【やっつけ映画評】リチャード・ジュエル

0

     「朝、遅刻しそうだとパンを加えながら慌てて駆けている女子学生が角で男子とぶつかって、というマンガでよくあるやつみたいな」などと若いのが言うのをつい先日目にした。今時の若い衆にもこの「あるある」は生きているんだなと何か発見をしたような気がしつつ、さてそもそも出典は何なのかが気になった。


     wikiの説明では、明確な出どころは確認されいないらしい。「運動会で順位をつけないために手をつないで横並びでゴールテープ」と同じく、都市伝説、要はデマの類ということだ。

     初出として確認されているのは「サルでも描けるまんが教室」で、この作品内ではすでに「あるある」として紹介されている。俺もリアルタイムで読んだ。兄が愛読していて「これ笑える」と見せてきたのだが、不思議なもので、その時点で俺も兄も既視感を覚えながらゲラゲラ笑ったのだった。本当は見たことがないのに、「あるある」と思って笑ったのはどういうメカニズムなのだろう。


     本作で登場する女性記者(実在の人物)が、色仕掛けで捜査官から情報を引き出すシーンは「ステレオタイプを助長する」と非難されている。このステレオタイプは俺も見聞きしたことがある。例えば「レディ・ジョーカー」では、週刊誌記者が「うちの爆弾娘が肉弾戦で凄いネタを取ってきた」などと語る台詞がある。

     これが本作と異なり妙にリアルなのは、男性の週刊誌記者が男性の新聞記者にそう話している(実際のその場面は描かれていない)という点だ。しばしば男性同士が「あいつはそうらしい」と語る。数年前にも知人がそう言うのを聞いて、いまだにソレは生きているのかとちょっと驚くと同時に、知人の生々しいミソジニー側面を知ってしまいたじろいでしまった。

     「体を使ってネタを取る」記者は過去に本当に存在したのだろうか。情報源のおっさんの側がそれを期待して「浮気しよう/縛っていい?」と迫るケースは財務省で1件、実在が確認されている。あと男性記者が賭け麻雀で情報源と犂愀賢瓩鮖って、結局何も記事に書いてない例が1件ある。


     この場合は、デキる女性に対する男性の嫉妬から発せられている&男性側に「女はそうに違いない」という蔑視が手伝う、というメカニズムは想像がつく分「パンの女子」よりは謎めいていないのであるが、本作の主人公リチャード・ジュエルについても、働いているメカニズムは似たようなところがある。


     「アイ,トーニャ」では虚言壁のバカ、「ブラック・クランズマン」では底辺白人至上主義者を演じた俳優が演じている。どちらも大変にそれっぽいというこちらの色眼鏡にかなった風貌の役者であり、本作ではずっと知性はあるものの、何だか危なかったしいところは共通の役どころを演じている。

     FBIが彼を重要参考人としてピックアップしていくプロファイリングという手法は、正味のところ「なんかアヤシイ」というだけの素人かよという捜査に過ぎないのだが、確かに「なんかアヤシイ」説得力はある。残酷なキャスティングである。いかにも友達がいなさそうで、承認欲求は強そうで、自作自演の爆弾事件で英雄になりたそうな外見、という色眼鏡である。

     90年代が舞台だが、今だとさしずめネトウヨを気取って民族差別デマを振りまいてそうな外見、という色眼鏡になる。これも、やたら太っちょのそういうヤツを見たり会ったりしたことがあるわけでもないのに、いかにもソレっぽいと思ってしまうのはなぜなのだろう(例えば「主戦場」の登場人物にこういう外見のは1人もいない)。

     

     決定的な証拠がないので、FBIも逮捕状を取れず、違法な捜査で外堀を埋めていこうとする。その1つとしてFBIが地元紙にリークしメディアスクラムが起きる。これだからマスゴミは、と非難するのは容易いのだが、そういう人は同時にリチャード・ジュエルの無実を信じることもしないんじゃないかしら。おかしなもんだ。単に見えている物事に対して反射的に嫌悪感を抱いているだけだからそうなるんだろうな。

     

     本作が、他の冤罪モノと異なる点の1つは、当人が捜査機関に対して非常に従順である点で、この部分は特に日本社会においては啓発ビデオ的な部分になるのではと思う。

     本邦社会は警察が好きだ。刑事ドラマでは悪徳上司が出てくるのが定番で、不祥事のニュースを見ると「また大阪府警か」と訳知り顔で呆れる割には、治安向上のため警察権力を強化する、なんてな話にはあんまり反対しないし、警察官が路上で男を押さえつけていたら、その男が悪人に違いないと疑いもしない。リチャードの場合は、警察官志望で夢かなわず警備員をやっているという人なので、その思いは余計に強い。

     

     仕事柄、警察官を志す若い衆をちょこちょこ相手にするのだが、悪を懲らしめるヒーローになりたい、といったリチャードのような素朴な憧憬を抱いているのも少なくない。そしてそういう学生はしばしば、シュタージか西部警察かっていうくらい憲法全無視の主張を無邪気にしてくるものだ。多分、リチャードが警官になれなかったのはそのせいだ。事件を通じてその考えが間違っていたことに悟った後の彼の足跡を見るとよくわかる。その点でも、刑事分野での人権を学ぶいい教科書みたいな作品だった。


     FBI側がろくに証拠もないまま立件しようとしている大変に筋悪な事件につき、法廷モノにありがちな敏腕弁護士の機知による大逆転とかの派手な展開は何もない。その地味な話を例によってソツなく重厚なドラマにしてくるタフガイジジイの演出力は、毎度のこととはいえどういうテクニックなのかしらと舌を巻く。

     あやしげな捜査を補うように報道にリークして既成事実化を狙う辺り、松本サリンの河野氏とリチャードは重なるのだけど、あちらをテーマにした「日本の黒い夏―冤罪」は、なんだか甘っちょろい作品だった。記者にフォーカスしたせいかもな、と、本作ではあくまでサブ的要素となっている地元紙とやり合うシーンを見て思った。


    「RICHARD JEWELL」2019年アメリカ
    監督:クリント・イーストウッド
    出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ


    【やっつけ映画評】ドゥ・ザ・ライト・シング

    0

       スパイク・リーの代名詞的な30年ほど前の作品(そして未見)につき、こちらも今見るべきだろうと考えたのが、結構困惑させられる作品だった。警察官が黒人青年を過剰に制圧して窒息死させるとか、「俺は将来この街にビルを建てて不動産オーナーになる」と夢を語る人物が「トランプかよ」と茶化される台詞があるとか、期待通り(後者は予想外だが)妙にタイムリーな部分はあるのだけど。


       大きめの小屋で大人数でやる演劇のような作品だという印象を受けた。といっても大方の人には意味がわからないだろうから説明しよう(前にも書いたかもしれんけど)。
       大きめといっても世間基準では中小のホールだが、俺たちゃ自らを「小劇場」と称しているので、このクラスでも結構な大箱になる。当然使用料金もそれなり嵩むので、客を集めないといけない。その一番手っ取り早い方法が出演者を増やす=知り合いがようけ来てくれる、である。ただし問題は、20人かそこらの役者をどうやって全員出すのかである。20人にそれぞれ役を振ったとしても、歌う、踊る、集団でガヤガヤする、最高裁判所の話をやる、でもない限り、1つの場面にそんなにたくさんの役者を出すのはかなり難しい(酒の席なんかで「通行人Aでいいから出して欲しいわ」と冗談で言ってくる人がいるが、演劇の場合「通行人A」なんていないんだよ)。


       なので、1〜4人程度のグループが右から現れ、いくつか台詞を喋って左に来ていく、といった具合に、舞台上にいる役者を次々と入れ替えていく手法を取る。「麒麟がくる」を借りて説明すると、十兵衛と左馬之助が会話をして「よし尾張に行こう」とソデに消えると、信長と帰蝶が出てきて会話して消える。入れ替わりで東庵と駒が現れ会話してるところに菊丸と藤吉郎が現れて、駒と3人でわちゃわちゃする。たまに朝倉義景が笑いを取る。といったことの繰り返しで展開させる。
       うっかり大河なんか例にとるから重厚なドラマをイメージしそうになるが、そんな筋の通った話なんか書けないor書く気がないというケースがほとんどなので、1つ1つの場面に話らしきものはあっても、全体の流れはそれほど明確ではない。こういうスタイルの常として、役者陣は総じてハイテンションだったりキャラが濃かったりするのだが、話らしい話がない分、各登場人物の行動原理がよくわからないので、なぜ叫んでいたり揉めていたりするのかついていけないこともしばしば。キャラの濃さだけが悪目立ちすることになる。


       本作は、こういう演劇ととてもよく似ている。
       ブルックリンの街、それもせいぜい2〜3ブロック四方くらいの狭い街区を舞台に、そこで暮らす住民たちの1日の様子が描かれている。多くのキャラクターは決まった組合せで登場する上、場所とセットになっていることも多い。場所を移動するキャラクターも何人かいるが、貧しい黒人が多いエリアで多くが失業しているせいか、あまり目的もなく日がなぶらぶらしているだけという様子である。そして出番の多い主要な登場人物は戯画化された特徴を持っている。要するにキャラが濃い。これら各登場人物の日常風景の断片が入れ替わり立ち替わりで展開していき、話らしい話は希薄である。

       

       というわけで、はてこれはどういう映画なんだ?と困惑し、そして昔よく見た演劇そっくりだと思った。問題はすでに紹介したこのスタイルの舞台作品が、俺自身は苦手な点である。なんとなく好かんな〜と思いながら見る羽目になった。
       余談だが監督自身は主人公のムーキーを演じているが、舞台の場合はあまりこういうことはなく、劇団の代表はラジオDJを演じていることが多い。全体を俯瞰するポジションにいて、かつ傍観者、そのくせ妙に目立つ、要するに最もおいしいポジション。俺はそういうお約束を避けたいクチなので、本作でいえばピザ屋の兄弟のどっちかをやると思う。地味かつ比較的台詞が多い損な役。

       

       スパイク・リーといえば当然、差別問題を期待するわけだが、本作で描かれているのは「弱いものがさらに弱いものを」の構図のやつである。イタリア系が黒人を見下し、黒人は韓国人を見下しているが、アングロサクソン系からは総じて見下されている側になる。この街の住民としては1人だけアングロサクソン系白人ぽい若者が一瞬登場するが、「ここは自由の国だよ」とやたら態度が軽やかで、難関大学のやつほど学歴を気にしない図式と同じである。

       一方、警察官はラスト以外は割とのんびりしていて、そこまで威圧的ではなく、むしろ公平な態度を取っている。今問題になっているのは、警察、ひいては大統領自らが差別を撒き散らしているから、それに比べるとずっと牧歌的に見える。

       

       「13th」によると、80年代は(すでに今と同じ警察による犯罪は起こしつつも)今より警察が重武装じゃなかったり刑罰強化の方向性が始まったばかりでその後ほどはひどくなかったのかもしれない。ついでに時代が未来へと向かっている明るさのようなものが今よりもあったはず。なのでかどうか、ラストもDJの「投票に行こう」という台詞で締めくくられており、全体的にはカラっとしている。30年後の今見ると、そのことにまず暗澹たる気分になる。退行しとるやんけ。

       

       8割方ダラダラと展開しながら、最後の最後に一気に緊迫して暴動&死者発生になる展開も、くだんの演劇っぽいのであるが、警察がさして役に立っていない(どころか1人死なせている)のは見逃せないポイントである。普段の鬱憤の積み重ねが、くだらないことで爆発した格好の騒動であるが、結局これを防げるのは行政しかない。警察が役に立つのは、悪ふざけで水をぶっかけるシーンや、爺さんが子供を助けてトラブルになるシーンで場を収める役回りのときだと思った。

       

       


      映画の感想:カーマイン・ストリート・ギター

      0

         ニューヨークのギター工房の1週間を撮ったドキュメンタリーの小品。格好いいタイトルだが、単にその工房の屋号であり、屋号の由来は住所地の名前に過ぎない。十三の十三屋と一緒。

         19世紀の建物の廃材からエレキやアコギを作って販売しているという物語性が面白いのであるが、店主のリックが「考えてみれば廃材使ってギターにするなんておもしろいよな。木材に新たな命を吹き込むんだ」と、自分で映画の趣旨を全部言ってた。それ自分で言うたらあかんやつやん。
         原材料費も抑えられるから合理的経営。ゴミ置き場や火事現場からくすねてくるときもあるというから、横領の薫りも漂うのだがアメリカの刑法はよく知らない。

         

         そういう店に、顧客であるプロのミュージシャンが現れては駄弁って、を繰り返す。よく知らない人ばかりだと思って見ていたら、ジム・ジャームッシュが登場。こいつは何か出てきそうな気がした、と思ったのは、おそらく予告かチラシかで見ていたからだろう。

         音がおかしいと自分のアコギを店主に見せると、弦を交換して解決。「故障かなと思ったら→コンセントはつながってますか?」レベルのトラブルである。弦なんか自分で替えろ。完全に映りに来ただけだな、こいつは。

         

         工房だからルーティン的な動きばかりなのだろう。劇映画のような安定したカットが多く、あまりドキュメンタリーぽくない。話らしい話もないけど、たまにささやかなドラマがあり、あとは木材やギターのうんちくが人によってはおもしろい、という全体の趣がジム・ジャームッシュのようであった。若干鼻につく。

         工房が舞台なのに、制作過程の描き方があまり詳しくない、そのソフトタッチなおしゃれ感のせいだろうな。あとテレキャスタータイプのばっかり出てきて、アコースティックギターも含めたそれ以外のギターがろくに出てこないところも個人的には消化不良。

         

         The Killsのギタリストが、事故で左手中指にマヒが残り中指なしの奏法を研究した、というくだりで、「ネックが太い方がいいよ」と出してきて弾かせると、お〜確かにと当人も感動するシーンが、プロを見せつけてくる数少ない場面だった。このバンドは昔、フェスか前座で見た覚えがある。あとチャーリー・セクストンがすげー格好いいのに驚いた。吉川晃司みたいないい年の取り方をしている。

         

         彼もそうだが、顧客のほとんどが中年以上。店主のリックからしておそらく60をとっくに過ぎているだろうし、劇中の台詞では携帯もPCも持たない頑固者である。つまり、エレキギターもロックも、すっかりそういう世代向けの存在になっているということだ。

         弟子のシンディは台詞によると25歳だから、中卒で舞妓を目指す女子くらいレアな存在に思えてくる。パンクロッカーみたいなアイラインにウルフカットというスタイルも絶滅危惧種だが、ボーイフレンドもモトリークルーみたいな格好をしているから、あんまり友達いなさそうだ。


         とにかくプロのギター弾きが現れては試し弾きしていくわけだが、当たり前の話、全員すごくうまいので、楽器屋の居心地の悪さの重量級を見せられた気分になってそわそわしっぱなしだった(楽器屋で試し弾きしている店員や客は大抵これ見よがしなので、俺のようなへたっぴはいたたまれなくなってすぐ店を出てしまう)。

         まあギターの音の良し悪しも大して聞き分けられないんだけど、今持っている安物が音が悪いのははっきりしているので少々値の張るのが欲しいのは欲しいのであるが、テレキャスターがそんなに好きではないのであまり購買意欲はそそられなかった。

         

        蛇足:削りたてのネックを客がすりすり触るシーンで、リックが「そげが刺さるぞ」と笑うのであるが、父親が口にするの以外で「そげ」という言葉と初めて遭遇した。どっかのおっさんが言ってるならともかく字幕だからちょっと驚いた。ネットの辞書によると関西方言とのことらしいが、はて。

         

        CARMINE STREET GUITARS
        2018年カナダ
        監督 ロン・マン


        【やっつけ映画評】13th 憲法修正第13条

        0

           家にいる時間が長くなる中、いよいよ動画配信の契約をするかと思っていたが、なんだかんだでいまだにしていない。NetflixとAmazonには気になるドキュメンタリーがいくつかあって、儲けている企業の面目躍如な一面がある。本作もそのうちの1つで、4年前の作品だがアメリカでの状勢を受けて注目が集まっている。そのせいか無料公開されていた。無料公開が社会貢献の1つなら、見るのもまた貢献の1つだろうて。


           何せ、予想はしていたが、アメリカの動きに対する日本の報道の語り口の幼稚さといったら。こんなんだから映画を見るだけでも大層立派な行為になってしまう。「デモ擁護=左派」という冷戦構造みたいな頭で逆張りをする連中の惨状はいうまでもない。声を上げることに苦言を呈したいならジャッキー・ロビンソンくらい引き合いに出せ。どうせ知らんやろうから「42」見ろ。


           そしてデモ側に理解を示す番組や記事にもだめだこりゃが目立つ。大卒の選抜者が束になって町山智浩1人に勝てていないんだもんなあ。極めつけがNHK。どうせ「トランプ寄りに作るのが無難だろう」という党派性に基づく判断だったのだろうが、それで当のアメリカから怒られてるから世話はない。保身のためにひたすら媚びへつらってるのに、逆に怒りを買って当の御主人様に殺される北斗の拳のウサを思い出した。我らが公共放送がウサ!国会で証人喚問するレベルだろこれ。

           だもんで、無料公開のドキュメンタリーくらい見ろって話なんである。

           

           タイトルにある合衆国憲法修正第13条の成立過程はスピルバーグの「リンカーン」に詳しい。リンカンの代名詞でもある奴隷解放宣言を恒久化するため憲法修正に奮闘する姿が描かれている。リンカンの主張には正義があるが、修正案を通過させるための強引な手法にはアウトの薫りが漂うところが面白い映画である。

           

           あの作品では今一つ触れられていなかったこの条文の犒雖瓩ら本作は出発している。
           奴隷が解放されれば、「それでも夜は明ける」のラストで「窃盗だ!訴えるぞこの野郎!」と、奴隷を1人失っただけでぎゃあぎゃあわめいていたあの陰湿な農場主なんかは完全なるビジネスモデル崩壊の憂き目に遭う。というわけで条文の穴である「except as a punishment for crime(犯罪の刑罰を除き)」に目をつけ、黒人を次々しょっぴいて犯罪者にすることで、奴隷扱いを継続することになる。
           こうして黒人=犯罪者という図式が作られ、奴隷解放の大義は霞むことになる。「有色人専用」による隔離が常態化してもいく。「それでも夜は〜」のソロモンが、序盤で白人の興行主たちと高そうなレストランで会食するシーンがあるが、その120年後を舞台にした「グリーンブック」では、そういう店に黒人のドクター・シャーリーは入店できないから、むしろ退行しとるがなという話である。


           ここまでが映画の序盤だ。その後、特にレーガン政権以降、この「黒人=犯罪者」の図式が票の獲得のために利用され受刑者が激増していく。この刑事司法部分のいびつな肥大化を本作は主題としている。
           アメリカは建国段階から記録が残る稀有な国とよく言われるが、同じく黒人差別問題も起点がどこなのかがはっきりしているんだなと、ここまでの歴史ダイジェストを見せられて思った。アメリカの場合は建国から現在に至るまで同じ体制が続いているから連続性が明確というのもある。

           とにかく黒人に限らず、現在の差別問題も必ず歴史とセットになっているから、リビジョニストは罪深い。「日本人はどうせ差別を理解できないから、せめて歴史をきちんと教えろ」という指摘を見たことがあるが、近代史をちゃんと押さえておかないと、こういう議論そのものが成立しなくなるのは間違いない。
           ちょうど軍艦島を巡って徴用工の差別は聞いたことがないという島民の証言を掲示して、というニュースがあった。そりゃ差別なんか「聞いたことない」に決まってる。「それでも夜は明ける」の農園主もどうせ「差別なんかなかった」って言うよ。自覚がないし興味もないんだから。なのである意味歴史の実相を伝えてるんだよこれは。

           問題はそれを学術的にどう評価するかであり、この記事みたいに「韓国が問題視する可能性もある」じゃなくてお前が問題視しろという話である。センター長が「政治的意図はなかった」と言う(この場合、正確には「党派的」だろうが)のと同様、「韓国が問題視」も党派的。ろくに意味を持たない。俺はいいけど部長が何て言うかなあじゃねえよ。「政治的意図は」なんて愚にもつかないコメントと同じ土俵に乗ってどうするんだ。記者もデスクもこの映画見ろ。


           NHKも、アメリカに怒られた途端動画を削除して謝罪しているが、「配慮が欠け不快な思いをさせお詫び」だから何が問題なのか完全に無知だと自白している。恥の上塗り。

           環境問題と同じく全世界的な問題だから、よくわかりませーんてのは信用問題にも関わりおたくらの好きな政治的にも非常にマズイんだけどな。その辺のコーチ屋の半額で研修したるよ。全然意味ある内容にできる自信あるし。映画見せるだけやけど。

           

           さて本作は、一応反対の立場の共和党議員らにもインタビューしているのだが、人選に悪意があるのではないかと穿ってみてしまうほど、ツルンとしたいけ好かないのばかりだった。一方、マイケル・ムーアやジョージ・ルーカスが蛇蝎のごとく嫌っている共和党の大物ニュート・ギングリッチが黒人側に理解を示す発言をしているのは「へー」というところだった。ま、マイケル・ムーアの語り口でしかよく知らないからだろうけど。

           

           本作が明らかにしているのは、奴隷制度がなくなった後も、黒人ないしは中南米移民も含めた有色人をスケープゴートにすることによって延命を図ってきた仕組みが形を変えながらずーっと続いてきているということである。
           なのでデモのこの拡大ぶりは何も不思議ではない。一方、全く融和を図るポーズすら見せようとしないトランプも、単に彼が特異な人物というだけでなく、デモ側の主張を受け入れることで失うものがある、というのを物凄く恐れているからなんだろうなとも理解した。100分程度で勉強になった。これ丸パクリして取材しなおすだけで、日本じゃ町山の番組以外では誰も指摘してないことをえぐる特集なり記事なりが出来るじゃん。会議会議で出来たアニメが「ウサ」だから、会議やめて映画見てパクれ。


           合間合間には、ブリッジ的にブラックミュージックが差し挟まれる。あまり詳しくない分野だが、俺でも知ってる名前でいうと、ニーナ・シモン、パブリック・エネミー、アッシャーなど。歌詞にも字幕があって、そこで歌われていることは、まさしく本作で描かれていることそのものだった。無論、だから選んで使っているんだろうけど、つまりは昔から公然と歌われてきたことで、知られざる実相でもなんでもなく、ずっとそうだったということなんだな。これも勉強になった。

           

          「13th」2016年アメリカ
          監督:エヴァ・デュヴァネイ


          【やっつけ映画評】それでも夜は明ける

          0

             公開当時くらいに、かっしゃんから「見ました?」と聞かれ、見てないと答えたら推薦の辞をいくつかくれた作品だった。かっしゃんが映画を薦めてくるのも珍しいと思ったが、後で振り返るに、俺なら当然見ているだろうと期待していたのだろう。見ていなかった上、その何か月か後にも同じ質問をされて未見だったから、がっかりされに違いない。というかそういう反応だった。


             あれからずいぶんたって、ようやく見た。こういういかにも重そうな作品は公開当時に見るべきだ。後になるほど気圧されてなかなか手が伸びない。しかしアメリカでの動きを見ていれば、今見ずしていつ見るというのか。「俺が薦めたときだよ」とヤツの声が聞こえてくる。

             

             実際、ストーリー紹介から想像する通りの重い作品なのだが、予想と違ってよく出来た娯楽映画のようなスピーディーな展開に引き込まれた。特に序盤はカットバックを多用して、時間軸を複雑にしているから、ミステリでも見ているような格好で興味をそそられた。ああいう時間の行ったり来たりは、手法としてすっかり定番化している分、安易に映る危険性があると思うが、その点かなりうまく作っているのだろう。


             ミステリ的展開が可能なのは、主人公の素性が少々特殊だからだ。北部の自由州から拉致されて奴隷州に売られていった人がいるというのを初めて知った。奴隷の子として生まれ育ったわけではないので、そうだった人々よりも現状に対する疑問なり反発なり怒りなりを抱きやすい。その点で現代人向けのドラマにはうってつけの主人公といえる(不遜な物言いだが)。そして何より「本来帰るべき場所がある」というのが他の奴隷との何よりの違いである。これは後で触れる。


             1940〜50年ごろが舞台なので、南北戦争の20〜10年前になる。このころのアメリカは、州ごとに奴隷制度の有無が分かれていて、北部は総じて奴隷なしの自由州、一方の奴隷州は南部に集中している。主人公ソロモンはニューヨーク州でバイオリニストとして暮らしているので奴隷ではない。劇中でも何度か「自由黒人だ」と主張している。ソロモンは詐欺に遭う格好で拉致され奴隷商人に売られることになる。


             本作は奴隷とは何かをわかりやすく示している。奴隷とは「動産」である。例えばソロモンが、彼を恨む白人に殺されそうになるシーンで、止めに入った別の白人は「お前のやってることは財産権の侵害だ(人のものを勝手に牴す瓩里如法廚覆匹鳩拗陲垢襦最終的にソロモンをニューヨークに連れ帰ろうとする支援者に対して、彼を狃衢瓩垢詛西貅腓蓮◆崟狹陲澄」と噛み付いている。農耕馬かトラクターと同じような存在である。当然移動の自由も職業選択の自由もなく、ソロモンが狄場瓩鯏勝垢箸垢襪里蓮⊇衢者が金に困って彼を売却するからである。


             牛馬を丁寧に世話する飼い主とそうでない飼い主がいるかのごとく、奴隷の扱いも所有者によって相当異なる。ソロモンが最初に買われる材木商は、比較的イイ人であるが、彼よりも奴隷を厚遇した実例は珍しくなかったらしい。快適な住居と十分な食事を与えられた奴隷も存在していたようだ。そしてこの材木商がいかにイイ人であったとしても、ソロモンが奴隷であることには変わりはないし、その後出てくるいかにも典型的な陰湿農場主とも本質的に違いはない。映画の中では、この材木商が苦悶しながら母子の別離に賛同するシーンや、ソロモンを売り払うシーンによって、その本質的な差異のなさを表している。

             つまり、厚遇であることでもって奴隷であることの否定にはならないという点で、なぜ慰安婦が性奴隷と訳されるのかもよくわかる。日本の芸能人がしばしば奴隷契約と喩えられるのも、この選べなさが類似しているからだ。

             

             ソロモンの脱出に大きな役割を担うことになるカナダ人の建築家は、人道主義の立場から奴隷制を非難して陰湿綿花野郎の不興を買うのであるが、このシーンもなかなか面白かった。
             南北戦争についてしばしば、「奴隷を巡る対立ではなく経済政策(貿易政策)を巡る対立だ」と語られる。俺もある時期までそう理解していた。しかし「というのは間違いであれは奴隷を巡る戦いである」という学者の指摘を読んで、あれれどっちなんだと思って関連書籍をいくつか見たものだった。

             「奴隷ではなく経済」というのは史料解釈に基づいて生まれた説だそうだが、俺のような素人にとってそちらの方がいかにも正しく見える理由の一つは、ヒューマニズムよりも経済の方が遥かに政治的動機としてホントっぽく映るからである。奴隷に原因を見るのは、道徳的な正しさの強調という点で子供向けの学習漫画的解釈にいかにも思える。いやあホントのところは金さ、という方がいかにもリアルである。

             

             という方が浅慮だと、この建築家と陰湿BrownSugar男との討論は示している。奴隷制の廃止は当時のリアルな政治課題のひとつで、今でいう環境問題のような世界的な問題でもあった。南部の農園主にとっては死活問題という金の話になるのも環境問題とちょっと似ている。ちなみにカナダを支配していたフランスもイギリスも、アメリカより奴隷制廃止は早い。「リンカーン」でも、南部と和睦すると奴隷制が温存される恐れがあるからと、徹底抗戦を選び、そのためいかがなものかなセコい工作をするくだりが描かれている。

             


            映画の感想:卒業

            0

               なまめかしい脚がどーんと手前に配置された写真で有名な古典。今更見た。作品の知名度以上に場面写真がここまで有名な作品も珍しいのではないか。まあ俺が内容をほぼ何も知らないのに写真を知っているというだけのことだが、この写真から想像される展開で半分。残り半分はやばめのストーカー展開だった。正直、なんだこれは、という感想になった。


               いかにも甘っちょろい雰囲気の大学卒業したての若人ベンジャミンが、色気あるマダムに誘われるのだが、いよいよエロいことになるまでには結構長くてじらされる。そのくせいざそういうことになると、濡れ場は特に描かれず肩透かし。ついでにあの有名な写真は、脚線美で誘惑しているのではなく、口論になって帰り支度をしている場面なのだった。

               その点、「E.T.」のポスターの指合わせにちょっと似ている。「そんなシーンはない」というわけでもないのだが、ポスターからイメージされるのとは角度も意味合いもだいぶ違う。本作の場合、結局その場では仲直りして再び服を脱ぎ出すので誘惑効果はあったのかもしれないが。


               その後、マダムの娘と恋に落ちるというおぞましハードな三角関係になり、虻蜂取らず。それでも娘にぞっこんのベンジャミンは付きまとい行為に勤しむ。
               冒頭のシーンによると、彼は卒業の際に親戚や父親の友人が集まって祝賀パーティーを開くような家の産である。世襲議員の家ってこんな感じなのかしら、と、鼻持ちならなさが先に立つのだが、その偏見を裏切らない青二才ぶりのまま話が展開していくので、自身の若いころと重なる部分もないではないが、好感なり共感なりはちっとも持てない。それがストーカーとくれば何をかいわんや。一体これは何の映画だったのだろうと頭を抱えてしまった。


               おそらく本作は、公開当時ならおもしろかったのだが、今となってはその魅力を感じるのは難しいということなのだと思う。ネット上の記事を見ると、公開当時の関口宏の談として「ベンジャミンはもうひとりの僕だった」と紹介しており、全然格好よくない未熟さと危うさばかりが目に付く駄目ぶり&それがゆえの発露としての花嫁強奪という無鉄砲ぶりに、等身大の若者的な共感を抱いたということなのだろう。もしかすると俺がもっと若かったら面白く見たのかもしれないが、未熟な主人公というモチーフはすっかり定番化したところがあるから陳腐に思ったかもしれない。


               こういうことはそれほど珍しいことではない。このブログで取り上げた映画だと、「第三の男」「ある日どこかで」が当てはまる。公開当時に放っていた(と伝え聞く)輝きを今感じるのは難しい。

               ある作品が、時とともに色あせて見えていくのは寂しいことではあるのだが、それだけならまだマシなんだなとここ最近の国際ニュースを見ていると思わされる。

               

               


              映画の感想:娘は戦場で生まれた

              0

                 

                 世の中が再稼働気味になっている。友人が勤務する美術館も再開したようだが、たまたま作品の貸し出し期限やよその美術館への巡回日程等がつかえていなかったので、予定していた展覧会をようやくお披露目できたのだとか。つまり、後がつかえていれば企画は流れていたということだ。その点、演劇と似ている。役者やスタッフの予定が確保できれば再上演可能だが、都合がつかないと無理になる。


                 タイミングがうまく合わないまま映画館が閉館になってしまい見れないままだった本作は、再開したらまだ上映していた。映画の場合は作品の貸し出しがどうなっているのだろうと思ったが、後で聞く機会があった。古文書の発見のごとく、古い映画のフィルムが民家なんかから出てくることがたまにあるが、ああいうのはフィルムが全国の映画館を巡回している間に行方不明になったのが出てきたということらしい。しかし、今時は巨大なリールを回しているわけではない。後日出会った映画館スタッフに、コロナで順延になったら作品の貸し出し期間てどうなるのと尋ねたら、「USB指したりサイトにアクセスしたりなんで…」と、質問の意味がそもそもわからないという様子だった。

                 

                 作品とは全然関係のない話だった。

                 「ラッカは静かに虐殺されている」同様、シリア内線を題材としていて、かつ邦題がすばらしい。タイトル通り、戦場で生まれた乳飲み子の「サマ」を軸として編集されている。


                 「ラッカ〜」は政府と反政府との対立の間隙を縫って現地を制圧したISによる首狩りを映し出しているが、本作は政府軍とロシア軍の空爆で人がどんどん死んでいく様子が映し出される。生首のような衝撃的な映像はないが、数はすごい。空爆でどんどん人が命を落とし、その遺体の映像が遠慮なしにどんどん出てくる。

                 銃火器による遺体はフィクションでもさんざん見たことがあり、作り物でもさすがよく出来ているんだな、本作に出てくる遺体の数々と映像としては結構似ているのだけど、さすがに死産の嬰児の映像は直視に堪えない、と思ったら、まさかの「JIN」と全く同じ展開だった。逆さづりにして尻をパンパン叩いたら脈が戻った。それこの前再放送で見たばっかのやつやん。咲さんスゲー。ではなくて赤ん坊がすごい。

                 

                 問題はこの虐殺をISではなく、政府がやっていることだ。その点「ラッカ〜」よりはるかに残酷な映像にも思える。苛政は虎よりも、を地で行くが、この場合、苛政自体が虎より破壊力がありすぎるので対比が成立しない。

                 

                 これを書いている現在、アメリカでかなり大きなデモが起きている。予想通り、ピントのズレたナイーブな意見をテレビを中心にいくつか見聞きしたが、偉そうに言う己とて同様である。

                 トランプが、あいつらはテロリストだ軍隊出すぞと吠えたとき、こいつならこう言うだろうなと思ったのだが、それが意味するところは「これ」なんだなと本作を見て理解した。「いかにも言いそう」以上のことを思わなかったのは、それだけ敵認定を食って生きるポピュリストが当たり前になっているということでもあろう。大阪なんかまさしくそうだし。


                 まあシリアと違って、アメリカの場合は内戦になっても介入する他国はない(協力させられる国は出るかもしらんが)だろうから事情は異なるだろうけど、光州事件のようにはなる。というか「タクシー運転手」をすでに見ているからさっさと気づけという話である。とにかく、トランプの態度には一片の理もない。暴動?さあ、少なくとも中抜き業最大手と竹中屋には打ちこわしくらいかけてもバチは当たらんのじゃねえか。あと在版民放。


                 逆の見方をすれば、反政府的な国民に対して軍が発砲するという行為を、東京大空襲ばりにやったのがこのアレッポという町なのだから、異常にもほどがある、とようやく気付けたという話でもある。まあ反政府側にはアメリカが協力しているから単純比較は出来んのやろうけど、本作に出てくるのは全員ただの平凡な市民だ。
                 西アジア地域については「何かしらんけどしょっちゅうドンパチ揉めてる場所」というステレオタイプが俺自身にどうしてもある。ニュースなんかで映像を見ると、その悲惨さに心がしんどくなるくらいのことはあるのだけど、一方であんまりピンと来てないところは間違いなくある。

                 ずーっと揉めているような地域だから(シリアは独裁政権のせいで比較的安定していた方だが、レバノンとかガザとかのイメージと全部一緒くたになっている)、というような色眼鏡からその異常さに鈍感なのだ。パリでテロがあったとき、イエメンの方がよっぽど悲惨なのに何で扱いにここまで差があるんだという指摘を身近にも世間にも散見したから、俺に限った話でもないと思うが。

                 映画でじっくり見ると、表層的な捉え方がちょっとは腑に落ちてくる。何か当たり前のことを書いてるな。でもまあそうなんだ。

                 

                 それにしても、序盤の携帯か何かで撮ったような映像に比べ、途中から使い始めるソニーのビデオカメラの高性能さよ。とはいえ、こんな爆弾だらけの日々で、ソニータイマーが起動しないはずはなさそうで、そんな要らないことを想像して監督の意図とは別のところでハラハラもしてしまった。シビアな現実ばかり映るから、どうでもいい心配に逃避したのだな。

                 蛇足ついで、ドローンか何かで空撮したような映像が出てくるのだが、こんだけ戦闘機が飛び交っている中、どうやって撮ったのだろう。


                「FOR SAMA」2019年イギリス=シリア
                監督:ワアド・アルカティーブ、エドワード・ワッツ


                映画の感想:ドント・ウォーリー

                0

                   脊髄損傷で重度の身障者となった男の実話に基づいた物語であるが、障碍よりもアルコール依存症の方がメインテーマといえるかもしれない。

                   「障碍」というテーマからいくと、陳腐なポジティブさに見えるタイトルだが、原題は「心配するな、彼は歩いて遠くには行けない」。主人公が名を成す一コママンガの作品からの引用で、車椅子の人間が行方不明になっている様子の絵にこの言葉が添えられている。ブラックジョークであるが、本作はさらにそれを逆手にとったような題にしているということなのだろう。

                   

                   ちょうど外出を控える社会状況の中で、アルコールへの懸念が指摘されているところでもある。自宅に籠ってそこに酒があるとついつい。実際、スーパーでも酒類はよく売れている(あとなぜかスパゲッティも)。「Zoom飲み会」という言葉も生まれていて、俺も学生時代の友人から誘いが来た。
                   無料だと1回で40分しか話せないから、主催者は2部制でセッティングしてくれた。子供が寝た後の22時開始、遠方の友人も参加可という従来の飲み会では困難な融通が新しい。しかし合計80分とは短いじゃないかと思って参加したが、終わったころにはかなり酔っぱらっていた。確かにこれは危険だ。

                   

                   連休は家族でオンライン飲み会であった。親父と兄家族と俺の3か所接続。兄が用意したのはZoomとは違って時間無制限のサービスなのだが、それだけにZoomより多少使い勝手が悪いし、ちょいちょい昔の国際中継のように画面が止まる。
                   こちらは6時開始だったので、初めての宴席らしい宴席といえる。帰省して家族が集まると飯が豪勢になるから必然毎度のごとく飲み過ぎるのだが、自前で用意した大したことのない食い物でもやはり結果は同じだった。まあそんだけ自分で酒を買ってるんだから当たり前だわな。あまり記憶がない。今思い返したら、ぐでんぐでんになっているところに3年半のインド勤務を終える知人から「今から日本に出発する。着いたら2週間隔離(かくり)」と電話があり、郭李(かくり)建夫ですかとか何とかくだらないことを言っていたなそういえば。

                   

                   完全に話が逸れた。
                   俺が父親から受けた最大の教えは、もしかして酒の飲み方かもしれない、と本作を見て思った、という話だった書こうとしたのは。
                   父親は晩酌を欠かさない酒好きで、昔は量もかなりのものだったが、オンオフはハッキリしていた。元旦だけ朝酒をやるとか、職場の飲み会で午前様になっても翌朝はいつも通りのルーティンとしているとか。あと酒を無駄にするのも嫌いで、酒をこぼすとか、グラスや猪口に酒がちょびっと残ったまま下げる、といった行為をとにかく嫌う。先日のオンライン宴席でも、父親が過って鍋の汁をこぼしたときに「ビールでなくてよかった」と言っていた。
                   これらすべて、酒に対していい加減な態度を取らない、ということなのだろう。
                   父の背中ならぬ手つきからそういったことを見て学んでいたからだろう、酒を飲む年齢になったとき、味わわない飲み方がハナから嫌いだった。学生だと悪ふざけで色々と酒を混ぜこぜにして飲ませようするのがいたものだが、そういう汚い飲み方だけでなく、残業中に缶ビールというのも嫌いだった。会社員時代は、ある程度の時間になるとビールを飲みながら仕事をする上司や同僚もいたが、試しにやってみると全く旨く感じず酔いだけ回るのでやらなくなった。最低でもコンビニ弁当とビールとか、飯を食うのに合わせて酒は飲みたい性分である。

                   

                   というような飲み方のお陰で今のところ依存症にならずに済んでいるのだろうと本作を見て思ったが、主人公が際限なく酒を飲んでいる映像を見せられるとちょっと一杯ひっかけたくなったのであやしいものだ。少々怖くなったので意地でも飲まずに見終えたが。

                   

                   主人公のキャラハンは、飲酒運転の事故で車いす生活となるも相変わらず酒浸り。ところがふとしたきっかけで一念発起、酒を絶とうとする。断酒会のようなサークルに参加して思いを吐露する中で、酒におぼれた発端である不幸な生い立ちと向き合い、それらを克服していく中で絵の才能を開花させていく。
                   演じるのがホアキン・フェニックスで、不幸な生い立ち、孤独、それを隠すための道化的な立ち振る舞い、とくれば嫌でも「ジョーカー」とダブって見えてくる。ケガの直後、素性のわからない北欧美人が現れ、なぜか懇ろになっていく都合のよすぎる展開に、これは完全にこいつの妄想だろうと思ったのもジョーカーのせいだ。どうも妄想ではないようなのだが、だとするとこの都合のよすぎる女性はいったい何者なのか、さっぱりわからないまま映画は終わった。


                   彼が名を成していく一コママンガは、ブラックジョークにしてもいささかいかがなものかと思わされるものもあり、劇中でこの謎の彼女からも「あなたの感覚は古い」とたしなめられる一幕もあるのだが、そちらはあまり触れられず、本業の描き方については肩透かしだった。もしかすると作品にはそれこそ「古い」感覚のものが多く、そこを描きすぎると主人公に全く共感できなくなってしまうからだろうか。断酒会の主催者はゲイで、参加者には強烈なミソジニーがいたりと、色々勉強になりそうな人々がいたのであるが。

                   

                  「DON'T WORRY, HE WON'T GET FAR ON FOOT」2018年アメリカ
                  監督:ガス・ヴァン・サント
                  出演:ホアキン・フェニックス、ジョナ・ヒル、ルーニー・マーラ


                  【やっつけ映画評】ビリーブ 未来への大逆転

                  0

                     ダサい邦題が嫌でも目につくが、問題はなぜダサく響くかだ。これは結構重要な話だと思う。
                     原題は末尾に書いたが、そのままカタカナにしても、直訳しても日本語話者的にはしっくりこない題にしかならなさそう。なので別のキャッチーな邦題をつけるのは興行的に重要である。そこで広告屋的手法の出番なのだが、これがスベっている。

                     

                     本作の主人公、ルース・ベイダー・ギンズバーグという人については先にドキュメンタリーで見ている。映画でベイダーといえば、まず黒甲冑の赤バット男が思い起こされるが、あちらが才能の使い方を間違えた未熟者なのに対し、こちらのベイダーは、才能の活かし場所を与えられなかった女性である。
                     スピルバーグ「リンカーン」に、「黒人に選挙権?じゃあ次は女に選挙権か?がっはっは」と嘲笑う議員が登場するが、ここからもわかる通り、女性の解放の動きは黒人解放よりも後のこと。「リンカーン」から100年後、1960年代のアメリカが本作の舞台の中心で、ルースは法科首席卒の才人ながら女性であることを理由に弁護士への道が閉ざされている。そもそも劇中の台詞によると、彼女が入学したハーバード大学の法科が女性を受け入れて6年目、1956年入学らしいので受入れ開始は1951年か。日本の女性参政権よりも後になる。こういう状況下で女性の権利のために法曹活動をしていく彼女の、主に若いころの来歴を描いている。

                     

                     すでにドキュメンタリーを見ているので、大枠では知っている話をなぞる格好で本作を見た。こうして比較すると、フィクションの役割を再確認させられる。過去を再現で場面として描ける分、当時の雰囲気をより肌身に感じさせることが可能だ。だから、彼女のくやしさを肌身に感じることができる。
                     こういう、今となってはすっかり古臭く見える価値観を前面に打ち出してくる悪役に対して、子供のころはこういう格好悪い大人にはなりたくないと思い、演劇を始めた大学生のころはこういうベタな悪役を演じるのは楽しそうと考えるようになり、そうしておっさんになるとここまでひどくはなくても根底ではつながっている無理解発言をしてきた己に気づくことになった。

                     対照的に、夫のマーティンはドキュメンタリーでも本作でも、人格者ぶりが際立って伝わってくる。妻を対等の相手と認め、同じ法律家でありながら妻の優秀さに嫉妬もしない。この時代にこの見識は相当に奇跡的な印象すらあるのだが、奇跡的にガンから復帰するので何かしら特別な人なんだろう。

                     

                     さてかくのごとき性差を主題としながら、本作のもう一つのテーマとして、本当の言葉とは何か、というようなことがあるのではないかと思う。

                     物語のクライマックスは裁判のシーン。いわゆる法廷モノなので、いかに勝つかというテクニカルな部分が当然クローズアップされる。例えば法の下での男女の不平等を是正したいルースは、まずあえて男性が不公平を訴える紛争に狙いを定める。「介護は妻の仕事」という前提で法律が作られているので、独身男性が高齢の母を介護しても女性と同等の控除を受けられない。これは不当である、という訴えだ。

                     男性の不利益を訴えることは、男女平等につながるから、自らのライフワークにも直結してくる。周囲からも「いい目の付け所だ」と評価されるように、勝ち目のある戦い方を選ぶ打算的な側面がそこにはある。

                     

                     一方で、ルースは大学教授として豊富な知見は擁しているものの、弁護士事務所への就職がかなわず訴訟代理人の経験がないため、周囲の支援者はその手腕に疑いを持つ。試しに模擬裁判をやってみると、案の定ルースは今一つ覚束なく、アメリカの法廷モノでお馴染みの、堂々とした弁論術には程遠い。このため周囲は、このままでは負けるからと、あれやこれやと作戦を教示してくる。その中にはいわば節をまげる格好になるものもあるから、勝つことを選ぶのか、自己のレゾンデートルを取るのかといった二択が横たわってくる。

                     

                     


                    【やっつけ映画評】ホテル・ムンバイ

                    0

                       「ホテル・ルワンダ」のインド版のようなタイトルである。ホテルが武装勢力に襲われるのは同じ。といっても「帰ってきたムッソリーニ」ほどには同じではない。本作で襲ってくるのはイスラム過激派のテロリストなので、交渉の余地なく問答無用で殺してくる。限定的な空間内で、命からがら逃げまわる様子は「新感染」の方が近いといえそうだ。


                       機関銃を持ち、かつ操れる人間相手に抵抗できることは「逃げる」「隠れる」くらいしかない、という現実を本作はよく表している。テロリストと警察以外の登場人物はとにかく逃げるか隠れるかしている。インド映画界にこの人以外イケメン枠の俳優はいないのか、というくらい毎度おなじみとなっているデーヴ・パテールも、手際のよさやコミュニケーション能力に卓越したところを見せるものの、基本は逃げて隠れてばかりだから、主人公要素は少ない。


                       それでもぐいぐいと惹きつけてくるから見事な作品である。この緊迫感は実にインド映画らしからぬテンポ&展開だと思ったら、案の定、豪米との合作だった。踊りもしなければ聖人的バカも登場しない。こういうのは当のインド人にとってはどう見えるんだろう。


                       テロリストたちは劇中「まだ子供じゃないか」と言われているので、かなり若い。若さゆえの潔癖さと貧しい生育環境を、どっかのおっさんに上手く利用されて実行犯に仕立て上げられているように描かれている。この辺の、それほど深入り・同情するわけでもなく、さりとてダイハードの悪役のようには描かない演出は上手い。

                       おそらく彼らの話をじっくり聞けば、ある程度頷ける部分もあるのだろう。一方で被害者側は高級ホテルに泊まれる所得階層で、言動も若干鼻持ちならない人々が目立つ。だからどうというわけではないが、少なくとも背景まで踏み込まないと、毅然と断固たる態度、だけではなくならんわなあと思わされる。


                       と書いて気づいたけど、「逃げる」「隠れる」以外に、もう一つあった。それこそ毅然と断固たるの類。「命をかけて抵抗する」である。

                       

                      続きを読む >>


                      calendar

                      S M T W T F S
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      262728293031 
                      << July 2020 >>

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      recent comment

                      • お国自慢
                        森下
                      • お国自慢
                        N.Matsuura
                      • 【巻ギュー充棟】反知性主義
                        KJ
                      • 【映画評】キューブ、キューブ2
                        森下
                      • 【映画評】キューブ、キューブ2
                        名無し
                      • W杯与太話4.精神力ということについて
                        森下
                      • W杯与太話4.精神力ということについて
                      • 俺ら河内スタジオ入り
                        森下
                      • 俺ら河内スタジオ入り
                        田中新垣悟
                      • 本の宣伝

                      recent trackback

                      recommend

                      links

                      profile

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM