「批判の対案」を考えたことについて

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     街中で共謀罪の反対署名を求められたので応じた。汚い字で名前を書いている間、この法律がいかに恐ろしいかというような話を運動員のおじさんがしているのだが、その口ぶりに多少苛立ってしまった。前にも書いたような話だが、「監視社会」等々定型句が多いからだ。模範解答的定型文で8割方できている学生の論文を何百通も採点しているという最近の個人的事情のせいで余計に癇に障る、半分は言いがかりである。あと、何度も同じことを繰り返している内容を、自動再生しているような話し方もちょっと面倒に感じたので、つい「その説明じゃ伝わらないと思いますよ」遮ってしまった。

     「そうですねん、この法律はなかなかわかりにくいんですねん」
     「いや、法律の内容じゃなくて、危険性を訴える皆さんの説明が」
     多少、失礼だったか。後になって少しだけ反省した。それより考えたのは、はて偉そうに言ったものの、実際、何て説明すればいいんだろうかということだった。

     まあ担当の大臣の答弁がしっちゃかめっちゃかとっちらかっているので、法律自体もそれはそれは難しいのだろう。何しろまだ起きてないことを取締る空手形にも程がある法律だから、中身について理攻めで問われても答えられない、というのがかの法の本質を顕わしていますわな。担当官庁の一番エラい人があの体たらくというに法律なのに、反対の世論も盛り上がらないというのが一番の「わかりにくい」謎であるが。何の分野であれ、別にこんな大層なものでなくても、答えられないという時点でアウト、以上の理屈が必要なのかという話でもある。ドラマ「SP」は、警察権限強化のために、警察自身がマッチポンプの陰謀を仕掛けるという筋立てだったが、そんな手の込んだことは実際に要らなかったという点、フィクション屋にとっても泣かせる展開である。

     話を戻すと、俺個人にとっては「警察なんて何するかわからんところ」というのがまずある。フリーハンドを与えれば、何でもやってしまうという意味だ。当の警察の人間が言っていたのだから世話はない。それも以前にも書いたように、俺自身の思考回路が産経新聞的だったころに組織犯罪対策法だったか、警察権限を拡大する法案について「ああいうのは要りますよね」と言ったら、お前はアホかくらいの調子で鼻で笑われた。「警察なんて何するかわからんところやぞ」。

     実際、現行法下でもやるときは本当にやる。「ヤクザと憲法」にもそんなシーンが出てくるが、存在が存在だけに問題視されない。そしてヤクザでなくても、ヤクザのようにパブリックエネミー的立ち位置にいる人間はよくやられている。報道が記事にしないことを知ってるんだ、彼らは。

     だいたい不祥事だらけの組織なのに、なぜ信じられるのだろう。実のところ、いくら不祥事が出てきても、報道が言う「信頼が失墜」はしていないというのは前も書いた。「リアルな刑事ドラマ」の条件は、「上の人間が総じて陰謀家」で、そういうドラマは一定の人気もあるのにね。

     最近、この法案に重ねて思ったのは、駐禁の緑の人々である。
     それ以前に交通警察官がやっていたチョークを引いて一定時間待って、という慎重な方法と違って、現認した瞬間切符を切るというかなり強権的な手法に切り替わった。それもやたらと人数が多いから、油断するとすぐやられる。それで世の中、路駐しないか、一人が車に居残るようになったので、することがなくなった彼らは二輪の駐禁を切り出した。規制緩和でビッグスクーターが増えたというのも背景にはあるのだろうが、放置自転車の合間に埋まっている原付を見つけ出していちいち駐禁の処理をしている様子は悪い冗談に見えた。

     要するに、取締る側というのは、暇になるとやらなくてよさそうなことまでやるということだ。「弁護人」のカン課長と似たような話だ。優秀な刑事がどう見てもただの世間知らずの青年に執拗にこだわって自白を強要する作業は、税金その他色々と無駄づかいが過ぎる。緑の人々も予算がついているので「本日は違反ゼロでした」では済まないのだろう。強化月間なのに拳銃を一丁も挙げられていないのはマズイというので自作自演をした稲葉氏も、カン課長同様優秀な人物だったと自伝の相対的なまなざしからうかがい知れるが、とにかくこういうアリバイ作りの延長線上での脱線である。

     もちろん駐禁については、法的には停めた側が悪い。ま、だから余計に「そういうことだ」という話でもあるのだが。一度、街中で大声でもめている男女の横を、緑のおっさん2人が素通りし、そこにいた周りの人間全員「警察ちゃうんかーい」とあっけにとられて、しゃあないから代わりに取りなしたという場面も遭遇したことがある。この2人が気が利かなかったということではあるのだろうが、そもそも担当業務ではないので、妥当な判断といえばそう。彼らにとって大事なのは、たまたま遭遇したトラブルよりも、担当業務の件数確保になるわけだ。こういう融通の利かなさを、この法案を見聞きするたび思い出す。

     ただ、こんな警察の悪口を街頭でアピールしてもあんまり効果はなさそう。というか、それみたことかと逆効果になりそう。今の話も、車やバイクに乗らない人には「何言ってんだこいつ」と反発されると思う。同じくこの法律も、実際のところ、関係ない人には関係はない。そしてそういう人が大多数だろう。

     しかしながら、平時でなくなると事情は変わるに間違いない。大規模災害、大規模事故、隣国との緊張その他、花見を遠慮するような空気が蔓延するような出来事が起こると、事情は変わってくる。それでも関係のない人の方が多いと思う。ただし「私」には無関係でも、「私の頼りたい人」はいなくなる可能性はある。そして平時と違って困りごとの総量も件数も増えるから、今はいなくても、「私の頼りたい人」の数や認知度は増える。
     そしてそのうちはばかることがやたらと増える。これは多くの人にとって無縁ではなかろう。横暴な上司のいる職場と同じで、声はひそひそになり、同僚が急によそよそしくなったりする。活き活きし出すのはスネ夫ばかり。こういう職場に比べ、実社会がさらに難儀なのは、はばかる相手が横暴上司でもスネ夫でもなく、目の前の友人知人なところである。何のいいことがあるというのか。

     こういう推測は、実のところヒントのかなりが、共産党その他左派の人々がすぐに引き合いに出してなかなか同意されない戦前の話からである。「戦前回帰」的主張はしばしば「時代が違う」「大袈裟」と鼻で笑われる。右翼しぐさの人々が好きな「WGIPの洗脳」というのは、むしろこれのことではないのだろうか、と最近思う。なので、「治安維持法」と聞いて鼻で笑ったあなたはWGIPに洗脳されてます、と言えばいいのか。その手の人が噛み付くだけだな。

     帝国崩壊という大きな分断を挟んでいるとはいえ、たかだか70〜90年前の話。それも近代国民国家という大枠は同じ。参考にならないと思う方がどうかしている。孫子の経営学的な本が一定程度売れるんだから。まあ孫子の場合は、ソクラテスと同じで超基本的なことを言っているので時代を超えた普遍性があるのだろうが、でもまあ前世紀であれ紀元前であれ、歴史というのは隔世の部分と普遍的な部分とがあるんでしょうよ。

     で結局何ていえばいいんだろう。俺が個人的に思うのは、姪っ子を息苦しくさせたくない、ってことだけど。


    好きこそものの

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       漢字の読み間違いが世間をにぎわせているようだ。読み間違い自体は誰でもやらかすのではあるが、音の響きがおもしろいのでさすがに笑う。ついでに爐い弔發離蹈献奪瓩諒弧で間違えているから、あれにうんざりしている人間にとっては積極的に笑いたくもなる。前の二文字と合わせるとリズミカルな四字熟語のような響きがあるが、ちょうど稀勢の里が横綱昇進の口上で定番化している四字熟語を使うとか使わないとかの報道があったので、代わりにこっちが初耳の四字熟語を言っとるやんけ、と勝手に2つをつなげてしまった。

       大人になると、単に「読めない」でなく、思い込みが作用して間違いにも気づかないときがあるからタチが悪い。今でもたまに己の思い込みを発見するときがあるが、多くはパソコンで変換するときに、打ち込んだかな文字列が変換されなくて気づく。具体例を思い出そうとして出てこない。試しにネットで「読み間違えやすい漢字」を検索したら、有名なやつか(例:相殺)、難読漢字(例:海豹)か、マナー講座的な別にええやん的なものか(例:間髪)、だらけだった。「間髪」なんて、もう「オルタナ読み」でいいんじゃないか。

       中には「そんなもん間違うやつおるんや」というのもあった。首相を「しゅそう」と読む人がいるらしい。ホントに? 首相があれだからいるんだろうとつい乱雑に片付けそうになるが、さすがに首相自身は「首相」を読めるでしょ。

       ほしいのは、こういうんじゃないんだよなあ。ネットでひっかかりにくいものの一つが「絶妙の例」だな。まあこの場合は、「俺が過去に間違いに気づいた例」を思い出す例が欲しいだけの、まったく個人的な尺度だから完全なる言いがかりだが。ああ、一個だけ思い出した。「鼻白む」だ。これは変換できなくて知った。「白ける」のせいで、「ろ」じゃなくて「ら」と読んでいた。幸いなことに書くときにしか使ったことがない言葉なので、恥をかかずに済んだ。

       テレビでよく耳にするのは「直截」だ。言葉の種類からいって、ニュースなんかでコメントする識者くらいしか使わないから、余計に目立つ。そう思って試しに「ちょくさい」で変換したら変換できてしまった。ネットの辞書でみると、「慣用読みでちょくさいとも」とあるから、オルタナ読みか。「慣用」と書いてあるのでわざわざ新造語を使う必要がない。

       「OK」は、反知性主義で知られる米大統領アンドリュー・ジャクソンが「All Correct」を「Oll Korrect」と間違えたことに由来があるという説があるが、今回の件もゆくゆくはその手の新語として定着する可能性もなきにしもあらず。

       というような豆知識を書いたが、こういう行為も結構怖い。自慢げに披露して思い切り間違っているということもあるからだ。大抵は飲み会の席で偉そうに披露して、周囲が「へえ」で終わる程度のものだから、店を出るときには言った方も言われた方も忘れているので被害は少ない。なぜか俺の場合、ドヤ顔で披露した相手が自分よりそのことについて詳しかったという、穴があったら Want to Hideな場面に何度も遭遇しているが、より恐ろしいのは俺の場合、大学で教える立場だから、ここでハズすと、これは恥の話ではなく、単純にマズい。そういえば、昔、舞台の脚本に使ったこの手の豆知識的なものが、思い切り間違っていたということもあった。

       ちなみに「OK」を検索すると、ウィキペディアでも「すんませんでした」と言いたくなるくらい、色々細かいことが書いてある。こういう事情で最近のテレビ番組では、何かというと「諸説あります」と画面の端に出てくるが、本当に諸説ある場合いざ知らず、「危険なのでまねしないように」と同様のただのアリバイ作りで表示している気配が漂ってくる。

       縁あって、ここ数年、学生相手に世界史だの地理だのを教えている。センター試験よりはやや簡単なレベルの試験対策なので、説明しないといけないことはたかが知れている。山川の教科書でおつりがくる程度だ。ただ、教える側としては、試験には出ない部分も、やはり広く深く知っておく必要がある。俺の場合、大学を4年で卒業しただけのド素人だから、追加で勉強しないといけないことも多々ある。それで時間を見つけては関連書籍を読むわけだが、そうすると、今までの理解が微妙に違っていることに気づかされることも少なくない。

       こうなると、これまで「習得した知識」だと思っていたものが、本当にあっているのか段々疑心暗鬼になる。それだけではなく、これまで気にしたこともないことが急に疑問に思えてきたりする。例えば、イギリスの歴史ではチャールズ1世とチャールズ2世という王様が登場する。この両者の血縁関係は何だろうか。これまで考えたこともなかった。多分親子だろうという思い込みのせいだろうが、フランスのルイ16世は、ルイ15世の息子ではない(孫)。フランス革命の解説書なんかでその事実を知ると、心中「げげっ、そうだったのか」と狼狽しつつ、はてチャールズの場合はどうなんだろうと急に気になり出す。

       いずれも試験対策には全く無用の知識である。知らなくても授業は成立する。だけど偉そうに教壇に立つのだから、そこはやはり責任感というものがあろう。過去には別の科目で授業準備をサボったせいで、それこそ漢字の読み間違いのような赤っ恥をかいたこともある。もうひとつは、歴史の場合は個人的に好きなので、より詳しくなりたいという趣味的欲求が責任感を後押しする。好きこそものの・・・・・・、この場合なんだろうか。

       というわけで、間違いを犯すのは、そのこと自体よりも、それを生み出す姿勢の方が遥かに問われるというわけだ。まして、くだんの大統領や、その他諸氏のように、自ら嘘や根拠不明の犹実瓩鮨當阿垢襪里蓮△修里海伴体の罪悪もさることながら、己の信条のように高らかに掲げていることについても、実のところは当人自身、大して興味がないということになる。興味があることは大事にするもんだ。問題はそこなんだよなあ。


      USAもUSBもPost Truth的な

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         取材の際に、相手が話していることを録音するレコーダーを、先日久しぶりにちょっと使ったので、中身をパソコンに取り込もうとしたときのことだ。
         接続のUSBが、Aタイプという、つまりは「普通サイズ」のやつだった。前に使用してからずいぶんとたつので、そんなことも忘れていた。それで接続しようと手元のUSBケーブルを探すのだが、適合するものがない。PCの受け口は、AタイプでレコーダーもAタイプ。なのでA−Aのケーブルが必要なのだが、持っているのは片方の形状が小さかったり正方形だったりのやつばかりだ。おかしい。身の回りをざっくり掃除したときに、全部処分してしまったのだろうか。

         仕方がないので100均に行って買おうとしたのだが、売っていない。以前は普通に売っていた気がするが、スマートホンの普及等で売れなくなったのだろうか。そんな風に想像して家電量販店に行ったのだが、やっぱり売っていない。

         不思議に思ってネットで検索してみた。こういう場合、大抵全く同じ疑問を抱いた誰かが知恵袋等に書き込んでいるもので、やはりあった。しかし回答者の説明は、長ったらしいわりには結局のところ「品揃えの問題では」とのこと。「だからヨドバシに負けるんだよ」と一人毒づきながら梅田に行くことにした。しかしこの巨大店舗でもやはり売っていなかった。あるのはA−Aの片方がメスの、延長コードだけだった。

         店員に聞こうと思ったが、先ほどのネットの長いかつ求めていない説明が脳裏をよぎり、躊躇してしまった。もう一度言葉を変えて検索して、他の検索結果を見てみると、これがなかなか面白かった。

         俺と同じく「自宅にいくらでもあったような気がするがいつのまにかなくなっていたので、買いに行ったが売っていない」という人が、周囲から「そんなもんねーよ」と嘲笑されている。たしかに、現実問題どこに行っても売っていない上、俺自身も、考えてみるとA−AのUSBが必要な機会は、ここ何年もなかった。なので、若い世代の人々にすればカセットテープのような存在になっていると想像される。結果「何言ってんのコイツ?」「あるわけねーだろバカ」という反応になる。しまいに「いくらでもあったはずのもの」が、自宅からいつの間にか消えているのだから、「記憶のすり替えだろ」「病院行け」みたいな話になっていて、どんどんSFになっていた。状況がしっかり俺とカブっているから、俺自身も、記憶違いなのだろうかと自分がうっすら疑わしく思えてしまった。

         しかし、アマゾンなんかで検索すりゃ、A−Aはすぐ出てくる。商品のレビューを見ると「最近これ店頭で見ないので助かりました」というような感想がさらりと述べてある。なのに「ねーよバカ」が優勢になり、一瞬「俺が違ってるのかも」と思ってしまう。これが「Post Truth」の時代か、と流行りの言葉で無理やりまとめて一人頷きながら、アマゾンのボタンをぽちっとしたのであった。あんまりここで買わんようにしてるんだけど、こうして使っちゃうんだよなあ。


        おせち考

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           伯母のところに手伝いにいった鯖寿司は、無事完成していた。これを熱燗といただくと、非常に特別な幸福感を味わうことができる。「ここでしか食えないもの」を食うのは、代表的な贅沢の一つになるだろうが、今の世の中、本物に比べて劣るにしても、そこそこのものならある程度どこでも食えてしまう。なので他では食えないレアなものなら、幸福の度合いも比例するわけだが、単にその料理が入手可能かどうかだけでなく、「ここでしか食えないもの」を食える「ここ」にいることが幸福の成分としては大きいように思う。

           ところで熱燗の友人といえば、このような生魚系がまず筆頭に挙がるだろうが、おせちのような甘辛い食い物も、かなりの親友である。世間的には、「おせち」とは「まずいもの」の雅語として定着している感もあるが、俺は結構好きだ。酒飲みが定着した20代後半からの嗜好であるが、とにかく、喜んで食べている。それで人様が、おせちの不幸は盛り付けることにあるというようなことを書いていて、ふと気づいたことがある。

           元の文章の趣旨としては、彩だの何だの、重箱を埋めることを過剰に意識するその精神のありようが、社会に色々な不幸を生んでいるというような内容だったのだが、振り返ってみると、我が家のおせちは重箱にこそ入って入るものの、まったく盛り付けをしていない。タッパーに入れているのと本質的には変わらない。

           このような、外側だけ伝統に沿いつつあとは身もふたもない合理性を優先するのが両親の気質のように思う。現在は、まめな父親が、おせちのメニューのうち自分の好きなものだけを作っているが、母親が存命のときも、大体こんなもんだった。茶色と黒しかないので、盛り付けてもモノクロームで何の彩もない。ゆでたエビとか伊達巻とかがないと、重箱は恰好がつかないが、誰も好きじゃないので用意しない。結果、こうなる。

           なるほど、おせちは盛り付けなければ、それ自体の価値を再確認できるというわけか。形を整えることを過剰に突き詰めた結果の社会の不幸を解決する策は、ここにヒントがあるといえよう。


          そば打ちダンディズム

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             謹賀新年。
             ネットを眺めていると、中年のおっさんが急にそば打ちに目覚め、それがマズいので周囲が迷惑をこうむる、という図式が各地で勃発しているらしい。おっさんがそば打ちに目覚める構図はなんとなく想像がつく。ストイックなこだわりダンディズムが凝縮している佇まいが魅力的なのだろう。種類としては、古美術に突然目覚める鑑定団でおなじみのおじさんたちに似ているような気がする。

             それで我が家を振り返ると、年末にはそば打ちをするのがここ数年の定番になっている。別に俺ないしは親父がそば打ちダンディズムの虜になったわけではない。姪(14)が料理好きなので、お爺が孫に高度なおもちゃを与えるような恰好でそば打ちがなされているのである。無論、中二の少女はダンディズムとは無縁だ。

             正確には、母親がまだ存命のころ、そして姪がまだ幼少でそば打ちには何の興味も示さなかったころ、両親が一度手を出したことがあるのだが、面倒なので一時やらなくなっていた。それが復活したわけである。

             農協で売っているそば粉セットのような商品を買ってきて、説明書き通りに混ぜて、麺棒で伸ばして、切る。それだけの作業といえばそう。そして、出来栄えはというと、プロのように均等に切れなくて、太くなったり細くなったりするという難点はありつつ、別にマズくはない。むしろ美味い。どうやってマズく作るのだろう? 石臼でそばを引くところから始めているのだろうか?? よくわからない。

             我が故郷は、そばの国なので、スーパーに売っているそばでも普通にうまい。自前でわざわざ作るメリットは大してない。おそらく姪が飽きたらもうやらなくなるだろう。その程度のノリで作ったものが、別にマズくもないのだから、ここから導き出される結論は、こだわりダンディズムは、料理を不味くするだけの邪魔者でしかないということになる。興味関心と食欲。それで充分じゃないか。


            羨望

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               下馬評は圧倒的に不利でおそらく負けるだろうけど、ひっとしたらひょっとするかもという立場だけでなく、「赤」に「鹿」がカブっている対決が同時に放送だったので、ネットもそんな感想で溢れていた。相手を苛立たせるところまで攻め込み、途中「アレがなければ」という展開(イエロー出すぞ出すぞ詐欺と「なぁぜ持ってきたぁ!」)を挟み、結局相手は盤石だったという結果も似ていた。だけど赤い味方の側に「小笠原」がいるというのがネジれていると瑣末なことを思ったりもした俺はどちらも十分楽しんだのだった。

               真田丸に関しては、信繁に大坂の陣の活躍以外に特に話がないので、父親が活躍する序盤はともかく、秀吉に仕える中盤は、常に事件の傍観者なところが「花燃ゆ」と構図が同じでかなり惰性で見ていたところがある。人生の最後にクライマックスがある人も歴史上そういないので、見ているこちらはそこだけに向かって付き合っていたような気もするが、「幸村」になってからは序盤と同じくらい前向きに見ることができた。個人的には、家康討死説を取って、幸村が見事家康を討ち取るも、徳川の盤石は微塵も揺るがなかったというラストを期待していたが、家康が死なないものの、大まかにはそうなっていた。あと、秀頼がバカ殿ではなく、むしろ結構優秀なのだが、いかんせん若い&経験不足がたたったという描き方(と演技)がよかった。賢い劉禅が出てくるドラマも見てみたいものだ(秀頼と同じく麒麟児のバカ息子という扱いをされがちだが、三国の中で唯一長期政権を築いている)。

               さてこのネットの反応について。色々感想が山ほど溢れているツイートをざざっと眺めたのだが、相当「しっかりと」見ている人が少なくないことに驚いた。どういうことかというと、1つは、ちゃんと作者の意図を汲んでいること。「今日のあのシーンは、実は第〇話で出てきた□□を受けている」というように、ちゃんと伏線を抑えている。こっちはそこまで熱心に見ていなかったのか、「へえ〜」となってしまっていた。

               もう1つは深読みである。「今日のあのシーンは、第〇話を踏まえると、□□な意味も持つのではないだろうか」というような、構造的には1つめと似ているが、見る側の解釈が多分に含まれている感想である。勝手にやってろというような独創的過ぎるものはあまりなく、結構なるほどなあと思わされる説得力がある解釈が多い。これは勝手に断言するが、作者はそこまでは考えていない。だが、そこまで考えてはなかったが、出来上がってみると確かに指摘のような関連性が見て取れる。よく出来た作品には、しばしば起こる現象である。まるで自分にも経験があると言っているようだが、自分にも経験があるので心配無用。

               それで何が言いたいかというと、ここまで視聴者がしっかり見てくれているのは、作り手冥利に尽きるなあというなんてことない感想なのだが、とてもしみじみそう思ったので書いておくことにしたのである。


              命日が同じ人

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                 平幹二朗という俳優をテレビで初めて見たのは、何のドラマだったか。まだアニメにしか興味が湧かない年のころくらいだったと思うのだが、そんな子供にとっても印象に残ったのは、実に個人的な話で、母方の祖母に似ていると思ったからだった。目がぎょろりとして眉が太くて、額に仏のホクロがある。記号レベルでしか似ていないが、改めて画像検索すると、ちょっと似ている写真もあった。これなど、晩年の母親ともうっすら似ている。

                 「あの人、おばあちゃんに似てる」と言うと、母親は、「あんな男前に似てる言われたら、おばあちゃんも喜ぶわ」とおどけた。要するに、全然ピンと来ていなかったのだろう。俺は俺で、このおっさんのどこが男前なのだろうとピンと来なかった。「かっこういい」はイコール、モロボシダンのようなヒーローでしかなかったガキのころだったからだ。

                 この人の魅力がようやくわかったのは、大河ドラマ「武田信玄」の武田信虎(信玄の父)役で、戦争好きであると同時に血塗られた自らの業におののく狂気の大名を演じきっていた。息子に追放されて以降は、居候先の今川義元の母役の岸田今日子をクソババア呼ばわりしてほとんど夫婦漫才と化す滑稽な役になってしまったが。

                 で、その名優がなくなって思ったのは、祖母と命日が一緒になったということだ。30余年前の10/22、祖母の息子、つまり俺の叔父が結婚し、長男の結婚に大喜びした祖母は、相当に羽目を外し、翌23日に亡くなった。闘病生活が長かった身で、心底ほっとしたのだろう。

                 濃い顔つきの平氏とうっすら似ていた顔から察せられる通り、なかなかのエキセントリックな人で、母親に対するしつけは相当に厳しかったらしい。俺の兄に対してもかなりのスパルタだったので、容易に想像がつく。教育婆というよりは、呪詛のようなものだった気がする。母親は、忍耐と努力の人だったが、「私は人の倍努力してようやく人並み」とよく言っていた(なのにお前ときたら、努力の欠片もないと説教が続く)。よほど祖母が厳しかったのだろう。どれほど厳しかったかを笑い話で母親から聞いたこともあるし、兄に対する鬼の形相も記憶にある。あの一種狂気めいた激情は、武田信虎とちょっと似ている。ちなみに俺には「弟あるある」で、祖母は甘かった。損をしたような助かったような。

                 太い眉毛を祖母から受け継いだ俺だが、大してエネルギッシュでもない身、それ以上はあまり似ていない。祖母の夫、つまり俺の祖父は、ニューギニア戦線で死亡しているが、祖母は戦死が信じられず、同じ部隊にいた人々を「ゆきゆきて神軍」の奥崎健三のように訪ねまわったと聞く。おかしな言い方だが、その取材欲はちょっとだけ似たが、熱量はずいぶん違う。そこは見習わなければ、と身内を思い出し、わが身を叱咤した名優の死だった。


                選管太郎の活動

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                   選挙権の拡大で、大学でも18、19の学生に向けて不在者投票実施などの投票呼びかけ事業を実施しているという。俺もちょうど大学1回生相手の授業があったので、選挙権が与えられた彼ら若人に対し、選挙管理委員会からのお知らせとばかりに投票を呼び掛けた。こんなお節介な気分になったのは、たまたま見たニュース番組でやっていた参院選の特集の、相変わらずのまとめ方にむかっ腹が立ったからである。

                   曰く、「各政党の違いがわからない」「どの候補に入れていいのかわからない」「入れたい候補がいない」「投票しても何も変わらないので行っても行かなくても一緒」という「街の声」を取り上げる、相変わらずのアレのカタマリがのさばる反吐の底の吹き溜まりである。「わからない」のは政治家側の努力不足の面もあろうが、わからない側に完全なる正当性があるわけでもないし、何より、わからないという人間相手にわからせるのが報道の仕事だから、「街の声」を他人事の現象のように扱ってどうするんだ。
                  というわけで、若人に語り掛けたのだが、なぜ18歳に引き下げられたか、という以外は他の世代にもいえる話だろうから、ここに書いておく。

                   「わからない」というが、駅前で各陣営が配っているビラを、誰も受け取ろうとしていない。知ろうともしていないのに、「わからない」とまるで相手のせいのように言うのは大人の取るべき態度ではない。受け取らないなら、せめて目くらい合わせて欲しいものだ。無視して通り過ぎる人がほとんどだが、選挙はコンタクトレンズや美容室のビラとは質が違う。コンタクトレンズや美容室は用のない人間には用がないが、選挙は有権者全員に関係がある。参院選は最も縁遠い印象もあろうが、地方選挙でも同じ景色を見るので、選挙の種類は問題ではない。嫌いな政党であっても最低限の敬意は欲しいものだし、無視や無関心は、天に唾、どのみち自分に返ってくるというものだ。

                   「入れたい候補、政党がない」というが、古来、そんなものはいた試しはない。定数を減らしている現在、余計にいるはずがない。選挙はお買い物ではない。大体、買い物でも欲しいものは結構、ない。俺が子供のころは、参院選はミニ政党が乱立する最も面白い選挙だった。あのころは、ある意味「入れたいところ」があった選挙かもしれない。だが母親に「愛酢党に入れてくれ」と頼んだら「アホか」と一蹴された。UFO党だったかもしれないが、とにかく一蹴された。ないというなら、自分で立ち上がるのが間接民主主義というものだが、実際のところ立候補はかなり難しいのが現状なので、引き算で選ぶよりほかはない。

                   「変わらない」とお約束のように言うが、自分の一票で何かが決定するのなら、怖くて投票などできない。村議の選挙は1票が当落を分けるケースもあるが、それでも決まるのは誰が当選するかだけである。英国はEUから離脱すべきか残るべきか、あなたが決めてくださいと言われ、快諾できる人がどれほどいるのだろう。私は離脱派だ、残留派だと意見が明確な人でも、お前が決めろというのは次元が異なる。自分の1票などたかが1票に過ぎないから投票にも行ける。たかが1票にすぎないなら行かなくても一緒じゃないかという理屈が成立するが、要するに、「変わらない」は行くも行かぬもどちらの理由にもならないということである。

                   そして矛盾したことを言うようだが、世の中は結構変わっている。中学生のころ、選挙なるものに興味を持ち出し、国政選挙の開票速報を見ていたが、結局与党が勝ったので「選挙なんてつまらないものだ」とこまっしゃくれたことを担任に言った記憶がある。少なくともそこから20余年、「変わらない」は選挙のお約束だった勘定になるが、よいこと悪いこと含め、あれからまあまあ世の中は変わったものだ。

                   さて、それでどこに入れればよいのかといえば、現政権支持なら与党に、不支持なら野党に入れればいいわけだが、最近の日本の政党がややこしいのは、保守を自称している政党が革新であり、古来革新とされている側が保守だということだ。なので変化を望む場合は与党に、そうでないなら野党に、となる。その筆頭が憲法である。憲法は争点ではないと首相が強調したところで、大勝したときに「争点ではなかったので」と改正をひっこめるとは思えないので、争点にしてよろしい。

                   さらにややこしいのは、改憲を是としてきた憲法学者が現在自民党に喧嘩を売っているが、なぜそうなるのかといえば、問われているのは改憲の是非ではなく、改憲の案の是非だからである。このため改憲をするべきだと考える人にとって、あの憲法草案でいいのかどうかはまた別問題であるから、ここは極めて注意が必要だ。「アレに変えるべきかどうか」を考えなければならない。その意味では、社民党以外はどこも改憲草案を作った方がいいようにも思う。

                   そして本丸は9条ではない。9条を変えた方がよいと思う人の多くは、安全保障の強化という一種の安定を望んでいるのだと思うが、9条以外の部分について「安定」を保障する内容かどうか、考えるべきことである。そうしないと、離脱に投票した後で国民投票のやり直しを求める署名を集めることと似たような事態になる。そしてあれを作った人にはその後の展開が見えているのだろうが、支持する政治家のどれくらいがその先どうなるかが見えているのだろう。実にあやしいと個人的には思っている。

                   学生相手には寸止めして話している。こちらの立場、そして彼らの考え方が政権寄りであろうと逆であろうと、教壇に立つものが旗幟を明確にしすぎると、きな臭さを敬遠するからだろう、途端に学生は話を聞かなくなるからである。投票は義務ではなく権利だという話の流れで、「義務を果たさないのに権利を主張するのはけしからん」というロジックは間違いだ、くらいのことは言ったが。


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                     自分がここで書いていたことを見直すと、忙しいときほど更新している旨の記述が散見する。脚本を書くのにテンパっている。そのノリのままブログの記事も書く、というような構図だ。今のわが身はといえば、忙しいと更新が滞る。科学的合理性のある状態だ。これはなぜだろう。以前の「忙しい」は、人と会って雑談をする時間がそれなりの割合を占めていたのではないかというのが仮説である。会話をする中で、頭の隅にあったことが言語化してきて、キーボードを打ち付ける。雑談→言語化→文章化→自己満足。これをZGBJサイクルという。めちゃ語呂悪い。

                     今はというと、基本的には一人であくせくしている。原稿にしろ講義にしろ、一部に打ち合わせを含むことはあるが、基本的には一人の仕事だ。そしてこの双方の仕事に共通しているのが、資料調べである。読書と似た行為だが、読書と違うのは、メモを取らないといけないことで、1、2か所で済むならともかく、何十か所にも及ぶとなると、ただの読書に比べてかなり面倒くさい。下手に面白い本だと、ぐいぐい引き込まれてフツーに読書をしてしまうから、ひとたび冷静になって、さてアレは何ページに書いてあったっけ?と振り返るのは、仕切り直しに近いそこそこの障壁がある。図書館で借りた本の場合、返さないといけないからメモは必須なのだが、時にものすごく面倒に感じて、いっそ買ってしまうか、面白い本だったし、と考えてしまう。まあ、買えばいいのだが、さすがに何冊ともなると躊躇する。経費でどこぞに請求できるといいのだが、と詮無いことを考えて、政治資金で請求すりゃいいじゃんと思いついたのだった。

                     さて、彼のセコさについては大手マスコミの人々がアンバランスなくらい叩きまくっていたので放っておいて、そのタイトル一覧に注目するとする。結構な冊数ではあるが、読書家の人間ならこれくらいは読むし、人文系の研究者なら、もっと買っているような気もする。当人が読んだかどうかは知らないが、読んでいるならなかなかの勉強家であろう。最近は、国政にも地方政界にも、おおよそ知性の欠片も伺えない発言をする人が多い。政治家が勉強家であることはよいことだ。

                     ちなみにこの場合「読む」というのは、本の一部を読むにとどまる行為も含む。頭から尻まで通読することだけが「読む」のではない。作り手側は通読を前提にして章立てを考え、あっちを前にするか、こっちは巻末に回すか、などと格闘するから、一部だけ読まれると悲しいのであるが、手に取って買うなり借りるなりしてくれた時点で目的の2、3割は達成されているから贅沢はいうまい。

                     ま、読書だけが勉強ではないのだが、それはさておき、その本はお前の趣味だろうとか、家族用だろうとかいうタイトルについ目が行く点についてだ。
                     例えば美術関連の書籍は、完全に彼の趣味をうかがわせるが、芸術も都政の重要な一部である、というような擁護をここで述べたいわけではない。芸術が都政の一部に関連するのと同様に、他の分野も行政には絡んでくる。その点、この購入書籍のリストを眺めると、明らかに偏っており、例えば科学関連の本はちっともない。

                     読書家の人間であっても、その分野は必ず偏る。俺の場合でいうと、歴史の本はよく読む一方で、経済関連、特にビジネス書は視界すら入っていない。ところが仕事の関連で読まないといけないときがある(自分の働きマインドを改革したいとき、ではなくて、「よくわかる決算書の読み方」みたいな原稿を書かないといけないとき)。仕事の場合は興味のないことでもやらないといけないというのは誰でも経験あることだろうが、読書についても同じことはいえるということだ。そういう点、仕事で読まないと(買わないと)いけない本であるなら、もっともっと節操のないラインナップにならねばならないと言える。

                     俺は、今月だけで、ドラッカーに、三浦知良や原辰徳の著名人本、藤原正彦や五木寛之ら「売れっ子だけど敬遠してしまう人」の本、その他青木保に湯川秀樹に、色々読んだ。種明かしというのか、なぜそんなに読んだのかといえば、これは全部試験問題に使われた文章だというオチだ。現代文の試験は、当人の読書傾向とは無関係に様々な文章から出題がなされるので、これはこれで稀有で得難い読書体験なのである(というのをどこかの大学の先生がネットに書いていたのを読んだ記憶がある)。

                     もちろん、ミステリや技術書、サブカル本など試験に使われないジャンルの本もあるし、内田樹のようにすぐ使われる人もいるが、ドラッカーを読むのはこんなこともなければなかっただろう。実際、実に肌に合わないシンドイ内容だった。一方で、山竹伸二という人の著作は、アマゾンを見るとおそらくこの先も自ら手に取るような本ではない印象があるが、結構面白かった。

                     とっくに気づいていると思うが、現代文の試験だから、元の書籍からすると長くてもせいぜい2ページ分くらいしか読んでいない勘定になる。それでも「読んだ」に入るのはすでに述べた通り。これを伏線の回収という。でもこれは自己弁護の煙幕だけではない。先ほどの山竹氏の本でも、アマゾンの紹介を読むと、俺が試験問題の文章を読んで汲み取ったことは、著者の趣旨とは外れた一種の誤読だと感じた。つまり、抜粋を読むと、前後を知らない分、こちらが勝手に意味を見出すこともあるというわけだ。「発言が恣意的に切り取られた」とマスコミ報道を批判するのと構造は同じである。だが、この場合は別に誰かの名誉が左右される話でもなく、ただこちら側で「ああ、なるほど」と思う行為であるから、抜粋の効用と考えてもよかろう。

                     結局終わり方がうまく見つからないので、避けていた話に戻るが、ああやってわかりやすい話でかつ相手が下手に出るときだけ、強気に、何なら過剰に正義を振りかざして追及するのは、世の中の色んなことに結構な悪影響を及ぼすということだけは自覚してほしい。何度も書いている話だが。あと五輪絡みで刺されたのは誰でもわかる話だろうから、潰した分だけ追及しろよ。


                    いい機会

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                       最近はよく、NHKを筆頭に、政権の言いなりになっている報道姿勢というのをとかく批判されることが多いが、今に始まったことなく言いなりになっていたのが検察関連の報道であると思う。
                       テレビで検察官を見ることはほとんどない。どこぞのビルに隊列を組んで捜索に入るときと出るときの映像や、注目の刑事裁判の法廷内撮影で横顔を見ることがあるくらい。警察の場合、注目の事件の容疑者を逮捕したり、職員が何かをやらかしたりしたとき記者会見をすることがあるが、検察庁の場合はまずない。検察官が記者会見をしているので記憶にあるのは福岡地検の次席が情報漏洩をしたというよくわからん不祥事のときくらいだ。

                       別に会見なんかしなくても、取材にさえ応じればいいのだし、実際、撮影ができないだけで報道発表と取材対応は検察庁もしているんだが、ここで強調したいのは、報道側にイニシアチブがほとんどないということだ。特別に教えてやっているくらいの態度をとられることもしばしばだし、その上大して教えてくれない。その秘密主義は警察をはるかに凌ぐ。ま、地方の検察庁の場合、取材している記者が刑訴法もろくに理解しておらず(俺)、要領を得ない的外れな質問ばかりするから(俺)、ぞんざいな態度をとられるのはかなりは自分のせいであるのだが、他の官庁に比べれば、かなり特別扱いな役所である。機嫌を損ねるとすぐ出入り禁止処分に遭うし。公の機関であり、人様を拘束する強権を持っていることを思えば、不遜だともいえる。
                       例えば「64」では、東京からやってきた嫌味な記者(堀部圭亮)が、主人公の勤める田舎県警に対して「広報がなってない」と詰め寄り、地元支局の若手記者に「お前らの教育がなってないからだ」と呆れるシーンがある。警察にしろ自治体にしろ、都合の悪い話であるほどすぐに隠してうやむやにしようとするので、記者と当局との間では日々「出せ」「出さぬ」の応酬が繰り広げられる。結果このような尊大な記者が誕生するわけだが、こと検察に関しては、是非はともかく、伝え聞く感じでは広報業務は前時代のままである。
                       報道陣にいじめられた経験のある警察幹部や県庁幹部からすれば、同じくらい詰め寄れよと堀部記者に言いたくなるのではないかと思うが、それでも報道側が言いなりになっているのは、ここから先は東京地検の話になるが、特捜部の扱う事件が政治家の贈収賄など耳目を集めるデカい事件だからだ。ナントカ大臣が汚職でパクられれば、これは好むと好まざるにかかわらず、全社大々的に報道することになる。ついでに事件報道は伝統的に、よその社を出し抜いてナンボの世界だから、公式発表はむしろおざなりの方がありがたいという発想も働く。かつて検察批判は「噂の眞相」の独壇場だったのも、彼らがジャンク雑誌だったというだけが理由ではあるまい。
                       それで何が言いたいかというと、ドジャーズ監督のデーブ・ロバーツ、じゃなくて甘利明の立件見送りは、検察報道にとっては朗報なんじゃないかということである。ろくに事件やんないんだから、これでも唯々諾々と言うこと聞く必要がなくなった。陸山会とか堀江とか、筋悪な事件は筋悪だとはっきり書けるようになったんじゃないか。担当の記者たちは、文字通り心身削ってやってるんだろうから、せっかくなら言いなりにならない鋭い分析の記事を書いてみれば、どうせできるんだから、と思う。



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