【やっつけ映画評】女神の見えざる手

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     アメリカで、銃所持に規制をかける法律を成立させるために奮闘する女性の話、と聞いて想像するのとはかなり異なる内容だ。この「印象と違う」ということ自体が、日本においては何かを投げかけているようにも思う。


     以前、知人が死刑制度について話すから聞きに来いと言ってきたので、小規模の講演会かパネルディスカッションのようなものを想像して会場に行くと、弁護士の勉強会のような場で往生したことがある。完全に場違いなところに来てしまったと思い、さあて地方から来た弁護士を装うか、それとも法学部の講師ですねんくらいのふりをするか、自分の設定をどう偽るかそればかり考えてしまった。終わってからよくよく聞くと、半数以上が俺同様その知人に招かれた氏素性不明のチンピラばかりで、場違いなのはむしろ弁護士の方だったというくらいの参加者構成比だった。それはそれでどうかと思わないでもないが、以上はただの与太噺。

     ここでの本題は、その知人が話の中で、アメリカの死刑反対運動を紹介していたことだ。日本とはだいぶ様子が違うという趣旨だった。同調する資産家や法人からがっつり援助を受け、恰好つけたオフィスを構えて人を雇って活動する。その活動内容もマキャベズム丸出しの打算的。対する日本の社会運動は、ボランティアと善意や使命感が基本形だから、そりゃ何から何まで違ってくる。

     

     本作の舞台もこれと似ている。主人公のスローンは敏腕ロビイストで、勤務先のロビイスト事務所はいわば広告代理店のようなものだ。宣伝、マスコミ露出、果ては贈賄すれすれの議員への工作活動等々を通じて、依頼に応じて法案を通過させたり廃案にさせたりの道筋を作る。ここでの正論、綺麗事は、すべて勝つための道具でしかない。その点、日本で社会運動をしている人々とは最も縁遠そうなタイプともいえる。

     

     このようなロビー活動を描いた作品だと「サンキュー・スモーキング」(2006)がある。主人公がたばこ業界を擁護するためにあの手この手の話術を展開する話だが、この主人公が霞んで見えてしまうほど、本作のスローンは強烈だ。シャーロック・ホームズ型のアンチヒーローになるのか、とにかく頭脳明晰かつ冷徹で、他人の気持ちを一顧だにしない、というよりは人の気持ちなるものがよく理解できないサイコパス的人物だ。頼れる凄腕だが、決して近づきたくないタイプだと思う。結構見ていてゾッとした。

     

     ゾッとする理由の一つは、「サンキュー〜」の主人公が、今風のアホな言い方だと印象操作が基本的な戦い方に対し、スローンはかなり謀略を駆使するからだ。その裏のかき方が本作の推進力になっていて、最後は「なるほどやられたー」と終わる。その筋立て自体はお見事なのだが、実際職場にこんな人がいたらとつい余計な想像をして背筋が寒くなるのは、現実味をしっかり出せているからだ。現実味というか、ギスギス殺伐が容赦ないというか。救いのある登場人物が、ハニトラ男だけという殺伐にもほどがある現場だが、どんな職業にも意地とプライドがあるという点一貫していてよい。

     閑話休題、スローンのような烈なキャラクターは、往々にして作り話臭さが出てしまい、何ならわざとそうして作品のバランスを取るところ、本作の場合は実際にいそうな印象を受けるから、その辺も演出や演技が見事に出来ているのだろう。

     

     このように味方さえも欺くスローンの知謀によって、銃所持規制に賛同する議員を増やし、一方で反対派もロビイストを使って巻き返しを図っていく。その戦いを見ていると、日本でもこういう手法を導入して政策アピールをすればいいのに、と思わないでもないが、既にやっている。都構想の住民投票のときの大阪がそうだったが、より大々的にやっていたのは維新側、つまり推進派だった。宣伝ホームページのQ&Aで「失敗したらどうなりますか」「失敗しないから大丈夫です」と書いている時点で底が知れた印象だったが、グラフのメモリにバイアスをかけたり、控えめにいって誇張が多く稚拙だった。それでも拮抗したから、アジテートなやり方が功を奏したということだろう(むしろよく否決されたもんだと思う)。スローンのやり方に比べてずっと矮小だからほっとするようで、それが通じているから大阪の現実の方が余計にゾッとするともいえる。

     

     ただ、両者の意見があまり噛み合っていないのは太平洋の東西問わず似たようなものだ、というのも本作を見ての印象だった。奇しくも前に書いた話と同じで、両者の主張は論点がしばしば逸れ合っている。お互い自説の正しさを世間にアピールしたいのであって、議論したいわけではないから自ずとそうなるのだろう。

     学問と違い、こちらは政治だからそんなもんだと言いたいところだが、この犲衙´瓩稜蚕夢垳気能侏茲討い誅男,大阪、東京、日本政府、米政府で観測される悲しい現実があるので、やはりよろしいことではない。それでも向こうさんがまだマシに見えるのは、議員一人一人に意見があるところだ。逆にいうと、一人一人賛同させたり翻意させたりするロビイストのやり方は、「党の意見が私の意見」化が強烈に進む日本では通用しないのではないかと思う。

     

     ごちゃごちゃと書いたが、本作のおもしろいところは、スローンと日本の社会運動の相違点が、実はマキャベリ的姿勢ではないと気づかされる点だ。その点日本の政治家とも大きく異なると思う。

     

     


    映画の感想:ブレードランナー2049

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       くしくも同じ監督の作品を立て続けに見た。

       「っぽい」という枠組みを残せるのは、何かを作る側にとってはしてやったりだ。というか芸術というのはそういうものといえるか。大学に入ったとき、「ブレードランナーっぽい」ものを喜ぶ人間が多くて驚いた覚えがある。正確にいうと、「ブレードランナーっぽい」という表現が、共通理解を前提としてやり取りされている状況に驚いたのだった。

       そんなに有名な映画だっけかと思ったのは都市部と田舎の文化格差のせいだと片付けたが、そんなすごい映画だっけかとビデオ屋で借りてきて見てもあまりピンとこなかった。その後何年もたって改めて見て、これはたしかにおもしろい映画だと感じ、ようやく当時の友人たちに追いつけたのだった。個人的にはかくのごとき情けない事情で思い出深い作品だ。ただし、何がおもしろかったのかと問われても、ろくに言語化することが出来ず、「雰囲気」とか「世界観」とかの駄目な演劇演出家みたいな言葉しか出てこない困った作品でもある。

       

       続編たる今作も、感想を書くのが難しい映画だった。聖書をモチーフにしているようで、「誕生」というか「創生」というか、とにかく普遍的でデカいテーマを戴き、大して話らしい話もなく、その場その場の場面の印象とか、感情への共感とかで引っ張るよくできた演劇みたいな映画だった。尺が長いのも演劇的だったが、壮大なテーマを掲げて話らしい話もなく2時間超える演劇は割と出来損ないのケースが多いというのは個人の感想余計な話。舞台作品との違いは、圧倒的に金のかかったセットという言うまでもない話だが、「映画を見た」という気分は十二分に味わえる。

       

       その他、あれがよかったとか、これがわからなかったとか、単発の指差し確認しか書けることがないのだが、備忘録としていくつか書いておく。

       前作同様、電飾ギラギラのビルが林立して地面はカオスという大袈裟な香港みたいな街に雨が降っているのだが、不思議と古臭く感じず、これは意外だった。スターウォーズ3のように、何年も前の前作とののりしろ部分が、時代の経過で齟齬をきたしてしまっているような事態が必然的にあると思ったのだがそうでもなかった。

       そのスターウォーズ同様、ハリソン・フォードの子供がトラブルを起こす話だったわけだが、彼が演じるデッカードが登場してから若干失速したように感じた。主人公Kの孤独が、猯人瓩箸里笋蠎茲蠅鯢頭に、妙にしみじみ伝わってくるのに対し、デッカードの孤独は宝くじで10億当たって破滅した人みたいな種類のものに映ったからだろうか。

       ラブが妙に強いのは、アクションという点から生まれた演出だと推測するが、邪魔に感じた。それがなぜかを考えてまとめてみようと思ったが無理だった。
       さて実際の2049年に、カリフォルニアで日本語の電飾看板はギラギラしていられるのだろうか。

       

      「BLADE RUNNER 2049」2017年アメリカ
      監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
      出演:ハリソン・フォード、ライアン・ゴズリング、アナ・デ・アルマス

       


      映画の感想:メッセージ

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         宇宙人の設定が面白いSF作品と聞いていて、ようやく見た。

         世界の各地に同時に巨大な宇宙船?で現れた生命体と接触を試みるファーストコンタクトものの王道を借りつつ、叙述トリックのような物語だった。宇宙人の書く文字のデザインというかアイデアというかが印象的な点を筆頭に、景色の綺麗さとか、最後にタイトルが繰り返されてああなるほどね思わされる辺りまで、絵的な部分がよくできている。

         加えて、突飛な設定のSF作品ながら、自分の日常に重なることがあるような気分にもなる。おそらく書いた人間の日常の出来事に元々の着想があるだろうから、順序が逆というか、そういう感想になるのは必然といえるが、日常ふと感じたことをしっかりフィクションに投影して、そのふと感じたことを浮き彫りに出来るのは、なかなか難しいことであり、個人的には理想的な作品の制作過程ないしは手法だと思う。


         一つは、相手の言語を学ぶと分かり合えるだけでなく、相手に染まるという点だ。この宇宙人が使う特異な文字を解読するうち、主人公は彼らと同じ猯廊瓩鮹里蕕夢屬某箸砲弔韻胴圓。

         以前に読んだ本で、バイリンガルの人間、例えば日本語と英語を話せる人間が、日本語を話している場合と英語の場合で性格が変わるとあった。俺自身は、流暢に話せる外国語はないし、海外留学や海外赴任の経験もないが、いかにもありそうなことだとは思う。英語は主語を省略しないし、否定する場合はnoやnotが前に来るしで、何かとハッキリした物言いになりそうな印象はある。あるいはヒトラーが仮にフランス人だったとすると、ドイツ語に比べて音感がふわっとしているといおうか丸っこいといおうかとにかかうずいぶん違うので、あのような演説は無理だったのではないかとも思う。

         半可通ぶりを恥ずかし気もなく書くと、イタリア語は過去形の種類が色々ありすぎて、どんだけ過去にこだわる民族だと思った覚えがあるし、スペイン語は英語のbe動詞、日本語だと「〜だ」に相当する部分が2種類あるから物事の状態に対してより敏感だともいえる。逆に日本語には敬語があるから上下関係に敏感だといえるし、一人称もいくつかあるから、自己認識に揺らぎがあるともいえそうだ。


         なので、これらの言語を学ぶと、母語では生まれない感覚が自分に生まれるということは十分に考えられそうだ。
         ただし、自分が故郷を出て地元の方言を封じるようになったことを考えると、当てはまるような当てはまらないような、とにかく疑問も出てくる。

         俺自身は十九二十歳で進学の関係で関西で暮らすことになったが、その際になるべく関西弁を身につけようとした。田舎の人間が方言を封じるのと理由はおおむね同じだが、便利に感じたこと理由としてある。元々話していた方言に比べ、冗談を言ったときにそう通じやすいとか、動詞に「はる」をつけるだけで敬語になるとか、何かと楽な言葉だと思ったからだ。同時に思考回路もずいぶん変わったから、本作で示している現象をなぞったともいえそうだが、どちらかというと友人の影響とか年を取って分別が少しはついてきたこととかの方が大きいようにも思う。ついでに少なくとも関西の人間に出会ったときに誰も俺を関西人と思わないから、ちっともトレースできていないことになる。外国語と同じく方言も身についていないから、やはり自分自身はまだ経験したことがない現象なのかもしれない。

         

         もう一つは、ネタバレになる。
         


        映画の感想:人生タクシー

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           終わりが来るのがあっという間に感じた。82分とあるから実際短い映画ではあるが、すっかり引き込まれたということだろう。
          イランの有名監督が、タクシー運転手に扮して車載カメラで乗客のあれこれを撮影する。そうした理由は、政府から睨まれ映画製作禁止の処分を食らっているからで、いわば隠れ蓑としての苦肉の策だ。と思わせておいて、想像したのとちょっと違うから、この監督はやはり大した人なんだなあと思わされた。

           

           1カ月か2カ月か、とにかく毎日たくさん人を乗せて、面白かった客だけ切り貼りつなげば、そこそこ愉快なドキュメンタリーにはなりそうだ。そんなことを想像しながら見始めた。冒頭早速イランの街並みが興味深く、大阪の堺筋か本町筋あたりを埃っぽくしたようなビル街に見入る。間もなく男を乗せた後、女の客も乗せ、どうやらこの国は中国同様相乗り文化があるのかと知ったような顔をしているうち、この赤の他人の男女の客が死刑を巡って激論を交わし出す。見ず知らずの他人同士なのにその遠慮のない感じが日本とはずいぶん様相が違っている、と思わせておいて議論の中身は日本と大差なく大いに既視感がある。

           そうこうするうち、監督のファンであるオタクの海賊版屋、交通事故に遭ったという血だらけの男、なぜか金魚鉢を抱えて正午までにつかないと死ぬとのたまう高齢女性、おかしなのが次々現れる。まるで「ナイト・オン・ザ・プラネッツ」だが、大きく異なるのは、虚実がよくわからない点である。フィクションなのか、ノンフィクションなのか、一部仕込みがあるとすればどこまでなのか、まるで判断がつかない。

           

           そしてこのおかしな乗客たちは、単に滑稽だったり不思議だったりするだけではなく、イラン社会の断面をうかがわせ、想像させ、問いを投げかけてくる。

           

           例えば死刑の議論はそれがそのまま問題提起である。死刑反対の女性の職業が教師で、「やっぱり、教師なんてのは実社会を知らないから」と賛成意見の男がせせら笑うところは議論の中身とは別に、これはこれで個人的に気になった。日本でも何かというと「実社会を知らない」とやり玉にあげられるのが教師であるが、そうして「改革」を試みて結果「黒髪強要」という余計にわけのわからない事態になっているのが今の大阪なので、実社会云々の批判は早急にひっこめた方が子供のためであるとこのチンピラ風の男には助言しておきたい。

           

           そして海賊版屋のオタク風の男の存在は、この映画が国際的には「珍しい題材」になっている情勢の裏側である。よその世界の映画がこういう恰好でしか入手できないこの国の現実なのだろう。そして最も印象に残るのは、後半に出てくる映画の上映許可の話だ。

           

           監督が学校帰りの姪を迎えに行くと、授業の課題で映画を撮らなければならないと、このこまっしゃくれた女児がデジカメを監督に向ける。優秀作は学校の上映会で紹介されるのだが、国の上映規定を守る必要がある。それは例えば「善人キャラがネクタイを締めていてはいけない」とか「名前は聖人から拝借しないといけない」とかやたらと細かい。そして俗悪なリアリズムは撮ってはいけないとあるのだが、姪は監督に「どういうこと?」と尋ねる。「現実を撮りなさいと言っておいて、本当の現実や暗くて嫌な話は見せちゃ駄目。私には違いがわからない。見せたくないことをしてるのは自分たちなのに」

           

           こんな台詞を教条的でなく自然に言えるこの女児は、ものすごい演技力の持ち主か、それでなくても相当に頭脳明晰である。「見せたくないことをしてる」人々が彼女のような人間を抑え込んでいる社会はかなり勿体ないことをしているといえるが、同時にこれは未来の日本の様子ではないのかと思えてきて陰鬱になってきた。

           日本の場合、規定を設けて命じなくても嬉々として自らやるというのが、今現在も日々実証されているので余計にろくでもない。それでも外国の映画はこうして一定数字幕付きで見れる社会だからまだ全然ましだし、さらにもっと息苦しくなる余白はたくさんあるということでもある。そんな状況になっても、こうやって外の世界にあの手この手で映画を届ける本作の監督のような人間がいることは、実に力強いことではあるのだが、もちろんそれは同時に非常に辛気臭い事実でもある。

           

          「تاکسی‎‎」2015年イラン
          監督・出演:ジャファル・パナヒ


          本と映画の感想:「豪腕」「コンカッション」

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             発売してすぐくらいに買ったが、書くまでもない事情でなかなか読み進められなかった。帯に荒木大輔氏絶賛と書いてあるが、作中荒木も登場するから読者の推薦というより出演者の告知である。故・上甲正典氏が登場するところもちょっと感動した。別にファンというわけではなく、よく取材しているなあと。作中で亡くなっているから、かなり晩年の取材に相当する。

             

             投手の肘についてのノンフィクションだ。先日来、何かと話題のダルビッシュが以前にケガで長期離脱していたことは知られているが、そのとき彼も受けていたトミー・ジョン手術についてである。UCLという肘の腱が断裂する大けがに対して、手首等、別のところにある腱を移植して再生させる手術で、最初に執刀を受けた投手の名前を冠している。1974年のことである。

            投手が肘を壊して手術を受ける、というのは、農家が腰痛になったり漫画家が痔になったりするのと同レベルにとらえられそうな話である。つまりは「職業病」という理解だ。実際職業病で、普通の人間は腕を高速で振り回すことなどしないから、そんな箇所の腱は損傷しない。

             

             本書の筆者がこれを問題視したのは、ひとつはその件数だ。ウィキペディアで検索するだけも結構なプロ選手が名前を連ねていることが確認できる。中には高校生のころ受けたという選手もいるから、マイナーで終わった人やプロになれなかった人も含めるとかなりの数に上るだろう。現在ワールドシリーズを戦っている両チームでいえば、ダルのほか、ドジャースのヒルやアストロズのモートンも受けているし、ソフトバンクの和田もそうだ。古いところだとキリがなくなるが、ユニークなところでは強打者のホセ・カンセコで、大負けしている試合でマウンドに立ち(メジャーではたまにあるファンサービスでイチローも青木も経験あり)、結果肘を痛めてこの手術を受けた。

             

             もう一つの問題点は、予防策がわからない点だ。何度もUCLが破損する人もいれば、びくともしない人もいる。投げ過ぎがよくないことは概ねその通りのようなのだが、具体的にはよくわかっていない。メジャーの場合、日本よりはるかに投球数の管理が厳しいが、今一つ効果を上げているとはいいがたい。厳格に管理してもダメなときはダメなようである。投球フォームについても同様で、本書で紹介されているが、マット・ハービーなんか「理想的な物凄く綺麗なフォーム」といわれていたのに故障して手術を受けた。薄毛とその対策にちょっと似ている。不潔にしておくのは頭髪によくなさそうだが、ろくに風呂に入らないくせにフサフサな人がいるように、先発投手としてバンバン投げてもちっとも支障がない人もいる。

             

             なにしろ現時点ではよくわかっていないことなので、本書もそれほど切れ味鋭い内容ではないのだが、それでも特に根拠もない信仰のような日本球界の投球観には改めて首を傾げるしかない問題提起ができているし、一方で前代未聞の方法で実績を上げているコーチが紹介されていて興味深い(と同時にニセ科学的なあやしげな類も登場する)。「通説」という以上には根拠のないコーチの指導をことごとく無視し、大いに嫌われながら自分なりの練習法・投球法を追究してメジャーにまで上り詰める(のにまさかのドローンで指を怪我してワールドシリーズに出れなかった)バウアーの意義ある経歴も登場している。とにかく筆者は、これだけたくさんの選手が同じ怪我をしているのに(同時に当人のキャリアと球団の億単位の投資がふいになっているのに)球界の対応は不十分ではないのかを疑問を呈している。もちろん何もしていないわけではないので球界の姿勢もそこまで責められるわけでもないだろうが、問題の深刻さに比べるとぬるいとはいえるかもしれない。

             

             それで表題の映画についてだ。こちらも「職業病」の告発という点では似ている。ただしかなり深刻だ。
             アメフト選手が試合でのぶつかり合いを重ねるうち、脳に障害が生まれる病気を発見した解剖医の実話である。タイトルは脳震盪の意味だ。毎度地球を救う大雑把な役回りを演じているウィル・スミスが実直な医師を地道に演じている貴重な作品でもある。この人演技上手いんだなと気づかされた。

             

             幻聴や記憶障害、鬱病を発症し、しまいに自殺してしまうからただ事ではない。最初の患者に「どうしたんだ元気だせよ」と激励していた元チームメイトが、後で「うおー聞こえる!」と暴れ出して死んでしまったり、主人公に対して「藪医者風情が口を出すな」と罵倒してきた元選手が後に発症して「俺はもう駄目だ!」と自殺したり、感染系のホラーのようで(主人公が医者なので「きりひと讃歌」を思い出したが)ぞっとさせられた。毎度おなじみのシリアスな役どころで出ているアレック・ボールドウィンに、でもこの人トランプを茶化すコメディやってんだよなあとその広すぎる振幅を想像してついおかしくなるところが数少ない救いである。

             

             この解剖医オマルの発見は、NFLという巨大産業に立てつく構図である。大企業が保身のためにはいくらでも厚顔無恥になるさまは本邦でもすっかりおなじみになっているが、FBIまで出てくるからおだやかではない。それでもオマルや協力者が節を曲げないのは、劇中の台詞を借りれば「サイエンス」のひと言に尽きる。科学が「ここに問題がある」と示している以上、いかに政治が跳梁跋扈、口を閉ざそうとしてきても、あるものはあるというわけで、この辺りの価値観はガリレオのころから変わっていない。

             

             そんな事実があれば国民的娯楽であるNFLは立ち行かなくなる。ときに人間の思惑を打ち砕いてしまう残酷な事実を提示するのが科学であるが、人はしばしばそのような破壊的な事実を憎み代わりに虚偽を大切にするのだと、この前見た現代文の試験問題の文章に書いてあった。特に政治や経営は人の営みの範囲内のことであるから、科学に比べて余計にそうなりやすいのだろう。ただいまの日本はその傾向がひどすぎて、ニュースを見ても本屋の新刊書棚を見ても、希望的観測の独走ぶりが不条理コントの域にまで達している感がある。その態度がどういう結果を生むのかは本作を見るまでもなく自明のことなのだが。

             

            「CONCUSSION」2015年イギリス、オーストラリア、アメリカ
            監督:ピーター・ランデスマン
            出演:ウィル・スミス、アレック・ボルドウィン、アルバート・ブルックス


            映画の感想:アウトレイジ三部作

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               新作の公開が迫っているからだろう。テレビでやっていた「アウトレイジ」の1と2を見た。1は以前に見たことがあったが、あえて続きを見たいとも思わず、2は今回初めて見た。簡単な感想を先に書いておくと、1はストーリーのためにわざわざ話をややこしくしている印象を受けてしまい、そのせいか、簡単に殺し過ぎやろと白けてしまったと記憶している。

               

               2作目(正確には「ビヨンド」)は、1より娯楽性の面でうまく作られているのだろう、俺自身はヤクザ映画が好きではないのだが、ついつい引き込まれてしまった。大物俳優だろうと誰だろうと、さっさと不細工に死んでしまうところは、これは権威を獲得した監督だけが許される作り方だ。え?この人もう死ぬの?という意外性はなかなか出せるものではない。高橋克典なんか台詞が一つもなかった(のに映えるから、やはり主役をやる俳優というのは大したものだ)。どんどん死ぬ=続編のたびに俳優が入れ替わるため、全体を通じて強面俳優見本市なところがある。個人的に、出てほしい強面は誰だろうと想像してみたが、真っ先に思い浮かんだのが春風亭昇太だったのは完全に「おんな城主直虎」の影響だ。

               

               普通だったら感想はこれで終わってしまうところだが、時節柄、妙にタイムリーに感じてしまったので続きを書いておこうと思う。ここから先は遠慮なくネタバレだ。

               


              【やっつけ映画評】The NET 網に囚われた男

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                 南北分断を舞台作品のような身の丈サイズにまとめたよくできた作品だった。監督は、ぬるい南北の描き方をした「レッド・ファミリー」をプロデュースした人だが、本作はあちらとはうってかわって訴えかけるものが迫ってきた。政局の話で吹っ飛ぶことそれ自体が象徴しているような、狂気の沙汰のミサイル騒ぎにあった日本にとっては、恰好の教材ではないかと思う。


                 船の故障で韓国側の海域に流されてしまった北朝鮮の漁師ナム・チョルが、スパイの疑いで韓国側に拘束され尋問される。取調官は「アカ」に憎悪を抱く暴力男で、警護役の青年は、その違法な取調べを非難する。「宇宙人王さん」を彷彿とさせる構造に、「善良な漁師と思わせといて実はスパイでした」といったチンケなサスペンスだったらどうしようかと思ったが、まったくそういう話ではなくて安堵した。

                 

                 チョルがスパイであれば大事だが、そうでなければ次に待つ手続きは「転向」、つまり亡命である。善良な同胞を狂気の国に戻すわけにはいかない。そういう理屈だ。韓国側に渡ってしまったこと自体が罪に問われるかもしれないと考えると、送還するのは人道的な点からも問題があることになる。だがチョルにとって大切なのは家族と平穏に暮らしていたこれまでの生活である。ソウルの豊かさにも、自由を保障する西欧型民主国家にもさして興味がない。

                 

                 国民が餓死しているのに軍事開発と政敵粛清に明け暮れる世襲の独裁国家と、国民主権の憲法を戴く民主国家、どちらがまともなのかは考えるまでもないが、後者が正しいからといって、望んでもいない人間に家族を捨てても亡命しろと強要するのは、これはこれでイデオロギーの暴力だから、国家主席にマンセーと言うのと構造的にはあまり変わらない。ただし、チョルが今後も祖国で家族と平穏に暮らせる保障がない分、当人の意志を曲げてでも亡命を、と考える「部長」や「室長」の立場に全く合理性がないわけではない。チョルの立場を最大限尊重しようとする警護の青年は、最も正しく見える立場ながら、同時にお人よしであり、無責任だと非難することも可能だろう。


                 チョルの言葉を借りれば、この「もどかしさ」が本作の推進力である。取調官は人格的にも仕事へのスタンスも相当問題があると言わざるを得ないが、一応チョルは交戦中の国からやってきた人間であるし、疑わしくなければないほど余計に疑わしいという矛盾を抱えたのがスパイという存在である以上、彼の疑心暗鬼に全く合理性がないわけではない。加えて、結局スパイかそうでないのかよくわからない脇役も登場する。本作は、このような疑わしさの要素をいくつか散りばめながら、それでもシロかクロかのサスペンスに話の本筋をブレさせていない点で見事である。

                 

                 こんな国家間のややこしい話を、コンパクトにまとめられているのは、チョルの人物造形が大きい。
                 チョルは、実直で目鼻も利くなかなか魅力的な人間である。いたってマトモであるという描き方自体が、本作を成立させている重要な要素だ。一人のマトモな男であるからこそ、警護の青年はシンパシーを抱いたのだろうし、取調官はスパイだと疑いを深めたのだろう。「狂気の独裁国家に洗脳されたロボット」というようなステレオタイプだと彼らの態度もまた違ってきた可能性があるし、そもそも作品として成立しない。

                 

                 政府がいかにおかしな状態であっても、市井の人間の現状はまた別の話である。チョル自身は、抑圧国家の面倒な部分を適当に避けながら地味に地道に暮らしている。おそらく南北の対立にも特段興味がない。日々の暮らしに精一杯で、政治には無関心。どこにでもいる普通の人である。その彼を「洗脳されている」と思い込む韓国側の人間は、色眼鏡で見ているという点である意味彼ら自身が狎脳瓩気譴討い襦2K修兵萃幹韻砲靴討眤崚戮違うだけで構図は同じだ。チョルが警護の青年だけに心を開くのは、この若者だけがチョルを対等な一人の人間と見ているからで、こんなことが特別になるほど、半島の分断は悲劇だということだ。
                (以下ネタバレ)
                 


                【やっつけ映画評】わたしは、ダニエル・ブレイク

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                   仕事柄、公務員になりたいという学生諸君と接することが多い。何となくそれしか進路が想像できないという引き算的発想の若者もいれば、何かしら生まれ育った地域や困っている人々の力になりたいという見上げたホスピタリティの持ち主もいる。

                   後者の学生の多くは、ボランティア活動に参加していて、その種類は多岐に渡っている。催事の運営スタッフや、地域のまちおこし支援、高齢者や障害者、貧困家庭の児童を支援する活動などなどである。彼らの話を具体的に聞くと、必然、何も考えていなかった己の学生時代を振り返る羽目になるから困る。加えて福祉系のボランティアの場合、聞いているこちらの気が滅入ってくるほどシビアな現場を踏んでいることもしばしばだ。特に高齢者福祉ボランティアの場合、ろくでもない人生を送っている身だけに将来のわが身だという気もしてきてしまう。一方で、そんな現場に自分の将来を託そうとする若人がいること自体は明るい話にも思えるから、ついそっちに目を逸らして気分を和ませようとしてしまう。


                   本作も、低所得者の救いのない現実を題材に扱っていて、いかにも気が滅入りそうな映画である。だが、主人公たちが国の制度等々に翻弄される一方で、周囲の人々は皆それぞれに温かく救われる。救われはするのだが、ただ現実は変わらないから救われると感じるのは話題を逸らせているだけのようにも思う。


                   ベテラン大工のダニエルは、心臓を患い医者から働くことを止められている。このため公的支援に頼っているのだが、「就労可能で受給資格なし」と認定されてしまう(今までもらえていたのが急に打ち切られたようだ)。ダニエルは不服申立を望むが、審査には時間がかかる。このため職安からは、求職活動をして求職手当をもらうよう命じられるのだが、この手続きの煩雑さにダニエルは振り回される。

                   

                   この物語を公務員叩きだと受け取るのは容易い。職安の職員は高圧的で融通が利かない。一方、本作に登場する市井の人々は多かれ少なかれマトモないい人が多い。ダニエルの隣人の一見チャラチャラしてそうな青年は、案外気のいい若者だし、フードバンクの女性たちには胸が打たれる。もう一人の主人公であるシングルマザーのケイティが商店で万引きして捕まると、店主は彼女の困窮ぶりに人情裁きを見せる。ダニエル自身、ケイティに気安く手を差し伸べ彼女と子供たちのよき支えとなっている。一般市民がみんな善良なのに、役所の人間は一様に石頭で偉そうで一から十までお役所仕事の塊である。

                   

                   他の映画でもいくつか目にしたことがあるが、イギリスの公務員も日本とよく似ているという印象がある。本作も同様で、既視感のある景色だけに、余計「これだから役人は」と本邦の実状と重ね合わせて呆れてしまう。公務員叩きの好きな人なら余計に膝を打つだろう。

                   

                   だが、ここで描かれている現状は、公務員叩きの結果生まれた状況だと思う。つまりは有権者がそれを選択したのである。

                   

                   お役所は古くから、その権威と四角四面さから何かと嫌われがちな存在であるが、そこに加えて「無駄が多い」「地位が特権的」「給与に見合う仕事をしていない」「民間企業では考えられない」といった批判が繰り返されてきた。石原慎太郎、小泉純一郎、政権交代時の民主党、橋下徹――、20世紀末以降、人気を集めてきた政治家、政権は、少なからずこれらの官僚批判で世論の喝采を浴びてきたといえる。結果、公務員の人件費削減も含めた歳出削減が進められた。当初は巨大なハコモノや道路やダムなどの土木分野がやり玉に挙げられていたが、そのうち「合理化」のターゲットは、あらゆる分野に広がっていった。行政のスリム化、といえば恰好いいが、実際のところは職務放棄である。

                   

                   というのも、爛好螢牴臭瓩梁仂櫃砲覆襪里蓮企業の理屈に当てはまらないものか、企業に任せれば利権になるものかのどちらかだからだ。例えば公園は何の儲けも生み出さない。短絡的に無駄とみなすことは可能だ。そしてものによっては一等地に広大な土地を有しているから、企業に切り売りすれば儲けになる。図書館もしかり。生活保護のような「ただ損するだけ」に見える事業は縮小される。最近では「シルバーパスをやめて学割にすれば」とAI知事が言っていたのも同じような文脈だ。イギリスでも大まかには似たような現状なのは、日本語に訳されているニュースを見るだけでも窺い知れる。企業の理屈でとらえられないものが「無駄」になると、必然公務員の仕事はほとんどなくなる勘定になる。無論、実質ゼロにはできないから、少ない資源できりもりすることになる。

                   

                   ダニエルが翻弄されるいくつもの出来事のうち、例えば問合せの電話が2時間近く待ってようやくつながること(その間の電話代は自分負担)や、あらゆる申請がネット経由でしか受け付けないことは、人員不足や民間委託など、人件費削減の結果だろう。職安の人間が一様に高圧的で融通が利かないのも人が少ないせいで忙しくイライラしているせいかもしれないが、効率化が背景にあると思う。職安にやってくるあらゆる人々に対し、ケースバイケースで親身になっていては時間がかかる。効率的に処理するためには、あらゆる事案を大枠で分類してマニュアル的に進めて行くのが速い。

                   実際職員たちは、ダニエルにしろケイティにしろ利用者の話を一切聞こうとしない。マニュアル化された手続を一方的に通知して従わせようとする。その態度自体が十分に高圧的なのだが、「こっちの言い分も聞けよ」と必然反発も生まれるから、余計に職員側も「支援が不受理になりますよ」「処罰対象になりますよ」などと高圧的を越えて脅迫的にすらなる。不幸なすれ違いだ。

                   

                   唯一例外的に何かと人間的な対応を見せる職員アンは上司から「例外的なことをするな」と叱責される。彼女は年齢からいってベテラン職員と推察される。そもそも親切な人なのだろうが、かつてのやり方から今のやり方にうまく割り切って合わせられないのではないかとも思う。

                   そもそもダニエルが今まで受給していた支援を打ち切られたのも、歳出削減のあおりを食ったのだろう。ダニエルの事情には同情するし、職安の職員も怒りが湧くが、いずれも有権者の選択の結果だ、というのは繰り返しておきたい。公務員叩きの結果生まれた余計に四角四面な公務員だとすれば、何という矛盾だろう。

                   

                   さて、ここでラストについてである。
                   


                  【やっつけ映画評】ドリーム

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                     以前に軽く触れた映画を、早速というかようやくというか、とにかく見た。素晴らしい傑作を飛行機の小さな画面で見なかったのは賢明だったが、ほぼ満席で最前列しか空いておらず、上目遣いで2時間過ごす羽目に。飛行機とどっこいどっこいとは言いたくないが、かなりおかしな疲れ方をした。大手の映画館の最前列はろくなものではない。京都みなみ会館を見習ってほしい。

                     

                     本国では「ラ・ラ・ランド」を超える興行収入だったというが、日本の公開はしばらく未定の状態が続き、この時期まで遅れた。町山智浩によると、主役3人を演じる役者がいずれも知名度が低いのと、テーマが差別問題だったから、ということらしい。ついでに邦題「ドリーム 私たちのアポロ計画」がひどすぎると非難され(アポロ計画は物語と無関係)「ドリーム」に変更になるという珍しい騒ぎとなった。これらは色々と象徴的だと思うので、そういう話を書こうと思うのだが、何気なくWikiを見てみると、本作で描かれている主人公たちの苦境は、事実よりも誇張されているらしい。書こうとした話の前提がちょっと揺らぎかねない余計な発見だった。感想が渋滞してしまう。ま、順を追って述べて行こう。

                     

                     原題は「HIDDEN FIGURES」という。figureはおそらく「人」と「計算」の掛詞だろう。主人公たちはまさしく隠された人々だし、数字が塗りつぶされた数式を渡されるシーンがあるし、未知の領域の計算という答えの見えない作業に挑む物語だからだ。
                     60年代、コンピューター導入直前のNASAが舞台だ。電算機がないので膨大な計算を人力で行っている(ただし作品中盤でIBMが導入され、計算係のリストラ問題が物語に絡み合う)。その計算係に勤務する3人の黒人女性が主人公だ。トイレもバスも黒人専用が設けられた差別が社会制度化している時代に、彼女たちは歯ぎしりしながらそれでも才能を開花させていく。その姿が実に恰好よく痛快だ。頭脳版「42」といったところか。「働く女性が格好いい」というと、日本ではこの手のお寒い紋切記号はよく見るものの、地に足がついた本作の恰好よさは、フィクションではあまり類を見ない気がする。

                     あとこれは余談だが、数学が出てくる映画(「グッド・ウィル・ハンティング」「イミテーション・ゲーム」「奇蹟がくれた数式」等々)でおなじみのチョークをカツカツ鳴らしながら数式で黒板を埋めていく様子に憧れる。俺にとっては意味不明の記号でみるみる埋め尽くされていくのと、授業の板書のようにわかっていることを掲示するのではなく、自分の思考をぶつけているところにワクワクする。

                     

                     さて頭脳版「42」と述べたが、主人公たちは肌の色だけではなく女性差別も関わってくるから倍だ。それも単に被差別要素が多いというだけではない。黒人野球選手の場合、野球選手であること自体は(実力を見くびられることはあっても)疑われていない。だが彼女たちの場合、そもそも「超頭脳明晰だ」ということを想定すらされていない。例えば、主人公の一人キャサリンがNASAで高度な計算をやっていると聞かされた軍人のジムは「女がそんな難しい仕事を?」とまず驚くし、資格を取るため数学のクラスに現れたメアリーに、教師は「ご婦人向けの授業ではないんだが…」と困惑する(おそらくメアリーがカルチャースクールと勘違いしてやってきたと思ったのだろう)。この二人に悪意はない。だが十分に色眼鏡である。もしキャサリンが、それこそベネディクト・カンバーバッチみたいな外見の男性なら、ジムも「へえーあんた凄いね!」とただ感心したに違いない。

                     

                     このような男目線は俺もやらかしている。自覚したのがいくらかあるから無自覚なのはもっとあるだろう。NASAの男性たちは陽気なジムと違って陰湿・殺伐として見えるが、彼らも入口はジムと同じ「無自覚」だ。それが結果、いじめのように見えるのは、悪意というよりは「制度化」が絡んでくるからだと思う。
                     


                    【やっつけ映画評】帰ってきたヒトラー

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                       武部元幹事長の元弟兼息子、現大阪万博招致委特別顧問が、ヒトラーの顔をあしらったTシャツを着てテレビに出て、主に海外ニュースになっていた。ヒトラーが「NO WAR」と言っている「逆説的反戦メッセージ」なのか「ブラックジョーク」のつもりなのか、いずれにせよ「とんがっててクール」と評価されることを期待したデザインなのだろう。記憶にあるだけでもアイドルの衣装とかサッカーの応援旗とか、似たような話はいくつもあって、そういった日本の社会状況を含めて主に海外メディアで報道されている。

                       

                       これらは要するに、当事者たちが何を問題視されているのかピンと来ていないから繰り返されているのだと思う。本作はその点、恰好の教材といえそうだ。

                       

                       本作の映画のフライヤーには、元々タイトルが書いてあった箇所に「笑うな危険」という煽り文句が書いてある。確かに危険だ。主にそういう話をダラダラ書こうと思う。


                       ずっと気になっていた本だった。先延ばしにしているうちに映画化され文庫化され映画がレンタル屋に並び、ようやく背中を押されてまずは本を読んだ。なぜレンタル屋のDVDが決定打になったのか、我ながらちょっと興味深い。小説から入ったのは、先に見かけたのが本の方だったからに過ぎないが、映画を先に見てしまうと読まなかったような気がする。本を読み、映画を見て、本を先に読んでおいてよかったと思った。


                       タイトル通り、ヒトラーが現代に甦る物語だ。本では2011年、映画では2014年となっている。一種のタイムトリップものだが、なぜ甦ったのかは特に書いていないから、不条理ものでもある。年齢や状況からして、最期、燃やされたときにワープしてきたということなのだろう。そういえばヒトラーの遺体は見つかっていないんだっけか。まあ、燃やされる前に拳銃で自殺しているのだが。
                       とにかく、甦った彼は、周囲からはヒトラーそっくり芸人と思われる。顔から立ち居振る舞いからしゃべる内容まで、従来の同業者とは比べものにならないほどあまりに犹ている瓩里如芸能プロダクションが(映画ではテレビ局が直接)契約を申し出てきてテレビにデビューする。

                       

                       ヒトラーの一人称で書かれているのが最大の特徴だ。彼は目の前の現実に当初は困惑するものの、元々頭のいい人間だからか状況を冷静に受け止めていきつつ、理解の仕方にいちいちヒトラー的なバイアスがかかり、おかしな飲み込み方をする。その様子がブラックジョークとして読み手を引っ張っていく。タイムトリップものの場合、特に古い時代から来た人間は新時代のあれこれに頓珍漢な解釈を施して笑いを誘うのが定番だが、本作の場合はその定番がおそろしく独特といえばいいだろうか。

                       

                       彼の一人称を読むのは、本や映画やテレビから仕入れた知識をなぞる作業でもあった。作者の取材量は、安いコラージュなど鎧袖一触、圧倒的で頭が下がる。かなりトリビアルな話もいくつも使われていると想像する。それくらい徹底して書ききっているからこそ、ドイツで出版できたのだろう。思いつき自体は安直に映るかもしれないが、作品として仕上げていく過程は、相当に分厚い。

                       

                       さて、そのようなヒトラーの狂気の一人称に笑いながら、作中人物たちが芸人だと信じて疑わない様子(彼が「ヒトラーの演技」以外全く見せず、いわゆる「素を見せない」様子に「世界観が徹底している」とか「ロバート・デ・ニーロとかのメソッドなんでしょ」とか感心してくる等々)にニヤニヤしながら読んでいると、ふと作者の壮大な罠に気づいたのである。

                       

                       自分自身も、「芸」だと思い込んでいる作中人物と変わらないということ、もっといえば読者自身がタイムスリップしてきた生身のヒトラーを前にニヤニヤしているのだということをだ。もしかすると俺がもっと若かったら「あれ?案外いいこと言うやん」くらい思っていたような気もする。中にはそういう読者もいたかもしれない。

                       

                       よく指摘されることで、作中でもヒトラーが語っているが、彼はクーデターで政権を獲得したわけではなく選挙で選ばれて上り詰めた。投票した有権者がことさらトチ狂っていたわけでもなく、一方で嫌う有権者もたくさんいた。「ヒトラー暗殺、13分の誤算」でもそのような過渡期の様子が活写されている。当初は「バカとその取り巻きのバカが騒いでいるだけ」だと思っていたのが、いつの間にか統治者として君臨し、バカだと嗤っていた側は隅に追いやられる。

                       

                       本作の中でも、一人だけヒトラーの犒櫚瓩鮠个錣覆た擁が登場する。ヒトラーの秘書を務める若い女性の祖母で、「あれはブラックジョークだよ」となだめる孫に、「あのときもみんな笑っていた」と反論する。とても印象深い良い台詞だと思う。
                       その「あのとき」の怖ろしさを読者自身も疑似体験させられるのが本書の仕掛けだと思う。何せ、甦ったヒトラーは本物なのだ。「笑うな危険」。ホントにそうだと思う。

                       

                       映画化において難しいのは、ヒトラーを俳優(=当人とは別の人)が演じるほかない点だ。「ヒトラー芸人とみせかけて本人」という大前提が崩れてしまう。別にこの主演俳優が悪いわけではなく、構造上、その他大勢のヒトラー芸人と同類になってしまう。
                      もちろん、書籍の方だって本物ではない。書いているのは作者だ。いわば超高度なヒトラーのモノマネをやっているだけだから、こちらもヒトラー芸人と大枠では構造は同じだ。だけど、おかしな言い方だが錯覚させられる説得力は文字の方が圧倒的に高い。

                       

                       映画では、冒頭、ドキュメンタリー風の映像の中で雑談するヒトラーが登場する。照明の具合やカメラの手ぶれの具合による演出で、なるほどその手があったかと膝を打った。これだと本当っぽさが増す。だけど、このような演出をしているのは一部だけで、大方のシーンは普通のフィクションの安定したカットだった。何か意図があって使い分けている風だったが、あまり功を奏しているようには思えなかった。全体的にドキュメンタリー風味にした方が、いい意味で不気味さが増したのではと思うのだが。
                       また映像にメリハリをつける狙いだろう、ヒトラーと出会ったテレビマンは、早速ドイツ各地に彼を連れまわし、様々な景色にヒトラーが放り込まれるが、これは作中でヒトラー自身が否定している「総統が〇〇をする」という「安直なテレビ企画」と同じノリではないのかと思った。

                       

                       というような引っかかりもありつつ、全体的には面白かった。小説を映画にするとはどういう作業なのか、割と模範的な教材ともいえそう。大枠では同じで、大胆な改変はない。省略の仕方とか、映像向きにするためのちょっとした改変とか、登場人物の交通整理とか、勉強になる。ラストは結構違うが、「終わらせ方」としてはおおむね同じだ。

                       

                       さてこのラストについて述べるとする。

                       

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