特別展三国志 Three Kingdoms Unveling Story

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    ミュージアムは撮影可の時代に突入している。まあ本展覧会の場合、本来展示品を所蔵している中国の博物館は総じて撮影可なので必然そうなるんだろう。

     

     さて親戚の用事に向かう前に、上野へ。終了間際の「三国志」展の招待券が俺の手元にはあるのだった。
     休日かつ終了間際となると混雑必至ゆえ、開館前から並ぶことにしたのだが、到着するとすでに「J」の字くらいの列が門の前に出来ている。最後尾に並び読書しているうちに「Z」がいくつも重なる状態になっていた。


     後があるので早めに切り上げようと考えていたが、なかなかに面白くて無理だった。
     展示は大まか3種類に分けられる。1つは日本における三国志だ。「三国志」といっても、史書としての三国志と、フィクションとしての三国志演義があるのはよく知られた話。日本で広く流布(中国でも同じだが)したのは後者で、特に戦後は吉川英治の小説とそれをベースにした横山光輝のマンガ、NHKの人形劇、コーエーのコンピューターゲームあたりが定着に貢献した作品たちであろう。

     このうち、横山三国志の原画と、NHKの人形の展示があった。国立博物館での開催だし、キャッチコピーが「いざ、リアル三国志へ参らん」だから、これらの展示はあくまで脇役で、合間合間のブリッジのような役割として扱われていた。まあそれでも人気は一番ある。実際原画の力強さといったら。特に連載初頭は作者も若いし張り切ってるしで、線の活き活きした様子にかなり感動した。

     人形もしかりで、衣装の刺繍の精緻さはかなりのもの。ある程度定型をなぞりつつ、横山三国志等との違いを出そうという意気込みが、孫権の金髪あたりに出ていてよい。

     

     メインは中国の博物館が所蔵している歴史的文物だが、これが大きく2種類ある。1つは中国における「演義」。三国志の物語は唐〜宋〜元と長い歴史の中で徐々に形作られていったのだけど、「演義」の作者が明の羅漢中ということになっている通り、明代に確立され、清代で中国における決定版(毛宗崗本)が生まれ人口に膾炙した。なのでそれらの時代、フィクションをベースにした絵画が作られているわけだ。


     そこに描かれているのは日本人でもひと目で関羽だ孔明だとわかる姿なのだけど、それ以外のキャラクターも結構わかるもんで、なるほど日本での描かれ方も中国で流布したパブリックイメージを結構なぞっているんだなと思った。例えば呂布のバッタみたいな兜など。まあ当たり前といえば当たり前なのだが。


     残りは、ズバリ当時の文物だ。陵墓等からの出土品で、具体的には食器類や装身具、像、印鑑などである。まさにこれこそ「リアル三国志」の展示なのだが、最も人気がなさそうでもある。実際、後日に「友達と見に行ったら、全然面白くなかったといっていた」と知人の談を聞いた。あれらを興味深く見ていた人の多くは、どちらかというと博物館好きだったり考古学ファンだったりするような人たちではなかろうか。

     

     多くの人にとって三国志は、赤馬髭男の武勇や忠義、羽扇子白装束男の知謀といった、ヒーローたちの活躍が魅力である。中学生のころの俺も、もれなく同じ入口から入っているのだけど、加齢とともに軍人や政治家に感情移入することもできなくなった。自分がこの物語にあまた登場する知謀の士の誰ほどのインテリジェンスも持ち合わせていない現実を思い知るというのもあるし、周囲の上司も「登場した時点で敗北が決定している名前も覚えていない雑魚の太守たち」とそう変わらんことを目の当たりにし割と世間全体がそうだと知ったというものある。

     そうなってくると袁術とかの、全然人気ない勢力に興味がいったり、社会やら経済やら、英雄譚とは別の切り口を知りたいと思ったりする。

     

     なので、漢王朝時代の技術水準とか、弱小勢力のようでいて案外生産力・技術力は高かったらしい蜀漢の水準を窺わせる出土品なんかは見ていて楽しい。

     ただ一番面白かったのは、投石に使用されたという丸い石で、マンガの中でのさんざん出てくるやつの実物というのは、ただの石ながら「ホンマに投げとったんや」と感動する。土佐文旦くらいかとにかく思ったより結構大きい。あと、あまたいる登場人物のうち、唯一当人のハンコが残っているのが曹休ただ一人というのもおもしろかった。まあ曹休といわれても、そういやそんなやついたっけかくらいの記憶度合なのだけど。

     

    改めて写真で見るとシュールな展示

     

     もう一つの見どころは最近見つかった曹操の陵墓の再現コーナー。玄室の感じを柱だけで表現していて、洒落た演劇のセットのようになっている。そこには出土品の白い器が、従来の定説を覆すほど古い時代の「白磁」として紹介されているが、知人の壺先生は「あれは白磁ではない」とご立腹。単に白く塗っているだけで素材も製法がまるで違うとのことなのだけど、まあこのころの「白い器があればなあ」という欲求が、その後の技術革新につながりまるで異なる白い器が生まれるということなんだろう。そういう点では鳥獣戯画にマンガの嚆矢を見るよりはマシなんじゃないかしら。一緒かな。


     覚悟はしていたが、ミュージアムショップは散財の罠だらけだった。何だかんだ理屈をこねても、横山光輝のあのどこか牧歌的な絵は魅力的だもんで、絵葉書だのクリアファイルだのにされるとつい手が伸びてしまう。

     ただ、名場面や笑えるコマとされているのは、SNS上でかなり定型化されている部分があり、本展覧会の商品も、そのネット上のお約束をトレースしている格好。代表格が「待て/あわてるな/これは孔明の/罠だ」と「温州蜜柑で/ございます」。

     それを考えると少々白ける気分もあるので多少のブレーキにはなる。なのである程度冷静に自重してレジへ。げーっ、6700円!(←定番のコマのお約束


    陶器と投球

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       というわけで、中之島香雪美術館「中国のやきもの」展に。
       タイトル通り、中国ど真ん中の展示。こう並べられると、やはり白地に青の絵付けの皿が普通のものに見えてしまうからいい加減なものである第二章。


       陶磁器は、自分が普段使いしているところを想像して欲しくなるものを好んで見ているだけなので、自身の生活とは縁遠いカメや壺の類はあまり興味がわかない。なので、この器欲しいな…、と眺めているだけに終わるわけだが、今回は1点だけ、水差しみたいな茶道具の色がやけに綺麗でじーっと眺めていた。あまりに見入っていたからか、「綺麗よねえ」と隣で見ていたおばちゃんが話しかけてきた。


       これらこの美術館の収蔵品は朝日新聞の創業者・村山龍平のコレクションをベースにしている。展示の中には「川崎重工の創業者が持っていたけど金融恐慌で村山家に所蔵が移った壺」なるものもあって、近現代史のまつわり感が濃い。この時代の財界の人間は総じて中国陶磁器好きなので、この手の展覧会は必然戦前史に並行する。そしてこれもまた「日中関係史」が記すごとく、中国美術には詳しいけど中国についてはよく知らないという事実の現れだと思う。

       

       この村山は先日の「いだてん」に一瞬だけ登場していた。第2部の主人公・田畑を「顔がいい」と採用を決める鶴の一声を言うだけのチョイ役であったが、「第1回の甲子園大会で始球式を務める袴&麦わら帽のジジイの写真」のあの当人としてよく知られていると思う。


       この「いだてん」は半分惰性で見ていたのだけど、萩原健一が出てきたところで「見ててよかった」と思った。遺作になったからこっちが勝手に価値をかさ上げしているところはあるにせよ、何だこの恐ろしい迫力。テレビで俳優を見てかっけーと思ったのはいつ以来だろう。電話で名前を名乗って座っただけの演技なのに、どうやったらこんな存在感を出せるのだろうと考えると、必然、やっぱ無軌道ぶりが要るんじゃねえかとつい思っちゃうよね。でも違うんだな。それが正しかったら、他にもっと格好よくなる勘定になるアウト人生な人間はいくらでもいる。じゃあ何だと言われると、わかるかよ。

       

       半分惰性と書いたが、実のところ最近は割と面白く見ていた。序盤がキツく感じてしまったのは、展開が複雑だとか戦国じゃないとか、模範解答いっちょ上がりな芸能記事の陳腐な分析とは全く別の理由で、単に主人公の金栗四三が好きになれなかったからだ。気が回らないかなり幼稚な人のくせに周りからそれで許されているところが、自分のダメな部分(もしくは会社員時代の同期のK)を思い出してイライラさせられたのだった。

       

       それが女学校に赴任することになってからは面白く見た。スポーツを通じて女子学生を変えていくところは、「コッホ先生と僕らの革命」を彷彿とさせる。そういえばあの映画でも、当時のドイツには「スポーツ」はなく、精神修養的な体操だけがあったとしていて、「いだてん」の肋木教官と同じ情景が描かれている。貴族の息子がサッカーというお下品な競技に興じていくさまや、その父親が激怒して主人公である教師を妨害してくるのも同じ展開だった。


       スポーツはルールさえ理解すれば、どこの国の人間だろうと同じ舞台で戦えるという点で元来グローバルな存在である。勝つためにはローカルを捨てないといけないこともしばしばで、日本式泳法にこだわっていた連中が五輪で惨敗してあっさりクロールに宗旨替えする場面はその一例だ。そして単に競技についてだけでなく、社会の価値観を揺るがすこともある。

       異形の化物扱いされて自己を否定されてきた人見絹江がその才能を開花させていくくだりは、日本人がメダルを取ることとは別次元の意義があり、この辺りのドラマは胸が熱くなる。演じている役者も狼のような鋭い雰囲気を出していてかなり格好いい。ショーケン以外にもいたな。格好いいのが。


       というような、もしかすると啓蒙思想よりも「平等」の理解に役立ちそうな側面があるはずのものが、「体育会系」=上下関係という構図に飲み込まれていったところを見ると、ローカルの価値観侮りがたしである。「美」は普遍的なもののようでいて、明朝の焼物がオスマン帝国に渡ると宝石があしらわれるみたいなものか。

       美術の場合は別に好き好きの話だし、面白がればいいだけのことだろうが、こちらスポーツの場合は、結果生み出されていることが暴行だったりパワハラだったりするからなあ。

       このドラマは日本のスポーツの発展に尽力した人々の物語ではあるものの、だからといって日本の日本のとそこばかり着目するのはスポーツの本義みたいなところからズレてくるのだろう。その点、オリンピック憲章は大事なこと書いてるよね。


      器から宝石を取るこ(トルコ)とはできない

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         「トルコの至宝」という電車の中吊りを見ていた。ヴィルヘルム2世のドイツ帝国と滅亡が同期に当たるオスマン帝国の秘宝的なものの展覧会である。中吊り広告には、大量の宝石をあしらった金細工の写真がどーんと配置してある。

         この手の宝飾品はちっとも興味が湧かない。以前インドの国立博物館に行ったとき、これと似たような宝石まみれの金細工が大量に展示してあるのを見た。そこの部屋だけ武装した警備員がいて、そりゃまあルパンが来るとすればここだよなという金勘定の話としてはわかるのだが、あまり面白いとは思わなかった。宝石自体に関心が薄いからだろう。


         しかし、聞くところによるとスレイマン1世の刀が展示してあるらしい。ただの記号に反応するのはまったくもって幼稚であるが、仕事の都合で京都に行く機会も手伝い、まんまと来てしまった。

         書店の中公新書の棚で、割と長らく表紙をこっち向きに並べてプッシュしている「オスマン帝国」は、買ったはいいがまだ読んでいない。そういうわけで知識もそこそこだが、鑑賞上はあまり関係がなかった。

         

         スレイマン1世の剣は、柳葉包丁くらいのサイズに、大量の金細工をあしらっている。ほほう、これかと眺めたが、よくよく考えると、俺は刀剣類もそれほど好きではなかった。歴史博物館の類にある刀の展示を面白いと思ったことがあまりない。


         女性が多いのは宝石類の人気からだろうか。ポスターに使われている巨大エメラルドをあしらった装飾品は、実物を見ると割と惹きつけられた。そういえば、子供のころ、エメラルドだけは好きだったなと思い出した。百科事典的にとにかく名称を記憶するのが好きな子供というのは珍しくないと思うが、俺もその例にもれず、わけもなく動物の名前や星の名前を覚えたものだ。その一環で、誕生石っちゅうのを覚えたわけだが、なぜかエメラルドだけ気に入った覚えがある。

         なんでだろうと思い返すと、名前がクイーン・エメラルダスみたいで格好いいのと、緑が好きだったからだろう。緑の服を好んだ記憶は全くないが、これまた百科事典的に覚えた世界の国旗の中でイタリア国旗が好きだった覚えはある(緑が格好いい)。

         

         イスラム圏といえば、テキスタイル系も有名であるが、こちらも熱心に見つめている女性が多い。宝飾品と違ってこちらは割と好きな方だが、台湾原住民の刺繍を見たときほどは盛り上がらなかった。流れるような繊細なデザインが多いからか。あとはセデック・バレのせいだな。トルコの歴史にもう少し詳しくなると反応も変わるのかもしれない。

         

         これらの宝物の中で、結局反応してしまうのが陶磁器というのは、完全に友人の学芸員Kの影響である。
         明から仕入れた磁器だ。キラキラの宝物の中で、白地に青の絵付けをした相当に見慣れているはずの皿を見ると、ずいぶんな秘宝に見えるからいい加減なものである。ただし、オスマン帝国の人々はこれだけでは満足できなかったのか、器に宝石をちりばめるカスタマイズを施していて、ついていけない発展を遂げている。

         ここは是非、要らんやろそれ、という純血主義は捨てて、越境する文化のダイナミズムを感じるべきところであるが、うーん、要らんやろそれ、とついつい。


        展覧会続き

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           何度か見たことがあるのでまあいいかと思っていたのが、諸事情でネットの関連記事を見ているうち興味が湧いたのでエッシャー展を訪れた。

           金のにおい(広告屋のにおい)がキツめの展覧会ばかりやる会場につき、偏見がつきまとってしまうというのも、あまり食指が動かなかった理由。展示スペースからグッズ売り場の間の通路に、エッシャー好きを自認する各界著名人からのメッセージが掲示してあって、まさに広告屋のノリといった具合だ。

           写実的な画風かつトリッキーなモチーフが多くて見ていて楽しいため、割と万人受けする人ではないかと思う。なのでこんな脚色いるのかねと思う&「エッシャーが好き」と語る著名人たちに、かつての「ピーター・アーツのファンを公言する内田有紀」が重なってしまいました。

           

           「だまし絵」などとよく言われるが、そう見える作品も中にはあるというだけで、別にだまし絵の作家ではない。展示の大半は風景画が占めている。過去に見たときは、相似形の鳥や魚やトカゲがタイル状に配置されている作品に目を奪われたものだが、改めて風景画の力強さを再確認した。中にはカラーで描いたスケッチと、それを基にした版画の両方が並べられているのもあったけど、明らかに版画の方が草木のの活き活きした雰囲気がふんだんで、木版だから余計、工程を想像できるからぞっとする。

           隣の小学生男子がずっと驚愕の表情で見入っていたのも、小学生だから余計に木版の経験が生々しいのだろう。この前自分が作ったのと全然違うやん、という。これが水彩画だと筆のタッチが違い過ぎるからあんまりピンとこないのではと想像する。

           思いのほか楽しんでしまった。

           

           後日は、縁あってタダ券をもらえたこともあり、京都で藤田嗣治展を鑑賞。まとまった形で見るのは初めてだ。年配の客でエッシャーより遥かにごった返していたのは、京都という土地柄か、それともシニア層には油絵の方が人気があるのか。

           

           乳白色の裸婦が有名な人だが、そのタッチを確立してから後にも色々画風を変えているのは知らなかった。むしろフランスで裸婦をしこたま描いていた後の方が魅力的に映った。この人、女より男の方がうまく描くんでない?メキシコのおっさんとか、帰国してからの魚河岸や力士の絵なんかかなり見入った。習俗を丁寧にトレースしている感じが、アカデミックというかジャーナリスティックというか、とにかくおもしろかった。

           

           アッツ島やサイパンを描いて戦後に戦争協力者と非難されたことは聞きかじっていたけど、こちらも実物を見るのは初めて。どちらも戦局が悪化してからの玉砕を描いた絵で、写実主義のような暗いタッチによる地獄絵図である。これを喜んで陸軍が受け取ったというのも考えてみればおかしな話だ。

           

           帰りに、近くの京都写真美術館でやっていた展示を覗いた。中西建太郎さんいう方が知床で昆布漁師を撮った一連の作品だった。全く知らない世界なので、ドキュメンタリーを見て「へえ〜」となるのと同じ感覚で見た。やっぱ北海道のことって、何にも知らねえんだなと痛感した。藤田が描いたパリの方がまだ近い世界のように錯覚してしまうほどだった。

           

           要するにパリはテレビや映画で見たことがある一方で、知床の漁師(それも昆布)の営みは少しも触れたことがないからに他ならない。解説によれば、担い手がいなくて操業の歴史を閉じたというから、さもありなん。なんだか神妙な気分になった。


          撮影可だった

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             東洋陶磁で開催の高麗青磁の展覧会に行った。最終日にどうにか滑り込んだ格好。友人の壺先生が「行くべきだ」と、「阿部房次郎」のとき以上に目を見開いて力説していたからだった。


             北浜駅の周辺は、かつては配達の仕事でさんざん行き来していただけに、かつての赴任地を久々に訪れたときの感慨を希釈したような気分になる。またもタワマンが出来たんすか。しょうもない街にどんどんなっていきまんなあ。

             

             戦前、日本が半島を統治していた時代に、高麗青磁のコピーを作っていたという史実を辿る展示だった。確かに面白かった。植民地関連は個人的に萌え〜みたいなところがあるんである。このテーマおもろいやないか・・・、と飯のタネを見つけたような気分になるのは、いい展示の証である。よくできた映画とかマンガとか見て、俺もこんな話作ろうとにわかにやる気になる感覚とちょっと似ている。

             

              本展示は、写真撮影可だった。一眼を持ってくるべきだったと多少後悔した。隣の韓国人2人連れが、何事か熱心に話しながらごっついカメラで撮影している。阿部房次郎のときには中華系の客がいて、ちょっと感想を聞いてみたい気にもなったが、こちらはコピーであるから余計にちょっと感想を聞いてみたい気もする。

             

             美術館、博物館における展示品の撮影は、日本ではほとんどの場合禁止であるが、アジアの隣国ではOKの場合が多い。壺先生は保守的なので撮影には反対なのだが、東洋陶磁はそんな彼を置いていってしまったということか。

             

             ところで、写真を撮る場合、作品だけじゃなくて、説明書きも併せて撮っておいた方がいいですよ。有名絵画だったら見る前から名前を知ってる場合が多いけど、工芸品の場合、名前を知らない上、とても覚えられないような学名みたいな名前が添えられているしで。


            阿部房次郎

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               「手の込んだ虫干し」こと「ルーブル美術館展」が大阪市立美術館で開催されている。膨大な収蔵品からポスターに使えそうな有名どころを若干と、あとはそれほどでもないものを借りてくれば一定の来館が見込めるありがたい企画だ。それだけにあちこちの美術館に場所を移しつつ定期的に催されている。

               

               「同じ場所で開かれてる『阿部房次郎と中国書画』の方がよっぽど貴重な作品が展示されている!」と知人が唾を飛ばしながら言うので、そちらに惹かれ、仕事で天王寺方面に行く機会があったので鑑賞することにした。

              中央上部、白壁に黒三角屋根の建物が美術館。その手前の建物群がタリーズその他

               

               市立美術館に行くには、天王寺公園を横切る格好になるのだが、ここはひところに比べてすっかり様変わりしている。公園正面の一角は、タリーズだのスパゲッティ屋だのが軒を連ね、商業施設のフードコートのようになっている。都市公園法が変わってこういうことが可能になったとかで、公共財の切り売りが好きな維新政策の象徴のような場となっているのだ。これが「成功例」とされていて、大阪城公園でも、同じような事業が行われている。在阪民放と吉本が関わっているというからより大規模なものといえよう。「維新」の名の通り、官界と財界に区別がない明治の世を彷彿とさせる。

               

               これを支えているのは、税金で公共財を維持することが「無駄」ととらえる考え方だ。公園は維持費がかかる一方で、遊園地のようにそれ自体が利益を生み出すものではないので、そういう風に見なすこともできる。実際には「みんなのもの」なので税金で維持しましょうという話なのだろうし、この「みんなのもの」というのが「公(パブリック)」ということだと思うのだが、「赤字垂れ流し」に見える人が一定程度いるのは、この理屈が世間にさして根付いていないということなのだろう。

               

               思うに、日本の社会で「みんな」というときの「みんな」とは誰か、という問題が大きく作用しているのではないかと思う。「その駐車、あなたはよくてもみんなは困る」とか外国人ジョーク集の「日本人:みんな飛び込んでますよ」とかに代表されるように、実体のない不特定多数として存在し、何かを牽制したり強いたりするときに登場することがしばしばだ。なので個人が何かをやろうとする場合、「みんな」の前では「勝手な行為」となり、結果公園でやれることは静かに談笑するくらいしかなくなる。だったら美味いものを出す店があった方がいいよねとなって、公園が公園であることに価値を感じなくなっても不思議ではない。


               実際の「みんな」というのは「あれをしたい」「これをしたい」という個々人(あるいは団体)の集まりで、「みんなのもの」というのはそれら個人や団体全員のものということになる。公園よりは公民館の方が想像しやすい。各部屋を、趣味のサークルだの何かの勉強会だのが利用していて、それらひっくるめて「みんな」ということだ。無論、個々の欲求はぶつかり合うときもあるから、適当に折り合いをつけたり、場合によってはルールを設ける必要性も生じる。「他のみんな」に一定配慮が必要なのはいうまでもないことだ。

               

               しかしながら公民館の場合、誰が利用しているかといえば、多くは年寄りか演劇のチンピラで、我々演劇のチンピラは各地の公民館の所在地や利用規定には妙に詳しかったりするのであるが、社会の中核を成す層の利用は少数派である。つまり、多くの人は「みんなのもの」を利用することがなく、勤め人なんかがパブリックな施設に思いきりかかわるのは子供が出来たときくらいではないか。だとすると無駄の塊に見える確率はいかにも上がりそうで、これは結局のところ、色々な意味においての社会の豊かさの話になってくる。俺のような田舎者からすると、都市部の都会らしさとは文化資本が整っていることなので、公園に飲食店が並んでいるのは実に貧相に映るのである。馬鹿っぽい言い方をすると、めちゃダサいんだよなあ。(書いているうちに「みんなのアムステルダム国立美術館へ」を思い出したのでリンクを置いておきます)

               

               俺が学生のころの天王寺公園は、ケッタイなカラオケ屋台が並んでいるという風変りな猝唄岾萢儉瓩行われていたものだった。いいとか悪いとかいう前に、何だこのカオスはと、ただ面食らったことを覚えている。あれらが合法的に小奇麗になっただけじゃないのか、と個人的にはつい思ってしまう。

               

               さて、ルーブルのチケットで阿部房次郎も見れるので、せっかく来たしと、まずはルーブルから見た。王や覇者の肖像をテーマにした展示である。本家からどのような手続きで持ち出す収蔵品が決まるのかわからないのだが、借りれるものでもって何かしらのテーマを考えるのは、これはこれで有意義な企画だと思う。ただ、見に来る側は支配者について知りたくて来ているわけではない。これが例えば「ゴッホ展」のような個人の範疇であれば当該芸術家にそもそも興味があって来ているので、仮に有名どころがなくても楽しめる。


               少し前の話だが、出張で福山に行った際に当地の美術館で「岸田劉生展」をやっていて、時間があったので見に行った。有名な「麗子像」はなくても(むしろ麗子像以外を初めて色々見て知れたので)楽しめた。岸田という個人に関心があったからだ。


               だが「ルーブル」だと、「ゴッホ」や「岸田」に比べて括り方が大きい上にとても漠然ともしているので、結果、有名どこを見て「おお」といいたいだけになってしまう。教科書に載っているルイ14世の全身肖像画なんかは、教科書で見たことがある分「おお」となったが、この手の作品は、工業製品のようなものなので何枚も制作されていて、展示はそのうちの1つということらしい。複数あるとにわかにありがたみが下がった気がしてしまうのは勝手な話である。多少興奮したのはアリストテレスの雁首石膏と、ヴォルテールの素焼き像だった。王者より文人に目がいくのは加齢に伴う趣味の変遷だ。

               

               早々に済ませ、2階への階段を上った。

               

               阿部房次郎は関西財界の大物の一人で、彼が収集した中国の書画の展示である。清朝末期からの混乱した時代、中華の名品の多くが国外に流出したのだが、日本の金持ちもしばしばそれらを買い集めた。特に関西の実業家に多かったらしい。加えてエスタブリッシュメントの面目躍如、結構な目利きも多かったようで逸品も少なくない。強欲一点張りというわけでもなく、民国が落ち着けば返還してよいという保存目的の人もいたようだ。全部「ふたつの故宮博物院」からの丸写しである。あれを読んだ個人的なタイムリーさも手伝って足を運んだというのもある。


               こちらは作家の名前もそれほど知っているわけではないので、教科書や本で見た「あれだ!」というような興奮は特にないのだが、知人が言う通り、圧倒される画力の作品も目立った。筆遣いの技術が相当なものだというのが素人目にもありありわかって楽しい。客が少ないのは明らかなのだが、熱心に見ている人が多く、芸術系の大学の学生なのだろうか、メモやスケッチを取りながらの鑑賞が目立った。これを進めた知人と同類の教授が唾を飛ばしながらレポートの課題にでもしたのかもしれない。

               

               そして毎度思うのが、どうしてこのような高度な文明を誇った狎菴聞餃瓩、近代にはものの見事に凋落してしまったのだろうということだった。
               


              それぞれの行列の処し方

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                 国宝展。紅葉の時期に京都で開催とくれば、津々浦々から老老男女がおそろしいエネルギーで集うというもので、想像通りだが想像以上に混んでいた。母親も生きていれば目の色変えて現れていたかもしれない。列に並び、読書をしてやり過ごすのだが、ページに目を落としていると前が進んだのに気付かずひんしゅくを買うこと必至だ。読みつつも、視界の外で列の動きを察して前進するのだが、前の爺様が悟りを開いたかのように、ぼけーーっと博物館前庭の木々を見ているので、幾度もぶつかりそうになった。

                 

                 中に入ると行列ではなくなるのでカオスになる。とにかく見たいものだけをじっくり見る。元々そういう鑑賞を好んでいるが、こういうときは余計に有効だと思う。ごった返す中で、今のところちっとも興味を覚えない刀剣を見ても体力をすり減らすだけだ。それで見たいものの前でじっくり目を凝らすが、隣にいるやつがだんだんこっちに寄ってくるのが難儀だ。多くの人は展示物の前を等速でゆっくり通過する。そう命じられているわけでもないがそうなっている。仕方がないので適当にやり過ごすわけだが、周りに特に人がおらず一人で見ている人も等速で横移動するのはさすがにどうかね。

                 

                 じっくり見たのは、伝源頼朝像だった。頼朝かどうか疑義が呈されているので伝がつくのだが、もの凄く精緻な絵で感動した。これは頼朝のような超有名人じゃないと釣り合いが取れないと思わされる出来のよさだ。ま、その精緻さゆえに疑義が持たれているようだが。

                 

                 こうしてざっと眺めてみると、イキったことをいうが、結構既に見ているものが多いという印象だった。若いころ、それなりに勉強熱心だったようだ。どこで見たのか全く覚えていないし、「見た」自体も記憶の捏造かもしれないが。なにせ教科書に載っているものが多いから。でも教科書や図録で見たのと、どこかで実際見たのは、さすがに記憶の中では違う種類の手触りで保存されているのだが、ラーメンの一件以来、自信を失っている。


                世界をまるごと作ったり切り取ったり

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                   久しぶりに絵でも見ようかと中之島に「ブリューゲルの『バベルの塔』展」に行った。ブリューゲルという画家の名前よりも「バベルの塔」という作品名を前に出したポスターで「BABEL」の文字が大々的に躍っている。そこにどことなく業者さんの薫りを感じてしまい、あまり食指が動かないまま、それでも諸々の都合も重なって見物したのであるが、意外やだいぶ感動してしまった。


                   聖書の有名なエピソードを題材にした巨大建築物の絵で、建築に携わる人の営みも含めて、偏執的に細かい細かいところまで作り込んでいる。後で見た「日曜美術館」の再放送で、大友克洋は「奥行」と言っていた。大友という人は、自身のマンガ作品で、例えば市街地の全景を書くときなど、やたらと細かいところまで書き込むこれまた偏執的な作家であるが、ブリューゲルの方がさらに上をいく印象があった。何せ細かい。人物が1400人くらい描いてあるらしいが、どれも米粒アートのように小さな小さな造形となっている。

                   

                   この世界を丸ごと一から全部自分で作り上げたようなこの印象は、「マッド マックス: フューリー ロード」を見たときの感想と似ている。相当の大作なのだが、そのくせ画面のサイズは小さいというのがまた腕の良さというのか何というのか。とにかくフィクション屋二軍の端くれとしては、かなりの憧れを持って眺めた次第。


                   豆知識的に面白かったのは、バベルの塔を描いた画家は他にもいるが、彼らは「天にも届きそうな塔」をうまく想像できなくて、3階建てくらいで描いてしまっているということ。人間、見たことないものを想像するのは難しいものなんだな。俺も若かりしころ、札束1つは100万円だと思っていた悲しい過去を思い出した。ちなみに本作の場合、縮尺からの計算上、510メートルくらいだそう。世界を丸ごと創造できるというのは、例えばこういう点に現れている。
                   その他、版画類は別の展覧会でもちらりと見た記憶があるのだが、改めて見ると、線の雰囲気が手塚治虫のように丸っこくてかわいらしく、これが物語調の作風と相まって、おかしみや不気味さやエロスや皮肉をうまく紡ぐんですな。こちらもこちらで群を抜いた質を感じさせられた。

                   

                   勢い、というには少々距離があるが、とにかく勢いに任せてついでに京都でやっていた「パリ・マグナム写真展」へ行った。ロバート・キャパを筆頭とした写真家の有名どころ名を連ねるマグナムフォトの面々の作品を集めた展覧会だが、こちらは残念ながらちょっと退屈だった。複数の写真家の作品を同時に見てわかったのは、アンリ・カルティエ・ブレッソンはやはり写真が上手いんだなあ、という実感と、キャパは下手だということ。いいのもあったが、まるで素人のようななんじゃこりゃという写真もあり、むらっけがひどい。その他印象に残ったのはアバスという人。

                   

                   ミュージアムショップには、創設60周年記念出版という、本のサイズではないアンプのようなでっかい図録が売っていて、ページを開いた瞬間から圧倒された。店員氏から「それのコンパクト版はおすすめですよ」と話しかけられたので、「残念なことに展覧会よりもこの図録の方が遥かにおもしろいです」と正直な感想を述べると、店員氏は渋い顔をして、「みなさんこの展覧会の図録ではなくて、こっちの記念図録のコンパクト版を買っていかはります」と言った。
                   階下でやっていた、こちらも写真展「近代京都へのまなざし ― 写真にみる都の姿 ―」は面白かった。なんだか二重に残念なような。


                   消化不良につき、後日、世界報道写真展に行った。毎年開催しているが、大体は気づいたときには終わっているので、何年かおきにしか見れない写真展である。報道写真なので、鑑賞者が総じて神妙な顔つきになる辛気臭い展覧会でもある。

                   

                   報道写真はしばしば、「そこにいただけ」に価値があるように思えてしまう。例えば今年の大賞は、ロシアの駐トルコ大使が警察官に殺害された直後の写真であるが、その決定的瞬間にその場にいてシャッターを切っただけ、とつい思ってしまう。シリア関連の写真も同様で、現場に行っていること自体はものすごく大変なことではあるが、そこに「行った」以外はシャッターを切っただけ、と見えなくもない。だが実際には、現地にいてカメラを構えただけでは、思ったような写真にはならないものだ。京都で展示していたキャパの写真の何枚かはまさしくそれで、わが身にもいくらでも覚えがある。別に戦場その他、殺伐とした場所に居合わせた経験などないが、観光地でもいくらでも起こりうることだ。その場の様子をしっかりまとまった写真として捕らえられていることが、スキルだったりする。

                   

                   そうはいっても、見る側は、テーマが何であれ、写真そのものとして圧倒されるような仕上がりを期待する欲求があるものだから、もっと驚かせてくれよと自分勝手なことを考えてしまうのだけど。

                   

                   隣では朝日新聞の東日本大震災の写真展をやっていた。そう変わり映えしないはずなのだが、何かが違うと感じてしまう。「それは被写体の違いに過ぎない」という意見を聞いたこともある。インドは写真映えする男女ばかりの13億総フォトジェニック社会だったので、うなづけなくもないのだが、でもやはり何か向こうさんの方がレベルが高いような印象は消せない。日本のプロ野球と大リーグでは、そんなに違わないはずなのに、向こうを見てからこちらを見るとどうにも刺激が低く見えるのと似ていると思った。ま、現場の人間が挑戦的な構図で撮っても没にされている社内上訴部の価値観も大いに関係しているのだと推測するが。
                   


                  明治の有田焼のガイヤの夜明け的な何か

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                     知人が絡んだ展覧会を見に行った。話は今年の初めごろにさかのぼる。「3〜5月ごろにやるから」と聞いた記憶があるのだが、いっこうに案内が来ない。それで当人に電話すると、「ちょうど電話せないかんと思ってた」というのだが、全然別の実に瑣末な要件を語り出す。さらに聞けば、とっくに開催中だという。「君がせなあかん話は別にあるやろう」と、こんこんと諭したわけだが、お陰で今度は乗り換えの詳細な時刻表つきで充実し過ぎる案内がメールで届いた。こうなると、すぐにも行かなければいかなくなる。

                     明治期の有田焼というテーマの展覧会だった。会場に着くと、巨大で極彩色の花瓶がドーンと現れる。「成金趣味」という言葉がつい脳裏をよぎる。陶磁器は生活用品がベースにある。それだけに、我が家に要らんと感じてしまう作品については、賛同するのが難しい。ただ、ふと不思議に思ったのは、筒形の物体に、切れ目なく図柄が配置されている不思議さである。実際に紙を筒形に丸めてやってみればすぐにわかるが、切れ目なく絵を描くのは至難の技だ。これは一体どういうことなのだろう。
                     展示室を巡ると、最後の部屋に、友人はいた。「天井の照明が一個切れてるんだ」と、あわただしく倉庫から結構な高さの脚立を取り出し、劇場の照明スタッフのように作業をし出す。学芸員とはこんな仕事もするのか。全長の長い脚立を、結構乱雑に運んでいるように見せて、展示品の間を間一髪ですり抜けさせる巧みなハンドリング。NHK「プロフェッショナル」のごとく、ピアノの一音がポーンと鳴る場面である。

                     そうして一仕事終えた彼は、「じゃあ最初から」と、巨大花瓶がドーンの部屋へ俺を連れ戻し、マンツーマンギャラリートークが始まった。
                     明治の有田焼は、金持ち白人にウケるため、重厚長大な作りとなっている。成金趣味は、今風にいえば、ニーズをつかんだ経営努力というやつなのだが、結果、研究対象としては、これまであまり興味を持たれることがなく、まとまった展覧会はこれが初という。つまり、「成金趣味」という受け止め方は、研究者の間でも結構そうだったということである。友人は、この従来の価値観に反旗を翻した格好である。「成金趣味」を擁護する側がパンクロッカー。ねじれ現象を起こしている。同時に、「成金趣味」と思った俺は、実は保守層だったということになる。

                     友人は早速「これのすごいところは図柄に切れ目がないことだ」と俺の疑問を、聞いてもないのにさらりと口にする。聞けば、世の中には、明らか切れ目の部分で模様に辻褄を無理やり合わせている精度の低い作品は珍しくないとのこと。つまりそれほどこの花瓶は高い技術力で生み出されているということだ。基本的には江戸期の技術の蓄積によるものだろう。江戸時代の日本は様々な分野で高い技術力を持っていた。ただし、それを普遍的な科学理論にまで開花させることはなかった。この惜しさが、今の日本にもつながっているように思える。

                     くしくも俺は、明治関連の書籍を読んでいたところだった。定着していない覚えたての知識を整理するように、友人の説明にふんふんと頷くわけだが、その反応がよかったのか、彼の弁はさえわたり、熱を帯びてくる。展示室の隅にいる、黒服の監視の女性職員からは、「あいつ理解せんと頷いてるで」と思われているのではないかという猜疑心もむくむく。

                     派手な花瓶は、そのうちブームが過ぎ去り、欧米人にちっとも売れなくなる。変わって地味で洗練されたデザインに移行していく。同時に、欧米から伝わった手法も取り入れ、オルタナティブな発展を見せていく。商魂の逞しさと表裏の柔軟さというところか。とにかくこれは、文化であると同時に産業なのだった。その、売るための必死さというのはなかなかの感動があった。
                     彼の専門家たる専門性に舌を巻き、「さすがやな」と言うと、「オタクやもん」と、居直り気味に彼は即答した。


                    自分で行っておいて何だけど

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                       空いた時間の利用の仕方として、展覧会に行くくらいしか思いつかないのは、発想が貧困なのか豊かなのか。大学の友人のマツオカは、未だに学生のころと同じノリでよく知らないブランドの変な機能のついた服を嬉々として買い求める若い男なので、東京出張ともなると「忙しーてしゃーない」らしいのだが、俺にはそんな元気はない。

                       それで数ある展覧会の中から、最も金の匂いがドギツイ印象のある「建築家ガウディ×漫画家井上雄彦」を見に行くことにした。会場が六本木ヒルズというこの先も全く用事のなさそうな場所だった点が大きい。毒食らわば皿までである。

                       いざ訪れてみると、こういうわが身には縁遠い場所に来るのも、たまには大事なことだという気分にはなる。年がら年中祭りみたいな場所だから、そういう浮ついた空気は何だかんだで気分を楽しくしてくれる。

                       展覧会を見た感想としては、やはり悪口的なものが先に立つ。書いても仕方ないので、悪口以外を。
                       ガウディが書いた、建築物の正面からの図面を見るにつけ、建築というのは、紙の上でデザインした形には、誰も見ることができないのだということに気付いた。直角にデザインしたものも、実物はデカいから、遠近による歪みを通してしか見ることができない。だから何だという話であるが、それは一つの発見だった。

                       もう一つは算数との親和性で、建築が算数とくっついてんのは、床や柱が崩れないようにという基本の点からいっても当たり前なんだが、この人の場合は、装飾の面でも算数の色合いが強い。
                       こんなことを考えたのも、少し前に、「シンメトリーの地図帳」という本を読んだせいだ。図形の対称性について面白くまとめた内容で、例えばタイルのパターンに潜む数学的ロジックについて明らかにしている。そのタイル文化が発達した国のひとつがガウディの生まれたスペインで、それはイスラム教の影響なんだけど、まあこういう本でかじった小手先の知識を喚起させられ、一人悦に入るというみっともない楽しみ方はできた。

                       そこへいくと、マンガ家というのは、感性とペン先の技術という算数とは無縁の仕事に思え、そこを並列して何が生まれるんだろうというのは俺にはよくわからなかった。やってる当人はかなり楽しかったとは思うけど。

                       というわけで、ビッグネーム頼みの集金イベントという事前の色眼鏡を取り払うまでには至らないまま会場を後にした。階段を下っていると、眼下の広場では、野外ステージが組まれ、満員盛況のライブが開かれている。特徴的な格好のせいか、遠目にも(かつおっさんたる俺にも)それがナオト・インティライミだとわかったが、窓際に立つ係員が「立ち止まらずにお進みくださーい」とうるさい。こちらにすれば、豆粒みたいにしか見えないステージ上の人間が、テレビで見たことがある人だったので、へえーと思っただけに過ぎないわけであり、そういう人がこうやってフツーにライブしているのは、やはり場所柄だけのことはあるという感心もあったのであるが、係員の役割を筆頭に、この、何ていうのかしら、空気にも料金を徴収するようなこのノリが、「集金イベント」という穿った見方がいつまでも残り続けた理由だと思った。


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