本の感想:満映とわたし

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     某大学で留学生を相手にしている話は以前に書いたが、彼らと軽く話す機会があったので、出身を聞いた。いずれも中華系の名前なのだが、そう思わせておいて実はアメリカ人だったOh!先入観!、というようなことを若干期待していたのだが、少なくともその日話せた人に限れば全員中国人だった。ただし出身省はバラバラで、沿岸部から内陸部から、全員違う地域から来ていた。立地からいって、必然関西出身者が多数を占める大学だが、留学となると、話も変わってくるんだなと思いつつ、地球規模で見ればアジアの大学だからやっぱり一地方に偏っているともいえる。


     それで面白かったのが、彼らのうちの男子2人だった。1人は広東省出身。彼に出身を尋ねると、今時のネットスラングでいうところの「広東省ですキリッ」という返答だった。彼がたまたまそういうパーソナリティなのか、それとも都会人プライドか孫文プライドでもあるのか。なぜか日本語読みしない省だから特別といえば特別である。
     対照的に、もう一人の男子は遠慮気味に「東北の、方です・・・・・・」と口ごもる。もしや東北地方はコンプレックスでもあるのだろうか、まるで「東京の方から来ました埼玉県民」のような高度な日本語でぼやかしてくる(俺が揶揄しているわけではなく当の埼玉の人がそう自虐していたのを目の当たりにしたことがあると断っておく)。
     「東北の方」とはどこか。3分の1の確率の当てずっぽうで「吉林省?」と尋ねると、見事正解した。調子づいてつづけざまに「長春?」と、吉林省ではそれしか知らない省都の名をぶつけると、この男子はハウッと息をのんで「知ってるのですか?!行ったことがあるのですか?!」とうれしそうだった。日中国交正常化45周年の今年、草の根親善にひとつ貢献してしまった。政府が揉めても民草は仲良くするのである。昨年中国に行ったのが、初めて日常で役に立った気がする。

     

     さてその長春であるが、旅では順序が逆になって悔やむことがある。帰ってきてから旅番組でその地域の名店を紹介しているのを見るとか、そのような話だ。そして本書「満映とわたし」も、読んでから行くべきだったという感想がまず先に立った。
     長春で最も興味を持って訪れたのは満映(現・長影)だったのは以前に書いた通り。その満映に勤務していた技術者の手記をもとにしたノンフィクションだ。10代で映画の編集部門に見習いとして勤務しはじめ、有名監督とも出会いながら激動の人生を送ったこの女性は、NHKの朝ドラの主人公にぴったりだと思いながら読み進めたが、題材が鋭利過ぎて無理だった。いや、今だからこそこの鋭利さがフィクションには要るよね。


     特に映画に思い入れがあるわけでもない少女が、父の死で困窮した家族を支えるために、たまたま人の紹介で縁のあった撮影所で兄とともに働き始める。序盤は溝口健二、伊藤大輔、伊丹万作と有名監督が登場していてそれだけで楽しい。伊藤大輔がどういう人柄なのか知らなかったが、気遣いのある魅力的な大人として登場している。一方、エッセイ集が手元にある伊丹万作は、神経質で近寄りがたい様子で描かれていて若干寂しい。さらに注目したのは坂根田鶴子で、後に満映で女性監督となる彼女は、「RON」の田鶴ていのモデルといわれている。ただし田鶴ていと異なり、男装で男言葉でしゃべる人だったとある。男社会で生き残るために武装していたのだろう。

     

     その伊丹万作に関連して興味深いのは、本書の主人公・岸が「新しき土」の編集に参加していたことだ。日独防共協定締結後に生まれた日独合作の国策映画である。原節子が主演で、このせいで彼女はゲッベルスとも面会している。こんな映画史というより近現代史的な作品に関わっていることも興味が尽きない。ついでに、編集という作業が工芸職人的な性格を持っていた時代の作業内容も、パソコンでクリックドラッグの編集しかしたことがない人間とってはとても面白かった。一発勝負の技術と神経が要る作業に比べたら、たまにPCがフリーズするくらい屁みたいなもんよね。嫌だけど。


     というような楽しい読み物ぶりは前半までで、後半からは苦難の連続がものすごくて、ボリュームは普通の本だが、読了までには何度も休憩が必要だった。
     昭和20年8月15日にどこにいたのかが、戦争を生き残った日本人にとっては決定的な分かれ道となる。この時代を扱った本ではよくそんなことが指摘されたり、痛感させられたりする。戦中戦後を扱った、それこそNHKの朝ドラにおなじみの物語では、大抵玉音放送とともに暗い時代が終わる。国内ではそうだった。国土はまる焼けで、縁者もたくさん亡くし、食べるのもままならない状況だったとしても、少なくとも抑圧は消え去る。

     

     ところが大陸ではここからが地獄の始まりだった。まだましだったのは現在の韓国側にいた日本人で、財産を失って茫然自失の人ばかりだったと聞くが、それでも多くがさっさと帰国できた。ソ連が攻め入った北朝鮮側や満洲は悲惨だった。本書においても、ここからが本編の始まりともいえる。

     

     細かく書くとキリがないが、印象的なのは、渦中での判断の難しさだ。震災のときに、ニュースを見れる他地域の人間に比べ、現場で被災した側は、テレビが入らないから状況がさっぱりわからない。あれと似たような話といえばよいか。日本が敗北し、まずソ連が現れ、次に中国内の国共内戦に巻き込まれる。動くのが正解か、とどまる方が生き残れるのか。それだけではなく、共産党が何者かわからない状況で、心ある中国人から「新中国の建設に協力してくれ」と言われれば、使命感も湧くというものだ。

     

     こうして岸以下、内田吐夢ら満映のスタッフの多くは、何年もこの地に滞在することになる(北朝鮮も含め、あっちゃこっちゃ行かされるのだが)。政治に翻弄され、何度も惨めな扱いを受け、ただでさえ冬は全部凍り付く極寒の中、本当によく生き残ったと思う。岸はさっさと自殺した理事長の甘粕正彦は「卑怯だ」というが、それも頷ける。この点、甘粕の死後まもなく終わる「RON」も、本書に比較すれば牧歌的な内容と思わざるを得ない。
     加えて、中国側からの苛烈な扱いの多くに、日本人が積極的にかかわっていたという事実に気が滅入る。戦前アカと蔑まれた共産主義の日本人は、中国共産党がイニシアティブを握ることで、いわば勝ち組になる。その一部が、岸らに牙をむく格好だ。何でも「サヨク」のマジックワードで片付けたがる昨今の右翼しぐさの連中は、よだれを垂らして喜びそうなエピソードだが、こういう手合いこそ、本作のような状況になれば、積極的に同胞を切り捨てるのさ。

     

     本書がドラマ向きだと思ったのは、このような苦難の果てにそれでも希望が待っていたからだ。しんどい話の連続で、彼女たちが映画人だったことも忘れかけたころ、国共内戦の終結で国内が落ち着いてきたことに伴い、岸は中国人技師の養成に取り組むと同時に、作品制作にも協力することになる。彼女が関わった作品のうち、最も中国内で有名なのが「白毛女」という映画だという。
     「そこまで有名ならもしかしてあるんじゃないか」と、俺は一旦本を閉じて、引き出しに仕舞っていたとある絵葉書セットを引っ張り出し、繰った。長影の展示が知らない映画ばかりで興味を持ちにくかったと以前に書いたが、それでもミュージアムショップで往年の作品ポスターを印刷した絵葉書のセットを買っていたのだ。1つも知らない作品なのに、買ってどうするんだと内心思いもしたが、ろくな土産物が売っていない中国の観光地にあって、初めてマトモな商品を見たからというのが理由としては大きい(二百三高地Tシャツと出会うのは後のこと)。
     そして、やはりあった。

     全然見る気の起こらないデザインだが、ポスターの複製品が手元にあることに、じわじわと感動してくる。買ったはいいが見向きもしなかったこの何気ない一枚に、そこまでの歴史が詰まっていたのかを今さらにして知り、そして本で読んだことの実感が何倍に増してくる感覚だ。


     当時の中国では、日本人が制作に関わっているのを公にすることはできず、クレジットはされなかったという。ずいぶん後になり、戦争の記憶が遠のくころ、彼女が編集したという事実が中国内でも正式に公表されるようになった。この当時の中国の態度を了見が狭いと嘲ることはできない。終戦から8年後、念願かなってようやく帰国できた元満映スタッフたちは、「アカ」とみなされ爪弾きに遭う。「アカ」じゃなかったから現地で苦労したのにね。


     このような濃密な歴史が二国間に横たわっているというに、今にあんまりつながっている気がしないのは、とても残念だというしかないが、「そうでもないぞ」と反論する現場の人間は、想像よりはいるはずだ、とも思っている。


    本の感想:帝国議会

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       大日本帝国憲法下での国会(正確には帝国議会)がどのようなものだったかをわかりやすくまとめた本だった。話の種類からいって、制度の変遷等、巨視的機械的な話に流れそうなところ、個々の議員に焦点を当てつつ、時には「歴史学者の分を超えているが」と著者自身の推測を述べるところも含め、人間味も盛り込んだ記述が読み物としてもなかなかだった。

       

       「戦前回帰という批判をよく聞くが、帝国憲法下の議会の方が今より遥かにまとも」というような趣旨の発言を、どこかの学者がしていたのを目にしたのが本書を手にした動機付けとしては大きい。もしかすると、戦前は米国属国の永続敗戦論的ではなくて曲がりなりにも主権国家という趣旨なのかもしれないが、本稿の趣旨はそこではない。

       復古主義的な政治団体・宗教団体が背後にいる現政権のおかげで、戦前のあれこれを肯定するのが最近のトレンドとなっている。結果、森友のようなけったいな学校法人も登場したわけだが、問題が明るみに出ると、やたらと称揚していたその界隈の人々は一斉に手のひらを返し、手のひら返しをされて失望した籠池氏も宗旨替えした。この一件が明らかにしているのは、誰も本気で中身を称揚しているわけではないということで、「戦前的なものを否定する戦後的なもの」がただ嫌いなだけだという底の浅い話である。

       

       ずいぶん前になるが、俺自身も仕事でその手の人の御高説を拝聴する羽目になったことがある。とある社会問題について話していたのが、段々論旨が雑になり、しまいに「修身の復活が必要だ」という話になっていた。言い出したこの女性は、おそらく修身を読んでいない。何しろ、女の多弁はよくないから静かにしなさいというようなことが書いてある。シングルマザーで経営者という現代ならどちらかというと格好いい立場だと思うが、修身が想定している女性像とは全く一致しない。それでも賛意を示すのは既に述べたようなただのムード的な話だろう。まあひたすら説教臭い内容だから、その点では趣味に合うのかもしれないが。

       

       一方で、これらを批判する際に「戦前的だ」というだけでは、本質的には同じになってしまうから注意が要る。かくいう俺も偉そうにいえるほど何かを知っているわけでもない。そういうわけで、ふむふむと興味深く読んだ。
       日本の場合、フランス革命などとはかなり異なり、明治維新から議会開設までは20年ほど期間がある。要はそれだけ後回しにされたということで、「先にやるべきことがほかにある」と当時の有司専制な人々が判断したといえる。乱暴にまとめれば、議会が何ものなのかあまりよくわからないまま先送りにし、ようやくできたということだ。帝国憲法にも、議会に関する条文は20ほどあるが、これがそもそも何なのかが書いていない。(現在の憲法の場合は「国権の最高機関」とある)。

       

       ここからが本書の内容だが、そんなあやふやな船出の後、議員たちが手探りであるべき議会の形を模索していくさまがひしひしと伝わってくる。当初は「議員」と名乗るのが恥ずかしい風潮があり、名刺には本業や元職を肩書として刷っていたというから、いわばマイナスからの出発である。その姿はなかなかアツい。今と違って、殴り合いがすぐ起きるような野蛮な部分もあり、議会の常として改善策が骨抜きになったり、ぐだぐだな部分も当然あるが、全体としてはよりよい議会政治を希求していく矜持があったということはいえる。それも首相や内閣に関する規定すらない憲法を戴く中でだ。

       

       軍の暴走も帝国崩壊も防げなかったため、結果論からすればダメな議会だったことになるが、過程においてはたしかに、どこかの学者の発言通りだと思う。敗戦によって、軍国主義等とともにこれらの蓄積も吹っ飛んだ印象がある。残念なことだ。
       現在、民主主義とか法の支配とか、結局誰もわかってないまま来た結果こんなんなっちゃってるといいたくなる世相である。必死に模索した時期はたしかにあったということは、戦前が嫌いな人は無論のこと、好きな人こそ襟を正して眺めてほしいものである。期待するだけ無駄だけど。何せそもそもが興味がないからね実のところ、彼ら彼女らは。


      自分探しの旅

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         タイトルに引かれ、半分義務のように読んだ。古い本だが、色々今と重なるところもあり、おもしろかった。
         「斜に構えている」と言われたのは、会社に入ってからだったか。ソリの合わない上司から説教混じりに言われたのが最初だったと記憶している。それを周囲の先輩が面白がって、俺の携帯番号の登録を「斜に構え」にするとか、茶化されているうちに記号化して代名詞化したような気がする。

         斜に構えているという自覚はないが、ひねているという自覚は昔からある。この2つは同じなのか違うのか。とにかく、思春期のころはアイデンティティのために無理やりひねて、それで友達がいなくなって、その孤独を誤魔化すために余計にひねくれるという悪循環に陥っていたものだが、そういう自己防御の話もこの本には出てくるから、斜に構えているという評価も的を射ていたことになる。繰り返すが自覚はない。その上、少なくとも高校生以降は、冷めた態度をとるのはむしろ恰好悪いとすら思っていたはずだが、周囲から言われているうちによくわからなくなった。

         ところで「斜に構える」という言葉も、「姑息」や「ニヤける」などと同じく、元の意味はまるで違う。由来は、剣道で竹刀をまず斜めに構える体勢を取ることで、そこから物事に対して十分に身構えることを指す。だがまあ、防御反応という点では意味は一致しているのかもしれない。

         心理学の本ではない。著者は哲学が専門の大学の先生だ。文体は、それこそ当人が斜に構えてますやんと言いたくなるトボけた調子がところどころあって、いくつか吹き出してしまった。そしてこの本の特徴は、授業を通じて集めた多くの学生たちの実体験をベースに話を組み立てている点だ。その点、俺の学生相手の仕事とも若干似ている。俺も学生が自分の経験談を書いた文章を大量に読んできた身だ。それでも「若干」しか似ていないのは、理由がある。

         なぜ斜に構えるのか。著者は、まず真っ先に思いつくような安易でわかったような小賢しい分析をまず脇にどけて、学生たちの実例に沿いながら、細かく問いを立てていく。このアプローチ自体は、まさに大学で学ぶとはどういうことかをわかりやすく示していると思う。俺が大学に入ったときにはすでに世に出ていた本だから、そのとき読むべき本だった。大学4年間のうち、3年半ほどは、何をどう勉強していいのやら、さっぱりわからなかった。「早く言ってよぉ〜」(松重豊)にもほどがある。このため、本書は、世の大学1、2年生の人には必須の教科書ではないかと思う。

         掲載している学生の経験談は、それ自体、なかなか面白い(大量にある中から厳選されたものだろうから、趣旨不明なものの方が大量にあったのだろうと察するが)。そして著者は、そこに書かれた内容を通して自説を展開するだけでなく、しばしば困惑し、立ち尽くす。それもそのはず、はしがきで著者は、本書の趣旨を述べている。あるとき、急にわからなくなったので、いっそ授業で「教える」のではなく、「ともに考える」ような講義にシフトしたのだと。こうして学生とともに、実体験という「事実」を踏まえ、積み重ねながら、あるときは学生の意見にムキになって反論したり、学生からの指摘にガーンと打たれたりする。

         こういう過程自体が、学生のレポートを豊かにするのだと思う。俺が学生相手にしていることとは大きく違うのはおそらくここで、詳しくは以前に書いた。言い方を変えれば、採用なんてものも所詮その程度のことである。俺自身は、所詮その程度の授業ばかり繰り返していると頭がおかしくなりそうなので、ちょっとでも変えようと毎回もがいている。その点で、この先生の授業のようなものを少しでも参考にできると良いのだろうと、理想形としては大いに真似をしたいと思った。

         内容に関して若干。本書にはプログラム型の知識と、データベース型の知識というのが登場する。ここから先は、俺が咀嚼した説明になるが、道案内に例えると「〇〇の角を右」のように左右で表現するのが前者で、東西南北ないしは住所で説明するのが後者になる。違いは、自分の視点がどこにあるかで、前者は自分が同じ地点に立ったときの見え方に基づいており、後者は地図、つまり上空からの自分を超越した視点に基づいて説明している。

         方向音痴の人はしばしば前者の説明を好むが、これが非効率なのは自分の視点を他人に伝えるからで、他人が反対方向を向いていると左右も逆になってしまう。要領のよい人間ほど、「お前の説明はいいからさっさと住所を言え」という態度をとる。そして学問というのは、後者の態度で物事に接すると思わせておいて、実のところ前者もかなり重要で、つまりは両方同時に必要な姿勢で臨まなければならない。

         それというのも、上空からの視点は、鳥じゃあるまいし、あくまでよそから教えられたものでしかないからだ。本書では、このデータベース型と斜に構える構造の関連を探りながら、超越錯覚というタイトルの言葉を定義していく。そういえば俺も、物事をデータベース型でしかとらえらず、大学の授業についていけなかった。

         そして本書の中では、斜に構えるという一種冷徹とも見える態度との関連を探っていくのだが、一方で21世紀を10年以上過ぎた昨今の日本、そして欧米でも、ある種の人々や考え方が諸悪の根源とするような、実在しない敵との闘いを高らかに謳う出来損ないの陰謀論のようなファンタジーに淫している態度と、この超越錯覚との密接なつながりが、感じられて仕方なかった。その点、須原氏にはもう少し生きていてほしかった。


        七回忌に難解な話

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          去年の紅葉

           そうして今度は幹二朗の娘こと、母親の七回忌である。実家でワールドシリーズを見るべく、朝一ならぬ朝三くらいの電車に乗ったのだが、この時間帯は昼より混むらしい。観光客らしき風体の乗客でいっぱいだった。俺が座った席の前に、会社の同期グループといった様子の若い男女が陣取って、金沢であそこへいくだの何を食うだの大声でやかましい。まるで中国の高速鉄道の車内のようだと思っていたら、京都の手前くらいで見事に全員寝た。うるさくても日本人はこの程度。中国人のバイタリティやおそるべし。

           俺もやがて睡魔に襲われ、大津を過ぎたくらいで寝入った。珍しく、かなり深く落ちて、目覚めたときは武生くらいだったんだけど、目の前に母親とそっくりなおばちゃんが立っていて、ちょっと驚いた。化けて出てきたのかと思ったが、それにしては荷物が多い。ついでに、横顔が強烈に似ていたのだが、正面を向くとそうでもなかった。

           横顔というのは、顔の要素が減る分、似やすいのだろうか。そういえば、新宿でバンドメンバーたちと歩いていたとき、信号待ちをしていた自転車の兄ちゃんの横顔が、我がバンドのゴーストライターこと悟さんと似ていて全員で爆笑していたものだった。あの男性も、正面を向くと全く似ていなかったが、すーっと顔が向こうを見ると、「赤の他人⇒⇒⇒悟」とグラデーション的に似ていくからおかしくてしかたなかった。なぜか片手に花一輪持っているから余計。

           到着すると、降りた乗客が異口同音に「寒!」と言っている。予想はしていたので、こんなものだとは思ったが、自分の体の非対応ぶりが予想外だった。体内サーモメーターが、すっかり関西人化していている。雪国の民の誇りを失いつつある。

           野球を見ているうちに兄家族も到着し、ミラーを全く打てないカブス打線の沈黙にぐむうとなっているうち9回も終わった。それで法事が始まるまでの時間、姪はテストの復習をやっている。聞けば、この前の中間試験の国語が芳しくなかったらしい。姪は書道で賞を取るくらい字が綺麗で、漢字もよく知っているが、読解が苦手とのこと。古文で、女が好きな男に気持ちを伝えたら、鈍い男が頓珍漢な返答をしてきたという話の意味がさっぱりわからない。なぜこの2人は合理性を欠くやりとりをしているのだろう?と、安手のSFに出てくるアンドロイドのように恋の機微がちんぷんかんぷんのようである。

           その姪が、全巻そろえたから読んでみろと、やや威張り口調で「聲の形」を差し出してきた。映画にもなった話題のマンガ。さっさと読み終えて感想を言うてやらねばならぬだろうという配慮と、エドワード・スノーデンの本がちっとも読み進まないという2つの理由で一気に読み終えた。

           よく描けた力作だった。ただ、その「よく描けている」部分が、高校生の生傷なので、非情に疲れたというのも正直なところであった。同時に、これを読んで面白いと思った姪がなぜ古文の単純な恋愛の話が理解できなかったのか不思議なのだが、千年昔の人間のみやびなやり取りに対して、学校が舞台なので身近なのが大きいのだろう。

           小学生時代、聴覚に障害のあるクラスメイトをいじめた経験のある男子高校生の贖罪の物語である。いじめをエスカレートさせた結果、その女子は転校し、今度は男子当人が「やりすぎだった」といじめにあう。そうして人付き合いができなくなり、できるのは自己否定のみとなった男子が、高校生になりいじめた相手と再会する。人間同士のまともな関係性を築き直したいと男子は奮闘することになるが、その過程で、かつてのクライスメイトも登場してくる。あるものはいじめに加担し、あるものは味方をかってでて挫折し、あるものは傍観者だった。これら各人の立場を、嫌なヤツも含め、丁寧に描いていると思う。

           さてこの、引いては人間の差別意識を、ある程度多用な視点で描いている作品がヒットしている世の中で、どうして実際の差別は理解されにくいんだろうなあと、ナイーブなことをつい考えた。最近でいうと「土人」もそう。大阪府知事がどうせその手のことを言うだろうという程度の知性しか持ち合わせがないことは前からわかっていることとはいえ、まかり通っているということはあんまりピンと来ていない人が多いのだろう。それこそ姪と同じで身近ではないからか。だとすれば中学生レベルなんだけどな。

           本作では、いじめを巡って、差別の発露のようなものが色々と描かれている。例えば、主人公のこの男子は、小学生時代、耳が聞こえないというクラスメイトに向かって、耳元で「わっ」と大きな声を出すいたずらをする。本当に聞こえないのか試したいだとか、ウケ狙いだとか、理由としてはそんなところだろうが、許される行為ではない。だが、当人にすれば「ただふざけただけ」だ。このような、行為の重大性と本人の無邪気さのズレが、しばしば差別の不幸や無理解を生み出している。

           最近だと、アイドルのナチス風の衣装が典型的だ。「差別を強力にやった側」の真似だから、「差別問題」にくくると微妙に違和感があるかもしれないが、構造は同じだ。作って着せた側は、無知に無邪気にやったのだろうが、結果はアウトである。こんなそれこそ狄閥瓩任呂覆は鱈瓩犬磴覆ても、日常のちょっとしたやり取りの中にも、同じ構図が顔を覗かせることはいくらでもあろう。「褒めてやってるのに何がセクハラだ」とか、昨今こういう人は減っただろうが、これと同じようなことだ。何せ当人は無邪気だから可能性はいくらでもある。俺もいくらかやらかしていると思う。

           こういう場合、「それは差別だからやっちゃいかん(言うたらいかん)」という線引きは、変な言い方になるが、便利だ。いちいち、いいのか悪いのか、なぜダメなのだ、という議論をしなくてすむからだ。ただしその便利さ(?)のせいで、線引き自体に反発を呼ぶことがある。「言葉狩りだ」だとか「差別だと強権的に断罪してくるその姿勢が差別だ」とか。もちろん、ケースによって色々だろうし、議論はあってしかるべきだが、「それは差別だ」という線引きの多くは、悲しみ怒り死屍累々の重厚な歴史によってできているということは重々留意しておく必要はある。その安くてペラい反論を垂れる前に、アウトにされる事情にまずはよくよく思いをいたしてごらんよ、ということだ。


          軽くて重い色々と意外な本だった

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             売り切れ続きで入手困難らしい。

             ネット上ではよく話題になっている⇒けどよくわからない団体⇒なのにテレビ新聞ではあまり取り上げているのを見たことがない

             必然関心も高まるというもので、俺もそうだ。ついでにいうと、それが本になったというのが大きいのだと思う。ネット媒体での連載記事が元になっているから、パソコンその他、端末の電源を入れれば読めるものであり、加筆修正もあまりしていないらしい。なのにこの売れ行き。何だかんだいっても「書籍化」というのが、2016年春時点での出版物の置かれた地位ということだ。

             テーマ性もあり、かなり急いで出したようで、そのせいか誤字が散見したのが玉に瑕だが、一気に読んだ。本を一気に読破するのは、我を忘れているという点で酔っぱらって喋りすぎるのと似た幸福がある。酔っぱらってしゃべりすぎるのは翌朝後悔の大群が押し寄せるものだ。読破は後悔はない一方、しばらくぼーっとなって、大抵は陰鬱な気分がやってくる。その点もやや似ている。本書については、内容のせいで陰鬱な気分が濃くなった。濃いというよりは、異質といった方がいいかもしれない。想像していた内容とはちょっと違ったからだ。大袈裟にいうと、奇妙な、不思議な本だった。

             この不思議さは、構成によるところも大きいと思う。
             序盤は色々な本や資料を並べながら展開する。学術書のようなアプローチのまま進むのかと思ったら、途中から現場レポートや関係者のインタビューが入り、俄然ドキュメンタリーの色合いが強くなる。ネット連載時は、全体の設計図があまりないまま、明らかになったことを随時掲載していったからだろう。ただ、歴史がかなり古いものでありつつ、現在進行形であるものを対象にしているから、自然とそうなったともいえる。というか、著者自身がそんなようなことをあとがきで書いていた。いずれにせよ、多面的なアプローチというのはこういうのをいうのだろうと敬服させられた。

             内容について。大雑把なくくりでは、「WiLL」「正論」「アパホテル」あの辺の人々の話だ。ただ、個別の主張には本書はあまり立ち入らない。一部ちょっとした毒づきはあるものの、「いつもの話」という具合にざっくりまとめてしまっている。主眼はタイトル通り、この「会議」が何もので、どういう風に力を伸ばしてきたのかにある。そしてその歴史的経緯が詳らかになったとき、「そのもの」自体はとても軽く、突き付けてくるものは相当に重かった(サイズも新書なので質量体積は小さく、内容は濃かった)。ちょっとしたどんでん返しといってもいい。

             ノンフィクションのまとめは、しばしば「我々一人ひとりの問題だ」という具合になる。それしか終わらせようがないし、事実そうだし、なのだからだが、本書の場合は、このどんでん返し的な内容を踏まえれば、まったくまさしくその通り、「我々一人ひとりの問題だ」といえる。陰鬱な気分が濃い、ないしは異質というのはその辺りによる。

             ただ、裏を返せば、これは、なすべきことを地道になすことの有効性を明らかにした本ともいえる。地道というところが気が重いが、人生自体がそういうものだからやむを得ない。この本自体も膨大な資料を繰ってできてるし。なので俺も君も、なずべきことを地道になすしかないのである。と、これがノンフィクションでよく見る「まとめのためのまとめ」である。

            データにまつわる健全で楽しい話

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               球春が到来している。岩隈と青木のマリナーズが注目されているが、イ・デホもしれっと加わっていてなかなかにしたたかな選手である。

               個人的に気になっているのは、ヤンキースに新加入のスターリン・カストロで、無論、単に名前だけの話である。米国とキューバが国交回復をしたのだ。時代も変わった。そんな象徴のような選手であるが、現時点では可もなく不可もない。
               もう一人はブレーブスのベッカムで、これまた名前だけなのは言うまでもない。元広島‐巨人のキムタクみたいなものである。キムタク同様、地味にこつこつ実績を築いてほしいものだ。ところでドナルド・トランプはメキシコ国境に壁を築くというが、米球界はメキシコ出身の選手も多い。ホンマに壁が出来ると、メキシコ選手はそれを越えてやってくるから、外野手はみんなフェンス際の魔術師たるホームランハンターになるのではないだろうか。

               昨年は、青色だらけのポストシーズンだったが、改めて振り返ってみると、青いチームはメジャーの場合、そんなにチャンプにはなっていない。それというのもヤンキースとレッドソックスとジャイアンツのせいだが、青いチームが優勝したのは93年のブルージェイズまでさかのぼる。このころは、モリター、アロマー、カーターと、なんだか似たような名前の選手の活躍で92、93年と連覇している。なので再び青色ロイヤルズの連覇というのも考えられるが、近年、連覇は相当に難しいので可能性は低い上、この法則が適用されると来年はストライキでシーズンが中止になる。ストライキの年に快進撃を続けていたのは今はなきエクスポズだった。あのチームも青かった。

               とりあえずは昨年いいところまで勝ち進んだメッツ、カブス、ブルージェイズあたりがまず思い浮かぶが、ポストシーズンを騒がせたメッツの本塁打男マーフィーは、ナショナルズに移籍していて、MLBは、選手の動向についていくのが何とも難しい。マーフィーに加え、ドジャーズのグレインキーもダイヤモンドバックスに移籍していて、いずれも赤いチームである。だから何だといわれると、これ以上話は続かないのだが、赤いチームからやってきて青いチームに加わった前田に頑張ってほしいものだと無難にまとめてしまう。ちなみにダルビッシュのレンジャースは、日によって赤になったり青になったりするか何とも節操がない。

               さて、「マネーボール」から十余年、写真のような本が出た。まるで日経ビジネスの記事のようなタイトルだが、ビッグデータにまつわる話が往々にして詐欺師臭が漂うのに比べ(偏見)、確かにビッグデータに基づいた野球の話である。マネーボールその後、といっていい内容だが、本書で描かれる年代は、一部マネーボールともかぶっているので、マネーボールB面ともいえる。
               

              なつかしい納得

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                 なるべくこの手の本以外の本を読みたいと思っているのだが、人様の評を聞いてすぐ手に取ってしまった。この筆者の本を読むのは相当に久しぶりだ。俺の中では初期のゴーマニズム宣言に出ていた人、という理解で、作者の小林氏同様、すっかりお歳を召された方、という理解でもあった。しかし、かなりズバズバグサグサと、活性化した言葉が躍っているという印象で面白かった。相当にひねた嫌みな人なので、読んでいるうちに胸やけがしてくるところはあるのだが、いちいち編集者が反論している構成のおかげで多少なりとも中和される。出版社の面目躍如みたいな本でもある。

                 本書が指摘しているのは、筆者当人にそのつもりはなくても運動家たちへの叱咤激励となっている。なぜ勝てないのかという分析は、勝つための処方箋でもあるから当然そうなる。筆者の執筆意図はロゴスの退廃が捨て置けないから、ということらしいが、そこで述べているところは、すでに紹介したナチスの本や文学部の本のときに感じたこととほとんど同じだ。ある時期の読書傾向はしばしばこうして重なり合うものだ。

                 読んでいて「確かになあ」とか「なるほどなあ」なんて思う、この「なるほど」の感覚が個人的には懐かしかった。さっきも述べたが、この筆者のことを知ったのは初期のゴーマニズム宣言で、あのころ俺は大学生だった。一応補足すると、あのころのゴーマニズム宣言は、その後の作風とはずいぶんと趣を異にする。同じ人間が書いているから、根底には同じものがあるのだろうし、その後の展開の萌芽を読み取るのは後から見れば容易だろうが、とにかく違った。ま、ここでの違いとか変遷とかは本題ではない。とにかく、あのころ「なるほどなあ」と思った感覚と、久々に再会したような気分だった。

                 どういうことか。説明するとだらだら長くなる。だからダラダラ書く。
                 

                正しかったささやかな事実について

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                   ハマグリは新明解国語辞典が最も推す貝である。よくわからない人は、「新明解 ハマグリ」あたりで検索すればすぐに引っかかると思う。「おいしい」という好みの問題を語釈に載せる独特の感性について、笑うのも呆れるのも容易なのだが、ここでの個人的な問題は、ハマグリを食べたことがない、ということだ。幼少期に食べたことはあるのかもしれないが記憶にない。白バイ貝なら嫌というほど食べた。子供だったのであまりおいしいと思わず、もったいないことをした。

                   ハマグリと縁がないのも売ってないからで、売っていても今一つ食指の動かない中国産である。だったら隣に置いてる「熊本産あさり」でいいか、とついそちらに手が伸びるのが常だ。

                   それが先日、仕事の帰りにスーパーに寄ったら、三重県産ハマグリというのが売っていた。それも半額シール付きで。ほんとに三重県産かどうかは知らないが、ほんとに半額なのは確かだろう。それで試しに買って帰った。ハマグリは潮汁と決まっているらしい。昔読んだ「三丁目の夕日」に書いてあった。一平のお母さんが味噌汁にして、お父さんが「潮汁に決まってるだろう!」と激高するシーンだった。記憶があやふやで、一平の家族ではなかった気がにわかにしてきたが、とにかく潮汁らしい。食べたことがない。当時も読んだとき、塩水のようなものを想像してマズそうだと思ったものだった。

                   しかし今時は、日本の食卓を陰に陽に操る全知全能のマザーコンピューター、クックパッドがあるので、書いてある通りに汁を作った。これが本当に潮汁なのかどうか知らないが、本題は汁ではないのでどうでもいい。

                   何が言いたいかというと、ハマグリは確かにおいしいということだった。見かけはあさりと区別がつかないくらいなのにまったく違う。なめらかというのか繊細というのか、とにかくおいしい。あの語釈は正しかった。

                  束縛と魅惑

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                     もう一冊はこれ。歴史のお勉強として、素人にもよくわかる本だった。単にわかりやすいだけでなく、展開されている洞察が深く染みる文学的な本でもあった。

                     タイトル通りの内容だ。ヒトラーがどのように政権を取り、数々の(明らか忌まわしいのも含め)政策をどういう手順で遂行していったかを解説し、よく言われている説、例えば失業者を減らしたから圧倒的支持を得た――、等の当否を検証している。
                    そして本書は歴史を検証する意義自体も明らかにしていこうとする。実のところ俺が歴史で知りたいことの中でもかなり大きな割合を占める部分でもある。

                     例えばそれはこういうことだ。ナチスが隆盛を極めていた当時を生きていたドイツ国民のうち、少なくない数の人々が、戦後「あのころはよかった」と振り返っていたという。それはなぜなのかを本書は考察する。別にヒトラーもいい面があったとかそういうちゃちな話ではない。当時の人が一体何を考えていたかということだが、もう少し説明が必要だろう。

                     日本で、政府がなにがしかの強権的な側面のある法律を制定しようとする場合、「治安維持法の世の中が再来する」とか「再び戦争への道を突き進む」だとかの言説で批判するパターンは、共産党を筆頭にまま見られる。ショッキングな言葉を使うことで警鐘の効果をより高める狙いだと思うが、大抵は逆効果に働く。大げさだとか、んなわけあるかとか、しばしば鼻で笑われる。いや笑うならまだしも「またか」が重なりすぎて大抵の人は無反応だろう。

                     この前も、憲法の緊急事態条項がどうのこうので、野党にナチス云々と批判された首相が名誉毀損だとばかりに反論をまくしたてていた。ナチスだのヒトラーだのといった批判は、かの政党なり人物なりがユダヤ人虐殺という悪逆非道なことをやったお陰で「お前は人間以下だ」という悪口に響きやすい。というわけで反論も「失礼なことを言うな」になる。
                     野党の姿勢を批判したいわけではない。まあ言葉の選び方はもう少し工夫があっていいし、何かというとすぐ感情的になるあの首相の線の細さもどうにかならんかねと思うが、いずれも本題ではない。

                     俺が知りたいのは、本当にナチスと同じなのかそうでないのか、どこまでが一緒でどこからが違うのか、ということについて、当時の世論の受け止め方も含めたあれやこれやである。
                     よく言われるように、ヒトラーは選挙で政権についている。フビライ・ハンのように強力な軍隊で国ごと奪ってしまったわけではない。ということは、ナチスの進めた政策には一定の世論の歓迎や後押しがあったわけで、単に彼らがどうしたというだけでなく、当時の人々がどう受け止めたかが検証事項としては重要になる。
                     山川の教科書では、このあたりのくだりについては、「当初過激な思想に懐疑的だったが、大衆宣伝に動かされる人が多くなり、産業界や軍部もヴァイマル共和国を見限った」という程度の記述がなされている。読み方によっては、「騙された」とも読めるのだが、そこはさて置き、これだけだと動きの速い昔の白黒映像を見ているような、単に記録をなぞっている気分にしかなれない(山川の教科書は改めて読むと案外細かいことまで書いてあって結構面白いのだが)。
                     でも、そう遠くない時代の同じ近代国家でのお話だから、当時の人間の気分は、今の我々とそうそう異なるわけでもない。改めて辿ってみると自分たちに重なって見えたりすんなり腑に落ちたりすることは少なくない。例えば本書では、物事が決まらないヴィマル共和国の現状に飽き飽きしてきた国民が、強いリーダーシップを期待した様子が明らかにされていて、これなんかは一体どこの話だという気にもなる。

                     つまるところ、ああいう世界に「戻る」危険を誰かがもたらすのではなくて、ああいう世界を生み出したものは、今でもすぐそこにあるということだ。ちなみに筆者によると、「ファシズム」という語の基底にあるのは「束縛」と「魅惑」であるという。こういう怖さを皮膚感覚で伝えるのは、フィクションの方が圧倒的に強いと思うし、作品は映画だけでも結構ある。ここでも何作か紹介している。
                     本書でも、学術研究で明らかになることは今後あまりないとした上で、フィクションに期待をかけている。その中で紹介しているひとつが、以前にここでも取り上げた「ハンナ・アーレント」であるが、命令に従って職務を行っただけと弁明する「凡庸な悪」のアイヒマンは、判決を聞いた後も決まり文句しか言えなかったとある。
                     不祥事で顧客に死人を出した企業の責任者が「遺憾です」「今後は再発防止に向け」くらいしか言えないのと同じであるが、ここで問題なのはその人の乏しい言語感覚ではなくて、そういうことしか言えないくらいに自由な思考を奪われてしまったからこそ死人が出るという構図である。「束縛と魅惑」の真意はそこにある。別に誰かに無理やり檻の中に入れられ鍵をかけられているわけではない。入ったときは無理やりだったとしても、鍵をかけたのは自分かもしれない。だからここでまた「考える」という話になる。

                     判で押したような野党の批判の修辞法が力を持たない理由もここにあるだろうし、それをせせら笑う側も、自らが束縛・魅惑の中にいないか点検しなければ、笑っている暇はないのである。

                    「ヴァイマル憲法とヒトラー」池田浩士 岩波書店 2015年 

                    文系学部解体

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                       さて、テレビにいちいち引っかかった理由のひとつは、2冊の本を読んだせいだった。
                       一つ目はひところ話題になった教授の著作だ。俺自身が大学に出入りしている身分だということに加えて文学部出身でもあるから興味を惹かれるテーマだ。

                       俺は教授でも助教でもないので、実体験としてそこまで詳しく現場の状態を知っているわけではないが、出入り業者として見えるものだけでも共感する点は多分にある。例えば本書の冒頭には、大学と聞いてイメージする大学の様子はすっかり過去のものだという話が出てくるが、まったくその通りだと思う。例えば俺の同世代の人が思っている大学の姿とは、今はだいぶ変質している。なにせ当の俺なんかが教壇に立ってるくらいだ。

                       それもなんと単発のガイダンスだけではない。昨年は、某私大で単位のつく正課授業を担当した。演劇の授業でもなければ無論カニの食い方講座でもない(こんなもん10分で終わるし)。ちなみに立場は非常勤講師ですらない。じゃあ何だといわれると説明が難しい。とにかくよくわからん外部の存在として前期15回を教えた。15回というのは文科省の通達なので厳守されるのが当世風だ。
                       15回をやるには休日も授業をしないといけないので、ハッピーマンデーも学生にはただのブルーマンデーになる。そんな授業に誰が出席するのかというところだが、出席を取るのが異常に厳しいのも当世風なので8割以上が顔を出す。
                       そして15回のうち2回アンケートを取る。別に俺が怪しげな身分なので厳しくチェックされるというわけではなく、全部の授業でやらねばらならないことが本書では説明されている。当然有意義な回答など得られるはずがない。面倒くさいから、学生も適当にマークを塗りつぶして提出するだけだ。ただのお役所のアリバイ作りに付き合わされているだけだから、若人への悪影響が懸念されるのは筆者の指摘する通りである。

                       筆者の教授は、学生に対する愛情や、教育への熱意が随所にうかがえて、尊敬すべき先生だとお見受けする。書いていることも全くその通りだと思うが、一体どれくらいの人が賛同するのだろうと余計な心配をついしてしまった。世の中、教員と学生は何かと批判される。世の中を知らない甘えたれという文脈で扱われることが多い。この本の内容も、そういう風に受け取られることを勝手に危惧する。なにせ「忙しい」というのは他人にはなかなかわかってもらえないものだ。「俺の方が忙しい」とみじめ自慢合戦になるのが常である。

                       さらには、世の会社員は、教員が世間知らずだと非難すると同時に、自分は「世間知り」だと無自覚に思い込んでいるものだからさらにわかってもらいにくい。日本人の7割がサラリーマンだとかいうから(本当かどうか知らないけど)、サラリーマンのリアルと、世界のリアルが同一視されやすいんである。とはいっても彼らだって残り3割のリアルについては知らないはずなんだけどね。

                       とにかく、くだらない役人のくだらない指示によって大学の現場がくだらないことになっていることについては、「バカな官僚が」がお約束の石原慎太郎が好きな人あたり、もっと共感していいと思うのだが、俺の根拠のない予測によれば、石原好きには「ウチの職場だって似たようなものだよ(だから非難は当たらない)」と言う人の方が多いような気がする。不便な方不便な方に辻褄を合わせる志向である牙を抜かれた現代人たちよ。「ウチの会社だって同じようなものだから、そういうのよくないよね」の方に行ってほしいものだ。

                       俺自身は、当世風の大学改革の利権のおこぼれに預かる身だし、ことさら役人をこき下ろしたいとも思わないのだが、この手の話に引っかかるのは、それこそ「ウチの会社も同じ」だからだ。

                       会社勤めではないから、この場合の「ウチの会社」に具体的な社名は入らない。ただ具体的な現象が入るだけだ。それは例えば、本書でも紹介されているPDナントカサイクルみたいな、ごくごく当たり前の作業にもったいつけた名前を冠してとても大事なもののような位置づけを与えた上で、その言葉だけがひとり歩きして内実な空っぽ、みたいなやりとりをされるのがとても面倒でイライラする、というような不利益である。内容スカスカのパワポの資料をもったいつけられて見せられ、そのくせ肝心の部分の確認がおろそか、とか、演劇論や「演劇に悩む演劇人の演技」はいいから、とりあえずさっさと台詞覚えなよ、とかである。

                       さらに俺の場合は、仕事そのものにも大きく影響してくる。学生自身が「私はひとつの気づきを得た。それは相手に寄り添うことだ」というような、「仕事ごっこ」と同種のスッカラカンワードで武装してくる。その武装解除が俺の仕事である。大学牴革疝権に乗っかってお金をもらっているといわれても、そのとーし!としか言えない存在であるが、その改革を支える思想が学生にまき散らすスッカラカンワードの悪影響と日々戦っているわけで、結構矛盾したわが身の立場なのである。
                       とにかくこれまた根拠の乏しい俺予測によれば、スッカラカン言説が歓迎される就職先はろくな企業ではない。そして学生の就職に限らず、そこに疑問を持たない人には、面白いと思うものを共有してもらえない。だからこそ、「考えること」を求めてやまない大学教授の側に俺は組する。

                      「文系学部解体」室井尚 角川新書 2015年


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