映画の感想:パラサイト 半地下の家族

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     猛烈に感動した。現実を皮肉ったコメディ&スプラッターだから落涙するシーンは何もないのだが、帰宅して眠りに落ちるまで結構放心していた。何がそんなに、というとこれはだいぶ個人的な話になる。とりあえずは内容紹介を。


     半地下の家に住むキム一家が、文字通り他人の家庭に寄生していく。寄生先は山の手の豪邸に暮らすパク一家だ。
     この辺の社会背景は、「国家が破産する日」の〈それから〉になる。国策(というかIMFの差し金)で新自由主義に突き進んだ結果の格差社会だ。「弁護人」「タクシー運転手」「1987」「黒金星」と、冷戦構造&軍政の崩壊、その結果の民主化ひゃっほーい、の先に待っていたのは、まさかの19世紀社会だった。この格差社会は日本も同じだが、韓国の場合、本作のような半地下賃貸に暮らす人がそれなりいるといい、格差がビジュアル的にわかりやすい。

     

     なんでも、元は北の攻撃に備えた地下シェルターらしく、それを賃貸用に改装して貸し出しているとのこと。湿気はひどいし、便所虫が跳ねてるし、下水管より下に部屋があるからだろう、トイレは天井高にある。なかなか強烈な絵面だ。俺が韓国人ならこの時点で見るのがキツかったかもしれん。「万引き家族」では、あの貧困家庭のやけにリアルな部屋の様子にに息が詰まってしまったものだった(なのでテレビ放映を録画したが序盤で停止したまま)。本作の場合、よその国の情景なので、露悪的に戯画化された舞台美術のように見え、心理負担は少なかった。

     まあ「万引き家族」に難癖つけてた人々と韓国罵倒好きは結構重なり合ってるだろうから君らにいうとくと、本作は韓国の恥部を晒して韓国を「貶めている」映画につき、ぜひ見たら溜飲が下がるんじゃないかな! ご存じないと思うけど、韓国映画おもしろいよ。

     

     閑話休題、そんな一家が、家庭教師だ、専属運転手だ、家政婦だ、と次々パク家に雇用され寄生していく。その詐欺的過程は、スパイものかオーシャンズのような盗人もののようなトリッキーさが楽しい。キム家の人々が総じて優秀なのも笑える。初心者的なドジでスリルを演出するのが嫌いなので見ていて気持ちがよいし、優秀でも機会に恵まれないのが格差社会であるという社会の断面をえぐっているともいえる。


     一番驚いたのは家政婦として寄生する妻で、半地下で暮らす序盤は格好も口も汚いおばさんだったのが、家政婦になりすますと途端に気品のあるマダムに化ける。そのギャップがさすがのベテラン役者だ(この妻が元ハンマー投げの選手だったというのはどういう意味があんの?)。序盤で兄の大学在籍証明を偽造する妹に、父が「ソウル大学に文書偽造学部があったらお前は主席だ」とおかしな感心の仕方をするギャグシーンがあるが、この妹は文書偽造「が」得意なのではなく、文書偽造「も」できるだけで、他にもっとマシなこともできるはずだ。能力の発揮のしようがない不幸と、それが犯罪に向かう不幸が、端的に現れていると思う。

     

     一方のパク家。西島秀俊風の父が、なぜか鼻にかかったテノール声で話すところがマンガチックで可笑しいが、彼らはわりに普通の善良な一家である。劇中の台詞にもあるが、金持ちは大抵割といい人が多いという典型をなぞっている。豪雨で多くの被災者が出た翌日に奥方が「雨のお陰で空気が綺麗ね」と言うときも、そこに悪意はない。ただ無邪気なだけだ。だが被災した側からすればひどく配慮を欠いているように聞こえる。この辺りの鼻持ちならなさ加減も絶妙である。

     

     さて寄生に成功したキム一家だが、この後正体がバレそうになるスリリングな展開にならないこともないが、そこがメインディッシュではなく、全くもって意外な展開を見せる。自分たちの鏡というかフラクタルというか、そういうものを用意するのはトリッキーなストーリー運びの常道とはいえ、実に見事な脚本だ。

     ちなみにリビングがとっちらかったのを慌てて片付け、片付けきらないうちに家主が現れるも特にバレないシーン(ガラスまで飛び散ったのに)はいかにもドタバタコメディ風ご都合主義に見えるが、あのふるまいが家政婦を抱える金持ちなんだろうな。一定以上のホテルに泊まるとき、よもやつい先ごろまでその部屋で誰かが酒盛りをしていたなんて考えだにせず、当然部屋は片付いていると思っている。それと似たような感覚なのだろう。

     もひとつついでに、この優秀なキム一家が、後半のまさかの展開の中では「うっかり階段から落ちる」というドジをやらかしているのだが、これも好意的に解釈すれば、「上層」に上るときは逞しく悪知恵が働くのだけど、「下層」に下がるときは、上を欺くときの器用さが発揮されず、結果ドンくさくなるということか。

     

     さて何に感動したのかといえば、まるでよくできた舞台作品を見たときのような感覚になったこと、もっと正確にいうと、そのような感覚に日々突き動かされていたころを思い出したからだ。
     キム一家とパク一家、どちらも4人家族で男女比も同じ。基本はこの8人で展開し、場面の多くはパク家の豪邸、つまり限定的な閉鎖空間である。コメディ的な展開を牽引力としながら、そのくせスプラッターが交わり、すんなりジャンル分けできないごった煮感ないしははちゃめちゃ感。実に舞台的である。

     残念ながら大抵の舞台作品は、このごった煮はちゃめちゃが悪い方向に作用して、ぎゃーぎゃーわめいているだけのわけのわからん内容になってしまい、それを見た俺は「何だこれは」とストレスを溜め、後日映画館やDVDで「舞台みたいな映画」を見て、これだよこれ、こういうの舞台でやったらええねん俺はやったるぜ、と意気込む。そんなことを繰り返していた時期が確かにあった、と思い出したのだった。思い出したというか再確認、追体験、まそんな感じの濃いめの感慨。それに襲われて、放心してた。
     それが何なんだといわれれば、それだけの話。個人的なことにつき、オチはない。15年くらい前だったら、思い切り影響されて、「パラノイド」とかいうタイトルで出来の悪い剽窃をしていたかもしれない。本家パラノイドの人は難病を告白したとニュースでやってた。71歳かあ。でもコメントは前向き。話が散らかっている。では。

     

    「기생충(寄生虫)」2019年韓国
    監督:ポン・ジュノ
    出演:ソン・ガンホ、チャン・ヘジン、チェ・ウシク

     

     


    映画の感想:フォードvsフェラーリ

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       案の定、見終わった後にシャドウボクシングをしたくなるロッキー現象が起こった。やりたくなるのはボクシングじゃなくて車の運転だが、我がスーパーカー・ランボルギーニエスプリデロリアンストラトキャスタークレイジーソルト、別名フェアレディZ(記事下写真参照)はとうの昔に手放してしまったのでブウンブウンと口で言うだけ。大体、車の運転は嫌いではないが割とゆっくり走るタイプで高速走行は苦手なのだった。


       主人公の一人がレース用マシンにフォードの社長を乗せて爆走した後、助手席の社長が、感情が混線して泣いてるのか笑っているのか怒っているのかよくわからない顔をするシーンがあり、あれの気分はよくわかった。中国でタクシーに乗ったとき同じような顔になった。最高速度140〜150くらいなのでレースの半分も出ていない勘定だが、元レーサーが操るレーシングマシンに対して結構な年寄りが操る整備不良音を轟かせる10何年落ち乗用車だから、辻褄は合う。

       

       主な舞台はアメリカだが、決戦の地ル・マンはフランスで、ライバル・フェラーリはイタリアの会社だから時たまヨーロッパの映像が出てくる。殺風景なだだっぴろい田舎とは似ても似つかぬ、味わい深いこじんまりした石造りの街並みは、文化や歴史におけるアメリカのコンプレックスを疑似体験できる。この街並みの違いは、効率だけが支配している流れ作業のフォード工場と、クラフトマンシップに溢れ、工房という呼び名が似つかわしいフェラーリの工場との違いにもそのまま対応してくる。エンツォ・フェラーリが買収の提案に来たフォードの幹部に「クソ汚え工場で一生クソダセえ車作ってやがれカッツォ!」と罵倒した気分は、なのでわかる。


       今でも自動車メーカーごとのイメージはそれなりにあるのだろうが、技術の差が大きかった時代はそれがより激しかった。
       新入社員のころ、研修で外部講師の話を聞く機会があった。その人はかつて「BC戦争」のころ自動車セールスマンだったという。日産ブルーバードとトヨタのコロナ、同タイプ車種のシェア争いだ。その講師はコロナを売る側だったが、「性能で何一つ勝てなかった」から、売るためにあれこれ知恵をひねったと面白おかしく話していた。


       コロナの性能が悪いかどうか乗り比べたことがないので知らないが、少なくともその時代は「日産>トヨタ」という世評が浸透していたのは確かなようだ。俺が子供のころのトヨタの地位はもう少し上がっていたと思うが、エンジンスタート時の音がキャンキャラキャッキャンキャンと、甲高くてうるさいチワワのごとしで(向かいの家のマーク兇そんな音だったと記憶)、子供心にもダサいと感じたものだった。我が家は日産で、キュキュキュッ、ブン!と、もっと低く貫禄があった。

       

       フォードも同様、大衆車を初めて生み出した自動車業界の革命児だが、それだけに安っぽいイメージはついて回ったのだろう。そこへいくとフェラーリは、昔も今も「最も速くて赤い車を作っている」というイメージがゆるぎないので大したものだ。ま、そんだけ客を選んでいる鼻持ちならない高級ブランドってことだけど。


       本作は、若い層にウケるスポーツカーを売りたいフォードが経営戦略としてレースに参戦し、絶対王者フェラーリに挑む実話をもとにしている。車に詳しくない人にこのアンバランスを例えれば、ユニクロ対ベルサーチ、パイロット対モンブラン、ヤマザキ対江川の水ようかんと似たようなものだ。実に無謀な対決だが、ポイントは経営規模だけは敵方よりずっとデカいということである。資本力はある。だがこのなめらかさは出ない。いやようかんの話ではなかった。町山智浩によると、エンジン音は本物の録音を使用しているらしいのだが、フォードのただの爆音に対して、フェラーリのエンジン音の美しいこと。


       ただし、作品の2/3ほどは「フォード対フェラーリ」ではなく「現場の俺ら対副社長」になっている。現場の油まみれツナギ組はみんな有能で純粋でイイやつらばかりなのに対して、スーツ組は体裁と社内政治ばかり考えている馬鹿。ベタベタな構図。つまるところ本作は物凄く金のかかった池井戸潤ドラマなのだった。道理で2時間半あっても楽に見れると思った。

       

       見どころはすでに述べたエンツォ・フェラーリのキレるジジイぶりのほかは、やがて強力なF1チームを作る当時はまだレーサーのマクラーレンが超脇役で出ている点、そしてコブラ! バカ高いとはいえそれでもたまに街中で見かけるフェラーリに対して、まず見かけることのないモンスターマシンをしっかり拝める稀有な体験ができる。世界中のコブラをかき集めないと撮影できないんじゃないか。なにせリッター辺り300メートルくらいしか走りそうにない。

       

       そして序盤は主役級だが中盤以降ロクに登場しなくなるスーツ組のアイアコッカは、後に社長に就任する御仁だと見終わってから知った。カルト的スーパーカーにしてスーパーカー界のピザハット(イタリア風アメ車)であるデトマソ・パンテーラに肩入れしすぎて首になり、代わりにクライスラーに移って本作の主人公シェルビーとともにダッジ・バイパーを生み出すのだとか。ただのうさん臭いマッチョ野郎ではなく、どうやらかなりの変態らしい。この車も結局は一部のマニアにしか受けていないから、やっぱりフェラーリには勝てんということか。
       テスト走行中、コースの一番遠くで車が見えなくなって事故るくだりは、「F」のピーポーを思い出した。

       

      「Ford v Ferrari」2019年アメリカ
      監督:ジェームズ・マンゴールド
      出演:マット・デイモン、クリスチャン・ベール、カトリーナ・バルフ

       


      【やっつけ映画評】バジュランギおじさんと、小さな迷子

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         インド×パキスタンの対立をテーマにしている時点で俄然興味が湧く作品だが、前半のツラさは「パッドマン」と似ていた。ご都合主義が酷い分、本作の方がよりキツい。インド映画はあまり本数を見ていないが、聞くところによると大抵こういうものらしい。ベタベタな展開に呆れていたはずがいつの間にか引き込まれ、最後は感動している。
         裏を返すと前半は耐えるのみ。つまり、北米や西欧、韓国の映画などではある程度共通している物語の組み立て方や端折り方が、インドでは通用しない、だいぶ違う発想で作られている、ということだろう。やたら踊るところもまたしかり。異文化交流の難儀さを簡単に味わえる。そこへいくと「めぐり逢わせのお弁当」はインド映画のくせにやけにシンプルな展開だったと思わずにはいられないのだが、改めて確認すると「インド・フランス・ドイツ合作」となっていた。道理で。

         

         パキスタンの少女が政治的に対立する隣国インドで迷子になり、偶然出会った男が苦心惨憺国境を越えて少女を家に送り届ける。そういう温かな物語だ。

         

         序盤、国境を横断する鉄道から少女が迷子になる過程は、まるで「銀河鉄道999」だ。あのマンガ、わざわざトラブルになるために主人公・鉄郎は停車駅の惑星で下車している感がある。まあ子供というのは往々にしてわっかりきったミステイクを無邪気にやるものであろうが、この少女、利発そうな外見とは裏腹に、興味関心に引きずられてすぐどこかに姿を消したり、手癖悪く盗んだりする。日本だと難しい漢字かアルファベットが並んだ病名を付けられてしまいそうなレベルに見えるが、それもこれも物語に起伏を作るためのご都合主義に見えてツラい。


         そしてこの少女は発声できない障碍を抱えていて、そのため家探しも難航する展開なのだが、ラストで去っていく「バジュランギおじさん」に向かって呼びかけたい一心でとうとう声を発するあたり「北斗の拳」だった。そして印パ対立は必然宗教の違いが絡むわけだが、相手の宗教の作法で敬意を示すくだりは「ブラック・レイン」を思い出さずにはいられない。

         

         というわけで本作は、銀河鉄道999で始まりブラックレインを経て北斗の拳で終わる「日本が世界の中心で輝く」映画、「日本が南アジアの平和と安定の架け橋」である映画といえよう。ブラックレインはアメリカ映画だが、そういう意図に沿わない事実は無視しなければ、日本万歳利権のおこぼれには預かれないのである。


         さて高校世界史レベルで歴史を振り返っておくと、第二次世界大戦後、英領インド帝国は独立することになるが、その際宗教対立から西のパキスタン(イスラム教)と東のインド(ヒンドゥー教)に分離独立することになった。不法入国を手伝う業者の男が「ジンナーの札を寄越せ、ガンジーのは要らない」と言う台詞があるが、ジンナーはこの分離独立の際のパキスタンの代表者である。両国は印パ戦争に代表される激しい対立を繰り返し、現在に至るわけだが、中でも帰属を巡って話がややこしくなっているのがカシミール地域だ、というのが試験の定番である。ついでに昨年、モディ政権はジャム・カシミール州の自治権剥奪を行って混乱が広がり、再び注目が集まった。ここの時事の試験で出るから要チェック。

         

         迷子の少女シャヒーダーは、このカシミール地方のパキスタン側の山村の出身という設定である。冒頭、ゴタゴタとしたニュースからくるイメージとは程遠い実に美しい景色に圧倒される。急峻な山の白と丘陵の草の緑が映えること映えること。これぞ「深夜特急」冒頭で触れられている白いカシミールというやつか。

         

         このシャヒーダーが旅先のインドで親とはぐれて迷子になるのだが、かような政治対立のため、やすやすと両国間が渡航禁止状態になったりで容易に帰国できない。日本も戦後、長く大陸と国交がなかったから残留日本人もなかなか帰国できなかったから遠い国同士の奇異な出来事ではない。
         彼女を救うのがバジュランギおじさんことパワンだ。気は優しくて力持ちという御伽噺的な設定の主人公で、篤い信仰心がその源泉である。ハヌマーンという神を折に触れ拝んでおり、要するにヒンドゥー教徒だろう。熱心な信者過ぎて「正直であること」が常軌を逸しており、これがまた物語のドタバタを生んでいる。その最たるものが不法入国の場面だ。
         隠密行動が基本なのに「こそこそしたくない」と、正々堂々国境警備隊に「通ります!」と宣言する。当然「ふざけてんのか」とボコボコにされるのだが、ついにはパワンの信念が勝り、根負けした警備兵が見らんふりしてやると温情をかける。だのに「見ないふりとかそういうんじゃなくて、こそこそしたくないので許可下さい」と一切の妥協がない頑固なブレのなさを見せる。警備隊にすれば最大限の譲歩をしてやっているのにたまったものではない。ついでにこのやりとりも結構長くてしつこく、うんざりする。


         


        【やっつけ映画評】運び屋

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           悪事が淡々と進行していく様子が、なぜか滑稽に見えてしまうのと、アンディ・ガルシアのようなビッグネームが結構しょーもない役で出ている辺り、北野武映画に似たものを感じた。


           「90歳の運び屋」の物語を、90近い人が監督・主演している。二重にすげー爺さんの作品だ。「人の皮をかぶった殺人ロボット」の説得力を出すにはシュワルツェネッガーが肉体が必要だったのと同様、この役を演じられる外貌を持つ役者はなかなかいないだろう。妻を演じていた人が、この爺さんの妻にしては若いように見えてしまったのがそれを示しているように思う。


           「グラン・トリノ」と共通点の多い作品だ。主人公が家族に嫌われた偏屈で、無邪気に差別用語を口にし、従軍経験があり、車がよく出てくる。ラストも似ているようにも見えるが、これは後で述べるとしよう。「グラン・トリノ」を見たとき、人間には年を取ってからでないと作れないものがあると感じたものだが、よくよく振り返るとあの作品から10年も経過しているのだった。関ヶ原合戦から大坂の陣まで実は15年も間が空いている事実を思い出した。どっちの徳川家康も同じ風体の爺が演じるが実はそんだけ年を取っているという。

           

           主人公アールは仕事第一で一切家庭を顧みず、娘の結婚式すら出なかった偏屈男である。大手商社かメーカーの人を想像するが花農家というのが勉強になった。農家は一見腰を落ち着けきった仕事に思えるが、アールの場合は品評会等々でとにかく出張が多い。それで優勝するほどの凄腕なのだけど、時代の波にのまれて廃業。困窮する中で、薬物の運び屋をやって大儲けすることになる。前科なし、違反歴ゼロの90歳なのが功を奏し、こちらも凄腕の運び屋になるという展開である。

           一方、薬物捜査で実績を上げてきたベイツの捜査も進められていくのだが、彼が主役の場面を見ると、人がいかに予断を持って他人を見ているのかがよく実感できる。ベイツの視野に入る人間は、だれもかれもがアールの100倍怪しく見える。

           


          【やっつけ映画評】さよならテレビ

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             会社員時代のこと。気難しいおじさんにインタビューをする機会があり、同行した後輩に写真撮影を任せた。ほうほうへえへえと話を聞いている傍らで後輩がカシャコンカシャコンとシャッターを切っている。黎明期のデジタル一眼レフだったのでシャッター音がダサかった。終わって帰社するとその後輩がニヤニヤしながら撮ったばかりの写真を表示したPC画面を見せてきた。写っていたのは実に陳腐な愛想を浮かべている俺だった。これぞブン屋の欺瞞だという決定的瞬間を激写したと、大意そんなことを言われ、まさしく嘘まみれの作り笑いだったからぐうの音も出ず、自戒も込めて記念にありがたく頂戴した。


             本作はいわば、この後輩と似たようなことを戯れ抜きでやったドキュメンタリーといえる。単に同僚にカメラを向けたのが同じ、というだけではない。「正体捕えたり!」とばかりにゲラゲラ笑っていたあの後輩自身に、どれくらい自分と重ねる視点があったのかという点含め、似ていると思った。


             自社の報道部門が被写体だ。日々の仕事ぶりを写している。テレビ局がテレビ局にカメラを向けるのは地震発生時の社内の様子くらいなものなので、映し出されているもの自体、それなりに貴重な内容である。報道という括りでは、知らないこともない現場の様子であるが、新聞とは結構カラーが違う。くだらないところでは、全体的に服装がチャラい、というほどでもないが、とにかくシャツのストライプ率が高い。会議の際に常にマイクを握って発言する(フロアが広いから?)のは不思議な文化だと思った。
             もう少しまともな話だと、やはり文字媒体と映像媒体との違いである。制作過程がまるきり異なるので、同じ報道といっても会社内の雰囲気だとか社員の基本スタンスはかなり違う。何というのか、報道をやっているというより番組を作っているという方が表現としては正確な印象を受ける。作中、社内で問題になるのは、抜いた抜かれたの報道合戦ではなく、放送事故や「お詫び・訂正」だったり視聴率だったりする。この辺のことは本稿の本題ではないので深くは触れない。1つだけ、「人が多い」というのは後で触れる。

             

             本作の趣旨は、自らを撮影対象とすることで、凋落が言われて久しいテレビメディアについて改めて批判検討するといったところだろう。事前の原稿通り綺麗にまとまったことしか言えないメインキャスターの福島、ジャーナリズムの鈍化に危機感を覚えつつもスポンサー絡みの提灯記事ばかり振られる契約社員で記者の澤村、同じく契約の立場につき何とか成果を出したいと意気込むも、どうにも要領が悪くミスばかりしている若手記者の渡辺。この3人の男性を主役格に据えて(元々見られる仕事の人と正社員でない人2名という人選に若干もやもやしたがそこは言いがかりかもしれない)、テレビの現実を炙り出す。

             

             その個々のエピソードはそれなり興味深いものの、全体としてこれは何をエグろうとしているのだろうと疑問符がついて回ったところで、最後に犖事な瓮チが待っている。爿疉佞で勿体ぶった書き方をしているのは、俺自身はあまり見事には思えなかったからだ。急に森達也にカブれた人が作ったようなオチだった。言いたいことはわかるしそれも一つの大きな課題だろうが、いま問うべきは「そこ」ではないんじゃないのと強く思った。

             

             


            映画の感想:幸福路のチー

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               こちらは現代のアニメ映画。クラッシャージョウに比べれば、はるかに単純な線で描かれた牧歌的なタッチをしているが、アニメもずいぶん進化したもんだと思いながら見た。


               内容は個人の伝記、回顧録の類で、30代半ばくらいまでの一人の女性の来歴をたどりながら、家族とは、ふるさととは、といったところを描いている。1975年生まれとあるので、俺と同世代の設定だから、国は違えど手触りの似たノスタルジーを感じた。そのせいか、俺と同世代とおぼしき後ろのおっさんは上映後、会場が明転してもなお豚泣きしていた。俺はおばあちゃん子ではなかったせいだろう、大して涙腺は反応しなかったが、まあ泣く観客はそれなりいそうな作品だと思う。女性が主人公で、結婚とか出産とか母との相克とかがストーリーに絡むので、女性の方がより楽しめそう。


               ただ、本作はアニメの絵の仕上がりが貢献するところ大で、実写だと、NHKの地方放送局制作ドラマと似た、かつさらに凡庸な内容になったと思う。何てことのないある一人の女性の半生を上手い具合にまとめているという点ではよくまとまった佳作だが、「故郷に戻って自分を見つめなおす」というパターンがNHK地方局的で、かつその故郷への接し方なり距離感なり主人公への影響度なりは凡庸に見えてしまった。俺も以前に同じような「帰省モノ」を作ったことがあるが、凡庸さがまあまあカブってみえるような気も。これは一つには、主人公の設定年齢が俺と同世代のせいもあろう。

               

               アニメの出来栄え以外で興味を牽引する要素は「台湾社会」に尽きる。観光や他の台湾映画で見たことのある台湾の街並み、檳榔屋、家屋、学校、高圧的な教師、田舎の景色、スクーターの移動、そして80〜90年代の政治の激動。これらが個人史の中に織り混ぜられていて、興味をそそる。主人公が「この運河もすっかり変わったなあ」と眺めるかつてのどぶ川が親水公園に整備されてるさまは、現地でも真新しい同型のスポットを見たので、印象に残った。あと、祖母の葬儀の様子が「父の初七日」と違って泣き屋もいなければ派手な飾りつけもないのは、祖母がアミ族の出で道教信者でもないからだろうか。これも興味深く見た。

               

               

               「ちびまる子ちゃん」のようなタッチ、内容でありながら、主人公がデモに参加したり、陳水扁の当選を受け国民党支持者が民進党シンパの主人公の勤務先を取り囲んだり、母親が馬英九の熱烈なファンだったりするのに困惑した日本の観客も少なくない模様である。

               これは昭和20年前後が舞台の日本のフィクションで必ず戦争が登場するのと同じようなもので、80末〜90年代の台湾社会を舞台にすれば政治の話が登場するのは必然である。それほど人口に膾炙した激動だったということだ。一方でそれに困惑する人がいる日本社会は、それだけ鼓腹撃壌な日々を過ごしてたといえる。蔵書の種類で逮捕されるような社会でなかったことは幸福なことだが、一方でツケもずいぶんため込んでしまってる。物価だけでなく、社会の成熟度合でもどんどん差が開いてきてるんじゃないのか。


               そういう台湾的な断片をずいぶん面白くみたのだが、しかしこれ、台湾の人にしてみればどれもわかりきっている普通のことなので、ただただ一人の女性の地味な日々をつづっただけの作品になってしまう。だとすれば、現地で何でヒットしてるんだろう。

               

               と疑問に思ったが、これまで見た台湾映画はしばしば、あまり新味のないものを堂々とやってのける作品が珍しくなかったと思い出した。そういう作品でしばしばみられる余計な脱線のような雑味がない分、本作はずいぶんスマートな仕上がりといえる。

               そしてふと思ったが、主人公がきちんと年を重ねている描き方をしている映画は、最近の日本だと少ないのかも。簡単なタッチの絵なのに、主人公の小学生時代の友人が、大人になって登場したときに説得力のある外見(確かにあのガキが年食ったらこんな感じになりそう)をしているところといい、年を重ねるという点では、結構見事な描き方をしている作品ではないかという気がにわかにしてきた。

               

              「幸福路上」2017台湾
              監督:宋欣穎
              出演;桂綸鎂、魏徳聖、陳博正


              映画の感想:クラッシャージョウ

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                 リニューアルした京都みなみ会館の見物を兼ねて、昭和のSFアニメ黄金期に制作された本作を見た。当時よほど宣伝されたのだろう、タイトルだけは知っている。でも初見。概要すらも全く知らない。ある意味新鮮な気分で古い映画を劇場で見れるから、贅沢である。


                 今年は「機動戦士ガンダム」の放送から40周年という年に当たる。ということは同時に作画担当だった安彦良和が頭角を現して40周年ということでもあろう。「ガンダム」の無理な制作進行がたたって肋膜炎で入院した彼が現場復帰し、初監督を務めている。

                 このため絵はさすがの仕上がりだ。「ガンダム」で培われた技術と、劇場版の成功で儲かったせいもあるのか、これぞ80年代SFアニメという見事な出来栄え。なんでも、テレビ版の「ガンダム」制作時は、使える絵具の色数が劇場版「宇宙戦艦ヤマト」の1/4程度しかなかったそうだが、本作はそれに比べれば絵具の種類も増えている。

                 今のアニメが好きな人からすれば、かなり泥臭く時代を感じる雰囲気なのだろうが、個人的にはこういう質感のアニメを子供時代に見ていたので、とても落ち着いて見ることができた。

                 しかし内容は……。2時間超えの長尺でもあり、かなり苦痛に感じてしまった。

                 

                 クサすことをくどくどと書きたくはないからなるべく簡潔に。後出しジャンケン的に展開していく物語展開の苦しさがまず退屈なのだけど、そのせいで必然、主人公ジョウが突撃敢行しか能のない無策な男になっている。話が雑なので、それを転がす主人公も雑にならざるを得ないわけだ。こうなるとジョウの「昭和マンガの主人公男子」の見事すぎる類型たる顔つき髪型、「〜しちまったぜ」に代表される類型主人公語が目に余ってきてしまう。

                 

                 こうなった最大の原因は、この手のSF冒険ものには必須の、作品を貫く背骨といおうか外箱といおうか、舞台設定の希薄さがあると思う。宇宙に植民した人と地球に残った人との対立、とか、永遠の生命たる機械の体、とか、地球を救うために遠くまで掃除機をもらいに行って帰る、とか。何かしら大枠がはっきりしていればまだどうにかなったところはあるかもしれん。

                 

                 本作の場合、タイトルにもなっている「クラッシャー」がそれに該当する候補で、ジョウも何かと自身のアイデンティティの拠り所としている風なのだが、結局のところこれが何なのか、便利屋のようなもの、くらいしかわからなかった。せいぜい「面倒ごとに巻き込まれる必然性」を担保する装置として(私立探偵と同じようなもの)使われているだけだった。結果、一介の便利屋が命がけで一国(一惑星)の統治のあり方の是非を問うという極めてバランスを欠いたはちゃめちゃな物語になっている。

                 

                 ガンダムを経てのこれ、というのは不思議な印象だ。ついでに「スターウォーズ」もとっくに2作目まで公開されている時期、ここまで内容のないものが作られたのはいったいどういうことなんだろう。面白い/面白くない、とか、傑作/駄作ということではない。頑張って作ったものが大して面白くないことなら、自分でも何度も経験済みだ。本作の場合、面白くないというより、不思議なくらい考えなしの空っぽに感じたのだ。絵を綺麗に仕上げることにすべての労力を使い果たしてしまったということ? それとも市場の活性化によって引き起こされるバックラッシュみたいなものなのだろうか。


                 それはさておき、作品から何か派生して考えられることはないか、と思考を巡らし書いては消して書いては消してをしてみたが、このような作品を監督した御仁が、約10年後に「虹色のトロツキー」を上梓することを考えると人間変われば変わるものだ、この人個人に関心が湧いてくるなあ、くらいしか思い浮かばなかった。

                 

                1983年日本
                監督:安彦良和
                出演:竹村拓、小林清志、小原乃梨子


                映画の感想:ギターを持った渡り鳥

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                   文博に行くとなれば、ついでに映画も見れるとなおよし。というわけで、たまたまやっていた有名作品を見た。
                   父親が若いころ、長嶋茂雄も石原裕次郎も好きではなかったという。テレビではしばしば全国民が好きだったくらいの勢いで語られるものだが、父親が例外なのでその語られ方には違和感しかなかった。一方で父親は小林旭のファンだったが、裕次郎と違って俺が子供のころはあまりテレビに出ていなかったから、違和感どころか人物自体がよくわからない。


                   レコードは自宅にたくさんあったからジャケットを見るのだが、薄い顔立ちをしているので子供心には格好いいのかどうなのかピンとこない。何かといえばドラムのシーンがアーカイブ的にテレビに出てくる裕次郎と違い、そもそも話題にすら上らないから確認のしようがない。
                   そうこうしているうちに「熱き心に」がヒットして再びテレビに出るようになったが、50手前のマイトガイは、第三次成長を経てすっかり昔の自民の領袖みたいな見事な恰幅になっていた。裕次郎以上に若いころとのつながりが想像できず、スターとしての小林旭をついぞ確認したことがないまま今に至る。

                   

                   そういうわけで、映画の内容としてはどうせ当時の商業映画だろうと特に期待もしていなかったが、大きなスクリーンで若いころの動く彼を見ることに意味があろうと、だいぶ理屈っぽい興味を抱いて訪れた。

                   

                   席はかなり埋まっていた。さすがはかつてのスターである。見事に爺さん婆さんだけなのが清々しい。溝口健二や成瀬巳喜男といった著名な監督作品と違って、やはり若人には見向きもされないのだろう。時代のあだ花で終わるのが商業映画の宿命である。ギターを背負った流しの青年がヤクザと大立ち回りを演じるというトンデモ臭すらする内容だから余計である。

                   

                   冒頭、さっそくギターをかついで海辺を歩く小林旭演じる「滝」が登場する。昔の映画なので、最初に出演とスタッフが全部紹介されるのだが、バックに流れる主題歌を、そらで歌えてしまえる自分がいる。雀百まで踊り忘れず。英才教育の賜物だな。

                   滝はギターを、ケースなしの裸で肩に担いでいる。百姓が鍬を持ち歩くときの担ぎ方。斬新。先日、ギターを持ち歩くのにケースがないからと楽器屋に飛び込んだ己は、所詮固定観念にとらわれた保守派だと反省しなければならない。

                   

                   このギター、ボディの円周に沿って中東風味の草花模様がぐるりと描かれていてなかなか洒落ている。さらにこれ、後から絵具で書いたように見えるから、だとすれば、酔って自分のギターにあみだくじ模様を白塗料で書きつけた布袋寅泰に先駆けること30年前である。ポスターでは模様のないスタンダードなベージュボディなのはなぜなんだろう。

                   さらに注目すべきはストラップだ。演奏時にギターを肩から掛けるためのベルトのような用具であるが、旭モデルのストラップきたら、これが神輿の装飾に使いそうな紅白の細い縄なのである。縄みたいなストラップではなく、縄そのもの。斬新!

                   この特別仕様のギターで悪党をとっちめるトンデモストーリーを想像したが、そこまでイカれた作品ではなかった。残念なことに、ギターは「流しをしていたら絡まれた」という序盤の小道具として使われるくらい。中盤以降は海保の臨検を誤魔化すときに一瞬出てくる程度であとはちっとも出てこなかった。ギターを持った渡り鳥といいつつ、全体的には「手持無沙汰のヤクザ」だ。

                   

                   その肝心の旭だが、このとき二十歳前後。年齢だけでも「暗い過去を背負った流れ者」という設定には苦しい上、年相応の甘っちょろさが残る面構えを随所に見せていたので、ちょっと見ていられないシーンもいくつかだった。顔つきといたたまれなさが若いころの吉川晃司とちょっと似ている。しかし、あのかつてのやんちゃ坊主も今や50を過ぎ、実に格好いい年の取り方をしているのに対し、自然の摂理通りに加齢した旭と比べると対照的だ。改めて吉川晃司は大した人だ。

                   一方、若いくせに存在感がピカいちだったのが宍戸錠。出てきた途端に客席が沸いたので、多くの爺婆様たちがこの風変りなヒールを期待していたのだと知った。あてがわれた役の名前が「ジョージ」という手抜き具合(だったら「ジョー」でいいじゃん)に、制作サイドからのおざなりな扱いを案じてしまうが、なかなか大物っぽいワルぶりを演じていて素晴らしい。

                   

                   というわけで、宍戸錠ばかりに惹きつけられて、小林旭の魅力はやっぱりわからずじまいだった。顔立ちが綺麗なのは間違いないから、ヒーロー以外の役柄だとまた違ってのかもしれないが。昭和30年代の函館の景色を見れる点、現代史の資料としてはなかなか貴重だと思った。

                   

                  1959年日本
                  監督:斎藤武市
                  出演:小林旭、浅丘ルリ子、金子信雄


                  【やっつけ映画評】テルアビブ・オン・ファイア

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                     出張先での仕事が終わるのが夕方、せっかくなので夜に何かしたい=通常なら現地の知人と酒、のところ、地元の渋い映画館で、ちょうどいい時刻に、関西では上映していない映画をやっている。それもこのイカしたタイトル。これはもう「見ろ」と天から命じられているに違いない。ついでにこの名演小劇場は、帰りの電車を途中下車するだけでよかったから好都合が山盛りである。


                     演劇小屋みたいな名前だが、実際元はそうだったらしい。wikiの説明にはなかなか複雑な歴史が書いてあった。俺も一応演劇界の周辺者だが、へえかつてはこんな興行の仕組みだったのか。カラバッジョといいメキシコ・ルネサンスといい、この日は朝から知ることが多いな。味噌の国だからシルと縁が深い。

                     

                     映写室を出入りしているおっさんが、デニムシャツに長髪白髪にハチマキ姿で、何というかこれ以上ない完璧ないでたちである。受付には若干尖った雰囲気の若い女性、待合コーナーには、お前ナナゲイから来たやろという雰囲気のおっさん一人。知らん映画のポスターだらけの壁。喫煙所には巨大なドーナツの型抜きみたいな形をした、これはもう生産してないんじゃないかという形状の昭和のスタンド型灰皿。最高の空間ではないかね。館内は、コンクリ壁を黒塗りした小劇場スタイルで、いかにも劇団ころがる石が出演しそうな芝居小屋風だった。

                     


                     こうして素晴らしい道草の条件が整いまくっている中見た本作は、まったくもって「惜しい」と言わざるを得ない内容だった。
                     イスラエル・パレスチナの対立をテーマにした映画は、いくらでもあってよさそうなところ、少なくとも日本で見れるものはあまり多くはない。このためテーマだけでかなり興味が湧く上、着想も極めて面白い。


                     第三次中東戦争をパレスチナ視点で描いたテレビドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」の制作現場が舞台である。スパイものでありつつメインはラブロマンスで、日本でいう昼メロの類と考えてよさそうだ。

                     主人公のサラームは、親戚のコネでこの現場にスタッフの末端として参加しているいかにも要領の悪そうな男だ。このサラームが、事情あって急遽脚本チームの一員に抜擢され、苦労しながらドラマの続きを描いていくサマが、本作の物語の根幹となっている。

                     その過程で大きな役割を果たすことになるのが、検問所の責任者にして軍人のアッシだ。イスラエルとパレスチナ自治区の境界は厳重に管理されていて、検問所を通らなければならない。ドキュメンタリーやノンフィクションによると、この検問所のイスラエル軍はかなり高圧的で陰湿な印象を受けるのであるが(軍人or検問なんてそんなものだが)、アッシも概ね似た具合のいわば悪役である。検問に引っかかったサラームを尋問するうち、彼が「妻のドハマリしているドラマの脚本家」と知り、妻にいい顔をしたい&反ユダヤの内容が許せないという個人的・政治的思惑から脚本に口を出そうとする。
                     つまり、パレスチナ側に立つ制作陣の一員でありつつ、イスラエル側の人間に干渉される中で、両者が納得する展開をひねり出していく難題をサラームは背負うことになるわけだ。すげえ面白い。はずなんだけど、この着想を上手く活かせているとは言い難く、何よりサラームのキャラ造形が全く好きになれない相当にイラつくやつだったので、特に前半は多少なりともウンザリしながら見た。チラシの煽り文句通り、ラストはなかなか見事だったから帳尻は合ったように思うが。

                     

                     あげつらっても仕方がないので以下、考えたことをダラダラと。
                     イスラエルの軍人が「反ユダヤのドラマだ!」と嫌うような、パレスチナ側に寄ったドラマがイスラエルで堂々と放映されているのはなかなか驚きである。ラブロマンスなので視聴者の中心は女性なのだが、それらイスラエル側の視聴者がどう感じているかというと、政治の部分は「どうでもいい」ということらしい。沸騰するアッシをよそに、彼の妻はサスペンスの部分で手に汗握り、ロマンスの部分で「キャー」と喜悦し、この辺は日本の昼メロファンと変わりない。彼女によると「だってドラマじゃない」ということで、もしかすると俺の感覚の方がおかしいのかも。

                     「いだてん」で関東大震災の朝鮮人虐殺とか、戦後間もないころのフィリピンの強烈な反日感情とかを描くだけで「よくぞ踏み込んだ!」と評価されるのが今の日本社会だから、ナイーブ過ぎる。その感覚に俺も染まってるから、アッシの妻たちが不思議に見えるのかしら。

                     

                     一方でパレスチナ側では事情が違うから、この分析は的外れかもしれない。アッシの親イスラエル的要求を脚本に盛り込んだ展開に反発が起きる。新聞に批判的な記事が載り、スポンサーが難色を示し出す。この辺から察するのは、両者のパワーバランスがこの反応の違いを生み出しているのではなかろうかという仮説だ。つまり優位にあるイスラエル側では、対立が日常風景として固定化しすぎているから「そういうもの」としていちいち知覚しない、一方何かと劣勢のパレスチナ側では、ドラマの持つ政治側面に俄然こだわる。

                     

                     そしてパレスチナの側も反イスラエルの一枚板ではないことが描かれる。アッシのゴリ押しを受け、融和的なラスト、つまりパレスチナ側にすれば親イスラエル的なラストを提案するサラームに、制作陣のチーフたる爺様(サラームをコネ入社させた親戚)は当然反発するのであるが、サラームはサラームで、そういう二択の発想はウンザリだ!を吐き捨てる。下の世代にはまた別の捉え方があるということだ(ただし、中盤まではノンポリ風のぼさっとしたキャラとして描かれている上、すぐその場しのぎの出まかせを言う男なので、どこまで真意かわからない。サラームのキャラ造形は単にイラつくだけでなく本作の最大の難点だ)。

                     そういうサラーム自身にも、アラブのアイデンティティだったり、かつての歴史への彼なりの怒りなり忌避なりがあったりするから、アッシが求める通りの展開をそのまま書くわけにはいかない。

                     

                     「音楽に政治を持ち込む是非」の議論に代表される、娯楽(ないしは表現行為)と政治の関係について、政治が絡むとき、それはやむにやまれぬものからの発露である、という真実がここにはある。日本におけるその手の議論がしばしば稚拙なのは、この視点が抜けているからで、「政治を持ち込むな」を主張する連中が持ち込む「政治」が実にしょうもないのも、やむにやまれていないからだ。

                     ついでに改めてこのチラシを見ると、「民族の対立⁉」のキャッチが典型的だが、思慮分別の欠如が著しい。社会的な重いテーマを扱った海外の映画を日本の会社が配給する際、映画ちゃんと見たのか?という無理解としばしば遭遇するものであるが、このチラシの場合、コメディ部分に過剰にすがっている点がナイーブすぎて辛い。そりゃあんな稚拙な議論も「一理ある」扱いされるわなあ。

                     

                     それはともかく、サラームがひねり出した結末は、ドラマの中においては現実の残酷さを示しているものの、本作自体の結末としてはあっけらかんとしたハッピーエンドになっている。救いのないラストと救いのあるラストが同居している。

                     

                     劇中劇を扱うフィクションは、劇を見ている人々を、我々鑑賞者が見ているという合わせ鏡のような構造を取るわけだが、この構造だからこそ悲劇と喜劇が同居するラストを提示できるわけで、この点は実に見事である。それだけに、もっとうまくできただろうにと恨めしくもあり、まあ現実自体が常に「もっとうまくやれたはず」の繰り返しだと自分を納得させた。

                     

                     そうして帰りの新幹線の電光ニュースで中村哲の死亡を知り、あんな映画を見た後に!と驚いてしまった。パレスチナとアフガニスタンを同じ括りでとらえている時点で世界地図の認識が相当にあやしいのであるが、対立を乗り越えようと模索する姿勢には共通点はないこともない(自己弁護)。立派過ぎる人につき、真似ること到底能わずであるが、他者を思いやる、くらいのことなら少しくらい誰だって出来るし、今の日本社会、せめてちょっとくらいそうならんといかんよなあ。

                     


                    【やっつけ映画評】国家が破産する日

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                       本作を見るため、アメリカ村に足を踏み入れた。今でもここは若い衆の街である。少子高齢人口減少社会にあって、年寄りが眉をひそめる風体の若人をこんなに大量に見れる場所は関西では珍しくなっている。こんなエリアに不釣り合いなおっさんおばさんがうろついている場合、そこそこの確率でシネマート心斎橋の客である。俺しかり。まあ、老若入り混じる十三の雑踏の中でも見分けがついてしまうナナゲイの客に比べれば全然普通の風体だが。

                       

                       映画館が入居する商業施設の向かいには、楽器屋が3軒も並んでいる。我らがバンドがいつも利用しているスタジオの支店も反対側の向かいにある。ロックがとっくに年寄りの趣味になっている今時にあっては、こちらも不釣り合いな存在に思えてくるが、これはただの脱線。

                       

                       このアメ村で服を物色していた学生のころ、世の中は受け手が動かしているものだと思っていた。つまり「タピオカがブームだからタピオカ屋が続々開店する」といった図式である。しかし実際のところは逆で、それを仕掛けたやつがまずいて、受け手はその掌の上で踊っているだけというのが珍しくない(タピオカはあくまでたとえなので誤解なきよう蛇足ながら)。そして踊らされている方は大抵その自覚がない。あったとしてもせいぜいタピオカ屋の主にボラれている可能性を想像する程度。だけど実は店主も同じく踊らされている側で、仕掛け人はもっと奥にいるものだ。

                       といっても別に裏のフィクサーとかそんな陰謀論めいた話ではなく、政治の世界の話として新聞にも堂々載っていたりする。普通の人はそこまで記事を読まないか、テクニカルな読み解き方をしないとわからないかで知る由もない。
                       本作を見ながら、そんなことを想像した。

                       

                       20世紀末の通貨危機が題材だ。韓国版「マネー・ショート」。経済の話を上手く娯楽映画にまとめている。前にも書いたことを繰り返すが、韓国はこういう重厚な映画が生まれ、ヒットする社会である。過去を検証できない、顕彰しかできない日本社会が見下せることなんか何もねーよ。

                       

                       バブルがはじけて経済が崩壊していく中で、その危機を以前から警告していた中央銀行のチーム長(課長クラスくらい?)のハンと、なぜか彼女の動きを封じようとする政府高官パク、経済危機をいち早く嗅ぎ取って逆張りで大儲けしようとする金融屋ユン、思い切りこの恐慌に生活を脅かされる町工場の経営者ガプス、それぞれを主人公とする場面がテンポよくつながり、スリリングに経済危機を描いている。「マネー・ショート」と違って、政府側の人間が登場するから殺伐しているし、町工場のおっさんの追い詰められ具合もしっかり描かれるので、あの映画よりも重い。

                       

                       本作で最も印象的なのが、ユンのセリフだったか、この経済崩壊を国民が自分らのせいだと思うと指摘している場面だ。自分たちが(あるいは世の中の人々が)欲にかられたから、贅沢をし過ぎたから、こんな悲惨な事態に陥ったのだという認識である。そういう側面があったことを否定はできないだろうが、必ずしも市井の人々の熱病だけで起こったことではないと本作は描いている。

                       

                       

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