すると残りの兄弟は全員処刑される。正男・正恩兄弟がずーっと連続している感じである。これによっていわゆるお家騒動を防ぐわけだが、これが可能なのは生母がしばしば奴隷出身だから=母親の実家が有力者ではないからというこれまた結構珍しい風習による。

             しかし、若くして死んだら断絶するリスクもあるはずだが、そうはならなかった。一方、このぞっとする風習(カズオ・イスグロ「わたしを離さないで」を思い出した)が廃止になると、病気等で若くして死に、弟が継ぐというパターンが現れるから不思議だ。そうなると当然、スルタンに反対する勢力が別の兄弟を担ごうと画策するよその国でいくらでも見かける政争が起こるから、何がいいのかわからなくなる。


             これら権力争いの中で高官たちもしばしば粛清される。以前、第2次ウィーン包囲を題材にしたB級映画を見たことがあるが、オスマン帝国軍を率いた大宰相が敗戦の責任を問われて処刑されるラストに処分が厳しすぎとちゃうかと思ったものだったが、あれがスタンダードだと知った。


             教科書を読むだけではいまひとつ理解できなかった「カピチュレーション」についてようやく腑に落ちたのと、日本人が大好きなエルトゥールル号がどうして和歌山沖にいたのかを知れた。
             

            「オスマン帝国 繁栄と衰亡の600年史」小笠原弘幸 中公新書2018



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