久々の観劇

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     久々に舞台を見た。本当に久々だ。劇団ブログという出発点なので、せめて観劇の話くらいはもう少し増やしたいところである。
     知人のしろっきーさんが出演した「曖昧な犬」という、タイトルからしてザ芝居という印象。自分が作れそうにない類の作品だと興味をかきたてられる。会場である北加賀屋の造船所跡地も、できてからずいぶんとたつが訪れたのは初めてだった。使い勝手は知らないが、見た感じはいい小屋だ。

     3人が出ずっぱりで、全力で体を動かしながら、ずーっと喋っている内容だった。なぜかここにいて、なぜかここから出られなくて、ところでお前は誰やねん、という不条理劇で、明確な物語があるわけではないので、散文詩のような台詞が延々と続く。もしかしたら、背景に強烈な物語があるのかもしれないが、そういう隠喩めいた作品の場合、これまでわかった(気付いた)ためしがない。

     こういう作品は若いころは苦手だったが、自分で舞台と、舞台以外の作品を色々作ってみたせいで、今は割と興味がある。舞台だからこそ、というような部分を余計に求めるようになるからだ。「舞台だからこそ」というのは多くの舞台人が口にすることだが、わからずに理屈だけぶっている人か、説明はできないが実現できてしまう人かのどちらかしかいないような気がする。俺は無論前者さ。まあ、出ている役者が手練れだったというのが一番大きいのかもしれないが。

     息が切れるほど動きながら話し続けるのは、ダンスやサーカス同様、鍛錬しないとできない技である。スポーツも歌もけん玉もみな同じだが、見る人が感動するのは技そのものだが、なぜ感動するのかといえば、自分にはまねできない鍛錬の部分があるからだ。ただし舞台の場合は、ダンスやスポーツと違って、自由律俳句のようなつかみどころのなさがあるので、わかりにくい。しろっきーさんの案内メールには、脚を怪我してどうのこうのと書いてあったが、もしかして俺と同じく、俊敏な動きをしようとして筋がプチンと音を立てたのだろうかと、全力でダッシュを繰り返す様子を見て、だいぶ不安になった。

     スクエアのパターンが切り替わる照明は恰好いいなあと思った。映像は思ったほどの効果を挙げられていない印象だった。以上備忘録。


    演技を描く人、しゃべる人

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       別の作品だが、マンガの話が続く。
       法事が終わり、親戚がお供えに持ってきた高い酒をだらだら飲んでいると、大差がついてカープが敗退してしまった。両チーム3勝3敗で第7戦、黒田対大谷の投げ合い、という今季の日本で最もしびれる対決になるはずだったのに、「あれ?台本読んでないの?」と酔っぱらってくだらない野次を画面に飛ばしているうち、「3月のライオン」のアニメが始まった。

       このマンガ面白いよと、兄夫婦に言い、3人してアニメに見入ったのだが、あれ?あんまりおもしろくない。兄夫婦ともども、どこが?という定まらない視線を俺に送ってくる。これはどうしたことだろう。

       このアニメ、マンガを相当忠実にトレースしている。結果、それがうまくいっていないのだと思う。元々本作は、台詞が多い。吹き出しに囲まれた正規の(?)台詞以外に、ガヤのような枠外の台詞がたくさん書かれている。活字のものもあれば、手書きのものもある。手法自体は珍しくもないが、量は突出して多い。それらが、各登場人物や各場面のおかしみを表わしている。こう書くと、説明臭い表現を想像するかもしれないが、この作品の場合は、雰囲気を実に巧妙に作り出している。

       それがアニメで忠実に全部の台詞をなぞると、説明臭くなってしまった上、テンポも悪くなってしまった。それであんまりおもしろくないんじゃないかと兄に説明すると、「ちびまる子ちゃんのナレーションと一緒か」と言われた。たしかに同じかも。
      もうひとつは、これは本作に限らない話だが、演技にあると思う。

       テレビアニメの声優たちには、「テレビアニメの声優の演技」とでも名付けたくなる、ある類型をなぞった演技をする人が非常に多い。そういう演出なのかもしれないが、とにかく多い。単純な例でいうと、台詞の前にやたらとタメを作る。「っあのさ、っこないだの、ンあの話……、ンううん、ン何でもない」こんな具合。その他、発声の仕方、喜び方、笑い方、怒り方、そういう作法なのかな?と思ってしまうくらい似通った演技をする。それが一種の文化というかジャンルというかを確立していると取ることもできる。場合によっては作品世界をうまく構築することもあろう。

       NHKの「漫勉」を見ていると、マンガ家は演技を「描く」人なんだなあと思い知らされる。「自分の不甲斐なさに絶望する表情」とか、「いたたまれなくなってその場から逃げ出す走り方」とか、いかに訴えかけるものにまでもっていくかに腐心する。何度も何度も書き直している様子は、ちょうどドラマのリテイクと重なってくる。ほんのちょっとした目じりの描き方とか、手の角度とかで、ガラリと印象が変わる様子が番組では拝めるが、演技と同じだなあと毎度思う。

       「困った」を表すのに、目を×にしたり、口をギザギザにするような類型的記号の組み合わせで出発したマンガだが、今ではすっかりそれを脱したり、それとは気づかれないように巧妙に組み合わせたりで、顔文字以上の感情表現やドラマの演出に成功している。その方法は作家によって全然異なり、その試行錯誤はホント演技と同種のものだと思うわけだが、これがアニメになったとき、本元の演技が一定のパターンにとどまっていてどうするんだとは思う。ま、安い給料とかつかつのスケジュールで作っているから、模索する暇がないのかもしれないけど。


      ありえないこと、ふつうのこと

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          阿形ゆうべことかっしゃんが出演した舞台を見に行った。Hauptbahnhof Gleis5『The Exception and the Rule ありえないこと、ふつうのこと』。ブレヒトの戯曲をベースにした作品である。知ったように書いたが、ブレヒトについては名前だけ辛うじて聞いたことがあるという程度である。演劇をやっていていつも思うのは、我が身が本当に何も知らないということだ。ブレヒトの作品をもとにした「ヒトラー」という、セットも何もない前衛劇のようなことを延々7時間もやる映画があるらしい。そういうネタのような豆知識を聞きかじった程度ながら披露してお茶を濁す。

         石油の採掘権で一儲けをたくらむ商人と、彼に雇われたガイドとポーターのお話である。かっしゃんはその商人役でいわゆる主役ということになるのだが、上から目線で恐縮ながら大した演技だった。彼と知り合ってかれこれ7、8年にはなると思うが、演技力の伸び率でいうと、断トツに図抜けていると思う。大した役者になりはりましたなあ。

         舞台を客席が分かれておらず、客はなんとなくの円形に並べられた丸椅子に座り、その合間を役者が行き交いながら演技をするというテイの演出であった。こういう舞台構造だと必然のようなものだと思うが、カチっとしたドラマではなく、実に演劇的な演技となる。それは例えば台詞とモノローグと客への語り掛けが混在し、急に歌も歌い出すような台詞回しに如実に現れている。こういうノリの作品は作ったことがないが、次に作るときは多少なりとも、こういう演劇ならでは的なかおりを強めにやりたいものだとは思う。

         かっしゃん演じる商人は、エキセントリックなキャラクターだ。利に聡く、がつがつしている。弱肉強食というシンプルな信条を確固として持っている。いってみればマンガみたいなキャラである。というわけでかっしゃんもマンガみたいな動きをしていた。手塚治虫のマンガのような手足であった。

         そういう毀誉褒貶の激しい毛の濃い人間が石油を求めて、となると、「There Will Be Blood」を思い出す。あれの主人公とかっしゃんは大雑把には同じ顔の種類である(写真)。各所で激賞されたあの映画、恥ずかしながら、よくわからなかった。アメリカ人じゃないとわからない内容なんじゃないのか、と自分を正当化しているのであるが、本作の方は面白かった。法の正義と現実の正義は一致しないというテーマ的な部分も、寓話的にわかりやすく面白かったが、何より、上品でささやかなお祭り感が楽しかったです。あと演出の金田一氏が、父上と同じ顔をしているのを見れたのが、なかなかのお得感でした。

        デトロイト弁天町シティ

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            弁天町は駅名が何だか楽しそうだと昔から思うが、実際には交通科学博物館がかろうじてある以外は、ぶっとい道路とぶっとい道路ばっかりのひたすらコンクリ―ティな町だ。高架下の落書きと相まって、デトロイトかここは、とつっこみを入れながら、ノッポのホテルとGMの本社ビルを重ねて眺めてみる。阪神は、その昔、大阪湾岸の工業地帯がデトロイトみたいだってんで、タイガースと名乗ることにしたと聞いたことがあるから、あながち的外れな見立てではないかもしれない。

           そういう地域に劇場があるというのは大変素晴らしいことですね。前からあるところだけど、訪れたのは初めて。倉庫街の一角にあるこのロケーションを見ていると、デトロイトなんか今、劇場候補地だらけじゃないかと思う。腐敗した近未来的なお馴染みのパターンの映画も撮り放題。ま、リアルに今が腐敗した近未来なのかしれんが。

           先に脱線しておくと、デトロイトの破産は「対岸の火事ではない」というような評価をしつつ、何で破産したのか、色々ニュース番組を見たのだけど、自動車産業がコケたから、くらいしか説明がなくて、よくわからない。人口がピーク時180万以上いたのが今は半分以下の70万弱というけど、そのピーク時というのが半世紀ほど前の数字。人口が70万人で「しかいない」と言われたら、我が故郷なんかとっくに猿の惑星になってしまう。公務員の給与や年金が財政を圧迫し、と言及している番組もあったけど、数字が出てこないからよくわからない。企業に税金ぶっこんでおいて足元の自治体が破産とは、マイケル・ムーアに再び帰省してもらう日を待たんといかんのだろか。

           で、観劇の話。チャルナカ「叙情的遊園地」。色んな劇団の人が集まって3本立てというちょっとしたお祭りみたいな公演である。

           だけど3本立てというよりは、2本と前座、という方が正しい気がした。申し訳ないが、1本目は相当キツかった。面白くないとかわけわからんとかではなく、しんどかったですね。「思い付きを全部板に乗っけたけど、全部既視感が漂う」という学生劇団の舞台みたいな色合いで、かつ学生劇団のような無駄な元気はない年相応のこ慣れ感で、誰がこれをやりたがっているのだろうという、牽引車の見えない仕上がりが、何というか不思議だった。捜査書類を綴じたバインダーの中身をしっかり作っていた点はよかったと思います。あと、後に2本続くのに、舞台を大量のごみ袋で埋めてしまう勇気もある意味凄いと思った。

           2本目は東京に転勤になって劇団活動を休止した南出さんの脚本。同居してる兄弟と、兄の恋人との三人芝居、と書けば、知ってる人は大体内容が想像つくような期待通りの作品だった。特に、兄の恋人を演じた赤松悠実さんという女優、こういう端正な美女は大抵滑舌の悪い棒読みを発揮してくれるものですが、演技も関西弁の台詞回しもめちゃ上手くてびっくらこいた。男性陣も凄くよかったので、南出脚本のいつもの魅力がしっかり現されていたと思う。こうなってくると、1本目の役者陣と入れ替えると、どっちの作品もどうなってしまうのだろうというのは嫌でも考えてしまう。それはそれで面白い思考実験ではありますが。

           3本目はコメディ。脚本のオカモト氏含め、手練ればかりなので気楽に笑った。「宇宙人王さんとの遭遇」の評で、密室劇はしんどいのが多いと書いたけど、短い尺で笑いにもっていくと、とても楽しいものです。こういうのは演劇しか出来ないなと気付かされる部分もあったけど、長くなる上にあまり面白い話でもないので、今日はここまで。

          ラストを作るのは難しい

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              最近、サッカーの日本代表がたくましいので、いけるんちゃうん?とついつい思ってしまいそうなところ、上には上がいるんだなとこうも明確に見せられると、清々しいものがありますね。日常生活でそんなことって、すっかりなくなってる気もするので余計です。ただ、選手を交代するタイミングが遅すぎるような気がするんだけど、シロートなのでようわかりまへん。

             久々の観劇。ココロさんが久々に出演するので、久々におもしろ器用男の舞台でも見るかと、これまた久々のインディペンデントシアターを訪れた。月の虹「虹の架け橋大作戦」。ここの作品は前も見た。悟さんが悩んでたやつだ

             港町でドタバタするという大枠は、前に見たのと似たようなノリの作品だった。テンポがよく、全員丁寧で、楽しい作品だった。例えば、ヤクザのおバカな親分子分コンビという、演劇だと往々にしてステレオタイプ先行で上滑りしそうなキャラも、ボケとツッコミを丁寧にしていたりで、達者な役者陣だなと思う。

             そんな中でのココロックであるが、この人の得意な笑いは、緩急つけたところにあると思っていた。嫁さんの悪口を背後に鬼の形相で当人が立ってるのも気づかず続けているうち、首根っこを掴まれる。悪口をすっかり聞かれていたことに気が付いて、「おや、こんなところにアンジェリーナ・ジョリーが」みたいなごまかしを言う、例えばこういうベタなギャグの際、悪口のテンションから「素」の状態までフォークボールのように一気に落として、フツーに、あるいは無味乾燥に「アンジェリーナ・ジョリーが」と言うことで笑いを取る。基本、こういうのがこの人のオハコだと思ってたけど、頭が混乱してハラホレヒレハラとおかしな踊りを延々踊るとか、驚きの余りその場に大袈裟に卒倒するとか、こういう全力なままの、ドリフ的な笑いも今回は見事にやってのけていて、あんた何でもできるなーと感服した。

             あと、主宰で主役の人、女たらしのヤクザもんのことが好きな元ホステス、という役どころだったが、上沼恵美子のごとく、貫禄と女らしさが絶妙に同居していて役柄にしっかりはまっていて印象的だった。

             という具合に、何の不満もなく楽しませてもらったが、前に見たときと同じ、長い、と痛烈に感じた。2時間超えはやっぱり厳しいもんがあるなあと、これは俺もつい長くなってまう傾向があるので余計に思う。今回は「後日談」はなかったんだけど、ラストで作品的に言いたいことを全部役者に言わせた、というような印象が強く、冗長に感じた。この手の作品は、ちゃんとまとめてエンドマークをつけないといけないとは思うから、さらっと終わってしまうわけにもいかないんだけど、かといってじっくりもっちりやると、蛇足に感じてしまうところはあって、終わり方はやはり難しいもんですな、と思った。

            朗読劇ひいては芝居の可能性

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                「アラビアの夜」という舞台を見に行った。喫茶店芝居で共演した白木原さんが出演していて案内が来たからなんだが、ドイツの戯曲(それも古典じゃなくて現代の)の朗読劇という、ちょっと変わった毛色のものだから、興味が湧いたという次第。

               場所は、中崎町にあるイロリムラ。初めて訪れた。最近、こういう小さな劇場というかフリースペースというかがちょこちょこ出来ているようで、たまに受け取る芝居の案内も、知らない場所が多い。いいことです。JRの高架下なので、最近流行の空き倉庫利用みたいな感じかと思いきや、ちょっと趣向が違ってて、なかなか魅力的な場所でした。

               会場は20人も入れば超満員くらいの小さな箱で、白壁にフローリングと、地方の真新しい美術館のような趣き。こういう場所は上演できる作品を選ぶものだけど、今回の作品に関しては、雰囲気がはまっていた。いわゆる劇場ほどカチっとはしてなく、カフェ芝居のように、煩雑でもない、制作意欲をくすぐられる場所ではあります。

               マンションの住人とその関係者計5人の男女が織りなす、一種の不条理劇。構成が面白いと思った。登場人物同士はたまに会話もするが、割とそれぞれ単独行動でマンションの階を行ったり来たりする。舞台上には木枠で横線が引かれていて、手前が1階。奥へ行くほど上層階になる。マリオブラザーズかクレイジークライマーみたいなものである。こういう舞台美術なので、1階に下りたり、8階に上ったり、同時並行に行動している各登場人物全員が、同じ板の上に乗れる。現実世界の3次元を、記号的に違う形に変換できるのは、舞台だからこそ出来るという、大きなの魅力の一つですね。

               とはいえ、舞台を階層で細切れにしている分、役者はそんなには動けない。その辺が朗読劇とマッチするということだろう。朗読だから、棒立ちでも違和感がないからだ。

               ただ、朗読劇というのはどこまで演技をするかというのが難しい。出演陣はそれぞれ、ただの音読のように振る舞う人と、本を手にしながら、それなり演技をする人といて、その辺の統一感はバラつきがあったと思う。あと「裸同然で寝ている女性に周りの男が欲情する」という話の流れなのに、肝心の女優が、割と露出感の低い衣装だったのはさすがに気になった。ホントに裸同然の格好だとさすがに落ち着いて見れないものですけどね。

                タイトルのような踏み込んだ話にまでたどり着かないまま終わる。
               

              観劇2つ

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                  久々に芝居の話。といっても見に行っただけだが。

                 2つある。
                 1つは、劇団りゃんめんにゅーろん「ちょっとした夕暮れ」。
                 主宰の南出さんには、一度ワタクシの短編映画に出てもらった。出演者の一人は、お馴染み悟さんこと、田中悟。そういう人間関係のため見に行ったというよりも、南出さんが作る作品は面白いからという、むしろ当たり前の理由から。なんでも、南出さんが東京に転勤になり、劇団活動を休止するとかで、そういう位置づけの公演だそう。東京でやればいいのに。というかむしろ東京でやった方がいいのに。と誰しも思いそう。
                 過去の作品の再演で、男女二人芝居の二本立て。妻と離婚した男が、熱を上げてる女子高生に「ちゃんと付き合おう」と申し出る話と、男の元妻が、元彼と再会してよりを戻そうとしてるの何なのか、よくわからん態度を取る話のふたつ。
                 なんてことない言葉だけで出来てるのに、妙に印象的な台詞で出来上がってるうまさがある。結構な毒というか、南出さんて善人の塊みたいな顔して結構性格ねじくれてんなあ、と思ってしまうようなドロドロしたものを、静けさと可笑し味でまとめてしまうのがすげーなと思う。
                 悟さんの役は、二話目の男。悟さんはやはり、存在感があるというか、いるとそこに目がいく役者だなあと思う。だけど「意味がないようでとても意味深かもしれないようなことをずっと言ってるある意味面倒臭い女に翻弄される元彼氏」という役どころが、どうしても犇い疚鮗圓世韻砲靴辰りはこなかったかなあ。
                 もう一つは、「鯨にのった、女の子」というトリイホールでやってた舞台。こちらは多少の人間関係プラスなんとなく気が向いた、という軽いノリで拝見。若い女性ばかり6人で、フクザツで不安定な女子の内面を描いたような内容。この手の作品は、いかにも演劇っぽいこともあって、無自覚な紋切型な演出にウンザリさせられることが多いんだけど、この作品は拙いながらもいちいち一所懸命考えて作ってる感じがして、見ていて気持ちよかった。クライマックス辺りで、唐突に「お母さん!」と叫ぶところはおったまげましたが。あれ?そんな話だったのこれ?という。
                 若い人の舞台を見て毎度思うのは、いや〜皆さん、台詞を噛まないね。これはひたむきさの違いでしょうか。それとも医学的な話でしょうか。

                純粋に観劇

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                    劇場プロデューサー氏から案内が来たので、久々の観劇である。時間堂の「ローザ」という作品。チケット予約のため、プロデューサー氏にメールしたら、「森下さんは反応してくれると思ってましたよ」と、微妙にプレッシャーをかけてきやる。勝手な想像だけど、知り合いが出演しているとかの義理がない舞台を見に行く人は、演劇関係者には少ないんだろう。こっちにすれば、見に行って客に一人も知り合いがいないというのは、それはそれで純粋な娯楽気分になれるから清々しいのであります。

                   ちなみに何で見に行ったかというと、別にP氏に対する政治的建前ではなくて、単に興味があったからで、それはなぜかといえば、演劇っぽいなあと宣伝を見て思ったからで、演劇っぽいって何かというと、素舞台の上で、三人の女性が生成りの衣装を着てたからである。何かよくわからんけど、静動ともに熱演、みたいな空気を期待して、やっぱりそういう内容だった。思ったほど演技達者というわけでもなかったけど、やろうとしてることがはっきりしていたので、何ということもなく楽しめた。だけど四方舞台というのは、対面の客席が視界に入るので、やはり落ち着かんもんですね。

                  全然関係ない写真。何の記念碑だ。

                  熱いぜ

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                      奈良演劇祭の審査員として金鹿賞を授賞したNO!manGO-manの齋藤さんから、「是非直接感想が聞きたい」と連絡がある。「てめー、賞いらん言うたやろ」と怒られることはないにせよ、偉そうに審査した手前、それだけで微妙に緊張しながら出向くと、実に腰の低い丁寧な人だった(そういう人こそ怖いというのもあるんだけど)。

                     この齋藤さんという人は、年下の俺が言うと何だか違う意味に響きそうな懸念もあるが、分をわきまえた真摯な人、という印象だった。例えば「僕の作品はアンチですから、正道があって初めて成立する。そういう意味で奈良演劇祭様様なんですよ」という発言一つ引き合いに出せばおおよそ伝わるだろう。大体、「感想を聞かせて」と面と向かって言えること自体が、そもそもそう。なかなか言えることではありまへん。といっても、ほとんど齋藤さんが喋っていたけど。――まあでも、ずーっと喋ってる齋藤さんの図は、打ち上げの席で演劇を語る人と外形的には同じなんだが、聞いてて面白いとか嫌な気がしないというのは、かなり珍しいことだなあと思いながら拝聴した。借り物や受け売りを語っているわけではないというもあるし、舞台への向き合い方が、年の功ってやつだろうか、ちょっと違う次元にいるなあと素直に敬服した。そんな難しい話じゃなくても、前向きな熱い話を聞くのは芝居に限らず、久しぶりだった。

                     「奈良演劇祭自体についてどう思います」とも聞かれたので、岡目八目、勝手な意見を様々並べた。大雑把にまとめると、祭とあるからには祭であることにより注目して、客が気軽に楽しめる枠組みと、自分らが広がりや可能性を感じられるようなスタイルを貪欲に求めていった方が断然楽しいんじゃないか、という俺の好みである。語りながら、夢想がばーっと広がって、あーこんなことできたら楽しいだろうなあと思った。実際やるのは大変なんだけどさ。
                     

                    審査員をしてきた

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                        行きがかり上、本の校正をすることになったのだが、これがまあ辛気臭い作業である。普通に文章を校正するだけなら、俺は結構得意な方だと思う。新聞社のような、場当たり的にその日その日の記事を書きつつ、書き間違いは減給の元、みたいな緊張感に日々接していると、誤字脱字、フォント違い、間違いではないけど変えた方がいい表記などなど、すぐ目につく。自動的にそうなる(といいつつ、劇団のチラシ類では何度か地味に間違えてるんだけど)

                       だけど、今回依頼されたのは、データ本、統計本の類で、元になるデータ、この場合は企業の決算とか事業規模とか、代表的な商品名とか、をいちいちネットで検索して見つけては照合するという作業である。なかなか大変。非上場の企業も最低限の情報公開してくれ。日本に進出したり日本企業を買収した外資は、日本語の資料も作ってくれ。有名な会社を子会社に収めた企業は責任もってその会社単独の決算も公表してくれ。


                       
                       そんな中、奈良演劇祭の審査員という役を仰せつかり、週末奈良を行き来した。こちらは三か月ほど前に依頼された話。引き受けた時点ではまさかこんなことになっているとは、というやつである。

                       俺は感想をくだくだ述べるのは好きだが、審査というのはどうも苦手だ。去年も打診されたのだが即答で断った。今年はさすがに断りきれず。まあ演劇祭の仕掛け人である山崎君の手弁当の熱意を見てると、協力するのはやぶさかではないところはあるのだが。

                       参加劇団は基本的に若い人々が目立つんだけど、一つだけ年上の人がやってるところが参加してた。そのNO!manGO-manの舞台は、「わかってたまるか」という反逆的な姿勢が先に立っていて、実際「奈良の客にはどうせ俺のやってることわからない」とかラップしてたし、「賞なんていらねえんだ」とか絶叫してたし、要は何のためというのでもなくやりたいからやっているという、実に原始的なこういう姿勢の前では、評や審査の入り込む余地などないから、審査員の身の置き所はみるみるなくなってあほ臭くなるから困る。

                       審査員は、それぞれの団体向けに総評のシートをまとめ、作品賞と男優賞、女優賞を三人の合議で決める。後の二人は俺よりはるかに経験豊かな人なので、俺はいわば末席である。
                       さて審査員控室で、シートの記入作業に追われながら、審査員の一人・関川さんが「今までのところで、ど、どういう感触でしょうか……?」と探り探り尋ねてくる。
                       「ノーマンゴーマンでいいんじゃないすか?」とサックリ言うと、「ですよねえ」と関川さんは心底ほっとした顔をしていた。その安堵の顔が全部を物語っているような。賞を与えるべき作品というのは、往々にして危険なもので、審査員というのは危険な作品にお墨付きを与えるという意味で、きわどい立場ではあり、一瞬の逡巡も伴う。M−1グランプリで、一番とんがっていたスリムクラブを選ぶか、無難に面白かった笑い飯を選ぶか、審査員みんな懊悩してたみたいな話といえば理解が早いか。
                       「あれこそ演劇ですよ」だったか「あれが演劇ですよ」だったか、関川さんはそんなことを言っていた。俺はそうは思わなかったが、枠組みを壊そうとあがいているさまと、ちゃんとビジュアル的に成立している様相が現代美術みたいで、刺激的だなあと思ったのは、そういう意味では確かにあれが演劇である、ではある。他の作品に比べて、そこの「作りたい衝動」とでもいうか、そこは圧倒的だった。枠組みを壊すあの感じは、自分の作品にもどうにか取り込みたい発想だ。
                       ただ、だいぶ不愉快な舞台であったのは確かで、客席立ってる人もいたし、「賞いらねえ」っていってたから、あてつけとか審査投げたとか思われたら嫌だなあと、俺はそこだけに引っかかっていた。

                       もう一人の審査員の小野さんは「え〜…」と渋面を作ったから、ああいうのは嫌いなのか、それこそ審査を投げてるように思われたか、と想像したら、自分の話を自分自身で演じるのはどうかという劇作的な部分での引っ掛かりだった様子。関川さんも小野さんも、言葉の端々から演劇に対する造詣とか愛情とかが漂ってきていて、ああここにいるのはみなさん演劇人なんだなあとあほみたいに感心したのでありました。「ころがる石さんの公演は次、いつ?」と何度か聞かれ、「今んとこありません」と答える寂しさ。審査をしつつ、自分の演劇では前に進めん。俺はずっと、壁ぶち当たり中ですわ。

                       他の団体は、朗読スタイルで演じたり、一人芝居だったりと、それぞれに毛色が違っていたんだけど、そんな中、山崎君率いるイベントステーションは相変わらず、ベタな構成のドタバタ話を勢いだけで突っ走っていて、ちーとも新味はないが、あれはあれで貴重で爽快な存在だと思った。まあ、山崎氏以外、みんなもうちょっとうまくなろうぜというのは思うけど。
                       


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