【やっつけ映画評】15時17分、パリ行き

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     何気なく借りた2本の映画に、偶然にも濃密な関係性があった、という話を書く。
     1本はすでに述べた「人生はシネマティック!」。もう1本は「15時17分、パリ行き」だ。以下、「シネマティック」、「パリ」と表記する。


     「シネマティック」はすでに紹介したように、「ダンケルクの撤退を題材とした映画」を作るという筋立てだ。「ダンケルク」でも描かれているように、英軍の撤退には多くの民間の船が協力している。「ダンケルク」では1隻に代表させているが、実際には何百もの船が活躍した。「シネマティック」では、その中の双子の女性が乗り込んだ漁船を題材にしようとする。「なんと!女性が勇敢にも船に乗って兵隊を何人も救ったらしいぞ」と、政府の情報部局が映画化の可能性を感じ、主人公のカトリンを取材に差し向けるのだが、実態は全くの期待外れだと判明する。双子の姉妹が舟を出したまでは事実だが、途中で故障してしまい、ダンケルクには着いていない。噂だけが独り歩きしてしまい、事実のショボさがバレると恥をかくというので、姉妹は新聞取材はすべて断り、身を隠すように暮らしているくらいだ。

     

     これを娯楽映画にするには無理があるから、脚本化にあたっては、あくまで事実をもとにしたフィクションということで、話に尾ひれはひれをつける格好でドラマチックに仕立て上げていく。ダンケルクには着くことにするし、そこでイケメンとのロマンスがあったり、仲間が命を落としたりもする。実際にはイケメンも死者もいない。姉妹はまあまあシニアで、見かけも性格も地味だが、若く美人という設定になる。これが思い切り男目線のステレオタイプに基づいていることはすでに書いた。

     

     こういう作業は珍しくないどころか、三国志と三国志演義の関係に代表されるように、事実(歴史)を題材としてフィクション作るときの常套手段とすらいえる。華々しい盛り上がりを付け加えるだけではなく、繁雑な部分を省略することもある。どちらも目的はわかりやすく&「おもしろく」するところにあるだろう。

     

     「おもしろく」と「」をつけて表記したのは、おもしろくする脚色の価値観が時代とともに変わっていくからだ。個人的な印象の話に過ぎないが、飾り立てるよりはなるべく事実に即して描くのを重視する、というように実話の扱い方は変わっていったように思う。「シネマティック」の中で、主人公の先輩脚本家たるバックリーは、「おもしろい脚本の定石」を得意気に説諭するが、そこで語られる脚色は、今となっては実に陳腐に聞こえる。一方で「ダンケルクまで行けなかった」というのはそれはそれでむしろ面白いんじゃないか?と思ってしまうのだが、これとて要は、「事実に近い方が面白い」と捉える現代の価値観に俺もしっかりはまっているからだ。

     

     この「事実になるたけ沿う」と鼻につくくらい押しつけがましくやっているのがキャスリン・ビグローだと思う。「デトロイト」の項でも書いたが、この監督は、ドキュメンタリー風味の映像で、救いのはない実話を救いのないまま描き、時にエンドマークをつけることすら拒む。むしろドキュメンタリーの方がまとまりをつけようとする分、ちゃんと終わりがあるもので、その点ドキュメンタリーよりも剥き出しの生身の雰囲気が漂うのだが、なんだか過剰にすら映ってしまう。まあ、題材が毎回目を背けたくなるような現実を扱うだからだろうとは思う。
    で、「パリ」だ。

     

     この作品は、パリ行きの列車内で実際に起こったテロ事件を扱っている。閉鎖状況の中で、テロリストとどう対峙するのか、「エグゼクティブ・デシジョン」や「ダイハード」のヒーロー無し版のようなものを想像していたら全然違った。予備知識なしで見たのでびっくらこいた。イーストウッド監督は、ソツなくうまく作る人、くらいに思っていたが、誤解だったようだ。すごい映画だこれは。

     

     


    【やっつけ映画評】人生はシネマティック!

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       第二次世界大戦中のイギリスで戦意高揚のプロパガンダのため、国策映画の脚本を書く物語だ。

       

       脚本をはじめ、文章を書く行為は絵にならないという話は何度か書いた。作業としてはタイプライターを打ち付けているだけなので、マンガのように「描く作業を見ているだけで楽しい」とはならないし、タイプを叩いて紡ぎ出される物語が傑作だったとしても、それをひと目でわからせることはできない。本作の場合は、「作り話を書く」という作業を通じてやり取りされる事柄が、後になって主人公らの実人生と重なってくるという手法でもって、「書くことについて」を巧くテーマとして扱えている。それは言い方を変えればいわゆる「伏線の回収」であり、結果全体としてよく出来た物語となっている。

       まあそれだけだと「綺麗な脚本の佳作」という評価にとどまろうが(ネットの感想はそういうのが多かった)、本作の場合、書くことについての「制約」がもう一つ大きなテーマとしてある。その点、考えさせられるなかなかの傑作だと思う。

       

       主人公を演じるのは、「007慰めの報酬」でボンドに都合よく篭絡されオイルまみれになって殺される何ひとついいことのなかった女優である。「アンコール!!」でいい役をもらえてよかったと安堵していたら、今度は主役だった。
       彼女が演じるカトリンがなぜ政府機関に雇われ脚本を書くことになったかといえば、男が総じて戦地に行っていて人手不足だからである。国民全体が何らかの形で戦争に協力する「総力戦」となった第一次世界大戦では、字義通り女性も動員された。弾薬製造や補給部隊などで貢献したため、戦後の地位向上の大きな追い風になった。同じく総力戦である第二次世界大戦もその第2ラウンドという側面があるが、本作も男社会における女性の戦いとなっている。この「戦時下」と「女性の進出」という2つの要素が脚本制作に大きく影響する。

       

       作るのは戦意高揚プロパガンダ映画だ。制作趣旨からいって、政府からの注文があれこれとつく。「そういうものだ」と割り切って、愚にもつかないような教育素材のようなものを作るならまだしも、曲がりなりにも娯楽作品を作ろうとしているから混乱や反発が生まれる(実際のプロパガンダ映画も、本の紹介文程度でしか知らないが、大抵は一定の娯楽性を意識して作られたようである。そうでないと見てもらえないし)。「エンジンが故障するストーリー展開はわが国の技術力への不安を助長するからダメだ」とか、アメリカの世論を参戦に向かわせるために(この時期まだ米国は参戦していない)「アメリカ人を重用な役で出演させろ」とか、ちょこちょこと横槍が入り、案がボツになったり急な変更を迫られたり、そのてんやわんやで物語は転がっていく。このアメリカ人にタフガイ風味を期待して軍人があてがわれるのだが、演技がド素人で関係者は天を仰ぐ。それだけでなく、戦争中であるため、途中で俳優が出征したりドイツの爆撃で怪我を負ったりで予定していたシーンが物理的に撮影ができなくなったりもする。

       

       このような物理的制約はともかく、前者の政治介入は、一般的には自由な創作の敵である。
       今の日本でも似たようなことはいくらでもある。スポンサーや芸能事務所の意向が話の展開や出演者の決定に影響するなんて話は週刊誌でちらほら見かける。もう少し悲しく生々しい話だと、自治体の助成金で製作費の一部を賄ったため、内容と全く関係なく当該自治体の観光地が作中に登場する羽目になったという話も聞いたことがある。政治介入に比べれば平和だが、構造は同じなので気持ちのいい話ではない。

       

       ただし、制約が発想を生むというのも事実だ。特に政治介入の場合は受け止め方が難しいが、そういう側面があることは否定できない。

       

       例えば明治の新聞人成島柳北は、隠喩だか暗喩だかを駆使して政府批判の論陣を張り、その仕掛けの痛快さでもって読者をつかんだ。当時は讒謗律や新聞紙条例といった言論取締の法律があり、直接政治批判を論じると逮捕されてしまう。このため法に引っかからないための方便として、メタファーやアナロジーを多用したわけだ(それでも捕まったけど)。これは柳北が、ジャーナリストというよりは風流な文人といった方が近い分厚い教養の持ち主だったから可能だった。逆にもし制約がなく自由に政治批判を出来る状況だったら、そこまで注目を浴びたかどうか。少なくとも彼が書いた凝った論説の出番はない。

       

       同様に、文学の世界でも、内容に統制がかかっている状況だからこそ、普段だったら選ばないようなテーマでもって書かれた作品もある。これは「ある」という話を聞いたことがあるだけで具体例は知らない。いかにもありそうだとは思う。いずれにせよ、瓢箪から駒のような話だ。

       

       物理的制約も同様に、それがかえって功を奏すことはある。金も権力もない自主映画なんかまさしく「撮れる範囲内でいかにうまくやるか」の世界だから、話題の「カメラを止めるな」のように、稀に潤沢予算では思いつかないようなアイデアで作品が生まれることもある(元ネタは演劇の作品らしいが、演劇も制約だらけの表現形式で、それが逆に発想を生むといえる。蛇足ながらかの映画については、異例のヒットに、低予算映画の可能性を云々する評も見られるが、ちょっとナイーブじゃないかしらと思った。自主映画なんか金がないからみんなアイデア勝負をしている。ほとんどが不発に終わるだけで。いわばもの凄い奇蹟みたいなものだから、当該作品がいかに素晴らしくても「可能性」を論じてもあまり意味はないと思う。金ないからしゃあなくやってるだけ)

       

       政治介入でいえば本作の場合、「エンジンの故障はNG」についてはこれといった効果をもたらしてはいないが、アメリカ人の起用については元はなかったラストシーンが加わり、それがカトリンの人生に大きく作用しているだけに、制約から生まれた瓢箪から駒の要素が大きい。

       

       そして「クライマックスの変更」だ。男性陣が出征してしまったため、予定していた展開を撮影することが不可能になる。そこで撮影可能な展開に変更されるのだが、このシーンはかなり印象的だった。多少説明が要る。

       

       


      【やっつけ映画評】1987、ある闘いの真実

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         歴史上の大きな出来事をフィクションの題材にする場合、どこをどう切り取るかが重要になる。重要というか出発点ないしは作品テーマそのものだが、切り取り方をしっかり考えないと内容も長さも収拾がつかなくなる。

         最も代表的でシンプルな切り取り例が「主人公を誰にするか」だろう。ここで以前に紹介した作品でいえば、ニクソン時代のアメリカについて、ウォーターゲート事件を取材した記者の立場から描いたのが「大統領の陰謀」で、FBIの側から描いたのが「ザ・シークレットマン」、ウォーターゲート事件に至る前を「陰謀」の記者の上司や社長を主役に描いたのが「ペンタゴン・ペーパーズ」、辞任後のニクソンをテレビ司会者の視点から描いたのが「フロスト×ニクソン」、当人の伝記映画が「ニクソン」といった具合である。


         欧米の映画だと、この切り取りバリエーションがやたらと多いのがナチスやヒトラーになるだろう。いまだに新作が生まれている。韓国映画でこれに匹敵するのが南北分断や軍政時代だ。本作同様、全斗煥時代の抑圧を扱った作品には「弁護人」「タクシー運転手」があり、「殺人の追憶」も時代設定は同じだ。軍政とはあまり関係のない内容ながら、当時の殺伐とした空気が全体をじんわり支配しており、これもまた軍政時代の切り取り方の1つとみてとれる。

         

         本作は、全斗煥時代の韓国を舞台に、聴取中の参考人の不審死を巡って、隠蔽を計る警察と真実を暴こうとする検察官の戦いを描くことで軍政時代をえぐったミステリー、かと思ったら全然違った。


         タイトル通り、1987年の韓国を描いている。切り取り方でいえば、かなりの大枠大風呂敷だ。誰か1人の生きざまや何か1つのトピックでもって軍政時代を象徴させるというような堅実で手慣れた手法ではない。まるで素人のような欲張りなくくり方を、破綻なくまとめ上げている。その上娯楽性も十二分にあるから恐ろしい傑作だ。実在の人物含め、かなり多くの登場人物が入り乱れる構成だが、このこと自体が韓国社会が身をもって知りえた抵抗の形を示しているのだと思う。

         


        【やっつけ映画評】判決、ふたつの希望

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           予告編を見て面白そうだと思って早速見に行った、予告から抱いた印象とはかなり異なる内容で、予想以上に複雑な作品だった。「ただ、謝罪だけが欲しかった」というキャッチコピーは、片面しかとらえていない。

           

           重いテーマを扱っているが、「実話に基づく」ではない。今時重厚な作品の多くは「実話に基づく」だらけにつき、作り話はかくあるべしと見せつけられた点は心地いい。
           といっても物語は、現実世界のシンドイ問題をしっかりトレースしている。民族や宗教の争いを、個人レベルに落とし込んだらどうなるかという構成は「ノー・マンズ・ランド」と似ているが、深い絶望で終わるあの作品とは異なり、希望が描かれているので助かる。なぜあちらは絶望で、こちらは希望なのか、という点が本作の大きなポイントでもある。

           

           法廷モノだ。中盤以降の法廷シーンは、「弁護人」「否定と肯定」とダブって見える緊迫した展開を見せる。民族や差別の問題が絡むから、特に後者と重なるが、ただし法廷モノと聞いて予想するのとはかなり異なる。本作における舞台装置としての裁判所の使い方は、かなりおもしろいと思った。大袈裟にいうと「なるほど、そうきたか」だが、別にトリックストーリーというわけではない。


           発端は理解に苦しむ喧嘩から始まる。舞台はレバノン。正直、よく知らない国だ。地図で場所は示せるから日本人の平均よりかはよく知っている方になるかもしれない。知った人間に言わせると、料理が相当美味しいらしい。ベイルートで暮らす四十男のトニーが、自宅ベランダの草木に水をやっていたところ、この住宅街の補修工事にやってきたヤーセルとトラブルになる。

           このいざこざは、互いの態度がちっともついていけなくて面食らう。今時の若手漫才師がよく使うツッコミでいえば「情緒どないなっとんねん」と言いたくなるトニーの態度(薬物中毒者かと思った)に、思春期のガキじゃあるまいしというヤーセルの強情さが加わり、些細なもめごとが大袈裟になる。とにかくヤーセルがトニーに「クソ野郎」と罵声を浴びせたことで、トニーは謝れ!と迫ることになる。

           

           予告編の印象や「謝罪が欲しかった」というコピーから、マジョリティのヤーセルの罵倒に、マイノリティのトニーが怒った、という話かと思ったら逆だった。トニーはレバノンではマジョリティ側になるキリスト教徒で、ゴリゴリの極右政党の党員でもある。一方のヤーセルはパレスチナ難民で、トニーが支持する極右から排斥を訴えられている側になる。

           

           さて。なかなか謝らないヤーセルにトニーはキレて差別的な言葉を浴びせる。これにカッとなったヤーセルはトニーを殴打して怪我を負わせてしまい、結果告訴されて裁判になる。原題「L'INSULTE」は侮辱という意味で、この互いの罵倒を指しているのだろう。
           民事と刑事が混じった審理形式のようで、日本のような検察官対弁護士ではなく、当人同士の訴訟で有罪無罪を争うようだ。一審では互いに弁護士をつけず、トニーが敗訴しヤーセルは無罪放免。舞台は控訴審へ移り、ここから話が大きくなっていく。

           

           注目したい点は2つだ。1つは、トニーやその支持者(既に述べたようにレバノン社会では多数派側)が「やつらは優遇されている。疎外されているのはこっちだ」という在特会のようなロジックで自己正当化している点だ。以前からそのような主張の極右政党を支持しているが、自身が傷害の被害者となり、加害者は一審で無罪になっているから、「自分たちこそが虐げられている」というロジックに確信を深めることとなっている。この点は後で触れる。
           もう一つは、法廷モノでありながら、裁判は主役ではない点だ。ヤーセルは一審段階から殴打自体は認めているし有罪でいいと思っている。トニーが求めているのは訴追でも賠償でもなく謝罪だが、裁判の仕組み上謝罪をするしないではなく有罪無罪が争われるのでトニーの要求には直接答えられるものではない。ある意味、落とし前をつけさせるというメンツのために仕方なく裁判という手段を選んでいるように見える。ヤーセルが謝れば、トニーは法廷には訴え出ていない。

           

           だが民族対立の構図を象徴しているような裁判だから、控訴審はニュースにもなり、法廷の外では双方の立場に寄った外野同士が沸騰して衝突が勃発する。レバノンは南隣にイスラエルがいるためパレスチナ難民も多いのだが、単に国民×難民という対立図式があるだけなく、歴史的にレバノンはイスラエルと戦争しており、パレスチナ難民を否定することは「憎きイスラエルを利する」と考える層もいる。なので余計にややこしく盛り上がるわけだ。しまいにトニーが党員の極右政党は「うちの主張ではない」とニュース番組で釈明するし、大統領まで出てきて国を潰す気かと2人に説教する。大統領が会社の部長か校長先生くらいのノリで登場するから不条理コメディのようにすら見えるが、コメディではないので不条理な深刻さだけがあることになる。

           

           要するに、個人と個人の争いだったはずのことが、民族対民族ないしは党派対党派のような対立に主語が拡大してしまったということだが、考えてみれば差別なり差別発言なりは相手を個人ではなく「ヨソモノ」や「別の党派」と大づかみで見ることによって引き起こされるものだから、拡大したというよりは、この事件の背景が炙り出されたといった方が正しい。

           


          映画の感想・新旧4本

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            ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男

             「バトルオブセクシーズ」を見損ねたので、代わりと言っては何だがでテニスものを鑑賞した。大会5連覇がかかる終始無表情のチャンピオン。ボルグと、暴言の数々で悪童と呼ばれた新星マッケンローの対決、という実際にあったテニスの試合が題材となっている。天衣無縫の天才ハントと精密機械ラウダの対決を描いた「ラッシュ」と似たような話かと思ったら、どちらも付き合いづらい変人同士の対決という点、「完全なるチェックメイト」に重なって見えた。いずれに対しても感情移入できないので少々キツい作品だ。

             対照的な2人だが、子供のときはちょうど正反対だったことが描かれている。ボルグは癇癪持ちの困ったガキで、マッケンローは親のプレッシャーにがんじがらめのいい子ちゃんだった。ボルグはその剥き出しの感情をコントロールすることで強くなり、マッケンローは自分の殻を破ることで才能を開花させたのだろう。こういう天才的な人物はどこかに変人性が伴うものだし、勝利の重圧は常人には想像つかないものだから、ボルグは迷惑なほどの神経質になるしマッケンローは悪態をつく。だけど、大谷サンに代表される今時のいたって大人な爽やさと平然と同居できている選手と比較すると、割に合わないというか、彼らの生きづらさとは何なのだろうと同情してしまう。
             映画は、1980年のウインブルドンを1回戦から追いながら、やがて決勝で相まみえて死闘を演じる2人の生い立ちが、合間合間に差し挟まる構成だ。クライマックスの決勝のシーンは息詰まる緊張感があって見事だが、それまで語られてきた生い立ちの部分、つまり実は癇癪持ちを必死に押し殺してここまできたボルグと、いい子ちゃんを捨てて悪童になったけどそんな自分が好きではないマッケンローにとって、この試合の位置付けとは何なのかはよくわからなかった。冒頭で「この試合が彼らの人生を大きく変えることになった」と大仰に字幕で宣言しているから、余計に「?」が残った。
             毎度のことだが、欧米の映画がこの手の題材をやるときのそっくり度合はえげつない。特にボルグは本人だろこれ。

             

            「BORG/McENROE」2017年スウェーデン=デンマーク=フィンランド
            監督:ヤヌス・メッツ
            出演:スベリル・グドナソン、シャイア・ラブーフ

             


            希望のかなた

            「ル・アーヴルの靴みがき」の監督が、「ル・アーヴル〜」同様、難民問題を扱った作品だ。台詞ではなく映像で伝える技に優れた、教科書のような作品を撮る監督であるが、台詞が少なく淡々としているのですぐに内容を忘れてしまう。「ル・アーヴル〜」も、何か面白かった、くらいしか覚えていない・・・。
             時事性が強く深刻なテーマながら、とにかく抑揚がない。だのに温かくて笑える。特に「Imperial Sushi」のシーンは爆笑してしまった。何がそんなに可笑しいのかよくわからないのだが、登場人物たちが一所懸命なのが笑いを誘うのだろう。
             「フィンランド解放軍」を名乗るレイシストのチンピラ以外、善人と役人しか出てこない。妹の件を除けば何かが大きく前進するわけでもなく、妹だってこの先どうなるかが一番重要なのだがそこは描かれない。この大きな問題を、そこで収めてしまうのか、という描き方はかなり独特だと思うが、それがフィクションの切り口なのだということでもある。
             結局のところは目の前にいる人と人で世界はできているということか。言葉にするといかにも安いが、台詞が少ない映画だから言葉にすること自体分が悪い。ギター弾きが歌うシーンがやけに多いので、詩のような作風ともいえようか。俺にとっては相当に疎い分野であるが、どうにかパクりたい描き方だとも思う。

             難民審査のくだりは、その四角四面さに監督の静かな怒りを感じるが、日本の入管に比べればきちんとマトモな仕事をしているだけに見えてしまう。伝えられている人権侵害をこの監督のように描くことは可能だろうか。

             

            「TOIVON TUOLLA PUOLEN」2017年フィンランド
            監督:アキ・カウリスマキ
            出演:シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ

             

            スーパー・チューズデー 正義を売った日
             アメリカ大統領選を題材にした作品だ。民主党の有力候補のもとで選挙スタッフで働く優秀な青年が、清廉潔白な辣腕政治家であるはずの候補者の不正を知ってしまうという筋立てである。
             自らも積極的な政治的発言や活動で知られるジョージ・クルーニーが監督と候補者役を務めているだけに、それっぽい外見も相まって妙に説得力があって期待が高まるところなのだが、クリーンな候補者の裏の顔が実は下半身大胆男だったというのが、今の世相に照らすと矮小に見えてしまう。一人の女性の人生がぶっ壊れているから、重大な事態なのであって、矮小に見えてしまうこっちの感覚がおかしいのだけど。今はそういう時代になっちまってるんですわ、ということは再確認できる。
             最後は「え?終わり??」という締め方だが、これは候補者の不正を告発するかしないか「君ならどうする?」と突き付けているということだろうか。だとすると、口をつぐみそうになる理由は、保身や上昇志向よりは「大義」を設定した方がより悩ましくなったと思う。「確かにこの女性は不幸なことになったが、国のためにはこの男が必要だ」というような理屈である(一応そういう側面も描かれているが、話の展開上隠れてしまっている)。だとすれば、候補者を演じるのは、もっといかにも奔放そうな雰囲気の俳優が演じた方がいいと思う。いや、それよりも、性欲系ではない別の醜聞を設定するべきか。
             アメリカにしろ日本にしろ、従来なら辞任必至の問題が浮上してもそうなっていない理由の一つは、政治家に何か問題が発生して責任を取ることに国民が飽きてしまったということがあると思う。「そりゃあ不適切かもしれないけど、職責を果たすことが優先でしょ」という作用が働き寛容になる。無論、辞任にまでは当たらないものも中にはあるだろうが、一見些細に見えて、これを許してはならないという問題もあるはずで、打つべき釘はしっかり打っておかないと、後でたたって丸ごと崩壊する深刻な事態を招きかねないものである。
             本作の場合は人が死んでいるので看過できない事態なのだが、一見どうでもよく見える失言とか、そんな不祥事の方が問題提起としては有効だったのでは。たかだか7年前の作品だが、政治なり世相なり状況は大きく変わってしまっている。

             

            「The Ides of March」2011年アメリカ
            監督:ジョージ・クルーニー
            出演:ライアン・ゴズリング、ジョージ・クルーニー、フィリップ・シーモア・ホフマン

             


            アンコール!!
             年寄りの合唱団で歌うことを楽しみに生きている病気の妻と、頑迷な夫の物語だ。「007慰めの報酬」で都合よくボンドに(瞬時に)篭絡された上、オイルまみれにされて殺される何一ついいことのない役人を演じた女優が、とてもキュートな音楽教師を演じていて、余計なお世話ながら安堵した。
             夫は妻が病を押して参加することを快く思っておらず、しばしば「妻を守るために」合唱仲間から距離を取らせようとする。妻が没した後は(全く劇的ではない死去のシーンがリアルでちょっとつらかった)自ら進んで孤独を選ぼうとする。その姿に「愛、アムール」を思い出してしまったが、そうならなかったのはつながりだったり歌だったりで、その点「希望のかなた」とも重なってくる。世界は人であり歌なんだな。
             イギリス映画だが、イギリスで合唱というと「ギャレス・マローン」を思い出すが、あれと同様、審査員がやってきて評価が高ければ本選に出れるという大会にこの合唱団はエントリーする。「ギャレス〜」では、合唱の選曲やスタイルというのは幅が広くて自由度が高いものなんだなあと目から鱗だったのだが、それを見たことがある分、クライマックスの「一旦失格になる」流れは要らないんじゃない?と思った。


            「SONG FOR MARION」2012年イギリス
            監督:ポール・アンドリュー・ウィリアムズ
            出演:テレンス・スタンプ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジェマ・アータートン


            【やっつけ映画評】スターリンの葬送行進曲

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               邦題がふるっている。スターリン死後の権力争いのドタバタをコメディタッチで描いた作品、という概要によくマッチしている。冒頭に演奏会も出てくるしで。「チャイルド44」同様、ソ連が舞台なのに台詞が英語なのは、ロシアでこんな挑発的な内容が映画に出来るはずもないだろうから諦めるしかない。ただ、コメディにした狙いはいい選択ではなかったのではと思った。


               「清須会議」と似たような話だ。絶対的な独裁者(それはつまり恐怖の支配者でもある)の死後、取り巻きたちが合従連衡しつつ互いを出し抜こうとする。最終的に権力を握るのがフルシチョフというのは知っているが、途中がどうなのかというのは、専門家を除けば余程のロシア好きか社会主義者でなければ知らないのではなかろうか。当然俺もよく知らない。歴史モノの一つの醍醐味は、途中はどうだったのかの臨場感を味わえる点だ。
               単に経緯についての知識を仕入れるということではない。例えば織田や武田が強大な時期に、「実は弱小徳川につくのが結果的には一番有利」とは誰も予測できないわけで、その先の見えなさを後世の人間が実感するのは難しい。フィクションはそれを疑似体験できる点で歴史の解説本とは異なる。なので登場人物が必然の結果に向かうかのように描かれる歴史モノはあまり面白くない。「西郷どん」は割とその印象が強くあまり楽しめない。

               

               本作の場合、後継を争うマレンコフ、ベリヤ、モロトフ、ブルガーニン、カガノーヴィチ、フルシチョフのいずれについても、よく知らない俳優が演じている。知った俳優はピアニストを演じたオルガ・キュリレンコくらい。スターリンの息子ワシーリーを演じた俳優もやけに男前だったが、いずれも脇役だ。要するに、主要プレイヤーに主役っぽい俳優が誰もいないところが、カリスマ死後の先の見えなさをよく表している。

               

               ブラックコメディなので、史実を正確になぞっているわけではないということは見る前から想像はしているが、一方で、ネット情報によれば史実も結構踏まえているようだ(原作が衒学趣味のようにトリビアルな知識を盛り込んだマンガらしい)。例えばラストの裁判〜処刑のシーンについて、「あんな殺し方ありえねー」と感想を書いている人がいたが、ああいう死に方だったという説もあり、それを採用したとみられる。スターリンがぶっ倒れたとき、レコード機に演奏会の録音が載っていたのも本当のことのようだ。
              このような、一見作り話とみえて「実はホント」「実はホント説あり」といった要素が散りばめられているのは、どこまでが本当でどこからが創作か気になりだすから楽しい。「おんな城主直虎」でもよくあった。

               

               このような臨場感を整えた上で、問題はそれらをもって何を描くかだ。
               本作で強調されているのは、共産主義体制がしばしば陥る教条主義的な硬直性や回りくどさ、官僚主義的な責任の押しつけ合い、全体主義的な揚げ足取りといったことがまずある。スターリンの居室で大きな音がするが、勝手なことをして逮捕されたくないので、警備係は様子を見ようとせずにひたすらドアの警護を続ける。やがて発見されまだ息があるものの、医師を呼ぶには閣僚たちの議決がいる。独裁者に触れられるのは閣僚だけなので、その辺に警備の屈強な若者がいくらでもいるのに、オッサンたちがひいひい言いながら巨体を抱えて運ぶ。ところで有能な医師は全員収容所だから、藪医者しかいない――、といった具合である。
               もう一つ強調されているのは、権力争いの醜悪さで、スターリンの娘が到着すると、我先にお見舞い申し上げて歓心を買おうとするといった、わかりやすい出し抜き合いをプレイヤーたちは必死に演じている。

               

               独裁者死後の後継争いというせっかくの題材だが、これら2つはメインにしても仕方がないんじゃないかというのが感想だ。
               先に2つめからいえば、ゴマすりそれ自体を嗤っても安直な権力批判にしかならず、古さを拭えない。

               

               1つめの共産主義体制を嗤う部分は、制作しているのがいわゆる西側諸国になるので、どうしても露悪的に見えて鼻白む。対立していた片方が、相手の愚かさを皮肉るのは党派性がつきまとうからだ。ロシアでは本作が上映中止となり、いかにもロシア政府の閉鎖性を現わしているのだが、旧西側の国に言われてムっとする気分はわかる。西側が完全正義ではないし、西側にだってこの手のお役所的な滑稽さはいくらでもある。「ザーコーヴ」に反発する日本人と似たような感覚だといえる。
               むしろ、今時の世界で問題になっているのは、お役所仕事を徹底的に攻撃した結果起こっている制度の歪みや主旨の喪失だろう。「わたしは、ダニエル・ブレイク」で書いたことが該当する。特に彼らは政府の中枢を担う権力者なので、緊急事態とはいえ法手続きを重視していること自体は、嘲笑するよりその意義を改めて考えてしかるべきだと思う。ま、人命は優先されてしかるべきだと思いつつ、ぶっ倒れているのがスターリンなので助けなくていいんちゃうともつい思ってしまいつつ、であるが。

               

               その点でいうと、ドグマ的だったはずの彼らが、正当な手続きを踏まずイレギュラーな方法で狎亀銑瓩鮗孫圓垢襯薀好箸海修警句とすべき点だろう。恐怖支配の源がいなくなっても、それが継続されてしまう点だ。以下はネタバレになる。

               

               


              【やっつけ映画評】悲情城市

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                 子供のころ、NHKで放送していたような記憶もある。少なくともタイトルだけは知っていた(「非情」ではなく「悲情」だというのは最近知った)。が、いざ見ようと思ったら「セデック・バレ」よりも困難だった。台湾映画を代表する作品だと思うが、日本では若干幻の作品と化している。

                 

                 DVDは通販で買えるがためらう価格である。レンタルはないし、動画配信もネット上の検索では引っかからない。大阪市立図書館は在庫を持っているがリクエスト大好き大阪市民によって結構な順番待ちとなっている。

                 

                 おとなしく順番を待つしかないのかと思ったら、津の図書館に置いていた。観劇の際に立ち寄ったのは本作目的である。既に書いた事情により、1/3くらいを残して途中でやめたのは、大阪府下でも所蔵があるのを確認していたからでもある。
                 というわけで後日、茨木の図書館に行った。津同様レーザーディスクの所蔵で貸出禁止である。館内の視聴コーナーは津のとき同様埋まっているのだろうかと案じつつ、所蔵している中央図書館にいくと視聴コーナーそのものがないという予想外の展開だった。

                 

                 「いやあ、うちにはもう置いてないんですよ」と、市内の別の図書館での利用を案内された。ただし所蔵はこの中央なので、わざわざ再生機器を置いているところに移送してみることになる。なんのこっちゃ。それにしても事前に電話で聞けばよかった。そう後悔したのは、「中央」という名前の割にはアクセスがやや悪いからで、新駅の総持寺から歩ける距離だと地図で見当をつけていたのが、猛暑もあって無謀な挑戦になってしまったのだった。
                 移送の手続きを取って、後日再生機器のある別館を訪れた。開館前に行くべく準備したつもりが少し遅れを取った。案の定、開館と同時に視聴コーナーは占拠されていた。というか、1か所しかないので1人利用の時点で満席となる。電車とバスを乗り継いできているので2時間待つよりほかない。幸いここは図書館なので、時間の活用の仕方はある。休憩がてら、外の喫煙所で煙草を吸っていると、屋根にブルーシートをかけた家屋が目立つのに気付いた。震源地が近いからなあ。

                 

                 以上のように手間取りながら、大作の鑑賞を終えた。考えてみるとレーザーディスクで映画を見たのは初めてだが、こんなに画像が粗いんだな。VHSと大して変わらん印象だった。そのせいかどうか「本作の影響でロケ地の九份が有名な観光地になった」と語られる説は本当なのだろうか疑わしく思えてしまった。町の印象があまり感じ取れなかった。

                 

                 大河ロマンの類だ。NHKの歴史モノではなく、海外ドラマでよくある「一家の歴史」を描くテのやつである。冒頭、玉音放送から始まり、台湾から日本人が引き上げていく。半世紀続いた「日本」の時代が終わりを迎え、田舎町の顔役的な一家である林家にも新たな時代が訪れる。この林家と親類や知人らたくさんの登場人物が入れ替わり立ち替わりする込み入った構成だ。「〇〇都市」というタイトルをこれまで演劇で何本か見たことがあり、総じてどれもしょうもなかったが、あれらの演劇がなんとなく理想として思い描いていた世界が本作にはあるのではないかと、演劇的な雰囲気を多少なりとも感じながら見た。まあ単に、登場人物が入れ替わり立ち替わりするところと、視界がカラフルなところが共通しているというだけなのだが。

                 

                 ある一家(ないしはある町)がたどる波乱に満ちた悲喜こもごも。本作は手短にまとめればこうなる。大河ロマンの定義がまさしくそういうものだろう。その一家なり縁者なりが、実際に起きた歴史的な出来事に翻弄される様子を描くことで、一般人の視点から歴史の激動をリアルタイム的に描くところに魅力がある。本作の場合は、そのような手法で炙り出すテーマが、まさしく「台湾」そのものといっていいだろう。

                 


                【やっつけ映画評】花蓮の夏

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                   大学在学中に99年に台湾で起きた大地震に遭遇しているので「あの頃、君を追いかけた」と同時代の若者を描いた格好になっているとわかる。被災はするが次の場面ではもう日常に復帰している描き方も共通しているが、作品のタッチはずいぶん異なる。本作はかなり面白く見た。


                   若人たちの三角関係を描いている。ただし同性愛を含んでいるのがポイントだ。ちょうど今の日本には図らずしもタイムリーな内容。まあ同性愛への理解云々以前のはるかに幼稚でそれだけに深刻な事態だが。


                   主人公ジェンシンは、多動の症状のせいでクラスのトラブルメーカーだったショウヘンの友人になるよう担任から頼まれる。友達が出来ればショウヘンの問題行動もなくなるとの思惑だった。2人は友達同士となりそのまま同じ高校に通うことになる。ショウヘンは、担任の友達作戦が功を奏したのかスポーツの得意な偉丈夫に成長しており、ジェンシンは内気な美青年となっている。ジェンシンと同じクラブの寡黙な女子ホイジャは、ジェンシンのことが好きなのだが、彼はどうやらショウヘンに恋心を抱いていた。ついでにショウヘンはホイジャを意識し始める。

                   

                   整理すると、ホイジャ→ジェンシン→ショウヘン→ホイジャというじゃんけんの構造になっている。三角関係はそれだけでも当事者はつらいものがあろうが、ジェンシンの場合は同性愛なので余計に大変だ。お気楽なショウヘンが、大学のクラスメイトの女性陣について「でっかい男みてえな女ばっかだぜ」などと軽口をヘラヘラとたたいて無邪気にジェンシンの心を串刺しにする。ホイジャは好きなジェンシンにフラれると同時に、ジェンシンの気持ちを知るだけにショウヘンからの求愛や日常会話にいちいちややこしさがつきまとう。ジェンシンの気持ちも考えなさいよ、と言えればいいのだが、デリケートな秘密につき言えない。


                   ただし、ここまでだったら予想の範囲内ではあるところ、本作は一見お気楽なショウヘンにも焦点が当たっているところが見事だった。

                   


                  【やっつけ映画評】再会の食卓

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                     台湾映画ではなく中国の制作だが、テーマは中台の分断である。
                     国民党の兵隊として上海から台湾に退却させられた夫・劉燕生と、上海に遺された妻・玉娥。生き別れた2人はそれぞれの地で新たに家庭を築くが、劉が妻に先立たれたのと台湾海峡両岸の雪解けが進んで訪中が可能になったことが重なり、劉が上海の玉娥宅を訪れるところから物語が始まる。実のところ劉は玉娥を台湾に連れて行こうと考えているのだが、玉娥には長年連れ添った夫・陸善民がいるのだった。

                     

                     分断という歴史の大きな出来事を、個人レベルに焦点を当てる着想は個人的には好物だ。爺さん婆さんの三角関係という構図も面白いし、分断が横たわる分、迫るものがある。なにせ生き別れ当時玉娥のお腹にいた子供が、すっかり禿げあがっているのだ。こんな残酷なことあるかえ。自分も薄毛だからって、禿頭のことを言っているのではない念のため。抑制のきいた演技、特に最も気分が揺れているはずの玉娥の表情が大して変わらないところも、小津映画のような雰囲気を生んでいると同時に迫るものがある。「あの頃〜」のようなライトな台湾ラブストーリーを見た後だから余計に。

                     

                     ただし、映画は割と拍子抜けする格好で終わる。まず拍子抜けするのは現夫の陸だが、これは拍子抜けというより腰が抜けた、むしろとても面白い展開だと思った。劉のリスタートの思惑に玉娥も惹かれ同意する。しかし陸が何と言うか。いざ切り出そうとすると、実に人のよい陸のいい面がにわかに目についてとても言い出せない(名は体を表す)。そこで劉が意を決して切り出すと、陸は「ええよ」。ええんかい。まるでスリムクラブの漫才だ。あっさり同意する陸の態度は人格がおかしいようにも見えるが、だからこそ分断の時代を経験した年寄りにしかわからない感覚に見えて、これもまた胸を打たれた。

                     

                     拍子抜けはこの後で、タイトルの割には食事のシーンがあまり印象に残らない上メタファー的な機能も薄かったことと、結局何の変化もないことだ。前者については、同じ「食卓もの」の「恋人たちの食卓」の料理が実に美味そうだったから余計に目についた。だけど後者については、別のことも考えた。

                     

                     「ええよ」と陸の同意は得たものの、その後いろいろあって、結局劉も玉娥も当初の計画を断念し、劉は一人上海を後にすることになる。結局、中途半端に玉娥の心を揺さぶっただけで何だか可哀想なのであるが、劉や陸にはこれといって変化がなくただの元の木阿弥に見える。また、当初から我関せずの態度を取る玉娥の長男(つまり陸一家の中で唯一劉の血を引く子)は、最後まで劉に心を閉ざしたままで好転もなければ悪化もない。

                     

                     これを描き方が浅いとくさすのは簡単なのだが、もしかすると中国制作の映画では、この政治的にデリケートなテーマを描くのはこれが限界なのではと思った。そしてさらに深読みすると、上海に残ることに同意したとはいえ未練たっぷりに劉と涙の別れをする玉娥と、諦めを漂わせながら去っていく劉は、大陸と台湾、それぞれのありさまに重なって見えなくもない。
                     大陸側は「1つの中国」にこだわり、台湾側は「中国」であることを捨て「台湾」としての独自路線を進もうとする、その政治状況と彼ら元夫婦の姿は割と似ている。だとすると、中国でこんな危なっかしい映画を作った監督の姿勢はにわかに挑戦的に見えてくるのである。

                     

                    「團圓」2009年中国
                    監督:王全安
                    出演:盧燕、凌峰、許才根


                    【やっつけ映画評】恋人たちの食卓

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                       邦題のせいだろう。特に期待せずに見たのだが、とても面白かった。主人公(?)の女優・呉倩蓮が池上季実子に似ていると思いながら見ていたが、そのうち満島ひかりに見えてきた。彼女が80年代風の髪型と化粧をしたらこんな具合になりそう。特に似ているとも思えない2人の女優が呉氏を真ん中に置くとグラデーションでつながる。


                       冒頭の料理のシーンから釘付けになる。台湾のかの有名な圓山大飯店で料理長を務めていたという設定の父親が、自宅の台所で宮廷料理的な豪華な中華を調理している姿がテンポよく描かれる。妙に楽しいシーンだ。でかい包丁を細かく扱う器用さに代表されるように、中華は豪快なようで繊細で、そこが映像向けなのかもしれん。宮廷料理っぽいせいか、工程がやけに多く複雑で、そこもまた惹き込まれる。

                       

                       この引退したシェフ・朱は、妻を亡くした頑固おやじで、年頃の娘三人と同居している。週末は四人でこの豪華料理を囲むのがルールのようで、三人娘のそれぞれの平日の悲喜こもごもが同時並行で進みつつ、定期的に食いきれない豪華な晩餐になる。「三姉妹」がデカい家に同居している点と長女と次女が勝気な点で「海街diary」を思い出した。「小津安二郎のような」という評も目にしたが、あれらの作品と異なり、意外なことにやけに展開が早い。冒頭の調理シーンと同じくスピーディで、そこが本作の大きな魅力だと思う(長女が決意の変貌を遂げるシーンなんか最高)。小津というより、地味にまとめていると見せかけて結構ぶっとんでいる点、川島雄三だと思った。


                       家族というのは、特に親が保守的な場合、ルーティンの比重が高い。子供たちが大人になり人格が確立してくると、個人の人生と家族のルールがぶつかりあってくるからそのうち煩わしくなる。とはいえ、こういう家庭の親は家族に対する責任はきちんと果たすから、自身が自身の選択だけで生きて行こうとするのには多少なりとも罪悪感が伴ってくる。特にこの家庭の場合、母親はすでに亡く、父は高齢だから尚更だ。
                       

                       そういう立ち位置を最も表しているのが、すでに紹介した池上ひかりこと次女の家倩だ。「キャリアウーマン」という言葉がまだ空洞化していないころ、つまり女性の社会進出がまだ新しかったころに男に伍して敏腕ぶりを発揮する優秀な女性で、最初に「家を出ようと思う」と切り出すのも必然に見える。それがどんどん裏切られる展開になっていくわけであるが、男系の色合いが濃い社会では、女性の場合、「結婚する」は「家を出る」と同義であるところがポイントだ。一見時間が止まったような家族だが、結婚によって大きく変動していく。

                       

                       子供にとっては家族は世界同様、最初からあるものだ。次女の視点に立てば、途中で下に妹が生まれ、母が死去する変化はあったものの、絶対的ともいえる父親がいて、煩わしい姉がいることには子供のころから変わりがない。だから煩わしいと感じると同時に切っても切れない自己存在の確認の場でもあるわけだが、親にとっては自分一人から始まり、伴侶を得て娘が一人ずつ増えていく格好になる。家族はあくまで一つの段階であって、所与の世界ではない。結婚によって家族の構成が大きく変動する中で、父親も一つの決心をするのは自然といえば自然だ。その選択が驚愕のどんでん返しなので家族モノのくせにミステリのような風合いが漂う。「ショックで気を失う」というのは映画やドラマでおなじみの演出ながら、はじめて説得力を感じる卒倒を見た気がした。それくらいのドンデンだった。

                       

                       こうして父と娘たちそれぞれが自分の道を進み出し、すっかり時間が止まったようだった4人の食卓を終焉を迎える。そういった中で家倩がラスト付近で見せる涙と選択が、家族と食卓(=それまで暮らしてきた家)の関係性をよく表していると思う。面々は誰も死んでいないし、遠くに行ったわけでもないから家族自体は相変わらず存在しているのであるが、今までの食卓がここにあり、これからもあることの意味は、実に煩わしくも憎たらしくもあり、そして同時に美しくもあり愛おしくもある。

                       

                      「飲食男女」1994年台湾
                      監督:アン・リー
                      出演:郎雄、楊貴媚、呉倩蓮



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