【やっつけ映画評】ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書

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     今度はこのおじさんが主人公(の一人)の作品。蝶ネクタイ姿だが話のわかるいい上司という、蝶ネクタイに対する己の偏見を再確認させられる「大統領の陰謀」の重要な脇役だ。本作では普通のネクタイ姿である。一方他の登場人物で蝶ネクタイの男がいたが、こちらは算盤勘定で主人公側に異を唱える役どころ。元の木阿弥、蝶ネクタイはヤなやつに再び収まるの巻であった。


     かの上司ベン・ブラッドリーは、なぜあんなに腹が据わった様子で若い2人を全面的に後押しできたのか。それがわかる気がしながら本作を見ていた。要するに内容としては「大統領の陰謀:エピソードゼロ」だと感じていたのが、ラストがまさしくそうなっていて、いやはや実にシビれた。まるで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような終わり方だが、「続く」の先は40年前の映画なのだから、30年前にタイムスリップするあの作品を超えている。ラストの意味がわからず「続編があるのか?」と思った人は、あるにはあるが午前10時の映画祭かBS日テレくらいでしか上映(放送)の機会はないのと思うでご注意を。


     本作でのワシントン・ポストは「特ダネ」を抜かれる側だ。ベトナム戦争についての政府の嘘を裏付ける機密文書をスクープしたのはニューヨーク・タイムズで、ポストはこの時点で煙の一筋もつかんでいない。エース記者の姿が最近見えないので「何か掴んでいるのでは」と探りを入れるセコいことまでやっている。それもむべなるかなポストの立ち位置は「地方紙」で、人も足りなければ金もない。オフィスの様子もどことなく辛気臭い。「陰謀」ではすっかりモダンな赤いデスクになっているが、家具を買い換えられる前の物語だ。


     抜かれたら抜き返せ、とばかりにここからポストの反撃が始まるのだが、本作は新聞記者の物語でありつつ、意外なことに取材のシーンはあまりない。問題の文書を手に入れる過程はスリリングに描かれてはいるが、逆に言えばそれくらい。じゃあほかは何かといえば、報道するかしないかの判断が物語の主軸となっている。もう少し格好よく言えば、敵はライバル大手紙ではなく、ニクソン政権の横暴ないしは歴代政権の欺瞞なのである。

     

     先にスクープしたタイムズは、国家機密の漏洩を理由に発行停止の処分をくらってしまった。抜き返すチャンスといえばそうだけど、追随すればポストも同じ目に遭う危険性がある。もしそうなると、株式上場をしたばかりという不安定な経営基盤が一気に崩れ去るかもしれない。だけど日和見で記事をひっこめれば、何人かの記者は退職すると息巻いている。


     この難局に立たされた、お嬢様育ちで気のいいだけが取り柄、だけに見える女社長がもう一人の主人公だ。場面が切り替わって彼女が登場するたび晩餐会か昼食会ばかりしているような人が、「殺伐」がアイデンティティのような男社会臭のきつい新聞社の社長を務めているのが面白い。「女=か弱い」という古典的偏見をなぞっているだけでなく、世襲の弊害をも体現しているような、そんな人に見えるのを見事に裏切ってくるからだ。

     

     政権を揺るがす記事と、会社の経営の二項対立は、外野からは「書くべし」以外答えのない、わかりきった問題に見える。ただし本作で何度か描かれる編集部門以外の人々の作業を見ていると、それも結構な思い上がりに思えても来る。活版の職人が版を組んで印刷機にかけ、仕上がった新聞を輸送部門の人がトラックに積み込み配送する。新聞は情報産業でありつつ、装置産業でもある。印刷や配送のいわゆるブルーカラーの人々にとって、紙面の内容はどれほど興味のあるものなのか。

     印刷屋での勤務経験がある身からすると、社長に限らず、業界の人は総じて印刷内容には全く目がいかず、刷りやすいか刷りにくいかでしか見ていないものだった。推測するに、売れる記事なら大歓迎、会社がつぶれる記事は御免被るといったところか。戦争に絡む記事なので身近に従軍者がいる場合は話はまた別かもしれないが、とにかくこの場面を見ていると、編集は会社の一部門に過ぎないことがよくわかる。同時に、ブラッドリーは所詮その一部門の責任者でしかなく、社長とは背負っているものの大きさがまるで違うことが明白だ。

     


    【やっつけ映画評】カティンの森

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       「残像」が妙に印象に残ったので、同じ監督の著名な作品を見ることにした。監督の名前で作品を選ぶことは俺はあまりしない。大変に楽しんだ作品を見た後、同じ監督の別作品を漁った経験は少ない。なのになぜか、といえば「残像」は作品が面白かったというよりは、何が面白いのかよくわからないが見入ってしまった映画で、そこに監督の怨念のようなものが渦を巻いていると思ったからだ。要するに、ワイダという人が気になったのである。


       タイトル通り、この事件をテーマにしている。名前は有名だが、森で人がたくさん虐殺されて埋められた事件、くらいの乏しい認識しかなく、勉強がてら見た部分もあるが、事件そのもののシーンがないまま残された家族たちの場面が続いていくところが面白い。これは「森で人がたくさん虐殺されて埋められた」という出来事なんだな、と強く再認識した。

       

       第二次世界大戦は、ドイツがポーランドに侵攻したところから始まる。同時に不可侵条約を結ぶソ連もポーランドに攻め入り、分割状態になった。冒頭、ドイツに追われて東へ逃げる民衆が、東から逃げてきた人々と橋の上で出くわす。状況が端的にわかる非常に印象的な場面である。

       

       そうしてポーランド軍兵士は捕虜になり、移送の途中でソ連軍に1万人以上(兵士以外も含む)が虐殺される。この蛮行を暴くのが悪の権化であるはずのナチス・ドイツだから話がややこしい。ついでに犯人側のソ連が最終的にはドイツを破り、ポーランドの牴鯤者瓩箸靴得鏝紊旅餡髪娠弔亡悗錣辰討るから、もひとつややこしい。

       

       映画は、この虐殺で犠牲になった将校の妻を中心に、その家族や生き延びた戦友ら、何らかの形で事件の被害者となった人々が入れ替わり立ち替わりして進んでいく。群像劇のようであるが、あの手法は、様々な登場人物がやがて交差し物語を盛り上げていくのが常なるところ、本作の場合、各自の生きざま死にざまをただ並べただけのような格好になっていて、話が見事に転がっていくというような展開は特にない。というわけで、ひどく散漫で退屈な内容に見えた人もいるだろう。

       

       だけど、事件を起こした側が被害者の国に、この後半世紀弱君臨するわけだから胸のすく物語は期待しようがないのは「残像」と同じだ。

       ここで描かれているのは、ある事実を国家が改竄したときに、何が失われるのかということだと思う。終盤で登場するあの無駄死ににしか見えない青年の暴走〜死が象徴的だ。いかにも若い命を粗末に散らし過ぎに見えて呆れてしまいそうになるが、それだけのことをもたらすということだ。彼以外にも命を散らしたり、自暴自棄になったりする人がいる一方で、膝を屈して生き残りを選ぶ人もいる。共通しているのは、「希望」が失せたということだ。あったものをないと言い出すと、あるべきものも消えるんだなというのがよくわかる。「この人誰だったっけ?」と、途中で混乱してしまうくらい、さして物語を転がすわけでもない総じて脇役っぽいあまたの登場人物のそれぞれの崩壊が生々しく、いちいち深入りしない描き方の分、こちらの感情移入が少ないだけまだ見ていられる。とてもつらい映画だ。

       

       生々しく感じるのは、虐殺の場面が出てこない演出によってリアルタイムな雰囲気が出ているからだろう。各登場人物は誰もその場面を見ていない。確かなことは待ち人が戻らいということと、伝聞で知るおぞましい事件について口にするとその後恐ろしいことになるということだけ。このもどかしさが臨場感を与えている。

       


      【やっつけ映画評】残像

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         芸術家が2時間、兵糧攻めに遭う物語だ。東西冷戦下、ソ連の属国状態にあるポーランドで、体制に与することをよしとしない反骨の画家兼大学教授が、やがて地位も仕事も絵具も奪われ追い詰められていく。
         同じ時期、敵方であるアメリカでも、映画脚本家が東側のスパイといわれて仕事を奪われている。この「トランボ」と、本作はおおまかには似たような内容だ。海を挟んで対峙する共産主義国家と反共産主義国家で似たようなことが行われているのは皮肉である。反中国しか思想のない人が中国共産党的独裁政権を好んだり、「北朝鮮との話し合い」と聞くと発狂する人の主張が北朝鮮的先軍政治になっていたりするのと同じような構造である。
         しかし「トランボ」がどうにか糧道を確保し生き延びる痛快な話なのに対し、本作はまったくもって小田原城だから、実に重苦しい内容となっている。ソ連がいつ崩壊するのかを考えれば、時代設定(1950年代)からいって主人公の戦いに救いがないのは冒頭から容易に予想がつく。ストーリーに特段起伏があるわけでもない。ハッピーエンドが期待できない地味で重苦しい映画。それでも最後まで惹きつけてしまうのは、これぞ世界的監督の力量か。どうしてこんなことが可能なのか、少しはわかったふりをしたいところだが、正直さっぱりわからない(タイトルに相応しく、色彩が印象的で映像に惹きつけられるから??)。同時代を同じく芸術家として生きた監督自身の怨念のなせる業か。だとすれば、二重に重い。これが遺作になってるし。
         ポーランドは、周囲の強国に幾度となく食い物にされる悲劇的な歴史を歩んでいる。第2次世界大戦でもドイツとソ連に攻め込まれ、ドイツ敗戦後にはソ連の傀儡政権が樹立された。鬼が去ったら別の鬼がやってきた格好で、前にも書いたが、この辺りの歴史を「映像の世紀」なんかで見るととても陰鬱な気分になる。映画は戦後まだ間もない1948年から始まっている。

         本作の主人公ストゥシェミンスキが、トランボと違って食扶持を確保できないのは、トランボが業界団体につまみ出されたのに対して、ストゥシェミンスキの場合は国家に弾かれるからだ。抜け道がない。トランボも、あれはあれで息苦しくなる話だったが、容赦のなさでは本作の方がはるか上をいく。
         トランボをつま弾いたのは、マッカーシーという1人の議員の妄言によって、強制されたわけでもないのに社会全体のムードが形成されていったからである。これは大変に気持ちの悪い現象だが、ムードではなく、国家の制度運用によって閉め出されてしまうのは「気持ち悪い」をはるかに通り越して、絶望と恐怖しかない。イメージ通りの共産主義国家とはいえるが、この場合は全体主義といった方が正確だろう。トランボと対立する人々が総じて敵意丸出しだったのに対し、ストゥシェミンスキの敵方である役人は、紳士的な鷹揚ささえ見せるほど余裕ぶっこいて見えるのも、この仕上がった全体主義システムがあるからこそなのか。改めて、国家というのはいくらでも恐ろしい枠組みになりえるのだと実感させられる。
         トランボが生きるために「宇宙船が現れて、そのうちおっぱいボヨヨーン」というようなくだらない脚本を書いたのと同様、ストゥシェミンスキも金のための仕事をやろうとする(抽象画家は実は写実画も上手いというズッコイ真実がまたここでも見られる)。だが、国のシステムから排除されてしまっているので途中でクビになったり給与がもらえなかったりする。最初から警告に従って膝を屈していればこんな目には遭わずに済んだのでは、という批判は一応成立するが、まあできないだろうね。会社員でも「嫌な仕事」レベルのものはさて置き、自分の良心に反する仕事はさすがに気を病むもので、画家のように自分の名前で勝負していれば尚更だ。そもそもなぜ当局に目をつけられたのかを考えると、言いつけ通り従順になるのは難しい相談である。言いつけを守ったところで安泰が確保されるわけでもない。何かにつけて同じようなことが蒸し返される可能性は容易に想像できる。
         このことはつまり、そこまで強大なシステムが、なぜ一介の画家兼大学教授に過ぎないストゥシェミンスキを恐れるのだろうかという問いに尽きる。

        【やっつけ映画評】ザ・シークレットマン

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           「大統領の陰謀」の反対側を描く物語。要するに、このおじさんのお話である。

           原題はこの人の名前そのまんま。アメリカ映画では、こういう「半沢直樹」的タイトルは割と多いが、それだと意味がわかりにくいせいか、日本だと「徳川家康」「武田信玄」のように歴史上の人物以外でこういう題をつける習慣がないからか、大抵は差し替えられる(「ランボー」=原題First bloodのような逆のケースも稀にある)。それだったら邦題は、まんま「ディープ・スロート」でいいんじゃないかとも思ったが、同名のエロ映画があるからNGか。というか、そのエロ映画があだ名の由来だけど。登場人物のワイシャツの襟先が軒並みツンツン鋭角に尖っているのがまぶしい作品である。

           

           「大統領の陰謀」で強烈な存在感を放つ情報提供者「ディープ・スロート」が主人公で、題材も当然ウォーター・ゲート事件だ。「陰謀」での主人公だったウッドワードも超脇役ながら登場する(あと、「陰謀」では名前しか登場しない事件関係者も若干名登場する)。夜の立体駐車場が両作の交差点だが、これだけで「キターーー!」と気分が昂揚する。そして、「陰謀」よりもリアルに、いかにも会社連泊が続いてそうなヨレヨレのシャツ姿の若者が現れるのを見て、なぜだか目頭が熱くなった。40過ぎてこの方、涙腺の感覚がすっかりおかしい。この、同じような場面が別視点から再生される様子は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」あたりのタイムパラドックスものを思い起こさせる。

           

           本作のテーマは、「官僚」とは何ぞや、だろう。「ロシアゲート」などとウォーターゲートになぞらえた疑惑が指摘されているトランプ関連のニュースを見れば、なぜ本作が制作されたのかは想像力を働かせるまでもない。そして本邦にとってもタイムリーな内容だ。
           主人公のマーク・フェルトは、「陰謀」では、「素性も理由もよくわからないがヒントをくれる人」でしかないが、それもそのはずで、作品公開当時はまだ謎の人物のままだったから、これしか描きようがない。フェルトが死の直前に名乗り出たことで明らかになり、本作はその自伝をもとにしている。「高度な情報を知りえるそれなりの立場の男」というくらいは「陰謀」でも想像がつくが、実際にはFBIの副長官だったというから、それなりの立場どころか首脳である。

           

           こういう人が情報をリークしてくる意図は、私怨か世論形成のどちらかと相場が決まっているものだが、フェルトにはどちらも当てはまる。前任の長官がいなくなり、新長官として周囲も当確をささやく中、よそから落下傘的に別の人間が抜擢され、その上フェルトとは考え方が合わない。合わないどころか、完全に大統領側の人間なので、捜査の幕引きを画策してくる。長官がこうだから、副長官が抵抗しようと思えば報道を動かすのは定石ともいえよう。ただし国家公務員としては禁じ手である。本作では機密情報をダダ漏らしているように見えるが、「陰謀」ではヒントをほのめかす具合に描かれている。おそらく後者の方が実態には近いだろう。とにかく捜査の話が新聞にドーンと掲載されるから、部内では当然「漏洩した裏切り者を探せ」ということになり、それと同時に事件潰しは着々と進行する。展開は割に地味だが、この緊迫感に惹き込まれた。

           

           ニクソン大統領がFBIに介入しようとしたのは、前任者の存在が大きい。創設者にして長期独裁を敷いたJエドガー・フーバー長官は、歴代大統領の醜聞を収集して主導権を握る陰湿な人だった。この辺りは「Jエドガー」でも描かれている(同性愛の恋愛劇と出来の悪い老けメイクばかり印象に残っているが)。捜査機関が自身の情報収集能力を濫用しているような格好だから、官僚の暴走といってよい。彼の退場とともに、ニクソンがFBIに首輪をつけようと考えたのは必然だろう。

           

           これは好意的に解釈すれば、軍隊のシビリアンコントロールみたいなもので、強大な権限を持つ国家機関を野放しにしておくわけにはいかず、国民全体の奉仕者として適切に管理されなければならない。
           とはいえ一方で、全てが大統領の下にあるのは、これはこれでいかがなものかという実例が本作の扱っている出来事でもある。己が関与した犯罪の捜査にストップをかけることができてしまっては正義はどこにあるというのか。ニクソン自身、官僚の暴走を防ぐというような崇高な考えのもと首輪をかけにきたのではなく、もっとわかりやすい理由に基づくものだというのは、冒頭、前長官の秘密資料を「よこせ」と言ってくる時点でまるわかりである。

           

           本作の8割以上は、「大統領だろうが誰だろうが犯罪は犯罪として捜査し立件する」という捜査機関の独立性をめぐるフェルトの奮闘が描かれている。じゃあ残りの2割弱は何かといえば、これは後で触れる。


           


          【やっつけ映画評】スリー・ビルボード

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             娘をレイプのうえ殺された母親が、道路脇の立て看板3枚に「捜査はどうなってる」と警察を挑発するような意見広告を載せるところから始まる物語だ。住民全員が顔見知りのようなアメリカのド田舎で、クセの強い登場人物たちが入れ替わり立ち替わりして展開していく。印象的な導入だが犯人捜しのミステリではない。意外な展開が目立つが、トリック仕立てがメインディッシュの物語というわけでもない。ネジのはずれたようなキャラが目立つが、ドタバタのサイコホラーでもない。むしろ文学的な作品だった。終わったときは正直「?」となったが、後からじわじわ感じ入るところが出てきた。とはいえやはりわからないことも多い。

             

             劇中、相手からバレバレのヒントを出されているのに「すんません全然わかりません」と大ボケをかますギャグのようなシーンがあるが、俺はこの人物を嗤えない。おそらく何かの意味があるのだろう、思わせぶりな舞台装置は色々あったように思うが、そのほとんどは意味がわからず、気づけてもいない部分も少なくないだろう。その点で「裏切りのサーカス」を思い出した。

             

             あの映画は、「諜報部員の中に裏切り者がいる」という謀略モノの王道のような設定ながら、容疑者が最初から限られているので誰が「モグラ」であってもあまり驚きがなく、ミステリ要素にそれほど魅力があるわけではない。どちらかといえば、ハードボイルド的といえばいいのか、諜報員たちの生きざま死にざまが見せる重量感を楽しむ作品だと思うが、ただし、伏線は見事に貼っている、らしい。二回見たけど、よくわかんなかった。

             

             とはいえ本作の舞台は、英国諜報員のエリートたちの高そうなスーツや高そうな学歴や高度な政治的駆け引きとは全く無縁だ。何も楽しくなさそうな田舎町で、登場人物も総じてロクでもない。田舎の閉じた殺伐とした雰囲気が「ウインターズ・ボーン」と似ている。あの窒息しそうな雰囲気に比べれば、本作はまだカラっとしているが、かの物凄い迫力の刀自とカブる登場人物が本作には2人も出てくる(個人的にはネジのはずれたような十九の女子が最も不気味に感じたが)。

             

             看板を立てたことが物議を醸し、時間が止まったような田舎町に波風が立つ。それどころか物凄いスピードで各登場人物を取り巻く状況も変化していく。この予測のつかない展開が現しているのは、人は変わるということだと思う。変わったわけではなく、元からあった内面が表に出ただけかもしれないが(広告屋のにいちゃんは明らかにそう)、主人公格の娘を殺された母親と、差別的な警官はかなり大きな変化――それもよい方に――を見せている。一定の年齢に達した人間はそうそう変化するものではない上、まるで時間が止まったような田舎町でのことだから、余計にこの変化は感動的で、本作の一番の見どころはこの辺りだと思うのだが、変化をもたらしたものは、はて何だろう。

             

             直接的には途中で届く3通の手紙だ。そしてこの手紙をもたらした原因をさかのぼると3枚の立て看板にたどり着く。つまり看板が差出人に変化をもたらして手紙を生み、この手紙が登場人物たちを変えていくわけだ。共通点は何かといえば、直接相手に語り掛けている点だ。

             

             手紙はそもそも誰か個人が別の誰か個人に語り掛けるものだ。一方で看板は不特定多数に訴える装置だが、この物語の場合は個人名をあげて訴えている。お陰で中傷だと思われてトラブルになるのだが、少なくとも名指しされた当人にとっては手紙のようなものだろう。これに対して本作に登場するテレビ報道は実に扱いが軽い。報道はマスメディアの名の通り、不特定多数に発信するものでありかつ、しばしば「差出人」の主体が曖昧な伝達装置でもある(「今後の行方が注目されます」のような受身形の定型句がその代表的な現れ)。なので手紙のような好ましい変化はもたらさず、騒動に油を注ぐ程度である。

             

             ということを踏まえながらさてラストである。
             


            【やっつけ映画評】デトロイト

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               この監督の作品を見るのはこれで3作目。「ハート・ロッカー」で一躍有名になってからしか存じ上げないが、いずれも重いテーマな上、神も仏もないありさま(と拷問)をドキュメンタリー風味で描くから、見るのは腰が引ける。寒さのせいか、気分がすぐれず何もはかどらないので見に行った。殺伐としすぎていて、逆説的に「元気がもらえる」かもしれんと考えたのだが、さてどうだったろう。自分でもよくわからん。どうもこの監督は、俺にとって興味深いテーマを、俺にとっては好きじゃない具合に仕上げる。

               

               警察官による黒人射殺がテーマだ。今でもよくニュースになっていて後を絶たない。最近はスマホ普及のおかげで、警察側の正当防衛主張が大嘘とわかる映像が明るみに出ることもあるが(にしても警官は無罪になるボーンインザUSA)、ということは昔からそうだったんだろうなと思わされる。本作は「昔からそうだった」の実話だ。

               

               1967年にデトロイトで起きた暴動の最中、モーテルの窓から黒人青年がふざけて陸上のスタート用ピストルを撃ったことで、発砲と誤解した市警察がモーテルになだれ込んでくる。宿泊客は全員壁に立たされ、「銃はどこだ」「知らねえ」ボコッ、「撃ったのは誰だ」「俺じゃねえ」ボコッ、の特別公務員暴行陵虐罪が延々と続く。暴動取締の応援に来ていたと思しき州警察の警官が「人権侵害がひどすぎる」とドン引きするほどだ(そしてその良心派警官が厄介事に巻き込まれたくないと目を逸らす地獄絵図)。

               

               市警の警察官が過度に暴力的に振舞うのは、彼ら猴撞深圻瓩黒人だからだ。嘘つきの犯罪者に違いないという思い込みと、隙を見せると殺されるという恐怖心に因るのだろう。いずれも大元にあるのは差別だが、警官たちは、汚い侮蔑の言葉を吐く等の直截的な差別的言動を誰もとらない点(嘲笑するシーンは少しあるが)が説得力を生んでいる。彼らは(内心は黒人を蔑んでいたとしても)職務に忠実なだけのつもりなのだと思う。なので話が複雑になる。まあ差別の話は毎度そうだ。結果、半世紀前の話ながら、五十年一日状態で今に直結している格好になる。監督がこの古い話を持ち出してきた理由もその辺りにあるのだろう。今やる意気込みは、先日NHKがやっていた赤報隊の番組と同じで、その心意気は素晴らしい。

               

               示唆に富む場面はいくつかある。主犯格の警察官は、序盤で暴行に乗じた窃盗犯を射殺しているが、合理的理由が全くない状況での発砲なので、さすがに上司も咎めてくる。だが面倒くさいのか、適当に理由をでっち上げて黙殺する。結局彼を不問に付したことが、より大きな事件につながっていくわけだ。たがが緩む、というのはこういうことなんだな。特に警察は権限と銃を与えられているから、暴動という特殊な状況下でも、原理原則四角四面は重要なのだ。

               

               現場近くで勤務する警備員のディスミュークスは、警察官に職質を受ける黒人のなだめ役のような立ち回りを普段からしているように描かれている。このため「お前は白人の犬かよ」と罵られるが、反発するより生き抜くことを選べと諭す。この頼れる男っぽい大人なキャラクターのディスミュークスも、この事件の現場では出る幕がない。黒人たちを救おうと隙間を見つける努力はいくつかするが、立場上警察側に立たざるを得ないし、状況も不用意な行動を許さない。要するに傍観者になってしまう。結果、彼には皮肉な運命が待ち受ける。不正を傍観すると、やがては自分に返ってくるということだ。じゃあどうすればいいのかといわれると、さっぱり何もわからないから難しい。正義を貫こうとした人物は射殺されたしで。

               

               このように、問題提起の多い作品だが、救いのない実話を扱っているだけに、内容は救いがない。変にどこかでスカっとさせる演出を入れると途端に説得力がなくなるだろうから、制作側の狙いからいってもこういう物語になるだろう。

               それでも、見た人に差別について考えてもらうというメッセージ性からすると、はて効果的なのだろうかとは考えた。

               


              【やっつけ映画評】ラスト・プリンセス 大韓帝国最後の皇女

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                 冒頭で「フィクションです」とストレートな断りが入る。潔く、割り切って作られた作品だ。主人公やその家族は実在だが、多くは(モデルがいるにせよ)架空の人物で、劇中起こる出来事も架空のものが中心となっている。実在の人物を扱った歴史モノなのにそれはどうなんだという議論は後回しにして、特に中盤からのスピーディな展開はさすが韓国といったところだが、残念ながら期待したほどではなかった。日本統治下を舞台にした最近の作品としては、「暗殺」というのもあるが、こちらもちょっと受け付けなかった。南北をテーマにした作品に比べると、こちらのテーマは今のところ傑作には出会えていない。南北に比べて扱いの難しいデリケートさがあるのだろうか。まあ単に2本しか見ていないせいだろう。


                 2代14年で終わった大韓帝国の皇族(王族)だった女性・徳恵が主人公だ。実在の人物で、大枠(特に最初ら辺と最後ら辺)は実話に沿っているが、真ん中の色んなエピソードは、多くがフィクションである。実話に沿った部分について簡単な感想を先に書いておくと、「主権」とか「国民」とか、言葉としては知っているけど実感としてはわかりにくい事柄について考えさせられた。疎外されたとき、はじめてこれらの意味が実感を伴うものなんだなあ、などと、その程度の呑気な感想を持っただけなのだが。

                 

                 さて本作の物語の根幹部分は多くが作り話という点について。「フィクションです」と断っているしで、いくらでも好きにやればいいと思うが、歴史を題材にしている分、いくら断りを入れているとはいえ、何でもアリにしてしまうと白ける危険性はいくらでもある。例えば徳恵がやたら強いとか、日本政府を欺く狡知の持ち主とか、007のようなヒーロー仕立てにしてしまうと当然興醒めする。なので制作陣も、徳恵の周囲の人間を活躍させて当人はあくまで巻き込まれる格好でストーリーを演出している。


                 上手い設定なのが、悪役が同じ朝鮮民族という設定だ。ハンというこの人自体は架空なのだろうが、こういう日本側に積極的に取り入った朝鮮人(韓国人)は当時たくさんいた。中国や北朝鮮では、彼のような対日協力者は日本の敗戦後、売国奴扱いで排斥されたが、韓国では、北朝鮮との対立という緊迫に直面していたこともあり、うまいこと重用された人もいる。こういう事実を踏まえての造形なので、実にベタな悪役ながら、一定のホントっぽさを出せていると思う。彼の存在によって、日韓の善悪二元論的に、構造が安直になることも防いでいる。歴史モノにおける作り事の造形方法と役割を、このハンという登場人物は象徴している。ま、だとすれば、単純な悪役ではなく「彼には彼の理屈がある」という描き方をしてほしかったところだ。その理屈に賛同できるかはともかく、ただの佞臣以上の姿勢を出すことで、監督が狙った奥行の複雑さをより鮮明に出来たはずだ。


                 ハンとは逆に、徳恵に救いの手を差し伸べるのが、日本で地下活動をしている独立活動家たちである。彼らが画策する徳恵出国計画が中盤のクライマックスだ。桜田門事件という史実をモデルにしているようだが、全体的にはフィクションである。既に述べたように、この一連のシークエンス自体は手に汗握るものがあるし、決行を決めたくせに要所で煮え切らない英親王(徳恵の兄)の頼りなさも、「だから国が亡びちゃうんだよ」と野次りたくなる悲哀が漂い、味わい深い。だけど、この構成は要るのかなあというのが率直な感想だった。


                 彼女の人生の数奇さは、国がなくなったこともさることながら、敵方である日本の敗戦後にもドンデン返さない悲劇が待っていることにある。この苛烈な運命が投げかけてくるのは、くり返しになるが、「主権」とか「国民」とか「国家」とは何ぞやという問いだと思う。脱走を画策する中で、計画に反対する王族が「今の安定した暮らしを失う」と理由を語るシーンがあるが、このような発想は現実の王族にもあったようだ。一見すると実に情けない、佞臣利権のアレ界隈の人々が涎を垂らしそうな台詞だが、まさしく「国家とは何ぞや」を投げかけてくる悲しく矛盾した印象的台詞だと思う。彼女の人生を描く際に作り話を設定するなら、こういった問いを主軸として炙り出すような題材を考えるべきではなかったか。(受け身的とはいえ)独立の闘士を背負わせるのは、少々趣旨が違うのではないかと思う。

                 

                 ま、朝鮮総督府時代のお話は、まさしく本邦の題材でもあるから、イマイチ不発の作品だったということは、今度はこちらの番ということでもある、と我が身の燃料にしておくとしよう。

                 

                「덕혜옹주(徳恵翁主)」2016年韓国
                監督:ホ・ジノ
                出演:ソン・イェジン、パク・ヘイル、ユン・ジェムン


                映画の感想:君の名は。

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                   テレビでやっていた録画をようやく見た。備忘録がてらネタバレで感想をいくつか。

                   

                   手垢のついたモチーフを思い切り主軸に置くのは、昔から憧れている。見始めて間もなく、同世代の男女が入れ替わるのでなく、〇〇と□□が入れ替わるのはどうだろうとか、自分なりの別案をあれこれ考え出したから、そういう夢想をこちらに誘発してくる点、よい作品なのだろうと思った。見ながら、お!違う時間の人間と入れ替わるのはどうだろう、なんて考えていたら、そういう話だったのには苦笑したが。

                   

                   入れ替わりについては、藤子F不二雄「未来ドロボウ」のドラマを見たときに、ごちゃごちゃ書いたことがある。そこでも書いているが、巨匠Fには、この入れ替わりモノがいくつかある。親子が入れ替わる話とか、若い男女とオッサンの計3人が入れ替わる話とか、少年が、娘を亡くした父親に、少年が死んだ娘と入替させられるという本作と若干かぶる作品もある。例の牧歌的な絵で短編だが、泣かせる内容だ。本作と若干かぶると書いたが、本作の場合は涙腺は刺激されなかった。理由は後で書く。

                   

                   一番好きなのは、ドラえもんに出てくるのび太としずかちゃんが入れ替わる話だ。体のパーツを入れ替える道具で、のび太がしずかちゃんの優秀な学力を拝借しようと頭を交換したら、結果体が入れ替わるだけで、頭はのび太のまま。子供のときは読んで混乱したものだった。つまり、入れ替わりが起きたときの、本人を決定する主体はどこにあるのかという哲学的な問いである。本作でも、入れ替わりが起きたとき、元の人格の特技がそのまま継承されている(瀧君が裁縫上手になったり、三葉がバスケで活躍したり)が、特技の源泉は果たして、意識なのか身体なのか。

                   

                   そんなことをつい考えてしまうのがSF要素が持つ面白さだと思う。本作の場合、入れ替わり以外にも、あれこれボンヤリ想像した。高度に写実的な背景画で、田舎の女子高生と東京の男子高生の暮らしを並べられたことから来る、同質性にまつわる些細な発見とか、大災害という展開に驚きつつも受け入れていることとか。後者についてだけ説明すると、東日本の震災前だったら、トンデモ展開にしか映らなかったと思う。何より作り手も思いつかないか、思いついてもアリエネーと没にするかじゃなかろうか。時間差の中で一種の文通をしつつも会えない男女、かつ片方に悲劇が待つ、というのは「イルマーレ」と同じだが、あちらの悲劇が交通事故止まりなのは、まあそりゃそうなるわね。ちなみに韓国は中国やインド同様、大陸型のデンジャラスな運転なので、交通事故死は日本より身近だ(ネットで検索したら、人口が日本の半分以下なのに死者数は日本よりもちょっと多い)

                   

                   とまあ、作品に誘発されて脳が活性化したのは楽しい時間だったが、肝心の作中における「入れ替わり」の役割が希薄だった印象。話を展開させるための道具にとどまり、二人の主人公にとって何かの影響があったかどうかといえば、何度も牴颪Ν瓩Δ僧が芽生えた、というくらいでしかない。話を転がすためのただの手段になってしまっていると思った(一方で先に紹介した巨匠Fの場合は入れ替わり自体に大きな意味があるので泣かせる)。

                   

                   話に中身がないとか、監督の描く女子が完全に男のエロ目線だとかの巷の批判も、この辺りに原因があるのではなかろうか。いずれにせよ、根幹部分の意義が腑に落ちなかったので、恋愛モノに期待してしまうせつなさを感じられなかったのが残念。

                   

                  2016年日本
                  監督:新海誠
                  出演:神木隆之介、上白石萌音、成田凌


                  【やっつけ映画評】ダンケルク

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                     フランスの海岸に追い詰められたイギリス軍兵士の撤退を描いた風変りな戦争映画だ。見終わって、「世界侵略: ロサンゼルス決戦」に似た雰囲気の作品だと思った。


                     船で英仏海峡を渡って逃げることになるのだが、なにせ兵士の数が40万人もいるから、一度に全員出航できるはずもない。順番待ちがとんでもない状態になる中、これる船も限られている。「乗せてくれ!」「定員オーバーだ」というやり取りが繰り返されて、ようやく乗れたと思っても、敵の攻撃を受けて沈没する。40万総カンダタ状態の、蜘蛛の糸祭りである。

                     

                     蜘蛛の糸と異なるのは、糸を垂らしてくれるお釈迦様が複数いることだ。撤退する兵士、軍の依頼でそれを救いに来る民間船の船長、敵機の撃墜に奮闘する戦闘機パイロット。本作はこの三者の視点をテンポよく組み合わせながら展開し、台詞もキャラの立った登場人物もほとんど存在しない構成ながら(見事なくらい台詞が少ない)、スリリングな内容となっている。

                     

                     「世界侵略〜」と似ているのは、このスピーディな展開もさることながら、個々の視点からだけ描き、全体像がさっぱりわからない点だ。「撤退する兵士」の主人公トミーは、とにかく逃げようと、ずっこい手も使いながら、ひたすらにあくせくしているだけで、そもそも彼が何者なのかすらよくわからない。ドイツ軍に追い詰められているので逃げようとするが、何度も船が撃沈されてうまくいかない、ということがただ繰り返される描き方に徹している。

                     

                     「動員される民間船」の主人公ドーソンは、トミーよりは台詞が多く、背景も多少はわかる。印象的な台詞もあって、外見以外は最も主人公らしい主人公ともいえる。ただし、民間人なので当たり前だが、彼にも状況はさっぱり見えていない。そもそも今どのあたりにいるのかもよくわからないまま、とにかくダンケルクの海岸に向かう。ファリアを中心とする空軍もしかり。目の前の敵機撃墜をひたすら目指して飛んでいるだけなので、空から俯瞰した何かがわかるわけではない。

                     

                     こういうアイレベルでの描き方は、目立って新しいわけでもなく、それこそ「世界〜」のようなバカSFでも用いられているわけだが、本当っぽさを出す上では相当有効だと再認識させられる。本当っぽさを出すと、必然内容はしんどくなる。次々人が死ぬシーンがつらいからだが、本作の場合は「撤退」なので、やられることはあっても、殺すことがちっともない分、つらさも半分とはいえる。「世界〜」の場合、相手はわけのわからない生命体なので、爆殺しても心の痛痒はないが、戦争となると、実話でもあるし、敵を叩き潰すことが必ずしも爽快なわけではない。

                     

                     その点で、撤退という題材の選択は、まことに妙味である。作品紹介を初めに読んだときは、ピンとこなかったが、確かにこれは面白いテーマだ。
                     当然ながら、撤退しただけでドイツ軍は何のダメージも受けていないまま映画は終わるから、特に何も解決していない。それでも何となく爽快感を覚えながら見終わったのは、ファリアの不敵な笑顔で締めくくるラストシーンによるところ大だが(彼の演者がトム・ハーディだと、この時点でようやく気付いた。バットマンに引き続き、何かと口が覆われている役だとくだらないことを考えた)、これまた人類の反撃が始まりそうなところで終わる「世界侵略〜」と重なる。

                     実際、この後反撃が始まることを史実として知っているからくみ取れるだけのことだが、厳密には、作中で登場人物が指摘しているように、ドイツの勢力圏が広がったことでイギリスはバンバン空爆を受けることになる。それを思うとにわかには喜べないのだが、それでも爽快感があるのは、「生き残ること」の価値を強調しているからだろう。兵士たちは、どうにかこうにか引き揚げ生きながらえたことに安堵しつつも、己のカンダタ行為に自責の念もあり、やりきれない表情のままなのだが、「人間だもの」とばかりにそれもこれも許容している描き方は、まるで釈迦の掌のようで、ずいぶんと救われるのである。

                     

                     それにしても、戦争というのは大変だということがまざまざと伝わってくる作品だ。ひとえに40万人の移動という途方もなさが、よくわかる作りになっているからだ。気軽に戦争に同意する人は、こういう地味な大変さをまず見た方がいいのではないかと思わされる点、一風変わった視点からの強烈なメッセージに見えた。雪でごった返す(の2乗くらいの)東京の主要駅の映像を伝えるニュースを横目で見つつ。

                     

                    「DUNKIRK」2017年アメリカ
                    監督:クリストファー・ノーラン
                    出演:フィオン・ホワイトヘッド、マーク・ライランス、トム・ハーディ


                    映画の感想:政治の映画2本

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                       政治家、それも国家元首が主人公の作品を2つ見た。
                       「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」。ダサい邦題だ。原題は「Margaret Thatcher」かと予想したが、「The Iron Lady」だった。「涙」をつけるところが邦題っぽいが、実際、「鉄の女」と「涙」が出てきたから内容通りの語彙選択だ。

                       

                       「鉄の女」は、主張を曲げない女性政治家に対してしばしば用いられる枕詞で、サッチャー以外にもそう呼ばれた政治家は、ウィキペディアが紹介するだけで十数人。でも政治家ってそういう仕事じゃないかしら。元首になる人ならなおさらのこと。要するに女だから、女は弱いという固定観念があるからこそ使われるのだろう。「鉄の男」はあまり聞かない。「鉄男」という映画が昔あったが、これは文字通り鉄になる男の話だった。「鉄人」は、頑健なスポーツ選手もしくは調理技術が長けてるっぽい人を指すから意味が異なる。
                       「鉄の女」は過去の話ではなく、ドイツの現職首相にも用いられているのを見たことがある。「女帝」という陳腐にもほどがある表現も目にした。上沼恵美子じゃあるまいし。このような言語感覚が現在も流通しているのはいかがなものか。メルケルに何か枕をつけたいなら「ビール党」ではないのかと思うが、政治家に政党以外で「党」を使うとややこしい。

                       

                       タイトルだけを云々していると駄目な文芸選考委員のようであるが、このタイトルが割と中身を表しているように思う。
                       「鉄の女の涙」から想像するのは、ときに冷血とも見える思い切った判断を下す豪腕の政治家でも、個人としては悲しみや孤独を抱えている――というような類型的な伝記ものである。テレビ局がやっつけで作るような、批評性皆無の顕彰まがいのあの手のような内容だ。本作は、引退後のサッチャーが、先立たれた夫の幻影と会話しながら過去を回想するという凝った構成ながら、全体的には表層的に来歴をなぞったようにしか見えなかった。政策判断の裏面や秘史が出てくるわけでもなく、当人の内面をえぐるわけでもなく、家族モノとして掘り下げるわけでもなく、回想スタイルを採用したのも、手際よくダイジェストでたどるための方便にしか見えなかった。どういう意図なのだろう。テンポがいいのと、無自覚な顕彰に陥らないように注意している点はうかがえるから、その辺は好感がもてる。

                       

                       作中ちょっとだけ登場する炭鉱労働者のストライキは、「パレードにようこそ」で描かれている舞台そのものだ。同性愛者の地位向上を訴える活動家が、サッチャーの炭鉱閉鎖に対抗する労働者と連帯しようと奮闘する非常に面白い映画だった。暴力として働く善意(道徳)と、手を差し伸べ、その手を握る理想形の善意が交差する感動的な作品だ。これを見ると「鉱」を虐げて何が鉄の女だとすっかり彼女が嫌いになってしまう。本作に期待したかったのは「さりとて首相にも一理ある」という反対側の視点だったのだが、「新自由主義」で済むような見出しレベルの描き方にとどまっていた。一つだけわかったのは、食料品店の娘から政治家にまでなった当人の負けん気と努力が小さな政府を志向させた点で、なりあがり系の人に多いタイプだと思うが、トワネット系ではないようだ。

                       

                       「リンカーン」。何のひねりもないタイトルながら、こちらは主題が明確だ。
                       五十余年の生涯の最後の4カ月=4年続いた南北戦争の最後の4か月だけに的を絞っているところがその最大の理由だ。子供のころ読んだ伝記に登場する話はほとんど出てこない。的を絞るというのは、切り口が明確にもなる。


                       この期間に何があったかといえば、奴隷制廃止を憲法に盛り込むための奮闘だ。南軍は和平したがっている。憲法をあきらめれば、これ以上国民を死なせることはない。一方で修正案を成立させるには、与党である共和党の温度差をまとめる必要があるし、それだけでは下院での票数が足りない。世界史を履修していれば結果は知っているはずだが、それでもどうなるのだろうとハラハラしてしまった。知らなければ余計だろう。そのようなエンタテイメント性もしっかり確保しつつ、奴隷制廃止という(後世から見れば)全くもって正しいことも、法制化するには色々難しいことがあることが示され、「法の支配」とは何か?といういい勉強にもなる。脇役の存在感も光っており、さすが手練れの監督による映画だと思わされる。

                       

                       この作品は与野党左右、双方に目配せしながら描いた「サッチャー」と異なり、作り手は思い切りリンカンに肩入れする立場である。奴隷制廃止を巡る尽力を顕彰しているともとれる。それでも鼻白むことがなかったのはなぜだろう。

                       仮に「サッチャー」が思い切りサッチャー寄りの内容だったら党派性が鼻について辟易していたと思う。フィクションに政治を持ち込むのはいくらでもありえるが、党派を持ちこむのはいただけない。プロパガンダになってしまう。

                       

                       

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