裏から目線

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     「東京で積雪〇僉廚離縫紂璽垢覗ぎになっているときに、雪国の人間が偉そうな態度を取るのを「上から目線」をもじって「北から目線」というらしい。本稿もどうせそういう内容になろうから、タイトルの時点で先取りしようとしたが、我が故郷は緯度でいうとさして「北」でもない。正確性を期して「裏」を選んだ。揶揄でも自虐でもなく、アイデンティティの誇示である。雪を偉そうに語るのも同じメンタリティだろう。辺境の民の悲しみの発露である。それが都市部の人間に煩わしく思われるのも、すれ違いは世の理というもんなのであろうよ。残念ながら。


     「56豪雪」というローカルな歴史用語が全国ニュースで流れるものだから、受け止めるこちらの心象も大騒ぎになる。アメリカには「76ers(セブンティシクサーズ)」というバスケチームがあるが、我らはさしづめ56ersだ。小学生だったので「二階から出入りできるスゲー」くらいのお祭り感覚しかなかったが、大人になれば受け止め方は当然異なる。こりゃエラいこっちゃと早速帰省の算段を立てたが、電車が全く動いていないのでどうしようもない。


     一気に降ったせいで、ちょっと車が止まっている間に埋もれてしまうから立ち往生になる。その代わり、一気に積もったせいで密度は大したことはないから、屋根雪を今すぐ降ろさないとマズイ、というような緊急性はないらしい。実家に電話すると、父親は割と呑気な調子でそんな説明をした。だが、たまたま見つけた全然知らない地元の人のTwitterを見ていると、結構深刻な実況中継である。


     悶々としながら某大学に仕事に行き、学食で昼食をとろうとしたら休業。仕方ないので学内の売店に行ったら、すでに商品棚はガラーンとしていてまるでニュースで見た福井のコンビニ状態だった。残っているのは菓子パンだけ。しょうがないのでアンパンと牛乳の張り込み刑事になった。正確にはアップルパイとコーヒーだが、そんなことはどうでもよい。


     ようやく運行再開と仕事の都合が噛み合い、日曜に帰省した。ホームセンターで買った黒長靴を履いて意気揚々と出立。最近は雨の日に洒落たデザインの長靴を履いている女性をよく見かけるが、晴れた日にデザイン性ゼロの長靴を履いて歩いているのはラーメン屋の店員くらいよね。あっちは白長靴だし。酔狂な格好にしか見えないが、それだけにこの安っぽいブラックの光沢が俄然格好よく見えてくる。


     特急で国境の長いトンネルを抜けるまでは、まあ普通の大雪程度。そこから先はというと、窓から見える屋根雪の量は、やはり密度がスカスカだったせいだろう、「大雪」レベルにまで高さが下がっている。さて街中の状況はどうだろう。
     到着。バスは止まっていると聞いたので、タクシーに乗るつもりでいたが、1台が出て行ったあとは、乗り場はガラーンとしたものだった。バス停には「暫定ダイヤで運行再開」と書いているが、いつ来るかよくわからない。「詳しくはホームページで」と書いてあるのでタブレットで閲覧してみたが、張り紙と同じことしか書いていなくて全然詳しくない。はてどうしたものか。と案じているうちバスが来た。


     タイヤチェーンを装備しているが、幹線道路は除雪と融雪装置のおかげでアスファルトがむき出している。お陰で走行音が賑やかで、座席もずーっとバイブレーションしている。俺が乗ったバスは、路線が環状になっていて、通常なら右回りと左回りの双方向だが、本日は右回りのみ。虚構新聞に以前こういう記事が出ていたが、まさにこんな具合だ。途中、対向車線のバス停で待つ乗客を見つけると、バスが停まってわざわざ同乗している乗員が「今日はこっち回りしかありませんよ」と呼びに行く。このバス会社って、こんな親切だったっけ?と困惑しつつ、それだけ困ったときはお互い様の困った状況ということでもある。

     

     この日の運行はしかし右回り左回りだけでなく、雪の激しい場所はショートカットするというおまけつきだった。その省略された部分に本来俺の降りるべき停留所もある。一番近いところを乗員に確認してそこで降りた。距離でいえば、徒歩10分強といったところか。駅から家まで徒歩10分というのは、都市部では標準もしくは近いくらい。バスが通らないのは、通常なら大した問題ではない。だけどバスが通らないのもむべなるかな。路面はなかなかの悪条件だ。

     写真ではちっとも伝わらないが、路面はかなりデコボコで、段差に足をとられてすぐ転びそうになる。車もボヨンボヨン車体が上下しながらしょっちゅう滑って左右にドリフトもしている。そんな中、電話しながら運転している強者もいる。こええよ。心なしか長靴の中も湿ってきた。雪は遠目で見た印象よりも遥かに厄介なものなのだ。

     

     足腰にそこそこの疲労を感じつつ家に着いた。いつの間にか照り返しに目がやられていたようで、家に入ると何も見えない。カバンに入るだけ入れてきた食料類を父親に渡して、そのくせ冷蔵庫の中身で昼飯をいただいた。
     食べ終わり、早速雪かきに出た。すでにご近所さんたちが作業をしている。その中に混じって、家の前の生活道路の除雪だ。車が通れる幅を確保しないと、自家用車が使えない。「若い人が来て助かるわあ」と近所のおばちゃんたちが歓迎してくれるが、体力があったとしても手際が悪い。農作業なんかと同じで、不慣れな若人より手練れの爺さん婆さんの方が遥かに作業が速いもんだ。その上俺も別に若くないし。

     割と氷状になってしまっているせいで、硬いし重たいし、息が上がるし腰がつる。何度も手を止めた。周囲を見ると、近所の人たち総出で雪と格闘している様子に雲間から日差しが注いで素晴らしい絵面になっている。親父にいたっては、「笠地蔵」の笠みたいなのかぶっているしで完璧じゃないか。撮影したいが、写真を撮れる道具は全部家に置きっぱなしだ。撮ってる場合じゃない雰囲気だし。残念。さあさあ働け働け。

     

     で、どうにか車幅分は確保した。近所のおじさんが「試してみましょう」と自分の乗用車を動かしたが、幹線道路に出るところでカチンコチンになっている轍を乗り越えられずで、せっかくの作業もあんまり解決になっていないようだった。踏切じゃないところで線路を車で横切るような感じね。通常なら除雪車が入るからこうはならないが、一気に降ったせいで本来の雪対策システムが追いついていない。だもんで、見かけの量に比べて厄介が多い。

     もうちょっと何か役立てないものかと思ったが、父親以下、総じて「いらんいらんもう十分」と退却が早く、「今日も出かけるのは諦めるわ」「酒飲んで寝てよさ」と口々にいいながらめいめい自宅に引き返していった。一応それで済ませられる程度、ともいえようし、自然との共存は諦めが肝要ともいえようか。年寄りは冷蔵庫を満タンにする傾向があるが、それもこういう経験の積み重ねからくる生活の知恵だろう。

     

     まあ徒歩圏内にスーパーはあることはある。父親が偵察してきてくれというので見に行くと、くだんの大学の売店よりはモノに溢れていた。逆に今度はパンがひとつもない。あんぱんもアップルパイもない。野菜はあるけどパンがないというのは、これはどういう流通の都合なのだろう。

     

    大体同じ場所から昨年の正月に撮った写真。

     

     疲れ切ったしすることもないしで、5時前から夕餉となった。熱燗で暖を取りながら煮物なんかを突っつく。テレビはずーっと「L字」状態で、雪関連の通知が流れている。五輪を見ながら、まあまあ酔いが回ったころ、明日の特急が全部運行取りやめになるとL字に流れているのに気付いた。ありゃりゃ、明日帰れないとあさっての仕事に差し障る。

     今日の特急はまだ動いている。なのでバタバタと帰り支度を始めた。実のところ帰省前に父親から「明日からまた大雪になるから電車が止まるといかんしやめとけ」と釘を刺されていたのだが、延期するのが気持ち悪かったのでエイヤで帰ってきたのだった。そしたらこのざま。会社員だったら「すんません戻れませんわ」と頬かむりを決め込むが、個人事業主につきそうもいかん。

     

     「だから言ったやろ」とぶつぶつこぼしながら父親がタクシーを呼ぼうとしたが、ちっともつながらない。「叔父さんに頼む?」と冗談めかして言うと、「それもそうか」と電話をかけた。何でも叔父さんからは「困ったことがあったら遠慮なく電話くれ」と二度ほど念押しがあったという。叔父さんにすれば、思っていたのとは随分違う「困ったこと」だ。わざわざ困りごとを作りに来てどうする。


     道路状態が悪いので、来れるところまで来てもらうということで快諾いただき落着。「(叔父さんには)悪いけど、飲み直すか」と父親がワッハッハと言って、酒を飲んでいたら、通常の倍くらいの時間で呼び鈴が鳴った。家の前までこれたことに驚きながら、慌ただしく実家を辞した。


     さて乗せてもらったはよいが、既に述べたような道路事情なので、内戦状態のどこかの国の道路みたいに揺れること揺れること。その上立ち往生している車がいて、ニュース映像が脳裏をよぎってぞっとする。慣れたもんで、叔父さんは後ろの車に頼んで後退してもらい、Uターンして別の経路を取る。
     すると今度は、昼間の近所の人の車みたいに、路地から幹線に出ようとして轍が越えられずスタックしている車がいる。叔父さんが車を止めて、「一応四駆なのに」とバツの悪そうなドライバーのおばちゃんに、ああせえこうせえと指示を出した上で、俺と二人でエイヤと押し出した。なんだかロードムービーみたいにイベントが重なる。こうしてようやく除雪車が入ってまともに走行できる道に出た。要は昼間にバスが走っていたところ。通常徒歩10分ちょっとの距離が、エラい手間だ。

     

     「立ち往生している軽の四駆は、鈴木と大発が相場やな」と、真偽のほどはよくわからない説を開陳する叔父さんが操るこの車はパジェロミニで、軽の中では雪道で一番信頼できる仕様なのだと車屋が太鼓判を押すので買ったんだとか。確かにいつでもタイヤが空転しそうなさっきの悪路を堅実に走行していた。おかげで助かったわけだが、これが雪国の営みかと思うと、そりゃあ北から目線にもなるわいね。
     どうにか駅について、満員の特急に乗った。雪の降りは激しくなっているが、遅延は数分程度。雪国仕様の特急は、走るとなれば優秀なんだよね。途中の駅で床下の着雪チェックをするというので何度か停まったけど、新幹線に比べて作業時間が短い。

     

     今日の俺の成果は結局、家の前の道路のうちの数メートルを少し幅広くしただけ。いてもいなくても変わらん貢献度の上、親戚まで巻き込んで慌ただしく帰ったから収支はマイナスだ。だからといって特に気にしない、というのが本日学んだことか。


    テレビの感想

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       録画していたNHKの「未解決事件」を見て、草剛はいい役者だなあと思った。右翼役の村田雄浩に「銃弾は私たち一人一人に向けられたものだ」とぶつけるクライマックスを筆頭に、教条主義的に響いてしまいそうな台詞を、特段格好よくもなく、それでいて熱っぽく、表層的にならずに演じていて、やるなあと思って見ていた。あと、茶色のジャケットに青シャツを合わせる着こなしは、「大統領の陰謀」のロバート・レッドフォード風だった。


       このシリーズは、グリコ森永のを見て以来なので相当に久々だ。あのときは、再現ドラマとドキュメンタリーが交互に出てくる構成だったせいで批判もあった。犧遒衒瓩取材した事実の合間を埋める格好になっているせいで、インチキっぽく見えるからだろう。

       今回は前後編で、ドラマとドキュメンタリーが分かれていた。確かにこの方が制作者の狙いは明確になるのではないかとは思った。別にどんな狙いがあるのか知らないけど、ドラマの場合は再現性ないしは臨場感という点で優れている。もちろん危うさはある手法だが、事実に即することと、ドラマとしてきちんと仕上げることの、しばしば両立しなくなりそうな2つを追求する緊張感はあったんじゃないかな。心意気やよし、だ。

       こちらの勝手な事情で、先日瑣末な理由で、くだんの阪神支局の横をたまたま通ったから、余計に臨場感を感じながら見た。ドキュメンタリーの方も、さすがの面目躍如といったところ。

       

       NHKは、ニュースが死に体になってまあまあの年月が経過したが、ニュース以外は健闘している。今このテーマを扱う意義をしっかり見据えた制作陣の気合が入っていたと思う。「ニュースはやっていないテレビ局」だと見なすのが、もはや賢明なのではなかろうか、とすら思う。実際、ニュースが死に体というのは伝え方云々より(それも結構目につくが)、ニュースをたくさんネグっているからだし。

       

       ネグると当然時間が余るから、代わりに何か入れないといけいないわけだが、そこに相撲とかパンダとかがあると、埋め草いただきとばかりに結構しつこく報じることになる。会社員時代、俺は出来損ないだったから、取材が長期化しそうな案件は面倒くさいからなるたけ逃げようと、「すんません俺書道家のインタビューがあるんすけど」「そんなもん日程変えてもらえ」「ですよね」といった駄目な交渉をしていたものだった。で、例えばその書道家が会社主催の書道展に絡んでいる人なんかだと紙面に載せないといけないので「しょうがないから行ってこい」となる。体よく逃げられる。あのころの駄目さ加減を思い出させられるので、パンダがどうとか長々やってるのを見るのは嫌なもんだ。俺と違って本社に集めてるのは優秀な人間ばかりだろうに。

       

       くだらない昔話だが、これ以外にも、当時の自分の思考回路とかメンタリティとかが今の報道で見られる毛色と重なって見えるときがしばしばあって、でも結構前の話だし、俺ちょびっとしかやってないし、と否定はしてみるのだが、やっぱりつながる部分は確実にあるんだろう。この赤報隊の話を見てても思った。いつの間にこうなったのだろうと元をたどっていくと結構昔にあったことが積もり積もってくっついたりはなれたり発酵したりして今がある、ということは暴力とかに限らず、色んな分野であるもんだ。

       

       最初に触れたドラマのクライマックスでは、草薙演じる記者は、右翼の男に話を聞くというよりは啖呵を切りにきたように見える。ドラマの演出という点はとりあえず置いておいて、いやいや記者なんだからあんたの主張はいいから、こいつの言い分聞けよ、と思わないでもない。

       だけど、こういう態度も重要なんじゃないかとも思った。つまり、ドキュメンタリー篇で取材者は大人しく相手の言うことを引き出していたけど、突っ込んでもよかったんじゃないと思ったということだ。ま、こんなことも前から言われてることで、現場の人々も不満くすぶらせて色々考えているだろうし、で、積もり積もって今があると。だからやっぱり「やり方の変化」は避けられない課題だ。当然、こっちからぶつける場合、取材者の質がより問われることになるけどね。優秀なんだからいっぱい勉強したらいいだけのことだよ。


      くじ引きの話

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         テレビでやっていたW杯の抽選を見た。ドラフトについてくだらないことをあれこれ書いた手前、くじ事には結果よりも過程に興味が湧いてしまう。

         

         強豪の潰し合いや、同地区対決を避けるため、抽選のシステムはちょっと複雑だが、要するに開催国と、FIFAランキング上位国は分散するような仕組みになっている。そして開催国は、Aブロックの1枠と最初から決まっているようなのだが、わざわざ印のついたくじを引くという儀式的な手続きを踏む。この、ぶっちゃけやらなくてもよさそうな行為が、抽選の1発目になるわけだが、なにせ1発目だから要領がわかりにくい。くじを引く人が、カプセルに入った中身を取り出すのにやけに手間取っていた。結果が不明なら手間取りも緊張感の演出に自動的になるが、ロシアはAの1と最初からわかっている。そのわかりきったことに、わちゃわちゃ手間取るから間抜けだった。やはりサッカー選手は手は苦手なのかとアホなことを考えたら、この人往年の名キーパーだそうで。

         

         くじを引くのは往年の名選手たちだ。当事国関係者は客席で見てるだけ。国名そのものがくじになっているため、当事者が引きようがないシステムだから必然なのだが、(不正のなささえ担保されれば)くじは誰が引いても確率的には同じという合理主義がいさぎよい。ここには右手左手の犧鄒鎰瓩發覆韻譴弌↓猝召世燭詭埃圻瓩發い覆ぁだってくじ引きだもん、という。そういう神のいたずらの中で、日本と韓国が最後まで残り、日本が残り物となったのは、ちょっとだけ感慨深かった。

         

         日本と1次リーグで対戦する国は、「どんなとこ?」とテレビで紹介されるので、知りたい国という基準で見ていた。コロンビアは前回結構紹介していたので、その点ちょっと残念である。お隣ペルーの方がよかったな。
         試合の方はまあ頑張れということで。オリンピック同様、汚職等々黒い金の流れが指摘され開催国は負債を抱える、という現実が、東京五輪を控えるだけに視界をちらちらして、素直な(ないしは無邪気な)応援を妨げるのである。


        桐生と田中

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          こちらはサブトラック。昔はこんな立派なものはなかった。国体に向けて鋭意改装中。既存施設を使うから金がかからない国体だといいつつ、ほとんど全面改装の様相を呈している印象。

           

           9秒台が出たことよりも、その場所が故郷だったことに驚いた。家の近くじゃないか。俺も2回走ったことがある。あそこは走りやすいんだよなあ、とさも知ったように言ってみる。何せ地面がゴムだから。全国どこでもそうだ。

           

           一度目は、トラックにゴムが敷き詰められてまもない小学生のころだった。友達たちと忍び込んだ。牧歌的時代、牧歌的田舎、柵を乗り越える程度で入れたのだ。中に入ったのは別に走りたかったわけではなく、とにかく真新しい場所に入りたかっただけで、そのうち誰かが地面のゴム片をむしり、別の誰かが「俺青見つけた」「俺は黄色見つけた」と競争になった。色んな色でラインが引いてあるので、その部分のゴムをコレクションし出したのだ。そのうち、「コラお前ら!」と係のおっさんが現れて全速力で逃げた。

           これが一度目。しかし、誰もいないところに闖入してまんまと見つかって怒られるのだから、ちゃんと係員がいて、仕事してたということである。自分がおっさんになった今、同じことが出来るかというと、面倒だし、実害ないやろうから放っておけと我ながら言いそう。「コラ!」ってあんな通る声も出そうにない。

           

           二度目は、今度は正式に選手として。市の学校対抗の陸上大会のようなものに出場した。これも小学校のとき。リレーが400と1600(100×16人)の2つがあり、花形は400だから、どこの学校も一番速いのを4人揃えてくる。わが校もそうだった。ところが直前に先生が「他が400に力を入れるなら、こちらは1600に実力者をそろえた方が勝てる」と中国の故事のようなことを考え、メンバー入替を主催者に申請した。

           だが直前過ぎて「もう締め切った」と断られてしまう。諦めない先生は、替え玉をやることにした。400と1600の入替メンバーに、ゼッケンを交換させて、お互い自分がそいつだと自称するように命じたわけである。こうして1600に出る予定だった俺を含めた4人は、当初400に選ばれていた速い4人と互いに替え玉になることになった。不正は強豪が強豪をキープするためにやるのがマンガではお約束だが、実際は弱いやつがちょっとでも成り上がろうとして働くのである。まさかそれが義務教育の現場で、というのがちょっと凄いが、大人から命じられて秘密を抱えるミッションにドキドキワクワクしたのだから(少なくとも俺にとっては)貴重な経験であった。

           

           とにかくこうして俺は「田中」になった(当たり前だが田中は「森下」になった)。偶然、元の速いメンバーは4人中3人が田中で、出場前に裏手で整列しているとき、隣にいた別の学校の選手から「田中だらけで嘘みたいやな」と言われて「ギク!」となった。この話しかけてきた男子とはその後高校で席が隣同士になるが、この話のすごいところはその偶然ではなく、俺がそれに気づいた気持ちの悪い記憶力である。
           俺の出走位置は、自分の学校の応援席の前だった。事情を知らない応援団は目の前の選手に声援をおくってくれるが、当然ながら本名の大合唱である。俺は慌ててやめろやめろと手を振るが、ただ声援にこたえているお調子者のようにしか見えなかった。

           動揺しながらバトンを受け取ったが、すでに前の学校と大きく差をつけられており、誰とも競り合うことなく一人でトラックを駆け抜けた。実に走りやすかったことだけは今もはっきり覚えている。一方の1600mは、バトンの受け渡しに失敗して失格に。昔話のようなオチがついた。

           古い話を思い出したことに感謝する。特に陸上ファンでもないのに、まさか桐生選手にこんな個人的な感慨を勝手に抱く日が来ようとは。


          「批判の対案」を考えたことについて

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             街中で共謀罪の反対署名を求められたので応じた。汚い字で名前を書いている間、この法律がいかに恐ろしいかというような話を運動員のおじさんがしているのだが、その口ぶりに多少苛立ってしまった。前にも書いたような話だが、「監視社会」等々定型句が多いからだ。模範解答的定型文で8割方できている学生の論文を何百通も採点しているという最近の個人的事情のせいで余計に癇に障る、半分は言いがかりである。あと、何度も同じことを繰り返している内容を、自動再生しているような話し方もちょっと面倒に感じたので、つい「その説明じゃ伝わらないと思いますよ」遮ってしまった。

             「そうですねん、この法律はなかなかわかりにくいんですねん」
             「いや、法律の内容じゃなくて、危険性を訴える皆さんの説明が」
             多少、失礼だったか。後になって少しだけ反省した。それより考えたのは、はて偉そうに言ったものの、実際、何て説明すればいいんだろうかということだった。

             まあ担当の大臣の答弁がしっちゃかめっちゃかとっちらかっているので、法律自体もそれはそれは難しいのだろう。何しろまだ起きてないことを取締る空手形にも程がある法律だから、中身について理攻めで問われても答えられない、というのがかの法の本質を顕わしていますわな。担当官庁の一番エラい人があの体たらくというに法律なのに、反対の世論も盛り上がらないというのが一番の「わかりにくい」謎であるが。何の分野であれ、別にこんな大層なものでなくても、答えられないという時点でアウト、以上の理屈が必要なのかという話でもある。ドラマ「SP」は、警察権限強化のために、警察自身がマッチポンプの陰謀を仕掛けるという筋立てだったが、そんな手の込んだことは実際に要らなかったという点、フィクション屋にとっても泣かせる展開である。

             話を戻すと、俺個人にとっては「警察なんて何するかわからんところ」というのがまずある。フリーハンドを与えれば、何でもやってしまうという意味だ。当の警察の人間が言っていたのだから世話はない。それも以前にも書いたように、俺自身の思考回路が産経新聞的だったころに組織犯罪対策法だったか、警察権限を拡大する法案について「ああいうのは要りますよね」と言ったら、お前はアホかくらいの調子で鼻で笑われた。「警察なんて何するかわからんところやぞ」。

             実際、現行法下でもやるときは本当にやる。「ヤクザと憲法」にもそんなシーンが出てくるが、存在が存在だけに問題視されない。そしてヤクザでなくても、ヤクザのようにパブリックエネミー的立ち位置にいる人間はよくやられている。報道が記事にしないことを知ってるんだ、彼らは。

             だいたい不祥事だらけの組織なのに、なぜ信じられるのだろう。実のところ、いくら不祥事が出てきても、報道が言う「信頼が失墜」はしていないというのは前も書いた。「リアルな刑事ドラマ」の条件は、「上の人間が総じて陰謀家」で、そういうドラマは一定の人気もあるのにね。

             最近、この法案に重ねて思ったのは、駐禁の緑の人々である。
             それ以前に交通警察官がやっていたチョークを引いて一定時間待って、という慎重な方法と違って、現認した瞬間切符を切るというかなり強権的な手法に切り替わった。それもやたらと人数が多いから、油断するとすぐやられる。それで世の中、路駐しないか、一人が車に居残るようになったので、することがなくなった彼らは二輪の駐禁を切り出した。規制緩和でビッグスクーターが増えたというのも背景にはあるのだろうが、放置自転車の合間に埋まっている原付を見つけ出していちいち駐禁の処理をしている様子は悪い冗談に見えた。

             要するに、取締る側というのは、暇になるとやらなくてよさそうなことまでやるということだ。「弁護人」のカン課長と似たような話だ。優秀な刑事がどう見てもただの世間知らずの青年に執拗にこだわって自白を強要する作業は、税金その他色々と無駄づかいが過ぎる。緑の人々も予算がついているので「本日は違反ゼロでした」では済まないのだろう。強化月間なのに拳銃を一丁も挙げられていないのはマズイというので自作自演をした稲葉氏も、カン課長同様優秀な人物だったと自伝の相対的なまなざしからうかがい知れるが、とにかくこういうアリバイ作りの延長線上での脱線である。

             もちろん駐禁については、法的には停めた側が悪い。ま、だから余計に「そういうことだ」という話でもあるのだが。一度、街中で大声でもめている男女の横を、緑のおっさん2人が素通りし、そこにいた周りの人間全員「警察ちゃうんかーい」とあっけにとられて、しゃあないから代わりに取りなしたという場面も遭遇したことがある。この2人が気が利かなかったということではあるのだろうが、そもそも担当業務ではないので、妥当な判断といえばそう。彼らにとって大事なのは、たまたま遭遇したトラブルよりも、担当業務の件数確保になるわけだ。こういう融通の利かなさを、この法案を見聞きするたび思い出す。

             ただ、こんな警察の悪口を街頭でアピールしてもあんまり効果はなさそう。というか、それみたことかと逆効果になりそう。今の話も、車やバイクに乗らない人には「何言ってんだこいつ」と反発されると思う。同じくこの法律も、実際のところ、関係ない人には関係はない。そしてそういう人が大多数だろう。

             しかしながら、平時でなくなると事情は変わるに間違いない。大規模災害、大規模事故、隣国との緊張その他、花見を遠慮するような空気が蔓延するような出来事が起こると、事情は変わってくる。それでも関係のない人の方が多いと思う。ただし「私」には無関係でも、「私の頼りたい人」はいなくなる可能性はある。そして平時と違って困りごとの総量も件数も増えるから、今はいなくても、「私の頼りたい人」の数や認知度は増える。
             そしてそのうちはばかることがやたらと増える。これは多くの人にとって無縁ではなかろう。横暴な上司のいる職場と同じで、声はひそひそになり、同僚が急によそよそしくなったりする。活き活きし出すのはスネ夫ばかり。こういう職場に比べ、実社会がさらに難儀なのは、はばかる相手が横暴上司でもスネ夫でもなく、目の前の友人知人なところである。何のいいことがあるというのか。

             こういう推測は、実のところヒントのかなりが、共産党その他左派の人々がすぐに引き合いに出してなかなか同意されない戦前の話からである。「戦前回帰」的主張はしばしば「時代が違う」「大袈裟」と鼻で笑われる。右翼しぐさの人々が好きな「WGIPの洗脳」というのは、むしろこれのことではないのだろうか、と最近思う。なので、「治安維持法」と聞いて鼻で笑ったあなたはWGIPに洗脳されてます、と言えばいいのか。その手の人が噛み付くだけだな。

             帝国崩壊という大きな分断を挟んでいるとはいえ、たかだか70〜90年前の話。それも近代国民国家という大枠は同じ。参考にならないと思う方がどうかしている。孫子の経営学的な本が一定程度売れるんだから。まあ孫子の場合は、ソクラテスと同じで超基本的なことを言っているので時代を超えた普遍性があるのだろうが、でもまあ前世紀であれ紀元前であれ、歴史というのは隔世の部分と普遍的な部分とがあるんでしょうよ。

             で結局何ていえばいいんだろう。俺が個人的に思うのは、姪っ子を息苦しくさせたくない、ってことだけど。


            好きこそものの

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               漢字の読み間違いが世間をにぎわせているようだ。読み間違い自体は誰でもやらかすのではあるが、音の響きがおもしろいのでさすがに笑う。ついでに爐い弔發離蹈献奪瓩諒弧で間違えているから、あれにうんざりしている人間にとっては積極的に笑いたくもなる。前の二文字と合わせるとリズミカルな四字熟語のような響きがあるが、ちょうど稀勢の里が横綱昇進の口上で定番化している四字熟語を使うとか使わないとかの報道があったので、代わりにこっちが初耳の四字熟語を言っとるやんけ、と勝手に2つをつなげてしまった。

               大人になると、単に「読めない」でなく、思い込みが作用して間違いにも気づかないときがあるからタチが悪い。今でもたまに己の思い込みを発見するときがあるが、多くはパソコンで変換するときに、打ち込んだかな文字列が変換されなくて気づく。具体例を思い出そうとして出てこない。試しにネットで「読み間違えやすい漢字」を検索したら、有名なやつか(例:相殺)、難読漢字(例:海豹)か、マナー講座的な別にええやん的なものか(例:間髪)、だらけだった。「間髪」なんて、もう「オルタナ読み」でいいんじゃないか。

               中には「そんなもん間違うやつおるんや」というのもあった。首相を「しゅそう」と読む人がいるらしい。ホントに? 首相があれだからいるんだろうとつい乱雑に片付けそうになるが、さすがに首相自身は「首相」を読めるでしょ。

               ほしいのは、こういうんじゃないんだよなあ。ネットでひっかかりにくいものの一つが「絶妙の例」だな。まあこの場合は、「俺が過去に間違いに気づいた例」を思い出す例が欲しいだけの、まったく個人的な尺度だから完全なる言いがかりだが。ああ、一個だけ思い出した。「鼻白む」だ。これは変換できなくて知った。「白ける」のせいで、「ろ」じゃなくて「ら」と読んでいた。幸いなことに書くときにしか使ったことがない言葉なので、恥をかかずに済んだ。

               テレビでよく耳にするのは「直截」だ。言葉の種類からいって、ニュースなんかでコメントする識者くらいしか使わないから、余計に目立つ。そう思って試しに「ちょくさい」で変換したら変換できてしまった。ネットの辞書でみると、「慣用読みでちょくさいとも」とあるから、オルタナ読みか。「慣用」と書いてあるのでわざわざ新造語を使う必要がない。

               「OK」は、反知性主義で知られる米大統領アンドリュー・ジャクソンが「All Correct」を「Oll Korrect」と間違えたことに由来があるという説があるが、今回の件もゆくゆくはその手の新語として定着する可能性もなきにしもあらず。

               というような豆知識を書いたが、こういう行為も結構怖い。自慢げに披露して思い切り間違っているということもあるからだ。大抵は飲み会の席で偉そうに披露して、周囲が「へえ」で終わる程度のものだから、店を出るときには言った方も言われた方も忘れているので被害は少ない。なぜか俺の場合、ドヤ顔で披露した相手が自分よりそのことについて詳しかったという、穴があったら Want to Hideな場面に何度も遭遇しているが、より恐ろしいのは俺の場合、大学で教える立場だから、ここでハズすと、これは恥の話ではなく、単純にマズい。そういえば、昔、舞台の脚本に使ったこの手の豆知識的なものが、思い切り間違っていたということもあった。

               ちなみに「OK」を検索すると、ウィキペディアでも「すんませんでした」と言いたくなるくらい、色々細かいことが書いてある。こういう事情で最近のテレビ番組では、何かというと「諸説あります」と画面の端に出てくるが、本当に諸説ある場合いざ知らず、「危険なのでまねしないように」と同様のただのアリバイ作りで表示している気配が漂ってくる。

               縁あって、ここ数年、学生相手に世界史だの地理だのを教えている。センター試験よりはやや簡単なレベルの試験対策なので、説明しないといけないことはたかが知れている。山川の教科書でおつりがくる程度だ。ただ、教える側としては、試験には出ない部分も、やはり広く深く知っておく必要がある。俺の場合、大学を4年で卒業しただけのド素人だから、追加で勉強しないといけないことも多々ある。それで時間を見つけては関連書籍を読むわけだが、そうすると、今までの理解が微妙に違っていることに気づかされることも少なくない。

               こうなると、これまで「習得した知識」だと思っていたものが、本当にあっているのか段々疑心暗鬼になる。それだけではなく、これまで気にしたこともないことが急に疑問に思えてきたりする。例えば、イギリスの歴史ではチャールズ1世とチャールズ2世という王様が登場する。この両者の血縁関係は何だろうか。これまで考えたこともなかった。多分親子だろうという思い込みのせいだろうが、フランスのルイ16世は、ルイ15世の息子ではない(孫)。フランス革命の解説書なんかでその事実を知ると、心中「げげっ、そうだったのか」と狼狽しつつ、はてチャールズの場合はどうなんだろうと急に気になり出す。

               いずれも試験対策には全く無用の知識である。知らなくても授業は成立する。だけど偉そうに教壇に立つのだから、そこはやはり責任感というものがあろう。過去には別の科目で授業準備をサボったせいで、それこそ漢字の読み間違いのような赤っ恥をかいたこともある。もうひとつは、歴史の場合は個人的に好きなので、より詳しくなりたいという趣味的欲求が責任感を後押しする。好きこそものの・・・・・・、この場合なんだろうか。

               というわけで、間違いを犯すのは、そのこと自体よりも、それを生み出す姿勢の方が遥かに問われるというわけだ。まして、くだんの大統領や、その他諸氏のように、自ら嘘や根拠不明の犹実瓩鮨當阿垢襪里蓮△修里海伴体の罪悪もさることながら、己の信条のように高らかに掲げていることについても、実のところは当人自身、大して興味がないということになる。興味があることは大事にするもんだ。問題はそこなんだよなあ。


              USAもUSBもPost Truth的な

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                 取材の際に、相手が話していることを録音するレコーダーを、先日久しぶりにちょっと使ったので、中身をパソコンに取り込もうとしたときのことだ。
                 接続のUSBが、Aタイプという、つまりは「普通サイズ」のやつだった。前に使用してからずいぶんとたつので、そんなことも忘れていた。それで接続しようと手元のUSBケーブルを探すのだが、適合するものがない。PCの受け口は、AタイプでレコーダーもAタイプ。なのでA−Aのケーブルが必要なのだが、持っているのは片方の形状が小さかったり正方形だったりのやつばかりだ。おかしい。身の回りをざっくり掃除したときに、全部処分してしまったのだろうか。

                 仕方がないので100均に行って買おうとしたのだが、売っていない。以前は普通に売っていた気がするが、スマートホンの普及等で売れなくなったのだろうか。そんな風に想像して家電量販店に行ったのだが、やっぱり売っていない。

                 不思議に思ってネットで検索してみた。こういう場合、大抵全く同じ疑問を抱いた誰かが知恵袋等に書き込んでいるもので、やはりあった。しかし回答者の説明は、長ったらしいわりには結局のところ「品揃えの問題では」とのこと。「だからヨドバシに負けるんだよ」と一人毒づきながら梅田に行くことにした。しかしこの巨大店舗でもやはり売っていなかった。あるのはA−Aの片方がメスの、延長コードだけだった。

                 店員に聞こうと思ったが、先ほどのネットの長いかつ求めていない説明が脳裏をよぎり、躊躇してしまった。もう一度言葉を変えて検索して、他の検索結果を見てみると、これがなかなか面白かった。

                 俺と同じく「自宅にいくらでもあったような気がするがいつのまにかなくなっていたので、買いに行ったが売っていない」という人が、周囲から「そんなもんねーよ」と嘲笑されている。たしかに、現実問題どこに行っても売っていない上、俺自身も、考えてみるとA−AのUSBが必要な機会は、ここ何年もなかった。なので、若い世代の人々にすればカセットテープのような存在になっていると想像される。結果「何言ってんのコイツ?」「あるわけねーだろバカ」という反応になる。しまいに「いくらでもあったはずのもの」が、自宅からいつの間にか消えているのだから、「記憶のすり替えだろ」「病院行け」みたいな話になっていて、どんどんSFになっていた。状況がしっかり俺とカブっているから、俺自身も、記憶違いなのだろうかと自分がうっすら疑わしく思えてしまった。

                 しかし、アマゾンなんかで検索すりゃ、A−Aはすぐ出てくる。商品のレビューを見ると「最近これ店頭で見ないので助かりました」というような感想がさらりと述べてある。なのに「ねーよバカ」が優勢になり、一瞬「俺が違ってるのかも」と思ってしまう。これが「Post Truth」の時代か、と流行りの言葉で無理やりまとめて一人頷きながら、アマゾンのボタンをぽちっとしたのであった。あんまりここで買わんようにしてるんだけど、こうして使っちゃうんだよなあ。


                おせち考

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                   伯母のところに手伝いにいった鯖寿司は、無事完成していた。これを熱燗といただくと、非常に特別な幸福感を味わうことができる。「ここでしか食えないもの」を食うのは、代表的な贅沢の一つになるだろうが、今の世の中、本物に比べて劣るにしても、そこそこのものならある程度どこでも食えてしまう。なので他では食えないレアなものなら、幸福の度合いも比例するわけだが、単にその料理が入手可能かどうかだけでなく、「ここでしか食えないもの」を食える「ここ」にいることが幸福の成分としては大きいように思う。

                   ところで熱燗の友人といえば、このような生魚系がまず筆頭に挙がるだろうが、おせちのような甘辛い食い物も、かなりの親友である。世間的には、「おせち」とは「まずいもの」の雅語として定着している感もあるが、俺は結構好きだ。酒飲みが定着した20代後半からの嗜好であるが、とにかく、喜んで食べている。それで人様が、おせちの不幸は盛り付けることにあるというようなことを書いていて、ふと気づいたことがある。

                   元の文章の趣旨としては、彩だの何だの、重箱を埋めることを過剰に意識するその精神のありようが、社会に色々な不幸を生んでいるというような内容だったのだが、振り返ってみると、我が家のおせちは重箱にこそ入って入るものの、まったく盛り付けをしていない。タッパーに入れているのと本質的には変わらない。

                   このような、外側だけ伝統に沿いつつあとは身もふたもない合理性を優先するのが両親の気質のように思う。現在は、まめな父親が、おせちのメニューのうち自分の好きなものだけを作っているが、母親が存命のときも、大体こんなもんだった。茶色と黒しかないので、盛り付けてもモノクロームで何の彩もない。ゆでたエビとか伊達巻とかがないと、重箱は恰好がつかないが、誰も好きじゃないので用意しない。結果、こうなる。

                   なるほど、おせちは盛り付けなければ、それ自体の価値を再確認できるというわけか。形を整えることを過剰に突き詰めた結果の社会の不幸を解決する策は、ここにヒントがあるといえよう。


                  そば打ちダンディズム

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                     謹賀新年。
                     ネットを眺めていると、中年のおっさんが急にそば打ちに目覚め、それがマズいので周囲が迷惑をこうむる、という図式が各地で勃発しているらしい。おっさんがそば打ちに目覚める構図はなんとなく想像がつく。ストイックなこだわりダンディズムが凝縮している佇まいが魅力的なのだろう。種類としては、古美術に突然目覚める鑑定団でおなじみのおじさんたちに似ているような気がする。

                     それで我が家を振り返ると、年末にはそば打ちをするのがここ数年の定番になっている。別に俺ないしは親父がそば打ちダンディズムの虜になったわけではない。姪(14)が料理好きなので、お爺が孫に高度なおもちゃを与えるような恰好でそば打ちがなされているのである。無論、中二の少女はダンディズムとは無縁だ。

                     正確には、母親がまだ存命のころ、そして姪がまだ幼少でそば打ちには何の興味も示さなかったころ、両親が一度手を出したことがあるのだが、面倒なので一時やらなくなっていた。それが復活したわけである。

                     農協で売っているそば粉セットのような商品を買ってきて、説明書き通りに混ぜて、麺棒で伸ばして、切る。それだけの作業といえばそう。そして、出来栄えはというと、プロのように均等に切れなくて、太くなったり細くなったりするという難点はありつつ、別にマズくはない。むしろ美味い。どうやってマズく作るのだろう? 石臼でそばを引くところから始めているのだろうか?? よくわからない。

                     我が故郷は、そばの国なので、スーパーに売っているそばでも普通にうまい。自前でわざわざ作るメリットは大してない。おそらく姪が飽きたらもうやらなくなるだろう。その程度のノリで作ったものが、別にマズくもないのだから、ここから導き出される結論は、こだわりダンディズムは、料理を不味くするだけの邪魔者でしかないということになる。興味関心と食欲。それで充分じゃないか。


                    羨望

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                       下馬評は圧倒的に不利でおそらく負けるだろうけど、ひっとしたらひょっとするかもという立場だけでなく、「赤」に「鹿」がカブっている対決が同時に放送だったので、ネットもそんな感想で溢れていた。相手を苛立たせるところまで攻め込み、途中「アレがなければ」という展開(イエロー出すぞ出すぞ詐欺と「なぁぜ持ってきたぁ!」)を挟み、結局相手は盤石だったという結果も似ていた。だけど赤い味方の側に「小笠原」がいるというのがネジれていると瑣末なことを思ったりもした俺はどちらも十分楽しんだのだった。

                       真田丸に関しては、信繁に大坂の陣の活躍以外に特に話がないので、父親が活躍する序盤はともかく、秀吉に仕える中盤は、常に事件の傍観者なところが「花燃ゆ」と構図が同じでかなり惰性で見ていたところがある。人生の最後にクライマックスがある人も歴史上そういないので、見ているこちらはそこだけに向かって付き合っていたような気もするが、「幸村」になってからは序盤と同じくらい前向きに見ることができた。個人的には、家康討死説を取って、幸村が見事家康を討ち取るも、徳川の盤石は微塵も揺るがなかったというラストを期待していたが、家康が死なないものの、大まかにはそうなっていた。あと、秀頼がバカ殿ではなく、むしろ結構優秀なのだが、いかんせん若い&経験不足がたたったという描き方(と演技)がよかった。賢い劉禅が出てくるドラマも見てみたいものだ(秀頼と同じく麒麟児のバカ息子という扱いをされがちだが、三国の中で唯一長期政権を築いている)。

                       さてこのネットの反応について。色々感想が山ほど溢れているツイートをざざっと眺めたのだが、相当「しっかりと」見ている人が少なくないことに驚いた。どういうことかというと、1つは、ちゃんと作者の意図を汲んでいること。「今日のあのシーンは、実は第〇話で出てきた□□を受けている」というように、ちゃんと伏線を抑えている。こっちはそこまで熱心に見ていなかったのか、「へえ〜」となってしまっていた。

                       もう1つは深読みである。「今日のあのシーンは、第〇話を踏まえると、□□な意味も持つのではないだろうか」というような、構造的には1つめと似ているが、見る側の解釈が多分に含まれている感想である。勝手にやってろというような独創的過ぎるものはあまりなく、結構なるほどなあと思わされる説得力がある解釈が多い。これは勝手に断言するが、作者はそこまでは考えていない。だが、そこまで考えてはなかったが、出来上がってみると確かに指摘のような関連性が見て取れる。よく出来た作品には、しばしば起こる現象である。まるで自分にも経験があると言っているようだが、自分にも経験があるので心配無用。

                       それで何が言いたいかというと、ここまで視聴者がしっかり見てくれているのは、作り手冥利に尽きるなあというなんてことない感想なのだが、とてもしみじみそう思ったので書いておくことにしたのである。



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