僕たちには何ができるのか

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     公の場でそれも首相が「天皇陛下万歳」は、ドイツ基準ならアウトだな。新天皇も微妙な表情をしていたように見えたが、ドラフト会議における佐々木や奥川が小池秀郎とカブって見えてしまったのと同じく、こっちの色眼鏡かもしれない。ただ、今上が先代の考え方をもし共有しているのなら、的外れでもないはず。だとすると、我々はリアルタイムで三国志を見ているのかもな。

     

     日本の場合はドイツと違って、帝国との分断処理があいまいなまま今に至るから、ドイツと違ってその辺はヌルい。それが隣国とのいまだの軋轢につながっているから、その労力を思うと無駄なコストだ。まあ少なくとも半分はアメリカのせいだろうが。

     

     ところでこれのおかげで、万歳の際の掌の向きが、正面向きだと降伏を表すから内向きが正しいとかいう理屈はデマだとネット上で話題になっていた。そういや俺もこの作法は聞いたことがある。なんでも珍しく作者がはっきりしている偽書に由来があるのだとか。まるでマナー屋の振り撒く「本当のマナー」状態だ。ノックは3回が正解で2回はトイレのノックだから失礼、とかあの手のやつ。仮にそうだとして、ノックの目的自体は同じなのだから「トイレと同じ」の何が失礼か、合理性の不明な話だ。

     

     閑話休題、万歳作法のデマのもととなった偽書は、おっさん同士の悪ふざけから始まったらしい。信じさせる一定の説得力がある偽書をこさえられるのだから、かなり高度な悪乗りだ。Wikipediaの記述しか読んでないけど、わざわざ国会図書館にまで行って太政官布告を閲覧して模倣したとあるから、デザイン屋か映画の小道具係でもメンバーにいたのかね。

     

     俺が学生のころ、仲間内で「将来、『すごいお父さん講座』を開こう」と冗談めかして語る男がいた。将来おっさんになったころ、各自それぞれの道でそれなりに専門の素養を積んでいるはずだから、それを共有すればみんな「すごいお父さん」になれると、そんな話だった。そうしていざおっさんになり、友人連中それぞれ一人前になっているわけだが、実際なってみてわかるのは、教えられる方も大変なら教える方も面倒なので共有がなかなかに難しいという事実だ。まあそれはさておき、我々だったら何ができるのだろうと、この万歳の偽書の顛末を読んで想像したのだった。

     

     友人連中の進路は、メーカー、金融、県庁と色々だが、いかにも「すごそう」な特異な分野だと、陶磁器の専門家、国文学の専門家、現代美術の専門家、ジャイナ教の専門家、がいる。彼らの力を結集してどんな悪ふざけができるというのか。やけに難易度の高い三題噺だなしかし。特に最後のヤツ!

     そういう俺はというと、いろんな大学の喫煙所がどこにあるのかを知っているくらいっすかね。そして多くが「法律が改正されたのでそのうちなくします」と通告しているので、もうじき役に立たなくなる専門知識である。というか元々役に立たない(ジャイナ教の禁欲主義と何か結びつかないかつい考えてしまった)。

     

     お前は演技が出来るんだからだます役目だろう。いやいや「犯人は元演劇部だったので、この程度のウソ泣きはお手のモノだった」というのは安易な種明かしの定番だが、演技ができても人はだませんよ。巧い人ならできるのか知らんけど、だますのに要るのは演技力より悪意の濃度でしょうよ。

     

     いやしかし、「偽書」の流れで「だます」を前提に考えてしまっていたが、別に人様をだまくらかす必要はないのではないか。と思ったが、専門知を用いた悪ふざけに「だます」以外が思いつかないのだった。


    「書きたくなる〜」その後のその後

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       台風の日の続き。実のところ季節の変わり目、体調もあまりよくなかった。なので予定がすべてなくなったが、代わりにしたことといえば自宅でテレビを眺めるくらいだった。特にNHKは、内閣改造にかまけていた15号のときとの温度差が物凄い。見ながら「共犯者たち」で書いたことを思い出していた。

       簡潔に繰り返すと、見たくない(見られたくない)ことから統治者が目を逸らし、逸らしていることをバレないように報道を統制すると、結局一般市民の誰かが死ぬ。そんなような話。そして不幸なことに、死んだ人はしばしば、深く顧みられることはない。ただアンラッキーだったと思われるだけだ。そういう犇θ鉢甦愀犬鵬鍛瓦靴討い訶澄⊆分らの存在意義にかかわる大変なことだが大して自覚もないだろう。

       

       その後、台東区が避難所に来たホームレスを追い返したことがニュースになり、情報番組で芸人が垂れたコメントがまたニュースになっていた。芸人のコメントがろくでもないのはこの小木に限ったことではない。どちらかといえばテレビはいい加減そのリスクを真面目に考えろという話なのだが、リスクだと認識していないのでどうしようもない。小木のコメントに賛否、といったぬるいニュースを流している媒体も同様。

       出演者選びに何ら熟慮を感じない安易さ(芸人に限らず、学位はあるかしらんがそいつはただの業者だいい加減気づけの件など)と、第三者ポジションに逃げることで片方の妥当性を大幅にかさ上げする浅はかは、ここ何年か枚挙にいとまがない。これもまた安保法制風にいうと存立危機事態だがこれまたどうせ自覚はない。


       それで昨年に引き続き、今期も情報宣伝媒体産業を進路の一つとカウントする学生相手の講義が、ぎりぎり申込人数が足りて開講となった。日本社会の貧困化が進展する中で仕事があるのはそれだけでありがたい。普段相手にしているのとは多少なりとも毛色の異なる若人と接する機会も楽しいものである。しかし一方で、以上のような状況につき、正直困ってしまう。

       

       この危機的状況だからこそ、と火中の栗を拾いに来る学生などいるわけもなく、十何年前に相手をした若人たちと変わらない素朴な憧れでもってやってくる人ばかりが相手だ。ちょっと待ちなさい、くらいは言いたくなってしまうが、どこまで言うべきかという問題が悩ましい。要するに、下に書いているのと同じような話だ。

       

       就職活動ではしばしば、そこの業界の課題とか問題点とかについて自分なりの考えを示すことが求められることがあるから、批判もときに有効ないしは必要なのではあるが、それとて賛意をベースにした範囲内の話だ。家が古くてガタが来てるくらいなら、リフォームの話にも意味があるが、地盤が沈下してたとしたら意味がない。じゃあしかし業界の問題がひどすぎる場合、どこまで指摘可能なのか。

       

       例えば「NHKのニュースについてどう思うか」とNHKの面接で聞かれて「ニュースなんてやってないじゃないですか」とか「解説委員という名でいつまで巫女まがいを起用するのですか」とか答えたら、受かる気はせん。話題としてかなり政治的(社内政治的)な部分に抵触してるから、もっと穏当な物言いでもあんまり変わらないと思う。
       あるいは上で述べたような目に余るコメント芸人たちについても、指摘したところで意味が通じず頭の固いおもんないヤツくらいにしか思われないんじゃないか。なんせ自覚ないから。だとすると、一応は就職対策だから、受かることに関係のないことに時間を使っても仕方がないという勘定になる。さりとておっさんの責任があるだろ、という話は昨年の今頃書いたしさっきも書いた。

       そしてもちろん、どのようにすれば学生にもうまく伝わるかという難問がまた別にある。口角泡を飛ばしても、怪気炎を上げることにしかならんから誰もついてこん。こちらは俺の技術の話。

       

       まあ、どうしてこんな体たらくなのかの原因のひとつは、当意即妙の要領のいいのばかり採用しているからだと思うから、こんなことで悩んでいる意味はあまりない。余計に着地点が見当たらなくなったが、最初からあるとも思わずに書いているのでこの辺で終わる。


      台風の日

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         12日は西国に出張予定だった。加えて夜にバンド練習の約束があり、それに間に合わせるためには仕事終わりで大急ぎで駅に戻って最も早い新幹線に乗る必要があり、そのためには自腹でタクシーを手配しないと無理なので、事前に地元のタクシー会社を確認して…となかなかに慌ただしいスケジュールを描いていたのだが、直前になって出張は取りやめになった。新幹線が止まるというから土台無理なのだが、大学はそもそも警報が出ると休講になる。SNS上では「台風が来て出勤できなくなる恐れがあるので今夜中に出社して会社に泊まれ」等の狂気の沙汰に怨嗟の声が上がっていたが、その点大学は責任があるので必然理性的である。

         

         そもそも行く予定だった大学は、土曜は職員が誰もいないので、自分で鍵を開け、終了後に自分で締めなければならない。余談だが、終了後に女子学生がトイレに行くと、施錠の手前、終わるまで待っていないといけないので、これは俺今ハラスメントをしているのではないかと思えてきてしまい困る。

         

         話を戻すと、今時の大学は正課だろうが課外だろうが補講を必ずやらないといけないので、休講になると日程調整その他かえって面倒なことになる。正直なところ、警報出ているのに休講せず、学生が誰も来ずに教室に俺一人、というのが最も楽だ。日程調整しなくていいし、不労所得ごっつぁんですになる。だから休講になるというのもあるんだろうな。台風の日に会社行きたい連中も、自分だけ行ってりゃ後はファミコンしてるだけでも給料もらえるのに、わざわざ部下を呼びつけるとは要領が悪い。

         

         関西は進路からは逸れている予報であったが、昨年のあの暴風が頭にあるので、あちらこちらで風で吹っ飛びそうなものを軒並みしまっている様子を目にした。で、その日になると風より雨が酷かった。

         出張がなくなりのんびりスタジオに行けることになったが、しかし、バンド練習はやるのか?土砂降りの中、楽器を持ち出すのも、出歩くことさえ大変だ。ついでにスタジオ側からすれば、我々はまるで豪雨の日に宅配ピザを頼む客のようなものなのではないか。やはりここは中止しようと合意したのだが、途中までドラマーと話が若干噛み合わない違和感を覚えていたところ、ニュースを全然見ていなくて台風の存在を知らなかったとのことだった。そんなことあんのか。

         まあでも、阪神大震災のとき、目覚めると部屋がめちゃくちゃに散らかっていたので空き巣だと慌てて財布の在処を確認した友人もいたっけか。こいつの場合はあの揺れで起きていないのだからどうにかしているのだが、台風はレーダーだの衛星だのからわかることをニュースで伝え聞くからそうだと認識できるだけなので、確かに情報がシャットアウトされた状態では、今日は酷い雨だなあくらいにはなる。

         一方で、地震と違って何日も前から来ることはわかっているからまだマシだといえるが、それでもいざ物凄いのが来ると、わかっていたところでどうしようもない部分はいくらでもあるとニュースを見ながら思った。来るとわかっているものが実際来たら想像以上に抗えなかったというのは、想像すると心底ぞっとする。

         

         話を戻すと(2度目)、ひと月以上前から決めていた予定だったので、延期にするのは正直嫌なものである。補講と同じく日程のすり合わせも少々面倒くさい。会社員時代は、そういう仕事だったのでしょっちゅう予定が覆り、なんとかバックレようと画策したり、実際トンズラしたりした(地方都市の勤務でも、こまごましたことはそれなり結構あるものなのだな)。

         なので予定が変わることを嫌う気持ちはよくわかる。よくわかるのだが、若手のボンクラ社員と同じ行状を、50も60も過ぎたいい大人、兼、国や自治体(大阪府)を預かる立場の長が平気でやれてしまう(今回の台風ではなく、昨年のや先般の15号でのこと、大阪の場合は去年の話)というのは、君主制の限界ととらえればいいのだろうか。

         少なくとも、向いてないから辞めたら?と思う。一応君主制じゃないんだし。災害用の臨時態勢をとにかく嫌うという点、社員に無理やり出勤を命じてくるマインドとも通底しているんだろうな多分。スイッチ押せば電気がつく、の入出力だけで世界が出来ているような認識というか。だから河川敷に建物作って「有効活用」とか、避難所にもなりうる公共施設つぶして売り払って無駄削減とかいう発想になるんだろう。頭の中に平時しかない銭金平時だからな。

         

         まあ「予定変更嫌い」ととらえるのはお人よしなとらえ方で、要するに「自分らでどうにかしろ」を実践してるというのはいろんな人が指摘している通り。

         ニュースを見て思ったのは、東京はやはり災害対策のインフラも地方よりは俄然整っていて、タワマンざまあみたいなことで留飲下げても、地方はもっとひどいからやりきれん。それで「自分でどうにかしろ」に持っていきたいんだから、これはいよいよ日本でもタクシン派が出現するのか。と思ったが、日本の場合は自民党が長らくタクシン派の役割を担ってきていて、今じゃ同じなのは看板だけだけど、看板は同じだからタクシン派なんか出てきようもないか。

         

         ところで公務員の採用に当たっては、論文試験があるのだが、定番のお題に「災害対策」がある。最近の学生は多くが「自助・共助」を強調した内容を書いてくる。それが模範解答だと思っているからである。なぜそれが模範解答だと思っているかといえば、元をたどれば政府がそんなことを言っているからで、それを受けて地方自治体も似たようなことを住民にPRしているからであり、そしてさらに「これが模範解答だよ」と無邪気にふきこむ人間が彼らの周辺にいるからである。「自助・共助」は、自分を律し、助け合うことを意味しているから正しく美しい響きがあり、学生の側も受け入れやすい。

         

         しかし。役所が掲げる美名の正しさだけに目を奪われるのは最悪死につながる馬鹿馬鹿しく危ういことなのだという認識は、世間知として大事なことだ。危うさに無自覚なまま「これが正解なんでしょ知らんけど」という若人ないしはひたすらに本気で信奉している若人を放ったらかしにはできん。採用試験での有用性はあやしいものだが、大学で大学生を相手にしていると業者に徹するのは小判でももらわんとやれんわ。


        寿司友面談

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           出張に行くことになり、同行の営業の人が「せっかくですので」と寿司屋のランチ接待を施してくれた。そしてその人は「大好きだ」というバッテラを注文している。おごってもらっておいてなんだが、この海産を売りにしている町の寿司屋でなぜになれずしだ、と思ったのだが、思っていたのと全然違う物凄いバッテラが出てきた。そして普通の握りに比べ、これがこの店では一番うまかった。飯がぎゅうぎゅうなので腹パンパン。


           さて某大学の課外講義を受注するにあたり、担当講師と面談したいとの先方の希望により、この日はわざわざ出向いての対面であった。「わざわざすみませんねえ」と営業担当氏は俺に気を遣ってくれるが、わがとこの学生を託すのだから、どこの馬の骨ともわからん講師屋に会わせろというのはまあ当然の反応といえばそう。

           ついでに俺がよほどのアウト人物でなければ受注は既定路線。俺が受注の成否を決めるわけではないので気楽でもある。逆にいえば、研究者逆境のこの時代、公募にも俺にとってのこの営業氏のような代理人がいてしかるべきなんじゃないかと無駄口を想像した。まあ俺自身も昇給の交渉の際には代理人がいてほしいと思うが。


           ありがたいことに、向こうさんの担当者とは指導に対する考え方が似ていたこともあり、話はすんなり終わった。予想されうる「俺とは正反対の姿勢」だった場合を想定して受け答えを一応用意をしていたが、出番はなかった。

           

           大学教授たち研究者のTwitterを見ていると、就職関連の講師屋が蛇蝎のごとく嫌われているのがよくわかる。それもそうだろうと、我ながら思う。

           学生の就職活動がシューカツと名乗りを変え利権構造化する中で、俺がこの業界に首を突っ込みだしたころに比べて狷蔚伴圻瓩凌瑤呂阿辰帆えた。俺が行く大学にも、しばしばその手の業者の講演会だのなんだのが開かれているのをよく目にする。そういう業者さんの中には真偽不明の法則を金科玉条詰め込ませたり、ただの企業側の勝手な理屈を世の真理のように説く奴隷商人ぶりを見せたり、そこまでいかなくても猝枠浪鯏瓩鬚覆召蕕擦燭蠅垢襪里珍しくない。これらの行為は、どれもこれもアカデミズムとは相容れない姿勢である。というわけで嫌われる。


           かような理路や方法論は採ってほしくない、とこの日先方が言うので、もとよりそんなことやったことないですよと返答してそれでほとんど話が終わってしまった。

           俺がその手の方法論を採らない理由は単純で、そうやって仕上げられた文章なり文言なりを俺が読んだり聞いたりしないといけないからだ。そういう内容は100%全然おもんないと決まっているので、苦痛でしかない。

           

           先日も某所で、俺が講義を担当したわけではない学生諸君の面接練習をやることになり、全員見事に雛型穴埋め文で同じことを言うのにのけぞっていた。「主戦場」の市議会のシーンを思い出した。

           説明会に参加させていただきさしすせそといった、こんな取り繕った内容の話を聞きたい人っているのかね。というのが素朴な疑問。彼らが同じようなことを言うのは、誰かがそう教えたからだろうが、教えた人間は仕上がったものを読んだり聞いたりしたことはあるのかな。5人聞くとガックリ疲れて、10人で後は何もする気がなくなる。以前に、同様の雛型穴埋め文で仕上がった「論文」を百枚読んだことがあるが、あの時は誇張でなく本当に頭がおかしくなりそうになった。これも平気で読める人がいるのかね。いるんだろうな。学生よりもそっちの方が心配だ。

           

           若人諸君には、そんな嘘くさい話より他にもっと話すことあるんじゃないのと水を向けると、何だそれでいいのかと楽になったような顔をして武装をやめることも多い。こういうときはひとつ社会貢献をしたような気分になるのだけど、中には「こいつの言っている模範解答は何だろう」と単に視点を変えてくるだけの、当方の意図が伝わらない人も少なくない。さしづめ俺は、一定数には「わかりにくい模範解答を求めてくる人」と受け止められている。なので若人全員に歓迎されているわけではない。

           

           補足しておくと、正課の授業がしっかりしている大学(学部)の場合、学生の書く内容もしっかりしているところはあって、そういう点、こちらがどうこう言ってどうにかなる部分よりも、大学生活の中で鍛え上げられている部分はやはり大きく、その点やはり教授連中に分があるとは思う。


          マナー警察と天動説

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             というようなことを知人若人の愚痴を発端につらつらと考えたわけだが、己の仕事でも、同じジャンルの話に直面することになった。
             就職試験の論文の採点を依頼されることがたまにある。その設問が外国人観光客関連だったのだけど、学生が書いていた内容が無邪気な偏見の満開桜だった。酷いのになると、「外国人観光客の増加で、日本に麻薬の流入が増える」などと、観光客が全員ヤクの密売人に見えている内容のものも。由々しき事態である。

             

             この学生が、実際にそう思い込んでいる可能性は低いとは思う。社会現象について論じさせると、何を書いていいのかわからずに、思いつきを支離滅裂なまま、とりあえず指定の文字数を埋めるかのようにひたすら並べるだけで済ませようとする学生は多い。結果、書いている当人も「相当あやしい内容」と自覚しているケースが多い。
             とはいえ、放っておくわけにもいかない。いわば連想ゲームで思いついたことを並べているということは、外国人とヤクの売人がこの学生の脳内では(無自覚だとしても)同じ棚に収まっているということになるからだ。

             

             加えてタチの悪いことに、そもそもこの論文の設問に「〜インバウンド需要が見込まれる一方、トラブルも起きている。そのような中〜」などと誘導尋問めいた一節がある。出題者の頭の中も、学生同様無邪気な書棚状態になっている、もしくは明確に偏見を持っていると推察される。この出題者にしてこの解答者ありではないか。これはいかん。

             

             なので、自分が講義を担当しているクラスでも似たような設問で論文課題を書いてもらうことにした。当然トラブル云々の一文は外して。
             案の定、提出者の半数程度がマナー警察になっていた。「彼らも悪気があるわけではなく、文化が違うのが原因だ」などと、一定配慮を見せている分まだマシといえるかもしれないが、それにしても、である。
             講義を終えた帰途、あちらこちらの居酒屋では、いわゆる「新歓コンパ」の時期だからか、酔っぱらった学生が集団で道路をふさいでいたり、騒ぎ倒していたりで、いったいどの口が「マナー」を言うんだという矛盾甚だしい。

             

             別に外国人がすべて清く正し人だといいたいわけではない。観光だけで3千万人も来ている。中にはおかしな人もいるだろうし、学生がいう生活文化のすれ違いによるトラブルの類はもっと件数があろう。俺が引っかかるのは「日本天動説」とでもいえばいいか、とにかく日本社会に絶対の基準があって、あとは異物という発想である。

             例えば学生は、日本人より「マナーのいい」外国人は一切想定していない。基準がこちらにあるから、理論上想定されるはずもない。自分たちだって(「の方が」というのが正確か)馬鹿騒ぎして「マナーが悪い」事実に目がいかないのも、こちら側は基準なのだから必然そうなる。

             

             そういえば、以前大学の食堂で留学生の歓迎会を開いているところと遭遇したことがある。一部を貸し切りで使用していて、俺は残りの席の方で魚フライ定食を食っていた。それで担当課の課長みたいな人があいさつしていて、是非みなさんには日本のよいところを学んでいただき、そして同時に日本の悪いところは見ないようにしてくださいなどと言っていて、俺はアホかこいつはと呆れていた。

             「悪いところは教えてくれ」だろうに。「悪いところ」が具体的な当人の被害だったらどうするんだ。それでなくても大学もあろうところが事実の見らんふりを推奨するなど言語道断である。でもこれが日本天動説の平均的な気分なんでしょうよ。

             

             というわけで次の授業で説諭した。とはいえ学生にしてもマナーしか思いついたことがないから書いたか、もしくはそういう猝枠浪鯏瓩鯑匹鵑世で、明確な主張に基づいているわけではないのがほとんど。本心ではない内容について説教されても馬耳東風であろう。

             しっかし思いつくことが「マナー」ってのもな。法令違反ならともかく、むしろくそくらえじゃん。問題は外国人への偏見等ではなく、気兼ね気兼ねの塊で、不便な方不便な方に帳尻を合わせようとする現代日本社会の特色にこそあるという話かもしれん。


            読者からの注文

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               年度が変わって正月気分の花見シーズンだった。なぜか知人からの誘いが続いた。今夜一杯どう的な急な誘いがすっかり珍しくなっている昨今、「慣れないことをする」ことになってしまったせいか、まんまと体調を崩して、一件不義理をする羽目にもなった。プラスマイナス帳尻だ。

               

               そのうち1人は、最近企業のCMの炎上が続く中で、自身の勤務先でも「チェック体制を強化することになった」という。法務の専門家以外にも、大学の先生なんかにも意見を聞いて炎上につながる要因がないかを探るわけだが、こんな話はあんたがチェックするのが一番早いんじゃないかと言われた。

               

               当人は数少ない当ブログの継続読者。このブログでたまに書いている差別関連の話を読んでの言である。別に俺なんかに尋ねなくても、今時のSNSは、在日外国人や働く女性や体のどこかに障碍がある人などなど自分が普段過ごしている位相とは別のところにいる人々からの直接の指摘がいくらでもあるから、そちらを見ればいいだけのことに思うが、そこはさて置き、俺がそんな話をここでくり返し書いているのは、そういう映画を見たからに過ぎない。なのでとりあえず「グリーンブック」でも「ドリーム」でも見たらどうかと思うのだが、裏を返せば洋画でも見なければ、日本社会の中ではその辺りの感覚を磨くフィクションに触れる機会が極めて限定されているということになる。身近にないから、それなり高学歴で勤務経験の長い大人が少なからず関わっているのに誰も気づかないという事態になるのだろう。

               ま、まったくないわけでもなく、例えば女性差別関連の「あるある」は一部のマンガやそれを原作にしたドラマなどで目にすることはある。そういえばこのブログでも、日本のマンガ作品についてこんなことを書いていた。差別問題についての基礎知識的な内容になっている、と自分で書いて自分で賛辞をつける。

               

               あんたがやれば、と言ったその若人によると、勤務先の会社は炎上しないことばかりに気を取られているといい、「人を傷つけないという本質部分をおろそかにしている」とコボしていた。まあ「会社員が考えることは常に目先の付け焼刃に留まるやれやれ」といった話であるが、「人を傷つけない」というのは考え出すと全部疑わしく思えてきて「これじゃ何も表現できない〜〜」と頭を抱え、迷走の末に松本人志辺りの言に救いを感じて「傷つけない表現なんてこの世にはないんだ!」と薄っぺらに格好よく居直りを決め込むの図が社内で蔓延するのではないかと、長ったらしい心配を勝手にしてしまった。

               

               CMの場合はやはり、ステレオタイプに注意を払うのが最初になすべきことだろう。
               そもそもは、わかりやすさのためにパターン化をするのがステレオタイプの機能である。このパターン化が、固定化された観念と結びつきやすいため、場合によっては差別や偏見や無自覚・無理解につながる。例えば洗剤のCMは、いかにも皿を洗っていそうな人が登場するのがわかりやすく、意外性を狙ってダースベイダーあたりが出てきても、そちらにばかり目がいって、何のCMかわからなくなる恐れがある。ただしその「いかにも洗いそうな人」が30〜40代の女性ばかりだと、性別と役割の固定化を助長するおそれが出てくる。

               

               こういうわかりやすさが固定化したいわゆるパターン化は、フィクションの世界ではしばしば「手垢にまみれた古臭い描き方」となり、「つまらない」とか「いまさら」といった低評価につながる。「金にうるさい男=関西弁」のように、パターン化はしばしば、そう語られる側が辟易していたり、「常人離れして心の美しい障碍者」のように、そんなやつは実際にはそうそういないというケースも珍しくないから、場合によってはそれこそ「人を傷つける」。

               

               逆にいえば、差別を題材として扱うのは、既存の価値観を揺さぶることにつながりやすいことになる。俺がその手の映画を好んで見ているのも、その辺りのトンガリ具合を期待してのことだ。

               

               そして広告でもそういうのが本来ありがたがられる現場ではないの?とも思うのだが、これはおそらく牧歌的な発想なんだろうな。実際は、もっと情けない事情なんだろう、炎上広告の背後にあるのは。なのでチェック体制の強化も結構だが、鈍感に固定化されたイメージに基づく発想が優先されて、斬新なアイデアが出てこない組織の仕組みそのものを考え直した方が効果的だと思う。


              年の瀬2

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                 知人から夜に電話があり、そのまま夜中の3時くらいまで長電話だった。年齢上立場上、鬱屈しているものが鯨肉くらい在庫が貯まっているからだろう。そういう俺も個人事業主につき気の置けない間柄と暖簾をくぐって・・・、なんてことがまったくないので遠隔忘年会だなと内心思いながら、電話に応答しつつウイスキーを舐めていた。

                 欠員が出たのに補充がない、と今時どこの企業でもありそうな愚痴をこぼすので、広河隆一でも採ったらどうかと助言した。少なくとも写真は巧いんじゃないか?(そうでもなかったりして)。すると翌日「茨城県庁がセクハラ処分の官僚を採用」というニュースが流れていて、おいおいホントにやってるやつがいるのかよ。

                 

                 さて話の流れで、本やサイトの選び方という議題になった。インターネットサイトが玉ゴミ混交なのはその本質上必然のことなのだが、書籍の世界でも同様の事情となっており、見分ける姿勢、いわゆるリテラシー的なものが重要になっている。大学1回生だと、検索結果のトップに出てきたものを何の疑いもなく引用してレポートを書いたりするものなので、引用可能なサイト、そうでないサイトの説明から始めなければならない。

                 こういう事態に年寄りが呆れるのは勝手だが、物心ついたときからネット上にサイトが溢れている環境でまっさらなまま育っているのだから、きちんと教えるのがおっさんの責務である。そうでないとまとめサイトから引用してるくせに大口叩いている破廉恥な大人と、それを回収しない破廉恥な出版社を横行させるだけである。


                 個人のブログ、まとめサイト、フリー素材の写真だらけで「いかがでしょうか」で終わる記事を引用するなとか、そんなことを教える。最近、ネット素材のテキトーな張り合わせで出来ている記事の末尾に「いかがでしょうか」がないケースも出てきているのだが、あれはよくない。この記事はせいぜい暇つぶし用ですよと明示する意味で、最後に「いかがでしょうか」と必ず書いてほしいものだ。

                 

                 書籍についてはもう少し難しい。青林堂の本だと表紙がいかにもあやしげだから、あれはあれで良心的といえるかもしれない。名のある出版社が酷い本を出しているのは、話題の幻冬舎しかり講談社しかり。まあ本がすべて良心的ではないというのは昔からあることで今に始まったわけではないが、まず数の問題がある。書店の「歴史」「政治」「海外事情」といったコーナーは、昨今、アレ界隈の書籍で汚染が激しい。いよいよ資格試験の分野にも浸食してきたという話は以前に書いた

                 

                 脱線するが、ちょっと前に稲田朋美の「日本は聖徳太子のころから民主主義」という衆院での演説が話題になったが、かの試験の問題文に使われていたのも同じような趣旨の文章だった。この界隈は、狭いサークル内で互いに受け売りし合っているもので(だから労せずどんどん出せるという強みがある)、その一端が衆院という結構な表舞台に顔覗かせた格好であり、別に彼女の持論というわけではない。なので発言の是非を云々するよりも、このサークル内受け売りもたれあい構造を解明していく方が重要なのだが、幻冬舎の件でそれが続々と詳らかになっているのは素晴らしいことだ。

                 

                 話を戻すと、向学心旺盛かつまっさらな若人(年寄りもそうだが)に見分けるリテラシーを身につけろというのも無責任な話だ。書店の側も売るならせめてコーナーは分けてほしいものだ。どうせ購買層は共通なのだから、ジャンルに分けられているよりも買いやすい。分類名が「アレ」くらいしか思いつかないのだが、何か適当な名称はあるだろうか。「お目覚め」だろうか。そしてその書棚は、ツタヤのエロビデオコーナーのようにカーテンの奥に設置するといい。隣国を罵倒したくてしょうがないという隠微な欲求を持つ人にとっては、より興奮する演出ともなるだろう。知人曰くは「そのうちマトモな本の方がカーテンの奥においやられそうだが」とのことだが。

                 

                 ただし新書の場合は、新書という規格に含まれる分、単行本のように単独には扱いにくい。というか、書店の対応に頼るばかりでなく、こちらも爛螢謄薀掘辞瓩鮗けなければならない。結局は出典の明示という論文レポートの作法にたどり着く。ただしこれも万能ではない。ライトな読者層を想定している場合には省くこともあるからで、これはこれで一部で議論になっている。

                 

                 学生に対しては「本を読んでいない」という前提で説明するので、まずは新書・選書あたりから入ってはどうかという助言になる。その際に一定程度信頼のおける新書と、玉石混交度合の高い新書、ほとんど泡沫、と出版社ごとの概要を示したことはあるが、平均値の話でしかないのも確か。あとは「帯に腕組みした著者の写真があるやつはとりあえずやめとけ」と言ったら、後ろで見ていた教授だけ爆笑していた。これだとアレ界隈ではない人も一部含まれるが、まあいい。

                 

                 結局は「薦める」に行き着くのかもね。自分だって「これを読め」と周囲の薦めの積み重ねがあったものだ。年末なので張り切って図書館で色々借りたが、電車移動が多いときほど読み進むといういつもの矛盾にぶつかっている。

                 とりあえず↓これ

                から取り掛かっているのだが、上下巻分のボリュームだ。どうやら新しい才能が続出してるっぽい雰囲気の韓国の小説も借りてきたけど、たどり着けるのやら。


                おせっかい

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                   いつも世話になっている美容師が、給与の話でオーナーと対立して店を移ったのが今年の夏ごろ。年に2回くらいしか散髪しない無精者につき、期間は長くとも圧縮すると1,2年程度の付き合いになるような気がするが、見習いのころから見知っていて、いつのまにか美容師に昇格し、いつのまにか店を任され、いつのまにか給与でもめるまでに成長していたのだった(たまにしか来ないので、ホントに「いつの間にか」と感じてしまう)。で激励に訪れ、「もう来ーへんぞ」と言っていたのが、結局また来ている。

                   

                   「地震は大丈夫でしたか」と、久々なので古いところから話が始まるのが毎度のこと。まだブルーシートをたくさん見るよねえなどと話しながら、そのうち話題も変わり「万博決まって大阪もまた賑やかになるんすかねえ」などと牧歌的なことをいう。やはりこれが世間の平均的な受け止め方なのだろうか。

                   

                   どうだかねえなどとやり過ごしておけばいいのかもしれないけど、まあ待ちなさいアゼルバイジャンに決まってたら行ったかいなというか愛知のとき行ったかいなというかブルーシートがまだ多い状況で躍起になることかいななどと諭すように語ってしまった。これも「華氏119」なんかを見たせいだろう。小さなことからコツコツと、だ。なるべくやんわり与太噺を言うような調子で相手が引かないように心がけるのであるが、彼の場合は引くどころか周りにこういう話をする人間がいないせいだからだろうか、おーなるほどと食いついてきた。

                   

                   「ゴーンの件もようわからんのでYoutubeなんか見るんすけど、何かようわからんすね」と、彼は俺もよくわからないニュースのことを持ち出してくる。まずニュースを確認するのにYoutube、という発想からして、おいおい&なるほどなあなのであるが、最近はネット民の尽力で悪質なチャンネルが続々と凍結されたし、当人も陰謀論めいた話は話半分で受け取っている様子につき、まあよかろう。とりあえず、地検特捜部のやる事件は本気にするなと説明した。なんだったらあやしげなネット情報より陰謀論なんじゃねえかという気すらする。

                   

                   「ま、僕らみたいなのにはまったく無縁の別世界の話っすけどねえ」と彼は適当にまとめようとしたが、大人げなく「そうでもないよ」と延長戦に持ち込む。ここからはただの私見。従業員リストラしまくって自分は10億だなんだともらって「これが世界の相場だ」と平然としていたのは、社会に少なからず「あ、いいんだ」感を与えたと思う。これをちっちゃーいレベルまで落とし込んだのが、君とオーナーの給与騒動なんじゃない?と言った。自分がそんだけもらうんなら、社員の給与ももっと奮発しろよってことでは一応構図はカブる。まあ彼にはこじつけのブラックジョークくらいに聞こえたかもしれないが。

                   

                   こういう説明したがり野郎を英語で「mansplain」というらしい。女性にも説明したがりはいるだろうけど、男の場合は相手が女性というだけで自分の方が詳しいと自動的に思い込んで語りたがる傾向が強いので、それを指摘している言葉だ。女性、あるいは年下、というだけで講釈を偉そうに垂れるととても恥ずかしいことになるので(経験済み)、やめた方が互いに過ごしやすい世の中になるだろう。油断するとやってまうんすけどね。

                   今回の場合は、相手の出方を注意深く見ていたので該当しないつもりだけど何事もほどほどにと自戒しつつ、お茶を濁しとくのが大人、とは必ずしもいえない世相になっているのは確かじゃないかしら。


                  自著「書きたくなる〜」その後

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                     某大学で、大衆に情報を提供する媒体産業への就労を希望する学生を対象にした授業が開かれている。学生が集まらず不開講続きだったのが、今季はどういうわけか最低人数が集まったとのことで両手で足りる少数の若人を相手に久々の講義をすることに。聞けば多くが2回生で、時代だなあと思う次第。

                     

                     せっかくのこういう機会なので、最近思っていることを書き留めておこうと以下ダラダラと。

                     

                     この仕事をまさに業としてやっていたのは10年くらい前のことだ。閉鎖になったのは5年ほど前(現在は既に述べたように、大学への出張講義的なスタイルで、コマ数もぐっと少なくライトに実施したりしなかったり)。かつての受講生は概ね30代、要は現場の中核をなす年代だ。それぞれどうしているのかはいちいち知らない。意に沿わない部署に異動になったり、育休に入ったり、実はもう転職していたり色々だろう。そういう年月がたった上で、現在の、特に放送のありさまを見ていると、なんとなく自身の責任も感じるところがある。

                     

                     まるで自分が彼らの人格形成に大いに寄与したような物言いだが、別に俺と出会わなくても合格しただろうという人ばかりなので、まさか「俺が育てた」的なみっともないことは考えていない。ただ以前に「否定と肯定」のところで書いたのと同じようなことで、何かの物事に対して関心を持たなかったり、持っているのに積極的に表明しなかったりすることは、その後の時代の流れにちょっぴりは加担している気がする。その程度といえばその程度の責任であり、反省だ。

                     

                     あの頃、多くの若人諸君が「やりたいこと」として書いてきた典型例の一つが、芸人を使ったニュースなりニュースバラエティなりだった。M−1グランプリ華やかりしころで、現在中堅どころとされる芸人たちが続々と登場していた時期だ。彼らのツッコミのセンス=批評眼をもってすれば、ややこしいニュースも切れ味鋭く分析して、おもしろく視聴者に提供できるのでは、という発想だった。
                     まあ、当時としては「誰でもまず真っ先に思いつく」くらいの発想なので、面接対策的な観点からいうとまずこれでは通過しない。せめてもっと内容を詰めていく必要がある。その程度のことは助言したが、この発想自体は積極的には否定しなかった。内心駄目だろうと思っていたのにもかかわらずだ。


                     常人には思いつかない芸人の笑いの着眼点というのがニュースにも当てはめ可能なのでは、という発想は俺も考えたことがあったが「あ、これは無理だ」と気づかされたのが松本人志だった。最近、彼がやっているニュースバラエティでの発言がしばしば物議を醸していて、批判的な人の中には「松本も年食って衰えた」と残念がっている元ファンもいるのだが、あの人は急にああいうことを言い出したわけではなく、昔からああいうことは言っていた。週刊誌連載とテレビ番組の伝達力の差だろう。自分の才覚でのし上がってきた人によくある「成らぬは成さぬなりけり」原理主義とでもいうような他者へのまなざしの貧しさが、読んでてすごくつまらなく、隣のリリー・フランキーのエロ話ばかりの人生相談の方が余程スリリングだった。なんぼお笑いで天才ぶりを発揮しても、でけへんこともあるんやなあと、当たり前のことに気づかされたものだった。ついでに学生に「芸人を起用したニュース番組」という記述がブームに達していたころ、爆笑問題が政治バラエティー番組のようなものをやっていて、彼らは普段の漫才が時事ニュースに基づいている分、もう少しできるのかと思ったがそうでもないと感じたものだった。

                     

                     というわけで、個人的には「無理がある」と判断したのだけど、学生が考えて書いたことを頭ごなしに否定するのもどうかという思いもあり、「僕個人の意見では、大しておもしろいものにはならんよ」くらいは言った記憶があるが、それ以上は言わなかった。こう書くと教育者のような物言いになるけど、実際のところはいかに無理があるか、当時俺が感じていたことを論理的に言語化する作業をサボっただけともいえる。

                     くだんの松本の連載を愛読していて「先生も読んだ方がいいっすよ」と猛烈に薦めてきた学生もいた。まあ「ゴーマニズム宣言」を愛読していたころの俺みたいなものだろと思って、あんまり強く否定するのもなあと、やんわりと「あれは実は社会評論としてはすごい手前の話を言っている」くらいのことを諭すにとどめた。これまた説教親父になるべきだったかも、と後付けながら思うのは、あれから10年以上たった今、まんまと情報番組に芸人たちが跋扈して、結構な惨状を呈しているからだ。

                     

                     影響力のある人が貧しい意見を言って、それに若人が感化されて、というのがあんまりよろしくないなあくらいに思っていたのが、実際は想像以上だった。影響力はある門外漢が素人意見を述べるにとどまらず、大阪の場合は政治、芸能、放送の三者がまるで軍産複合体のような結合を見せるところまできている。ここまでの予想を立てる知見は当然ありもしなかったが、多分よくないだろうなあと思う程度には俺もうっすらとはカッサンドラだったわけで、別に俺が何しようと何の影響力もないことは自明だとしても、統計学みたいな話で自分がもう少し何かしていたら、同時に他でも似たような人がいたんではという少々オカルトがかった発想はつきまとうのである。

                     

                     もちろん一方で勉強不足だったこともいくらもあった。「バラエティ番組は抗議を恐れて萎縮すべきではない」という言説に対する態度がその際たるものの1つで、これは当時大した問題意識も持てずに呑気に構えていた。お笑いの好きな学生が当時よくこういうことを書いていて、なんでもやりゃあいいとはさすがに思わなかったが、バラエティが危ういところに挑戦すること自体は「努力してしかるべきかなあ」くらいに考えていた。大事なのは委縮か冒険かという二択ではなくて、ちゃんと考えましょうねということで、これをサボってきた結果、居直りや暴論が「ホンネ」の名を頂戴することを大いに助けたと思う。これは完全に勉強不足だったと反省している。

                     

                     といったことをたまにボサーっと考えるような日々、再びそういうところに関心があるという学生に授業をしろとなると、さて何をすべきだろうかと身構えてしまう。

                     今時わざわざ斜陽ともいわれるところを志望するのは、よほど思うところがあって、というわけではまったくなく、10年前と大してかわらず「何だか楽しそう」くらいの様子で、2回生多いので、様子見半分のところもあるようだ。本来はこの程度のノリで全然いいはずなのだが、現状をちゃんと知っているかね、と余計であるはずの老婆心を抱いてしまう。困ったものだ。

                     

                     問題点が多いというのは、ある意味改善するべきことがたくさんあるということなので、面白いことだと見ることもできる。そういったことメインにすれば、授業の土俵にも現状の問題点を乗せることは可能かもしれない。そんなことを考えて、あれこれ内容を練ってみて、でまあ学生諸君の取り組みのおかげで少しは手ごたえを感じつつこれまでとは違う試行錯誤をやってみて、そしてライトなプログラムなので間もなく終わる。


                    災害と災難(とホームラン)

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                       近所の店舗の屋根がバリバリとはがれて落下したのでマジかと驚愕したが、府内どこでも見られた程度の被害で、場所によってはもっと深刻だと後で知った。後日、出勤した先で職員から「大丈夫でしたか?」と気遣われ、近所の店の屋根が吹っ飛んだくらいですと答えたら「ああ、どこでもあるやつ」と言われた。停電にならなかったのはかなりラッキーだったことも知った。

                       風力というピンとこない要素の恐ろしさが可視化された格好だが、電柱が軒並み踏切の遮断機みたいになっている様子とか、エグ過ぎてやはりピンとこない。電車を止めたのは英断だったが、その英断が出来る理由の一つは予報の精度が高いからで、「バック・トゥ・ザ・フューチャー2」の言う通り、気象庁は発達したものだ。同時に石原裕次郎が出てたレーダーをつける映画を思い出した。このレーダーが出来れば台風の死者が減らせるんだという熱意でプロジェクトX的に任務遂行する人々の物語だが、確かに台風当日も直前までただの呑気な曇り時々腫れだったから、生活の知恵だけで対応するのは困難だ。ひと月前に関空を利用したばかりなので、外国人観光客は日本人以上にさぞ不安だろうと同情する。台湾では俺も逆の立場をショボ〜いレベルで軽く経験した。連載の終盤辺りで登場する。


                       翌日は新幹線が動いていたので、予定通り出張講義だった。所在地が関西ではないので混乱と無縁だからこうなる。こちらは在来線が混乱続きで新大阪までたどり着くのがほうほうのていだった。平常時の3倍ほどかかったので、会社が予約した新幹線の時間に間に合わなかったのだが、駅に着いたら当該のぞみも遅延していて形式的には間に合った格好になった。先方に電話して、かくのごとき状況につき遅刻になる旨伝え(関西の企業ではないのでこちらの状況はよく知らない)、「到着までどうにかこっちでつないでおきますのでお気をつけて」などと気遣われたが、開始時刻ぴったりに教室に到着した。「つなぎますと言ったものの喋ることが思いつかず助かりました」と、あちらもあちらで軽く追い詰められていた。

                       

                       こうしてオッサンが悶絶しているのをヨソに、呑気に遅刻してくる学生(関西ではないので町は平常通り)を見ると、いつもは何も思わないのが、この日は苦々しかった。まあ遅刻だけど熱心だったり皆勤賞だけど寝ていたり、学生は色々なので舌打ちのしどころは難しい。一方、遅刻どころか何もしない大阪府市の対応はほぼ既定路線となってしまっている。突発事案で予定が変わることに堪えられないんだろうかね。突発事案で休みが消える仕事を少しだけしたことがあるので、外部要因が自分の意志を変えてくることのストレスは少しはわかる。過剰な忌避反応を見せるのもたまにいるが、そういう人は決まった予定事は大好きだったりする。あれと同じなんかね。とにかく彼らの何もしてなさは被害対応だけでなく、後々たたるという点でもホントあかんことやと思うで。

                       

                       最近は、授業中にスマホに没入している学生を注意することにした。大学生だし、私語のような他の学生の邪魔になる行為でないなら当人の勝手やろと無視していたが(あとスマホの場合、レアケースながらわからないことを調べているケースもある)、こういうのはオッサンの責務として釘指してやらなあかんのちゃうか、まだ間に合ううちに、などと考えるようになった。加齢だけでなく社会状況も関係してると思う。面倒だしアホくさいし、昔から怒るの下手なんで脳内で台本書いて脳内で演技の練習しないと出来んしで嫌なんだけど、これも後々たたるんちゃうかという懸念が上回っているので。しかし大阪府市はトップがこれで採用試験に「災害対策に何が必要か」というよくあるお題の論文を出題するのだろうか。

                       

                       それで今朝は電車は大丈夫かしらと朝テレビをつけたら地震だった。こりゃ酷い・・・。ついこの前見た「なんしょうと」北海道篇で出てきた白ワイン屋は大丈夫かね、と若干名いる知人よりそちらを先に思い出してしまった。農業の中心地だからこちらのような遠隔地にも影響大きいだろうなあ。この地震でこちらの台風被害の報道は一気に少なくなり忘れられた感が漂ってくるが、全国各地の「忘れられた災害」の復旧はいずれも目下継続中である。
                       北海道も外国人に人気の観光地だから、関空と似た状況。以前、外国人観光客が増えている中で彼ら向けの災害対策は何が要るかというような論文の題もあった。この題もブラックジョークにならなければよいが。

                       

                       そういう中で大谷が再度の故障。道民を心配させつつホームランは打つというよく出来た息子っぷりをまたもいかんなく発揮している。マンガでも書かないと言われた派手なデビューを飾った今季だが、左投手をからきし打てないというやはりマンガでも書かないわかりやすすぎる弱点を露呈していたところ、左投手から打った。多分、鏡を見てスイングするとか、マンガでも書かない秘密の練習をした成果だろう。

                       ア・リーグ西地区はアストロズかアスレチックスで決まりでエンジェルスの芽は今季とっくに消滅しているので(勝率5割で終えるのが目標)、大谷を登板させることはないと思っていたが、監督がソーシアだったのを忘れていた。イイ人なので選手の意志を尊重してしまう。最もストレスを感じてるのは間違いなく当人だろうが、例によって爽やかに冷静に記者会見をしている様子に、再びボルグとマッケンローの生きづらさを思い出してしまった。同種目の大坂なおみは、全体的に強くなった感じですね。

                      エンジェルス県立野球場



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