ウニを最初に食べた人

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     前掲書では、満洲国建国後、移民した日本人が使っていたピジン、つまりこの場合は日本型中国語が紹介されている。そのほとんどは満洲国崩壊に伴い消えてしまったのだけど、生き残った言葉もいくつかあると読んでいて感じた。子供のころ使っていた意味不明の言葉と同じ文字列のものがあったからで、これは別にこの本に明記しているわけではなく、自分の幼少期を振り返って勝手にルーツを見つけた気になっただけという話である。

     

     子供の使う言葉、特にローカルなわらべ歌の類に歴史が刻まれているというのは「マスター・キートン」でも出てくるそれこそ「あるある」だろう。この本もそんな話から始まっている。


     アメリカ英語の成り立ちを分野ごとに追いかけていく内容だ。どちらかというと、「言葉」を切り口にしたアメリカ史の本といった方がいいかもしれない。英語圏の人なら単語等の話も「へえ〜、なるほど」と楽しめるのかもしれないが、高校英語止まりの身にはよく知らないマニアックな単語や言い回しがかなりを占めるので、その部分はろくについていけない。せいぜい、ロックバンドのバンド名や曲のタイトルなんかに使われているよくわからない英語の意味と成り立ちをいくつか確認できたくらいか。


     一方で歴史の話はとても興味深く読める。この著者は、網羅的なテーマを面白く書くのが滅法巧い。視点はマクロ的なくせに、小噺のような細かい話が随所に盛り込まれ、ついでにアングロサクソンお得意の皮肉が利いていてところどころ吹き出してしまう。例えば、アメリカ建国史の始祖たるピルグリムファーザーズは、乗り込んだ新大陸の大地や海がとても食べ物に恵まれていたのに、ヨーロッパから持ち込んだ食べ物以外ちっとも口に入れようとせず「豊穣の地で餓死しかけた」とか。また、7/4が独立記念日である必然性がないことや、タイヤで有名なグッドイヤーの秘話(悲話)など、それぞれはトリビアルに面白い話ながら、結構バラバラに見える種類の要素を破綻なくまとめていく技量がものすごい。


     このピルグリム・ファーザーズは、新大陸に移り住むという相当な冒険心で未知の大地に上陸したくせに、誰も鋤や鍬を持ってこなかった(その代わりに歴史の全集は持参していた)サバイバル能力に著しく欠けた人々だったらしく、結果全滅しかけたところをインディアンに助けられてどうにか生きながらえたらしいのだが、インディアンたちとどうやって意思疎通したかというと、英語を話せるインディアンがいたからだという。

     どうして遠く離れた地に、そんなご都合主義のバイリンガルがいたかというのは本書に譲るが、これを読んでふと思いついたことがある。ウニを食べるたび、「初めてウニを食べた人はどうやってこれが実は食べれると判断したのか」と、決まって誰かが言い出すこの長年の疑問の答えだ。「食べたことのある人に教えてもらった」が正解ではないか。

     

     こんな辻褄の合わないことを考えたのも、言葉をさかのぼっていくと何かと拡散していくと知ったからだ。
     北米はイギリス人以外にもフランス人やスペイン人が入植していた地域であり、もともとインディアンがおり、建国後も欧州各地から移民が押し寄せたから、アメリカ語は英語をベースとしつつも、これらの人々の言葉が混ざり合って出来ている。さらにイギリス人と一口にいっても方言があるから均一な英語を話していたわけでもなく、ついでにイギリスの先住民たるケルト由来の言葉もあったりする。

     そういうわけで、単語の意味が変遷するだけでなく、綴りや発音も時代によって大きく変わってきた上、過去にいくほどバリエーションが豊富になる(録音技術のない時代の発音がなぜわかるのか、については結構面白い)。これはおそらく、移動網や通信網、あるいは公教育の発展と関係しているのだろう。これらの発展によって〈標準語〉は確立・定着していっただろうから、これらが乏しい時代には、言葉の均一性はどうしたって下がる。

     

     なので日本語でも、ある言葉が「本来の意味と違って使用されている」と、よく文化庁や雑学本や教養バラエティ番組が指摘しているが、「本来の意味」とは、果たして確定しているものなのかという疑問が湧いてくる。「〇〇の本当の意味は◇◇なのに、テレビなんかでもよく△△の意味でつかっている」というとき、まるで昭和のころくらいまでは「本当の正しい意味」で使われ続けていたのに、最近になって言葉の乱れで違う意味になっている、といわんばかりのニュアンスが漂うものだが、そんな固定された岩盤のようなものは果たしてあるのか、と思ってしまう。そういう俺も、この手の国語雑学本の原稿を依頼されて書いたことがあるのだが。

     

     そして発音の変遷を見ていると、「正しい発音」にうるさい人が教条主義的に見えてしまう原因も見えてくるというものだ。まあ俺の場合は、教師もクラスの全員も思い切り訛りのある日本語を話している中で「正しい発音」とか言っている時点で、どこか不条理演劇だったものだ。

     

     「正しい発音」を練習することは、その言語に対する敬意、理解にも通じるから大切なことではあるにせよ、本書によれば時代によって相当に異なる上、英語の場合は世界のあちこちで公用語にもなっていてその国の訛りで発音されているだけに、1つの型を正解として示すのはそれはそれで問題がある(そもそもアメリカ語自体、イギリス人にはまったく理解不能だった時期もあるらしい)。まあ結局のところは通じるか通じないかだよね。

     

     俺の場合は、旅行や旅行者の道案内くらいでしか英語を話す機会はなく、大抵通じるので、ま、このカタカナ発音でいっか、くらいに開き直っているのだが、中国語発音はひとつも通じなかったので、「背後」を「せご」と読むのと大して変わらず、修正の必要性は大いにある。ほぼ諦めているが。


    うすら寒い台詞の考察

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       ベストセラー放言作家が日本史の本を出して、これが結構な事故本だとして話題になっている。歴史って、あんまりそう思われていないような気もするが、高度な数学と同じで素人では結構手に負えないもんすよ。


       その話がしたいわけではない。この男の品性を知らないころ、一冊だけ買ったことがある。話題になっている小説をたまには読まないといかんのじゃないかという義務感に、発作的に襲われたせいだ。それで例の戦闘機乗りの作品を読み始めたのだが、すぐにやめた。巷間言われているようなテーマ性等に引っかかったわけではない。台詞が妙に気色悪くて耐えられなかったからだ。

       

       試しに自分で書いてみるとすぐに確認できると思うのだが、「現代人の会話」を我々は普段常に耳にしていて自分も話しているはずなのに、いざ作り事の会話として書こうとすると、途端に作り物臭い不自然な調子になる。例えば「んもう、しょうがないんだから」とか「ば、ばっかやろう」とか、「さあね、どこかの誰かさんのせいなんじゃないか」とか(あくまで今思いついた例)、こんな喋り方するやつ実際おらんやろ、というような言葉遣いが目白押す。

       

       これはおそらく、「型」をなぞっているのが原因だ。小学生が図工の写生で、山を絵具チューブから搾りたての緑で、そして地面を同じく既存の茶色でそのまま塗りたくってしまうのと同じだ。極端な言い方をすれば、そう見えているから塗っているわけではなくて、「樹木=緑」「土=茶色」という色使いの約束事をなぞっているだけだ。まさにカントがいうごとく、見て認識するのではなく、見たものに自分のイメージを与えている。


       そして子供ならいざ知らず、絵描きと名乗る大人が描いた作品が約束事だけで塗りたくられていた場合、マジかと驚愕してしまうのと同様、型をなぞった台詞も読んでいてゾッとしてしまう。そういうわけで、まったく本題に入る前に本を閉じてしまったのだった。

       

       そのような類型的台詞の代表格として、女性の「だわ」、博士の「じゃよ」と並ぶ中国人の「アルヨ」について、その成立過程を追ったのが本書だ。俺が学生時代に所属していた学科の人が好きそうなテーマだと思ったら、俺が学生時代に所属していた学科の先生の著だった。

       

       別にゼンジー北京の発明というわけではなく、幕末〜明治の開国期にルーツはさかのぼる。そして相手が中国人だけに、明治以降の帝国の歴史がそのまま重なる。
       「アルヨ」は、まったくの創作というわけではなく、実際にあった言葉遣いの一部がことさら抽出されて類型化したようで、さらにそこに好ましくない歴史の歩みも混ざるから余計に諸々問題を孕んでいる表現だとわかる。「アルヨ」に限らず、人間を単純なカテゴリーに分類してそれを象徴する言葉遣いなり外見なりを記号として使い回すのは慎むべきとされるのがなぜなのか、顔の黒塗りよりは日本社会にとっては身近でわかりやすい素材かもしれない。


       まあ作り事の表現行為に記号は付き物なので、「やめましょう」「はーい」で済むことでもなく、時にこじれてしまうこともあるのだけど、手垢のついた表現をいつまでも使い回してもつまらんやん、という姿勢くらいは持ち続けておきたいものだ。
      例えば芸人がよくやる「日常風景のモノマネ」が面白いのは、いわれて初めて「あるある」と気づかされて共感するからで、言われる前からわかるようなことを披露されても古臭くてつまらないものにしか映らない。とはいえ、いわれて初めてわかるからこそ、自分が記号に縛られているのも気づきにくいのだろうが。

       

       そういうわけなので、台詞が類型的で寒いというのは、単に通ぶって細かいことにいちゃもんをつけているわけではなくて、ときにとても危ういことを含む無頓着な行為だといえるのである。


      二十年弱目の真実

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         NHKのドキュメンタリー番組の書籍で、制作チームの一人が筆をとっている。今一つ興味が持てないでいた。大手新聞が連載記事をベースにまとめた書籍を過去にいくつか読んだことがあるが、テーマの魅力に比べて中身が低温というものばかりだったせいだ。

         会社の名前で出す分、個人の作家が書くノンフィクションと違って、個々の記者の熱量がかき消されるからだ。そもそも日本の新聞記者は熱量を持たない訓練をされている。結果、学者の書く新書、選書の類より無味乾燥な印象を受けるケースもある。しかし、世評が高かったので読んだ。


         かなり読ませる内容だった。特に中盤以降はよく出来た小説のように一気に読んだ。筆力もさることながら、金の力もものをいっている。世界地図版松本清張のように、関係者を訪ねて世界のあちこちへ足を延ばすのだが、個人事業主ライターにはなかなか真似できない。サラリーマンの強みは、旅費交通費の支給、だけではなくて、前払いもしくは遅くとも翌月払いの点だよね。さすが、過去の話については相当の企画制作取材能力を見せる特殊法人である(海外スポーツ以外で「今」の話を的確に取材・放送する部署はこの法人には存在しない)

         

         さて、日本が初めてのPKOで警察官に死者が出たことは、当時リアルタイムで知っていたが(当時のNHKにはニュース部門があった)、その事件発生の背景にあった事情についてはさっぱり知らなかった、という制作側が期待する反応を思い切りなぞる驚きを感じた。
         その警察官たちへの取材が本書のメインを占めるのだが、当時の隊長が主人公の一人である。政府の事なかれやお役所仕事、UNTACの権威主義に翻弄され、時に悔しく惨めな思いもさせられる様子が活写されていて、読んでいるこちらは自ずと感情移入してしまう。それでエピローグに出てくるその後の隊長の経歴を読んで、マジかよと目を見開いた。間接的に知っている人だった。それも「要らん改革ばかりする迷惑な上司」という悪口を聞かされていたから、感情移入がにわかにぐにゃぐにゃと変形してとらえどころが難しくなってしまい困ってしまった。


         この隊長は部下たちの激励と情報連絡手段として部内報をせっせと発行するのだが、そのタイトルが自らの名前を冠した「山崎軍団ニュース」。読みながら、そのネーミングはどうなんだと軽くつっこんでいたものだったが、確かに、部下が閉口するくらい熱心に口を出したがる上司という聞かされた悪評と重なる部分もありやなしや。


        掌中の読書

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           台湾から帰国して、結局来なかった学芸員の友人と会って飲酒したのだが、必然話は故宮博物院の展示になる。写真を見せて気になったことを質問すると、「ああ、それはね」と即答してくるところはさすが専門家といったところだが、最も気になるのはやはり、どうやって持ち出したかだ。


           戦争をやってる最中に、それも負けが濃厚で撤退戦をやっているときに美術工芸品を渡海させたのだから、狂気の沙汰にも思える。それもいい物を選りすぐっているのだから、戦争中に何をやってるんだという話にも思えるし、他方で、それを実行できる専門家がいないと素人にはどだい無理な作業でもある。ついでに故宮の文物は、台湾に行く前は、攻め入った日本から守るために、北京から南京をへて、蜀の山奥へ、まるで劉備玄徳のような疎開の旅をしている。日本通運が舗装道路をトレーラーで運んだわけでもないから、それだけとっても想像のつきにくい話である。

           

           それで早速検索してみたら、格好の本があって、著者がやっぱり野嶋剛だった。ついでに別の日に、某大学の図書館でぼけーっと蔵書の棚を見ていて、おや、おもしろそうなマンガがあるぞ手に取った。文革時代を舞台にしたマンガだが、訳者が野嶋剛だった。
          俺が「知りたい」と好奇心を持った先にいちいち現れるこの人、もしかして「超優秀な俺」なんじゃないかと思ったが、要するにあれだよね。西遊記の悟空と釈迦の掌の話だよね。そんなに年の変わらん俗人同士のはずなんだけどなあ・・・。

           

           まあこういう歴史の裏話を手堅くまとめるのは学者よりは記者の得意な仕事だろう。知りたいことは概要ながら知れたし、ずいぶん面白くも読んだ。一度も外に出したことがなかったので、故宮の係員は誰も梱包の方法を知らず、骨董屋のおっさんに習いに行ったとか、日本からの疎開の際に何度も奇蹟的に破損を逃れたので「文物有霊」という言葉が生まれたとか、ホントは7回台湾にピストン輸送するはずが内戦で3回で終わったとか、10代で故宮になんとなく就職したあんちゃんが最後までこの逃避行に関わったとか、なかなかのドラマにやはり溢れていた模様。

           

           それだけでなく、俺が呑気に見物した故宮南院は、政治に翻弄された受難の果ての産物だとも知った。本書執筆時点ではまだ先行き不透明で、できないんじゃないかくらいの筆致である。にわかに、見れたことが妙に感慨深くなる。本書では、テーマパークにしたらええんとちゃうの案が出ているという当時の最新情報で終わっていたから、なってなくてよかったと胸をなでおろした。なってたら、哈爾浜のソフィア聖堂のように、荘厳な建物の隣に最新型の乗り物で遊ぶ子供がいるというわけのわからないアレと同じ様相を呈していた気がする。

           

           すでに述べたように、南部院區は、台湾原住民の文化を強く推し出した装飾を施している。本書によると元々は「もっとアジア全体に目を向けるべきだ」という発想から始まった。だが故宮においては中原純血主義とでもいうような排他的な価値観が強かったようで、そんな雑多なんいらんやろと反対も多かった。

           ついでにここには党派性も絡んでいて、「中華民国」がアイデンティティの国民党と、もう台湾共和国でええやん独立派の民進党のどっちが政権を取るかで、中原主義になるかアジア主義になるかにわかれる。出口を出たら入口かよと腐した東洋陶磁器の展示も、このアジア主義的な文脈上での特別展を解釈できる。出発点が思い切り政治だっただけに、どうしても色々つきまとうのである。本書によれば、先人の努力で昔に比べれば政治色は相当に排除されたようだが。

           

           ところで当の蒋介石が何を思って文物大移送をやったのかは今もって不明らしい。どんな意図があったのか、ほとんど何の言葉も遺していないのだとか。統治の正統を担保する皇帝の玉璽か、「RON」の黄龍玉璧みたいなものだという俺でも想像つくくらいのことしかわかってないようだ。黄龍玉璧は放射性物質で出来ていて、各国が核兵器に転用できるからと触手を伸ばすという筋書きだったが、実際に為政者が意地でも死守しようとしたのはただのよく出来た壺、というのが美術の魔性をよく現わしているね。


          成長分野の文章

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             普段やっている仕事の多くは資格試験の対策で、使うテキストは基本的に教科書というよりは問題集になる。過去問を集めた内容だが、どれくらい最新の問題を入れて更新するか、その頻度は業者によって結構差がある。年によって内容にそう大きな変化があるわけでもない科目の場合(ほとんどがそうだけど)、20年くらい前のものばかり取り揃えて平気なところもある。入替作業自体面倒くさいし、著作権の絡みで費用も発生するからそうなる。


             大手になるとプライドもあろうから、例年積極的に最新の問題を入れてくる。それでそこから依頼を受けて、いただいた問題集を開けると、国語的な問題で使われている長文に、どうやら昨年度は日本バンザイ利権的な文章が使われていたようだと知った。いよいよ浸食してきた。


             大学や高校の入試問題でも、国語の長文に使用される文章に一定の傾向があるのは昔から指摘されている通りである。それは例えばすぐ朝日新聞からとってくる安直さだったり、一部の物書きに集中するこれまた安直さだったりだが、承諾が得やすい/得にくいという大人の事情以外にも、問題文に使いやすい文章があるというのは間違いない。読みやすい文章、読みにくい文章は受験者の層に応じて重宝されたり回避されたりするし、専門語の解説のようなあまりに個別具体的な文章も使いにくい。文中に絶妙の比喩を用いていると、そこに傍線をつけて意味を問う定番の設問が作りやすかったりもする。

             

             ただそれだけでなく、やはり内容の面白さはある程度選別基準に入っているのではないかとも思う。少なくとも俺が担当している資格試験の場合、過去問の文章は特に新しいやつに関していうと面白いものが多い。西洋の庭園は〜これに対して日本は、みたいな高校生のころにさんざん読まされた逆オリエンタリズム全開のような文章は、20年くらい前の問題だとよく見るが、ここ10年以内ではあまり見ない。このため、まったく更新のない問題集で講義を依頼されると、授業準備がこの上なく苦痛になる。俺自身が読んでいて面白くないからだ。もしかすると問題作成者の読解力も昨今は落ちているので、かつては受験国語の定番だった小林秀雄なんかは敬遠されているのかもしれん。書いてることが意味不明なので問題が作れないとか。まさかね。


             ま、どうせ読むなら多少なりとも目からうろこの文章の方がよいだろうし、俺も助かる。作成者が己の趣味で選んでいたとしても、以上のような事情につき、それはそれでいいことだとも思う。特にある程度読解できる学生が相手の場合、試験としては大して難しくもないから問題を解くだけだと緊張感が維持できない。「この一見実生活とは関係のなさそうな高尚な御高説も、実は皆さんの生活に当てはまるんだよ例えばね」なんて水を向けて、おぉなるほど!なんてことになればしめたものである(というこちらの思惑通りにはならないことの方が圧倒的に多いが)。あるいは読めない学生の場合も、内容が知的好奇心を刺激する方が、読書の入口としてはよい刺激になるというものだ(というこちらの思惑通りにならないことの方が圧倒的に多いが)。

             

             という幸福な時代は短かったということか。もちろん、どの文章も内容が常に正しく完全なはずはない。時代に合わなくなったケースもある。自国の歴史文物を再評価するのが重要なことであるのは言うまでもない。ただしバンザイ利権がこれらと大きく異なるのは論旨が粗雑なことだ。幼稚といってもいい。例えていえば、日本の野球は世界一だと誇る基準が「MLBに認められた」になっている矛盾と同じような構図である。その矛盾に無自覚に書いているのか、それとも売れることしか考えておらず内容は当人にとってもどうでもいいものとしてしか書いていないのか、いずれにせよ、「ここで書いていることの矛盾に気づいた?」という他山の石としては格好の教材とはいえるものの、問題文としての一種の権威を帯びて扱われるのはどうかと思う。無邪気なバンザイは無邪気な差別偏見につながるから、余計に警戒心は働くのであるが、それと同時に、この粗雑な文章を問題文に使った作成者の知性と姿勢を大いが大いに疑わしくなるのも、これはこれで深刻である。


            本の感想と反省

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               昨年のことだったか、知人から雑誌の記事を見せられ「どう思うよ」と問われた。販売数ガタ落ちで、斜陽どころか日没にさしかかっている新聞は、いかにすれば復権するのかというようなテーマで、現職だったかOBだったか、とかく各社のエラい地位までいったおじさんたちの鼎談が載っていた。知人が言いたいのは、そこでなされている会話が十年一日状態の、いったい何十年前からそんな話をしているのだという内容で、そんな拙い現状認識だから売れないのだと、そういう話だった。確かに、まるで環境悪化で滅亡寸前のときにゴミの分別を話し合っているようなまるで現状認識が著しく欠如した内容だった。


               売れなくなってきたものをどうやって復活させるか。そんなことはまったくわからない。少なくとも中身を作っている編集の立場であれば、もっと面白い内容のものを、と考えるしかない。それが売上につながるかどうかは残念ながら不透明だが、それしかできることがないのでやるよりほかはない。でもどうやって?という肝心の部分について、何かと話題の本書はひとつの大きな提案をしている。


               色々と反省させられる本だ。一つには本書で紹介されている大手メディアが裏で使っている用語「泡沫候補」を俺も以前に使ったことがある点。ほとんど勘定のうちに入らないが、選挙の取材はちらっとだけ携わったことがある。政党が推す「主要候補」は先輩に任せていた(押し付けていた)ので、俺はもっぱらその他の面々を担当するのだが、本書のいう無頼系独立候補にめぐり合わせたこともある。
               あるときは、何を話しているのか相当理解に苦しむ立候補予定の男性が現れ、上司から「こんなわけのわからんやつ、立候補を取り下げさせろ」と命じられた。そんなことできるんかいな、というかやっていいのかそんなこと、と疑問に思いながら自宅を訪れると、すでに家族に説得されて辞退を決めた後で、その旨告げられ、余計な作為を駆使せず済んで安堵したものだった。

               これは結局立候補していない例だが、立候補に踏み切った人もいる。その人の場合、随分不思議な文字列の名前(珍しい苗字というわけではなく、占い師あたりが名乗りそうな名前とだけ書いておく)を名乗っていて、別に選挙で名乗る名前は「グレートサスケ」だっていいのだから問題ないはずだが、勝手に警戒感が生まれてしまい、一方で主張は一定の合理性がある。それで「泡沫」の扱いにするのかどうか社内でも議論になり、結果候補者が少ないこともあって「主要」の扱いになった。だが、いざ告示となると、選挙運動がかなりグダグダだったので「泡沫扱いでよかったやんけ」と怒られた。だが本書を読むとあれでよかったのだというところに落ち着く。

               

               ただし、この辺りのドタバタを後年、拙作の台本に盛り込んだのだが、描き方としてはただのキワモノだった。演じた酒井君が「おかしな人だが情熱はただならないむしろ愛すべき人」くらいのキャラクターを仕上げてくれたので結果的には反省も半分で済んでいる。本書に登場するマック赤坂などは、あのとき酒井君が演じたキャラクターと重なるところはある。
               ついでに身の回りに立候補をした人もいて、1人は昔のバイト先の社長で、もう一人は高校時代の同級生、あと演劇関係者で、知り合いの知り合いくらいの直接は特段付き合いの人がかつて立候補したことがあるという話も聞いたことがあった。前者2人は政治を志しても全然不思議ではないタイプだった上、3人目の人も外見がいかにもタダ者ではない怪優的な人だったのだが、いずれに対しても、まず思ったのは「何してんだ」という程度の感想であり、応援とか歓迎とか尊敬とか、そういう感覚は皆無だった。これまた本書を読むと反省させられる。

               

               そしていよいよ、年下の知り合いが地方選挙に立候補を予定していると知った。大学生のころから社会問題に関心がありつつ、ありすぎて空回り気味のある意味心配な若人であったから、以前なら「何してんだ」と思ったはずだが、天が挽回の機会をくれたのか、実にタイムリーで「おお、すごい」と素直に歓迎できたのはありがたいことであった。すっかり音信不通で、立候補の件も別の人からのまた聞きだったのが、偶然出会って激励できた。
               首相が大阪府連の総会か何かで来阪するというので、丁度仕事終わりの時間と使用路線が都合よかったので見物にいくと、若干名のアジ演説の若者とそれを囲む大量の警備部のお勤めご苦労さんです部隊に出くわした。そのうちの一人が彼で、ある意味偶然というよりは必然だったかもしれない。攻撃的にアジる担当と、共感を求める緩和担当の硬軟織り交ぜの軟の担当をしていて、政治家みたいななかなかに見事な話しぶりだった。そのうち、一人の紳士が無礼な演説はやめろみたいに食って掛かって警備部のお勤めご苦労様です部隊が割って入って軽いもみ合いになったのを、面白がって写真を撮っていたのだが、帰宅してPCに移そうとしたらエラーになって全部消えた。おー怖。

               

               彼らのように、政権に対する不満や反発を訴えるのは、そう感じるならそうしろという点、憲法がいう不断の努力というやつの例の一つである。ただしなかなか真似できるものでない。立候補ともなると尚更だ。なので素直に敬意を表すると、本書がいうのはまずその点だ。
               もう一つは報道について。政党のバックアップがない彼らはただでさえ徒手空拳なのだが、報道もロクに触れてくれないので公約や主張を知ってもらう機会が圧倒的に少ない。これは有権者の選択肢を奪っているのではないかというのが本書の指摘である。報道側にも言い分はあって、一つは紙面の都合だが、もう一つは独立系の人々には常人には理解しにくいぶっ飛んだ人もいること。例えば俺が出会った結局断念したあの人は、本当に何を言っているのかよくわからない摩訶不思議な人だった。仮に主張を取り上げるとしたら、相当苦労したと思う。本書にも登場する桜井某のように差別言説を振りまく候補の扱いも難しい。NHKの政見放送のように、これはこういう枠、という約束事を用意しないと、新聞が差別に加担する格好になってしまうのではという懸念は当然働く。本書も扱いに苦慮したとみえ、登場するには登場するが、あまり字数は割いていない。
               一方で、では政党がプッシュする「主要候補」はしっかりした主張をしているかというと必ずしもそうではない。与野党問わず、スカスカの主張しかできない空っぽの人も時にいるのは事実。本書はその辺りを比較していておもしろい。


               ただ何より惹き込まれたのは、独立系の人々の奮闘ぶりで、別に奇人変人大集合なキワモノ的面白さというわけではなく(たまにそんな場面もあり、男性器の俗称が「選挙」というテーマなのになぜこれほど登場するのかと不思議な本でもある)、熱い戦いぶりに結構感動する(主張には賛同できないものも多いが)。これは選挙報道のかなり強烈なアンチテーゼになっていると思う。こんな面白いものになるのかと、驚きもした。こういう報道ができれば、これはこれで民主主義の成熟に役立つだろう。売上が伸びるかどうかは知らないが。


              ドラマの感想など

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                 ドラマを何本か見ている。去年ぐらいからか、姪から「今何か見てるやつあるん?」と聞かれるから、というのが大きな理由。別にたくさんチェックして姪に気に入られようとしているわけではなく、これもひとつのいい機会だろうと思ったからなのだが、習慣があまりないので、すぐ忘れる。今年も終わりに近づき、ようやく何本か見たが、すぐ忘れるので飛び飛びである。


                 唯一通年でほぼ毎回見ているのは「直虎」で、これは大河ドラマでは出色の出来栄えではなかろうか。ドラマが歴史に着られていないというか、歴史ドラマというよりは、実話に基づく物語、に近い内容で、これはまあ、史料があまり残ってない題材だから可能だったのだろう。男性中心の歴史の中で、女性を主人公にするのは相当題材が限られる。史料の少ない人物に焦点が当たるのは必然でもあろうが、創作の自由度が高いというだけでは当然の話、傑作は担保されない。若武者に主役が移っても主人公の存在が失速しないのは見事というほかない。あと内輪向けのくだらない話題としては、上地似の役者が毎回出ているのが気になって仕方がない。

                 

                 見始めると昼メロかよと呆れつつ、つい続きが気になる上手さがどうせあるだろうから、なるべく避けたい池井戸潤のドラマをつい見てしまって、案の定ズルズル見続けている。「陸王」。敵役の、外資大手シューズメーカーのピエール瀧にくっつくいわゆるスネオ的な悪役キャラを演じるのが小藪、というのが本作のベタさを代表していると思うが(もう一つは毎回クライマックスでかかる曲の選曲)、虎の威を借る狐的イヤなやつが目つきの悪い細面ブス男、というステレオタイプは、偏見差別を助長する危うさがあるんじゃねえのかと思ってしまう。実際のところ、この手の薄っぺらいやつは、うさん臭いくらいファッションと髪型にこだわっている何なら見バのいいタイプが多い気がする、というのもこれまた偏見であるが。
                 この外資悪役コンビのような口先だけで手の平を平気で返すこれ見よがしの悪役は、いかにもドラマだけの存在のように思わせて実際いくらでもいるものだが、本作を見ていると、結局手元に何もない人間は、これしか生きる方法がないんだろうと思わされる。「才能ないやつはゴマすりを覚えろ」は野村克也の言だが、正確には「手に職も、浮世の理想もないやつは、ゴマすり、恫喝、手のひら返し、とにかく恥知らずになるほかない」ということか。勉強になる。問題は、今の世の中、恥知らずがしぶとく生きていることではなく、恥知らずに「本音の人」などと一定評価があることだ。事実は小説より奇、ってこんな意味だっけ。大企業にいじめられつつ奮闘する中小企業の話であるが、合間のCMが思い切り大企業ばかりなので、CMに入るたびちょっとソワソワする。

                 

                 「監獄のお姫さま」。クドカン氏の作品は、昔からなぜだか苦手だ。面白くないというわけではなく、嫌いというわけでもなく、苦手なのである。「あまちゃん」で老若男女あらゆる層をわしづかみにしてしまって以降は特に、この人を苦手というのは村上春樹を苦手というのと同じか、何だったらそれ以上、俺の感性がよほどダサいのだろうと思わされてしまう圧迫がある。今作も、やっぱり苦手だ。ちょけているようで、きっちり人とか現実とかを描けているからかなりの人だと思うが。

                 会社を辞めて舞台をやり始めたころ、ちょうど彼が注目され出していて、おかげでクドカン風味の出来そこないの脚本をたくさん見る羽目になった。最初に食べたマトンがまずかったせいで羊が苦手、というのと似た構造かもしれない。

                 

                 「奥様は、取り扱い注意」。これはすごい。よくいえば、ぶっ飛んでる。悪くいえば無茶苦茶。最先端のような、昭和のはちゃめちゃドラマのような。

                 メインの登場人物は女性3人。長女、次女、三女的な立ち位置と、次女相当が主人公、というのがまるでキャッツアイだが、この主人公だけほんとにキャッツアイ的な特異な設定で、あとの2人は普通の悩める主婦。こういう場合、全体の演出を、作り話っぽくするのか、それとも日常的な雰囲気にするのか難しいところだ。もちろん二者択一ではなく微妙なブレンドが要求されるのだが、このドラマ、その辺りが今一つノープランのまま作っているような印象で、仕上がりとしてはあかん意味でわけのわからんドラマになっていると思う。結果、重要な要素たる主婦の悩みないしは夫婦のすれ違いがステレオタイプに収まってしまってる。もしかすると結果というよりは、ここの描き方こそがスタート地点なのかもしれないが。

                 

                 「マチ工場のオンナ」。始まったばかりで感想はさしてないが、「奥様は〜」のせいだろう、父の遺した会社を継ぐと決めた主婦に対する夫の反応が、つまらなく見えてしまって仕方なかった。ま、いかにもつまらんこといいそうな夫、という点ではばっちりの配役だと思うが。

                 

                 フィクションつながりでついでに小説の話。今年読んだ中で面白かったのをいくつか。

                  

                 短編集ばかりなのは、根気がないから。大家ばかりなのは強迫観念にかられて。翻訳ものばかりなのは、読んだ日本の作品が有名どころないしはつまらいものばかりだったから。カート・ヴォネガットのは、死後に出た未発表短編集だが、結構おもしろい未発表作品がこんなにあるというのも、大家の場合さして珍しくもない現象かもしれないが、改めて「なんで?」と思ってしまう。
                 


                真似ることの深い考察

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                   贋作を膨大に描いたフランス人の自伝だ。冒頭警察に逮捕され、取調べの中で半生を語るという構成が「イミテーション・ゲーム」のようだった。こちらはまさしくイミテーションの話だからカブっている。

                   

                   ろくに教育すら受けられなかった恵まれない育ちの筆者が、様々な出会いを通じて絵の才能を開花させていく出世譚のていをなしている。本書からもにじみ出ているが、魅力的な人なのだろう。そして一旦絵筆を握ると一心不乱に集中できるところが筆者の才能の一つであるのは間違いない。チンピラみたいな連中とつるんで荒れた生活をしている間も、道端で死なずに済んだのはこの才能のゆえだろう。逆に金持ち連中との付き合いが生まれ、自分が何も知らないことを思い知り、必死に勉強して吸収していくところも感慨深い。学校教育の大事さを再確認させられる。当人も言っているが、筆者が充分に高等教育を受けられていれば、同じ画家の道を進むにしてもずいぶん違ったものになったはずだ。

                   

                   それくらい絵に貪欲でストイックで才能あふれる人ながら贋作者になっていくのだから、有名画家になるのは、ちょっとやそっとの画才ではかなわないといえる。ただ、本書のおもしろいのは、贋作を作り始めてからの方が当人が活き活きとしている点だ。

                   

                   当初この筆者リブは、画商の求めに応じて、風景画をメインに描いていた。売れ筋の綺麗な風景を器用に描けるだけでなく仕事も早い。画商にとってはありがたい存在だ。このため仕事依頼はじゃんじゃん来て食うには困らないが、描きたくて描いた絵ではないから画家自身に醍醐味はない。絵に限らず、色んな世界でいくらでもある話だ。依頼に応じて書いてほしい種類の原稿を速攻で書き上げられる人は、編集側には重宝する存在だから仕事は来るが、結局便利屋扱いで終わってしまう。米澤穂信 「満願」にもそんな話があった。

                   

                   こうしてリブはストレスを溜めていくのだが、その後に手を染める贋作の世界ではこれが全く逆になる。発注元は筆者を尊重して「描きたいものが描けたらもってこい」というスタンスなのである。このためリブは思う存分制作に集中することができる。描くのは贋作だから、有名画家の真似をするという「自分のない」作業であるはずが、爛リジナル瓩良景画を依頼されていたころより自分の好きなように取り組めるのだから皮肉だ。

                   

                   どうしてこうなるかといえば、贋作の場合、ピカソやマティスとしての値段がつくから、1作品あたりの値段がそれまでの風景画より格段に高いことがある。そして生半可な出来ではバレてしまうので、魂込めたオリジナルと同じ熱量を込めないと本物と誤解させる贋作は作れない。というわけで制作環境がぐっと恵まれるのである。何という矛盾か。

                   そしてリブの手法は、ロバート・デ・ニーロの演技論がごとく、当人になりきるというアプローチだ。作品や経歴を資料をあさって吸収し、本当に演技がごとくなりきる。そのうえで、コピーではなく、未発表だか未発見だかの別の作品を描く。なのでサインがなければ、ただのオリジナルである。なので、彼の行為は「オリジナルとは何か」「絵の価値とは何か」という難しい問題を突き付けてくる。リブ自身も本書の中でそのような問題提起をしてくるが、ただし、古く見せるための偽装工作を施したり、完成後は証拠になりうる画材や資料を全部捨ててしまう隠蔽工作もしているので、ちょっと説得力は低い。ただ、パクリとオリジナルは、そんな明確な線引きが出来るものではないという、パクリ騒動が出るたび色んな人が指摘していることのわかりやすい例だとは思う。

                   

                   面白かったのは、リブが藤田嗣治の贋作を作ったときに、調子に乗ってサインを漢字にしたら、その漢字が微妙におかしくてバレてしまったというくだりだ。ピカソが描く一見単純な三角形が死ぬほど難しいと神経質にもほどがある模倣を突き詰める男なのに、漢字はミスするというのはこれはどういうことなのだろう。文字も図形の一種だといえるはずだが、図形とは違うものなのだろうか。その点あまり言及がなく、ただの笑い話としてサラっと終わっていたが、妙に気になった。

                   

                   このリブの不幸は、発注者の死によって制作スタイルの変更を余儀なくされた点だ。別の業者と付き合うことで、今度はただのコピーの乱造を要求されることになる。風景画の時代に逆戻りというわけだが、風景画と違って明らか偽物を作っているのでおそらくストレスは倍か二乗になる。皮肉を超えた皮肉である。結局捕まったときに「これで助かった」と思うほど精神的に追い詰められてしまうわけだが、一口に贋作といっても色々あるというのは、あれこれ考えさせられた。そしてピカソでも藤田でもなくリブ自身が描いた作品だと初めて明白にされての展示が、裁判での証拠開示の場だったというのも泣ける面白さである。

                   加えて有罪確定で全部失った、と思わせておいて、彼のスキルが意外なところで合法的に活かされるラストも、人真似とはなんぞやを突きつけている。活字がデカいので、タイトルだけのスカスカの本かと思ったが、中身はかなり濃かった。


                  学際的調査、病原菌、政治

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                     「地上最後の秘境に眠る謎の文明を探せ」という副題がついている。まるでクライブ・カッスラーの邦題か、ルパン三世のタイプライター風タイトルのようだ。なんともB級感が漂うが、実にマトモな内容だった。NHK出版のセンスはどうなっているのだと思ったが、改めてNHKスペシャルのタイトル一覧を確認すると、まあまあこんな風味だったから、これがテレビドキュメンタリー的センスなのかと腑に落ちた。


                     中米ホンジュラスの未踏の地に存在すると長年言い伝えられ、かつ諸条件で調査が困難過ぎてまだ誰も成功していない遺跡を調査するノンフィクションだ。ジャンルでいうと考古学である。考古学というのは時に、あらゆる学問を総動員するようだ。本書の内容は学問の総合商社である(古い)。

                     

                     まずは兄弟分の歴史学。過去にこの秘境を調査した人々の足跡が序盤に紹介されるが、今回のような「探検」を伴う調査の場合、学者よりも冒険野郎の方が目立つ。そしてその冒険野郎の手記が、嘘だらけ(というよりほとんどただの冒険小説)だったりする。歴史の史料に誇張や隠蔽などの嘘は付き物とはいえ、冒険自慢と一攫千金がつきまとう分、怪しさは何倍にも増えるんだな。探検そのものの歴史より、サミュエル・ザムライという人について触れた箇所がおもしろかった。検索したら、こんなビジネス記事が引っかかったが、自分の商売を危機を打開するため、ホンジュラス政府を転覆させている化物みたいな人に、会社員がなんの教訓を学べというのだろう。

                     

                     密林の奥地へと入っていくから、動物の生態学というか、護身術というかが要る。密林には毒蛇だの毒虫だのがいて危険なのだろうとは知っているつもりでも、改めて読むとぞっとした。「山道を行くときは、マムシがいるのでゆっくり音を立てながら進むと噛まれません」などと習った記憶があるが、まったく役に立たなさそうだった。この教えが間違っているのか、それともヘビの種類が違うからか、とにかく本書に登場するヘビはデカい、強い、好戦的。虫も猛毒揃い。でも、少なくとも何百年も人が入った形跡がないいわば「手つかずの自然」に分け入っていくところの記述はちょっと感動した。色んな動物の音でとにかくうるさいという記述が印象的だった。想像すると怖いが。

                     

                     ここら辺はでもまあ想定内とはいえる(想定以上ではあるが)。
                     本書の特徴は、最先端のテクノロジーが登場するところで、工学部系の話も出てくる。密林に覆われて上空からは緑しか見えないその下の地形をスキャンする話が序盤のクライマックスである。上空から電磁波を当てて計測するのだが、照射した光が葉っぱを通過するわけではなく、葉っぱの間を運よくすり抜けたものだけを拾い出すという、それだけ聞くとアホみたいに単純な方法が面白い。ただし機械の精度がものすごく優秀でも、飛行機をうまく飛ばさないとキチンと計測できないようで、高度な操縦テクニックが必要になる。

                     

                     このため、密林の奥地に潜む謎の遺跡を探す、という事前のイメージと、狠妓´瓩離掘璽鵑呂△泙蠶爐蟾腓錣覆ぁC翦廚燃笋斑擦終わる。事前の調査がしっかりしている上、危険地帯なのでなるべくヘリで接近するため、密林の移動時間は限られているからだ(ついでに以上のような事情で予算がかかるので長引かせられない事情もある)。そうした調査の結果が、他の考古学者から猛烈に批判されるのも興味深い。「未開/文明」という一方的な価値尺度や、調査という名前の墓暴きに満ちていた考古学はとっくに過去のものとなっていて、色々とあり方が変わっているようだ。その批判の急先鋒は、実のところ政権が不安定なホンジュラスにおける政治背景が動機付けに含まれているから、余計にややこしい。ついでにこのような不安定な国での調査だから、交渉事にはしばしば裏技が必要になる。それを一手に引き受けるフィクサーのようなあやしげな男も登場するのだが、考古学調査には冒険野郎の狡知・世間知もいまだに必要だということらしい。これは学問の範疇ではない。

                     

                     そして後半は意外な展開を見せるのだが、学問の分類でいえば医学が大きく顔を覗かせるのであった。バイオホラー的な怖さが漂う恐ろしい展開だった。まさに「銃・病原菌・鉄」である。巨視的に見れば、人類の歴史は病気との戦いであるということを体験ルポ的に現した内容で、遺跡の話はどこへやら、ヘタするとこの後半が最も興味を惹かれた。戦場よりも怖い取材先があるものだと思ったが、よく考えると特に誰も死んでいないので、やっぱり戦場が一番危険なのか。

                     

                     世界地図で見るといかにも細っこい中米にこんな「奥地」があるというのもピンときにくいが、改めて地図で確認すると日本列島くらいの太さがあるから、いくらでも奥地はあってしかるべきサイズなのだった。人間は小さい。


                    図書館機能と昔の新聞

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                       調べものをしているうちに出会った本。日本人のプロ野球選手第1号を追ったノンフィクションだ。
                       筆者は別件を取材していたときに、取材相手からその存在を知らされるのだが、最初はその重要性にピンとこなかったという。これは「あるある」だ。その「別件」つまり、その当時の「本題」にばかり気を取られていたので、かつてアメリカのプロチームでプレーした日本人がいたらしいという実に興味深い話題にも、つい「へ〜」で済ませてしまったというわけである。面白い話の端緒は、手にしたときには価値がわからないというはよくあることだ。もしかすると逆もしかり。自分にとって重要な何かの話題を、親しい人間に話したのに期待した反応がなかった場合も、後になってその彼・彼女が「何その話、めちゃおもろいやん」と今さら気づいている可能性があるかもしれない。


                       大正時代の話なので、当然日本にはまだプロ野球チームはない。そんな時代に、どうやら渡米してプロチームに加わった人がいるというのだが、大リーグではなく別の独立リーグのチームである。なにせジャッキー・ロビンソンが登場する30年以上前の時代、当人もまだ生まれていないから、大リーグはバリバリ白人クラブである。仮にこの謎の日本人が野茂英雄や鈴木一朗ばりの実力を持っていたとしても、このような事情で入団はあやしい。沢村栄治は米国遠征中に、ファンに紛れたメジャー関係者の差し出した契約書に、間違ってサインしてしまったという逸話を聞いたことがあるが、いざ入団となったとしても、果たしてリーグに受け入れられたのかどうか、改めて気になってしまった。本書には、メジャー球団がキューバ選手を獲得しようとして断念する話も出てくる。

                       

                       この謎の日本人が入団したチーム「オールネイションズ」は、メジャーの白人サロンぶりを逆手にとって、じゃあ多民族球団にしようという趣旨で誕生した(チーム名は体を表す)。第一次世界大戦で選手が徴兵されチームは崩壊するが、このオーナーが次に作るのがカンザスシティ・モナークスという黒人チームで、ここに所属していたのが後にドジャースに入団するジャッキー・ロビンソンであり、そのドジャースにやがて入団するのが野茂英雄、という一連のつながりが泣かせる。


                       さてその謎の日本人の氏素性は?という主題は本書を読んでねで済ませる。印象に残ったのは、アメリカの図書館の優秀さというか融通というかだった。事前に筆者がメールで調査趣旨を説明して関連資料がないか尋ね、いざ訪れると司書があれこれ耳をそろえて用意してくれている。それで「このテーマはおもろいっすねー」なんてノリノリでやってくれる。これぞ出版物の集積地としての面目躍如だ。

                       

                       日本の図書館の場合、専門職なのに給料安いし、何度も書いている話だが「納税者様でございオッサン」の無理筋クレームの受け役やらされてるし、新刊ベストセラーに予算吸い取られるし、挙句の果てには素人のレンタル屋に運営委託するべしがまかり通るから、タダのレンタル屋としか思われてない悲しさがある。でもレファレンスのページで結構面白い調査結果が載っていることは少なくないし、この前訪れた某図書館の人も妙に優秀だった。直接の担当者が全く融通きかない人だったので、俺のために苦虫噛み潰してくれてた。20年前くらいの本だが、アメリカは今も変わらずなのか、それとも変わったのか。

                       

                       調べる資料は現地の新聞が中心になるのだが、100年前の英語の新聞を読むのはしかし、想像するだけでゾッとする。わけあって、明治期の日本の新聞をずーっと見てたのだが、文体、自体はもちろん、レイアウトも全然違うので、かなり疲れる。そのうえ、記事が全然面白くない。「〜〜という噂でもちきりなのだが真実はどうなのだろう」とかで終わってる記事が多い。ある意味おもしろいのだが、3つも4つもこの調子に出くわすと、「調べろよ!」と腹が立ってくる。あと、ライバル紙が発行停止になると「御気の毒」などとせせら笑っている御用ぶりを発揮しているところも情けない。同業者に対する政府の攻撃にざまあみろと反応する狭量さは現代にも脈々と受け継がれる明治以来の伝統なんだな。談合するくせに協力しない。
                       話を戻すと、本書の中でも、昔の新聞が記述が薄くてちっとも材料が集まらないシーンがあり、その辺りは日米よく似ているもんなんだと思った。



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