【やっつけ映画評】テルアビブ・オン・ファイア

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     出張先での仕事が終わるのが夕方、せっかくなので夜に何かしたい=通常なら現地の知人と酒、のところ、地元の渋い映画館で、ちょうどいい時刻に、関西では上映していない映画をやっている。それもこのイカしたタイトル。これはもう「見ろ」と天から命じられているに違いない。ついでにこの名演小劇場は、帰りの電車を途中下車するだけでよかったから好都合が山盛りである。


     演劇小屋みたいな名前だが、実際元はそうだったらしい。wikiの説明にはなかなか複雑な歴史が書いてあった。俺も一応演劇界の周辺者だが、へえかつてはこんな興行の仕組みだったのか。カラバッジョといいメキシコ・ルネサンスといい、この日は朝から知ることが多いな。味噌の国だからシルと縁が深い。

     

     映写室を出入りしているおっさんが、デニムシャツに長髪白髪にハチマキ姿で、何というかこれ以上ない完璧ないでたちである。受付には若干尖った雰囲気の若い女性、待合コーナーには、お前ナナゲイから来たやろという雰囲気のおっさん一人。知らん映画のポスターだらけの壁。喫煙所には巨大なドーナツの型抜きみたいな形をした、これはもう生産してないんじゃないかという形状の昭和のスタンド型灰皿。最高の空間ではないかね。館内は、コンクリ壁を黒塗りした小劇場スタイルで、いかにも劇団ころがる石が出演しそうな芝居小屋風だった。

     


     こうして素晴らしい道草の条件が整いまくっている中見た本作は、まったくもって「惜しい」と言わざるを得ない内容だった。
     イスラエル・パレスチナの対立をテーマにした映画は、いくらでもあってよさそうなところ、少なくとも日本で見れるものはあまり多くはない。このためテーマだけでかなり興味が湧く上、着想も極めて面白い。


     第三次中東戦争をパレスチナ視点で描いたテレビドラマ「テルアビブ・オン・ファイア」の制作現場が舞台である。スパイものでありつつメインはラブロマンスで、日本でいう昼メロの類と考えてよさそうだ。

     主人公のサラームは、親戚のコネでこの現場にスタッフの末端として参加しているいかにも要領の悪そうな男だ。このサラームが、事情あって急遽脚本チームの一員に抜擢され、苦労しながらドラマの続きを描いていくサマが、本作の物語の根幹となっている。

     その過程で大きな役割を果たすことになるのが、検問所の責任者にして軍人のアッシだ。イスラエルとパレスチナ自治区の境界は厳重に管理されていて、検問所を通らなければならない。ドキュメンタリーやノンフィクションによると、この検問所のイスラエル軍はかなり高圧的で陰湿な印象を受けるのであるが(軍人or検問なんてそんなものだが)、アッシも概ね似た具合のいわば悪役である。検問に引っかかったサラームを尋問するうち、彼が「妻のドハマリしているドラマの脚本家」と知り、妻にいい顔をしたい&反ユダヤの内容が許せないという個人的・政治的思惑から脚本に口を出そうとする。
     つまり、パレスチナ側に立つ制作陣の一員でありつつ、イスラエル側の人間に干渉される中で、両者が納得する展開をひねり出していく難題をサラームは背負うことになるわけだ。すげえ面白い。はずなんだけど、この着想を上手く活かせているとは言い難く、何よりサラームのキャラ造形が全く好きになれない相当にイラつくやつだったので、特に前半は多少なりともウンザリしながら見た。チラシの煽り文句通り、ラストはなかなか見事だったから帳尻は合ったように思うが。

     

     あげつらっても仕方がないので以下、考えたことをダラダラと。
     イスラエルの軍人が「反ユダヤのドラマだ!」と嫌うような、パレスチナ側に寄ったドラマがイスラエルで堂々と放映されているのはなかなか驚きである。ラブロマンスなので視聴者の中心は女性なのだが、それらイスラエル側の視聴者がどう感じているかというと、政治の部分は「どうでもいい」ということらしい。沸騰するアッシをよそに、彼の妻はサスペンスの部分で手に汗握り、ロマンスの部分で「キャー」と喜悦し、この辺は日本の昼メロファンと変わりない。彼女によると「だってドラマじゃない」ということで、もしかすると俺の感覚の方がおかしいのかも。

     「いだてん」で関東大震災の朝鮮人虐殺とか、戦後間もないころのフィリピンの強烈な反日感情とかを描くだけで「よくぞ踏み込んだ!」と評価されるのが今の日本社会だから、ナイーブ過ぎる。その感覚に俺も染まってるから、アッシの妻たちが不思議に見えるのかしら。

     

     一方でパレスチナ側では事情が違うから、この分析は的外れかもしれない。アッシの親イスラエル的要求を脚本に盛り込んだ展開に反発が起きる。新聞に批判的な記事が載り、スポンサーが難色を示し出す。この辺から察するのは、両者のパワーバランスがこの反応の違いを生み出しているのではなかろうかという仮説だ。つまり優位にあるイスラエル側では、対立が日常風景として固定化しすぎているから「そういうもの」としていちいち知覚しない、一方何かと劣勢のパレスチナ側では、ドラマの持つ政治側面に俄然こだわる。

     

     そしてパレスチナの側も反イスラエルの一枚板ではないことが描かれる。アッシのゴリ押しを受け、融和的なラスト、つまりパレスチナ側にすれば親イスラエル的なラストを提案するサラームに、制作陣のチーフたる爺様(サラームをコネ入社させた親戚)は当然反発するのであるが、サラームはサラームで、そういう二択の発想はウンザリだ!を吐き捨てる。下の世代にはまた別の捉え方があるということだ(ただし、中盤まではノンポリ風のぼさっとしたキャラとして描かれている上、すぐその場しのぎの出まかせを言う男なので、どこまで真意かわからない。サラームのキャラ造形は単にイラつくだけでなく本作の最大の難点だ)。

     そういうサラーム自身にも、アラブのアイデンティティだったり、かつての歴史への彼なりの怒りなり忌避なりがあったりするから、アッシが求める通りの展開をそのまま書くわけにはいかない。

     

     「音楽に政治を持ち込む是非」の議論に代表される、娯楽(ないしは表現行為)と政治の関係について、政治が絡むとき、それはやむにやまれぬものからの発露である、という真実がここにはある。日本におけるその手の議論がしばしば稚拙なのは、この視点が抜けているからで、「政治を持ち込むな」を主張する連中が持ち込む「政治」が実にしょうもないのも、やむにやまれていないからだ。

     ついでに改めてこのチラシを見ると、「民族の対立⁉」のキャッチが典型的だが、思慮分別の欠如が著しい。社会的な重いテーマを扱った海外の映画を日本の会社が配給する際、映画ちゃんと見たのか?という無理解としばしば遭遇するものであるが、このチラシの場合、コメディ部分に過剰にすがっている点がナイーブすぎて辛い。そりゃあんな稚拙な議論も「一理ある」扱いされるわなあ。

     

     それはともかく、サラームがひねり出した結末は、ドラマの中においては現実の残酷さを示しているものの、本作自体の結末としてはあっけらかんとしたハッピーエンドになっている。救いのないラストと救いのあるラストが同居している。

     

     劇中劇を扱うフィクションは、劇を見ている人々を、我々鑑賞者が見ているという合わせ鏡のような構造を取るわけだが、この構造だからこそ悲劇と喜劇が同居するラストを提示できるわけで、この点は実に見事である。それだけに、もっとうまくできただろうにと恨めしくもあり、まあ現実自体が常に「もっとうまくやれたはず」の繰り返しだと自分を納得させた。

     

     そうして帰りの新幹線の電光ニュースで中村哲の死亡を知り、あんな映画を見た後に!と驚いてしまった。パレスチナとアフガニスタンを同じ括りでとらえている時点で世界地図の認識が相当にあやしいのであるが、対立を乗り越えようと模索する姿勢には共通点はないこともない(自己弁護)。立派過ぎる人につき、真似ること到底能わずであるが、他者を思いやる、くらいのことなら少しくらい誰だって出来るし、今の日本社会、せめてちょっとくらいそうならんといかんよなあ。

     


    【やっつけ映画評】国家が破産する日

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       本作を見るため、アメリカ村に足を踏み入れた。今でもここは若い衆の街である。少子高齢人口減少社会にあって、年寄りが眉をひそめる風体の若人をこんなに大量に見れる場所は関西では珍しくなっている。こんなエリアに不釣り合いなおっさんおばさんがうろついている場合、そこそこの確率でシネマート心斎橋の客である。俺しかり。まあ、老若入り混じる十三の雑踏の中でも見分けがついてしまうナナゲイの客に比べれば全然普通の風体だが。

       

       映画館が入居する商業施設の向かいには、楽器屋が3軒も並んでいる。我らがバンドがいつも利用しているスタジオの支店も反対側の向かいにある。ロックがとっくに年寄りの趣味になっている今時にあっては、こちらも不釣り合いな存在に思えてくるが、これはただの脱線。

       

       このアメ村で服を物色していた学生のころ、世の中は受け手が動かしているものだと思っていた。つまり「タピオカがブームだからタピオカ屋が続々開店する」といった図式である。しかし実際のところは逆で、それを仕掛けたやつがまずいて、受け手はその掌の上で踊っているだけというのが珍しくない(タピオカはあくまでたとえなので誤解なきよう蛇足ながら)。そして踊らされている方は大抵その自覚がない。あったとしてもせいぜいタピオカ屋の主にボラれている可能性を想像する程度。だけど実は店主も同じく踊らされている側で、仕掛け人はもっと奥にいるものだ。

       といっても別に裏のフィクサーとかそんな陰謀論めいた話ではなく、政治の世界の話として新聞にも堂々載っていたりする。普通の人はそこまで記事を読まないか、テクニカルな読み解き方をしないとわからないかで知る由もない。
       本作を見ながら、そんなことを想像した。

       

       20世紀末の通貨危機が題材だ。韓国版「マネー・ショート」。経済の話を上手く娯楽映画にまとめている。前にも書いたことを繰り返すが、韓国はこういう重厚な映画が生まれ、ヒットする社会である。過去を検証できない、顕彰しかできない日本社会が見下せることなんか何もねーよ。

       

       バブルがはじけて経済が崩壊していく中で、その危機を以前から警告していた中央銀行のチーム長(課長クラスくらい?)のハンと、なぜか彼女の動きを封じようとする政府高官パク、経済危機をいち早く嗅ぎ取って逆張りで大儲けしようとする金融屋ユン、思い切りこの恐慌に生活を脅かされる町工場の経営者ガプス、それぞれを主人公とする場面がテンポよくつながり、スリリングに経済危機を描いている。「マネー・ショート」と違って、政府側の人間が登場するから殺伐しているし、町工場のおっさんの追い詰められ具合もしっかり描かれるので、あの映画よりも重い。

       

       本作で最も印象的なのが、ユンのセリフだったか、この経済崩壊を国民が自分らのせいだと思うと指摘している場面だ。自分たちが(あるいは世の中の人々が)欲にかられたから、贅沢をし過ぎたから、こんな悲惨な事態に陥ったのだという認識である。そういう側面があったことを否定はできないだろうが、必ずしも市井の人々の熱病だけで起こったことではないと本作は描いている。

       

       


      過去作の副作用

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         テレビでたまたま「磯野家の人々〜20年後のサザエさん」というドラマを目にし、そのままなんとなく見始めた。カツオの造形がなかなか見事だと思ったせいだ。この喋り方は確かに大人になったカツオだなと思ったのだが、ドラマ全体にはまったく入り込めず、あとは「ながら見」状態になってしまった。


         つまらない、というよりは、浮世離れたサマがちょっと辛かったという方が正しい。以前に「黄金の七人」という古いイタリア映画や、角川映画「探偵物語」について述べたのと似たようなことといえばいいのか。昔の映画として見る分にはむしろ新鮮に見えてしまう内容だが、あれらの書き割り感やベタなパターンを今やるのは不可能と、雑にまとめるとそんなことを述べた。

         

         このドラマはまさしくそれをやっていると感じた。サザエさんの枠組みで現代を舞台にしたドラマを作るのは無理なんだなあ。どうしても悪い意味で牧歌的に見えるので、登場人物の葛藤がどれもこれもしょうもなく見えて仕方がない。なまじ家族モノだけに、現実世界との不釣り合いはどうしても目につく。


         以前、朝日新聞で、サザエさんに描かれている日常風景を昭和の生活史として分析する連載があった。今はすっかり消えたライフスタイルとか生活用品とかに着目して、それが何物なのか、いつごろまであったのか、などなどを取材する内容だった。そういう史料的価値すらある作品なのだが、そのマンガをもとに現代ドラマを作ったら、どこのパラレルワールドかねこれはという作品が出来上がる。皮肉だ。

         

         これはもしかして、「現代版」を描いているのではなく、昭和のころに予想された未来の姿を見せられている、ということなのかもしれない。だとすれば、かつての未来予想図と現実の〈未来〉との不一致部分は、日本社会がどこで道を違えたのかの検証材料になるということか。いや、どちらかというと、国民的なマンガが生み出した価値の表面がこのドラマが体現しているものに該当し、裏面(副作用みたいなもの)が現実世界のありようということなんだな多分。

         

         まだ読み終わっていない伊藤昌亮「ネット右派の歴史社会学」にガンダムの話が出てきて、それを読んでいたせいで富野由悠季の展覧会に対して、彼が描いたことがその後の社会に与えた影響をぼんやりと考えていた。そのせいでサザエさんについても似たようなことを考えてしまっている。

         

         ガンダムについてはしばしば「勧善懲悪ではない人間同士の戦争のリアルさを描いた」と評される作品である。実際、敵側にも敵側の事情があることが諸々描かれている。だけど、ガンダムを熱く語りたがる人で、現実世界の諸問題について〈反対側〉にも真摯なまなざしを向ける人はほとんど見たことがない。むしろ、単純な解で一刀両断して済ませるのを好む方がずっと多いというのが個人的印象。これは(作者の意図とは別に)作品の持つ影響力の結果なんじゃないかしらと思うのだけど、どうなんだろう(「ネット右派〜」にはもうちょっと別のことが書いてある)。とにかく最近、そういった作品の限界のようなことをちょこちょこと考えることが割とある。


        【やっつけ映画評】イエスタデイ

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           このチラシで本作を知ったとき、安直な着想だと感じたのと、ビートルズにあまり思い入れがないのとで、見に行く気はあまり起きなかった。のだけど、当ブログで書きたい関連話と出くわしたので、見に行くことにした。倒錯している。

           

           先に感想。手練れ監督によるハズさない佳作といったところか。いくつかの部分でなるほどなあと思った。
           まったくぱっとしないギター弾きのジャックが、周りの誰もがビートルズを知らない異世界(?)に行ってしまい、そこで彼らの曲を演奏することでにわかに注目を浴びるという内容だ。

           芸術は互いに影響し合う上、なにせビートルズだから、彼らが消えれば他も消えるんじゃねえのという疑問はすぐ浮かぶ。この世界では、ローリング・ストーンズもデヴィッド・ボウイも存在しているが、オアシスは存在しない、というギャグでこの難問を切り抜けている。というように、必然つきまとう疑問の処理が本作はソツがなく安心して見ていられる。これ以外でいうと、21世紀の今、そもそもビートルズはウケるのかという疑問に対しては、本家にならってジャックが提案したアルバムタイトルやジャケットデザインをことごとく却下されるというギャグっぽいシーンで処理している。

           

           そうだよなあと共感したのは、どうやら周囲はマジでビートルズを知らんらしいと悟ったジャックの反応だ。ビートルズの傑作群を自分だけ知っていて、ある程度は弾ける。だとすればプロになる夢を実現する大いなるチャンスといえるわけだが、ジャックは算盤勘定よりもまず真っ先に、「マズいことになった!」と恐れおののく。

           

           そりゃそうだ。荷が重すぎる。まずジャックは歌詞やコードがうろ覚え。コピーバンドでもやってない限り、ファンでも正確に覚えているのは2、3曲くらいなもんだよね。そしてちゃんと演奏できるのかという問題もある。なので天才の力を借りても自分が売れる保証はなく、しくじれば彼らを冒涜することになる。足もすくむというものだ。実際、当初は誰も聞いてくれない。

           

           それでもチャンスが転がり込んでくるのは、ビートルズだから、というのは大きい。もしなりすましたのがローリング・ストーンズだったら無理な相談だろう。ビートルズはメロディがしっかりしているので、素人がやっても「よい曲」になる可能性はある。ストーンズは、譜面通りやってるつもりでも全くあんな風にならなくて、実に退屈になる。クイーンだとそもそも歌えない。

           

           そして、素晴らしいものを提示できたとしても大抵の人は素通りというのが実際のところである。この序盤の展開は面白い。また、ジャックをなりすましと見抜いているっぽい謎の爺さん婆さんの狙いや、彼らから知らされる最重要人物の登場シーンなどは上手い脚本だと思った。

           

           一方、全体を支えているジャックとエルとのラブストーリーは、女優の魅力と演技の上手さでどうにかなっているものの、ビートルズのモチーフがなければ、ただの使い古されたすれ違いの構造をなぞっているだけの凡庸さだったと思う。せめて曲の歌詞を踏まえた展開にするとか欲しいところ。この辺は「シング・ストリート」を見習ってほしいものだ。レコード会社を欺くラストが、同じ監督の「はじまりの歌」とまるかぶりなんだからさ。

           

           さて、先日とある大学での仕事で出くわした小噺である。

           

           文章の読解について教えながら、文中の「まるでカフカが描く不条理のように我々はなぜか非合理な行動をとってしまい」うんぬんかんぬんという部分に、ふと「もしや」と嫌な予感がした。


           「ところで、みなさん、カフカは知ってますか?」
           沈黙。
           「知ってる?」と、適当な学生に尋ねると「…、絵の人っすか?」と少々語彙力に欠ける返答。「『描く』から画家を想像したその発想は悪くない」などと褒めながら(←こういう芸当、一応できる)、「他に『描く』が仕事っぽい職業って?」「本の人っすか?」と、一応正解にはたどり着けたがしかし、である。


           作者名は知らなくても、作品は知っているのだろうか。「変身」が有名だけど、と水を向けるが教室にいる30人ほどが全員一様に「???」の表情。
           「えーっとね、グレゴール・ザムザという男がある朝目覚めると、自分が虫になっているということに気づいてね…」
           と物語の冒頭を紹介すると、女子学生を中心に「グロ。え?何?ホラー」といった具合にかすかにざわつく。
           「マズいことになった!」
           まさしくこれだよホント。意味が違ってしまうけど。

           

           このとき、本作「イエスタデイ」の概要はすでにチラシで知っていたし、本作と何かと重ねて語られるマンガ「僕はビートルズ」も、そういうマンガがある、という程度の認識はあったわけだが、別にパラレルワールドに行かなくてもタイムスリップしなくても、著名なはずの人物や作品を誰も知らないという状況はいくらでもある、と現実を知ったのである。


           無論、「〇〇、と言っても若い君らは知らんか」という年寄りの言は、過去にいくらでも聞いてきたし、おっさんになって逆の立場にもなったから、いくらでもあることといえばそう。だけどカフカだよ。ロバート・ジェームズ・ウォラーでもスペンサー・ジョンソンでも謝国権でもないんだよ。というのは文学部出バイアスなのだろうか。

           

           なんだっていいや。ジャックがビートルズの伝道師を買って出たように、我も知らぬという彼ら彼女らに伝えなければならない。映画の登場人物がビートルズを知らないのは彼らが不勉強だからではないのと同様、目の前の学生がカフカを知らないのも機会不平等みたいなものである。是正に努めるのがおっさんの責務。


           しかし、「マズいことになった」。ろくに内容を覚えていない。「要するに簡単にいうとですね」と誤魔化しながら、作品の特色と意義を知ったように説明し、若干名が「へ〜、読んでみようかしら」といった表情で頷いていた。こういう芸当、一応できる。だがやっていることは、「ヘーイ、ジュー、ボンベンビンバーン」と歌っているのと大差ない、ただの雰囲気説明である。

           こう考えると、刺客のように登場するあの初老の男女が見せる意外な態度は、何も意外でないことがわかる。ピラミッドはエジプト人のみのものではなく人類の宝であり、だから守り伝えなければならんし、それは凡人にはかなり難しい相談なのである。

           

          「ALL YOU NEED IS LOVE」2019年イギリス
          監督:ダニー・ボイル
          出演:ヒメーシュ・パテル、リリー・ジェームズ、エド・シーラン


          【やっつけ映画評】ジョーカー

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             それでようやく見た。
             娯楽作の悪役が、悪役になるまでを描いたという点、「スターウォーズ」のエピソード3と同じだが、あれと違って「そうなる」必然性になかなか説得力があって引き込まれた(でもこの物語はジョーカー白人だから成立するのであって、黒人だったら捨て置かれたままだ、という指摘をネット上で目にし、なるほどなあと思ったから感想が続けにくい。さしあたり脇に置く)。

             

             どん底の不幸から稀代の愉快犯が生まれる、という大枠は伝え聞いていたので、重い内容を想像して気後れするところも正直あった。スケジュール的にはぎりぎり鑑賞可能だった日もあったのだが、その気後れのせいで「そこまで無理せんでもええか」と帰宅したくらいだった。実際、ジョーカーことアーサーが、病気のせいでおかしくもないのに爆笑してしまうシーンは息苦しさを覚えたものだったが、全体的にはあまり重苦しさは感じずに見た。なぜなんだろう。

             

             ひとつには、「主人公が黒人だったらこの物語は成立しない」の指摘と同じく、アーサーに特に共感できる部分がない分「ただの他人事でしかない不幸」としてしか見えていなかったからだろうか。とも思ったがこれはうがち過ぎかもしれない。

             

             やはり「そのうちこいつはジョーカーになる」と思って見ているからだろう。どういう風にジョーカーに変貌していくのかの興味が先に立つというのもあるし、それはイコール、彼を取り巻く不幸に復讐することを意味する。復讐が待っているなら、その前段は苦しいほど弾みがつくというものだ。我慢して我慢して最後に爆発、という昭和の任侠映画と同じカタルシスの構造といえようか。あんま見たことないけど。

             

             だとすると、観客自身もジョーカーの思うつぼになっているといえる。
             俺の場合(多くの人の場合そうだと思うが)ジョーカーといえば「ダークナイト」のイメージで、本作の制作陣とていやでもあれを意識せずにはいられないだろう。あの映画で語られる当人の来歴と重なる部分(父からの虐待、妻を「笑わせる」話など)は、本作のジョーカー(アーサー)にはほとんどないが、人々を混乱させる存在であるという根本の部分では一致している。「ダークナイト」では、2隻の船を使った巨大トロッコ問題を仕掛けたり、「光の騎士」たるデントを憎悪にかられる悪人に貶めたりするし、本作では自分自身が社会をカオスに陥れていることにやがて自覚的になっていく様子が描かれている。

             

             アーサーが起こした事件に触発され、道化のメイクや面をかぶった人々は、何かしら社会に対する恨みつらみがあり、その恨みを晴らしてくれた痛快な存在として事件の犯人を位置づける。であるからして、不幸の連続に見舞われるアーサーに、やがてジョーカーとしての復讐を期待する観客も同じ穴のむじなになる勘定になる。で、俺もまんまとそのむじな一匹というわけだ。

             

             


            【やっつけ映画評】アタリ ゲームオーバー

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               仕事終わりに「ジョーカー」を見たいのだが、なかなか時間が合わない。うまいこと見れんなあとぼやきながら、ついレンタル屋に入ってしまった。いやもちろん、ジョーカーすら見れない身なのに何も借りません。ほー、あの作品がレンタルされてるぞ、なんて眺めるだけ。「ネトフリ入らないんですか」などと人様から言われてしまう昨今だが、本屋と図書館とレンタル屋の棚をぼけーっと眺めるのが、スーパーの見切り品をあさるのと同じくらい好きなもんで。

               そしたらまんまと、本作を知ってしまった。
               1980年代初頭、社会現象を巻き起こしたTVゲーム機ATARI2600。その専用ソフトとして開発され、1982年のクリスマスシーズンの最重要ソフトとして開発されたゲーム『E.T.』。大ヒットしたスティーヴン・スピルバーグの映画とタイアップし、ゲームの歴史を変える作品となるはずだったが、現在では、ゲーマーたちから史上最悪のクソゲーとして語られ、ATARI社を倒産に導いたソフトという不名誉な烙印を押されている。そして、その『E.T.』の不良在庫が大量に、ニューメキシコのとある砂漠に埋められているという。
               とぼけたタイトルに加え、こんな内容紹介読んだら借りてしまうではないか!ヒット映画とタイアップして鳴り物入りで発売された商品が超駄作、それで会社が倒産、大量の在庫が砂漠に埋められてるらしい。かなり完璧なストーリーだ。そして作品の尺もコンパクト。借りるしかない。

               アタリ社はなぜか名前だけ知っている。なぜ知ってるのかはよくわからない。スティーブ・ジョブスの伝記映画の序盤で登場したとき、そういえばアタリって会社あったなと思った程度の認識でしかないが。
               あの映画では、尊大な若きジョブス(おっさんになってもそうだが)に対し、上司は辟易しながらも寛大な態度で接していて、ズルいやつだと思ったものだ。本作を見ると実際に結構いい会社だったとわかる(ジョブスはラストでチラっと写真が出る程度)。

               本作は、アタリの社史と「E.T.」発売の経緯をたどりながら、「売れずに余った大量の在庫を埋めた場所」の掘削を試みていく。果たして本当に「E.T.」は埋まっているのか、それともただの都市伝説に過ぎないのか。まるで探偵ナイトスクープもしくは森友学園のような話である。

               掘削場所の特定は、長年この問題を研究してきた産廃業者のおっさんがある程度進めているし、掘削作業は依頼した専門業者が行うので、監督は割と外野にいる。ナイトスクープほどには積極的な役割を演じない。その点展開としては若干地味だ。
               もう少しどうにかならんかったのかと思ったのは、「E.T.」の内容がよくわからなかった点だ。軽くしか紹介していない。黎明期のテレビゲームがどのようなものだったのか、リアルタイムで触れてきた世代なので、どういう風に面白くないのか、何となくの想像はできるのであるが、それでも雰囲気程度にしか伝わらないのはいただけなかった。

               印象的だったのは、掘削作業を見物に来た面々だ。この調査自体がニュースとして取り上げられたことで、ゲームファンたちが世紀の発見の目撃者になろうと続々と現場にやってくる。その中には、「E.T.」の開発者もいる。当時アタリ社のエース級だったために鳴り物入りのプロジェクトを任され、そのせいで「史上最悪のクソゲーを作った男」の烙印を押されてしまう可哀想な人だ。掘削現場を目の当たりにして言葉を詰まらせる様子が、彼の背負ってきた十字架の重さを表していて切ない。

               その一方で、当時の経営者たちはインタビューには答えても都市伝説の真偽にはそれほど興味がないようで、最初から「あんな話ガセだよ」とにべもなく、掘削現場にも来ない。現場と上層部の温度差を実に端的に表しているような。
               無論、スピルバーグも来るはずはない。出来上がったゲームにゴーサインを出している分、彼も当事者の1人ではある。おそらく、当時スピルバーグはテレビゲームのことをよく知らなかったというのと、別分野の作り手を尊重したというのがゴーサインの理由ではないかと推察するが、自身の作品の派生商品がここまでの存在になってしまったことについてどう思うのか、感想くらいは聞きたいところだ。まあ巨大なヒット作だけに派生商品がありすぎて感想の持ちようなどないのかもしれないが。

              映画の感想:ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド

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                 話らしい話もない内容と聞いていたので勝手に短い作品だと思い込んでいたが、よくよく見れば「上映時間161分」とある。長い。話らしい話もなくどうしてそんなに長くなれるのだろうと不思議に思いながら見た。長い謎はすぐ解けて、一個一個のシークエンスが、よくある映画のテンポ感覚からするといちいち妙に長いからなんだな(例えば序盤の犬に餌をやるシーン。普通はあんなに長く要らんだろ)。割とサクサク展開していく映画を作っている監督のようなイメージがあるが、よくよく振り返ってみると、そこそんなに要る?っていうくらい、時によってやけに長いこと引っ張るのは昔からやっている。それを全体に適用した格好。


                 ある時期のある地域の様子を、ストーリーがあるようなないような展開でだらだらねちねちと描き、パロディもあれこれ、となれば、これはもう映画におけるユリシーズといっていいのではないか。と、読まずに言っている。まあとにかく、この長ったらしい感じは不思議な面白さがあって、文学作品風味も感じたのだった。
                 

                 終盤の、とうとう青春の日々は終わるというような場面でストーンズの初期の代表曲「Out of time」が流れるところにジーンと感じ入ってしまい、この曲はこんないい曲だったのかと再認識させられる辺り、使い方も映画自身もよくできているのだろう。で、終わりかと思ったら全然そんなことはなく、ここから先、全く予想外の展開だった。そういえばこの監督、偽史を語るのもお得意だった。結構残酷なのになぜかすっとしてしまうアクションの見事さ含め。
                 

                 本作の中で重要かつ、かなり異質な存在が「マンソン・ファミリー」である。彼らが一体どういう存在なのかは、「ネタバレじゃなくて知っておかないと意味がわからない」と町山智浩が断ってラジオで紹介していた。確かに知らないと「こいつらのこのシーンは何なん?」となるかもしれない(どちらかというと爽やか女優シャロンのシーンの方が「何なん?」となりそうか)。で、おそらく現地アメリカでは、ほとんどの人が「ああ、あれか」と思いながら見ているだろう。
                 

                 だけどこれ、知らない方が面白いのかも、という気もした。俺の場合、そのラジオを聞いてなくても、事件自体はどこかで読んだことがあって超漠然とは知っていた。ロックバンドのマリリン・マンソンの名前の由来として知ったような気もするし、もっとゲスい雑誌の記事で読んだような気もする。おそらく両方だ。
                 

                 で、そういう気色の悪い集団だという知識があるので彼らが登場した時点で腹の奥が少々ざわざわとしてくるわけだが、知らなくてもどこか気味の悪い連中だと感じることは出来る演出になっている。ただしその気味の悪さは、いかにもこの後ゾンビに変身しそうだとかそういう恐怖丸わかりな調子ではなく、ただのキワモノ的な相容れない人たち、くらいの不気味さだ。「今はやりのヒッピーのうざい連中、の延長線上にいるかなり濃い連中」くらいの位置づけといおうか。


                 それが実はそんなレベルではまったくなかったというのをこの後、実際のアメリカ社会は知るわけだが、同じことは日本社会でも経験することになる。麻原彰晃を面白キャラとして消費する人々、うさん臭さに眉を顰める人々、「ところどころついていけないけど、たまにマトモな筋の通ったことも言っている」と教団の本を読んでいた友人、ようそんな気色の悪い装丁の本を本棚に並べられるな、と呆れたがそれ以上は特に考えなかった俺、等々を思い出した。
                 

                 事前に知らない方が、その同時代感はより経験できたかもなあと、そんなことを考えさせられた上手い描き方だと思う。いかにもそういう存在として出てくるわけではないが、さりとてフツーの連中というわけでもないネジのはずれたサマが絶妙。俺の場合は、マンソンファミリーをうっすらと知っていただけだったから、見ている途中か見終わった後で、ああ!あれはアレか!と気づいてゾッとするという一番丁度いい触れ方が出来たのかも。
                 

                 後は備忘録。
                 演技の中で最も難しいのではと常々思っている「下手な演技」が本作にも登場していて、これがなかなか見事だった。素人の棒読みの類ではなく、頑張っているけど下手くそな大根芝居。台詞を忘れてしまった惨めさを挽回しようと頑張れば頑張るほど要らない過剰さの上塗りになって滅茶苦茶ダサい演技になる辺り、見事だった。プリオは演技が上手いんだなあ。

                 

                 で、落ち目の役者役の彼が劇中で演じる西部劇の悪役の格好が、まるでバート・レイノルズだと思ってみていたら、実際バート・レイノルズをモデルにしたのだとネットの記事で読んだ。バート・レイノルズといえば「トランザム7000」だが、あの作品では、助手席に乗せた若い女が脚を伸ばしてフロントガラスをヒールでカツカツと蹴るシーンがある。滅茶苦茶行儀悪いなと子供心に妙に印象に残っていたんだけど、本作でも助手席に乗せたヒッピー娘がフロントガラスを足の裏でべたべたと触るシーンがあった。この監督は何かと「わかる人はわかる」パロディ、引用の類が多いので、「これももしかして?」とつい思ってしまう。デカいアメ車だと、こういう人って向こうじゃ普通にいるっていうだけのことだと思うんだけど。
                 

                 大脱走のシーンに代表されるように、作っている人間が一番面白いという作品だったと思うが、それが特に鼻につくでもなく客の側も楽しめる点、さすがは手練れの監督であり、楽しく作ったものを楽しめるというのは何かと幸せなことである。

                 

                「ONCE UPON A TIME IN HOLLYWOOD」2019年アメリカ
                監督:クエンティン・タランティーノ
                出演:レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピット、マーゴット・ロビー


                映画の感想:ロケットマン

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                   哀切の唄を見事に歌い上げる同性愛の歌手の苦しみ・その2。「ボヘミアン・ラプソディ」と同じ監督(後から担当した方)による二匹目のどじょう、と書くと悪しざまだが、それなりには面白かった。「ボヘミアン〜」と異なり、主役の俳優が唄っているらしく、これが上手い。監督がミュージカルにしたくなる気分もわかる。


                   共通点は、同性愛者の孤独に付け入って当人を食い物にする悪役と、結ばれたくても結ばれない心の友が出てくるところ。ただし、家族には愛されていたと思しきフレディに対し、本作の主人公エルトン・ジョンは父母からも疎んじられているから本当に孤独で見ていてツラい。ついでに「ボヘミアン〜」におけるフレディのダメな恋愛相手は、精神的な理由で彼を独占しようとしていたのに対し、本作の場合は完全に金目的でまとわりついてくる。こいつは単にビジネスでゲイをやっている似非ゲイなんじゃないかと怒りすら湧いてきたのだった。


                   そして、親に見放される辛さや同性愛の苦悩は自分自身には縁がない分、共感してもそれがどこまでのものかは怪しいものだが、それに対して本作における薄毛の進行のリアルさは映画史に残る完成度であり、個人的にはこちらが遥かに真に迫った。救いはエルトン自身が薄毛を嘆く台詞がないことで、鏡をじーっと見て髪を立てるのか寝かせるのか迷う短い場面が1度あるきり(わかるわかる)。エルトン自身の悩みまで克明に描かれたら最後まで見られなかったかもしれない。それを思うと、ツライ現実をリアルなドラマにする罪深さを思う。

                   

                   そしてまた地味にリアルだったのが、若いころはいかにもロックスターになりそうなロン毛イケメンの盟友バーニーが、加齢による外見(髪)の変化があんまりないくせに年を経るごとに服装がジジむさくなって全体にダサくなっていくところ。最後は十三駅前で見かけたら「こいつ絶対七芸に行くやろやっぱりな」風の長髪オヤジになっていた。これら2人の加齢を見ながら、今の俺に必要なのは、派手なシャツや上着ではないかと思い始めていたのだった。


                   曲の力で傑作になっているけど、物語は伝記ダイジェストみたいでさして出来はよくなかった「ボヘミアン〜」に対し、本作はドラマ主体になっている。曲が生まれる過程を描いているのは「僕の歌は君の歌」くらい。本作における音楽は、要所要所で現れるミュージカルのシーンに活用する格好になっている、のかと思いきや、「ライブ―酒―ライブ」の駄目な日々、というシークエンスでさらっと使われるだけだったりで、割と雑な扱いな印象も受けた。


                   彼の曲の場合、歌詞が叙景詩というのか、事実をそのまんま連ねているだけというのが多いらしい。あまりまとめてちゃんと聞いたことがないので知らないのだけど、作中に出てくる訳詞を見てもまあそんな感じではある。なのでこちらの作品こそ、歌詞にしっかり従ってドラマを組み立てていった方がよかったんじゃないかしら、と思った。


                   音楽ものの映画は、クライマックスに演奏シーンを持ってくると相場が決まっているのだが、本作はそこを少々裏切ってくる。新しい手法に挑む点、好感は持てるが、やはり演奏シーンで盛り上がって終わらないとどうにも不発感は生じるなあ。その点では新機軸の難しいジャンルなのかも。


                  「ROCKETMAN」2019年イギリス=アメリカ
                  監督:デクスター・フレッチャー
                  出演:タロン・エガ−トン、ジェイミー・ベル、ブライス・ダラス・ハワード


                  映画の感想:日本のいちばん長い日(2015版)

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                     季節柄、テレビでやっていた。映像は綺麗だ。全国各地の古い建築物でロケ撮影して映像上集約すると、戦前の東京の中枢部が出来上がるという面白い実験のように思えた。お見事。ちょうど金沢で「空爆されなかった町」の実感をぼーっと感じたばかりだったのでイメージしやすかった。役者もなかなか素晴らしい。東条英機は似過ぎて笑ってしまった。昭和天皇を演じた本木雅弘は、演技と物真似の境界を行く様子がさすが。そして安定の怪優ぶりの山崎努。

                     

                     で、全体としては何でこんなに面白くないのだろうと考えながら見ていた。ずーっとクーラーが効いているような雰囲気だなあと思ったが、自分がクーラーを効かせた部屋で見ているからあまり強くはいえない。

                     旧作との熱量の違いについて比較するのは不公平だとは思う。旧作監督の岡本喜八は二十歳前後のころ戦争の絶望的末期を経験している。戦後生まれでは太刀打ちできない怒りか怨念が制作の背景にあったのは間違いない。主人公格の三船敏郎も相当えぐい経験をしている。三船と同じ役を演じた役所広司が嘉納治五郎にしか見えないのは「いだてん」に基づく言いがかりだけど、あのわけのわからん迫力と比べるのはさすがに酷だろう。同じ尺度からは物足りなく見えるのは必然だ。
                     裏を返せば、同時代の人間しか生み出せないものを、形として遺しているのは後世の人間にとってとても有難いことだといえる。ともかく旧作と本作を熱量で比較してもあまり意味はなさそうだ。しかし、そこを差し引いても面白くない。面白くないというより何かひっかかる。

                     

                     あえて同名の作品に臨む以上、後世の人間が作る意味は、違う切り口を模索することにあるだろう。監督も公開時のインタビューでそんな意気込みを述べていた。その別の切り口が「家族」かあ〜という「226」パターンに、まず肩を落としてしまう。どうしてそちらに行くのだろうと呆れるのは簡単だが、その理由について考察することこそ、どうも重要なのではないかという気がしてきた。

                     

                     同時代人しか作れないものがある一方で、後世の人間だからこそ描けるものもある。
                     本作における代表例が昭和天皇の登場だろう。旧作では影のようにしか登場しないが、本作では一登場人物として出てくる。新版を作るにあたっての制作側の意気込みが窺える部分だ。「工作」における金正日について書いたことと同じで、「歴史上の人物」として消化される時間が経過したからこそ可能になったと思う。

                     同時代だと制作側が「菊のタブー」にビビる、というよりは、見ている側が引いてしまうのを恐れるから描きにくいのだと思う。存命中の人間を別人が演じるのは、それだけでちょっとシラけがちなものだが、加えてめちゃ地位のある存在だから、「ええんかな?」と観客が周囲をきょろきょろしてしまいそうだからだ。しかし死後20年以上もたてば、それはあまり考える必要がない。

                     

                     そして既に述べたように、本木雅弘の演技力に改めて感服させられる分、一定の成功は収めているとは思う。だがこの昭和天皇は、ただひたすらに思慮深く徳高く、勇気をもって「聖断」を下す格好いい人物として登場する。その素晴らしい君主を、衝突や軋轢はあるにせよ全体的には粛々と戴く閣僚たち、という構図になっている。これを見ていると、戦争は起こらなくね?と思えてくる。少なくとももっと早く終わっているんじゃないか。
                     イタリア、ドイツと異なり日本の場合は戦争に導いた明確な個人が特定しにくく、なんとなく全体的にそっちに向かってしまった不気味さがある。そして自国に都合のいい甘っちょろい見積りと精神論への過剰な傾倒で、ズルズルと戦争を続けて破滅に向かってしまった(「日本軍兵士」によると、戦没者310万人のうちの実に9割が1944/1〜1945/8の最後の2年弱の間に集中していると推計)。その誰も止められなかった負け戦をいよいよ終わらせる段が本作の描く日々である。

                     何せ明確な「始めた人」がいないから、終わらせるのも一筋縄ではいかない。そして政府首脳と天皇には、大なり小なり、積極的なり消極的なり戦争遂行に加担してきた事実があり、それを背負って白旗の揚げ役を担わないといけない。その感覚はどんなもんなんだろうか。それを改めて描くのは、現代でも意義深い面白いことだし、より歴史になり、ついでに新資料もあったりで、今改めて描けることもあるはずだ。作り手としてはわくわくする部分だろう。

                     

                     この「終わらせる」部分が、本作ではせいぜいが企業倒産程度のやり取りで描かれている。いや山一の社長を思い出せば、それ以下だ。旧作を見れば、ここに描かれているのが決して過去の特異点の話ではないことがわかりそうなものだと思うが、本作制作陣が現代の我々とのつながりを見出したのは「家族」であり「企業人的苦悩」であった。その方向でしか捉えられない貧しさは、そのまんま日本のフィクション屋界の貧しさを現わしているんじゃないか。

                     

                     そんなことを考えたのは、ちょうど最近、過去に傑作を生んだ映画やアニメの作り手たちが隣人の差別をまき散らして騒動になっているからだ(少し前にはマンガ家や小説家で話題になった御仁もいる)。これが意味するのは、現実に対して底の浅い認識しかないまま、そちらを見ないで人気作を生み出せていたということだ。そういうある意味牧歌的なありようと本作は、どこか重なって見える。

                     アメリカ映画にしろ韓国映画にしろ、自国の過去を見事に描く作品がどんどん生み出されている中で、手練れの俳優集めて金かけてこれ、というのはだいぶシビアな現実だなあ(そりゃあ拙作も評価されなモゴモゴ)。

                     

                    2015年日本
                    監督:原田眞人
                    出演:役所広司、本木雅弘、松坂桃李


                    【やっつけ映画評】ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス

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                       「泉南石綿村」よりもさらに長い3時間半近い長尺ドキュメンタリー。図書館好きとしては気になる内容で、世評もそれなり高い。夏のクソ暑い日に、暗がりで長々と過ごすのもそれはそれでかなり贅沢だろうと思って足を運んだ。うーん、しかしこれ、こんなに長く要る内容かなあ。

                       観察映画というのか、日々の営みの断片を並べているシンプルな構成で、明確な展開があるわけではないので興味の持続が難しい。隣のおっさんはソファーの射殺体(ヤクザ映画なんかに出てくる座ったキリスト像のような姿勢)のように寝入っていた。俺も二度ほど寝落ちした。逆説的に大変贅沢な時間の過ごし方となったな。


                       アメリカの図書館のレベルの高さについては以前も書いた。読んだノンフィクションに登場するアメリカの図書館司書がどれもこれも優秀だった。友人の研究者が調査に行った際も同じような感想を述べていた。いかにも先進国だ。日本でも国会図書館の司書は優秀な人が多い。地域の図書館にもそういう人はいるだろうが、いるとかいないとかとは別の位相に行ってしまっている。本作を見ると、日米では根本的なあり方が違うと痛感させられた。

                       

                       「公共図書館」という名前なのは、市の予算だけでなく、民間の寄付からの2つのリソースで運営されているからで、市立図書館というわけではない。だが「民間の活力」というペラペラスカスカの理屈は登場しないし、税金を使っている以上反米はダメだというアホな話も出てこない。ただし、人気の高い本を購入するか専門書に予算を使うかとか、ホームレスの利用者に対する苦情にどう対処するかといった日本と同じような議論は登場する。


                       日本との違いとして目につくのは、図書館機能の幅の広さだろう。子供向けの教室のような日本にもあるような取組だけでなく、就労支援にパソコン教室、学者や物書きの講演会、演奏会、朗読会、読書会など実に幅広い。エルビス・コステロやパティ・スミスのような有名人も登壇している。著名人を呼んで「にぎわいづくり」という安い発想ではなく(「にぎわい」=何か上手くっている風を味わえるマジックワード)、知的側面からの機会提供ないしはセーフティネットといったところから来ている。

                       例えば会議の中では、自宅にインターネット環境がない市民をどうサポートするか、うまくやってるシアトルに比べてニューヨークは心もとないぞと熱弁している男が登場し、市民が取り残されないためにはどうするかということを繰り返し強調している。

                       

                       これらから見える日本との最大の違いは、登場する職員が総じて誇り高い点だ。なので今年の予算の使い道の話でも議論に熱を帯びる。日本の場合、司書は保育士や介護士などと同様、資格職なのに待遇が悪い。悪いどころか指定管理になっているところが多いので、従来型の司書が消えつつある。それを一手に請け負っている会社の名前が、協賛として作品冒頭にどーんと出てくるから悪い冗談のように見えた。

                       こちらのインタビューを読むと言っている内容がいかにも薄っぺらい。そして薄っぺらいとはあまり感じない人の方が多いと思う。記事自体も好意的に取り上げていて、これが世の平均的な反応だろう。だが本作に出てくる職員と比べると彼我の差はかなりのものだとわかる。あちらさんの社会は、諸々問題含みとはいえ、少なくとも学術分野は先進国なんだなあと思う。こちらはすっかり後退期。そんなインタビュー記事でっせ、これは。

                       

                       というようなことがわかる点、いいドキュメンタリーだとは思うが、さすがに長いと感じた。会議のシーン何回入れんねんといったように、大体わかったと思っているのにまだやるかというくらい似たような場面が繰り返される。とにかく出てくるのは人、人、人。上映前、後ろの親子(?)が、知り合いの誰それが全然本読まんくせに本棚が好きという変わり者で、なので本作を観たいといっていたという笑い話をしていたのだけど、そんなに本棚は出てこない。

                       アーカイブの潤沢さを窺えるシーンや、それがハイレベルで活用されていることをうかがわせる優秀な司書による運営のシーン、あるいは返却図書のシステマチックな整理の場面など、この図書館自体についてわかるシークエンスもあるにはあるが会議や催事に比べるとかなり少ない。ええい本を出せ、貴重資料を出せ、と後半は結構イライラしてしまった。

                       

                       しかし制作側にしてみると、そんなものはとっくにわかりきっていることなので撮ってもしゃあないということなのだろうか。だとすれば、彼我の差は周回遅れの勘定になる。まいったなあ。

                       

                      「EX LIBRIS - THE NEW YORK PUBLIC LIBRARY」2016年アメリカ
                      監督:フレデリック・ワイズマン



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