映画の感想:ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

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     話らしい話もない内容と聞いていたので勝手に短い作品だと思い込んでいたが、よくよく見れば「上映時間161分」とある。長い。話らしい話もなくどうしてそんなに長くなれるのだろうと不思議に思いながら見た。長い謎はすぐ解けて、一個一個のシークエンスが、よくある映画のテンポ感覚からするといちいち妙に長いからなんだな(例えば序盤の犬に餌をやるシーン。普通はあんなに長く要らんだろ)。割とサクサク展開していく映画を作っている監督のようなイメージがあるが、よくよく振り返ってみると、そこそんなに要る?っていうくらい、時によってやけに長いこと引っ張るのは昔からやっている。それを全体に適用した格好。


     ある時期のある地域の様子を、ストーリーがあるようなないような展開でだらだらねちねちと描き、パロディもあれこれ、となれば、これはもう映画におけるユリシーズといっていいのではないか。と、読まずに言っている。まあとにかく、この長ったらしい感じは不思議な面白さがあって、文学作品風味も感じたのだった。
     

     終盤の、とうとう青春の日々は終わるというような場面でストーンズの初期の代表曲「Out of time」が流れるところにジーンと感じ入ってしまい、この曲はこんないい曲だったのかと再認識させられる辺り、使い方も映画自身もよくできているのだろう。で、終わりかと思ったら全然そんなことはなく、ここから先、全く予想外の展開だった。そういえばこの監督、偽史を語るのもお得意だった。結構残酷なのになぜかすっとしてしまうアクションの見事さ含め。
     

     本作の中で重要かつ、かなり異質な存在が「マンソン・ファミリー」である。彼らが一体どういう存在なのかは、「ネタバレじゃなくて知っておかないと意味がわからない」と町山智浩が断ってラジオで紹介していた。確かに知らないと「こいつらのこのシーンは何なん?」となるかもしれない(どちらかというと爽やか女優シャロンのシーンの方が「何なん?」となりそうか)。で、おそらく現地アメリカでは、ほとんどの人が「ああ、あれか」と思いながら見ているだろう。
     

     だけどこれ、知らない方が面白いのかも、という気もした。俺の場合、そのラジオを聞いてなくても、事件自体はどこかで読んだことがあって超漠然とは知っていた。ロックバンドのマリリン・マンソンの名前の由来として知ったような気もするし、もっとゲスい雑誌の記事で読んだような気もする。おそらく両方だ。
     

     で、そういう気色の悪い集団だという知識があるので彼らが登場した時点で腹の奥が少々ざわざわとしてくるわけだが、知らなくてもどこか気味の悪い連中だと感じることは出来る演出になっている。ただしその気味の悪さは、いかにもこの後ゾンビに変身しそうだとかそういう恐怖丸わかりな調子ではなく、ただのキワモノ的な相容れない人たち、くらいの不気味さだ。「今はやりのヒッピーのうざい連中、の延長線上にいるかなり濃い連中」くらいの位置づけといおうか。


     それが実はそんなレベルではまったくなかったというのをこの後、実際のアメリカ社会は知るわけだが、同じことは日本社会でも経験することになる。麻原彰晃を面白キャラとして消費する人々、うさん臭さに眉を顰める人々、「ところどころついていけないけど、たまにマトモな筋の通ったことも言っている」と教団の本を読んでいた友人、ようそんな気色の悪い装丁の本を本棚に並べられるな、と呆れたがそれ以上は特に考えなかった俺、等々を思い出した。
     

     事前に知らない方が、その同時代感はより経験できたかもなあと、そんなことを考えさせられた上手い描き方だと思う。いかにもそういう存在として出てくるわけではないが、さりとてフツーの連中というわけでもないネジのはずれたサマが絶妙。俺の場合は、マンソンファミリーをうっすらと知っていただけだったから、見ている途中か見終わった後で、ああ!あれはアレか!と気づいてゾッとするという一番丁度いい触れ方が出来たのかも。
     

     後は備忘録。
     演技の中で最も難しいのではと常々思っている「下手な演技」が本作にも登場していて、これがなかなか見事だった。素人の棒読みの類ではなく、頑張っているけど下手くそな大根芝居。台詞を忘れてしまった惨めさを挽回しようと頑張れば頑張るほど要らない過剰さの上塗りになって滅茶苦茶ダサい演技になる辺り、見事だった。プリオは演技が上手いんだなあ。

     

     で、落ち目の役者役の彼が劇中で演じる西部劇の悪役の格好が、まるでバート・レイノルズだと思ってみていたら、実際バート・レイノルズをモデルにしたのだとネットの記事で読んだ。バート・レイノルズといえば「トランザム7000」だが、あの作品では、助手席に乗せた若い女が脚を伸ばしてフロントガラスをヒールでカツカツと蹴るシーンがある。滅茶苦茶行儀悪いなと子供心に妙に印象に残っていたんだけど、本作でも助手席に乗せたヒッピー娘がフロントガラスを足の裏でべたべたと触るシーンがあった。この監督は何かと「わかる人はわかる」パロディ、引用の類が多いので、「これももしかして?」とつい思ってしまう。デカいアメ車だと、こういう人って向こうじゃ普通にいるっていうだけのことだと思うんだけど。
     

     大脱走のシーンに代表されるように、作っている人間が一番面白いという作品だったと思うが、それが特に鼻につくでもなく客の側も楽しめる点、さすがは手練れの監督であり、楽しく作ったものを楽しめるというのは何かと幸せなことである。

     

    「ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD」2019年アメリカ
    監督:クエンティン・タランティーノ
    出演:レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー


    映画の感想:ロケットマン

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       哀切の唄を見事に歌い上げる同性愛の歌手の苦しみ・その2。「ボヘミアン・ラプソディ」と同じ監督(後から担当した方)による二匹目のどじょう、と書くと悪しざまだが、それなりには面白かった。「ボヘミアン〜」と異なり、主役の俳優が唄っているらしく、これが上手い。監督がミュージカルにしたくなる気分もわかる。


       共通点は、同性愛者の孤独に付け入って当人を食い物にする悪役と、結ばれたくても結ばれない心の友が出てくるところ。ただし、家族には愛されていたと思しきフレディに対し、本作の主人公エルトン・ジョンは父母からも疎んじられているから本当に孤独で見ていてツラい。ついでに「ボヘミアン〜」におけるフレディのダメな恋愛相手は、精神的な理由で彼を独占しようとしていたのに対し、本作の場合は完全に金目的でまとわりついてくる。こいつは単にビジネスでゲイをやっている似非ゲイなんじゃないかと怒りすら湧いてきたのだった。


       そして、親に見放される辛さや同性愛の苦悩は自分自身には縁がない分、共感してもそれがどこまでのものかは怪しいものだが、それに対して本作における薄毛の進行のリアルさは映画史に残る完成度であり、個人的にはこちらが遥かに真に迫った。救いはエルトン自身が薄毛を嘆く台詞がないことで、鏡をじーっと見て髪を立てるのか寝かせるのか迷う短い場面が1度あるきり(わかるわかる)。エルトン自身の悩みまで克明に描かれたら最後まで見られなかったかもしれない。それを思うと、ツライ現実をリアルなドラマにする罪深さを思う。

       

       そしてまた地味にリアルだったのが、若いころはいかにもロックスターになりそうなロン毛イケメンの盟友バーニーが、加齢による外見(髪)の変化があんまりないくせに年を経るごとに服装がジジむさくなって全体にダサくなっていくところ。最後は十三駅前で見かけたら「こいつ絶対七芸に行くやろやっぱりな」風の長髪オヤジになっていた。これら2人の加齢を見ながら、今の俺に必要なのは、派手なシャツや上着ではないかと思い始めていたのだった。


       曲の力で傑作になっているけど、物語は伝記ダイジェストみたいでさして出来はよくなかった「ボヘミアン〜」に対し、本作はドラマ主体になっている。曲が生まれる過程を描いているのは「僕の歌は君の歌」くらい。本作における音楽は、要所要所で現れるミュージカルのシーンに活用する格好になっている、のかと思いきや、「ライブ―酒―ライブ」の駄目な日々、というシークエンスでさらっと使われるだけだったりで、割と雑な扱いな印象も受けた。


       彼の曲の場合、歌詞が叙景詩というのか、事実をそのまんま連ねているだけというのが多いらしい。あまりまとめてちゃんと聞いたことがないので知らないのだけど、作中に出てくる訳詞を見てもまあそんな感じではある。なのでこちらの作品こそ、歌詞にしっかり従ってドラマを組み立てていった方がよかったんじゃないかしら、と思った。


       音楽ものの映画は、クライマックスに演奏シーンを持ってくると相場が決まっているのだが、本作はそこを少々裏切ってくる。新しい手法に挑む点、好感は持てるが、やはり演奏シーンで盛り上がって終わらないとどうにも不発感は生じるなあ。その点では新機軸の難しいジャンルなのかも。


      「ROCKETMAN」2019年イギリス=アメリカ
      監督:デクスター・フレッチャー
      出演:タロン・エガ−トン、ジェイミー・ベル、ブライス・ダラス・ハワード


      映画の感想:日本のいちばん長い日(2015版)

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         季節柄、テレビでやっていた。映像は綺麗だ。全国各地の古い建築物でロケ撮影して映像上集約すると、戦前の東京の中枢部が出来上がるという面白い実験のように思えた。お見事。ちょうど金沢で「空爆されなかった町」の実感をぼーっと感じたばかりだったのでイメージしやすかった。役者もなかなか素晴らしい。東条英機は似過ぎて笑ってしまった。昭和天皇を演じた本木雅弘は、演技と物真似の境界を行く様子がさすが。そして安定の怪優ぶりの山崎努。

         

         で、全体としては何でこんなに面白くないのだろうと考えながら見ていた。ずーっとクーラーが効いているような雰囲気だなあと思ったが、自分がクーラーを効かせた部屋で見ているからあまり強くはいえない。

         旧作との熱量の違いについて比較するのは不公平だとは思う。旧作監督の岡本喜八は二十歳前後のころ戦争の絶望的末期を経験している。戦後生まれでは太刀打ちできない怒りか怨念が制作の背景にあったのは間違いない。主人公格の三船敏郎も相当えぐい経験をしている。三船と同じ役を演じた役所広司が嘉納治五郎にしか見えないのは「いだてん」に基づく言いがかりだけど、あのわけのわからん迫力と比べるのはさすがに酷だろう。同じ尺度からは物足りなく見えるのは必然だ。
         裏を返せば、同時代の人間しか生み出せないものを、形として遺しているのは後世の人間にとってとても有難いことだといえる。ともかく旧作と本作を熱量で比較してもあまり意味はなさそうだ。しかし、そこを差し引いても面白くない。面白くないというより何かひっかかる。

         

         あえて同名の作品に臨む以上、後世の人間が作る意味は、違う切り口を模索することにあるだろう。監督も公開時のインタビューでそんな意気込みを述べていた。その別の切り口が「家族」かあ〜という「226」パターンに、まず肩を落としてしまう。どうしてそちらに行くのだろうと呆れるのは簡単だが、その理由について考察することこそ、どうも重要なのではないかという気がしてきた。

         

         同時代人しか作れないものがある一方で、後世の人間だからこそ描けるものもある。
         本作における代表例が昭和天皇の登場だろう。旧作では影のようにしか登場しないが、本作では一登場人物として出てくる。新版を作るにあたっての制作側の意気込みが窺える部分だ。「工作」における金正日について書いたことと同じで、「歴史上の人物」として消化される時間が経過したからこそ可能になったと思う。

         同時代だと制作側が「菊のタブー」にビビる、というよりは、見ている側が引いてしまうのを恐れるから描きにくいのだと思う。存命中の人間を別人が演じるのは、それだけでちょっとシラけがちなものだが、加えてめちゃ地位のある存在だから、「ええんかな?」と観客が周囲をきょろきょろしてしまいそうだからだ。しかし死後20年以上もたてば、それはあまり考える必要がない。

         

         そして既に述べたように、本木雅弘の演技力に改めて感服させられる分、一定の成功は収めているとは思う。だがこの昭和天皇は、ただひたすらに思慮深く徳高く、勇気をもって「聖断」を下す格好いい人物として登場する。その素晴らしい君主を、衝突や軋轢はあるにせよ全体的には粛々と戴く閣僚たち、という構図になっている。これを見ていると、戦争は起こらなくね?と思えてくる。少なくとももっと早く終わっているんじゃないか。
         イタリア、ドイツと異なり日本の場合は戦争に導いた明確な個人が特定しにくく、なんとなく全体的にそっちに向かってしまった不気味さがある。そして自国に都合のいい甘っちょろい見積りと精神論への過剰な傾倒で、ズルズルと戦争を続けて破滅に向かってしまった(「日本軍兵士」によると、戦没者310万人のうちの実に9割が1944/1〜1945/8の最後の2年弱の間に集中していると推計)。その誰も止められなかった負け戦をいよいよ終わらせる段が本作の描く日々である。

         何せ明確な「始めた人」がいないから、終わらせるのも一筋縄ではいかない。そして政府首脳と天皇には、大なり小なり、積極的なり消極的なり戦争遂行に加担してきた事実があり、それを背負って白旗の揚げ役を担わないといけない。その感覚はどんなもんなんだろうか。それを改めて描くのは、現代でも意義深い面白いことだし、より歴史になり、ついでに新資料もあったりで、今改めて描けることもあるはずだ。作り手としてはわくわくする部分だろう。

         

         この「終わらせる」部分が、本作ではせいぜいが企業倒産程度のやり取りで描かれている。いや山一の社長を思い出せば、それ以下だ。旧作を見れば、ここに描かれているのが決して過去の特異点の話ではないことがわかりそうなものだと思うが、本作制作陣が現代の我々とのつながりを見出したのは「家族」であり「企業人的苦悩」であった。その方向でしか捉えられない貧しさは、そのまんま日本のフィクション屋界の貧しさを現わしているんじゃないか。

         

         そんなことを考えたのは、ちょうど最近、過去に傑作を生んだ映画やアニメの作り手たちが隣人の差別をまき散らして騒動になっているからだ(少し前にはマンガ家や小説家で話題になった御仁もいる)。これが意味するのは、現実に対して底の浅い認識しかないまま、そちらを見ないで人気作を生み出せていたということだ。そういうある意味牧歌的なありようと本作は、どこか重なって見える。

         アメリカ映画にしろ韓国映画にしろ、自国の過去を見事に描く作品がどんどん生み出されている中で、手練れの俳優集めて金かけてこれ、というのはだいぶシビアな現実だなあ(そりゃあ拙作も評価されなモゴモゴ)。

         

        2015年日本
        監督:原田眞人
        出演:役所広司、本木雅弘、松坂桃李


        【やっつけ映画評】ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス

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           「泉南石綿村」よりもさらに長い3時間半近い長尺ドキュメンタリー。図書館好きとしては気になる内容で、世評もそれなり高い。夏のクソ暑い日に、暗がりで長々と過ごすのもそれはそれでかなり贅沢だろうと思って足を運んだ。うーん、しかしこれ、こんなに長く要る内容かなあ。

           観察映画というのか、日々の営みの断片を並べているシンプルな構成で、明確な展開があるわけではないので興味の持続が難しい。隣のおっさんはソファーの射殺体(ヤクザ映画なんかに出てくる座ったキリスト像のような姿勢)のように寝入っていた。俺も二度ほど寝落ちした。逆説的に大変贅沢な時間の過ごし方となったな。


           アメリカの図書館のレベルの高さについては以前も書いた。読んだノンフィクションに登場するアメリカの図書館司書がどれもこれも優秀だった。友人の研究者が調査に行った際も同じような感想を述べていた。いかにも先進国だ。日本でも国会図書館の司書は優秀な人が多い。地域の図書館にもそういう人はいるだろうが、いるとかいないとかとは別の位相に行ってしまっている。本作を見ると、日米では根本的なあり方が違うと痛感させられた。

           

           「公共図書館」という名前なのは、市の予算だけでなく、民間の寄付からの2つのリソースで運営されているからで、市立図書館というわけではない。だが「民間の活力」というペラペラスカスカの理屈は登場しないし、税金を使っている以上反米はダメだというアホな話も出てこない。ただし、人気の高い本を購入するか専門書に予算を使うかとか、ホームレスの利用者に対する苦情にどう対処するかといった日本と同じような議論は登場する。


           日本との違いとして目につくのは、図書館機能の幅の広さだろう。子供向けの教室のような日本にもあるような取組だけでなく、就労支援にパソコン教室、学者や物書きの講演会、演奏会、朗読会、読書会など実に幅広い。エルビス・コステロやパティ・スミスのような有名人も登壇している。著名人を呼んで「にぎわいづくり」という安い発想ではなく(「にぎわい」=何か上手くっている風を味わえるマジックワード)、知的側面からの機会提供ないしはセーフティネットといったところから来ている。

           例えば会議の中では、自宅にインターネット環境がない市民をどうサポートするか、うまくやってるシアトルに比べてニューヨークは心もとないぞと熱弁している男が登場し、市民が取り残されないためにはどうするかということを繰り返し強調している。

           

           これらから見える日本との最大の違いは、登場する職員が総じて誇り高い点だ。なので今年の予算の使い道の話でも議論に熱を帯びる。日本の場合、司書は保育士や介護士などと同様、資格職なのに待遇が悪い。悪いどころか指定管理になっているところが多いので、従来型の司書が消えつつある。それを一手に請け負っている会社の名前が、協賛として作品冒頭にどーんと出てくるから悪い冗談のように見えた。

           こちらのインタビューを読むと言っている内容がいかにも薄っぺらい。そして薄っぺらいとはあまり感じない人の方が多いと思う。記事自体も好意的に取り上げていて、これが世の平均的な反応だろう。だが本作に出てくる職員と比べると彼我の差はかなりのものだとわかる。あちらさんの社会は、諸々問題含みとはいえ、少なくとも学術分野は先進国なんだなあと思う。こちらはすっかり後退期。そんなインタビュー記事でっせ、これは。

           

           というようなことがわかる点、いいドキュメンタリーだとは思うが、さすがに長いと感じた。会議のシーン何回入れんねんといったように、大体わかったと思っているのにまだやるかというくらい似たような場面が繰り返される。とにかく出てくるのは人、人、人。上映前、後ろの親子(?)が、知り合いの誰それが全然本読まんくせに本棚が好きという変わり者で、なので本作を観たいといっていたという笑い話をしていたのだけど、そんなに本棚は出てこない。

           アーカイブの潤沢さを窺えるシーンや、それがハイレベルで活用されていることをうかがわせる優秀な司書による運営のシーン、あるいは返却図書のシステマチックな整理の場面など、この図書館自体についてわかるシークエンスもあるにはあるが会議や催事に比べるとかなり少ない。ええい本を出せ、貴重資料を出せ、と後半は結構イライラしてしまった。

           

           しかし制作側にしてみると、そんなものはとっくにわかりきっていることなので撮ってもしゃあないということなのだろうか。だとすれば、彼我の差は周回遅れの勘定になる。まいったなあ。

           

          「EX LIBRIS - THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY」2016年アメリカ
          監督:フレデリック・ワイズマン


          【やっつけ映画評】ニッポン国VS泉南石綿村

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             少し前に、裁判所の採用試験を受ける学生の面接練習を受け持った。裁判官ではなく事務職員の試験。日程的に受験可能なので一応、という人もいれば、第一志望な人もいる。なのに全員判で押したように同じようなことを言うから、おいおいちょっと待ちなさいと、まあそんな仕事をしてきたわけだが、その「同じような話」のうちのひとつが、困った人が最後に来るのが裁判所だ(から私は困った人のために働きたく云々)ということだった。

             おそらくパンフレットや説明会でそういう話を知ったのだろう。まさしく裁判所とはそのような場所であるから別に間違ったことを言っているわけではない。のだけれども、現実の姿としては、さてどうなんだろう。

             

             大阪・泉南のアスベスト被害者の国賠訴訟をテーマにしたドキュメンタリーだ。国は危険性を知っていたのに適切な対応を取らなかったと、石綿工場の元労働者や家族、近隣住民らが訴えた日々を撮影している。3時間もあるから長えなあと思ってみていたが、訴訟は8年もかかったから3時間ぐらいでガタガタいうなよという話である。日本では2005年にクボタの工場における被害が大々的に報道されて有名になったが、アメリカではその30年前にとっくに問題が顕在化していて、スティーブ・マックイーンも死んでいる。その上国も50〜60年代には危険性を把握していたらしい。


             監督は原告の一人一人と会って話を聞いていくが、その傍ら、どんどん死んでいく。急に静止画になって「〇年〇月〇日、死去」と字幕が出てくるからまるで「仁義なき戦い」だが、「仁義」よりたくさん死んでいく。こんな撮影していたら、そのうちメンタルやられて寝込むんじゃないかと思いつつ、亡くなる人のほとんどが俺の母親より長生きだったから、なんだかなーとこぼしたくなる自分もいる。不謹慎なボヤキだが、この監督自体、不謹慎でお馴染みの、である。

             

             本作でも婆様の入浴シーンを撮るし、亡くなった原告の死に顔を撮るし、「出たな全身ドキュメンタリー作家」といった様相に膝を打つ。つい笑ってしまったのは、夫を亡くした女性が「大変真面目でいい人だった」としんみり回想しているところで、「酒もバクチもやらず?」と監督が聞き、「いえ、やってましたよ。競馬、競輪、パチンコ」と女性があっけらかんと答えるところ。あんたそれ言わせたんちゃうのん?とつい穿ってしまった。


             この地で石綿産業に従事していた人の多くは在日コリアンで、狷本だった畛代に仕事を求めてやってきた歴史がある。監督はその歴史にも関心を抱いたようだが、話はあまり広がらない。この映画は淡々とこの調子のまま裁判の過程をたどるだけなのだろうかと思ったところで、一人の男が奥崎健三ほどではないにせよ、なかなかのアグレッシブな行動に出る。

             

             


            映画の感想:search/サーチ

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               映画館で見るよりもパソコン画面で見た方がより楽しいという珍しい作品だった。全編パソコン画面上だけで構成されている異色サスペンス、という売り文句がどういう意味なのかよく理解できなかったのは、自分のPCの使い方がいかにアンシャンレジームなのかという証。20代の監督による作品だそうで、なるほどこれがデジタル世代の感性か!と思ってしまいそうになるが、スマホの普及で今時の学生はPCに不慣れなのも珍しくないから時代はすでに次のステージに移っているのだった。


               伏線をしっかり貼って見事に回収している非常に出来のいいサスペンスで、「パソコン画面」の枠内で収めている割にはプロット自体にことさらデジタル感があるわけではない(モデルに気づくシーンはいかにもインターネット的で面白いが)。宣伝用の惹句は「手がかりは24億8千万人のSNSの中にある」で、いかにもSNS社会の病理!みたいな印象を抱いてしまうが、全然そんな内容ではなかった。これもまた時代の流れ、デジタルの浸透度合いといったところか。


               高校生の娘が行方知れずとなり、手がかりを求めて父親が娘のSNS等々を調べていくと、父の知らない娘の姿が明らかになってきて…、といったストーリーだ。いざいなくなってみると、娘について知っていることがほとんどないことを痛感させられていく様子が、同世代のおっさんからするとなかなかにツラいものがある。

               この父親は愛妻家で、割とマイホームパパでもあると察せられるから、世間基準では全然ましな父親だと思うが、それだけに余計。父親が娘の期待を思い切りハズすことを言うシーンなんか、ぎゃーって言いそうになった。この辺りの家族の描き方がしっかりとしている点が作品に厚みを持たせている。そしてそれが真相部分にもしっかりと関連しているため、本作は傑作たりえている。以下ネタバレ。

               

               


              【やっつけ映画評】パッドマン 5億人の女性を救った男

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                 文学部の出のくせに、理系学部の大学生相手に授業をしたことがある。1回生が相手なので俺でもどうにかなった(と思う)。その中で、学生自身に何がしかの科学的検証を、自分で方法を考えてやるよう課題を出した。「ためしてガッテン」あたりでやっているようなことと似たような行為をイメージしてもらえばいい。

                 すると、多くの学生にとってはまず、何を検証するのかのテーマを見つけるのが難しいわけだが、さらに難しいのは、どうやって検証すればいいのかの方法を考えることだった。

                 

                 差し障りがあるのでたとえで説明すると、「飲酒運転の危険性を確かめるため酒を飲んで運転する」といったようなそのものズバリの方法が試せない場合にどうすればいいのかというようなことだ。

                 この場合、別に運転しなくても酒に酔った状態で何らかの認知検査や運動検査をすれば一定程度証明できる。こんな程度なら言われなくても最初からわかると思うかもしれないが、フリーハンドで考えようとするとかなり難しい。その上、酔った状態で四則演算テストのようなことをして「ほら、しらふより正答率が低いでしょ」という結果になったとしても、それが運転とどう関連するのかとなると途端に怪しくなる。科学的方法とはなんぞやを問う、我ながらなかなか面白い課題だと思ったものだ。

                 

                 パッド=生理用品を作るインド人の物語だ。冒頭、「事実に基づくが脚色してます」といったような但し書きが示される通り、特に中盤以降わらしべ長者的な展開がとても楽しい。クライマックスの演説シーンも、一人芝居よろしくかなり長々と喋る&単調な編集で演出少な目なのにぐっと惹き込まれ、劇中の聴衆とともに拍手したくなる見事な場面だった。


                 というのもこれが単なる発明物語ではなく、月経をケガレと見るインド社会の因習との戦いのドラマこそがメインテーマだからだ。簡単にいえば人をたくさん救う話で、だから有名ヒーローになぞらえたタイトルになっている。女性を抑圧する因習VS科学。だけどそれをやろうと思ったら、科学的態度とは何ぞやがまずは問われるこになるんだなと思いながら見た。

                 

                 工場の腕利き工員ラクシュミは相当の愛妻家で、妻が玉ねぎを切って涙を流しているのを見て玉ねぎ切りマシーンを作るくらいやさしい。その延長線上の愛情(もしくは義侠心)で新婚の妻のために安価な生理用品を作ろうと決意する。当時の(30〜40年くらい前の話かと思ったら2001年の話だったのでビックリ。それでももう20年近く前かあ…)インドには輸入物の高級品しか存在しない上、妻はじめ多くの女性が雑巾状態の布をあてがっていたため不衛生で感染症の危険性もある。その上、生理期間中は家に入れず座敷牢ならぬベランダ牢のようなところで過ごさなければならなかった。
                 何もかも不合理なのでラクシュミは「妻を救うぞ」と奮起するのだが、ここでまず難関になるのが試作品がちゃんと機能するかどうかのテストだった。

                 

                 最初の試作品は、ロリエのCMのまさに正反対の結果となり大失敗。妻は「恥ずかしいからもうやめて」と協力してくれなくなるので、ラクシュミは町ゆく女性に「試してくれ!」と体当たりし、変質者扱いになる。序盤のこの苦闘シーンは、ラクシュミの純粋まっすぐぶりが危う過ぎて見ているのがツラい。
                 ここでの彼の態度、すなわり製品テストを行うためには生理中の女性の協力が不可欠と思い込んでいるのは、飲酒運転の検証のために実際飲酒運転をするようなものだ。別に運転しなくても確認のしようがあるのと同様、他に試す方法はいくらでもあるはず。優秀な工員なら気づきそうなものだが、彼は学校を出ていないので部分に分解して足し合わせればよいという要素還元主義的な科学の基本姿勢みたいなものが発想できないのだろう。授業を受けてきたはずの学生でもそうなんだから難しいのは当たり前だと思う。

                 後に大学教授から製造機を紹介されたとき、それを部分に分解して理解したり、圧縮の方法に悩むときにチャパティ的なものが凹むのを見て閃いたりするシーンは、それだけにかなり象徴的なシーンになっていると思う。

                 

                 


                映画の感想:この世界の片隅に

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                   話題作をテレビ公開でようやく見るいつものパターン。綺麗に描かれた戦前の街並みだとか抽象画的な死のシーンだとか印象的な場面が多く、さすが日本のアニメだと思った。 

                   

                   日常の延長線上に戦争があったという本作の描き方は、戦争をとらえる上で重要だと思う。

                   NHKの朝ドラが代表格だけど、戦時を描く場合によく批判されるのが、主人公たちの言動が戦後の価値判断に沿って描かれている点だ。大抵は戦争や戦時体制について疑問を抱いていたり反発していたりする。だけど、特に実在の人物がモデルの場合、事実は正反対だったということがある。「いだてん」でも、満洲事変後、主人公が勤務する朝日新聞が軍部の突き上げを恐れて反戦的な論調を取りやめる判断を下したシーンがあったが、現実には当時の報道機関は積極的に賛同していて、そこに保身のポーズがゼロだったとは言い切れないにしても、それがメインの理由ではなかった。


                   本作の場合、現代からの視点を極力排除して当時のリアルな様子を描くことに腐心していて、事実の取材ぶりも徹底している、らしい。特に軍備関係は疎いので、あれが現実の様子だったかどうか俺には判断できないが、監督インタビューなんかを読むとそうらしい。
                   俺でも知っているようなことについてもろくに説明がないので、よくわからないまま見過ごした点もたくさんあるだろう。終盤で太極旗が掲げられるシーンは奇しくもタイムリーになってしまっているが、その後主人公が言う割と重要そうな台詞の意味は、当時の半島支配の目的の一つが「米」だったという事実を知らないとよくわからない。たまたま知っていてよかった。精読のように精鑑賞する教材としては格好の作品だな。

                   

                   「戦時中」というとつい殺伐とした統制社会を想像してしまうが、世の中がああいう様子になったのは大戦末期のこと。現実には、今まで通りの日常生活が、いつの間にかこれまでより苦しくなっていき、いつの間にか物資が入手しにくくなっていき、いつの間にか物言えば唇寒し秋の風になっていき……、といった具合だった。

                   主人公の義姉はモダンガールだったという逸話が序盤で「古きよき時代」的な調子で紹介されているが、実際には、都市部ではああやって華やかな洋装に身を包み、フォークとナイフでカツレツなんかを口にする傍らで、「国民精神総動員」といったいかにも戦時な垂れ幕が掲げられていた。相反しそうなこの2つの要素はある時期までは同居していたのである。

                   

                   同時代感を出そうという描き方の意義は、この時代が特異点でも何でもなく、今後もいくらでも起こり得ることだと感じれることにある。奇しくも其之二、この放送があった日、愛知県の芸術祭で、「展示が中止になったり不許可になったりした作品の展覧会」が中止になるという悪い冗談のような出来事があったが、展覧会の主旨から明らかなように、すでに「展示できなかった」という事実が日本社会に積み重なっているので特に驚く事態ではない。それこそ今の日本も「いつの間にか物言えば〜」になっているわけだ。

                   

                   どうしてそうなるかといえば、国民がそれに積極的に加担するか黙認するからだ。本作の主人公すずは、「いつもぼーっとしている」という設定で、「鈍感力」よろしく控え目ながらも逞しいキャラが魅力的なのだが、現状に大して特段疑問も文句もなくつましく暮らしていることで黙認ないしは消極的に加担していることになる。それが玉音放送を聞いた後の、戸惑うくらいの彼女の激昂につながっている。
                   あのシーンまでは、戦争が天災のような抗えない仕方のないもののように描写されている点が本作の弱点だなあと思いながら見ていたのだけど、あの喚き散らすシーンを見て、彼女自身も初めてこれが「人間の判断でどうにか出来ることだった」と知った、もしくはうすうす感づいていて加担していたことについて明確に自覚的になったかしたのだろうと思う。

                   

                   くだんの展示企画では、市長が中止を求める、それも展示内容が自分の主義主張と相容れないから、というの内容の是非とは別次元で完全アウトな行為を堂々とやらかしている。それ憲法違反じゃん、という点でここが最大の問題点だが現時点で非難は弱い(「野党がだらしない」ならぬ報道がだらしない)。こういう一個一個の積み重ねなんだよなあ。現代アートはそもそも人気がないし、慰安婦と聞いて沸騰はしなくても何か面倒臭そうだから避けておこうくらいの忌避感を持っている人は多いだろうから、さして関心を持たれない案件だと思う。だけど、こういうのが積み重なってそのうち自分の守備範囲も浸食してくる。そしてそれは天災でも何でもない。と、本作は教えているのである。


                   


                  映画の感想:金子文子と朴烈

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                     あちらさん風にいうと「日帝」がテーマだ。「南北分断」にハズれなしといった韓国映画も「日帝」は今のところ傑作と縁がない。本作も黒金星を見た直後だったこともあり、やたらと退屈に感じてしまいながら見た。


                     タイトル通り、2人の男女が主人公で、彼ら無政府主義による大正末の「朴烈事件」をモチーフにしている。「工作 黒金星〜」がイデオロギーを乗り越えようとするおっさんたちの物語だとすると、こちらはイデオロギーに活路を見出す若い衆の話。必然、主人公たち無政府主義者グループに甘いサークルのノリみたいなものが漂い、演出もそんな具合だったので、どうも受け付けなかった。


                     金子文子を演じた役者は韓国人なのに、ネイティブな日本語を話す&日本語訛り風の韓国語を話すという離れ業を見せている上、笑顔もイケてるかなり魅力的な役者だと思うのだけど、キャラ造形がダメな演劇によくあるマンガチックな風味で、非常に勿体なく感じた。あと朴烈は、実物の写真と比べると非常によく似ていてそこは評価できる。

                     

                     事件そのものはかなり地味だ。政治的思惑によるでっち上げで逮捕された朴烈と文子が、自らのイデオロギーに基づき「天皇と皇太子を暗殺するつもりだった」とでっち上げに乗っかる格好で猖典牒瓩鮗白し、そのことで大逆罪で死刑になる。結果が死刑なのでことは重大なのだけど、事件自体は本当かどうかもあやしい謀議を吐露する取調と裁判だけなので、事件を巡る紆余曲折のようなストーリー上の起伏やスリルはない。


                     本作は、この2人の性別や出自を超えた同志的連帯(恋愛込み)に着目する格好で描いているのだけど、皇太子を襲うことを言い出す辺りから「どうしてそんな過激なことを考えるのか」に触れざるを得ず、不幸な幼少期等、無政府主義に共鳴するまでの来歴が完全なる後出しじゃんけん的に語られる。構成が悪い。文子の半生は、これはこれでかなり重厚なので手に余る扱いにくさはあると思うけど、それにしてもこの扱いはどうかね。
                     加えて、重いテーマなのに男女間をクローズアップしている切り口が、五社英雄「226」に代表される日本映画でちょこちょこ見られる、重いテーマをぬるく描く悪癖と重なって見えた。

                     

                     事件は地味だが、事件周辺は濃い。本作の中で面白く見たシーンのひとつが、虎の門事件が起こるところだ。半ばでっち上げの猿芝居がごとき取調べを進めているよそで、本当に皇太子が襲撃される事件が起こる。犯人は朝鮮人どころか衆院議員の息子。捜査機関にすれば本当にバカげた失態だし、朴烈にしても上を越されている。かなりドラマチックだと思うが、本作の中ではそれほど重大には扱われていない。関東大震災の朝鮮人虐殺を煽るのが、本作では水野練太郎になっているが、正力松太郎にした方がよかったんじゃないか。ちょうど虎の門事件で首になるし。


                     さらに映画の中では触れられないが、朴烈はこの後、思想的転向を繰り返すことになるらしい。彼を英雄視する立場からすると不都合な事実になるからやり過ごしたのだろうか。しかし文子との対比で「お前は生きろ」が強調されているのだから、生き残るとはどういうことなのか、彼がその後辿る道は、是非を超えた面白いテーマなんじゃないかと思うけどなあ。

                     

                     以上のように、切り口によってはいかようにでも面白い材料になったと想像される点、結構もったいない作品だと思った。ま、それをいうなら日本側で作らないといけないテーマだけど、というのは前も書いたけど。
                    朝鮮人をスケープゴートにすることに乗っかって安心を得ている本作の時代から20年後、国民総スケープゴート状態になる。20年て考えてみると、あっという間だ。そして本作前半で描かれる震災時の虐殺は今やなかったことにされかかっていてそれに都知事も乗っかる末法エポック。留飲下げてると20年で他も全部なかったことにされっぞ。

                     

                    蛇足:本件を取り調べた予審判事の息子が、本田靖春「不当逮捕」の主人公・立松和博なんですって。あのエース記者の特異なキャラクターは、ある程度父親譲りなんだろうなと思った。

                     

                    「박열」(朴烈)2017年韓国
                    監督:イ・ジュンイク
                    出演:イ・ジェフン、チェ・ヒソ、キム・インウ


                    映画の感想:ライ麦畑の反逆児/ひとりぼっちのサリンジャー

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                       文豪映画を立て続けに見た際に見逃した新作をようやく拝見した。公開当時に見ていたら、「この本の主人公は僕ですよね?」と、サリンジャーに声をかけてくるネジのはずれたようなファンのシーンにただ苦笑していただけだったと思う。京都の惨事があったので、心底ゾッとした。いやになるな。


                       サリンジャーの半生を描いた内容だ。「ライ麦畑でつかまえて」はすぐ挫折して読んでいない。その後仙人のように隠遁生活をしていたという話は訃報のときに知ったのだっけか。今一つ興味を抱きにくい人物と思っていたが、なぜか映画には興味が湧いて見たわけだけれども、なかなか面白い作品だった。地味ながらもテンポがいいせいだろうか。


                       特に序盤はものを書いてみたい人間にはよき参考書だろう。よい作品は作家の声が聞こえてこないといけないが、声が大きすぎると自己満足となって読者を邪魔する。というサリンジャーの師匠の教えは(ケビン・スペイシーが演じているから引っかかりを感じてしまうのだけど)結構響いた。出版元が指摘する「君の文章は説明過剰。もっと読者を信じろ」なんかも耳が痛い。書くことに覚悟を決めた人間だけが作家の資格がある、とか、とにかく「確かになあ」という台詞が多い。本作自身も、説明の削り方が上手いと思う。特に第二次世界大戦の従軍シーンは、それほど長くなく台詞も少ないが、彼の精神を蝕む説得力が充分に出せている。いかにも手練れの監督だなあという印象を受けたが、年が一緒だった。俺はまだ説明過剰から抜け出せん。

                       

                       序盤はイケてない青年が作家になるまでの成長物語で、中盤で戦争後遺症による困難期を挟み、そこからの復活⇒「ライ麦畑」出版、というよくできたサクセスストーリーを辿るものの、終盤からは邦題をなぞるように、どんどん一人の世界に籠もっていく。

                       いかにも「周りを不幸にする芸術家あるある」だなあと思って見ていた。書くことに救われてきたはずの男が、書くことの囚われ人のようになり、これだから芸術は恐ろしいなどとも思ったのだけれども、この人が91歳まで生きていることを踏まえると、これが彼にとっての正しい生き方だったといえる。

                       つまり、人気作家でいることが彼の人生だったわけではなく、一人で書き続けることが着地点だったということだ。作家になる覚悟を問うてきた師匠のウィット先生も、まさかこういうライフスタイルを想定はしていなかっただろうが、これがサリンジャーにとっての「作家」ということか。あまりにもスッキリし過ぎている。ただでさえ少々不細工な振舞いに陥ってしまった師匠のその後との対比が悲しい。


                       しかし俺には、世に出さない前提で書き続ける行為が想像できない。このブログは基本は個人の趣味で、読んでいる人も数えるほどしかいないと推測されるが、それでも書いているときにはその若干名を思い浮かべてはおり、結局のところは人に見せる前提で書いている。見せないのならブログにアップせずに手元に保存しとけばいいだけのことなので当たり前だ。そして、ただ手元に保存するだけだったらこんなに長々と書くはずもなく、せいぜい箇条書きのメモ書き程度にとどまるはず。

                       選考に最終的に漏れたときも、最初は名前が選評が雑誌に載っているだけでうれしかったが、自作が人の目に触れる機会がないのだと冷静になって実感すると、にわかに「この世に存在しないことになっている」くらいの喪失感は抱いたものだった。本が一冊出ただけで金持ちになったり有名になったりするわけではないし、そのアテがはずれてガッカリしたわけでもない。もっと手前の「他人の目に触れる機会がない」ということが、こんなにも割に合わん気分にさせてくるのだなあと思ったものだった。

                       

                       では人に見せなくても満足するような行為が他に何かあるか。俺の場合は料理が該当しそうだ。自分で作って自分で食べて美味しくできればそれで満足している。作る過程もまあちょっとしたストレス解消になっている。しかしこれとて、プロ並みに綺麗な盛り付けが出来る腕があったらこれ見よがしにSNSにアップしているような気がする。

                       

                       つまり人に見せられるレベルではない「趣味レベル」の自覚があるときは自己満足で済ませられても、一定程度の腕が出てくるものは披露して誇示したくなるということで、全くそうではないサリンジャーはまるで解脱者だ。そういえば映画の中では仏教に傾倒して座禅を組むシーンが何度もあるのだった。つまり彼はもはや小説家ではなく、仏教を極めた阿羅漢だったのかも。そりゃあ必然、一人で隠遁するわなあ。……、こんな結論でいいのか?


                      「REBEL IN THE RYE」2017年アメリカ
                      監督:ダニー・ストロング
                      出演:ニコラス・ホルト、ケヴィン・スペイシー、ゾーイ・ドゥイッチ



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