調べもの

学生劇団のころはほとんど何も調べずに書いていた。モロパクリみたいなものも書いたから調べる必要すらなかったといえるが、パクリでなくても愚にもつかない内容だから、ちゃんと調べるという行為の出番がそもそもない。昨年、某大学で学生のレポートを採点した。理系の学部だったので、ちょっと専門的な内容になると俺には手に負えない、はずなのだが、ネットで検索するだけで判明してしまうような大間違いを書いている学生が多く、俺でも採点できた。それと同じようなもので、調べることと形にすることの関係性をきちんと自分のものにするのは、経験からくる部分が大きいのだと思う。ま、それこそ大学で身につけるものの一つであるのだが。
それで前職の影響だろう、舞台を再びやるようになっていざ台本を書こうとすると、すっかり下調べをするようになっていた。それはそれでどこかしら自分で幅を狭めているような気もする。少なくとも手間だし、自宅に資料があふれるようになる。あふれるというのは大袈裟だが、記者のころより念入りに調べているような気もする。会社員時代はちっとも仕事してなかったから当然といえば当然だ。
何を調べるのかというと、無論色々とあるが、大まかにいえば舞台装置を作るために必要なことだと思っている。大阪駅のシーンを描くためには実際に大阪駅を見に行く。わかりやすい例を挙げればそんなところだ。自分が演出した舞台では、毎度毎度グレーの箱しか舞台になかったくせに、舞台装置というのもおかしな話だ。でも言葉にするとそうなる。小説だとグレーの箱で済ますわけにもいかないので必然、調べる量も増えることになるが、姿勢としては舞台のときからそうだ。要するに、作品世界がどうのこうのという前に、これから物語を作っていこうとする自分自身の発想の土台として実物を見に行ったり人に話を聞いたり本を読んだりするわけである。
日数もそんなにない中で、目的の場所に行ったり資料を手に入れたり、要領よく進められたと思うが、何の用事であれ、旅先での時間の使い方を振り返ると日常よりもはるかに有効活用に見えて、普段どんだけ能率が悪いのだろうと嫌になる。とはいえ、何か収穫はあったのかというと、目的を済ませたという以上にはない。自分に必要な舞台装置はちっとも整わなかった。つまり平たく言えば何も思いつかん。ついでに人にあって酒を飲んだだけのような気もする。
「ところで今回は何用で」と尋ねられ、現時点での着想について話すと皆一様に腑に落ちない顔をしたので、手ごたえは感じているのだが。天邪鬼に思えるだろうが、他人に概要を話して「は?」という反応をされるときほど作り話をこしらえる醍醐味もあるというものなのである。
- 2016.04.10 Sunday
- 著作
- 00:10
- comments(0)
- trackbacks(0)
- by 森下淳士