ドラマの感想など

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     ドラマを何本か見ている。去年ぐらいからか、姪から「今何か見てるやつあるん?」と聞かれるから、というのが大きな理由。別にたくさんチェックして姪に気に入られようとしているわけではなく、これもひとつのいい機会だろうと思ったからなのだが、習慣があまりないので、すぐ忘れる。今年も終わりに近づき、ようやく何本か見たが、すぐ忘れるので飛び飛びである。


     唯一通年でほぼ毎回見ているのは「直虎」で、これは大河ドラマでは出色の出来栄えではなかろうか。ドラマが歴史に着られていないというか、歴史ドラマというよりは、実話に基づく物語、に近い内容で、これはまあ、史料があまり残ってない題材だから可能だったのだろう。男性中心の歴史の中で、女性を主人公にするのは相当題材が限られる。史料の少ない人物に焦点が当たるのは必然でもあろうが、創作の自由度が高いというだけでは当然の話、傑作は担保されない。若武者に主役が移っても主人公の存在が失速しないのは見事というほかない。あと内輪向けのくだらない話題としては、上地似の役者が毎回出ているのが気になって仕方がない。

     

     見始めると昼メロかよと呆れつつ、つい続きが気になる上手さがどうせあるだろうから、なるべく避けたい池井戸潤のドラマをつい見てしまって、案の定ズルズル見続けている。「陸王」。敵役の、外資大手シューズメーカーのピエール瀧にくっつくいわゆるスネオ的な悪役キャラを演じるのが小藪、というのが本作のベタさを代表していると思うが(もう一つは毎回クライマックスでかかる曲の選曲)、虎の威を借る狐的イヤなやつが目つきの悪い細面ブス男、というステレオタイプは、偏見差別を助長する危うさがあるんじゃねえのかと思ってしまう。実際のところ、この手の薄っぺらいやつは、うさん臭いくらいファッションと髪型にこだわっている何なら見バのいいタイプが多い気がする、というのもこれまた偏見であるが。
     この外資悪役コンビのような口先だけで手の平を平気で返すこれ見よがしの悪役は、いかにもドラマだけの存在のように思わせて実際いくらでもいるものだが、本作を見ていると、結局手元に何もない人間は、これしか生きる方法がないんだろうと思わされる。「才能ないやつはゴマすりを覚えろ」は野村克也の言だが、正確には「手に職も、浮世の理想もないやつは、ゴマすり、恫喝、手のひら返し、とにかく恥知らずになるほかない」ということか。勉強になる。問題は、今の世の中、恥知らずがしぶとく生きていることではなく、恥知らずに「本音の人」などと一定評価があることだ。事実は小説より奇、ってこんな意味だっけ。大企業にいじめられつつ奮闘する中小企業の話であるが、合間のCMが思い切り大企業ばかりなので、CMに入るたびちょっとソワソワする。

     

     「監獄のお姫さま」。クドカン氏の作品は、昔からなぜだか苦手だ。面白くないというわけではなく、嫌いというわけでもなく、苦手なのである。「あまちゃん」で老若男女あらゆる層をわしづかみにしてしまって以降は特に、この人を苦手というのは村上春樹を苦手というのと同じか、何だったらそれ以上、俺の感性がよほどダサいのだろうと思わされてしまう圧迫がある。今作も、やっぱり苦手だ。ちょけているようで、きっちり人とか現実とかを描けているからかなりの人だと思うが。

     会社を辞めて舞台をやり始めたころ、ちょうど彼が注目され出していて、おかげでクドカン風味の出来そこないの脚本をたくさん見る羽目になった。最初に食べたマトンがまずかったせいで羊が苦手、というのと似た構造かもしれない。

     

     「奥様は、取り扱い注意」。これはすごい。よくいえば、ぶっ飛んでる。悪くいえば無茶苦茶。最先端のような、昭和のはちゃめちゃドラマのような。

     メインの登場人物は女性3人。長女、次女、三女的な立ち位置と、次女相当が主人公、というのがまるでキャッツアイだが、この主人公だけほんとにキャッツアイ的な特異な設定で、あとの2人は普通の悩める主婦。こういう場合、全体の演出を、作り話っぽくするのか、それとも日常的な雰囲気にするのか難しいところだ。もちろん二者択一ではなく微妙なブレンドが要求されるのだが、このドラマ、その辺りが今一つノープランのまま作っているような印象で、仕上がりとしてはあかん意味でわけのわからんドラマになっていると思う。結果、重要な要素たる主婦の悩みないしは夫婦のすれ違いがステレオタイプに収まってしまってる。もしかすると結果というよりは、ここの描き方こそがスタート地点なのかもしれないが。

     

     「マチ工場のオンナ」。始まったばかりで感想はさしてないが、「奥様は〜」のせいだろう、父の遺した会社を継ぐと決めた主婦に対する夫の反応が、つまらなく見えてしまって仕方なかった。ま、いかにもつまらんこといいそうな夫、という点ではばっちりの配役だと思うが。

     

     フィクションつながりでついでに小説の話。今年読んだ中で面白かったのをいくつか。

      

     短編集ばかりなのは、根気がないから。大家ばかりなのは強迫観念にかられて。翻訳ものばかりなのは、読んだ日本の作品が有名どころないしはつまらいものばかりだったから。カート・ヴォネガットのは、死後に出た未発表短編集だが、結構おもしろい未発表作品がこんなにあるというのも、大家の場合さして珍しくもない現象かもしれないが、改めて「なんで?」と思ってしまう。
     


    真似ることの深い考察

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       贋作を膨大に描いたフランス人の自伝だ。冒頭警察に逮捕され、取調べの中で半生を語るという構成が「イミテーション・ゲーム」のようだった。こちらはまさしくイミテーションの話だからカブっている。

       

       ろくに教育すら受けられなかった恵まれない育ちの筆者が、様々な出会いを通じて絵の才能を開花させていく出世譚のていをなしている。本書からもにじみ出ているが、魅力的な人なのだろう。そして一旦絵筆を握ると一心不乱に集中できるところが筆者の才能の一つであるのは間違いない。チンピラみたいな連中とつるんで荒れた生活をしている間も、道端で死なずに済んだのはこの才能のゆえだろう。逆に金持ち連中との付き合いが生まれ、自分が何も知らないことを思い知り、必死に勉強して吸収していくところも感慨深い。学校教育の大事さを再確認させられる。当人も言っているが、筆者が充分に高等教育を受けられていれば、同じ画家の道を進むにしてもずいぶん違ったものになったはずだ。

       

       それくらい絵に貪欲でストイックで才能あふれる人ながら贋作者になっていくのだから、有名画家になるのは、ちょっとやそっとの画才ではかなわないといえる。ただ、本書のおもしろいのは、贋作を作り始めてからの方が当人が活き活きとしている点だ。

       

       当初この筆者リブは、画商の求めに応じて、風景画をメインに描いていた。売れ筋の綺麗な風景を器用に描けるだけでなく仕事も早い。画商にとってはありがたい存在だ。このため仕事依頼はじゃんじゃん来て食うには困らないが、描きたくて描いた絵ではないから画家自身に醍醐味はない。絵に限らず、色んな世界でいくらでもある話だ。依頼に応じて書いてほしい種類の原稿を速攻で書き上げられる人は、編集側には重宝する存在だから仕事は来るが、結局便利屋扱いで終わってしまう。米澤穂信 「満願」にもそんな話があった。

       

       こうしてリブはストレスを溜めていくのだが、その後に手を染める贋作の世界ではこれが全く逆になる。発注元は筆者を尊重して「描きたいものが描けたらもってこい」というスタンスなのである。このためリブは思う存分制作に集中することができる。描くのは贋作だから、有名画家の真似をするという「自分のない」作業であるはずが、爛リジナル瓩良景画を依頼されていたころより自分の好きなように取り組めるのだから皮肉だ。

       

       どうしてこうなるかといえば、贋作の場合、ピカソやマティスとしての値段がつくから、1作品あたりの値段がそれまでの風景画より格段に高いことがある。そして生半可な出来ではバレてしまうので、魂込めたオリジナルと同じ熱量を込めないと本物と誤解させる贋作は作れない。というわけで制作環境がぐっと恵まれるのである。何という矛盾か。

       そしてリブの手法は、ロバート・デ・ニーロの演技論がごとく、当人になりきるというアプローチだ。作品や経歴を資料をあさって吸収し、本当に演技がごとくなりきる。そのうえで、コピーではなく、未発表だか未発見だかの別の作品を描く。なのでサインがなければ、ただのオリジナルである。なので、彼の行為は「オリジナルとは何か」「絵の価値とは何か」という難しい問題を突き付けてくる。リブ自身も本書の中でそのような問題提起をしてくるが、ただし、古く見せるための偽装工作を施したり、完成後は証拠になりうる画材や資料を全部捨ててしまう隠蔽工作もしているので、ちょっと説得力は低い。ただ、パクリとオリジナルは、そんな明確な線引きが出来るものではないという、パクリ騒動が出るたび色んな人が指摘していることのわかりやすい例だとは思う。

       

       面白かったのは、リブが藤田嗣治の贋作を作ったときに、調子に乗ってサインを漢字にしたら、その漢字が微妙におかしくてバレてしまったというくだりだ。ピカソが描く一見単純な三角形が死ぬほど難しいと神経質にもほどがある模倣を突き詰める男なのに、漢字はミスするというのはこれはどういうことなのだろう。文字も図形の一種だといえるはずだが、図形とは違うものなのだろうか。その点あまり言及がなく、ただの笑い話としてサラっと終わっていたが、妙に気になった。

       

       このリブの不幸は、発注者の死によって制作スタイルの変更を余儀なくされた点だ。別の業者と付き合うことで、今度はただのコピーの乱造を要求されることになる。風景画の時代に逆戻りというわけだが、風景画と違って明らか偽物を作っているのでおそらくストレスは倍か二乗になる。皮肉を超えた皮肉である。結局捕まったときに「これで助かった」と思うほど精神的に追い詰められてしまうわけだが、一口に贋作といっても色々あるというのは、あれこれ考えさせられた。そしてピカソでも藤田でもなくリブ自身が描いた作品だと初めて明白にされての展示が、裁判での証拠開示の場だったというのも泣ける面白さである。

       加えて有罪確定で全部失った、と思わせておいて、彼のスキルが意外なところで合法的に活かされるラストも、人真似とはなんぞやを突きつけている。活字がデカいので、タイトルだけのスカスカの本かと思ったが、中身はかなり濃かった。


      学際的調査、病原菌、政治

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         「地上最期の秘境に眠る謎の文明を探せ」という副題がついている。まるでクライブ・カッスラーの邦題か、ルパン三世のタイプライター風タイトルのようだ。なんともB級感が漂うが、実にマトモな内容だった。NHK出版のセンスはどうなっているのだと思ったが、改めてNHKスペシャルのタイトル一覧を確認すると、まあまあこんな風味だったから、これがテレビドキュメンタリー的センスなのかと腑に落ちた。


         中米ホンジュラスの未踏の地に存在すると長年言い伝えられ、かつ諸条件で調査が困難過ぎてまだ誰も成功していない遺跡を調査するノンフィクションだ。ジャンルでいうと考古学である。考古学というのは時に、あらゆる学問を総動員するようだ。本書の内容は学問の総合商社である(古い)。

         

         まずは兄弟分の歴史学。過去にこの秘境を調査した人々の足跡が序盤に紹介されるが、今回のような「探検」を伴う調査の場合、学者よりも冒険野郎の方が目立つ。そしてその冒険野郎の手記が、嘘だらけ(というよりほとんどただの冒険小説)だったりする。歴史の史料に誇張や隠蔽などの嘘は付き物とはいえ、冒険自慢と一攫千金がつきまとう分、怪しさは何倍にも増えるんだな。探検そのものの歴史より、サミュエル・ザムライという人について触れた箇所がおもしろかった。検索したら、こんなビジネス記事が引っかかったが、自分の商売を危機を打開するため、ホンジュラス政府を転覆させている化物みたいな人に、会社員がなんの教訓を学べというのだろう。

         

         密林の奥地へと入っていくから、動物の生態学というか、護身術というかが要る。密林には毒蛇だの毒虫だのがいて危険なのだろうとは知っているつもりでも、改めて読むとぞっとした。「山道を行くときは、マムシがいるのでゆっくり音を立てながら進むと噛まれません」などと習った記憶があるが、まったく役に立たなさそうだった。この教えが間違っているのか、それともヘビの種類が違うからか、とにかく本書に登場するヘビはデカい、強い、好戦的。虫も猛毒揃い。でも、少なくとも何百年も人が入った形跡がないいわば「手つかずの自然」に分け入っていくところの記述はちょっと感動した。色んな動物の音でとにかくうるさいという記述が印象的だった。想像すると怖いが。

         

         ここら辺はでもまあ想定内とはいえる(想定以上ではあるが)。
         本書の特徴は、最先端のテクノロジーが登場するところで、工学部系の話も出てくる。密林に覆われて上空からは緑しか見えないその下の地形をスキャンする話が序盤のクライマックスである。上空から電磁波を当てて計測するのだが、照射した光が葉っぱを通過するわけではなく、葉っぱの間を運よくすり抜けたものだけを拾い出すという、それだけ聞くとアホみたいに単純な方法が面白い。ただし機械の精度がものすごく優秀でも、飛行機をうまく飛ばさないとキチンと計測なようで、高度な操縦テクニックが必要になる。

         

         このため、密林の奥地に潜む謎の遺跡を探す、という事前のイメージと、狠妓´瓩離掘璽鵑呂△泙蠶爐蟾腓錣覆ぁC翦廚燃笋斑擦終わる。事前の調査がしっかりしている上、危険地帯なのでなるべくヘリで接近するため、密林の移動時間は限られているからだ(ついでに以上のような事情で予算がかかるので長引かせられない事情もある)。そうした調査の結果が、他の考古学者から猛烈に批判されるのも興味深い。「未開/文明」という一方的な価値尺度や、調査という名前の墓暴きに満ちていた考古学はとっくに過去のものとなっていて、色々とあり方が変わっているようだ。その批判の急先鋒は、実のところ政権が不安定なホンジュラスにおける政治背景が動機付けに含まれているから、余計にややこしい。ついでにこのような不安定な国での調査だから、交渉事にはしばしば裏技が必要になる。それを一手に引き受けるフィクサーのようなあやしげな男も登場するのだが、考古学調査には冒険野郎の狡知・世間知もいまだに必要だということらしい。これは学問の範疇ではない。

         

         そして後半は意外な展開を見せるのだが、学問の分類でいえば医学が大きく顔を覗かせるのであった。バイオホラー的な怖さが漂う恐ろしい展開だった。まさに「銃・病原菌・鉄」である。巨視的に見れば、人類の歴史は病気との戦いであるということを体験ルポ的に現した内容で、遺跡の話はどこへやら、ヘタするとこの後半が最も興味を惹かれた。戦場よりも怖い取材先があるものだと思ったが、よく考えると特に誰も死んでいないので、やっぱり戦場が一番危険なのか。

         

         世界地図で見るといかにも細っこい中米にこんな「奥地」があるというのもピンときにくいが、改めて地図で確認すると日本列島くらいの太さがあるから、いくらでも奥地はあってしかるべきサイズなのだった。人間は小さい。


        図書館機能と昔の新聞

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           調べものをしているうちに出会った本。日本人のプロ野球選手第1号を追ったノンフィクションだ。
           筆者は別件を取材していたときに、取材相手からその存在を知らされるのだが、最初はその重要性にピンとこなかったという。これは「あるある」だ。その「別件」つまり、その当時の「本題」にばかり気を取られていたので、かつてアメリカのプロチームでプレーした日本人がいたらしいという実に興味深い話題にも、つい「へ〜」で済ませてしまったというわけである。面白い話の端緒は、手にしたときには価値がわからないというはよくあることだ。もしかすると逆もしかり。自分にとって重要な何かの話題を、親しい人間に話したのに期待した反応がなかった場合も、後になってその彼・彼女が「何その話、めちゃおもろいやん」と今さら気づいている可能性があるかもしれない。


           大正時代の話なので、当然日本にはまだプロ野球チームはない。そんな時代に、どうやら渡米してプロチームに加わった人がいるというのだが、大リーグではなく別の独立リーグのチームである。なにせジャッキー・ロビンソンが登場する30年以上前の時代、当人もまだ生まれていないから、大リーグはバリバリ白人クラブである。仮にこの謎の日本人が野茂英雄や鈴木一朗ばりの実力を持っていたとしても、このような事情で入団はあやしい。沢村栄治は米国遠征中に、ファンに紛れたメジャー関係者の差し出した契約書に、間違ってサインしてしまったという逸話を聞いたことがあるが、いざ入団となったとしても、果たしてリーグに受け入れられたのかどうか、改めて気になってしまった。本書には、メジャー球団がキューバ選手を獲得しようとして断念する話も出てくる。

           

           この謎の日本人が入団したチーム「オールネイションズ」は、メジャーの白人サロンぶりを逆手にとって、じゃあ多民族球団にしようという趣旨で誕生した(チーム名は体を表す)。第一次世界大戦で選手が徴兵されチームは崩壊するが、このオーナーが次に作るのがカンザスシティ・モナークスという黒人チームで、ここに所属していたのが後にドジャースに入団するジャッキー・ロビンソンであり、そのドジャースにやがて入団するのが野茂英雄、という一連のつながりが泣かせる。


           さてその謎の日本人の氏素性は?という主題は本書を読んでねで済ませる。印象に残ったのは、アメリカの図書館の優秀さというか融通というかだった。事前に筆者がメールで調査趣旨を説明して関連資料がないか尋ね、いざ訪れると司書があれこれ耳をそろえて用意してくれている。それで「このテーマはおもろいっすねー」なんてノリノリでやってくれる。これぞ出版物の集積地としての面目躍如だ。

           

           日本の図書館の場合、専門職なのに給料安いし、何度も書いている話だが「納税者様でございオッサン」の無理筋クレームの受け役やらされてるし、新刊ベストセラーに予算吸い取られるし、挙句の果てには素人のレンタル屋に運営委託するべしがまかり通るから、タダのレンタル屋としか思われてない悲しさがある。でもレファレンスのページで結構面白い調査結果が載っていることは少なくないし、この前訪れた某図書館の人も妙に優秀だった。直接の担当者が全く融通きかない人だったので、俺のために苦虫噛み潰してくれてた。20年前くらいの本だが、アメリカは今も変わらずなのか、それとも変わったのか。

           

           調べる資料は現地の新聞が中心になるのだが、100年前の英語の新聞を読むのはしかし、想像するだけでゾッとする。わけあって、明治期の日本の新聞をずーっと見てたのだが、文体、自体はもちろん、レイアウトも全然違うので、かなり疲れる。そのうえ、記事が全然面白くない。「〜〜という噂でもちきりなのだが真実はどうなのだろう」とかで終わってる記事が多い。ある意味おもしろいのだが、3つも4つもこの調子に出くわすと、「調べろよ!」と腹が立ってくる。あと、ライバル紙が発行停止になると「御気の毒」などとせせら笑っている御用ぶりを発揮しているところも情けない。同業者に対する政府の攻撃にざまあみろと反応する狭量さは現代にも脈々と受け継がれる明治以来の伝統なんだな。談合するくせに協力しない。
           話を戻すと、本書の中でも、昔の新聞が記述が薄くてちっとも材料が集まらないシーンがあり、その辺りは日米よく似ているもんなんだと思った。


          本の感想

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             新聞記事でもって昔の出来事を調べるとき、もっぱら優先的に利用するのは記事検索データベースだ。新聞縮刷版に比べれば、ほしい記事を見つける手間は格段に少なくすむ。ただし縮刷版にも1つだけデータベースに勝るところがあって、時代の雰囲気の生々しさが圧倒的な点だ。当時の紙面がそのまま収録されているので、調べたい記事の下には当時の「最新」を謳う各種広告が躍っているし、隣の欄や隣のページには目的の記事以外のニュースが並んでいるのが嫌でも目に入る。例えば昭和の政治の話を調べているのに、最新型のカラーテレビや封切したばかりのゴジラ、王貞治の本塁打等々も目に飛び込むというわけだ。活字の書体や写真の映りも一役買ってはいるが、何よりこの雑多な横並びが、自分が調べている時代のリアルな空気としての迫力を生むのだと思う。

             

             本書は、これと同じような雑多な横並びを示すことで、アメリカ社会のある1年を、結構な肌触りとともに再現した見事な歴史物語となっている。
             タイトル通り、1927年のアメリカを描いている。表紙絵のモチーフにもなっているリンドバーグの大西洋横断飛行と、ベーブ・ルースのシーズン本塁打記録、渋いところではラシュモア山の彫刻開始など、後世まで語り継がれることになるいくつかの偉業が重なり合った年である。世界史の教科書的には、第一次世界大戦後、世界トップの経済大国になったアメリカの大量消費社会時代であり、2年後に世界恐慌を控えた年でもある。この1927年について、時系列に従って、起こった出来事が紹介されていく。もちろん、物事には前後関係があるから、27年以前の出来事にも言及があるし、場合によっては「その後」のエピソードに触れることもあるが、構成の軸は27年の5月、6月、7月・・・といった時系列だ。その軸に従って、調べたことを淡々と並べているだけといえばそうなのだが、これが滅法面白い。辞書のように分厚いが、一気呵成に読んでしまった。

             

             一つは筆者がやたらと調べているからで、「へえ〜知らんかった〜」という細かな歴史的事実が知的好奇心を刺激する。その事実を吉村昭のように、余計な装飾を排して綴っていく。のだが、吉村昭と違うのは、いかにもアングロサクソン的な皮肉な調子がしばしば混じるところ。単に吹き出してしまうだけでなく、浮世の悲しみと可笑しみをえぐり出して前景化させることに、皮肉や毒っ気が大きな役割を果たしている。

             

             この「やたらと調べているところ」だが、単なる衒学趣味ではないところがミソだ。時代の再現性、臨場感を描き出すための役割を担っている。
             例えばプロローグは、リンドバーグ以外の大西洋横断に挑んだ飛行士たちの失敗例がしつこいくらいに述べられているが、地球上全域が空の路線で結ばれている現在にあっては今一つピンとこない大西洋横断の偉業の位置づけを読者に示すには必要な要素といえる。山師のような男に危うく計画が食い物にされそうになるくだりや、最終的に機体を発注したメーカーが倒産寸前だったことも当時の飛行機業界を取り巻く環境が垣間見えるし、機能が極限以上に削られた機体も、挑戦の困難さやリンドバーグ本人の、いかにも天才にありがちなネジが数本抜け落ちたような特異性を浮き立たせている。
             あるいはフォードが初めてアメリカの車に左ハンドルを導入したというトリビアルな事実も、それ単体としても十分興味深いエピソードだが、すっかり忘れられてしまった「その時代の当たり前」を再現するのに一役買っている。右側通行なら左ハンドル、日本のような左側通行の場合は右ハンドルと、運転席は道路の中央寄りに設けるのが常識だが、自動車黎明期はそうではなかったらしい。すっかり当たり前のようになった時代の人間には、そうではなかった時代を想像するのは難しいし、そうではない時代があったことすら想像もつかないものだ。裏を返せば、そうではない時代があったのだと示すことは、時代の臨場感を生むのにはもってこいの素材といえる。

             

             こういった要素が、新聞紙面を広げたときに押し寄せる時代の圧を構成する広告のデザインや活字・写真の雰囲気と同じ役割を果たすのだろう。そのようにしつらえられた舞台で、有名どころから、かろうじて名前が残ったような市井の人々まで多種多様な実に多くの登場人物が現れたり消えたり入り乱れる。

             

             基本は時系列の記述なので、ベーブルースの話がある程度進んだところでアル・カポネの話になったり、リンドバーグが再登場したりとメインの登場人物も出たり入ったりするし、猩凸鬮瓩忘れたころに現れたりする。この構成は、浦沢直樹「MONSTER」を思い出したが、吉村昭風淡々記述の、かつノンフィクションなのに、まるで娯楽マンガ作品のように「それでどうなる?」とページを繰っていけるのは、以上のような組み立ての妙にあるのだと思う。

             


            本の感想:満映とわたし

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               某大学で留学生を相手にしている話は以前に書いたが、彼らと軽く話す機会があったので、出身を聞いた。いずれも中華系の名前なのだが、そう思わせておいて実はアメリカ人だったOh!先入観!、というようなことを若干期待していたのだが、少なくともその日話せた人に限れば全員中国人だった。ただし出身省はバラバラで、沿岸部から内陸部から、全員違う地域から来ていた。立地からいって、必然関西出身者が多数を占める大学だが、留学となると、話も変わってくるんだなと思いつつ、地球規模で見ればアジアの大学だからやっぱり一地方に偏っているともいえる。


               それで面白かったのが、彼らのうちの男子2人だった。1人は広東省出身。彼に出身を尋ねると、今時のネットスラングでいうところの「広東省ですキリッ」という返答だった。彼がたまたまそういうパーソナリティなのか、それとも都会人プライドか孫文プライドでもあるのか。なぜか日本語読みしない省だから特別といえば特別である。
               対照的に、もう一人の男子は遠慮気味に「東北の、方です・・・・・・」と口ごもる。もしや東北地方はコンプレックスでもあるのだろうか、まるで「東京の方から来ました埼玉県民」のような高度な日本語でぼやかしてくる(俺が揶揄しているわけではなく当の埼玉の人がそう自虐していたのを目の当たりにしたことがあると断っておく)。
               「東北の方」とはどこか。3分の1の確率の当てずっぽうで「吉林省?」と尋ねると、見事正解した。調子づいてつづけざまに「長春?」と、吉林省ではそれしか知らない省都の名をぶつけると、この男子はハウッと息をのんで「知ってるのですか?!行ったことがあるのですか?!」とうれしそうだった。日中国交正常化45周年の今年、草の根親善にひとつ貢献してしまった。政府が揉めても民草は仲良くするのである。昨年中国に行ったのが、初めて日常で役に立った気がする。

               

               さてその長春であるが、旅では順序が逆になって悔やむことがある。帰ってきてから旅番組でその地域の名店を紹介しているのを見るとか、そのような話だ。そして本書「満映とわたし」も、読んでから行くべきだったという感想がまず先に立った。
               長春で最も興味を持って訪れたのは満映(現・長影)だったのは以前に書いた通り。その満映に勤務していた技術者の手記をもとにしたノンフィクションだ。10代で映画の編集部門に見習いとして勤務しはじめ、有名監督とも出会いながら激動の人生を送ったこの女性は、NHKの朝ドラの主人公にぴったりだと思いながら読み進めたが、題材が鋭利過ぎて無理だった。いや、今だからこそこの鋭利さがフィクションには要るよね。


               特に映画に思い入れがあるわけでもない少女が、父の死で困窮した家族を支えるために、たまたま人の紹介で縁のあった撮影所で兄とともに働き始める。序盤は溝口健二、伊藤大輔、伊丹万作と有名監督が登場していてそれだけで楽しい。伊藤大輔がどういう人柄なのか知らなかったが、気遣いのある魅力的な大人として登場している。一方、エッセイ集が手元にある伊丹万作は、神経質で近寄りがたい様子で描かれていて若干寂しい。さらに注目したのは坂根田鶴子で、後に満映で女性監督となる彼女は、「RON」の田鶴ていのモデルといわれている。ただし田鶴ていと異なり、男装で男言葉でしゃべる人だったとある。男社会で生き残るために武装していたのだろう。

               

               その伊丹万作に関連して興味深いのは、本書の主人公・岸が「新しき土」の編集に参加していたことだ。日独防共協定締結後に生まれた日独合作の国策映画である。原節子が主演で、このせいで彼女はゲッベルスとも面会している。こんな映画史というより近現代史的な作品に関わっていることも興味が尽きない。ついでに、編集という作業が工芸職人的な性格を持っていた時代の作業内容も、パソコンでクリックドラッグの編集しかしたことがない人間とってはとても面白かった。一発勝負の技術と神経が要る作業に比べたら、たまにPCがフリーズするくらい屁みたいなもんよね。嫌だけど。


               というような楽しい読み物ぶりは前半までで、後半からは苦難の連続がものすごくて、ボリュームは普通の本だが、読了までには何度も休憩が必要だった。
               昭和20年8月15日にどこにいたのかが、戦争を生き残った日本人にとっては決定的な分かれ道となる。この時代を扱った本ではよくそんなことが指摘されたり、痛感させられたりする。戦中戦後を扱った、それこそNHKの朝ドラにおなじみの物語では、大抵玉音放送とともに暗い時代が終わる。国内ではそうだった。国土はまる焼けで、縁者もたくさん亡くし、食べるのもままならない状況だったとしても、少なくとも抑圧は消え去る。

               

               ところが大陸ではここからが地獄の始まりだった。まだましだったのは現在の韓国側にいた日本人で、財産を失って茫然自失の人ばかりだったと聞くが、それでも多くがさっさと帰国できた。ソ連が攻め入った北朝鮮側や満洲は悲惨だった。本書においても、ここからが本編の始まりともいえる。

               

               細かく書くとキリがないが、印象的なのは、渦中での判断の難しさだ。震災のときに、ニュースを見れる他地域の人間に比べ、現場で被災した側は、テレビが入らないから状況がさっぱりわからない。あれと似たような話といえばよいか。日本が敗北し、まずソ連が現れ、次に中国内の国共内戦に巻き込まれる。動くのが正解か、とどまる方が生き残れるのか。それだけではなく、共産党が何者かわからない状況で、心ある中国人から「新中国の建設に協力してくれ」と言われれば、使命感も湧くというものだ。

               

               こうして岸以下、内田吐夢ら満映のスタッフの多くは、何年もこの地に滞在することになる(北朝鮮も含め、あっちゃこっちゃ行かされるのだが)。政治に翻弄され、何度も惨めな扱いを受け、ただでさえ冬は全部凍り付く極寒の中、本当によく生き残ったと思う。岸はさっさと自殺した理事長の甘粕正彦は「卑怯だ」というが、それも頷ける。この点、甘粕の死後まもなく終わる「RON」も、本書に比較すれば牧歌的な内容と思わざるを得ない。
               加えて、中国側からの苛烈な扱いの多くに、日本人が積極的にかかわっていたという事実に気が滅入る。戦前アカと蔑まれた共産主義の日本人は、中国共産党がイニシアティブを握ることで、いわば勝ち組になる。その一部が、岸らに牙をむく格好だ。何でも「サヨク」のマジックワードで片付けたがる昨今の右翼しぐさの連中は、よだれを垂らして喜びそうなエピソードだが、こういう手合いこそ、本作のような状況になれば、積極的に同胞を切り捨てるのさ。

               

               本書がドラマ向きだと思ったのは、このような苦難の果てにそれでも希望が待っていたからだ。しんどい話の連続で、彼女たちが映画人だったことも忘れかけたころ、国共内戦の終結で国内が落ち着いてきたことに伴い、岸は中国人技師の養成に取り組むと同時に、作品制作にも協力することになる。彼女が関わった作品のうち、最も中国内で有名なのが「白毛女」という映画だという。
               「そこまで有名ならもしかしてあるんじゃないか」と、俺は一旦本を閉じて、引き出しに仕舞っていたとある絵葉書セットを引っ張り出し、繰った。長影の展示が知らない映画ばかりで興味を持ちにくかったと以前に書いたが、それでもミュージアムショップで往年の作品ポスターを印刷した絵葉書のセットを買っていたのだ。1つも知らない作品なのに、買ってどうするんだと内心思いもしたが、ろくな土産物が売っていない中国の観光地にあって、初めてマトモな商品を見たからというのが理由としては大きい(二百三高地Tシャツと出会うのは後のこと)。
               そして、やはりあった。

               全然見る気の起こらないデザインだが、ポスターの複製品が手元にあることに、じわじわと感動してくる。買ったはいいが見向きもしなかったこの何気ない一枚に、そこまでの歴史が詰まっていたのかを今さらにして知り、そして本で読んだことの実感が何倍に増してくる感覚だ。


               当時の中国では、日本人が制作に関わっているのを公にすることはできず、クレジットはされなかったという。ずいぶん後になり、戦争の記憶が遠のくころ、彼女が編集したという事実が中国内でも正式に公表されるようになった。この当時の中国の態度を了見が狭いと嘲ることはできない。終戦から8年後、念願かなってようやく帰国できた元満映スタッフたちは、「アカ」とみなされ爪弾きに遭う。「アカ」じゃなかったから現地で苦労したのにね。


               このような濃密な歴史が二国間に横たわっているというに、今にあんまりつながっている気がしないのは、とても残念だというしかないが、「そうでもないぞ」と反論する現場の人間は、想像よりはいるはずだ、とも思っている。


              本の感想:帝国議会

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                 大日本帝国憲法下での国会(正確には帝国議会)がどのようなものだったかをわかりやすくまとめた本だった。話の種類からいって、制度の変遷等、巨視的機械的な話に流れそうなところ、個々の議員に焦点を当てつつ、時には「歴史学者の分を超えているが」と著者自身の推測を述べるところも含め、人間味も盛り込んだ記述が読み物としてもなかなかだった。

                 

                 「戦前回帰という批判をよく聞くが、帝国憲法下の議会の方が今より遥かにまとも」というような趣旨の発言を、どこかの学者がしていたのを目にしたのが本書を手にした動機付けとしては大きい。もしかすると、戦前は米国属国の永続敗戦論的ではなくて曲がりなりにも主権国家という趣旨なのかもしれないが、本稿の趣旨はそこではない。

                 復古主義的な政治団体・宗教団体が背後にいる現政権のおかげで、戦前のあれこれを肯定するのが最近のトレンドとなっている。結果、森友のようなけったいな学校法人も登場したわけだが、問題が明るみに出ると、やたらと称揚していたその界隈の人々は一斉に手のひらを返し、手のひら返しをされて失望した籠池氏も宗旨替えした。この一件が明らかにしているのは、誰も本気で中身を称揚しているわけではないということで、「戦前的なものを否定する戦後的なもの」がただ嫌いなだけだという底の浅い話である。

                 

                 ずいぶん前になるが、俺自身も仕事でその手の人の御高説を拝聴する羽目になったことがある。とある社会問題について話していたのが、段々論旨が雑になり、しまいに「修身の復活が必要だ」という話になっていた。言い出したこの女性は、おそらく修身を読んでいない。何しろ、女の多弁はよくないから静かにしなさいというようなことが書いてある。シングルマザーで経営者という現代ならどちらかというと格好いい立場だと思うが、修身が想定している女性像とは全く一致しない。それでも賛意を示すのは既に述べたようなただのムード的な話だろう。まあひたすら説教臭い内容だから、その点では趣味に合うのかもしれないが。

                 

                 一方で、これらを批判する際に「戦前的だ」というだけでは、本質的には同じになってしまうから注意が要る。かくいう俺も偉そうにいえるほど何かを知っているわけでもない。そういうわけで、ふむふむと興味深く読んだ。
                 日本の場合、フランス革命などとはかなり異なり、明治維新から議会開設までは20年ほど期間がある。要はそれだけ後回しにされたということで、「先にやるべきことがほかにある」と当時の有司専制な人々が判断したといえる。乱暴にまとめれば、議会が何ものなのかあまりよくわからないまま先送りにし、ようやくできたということだ。帝国憲法にも、議会に関する条文は20ほどあるが、これがそもそも何なのかが書いていない。(現在の憲法の場合は「国権の最高機関」とある)。

                 

                 ここからが本書の内容だが、そんなあやふやな船出の後、議員たちが手探りであるべき議会の形を模索していくさまがひしひしと伝わってくる。当初は「議員」と名乗るのが恥ずかしい風潮があり、名刺には本業や元職を肩書として刷っていたというから、いわばマイナスからの出発である。その姿はなかなかアツい。今と違って、殴り合いがすぐ起きるような野蛮な部分もあり、議会の常として改善策が骨抜きになったり、ぐだぐだな部分も当然あるが、全体としてはよりよい議会政治を希求していく矜持があったということはいえる。それも首相や内閣に関する規定すらない憲法を戴く中でだ。

                 

                 軍の暴走も帝国崩壊も防げなかったため、結果論からすればダメな議会だったことになるが、過程においてはたしかに、どこかの学者の発言通りだと思う。敗戦によって、軍国主義等とともにこれらの蓄積も吹っ飛んだ印象がある。残念なことだ。
                 現在、民主主義とか法の支配とか、結局誰もわかってないまま来た結果こんなんなっちゃってるといいたくなる世相である。必死に模索した時期はたしかにあったということは、戦前が嫌いな人は無論のこと、好きな人こそ襟を正して眺めてほしいものである。期待するだけ無駄だけど。何せそもそもが興味がないからね実のところ、彼ら彼女らは。


                自分探しの旅

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                   タイトルに引かれ、半分義務のように読んだ。古い本だが、色々今と重なるところもあり、おもしろかった。
                   「斜に構えている」と言われたのは、会社に入ってからだったか。ソリの合わない上司から説教混じりに言われたのが最初だったと記憶している。それを周囲の先輩が面白がって、俺の携帯番号の登録を「斜に構え」にするとか、茶化されているうちに記号化して代名詞化したような気がする。

                   斜に構えているという自覚はないが、ひねているという自覚は昔からある。この2つは同じなのか違うのか。とにかく、思春期のころはアイデンティティのために無理やりひねて、それで友達がいなくなって、その孤独を誤魔化すために余計にひねくれるという悪循環に陥っていたものだが、そういう自己防御の話もこの本には出てくるから、斜に構えているという評価も的を射ていたことになる。繰り返すが自覚はない。その上、少なくとも高校生以降は、冷めた態度をとるのはむしろ恰好悪いとすら思っていたはずだが、周囲から言われているうちによくわからなくなった。

                   ところで「斜に構える」という言葉も、「姑息」や「ニヤける」などと同じく、元の意味はまるで違う。由来は、剣道で竹刀をまず斜めに構える体勢を取ることで、そこから物事に対して十分に身構えることを指す。だがまあ、防御反応という点では意味は一致しているのかもしれない。

                   心理学の本ではない。著者は哲学が専門の大学の先生だ。文体は、それこそ当人が斜に構えてますやんと言いたくなるトボけた調子がところどころあって、いくつか吹き出してしまった。そしてこの本の特徴は、授業を通じて集めた多くの学生たちの実体験をベースに話を組み立てている点だ。その点、俺の学生相手の仕事とも若干似ている。俺も学生が自分の経験談を書いた文章を大量に読んできた身だ。それでも「若干」しか似ていないのは、理由がある。

                   なぜ斜に構えるのか。著者は、まず真っ先に思いつくような安易でわかったような小賢しい分析をまず脇にどけて、学生たちの実例に沿いながら、細かく問いを立てていく。このアプローチ自体は、まさに大学で学ぶとはどういうことかをわかりやすく示していると思う。俺が大学に入ったときにはすでに世に出ていた本だから、そのとき読むべき本だった。大学4年間のうち、3年半ほどは、何をどう勉強していいのやら、さっぱりわからなかった。「早く言ってよぉ〜」(松重豊)にもほどがある。このため、本書は、世の大学1、2年生の人には必須の教科書ではないかと思う。

                   掲載している学生の経験談は、それ自体、なかなか面白い(大量にある中から厳選されたものだろうから、趣旨不明なものの方が大量にあったのだろうと察するが)。そして著者は、そこに書かれた内容を通して自説を展開するだけでなく、しばしば困惑し、立ち尽くす。それもそのはず、はしがきで著者は、本書の趣旨を述べている。あるとき、急にわからなくなったので、いっそ授業で「教える」のではなく、「ともに考える」ような講義にシフトしたのだと。こうして学生とともに、実体験という「事実」を踏まえ、積み重ねながら、あるときは学生の意見にムキになって反論したり、学生からの指摘にガーンと打たれたりする。

                   こういう過程自体が、学生のレポートを豊かにするのだと思う。俺が学生相手にしていることとは大きく違うのはおそらくここで、詳しくは以前に書いた。言い方を変えれば、採用なんてものも所詮その程度のことである。俺自身は、所詮その程度の授業ばかり繰り返していると頭がおかしくなりそうなので、ちょっとでも変えようと毎回もがいている。その点で、この先生の授業のようなものを少しでも参考にできると良いのだろうと、理想形としては大いに真似をしたいと思った。

                   内容に関して若干。本書にはプログラム型の知識と、データベース型の知識というのが登場する。ここから先は、俺が咀嚼した説明になるが、道案内に例えると「〇〇の角を右」のように左右で表現するのが前者で、東西南北ないしは住所で説明するのが後者になる。違いは、自分の視点がどこにあるかで、前者は自分が同じ地点に立ったときの見え方に基づいており、後者は地図、つまり上空からの自分を超越した視点に基づいて説明している。

                   方向音痴の人はしばしば前者の説明を好むが、これが非効率なのは自分の視点を他人に伝えるからで、他人が反対方向を向いていると左右も逆になってしまう。要領のよい人間ほど、「お前の説明はいいからさっさと住所を言え」という態度をとる。そして学問というのは、後者の態度で物事に接すると思わせておいて、実のところ前者もかなり重要で、つまりは両方同時に必要な姿勢で臨まなければならない。

                   それというのも、上空からの視点は、鳥じゃあるまいし、あくまでよそから教えられたものでしかないからだ。本書では、このデータベース型と斜に構える構造の関連を探りながら、超越錯覚というタイトルの言葉を定義していく。そういえば俺も、物事をデータベース型でしかとらえらず、大学の授業についていけなかった。

                   そして本書の中では、斜に構えるという一種冷徹とも見える態度との関連を探っていくのだが、一方で21世紀を10年以上過ぎた昨今の日本、そして欧米でも、ある種の人々や考え方が諸悪の根源とするような、実在しない敵との闘いを高らかに謳う出来損ないの陰謀論のようなファンタジーに淫している態度と、この超越錯覚との密接なつながりが、感じられて仕方なかった。その点、須原氏にはもう少し生きていてほしかった。


                  七回忌に難解な話

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                    去年の紅葉

                     そうして今度は幹二朗の娘こと、母親の七回忌である。実家でワールドシリーズを見るべく、朝一ならぬ朝三くらいの電車に乗ったのだが、この時間帯は昼より混むらしい。観光客らしき風体の乗客でいっぱいだった。俺が座った席の前に、会社の同期グループといった様子の若い男女が陣取って、金沢であそこへいくだの何を食うだの大声でやかましい。まるで中国の高速鉄道の車内のようだと思っていたら、京都の手前くらいで見事に全員寝た。うるさくても日本人はこの程度。中国人のバイタリティやおそるべし。

                     俺もやがて睡魔に襲われ、大津を過ぎたくらいで寝入った。珍しく、かなり深く落ちて、目覚めたときは武生くらいだったんだけど、目の前に母親とそっくりなおばちゃんが立っていて、ちょっと驚いた。化けて出てきたのかと思ったが、それにしては荷物が多い。ついでに、横顔が強烈に似ていたのだが、正面を向くとそうでもなかった。

                     横顔というのは、顔の要素が減る分、似やすいのだろうか。そういえば、新宿でバンドメンバーたちと歩いていたとき、信号待ちをしていた自転車の兄ちゃんの横顔が、我がバンドのゴーストライターこと悟さんと似ていて全員で爆笑していたものだった。あの男性も、正面を向くと全く似ていなかったが、すーっと顔が向こうを見ると、「赤の他人⇒⇒⇒悟」とグラデーション的に似ていくからおかしくてしかたなかった。なぜか片手に花一輪持っているから余計。

                     到着すると、降りた乗客が異口同音に「寒!」と言っている。予想はしていたので、こんなものだとは思ったが、自分の体の非対応ぶりが予想外だった。体内サーモメーターが、すっかり関西人化していている。雪国の民の誇りを失いつつある。

                     野球を見ているうちに兄家族も到着し、ミラーを全く打てないカブス打線の沈黙にぐむうとなっているうち9回も終わった。それで法事が始まるまでの時間、姪はテストの復習をやっている。聞けば、この前の中間試験の国語が芳しくなかったらしい。姪は書道で賞を取るくらい字が綺麗で、漢字もよく知っているが、読解が苦手とのこと。古文で、女が好きな男に気持ちを伝えたら、鈍い男が頓珍漢な返答をしてきたという話の意味がさっぱりわからない。なぜこの2人は合理性を欠くやりとりをしているのだろう?と、安手のSFに出てくるアンドロイドのように恋の機微がちんぷんかんぷんのようである。

                     その姪が、全巻そろえたから読んでみろと、やや威張り口調で「聲の形」を差し出してきた。映画にもなった話題のマンガ。さっさと読み終えて感想を言うてやらねばならぬだろうという配慮と、エドワード・スノーデンの本がちっとも読み進まないという2つの理由で一気に読み終えた。

                     よく描けた力作だった。ただ、その「よく描けている」部分が、高校生の生傷なので、非情に疲れたというのも正直なところであった。同時に、これを読んで面白いと思った姪がなぜ古文の単純な恋愛の話が理解できなかったのか不思議なのだが、千年昔の人間のみやびなやり取りに対して、学校が舞台なので身近なのが大きいのだろう。

                     小学生時代、聴覚に障害のあるクラスメイトをいじめた経験のある男子高校生の贖罪の物語である。いじめをエスカレートさせた結果、その女子は転校し、今度は男子当人が「やりすぎだった」といじめにあう。そうして人付き合いができなくなり、できるのは自己否定のみとなった男子が、高校生になりいじめた相手と再会する。人間同士のまともな関係性を築き直したいと男子は奮闘することになるが、その過程で、かつてのクライスメイトも登場してくる。あるものはいじめに加担し、あるものは味方をかってでて挫折し、あるものは傍観者だった。これら各人の立場を、嫌なヤツも含め、丁寧に描いていると思う。

                     さてこの、引いては人間の差別意識を、ある程度多用な視点で描いている作品がヒットしている世の中で、どうして実際の差別は理解されにくいんだろうなあと、ナイーブなことをつい考えた。最近でいうと「土人」もそう。大阪府知事がどうせその手のことを言うだろうという程度の知性しか持ち合わせがないことは前からわかっていることとはいえ、まかり通っているということはあんまりピンと来ていない人が多いのだろう。それこそ姪と同じで身近ではないからか。だとすれば中学生レベルなんだけどな。

                     本作では、いじめを巡って、差別の発露のようなものが色々と描かれている。例えば、主人公のこの男子は、小学生時代、耳が聞こえないというクラスメイトに向かって、耳元で「わっ」と大きな声を出すいたずらをする。本当に聞こえないのか試したいだとか、ウケ狙いだとか、理由としてはそんなところだろうが、許される行為ではない。だが、当人にすれば「ただふざけただけ」だ。このような、行為の重大性と本人の無邪気さのズレが、しばしば差別の不幸や無理解を生み出している。

                     最近だと、アイドルのナチス風の衣装が典型的だ。「差別を強力にやった側」の真似だから、「差別問題」にくくると微妙に違和感があるかもしれないが、構造は同じだ。作って着せた側は、無知に無邪気にやったのだろうが、結果はアウトである。こんなそれこそ狄閥瓩任呂覆は鱈瓩犬磴覆ても、日常のちょっとしたやり取りの中にも、同じ構図が顔を覗かせることはいくらでもあろう。「褒めてやってるのに何がセクハラだ」とか、昨今こういう人は減っただろうが、これと同じようなことだ。何せ当人は無邪気だから可能性はいくらでもある。俺もいくらかやらかしていると思う。

                     こういう場合、「それは差別だからやっちゃいかん(言うたらいかん)」という線引きは、変な言い方になるが、便利だ。いちいち、いいのか悪いのか、なぜダメなのだ、という議論をしなくてすむからだ。ただしその便利さ(?)のせいで、線引き自体に反発を呼ぶことがある。「言葉狩りだ」だとか「差別だと強権的に断罪してくるその姿勢が差別だ」とか。もちろん、ケースによって色々だろうし、議論はあってしかるべきだが、「それは差別だ」という線引きの多くは、悲しみ怒り死屍累々の重厚な歴史によってできているということは重々留意しておく必要はある。その安くてペラい反論を垂れる前に、アウトにされる事情にまずはよくよく思いをいたしてごらんよ、ということだ。


                    軽くて重い色々と意外な本だった

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                       売り切れ続きで入手困難らしい。

                       ネット上ではよく話題になっている⇒けどよくわからない団体⇒なのにテレビ新聞ではあまり取り上げているのを見たことがない

                       必然関心も高まるというもので、俺もそうだ。ついでにいうと、それが本になったというのが大きいのだと思う。ネット媒体での連載記事が元になっているから、パソコンその他、端末の電源を入れれば読めるものであり、加筆修正もあまりしていないらしい。なのにこの売れ行き。何だかんだいっても「書籍化」というのが、2016年春時点での出版物の置かれた地位ということだ。

                       テーマ性もあり、かなり急いで出したようで、そのせいか誤字が散見したのが玉に瑕だが、一気に読んだ。本を一気に読破するのは、我を忘れているという点で酔っぱらって喋りすぎるのと似た幸福がある。酔っぱらってしゃべりすぎるのは翌朝後悔の大群が押し寄せるものだ。読破は後悔はない一方、しばらくぼーっとなって、大抵は陰鬱な気分がやってくる。その点もやや似ている。本書については、内容のせいで陰鬱な気分が濃くなった。濃いというよりは、異質といった方がいいかもしれない。想像していた内容とはちょっと違ったからだ。大袈裟にいうと、奇妙な、不思議な本だった。

                       この不思議さは、構成によるところも大きいと思う。
                       序盤は色々な本や資料を並べながら展開する。学術書のようなアプローチのまま進むのかと思ったら、途中から現場レポートや関係者のインタビューが入り、俄然ドキュメンタリーの色合いが強くなる。ネット連載時は、全体の設計図があまりないまま、明らかになったことを随時掲載していったからだろう。ただ、歴史がかなり古いものでありつつ、現在進行形であるものを対象にしているから、自然とそうなったともいえる。というか、著者自身がそんなようなことをあとがきで書いていた。いずれにせよ、多面的なアプローチというのはこういうのをいうのだろうと敬服させられた。

                       内容について。大雑把なくくりでは、「WiLL」「正論」「アパホテル」あの辺の人々の話だ。ただ、個別の主張には本書はあまり立ち入らない。一部ちょっとした毒づきはあるものの、「いつもの話」という具合にざっくりまとめてしまっている。主眼はタイトル通り、この「会議」が何もので、どういう風に力を伸ばしてきたのかにある。そしてその歴史的経緯が詳らかになったとき、「そのもの」自体はとても軽く、突き付けてくるものは相当に重かった(サイズも新書なので質量体積は小さく、内容は濃かった)。ちょっとしたどんでん返しといってもいい。

                       ノンフィクションのまとめは、しばしば「我々一人ひとりの問題だ」という具合になる。それしか終わらせようがないし、事実そうだし、なのだからだが、本書の場合は、このどんでん返し的な内容を踏まえれば、まったくまさしくその通り、「我々一人ひとりの問題だ」といえる。陰鬱な気分が濃い、ないしは異質というのはその辺りによる。

                       ただ、裏を返せば、これは、なすべきことを地道になすことの有効性を明らかにした本ともいえる。地道というところが気が重いが、人生自体がそういうものだからやむを得ない。この本自体も膨大な資料を繰ってできてるし。なので俺も君も、なずべきことを地道になすしかないのである。と、これがノンフィクションでよく見る「まとめのためのまとめ」である。


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