ぐだぐだと復帰

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    晩白柚と黄色いボール

     

     3月末でひと段落ついたように書いたが、全然そんなことはなく、月月火水木金金的な週が続いた。ついでに在宅仕事も多く、学生が書いた文章を4月だけで500本ほど見る羽目になった。すごく単純に見積もると、普通サイズの書籍2冊程度といったところの文字数。こう書くと大したことはないように見えるが、何せ本ではないので、そりゃもう・・・・・・。仕事とはいえ、精神的にかなりすり減る。


     この感覚は何かに近いと思って、何度か書いている昭和30年代のマンガをまとめ読みしたときだとわかった。当時の少年雑誌に連載されていたマンガは、どれもこれもが判で押したような工夫のないワンパターン。黎明期だからそんなものだろうし、それをわざわざ調べると自分で決めてやっているから文句をいう筋合いは全くないのだが、ちっとも面白くないので、マンガを読んでいるだけのことなのに実にすり減ったものだ。そしてたまに手塚治虫作品と遭遇して格の違いに「おぉ!」となる。
     これと似たような感じだ。手塚治虫のような学生はいないが、たまに「よく書けてるやん」というのはいる。ただし若干名。あとはひたすら似たような具合。ただしテキトーにやってるのは若干名で、大方は真剣に取り組んだ末での結果ではあるから、こちらも真摯に添削。

     

     大学の1年だったか2年だったか、とある授業でレポート課題が出て、ろくに講義を聞いてなかったこともあり、何を書けばいいのかさっぱりわからない課題だったから、さあ困った。結局よくわからないままよくわからないことを書いて提出したらば、後日の授業で教授が「みなさんまあまあよく書けてたと思います。ひとつだけ怒りを覚える内容のがありましたが。よほど不可にしようと思ったけど、可にしときました」とコメントし、案の定その授業の俺の成績は「可」だった。
     大学関係の仕事をするときには、常にこの自分史を定期点検するようにしている。自分だってその程度の阿呆だったのだと。ただし「怒りを覚える」とあのとき教授が言っていた気持ちもよくわかるようになってもしまっている。

     

     この作業の中で直面したのは、難しい話になると若人の年齢設定が老化するという現象である。例えば「環境問題と経済」というなかなか難しそうなテーマで文章を書くとすると「経済活動が環境破壊を生み、さりとて環境保護を進めれば経済活動が立ち行かなくなる」という昭和の公害企業の経営者みたいな二律背反を書いてくる、といった具合である。彼らは二十世紀末の生まれなので、物心ついたときから環境への取り組みをPRする企業ばかり目にして育っているはずだから、そういう前提の話をいかにも書きそうなものだが実態は違う。不思議なものだと思ったが、「今の子供は外で遊ばなくなった」とか「近年、近所づきあいが希薄になった」とか書いてくる学生は、学生相手の仕事をするようになってから継続的に存在しているので、「定型として確立しているものをなぞるからそうなる」というのが真相か。

     

     こうして4月が終わり、5月に入っても色々追い立てられるまま。テレビをつけると記憶力に著しい難があることを自ら進んで吹聴する御仁や、コミュニケーション力に著しい難があることを自ら進んで吹聴する御仁、ついでに経営者としての手腕に著しい欠如があることを自ら進んで吹聴する御仁等々で埋め尽くされていて、「SHERLOCK」のシャーロック風に言うと「部屋のバカ指数が上がる」から大変に困る。くだんの監督氏は除名になったようだが、内閣のみなさんも「処分はジョメー」だよホント。ごく一部の人間にしか伝わらない内輪の冗談です。

     

     「ドカベン」に出てくる明訓高校のライバル校の中には、「ブルートレイン学園」に代表される、名は体を表す(というより名しか体がない)学校がある。ブルートレインだけにナイターに強い、という馬鹿馬鹿しい設定なのだが、一方で「クリーンハイスクール」のように、ちっともプレーがクリーンではない逆のパターンもある。さて日本大学はブルートレイン学園なのかクリーンハイスクールなのかと考えることやや。

     

     日大の学生の会見では、顔のアップはなるたけ控えてくれという申し出をちっとも受け付けない報道側の姿勢も一部で批判されていたが、あれはさきほど紹介した学生と同じで、寄るべきフォーマットが1つしかない(会見の撮影の仕方が1つしか頭にない)からああなる。同じことを以前から感じているのが国会のニュースで、野党が質問して首相ないしは担当の大臣が答える、というフォーマットで仕立てるわけだが、少なくとも首相に関してはそもそも会話が成立していないやり取りがかなりを占める中で、意味の通るところだけ取り出していつも通りに仕立てるので、いかにも議論が拮抗しているように見えるが実のところは大部分そうなっていない。これもまた、目の前のものをちゃんと観察して認識しましょうやという点で学生の文章と大差ないんである。難しいもんね。わかるわかる。ま、あんたがたの場合は学生じゃないんだけど。
     


    チャンス到来転がり込んで真面目な反応

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       更生と更正は漢字テストに出やすい紛らわしい2つの熟語だ。非行少年のコウセイという場合、正しくなるから更正、ではなくて、更生が正解。「生まれ変わる」と覚えるべしと問題集は助言している。じゃあ更正はというと、こちらは法制度の用語なので、そういう仕事でもしてない限り、あまり縁はなさそう。
       と思っていたら、縁が出来てしまった。

       

       一通の封書から話が始まる。ちょうど、確定申告の還付金がまだ振り込まれていないのにどうなったのだろうと思っていたところだった。還付金の通知は、シールをぺろんと剥がす形式のハガキで通知されるのだが、届いたのはちょっと厚手の封書。この時点で不審がむくむくしてくる。開封したら、以下の額を支給払えという納税の督促だった。
       おかしい。還付があるはずなのに払えとはこれいかに。ついでに「3/15時点で支払いがないので早急に払うように」的な督促の文言があるのだけど、その日付けは確定申告の締切日である。締切日までにどうにか書類を仕上げて申告して向こうさんの反応待ちの状態なのに、まだ払ってないのはどういうことだという督促は、いかにも筋が違うように読めて腹が立ってきた。セクハラ否定してんじゃねえぞこの野郎と怒りの矛先がおかしな方向に向かってしまう。世の中には部下に真剣告白してセクハラになって処分くらう男だっておるんやぞ。

       

       翌日早速電話したのだが、一晩寝た時点で、俺が書類の書き方を間違えた可能性が高いんじゃないかという気がしていた。電話口に出た職員は心なしか疲れている様子で、同種の電話が鳴りっぱなしなのだろうかと想像しつつ、公の機関の人間はしばしばこちらの説明が下手くそという前提で接してくるという偏見だか危機管理だかが作用して、物書きの端くれ、なるたけ少ない文字数で要点を伝えんと努める。そうすると受話器の向こうで「はあはあなるほど」とてきぱき端末を確認している様子。「確かにおかしいですね。一旦確認します」と電話は切れ、割と早くにかけ直してきた。やはり俺の提出書類に記載漏れがあり、自分で〇〇円の税金を払いまーすという記述になっていたようだ。意味もわからず会計ソフトのまんまに数字を書くからこうなる。
       「ですので、こちらにおいでいただいて、ちょっと馴染みのない言葉になりますが、更正の請求というのをしてもらわないといけません」
       これはまさしく、「そっちで狃颪換え瓩靴箸い討茵廚箸いΕ船磧璽鵐垢療来ではないか。しかし、自分で書類を間違っているという負い目がすでに青菜に塩、「へえ、すぐ伺います」と善良な民の対応をしてしまった。自分のことは棚に上げるのが政府公認の作法であるというのに。立派な大人にはなかなかなれんもんだ。

       

       早速税務署に行ったのだが、中年の危機、「更正の確認に来ました」と受付で高らかに告げたらば、「それなんですか?」と目を白黒された。正しくは「更正の請求」で、モノの二時間ほどで記憶が霞んで思い切り間違えた。融通の利かない昔のネット検索のようにちょっと間違えただけで通じないこの頑強な正確性こそ役人の役人たる所以であろうから、それを捻じ曲げられれば、そりゃあ中には死ぬほど追い詰められるケースもあろうて。いや、「すんません間違えました、書き換えに来たんでした」というチャーンスだったんだな。いかんなあ、厚顔無恥ってどうやって身につけるんだろう。


      わるいやつほどよくねむる

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         昨年のこの時期も全く更新ができなかったが、今年も同様。2月から首が回らぬ手が足らぬ。大学が春休みに入るので、ここぞとばかりに課外授業が詰め込まれるから、講師屋はあっちゃこっちゃに出向いて朝から晩まで喋り続けることになる。

         

         「ヒトラー、あるいはドイツ映画」という映画があって、7時間超の非常識な長尺で、それも前衛劇のような内容らしい。未見。本で紹介されているのをたまたま目にして、そんな映画があるのかとゾッとしたことがあるのだが、同じくらいの長さ、ずーっと一人で舞台上(教壇上)で演技(講義)しているから、聞いてる彼ら学生は、まるで「ヒトラー〜」の鑑賞者のようなもの好きな若人だなこりゃ。とそんな回りくどいことを想像するくらいには多少落ち着いた。

         

         講義が終わると無茶苦茶疲れている。年々酷くなる。ジムで鍛えるという選択肢が現実味を増している。で、帰宅して、資料作りと添削採点、「時事」の準備(後述)、それと確定申告の作業などなどなど、仕事と雑用があれやこれや。それらを抱えて出張。パソコン持っていったらホテルの客室に備えてあった。時代!

         

         青色申告に切り替えてから2年目。綺麗さっぱり作業工程は忘れているが、少なくとも早めにやっておいた方がいいことくらいはわかっていたので、1月の暇な時期から準備をしていたはずだが、こういう作業は「大体終わった」と思ってからが長い、というのが相場。商売をやっている人に比べれば、はるかに作業はマシだが、なんだかんだ細かく色々間違えるから、手間取る。ついでに昨年書いたように、この手の作業が本当に苦手。

         

         さて国税を巡っては周知のような人事につき、腹が立つから、こういう気分に相応しい曲をBGMにかけようとしていたら、ちょうどいいのが見つかった。「悪い奴ほどよく眠る」。20年前の曲だけど、歌詞は今を生きておる。人の命が軽い、というだけでなく、権利が紙切れのように軽いと表現しているところがよろしい。あいつの言葉がすべてを決めて、朝には現実になる、というのはこれは閣議決定のことだな。まさに何が起きても不思議ではない。そして歌詞中にある「荒れるカルト」というのは、制作年当時は、その数年前に事件を起こしたオウムをイメージしておるのだろうが、現在でいうと、宗教団体ではなくて、カルト宗教化しているWiLL界隈がはまりそう。だって連中「欲を満たすためだけ」だろ?

         

         そうして書類がなかなか仕上がらないうちに、改竄の記事が出て、くだんの長官が辞めて、麻生がなんか言ってる。「ヤツの寝息をかきけして狡猾なからくりを暴くロックンロールサンダー」とは朝日新聞のことであった。そして毎日が続き、死んでいたNHKが動き出した。一人あっぷあっぷとしているうちに、世間がアップデートされている。いつの間にかJRに建設中の新駅が開業していて、新春にコートを買った店が閉店していた。


         改竄どうのこうのというニュースを見ていると、俄然「テキトーでいいじゃん、間違えててもかめへんかめへん」という気分が支配的になり、書類作成が一気に進んだ。お役所に提出する書類って「きちんと正確に書かないといけない」という強迫観念が何よりも作業を重たくしてるんだよね。でも不備があっても、「書き換えといてよ」で済むやんと思うと、重しが取れて手が軽くなる。改竄のおかげでカイザー気分。万人の万人に対する闘争状態になるじゃないか。社会が壊れるぞ。

         

         世の中というのは、こういう些末なことからして「ちゃんとしないと」という善意で回ってるってことで、なんでそんな真面目に考えるかというと、そうやって教えられて育ったからで、なるほど彼らが戦後教育を憎むのは、こういうことだったのかと。ま、ただ今急に何かの変異で飛びぬけた不正が生まれたわけでなく、雪みたいなもんだ。1つ1つは地面に着地した瞬間消え失せるように見えるんだけど、気づいたらドンと積もってる、みたいなもので、それなりの積み重ねの中で必然行き着くところに行き着いた(まだ途中経過かもしれんけど)格好だろう。腰を落ち着けて組み立て直すしかない。

         

         とにかく書類をそろえ終わって仕事の合間を見つけて税務署に行ったらば、予想通り受付に出して一瞬で終わった。商売をしている人だと思うが、周りはどっさり色んな書類を抱えて窓口に立っているが、こちらはクリアケースに収まる数枚程度。子供のころの植物採集を思い出した。図鑑で調べても名前がわからないやつを専門の人が判別してくれる催しが、夏休みの児童会館かどっかで毎年開かれていて、夏休みの宿題で嫌々採集したのを持っていくのだけど、堤防の雑草でテキトーに済ませた己に比して、周囲はマニアックなシダ類なんかをキレーに台紙に張っているのを大量に持っていて、なんというか「この場所と時間は俺のためにあるのではない」という思いを抱いたものだった。説明を要した割には大して関連性のない思い出話だった。あのころは持ち込んでいる標本がショボ過ぎるから隣で母親が「恥ずかしい」を連発していたものだったが、確定申告にショボいも恥ずかしいもない。

         

         ところで俺の仕事的にはこの時期、時事問題試験の対策のために講義がまわってくる。昨年あった出来事をまとめたテキスト類が出版されるのが2月くらい。それを受け取ってひどいときは「来週授業よろしくです」という無茶なスケジュールになる。一応普段から横目では報道を見ているが、横目でしか見ていないので正確には把握していないし、全部を知るわけでもなし、事実上ゼロからのお勉強となる。これが今年はかなり苦痛。なんせ「人づくり革命」なんてなフレーズが太字になっている。今の政権が、出来損ないのキャッチフレーズみたいな政策(?)を乱発しているのは知ってはいたが、まるで歴史の教科書の「目安箱」とか「ナントの勅令」とかみたいに太字になって並んでいるのを見ると、勘弁してくれよという気分にそりゃなる。覚える学生もたまらんわな。ま、逆に覚えやすいといえばそうだけど。ただ学生たちは素直なので「やはり重要なのはおもてなしの精神である」という具合に、思い切り広告屋の作り出すフレーズを真に受けたことを論文に書いてくるから、一番恐れているのはそこでなんである。


         ところで試験用のこういうテキストは、ある課題についてこういう法制度が出来たとかやったとかが羅列されているだけなので、読んでいてもろくに頭に入らない。それで新聞社が出している時事用語解説本とか新聞記事とかを見ると、ああそういうことねとようやく腑に落ちることもしばしば。ブン屋の一日の長を如実に感じられる。ロックンロールライトニングが照らしてるんだろうな。


        裏から目線

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           「東京で積雪〇僉廚離縫紂璽垢覗ぎになっているときに、雪国の人間が偉そうな態度を取るのを「上から目線」をもじって「北から目線」というらしい。本稿もどうせそういう内容になろうから、タイトルの時点で先取りしようとしたが、我が故郷は緯度でいうとさして「北」でもない。正確性を期して「裏」を選んだ。揶揄でも自虐でもなく、アイデンティティの誇示である。雪を偉そうに語るのも同じメンタリティだろう。辺境の民の悲しみの発露である。それが都市部の人間に煩わしく思われるのも、すれ違いは世の理というもんなのであろうよ。残念ながら。


           「56豪雪」というローカルな歴史用語が全国ニュースで流れるものだから、受け止めるこちらの心象も大騒ぎになる。アメリカには「76ers(セブンティシクサーズ)」というバスケチームがあるが、我らはさしづめ56ersだ。小学生だったので「二階から出入りできるスゲー」くらいのお祭り感覚しかなかったが、大人になれば受け止め方は当然異なる。こりゃエラいこっちゃと早速帰省の算段を立てたが、電車が全く動いていないのでどうしようもない。


           一気に降ったせいで、ちょっと車が止まっている間に埋もれてしまうから立ち往生になる。その代わり、一気に積もったせいで密度は大したことはないから、屋根雪を今すぐ降ろさないとマズイ、というような緊急性はないらしい。実家に電話すると、父親は割と呑気な調子でそんな説明をした。だが、たまたま見つけた全然知らない地元の人のTwitterを見ていると、結構深刻な実況中継である。


           悶々としながら某大学に仕事に行き、学食で昼食をとろうとしたら休業。仕方ないので学内の売店に行ったら、すでに商品棚はガラーンとしていてまるでニュースで見た福井のコンビニ状態だった。残っているのは菓子パンだけ。しょうがないのでアンパンと牛乳の張り込み刑事になった。正確にはアップルパイとコーヒーだが、そんなことはどうでもよい。


           ようやく運行再開と仕事の都合が噛み合い、日曜に帰省した。ホームセンターで買った黒長靴を履いて意気揚々と出立。最近は雨の日に洒落たデザインの長靴を履いている女性をよく見かけるが、晴れた日にデザイン性ゼロの長靴を履いて歩いているのはラーメン屋の店員くらいよね。あっちは白長靴だし。酔狂な格好にしか見えないが、それだけにこの安っぽいブラックの光沢が俄然格好よく見えてくる。


           特急で国境の長いトンネルを抜けるまでは、まあ普通の大雪程度。そこから先はというと、窓から見える屋根雪の量は、やはり密度がスカスカだったせいだろう、「大雪」レベルにまで高さが下がっている。さて街中の状況はどうだろう。
           到着。バスは止まっていると聞いたので、タクシーに乗るつもりでいたが、1台が出て行ったあとは、乗り場はガラーンとしたものだった。バス停には「暫定ダイヤで運行再開」と書いているが、いつ来るかよくわからない。「詳しくはホームページで」と書いてあるのでタブレットで閲覧してみたが、張り紙と同じことしか書いていなくて全然詳しくない。はてどうしたものか。と案じているうちバスが来た。


           タイヤチェーンを装備しているが、幹線道路は除雪と融雪装置のおかげでアスファルトがむき出している。お陰で走行音が賑やかで、座席もずーっとバイブレーションしている。俺が乗ったバスは、路線が環状になっていて、通常なら右回りと左回りの双方向だが、本日は右回りのみ。虚構新聞に以前こういう記事が出ていたが、まさにこんな具合だ。途中、対向車線のバス停で待つ乗客を見つけると、バスが停まってわざわざ同乗している乗員が「今日はこっち回りしかありませんよ」と呼びに行く。このバス会社って、こんな親切だったっけ?と困惑しつつ、それだけ困ったときはお互い様の困った状況ということでもある。

           

           この日の運行はしかし右回り左回りだけでなく、雪の激しい場所はショートカットするというおまけつきだった。その省略された部分に本来俺の降りるべき停留所もある。一番近いところを乗員に確認してそこで降りた。距離でいえば、徒歩10分強といったところか。駅から家まで徒歩10分というのは、都市部では標準もしくは近いくらい。バスが通らないのは、通常なら大した問題ではない。だけどバスが通らないのもむべなるかな。路面はなかなかの悪条件だ。

           写真ではちっとも伝わらないが、路面はかなりデコボコで、段差に足をとられてすぐ転びそうになる。車もボヨンボヨン車体が上下しながらしょっちゅう滑って左右にドリフトもしている。そんな中、電話しながら運転している強者もいる。こええよ。心なしか長靴の中も湿ってきた。雪は遠目で見た印象よりも遥かに厄介なものなのだ。

           

           足腰にそこそこの疲労を感じつつ家に着いた。いつの間にか照り返しに目がやられていたようで、家に入ると何も見えない。カバンに入るだけ入れてきた食料類を父親に渡して、そのくせ冷蔵庫の中身で昼飯をいただいた。
           食べ終わり、早速雪かきに出た。すでにご近所さんたちが作業をしている。その中に混じって、家の前の生活道路の除雪だ。車が通れる幅を確保しないと、自家用車が使えない。「若い人が来て助かるわあ」と近所のおばちゃんたちが歓迎してくれるが、体力があったとしても手際が悪い。農作業なんかと同じで、不慣れな若人より手練れの爺さん婆さんの方が遥かに作業が速いもんだ。その上俺も別に若くないし。

           割と氷状になってしまっているせいで、硬いし重たいし、息が上がるし腰がつる。何度も手を止めた。周囲を見ると、近所の人たち総出で雪と格闘している様子に雲間から日差しが注いで素晴らしい絵面になっている。親父にいたっては、「笠地蔵」の笠みたいなのかぶっているしで完璧じゃないか。撮影したいが、写真を撮れる道具は全部家に置きっぱなしだ。撮ってる場合じゃない雰囲気だし。残念。さあさあ働け働け。

           

           で、どうにか車幅分は確保した。近所のおじさんが「試してみましょう」と自分の乗用車を動かしたが、幹線道路に出るところでカチンコチンになっている轍を乗り越えられずで、せっかくの作業もあんまり解決になっていないようだった。踏切じゃないところで線路を車で横切るような感じね。通常なら除雪車が入るからこうはならないが、一気に降ったせいで本来の雪対策システムが追いついていない。だもんで、見かけの量に比べて厄介が多い。

           もうちょっと何か役立てないものかと思ったが、父親以下、総じて「いらんいらんもう十分」と退却が早く、「今日も出かけるのは諦めるわ」「酒飲んで寝てよさ」と口々にいいながらめいめい自宅に引き返していった。一応それで済ませられる程度、ともいえようし、自然との共存は諦めが肝要ともいえようか。年寄りは冷蔵庫を満タンにする傾向があるが、それもこういう経験の積み重ねからくる生活の知恵だろう。

           

           まあ徒歩圏内にスーパーはあることはある。父親が偵察してきてくれというので見に行くと、くだんの大学の売店よりはモノに溢れていた。逆に今度はパンがひとつもない。あんぱんもアップルパイもない。野菜はあるけどパンがないというのは、これはどういう流通の都合なのだろう。

           

          大体同じ場所から昨年の正月に撮った写真。

           

           疲れ切ったしすることもないしで、5時前から夕餉となった。熱燗で暖を取りながら煮物なんかを突っつく。テレビはずーっと「L字」状態で、雪関連の通知が流れている。五輪を見ながら、まあまあ酔いが回ったころ、明日の特急が全部運行取りやめになるとL字に流れているのに気付いた。ありゃりゃ、明日帰れないとあさっての仕事に差し障る。

           今日の特急はまだ動いている。なのでバタバタと帰り支度を始めた。実のところ帰省前に父親から「明日からまた大雪になるから電車が止まるといかんしやめとけ」と釘を刺されていたのだが、延期するのが気持ち悪かったのでエイヤで帰ってきたのだった。そしたらこのざま。会社員だったら「すんません戻れませんわ」と頬かむりを決め込むが、個人事業主につきそうもいかん。

           

           「だから言ったやろ」とぶつぶつこぼしながら父親がタクシーを呼ぼうとしたが、ちっともつながらない。「叔父さんに頼む?」と冗談めかして言うと、「それもそうか」と電話をかけた。何でも叔父さんからは「困ったことがあったら遠慮なく電話くれ」と二度ほど念押しがあったという。叔父さんにすれば、思っていたのとは随分違う「困ったこと」だ。わざわざ困りごとを作りに来てどうする。


           道路状態が悪いので、来れるところまで来てもらうということで快諾いただき落着。「(叔父さんには)悪いけど、飲み直すか」と父親がワッハッハと言って、酒を飲んでいたら、通常の倍くらいの時間で呼び鈴が鳴った。家の前までこれたことに驚きながら、慌ただしく実家を辞した。


           さて乗せてもらったはよいが、既に述べたような道路事情なので、内戦状態のどこかの国の道路みたいに揺れること揺れること。その上立ち往生している車がいて、ニュース映像が脳裏をよぎってぞっとする。慣れたもんで、叔父さんは後ろの車に頼んで後退してもらい、Uターンして別の経路を取る。
           すると今度は、昼間の近所の人の車みたいに、路地から幹線に出ようとして轍が越えられずスタックしている車がいる。叔父さんが車を止めて、「一応四駆なのに」とバツの悪そうなドライバーのおばちゃんに、ああせえこうせえと指示を出した上で、俺と二人でエイヤと押し出した。なんだかロードムービーみたいにイベントが重なる。こうしてようやく除雪車が入ってまともに走行できる道に出た。要は昼間にバスが走っていたところ。通常徒歩10分ちょっとの距離が、エラい手間だ。

           

           「立ち往生している軽の四駆は、鈴木と大発が相場やな」と、真偽のほどはよくわからない説を開陳する叔父さんが操るこの車はパジェロミニで、軽の中では雪道で一番信頼できる仕様なのだと車屋が太鼓判を押すので買ったんだとか。確かにいつでもタイヤが空転しそうなさっきの悪路を堅実に走行していた。おかげで助かったわけだが、これが雪国の営みかと思うと、そりゃあ北から目線にもなるわいね。
           どうにか駅について、満員の特急に乗った。雪の降りは激しくなっているが、遅延は数分程度。雪国仕様の特急は、走るとなれば優秀なんだよね。途中の駅で床下の着雪チェックをするというので何度か停まったけど、新幹線に比べて作業時間が短い。

           

           今日の俺の成果は結局、家の前の道路のうちの数メートルを少し幅広くしただけ。いてもいなくても変わらん貢献度の上、親戚まで巻き込んで慌ただしく帰ったから収支はマイナスだ。だからといって特に気にしない、というのが本日学んだことか。


          テレビの感想

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             録画していたNHKの「未解決事件」を見て、草剛はいい役者だなあと思った。右翼役の村田雄浩に「銃弾は私たち一人一人に向けられたものだ」とぶつけるクライマックスを筆頭に、教条主義的に響いてしまいそうな台詞を、特段格好よくもなく、それでいて熱っぽく、表層的にならずに演じていて、やるなあと思って見ていた。あと、茶色のジャケットに青シャツを合わせる着こなしは、「大統領の陰謀」のロバート・レッドフォード風だった。


             このシリーズは、グリコ森永のを見て以来なので相当に久々だ。あのときは、再現ドラマとドキュメンタリーが交互に出てくる構成だったせいで批判もあった。犧遒衒瓩取材した事実の合間を埋める格好になっているせいで、インチキっぽく見えるからだろう。

             今回は前後編で、ドラマとドキュメンタリーが分かれていた。確かにこの方が制作者の狙いは明確になるのではないかとは思った。別にどんな狙いがあるのか知らないけど、ドラマの場合は再現性ないしは臨場感という点で優れている。もちろん危うさはある手法だが、事実に即することと、ドラマとしてきちんと仕上げることの、しばしば両立しなくなりそうな2つを追求する緊張感はあったんじゃないかな。心意気やよし、だ。

             こちらの勝手な事情で、先日瑣末な理由で、くだんの阪神支局の横をたまたま通ったから、余計に臨場感を感じながら見た。ドキュメンタリーの方も、さすがの面目躍如といったところ。

             

             NHKは、ニュースが死に体になってまあまあの年月が経過したが、ニュース以外は健闘している。今このテーマを扱う意義をしっかり見据えた制作陣の気合が入っていたと思う。「ニュースはやっていないテレビ局」だと見なすのが、もはや賢明なのではなかろうか、とすら思う。実際、ニュースが死に体というのは伝え方云々より(それも結構目につくが)、ニュースをたくさんネグっているからだし。

             

             ネグると当然時間が余るから、代わりに何か入れないといけいないわけだが、そこに相撲とかパンダとかがあると、埋め草いただきとばかりに結構しつこく報じることになる。会社員時代、俺は出来損ないだったから、取材が長期化しそうな案件は面倒くさいからなるたけ逃げようと、「すんません俺書道家のインタビューがあるんすけど」「そんなもん日程変えてもらえ」「ですよね」といった駄目な交渉をしていたものだった。で、例えばその書道家が会社主催の書道展に絡んでいる人なんかだと紙面に載せないといけないので「しょうがないから行ってこい」となる。体よく逃げられる。あのころの駄目さ加減を思い出させられるので、パンダがどうとか長々やってるのを見るのは嫌なもんだ。俺と違って本社に集めてるのは優秀な人間ばかりだろうに。

             

             くだらない昔話だが、これ以外にも、当時の自分の思考回路とかメンタリティとかが今の報道で見られる毛色と重なって見えるときがしばしばあって、でも結構前の話だし、俺ちょびっとしかやってないし、と否定はしてみるのだが、やっぱりつながる部分は確実にあるんだろう。この赤報隊の話を見てても思った。いつの間にこうなったのだろうと元をたどっていくと結構昔にあったことが積もり積もってくっついたりはなれたり発酵したりして今がある、ということは暴力とかに限らず、色んな分野であるもんだ。

             

             最初に触れたドラマのクライマックスでは、草薙演じる記者は、右翼の男に話を聞くというよりは啖呵を切りにきたように見える。ドラマの演出という点はとりあえず置いておいて、いやいや記者なんだからあんたの主張はいいから、こいつの言い分聞けよ、と思わないでもない。

             だけど、こういう態度も重要なんじゃないかとも思った。つまり、ドキュメンタリー篇で取材者は大人しく相手の言うことを引き出していたけど、突っ込んでもよかったんじゃないと思ったということだ。ま、こんなことも前から言われてることで、現場の人々も不満くすぶらせて色々考えているだろうし、で、積もり積もって今があると。だからやっぱり「やり方の変化」は避けられない課題だ。当然、こっちからぶつける場合、取材者の質がより問われることになるけどね。優秀なんだからいっぱい勉強したらいいだけのことだよ。


            くじ引きの話

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               テレビでやっていたW杯の抽選を見た。ドラフトについてくだらないことをあれこれ書いた手前、くじ事には結果よりも過程に興味が湧いてしまう。

               

               強豪の潰し合いや、同地区対決を避けるため、抽選のシステムはちょっと複雑だが、要するに開催国と、FIFAランキング上位国は分散するような仕組みになっている。そして開催国は、Aブロックの1枠と最初から決まっているようなのだが、わざわざ印のついたくじを引くという儀式的な手続きを踏む。この、ぶっちゃけやらなくてもよさそうな行為が、抽選の1発目になるわけだが、なにせ1発目だから要領がわかりにくい。くじを引く人が、カプセルに入った中身を取り出すのにやけに手間取っていた。結果が不明なら手間取りも緊張感の演出に自動的になるが、ロシアはAの1と最初からわかっている。そのわかりきったことに、わちゃわちゃ手間取るから間抜けだった。やはりサッカー選手は手は苦手なのかとアホなことを考えたら、この人往年の名キーパーだそうで。

               

               くじを引くのは往年の名選手たちだ。当事国関係者は客席で見てるだけ。国名そのものがくじになっているため、当事者が引きようがないシステムだから必然なのだが、(不正のなささえ担保されれば)くじは誰が引いても確率的には同じという合理主義がいさぎよい。ここには右手左手の犧鄒鎰瓩發覆韻譴弌↓猝召世燭詭埃圻瓩發い覆ぁだってくじ引きだもん、という。そういう神のいたずらの中で、日本と韓国が最後まで残り、日本が残り物となったのは、ちょっとだけ感慨深かった。

               

               日本と1次リーグで対戦する国は、「どんなとこ?」とテレビで紹介されるので、知りたい国という基準で見ていた。コロンビアは前回結構紹介していたので、その点ちょっと残念である。お隣ペルーの方がよかったな。
               試合の方はまあ頑張れということで。オリンピック同様、汚職等々黒い金の流れが指摘され開催国は負債を抱える、という現実が、東京五輪を控えるだけに視界をちらちらして、素直な(ないしは無邪気な)応援を妨げるのである。


              桐生と田中

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                こちらはサブトラック。昔はこんな立派なものはなかった。国体に向けて鋭意改装中。既存施設を使うから金がかからない国体だといいつつ、ほとんど全面改装の様相を呈している印象。

                 

                 9秒台が出たことよりも、その場所が故郷だったことに驚いた。家の近くじゃないか。俺も2回走ったことがある。あそこは走りやすいんだよなあ、とさも知ったように言ってみる。何せ地面がゴムだから。全国どこでもそうだ。

                 

                 一度目は、トラックにゴムが敷き詰められてまもない小学生のころだった。友達たちと忍び込んだ。牧歌的時代、牧歌的田舎、柵を乗り越える程度で入れたのだ。中に入ったのは別に走りたかったわけではなく、とにかく真新しい場所に入りたかっただけで、そのうち誰かが地面のゴム片をむしり、別の誰かが「俺青見つけた」「俺は黄色見つけた」と競争になった。色んな色でラインが引いてあるので、その部分のゴムをコレクションし出したのだ。そのうち、「コラお前ら!」と係のおっさんが現れて全速力で逃げた。

                 これが一度目。しかし、誰もいないところに闖入してまんまと見つかって怒られるのだから、ちゃんと係員がいて、仕事してたということである。自分がおっさんになった今、同じことが出来るかというと、面倒だし、実害ないやろうから放っておけと我ながら言いそう。「コラ!」ってあんな通る声も出そうにない。

                 

                 二度目は、今度は正式に選手として。市の学校対抗の陸上大会のようなものに出場した。これも小学校のとき。リレーが400と1600(100×16人)の2つがあり、花形は400だから、どこの学校も一番速いのを4人揃えてくる。わが校もそうだった。ところが直前に先生が「他が400に力を入れるなら、こちらは1600に実力者をそろえた方が勝てる」と中国の故事のようなことを考え、メンバー入替を主催者に申請した。

                 だが直前過ぎて「もう締め切った」と断られてしまう。諦めない先生は、替え玉をやることにした。400と1600の入替メンバーに、ゼッケンを交換させて、お互い自分がそいつだと自称するように命じたわけである。こうして1600に出る予定だった俺を含めた4人は、当初400に選ばれていた速い4人と互いに替え玉になることになった。不正は強豪が強豪をキープするためにやるのがマンガではお約束だが、実際は弱いやつがちょっとでも成り上がろうとして働くのである。まさかそれが義務教育の現場で、というのがちょっと凄いが、大人から命じられて秘密を抱えるミッションにドキドキワクワクしたのだから(少なくとも俺にとっては)貴重な経験であった。

                 

                 とにかくこうして俺は「田中」になった(当たり前だが田中は「森下」になった)。偶然、元の速いメンバーは4人中3人が田中で、出場前に裏手で整列しているとき、隣にいた別の学校の選手から「田中だらけで嘘みたいやな」と言われて「ギク!」となった。この話しかけてきた男子とはその後高校で席が隣同士になるが、この話のすごいところはその偶然ではなく、俺がそれに気づいた気持ちの悪い記憶力である。
                 俺の出走位置は、自分の学校の応援席の前だった。事情を知らない応援団は目の前の選手に声援をおくってくれるが、当然ながら本名の大合唱である。俺は慌ててやめろやめろと手を振るが、ただ声援にこたえているお調子者のようにしか見えなかった。

                 動揺しながらバトンを受け取ったが、すでに前の学校と大きく差をつけられており、誰とも競り合うことなく一人でトラックを駆け抜けた。実に走りやすかったことだけは今もはっきり覚えている。一方の1600mは、バトンの受け渡しに失敗して失格に。昔話のようなオチがついた。

                 古い話を思い出したことに感謝する。特に陸上ファンでもないのに、まさか桐生選手にこんな個人的な感慨を勝手に抱く日が来ようとは。


                「批判の対案」を考えたことについて

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                   街中で共謀罪の反対署名を求められたので応じた。汚い字で名前を書いている間、この法律がいかに恐ろしいかというような話を運動員のおじさんがしているのだが、その口ぶりに多少苛立ってしまった。前にも書いたような話だが、「監視社会」等々定型句が多いからだ。模範解答的定型文で8割方できている学生の論文を何百通も採点しているという最近の個人的事情のせいで余計に癇に障る、半分は言いがかりである。あと、何度も同じことを繰り返している内容を、自動再生しているような話し方もちょっと面倒に感じたので、つい「その説明じゃ伝わらないと思いますよ」遮ってしまった。

                   「そうですねん、この法律はなかなかわかりにくいんですねん」
                   「いや、法律の内容じゃなくて、危険性を訴える皆さんの説明が」
                   多少、失礼だったか。後になって少しだけ反省した。それより考えたのは、はて偉そうに言ったものの、実際、何て説明すればいいんだろうかということだった。

                   まあ担当の大臣の答弁がしっちゃかめっちゃかとっちらかっているので、法律自体もそれはそれは難しいのだろう。何しろまだ起きてないことを取締る空手形にも程がある法律だから、中身について理攻めで問われても答えられない、というのがかの法の本質を顕わしていますわな。担当官庁の一番エラい人があの体たらくというに法律なのに、反対の世論も盛り上がらないというのが一番の「わかりにくい」謎であるが。何の分野であれ、別にこんな大層なものでなくても、答えられないという時点でアウト、以上の理屈が必要なのかという話でもある。ドラマ「SP」は、警察権限強化のために、警察自身がマッチポンプの陰謀を仕掛けるという筋立てだったが、そんな手の込んだことは実際に要らなかったという点、フィクション屋にとっても泣かせる展開である。

                   話を戻すと、俺個人にとっては「警察なんて何するかわからんところ」というのがまずある。フリーハンドを与えれば、何でもやってしまうという意味だ。当の警察の人間が言っていたのだから世話はない。それも以前にも書いたように、俺自身の思考回路が産経新聞的だったころに組織犯罪対策法だったか、警察権限を拡大する法案について「ああいうのは要りますよね」と言ったら、お前はアホかくらいの調子で鼻で笑われた。「警察なんて何するかわからんところやぞ」。

                   実際、現行法下でもやるときは本当にやる。「ヤクザと憲法」にもそんなシーンが出てくるが、存在が存在だけに問題視されない。そしてヤクザでなくても、ヤクザのようにパブリックエネミー的立ち位置にいる人間はよくやられている。報道が記事にしないことを知ってるんだ、彼らは。

                   だいたい不祥事だらけの組織なのに、なぜ信じられるのだろう。実のところ、いくら不祥事が出てきても、報道が言う「信頼が失墜」はしていないというのは前も書いた。「リアルな刑事ドラマ」の条件は、「上の人間が総じて陰謀家」で、そういうドラマは一定の人気もあるのにね。

                   最近、この法案に重ねて思ったのは、駐禁の緑の人々である。
                   それ以前に交通警察官がやっていたチョークを引いて一定時間待って、という慎重な方法と違って、現認した瞬間切符を切るというかなり強権的な手法に切り替わった。それもやたらと人数が多いから、油断するとすぐやられる。それで世の中、路駐しないか、一人が車に居残るようになったので、することがなくなった彼らは二輪の駐禁を切り出した。規制緩和でビッグスクーターが増えたというのも背景にはあるのだろうが、放置自転車の合間に埋まっている原付を見つけ出していちいち駐禁の処理をしている様子は悪い冗談に見えた。

                   要するに、取締る側というのは、暇になるとやらなくてよさそうなことまでやるということだ。「弁護人」のカン課長と似たような話だ。優秀な刑事がどう見てもただの世間知らずの青年に執拗にこだわって自白を強要する作業は、税金その他色々と無駄づかいが過ぎる。緑の人々も予算がついているので「本日は違反ゼロでした」では済まないのだろう。強化月間なのに拳銃を一丁も挙げられていないのはマズイというので自作自演をした稲葉氏も、カン課長同様優秀な人物だったと自伝の相対的なまなざしからうかがい知れるが、とにかくこういうアリバイ作りの延長線上での脱線である。

                   もちろん駐禁については、法的には停めた側が悪い。ま、だから余計に「そういうことだ」という話でもあるのだが。一度、街中で大声でもめている男女の横を、緑のおっさん2人が素通りし、そこにいた周りの人間全員「警察ちゃうんかーい」とあっけにとられて、しゃあないから代わりに取りなしたという場面も遭遇したことがある。この2人が気が利かなかったということではあるのだろうが、そもそも担当業務ではないので、妥当な判断といえばそう。彼らにとって大事なのは、たまたま遭遇したトラブルよりも、担当業務の件数確保になるわけだ。こういう融通の利かなさを、この法案を見聞きするたび思い出す。

                   ただ、こんな警察の悪口を街頭でアピールしてもあんまり効果はなさそう。というか、それみたことかと逆効果になりそう。今の話も、車やバイクに乗らない人には「何言ってんだこいつ」と反発されると思う。同じくこの法律も、実際のところ、関係ない人には関係はない。そしてそういう人が大多数だろう。

                   しかしながら、平時でなくなると事情は変わるに間違いない。大規模災害、大規模事故、隣国との緊張その他、花見を遠慮するような空気が蔓延するような出来事が起こると、事情は変わってくる。それでも関係のない人の方が多いと思う。ただし「私」には無関係でも、「私の頼りたい人」はいなくなる可能性はある。そして平時と違って困りごとの総量も件数も増えるから、今はいなくても、「私の頼りたい人」の数や認知度は増える。
                   そしてそのうちはばかることがやたらと増える。これは多くの人にとって無縁ではなかろう。横暴な上司のいる職場と同じで、声はひそひそになり、同僚が急によそよそしくなったりする。活き活きし出すのはスネ夫ばかり。こういう職場に比べ、実社会がさらに難儀なのは、はばかる相手が横暴上司でもスネ夫でもなく、目の前の友人知人なところである。何のいいことがあるというのか。

                   こういう推測は、実のところヒントのかなりが、共産党その他左派の人々がすぐに引き合いに出してなかなか同意されない戦前の話からである。「戦前回帰」的主張はしばしば「時代が違う」「大袈裟」と鼻で笑われる。右翼しぐさの人々が好きな「WGIPの洗脳」というのは、むしろこれのことではないのだろうか、と最近思う。なので、「治安維持法」と聞いて鼻で笑ったあなたはWGIPに洗脳されてます、と言えばいいのか。その手の人が噛み付くだけだな。

                   帝国崩壊という大きな分断を挟んでいるとはいえ、たかだか70〜90年前の話。それも近代国民国家という大枠は同じ。参考にならないと思う方がどうかしている。孫子の経営学的な本が一定程度売れるんだから。まあ孫子の場合は、ソクラテスと同じで超基本的なことを言っているので時代を超えた普遍性があるのだろうが、でもまあ前世紀であれ紀元前であれ、歴史というのは隔世の部分と普遍的な部分とがあるんでしょうよ。

                   で結局何ていえばいいんだろう。俺が個人的に思うのは、姪っ子を息苦しくさせたくない、ってことだけど。


                  好きこそものの

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                     漢字の読み間違いが世間をにぎわせているようだ。読み間違い自体は誰でもやらかすのではあるが、音の響きがおもしろいのでさすがに笑う。ついでに爐い弔發離蹈献奪瓩諒弧で間違えているから、あれにうんざりしている人間にとっては積極的に笑いたくもなる。前の二文字と合わせるとリズミカルな四字熟語のような響きがあるが、ちょうど稀勢の里が横綱昇進の口上で定番化している四字熟語を使うとか使わないとかの報道があったので、代わりにこっちが初耳の四字熟語を言っとるやんけ、と勝手に2つをつなげてしまった。

                     大人になると、単に「読めない」でなく、思い込みが作用して間違いにも気づかないときがあるからタチが悪い。今でもたまに己の思い込みを発見するときがあるが、多くはパソコンで変換するときに、打ち込んだかな文字列が変換されなくて気づく。具体例を思い出そうとして出てこない。試しにネットで「読み間違えやすい漢字」を検索したら、有名なやつか(例:相殺)、難読漢字(例:海豹)か、マナー講座的な別にええやん的なものか(例:間髪)、だらけだった。「間髪」なんて、もう「オルタナ読み」でいいんじゃないか。

                     中には「そんなもん間違うやつおるんや」というのもあった。首相を「しゅそう」と読む人がいるらしい。ホントに? 首相があれだからいるんだろうとつい乱雑に片付けそうになるが、さすがに首相自身は「首相」を読めるでしょ。

                     ほしいのは、こういうんじゃないんだよなあ。ネットでひっかかりにくいものの一つが「絶妙の例」だな。まあこの場合は、「俺が過去に間違いに気づいた例」を思い出す例が欲しいだけの、まったく個人的な尺度だから完全なる言いがかりだが。ああ、一個だけ思い出した。「鼻白む」だ。これは変換できなくて知った。「白ける」のせいで、「ろ」じゃなくて「ら」と読んでいた。幸いなことに書くときにしか使ったことがない言葉なので、恥をかかずに済んだ。

                     テレビでよく耳にするのは「直截」だ。言葉の種類からいって、ニュースなんかでコメントする識者くらいしか使わないから、余計に目立つ。そう思って試しに「ちょくさい」で変換したら変換できてしまった。ネットの辞書でみると、「慣用読みでちょくさいとも」とあるから、オルタナ読みか。「慣用」と書いてあるのでわざわざ新造語を使う必要がない。

                     「OK」は、反知性主義で知られる米大統領アンドリュー・ジャクソンが「All Correct」を「Oll Korrect」と間違えたことに由来があるという説があるが、今回の件もゆくゆくはその手の新語として定着する可能性もなきにしもあらず。

                     というような豆知識を書いたが、こういう行為も結構怖い。自慢げに披露して思い切り間違っているということもあるからだ。大抵は飲み会の席で偉そうに披露して、周囲が「へえ」で終わる程度のものだから、店を出るときには言った方も言われた方も忘れているので被害は少ない。なぜか俺の場合、ドヤ顔で披露した相手が自分よりそのことについて詳しかったという、穴があったら Want to Hideな場面に何度も遭遇しているが、より恐ろしいのは俺の場合、大学で教える立場だから、ここでハズすと、これは恥の話ではなく、単純にマズい。そういえば、昔、舞台の脚本に使ったこの手の豆知識的なものが、思い切り間違っていたということもあった。

                     ちなみに「OK」を検索すると、ウィキペディアでも「すんませんでした」と言いたくなるくらい、色々細かいことが書いてある。こういう事情で最近のテレビ番組では、何かというと「諸説あります」と画面の端に出てくるが、本当に諸説ある場合いざ知らず、「危険なのでまねしないように」と同様のただのアリバイ作りで表示している気配が漂ってくる。

                     縁あって、ここ数年、学生相手に世界史だの地理だのを教えている。センター試験よりはやや簡単なレベルの試験対策なので、説明しないといけないことはたかが知れている。山川の教科書でおつりがくる程度だ。ただ、教える側としては、試験には出ない部分も、やはり広く深く知っておく必要がある。俺の場合、大学を4年で卒業しただけのド素人だから、追加で勉強しないといけないことも多々ある。それで時間を見つけては関連書籍を読むわけだが、そうすると、今までの理解が微妙に違っていることに気づかされることも少なくない。

                     こうなると、これまで「習得した知識」だと思っていたものが、本当にあっているのか段々疑心暗鬼になる。それだけではなく、これまで気にしたこともないことが急に疑問に思えてきたりする。例えば、イギリスの歴史ではチャールズ1世とチャールズ2世という王様が登場する。この両者の血縁関係は何だろうか。これまで考えたこともなかった。多分親子だろうという思い込みのせいだろうが、フランスのルイ16世は、ルイ15世の息子ではない(孫)。フランス革命の解説書なんかでその事実を知ると、心中「げげっ、そうだったのか」と狼狽しつつ、はてチャールズの場合はどうなんだろうと急に気になり出す。

                     いずれも試験対策には全く無用の知識である。知らなくても授業は成立する。だけど偉そうに教壇に立つのだから、そこはやはり責任感というものがあろう。過去には別の科目で授業準備をサボったせいで、それこそ漢字の読み間違いのような赤っ恥をかいたこともある。もうひとつは、歴史の場合は個人的に好きなので、より詳しくなりたいという趣味的欲求が責任感を後押しする。好きこそものの・・・・・・、この場合なんだろうか。

                     というわけで、間違いを犯すのは、そのこと自体よりも、それを生み出す姿勢の方が遥かに問われるというわけだ。まして、くだんの大統領や、その他諸氏のように、自ら嘘や根拠不明の犹実瓩鮨當阿垢襪里蓮△修里海伴体の罪悪もさることながら、己の信条のように高らかに掲げていることについても、実のところは当人自身、大して興味がないということになる。興味があることは大事にするもんだ。問題はそこなんだよなあ。


                    USAもUSBもPost Truth的な

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                       取材の際に、相手が話していることを録音するレコーダーを、先日久しぶりにちょっと使ったので、中身をパソコンに取り込もうとしたときのことだ。
                       接続のUSBが、Aタイプという、つまりは「普通サイズ」のやつだった。前に使用してからずいぶんとたつので、そんなことも忘れていた。それで接続しようと手元のUSBケーブルを探すのだが、適合するものがない。PCの受け口は、AタイプでレコーダーもAタイプ。なのでA−Aのケーブルが必要なのだが、持っているのは片方の形状が小さかったり正方形だったりのやつばかりだ。おかしい。身の回りをざっくり掃除したときに、全部処分してしまったのだろうか。

                       仕方がないので100均に行って買おうとしたのだが、売っていない。以前は普通に売っていた気がするが、スマートホンの普及等で売れなくなったのだろうか。そんな風に想像して家電量販店に行ったのだが、やっぱり売っていない。

                       不思議に思ってネットで検索してみた。こういう場合、大抵全く同じ疑問を抱いた誰かが知恵袋等に書き込んでいるもので、やはりあった。しかし回答者の説明は、長ったらしいわりには結局のところ「品揃えの問題では」とのこと。「だからヨドバシに負けるんだよ」と一人毒づきながら梅田に行くことにした。しかしこの巨大店舗でもやはり売っていなかった。あるのはA−Aの片方がメスの、延長コードだけだった。

                       店員に聞こうと思ったが、先ほどのネットの長いかつ求めていない説明が脳裏をよぎり、躊躇してしまった。もう一度言葉を変えて検索して、他の検索結果を見てみると、これがなかなか面白かった。

                       俺と同じく「自宅にいくらでもあったような気がするがいつのまにかなくなっていたので、買いに行ったが売っていない」という人が、周囲から「そんなもんねーよ」と嘲笑されている。たしかに、現実問題どこに行っても売っていない上、俺自身も、考えてみるとA−AのUSBが必要な機会は、ここ何年もなかった。なので、若い世代の人々にすればカセットテープのような存在になっていると想像される。結果「何言ってんのコイツ?」「あるわけねーだろバカ」という反応になる。しまいに「いくらでもあったはずのもの」が、自宅からいつの間にか消えているのだから、「記憶のすり替えだろ」「病院行け」みたいな話になっていて、どんどんSFになっていた。状況がしっかり俺とカブっているから、俺自身も、記憶違いなのだろうかと自分がうっすら疑わしく思えてしまった。

                       しかし、アマゾンなんかで検索すりゃ、A−Aはすぐ出てくる。商品のレビューを見ると「最近これ店頭で見ないので助かりました」というような感想がさらりと述べてある。なのに「ねーよバカ」が優勢になり、一瞬「俺が違ってるのかも」と思ってしまう。これが「Post Truth」の時代か、と流行りの言葉で無理やりまとめて一人頷きながら、アマゾンのボタンをぽちっとしたのであった。あんまりここで買わんようにしてるんだけど、こうして使っちゃうんだよなあ。



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