劇団ころがる石BLOG

森下淳士が冗漫につづる日々の浪漫
【やっつけ映画評】弁護人

 「映画を見た」という満足感が十二分に得られる作品だった。重厚なテーマ、だけどグイグイ引き込んでいく展開、何より主演の圧倒される演技。最近、おっさんが本気になる内容の映画はすぐ目頭が熱くなる。退屈してるんだろうな。

 1980年代の韓国が舞台だが、奇しくも今の日本にはタイムリーな内容ともいえる作品だった。

 新人弁護士のソンは、法改正で弁護士が取り扱える業務が拡大したことに目をつけて、先輩弁護士が目もくれない分野で顧客を開拓して大儲けしていく。ところが彼の行きつけの食堂の息子が、反政府活動に関わったという疑いで逮捕されたことから、彼の無罪を勝ち取るため奮闘するというような物語である。

 当時の韓国は、軍事政権がまだ続いている。東西冷戦のさなか、北との対立は現在よりも苛烈で、このため反政府分子=共産主義者=北に通じている人間を取り締まるため、公安警察の活動も非常に活発だ。そういう中で、反政府活動に従事した疑いで捕まった若者の弁護をするのは、いってしまえば当時の軍事政権と真っ向対立する格好になるから、自分の身も何かと危うくなる。顧問弁護士を依頼してきた企業が「裁判から手を引かないと契約しない」と言ってきたり、家に不審な電話がかかってきたり、反共団体から卵を投げつけられたり、事務所が脱税の疑いで捜索されたり、あらゆる妨害が降りかかる。

 ただし、この映画の場合、こういった主人公の受難にはあまり重点は置かれていない。最低限、見る側が不審に思わない程度に出てくるだけで、作品の主軸は、法律とは何か、弁護士とは何かという直球ど真ん中を突いてくる。当然、法廷でのソンの台詞は、法律の条文が出てきたり、公安の横暴を激しく罵倒したり、何かと小難しくかつ感情的でもある。こういうのは、見ている側がついていけなくなったり、白けたりといった危険性をはらんでいると思うが、ぐいぐい惹きつけていく主演の演技力は、呆れるほどだった。本当にすごい役者だ。

 本作がタイムリーに見えるのは、この公安警察の大きな裁量権を規定した国家保安法が、日本で何度もゾンビのように甦る共謀罪と重なってくるからであるが、それ以上に、社会や人々のありようが色々示唆に富んでいるからでもある。

 そのことに触れる前に、本作の構成についてだ。重厚な内容ながら、問題の食堂の息子が逮捕されるまでは、結構時間がかかる。前半は、苦学して弁護士になった主人公の人となりを説明する前フリとなっているが、全体に軽妙なノリで「ライフ・イズ・ビューティフル」を彷彿させるチグハグにも見える。「ライフ〜」はナチスのユダヤ人収容所をテーマにした感動作だが、前半は何の映画かよくわからないまあまあ退屈なドタバタを見せられ、多くの人が困惑したり我慢したりしたものだった(俺調べ)。あれほどキツいわけではなく、笑えたり、ちょっと感動する場面もあったり、特に退屈はしないのだが、妙にバランスを欠くようには感じる。
この前半の役割は何だろうと考えてみるに、軍事政権の時代とはいえ、わりにフツーな市民生活があったということを示す意味があるのではないかと考えた。
 

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【2017.01.31 Tuesday 19:42】 author : 森下淳士 | 映画評 | comments(0) | trackbacks(0) |
【逸脱の安息日】弘法筆を選ばず

 仕事上、赤ペンを消費するシーズンになっている。学生が書いたものを添削するために赤ボールペンを使用するのだが、大量に届くとシャーペンの芯のような、ボールペンにあるまじきペースでインクがなくなってしまう。それでコンビニで100円くらいのやつを買って・・・・・・、というのを繰り返していたのだが、近年、以前に比べて量が増えていることもあり、もっと書きやすいちゃんとしたものを選んだ方がいいのではないかと考えるようになった。要は、高いものを試してみようということだ。

 黒のボールペンは、大袈裟にいうと、カバンのようなファッション的位置づけも多少伴うから、1本くらい恰好いいのを持っておこうかという気分にもなりやすいし、何かの機会にそういうのをもらうこともある。だが、赤となると、完全に事務用消耗品というイメージなので、これまであまり「選ぶ」という発想がなかった。せいぜい芯の太さくらい。

 文房具を真剣に吟味するのは、受験以来だ。すっかり「書く」といえばパソコンになっているが、ノートにガリガリ書いているころは、筆記具の合う合わないは死活問題クラスの大問題であった。あれこれ色々なシャープペンシルを試して、最終的には鉛筆になった。鉛筆のころが一番成績が伸びたから、素手でトイレ掃除が好きなおかしな人々の喜びそうな話だが、鉛筆は素手ではないので、血文字が一番にならないと喜ばれないかもしれない。教科書通りの「正しい持ち方」をすると、鉛筆が一番しっくりくるんすよ。ま、全然字は綺麗じゃないんだが。

 会社員のころも、商売柄、筆記具が重要なアイテムだったが、会社支給のやつがいくらでも使えたので(その後経費削減のため管理が厳しくなったが)、こうなると特に気に入ってなくても選ばなくなる。こうしてサラリーマンは飼いならされる。自主映画を撮っているころ、ガンマイクは何がいいのか、テレビ局の知人に尋ねたら、「自分で選んだことのある人間がいないのでわからない」と言われたものだった。

 当時会社には、鉛筆、ボールペン、細いサインペン、色々あった。個々人、好みがわかれるのでこれだけ無駄に種類があったのだろうか。ただし色ペンは太いサインペンしかなかった。これは原稿をパソコンではなく手で書いていたころの名残で、赤や青は、原稿の修正に使うから、太いのが重宝されたのだろう。今となってはあまり使い道がない。

 俺の場合、鉛筆が好きなので、黒ボールペンも、案外この身もふたもないタイプがよかったりするが、ボールペンは少し太い方が字が多少マシになると最近気づいたので、これをよく使うようになっている。酒が飲みたくなる仕様だから、場合によっては仕事がはかどる。

 で、赤ボールペンだが、今のところ、これが一番気に入っている。200円ほどだから大した値段ではないが、安物だったら3、4本は買えるだろうから、それを考えると高級品だ。書き味がかなり違う。仕事もはかどる。

 ここまで書いて、弘法筆を選ばずという言葉が浮かんだ。名人は道具を選ばない、転じて道具のせいにすることを戒める意味だとネットの辞書には出ている。後半はその通りだと思う。ダメなやつはすぐよそのせいにする。俺もこの前、営業の人が得意先に「値下げを求めらちゃって……」とコボしているので、「政治が悪いんだ政治が」と言ったばかりだった。

 だが名人は道具を選ばないというのは本当だろうか。スポーツ選手は自分の道具を相当神経質に「選ぶ」。ちょびっとだけ短くしたり重くしたり。「一投に賭ける」でもそんな話が出てきた。余談だが、大リーガーのロベルト・アロマーが、オールスターでイチローと会ったときにバットを貰い、うれしくなってそれを使いだしたらヒットを量産したという笑い話がある。この場合、道具が凄いのか、アロマーが他人バットでも打てるということか。まあ前者だわなあ。

 名人は、選ばないのではなく、間口が広いのだと思う。ロックバンドの人気のギタリストが、楽器屋で安いギターを手に取って、「これおもろい音出るやん(英語)」とご機嫌に鳴らす、ああいうやつだ。そういえば知人の写真家は、安物のカメラでも「これおもろいやん」と、あれこれご満悦で使っていて、ライカにこだわっている様子は微塵もなかった。

 筆記具でいえば、マンガ家はペン入れの際、Gペン丸ペン以外にも、筆や鉛筆、ボールペン、割りばし、はてはパソコン等々いろいろ使う。この場合は、全員が全員あれこれやっているわけではなくて、各自それぞれの方法論があるだけなので、話は少し違ってくるかもしれないが、どういう方法であっても正道/邪道という観念は特にないというのは共通しているように見える(参考資料「漫勉」)。浦沢直樹も「俺もこれ真似しよう」としょっちゅう言ってるし。
 特にまとめのない話なので、この辺りで仕事に戻るとする。

【2017.01.28 Saturday 19:33】 author : 森下淳士 | エッセー | comments(0) | trackbacks(0) |
好きこそものの

 漢字の読み間違いが世間をにぎわせているようだ。読み間違い自体は誰でもやらかすのではあるが、音の響きがおもしろいのでさすがに笑う。ついでに爐い弔發離蹈献奪瓩諒弧で間違えているから、あれにうんざりしている人間にとっては積極的に笑いたくもなる。前の二文字と合わせるとリズミカルな四字熟語のような響きがあるが、ちょうど稀勢の里が横綱昇進の口上で定番化している四字熟語を使うとか使わないとかの報道があったので、代わりにこっちが初耳の四字熟語を言っとるやんけ、と勝手に2つをつなげてしまった。

 大人になると、単に「読めない」でなく、思い込みが作用して間違いにも気づかないときがあるからタチが悪い。今でもたまに己の思い込みを発見するときがあるが、多くはパソコンで変換するときに、打ち込んだかな文字列が変換されなくて気づく。具体例を思い出そうとして出てこない。試しにネットで「読み間違えやすい漢字」を検索したら、有名なやつか(例:相殺)、難読漢字(例:海豹)か、マナー講座的な別にええやん的なものか(例:間髪)、だらけだった。「間髪」なんて、もう「オルタナ読み」でいいんじゃないか。

 中には「そんなもん間違うやつおるんや」というのもあった。首相を「しゅそう」と読む人がいるらしい。ホントに? 首相があれだからいるんだろうとつい乱雑に片付けそうになるが、さすがに首相自身は「首相」を読めるでしょ。

 ほしいのは、こういうんじゃないんだよなあ。ネットでひっかかりにくいものの一つが「絶妙の例」だな。まあこの場合は、「俺が過去に間違いに気づいた例」を思い出す例が欲しいだけの、まったく個人的な尺度だから完全なる言いがかりだが。ああ、一個だけ思い出した。「鼻白む」だ。これは変換できなくて知った。「白ける」のせいで、「ろ」じゃなくて「ら」と読んでいた。幸いなことに書くときにしか使ったことがない言葉なので、恥をかかずに済んだ。

 テレビでよく耳にするのは「直截」だ。言葉の種類からいって、ニュースなんかでコメントする識者くらいしか使わないから、余計に目立つ。そう思って試しに「ちょくさい」で変換したら変換できてしまった。ネットの辞書でみると、「慣用読みでちょくさいとも」とあるから、オルタナ読みか。「慣用」と書いてあるのでわざわざ新造語を使う必要がない。

 「OK」は、反知性主義で知られる米大統領アンドリュー・ジャクソンが「All Correct」を「Oll Korrect」と間違えたことに由来があるという説があるが、今回の件もゆくゆくはその手の新語として定着する可能性もなきにしもあらず。

 というような豆知識を書いたが、こういう行為も結構怖い。自慢げに披露して思い切り間違っているということもあるからだ。大抵は飲み会の席で偉そうに披露して、周囲が「へえ」で終わる程度のものだから、店を出るときには言った方も言われた方も忘れているので被害は少ない。なぜか俺の場合、ドヤ顔で披露した相手が自分よりそのことについて詳しかったという、穴があったら Want to Hideな場面に何度も遭遇しているが、より恐ろしいのは俺の場合、大学で教える立場だから、ここでハズすと、これは恥の話ではなく、単純にマズい。そういえば、昔、舞台の脚本に使ったこの手の豆知識的なものが、思い切り間違っていたということもあった。

 ちなみに「OK」を検索すると、ウィキペディアでも「すんませんでした」と言いたくなるくらい、色々細かいことが書いてある。こういう事情で最近のテレビ番組では、何かというと「諸説あります」と画面の端に出てくるが、本当に諸説ある場合いざ知らず、「危険なのでまねしないように」と同様のただのアリバイ作りで表示している気配が漂ってくる。

 縁あって、ここ数年、学生相手に世界史だの地理だのを教えている。センター試験よりはやや簡単なレベルの試験対策なので、説明しないといけないことはたかが知れている。山川の教科書でおつりがくる程度だ。ただ、教える側としては、試験には出ない部分も、やはり広く深く知っておく必要がある。俺の場合、大学を4年で卒業しただけのド素人だから、追加で勉強しないといけないことも多々ある。それで時間を見つけては関連書籍を読むわけだが、そうすると、今までの理解が微妙に違っていることに気づかされることも少なくない。

 こうなると、これまで「習得した知識」だと思っていたものが、本当にあっているのか段々疑心暗鬼になる。それだけではなく、これまで気にしたこともないことが急に疑問に思えてきたりする。例えば、イギリスの歴史ではチャールズ1世とチャールズ2世という王様が登場する。この両者の血縁関係は何だろうか。これまで考えたこともなかった。多分親子だろうという思い込みのせいだろうが、フランスのルイ16世は、ルイ15世の息子ではない(孫)。フランス革命の解説書なんかでその事実を知ると、心中「げげっ、そうだったのか」と狼狽しつつ、はてチャールズの場合はどうなんだろうと急に気になり出す。

 いずれも試験対策には全く無用の知識である。知らなくても授業は成立する。だけど偉そうに教壇に立つのだから、そこはやはり責任感というものがあろう。過去には別の科目で授業準備をサボったせいで、それこそ漢字の読み間違いのような赤っ恥をかいたこともある。もうひとつは、歴史の場合は個人的に好きなので、より詳しくなりたいという趣味的欲求が責任感を後押しする。好きこそものの・・・・・・、この場合なんだろうか。

 というわけで、間違いを犯すのは、そのこと自体よりも、それを生み出す姿勢の方が遥かに問われるというわけだ。まして、くだんの大統領や、その他諸氏のように、自ら嘘や根拠不明の犹実瓩鮨當阿垢襪里蓮△修里海伴体の罪悪もさることながら、己の信条のように高らかに掲げていることについても、実のところは当人自身、大して興味がないということになる。興味があることは大事にするもんだ。問題はそこなんだよなあ。

【2017.01.27 Friday 19:28】 author : 森下淳士 | 世の中の出来事 | comments(0) | trackbacks(0) |
USAもUSBもPost Truth的な

 取材の際に、相手が話していることを録音するレコーダーを、先日久しぶりにちょっと使ったので、中身をパソコンに取り込もうとしたときのことだ。
 接続のUSBが、Aタイプという、つまりは「普通サイズ」のやつだった。前に使用してからずいぶんとたつので、そんなことも忘れていた。それで接続しようと手元のUSBケーブルを探すのだが、適合するものがない。PCの受け口は、AタイプでレコーダーもAタイプ。なのでA−Aのケーブルが必要なのだが、持っているのは片方の形状が小さかったり正方形だったりのやつばかりだ。おかしい。身の回りをざっくり掃除したときに、全部処分してしまったのだろうか。

 仕方がないので100均に行って買おうとしたのだが、売っていない。以前は普通に売っていた気がするが、スマートホンの普及等で売れなくなったのだろうか。そんな風に想像して家電量販店に行ったのだが、やっぱり売っていない。

 不思議に思ってネットで検索してみた。こういう場合、大抵全く同じ疑問を抱いた誰かが知恵袋等に書き込んでいるもので、やはりあった。しかし回答者の説明は、長ったらしいわりには結局のところ「品揃えの問題では」とのこと。「だからヨドバシに負けるんだよ」と一人毒づきながら梅田に行くことにした。しかしこの巨大店舗でもやはり売っていなかった。あるのはA−Aの片方がメスの、延長コードだけだった。

 店員に聞こうと思ったが、先ほどのネットの長いかつ求めていない説明が脳裏をよぎり、躊躇してしまった。もう一度言葉を変えて検索して、他の検索結果を見てみると、これがなかなか面白かった。

 俺と同じく「自宅にいくらでもあったような気がするがいつのまにかなくなっていたので、買いに行ったが売っていない」という人が、周囲から「そんなもんねーよ」と嘲笑されている。たしかに、現実問題どこに行っても売っていない上、俺自身も、考えてみるとA−AのUSBが必要な機会は、ここ何年もなかった。なので、若い世代の人々にすればカセットテープのような存在になっていると想像される。結果「何言ってんのコイツ?」「あるわけねーだろバカ」という反応になる。しまいに「いくらでもあったはずのもの」が、自宅からいつの間にか消えているのだから、「記憶のすり替えだろ」「病院行け」みたいな話になっていて、どんどんSFになっていた。状況がしっかり俺とカブっているから、俺自身も、記憶違いなのだろうかと自分がうっすら疑わしく思えてしまった。

 しかし、アマゾンなんかで検索すりゃ、A−Aはすぐ出てくる。商品のレビューを見ると「最近これ店頭で見ないので助かりました」というような感想がさらりと述べてある。なのに「ねーよバカ」が優勢になり、一瞬「俺が違ってるのかも」と思ってしまう。これが「Post Truth」の時代か、と流行りの言葉で無理やりまとめて一人頷きながら、アマゾンのボタンをぽちっとしたのであった。あんまりここで買わんようにしてるんだけど、こうして使っちゃうんだよなあ。

【2017.01.20 Friday 19:23】 author : 森下淳士 | 世の中の出来事 | comments(0) | trackbacks(0) |
【逸脱の安息日】さらに10年さかのぼる(2)

 ついでのついでなので、「センター試験を振り返るみっともないオヤジ」のワンステージ上をいく、「卒論を振り返るみっともないオヤジ」を提出シーズンは微妙に過ぎてしまったが、ダラダラ書いておこうと思う。

 先ほどの引用からおおよそ察せられると思うが、テーマはマンガだった。就職活動のとき、提出書類に「卒論のテーマ」という欄があったときには格好つけて「GHQの言論統制」と書いていたが、実際にはマンガだった。我ながら情けない。専攻を選ぶときの馬鹿馬鹿しい顛末は前にも書いたが、結果所属したゼミは、近現代史ならテーマは何でも可というユルいノリだった。

 恩師は当時、在日コリアンについての書籍を出版したばかりで、その制作過程で出版社の人にエラく怒られ「いやあ、論文と一般書籍はずいぶん違うもんなんだねえ」と語っていたものだが、その後10年以上たって、自分がその「出版社の人」と出会うことになるとは思わなかった。同じく怒られたし。

 とにかく教授は当時そんなテーマに取り組んでいて、そして大阪はそれにふさわしい歴史を歩んだ町だというに、ゼミ生各自、ええ加減なテーマを選んでいた。満洲の開拓移民がどうのこうのというド直球の人が若干名。それから前に紹介したコムラ君のが面白そう&関西的なテーマだったが、あとは俺も含め湿気たものだった。

 マンガを選んだのは、文献を読むのが楽そうだという実に残念な理由と、当時マンガ研究が盛り上がっていた時期なので、流行に乗っかったという部分がある。受験浪人のころだったろうか、そういう本を読んで結構面白いもんだと感銘を受けた覚えがあるから、一種の憧れをなぞってもいた。でもまあ、研究者ならいいとして、学士の身分では、大学でやることかよ、とはどうしても思ってしまう。行きそびれた騎馬民族の研究の場合、レ点なしの漢文とかトルコ語とかドイツ語とかをゴリゴリ読まないといけないので、訓練の度合いが違う。文学部の場合、一般人が見る気も起らない文献や書籍に、どう接していいのかという訓練が、まずもっての入口だろうと思う。

 唯一よかったと思うのは、過去のマンガを文献として見ないといけないわけだが、古いマンガ雑誌を大量保存していたアーカイブが、大阪にあったということだ(京都のマンガミュージアムは当時まだない)。というか、雑誌を閲覧できるアテもないのにテーマに選んでいるところが恐るべき計画性ゼロだ。東京に何度行かないといけないのだろうと新幹線代を想像して青くなっていたのが、よくよく調べたら大阪にあって、そこから急に卒論準備が楽しくなった。地元で調べられるのだから大阪の大学に通った意味もあるというものだ。

 おかげで材料が十分すぎるほど集まったので、安心していたら、書くのにやたらと時間がかかった。構成は出来ているのに、いつまでたっても終わりにたどり着かないという感覚は、昨年書いた「虹色の霧P」とばっちり重なる。卒論は締切があるから事態は深刻である。ついでにコピーしたマンガを資料としていくつか本文に挿入したが、今と違ってクリック・ドラッグでは済まない。ワープロだったから、必要そうなスペースを見当つけて改行の空白を作り、そこにコピーをチョキチョキハサミで切って糊付けした。こんなことをしているから、提出できたのは締切日のギリギリの時間だった記憶がある。

 ちなみにそのありがたい施設が、橋下府政でそこそこの騒動の末に廃止になった国際児童文学館である。現在は東大阪の府立図書館内にこじんまりと移動して、「みんなここを使ってくださいいい施設ですよ」的な悲痛な掲示が掲げられているが、当時は万博公園に立派な建物を構えていた。4年生の一時期、毎朝そこに通って、古いマンガ雑誌(正確には子供向け雑誌)を閲覧したものだった。都会を都会たらしめているのは、こういうチャンネルの多様さであって、「都」を戴くことではない。

 文学部的研究は、要するに現物にいかにたくさん触れるかにかかっている。それが青銅器に刻まれた甲骨文字であったり、日本語訳でも理解不能な哲学書だったり、当時の新聞だったり、専攻によっては土器、陶器、絵画等のブツも含まれるわけだが、何せマンガなので楽だった。その代わり(?)、とにかく大量に見た。当時すでにマンガが進化した時代だったので、どれもものすごく退屈にみえる作品だから、ある意味頭痛に苛まれ苦労した。「鉄腕パンチくん」とか「ピンチくんの夏休み」とか、検索してもヤフオクか古書店のサイトしか出てこない、完全に歴史の波に埋没した作品ばかりである。パンチにピンチを描いたポンチですな。えーっとペンチはどこにしまったかしら。

 内容も全く覚えていないが、「パンチ力の強い少年がボクシングをする話」と「おまぬけなピンチくんが巻き起こすささやかな騒動」で相違ないと思う。とにかく、実物を大量に見たのだけはよかった。反射的に是か非かを判断するのではなく、こうやってなにがしか事実の積み重ねをしたところから出てくる言葉は、重みを持つものである。別に卒論の出来が優れていたといいたいわけではない。大方の卒論がそうであるように、8〜9割がた、どこかの誰かが書いた本や論文の寄せ集めである。自前の「論」につなげる解析力や思考力はなかった。だが、パンチ君やピンチ君が隆盛を極めた連載作品群の中にあっての、「LOST WORLD」(手塚治虫)という英文字タイトルは、それだけで本当に鳥肌が立つ感動だった。

 横文字でかつ、主人公の名前とは無関係のタイトル。ついでに、当時は1コマ目にタイトルを書くのが当たり前なところ、いきなり話が始まって、タイトルは途中のコマで出てくる。さらには、ちょうど連載開始の第1話の号を閲覧したのだが、話の始まりは、すべての冒険が終わった後の時点。「あれは私の人生の中でも不思議な経験だった」というような主人公の回想から物語は始まる。作品を単体で見てしまうと気づかないが、同時期の他の作品と比べると、次元の違いがよくわかる。

 これを見てしまうと、後世すでに巨匠という地位が世間的に確立されている中で巨匠として語られる手塚治虫評のいかにちっぽけなものか。そこにあるのは誰かが言っていることの引き写しでしかない。結果、「〇〇は手塚治虫が考えた」という事実誤認がまことしやかに語られることにつながる。「ブラックジャック」や「火の鳥」を読んで、「何これ?おもろいやん」と素直に単純な感想を述べている方が遥かに健全である。

 こういう、いちいち現物に触れる作業はしかしながら、当然、骨が折れる。桶狭間の戦いって何ですかと問われ、わざわざ桶狭間まで行ったり、信長公記を読んだりするということは、日常生活ではやっていられない。児童生徒なら教科書を読めばいいし、大人ならとりあえずウィキペディアでよろしい。それでより詳しく知りたくなったら、本屋か図書館に行けばいい。というように、基本的には専門家にお任せするしかない。大学無償化なり給付型奨学金なり、この手の支援の趣旨は、このような我らの代理人の育成であって個人に対するカンパではない。全員が専門家になるわけではないから効率の悪い支援ともいえるが、少なくとも入口段階では誰がそうなるかなどわかりっこないからこれが一番いい方法になる。

 ただし、本を読むのもそれなり時間がかかるし、ときに専門的な話は専門家がかみ砕いてもまあまあ難しいし、専門家自身、研究を通じてスパっとわかることより余計に疑問が増えることの方が多いしで、詳しい人ほど「ズバリ言うわよ」という修辞法は取らず、結構消化不良な説明になりやすい。結果、ポスト真実みたいなことになる。

 上は時の権力者が、下は小銭稼ぎのチンピラが、嘘をどんどん垂れ流す時代、真面目に育ってしまった身としては、堂々と嘘をつかれると一瞬「あれ?」と困惑させられるから困る。ついでに「いや、それ嘘やろ」と思っても、そう思う自分の側の根拠が、誰かが言っていることのまた聞きや受け売りだったりすることもしばしばだ。新聞に書いていた、というのも、昨今の新聞が信頼できるかどうかさて置き、厳密には受け売りの部類である。本来はそれで充分のはずだが、オルタナなんちゃらなどとなんでも相対化されると、まともな書き手の本を読んで知った、ということすらも相対化(というより正確には馬耳東風)されるから、カオスだ。

 そういう中、8割ほどは人様の本の受け売りとはいえ、少なくとも残り2割は自分で現物に触れて調べた当時の卒論は、一応すべきことはしたんだなという指さし確認ができて、ちょっと救われたのだったが、そういう俺は、これは完全に中年をこじらせ始めている。いやはや。
 ところでマンガを読みまくっても、それだけでは論文にならない。何かしらの問いを立てて考察しないといけない。すでに述べたように、「GHQの言論統制」などと取り繕っていたのは、これがその問いの一部というわけだ。その中身についてはまた機会を改めて、などとこじらせながら思っている。

【2017.01.18 Wednesday 19:13】 author : 森下淳士 | エッセー | comments(0) | trackbacks(0) |
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