補遺、42の日の訃報

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     下の記事を投稿して翌日、本日のベースボール・リーグ・メジャーはジャッキーロビンソンデーで、球辞苑・秋山翔吾も背番号42をつけて守備でしか見せ場がなかった。通常であれば、ジャッキー・ロビンソンがデビューした4/15に行われるのだが、今季は周知の事情で本日になったようなのだが、そんな日にチャドウィック・ボーズマンの訃報が届いてびっくりした。がん闘病中だったそうで、若いのに。


     言わずと知れた「42〜世界を変えた男」でジャッキー・ロビンソンを演じた俳優である。個人的にもちょうど昨日からの話の流れ、なんて日だ。スポーツ新聞で本日という日のこの巡り合わせについて触れていたのはニッカンだけだった。あとは零点だな。

     

     ところでニッカンといえば、先日、大坂なおみの棄権についての屁みたいなコラムが一部で話題になっていた。本ブログにおける「屁みたいな記事」の文言使用は3回目。駄目典型例のサンプル提供としてはありがとう。記名コラムを書ける立場としては首だ。

     

     「国内で肌の色で差別を受けた経験はない」「大坂が味わっているだろう深い悲しみや憤り、絶望感を想像できても、実感しているとは、とても言えない」という前置きをした上で、「ない知恵を絞って考えてみた」と称する結果は、何も考えていないという点、先日紹介した佐々木俊尚の映画評と同じである。「わからない」という前提を示しつつ否定から入るのは、自分からは一歩も動こうとしていない時点で、考察ゼロ。

     

     そのくせ、その考察ゼロの己を高みの第三者に置いているというわけではないので、その点佐々木俊尚の文章よりマシといえそうだが、自分の責任で自身の立場からものをいっているわけでは必ずしもないことは、特にまとめの辺りに濃厚に漂っている。意見を書く前にまず調べろって言ってんのに意見だけ書いてきて、それもその「意見」なるものも、真剣に考えたのではちっともなさそうなことをお前誰やねん的な神の視点ポジションで書いてくる大学1年生と同じである。

     

     この筆者の吉松忠弘テニス担当記者は、自身を「典型的な日本人のテニス担当おじさん記者」と称しているのだが、「典型的な日本人の」というところがまず象徴的だ。太平洋の向こうのブラック&ホワイトの話は縁遠過ぎておじさんよくわらないという典型的なしぐさだろう。あんたテニス見てるんじゃないのか、というところだが、球の行方しか見たことがないからだろう。

     「記事は試合だけじゃなくて人間を書くんだ」と若い衆を指導したことくらいあるかもしれないが、それでも目を配ったことがあるのは選手個人の汗どまりに違いない。MLBがBLMを掲げる社会性を自覚しているというような、社会の部分は見ようともしたことがないんだろうな。

     

     背番号42の男が、「世界を変えた」かどうかはわからない。少なくとも野球界は変えた。彼がもたらした米野球界の門戸開放は、何も米国内の黒人男性プレイヤーだけに対してだけではない。「ベーブルースを三振に仕留めた」でおなじみの沢村栄治は、詐欺(というより悪戯レベル)でメジャー球団の契約書にサインさせられたことがあるように、その実力は米球界も一目置くところだったが、仮にいかに彼が相応の実力を持っていたとしても米球界には入れなかった。ミスター42がまだいない当時の米球界は白人のクラブだったから、肌の色が違う時点で入れない。野球大好き典型的日本人おじさんには大変に関係のある話なのである。

     

     とはいえ、42が取った戦法(正確には球団オーナーから入団時に言い渡された戦法)は、吉松氏が書くところと相通じるやり方だった。一切言い返さないやり返さない、ましてやボイコットなどしない。それを象徴する劇中の台詞が「好かれなくてもいい、尊敬されなくてもいい、だけど自分には負けたくない」だ。

     大変に恰好いいのであるが、この方法では結局社会全体を変えるにまでは至らなかった。このため、後進に現れたのは言い返す男・拒否する男のモハメド・アリで、ロビンソンはアリに批判的だった。その点、ロビンソンは時代遅れになってしまったともいえるが、少なくとも彼がドジャースと契約したときは、「自分との戦い」にするしか戦法はなかった。なにせ一人ぼっちだから。

     彼を象徴する「言い返さない勇気」は、孤独な戦いを強いられた苦しみの結果である。外野のフリした人間が押し付けていいものではない。

     

     大坂なおみが棄権し、大会がそれに合わせて延期となり、MLBはBLMの洒落たロゴを作って全員が42をつけている。そういう変化を積み重ねてきた結構社会的な場所で、球は右に左に飛んでるんだよ。

     

     「ブラックパンサー」で何だか甘っちょろい王子を演じている俳優が、「42」の主演と同じ人とはしばらく気づかなかった。それだけ演じ分けの出来ているいい俳優ということだろうが、「42」の鬼気迫り勇気溢れる演技は見ものである。惜しい人だ。哀悼。

     


     


    再放送

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       ここしばらく「アルジェの戦い」を思い出していた。アルジェリア独立を題材にした古い映画である。主人公たちが当地を植民地支配するフランス軍に対して、これといった有効打を与えられないまま映画が終わる、とみせかけて最後の最後で何の説明もなく唐突に燎原の火のごとく反乱が広がったところで終わる。フィクションでは本宮ひろし作品以外ではあり得ない、取ってつけたもいいところの話の閉じ方であるが、史実をもとにした作品につき、なんかそういうもんかと納得してしまったものだった(「天地を喰らう」も「赤龍王」も、もとをたどれば歴史なのだが)。


       ちょうど黒川定年延長が、この「アルジェの戦い」のラストを思い起こさせたのである。モリカケ桜、どれも世論の反応はそこまででもなく、「民主主義を諦めた国」と評する意見もあったくらいなのに、ここにきてにわかに非難が激しくなった。少々意外というか唐突というか、そんな風な印象があの映画とカブって見えたのである。

       

      この写真も3年前の今頃

       

       特に芸能人が次々意見を表明したのが大きいのだが、日本の場合、ハリウッドスターなんかと違ってそもそも政権批判の類を口にすることは相当に珍しい。だもんでたまにやるとまるで禁忌を犯したかのごとく叩かれるわけだが、なぜ口を開きにくいかといえば「芸能人はなぜ干されるのか?」で詳らかにされているような所属会社との奴隷的契約が影響しているのだろう(今回はそのうち1人が「かわいらしい女子」的雰囲気の人だったので女性蔑視も手伝っている)。生殺与奪を誰かにガッツリ握られている状況では、当たり障りのないことしか発言しにくいものである。政権に近い会社の所属タレントが、政権寄りの発言を積極的にするのも、その裏焼きのようなものである。

       

       就職試験の集団討論というやつで、「若者の投票率を上げるにはどうすればよいか」がしばしばテーマになるが、芸能人の奴隷的契約を是正していくのが1つの方策なのかもね、と報道を見ながら思った。


       それにしても、なぜ盛り上がったのがモリや桜でなく黒川延長なのだろう。ひとつにはコロナ対策のポンコツぶりが下地を作ったからだろうが、検察ってやっぱ人気あんのかな。正義の牙城、みたいな。
       犖〇_革瓩砲茲訐府と検察の対立ならば、お隣の文在寅政権ですでに起こっている。「運命」を読むとよくわかる。「アベガーのお前らの好きな文政権でもやってることだ」と応援団の人々はいえばいいと思う。これまでくそみそに見下してきたことで保たれてきた自我が混線するのか、それとも得意の手のひら返しで平然とできるのか。まずはパラレル韓国SFでおなじみの武藤外務省に書いてほしいのだが。

       ちなみに文在寅の場合、政府が検察に手を付けようとしているところまでは似ているが、党派性を排除しようとしている点、黒川延長とはちょうど正反対の行為になると思うが、そういう本質部分をネグることこそ彼らの十八番だし。

       

       捜査機関は味方につければ頼もしいし、敵にすればいおそろしい。軍隊と似ているが、軍隊の場合は敵に回すとクーデターという超法規的な現象が起こるのに対し、捜査機関の場合は法治主義の枠内で葬られることになるので、ある意味余計におろそろしい。

       なのでどうにか首に輪っかを付けたがる政治家が現れるのも必然である。そういう暗闘を描いた1つが「ザ・シークレットマン」である。FBIを牛耳ろうと人事に干渉してくるニクソン大統領と、ウォーターゲート事件をどうにか立件しようとするFBIとの闘いがテーマだ。「大統領の陰謀」のB面みたいな作品だが、「陰謀」が正義と特ダネをひたすら希求するカラっとした内容なのに対し、こちらは必ずしもそうではない。歯止めのきかない捜査機関の弊害も描いているからである。


       権力はあれば使いたくなるものだし、それが「悪との闘い」になればなおさら。そこに上意下達の支配構造が加われば道理をひっこめ無理を通すことも厭わなくなる。代表的なものが冤罪で、これをテーマにした作品はいくつもあるが、このブログでは以前に「証人の椅子」を取り上げた。

       検察というのは昔から大変におそろしい組織であり、当時の社会はそれを知っていたのではないか。そんな仮説を当時考えたのだが、そこへいくと現代社会はお人よしである。黒川が消えても黒川的な人はいくらでもいる。反対表明をしたOBの人々の中にも、「黒川と対立する黒川」も含まれていたかもしれない。法案が撤回に追い込めれば素晴らしいことだが、でも河井は無論、佐川はどうするんの、桜はどないなんの、という結果を待たないと、最終的な評価はできないんじゃないかしらというところで、やっぱり話はモリに戻るわけである。


       まあそうはいっても世論の反応が薄いまま色々とまかり通ってきたこれまでの流れが変わったのはよいことである。ただし「アルジェの戦い」はそれで大団円となるわけではなく、今につながるはじまりに過ぎないというような感想を当時書いた。同様に、現政権がいよいよコケたとしても、後を伺っているのがサ市・吉村だからな。何だよサ市って。ガ島じゃあるまいし。維新が次にくれば、ブラジルと同じパターンである。周回遅れもいいところだ。ついでに予想した通り、雰囲気で自粛していたものが雰囲気で解除の方向になっているし。

       

       さて再放送でどうにかやりくりしているテレビを真似して、再放送的にこの文章を書いている。「JIN」の再放送も終わってしまった。最終盤は佐分利医師のおもしろい台詞がいくつか目立つのだが、その第一位が「三角は何がしたかったんでっか」である。三角は仁への逆恨みをこじらせ陰謀をしかけてくる医者であるが、戊辰戦争に突入していく社会の激動の中(ついでに最終回も迫っている中)でしょっぼい陰謀をしかけてきてストーリーの邪魔でしかない。まさに「何がしたいんやお前」である。

       社会がどう激変しようと、庶民は目の前のしょうもない保身に一所懸命なんだよなあ、などと当時見たときは思ったものだが、まさか同じようなことを首相がやる場面に遭遇するとはな。

       

       咲と切ない別れの後、救いになるエピローグを届けるのは、「忘れてはいけない」と咲が手紙という記録にとどめるからで、やっぱり記録って大事だよねと、これも当時は抱かなかった感想。

       そのいわゆる時空を超えたラブレターに号泣する仁は、モノローグで「俺はこの日の気持ちを忘れてしまうのかもしれないが、この日の夕日の美しさは忘れない」とか何とかぬかすのであるが、記録しろよ!

       仁は物語の都合上だろうが「高校時代地理を選択したので日本史をろくに知らない」という設定である。なので龍馬暗殺阻止には異様な執念を燃やすが、同時に暗殺される中岡慎太郎については歯牙にもかけない。多分知らないのだろう。結果、命の選択という医者にあるまじき行為をしている。フランスから失意の帰国をしたのはカズだけではない。やっぱ歴史は大事だよね。


      スピード感とリーダーシップ

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         何度目かと我ながら呆れつつもやはり「JINー仁ー」の再放送を見てしまった。総集編的にちょこちょこカットしているから、「あのシーンがない」と寂しく思うだけでなく、登場人物がワープしていたり、回想シーンに齟齬が生じたりしていている。まあそれでも破綻なくつなげていると思うが、こういう濃いドラマはちょっとしたことで見ている側の緊張感を削ぐものなんだなと思った。枠はようけ空いてしまっているだろうから、フルでやってくれりゃいいのに。

         

         序盤のコロリ騒動がコロナとかぶってタイムリーになるのは見る前からわかっていたが、主人公・仁が実施するコレラ治療について、幕府がさっさと予算をつけ、今でいうところの国立大学病院で大々的にこの治療法を実施する辺り、2020年日本よりはるかに優秀やんけという悲しい展開であった。まあこれはフィクションであるが、「幕府が頑迷固陋で予算をつけない」という展開だと、ちょっと悪く描きすぎじゃね?とは思ったかもね。

         

         本作の元作たるマンガの執筆の出発点となったのは、作者が江戸の女郎たちの悲惨な実態に心を痛め、彼女たちが救われる話を描きたいと思ったからだという。なのでドラマでもそこは厚く描かれ、例えば重要人物である花魁・野風の半生なんかが綴られる。それを見ていると、「コロナで仕事を失った美女が風俗に流れてくるのが楽しみ」旨の発言をした岡村隆史はこのドラマを見てなかったのか、どっちにしたって改めて見たら?と思った。苦しい擁護をしている人含め。どれだけ残酷な発言なのかがよくわかるというものだ。


         その女郎たちに、健診を試みようとする仁たちが猛烈に反発されるシーンも期せずしてタイムリー。異常が見つかれば職を失うだけだから、何の補償もなしに健診を受けるはずもない。彼女たちがようやく受けるようになるのは、梅毒の治療薬の製造に仁が成功してからであるが、そのシーンはカットされていた。この場合は補償ならぬ(治る)保証であるが、それがあればそりゃ健診の受診という狎気靴す堝悪瓩鮗茲襪茲Δ砲覆襦


         その仁は、乳がんの疑いが見られる野風に対し、未来が変わってしまうからとうじうじ手術を躊躇することになり、そのせいで咲が微妙に気の進まない縁談を受け&結納の日に逐電する羽目になるのだが、「治療しないのが最善手」と正当化を試みる仁がしゃあしゃあと言い放つ狎掬な理由瓩蓮▲疋薀泙了訥絢圓砲垢譴仗里偽りを言っているのを知っているから嘘っぽく聞こえるかもしれないが、これ自体だけを見ればそれなりに説得力があると思う。なるほど(自称)医者たちがテレビ等で開陳している、それらしい残酷な理屈もこれと一緒か。

         本作のおもしろシーンの1つが第一話である。タイムスリップしたことに困惑したままの仁が、瀕死の怪我人を目の前にするとその治療しか考えなくなる。当然「あんた誰?」などと周囲が不審がるのを「今は一刻を争う!」とどなりつけて手術を敢行する。この、人の命がかかった局面では治療しか考えなくなる愚直な態度が、ブルドーザーのように、タイムスリップものにつきものの序盤のあれやこれやの面倒な困惑を吹き飛ばしていく様は大変に心地いい。

         医者というのは基本的にはこういうスタンスだと思う。仕事が忙しくて…などと診察をサボるとめっちゃ怒られるのも、命以上に大事なものなんかないという価値観が根底にあるからだろう。だもんでそうではない理屈を持ち出す医者は眉につばをつけるのが生活の知恵ではないのかしらね。


         さて仁は、150年ほどの医療史の蓄積のアドバンテージでもって江戸時代でゴッドハンドの活躍を見せるわけだが、醤油屋の主人が評すように、周囲がそれについてくるのは自分の専門分野に真摯だからである。あとの面倒くさい調整事は緒方洪庵なり勝、坂本あたりがやっている。政治というかこの場合は行政か、とにかくそういうもんだろ。

         ここ数年来気に食わない言葉として、「スピード感」と「リーダーシップ」があって、前者は「感」をつける必然性がさっぱりわからん広告屋言葉みたいなのがひっかかり、後者はそもそもそんなものを求めるところに不幸があるんと違うか、ってことで、どっちもアホの言葉だと感じている。仁は「スピード感がある」んじゃなくて、単に必死に急いでるだけだし、大事なのはそれだろうよ。

         リーダーシップなんか結果を評する言葉に過ぎん。仁(や周囲の人々)の奮闘ぶりを見てそんなことを思った。それを手段だと思って最初に求めようとするから、政権支持から不支持に回ったのに維新を支持するという同じ轍もいいところのおかしなことになるんだ。韓国、台湾、ドイツ、カリフォルニア州、愛知県などなど、結果を出している元首や首長は真面目で必死なだけだ。雨合羽のどこが真面目なんだ。


        これはパイプではない Cesi n'est pas une pipe

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           例年のこの時期は繁忙期である。繁忙を構成する要素の1つが「時事」であるというのは昨年も書いた。昨年のニュースについて概説していく講義である。講義内容の性格上、前年の繰り越し部分よりも更新する部分が多いので予習が結構手間なのだ。


           資格試験の出版社が出している“時事総まとめ2021”みたいなテキスト(各社とも扱っている年+2の西暦を書くのは何でなんだろう。混乱するだけだ)を使って進めていくのであるが、ただただ法制度と統計、外交の合意内容なんかが機械的に書き並べてあるだけだから読んでもよくわからん。わからないだけならまだしも、読んでいて結構シンドイ。批評性がゼロだからだ。

           

           とにかく「成果」をひたすら並べているような記述となっているのは、この書籍のターゲット層がお役所の志望者だからということなのだろう。いわば志望先の仕事をまとめたような内容だから批判がない。就活業者は実際の採用担当より遥かにトミイ副部長な平伏追従を強いる傾向がきついことがしばしばだが、これもそれの現われなのだろうか。あるいはお役所界隈だけに、何かのお付き合いがあるとか。以前に類似の書籍の原稿を依頼されたことがあって、課題やデメリットなんかも盛り込んで書いたら「あなた左ですね」と言われたので、単に知性の乏しいのが作っているだけのことかもしれん。

           

           一応霞が関の人々は一般のイメージよりは遥かに仕事をしてるところはある。モリカケ桜の追及は、実は国会の審議時間全体からいうとごく一部にしか過ぎないという話とちょっと似たところはある。しかし、外交のような高度に政治的な話が顕著だが、公報通りに書くと政権の正史のようになるのが昨今の現状。なので読んでるとそのうち岩田巫女の声が聞こえてくる幻聴に苛まれる。巫女というか守護霊というか。

           

           このため他のソースに当たって補足していくことになる。改めて報道機関の記事で確認するとわかりやすくて腐ってもスナッパーを実感する。それでも昨今は限界を感じる。既存のフォーマットが通用しないからだ。

           

           記者会見ですと言って、全く記者会見のテイをなしていなかったら、記者会見になっていないと伝えないといけないと思うが、そういうフォーマットを持っていないので、「記者会見である」という前提は問うことなく、話された内容に対して論評する。饅頭ですと出されたものが石ころなのに、サイズが小さいとか色が悪いとか評しているような無意味さであるが、無意味なだけでなく、饅頭だとして伝えられ、何ならそう見えなくもない角度から撮影した絵を添えるから欺瞞であり、罪深くすらある。


           どうしてこうなったかといえば、饅頭ですといって出されたものは、サイズや味に議論の余地があるといはいえ、曲がりなりにも饅頭ではあるという建前の成立している前提で組み立てられたフォーマットしか持っていないからである。ではどうしてその建前が崩壊しているかといえば、その建前をぶっ壊すことが改革だとして歓迎されたからで、自ら求めて招いたことを語る語り口を持ち合わせていなかったということである。

           

           だもんで、半分在野のような末端の講師芸人風情が、未来ある若人相手にこれは饅頭ではないという役目を果たさなければならなくなるわけだが、そういう俺とて有効な語り口を持ち合わせているわけではないから、余計な苦労を強いられるのである。


          天動説第2章

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             昨年夏、仕事に向かう途中の車窓から、停泊中のクルーズ船が見えて「おー、でけーなあ」と写真を撮ったものだったが、よくよく写真を見返してみると、あれがダイヤモンド・プリンセスだった。長い長い伏線だったな。ちょうどホテルニューオータニくらいのデカさである。昔NHKでやってた戦艦武蔵の最後を扱ったドキュメンタリーで、沈没の際の渦に船員が呑み込まれていったと説明していたが、たしかにこんなの沈んだらどえらい波になるよなあ。


             最近電車に乗ると、テレワークや時差出勤にご協力を、などと車内放送が流れている。鉄道会社が電車に乗るなとアナウンスするのもシュールであるが、国交省から言われてやっている。にしても、個人に訴えてどうするんだ、会社に言えよという話である。
            聞くたびイラつくのはちょうど今の仕事状況と関係がある。


             大学生の就職活動が徐々に本格化(している中、説明会の類がどんどん中止になって可哀想なのであるが)していく時期につき、その手の仕事が必然増える。具体的にはいわゆるエントリーシートだの小論文だのの添削である。これが今期はめちゃくちゃ多くて、商売繫盛ありがたいことではあるが、在宅勤務ならぬ「在宅でもたっぷり勤務」につき頭がどうにかなりそうになる。毎年言ってる気がするが。
             公務員試験の小論文だと、災害対策だとか子供の貧困だとかいかにも仕事に関係ありそうな社会問題について対策を考えさせるような内容の出題が多い。学生にはかなり難しい設問だと思う。中には見事にまとめてくる大した若人もいるが、そういう人はやはり限られていて、大半は推して知るべし。繰り返すが学生だから仕方ないところはある。当然、対策といわれても思いつきをぶつけるよりほかなく、その代表例が「周知徹底PRすべし」。ま、ろくに現状を調べてない学生だとこんなんしか思いつかんわな。

             で何が言いたいかというと、国内感染が始まって最初にやったことが電車内の意味なさそうなアナウンスだから、現実の行政機関がやってることが不勉強な学生の思いつきレベルなんだな。

             

             もう一つは、これは入口出口が逆の話なのだが、個人に呼びかけてどうするんだという部分である。
             このアナウンスに限らず、何事も個人の心がけにまず呼びかけるのは日本社会の悪癖だ。たまたまこういう本を読んでいたが、この感覚は明治のころに確立されたらしい。これはWGIPの洗脳などというぬるい妄想と違って今の若人にもしっかり根付いている。なにせ「周知」の次に多く見かける「対策」が、個々人の意識改革だったり懲罰だったりする。

             例えば災害対策だったら「住民一人一人の危機意識が重要だ」、プラごみ等の環境問題だったら「住民一人一人が3Rを進めることが重要だ」、動画の違法アップロードだったら「見る側にも何らかの刑罰が必要だ」。別に100%間違いというわけではないし、それも重要といえるものもあるが、だがしかし。


             行政機関で働きたいいう人間が「住民一人一人」に丸投げしてどないすんねんと、例年指摘はしてきているのであるが、今回の政府の一連の対応を見ていると、昨年書いた「日本天動説型外国人差別」同様、若人の無邪気さにもっとしっかり釘を刺すべき重大事案に思えてきた。

             一斉休校のような行動制限かけといて諸々の多大な影響についての補償・対策はろくにないかあっても実にショボい。それでも一定支持がついてくるのは、個人の心がけが第一に来る社会では個人の心がけを呼びかけるのは善政になるからだろう。この感覚は公的支援とのトレードオフがついてまわるから、検査がなされないことより検査がパンクする方にまず懸念がいく(そして公的部門をばんばん縮小してきたので実際能力もない)。


             これが妙に目につくのは、世界的な疫病につき、多少の時間差はあれど各国の対応の違いが同時並列となるので、いやでも違いが目につくからだ。当初、感染拡大の中で対策会議は10分程度(ついでに会議の面々が安倍自民の秘蔵っ子佞臣たち)その後首相は帰宅か会食という疫病なのに犒主瓩宴会な状況に、俺たちゃ三国志の時代を生きてるのかよ歳在甲子天下大吉と思ったが(今年は甲子じゃなくて庚子なんだって。惜しい)、韓国や台湾の気合の入った取組を見るにつけ(そして遅れて感染者が出たフランスあたりの対応を見るにつけ)、三国志ではなくて西ドイツ/東ドイツなんだなと思い知らされた。


             韓国はセウォル号のときに今の日本と似たようなことをやってこけた経緯があるから、朴槿恵だったらどうなってたかわからない。それが打倒されてできた政権だし、ついでに進歩主義はこういうときは強い。
             日本の場合は東ドイツと違って何主義でもなくただの日本天動説、要するに夜郎自大だからどうにもならん。タマネギ男とかって嬉しがってりゃそりゃ必然こうなる。東ドイツと違って情報が遮断されてるわけではないのに夜郎自大が高じて積極的に遮断してる。嫌でも目につくと書いたが、実際のところはそんなに目についていない。その結実が、あの記者会見という名の無意味な首相原稿音読会だろう。「五色の虹」「牙」の三浦記者が驚いた旨のツイートをしていたが、何をいまさら。かまととぶってるなら阿呆だし、ホントに驚いたのならもっと阿呆だ。そして恥入ってる分だけ三浦はまだ全然まとも、というのが何とも。

             

             とかなんとか書き連ねても、出来ることが手を洗うだけだからショボい身だ。先週くらいから、公衆トイレの乾燥機がようやく使用中止になった。チン先触った指をさらっと湿らせる程度でブォーンと乾燥機にかける連中に舌打ちしなくて済むようになった。ちゃんと洗え、という個人の心がけは重要なのだが、一方で施設責任者は責任もって乾燥機を止める。ま、そういうことっすよ。とりあえず、この曲でも聞こうか。


            新春緑藍対決

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               アスレチックス×マリナーズの話ではない。

               正月で帰省していたとき、NHKでドキュメンタリーの再放送をしているのを見た。台湾の今、みたいな内容。総統選挙を前にしての再放送なのか、とにかく見ながら選挙の見物に行こうかなあと突発的な旅行の衝動にかられた。が、仕事の都合で無理だった。

               

               よし浮いた飛行機代で初売りだ。と、我田引水の新しい算数思考で、その猊發い振皚疂匱蠅貿濺弔法

               「ロケットマン」を見て以来、毛量と服装の派手さが反比例していくエルトン・ジョンを見習う決意をしたが、その機会がなかった。ようやくの買い物である。だが当たり前の話、常軌を逸したデザインは探すのが難しい。もうかれこれ十何年、無難な服しか買ってこなかったので、真人間の店しか知らん。まあそれでもどうにか多少は背伸びした商品の購入にこぎつけた。おだて上手な店員に上手い具合に乗せられ、かなり上機嫌で帰ってきたが、あらためて自宅で着てみると、ただのチンピラだなこれ。

               

               どうだっていい話だった。

               

               選挙結果は現職の圧勝だった。人口2千何百万で800万票。獲得票数もさることながら、投票率の高さに目がいく。民主主義を諦めてるかのような我が国の低投票率とは比べものにならない。なんでよそ様の選挙に関心が向いたかの理由のひとつは、こういう熱狂をじかに見てみたかったからだ。体験したことがないのでどんなんだろうという素朴な興味である。


               それにしても台湾の緑×藍対決は、左右で単純に分けられないところが面白い。二大政党の民進党(緑)、国民党(藍)のうち、歴史的に保守というか反共というかは国民党の方だが、この政党は同時に大陸側と融和的だ。かつて共産党と戦火を交えた政党であり産経の李登輝好きも知られるところだが、とにかく民進党の方が大陸と対立的である。

               だがその中国共産党と折合いの悪い民進党は、脱原発とか同性婚法制化とか、政策路線としては革新系の色合いが強い。デジタル担当相に起用したのが38歳のトランスジェンダーというのも話題になった。

               

               杉田生産性が現職再選の祝意をツイートしていて、あんたの生産性発言との整合性はどうなんだと揶揄する反応を見たが、政策的に対立することがあっても当選者には敬意を払うのが民主主義の作法であるから彼女の行為は間違ってはいない。ただし、この人「反中(ないしは反共)」だけのワンイシューで飛びついているんじゃないかと疑われても仕方のない普段の言動であるから、嗤いたくなる気持ちはよくわかる。


               まあ政治的意見の対立というのは、そこの国ごとに色々と異なるから、日本と同じ尺度が当てはまるわけがない。だのに複雑だとつい感じてしまうのは、「尺度」が普遍的な所与のものだと思い込んでいるからだろう。

               いや、こんな話がしたいのではなく、「台湾」というと「親日」という馬鹿の一つ覚えがまず出てくるのが煩わしくて仕方がなく、その反発から総統選挙という現地のでかい出来事に目が向いたというそんだけのことだ。

               俺個人の周囲でも、そういうボタンでもついてんのかというくらい、人との会話の中で「台湾」という単語に「親日」と返ってくることがよくあって、何か腹立つんだよなあ。「あれ髪切ったの、何だ失恋か?」なんかと似たようなうるせーよばーか感というのかね(俺自身は言われたことないから俺が持ち出す事例ではないかもしれんが他に思いつかなった)。ま、選挙にはいきましょうねということで。


              僕たちには何ができるのか

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                 公の場でそれも首相が「天皇陛下万歳」は、ドイツ基準ならアウトだな。新天皇も微妙な表情をしていたように見えたが、ドラフト会議における佐々木や奥川が小池秀郎とカブって見えてしまったのと同じく、こっちの色眼鏡かもしれない。ただ、今上が先代の考え方をもし共有しているのなら、的外れでもないはず。だとすると、我々はリアルタイムで三国志を見ているのかもな。

                 

                 日本の場合はドイツと違って、帝国との分断処理があいまいなまま今に至るから、ドイツと違ってその辺はヌルい。それが隣国とのいまだの軋轢につながっているから、その労力を思うと無駄なコストだ。まあ少なくとも半分はアメリカのせいだろうが。

                 

                 ところでこれのおかげで、万歳の際の掌の向きが、正面向きだと降伏を表すから内向きが正しいとかいう理屈はデマだとネット上で話題になっていた。そういや俺もこの作法は聞いたことがある。なんでも珍しく作者がはっきりしている偽書に由来があるのだとか。まるでマナー屋の振り撒く「本当のマナー」状態だ。ノックは3回が正解で2回はトイレのノックだから失礼、とかあの手のやつ。仮にそうだとして、ノックの目的自体は同じなのだから「トイレと同じ」の何が失礼か、合理性の不明な話だ。

                 

                 閑話休題、万歳作法のデマのもととなった偽書は、おっさん同士の悪ふざけから始まったらしい。信じさせる一定の説得力がある偽書をこさえられるのだから、かなり高度な悪乗りだ。Wikipediaの記述しか読んでないけど、わざわざ国会図書館にまで行って太政官布告を閲覧して模倣したとあるから、デザイン屋か映画の小道具係でもメンバーにいたのかね。

                 

                 俺が学生のころ、仲間内で「将来、『すごいお父さん講座』を開こう」と冗談めかして語る男がいた。将来おっさんになったころ、各自それぞれの道でそれなりに専門の素養を積んでいるはずだから、それを共有すればみんな「すごいお父さん」になれると、そんな話だった。そうしていざおっさんになり、友人連中それぞれ一人前になっているわけだが、実際なってみてわかるのは、教えられる方も大変なら教える方も面倒なので共有がなかなかに難しいという事実だ。まあそれはさておき、我々だったら何ができるのだろうと、この万歳の偽書の顛末を読んで想像したのだった。

                 

                 友人連中の進路は、メーカー、金融、県庁と色々だが、いかにも「すごそう」な特異な分野だと、陶磁器の専門家、国文学の専門家、現代美術の専門家、ジャイナ教の専門家、がいる。彼らの力を結集してどんな悪ふざけができるというのか。やけに難易度の高い三題噺だなしかし。特に最後のヤツ!

                 そういう俺はというと、いろんな大学の喫煙所がどこにあるのかを知っているくらいっすかね。そして多くが「法律が改正されたのでそのうちなくします」と通告しているので、もうじき役に立たなくなる専門知識である。というか元々役に立たない(ジャイナ教の禁欲主義と何か結びつかないかつい考えてしまった)。

                 

                 お前は演技が出来るんだからだます役目だろう。いやいや「犯人は元演劇部だったので、この程度のウソ泣きはお手のモノだった」というのは安易な種明かしの定番だが、演技ができても人はだませんよ。巧い人ならできるのか知らんけど、だますのに要るのは演技力より悪意の濃度でしょうよ。

                 

                 いやしかし、「偽書」の流れで「だます」を前提に考えてしまっていたが、別に人様をだまくらかす必要はないのではないか。と思ったが、専門知を用いた悪ふざけに「だます」以外が思いつかないのだった。


                「書きたくなる〜」その後のその後

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                   台風の日の続き。実のところ季節の変わり目、体調もあまりよくなかった。なので予定がすべてなくなったが、代わりにしたことといえば自宅でテレビを眺めるくらいだった。特にNHKは、内閣改造にかまけていた15号のときとの温度差が物凄い。見ながら「共犯者たち」で書いたことを思い出していた。

                   簡潔に繰り返すと、見たくない(見られたくない)ことから統治者が目を逸らし、逸らしていることをバレないように報道を統制すると、結局一般市民の誰かが死ぬ。そんなような話。そして不幸なことに、死んだ人はしばしば、深く顧みられることはない。ただアンラッキーだったと思われるだけだ。そういう犇θ鉢甦愀犬鵬鍛瓦靴討い訶澄⊆分らの存在意義にかかわる大変なことだが大して自覚もないだろう。

                   

                   その後、台東区が避難所に来たホームレスを追い返したことがニュースになり、情報番組で芸人が垂れたコメントがまたニュースになっていた。芸人のコメントがろくでもないのはこの小木に限ったことではない。どちらかといえばテレビはいい加減そのリスクを真面目に考えろという話なのだが、リスクだと認識していないのでどうしようもない。小木のコメントに賛否、といったぬるいニュースを流している媒体も同様。

                   出演者選びに何ら熟慮を感じない安易さ(芸人に限らず、学位はあるかしらんがそいつはただの業者だいい加減気づけの件など)と、第三者ポジションに逃げることで片方の妥当性を大幅にかさ上げする浅はかは、ここ何年か枚挙にいとまがない。これもまた安保法制風にいうと存立危機事態だがこれまたどうせ自覚はない。


                   それで昨年に引き続き、今期も情報宣伝媒体産業を進路の一つとカウントする学生相手の講義が、ぎりぎり申込人数が足りて開講となった。日本社会の貧困化が進展する中で仕事があるのはそれだけでありがたい。普段相手にしているのとは多少なりとも毛色の異なる若人と接する機会も楽しいものである。しかし一方で、以上のような状況につき、正直困ってしまう。

                   

                   この危機的状況だからこそ、と火中の栗を拾いに来る学生などいるわけもなく、十何年前に相手をした若人たちと変わらない素朴な憧れでもってやってくる人ばかりが相手だ。ちょっと待ちなさい、くらいは言いたくなってしまうが、どこまで言うべきかという問題が悩ましい。要するに、下に書いているのと同じような話だ。

                   

                   就職活動ではしばしば、そこの業界の課題とか問題点とかについて自分なりの考えを示すことが求められることがあるから、批判もときに有効ないしは必要なのではあるが、それとて賛意をベースにした範囲内の話だ。家が古くてガタが来てるくらいなら、リフォームの話にも意味があるが、地盤が沈下してたとしたら意味がない。じゃあしかし業界の問題がひどすぎる場合、どこまで指摘可能なのか。

                   

                   例えば「NHKのニュースについてどう思うか」とNHKの面接で聞かれて「ニュースなんてやってないじゃないですか」とか「解説委員という名でいつまで巫女まがいを起用するのですか」とか答えたら、受かる気はせん。話題としてかなり政治的(社内政治的)な部分に抵触してるから、もっと穏当な物言いでもあんまり変わらないと思う。
                   あるいは上で述べたような目に余るコメント芸人たちについても、指摘したところで意味が通じず頭の固いおもんないヤツくらいにしか思われないんじゃないか。なんせ自覚ないから。だとすると、一応は就職対策だから、受かることに関係のないことに時間を使っても仕方がないという勘定になる。さりとておっさんの責任があるだろ、という話は昨年の今頃書いたしさっきも書いた。

                   そしてもちろん、どのようにすれば学生にもうまく伝わるかという難問がまた別にある。口角泡を飛ばしても、怪気炎を上げることにしかならんから誰もついてこん。こちらは俺の技術の話。

                   

                   まあ、どうしてこんな体たらくなのかの原因のひとつは、当意即妙の要領のいいのばかり採用しているからだと思うから、こんなことで悩んでいる意味はあまりない。余計に着地点が見当たらなくなったが、最初からあるとも思わずに書いているのでこの辺で終わる。


                  台風の日

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                     12日は西国に出張予定だった。加えて夜にバンド練習の約束があり、それに間に合わせるためには仕事終わりで大急ぎで駅に戻って最も早い新幹線に乗る必要があり、そのためには自腹でタクシーを手配しないと無理なので、事前に地元のタクシー会社を確認して…となかなかに慌ただしいスケジュールを描いていたのだが、直前になって出張は取りやめになった。新幹線が止まるというから土台無理なのだが、大学はそもそも警報が出ると休講になる。SNS上では「台風が来て出勤できなくなる恐れがあるので今夜中に出社して会社に泊まれ」等の狂気の沙汰に怨嗟の声が上がっていたが、その点大学は責任があるので必然理性的である。

                     

                     そもそも行く予定だった大学は、土曜は職員が誰もいないので、自分で鍵を開け、終了後に自分で締めなければならない。余談だが、終了後に女子学生がトイレに行くと、施錠の手前、終わるまで待っていないといけないので、これは俺今ハラスメントをしているのではないかと思えてきてしまい困る。

                     

                     話を戻すと、今時の大学は正課だろうが課外だろうが補講を必ずやらないといけないので、休講になると日程調整その他かえって面倒なことになる。正直なところ、警報出ているのに休講せず、学生が誰も来ずに教室に俺一人、というのが最も楽だ。日程調整しなくていいし、不労所得ごっつぁんですになる。だから休講になるというのもあるんだろうな。台風の日に会社行きたい連中も、自分だけ行ってりゃ後はファミコンしてるだけでも給料もらえるのに、わざわざ部下を呼びつけるとは要領が悪い。

                     

                     関西は進路からは逸れている予報であったが、昨年のあの暴風が頭にあるので、あちらこちらで風で吹っ飛びそうなものを軒並みしまっている様子を目にした。で、その日になると風より雨が酷かった。

                     出張がなくなりのんびりスタジオに行けることになったが、しかし、バンド練習はやるのか?土砂降りの中、楽器を持ち出すのも、出歩くことさえ大変だ。ついでにスタジオ側からすれば、我々はまるで豪雨の日に宅配ピザを頼む客のようなものなのではないか。やはりここは中止しようと合意したのだが、途中までドラマーと話が若干噛み合わない違和感を覚えていたところ、ニュースを全然見ていなくて台風の存在を知らなかったとのことだった。そんなことあんのか。

                     まあでも、阪神大震災のとき、目覚めると部屋がめちゃくちゃに散らかっていたので空き巣だと慌てて財布の在処を確認した友人もいたっけか。こいつの場合はあの揺れで起きていないのだからどうにかしているのだが、台風はレーダーだの衛星だのからわかることをニュースで伝え聞くからそうだと認識できるだけなので、確かに情報がシャットアウトされた状態では、今日は酷い雨だなあくらいにはなる。

                     一方で、地震と違って何日も前から来ることはわかっているからまだマシだといえるが、それでもいざ物凄いのが来ると、わかっていたところでどうしようもない部分はいくらでもあるとニュースを見ながら思った。来るとわかっているものが実際来たら想像以上に抗えなかったというのは、想像すると心底ぞっとする。

                     

                     話を戻すと(2度目)、ひと月以上前から決めていた予定だったので、延期にするのは正直嫌なものである。補講と同じく日程のすり合わせも少々面倒くさい。会社員時代は、そういう仕事だったのでしょっちゅう予定が覆り、なんとかバックレようと画策したり、実際トンズラしたりした(地方都市の勤務でも、こまごましたことはそれなり結構あるものなのだな)。

                     なので予定が変わることを嫌う気持ちはよくわかる。よくわかるのだが、若手のボンクラ社員と同じ行状を、50も60も過ぎたいい大人、兼、国や自治体(大阪府)を預かる立場の長が平気でやれてしまう(今回の台風ではなく、昨年のや先般の15号でのこと、大阪の場合は去年の話)というのは、君主制の限界ととらえればいいのだろうか。

                     少なくとも、向いてないから辞めたら?と思う。一応君主制じゃないんだし。災害用の臨時態勢をとにかく嫌うという点、社員に無理やり出勤を命じてくるマインドとも通底しているんだろうな多分。スイッチ押せば電気がつく、の入出力だけで世界が出来ているような認識というか。だから河川敷に建物作って「有効活用」とか、避難所にもなりうる公共施設つぶして売り払って無駄削減とかいう発想になるんだろう。頭の中に平時しかない銭金平時だからな。

                     

                     まあ「予定変更嫌い」ととらえるのはお人よしなとらえ方で、要するに「自分らでどうにかしろ」を実践してるというのはいろんな人が指摘している通り。

                     ニュースを見て思ったのは、東京はやはり災害対策のインフラも地方よりは俄然整っていて、タワマンざまあみたいなことで留飲下げても、地方はもっとひどいからやりきれん。それで「自分でどうにかしろ」に持っていきたいんだから、これはいよいよ日本でもタクシン派が出現するのか。と思ったが、日本の場合は自民党が長らくタクシン派の役割を担ってきていて、今じゃ同じなのは看板だけだけど、看板は同じだからタクシン派なんか出てきようもないか。

                     

                     ところで公務員の採用に当たっては、論文試験があるのだが、定番のお題に「災害対策」がある。最近の学生は多くが「自助・共助」を強調した内容を書いてくる。それが模範解答だと思っているからである。なぜそれが模範解答だと思っているかといえば、元をたどれば政府がそんなことを言っているからで、それを受けて地方自治体も似たようなことを住民にPRしているからであり、そしてさらに「これが模範解答だよ」と無邪気にふきこむ人間が彼らの周辺にいるからである。「自助・共助」は、自分を律し、助け合うことを意味しているから正しく美しい響きがあり、学生の側も受け入れやすい。

                     

                     しかし。役所が掲げる美名の正しさだけに目を奪われるのは最悪死につながる馬鹿馬鹿しく危ういことなのだという認識は、世間知として大事なことだ。危うさに無自覚なまま「これが正解なんでしょ知らんけど」という若人ないしはひたすらに本気で信奉している若人を放ったらかしにはできん。採用試験での有用性はあやしいものだが、大学で大学生を相手にしていると業者に徹するのは小判でももらわんとやれんわ。


                    寿司友面談

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                       出張に行くことになり、同行の営業の人が「せっかくですので」と寿司屋のランチ接待を施してくれた。そしてその人は「大好きだ」というバッテラを注文している。おごってもらっておいてなんだが、この海産を売りにしている町の寿司屋でなぜになれずしだ、と思ったのだが、思っていたのと全然違う物凄いバッテラが出てきた。そして普通の握りに比べ、これがこの店では一番うまかった。飯がぎゅうぎゅうなので腹パンパン。


                       さて某大学の課外講義を受注するにあたり、担当講師と面談したいとの先方の希望により、この日はわざわざ出向いての対面であった。「わざわざすみませんねえ」と営業担当氏は俺に気を遣ってくれるが、わがとこの学生を託すのだから、どこの馬の骨ともわからん講師屋に会わせろというのはまあ当然の反応といえばそう。

                       ついでに俺がよほどのアウト人物でなければ受注は既定路線。俺が受注の成否を決めるわけではないので気楽でもある。逆にいえば、研究者逆境のこの時代、公募にも俺にとってのこの営業氏のような代理人がいてしかるべきなんじゃないかと無駄口を想像した。まあ俺自身も昇給の交渉の際には代理人がいてほしいと思うが。


                       ありがたいことに、向こうさんの担当者とは指導に対する考え方が似ていたこともあり、話はすんなり終わった。予想されうる「俺とは正反対の姿勢」だった場合を想定して受け答えを一応用意をしていたが、出番はなかった。

                       

                       大学教授たち研究者のTwitterを見ていると、就職関連の講師屋が蛇蝎のごとく嫌われているのがよくわかる。それもそうだろうと、我ながら思う。

                       学生の就職活動がシューカツと名乗りを変え利権構造化する中で、俺がこの業界に首を突っ込みだしたころに比べて狷蔚伴圻瓩凌瑤呂阿辰帆えた。俺が行く大学にも、しばしばその手の業者の講演会だのなんだのが開かれているのをよく目にする。そういう業者さんの中には真偽不明の法則を金科玉条詰め込ませたり、ただの企業側の勝手な理屈を世の真理のように説く奴隷商人ぶりを見せたり、そこまでいかなくても猝枠浪鯏瓩鬚覆召蕕擦燭蠅垢襪里珍しくない。これらの行為は、どれもこれもアカデミズムとは相容れない姿勢である。というわけで嫌われる。


                       かような理路や方法論は採ってほしくない、とこの日先方が言うので、もとよりそんなことやったことないですよと返答してそれでほとんど話が終わってしまった。

                       俺がその手の方法論を採らない理由は単純で、そうやって仕上げられた文章なり文言なりを俺が読んだり聞いたりしないといけないからだ。そういう内容は100%全然おもんないと決まっているので、苦痛でしかない。

                       

                       先日も某所で、俺が講義を担当したわけではない学生諸君の面接練習をやることになり、全員見事に雛型穴埋め文で同じことを言うのにのけぞっていた。「主戦場」の市議会のシーンを思い出した。

                       説明会に参加させていただきさしすせそといった、こんな取り繕った内容の話を聞きたい人っているのかね。というのが素朴な疑問。彼らが同じようなことを言うのは、誰かがそう教えたからだろうが、教えた人間は仕上がったものを読んだり聞いたりしたことはあるのかな。5人聞くとガックリ疲れて、10人で後は何もする気がなくなる。以前に、同様の雛型穴埋め文で仕上がった「論文」を百枚読んだことがあるが、あの時は誇張でなく本当に頭がおかしくなりそうになった。これも平気で読める人がいるのかね。いるんだろうな。学生よりもそっちの方が心配だ。

                       

                       若人諸君には、そんな嘘くさい話より他にもっと話すことあるんじゃないのと水を向けると、何だそれでいいのかと楽になったような顔をして武装をやめることも多い。こういうときはひとつ社会貢献をしたような気分になるのだけど、中には「こいつの言っている模範解答は何だろう」と単に視点を変えてくるだけの、当方の意図が伝わらない人も少なくない。さしづめ俺は、一定数には「わかりにくい模範解答を求めてくる人」と受け止められている。なので若人全員に歓迎されているわけではない。

                       

                       補足しておくと、正課の授業がしっかりしている大学(学部)の場合、学生の書く内容もしっかりしているところはあって、そういう点、こちらがどうこう言ってどうにかなる部分よりも、大学生活の中で鍛え上げられている部分はやはり大きく、その点やはり教授連中に分があるとは思う。



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