行ったのはちょうど半分7つほど

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     知った猝襪療広瓩僚性から電話があって呼び出された。俺の故郷のミニシアターで広報を担当している若人が来るという。「あんた同郷やろ、おいでおいで」。巷間いう「飲んで応援」を一切やっていなかったし、よい機会だろう。

     

     十三駅の横丁を通り抜けていくと、概ねどの店も開いていて、概ねどこの店も狭苦しい店内に酔客が溢れている。中にはカラオケに興じている店もあり、第2波の既定路線ぶりを確認させられた。マスクして歩いているのが実にばかばかしくなる。

     くだんの店も、狭い店内、俺と店員入れて全部で6人。ドアを開け、多少距離を取っているとはいえ、酒を飲みながらデカい声でそれなりの時間話すのだから、まあナンセンスだ。


     その故郷のミニシアターについては、館長を主人公としたドキュメンタリーを見たことがある。名物館長が急逝して、俺と同世代の息子が後を継ぐことになるのだが、自身は東京で会社員をしている上、映画館経営専業では全く食えないので二足の草鞋になる。会社はある程度理解を示してくれているのだけど、有給を使い切ってさらに欠勤をするから給料も減るし、行ったり来たりも大変だし、何よりこの中途半端な具合は自己嫌悪にもなるというものだ。妻が理解を示してくれているからどうにかやれているといった様子である。


     番組の中でははっきりとは示されていなかったが、この館長はそれほど映画マニアというわけでもなさそう。会社員やってて子供が幼いと、仮に好きだとしてもなかなか見に行くのは難しいだろうしで、廃業を選んでも誰も責められん。当人にもその選択はちらつくのであるが、ミニシアターの常、客層が濃いからその熱烈な思いに触れるとそう簡単にやめますわとも言えず。「決めれない…」と自身の優柔不断を嘆く様は、そりゃそうだろうと好感を持ちながら見た。結局決めないし、現在もその状況のままらしい。ま、それでいけてるんならそれでいいんじゃない。


     それで店で紹介された広報担当氏も、生業は別にあってボランティアのような格好で勤めているといい、ここの店の店主が十三の良心・第七藝術劇場の広報をしている縁で、たまに関西の劇場めぐりをする際に店に寄るとの由。

     

     かのメトロという映画館は、子供時代の俺からすると「ようわからんつまらん映画をやっている場所」だった。親がタダ券をもらったとか、そういうときに何の作品かもわからず行って、特にいい印象もなかったくらいの記憶しかない。
     大学生になり、そういう映画館で映画を見る行為は「格好いい」のだという価値観を知ることになる。当初は単なるスノッブ気取りだと思っていたが、ハリウッド以外にいくらでも面白い映画がある事実をやがて知った。都会と田舎の文化格差を痛感させられた出来事でもある。大阪出身の連中は、10代にしてすでにスピルバーグやルーカス以外にもいくらでも才能ある作り手がいることを知っていた。

     こうしてようやくメトロの価値を知ったわけだが、アホの大学生なりに当時の俺が考えたのは、早晩あの劇場は経営が立ち行かなくなるだろうから、俺が金持ちになって買い取って故郷の文化を守ろうという野心だった。誤算は金持ちになっていないことだが、そもそもなろうとしたことが一度もないのでなれるはずがない。

     

     というわけで、この広報氏のような地元の志高い面々によって手弁当で担われているのが正解の未来なのであった。そのような映画に通じた同郷人は、俺にとっては「中村優子と実家が近所」というショボ過ぎる自慢話を前提説明不要で披露できる相手であることを意味する。久々にしゃべったなこのくだらん話。

     

     この日は他に、壮年の常連男性2人組がいたのだが、そのうちの1人、中抜き業最大手の元社員の人と、この広報氏が揃いのTシャツを着ていた。我らの映画館を守ろうぜというような英語メッセージをあしらっていて、コロナで営業中止になった映画館の支援グッズのようなものである。「これ背中が最高やで」と店主が言う通り、背中には関西のミニシアターのロゴがずらり並んでいる。


     「これいいな…。ナナゲイに売っとんすか?」と店主に聞くと、電話して聞いてやるという。ちょうど閉館の微妙な時間帯だったので好意に甘えたのだが、スタッフ各位、明日のイベントの準備でバタついていたらしく、めちゃくちゃ恐縮しながら館の敷居をまたぐことになった。
     先ほどの2人が来ていたのは黒色で、これは注文販売のみの扱い、店頭販売は白だけになるけどいいですかと言われ、全然問題ないっすと平身低頭。サイズはLですかといわれそうですねえと返答したが、見せてもらうと妙にデカい。すんませんMで、とMを購入したのだが、それでも世間のMより少々大きかった。

     こういうミニシアターで、特に社会問題系のシリアスな作品を見に来る層は、なぜか痩身体型の人が多いから、このサイズだと購買層をちょっとハズしてるんじゃないか?と要らぬ心配をした。

     

    そのうち黄ばんだら、こんな具合に染めるつもりの染屋しぐさがすっかり定着。


    動くから動画

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      こういう何の面白味もない写真も、「紙芝居」の背景としては使いやすい

       

       動画作成が続いている。結局カット割りに手を出してしまった。一人で自分を撮影しながらカットを割るので大変に面倒くさい上「授業のビデオ」には本来、何ら必要性がない。それでもやる正当性はどこにあるかというと、学生は同じような授業動画をたくさん見てウンザリしているだろうから、少しくらいおかしな凝り方をしたものがあってもいいのではないかというおせっかいである。2文字でまとめれば、趣味だ。

       映画においては「カメラを止めるな!」にしろ「1917」にしろ長回しが重宝がられるものだが、カット割りはやはり楽しい。断片が意図した通り(たまに当初の意図とは違って)つながると、一人で「お〜」なんて言ってる。

       

       イメージしたのは永谷園のCMで、ちょうど動画が上がっていた(下参照)。別に飯を食う様子を撮ったわけではないが、こんな具合に短いアップのカットを細切れにつないで何かに集中している様子を表した映像。もちろん一人でやっているので、自分を撮っているカメラは動かせないが、最後の電話に張り紙をするような、手だけのカットだと手持ちで撮れるので動かせる。

       作ったのは1分もないが、撮影と編集で何時間かかったのやら。自己満足程度には仕上がった。少なくとも初めて撮った自主映画よりも断然うまく作れているから、おっさんになっても成長を実感できるなんてすばらしいじゃないかい。


       一方、別のところで制作した方は悩ましい状況になっている。講義の資料をPCに表示して喋りながら画面キャプチャで撮る紙芝居動画である。美しいわけでもなんでもないおっさんがただ動いている映像を見るより、文字情報が板書のように映し出されている方が学生にとってはよいのではないか、撮影する方も、場所や服装、髪型を整えなくていいし、と思っていたが、こちらはどうも視聴率が悪い。

       

       理由は不明であるが、自分がカメラに向かって話している映像と、文字資料だけで話している映像とを見比べると、前者の方が見入るような気はする。クモと一緒で、人間も始終動くものを見ていないと根気が続かないのかもしれない。演劇人の中にはしばしば、舞台が映画より秀でている部分を尋ねられても「ライブ感」としか答えられない人がいるものだが、もしかするとこれがライブ感というものの正体かもしれんな。文字<動いているおっさん<目の前にいるおっさん。


       そういえば15年ほど前に、アナウンサーを目指す学生の授業を担当したことがあって、そのときに「ニュース番組はニュース素材をつなげれば出来上がりそうなのに、なぜスタジオにアナウンサーを据えて喋らせるという型式をわざわざ採るのか」と尋ねたことがある。ろくな回答はなかったが、聞いている俺もよくわからなかった。今答えを見つけた気もする。

       

       しょうがない、では再びセッティグして俺を撮るか、と思ったが、こちらは3時間もある。無観客の教室で授業収録というのはいくらでもやっていることなのでやれるはずなのだが、黒板もない自宅で撮影者もいない全くの一人でちゃぶ台を前に3時間講義をするのは無理だ。やり始めて5分くらいで痛感した。とてもじゃないがもたない。ついでにカメラの電池ももたない。

       

       これでは撮影だけで3〜4日もかかってしまうから、あきらめて紙芝居に戻った。しょうがないので変化をよりつけるためにさらに枚数を増やす。挿絵的に写真でも添えたら色がつくんじゃないかと写真を探し出すと、お、こんなのがあるぞ、とか、あれ?あの写真はどこへ行ったんだ、とかで1日中そんなことをしてしまった。何やってんだか。

       

       ところで「え〜」と「あの〜」を切る作業が面倒くさいので、言わないように喋った。意識すればできるが、代わりにしょっちゅう言葉に詰まるようになった。ライブ講義に復帰できるのだろうか。予想もしなかった不安にも付きまとわれ始めている。

       


      祝祭日

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        ペネロペ・クルスの誕生日なので(この際ついでに北村有起哉も)、和牛券を使いました!


        蟄居・遠隔(4):バケットヘッド

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          昨年末撮影。単に夜中だから閑散。

           

           そうこうしているうちに、Zoomによる授業の機会が訪れた。一度に複数人が参加できるテレビ電話のようなシステムである。講義資料を参加者全員の画面に表示することもできるので、いわば教室のスクリーンにプロジェクターで資料を投影して喋るのと同じような格好になる。


           話題のシステムなだけに、ネット上で記事をいくらでも見る。その際、この記事など典型的だが、こういうイメージ写真とともに語られるので、勝手にこんな状況を想像して臨むことになる。

           

           ところが想像したのと違って、学生諸君は全員マイクもカメラも切った状態で参加してくる。まあ確かに、ゼミ形式の授業ならいざ知らず、聞いてるだけだったらわざわざ己の顔や部屋を晒す必要などない。カメラの加減でかならず景山民夫みたいな顔に映るしな。

           だもんで、現実には、先ほどの記事の写真にある各格子の中身は、ただの真っ黒にログイン名が表示されるだけになる。それが30ほど並んでいる状態。ちょっと圧倒される。教室に入ったら、学生が全員バケツをかぶって座ってた、みたいな話である。まめな学生だと「山田桃子」だの「Tanaka Ai」だのといったフルネームでログインしてくれているが、大半は「K」とか「5」とか一文字で入室している。名前って存在の確認には大きな役割を果たしているんだなと実感する。

           

           先日、営業のイージー氏とテストしたときは、相手の顔が映っているし、お互い会話していたので何も感じなかったが、このような一方的な状態になって初めて気づいたのは、俺が話す声がモニターから打ち返されるわけではないということだった。ミュージシャンみたいなことを言うが、音声の返しがないと、およそ相手に声が届いている気がしないもんである。そういえば電話は自分の声も受話器から聞こえる仕組みになっている。聞こえてます?と尋ねたら挙手機能でいくつか手が上がったので聞こえてはいるらしい。


           とにかく、こっちからは何も見えず聞こえず、向こうは俺が見えて聞こえる状態(かつ自分の声の返しはない)で講釈を垂れるのはおかしな気分だ。マジックミラー越しに刑事に見られる被疑者の気分がにわかにしてきてそわそわもした。知人によると「そのうち慣れる」とのことだが、マジックミラー越しに見られる被疑者に慣れていいのかという疑問も多少ある。

           

           今回Zoomで相手している学生諸君は、すでに対面の授業で何度か顔を合わせているため俺自身が実存を確認したことがある分まだマシなのだが、初対面の諸君だったらもひとつ余計にそわそわしただろう。この先、そういうシチュエーションも訪れる可能性はいくらでもあるから、やはり慣れるしかないのかも。

           

           こういうけったいな生活がどれくらい続くか不明なのだが、今はまだマシだった、と振り返る未来がチラついたりもしている(例えば今はこうして在宅勤務の大義名分があるが、それがなくなる、とか。ムードと通俗的道徳観だけで対処しているから、反転の可能性はいくらでもあるのでは)。終息の兆しが見えて制限を緩和しようとしている国も出てきてる一方、こちらは周回遅れの対応、という表現でも追いつかないカルト色を強めている。必然、ろくな展望が持てない。


          蟄居・遠隔(3):戦場のカニスト

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            抽象画「gift2020」モリドリアン

             

             こうして出来上がった動画を随時納品していっている。悪乗りしてカット割りを試したり、1人でやると大変に面倒くさい&講義にはおおよそ関係がないことに手を出しかけた。これは無理をしているという話よりも、趣味の話である。当方、自主映画やPVの制作経験アリの身につき、ついつい(久々に貼付けとこ)。詳細を少しも知らないはずの義姉からは「やりすぎないように」と釘をさすメールが来ていた。何でわかるんだ。所詮俺も兄とそっくりということだろう。


             さて動画は編集し終わっても、複数の映像ファイルや画像、音声ファイルがそのソフト上でつながって再生されるだけの状態である。1個の動画ファイルとして成立させるには「ビデオに書き出し」という作業をしないといけない。これが動画の再生時間よりも長くかかる。「レンダリングしています」とのメッセージとともに、90年代のパソコンくらいちょびっとずつしか伸びないグラフが表示される。レンダリング、直訳すれば「書き出し」ということであるが、自主映画を作っているころは、向井の家で深夜まで作業して、レンダリングかけて寝る、というのが定番であった。


             というわけで、レンダリングかけたまま寝るわけだが、日常全く使わない単語につき、こちらもリベックの三脚くらい久々の再会である。ノスタルジーもさることながら、行きがかり上やることになった仕事に、キリギリス時代のあのころ購入した道具と培ったノウハウが合流してくる不思議さを感じてやまない。

             

             まるでベタなアメリカ映画の序盤に出てくる「元相棒の凄腕」である。主人公が、ミッションの遂行にお前が必要だと久々に訪問するも「俺はもうとっくに足を洗ったんだ、勘弁してくれよ」と取り付く島もない、くせに実はガレージのファミリーカーの奥にV12気筒のモンスターマシンを未だこっそり置いていて結局合流してくる、みたいなアレである。


             と、人に言ったら「芸は身を助くってことか」と言われて、このたとえは少々ズレていると気づいた。昔取った杵柄が別の場面で顔を出すのだから、例えば俺が「戦場のピアニスト」ばりに逃亡・潜伏しているところにナチの将校にまんまと見つかり、殺される!となったとき、「何!お前セイコガニの食い方を知っているのか?!」と、この将校にカニをレクチャーすることで命拾いする、みたいなものだな。わかりにくいか。そうか。

             

             で、重要なのは金だ。編集の手間賃は当然のこと主張し、幸い現在依頼がある社については額はともかくいただけたり、その方向で調整中だったりである。「単にいつもやっていることを通信を媒介するだけ、と思われている」といった憤懣が教育現場では上がっているようだが、確かに対面授業と同じのはずはない。

             

             編集だって固定カメラ1カメの素材を単に切ってつなぐだけ、では決してない上、切ってつなぐだけでも結構な手間&たまに微妙なスキルを要求される。手間賃てのはそういうのを軽く見ない敬意みたいなもんだ。そして割とないがしろにされがちでもある。コストカットとかスリム化とか改革とかの名のもとに。する側はタダ乗りだから、やりがい搾取なんて言葉も生まれた。それを無様にわかりやすく表したのが星野源の隣で茶をすする首相の図だろうな。あれがイケると踏んだ側近の判断はどこから来たかといえば、だってずっと社会はそうだったじゃん、てことなんじゃないのかしら。

             

             


            蟄居と遠隔(2):無理すんな

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              想像図

               

               別の業者からの仕事も自宅撮影になった。こちらは授業スタイルにこだわらないので、PCで資料を示しながら解説するのを動画キャプチャで撮ることにした。映画「search/サーチ」と同じような手法である。ちゃぶ台講義と違って、舞台設営もカメラや照明のセッティグも要らないので楽ちんだ。


               デスクトップPCはマイクを搭載していないので、ガンマイクを接続してミニ三脚で固定した。しかしどうも音質がくぐもっている。古くなったのか、PCとの相性のせいか。ICレコーダーで録音してみると、マイクの音声と比べて一長一短である。となれば、両方載せるとしよう。

               Movie Studioは、映像トラックとは別に、もう一個音声トラックがある。BGM用だろうが、ここにレコーダーの音声を載せる。同期を取るには、録音の頭でパン!と手を叩くとよい。針のように鋭い波形がたつので、これを目印にすれば手動でも簡単に合わせられる。今の高額編集ソフトだと勝手にやってくれるらしいが、自主映画を撮ってたころのファイナルカットプロにはその機能がなく、あのとき学習した方法である。ひとりぼっちで自分で自分に拍手でキューを出しているのは実に滑稽だ。


               さて巷のうわさやネットの記事等を見ると、オンライン授業は学生にはすこぶる不評らしい。そりゃそうだろう。動画を通じて見る人々(役者にしろタレントにしろアナウンサーにしろ)の話し方が脳内では標準になっているところに、役者でもアナウンサーでもない教授や講師が話すのだから集中力は続きにくい。ライブ配信型式ならともかく、録画配信の動画ともなると強制力も働きにくいから、退屈して一旦停止しそのまま二度寝、となっても責められまい。


               なので多少なりとも工夫をしようという気になる。まず画面に変化をつける工夫。話すことをいちいち板書するようなイメージで、喋るのに合わせて説明を追加表示したり赤線を引いたりする。アニメーションのセル画を一枚一枚描くのと構造的には同じで面倒くさい。

               

               もう一つはNHKの語学講座を聞いていて思ったのだが、要所要所でのジングルである。1〜2小節くらいの短い旋律でメリハリをつけているのを結構多用している。では作ってみよう。作曲ソフトはバンド活動でたまに使ってきた。作曲の基本はパクリというのが結成時からの信条であるから、既存のジングルを聞いてパターンをいくつか確認し、なんとなくイメージした(模倣した)フレーズを口ずさみながら手探りで入力する。

               

               バンドだとギター、ベース、ドラム、オルガン、ピアノ、この5つしか使ったことがないが、ジングルだともっとほかの音楽の時間に習うような楽器にまで幅が広がる。これはこれで楽しい。「チャラッチャッチャラ〜〜」などと口ずさみながら拍を想像して打ち込むも、てんでめちゃくちゃなリズムになるのは毎度のこと。音感もなければリズム感もない。手探りで拍を伸ばしたり縮めたり、1音上げたり下げたり。よし出来た。うんめちゃダサい。

               

               ふと我に返る。俺は何をしているんだ。友人の警句を無視しておる。なぜ「無理はしない」とわざわざ念じなければならないかといえば、学生のために、などと考え出すと際限がなくなるからで、それで報酬が上積みされるならともかく、そんなはずもないので自分をすり減らして他の業務に支障が出ることにつながる。だから無理するなという話になる。教える仕事をやってるやつは基本的におせっかいなんだよ。

               

               まあとにかくこうしてちょっとでもメリハリをつける装置を整え、いざ自分がしゃべっているキャプチャ動画を見る、というか聞くと、自覚以上に「えー」と「あのー」が多い。間延びする。耳障りでもある。よし、切ろう。「えー」の前後で切ってつなぐ。「あのー」の前後で切ってつなぐ。

               

               これを繰り返しているうち、段々タイムラインを流れていく波形を見ているだけで、間もなく「えー」が来るな、とわかるようになってきてしまった。およそ汎用性のなさそうな眼力が鍛えられている。「えー」の波形は絵文字の肉と似ている。たまに言葉に窮して「え〜〜〜〜〜」と長くなると、店頭に並べる前のバームクーヘンのようになる。「あのー」はキノコを横にしたような形になっている。これらをまるでポリープのようにチョキチョキと除去していくと、多少なりとも話しぶりがスムーズになる。

               努力に対して結果の向上が即みられると、これはもう止め時を見失った大掃除のようにムキになってしまう。しかし我ながら恐ろしい集中力だ。1つのことにここまで連続して集中できる作業は他に思い当たらない。本業にしてたら死んでたな。さして面白くもないのになぜ?

               

               こうして紙芝居型講義ビデオを仕上げていったわけだが、改めて、ラジオパーソナリティの凄さを知った。我ながら素人臭いもっさりした喋り方だ。俺こんな声じゃない!いやそういう話ではない。


              蟄居・遠隔(1):エッセンシャルワーカー

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                こういう壁でもあればね(尾道駅)

                 

                 出勤しなくて済んでいるので、蟄居している。ありがたいことだ。どうしても外に出ないといけない職種の人をエッセンシャルワーカーと英語では言うらしい。身近なところではスーパーやコンビニの店員やごみ収集の人がこれに該当するだろう。謝意を示したいが、無駄口を叩くと飛沫が飛ぶので、レジで「ポイントカードはお持ちですか」の類の質問にも首を振るだけで答えている。まるで愛想がないからなるべく笑顔にしている。まあこちらが社会に対してできることといえばなるべく外出しないということだろうな。


                 仕事は飛んだものもあれば、残ったものもある。いわゆるオンライン講義である。巷で話題のZoomとやらを俺も使うことになるらしい。ノートPCのカメラが初めて役立つときが来たようだ。もともとは「締切に間に合わん!」と、電車移動中でも原稿を書くために買った代物だった。電器屋で店員があれこれ高機能をアピールするのを遮って、とにかく小ぶりで軽くてワードさえ使えればいいから、と棚の端にあった余りもののような機種を選んだのだが、それが今度は「出かけないための装置」になろうとは。

                 

                 しかし、カメラはともかくマイクは使いものになるのだろうか。営業の担当氏は「大丈夫っすよ〜」と、こちらの機種も知らずに太鼓判を押すテキトーぶり。とりあえず近所の電器屋にヘッドセットを見に行くと、案の定売り切れ。厳密にはゲーム用の高級品だけ売っていて、「仕方ないのでやたらと派手なそれを買った」とのツイートを見かけたから、どこでもある風景なのだろう。

                 

                 周囲の使ったことがありそうな知人に聞くと、なくても問題ないとの由。後日、「大丈夫すよ〜」のイージー営業氏とともにテストをすると相手の声が聞き取りづらく、ヘッドホンだけする必要があったが、確かにマイクは何の問題もなかった。ただまだ多人数とつないでいないのでよくわからない。

                 

                 さて自宅環境の諸事情でずーっとほったらかしにしていた自宅のWi-Fi設置をする必要が出てきた。再び電器屋に行くと、一番人気は売り切れていたが、ほかはまだ在庫があって、こちらは間に合った。

                 

                 一方、既に何度か発注元の会社に赴いて撮影した動画配信型式の仕事は、その会社もテレワーク推奨になってきたこともあり、自宅撮影に切り替えた。自前のミラーレス一眼レフによる動画撮影である。以前、郷土料理を作る伯母を撮影した際に編集ソフトも購入していた。当時ほとんど悪乗りに近い買い物だったから当然あれから全く立ち上げていない。こんな出番があるとは。

                 

                 自宅を片付けて撮影できるスペースと角度を整えたが、どうにも殺風景。やはり背景に全集が詰まったデカい書棚が欲しいが、デカい書棚もなければ全集もない。「壁紙 本棚」で検索して出てきた画像をプリントアウトして壁に貼り付けようと考えたが、こんなことに労力を使うわけにはいかない。大学教員の友人はじめ、その他ネット上で見るだけのどこかの大学の先生にも「無理はしない」と言っている人が多い。後日、一様にテレ出演となっている情報番組のコメンテーターたちを見ると、多くが白壁かクローゼット扉前での撮影だった。誰もが似たようなものか。

                 

                 とにかく壁際にちゃぶ台を置いて、押入からLibecの三脚を引っ張り出した。自主映画撮影以来のご登場である。カシャンカシャンと安定感抜群のゴッツイ三脚を立て、お次はレフランプを2発、プラグを突っ込んでオン!そして間もなくプツンとこと切れた。発火しないだけマシとしよう。何せ前科アリ。また電器屋に行き、ランプの玉を購入。こちらは売り切れなし。

                 

                 腰掛けられそうなジュラのケースに入ったVX2000は名前の通りゼロ年代の代物につき出番なし。ずっと小ぶりだがずっと高機能なミラーレス一眼を三脚に装着し、あれ?これ遠隔操作できる付属のリモコンなかったっけ?と思ったら、スマホで操作できるのだった。遠隔のありようはこんなレベルでも変化している。とっくにそんな時代。これも初めて使う機能で、カメラのWi-Fiボタンの在処を初めて知った。標準搭載のマイクの収音力が優れているので、悲しいかな自慢のガンマイクの出番はなし。
                さあ準備万端、撮影スタート、さっそく言葉に詰まってNG、テイク2。

                 

                 こうして撮り終え、ふと気づいた。空の外付けHDDを用意しないととてもじゃないが容量を食いすぎる。また電器屋へ。何度もお世話になります、みなさんもエッセンシャルワーカーですね大変助かります。


                歴史ある爛ンライン授業

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                   溜まったストレスがおかしな方向にポジティブ変容することが稀にある。俺の場合、繁忙期と年度の切り替わりが対応しているので、新年度を実感したいという欲求が後押しして、書店に寄った際にまとめて買ってしまった。


                   買ってないのは、英語、フランス語、アラビア語。ストレス解消と実用性に相性があれば、誰も酒など飲んだくれない。当然英語は最初から眼中にない。大体英語は講座の種類がいっぱいあってどれがどれかようわからん。フランス語はどっちでもよかったが、どういうわけか食指が動かず。昔検定3級取ったからかな。全部忘れたけど。アラビア語はいかにも手におえなさそうなので今回はパス。

                   

                   じゃあ他は手に負えるのかというとそんなはずはないが、ロシア語以外は少なくとも文字にまだなじみがある。
                   ラジオ講座にしたのは、テレビよりも内容が濃いだろうからと思ったからだが、録音する手段がない。通販で検索すると、ラジオの録音機というのは大変に限られた商品しかすでになかった。なのでスマホのアプリを利用することにしたのだが、初回から早速録音に失敗した。原因は判明したので2回目からは順調に録音できるようになったが、学生時代に触れたことがあるスペイン語やイタリア語はともかく、全く知らないドイツ語やロシア語を2回目から聞く気になれない。早速録音が溜まっていく。三日坊主ならぬゼロ日坊主の予感である。


                   それにしても録音の作業が煩雑だ。録音設定のたびに広告が流れるのはそういうものだと思うにしても、テレビ録画のように番組表から選んでボタンで一発、というわけではなく、いちいち手入力なので、これだったらアナログのタイマー録音の方が楽だ。


                   さて、これら7種の言語のうち、大学で習ったのはスペイン、イタリア、韓国(学術上は「朝鮮語」で大学での科目名もそうだったが、南北の対立でそれぞれ「朝鮮語」「韓国語」と呼称しているので当該法人ではいずれの呼称も避けて「ハングル講座」となっている。このため講座内では「この言語では」と表現していて、まるで明らか北朝鮮を指しているんだけど「あの国」としか台詞で言わない「外事警察」の映画版みたいである)。

                   中国語も習ったが、単位を取ったのに「2、3回でドロップアウトした」と記憶の捏造が起こっていたくらいだから習ってないも同然である。ドイツ、ロシア、ポルトガルは全くの初めて。

                   

                   そうはいっても中国語以外も全部忘れてる、と思ったが、やはり若いころに習ったことがあるというのはそれなりに意味があるようで、スペイン、イタリアに関してはある程度「ながら聞き」が可能だった。そりゃ初回は「ブオンジョルノ」とか言うてるだけやからなのだが、それだけでは必ずしもない。発音や文法の超大枠だけは記憶に残っているからだと思う。

                   

                   面白いもので、それぞれの講座は授業の方針が微妙に違う。イタリア語は1週間、同じ会話のやり取りを細切れに学習していくスタイルの一方、スペイン語は毎回違う会話を習う。そしてスペイン語は初回から文法にうるさい(「話し手が女性なので語尾がaになります」などと男性形/女性形にうるさいのであるが、性別にこだわるのはやめましょうという風潮の昨今、どうにも分が悪く聞こえソワソワする)。

                   他は総じて文法はおいおいやりましょうみたいなノリであるが、ドイツ語は発音の規則にうるさい。これはそれぞれ担当講師の方針なのだろうか、それともそれぞれの言語教育界での常道なのか。韓国、ロシアの場合は必然文字中心になり、中国語はやはり「マー、マー、マー、マー」から入っている。


                   そして講座は、日本人の大学教員と、母語としている外国人1〜2人とで進められていくのが基本形なのだが、ロシア語だけロシア人とずぶの素人の落語家との組合せだった。これはやはり「ロシア語界隈亀山郁夫しか人いない問題」の現れなのだろうか。このロシア人が日本語堪能なので、彼女だけで足りるやんとつい思ってしまうが、そこはやはり落語家、話しぶりだけは達者なのだった。

                   

                   さて世間の大学関係者は現在、オンライン授業の模索中であり、俺もその端くれである。そういう立場から聞いてみると、ラジオ講座のこのスタイルはある程度確立された貫禄のようなものを感じるな。


                  江頭仕事

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                     毎年春に某私大で担当している授業について、私は先日の会談で、教室の対面講義という「完全な形」で実施することを主張し関係各位の支持を取り付けることができた。このため、動画撮影によるオンライン授業を提案し、100%の同意を得たため本日、撮影と相成った。「このため」の前後が真逆でおかしな文面になっていると思った人は我らが首相への信仰心が足りない。


                     各大学の対応は分かれていて、開講を延期したところもあれば、この大学のように遠隔での方法を選択したところもある。オンラインにも大別して録画と同時中継の2つがあるのだが、どっちにしたって通信インフラの問題がまずある。テレワークでも、自宅にPCがない会社員が結構いるという話を聞いたが、学生にしても同じ。スマホには慣れていてもキーボードを使わせると爺さんみたいな一本指打法になる若人はそう珍しくない。

                     当然動画となれば、CMでやっている通り「ギガが〜」という事態になるからWi-Fi求めて結局人の集まるところに行く羽目になる。ついでに同時中継は通信が込み合ってうまくいかない旨も聞こえてくるから、社会全体のインフラの話だったりもするんだろう。いや、YouTubeが込み合うから画像を落とすというニュースも出ていたから、インフラというよりは結局は「そういう事態」ということか。


                     その辺の話とは別に、授業を撮影すること自体、イメージよりは厄介だ。最も厄介なのは厄介だとあんまりわかっていない人が多いところだろうな。カメラと撮影対象さえあれば出来上がるわけではない。今回の場合は、会社がカメラにしろマイクにしろ編集ソフトにしろ諸々機材を持っていたので第一段階はクリアだろうけど、ちゃんと撮れる人がいなかったので、三脚に固定したままだった。

                     殺風景な会社の会議室で固定カメラに向かって熱弁振るってたから、アメトーークに出てくる江頭2:50状態である。まあ撮影は難しいものであるから仕方なし。自主映画のとき、たまたまカメラの扱い慣れてる人に手伝ってもらえたときが一度あって、あのときは普段と違ってめちゃくちゃ楽だった覚えがある。


                     そして演者、とつい書いてしまうが講義をする人間。俺自身は劇団主宰の講師芸人につき特段困惑はないのだけど、慣れてない先生方も多いだろう。はいどーもー!今日はマクロ経済学やってみた!とかおどけないといけないのかなどと冗談半分こぼしているどこかの大学の先生のツイートを見かけたが、誰も受講者がいない中で視聴者を意識して喋る際に必要なメンタリティは、本質的には「はいどーもー!」と言っているのと変わりない。


                     俺はというと、カメラを前にして普段の授業より演技濃い目だった自分がいたのは間違いない。映画じゃないのでNGの許容範囲は緩めではあるが、間違えてはいけない事務的な部分で説明を間違えたので、テイク3までいった(要するに同じ箇所で2度間違えた)。ま、誰が読んでいるのかもあやしいこのブログを10年以上も書き続けているのだって、やってることは「無人の会議室で講義」と似たようなもんである。どうでもいいが、教室でこれをやる場合は「無観客試合」と呼ぶ人が多い。


                     そして編集。大学側と折衝している会社の担当氏に、編集段階でこういう画像挿入できます?などと尋ねると半笑いだったので、手間賃くれたら編集やりますよ、と申し出た。そうなればいよいよユーチューバーである。担当氏からは「限定公開なんで広告費入らんすよ」と言われたが。


                     なんせ学生にしてみれば他の授業も合わせて1日4コマ計6時間動画を見ないといけないから、せめて少しは見る気の起こるものにはしたいところである。それでレポートの出来は例年と比べてどうなるのだろうという実験の側面を持っているわけだが、予想では大して変わらんのじゃないかと思っている。悪かったらまだしもよかったら教室の講義の存在意義が揺らぐな。

                     ちなみに中継にこだわる大学があるのは、出席管理の問題で、これは近年文科の指導もあり単位認定における出席の割合が厳しくなっているせい。録画視聴だと必然、遅刻扱いがなくなり緩くなる。これは数少ないイイことかもしれない。

                     

                     とりあえずは連休まで録画ということになっているが、先が見えないのでその先どうなるか不明。最近JRの遅延表示がヒドくて、本来は「5分遅れ」のような表示は見通しを表示するもののはずだが、5分たっても来ないなあと思っていたら「6分遅れ」に変わってて、それでも来ないなあと思ったら「7分遅れ」になって、と、事後報告なら意味ねーじゃん時計見たらわかるぜ、という間抜けな状況をよく目にする。最近あれをよく思い出す。


                    ライブハウスには見るのも弾くのも行けてない

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                       新幹線の利用激減の中、今月は新幹線利用が何件か続いている。行先には、筆記一位で日本語弁論優勝の韓国人受験者を不合格(この日付けより後に出た報道だが)にした大学も含まれる。大学側はその後の一般入試で合格している学生がいると反論して国籍差別を否定しているが、不自然なのは確かで、こうなってくるとこっちも余計なことを考えさせられる。
                       俺はこの大学から受注している業者の下請けであり、来期の発注があるのかどうか知らないけど、あった場合はどーっすっかねー。深沢潮と小学館のような話が二軍文筆屋の俺にも降ってくるとはな。大学側が否定している以上、あんまいえることもないっすけどね。加えて、大阪在住者は封鎖くらうかもしれんから、発注が来ないかも。

                       「どうしてこんな重大事を大手は報道しないんだ」と御立腹の方々もいるようだが、大手の中には在日コリアンを採用してない会社があるからじゃないかな。

                       

                       新大阪駅構内の喫煙所は元から芋洗い状態の混雑ぶりだったのが現在も大して変わりなく、なかなかのシュールレアリスムとなっている。ちょっと前に、例の借金遊び人のプルームテックCMが上映されなくなったので行く意味も半減しているから、回避して吸わずに乗車。タバコが吸えないことより、あれが見れなくなったのは実に残念だ。特に、鼻持ちならないパーティにさんざん顔出した後「一人の時間も必要だ」とバーに行くシーンなど最高だった。「一人の時間」て、お前遊んどるだけやんけ、という、何もしてへんやつほどもっともらしいことを言う真実をえぐっていたもんだ。

                       

                       この日はもう少し遠出。着いたら発注元の会社の担当者から「出席状況はどうですか」と電話があり、ついでに「ライブハウス行ってないですか」と言われた。何日か前にも親父から「ライブハウスに行ってないか」と電話があった。いずれも半分冗談めかした調子だったが、一応俺は「ライブハウスに出入りしている人」と認識されているらしい。複雑な気分だ。見るのも出るのも、ライブハウスはすっかり縁遠くなっているからだ。冒頭の写真ももう3年以上前だ。

                       

                       似たような話でさらに先日のこと。人を集める催事の類が軒並み中止・延期になっている中、毎年忘年会を開いている劇場プロデューサー氏が気になり、劇場HPを確認したら理路整然と通常営業をする旨の告知があった。いかにも氏らしい。見舞いのひとつでも送っておくかと、「よう寝なさいや」とメールをしておいた。すると翌日リンク付きの返信が来て、見れば某劇団の公演を中止にする旨、これまた理路整然とした告知を掲載していた。

                       

                       意気込んでたのに方針を転換せざるを得ない状況になったのは、さぞ悔しかろう。氏がその断腸の告知を掲載するや否や俺から激励メールが来たので、「なんというタイミングで!」と氏は驚いていた。完全に恋が始まるタイミングだな。モテ男しぐさは別のときに発揮したかった。

                       

                       ライブにしろ舞台にしろ、ちっともやっていないので、俺自身は中止にすべきか否かと頭を悩ませたり、中止判断を下してガッカリ&ドタバタしたりといったこともない。バンドのライブだったら延期するだけで済むが、舞台の場合は延期は大抵中止を意味する。ライブのたびに同じ曲を演奏するバンドと違って、舞台は基本的には公演のたびに新作をやる。延期の日取りが決まっているならまだしも、先が見えない場合、いつまでも台詞や段取りを覚えている役者はいない。そもそもスケジュール組みなおして同じ人間が集まれる保証はない。たまたま聞いたラジオ番組で宮藤官九郎も同じようなことを言ってた。だもんで、延期≒中止は廃棄に近い意味を持つ。渦中にいたらなかなかに心理負担が大きい。

                       

                       ま、やってない俺には無縁のことだ。不運と出くわさなかった意味では幸運だが、不運はやってた人間にだけ訪れる。失敗は挑戦したやつだけに訪れる、のと同じような話である。だから要するに俺は土俵に乗っていない、もといステージに上がっていないだけのことであり、それが変に実感されてしまって寂しくもある。ま、感傷に過ぎん。演者はともかく、ハコ側は経営に関わる話だもんで。そういう俺もこの先、仕事どうなんのかな。

                       

                       しかししばらく海外に行くのが難しい状況が続くだろうから、「我らがバンドのライブ@台湾かどっか」もお預けだなあ。やろうぜ言うてるのメンバーの中で俺だけなんだが。



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