兼業主夫の専業作家の人

0

     特に行く気もないのに「今度一杯行きましょね」などとは言わないようにしている(相手がそういう外交辞令を言うてきたときは「是非」などと応じはするけど)。とはいえ、諸々の都合で結果的にそうなっているケースはある。

     

     友人が給与所得者を辞め、専業作家になったと年賀状で報告してきたのが2年前。それはぜひ祝杯をあげねば、などと応じながら、ズルズルとここに至り、はや今年も年末。いい加減、言いっぱなし状態が気持ち悪く、ちょうど氏の自宅近くに仕事で行く用事も重なり、この好機しかなかろう!と連絡を取った。

     

     久々の相手と連絡を取るときにはショートメールというのが昨今の定番だが、さっそく送ると「間違えてますよ」の返信。それでメールに「このアドレス生きてますか」と間抜けな内容を疑心暗鬼送信すると無事連絡がついたわけだが、多くの知人にとっては「お前が生きてるかどうかを問うな」というのが率直なところだろうと思う。ついでに「電話番号変わってないけど」と呆れられてしまった。だとすると、登録間違いでどこかの知らない人に届いた可能性は無論のこと、届いた相手は「すっかり音信不通になったうっすら知ってる間柄の人」の可能性もあるのかも。余計気まずい。


     さてすでに述べたように、出版不況どころか、ビジネスモデル自体が崩壊してきており、大手すら差別的な駄文を掲載して売れるどころか廃刊、みたいな目も当てられぬ状況にある昨今、専業作家というのは「おもちゃ屋で生計立ててます」くらいレアなケースに思えてしまう。

     当然、恐ろしい勢いで新作を書き続けないといけないから、売れる売れないもさることながら、書き上げる実作業もユーチューバーばりのハイペースが求められる。聞けば今年だけで10冊というから、これだけでトマス・ハリスの全著作の倍近い。まあ全部がオリジナルというわけではなく、既存作品のノベライズ等、下請け的な仕事も含まれるそうだが、それにしても相当だ。


     実際、この日会う前に近況を予習しておこうと本屋に寄ったら、彼の新刊が棚に正面向きで詰め込んであった。「多分、今日発売」との由。出版社側から「こういうアイデアで」と頼まれて書いた作品なので「いやあキツかった」と、すっかり言うことがプロのそれである。

     

     俺はというと、何も書きあげられないまま4年くらいたってしまい、大御所洋楽ミュージシャン並みの空白である。フィクション以外の文章、つまり新聞記事とか学術論文とか社内報とかを書いている知人ならそれなりの数いるけど、フィクション書きは趣味レベルの人を含めても彼以外あんまり見当たらない。舞台の台本書きの知人は、今は書いてないか、付き合いが途絶えているかの心当たりしかないが、そもそもなぜだか舞台の人間と脚本についてあまり話したことがない。

     彼とは、舞台で脚本を書いていたころも、ざざっと目を通してもらって感想を聞いたりしていたこともあり、付き合いも長いし、気安い関係ではある。というわけで、自身の停滞している作品について、あれこれ助言を聞いた。ひとつだけ書いておくと、「そこまで詰まってるんなら、捨てるか思い切り変えてしまえ。その方が結果的に早い」とのことで、まあそうなるよね。


    調べもの

    0
       調べもののため、軽く遠出していた。取材をせずに記事を書くと「ニュースの天才」になってしまうが、フィクションの場合はしてもしなくてもどちらでもいい。世の中には「全身小説家」のような人もいる。

       学生劇団のころはほとんど何も調べずに書いていた。モロパクリみたいなものも書いたから調べる必要すらなかったといえるが、パクリでなくても愚にもつかない内容だから、ちゃんと調べるという行為の出番がそもそもない。昨年、某大学で学生のレポートを採点した。理系の学部だったので、ちょっと専門的な内容になると俺には手に負えない、はずなのだが、ネットで検索するだけで判明してしまうような大間違いを書いている学生が多く、俺でも採点できた。それと同じようなもので、調べることと形にすることの関係性をきちんと自分のものにするのは、経験からくる部分が大きいのだと思う。ま、それこそ大学で身につけるものの一つであるのだが。

       それで前職の影響だろう、舞台を再びやるようになっていざ台本を書こうとすると、すっかり下調べをするようになっていた。それはそれでどこかしら自分で幅を狭めているような気もする。少なくとも手間だし、自宅に資料があふれるようになる。あふれるというのは大袈裟だが、記者のころより念入りに調べているような気もする。会社員時代はちっとも仕事してなかったから当然といえば当然だ。

       何を調べるのかというと、無論色々とあるが、大まかにいえば舞台装置を作るために必要なことだと思っている。大阪駅のシーンを描くためには実際に大阪駅を見に行く。わかりやすい例を挙げればそんなところだ。自分が演出した舞台では、毎度毎度グレーの箱しか舞台になかったくせに、舞台装置というのもおかしな話だ。でも言葉にするとそうなる。小説だとグレーの箱で済ますわけにもいかないので必然、調べる量も増えることになるが、姿勢としては舞台のときからそうだ。要するに、作品世界がどうのこうのという前に、これから物語を作っていこうとする自分自身の発想の土台として実物を見に行ったり人に話を聞いたり本を読んだりするわけである。

       日数もそんなにない中で、目的の場所に行ったり資料を手に入れたり、要領よく進められたと思うが、何の用事であれ、旅先での時間の使い方を振り返ると日常よりもはるかに有効活用に見えて、普段どんだけ能率が悪いのだろうと嫌になる。とはいえ、何か収穫はあったのかというと、目的を済ませたという以上にはない。自分に必要な舞台装置はちっとも整わなかった。つまり平たく言えば何も思いつかん。ついでに人にあって酒を飲んだだけのような気もする。
       「ところで今回は何用で」と尋ねられ、現時点での着想について話すと皆一様に腑に落ちない顔をしたので、手ごたえは感じているのだが。天邪鬼に思えるだろうが、他人に概要を話して「は?」という反応をされるときほど作り話をこしらえる醍醐味もあるというものなのである。

      生存情報

      0
         長々と間が空いたのは、主にコレのせい。  事前に概要は伝えられているので、ろくに読んでないが、何が書いているかは大体知っていて、要するにロクなことが書いてない。いかにけなされようと多少なりとも果実があればよいのだが、全くもって皆無であるから色即是空。ひとつだけいいことがあるとすれば、100かゼロかで全くグラデーションのない苛烈すぎる競争はあんまいいことありませんぜと身をもって言えることくらいか。

         なので積極的にふてくされていたんであるが、そのうちパソコンも壊れて体調も崩した。季節の変わり目に熱を出すのはお約束としても、新品で買ったのが3年で、というのはどうにも早い。加えて修理に持っていたら部品がもうないといわれ、これこそ早すぎる。「まあメーカーさんは今時在庫持ちませんから」って、そんな正論聞きたくないわ。
         手際のよいエプロンの眼鏡のにいさんがお手上げだというなら、こちらはどうしようもなく、データだけ取り出してもらって新調した。新潮に新調で、体調管理には慎重にだよ。ウインドウズ7から10にするかどうか迷っていたが、買い替えたPCは「8」だったので迷うことなく10にアップグレードした。

         通常、俺のようなパソコン音痴は、PCの買い替えをだいぶポンコツになってからやむなく行うので、新しくなったらなったでその性能のよさに満足するわけだが、高々3年だとありがたみはほとんどなく、ただただ日常の整理整頓を試されるだけだ。プリンターのドライバーソフトのCDがなかなか見つからなくて往生するとか、そんな具合に無駄にわちゃわちゃとしていた。
         そんな間に、友人の斎藤理生准教授が、「新潮」に文章を寄せていて、その内容が朝日新聞にも二回取り上げられ、自慢する機会を逸した。

        http://www.asahi.com/articles/ASH8653FKH86UCVL01K.html
        http://www.asahi.com/articles/DA3S11928857.html

         この2つだが、2つ目は会員でないと見れない。紙面の方で読んだがいい記事だった。「取材なんて受けるのは初めてだから、アドバイスをくれ」と言われたので、「たまに下調べゼロで話を聞きにくる記者がいるが、辛抱強く説明すべし」と応じていたが、たいそうマトモな編集委員だったそうで、杞憂だったようだ。

         斎藤が発見したのは、新聞に載ったもの、つまり世間に発表されていたものだ。それを「発見」というのは、コロンブスもしくはその後の航海者のアメリカ大陸「発見」みたいなもので、「元からあったぞ」という点、おかしな話だといえなくもないが、でもまあ、そういうものなんである。そこにあったはずのものが、結構な量散逸し、忘れられながら時代は流れていく。文学部系の研究者の多くはそういうものと「砂の女」のように常に戦っているのである。
         ただ、こういう世界にも市場原理は働くようで、ビッグネームの知られざる文章なら堂々とこうして文芸誌に乗るが、そうでもないと見なされた作家の場合は、いかに知られざる文章であっても載らないらしい。後世に名前が残っているだけでも十分ビッグネームだという気もするからせちがらい。そういう俺は、となれば、これはもう小梅太夫「チッキショー」しか残されていない。

        色々と祝

        0
           謹賀新年度。
           学生相手の仕事をしているので、3月31日から4月1日への、切り替わりの感触は大晦日―正月間のそれと同じくらいに感じられる。特に、昨年、今年と、2年連続で200枚以上の紙束を突っ込んだ角封筒を抱えて、疲労困憊夜の郵便局に飛び込んだから、手前味噌ながら「今年もご苦労様でした感」ひとしおだ。開いててよかった郵便局。たまに窓口の横の机で、原稿の最終チェックをしていたり、結末部分をパニック状態で書いている人がいるが、今回は角封筒を発送している人間すらいなかった。

           脱稿、という行為を何度か経験したが、毎度毎度、舞台の本番を終えた翌日とほぼ同じガス欠のような体調になる。どちらも経験がないという人の方が多いと思うのでちっとも伝わらないと思うが、要は滅茶苦茶疲れた、ってことだ。

           そういう体調のまま、仕事で神戸方面へ行く。何かを片付けると、贅沢がしたくなる。昼間からステーキランドでステーキでも食うてやろうかと考えたが、案の定客が列をなしていたので、諦めて隣の中華料理屋で麻婆豆腐を頼んだ。塊から挽肉になった。

           テレビでは入社式という極めてクールジャパンな儀式のニュースをやっていた。俺の知った学生たちも、それぞれどこかで整列しているのだろうかなどと想像するが、以前に担当していた専門学校校舎での講義と違い、学生個々人との接点が非常に希薄なので、あのころに比べて接する学生の数はべらぼうに増えたが、ほとんどの人の進路を知らない。

           そうして電車に揺られて某大学に到着すると、予想通り入学式をやっておったようで、普段相手にしている学生諸君はとても大人なんだなと再確認させられる一年生若人と、その父兄がいる。この大学には、設立者との関係から、王監督のユニホーム(背番号89)がガラスケースに入って展示してあって、普段学生は何も気にしている風はないのだが、さすが父兄は盛り上がって写真を撮っていた。

           そうしてまんまと観戦出来なかったのが選抜の決勝戦。色々と感慨がある。
          大学生のころ、ベスト4(1995夏)まで行った話は前にも書いた。例えれば、W杯で日本がベスト4まで行くのと同じような興奮があったものだった。その後、不祥事による低迷を挟んで、春でも夏でも、最高甲子園でベスト4まで行った。こうやって実績を積んできたから、優勝という結果はミラクルとかでは全くなく、妥当な線だというのが、時代も変わったなあと思う。祝杯だと理由をつけて呑みに行ったら、あれ?福井って初優勝なんすか?と言われたくらいだ。優勝するというのはそういう積み重ねの上に成り立つものなのだろう。ま、特に選抜の場合は、ぽっと出が優勝することもあるし、前回決勝に進出した78年の福井商などその一つだと思うが。この輝かしい戦績のせいか、ムバラク大統領ばりの長期政権を築いた監督は、地元では何かと憎まれ口を叩かれる人でもあったので、記録が更新されたのは、当人も含めた全員にとってよかったんじゃないでしょうか。

           それにしても、飲み屋の店主が総じて試合を見ていて、「決勝に相応しい好ゲームだった」とかなんとか、皆、高野連の戦評よりははるかにまともな一家言でもって論評していたり、「さっきまで、甥っ子が大阪桐蔭の選手というお客さんがいた」とか「甥っ子が奈良大付属の選手というお客さんがいた」とかで、なんだかんだで野球文化の高い土地柄なんだなと思わされる。
          この高校、県大会を開いても、初戦がのっけからベスト4状態で始まるアーチェリーの、その四強の一角でもあったので、個人的に、うっすらとした縁がある。ハタモリさんとかオバタさんとかお元気でしょうかね。

           野球に話を戻すと、地元では県外出身者だらけ、というのはどう評価されてるんだろう。エースが地元(個人的には俺と同じ中学出身らしい)ということで、その辺の話はクリアされてるんだろうか。まあ、福井なんて、昔夏の甲子園が一回戦を東西対抗にしていたころは、一年ごとに東側、西側を行ったり来たりするし、名古屋圏の辺境でありつつ(国の出先は大体名古屋の管轄で、NHKも名古屋放送局管内、中日新聞が売ってる)、関西の天気予報では端っこに映ってて、京都の伊勢丹でしこたま買い物をするという地域性の低い、もといボーダレスな県なので、どこ出身だとかいちいち気にする必要もないのではないかと思う。新幹線がつながると、経済的な恩恵はろくにないと思うが、球児はさらに集めやすくなって、青森みたいに野球はもっと強くなるかもしれない。

           地域性が薄いといいつつ、本当に矮小な地域性の話を最後に。優勝旗は白河の関を越えないという有名な言葉の、小さい版というか、無名版として、優勝旗は北陸トンネルを越えないというのがある。北陸勢初優勝。ただ、敦賀は大阪からは北陸トンネルの手前にある。

          メーカーの人々

          0
              とある仕事の依頼で、ここ最近、某メーカーで取材する日々だ。立場上、詳細を明かすわけにはいかないので漠然とした話になる。基本的には理科のお話である。一般消費者とは無縁の、実にマニアックな商品ばかり扱っている会社なので、車やテレビと違って機器のイメージすらない。そういう海抜以下のレベルから話が始まる。その上難解。取材が終わると、脳がぐったり疲れているのを実感する。

             しかしストレスはない。何しろ理系の人は話が端的で、余計な修飾語や言葉遊びがない。山中教授あたりを想像してもらうとわかると思う。基本、あんな風な人ばかりだ。ついでにこちらがわからないという前提があるので、質問もしやすい。どんなおバカな質問も、無知ですいません、いやいやこちらこそややこしくてすいません、なんてな具合に円満に進む。ただのスカスカ美辞麗句にしか見えない理念を押し付けられることもないし、下手な質問をして「いえですから」と半笑いで説諭されることもない。別にどこかの企業の悪口を言っているわけではない。

             ストレスはないが、話は難しい。物理に化学に統計学に、既に色々出てきた。門外漢にはキツい。
             前に、BBCの記者が書いた「フェルマーの最終定理」という数学上の超難問を巡る歴史についてまとめたノンフィクションを読んだことがある。そのあとがきで筆者が「○○教授には門外漢の私に、実に根気よく説明していただいた」などと謝辞を述べているのだが、「文系の私に数学を教えてくれた」という意味かと思いきや全然違う。筆者の経歴をよく見ると、ケンブリッジ大学で素粒子物理学の博士号取得、とある。数学ではなく物理の専攻だった、と「門外漢」の基準が高すぎて嫌味の域を超えている。
             というわけで、文学部出の俺は門外漢だと大声で主張したいところを、そういうのはやめて、曲がりなりにもそれなりお勉強が出来た身として謙虚に奮闘するのみである。ま、どの道現在の俺の立場で発揮される技術は、わかりにくい話をなるべくわかりやすくかつ面白くかつ、間違いや問題のない範囲でお茶を濁した表現を駆使してまとめる、である。これはサッカー選手のドリブルや、料理人の包丁さばき、演劇人のあめんぼあかいなあいうえおと同じ、売文業の基本である。

             さて技術者の人々ととっくり話してみて、新機軸の開発に必要なことは2つほどあると感じた。1つはどうにかしようとする、ないしはどうにかできること。
             わが身の回りでいうと、ココロックはないものは平気で自分で作ってしまう。以前勤めていた印刷屋のおやっさんも、その辺にあるもので印刷機の補助器具を平気で作って勝手に装着してしまうような人だった。役に立たないものも多かったが、アイデアは凄かった。収納上手のオバサンに似たような感覚だ。それをそんな風に使うのか、というような柔軟さである。我が父親にもそういう素養があるが、全部兄貴の方に行ってしまい、俺にはないものを作ることは、まったくもって平気では出来ない。そもそも不便なまま「平気で」我慢して過ごしてしまうので、作るという発想すら出てこない。
             で、べらぼうに金をかけた巨大なシステムの開発でも、大元の発想自体は、ないから作ろうと、ホームセンターで使えそうなものを物色して、組み合わせる、というそれと全く大差ない。

             もう1つは、入口からして異なるまったく新しい方法が出てくる柔軟さ。例えばこの明かりが暗くてどうもいかんなあというときに、通常は明るくするため光源の種類や角度を色々変えて改良を試みるわけだが、いっそ明かりをやめて音を使えばいい、くらい前提を変えてしまうことである。
             俺が取材しているこの企業の人によると、その業界でこれが出来るのは、もっぱら欧米企業で、日本はからきし駄目とのことだった。理由を尋ねると、向こうさんは世界市場を見てますから、使える研究費の桁が違います、というわけで、要はわけのわからんことばかり考えているろくでなしみたいな社員がごろごろいるのだろう。これらを短くまとめると、よく遊びよく学べということか。我が身を振り返ると、最近ちっとも遊んでいない。世の中全体がそうなきもする。学んでもいないし遊んでもいない。

            よく聞かれますが本編の掲載はありません

            0
               随分間が空いたが、本日発売の今月号に、再びの次点大介の拙作について、選評が載っておるので是非ご覧あれ。審査員の3人のうち、1人はやたらと褒めてくれているので全文ここに書き起こしたいが、そういう品のないことはやめときます。自分が面白いと思って作ったものを、他人が面白いと言ってくれるのは幸せなことです。それが人気の作家先生となれば尚更です。もうすでに5回ほど読み返した。みっともないですね。でもまあいいじゃないですか。

               もう一人の先生は、「今回最も論議を呼んだ作品」と記しておられる。最大の褒め言葉ありがとうございます、と、褒められて嬉しいといったハナから強がってみる。

               でも議論のわかれる作品というのは、文字通り、「議論のわかれる作品」という、いわゆる「問題作」な場合もあるが、大抵はうまくいってない部分があるだけのことだと個人的には思っている。というのも、ほどほどの出来の脚本で舞台をやると、こちらの意図を好意的に汲み取って「面白かった」とアンケートに書く人と、こちらの不出来さのせいで意図するところがうまく伝わらず、「面白くなかった」と書く人とが半々になるからである。で、広げた風呂敷がデカいと、その輪郭が余計に際立つ。なので「議論のわかれる作品」は、響きは格好いいけど、そんなにいいもんでもないんですよ。ただその不出来さが、審査員各氏の指摘する通りなのかどうかは、また別の話である。

               とりあえず、評価の芳しくなかった審査員も「高村薫を連想させる」と書いておられるので喜んどくとします。いいところだけ読んで喜んでる馬鹿のようですが、出来てない部分の出来てなさについては、自分が一番よくわかってるもんなんですよ。じゃあ最初から直して応募しとけってね。あと「長い」と2人から言われているので、「ラッシュ」を見て勉強しようねというところである。

               選評の中で軽く紹介されているので、拙作の概要を簡単に説明しておくとします。北朝鮮の野球のナショナルチームが、親善試合のために来日するというお話です。サッカーじゃなくて野球というところがミソです。国が国なので、日本側も北朝鮮側も当然、なにがしかの隠微な思惑だの深謀遠慮だのが付きまとい、ついでに在日コリアンや脱北者といった人々にも様々な感情の高ぶりをもたらし、そうして物語が転がっていくわけですな。今のご時勢ですから、勝手に「問題作」になるようなお話です。でも政治でも諜報でも戦争でもなく、繰り返すけど、野球というところがミソです。
               

              やりたい人とやらせたい人

              0
                  先日ご紹介したわたくしの武勇伝ですが、結果はこのようになっております。どーもこんにちは。再びの次点大介です。

                 ちなみに、なぜこんな大手映画会社のホームページで紹介されておるかといえば、説明書きを最後まで読んでもらえればわかると思います。採掘権みたいなもので、掘っても石油や金が出るかどうかもわかりませんが、権利だけはありますよという、それと同じような話です。

                 それで早速打合せなるものがあり、何が話し合われるのかもよくわからないまま東京に行った。台風のさなか、新幹線が走っては停まるを繰り返してどうなることかと思ったが、プラス1時間で済んだ。同じく舞台の公演で東京におるであろう悟さんにイタズラ電話でもしようかと思ったが、どうせ向こうも大変だろうと思ってやめた。この日は、知り合いが招待されている焼肉パーティに、招かれざる客として顔を出すだけだから、こちらは何だかんだいって気楽である。

                 で、後日、打合せを滞りなく行った。何を話し合ったかは書かないが、俺以外におっさんが4人も集まって、俺が作り出した登場人物について、まるで知り合いの話でもするかのように、いや〜ダレソレのキャラがいいね〜、だとか、ダレソレのやるせなさってのが共感するところがあったね〜、などと会話が繰り広げられるのが不思議だった。兄か弟の知り合いと話している感覚とでもいえばいいか。加えてこれらの人々は、ただの読者ではないから、いやがおうにも昂揚と緊張が伴う。

                 ただ「やりたい」だけで舞台をやれていた時期を過ぎたころ、自分がやりたいというだけでなく、自分にやらせたい、と言うてくる人はおらぬものだろうかと夢想したものであるが、いざそういう場面と出くわしてみると、あのころはおらずしておらんかったのであり、今はおるべくしておるのだろうと偉そうに思うのである。

                 そうはいっても、今すぐ富や名誉に直結する話はない。マンガ「EXIT」の7〜8巻あたりみたいなものである。バンドを主人公にしたマンガだが、苦労の末ようやく自分たちを買ってくれるレコード会社と契約したものの、「ガツーンと格好いい曲よろしくねー」といわれるだけで、特に有名になるわけでもオリコン1位になるわけでもない。ついでに会社からは「バイト頑張ってね」と暗に諭される。あのマンガは妙にリアルなんだなと再確認しつつ、褒められ多少なりとも期待されている、という光栄かつ 非常にアヤフヤな切符片手に相変わらずの修羅道を進むというわけである。

                写真:空いた時間の使い方が、この程度しか思いつかなかった。これを動かすアイデア募集というのを今やっているらしいが、ホンマに動いたら、東京五輪の開会式はこいつに聖火の点火を任せるだけで全部事足りるのではないかと思う。そういう話を別件の仕事の話で会った50歳くらいの男性に話したら、「それだったらウルトラマンでしょ?」と1割ほど怒気混じりに言われた。女性からすればどっちもどっちというお話で。

                ご報告

                0


                  そういう私も、一応仕事しております。

                  結果ははて、どうなることでしょうか。

                  決算の季節

                  0
                     本の宣伝。今回で3冊目になる。この仕事を請け負うようになって3年目ということだが、今回は前回同様コラムを書き、加えて本文の一部も担当した。他の人が色々と調べた材料を受け取って、こちらは書くだけ。毎度お馴染みの、肌に合わない経済人の文章を読んだり決算書読んだりの作業である。

                     昨今はどこの企業も海外展開を加速させているのだが、こういう話を読んでまとめている自分はというと、日本語という日本でしか通じない商売道具を駆使するのみであるから、やれやれである。最近の海外展開は、安い労働力の確保ではなく、市場の開拓にシフトしているというから、時代は再び重商主義である。

                     コラムは当然ながら、アベノミクスがどうちゃらこうちゃらという内容になる。最近は、国家戦略特区というのが軸にある。小泉政権以降、勢いのある名前をつけるのが流行っている気がする。特区といわれると、自動的にカジノを連想する。大阪は経済団体がそこそこ具体的な動きを見せていて、たまにニュースでやっている。大阪以外にも、手を挙げている自治体は結構ある。地域活性の切り札的存在として期待が大きいからだが、賭け事に対する警戒感も根強く、大抵はこの賛否を軸に語られる。

                     しかしカジノをやったら本当に地域は活性化するのかということについてはあまり語られているのを聞いたことがない。そこはもう最初から「そうなる」という前提で話が進んでいる印象を受けるが、よくよく考えると、ホンマかいなという気がしてくる。

                     もちろん、韓国やマカオにカジノのためだけに行く人がいるという事実はあるし、連休の最終日になると、USJの袋をぶら下げて疲れ切った様子で大阪駅の北陸線のホームに座り込んでいる北陸の民の一団をよく見かけるから、同じような感じで人が集まる風景を想像することは出来るのだが、カジノさえあれば、みたいな語り口を聞くにつけ、ハウステンボス、シーガイア、レオマワールド、クリスタ長堀……、といった固有名詞がチラチラとするのである。新幹線が来さえすれば活性化、という発想とカブるというか。

                     先日、タダ券を頂戴したので、なんばグランド花月にショーを見に行った。ジャグリングとかフラフープとかの、大道芸的なパフォーマンスで、出演していた外国人は皆ラスベガス辺りでやっている連中である。修練の年月を想像するとくらくらしてきそうな技術の高さと、この手のショーに付きまとう、レトロな場末感が非常に楽しかったのであるが、あそこはこういうのを育て上げる町なんだなあと思わされた。

                     ついでに、大阪が誇るこのお笑いの殿堂は、(別にけなしているわけではなく)スミからスミまで銭の匂いがして、同じ劇場とはいえ、我々が普段使用している芝居小屋とは根本的にあり方の違う、実にシビアで見事な産業なのだと感じさせられた。カジノをやるっていうのは、要するにこれくらいの気構えがいるということなのだろう。

                    宣伝

                    0
                       以前にも触れた本がようやく発売の運びとなったようなので宣伝です。著者名を見た善良な若人が「ペンネームですか」という善良な解釈をしていたが、ペンネームではなくマネーネームですね。大人の事情というやつです。ただ今トレンド最前線(からぼちぼち値崩れし出した)ゴーストというやつです。誰が幽霊だ。俺はちゃんとここにいるぞ。なんて言ったところで、世間様に知られてない存在につき、いると思っているのは当人だけのシックスセンス状態なのかもしれませんがね。

                       とにかく、ご協力いただきました皆様、どうもありがとうございました。

                       類書との違いはとにかくライトな記述に努めたという点で、何かしら根拠のある話でもいちいち明示せず、決めつけような書き方をしています。そのため「お前見たんか」という記述があちこちにありますが、お気楽に楽しんで下さいってことで。
                      前文を書くよう言われて、だいぶ奇をてらったら、「奇をてらいすぎ」というそのまんまの理由で没になりました。本書の方にはマトモな前文が載っていますが、没になった方をせっかくなのでこちらに掲載しておきます。
                       
                      続きを読む >>


                      calendar

                      S M T W T F S
                         1234
                      567891011
                      12131415161718
                      19202122232425
                      2627282930  
                      << April 2020 >>

                      selected entries

                      categories

                      archives

                      recent comment

                      • お国自慢
                        森下
                      • お国自慢
                        N.Matsuura
                      • 【巻ギュー充棟】反知性主義
                        KJ
                      • 【映画評】キューブ、キューブ2
                        森下
                      • 【映画評】キューブ、キューブ2
                        名無し
                      • W杯与太話4.精神力ということについて
                        森下
                      • W杯与太話4.精神力ということについて
                      • 俺ら河内スタジオ入り
                        森下
                      • 俺ら河内スタジオ入り
                        田中新垣悟
                      • 本の宣伝

                      recent trackback

                      recommend

                      links

                      profile

                      search this site.

                      others

                      mobile

                      qrcode

                      powered

                      無料ブログ作成サービス JUGEM