【やっつけ映画評】グリーンブック

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     肌の色にはじまり、何から何まで異なる2人の男が、アメリカ大陸を車で巡りながら、次第に互いへの経緯と友情を深めていく。いってしまえば手垢にまみれた構成ながら、アカデミー賞をにぎわせたのは、差別がテーマになっている点、なのは自明でありつつ、本作で描かれている差別はちょっと込み入っている。なるほどなあと頷きつつ、「音楽の力」についても考えさせられる作品だった。
     何もかも異なる2人の男の友情という点では「最強のふたり」と似ているが、本作の「2人」は、肌の色を基準にすると、あの作品とはちょうど正反対の関係になっている。

     

     イタリア系白人のトニーは(演じているのは北欧系の人だから、あんまりイタリアっぽくない印象)大柄で粗野で口の減らない男で金がない。勤め先のクラブが改装工事で閉鎖されたから一時的に失業中でもある。

     黒人のドクター・シャーリーは、幼いころから音楽の才能に溢れ、留学経験があり、すでにアルバムが売れているのだろう、暮らしぶりは豪華で、ついでに威厳と品格を備えていて口ぶりや物腰は極めて上品だ。彼の音楽仲間は相当に彼を尊敬している。

     

     所得や社会的地位からすると、トニーにとってシャーリーは雲の上の存在だ。しかし舞台は60年代初頭である。ちょうどキング牧師が活動を活発化させているころになるが、ということはこの時代、シャーリーには入店できないレストランや泊まれないホテルが公然とあるということだ。服は売ってくれても試着はさせてくれないし、夜間外出すると逮捕される等々、いたるところに厳然たる線引きがあり、要するに人間扱いされていない。

     

     対するトニーは白人だから、シャーリーのような不当な目には遭わないものの、イタリア系だからアメリカ社会での立場は低い。序盤で「ゴッドファーザー」でも見たような、アウトローと堅気の線引きが曖昧なイタリア系コミュニティの様子が登場する。全体的には貧しい。そしてブルーハーツの歌がごとく、弱い者がさらに弱い者を叩くの法則よろしく、コミュニティの誰も彼もが汚い言葉で黒人を侮蔑する。トニーも御多分に漏れず。

     

     差別の部分はさておき、このトニーは、フィクションに登場する典型的な黒人キャラクターをなぞったような人物といえる。貧しいがたくましくて腕っぷしも強く、がさつで口が減らないが、根はイイやつ。ついでにアメリカ黒人のソウルフードたるフライドチキンが大好物で、対するシャーリーは、育ちがいい上、外国暮らしが長かったので、皿もフォークもなしに素手でかぶりつく作法に困惑しきりである。このシーンなんか、双方の立場が逆だと類型的過ぎて鼻白むことこの上ないことになりそうだ。

     

     トニー本人も、「自分の方が黒人だ」と思っている。貧しいし、イギリス系には蔑まれるし、フライドチキンが好きだ。ついでに差別者のお約束「虐げられているのはこちらだ」ロジックも持ち出してもくる。ただ、シャーリーとの対比だけに限定すれば、2人は比べものにならないくらい所得格差があるから、トニーの「あんたは黒人差別を訴えるが、俺の方があんた以上に犧絞未気譴討い觜人瓩澄廚箸い主張は一見成立しているように見える。

     

     ところがそれがいかに間違っているかが作品の終盤ではっきりと示される。トニーも完全に打ちのめされる説得力で、差別を越えた分かり合いの部分が、ただの口当たりのよい博愛主義だけで済ませていないところにとても感じ入った。才覚と努力でのし上がった結果、いずこにも所属するコミュニティがなくなってしまい、何者ともみなされなくなってしまったという孤独に直面することになったという点、ふと新井将敬を思い出した。政治ではなく音楽の道に進んだことが、シャーリーには幸運だったのか。

     

     その「音楽の力」についてだ。
     音楽には、この世のさまざまな矛盾を解決するパワーをしばしば期待されるところがある。実際そういう側面があるのは間違いないとは思うが、そう単純でもない。

     本作でシャーリーは、アメリカでも特に差別が激しい南部を巡る。南部とはいえ、白人の客が大勢集まり拍手喝采を浴びる。ならば少なくともシャーリー個人は人種の壁を越えられているかというとそうでもなく、会場のホールでは黒人専用の掘立小屋のようなトイレを使うよう言われるし、会場のレストランでは食事を摂らせてもらえない。いずれも会場側に悪意はなく、だってそういう決まりだから、という無色の制度化された差別がそこにはある。あとは「非常事態」さえ加わればアイヒマンの出来上がりである。

     まあつまり、システムが音楽の前に立ちふさがっている構図だ。法的権力をかさにきて、悪意を露骨に差別してくる警察官も、無色ではないものの構造としては似たようなものだ。音楽は実に無力である。

     

     本作では、シャーリーを襲う種々の差別や暴力に対して、色んな種類の対処法が登場する。シャーリー自身は「やり返さない勇気」のジャッキー・ロビンソンと似た信念を持っていて、どんな目に遭っても怒らず我慢してとにかく威厳を保つことで差別と闘ってきたようなのだが、少なくとも短期的にはそれでは解決できないこともある。

     会場側が、演奏家が黒人だと蔑んで粗悪なピアノを用意したとき、トニーは「契約違反だ」と抗議し、それでも聞かないので一発殴る。酒場でシャーリーが差別暴力に絡まれたときには、トニーは「手を放さないと殺すぞ」という威嚇でもって助け出す。警察がシャーリーを捕まえたときは、得意の口八丁と賄賂で釈放させる。

     一方、差別的な警官を怒りに任せて殴れば即逮捕になるから腕力は無力だ。このピンチにものをいったのは、シャーリーがこれまでに培った広範な人脈に基づく政治力、つまりコネだった。「差別じゃなくて、そういう決まりなんです」の無色の差別に対しては、結局「信念」が抗う手段だった。

     

     というわけで音楽の出番はちっともない。シャーリーの強力なコネや信念を形作ったのは音楽によるから、そういう点で音楽の存在は大きいといえるがどうも地味だ。「NO MUSIC NO LIFE」のような華やかな万能感は見当たらない。

     

     このモヤモヤが回収されるのが、黒人クラブの演奏シーンだ。本作の脚本は、出てきた要素をいちいち丁寧に回収する巧さがある。
     これまでの「教養人ぶりたいから聞きに来ているだけ」の上品な白人客とはまるきり異なる客の表情とシャーリー自身の演奏がここでは描かれる。音楽というのは、それ自体に何かあるというよりは、誰に向けて演奏するのかが重要なのだろう。政治家に向けて弾けば、強力なコネが得られるかもしれないし、金持ち相手に演奏すれば、金が得られるかもしれない。市井の共感してくれる人々に向けて演奏すれば・・・、何か大きなうねりを期待したいところだが、さあそれはどうだろう。少なくとも、まったく水と油だった一人と深い友情で結ばれることになるくらいのことはもたらしてくれそうだ。ま、そこにたどり着くには、才能はともかく、めちゃくちゃ練習が要るんだけどね。
     「寂しいときは、自分から先に手を打て」という台詞がやたらと染み入ってしまったことを告白して終わる。

     

    「GREEN BOOK」2018年アメリカ
    監督:ピーター・ファレリー
    出演:ヴィゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ、リンダ・カーデリーニ


    【やっつけ映画評】ROMA/ローマ

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       仕事終わりに、さっとそこのイオンで晩飯を済ませて、で帰宅してあの資料とこの書類を終わらせて・・・、などと算段を立てながら映画館の横を通ったらば、話題の作品がちょうどの時間に上映だった。自転車操業状態の日々に追い詰められていると、人はしばしばすべてをうっちゃって逃避を試みようとする。俺はレストラン街の中華屋で適当に炒飯をかきこみ、30分後には暗がりに居並んだ座席の1つに深く身を沈めていた。あの作業、この雑務、全部知るか。

       

       伝え聞く作品概要から察するに、疲労困憊の身でもあり、そのうち寝るんじゃないかと危惧していたが、終わってみればたいそう感動している己がいた。いやあ、確かにこれは素晴らしい作品だ。

       とはいえ、何が?と問われるとうまく説明できない。そもそも映画の内容からしてうまく説明できない。

       

       メキシコの比較的裕福な家庭で働く家政婦が主人公だ。70年代、冷戦が絶賛継続中のころ、メキシコは韓国や台湾同様、「反共」が全ての存在理由のような独裁政権下にあって、民主化を求める動きときな臭い対立関係にあった。

       そういう時代が舞台であるが、この辺りの要素は物語の背景にとどまっていて、家政婦クレオと主家の騒々しい家族の日常が綴られていく。そういう中で、いくつか家族やクレオを苦しませる問題事が起きるのだが、BGMがないせいか(ラジオから音楽が流れる場面はある)、全体的に抑揚がなく、静寂な印象を受ける。

       

       聞くところによると、監督の幼少期の思い出話がもとになっていて、ここで描かれる物語はほぼ実話らしい。道理で。
       そう納得したのは、物語の中核を担うはずのいくつかの厄介事と、何てことのない瑣末な要素を等価で並べるような描き方をしていたからだ。飼い犬のうんこがやたらと画面に登場するところとか、狭い空間に無理やり車幅の広い車を通そうとするシーンがくり返し登場するところとか、何かのメタファーなのかとも思ったが、単に事実がそうだったというだけなのかもしれない。個人の人生は割とそういうところがある。例えばかつて大好きだった彼女の顔は忘れかけているのに、好きでもないCMの唄は覚えているとか、記憶の残り具合はしばしば当人の思い入れとは何の整合性もないものだ。

       

       そういう「何でもない日常」として綴られる日々の中には、実は既に述べたような政治のかまびすしさがあり、移民白人と先住民との経済システムの中に組み込まれた支配/被支配の構造があり、家政婦との無邪気な思い出として済ますことを許さない重い矛盾が横たわっている。その中でも見終わって俺の中で一番残った沈殿物は、「男はしょうもない」だった。

       本作に出てくる男は総じてしょうもない。短慮で無責任で、そのくせ口先は大義を語るから、時に人を殺める。まともな男性はたまに出てくる運転手のおじさんと、病院のシーンで登場する医師くらいではないか。いずれもただ職務を遂行しているだけの存在としてだけ登場するから、男は真面目に仕事をする以外に存在意義がないのではないかという気もしてくる。

       

       以上のようなことが全部間接的な伏線となって、終盤の出産のシーンでたいそう感動したのだった。映画やドラマで出産のシーンはいくつも見たことがあるが、こんなに心をゆさぶられたのは初めてだった。おそらく何年か後には、本作については出産シーンと飼い犬のうんこしか覚えていない気がするが、これはそういう映画だ。

       

      蛇足:画面の中のメキシコは、コロニアル風建築の街に人と車が溢れていて、収拾がつかないほどうるさくて雑然としている。一昨年行ったインドとよく似ていると思いながら見ていたが、メキシコとインドが似ているわけではなく、今の日本社会がこれらと似ていないだけなのだろうと、少子高齢人口減社会を実感した。

       

      「ROMA」2018年メキシコ=アメリカ
      監督:アルフォンソ・キュアロン
      出演:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ


      【やっつけ映画評】NO

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         先日電車に乗っていると、隣で立っている学生らしき男子2人組が、「え?!あそこのツタヤも潰れたの?」などと会話していて、今時の若人の間にもまだレンタルで借りるという文化はぎりぎり残っているのかと意外な気分になった。そういえば、年末にサザンオールスターズがNHKの番組で歌っていたとき、姪が有名曲の大半を知っていて、そのこと自体にも驚いたのだが、レンタル屋でベスト盤のCDを借りてきてスマホで聞いているのだと聞き、また驚いたものだった。ベスト盤を借りるのが入門的には一番手っ取り早いから、というような理由らしい。


         そういう俺もいまだ配信サービスの類は利用せずにレンタルしている。当該企業は昨今、名簿屋への業態転換、選択と集中による本業切り捨てによって続々店舗を閉じているので、世の中にこういう店がなくなるまでは利用しとけばいいかと開き直りつつ、図書館参入と警察への積極的情報提供の件でとっとと破綻してしまえと矛盾した感情を抱いてもいる。

         いずれにしても、いざ知名度の低い作品を探そうとすると、着実に環境が痩せ細っているだけに、たどり着くのに苦労する。去年の台湾のときもそうだったし、文豪シリーズでも同様。


         というわけで仕事で行った先周辺のレンタル屋で在庫を検索して・・・、とやっていると、いまだ古式ゆかしくラインナップが潤沢で、探していた複数作品がまとめて在庫ありなんてこともある。というわけで、文豪とは何の関係もないが、若干マニアックな作品の貸出があったのでついでに借りて見たのである。


         チリのピノチェト政権が崩壊に至る過程を描いた内容だ。国際社会の圧力で、任期を延長できるかどうか国民投票で決めることになり、体制側、反ピノチェト側双方に15分ずつテレビ放送の枠が与えられる。この枠で政権放送なりCMなりを流して支持を集めようとするわけだが、広告屋の主人公は反体制側に協力することになる。

         

         今この手の題材で俺が作るなら、主人公は賛成側でも反対側でもなく、「どちらでもない」側の広告宣伝担当にするな。何を宣伝すればいいのか皆目見当がつかない点に新機軸の可能性をふんだんに感じる。

         

         妄想はさて置き、反体制側の宣伝が妙に頭でっかちなのに閉口して、もっと親しみやすいCMを作るべきだと主人公レネは早速陣営の人々と対立する。この点、地球のこっちとあっちでも反体制側の性向が似たようなところは面白い。撮影許可が取れないからか、ゲリラ撮影でロケを重ねていくシーンは自主映画の撮影のようで楽しいのだが、出来たCMは妙にダサい。大口叩いてこれかよと可笑しい。

         80年代の話なので、時代的な感覚が勝ってダサく見えてしまうところもあろうが、「口当たりのよさそうなメッセージと映像をつないでおけば支持につながる」という発想そのものに問題があるように思う。いわばイメージだけで操縦できるといわんばかりの発想だ。有権者を「何も考えていないアホ」ととらえているともいえる。広告屋とはそんなもの、といえばそうなのかもしれないが、このダサいCMは、作中の登場人物にも批判されている。

         

         一方、宣伝チームの別の人間が作ったCMには、なかなかよくできたのもあった。デモ隊を捕まえて警棒で殴っている警官の映像にナレーションや字幕を重ね、殴っている警官も殴られている運動家も、どちらも信念に基づいて行動しており、どちらも愛国者であり、どちらもチリ国民だ、といったメッセージを送っている。民主主義とは何かを端的にうまく示していると思う。レネは、これを作った担当者と今一つソリが合わない様子なのだけど、この反ピノチェトキャンペーンを通じて彼の中で何か変化があったのかが今一つ不明なところはちょっと消化不良だった。さりとてレネの中にゆるぎない強烈な意志があるようにも見えなかったしで。

         

         一方体制側は、この15分枠以外にも、通常枠でいくらでも体制よりの内容が放送できると考えているところが興味深かった。日本でも憲法改正の国民投票の際の放送は、国政選挙のようには厳格に規制しないようなことがいわれているが、実施されるとなると、通常の番組も軒並み政権寄りになることは容易に想像がつく。大阪では都構想のときに一度経験済み。チリの場合は、反体制側も本心では諦めているほどピノチェト側が盤石だったので、それだけにどうやら油断があったように描かれているのだが、日本でははてどうなることやら。

         

        「NO」2012年チリ/アメリカ/メキシコ
        監督:パブロ・ラライン
        出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、アルフレド・カストロ、ルイス・ニェッコ


        【やっつけ映画評】モリエール 恋こそ喜劇

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           コルネイユ、ラシーヌ、モリエール。すでに述べたように、これもまた高校時代、世界史のテスト勉強でただ機械的に名前を覚えたものだった。絶対王政時代のフランス演劇界における三羽烏、程度の理解。何となく似たような音の響きと文字数のリズミカルな具合で覚えやすかったものだが、3人の区別はついていなかった。

           試験上はそれで何の問題もなかったのだが、大学に入ってフランス語を履修したとき、ちょっとした問題と出くわした。授業で読解したのが、彼らフランス演劇界の大家たちについて、200年くらい後のフランスの演劇批評家が書いた文章、についての批評を別の人が書いたという、二重、三重にややこしいテキストだった。元を知らないのに批評を読んでもちんぷんかんぷんである。


           この場合、とりあえずはコルネイユなりラシーヌなりの作品を手に取るか、あるいはそれを解説した入門書の類を読むのが真っ当な学生のありようなのだけど、そんなことすら思いつかないほど薄っぺらかった。

           一人ではとても手に負えないと考えた俺含む友人4,5人が、1人の下宿に集まって協力して訳していった。そこだけは学生ぽい。その作業中に、「こんなものを読んで何になるんだ」と1人がコボすと、別の男が「会社に入ったとき社長から君はモリエールを知ってるかね、って聞かれるかもしれへんやん」と冗談で返していた。あくまで冗談ではあるものの、あのころ我々が、世のエグゼクティブは難解な古典をそらんじて若輩者を威嚇するというイメージを持っていたのは確かだ。世に出てわかったのは、そんな教養人はめったにお目にかからないということだった。

           

           むしろ演劇のチンピラの方が戯曲限定ながら知っている人が多い印象。シェイクスピア、チェーホフ、ブレヒト、ベケットは付き合いのある芝居人が出演していた。特に最初の2人は人気が高い。ただし、かのフランス三人衆には俺個人の芝居ネットワーク上では今のところ縁がない。

           

           というわけで本作を見てお勉強である。
           DVDに収録されていた他作品の宣伝が、どれもこれもつまらなさそうなC級作品ぽいものばかりだったので、まったく期待せずに見た。しかしながら、結論から先にいえばこの映画は結構な傑作だった。

           

           作品解説によると、モリエールが若き日に借金が返せず投獄されるところと、旅芸人としてパリを離れてフランス各地に巡業に出たのは史実通りで、その間に起こった出来事を想像たくましく仕立てたフィクションとの由。モリエールがモリエールになるまでのエピソード0的な物語である。おそらく彼の作品に造詣が深いとニヤリとさせられる演出が散りばめてあると思うのだが、よく知らないので無論気づかない。せいぜい、モリエールが神父に化けたときにテキトーに名乗る偽名「タルチュフ」が、後年、実際に彼が遺した作品からきているという点が気づけた程度。それでも映画自体はかなり楽しめた。

           

           いわばヒーローものになっている。まだ無名ながら演技と脚本には一定の力量があるという設定のモリエールが、その狷端貲塾廊瓩任發辰匿А垢肇肇薀屮襪魏魴茲靴討い構成だ。タイトル通り、全体には喜劇のノリだから、演技力を用いたトラブル解決とは、要するに一種の「化かし合い」である。その手の作品がしばしば「笑いのためにわざわざトラブルになる」といった作為が鼻につくところ、本作の場合はそこまでのドタバタはなく、ほどよい塩梅でストレスなく楽しめた。

           

           一つには時代設定があろう。絶対王政の時代、権力と時間だけはある宮廷貴族たちがサロンに集って、芸術への造詣マウンティング大会を日々繰り広げている。そんないわば虚飾まみれの世界に、才覚以外何も持ち合わせていないモリエールが乗り込んでいく構造だ。パンクロック的な痛快さがここにはある。

           

           その中でも、悪役のドラント伯爵が、ちょうどモリエールの対抗軸となっている。ただの貧乏貴族だが、外見が偉丈夫なのと宮廷にうまく取り入ったコネとを利用して、地位や名誉の欲しい豪商を手八丁口八丁だまくらかし不労所得をかすめとろうとする。いわばちんけな詐欺師野郎なのだけど、「嘘」の使い手という点ではモリエールと同じだ。その「嘘」を、金のために使うか人間真理の追求に用いるかの違いである。この対比が「演劇とは何か」の問につながっている、というのは大袈裟にしても、黒魔術×白魔術の演劇バトルといった面白さがある。

           

           本作でモリエールは、悲劇をやる才能が皆無で、喜劇の才はあるものの、当人は悲劇こそが本当の演劇だというコンプレックスからなかなか抜け出せないでいる。そういう中で、ドラント伯爵その他、色々な人々の主に恋愛を巡るドタバタに巻き込まれていく過程を通じ、当人なりの喜劇(ないしは悲喜劇)を見出していく。ただし、たどり着いた境地がもたらす作品がどういうものだったのかはクライマックスの上演シーンを見てもあまりよくわからない。その点、最後の切れ味不足の印象もあるが、そこはまあ、現実のモリエール作品を見て確かめろということなのだろう。

           

          備忘録1:モリエールが新作を書き上げて劇団員に配るシーン。手渡された本を読み始めた団員が、三々五々クスクス笑い出す様子は激しく頷いた。脚本を書き上げた後、まず訪れる至福の瞬間だ。と経験者風をふかしておく。

           

          備忘録2:モリエールがマダムをまんまと篭絡するシーン。一見、相当に気難しそうな気高いマダムが、モリエールの滑稽な演技に腹を抱えて爆笑する様子が、もう完全にメロメロですやんというのが見え見えで、なんともエロチックだった。この女優、本作出演時で50過ぎてるそうだけど、全然みえんなあ。

           

          「Moliere」2007年フランス
          監督:ロラン・ティラール
          出演:ロマン・デュリス、ファブリス・ルキーニ、ラウラ・モランテ


          試験に出る文豪と映画の感想

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             先日、仕事の関連で「試験に出る文豪リスト」のようなものを作成した。時代と国と作者名、代表作名をただひたすら並べるだけ。やっていて非常に心苦しい。作業の退屈さもさることながら、書き並べているほとんどについてロクに知らないからだ。

             

             ダンテ→神曲、などと高校の世界史(日本史でも同じ作業だが)で覚えたものだが、文化史関連の人物は覚えにくい。一定のストーリー込みで習う権力者の歴史と異なり、文化方面となると「このころの〇〇な社会を背景に△△な芸術運動が盛り上がり」程度の説明の後に名前と作品名が羅列されるくらいにとどまるから、記憶がより機械的になる。

             

             もちろん、作品に触れればすぐ覚えられる。絵を見れば、マネとモネもそれなりに区別して認識できる。文学も論理的にはそうだ。が、絵のようには気軽にいかない。
             手に取ることはそれほど難しいことではない。岩波、ちくま、中公、新潮、最近だと光文社等々の各文庫のリストを眺めれば、教科書に出てくる作品のほとんどは和訳されているのがわかる。関係各位が積み重ねてきた財産に感服することしきりである。なのでアリストファネスにしろトマス=マンにしろ本屋か図書館にでもいけば簡単にお目にかかれるわけだが、正直、読めん。

             中にはスラスラ読めて楽しめるものもあるが、そうでないものも多々。土台、テーマからして読む気がしないものが多い(俺の場合だと、貴族の恋愛なんかがこれに該当するので、結構な数の名作が興味の範囲外になってしまう)。

             

             しかし、百年前、三百年前、何なら二千年以上前の作品が今に伝わるこの人類の蓄積を知らないふりするわけにもいかんだろう。と、考え始めたのが三十歳を過ぎたころからだったと思うが、あれからあまり読んだものは増えていない。なので軟弱な俺は、映画から入ることにした。

             

             映画化された古典はそれなりにある。ただし、「嵐が丘」のように何度も制作されている例もあるが、大抵は古い作品が多いので、とっつきにくかったり入手困難になっていたり。映画だからといっても、案外気軽ではないケースも少なくない。
             もう一つの映画化パターンは、作品ではなく作者を映画化したもので、こちらは割と手法としては新しいのか、最近の作品が多い。俺自身、歴史好きなため、その作者がどんな人間だったのかは興味の湧くところである。

             

             すでに見たものでいうと、「ミッドナイト・イン・パリ」。これは創作おとぎ話だから趣旨が違う。が、ヘミングウェイの魅力が光っている。それから「もうひとりのシェイクスピア」。こちらは別人説を描いているので余計に趣旨が違う。シェイクスピアは完全な脇役であまり登場しない。「ハンナ・アーレント」「マルクス・エンゲルス」の哲学者シリーズは、史実に沿ったフィクションで、哲学者も小説家同様物書きであるから、いわばこういう系統の作品を探して見てみようと考えた。おりしもサリンジャーの映画を上映しているが、間もなく終わりとあってスケジュール的に難しい。


             それでまず見たのが「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」。タイトルで全部説明されている。
             歴史に名を残す2人の思想家・作家の関係を描いた作品だ。思想家の場合、倫理の授業で習うので、著作を読んでいなくとも何を言った人なのか最低限の知識はある。サルトルは実存主義の哲学者で、「実存は本質に先立つ」と「人間は自由の刑に処されている」を覚えておけば概ね試験には正解できる。ボーヴォワールはフェミニストで「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」が有名。この世界的に著名な2人についてまとめて知れるのだから、お得な作品じゃないかと再生したが、30分ほどでギブアップした。


             というのも、サルトルが全くもって気色悪いのである。先日読んだ「82年生まれ、キム・ジヨン」に、教室で配布プリントを後ろの席に回すとき「ニコニコ愛想よく渡してくれる」として俺に気があるとばかりに主人公に付きまとってくる男子が登場するが、あの手の妄想系ストーカー全開の様子でボーヴォワールに接近してくる。

             この大変に気色の悪い男に、彼女も当然嫌悪感を示すのだが、いつの間にか恋に落ちていてボーヴォワールもとんだイカレ者だと2人まとめてついていく気が失せてしまった。

             「新しい愛のかたち」と予告編映像のキャッチコピーにはあるが、確かにある意味新しい。新しいとは理解不能の雅語なのだな。

             

            「Les Amants du Flore」2006年フランス
            監督:イラン・デュラン=コーエン
            出演:アナ・ムグラリス、ロラン・ドイチェ、カル・ウェーバー


            映画の感想:ブリッジ・オブ・スパイ

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               グリーニッカー橋のスパイ交換を題材にした手練れ監督の作品。「リンカーン」や「ペンタゴン・ペーパーズ」等、史実モノを実に巧く作っているのに、いまだにこの監督、俺の中ではジョーズ、ET、インディ・ジョーンズの人である。それで久々にお気軽なSFを見てやろうと、この監督の「レディ・プレイヤー1」を借りてきたが、肌に合わなくて途中でやめた。それでいて本作は楽しんで見た。歴史モノの方が上手いんじゃねえか?と思ったが、単に俺自身の好みに過ぎない気もする。

               

               グリーニッカー橋の話を知ったのは、恥ずかしながら横山秀夫「半落ち」だった。検事が記者に、ヒントとも愚痴ともつかぬ調子で漏らす一言で、こんなことボソっと言われても、俺ぜってーわかんねーよ、と思いながら読んだ覚えがある。
               この検事は「互いの捕虜を交換する取引に応じてしまった」という自己嫌悪を吐露していたのだが、本作を見ると、そういう単純な話ではないということがわかった。歴史をキーワードで済ませないというのは大事っすね。

               

               2015年の制作で、割と最近の作品だ。監督には、この半世紀前の事件に何かしら今に通じる部分を感じるところがあって制作したのだろうと推察するが、今現在、より本作で描かれていることが肌身に迫るように思える。敵/味方の単純な線引き、「敵」を「殺す」以外の選択肢を取るやつはやっぱり「敵」という短絡さ。

               先々まで見据えれば、このソ連のスパイは生かしておく方が得策、という深謀遠慮は三国志だと「格好いい(or侮れない)登場人物」として、同じく「敵だから殺せ」はすぐさま滅びる雑魚として、さんざん出てくるはずなのだけど、現実世界ではしばしば後者が幅を利かせるんだよなあ。三国志にハマる男子は、しばしば自分が孔明ほどではなくても荀くらいの知性はあるとか、関羽ほどではなくても夏侯惇くらいの統率力はあるとか思い込むのだが、俺も君も等しく邢道栄に過ぎないのだよ。

               

               米ソ双方、表向き「諜報?はて何の話でしょう?」という立場を取るので政府同士の話合いにならず、主人公のような一弁護士が冷戦の最前線に立たされるおかしな展開になるのだが、何で一私人のオッサンが国同士の命運を左右するポジションにいるんだという点、実にヒーローもののフィクションぽくはある。そんなことを思って見ていたら、ラストの字幕解説によると、主人公ドノヴァンは今回の手腕を見込まれ、大統領から次の任務を言い渡されたとあるから、完全に007と同じ終わり方である。当然、第2作「ベイエリア・オブ・スパイ」が待たれるわけだが、これはフィクションではないので、よくよく考えるとふざけた話である。政府が陰謀作戦実行して、失敗したら弁護士にケツ拭かせてる格好でしょ、これ。なんじゃそりゃではあるよね。

               

               このドノヴァン、弁護士の本領発揮で、手八丁口八丁な交渉術でソ連、東独を相手に立ちまわるのであるが、そこだけに目を奪われてはいけない。軍人だけでなく、それこそ「自業自得の自己責任」的につかまっちゃった学生の救出についてもまったく譲ろうとしない。国防とかなんとかを超えて、人権守ってナンボでしょ弁護士ってのは、という頑固さが眩しいのである。誰であれ国民を守る、それがホントの国益でしょうよ、という立場は、全員正座して目に焼き付ける部分だと思う。

               

              「BRIDGE OF SPIES」2015年アメリカ
              監督:スティーヴン・スピルバーグ
              出演:トム・ハンクス、ピーター・マクロビー、アラン・アルダ


              映画の感想:ラ・ラ・ランド

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                 話題作をテレビ放映でようやく見た。
                 予定の管理が雑な男女の物語だった。
                 まあ、恋愛は往々にしてこういうくだらないミスによって取返しのつかない結果になるもので、特に若いときほどそうだと思うが、CM明けに画面隅に出ていた惹句には「大人の恋」だとか書いてあった。ちゃんとしろよ大人。

                 

                 予定がダブルブッキングしたとき、片方はそれをうっちゃって相手のもとに駆け付けたのに対し、片方は自分の都合を優先して後で相手にフォローする方を選んだ。結果は推して知るべしで、この点は恋人関係なり夫婦関係なりで、肝に銘じておく真理のように思った。
                 にしても、ご都合主義の感否めず、本作は要所要所でちょこちょこその辺が目立って、世評ほどには感動できなかった。

                 一番気になったのは、ヒロインのミアが評価されるところ。オーディションをいくら受けても落選続きなので、いっちょ自前で一人芝居公演を打ってやろうと挑戦するのだけど、客の入りも評価も惨憺たる結果。でもキャスティングの会社からオファーが来る。「わかる人はわかってくれる」という展開なのだけど、じゃあ拾う神は何をわかってくれたのかはサッパリ見えない。

                 そもそもミアがどんな作品を演じたのかも全く描かれていない。一方の恋人セバスチャンについては、ジャズを語るし演奏もするし、色々シーンが割かれているのにだ。

                 

                 男は自分のやっていることを語りたがり、女はそうでもない、という景色はよく見かけるし、俺自身もそれこそmansplaining野郎なので、この非対称は典型的といえばそうなのかもしれないけど、曲がりなりにも男女それぞれの人生と恋、という映画だから、ちょっとどうかしらとは思う。


                 一人芝居の客の入りについては、既視感たっぷりで妙にリアリティを感じてしまった。少ない客のうちの結構な割合が友人知人というところ含め。あと、見終わってすぐ客が感想を口走るのは禁忌である。劇場内で「ツマランかった」などという人はさすがにめったにいないが、劇場出た瞬間口にする人はいる。でも周囲の客の中には縁者がふんだんに含まれれているので、最寄り駅から乗った帰りの電車を降りた後か、もしくは居酒屋、喫茶店等々に入店した後かにするのが賢明である、感想を言うのは。

                 

                「LA LA LAND」2016年アメリカ
                監督:デイミアン・チャゼル
                出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、カリー・ヘルナンデス


                【やっつけ映画評】私はあなたのニグロではない

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                   タイトルがキャッチーだ。黒人が映画等の表現行為の中でどのように消費されてきたのかを詳らかにするドキュメンタリーかと思っていたが、ちょっと違う内容だった。予断が外れることが最近多い。一応、そういう部分もかなり出てくるのだが、別に主題というわけではなく、黒人差別全体の構造を明らかにするという大きなテーマの一部に過ぎない。


                   ジェイムズ・ボールドウィンという作家の未完成原稿が元になっている。書籍の映画化というと、最もポピュラーなのは小説を劇映画にするパターン。次によくあるのが、ノンフィクションを劇映画にした作品である。書籍をドキュメンタリーにするケースは、著者や作品のゆかりの地を女優が歩きながら朗読する、なんてのが該当するだろうか。

                   本作の場合も種本を有名俳優が朗読している点は共通だが、ナレーションとして流れるだけで、当人はまったく登場しない。あとでクレジットを見て知ったくらいだった。本作を構成する映像は、著者の記述内容に対応したニュースや映画のつなぎ合わせである。これは異色のスタイルではないだろうか。

                   

                   学生相手の仕事で学者や評論家らの文章を読ませることがある。高校の現代文の試験を思い出してもらえればよいが、多くが形而上的な内容だったり、具体例をあまり伴わずに抽象的な記述を重ねる形で筆を進めている。このため一見すると日常生活には何ら関わりがない話にも思えるのだけど、実は必ずしもそうではない。案外、身近な物事と密接なことを述べていることもしばしばだ。なので学生諸君に「例えば友達なんかと普段こういうことがあるでしょ」なんてな具合に例示する(逆に彼らに考えさせるときもある)。本作がやっていることはこれと似たような当てはめだと思う。


                   これは結構他にも転用できる手法ではなかろうか。例えば名著とされる古い書籍の内容が、今の世の中にもバッチリ当てはまっている濃密なものだったとしても、妙に難解で読みにくいというケースだ(哲学系の本が典型例)。その内容に即した映画なりテレビ番組なりの映像を、書籍の該当箇所とともに提示していくと、容易に理解できるだけでなく、スリリングな作品になるかもしれない。

                   今時は特に、新興企業の経営者とか、最先端を気取った業者とか学者とかが、100年200年前にとっくに喝破されたような理屈をスカしながら垂れている様子をよく見かけるから、お前ら何周回遅れの最先端やねんというようなドキュメンタリーが作れそう。本作を見ながら、そんなことを夢想した。

                   

                   ただし本作は、ボールドウィンの同時代の映像が圧倒的に多く使われているから「今にも当てはまる」がわかりやすく可視化されている部分はそれほどない。ついでに出てくる映画は古いものが多いので、オールドファンとかコアな人なら「おお!」と食い入るところ、軟弱者の俺は「へえこんな映画あるんや」程度の受け止め方であった。

                   人によってはとうの昔に別のとこかで見聞きしたことのくり返しに思えるのではないかとも想像する。俺もまあまあそうだった。これもひとえに「42」「RACE」「Hidden Figures」「デトロイト」等々、このブログで紹介した黒人差別をテーマにした映画、あるいは「セデック・バレ」「パレードへようこそ」「猿の惑星」等々それ以外の差別なり民族対立なりが含まれる作品を見たおかげだ。

                   このボールドウィンの生きた時代(キング牧師やマルコムXと同世代の知人)に比べれば、見る側に色んなことを気づかせる作品が数多く生まれているという点、好転している部分もあるといえる。無論、国際ニュースを見ていると、そう楽観的なことでもないことはすぐにわかるのだけど。

                   

                   差別ということでいえば、日本にも「あん」だとか古いところでは「ブルークリスマス」とか、よい作品はあるのだけど、数が少ないからか、国民の大部分が見てくれの似通った人間同士の時代が長く続いたからか、鈍感で遅れをとっている。

                   つい先日も、日清のCMにおける大坂なおみの描き方が問題になっていた。大企業の依頼で、おそらく大手の広告屋が制作した、つまり優秀な人間がある程度いるはずの現場なのにあれでOKが出てしまう辺り、随分呑気で幼稚で勉強不足だ。そしてお約束のように吉本芸人が「叩きたい病だ」と、「何でも『叩きたい病』に見える病」なコメントしていて、それを一つの意見として取り上げてしまう新聞社(こちらも優秀な人間がそれなりいるはずの企業)も呑気で幼稚で勉強不足だ。

                   前にも書いたが、芸人は不謹慎なことをやるという職業柄、日常的に苦情に接していると想像するが、そのせいで筋違いのクレームも意義のあるクレームも、ミソクソ同じに見えるケースが多いのだろう。せめて一度見直してほしいものだが、周囲がそれに同調してどうする。あんたら諭す側だろ。

                   

                   というわけで、本作の役割もまだまだ大きいようだ。無論、俺も本作で指摘されていることをすべて理解しているわけではないから偉そうなことはいえない。文学的な作りのせいか、まだわかっていないとても大事なことを提示されたような印象も実は受けたのだけれど、それが果たして何なのか、別の映画を見たらまたわかることもあるかもしれないし、半世紀なり一世紀なりの遅れで、ここで指摘されている構図が、モロに今後の日本社会で顕在化してきて実感を伴う理解につながるかもしれない。

                   

                  「I AM NOT YOUR NEGRO」2016年アメリカ=フランス=ベルギー=スイス
                  監督:ラウル・ペック
                  ナレーター:サミュエル・L・ジャクソン


                  【やっつけ映画評】アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル

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                     邦題のサブタイトルが示している通り、ある意味世界で最も有名な女子フィギュア選手トーニャ・ハーディングが主人公の伝記映画だ。ライバルを襲撃して怪我を負わせるという昼メロもびっくりの事件によって歴史に名を残した。ついでにこの被害者のナンシーケリガンも、メダリストなのに「あの事件でやられた人」として名前が定着してしまい同情を禁じ得ない。

                     

                     スポーツ界でこれに匹敵するスキャンダルを探したが、なかなか思いつかない。ライバルの飲み物に禁止薬物をこっそり入れていたカヌーの選手は、知能犯な分、より陰湿な印象があるが、メダル候補とまではいかないので世間の反応もそこそこだった。
                     サッカーW杯で試合中に相手選手の肩に噛み付いたウルグアイのスアレスは、実行犯な上(ハーディングは実行犯ではない)、何億人も見ている大舞台での不正行為ではあるのだが、こうた・ふくたの漫才とカブってしまったせいかケリガン殴打事件ほどの騒ぎにはならなかった。
                     同じく試合中に相手の耳を噛みちぎったマイク・タイソンの例もあるが、ボクシングは(サッカーも)ならず者が多そうなイメージがある分、やはりトーニャの方が上を行く。悪役選手などいなさそうなフィギュアの世界だからこそ衝撃だったといえる。この辺りは本作のサブテーマともつながっている。後で触れよう。

                     

                     事件当時、俺は高校生だった。五輪の舞台で、靴紐がどうのと審判員に泣きながら訴えていた様子も見た覚えがある。苗字がかつての米大統領と同じなので(試験にはあまり出ないが世界史オタクだったので知っていた。周囲をヤクザな友人で固めていたという点では後述する通りトーニャと似ているが、この爐友達疣中が利権を貪っていた点はどこかの首相とも似ている)、ブロンドヘアーの外見も相まって、金持ちの非常識わがまま娘の暴走だと勝手に思い込んでいたものだった。完全に偏見であるが、社会への認識も幼かったといえる。彼女の狼藉の背景にあるのは金持ちの思い上がりではなく、まったく逆の貧困だからだ。

                     

                     彼女の生まれた環境は「ウィンターズ・ボーン」「スリー・ビルボード」を彷彿とさせる田舎町だ。貧しいだけでなく、ろくでなしだらけ。あの2つの作品にはものすごい迫力の刀自が登場するが、本作でも同じ。トーニャの母が実に恐ろしい。トーニャによれば「モンスター」で、まさにモンスターペアレンツなど可愛いものだと思ってしまうくらいの怪物ぶりだ。全く共感できない方向に強烈に筋が通った女性である。星一徹も霞むほどだ。モンスター母の虐待を受けて育ったトーニャが夫に選んだのが、これまたろくでもないDV男。暴力が次の暴力を呼び込むパターンである。この夫の友人がさらに輪をかけて救いようのないバカの虚言癖で、結局このろくでなしサークルを断ち切れなかったのがトーニャの破滅へと繋がっていく。

                     

                     健康優良な人だと、トーニャがずるずると関係を保ち続けたことが心底愚かに見えて理解不能ではないかと推察するが、「嫌ならそこを出ればいい」が実行不可能な正解であることはしばしば。トーニャの場合、ウインターズ・ボーンの主人公と違って類まれなる才能を持っていただけに余計につらいものがある。そしてこのライバルを殴打するというベタな犯罪も、実行した連中が途方もなく馬鹿で幼稚だからこそ出来たのだなと本作を見て理解した。

                     

                     このトーニャ・ハーディングは、伊藤みどりや浅田真央と共通点がある。公式戦でトリプルアクセルを成功させている点だ。伊藤みどりは世界初、トーニャ・ハーディングはアメリカ初の記録となっている。

                     トーニャがトリプルアクセルに取り組んだのは、彼女の演技が審査員に受けなかったため一発逆転を狙ったためだ。米国選手は誰も成功していない荒技を決めれば有無を言わせないという思惑だ。彼女のスケートが受けないのは、そもそも素行不良で嫌われているというのもあろうが、劇中の審査員の台詞によれば、審査員が思う理想形とかけはなれているからだそう。フィギュアについてはまったく詳しくないのでその真意はよくわからないのだけど、少なくとも彼女の演技はたをやめぶりというよりはますらをぶりといった感じで、おそらく審査員が求めているのは前者だろう。女性差別の映画と小説に立て続けに接したせいで、これもまたステレオタイプの押しつけに思えてくるが、そこはさておき、何年も前にスケート通を自称する学生から聞いた話を思い出した。

                     

                     浅田真央が年齢制限で五輪に出れず、議論を呼んでいた時期だった。その学生の主張は「トリプルアクセルが跳べるからという理由で年齢資格を云々するのはフィギュアをジャンプを競う競技だと勘違いしている」で、代表選出を見送ることに賛成だった。それを聞いて当時、なるほどなあと思ったし、その五輪で優勝した荒川静香の演技はこの主張を裏付けるような内容だった。

                     だけれども、実際のトーニャの演技を改めてYouTubeで確認すると実況が「グレートパワー&グレートスピード&なんちゃらかんちゃら」と言う通り、違う競技のような雰囲気も感じる。本作の競技シーンはかなり見事な出来栄えなのだけど、誇張ではないとわかった。
                     先駆者伊藤みどりは、よりパワフルで、彼女の場合、ダンクシュートも決められそうなくらい縦にも横にも跳んでいる。そのパワーの源なのだろう、レスリング選手のような体つきをしていて、おかげで少なくと俺の周囲の人々は当時、優雅じゃないとか上品じゃないとかの理由であまり好感を持っていなかった。改めて映像を見ると、確かに優雅ではないかもしれないが、この跳躍力だけで圧倒される。あるべき形ではない、とうより、新しい可能性を開いた、というべきではとも思う。トーニャ・ハーディングが素行不良でなく、事件も起こさなかったら、女子フィギュアも今とは違うものになっていたのかしらとも想像した。少なくとも、彼女の後、中野友加里が決めるまで10年現れなかったのは、この事件の副作用のようなものではないのかね。

                     

                     余談。トーニャが肉体改造するシーンで、「ロッキーがロシア人に勝つためにやったトレーニングよ」と彼女が語るシーンがあり、「クリード供で書いたことと思わぬところでシンクロした。あれ?じゃああのトレーニングは意味があるってことか?と思ったが、トーニャ自身は火あぶりも木こりの真似事もしていなかった。

                     

                    「I, TONYA」2017年アメリカ
                    監督:クレイグ・ギレスピー

                    出演:マーゴット・ロビー、セバスチャン・スタン、アリソン・ジャネイ


                    【やっつけ映画評】牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

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                       昨年、台湾に行く前にある程度まとめて台湾映画を見たのだが、本作は見ることができないでいた。ひとつは4時間もの長尺だからで、帰省したとき偶然にも故郷の映画館(メトロ)で上映していて、これは行かねばと思ったものの、4時間の都合をつけるのは無理だった。

                       2つめは、なぜ帰省先の劇場に行こうとしたのかと関連しているが、DVD等のソフト化がなされていない犖犬虜酩吻瓩世辰燭らである。なんでも、版権を持つ会社が倒産したとかそんな事情らしい。映画あるある、といえばそう。映画は誰のもの?というか、著作権関連の権利とはなんぞやというか、その辺の問題提起としては典型的なケースだろう。とにかく、そういう事情なので上映をやっているときに行くしかない。

                       

                       それがとうとう、ありがたいことにDVD化され、レンタルで見ることができた(狄刑遶瓩世らか台湾映画にしては珍しく、近場のツタヤにたくさん置いていた)。

                       

                       1960年の台北が舞台だから「悲情城市」の続きくらいの時代関係になる。あの映画の冒頭で生まれた赤ん坊と、本作の主人公の少年たちがだいたい同世代になる勘定だ。
                       そして「悲情城市」が、いわゆる本省人を描いていたのに対して、こちらは外省人、つまり国共内戦の結果、大陸から台湾に移住してきた人々の社会である。登場する大人たちはしばしば「青島はドイツが作ったからきれいな街だ」とか「これだから上海人は頭でっかちと言われるんだ」とか、何かにつけて出身都市を懐かしんでいるし、子供たちは「いざ大陸反攻だ」などとふざけあっている。

                       望郷といえばそれまでのことだが、台湾はあくまで仮住まい、という感覚がそこかしこに漂っている。紆余曲折の経緯を抱えて台北で暮らす「外省人社会」が作品の背景となっているわけだ。このあたりは東山彰良「流」とも重なってくる。

                       

                       ついでに彼らが住む住居の多くは日式だ。外国の話なのに画面はしばしば昭和日本になる。屋根裏には日本の軍人が残していった日本刀があったり(それが重要なアイテムにもなっていくのだが)、冷凍庫の金属製製氷皿のような一定世代以上の日本人がノスタルジーを感じる日用品も出てくる。こういう生活史のような歴史の断面が画面のあちこちに当たり前のように登場する点も「悲情城市」と似ていて、日本史が絡んでいる以上、余計に引き付けられる。


                       主人公たちは中学生で、必然学校の場面が多い。学校や制服の雰囲気、抑圧的な教師なんかは、「飲食男女」「あの頃、君を追いかけた」ともよく似ている。ただしこれらの作品と違って、少年たちの荒れ具合がひどい。大人たちが牴晶擦泙き瓩涼呂如∪茲慮通せない不安の中暮らしているせいか。あるいは生活道路を戦車が通行していく軍政真っ只中の殺伐とした空気のせいか。あどけなさだらけの顔つきとした子供たちが、ヤクザの抗争の相似形をなぞって争っている。アンバランスこの上なく、たまに滑稽にすら映る。


                       彼ら非行少年たちは日本の不良同様、群れてグループを形成している。主人公・小四らは「小公園」に属しており、「217」と名乗る派閥と対立している。ネット上の感想で多くの人が述べているのと同じく、俺も当初は、小公園がどうのこうのといきがっている台詞を見て、公園の縄張り争いでもしているのかと思った。「二丁目の人間でもないやつが勝手にこの公園のブランコで遊ぶな」というような。でもそんな可愛い話ではなかった。


                       217は「眷村」のグループだと台詞中で説明されている。眷村とは国民党が大量の移住者向けに作った公営住宅群のようなもので、野島剛によると旨い食堂が多いらしい。確かに217のリーダーがむしゃむしゃ食っている料理はなんだか旨そうではあるが、当人の肉付きがいいからそう見えるだけかもしれない。なんとなく、小公園組の住環境に比べ、217組は貧しい印象を受けるのだが、これは大陸での社会的地位をそのまま反映しているのだろう。大陸全土から集まった異質な人々が、九州と同程度の面積の島で暮らすのだから、差異が圧縮配置されることになるから必然目立つようになる。それがまた対立を生むということだろうか。


                       この小公園と217の対立抗争の中、小四が恋をしたり、兄や親が厄介ごとに巻き込まれたり、恋の相手の小明に不幸が訪れたり、と複数の登場人物のそれぞれの日常が同時並行的に語られる。必然、登場人物が非常に多く、わかりにくい。このごった煮感も「悲情城市」と似ている。ただしあちらよりややこしい。本名と通称の2つが入り乱れて、誰のことを言っているのかわからなかったり(小四も当初は「小学四年生」のことかと思った。「小四を舐めるなよ」という台詞が、まえだまえだの漫才のギャグ「小5舐めんな」と重なったから余計)、子供が全員同じ制服に、似たような髪型なので区別がつきにくい。

                       日本の中学も、髪の規則がうるさく制服着用が一般的だが、生徒の見分けが付きにくくなることをわざわざ課してどうするのだろうと今更ながら教育現場の労働効率に疑問に思った。いや学校だけではない。今時の大学生が就職活動に臨むときのスタイルは、俺のとき以上に統一規格化が激しい。特に女性。喪服の方がまだバリエーションがあるんじゃないかとすら思う(服装というより髪型が大いに貢献しているとは思う点、丸刈り中学と似ている。あとベージュのトレンチコート)。企業側も採用する人をうっかり間違えそうでこれも効率が悪い気がするが、こちらは学校と違って誰かが強制しているわけではない。なので余計に質が悪い。折に触れ、やめようぜくらいの助言はするが、学生は「外野はお気楽ですな」くらいの反応だから難しい。


                       

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