【やっつけ映画評】南京!南京!

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     歴史関連の本はよく読むが、歴史小説はほとんど読まない。最近では小説にする意味はどこにあるのだろうとすら考えてしまうようになった。ある人物がなぜそのように行動したのか、心理描写や場面として示されるより、当人の立場や時代背景といった事実分析の方が面白く感じてしまう。簡単にいうと、小説はまどろっこしく感じてしまうことが多い。

     映画や大河ドラマのような映像作品になると話は別だ。映像の再現力に寄るところが大きいのだろうと思うが、もしかすると映像の方が小説よりも描き方が多様になっているのではないかとも思う。歴史小説をそんなに読んでいるわけではないのでただの偏見の可能性もある。少なくともここ数年、たまたま手に取った小説から受けた印象でいえば、いまだに「昔の大河ドラマ」のような文法で描かれているというのか、古臭さのようなものを感じることが多かった。

     

     タイトルがダサいが、そのまんま南京事件を描いた作品で、かなり面白かった。映画として制作することの意義がよく練られている。そんなことを思った。

     

     戦争を題材にした映画は多い。映画向きだからだろう。森とか砂漠とか都市とかいろんな風景の中をたくさんの人間が入り乱れ、文字通り生死が交錯しと、景色としても場面としても自動的に変化に富むことになりやすい。半沢さんのように、油断すると会議室で立ったり座ったりして喋ってる場面だらけになるビジネスものとは、ビジュアル面での前提がまるで異なる。

     

     さらに、命がむき出しでやり取りされる分、最初からドラマチックでありつつ、テーマがテーマだけに、ヒロイックさとかロマンスとか、わかりやすい娯楽方面に流れることには慎重になる。安易な描き方が許されない難しさが、作り手冥利には尽きるといえる。アメリカでは、ベトナム戦争やイラク戦争、第二次世界大戦、第一次世界大戦、今現在もこれらを題材に新作が制作されている。前者2つはアメリカが悪玉、後者2つはどちらかといえば善玉側、無論傑作駄作色々だが、色んな切口で積極的に作られている。

     

     日本だと、古い戦争映画は結構多いが、新しいものになると数はかなり限られる。金のかかるテーマだからという財布の事情もあろうが、今更古い話を持ち出して、それでも新鮮に描く方法が思い浮かばないという視点の痩せ細りもあるはずだ。本作が動画配信でしか見れない現状では、豊かな視点を持てるはずもない。せいぜい季節の風物詩がごとく、夏になると戦争モノのドラマが作られる程度。ワンパターンにならないような工夫は一応見れるが、映画とドラマと併せても「この世界の片隅に」がトップランナーなのが現状なのは寂しい限りだ。

     一方、本作の制作国である中国はさすが金はあるようで、陥落した南京のセットも、エキストラの数もかなりのものだ。日本兵を演じた俳優たちに著名な人は特に見当たらないが、こんな大がかりな作品に出演できるのは役者としてはありがたい。無名なら尚更だろう。こういう作品が外国で作られ、ネット配信でしか見れないというのは、凋落と原因がセットのようで象徴的に見えて仕方がない。ついでに、首相の辞任を海外メディアの方が先に報じていたこととも重なって見えてしまった。東ドイツ化が進んでいる。とりあえず、「一人っ子の国」と合わせ、元を取ったような気がしてきた。

     

     本作のコメント欄には、予想通り、あれがおかしいこれは捏造だとか熱心に書き連ねて★1をつけている感想が並んでいる。わざわざ本作を見た上で書いているので、この手のことでよくいる「見ずに酷評するバカ」とは異なる。一定以上の映画好きだろう。「面白くなかった」というのなら、それは好き好きなので自由だ。作品の出来自体を評価しつつも猯鮖棒鎰瓩鮖呂瓩討い襪里蓮映画の感想を党派性が上回っている点、なかなか深刻だと思う。

     

     他方で本作が、制作国の中国でも非難に晒されているのが面白い。日本軍に同情的だというような非難である。そう受け取る人がいてもやむを得なさそうな描き方ではあるが、そういう意見が大勢だと、これはこれで党派性が先を行っていると思う。
     いい/悪いとか、正しい/間違っているとかの二元論では回収できない部分をいかに描いていくかが、昔っから文学が追求してきたことの1つで、それは映画においても同じ。本作は政治的にデリケートなテーマに果敢に挑み、いかに劇映画として成立させるかという監督の苦労や心意気が垣間見えて、誠実ないい作品だと思った。


     それは例えば、序盤に登場するいかにも主人公っぽい男前の中国人がかなりあっさり殺されてしまうことだったり、中国人に対していくらでも傲慢で残虐な態度が取れる日本軍の伊田が、部隊内では兄貴肌のいい上官といういかにもあり得そうな二面性の描き方が実に自然だったり、慰安所の女性たちが、ぞっとするような空虚な目をするところであったり、日本軍に怯える南京市民のモブシーンが不謹慎にも妙に美しく見えてしまったりと、丁寧に考えられた印象に残るシーンによく現れている。

     

     本作には、これといったストーリーがない。虐殺シーンは割と序盤に用意されているのだが、なんであんなにたくさん殺されないといけないのか、これといった説明的要素はない。なんか知らんけどそうなっているという描き方だ。主役級の登場人物は何人かいるが、特に誰が話を転がしているというわけでもなく、単にその場その場でそれぞれが必死な様子が綴られるだけである。それでもぐいぐいと引き込まれたから制作陣の力量は大したものだ。このような描き方は、劇映画ならではかもれしれない。ドキュメンタリー風味ではあるが、この第三者視点的描き方は、ドキュメンタリーだと無責任な印象を受けそうな気がする。


     しかし、何で本作はモノクロなのだろう。モノクロしかなかった時代だから、本当っぽくなるようでありつつ、モノクロは話を過去に定着させるところはある。古いフィオルムをカラー化すると、途端に現代との地続き感が出るが、ちょうどそれの逆になるからだ。その点、保険にしたといえるかもしれない。ここまで金かけてセット組んだのだから、単純にもったいない話なのではとも思った。


    2009年中国
    監督:陸川
    出演:劉、高圓圓、中泉英雄


    【やっつけ映画評】一人っ子の国

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       アマゾンプライムの解約が話題になっていて、へえと眺めていたが、俺もいつの間にか加入していたのだった。知らないうちにプライム会員になっている件はよくあることのようで、映画好きの知人に聞いたらやはりそうだと言っていた。

       予想はしていたが、この解約運動について的外れの記事が散見した。そもそも問題の三浦瑠璃を有識者として新聞が使っているのだから矢が明後日に飛んでいくのは当たり前なのだった。

       

       そもそも覚えがなかった(正確にいうと、「身に覚えのない人」が加入してしまう典型的ケースに当てはまるクリックをした記憶は朧気ながらある)ところに加えてこの騒動なので、さっさと解約しようと思ったのだが、そういえばアマゾンプライムには、町山智浩が紹介していて何か気になったドキュメンタリーがあったようなと思い出した。とりあえずはそれを見てから、とセコセコ「ドキュメンタリー映画」のカテゴリを開いた。お、あったあった。

       

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       先日、仕事で某私大に行った。こちらが大学の教室に赴き学生はオンラインで受講するという「だったら俺も自宅でいいんじゃないか」というスタイルだが、まあ通信トラブルとか電気代とか、こちらが何も負わなくていいという点での判断だろう。各大学、ついでに専門学校も、俺が知っている現場の範囲内でも各位苦労しながら試行錯誤、それぞれ努力しているのはよくわかる。萩生田の仕事はせめて黙ってろというところだと出入り業者の俺ですら思う。


       話が逸れた。その大学ではあちこちに「フィジカルディスタンスを守りましょう」と貼り紙をしていた。「ソーシャルディスタンス」の方が広く使われているが、この言葉が英語圏に現れて一月後くらいに、いやこれソーシャルじゃなくてフィジカルだろとの指摘もあり、2つが並立した。試しに検索すると、現在どちらの言葉も使われているようだが、すくなくともニュース検索だと前者の件数の方が後者の3倍近くヒットする。

       

       英語の場合、どういうニュアンスを持つのか正確なところはわからない。直訳した場合の「社会的距離」「物理的距離」だったら日本語の意味合いにおいては後者の方が実態を捉えて正確だろう。この大学の場合、その意味の正確性を求めて、あえて馴染みの薄い表現を選択したのではないかと推測する。いかにも学問の府の発想といえばそうだが、残念なことに当該大学は英語が苦手な学生が多いので、どっちの単語もよく知らないというケースは珍しくないのだった。

       

       ラジオを聞いていると、コロナの流行からこの方、カタカナの新語があふれてついていけないと嘆く(主に年寄りからの)声が多い。日本国内だけでなく、全世界同時多発的に未知のウイルスに悩まされるから、急ピッチで新語が登場するし、そのほとんどは英語になる。必然、日本語においてはカタカナだらけになる。ついでに漢字で新語を生み出す素養がそもそも失われているので、「東京アラート」のように国産新語もカタカナに頼りがちになる。

       

       こうして人によっては「ついていけん」となるのだが、問題はカタカナがあふれていることより、用語をきちんと点検することだと思う。それは正確性を期すということももちろんのこと、プロパガンダ耐性という意味でも重要だと思う。「東京アラート」にしろ「ウィズコロナ」にしろ、典型的なプロパガンダだが、それどういう意味?と問う姿勢自体が、政治的思惑への警戒につながるのではないかと思う。

       

       タイトル通り一人っ子政策を取材している。一人っ子政策の苛烈さについては、多少は知っているつもりでいたが、全然無知だったと本作を見て痛感した。生まれた子供が男子じゃないと犬猫のように捨ててしまっていた実態は、仄聞したことはあるが本当だった、それも想像以上、という点ぞっとするし、背景にある男尊女卑の価値観も、これは日本社会でもお馴染みとはいえ、そこに子供の選別という事実が加わると醜悪にすら見えてきてこちらもぞっとした。監督は女性だが、出身地が田舎だったので、5年の間を空ければ2人目をこさえてよかった規則によって捨てられずに済んだ。その後弟が生まれるのだが、もしまた女児だったら捨てられる運命にあったらしく、その事実を反芻する弟氏の困惑の表情がとても印象的だった。

       

       


      邦題の洗浄問題(仮)について

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         何度か断片的に書いている話を改めてまとまった形で書いておこうと考えていたところ、人に話す機会があった。妙に興味を持たれたので、では早速書くことにした。これまで仮に「洗浄」と書いてきたが、いまだ適当な比喩表現が思い浮かばないまま。とりあえずは「映画邦題の洗浄について」としておこう。

         外国映画の邦題がダサいという例は枚挙にいとまがないと思うが、それとは似ているものの異なる話である。ここまず重要。

         

         本ブログで自分が書いたものを振り返ると、この問題に最初に言及したのは、「ドリーム」についてだった。本作の邦題は、添えられた副題が作品内容と全く関係がないので世間的にも大いに非難を浴びて副題部分が削除された。でも俺がひっかかったのはむしろ残ったメインタイトルの方だ。
         1960年前後の米NASAを舞台に、黒人女性3人組を主役とした物語である。コンピューターがまだなく、日々の計算業務を人力でやっていた時代、彼女たちはその計算係として雇われている。極めて優秀ながら性別や肌の色で不当に扱われており、その状況に抗っていく姿が描かれている。
         原題は「Hidden Figures」で、「隠された数字」「隠された人」といった二重の意味を載せていると推察される。彼女たちのうちの1人が、白人男性同僚から重要な数字を隠される場面があり、さらに人間計算機としてしか扱われない彼女たちはまさに隠された人々といえる。いや、この場合は隠されたというより「見えてない」くらいの表現の方が正確だ。数字を隠してくる白人同僚はともかく、本作に登場する人々は、総じて悪意がないかあっても自覚していない。つまり積極的に隠してくる主体は存在せず、彼女たちの苦境は他の登場人物たちには(見えてるはずなのに)見えていない。「シックスセンス」状態に近いが、当然本作は死人や霊能者の話ではない。

         というわけで本作は「ドリーム」、夢の話ではない。確かに彼女たちが逆境をはねのけ、成果をあげていく場面だけを見れば、夢に向かって前に突き進んでいく物語といえるのだが、ここで問われているのはその前提である。「ドリーム」という邦題は、その最重要ポイントである前提部分を見ていない。それは単に読解力がないという話にとどまらず、Hiddenの片棒を担ぐ行為になる。なにせ見ていない、もしくは見えていないわけだからね。

         

        「栄光のランナー/1936ベルリン」

         

         これは「ドリーム」の前に見た作品だ。当時の評では邦題のダサさと原題の掛詞(RACE=競走/人種)が消えたことしか指摘できていない。人種差別とかけて、100メートル走と解く、そのこころはどちらもだいたい重病/十秒です、という当時書いたなぞかけは我ながらよく出来ていたと思うので再録。
         本作の主人公は1936年のベルリン五輪で金メダルを4つ獲得する陸上選手なので、「栄光のランナー」であることは間違いない。ただしその「栄光」は手放しで喜べるものなのかを本作は問うている。
         このベルリン五輪は、ナチスが主導していたため、公然とユダヤ人差別をする連中に五輪を主催する資格はあるのかと問題視されていた。米国内でもボイコットすべしの論調が高まったのだが、一方で差別はドイツ国内だけにあるのではないぞと米国の黒人たちは自国を批判している。
         このような板挟みの中、主人公は出場するのだが、開催のために宥和のポーズを取ったドイツでは、当時米国内には存在した人種別トイレも人種別レストランもなく実に快適だという矛盾と出くわすことになる。そして主人公の活躍で最大の差別者であるヒトラーを見返すという胸のすくような展開がある一方で、もうひとつの差別はアメリカ選手団の中で進行し、主人公はそれに加担させられることになる。さらに「栄光」を手にして帰国すると、相変わらず自国のレストランでは入店を断られる。本作の邦題は、これら栄光の背後にある矛盾を反映していない。
         単に作品内容と題がズレているだけなら、読解力のなさに「ダセーなおい」と眉をひそめるだけだが、差別という重い作品主題をすっ飛ばして「逆境をはねのけ栄光」という口当たりのよい部分だけでタイトルを仕上げていく、その視座がどうも気色悪い。洗浄という比喩がまず浮かんだのはこのような構造による。


        「それでも夜は明ける」

         

         原題「12 Years Slave」のまま、12年間奴隷になる男の話だ。まだ奴隷制が存在した南北戦争前のアメリカが舞台で、主人公は奴隷制のない北部の自由州で暮らす市民だったが、騙されて拉致され、南部の農園主のもとで奴隷として働く羽目になってしまう。
         泥酔して目が覚めたら囚われの身になっていたという経緯はまさに、悪夢なら醒めてくれと言いたくなる絶望的な状況だが、残酷なことに現実である。その点「それでも夜は明けてしまう」という意味なら内容に合った邦題といえなくもない。しかし、こんな絶望的な状況でも明日という希望の日は訪れるのだ、というような意味だとすればどうだろう。
         確かに主人公はこの絶望的な状況でも絶対にもとの家に帰るんだという意志を保ち続けている。その点、希望を持つことの重要性を訴えている作品ともとれるが、そのような希望を抱ける主人公はレアケースであることが作中では示されている。もともと南部の奴隷として生まれた人たちは、いわば「それでも明日は奴隷」なのである。希望を持ったところで解決のしようはないし、そもそも多くの奴隷は希望を抱くという発想そのものが希薄である。最初から奪われた状態で生まれ育っているのだから当たり前だ。このような残酷な歴史を主題とした作品タイトルに、明日は来るよとポップソングのようなタイトルは能天気すぎる。


         脱線するが、似たようなタイトルの坂本九の歌があったと思い出して改めて歌詞を見たら、イメージと違う内容だった。明日に希望を抱いているというよりは、大事な問題を先送りしている臆病な坊やの自虐といった印象。その後ヒットしたウルフルズのバージョンでは中年のおっさんの「なあにまだまだ俺も」というような「明日=希望」を歌った内容になっている。wikiを見たら、作詞者は電通出の広告屋だった。本稿の主題ととこか根底でつながっているような気がする。

         邦題の話に戻る。黒人差別を扱った作品だけに見られる現象ではない。

         

        「ビリーブ 未来への大逆転」

         

         法曹界に女性差別が公然とまかり通った時代に、女性の権利のために闘う法学者を描いている。「ビリーブ」というカタカナ語は、「ドリーム」「明日」と同じような意味合いで使用されることが多く、その場合、すでに挙げたケース同様のズレた選択になる。どんな困難があっても自分を信じて明日を信じて、という側面も見い出せないわけではないが、根本的にそのような話ではない。「ビリーブ」を「信念」と解釈すれば、一応は強い信念を持った人の話なので合致割合は高くなるが、これもやはり「そういう話」ではないという点、本質部分をハズしている。
         本作の主人公は、最初にこういう主張をし出した人というわけではない。クライマックスの弁論で彼女自身が先達の歴史を語っている通り、これまでも多くの人が主張してきたことを代弁しているだけである。このため、自身の信念というより、事実がそこにあることを指摘しているという方が近い(まあ男女平等というのは科学でいうところの事実というよりは思想だろうから、その点では「信念」に帰結するのかもしれないが、一応それを事実として設定することで成立しているのが近代国家なので)。


        「パブリック 図書館の奇跡」

         

         寒波の夜に、行き場のないホームレスが図書館を占拠してシェルター代わりに居座る。その様子を通じて、公共とは何かを問いかけるような作品で、原題「The Public」をカタカナにした上で副題を添えるよくあるパターンの邦題だ。必然「パブリック」自体はハズしていないが、これは「奇跡」じゃねーだろという点、副題はズレている。
         「奇跡」とつけたのはこの場合、ホームレスが立てこもる事態を「ちょっとイイ話」くらいのほんわかハートウォーミングとして捉えているからだろう。だが本作のような出来事が起きたのは、やむにやまれぬ事情が理由だから奇跡というよりむしろ必然である。奇跡の部分はどちらかというと、主人公のアパートの大家代理を務めるがさつな美女が割と脈絡なくホレてくる点だろう。あの展開は、寂しんぼのおっさんにしてみると実にハートウォーミングな奇跡であるが、まったくもって作品の本題ではない。
         本作の場合、ラストのオチによって、タイトルが問いかける「パブリック」についてウヤムヤになってしまった感はある。このためこのような邦題を呼び寄せてしまったところはあるだろうが、「奇跡」とつけてはばからないのはあまりに無邪気でナイーブだ。わが国が、一億総トワネット社会なら「奇跡」として消費するのもやむを得ないが、実際のところは本作が描くところと何が違うというのか。むしろ日本の場合は図書館職員自体が要セーフティネットになっているのでより深刻だ。


        「テルアビブ・オン・ファイア」

         

         これは原題をカタカナにしただけなので邦題の問題ではない。たまたまチラシを見たので知ったのだが、添えられたキャッチコピーが酷い。「人気ドラマの結末をめぐり、民族の対立!?」「紛争なし!/爆発なし!/笑いあり!」。
         1つめは「!?」がすべてだ。「!」だけならまだよかった。民族は対立している。それを前提としている作品だから「?」が介在する余地はない。いや「民族の対立」という理解はパレスチナの実情にあてはめれば単純化し過ぎだ、という現場からの指摘があってそれを踏まえたと仮定するなら「?」はあり得るかもしれないが、当然そんな専門性豊かな厳密な視点があるはずはない。
         「?」を添えた発想は、2つめのコピーによく現れている。パレスチナで起きていることについては興味がないということだ。正確には、チラシを作った側が、パレスチナの深刻な部分を切り離さないと売れないと思ったということだろうが、広告屋自身もそこに興味があるかといえば、かなりあやしいと思う。
         本作の「笑い」、ひいては本作自体民族対立がなければ成立しない、というか、そもそも作る動機がない。別の言い方をすると、紛争や爆発が出てこなくても作中には民族対立がある。そこを切り離して「笑い」「笑劇のラスト」を強調することが、宣伝をするには現実的な判断だということなのだろうが、そう考える思考回路における現実とはいったいどのようなものなのだろう。


         いずれの邦題にも共通しているのは、差別なり民族問題なりに対する理解の貧しさだが、それは原因ではなく結果のようにも思う。改めてこれらの邦題を並べて感じるのは、作品で描かれている社会なり構造なりに対するまなざしのなさだ。個人の心持ちやアクションにしか目が向いておらず、社会はせいぜいその個人の奮闘が起きるための前フリでしかない。

         実際には主従が逆で、「テルアビブ〜」の場合、構造そのものは物語にならないから個人に象徴させて描いているというのが本当のところだと思うし、「それでも〜」も同様だ。「栄光〜」「ビリーブ」は名のある個人の伝記の側面が強いから、主従が逆は言い過ぎにしても、両輪であるのは間違いない。そこを切り離して個人のカッコよさだけにしか目がいかないのは、思考回路に社会が抜け落ちている分、感染症や災害に対して自助努力しか思いつかない発想とかなり近い距離にある。

         

         さらにもう一つマズい部分は、わが身に当てはめられない感覚である。黒人差別、女性差別、ホームレス、民族対立、全部がまるで遠い異世界の問題のようにとらえる感覚がぷんぷんと漂っている。よそへの蔑視に直結する発想ねこれ。

         

         さて一方で、ただのダサい邦題としては、このブログで取り上げたものでいうと「恋人までの距離(ディスタンス)」「恋はデジャ・ブ」がある。こちらはダサいのだが、作品内容からはそれほどハズれていない。「恋」という個人的なことが主題だからというのが大きいのではないか(ところで前者の俺の評を読み直したが、いやはや酷い内容で、俺も俺でダサかった)。

         

         ここまで書いて、新装版の「日本のいちばん長い日」で書いたことを思い出した。わざわざ焼き直しを作るにあたって、元作にないものを持ち出そうとした結果が「家族」なのはなぜだろうと問いを立てた割には、その答えを書かないまま終わっていた。いまいちわからなかったからだが、国家が無条件降伏を受諾するという思い切り社会的な話を前に、作り手側が考えられた「社会」が家族しかなかったということではないのだろうか(それも登場人物の挿絵程度にしか登場しないので厳密には「家族」ですらない気もする。戦後70年目の着地点がこれというのも…)。

         

         重いテーマを扱った作品を前に、その重い部分をしれっと捨象してしまう感覚、何だったらそれが商業的に正しいとしてしまう感覚は、今の日本社会を考える上でのかなり核心部分に近い一つのような気がして、長々と書いた。邦題はそのひとつの現れに過ぎず、問題は今の日本のありようなんだが、こういうのは目についたところから1つ1つ考え直していくしかない。まあ俺がこれらの作品を見れるのは、字幕つけて配給してくれる会社があるからで、そこは感謝するにしても、配給・宣伝する側の責任は見直してしかるべきではないのかね。
         そしてここまで書いてもまだいい比喩表現が思いつかない。


        【やっつけ映画評】誰がハマーショルドを殺したか

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           ハマーショルドという名前を覚えたのは中学生のころだったか、社会科の図説教材に歴代国連事務総長が顔写真付きで載っていて、それをわけもなく覚えたのが最初だった。社会科が好きになる子供は誰でもそうだと思うが、「歴代何々」の類を覚えることそれ自体が楽しく感じてしまう。ただし試験には出たためしがない。どういう人かも知らないまま年を取り、「映像の世紀」か何かで、謎の墜落事故で死亡していたことをようやく知った。


           「謎の」といっても、おそらく殺されたのだろうという点、謎ではない。ただし、じゃあ誰が何のために、という点では「謎」だ。本作はタイトル通り、そのハマーショルド墜落事故にまつわる陰謀説を取材したドキュメンタリーであるが、最終的にこのタイトルはダブルミーニングのようになっている。

           

           メタ的な凝った構造で映画は始まる。監督が、これから詳らかにしてく取材内容をタイピストに語って文字起こしさせている。ついでに、「この映画は僕が一人でソリティアをしているところから始まる」と、編集の構想を打ち明けると、まさにそういう場面が出てくる。こういう実際の取材映像と、後からしつらえた作りの映像を混ぜる演出は、いかにも今時のドキュメンタリーという印象だ。

           作品導入部のツカミとしてはなかなか気が利いている。引き込まれる演出だ。だけどこのタイピストとのやり取りは、導入の演出というだけにとどまらず、合間合間にしょっちゅう挟まってくる。こうなると、そのうち鬱陶しくなる。加えてなぜか若いのとベテランの2人タイピストがいて、何の説明もなくこの2人が繰り返し入れ替わっている。

           

           ドキュメンタリーと演劇的な作りの部分のバランス。これが功を奏する割合は9:1なんじゃない? 本作は過分。鼻につく、ついでに映画館に来る前に別の用事で猛暑の中をうろついて疲れていたから、眠気に襲われ出して往生した。ま、これは個人的事情。

           

           目が冴えてきたのは、中盤で監督が自省し出す場面だった。断片的な材料はいくつか集まるものの、全体として取材が大して進まない。これでは映画にならない。「そこで僕は演出で誤魔化すことにした」と打ち明けだす。ここまでの映像は作りの部分が過剰でしたという懺悔だ。自覚あったんだな。ついでに作中で自身の作品の評価を語るメタ具合も開き直りがすごい。そして「タイピストがなぜ2人なのか僕にもわからない」。わからんのか。

           

           こういう居直り懺悔で終わっても仕方がない。つまりここからが本題とばかりに、急展開をみせる。重要な証言者との接触に成功し、まるで仕上がった陰謀論のような話が次々明るみに出る。
           この終盤の畳みかけは見事で、すごいもんを見てしまったと感慨も深かった。しかし登場人物が多く、中盤まで寝入りそうになりながら見ていたものだから、誰が誰だったか混乱したままの部分もある。このため珍しくパンフレットを購入した(キリがなくなるのを恐れていつもは買わない)。

           

           見れば佐々木俊尚の評が収録されている。曰く、本作は衝撃の事実を暴いたドキュメンタリーのようだしフィクションのようだし、その意味ではポストトゥルース時代を表象している――。
           賢しらな大学1〜2回生のレポートに筆力を足したような屁みたいな評だ。何ひとつ自分で考えようとしない学生はしばしば、ネットでテキトーに調べたことを書き並べて「確かなことはわからない、しかし一人一人が向き合うことが重要だ」とかなんとか、お前誰やねんという高みからの訓辞を添えてレポートと称して提出してくる。それと変わらん。さぼってんじゃねえよ。どっちかいうとパンフの作成者が。こんな評で納得するな、突き返せ。次の森達也の評も酷いな。思い出話で終わらせてどうするんだ。本稿も思い出話は序盤で終わらせているぞ。似たような手法でやろうとした先達としての分析があるだろうに。


           本作の内容はかなり衝撃的である分、にわかには信じがたい。監督自身も、この映画は闇を暴いたのか陰謀論に乗せられただけなのかと作中自問自答している。実際、完全に裏が取れたとは言い難い。


           しかしそれでもって、嘘か真かの二択でしかとらえられない⇒真実の不確かな時代、ではまるで素人、「宝くじの当選確率は当たる/当たらないの50%」といっているに等しい。これだとマドンナが爬虫類人である可能性もディープステートの存在も5割になってしまう。この点、佐々木の評自身がまさしくポストトゥルース時代を表象しておる。信じる信じないに問いを回収させて考えることを放棄している。


           


          映画の感想:恋する惑星

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             香港の掛け値なしの弾圧をニュースで見るにつけ、古い映画が妙に意味を持っているように思えてきてしまった。


             ウォン・カーウァイ(王家衛)がブームになったのは俺が大学生のころだった。映画といえばハリウッドの話題作と「意味不明のフランス映画」、そして日本映画、くらいの貧相な分類しか持ち合わせていなかった田舎者が、都市部の文化ブルジョアたる友人から色々と教えられてちょっとずつ詳しくなっていったころだ。

             

             アジアの新鋭、というような格好で色んな雑誌で大々的に取り上げられていた。まだ韓国映画のカの字も日本にはないころだから、カンフー以外のアジア映画をまず想像できない。ついでに日本映画も俺にはピンと来ていなかったころだから、全く興味が湧かない。ところが俺に色んな映画を教えてくれた友人は「面白い」と言っている。


             「どんなん」と尋ねると「話らしい話はないけど、何かオモロイ」という。こういう感想は映画を色々見れば必然的に顔出す典型的な感想の一つにしか過ぎないのだが、当時の俺は、こういう感想の意味がわからない。それどころか、何かスノッブめいたものを感じて反発すら覚えてもくる。ついでに友人が付け足した「映像は綺麗やな」という感想も、同じく意味不明だった。映像が綺麗というのは、こと映像の話だけに誰にとっても一目瞭然のようで、そうでもない。絵画に詳しくない状態でモネの睡蓮を見せられても、別に汚いとは思わないし、綺麗だとは思うにしても、「で?」という感想の方が先に来てしまう。それと似たようなものだといえば伝わるだろうか。あのころ俺はわかりやすい意味のようなものが伴わないものは理解できなかった坊やだった。

             

             そんなやつが会社を辞めてまで舞台や映画を作ったりしていたのだから我ながら凄いものだ。世間的な評価はろくにないから才能なんかちっとも持ち合わせていないわけだが、「できる」と「好き」は似て非なるものなんだな。


             当時の俺の幼さについては、くだんの友人にもとっくにバレていて、お前は好かんやろうと薦めてはこなかった。後になって同じ監督の「天使の涙」ならお前も面白いと思うんとちゃうかと薦められて、そちらは見た。タバコをやたら吸っていたことと、金城武が女をバイクの後ろに乗せて疾走していたことしか覚えていない。


             あれから20年以上たち、ようやく本作を見た。恋がすれ違う男女が2組出てきて、個々の場面には印象に残るものがありつつ、全体として何だといわれるとよくわからない。それで「何だこれは!」となる初心さはもうないが、でもやっぱりそんなに好きではないなあとは思った。たまたま人から「ガリガリ君のパイン味が美味い」と聞かされて、それを食べながら見ていたら金城武がパイン缶をバカ食いするシーンがあった。ガリガリ君のパインが想像以上に美味かったこともあり、俺の中ではパイナップルを馬鹿食いする映画という収まり方をした。


             このパイン缶のくだりも、日付にこだわってあえて古いものを買うという描き方が村上春樹みたいだと思った。ろくに読んだことがないんだが。なぜ大して読んでいないかというと苦手だからで、仮にも話を書いている人間がそれはどうなんだというコンプレックスに見舞われるのだが、いざ読もうとしてもやっぱり苦手なのだから仕方がない。

             

             脇役たちが多民族多言語で(金城武も語学堪能な一面を見せる)、どういう事情かわからんが何やら物騒な連中が出てくる辺り、いかにも香港だなあというのが面白いのだが、当時熱狂的に支持されたであろう本作が持つ洒落たテイストは、おそらくその後色々な形でさんざん消費されたからだろう、「こういうのが格好いいとされた時代は確かにあったなあ」という文化史を見たような気分になった。

             

             悪く言えば「こういうのこそよい」とされたいかにも90年代な作品であるが、この何も切羽詰まっていない作風が、現在地から見るととても幸せなことだと思う。これ香港返還前の作品なんだよなあ。全体主義国家だといかにも「退廃芸術」として葬られてしまいそうな映画だから、自由の象徴みたいな作風だともいえそう。まあ中国の場合、政府批判を指摘されなければ無事なところがソ連なんかとはちょっと違うところだろうが、この辺の匙加減はよくわからん。

             

             ただしそれは、本作がすっかり過去の作品になっているからで、内容が本作同様恋愛をテーマにした雰囲気先行の作品だったとしても、90年代における本作がごとくどこかが大変に新しかったらやっぱり制作は無理なんじゃないか。新規なものはどこかに批判精神がないと成立しない。そして自由が保障されている体制では、その批判精神の向く先はてんでばらばらだが、抑圧体制になると批判精神は全てそこに向かわざるをえない。人権が蹂躙されているのに「色使いはこうあるべきだ」とかやってる場合ちゃううやろとなってしまうからだ。このため体制側も新規なものには敏感になる。やっぱりワイダ「残像」みたいなことになるんじゃないのかな。

             だもんで、大々的に宣伝している新作映画が、今日から俺はだの糸だの、昔の貯金で生きてますの居直りがすごいわが国は自主抑圧社会なのである。

             

             作中なんどもかかるクランベリーズの「ドリームス」(香港バージョンのカバーだが)も、当時はあんまり好きではなかった。今聞くとこの曲は、ドラムが大変に素晴らしい曲だとわかるが、これはバンドで間近にドラムを聞いてきたせい。クランベリーズのボーカルも亡くなってしまったが、さて。
             後半の主人公である店員女性が、芝居仲間の河上さんにどこかしらうっすら似ていた。

             

            「重慶森林」1994年香港
            監督:ウォン・カーウァイ
            出演:トニー・レオン、フェイ・ウォン、ブリジット・リン


            大声ドラマの感想

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               一時期、自身のPCでインターネットを見るたび、おっさんの目元のたるみを取り除くという商品の広告が表示されていた。写真が気色悪い不快な広告だったが、風呂場で自分の顔を鏡でしげしげと見つめると、確かに下の瞼がはれぼったくなっているのに気づいた。そういう点ではよくできた広告なのか。買おうとは思わないからそうでもないのか。


               半沢の続編に「おっさんだらけやな」とまず思ったのは、以上の経緯につき目元の三日月に敏感になっていたからだった。頭取に至っては餃子級のたわわぶり。これが北大路欣也だから、たるみも貫禄の証かと思えるのだが、他のおっさんたちがどいつもこいつもパワハラオヤジだから、たるみはやっぱりヤなものに見えて、つい顔をマッサージしてしまった。


               猿之助演じる伊佐山部長に至っては通院を勧めた方がいいのではないかと思われるくらいの常軌の逸しぶりだった。「お・ま・え・の・負・けぇ〜〜」、これは悪役の演出という意図だろうが、憎らしさよりも心配が絶えなかった。
               こういう悪役に仕返しをして留飲を下げるベタで古臭いドラマであるが、そう思いながらつい見てしまうのは池井戸ドラマの常である。しかし、倍返しだ何だのとは無縁に飄々としたまま本社のよさげなポジションについている及川光博が最も優秀なのではないか。


               それにしても半沢は、あんな苦労して周到に準備しなくても、少なくとも伊佐山についてはパワハラ相談室に行けば一発で解決だろう(子会社だから自社内に比べると話はややこしくなりそうだが)。あんなのが正面から戦うべき悪役として扱われているのは、「主人公が格好良くタバコを吸う映像」と正負の方向が違うだけで懸念される悪影響は同質なんじゃないか。少なくとも「あんなのパワハラじゃないすか」と、脇役に言わせるくらいは要ると思うが、そういう台詞は一切ないのであのドラマの世界はパラレルワールドである。


               このちぐはぐな浮世離れ感はツライ。日本企業が世界最高峰の検索エンジンサイトを開発・運営しているという設定同様ツライ。例によって半沢の妻が「仕事に生きる俺様にとって実に都合のいい良妻」で、お花の教室に通っているという設定同様ツライ。


               何よりツライのは、男ばっかの登場人物がわが身を振り返させられる点。自分が過去に書いた作品も、男ばっかで、そういうのしか自分は無理だからと気にしないようにしていたものだったが、それは自己都合の正当化ではないかと本作を見ていると反省させられてくる。

               他にも男ばっかの作品は世の中いくらでもあるけど、本作の場合は以上のような無邪気なちぐはぐさのせいで、それがやけに目立って感じられるんだな。まあとりあえず、これが企業ドラマとして成立してしまうところに日本の銀行=多くの日本企業がパッとしない理由があるんじゃないかしらね。

               

               といいつつ見ている。困ったものだ。前半の悪役たちが退場したわけだが、副頭取まで首になったのに頭取が何事もなかったように鎮座しているのは、これは君側の奸理論ではないのか。そして唐突に補足するけど、維新を半沢のような存在と思っている人は多いが、アレは半沢じゃなくて副頭取やモロタの方だからな。

               

               くだんの検索エンジンを作った会社の社長が、ITの社長のくせに万年筆という古臭いものを使っていると自嘲する場面があったが、万年筆より「社長瀬名某」と書いた黒い名札が置いてある方がよほど気になった。「捜査一係藤堂」じゃあるまいし。


              【やっつけ映画評】お名前はアドルフ?

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                 ドイツの夫婦が、親族らを招いて食事をしたところ、そのうち1人がまもなく生まれる自身の長男に「アドルフ」と名付ける、と言い出したことから口論となり、やがて家族たちそれぞれの秘密が暴かれていく――。

                 大意こういうストーリー紹介を見かけ、舞台を作っていたころを思い出した。自身が話を作る際の着想方法として当時拠り所としていたのは、こういう日常の中に少々現実離れしたような出来事を放り込むとどうなるか、という方法だった。創作がすっかり滞っている身からすると、本作のストーリー紹介は、昔自分が目指していたことを見せつけられたような気がしてきて惹かれてくる。


                 実際、良くも悪くも「よく出来た舞台」のような作品だった。というか現地でヒットした舞台作品がもとになっているらしいが、良くも悪くもなどと勿体つけた留保を添えたのは、舞台を固定した閉鎖シチュエーションの話はやはり性に合わないのと、中盤から名付けの話が消えてしまったのが理由だ。

                 

                 何度か書いている話だが、本作のように、自宅の部屋で延々喋り続ける場面転換の少ない話は、舞台ではひとつの理想とされている。おそらく本家の演劇作品は、幕が開くとほとんど暗転せずに、役者たちはずーっと喋っているのだろう。

                 暗転がないというのは「一方そのころ隣の家では」とか「それから数日後」とかの時空間の跳躍がない。舞台作品は、科学的な意味で固定された場所を見続ける娯楽であり、場面が変わる場合は、科学的には同じ場所だが物語世界内では別の場所であるという一種のウソを観客が了承することで成立している。一場面固定の作品は、そのウソのお約束を取っ払うところに潔さがあるわけだが、同じ場所に同じ人物たちが居座り続けて話に起伏を持たせるのは難しいので、しばしば強引な展開になってしまう。


                 映画の場合は、舞台に比べて場面固定の困難さが際立つ。同じ部屋の似たような映像が続くと退屈極まりないことになるからだ。このためあの手この手でちょっとでも変化をつけようとする。おそらく自分でも似たような設定で作ったことがあるからだろう、その作為が妙に引っかかってしまうんだな。


                 なるべくその辺は気づかないふりをして楽しもうとしたのだが、名付けの話が割とあっさり消えてしまって、あとはただのどたばたスラップスティック。ただの「好きではないジャンルの作品」を見る格好になってしまった。

                 

                 冒頭、ドイツ各地にある道路の名前に関するうんちくがモノローグで語られるので、「名前」をテーマに置いて始まったはずなのだが、そのテーマのままうまくまとめることができなかったということか。一場面モノにこだわらなければもう少しなんとかなったようにも思う。

                 

                 昔あった悪魔ちゃん騒動のような話だ。親が子供に眉をひそめるような名前を付けるのは法律的には可能なのか、受理を拒んだ市の対応は妥当なのかといった点、法律とか市役所のあり方とか、ちょっと考えさせられる興味深い出来事だったと思うが、本作の場合は、歴史との向き合い方が主題となる。

                 

                 元々は「ゲルマン系の一般的な男性の名前」でしかなかったものが、特定の人間によって強烈な色がついてしまえば、もうもとの「ありふれた名前」には戻れないのか。息子にアドルフと名付けると言い出す男は、そのような問いを発する。実際「アディダス」の社名は、創業者が「アドルフ」だったところに由来するが、「アディダス」という名前に引っかかる人はいないとこの男は主張する(アドルフ・ダスラーというので、フルネームの響きもまあまあ似ている)。

                 

                 


                【やっつけ映画評】パブリック 図書館の奇跡

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                   上下水道とゴミ収集の次に世話になっている公共サービスが、俺の場合は図書館だと思う。図書館ヘビーユーザーだった両親の影響もあるし、大学以降は調べものの利用も加わった。
                   調査利用をする身からすると、希少資料を所蔵している図書館ほど「よい図書館」になる。国会図書館がその筆頭だが、地方の図書館は郷土資料はともかく、それ以外となると心もとない。所蔵資料の潤沢さ(さらにいうと、図書館そのものの種類の豊富さ)は都市部にアドバンテージがある。俺にとって図書館の充実は、有名作品の来る美術展、海外ロックバンドの来日と並ぶ「都会かどうか」の指標の一つだ。
                   と思っていたが、こういう公共施設の充実は「無駄」ということになって久しい。維新を信用しない理由なんて、国際児童文学館を潰した一件だけで十分足りる(という言い方に違和感が出るくらい色々ありすぎるが)。代わりに中之島に「こどもの本の森」なるものが出来たが、図書館法に基づく図書館ではないといい、蔵書数からしてショボい。立地や見かけの話題性と合いまった羊頭狗肉ぶりはいかにも今の大阪である。


                   そういう俺からすると、図書館を舞台にしている時点で俄然興味が湧いた本作であるが、図書館=蔵書という側面はあまり描かれていなかった。つまりこの原稿もこういう書き出しにする必要性は全くなかった。単に映画の邦題にかこつけて文句を書きたかっただけだ。

                   

                   以前に紹介した「ニューヨーク公共図書館」で示される図書館像と同じ「社会の受け皿」としての機能にフォーカスした内容だった。まさしくタイトル通り、パブリックとは何か、がテーマになっている。


                   図書館とはセーフティーネットであるというのは、アメリカでは広く共有されている感覚なのだろうか。本作登場人物の台詞のいくつかは「ニューヨーク〜」で登場する本物の職員も口にしていた。日本でも一応そういう部分はあるのはあるが、当の司書の人々自身にセーフティーネットが必要な惨状になっているから存立危機事態である。


                   主人公のスチュアートが勤める図書館には、毎日のようにホームレスのグループが訪れてトイレで歯を磨いたり、読書したり、インターネットで遊んでいたりする。スチュアートは彼らと真摯に接しており敬意を持たれているのだが、ある寒波の夜、ホームレスたちが「外に出たら凍死する。シェルターは満杯」として、閉館後の図書館に強引に居座ることとし、スチュアートは彼らの実力行使に巻き込まれることになる。
                   そうして警察がやってきてにらみ合いとなるのだが、ここからの展開はまさに今アメリカで起きている出来事と同じで実にタイムリーだ(日本での公開が今になっただけで、2018年の映画だから予言的作品ともいえる)。ホームレスたち(と、彼らに同調することを選ぶスチュアート)は、単に居座っているだけだ。居場所がないことに加え、邪険に扱われていることへの抗議というデモ的な要素もある。不法占拠にはなるが、犯意という点では大したことではない。

                   

                   一方、現場に居合わせる検事は、スチュアートが「ホームレスたちを人質に立てこもった凶悪犯罪」であるとして強硬手段に訴えようとする。この検事を演じるのが久しぶりに見かけるクリスチャン・スレイターで、かつてのイケメン俳優もすっかりおっさんなのは時の経過から特に驚きもしないのだが、李明博に妙に似ていたのが意外だった。七三と眼鏡、高圧的で陰険な役どころが手伝っているのだろうが、それにしても瞬間瞬間そっくりになるところがあって可笑しかった。逆に考えると、外見には特に見るべきところもないあの元大統領も、若いころは男前だったということだろうか(現職文在寅の若いころは笑かすほど男前だが)。

                   

                   抗議行動に対して、意見に耳を傾けることをはまったくせず、犯罪者だとして警察を投入するのはトランプがやっていることと全く同じだ。彼が排除によって解決を図りたがるのは、これまでずっと差別的言動で支持を集めてきたから選挙対策ともいえるわけだが、本作の検事も、市長選に立候補中で、支持率の劣勢を挽回するためにやっている様子が描かれている。

                   

                   ただし、この検事は序盤で憲法が定める人権を根拠に、スチュアートたちを説教しており、どうもちぐはぐである。それ以外にも、交渉人刑事の息子が薬物中毒で家出中という設定が、(オピオイド問題という時事性はあるものの)物語の中で浮いていたりと、脚本はそれほど巧いわけではない。「がさつな美女は主人公に都合よく惚れがち」という部分も、時事性の強い作品だけに、その古臭さが目立っているように感じた。

                   

                   それでも要所要所に笑える部分があったり、図書館への愛がうかがえるところや、図書館職員が総じて誇り高いところ、なんでか納得させられてしまうラストのオチもあり、全体的にはおもしろいいい作品だと思う。

                   

                   さてこのラスト、笑いによってどこか問題をうやむやにされているような気もしないでもないが、抗議行動につきまとう敵愾心をどうするかという点では面白い提示といえるのかもなと思った。


                   


                  【やっつけ映画評】リチャード・ジュエル

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                     「朝、遅刻しそうだとパンを加えながら慌てて駆けている女子学生が角で男子とぶつかって、というマンガでよくあるやつみたいな」などと若いのが言うのをつい先日目にした。今時の若い衆にもこの「あるある」は生きているんだなと何か発見をしたような気がしつつ、さてそもそも出典は何なのかが気になった。


                     wikiの説明では、明確な出どころは確認されいないらしい。「運動会で順位をつけないために手をつないで横並びでゴールテープ」と同じく、都市伝説、要はデマの類ということだ。

                     初出として確認されているのは「サルでも描けるまんが教室」で、この作品内ではすでに「あるある」として紹介されている。俺もリアルタイムで読んだ。兄が愛読していて「これ笑える」と見せてきたのだが、不思議なもので、その時点で俺も兄も既視感を覚えながらゲラゲラ笑ったのだった。本当は見たことがないのに、「あるある」と思って笑ったのはどういうメカニズムなのだろう。


                     本作で登場する女性記者(実在の人物)が、色仕掛けで捜査官から情報を引き出すシーンは「ステレオタイプを助長する」と非難されている。このステレオタイプは俺も見聞きしたことがある。例えば「レディ・ジョーカー」では、週刊誌記者が「うちの爆弾娘が肉弾戦で凄いネタを取ってきた」などと語る台詞がある。

                     これが本作と異なり妙にリアルなのは、男性の週刊誌記者が男性の新聞記者にそう話している(実際のその場面は描かれていない)という点だ。しばしば男性同士が「あいつはそうらしい」と語る。数年前にも知人がそう言うのを聞いて、いまだにソレは生きているのかとちょっと驚くと同時に、知人の生々しいミソジニー側面を知ってしまいたじろいでしまった。

                     「体を使ってネタを取る」記者は過去に本当に存在したのだろうか。情報源のおっさんの側がそれを期待して「浮気しよう/縛っていい?」と迫るケースは財務省で1件、実在が確認されている。あと男性記者が賭け麻雀で情報源と犂愀賢瓩鮖って、結局何も記事に書いてない例が1件ある。


                     この場合は、デキる女性に対する男性の嫉妬から発せられている&男性側に「女はそうに違いない」という蔑視が手伝う、というメカニズムは想像がつく分「パンの女子」よりは謎めいていないのであるが、本作の主人公リチャード・ジュエルについても、働いているメカニズムは似たようなところがある。


                     「アイ,トーニャ」では虚言壁のバカ、「ブラック・クランズマン」では底辺白人至上主義者を演じた俳優が演じている。どちらも大変にそれっぽいというこちらの色眼鏡にかなった風貌の役者であり、本作ではずっと知性はあるものの、何だか危なかったしいところは共通の役どころを演じている。

                     FBIが彼を重要参考人としてピックアップしていくプロファイリングという手法は、正味のところ「なんかアヤシイ」というだけの素人かよという捜査に過ぎないのだが、確かに「なんかアヤシイ」説得力はある。残酷なキャスティングである。いかにも友達がいなさそうで、承認欲求は強そうで、自作自演の爆弾事件で英雄になりたそうな外見、という色眼鏡である。

                     90年代が舞台だが、今だとさしずめネトウヨを気取って民族差別デマを振りまいてそうな外見、という色眼鏡になる。これも、やたら太っちょのそういうヤツを見たり会ったりしたことがあるわけでもないのに、いかにもソレっぽいと思ってしまうのはなぜなのだろう(例えば「主戦場」の登場人物にこういう外見のは1人もいない)。

                     

                     決定的な証拠がないので、FBIも逮捕状を取れず、違法な捜査で外堀を埋めていこうとする。その1つとしてFBIが地元紙にリークしメディアスクラムが起きる。これだからマスゴミは、と非難するのは容易いのだが、そういう人は同時にリチャード・ジュエルの無実を信じることもしないんじゃないかしら。おかしなもんだ。単に見えている物事に対して反射的に嫌悪感を抱いているだけだからそうなるんだろうな。

                     

                     本作が、他の冤罪モノと異なる点の1つは、当人が捜査機関に対して非常に従順である点で、この部分は特に日本社会においては啓発ビデオ的な部分になるのではと思う。

                     本邦社会は警察が好きだ。刑事ドラマでは悪徳上司が出てくるのが定番で、不祥事のニュースを見ると「また大阪府警か」と訳知り顔で呆れる割には、治安向上のため警察権力を強化する、なんてな話にはあんまり反対しないし、警察官が路上で男を押さえつけていたら、その男が悪人に違いないと疑いもしない。リチャードの場合は、警察官志望で夢かなわず警備員をやっているという人なので、その思いは余計に強い。

                     

                     仕事柄、警察官を志す若い衆をちょこちょこ相手にするのだが、悪を懲らしめるヒーローになりたい、といったリチャードのような素朴な憧憬を抱いているのも少なくない。そしてそういう学生はしばしば、シュタージか西部警察かっていうくらい憲法全無視の主張を無邪気にしてくるものだ。多分、リチャードが警官になれなかったのはそのせいだ。事件を通じてその考えが間違っていたことに悟った後の彼の足跡を見るとよくわかる。その点でも、刑事分野での人権を学ぶいい教科書みたいな作品だった。


                     FBI側がろくに証拠もないまま立件しようとしている大変に筋悪な事件につき、法廷モノにありがちな敏腕弁護士の機知による大逆転とかの派手な展開は何もない。その地味な話を例によってソツなく重厚なドラマにしてくるタフガイジジイの演出力は、毎度のこととはいえどういうテクニックなのかしらと舌を巻く。

                     あやしげな捜査を補うように報道にリークして既成事実化を狙う辺り、松本サリンの河野氏とリチャードは重なるのだけど、あちらをテーマにした「日本の黒い夏―冤罪」は、なんだか甘っちょろい作品だった。記者にフォーカスしたせいかもな、と、本作ではあくまでサブ的要素となっている地元紙とやり合うシーンを見て思った。


                    「RICHARD JEWELL」2019年アメリカ
                    監督:クリント・イーストウッド
                    出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ


                    【やっつけ映画評】ドゥ・ザ・ライト・シング

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                       スパイク・リーの代名詞的な30年ほど前の作品(そして未見)につき、こちらも今見るべきだろうと考えたのが、結構困惑させられる作品だった。警察官が黒人青年を過剰に制圧して窒息死させるとか、「俺は将来この街にビルを建てて不動産オーナーになる」と夢を語る人物が「トランプかよ」と茶化される台詞があるとか、期待通り(後者は予想外だが)妙にタイムリーな部分はあるのだけど。


                       大きめの小屋で大人数でやる演劇のような作品だという印象を受けた。といっても大方の人には意味がわからないだろうから説明しよう(前にも書いたかもしれんけど)。
                       大きめといっても世間基準では中小のホールだが、俺たちゃ自らを「小劇場」と称しているので、このクラスでも結構な大箱になる。当然使用料金もそれなり嵩むので、客を集めないといけない。その一番手っ取り早い方法が出演者を増やす=知り合いがようけ来てくれる、である。ただし問題は、20人かそこらの役者をどうやって全員出すのかである。20人にそれぞれ役を振ったとしても、歌う、踊る、集団でガヤガヤする、最高裁判所の話をやる、でもない限り、1つの場面にそんなにたくさんの役者を出すのはかなり難しい(酒の席なんかで「通行人Aでいいから出して欲しいわ」と冗談で言ってくる人がいるが、演劇の場合「通行人A」なんていないんだよ)。


                       なので、1〜4人程度のグループが右から現れ、いくつか台詞を喋って左に来ていく、といった具合に、舞台上にいる役者を次々と入れ替えていく手法を取る。「麒麟がくる」を借りて説明すると、十兵衛と左馬之助が会話をして「よし尾張に行こう」とソデに消えると、信長と帰蝶が出てきて会話して消える。入れ替わりで東庵と駒が現れ会話してるところに菊丸と藤吉郎が現れて、駒と3人でわちゃわちゃする。たまに朝倉義景が笑いを取る。といったことの繰り返しで展開させる。
                       うっかり大河なんか例にとるから重厚なドラマをイメージしそうになるが、そんな筋の通った話なんか書けないor書く気がないというケースがほとんどなので、1つ1つの場面に話らしきものはあっても、全体の流れはそれほど明確ではない。こういうスタイルの常として、役者陣は総じてハイテンションだったりキャラが濃かったりするのだが、話らしい話がない分、各登場人物の行動原理がよくわからないので、なぜ叫んでいたり揉めていたりするのかついていけないこともしばしば。キャラの濃さだけが悪目立ちすることになる。


                       本作は、こういう演劇ととてもよく似ている。
                       ブルックリンの街、それもせいぜい2〜3ブロック四方くらいの狭い街区を舞台に、そこで暮らす住民たちの1日の様子が描かれている。多くのキャラクターは決まった組合せで登場する上、場所とセットになっていることも多い。場所を移動するキャラクターも何人かいるが、貧しい黒人が多いエリアで多くが失業しているせいか、あまり目的もなく日がなぶらぶらしているだけという様子である。そして出番の多い主要な登場人物は戯画化された特徴を持っている。要するにキャラが濃い。これら各登場人物の日常風景の断片が入れ替わり立ち替わりで展開していき、話らしい話は希薄である。

                       

                       というわけで、はてこれはどういう映画なんだ?と困惑し、そして昔よく見た演劇そっくりだと思った。問題はすでに紹介したこのスタイルの舞台作品が、俺自身は苦手な点である。なんとなく好かんな〜と思いながら見る羽目になった。
                       余談だが監督自身は主人公のムーキーを演じているが、舞台の場合はあまりこういうことはなく、劇団の代表はラジオDJを演じていることが多い。全体を俯瞰するポジションにいて、かつ傍観者、そのくせ妙に目立つ、要するに最もおいしいポジション。俺はそういうお約束を避けたいクチなので、本作でいえばピザ屋の兄弟のどっちかをやると思う。地味かつ比較的台詞が多い損な役。

                       

                       スパイク・リーといえば当然、差別問題を期待するわけだが、本作で描かれているのは「弱いものがさらに弱いものを」の構図のやつである。イタリア系が黒人を見下し、黒人は韓国人を見下しているが、アングロサクソン系からは総じて見下されている側になる。この街の住民としては1人だけアングロサクソン系白人ぽい若者が一瞬登場するが、「ここは自由の国だよ」とやたら態度が軽やかで、難関大学のやつほど学歴を気にしない図式と同じである。

                       一方、警察官はラスト以外は割とのんびりしていて、そこまで威圧的ではなく、むしろ公平な態度を取っている。今問題になっているのは、警察、ひいては大統領自らが差別を撒き散らしているから、それに比べるとずっと牧歌的に見える。

                       

                       「13th」によると、80年代は(すでに今と同じ警察による犯罪は起こしつつも)今より警察が重武装じゃなかったり刑罰強化の方向性が始まったばかりでその後ほどはひどくなかったのかもしれない。ついでに時代が未来へと向かっている明るさのようなものが今よりもあったはず。なのでかどうか、ラストもDJの「投票に行こう」という台詞で締めくくられており、全体的にはカラっとしている。30年後の今見ると、そのことにまず暗澹たる気分になる。退行しとるやんけ。

                       

                       8割方ダラダラと展開しながら、最後の最後に一気に緊迫して暴動&死者発生になる展開も、くだんの演劇っぽいのであるが、警察がさして役に立っていない(どころか1人死なせている)のは見逃せないポイントである。普段の鬱憤の積み重ねが、くだらないことで爆発した格好の騒動であるが、結局これを防げるのは行政しかない。警察が役に立つのは、悪ふざけで水をぶっかけるシーンや、爺さんが子供を助けてトラブルになるシーンで場を収める役回りのときだと思った。

                       

                       

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