防長路(4)

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    (続き)

     ちょうど友人と約束していた時間となり、仕事終わりの彼と合流して山口市内で酒を飲んだ。
     山口市は県庁所在地だが県内よその都市より存在感が薄い。津と似たようなものだ。余談ながら山口県の「やまぐち」と山口市の「やまぐち」は、アクセントが違う。そういう豆知識を友人から聞き、どこかで聞いた話だと思ったら、以前に依頼された原稿の中で自分で書いていた。何でこんなに麩が売っているんだろうと疑問に思っていたが、それも自分で書いていた。

     

     山口市内の中でも、他の地方都市とは異なるズレがあり、歓楽街は山口駅前ではなく一駅行った湯田温泉周辺にある。ユダ温泉。美しい顔についた傷も治りそうな名前だ。日ユ同祖論の証拠のような温泉だな。キツネが見つけた温泉という言い伝えがあり、湯田温泉駅には巨大なキツネ像がある。友人の案内で外湯に入ったが、スーパー銭湯と値段が同じだった。聞けば、普通の銭湯より安く入れるところもあるという。沸かす必要がないから?

     山口といえば「獺祭」である。ブームはひと段落した感があるが、いまだに獺祭が飲めることをアピールしている居酒屋をよく見かける。これに限らず、たまに全国的に爆発的に売れる銘柄があるが、日本酒など日本のあちこちに美味いのがあるので、1つの銘柄だけに評価が集中する理由がよくわからない。このため獺祭ブームも白けながら眺めていたが、旅先で地元の酒を飲むのは正しい。早速獺祭を頼んだ。なぜか実家で使っているのと同じ銚子で出てきたので、一本義を飲んでいる気分になった。
     ひさびさに酒のはしごをして、最後はごぼ天うどんでしめた。ごぼうの天ぷらをのせたうどんである。福岡名物で「華丸・大吉のなんしょうと?」で見るたびうまそうに思っていたが、おいしかった。この辺りは、福岡のコシのないうどん文化圏だそう。

     

     そうして飲み過ぎたが、高い日本酒ばかり飲んだせいか(正確には東京だと高い酒)二日酔いは軽かった。翌朝、着任以来ろくに観光していないという友人とともに市内を巡った。
     こちら山口市は維新よりは、大内氏、そしてザビエルだ。維新には飽きていたのでほっとした。大内氏は室町時代、明との貿易で京都より都会だったといわれる山口を築いた大名である。そういうイメージとは裏腹に、山口市は内陸の盆地だ。ついでに市街地と山が妙に近いので、緑がやけに印象的だった。


     ザビエルは、日本史ができない人間でもなぜか知っている超有名人だ。といっても何をしたのかといえば「キリスト教布教」以上のことはよく知らない。何年か前に、実はカッパ型に剃髪してはいなかったという逸話をテレビでやっていたせいか、以降、よくそういう話を耳にする。当地にある像も普通のヘアスタイルである。そして当地では「ザビエル」ではなく「サビエル」と表記する。ポルトガル語の発音では「サビエル」の方が近い。英語だと「ゼイビアー」。二つ混ざってザビエルなのだろうか。イギリス系以外の欧米人の名前はカタカナ表記がバラつきやすい。一部サッカー選手の名前はテレビ新聞報道各社バラバラだ。大リーグでも、移民元の言語で読むのか英語風に読むのかで安定しない。ピアッツァなのかピアザなのか、リンドーなのかリンドアなのかリンドルなのか。大手服屋のZARAは、スペインの会社なので「ザラ」ではなく「サラ」だと思うが、世間的には「ザラ」である。サビエル山口市民は「サラ」と読んで欲しいものだ。「ゲッペルス」じゃなくて「ゲッベルス」なのは、綴りがpじゃなくてbなので、こちらはただの勘違い。「いばらぎ」ではなく「いばらき」問題と一緒である。

     


     さて大内氏の方は、ガイドブックの最初に載っている瑠璃光寺と、二番目に載っている龍福寺の2つの史跡にそれぞれ像がある。前者は大内弘世で南北朝時代に基礎を作った人。後者は室町将軍を奉じて上洛し、明との貿易権を得て山口を栄えさせた大内義興である。その息子が謀反で死んで没落に至る義隆。大河ドラマ「毛利元就」では義興が細川俊之で、義隆が風間トオルだった。なかなか絶妙の配役である。
     話が逸れた。瑠璃光寺五重塔は、現存なので古くて立派で結構感動した。ギラついた個人の生きざま死にざま中心の幕末維新に疲れたので、権力者がどーんと建てた寺その他は安心して見ていられる。
    ちなみに本県においては、牋歐鍬瓩寮力は弱い。伊藤博文から現職に至るまで、首相を何人も輩出している保守王国だからだろうが、香川県民にとっての丸亀製麺のように、本家には映るからだと推測する。

     

     その他中原中也記念館などを見物して帰途についた。再びマツダスタジアムの横を通るのだが、ちょうど試合が終わったところで、球場から駅につながる道路はファンでごった返し、新幹線の高架上から眺めるとさながら赤い川のようで見事だった。最寄りのローソンまで赤く染まっている。狂気の都市といえよう。あ、でも京都のローソンは白黒だった。こちらは熱狂ではなく嫌味のせいだが、平安1200年プライドと並ぶ戦後70年プライド。それが広島なのである。


    防長路(3)

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      (続き)

       さてもう一つの見どころは、萩城と城下町ということになろうが、市の反対側なので遠い。桂小五郎のような身分の高い連中の家は城側にあり、貧乏武士は塾の側に家があるという構図のようだ。当然城下町には立派な旧家が今もあるというわけだ。今度は玉造から阿波座、マツダスタジアムから平和公園くらいの距離である。ちょうど市内循環バス「松陰先生」号が来たので乗った。それに揺られてあちこち行っているうち、疲れたのと飽きてきたのもあって、城下町は寄らずじまいだった。市内のあちらこちらの路上に地蔵菩薩のように維新の志士の人形が飾ってあり、それが逆効果に響いて飽和状態になった格好である。

       


       こちらは萩駅前に立つ井上勝像。「長州ファイブ」の1人で、日本の鉄道王とされる。「〇〇王」と呼ばれる人は、実際はマネジメントに秀でていただけで実務はやっていないというケースもあるが、彼の場合は「一旦教えると異常に吸収して師匠を超える」日本人お得意のパターンで黎明期の鉄道事業に奔走したなかなかの怪物である。以前にその怪物ぶりを本で読んだのだが、全部忘れた。余談だが五人衆のもう1人遠藤謹助は大阪人の好きな「桜の通り抜け」を作った人である。

       

       志士像同様、市内のあちこちで見かけるのは甘夏だ。桜よりたくさん見かけた。萩の名物らしい。すっかり見かけなくなった柑橘類で、幼少期の記憶では酸っぱかった。ちょうど時期で、収穫したのを二束三文で売っているが、勇気が出なかった。梅干も酢の物も酸辣湯も好きだが、なぜか酸っぱい柑橘類だけは苦手なのだ。後で喫茶店で「生絞り甘夏ジュース」というのを飲んだが、ガムシロップも添えられていた。実際酸っぱくて、ガムシロをちょっと入れると落ち着いて昔の柑橘のノスタルジアを楽しめた。親父によると、夏みかんしかなかった昔々、初めて甘夏を食べたときに「こんな甘いものがあるのか」と驚いたらしい。清見だのはるみだのはこういう積み重ねの上にあるのか。

       

       萩といえば萩焼でもある。以前に骨董市で萩焼コーナーの女性が、スノッブ的でまあまあ不愉快だったのでよろしくないイメージがついて回っている。それを払拭するため適当な店に立ち寄った。今度は話がわかりやすくて楽しいおばちゃんだった。「ほうほうなるほど」と聞いているうち買わないと出れない空気になってしまい、往生した。欲しいのがあればよいのだが、あまりなかったのもので。しょうがないのでおばちゃんが推す中でどうにか気に入ったものを選んで付き合った。おばちゃんは高台の部分を示して、ここがグラデーションになっているのは、薪で焼いた証拠であり、ガスで焼くとこうはならないのだと力説した。
       その後土産物屋で、こういうのがあればほしかったという安物を見つけてしまい、本末転倒といおうかとにかく少し悲しい事態になってしまった。高台部分を見ると、グラデーションなしの均等な焼き上がり具合だったので、ガスで焼いているのだろう。それにどんな意味があるのかとつい考えてしまうが、それは野暮というものである。

       

       その後博物館で見た解説によると、萩焼は、秀吉が唐入りのときに朝鮮から陶工を連れ帰ったのが始まりらしい。その陶工を今度は毛利輝元が萩に連れて行き生まれた。先ほどのおばちゃんの店で紹介していた作家氏が、韓国の展覧会にしょっちゅう出品していたのだが、そういう事情かと腑に落ちた。技術者が海を越えるのは、今も昔も(方法と方向が違うが)同じである。
       その陶工の一人李敬が、藩主より坂高麗左衛門の名をもらったとある。こういう話を読むと、ついつい織田信長が宣教師の連れてきた黒人青年に「お前は今日から弥助じゃ」と言い放つ大河ドラマの一場面を思い出して不条理に映るのだが、坂高麗左衛門はその後名跡になって現代まで受け継がれるのでそれとは別の話か。それとも「弥助」には弟子も継承する技術もなかっただけで、始まりの発想自体は同じなのか。

      (続く)


      防長路(2)

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        (続き)

         

         松陰神社は、境内に松下村塾や博物館等がある。というか正確には塾の近くに神社を作った。
         ここで白状しておくが、俺自身は幕末ファンでもなければ吉田松陰ファンでもない。「竜馬がゆく」に心躍らせた過去もあるが、演劇でさんざん見たせいか味覚が変わった。「吉田稔麿って誰すか?」と言うかっしゃんが吉田稔麿の役を頼まれるくらい小劇場では幕末は定番のモチーフである。そのせいかどうか、とにかく年を経るごとに、興味は負けた側であったり、明治以降であったりに移っていった。松陰神社の近くにある伊藤博文の家に行った際も、展示された写真の中で最も見入ったのは統監府時代の伊藤や、ハルビンの伊藤だった。
         そして吉田松陰については、勉強熱心なところと、弟子に慕われた点は見習いたい人物ではあるが、計画や戦略がないところ、むしろ計画性のない正面突破を潔しとしていたあたり、好きではない。彼の「至誠天に通ず」が大きな原動力を生んでいったのは否定できないし、美しくもある。美しさはときに厄介で、上澄みだけが伝播しやすい。「現実的に考えて無理だと思います」などと会議で発言すると、とたんにやる気のないやつ扱いになる日本社会の言霊ならぬポーズ霊風潮は、この人に責任があるのではないかとすら疑っている。

         

         というような話はもちろん、当地で口にするわけにはいかぬ。なにしろ偉い先生かつ若くして刑死しているので神格化もある。その証拠に神社がある。年寄りグループを案内している女性ガイドに、客が「花燃ゆ」を見たのか尋ねると、「面白くなかったですね」とガイドは言い、その理由が「細部の詰めが甘い」だったから、その熱狂も推して知るべしである。
         我が故郷には橋本佐内という松陰と若干似通った志士がいるので、その熱狂がなんとなくわかる。同じく勉強熱心でかつ安政の大獄で若くして死んだ人だ。何をしたのかというと、特に何もしていない(藩士として立派に勤務はしている)。ただし西郷隆盛以下、維新のヒーローたちがとかく褒めまくっているので尊敬されている。松陰と違って、市民から総じて慕われている知名度はないが、社会科の先生あたりに狂信的な人がいたものだった。「特に何もしていないが褒められたから人気者」などとヒネた評を言おうものなら鉄拳が飛んでくると思う。似たような空気が、ここ松陰神社にも立ち込めている。

         

         有名な松下村塾は、現物らしい。「花燃ゆ」で見たまんまなのでちょっと感動した。まあ取材して似せて作っているから当たり前なのだが、こうやって順序が逆転するのはフィクションの強さであるという話は満洲の時にも書いた。境内のあちこちには、岸、佐藤ら首相が寄贈した碑が目立つのだが、「すげー、首相も来たの?」みたいなことを言って眺めている観光客がいて、こちらも順序が逆である。


         隣には博物館がある。主な展示物は彼が遺した書き物だが、処刑の前夜に書いた「留魂録」はデジタルで全ページが見れる。ざっと数えると、原稿用紙10枚ほど。ワードでいうと、基本の書式で3枚ほどだ。死を前に一晩でこれだけ書けるのは、忙しいのを理由にブログの更新が滞っていた身からすると「反省」の二文字がぐさぐさと突き刺さる。

         何と、この遺言というべき、生涯のしめくくりの文章の中にも「橋本佐内に会えなかったのは残念だった」と書いてある。会ったことのない人にも褒められているとは、佐内先生もやはり相当の人物というほかない。

         この「留魂録」には、弟子の名前も何人も登場していて師匠としての人柄がうかがえる。エキセントリックで兄貴に心配ばかりかけていたくせに(花燃ゆ)、弟子には細かい気遣いが出来るんだな(まあ俺も、兄に心配ばかりかけているが、できない若人に対する気遣いは、兄よりは出来ると思っている)。ただし文中に登場する人物に有名どころはあまりおらず、歴史は後世の人間が作るという原則は、勝者が敗者を消し去るだけではないのだと感じさせられる。


         ここにはもう一つ、吉田松陰歴史館という施設がある。見るからにB級感漂う佇まいに、多くの観光客は横目で見るだけで通り過ぎていく。当然入った。500円也。松陰神社の宗教法人が作った施設らしい。「透徹した史観を主張する全く新しいタイプの歴史館です」という謳い文句に俄然不安を期待が芽生えるわけだが、展示物の解説文は案外冷静な筆致だった。そして館のしめくくりのあいさつ文には「このような表現方法には限界がございます」と一転へりくだっている。
         「このような表現方法」とは蝋人形のことだ。「密航を企てる松陰」「牢に入れられる松陰」「塾を開く松陰」「また牢に入れられる松陰」「お白洲にしょっぴかれる松陰」。松陰の人形が色んなことをさせられているので、だんだん不条理劇に見えてきてしまった。「花燃ゆ」の主人公・文の人形も登場していたが、橋田寿賀子→安田成美の歴史修正主義ほどではないが、ちょっと複雑な気分になる造形をしていた。

        (続く)
         


        防長路(1)

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         長期沈黙していた。ブログの管理ページがモデルチェンジしていて驚いた。皆さんお久しぶりです。
         「森友学園について大手の報道機関が取り上げないことが話題となっている中、このブログも長期沈黙していた。それというのも、維新から国政選挙に立候補した友人を持つ身なので、はばかること多々ありて、普段威勢がいいくせにダンマリを決め込む右翼しぐさの連中と同じく俺も頬っかむりを」とかなんとか、くだらない冗談から書き出そうと考えているうち、全社報道し出して、おかしなおじさんも急に宗旨替えして、桜の季節も連休も、とっくに過ぎた。五月病という症状は今時もあるのだろうかはや皐月。かの立候補友人はどうしておるだろうか。そこだけ事実というのがポイント。

         

         既に日付をちょろまかしてまとめて更新した中に書いたが、単純に「忙殺」という言葉がぴったりの忙しさが理由だ。実につまらない事情なのだが、こうも忙しいと誰かの陰謀のように思えてくる。こういうのは「謀殺」といって毛利元就あたりが得意技にしていた。

         

         そういう日々の中で、書いては滞り、滞ってはまた書ける時間が消え、を繰り返していた。主に森友に関連して、本筋とは別に思うところを書いてみようとしてまとまらない。何年も前から折に触れて書こうとしては毎度うまくまとまらず、今回はこの辺にとどめておくかと軽く触れるにとどめておいたこれらのまとめのようなものだ。ここ何年来、大阪で暮らしている中で引っかかっていることのすべてが関連しているような気がして、そりゃあまとめるのもままならない。そういうわけで、一転牧歌的な旅の話を。

         

         忙殺期がひと段落して、その他諸々、説明するまでもないような細かい事情が重なり、これ幸い関西を離れてやろうと新幹線に乗った。やがて車窓からマツダスタジアムが見えるが、本ブログ愛読者であるK氏が住まう軍港都市は今回は通過である。いやしかし、野球場を見るとわくわくする。もしや建築物の中で一番好きかもしれない。

         

         そうして到着したのは山口で、冒頭毛利元就が出てきたのもそのせいである。元就は広島だが、孫の代には萩に移る。その後、近代国家日本の出発点のような地になる。そういう点、タイムリーといえばそうなのか。

         かつて小郡といった新山口の駅から、直通バスに乗って萩に向かった。電車だとぐるり迂回していくことになるので、バスの方が速い。

         さて、山口県というと、静岡同様、多くの人が新幹線で通過してしまう県で、縁者でもなければなかなか訪れそうにない。個人的には山口県といえば今吉なのだが、彼は頑なに北海道民を自称しているので、縁者はいないことになる。大学時代、アルバイト先の友人が熊毛町の出だったが、合併してなくなった。彼ともとうに縁は切れた。卒業前にギターを取り返しておいてよかった。その後悟さんにあげた。

         

         20代のころ、下関には行ったことがある。下関条約調印の地を見物して、近くにある名画の題を冠したカフェに寄ったものだった。検索したらまだあるようだ。それでレトロな街並みでも見物するかと思ってさまよった。それは対岸の門司だという常識も持ち合わせていない若いころだった。

         

         そうして久々の訪問なのだが、友人が1人、この地に転勤してきたからであった。彼の個人的事情で行楽シーズンのこの時期の訪問となった。その日は日中、仕事で萩にいるというので、彼が仕事を終えるまで観光したというわけだ。

         萩は2本の川に挟まれた中州に広がる日本海に面した小さな町だ。北西の海辺に萩城跡があり、東に松下村塾その他松陰がらみの史跡がある。バスは市のど真ん中にある明倫館に到着した。藩校のあと小学校になり現在は観光施設となっている。一直線に横に長い校舎に、つい森友学園を思い出してしまった。とりあえず腹が減ったのでうどん屋に入った。香川のうどん屋のような古臭くて慌ただしい佇まいがよい。チェーンの看板を掲げているが、看板だけがチェーンで、中身は別々らしい。連休中日の平日なので、近所の勤め人が昼食を取りに来ている。先にレジで注文をいうのだが、俺の前に並んでいた作業着の男性が注文したのと同じものを頼んだ。福岡の腰のないうどんの文化圏だと事前に聞き及んでいたが、確かに腰がなくふわふわしていてうまかった。うどんの付け合わせはワカメをまぶしたおにぎりというのが当地のスタイルらしい。

         

         腹ごなしに歩き出した。とりあえず松下村塾に行くため町を東に向かって歩いた。大阪市内にあてはめると、明倫館を心斎橋付近とした場合、玉造の手前くらい。新宿からだと四谷の手前くらい。福井駅からだと親父の元職場くらいの位置にある。こうやって書くと東京の密度は尋常ではないな。

         道中には周布正之助の家の跡とか、よく知らない志士の家とか、色々あっていちいち表示がある。現役で使われているお宅もある。そういう古い住宅街を抜けて、松陰神社に到着した。

        (続く)


        虹色の霧P(37)それみたことかはもうやめようぜのあとがき

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          下段はホテルにあった1929年撮影。左端に、例の軍人の像が見える。

          80年以上前の写真と画像の霞み方が同じという霧Pの物凄さよ。

           今回、東北地方を旅したのは、知った人間が現地にいるからというのが8割がたを占めるのだが、それが東北地方だったせいで俺にしては長い一週間超も滞在することとなった。これが上海とかだったら、もっと短かったと思う。歴史見物と北朝鮮見物。したかったことはあらかたできたが、もうひとつ知りたかったのは、実際の中国を見ることだった。

           「世界がビックリ日本のすばらしさ」的な内弁慶が流行りのただいまのわが国は、同時に中国の「それ見たことか」なニュースが好物だ。建造物が崩落するとか、汚染垂れ流しとか、製品にインチキぶっこいてるとか、その手のニュースだ。経済大国日本を凌ぐほど発展著しいとはいっても土台は脆弱で、所詮張り子の虎に過ぎない。そんな内情がくみ取れるから安心するのだろう。

           報道の現場でも、「それみたことか」ニュースはすぐに採用されるらしい。結果、困った大国としての側面ばかりが流布され協調される。個々のニュース自体は事実だし(時に誇張はあるだろうが)、賛同し難い国であることも確かだが、そこばかりクローズアップされるのも、何より日本にとってあまり好ましいことではない。嫌いなら嫌いで別にかまわないが、だったら尚更、相手を知らないと勝てるはずもない。中国批判が大好物の威勢のいい論客こそ、訪中した方がいいと現地で痛切に思った。

           何しろ変化が速い。「五色の虹」の取材は2008年ごろらしいが、あそこで描かれている街の景色は、俺が見たのと一致しない点も多々あった。ガイドブックに載ってない地下鉄が走っていたのは既に述べた。10年以上前の学生時代に現地を旅行したという同世代の知人数人は、「えらい変わりようだ」と口をそろえていたのもむべなるかな。

           ただ今現在そんな国だ。こんなことは、現地で働く日本企業の人間なら、俺の千倍知っているだろうが、耳を傾けるべきはそちらだ。いつまでも「それみたことか」に留飲を下げるばかりでは、そのうち大損してしまうし、おそらくすでに、それが本質ではないニュースも「それみたことか」仕立てになって報道されているものは多いと、これは勝手に断言する。毎週日曜朝、大リーグの珍プレーに「喝!」「基本がなっとらんのですよ」「レベルが低いんです」とクサす張本勲じゃないんだからさ。

           ちなみにあの御大は「興味がない」と口では言いながら、メジャーの試合はかなりチェックしているのが、言動の端から漏れている。あのコーナーを本気にして「大リーグってレベル低いんだな」と思っていたらバカを見る。

           一方の日本は、中国に比べれば変化が乏しい国であるが、社会が成熟しているから必然だ。実際中国は問題だらけで、NもO氏も政府の腐敗がひど過ぎると口をそろえるし、交通マナーは民度が低いし、老舗と公共機関は態度が悪いし、空気も汚い。街行く中国人男子は総じてしょっちゅう痰を吐くが、マナーの問題というより空気の問題な気もする。

           第一、大阪に戻ってきてまず思ったことは「綺麗な街だ」だった。日本屈指の汚い街だと当の大阪人自身が思っているフシがあるが、何てキレイなんだ、第一空が青いじゃないかと深呼吸したものである。土産を渡しに実家に帰省したが、故郷の綺麗さは、なおさら狂気の沙汰にすら見えた。第一、人がいない(中国人観光客はいたが)。

           もちろん日本だって問題はたくさんある。福島の原発とか各地の震災とか東京五輪とか社会福祉とか大学改革とか司法とか図に乗った政治家の発言とか気が滅入ることもしばしばだ。だが、あちらの豪快な未成熟ぶりを見ていると、日本社会の仕上がり具合は痛感した。維新の政治家が「改革を止めるな!」とうるさいのには、現状維持でいいんじゃない?という気がしてくるし、「日本の劣化が深刻だ」と嘆く学者には「大丈夫なんじゃない?」と、日本への問題視が総じて些細なことに思えてしまった日々であった。

           それで帰国して、荷物を解きながら何となくテレビを横目で見ていたら、芸人が日本の社会に物申すようなバラエティをやっている。〇〇な人を最近見かけるがいかがなものかとか、この手の商品のここがいつまでたっても改善されないのはおかしいとか、バラエティだからあえて瑣末なことを大袈裟に言って笑いをとろうとしているのもあろうが、それにしても何というタイミングの番組だろうとは思った。仕上がってんだから、細かいことはいいじゃん、だから自殺者が減らないんだよ、と思ったものである。

           変えるとすれば、少なくとも中国人のあの気兼ねのなさ。あれは少し取り入れたいものだ。昭和の日本人もあんなもんだったという意見を聞くが、だとすれば「日本を取り戻す」とは気兼ねのなさの導入だな。もれなく迷惑行為が副作用的についてきそうだが、そこはそれ、成熟社会として両立させるわけですよ。

           ちなみにNによると、日本人だと知れた途端にタクシーの乗車拒否をされたのが、伝聞で1件のみ。基本的には、民度が高い国として一目置いている人が多いという。O氏によれば、中国人によるイメージは、日本はよくて、どちらかというと韓国を嫌う人が多いらしい。現在の日本の世相を見ると、買い被りのようにも思えてしまうが、何にせよ、ガッカリされないように、気高く堂々とすることですわな。「それみたことか」なんて小さい小さい。

           さて、取材でも何でもないただの旅行だっただけに、もったいぶって隠す必要もなかった。この際見たことを全部書いてやろうとスタートした連載だったが、一気に気候が秋めいてきて(2016/10/7)ようやく終了した。若干名に、いつまで続けるんですかと呆れた顔で聞かれたが、そのたび「俺もわからん」と答えていた。結局、400字詰め換算200何十枚かになった。本一冊分まではいかない量だから、多いような少ないようなだけど。

           ブログに旅行記を書く人は、途中で終わってしまうケースも多い。飽きるんだろう。よくわかる。ある意味、たかだかこの程度の旅行でどんだけ書き続けられるのだろうという実験でもあったが、予想ははるかに超えたから自己満足感はおつりがくる。1円にもならないので自己嫌悪も抱き合わせではあるのだが。

           帰国して間もなく、Nから「無事ついたか」と田舎の母親のような電話があった。礼を述べる俺にNは「俺がいる間にあと1回くらいまたおいでや」と言う。つい「そうやな」という外交辞令が言えなくて、「お、おん」と微妙な返答をしてしまった。よほど中国に飽和状態になっていたのだろう。深層心理を見透かしたNは「ま、ええわ」と苦笑していた。


          虹色の霧P(36)本日も、態度は明瞭、視界は不明瞭

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             帰国の日。このホテルには、収蔵品の陳列館があって、希望者はフロントに申し込むよう掲示がしてある。チェックアウトの際に尋ねてみると、担当者を呼んでくれた。しかしその担当者、「今から予約のお客さんが来るので」と言う。

             「じゃあ見れないってこと?」と聞くと、彼は周囲をぐるっと見回し、「じゃあ、代わりに彼女に案内してもらいますよ」と若い女性従業員を招き寄せた。

             その女性「なんで私が」という様子で、思い切り不満げなため息をこれ見よがしに、はあとつく。むしろ清々しいくらいの素直さだ。ここまでくると、サービス云々より、上司の命令にそんな態度をとっても大丈夫なのかという気すらしてくる。

             女性は肩を落としながら、鍵を取りに行き、2階の突き当りにある収蔵室に嫌々俺を案内した。収蔵品の多くは、満鉄本社の博物館と同じく、満鉄マークの入ったグラスや食器が中心だった。ざっと見まわして礼を言うと、彼女は無表情のまま消灯して施錠した。

             空港までは地下鉄で一本だが、最後にタクシーに乗りながら、街並みを見つつ、マッドなドライブを楽しむのもいいだろう。そう考えて、例のサツみたいな係員に「タクシーを呼んでもらえますか」と尋ねると、「ホテル正面に地下鉄があります。大変便利です」と慇懃(無礼)に断られた。これだと、嫌々案内してくれた方がまだマシだったかもしれない。

             中山広場の広場自体にはまだ行っていなかったので、本日も霧Pが濃厚な公園内を散歩した。年寄りが、中国式の将棋を熱心に指している。指すというより置く駒のデカさだが。

             することも思いつかず、地下鉄で空港に向かった。ずいぶんと早く着いた。早めの昼食でもとろうと思ったが、あまりいい店がない。そのままやり過ごそうとしたが、搭乗前になって猛烈に空腹になったので、焼き飯を食べた。空港プライスの馬鹿馬鹿しい値段ながら、自分で作った方が美味い気もする残念な炒飯だった。

            空港には中国では珍しく缶コーヒーが売っていた。それも懐かしのプルタブで。

             ようやく機体に乗り込むと、俺の席に爺さんが座っている。「ここは俺の席だが」と、仏頂面でチケットを見せると、「いやあ家族の隣に座りたかったもので。後ろのそこがわしの席だからそこを使ってくれ」というようなことを身振りで言われた。最後の最後に来て、中国式の早い者勝ち座席占拠に出くわすとは。まあこちらは単身なので、席はどうだっていい。
             1時間ほどで青島に到着した。帰りも乗継なのだ。3時間以上待ち時間がある。国内線で移動しただけだから、空港の外に出られるのではあるが、ガイドブックもないし、出かける勇気は皆無だ。こちらはロシアではなく、ドイツが整備した町なので興味は湧くのだが。
             第一次世界大戦で青島のドイツ植民地は日本の攻撃を受け、多くのドイツ人捕虜が日本に収容された。そのうち、鳴門に収容された人々が日本に第九を伝えた、というのが「バルトの楽園」という映画にもなっているが、同じくドイツ人捕虜が日本にドイツの菓子を伝え、こうしてできたのがユーハイム、という歴史豆知識は、女子大で披露したときのみウケる。

            中国滞在中、ずっと気になっていた風習。ホイールに赤い紐を結びつけるのはお守りの意味だろうか。青島空港で。

             搭乗手続きを済ませてしまおうと考えたが、なぜか出発の1時間前くらいにならないと相手をしてくれない。壁に案内板があって、名古屋行の便と時間がややカブっている。逆に殺到して面倒くさいんじゃないかと思うのだが、こちらにしても、行列でまたされてちゃんと乗れるのか?と不安になってしまう。
             加えて座る場所がない。人に対して椅子が少ない。余計にさっさと搭乗口に入らせろよと思う。どうにか座って本を読んだり、旅の記録をメモしたりしていた。ようやく搭乗手続きが始まったが、中に入ってからがまた長かった。予定より遅れているようで、定刻になってもまったく動きがない。この日はずーっと待ち続けるだけで済んでしまった。

             日本に着くころにはすっかり夜だった。考えてみると、夜に着陸した経験がない。お陰で神戸のポートタワーが見えたときに妙に感動してしまった。窓側に座る若者は、目もくれずに一心不乱によく知らないマンガを読みふけっている。若いの外を見ろよ、というべきなのか、それとも通路側から首を伸ばして夜景に見入っている俺がイイ年こいていないのか。そんなに面白いのそのマンガ?とは思った。

             楽しそうにはしゃいでいる中国人の家族連れや若者グループらとともに、到着口に通じる電車みたいなのに乗り込むと、いやー着いたなあと疲れた顔した50代くらいの日本人男性が「ここまでくれば、こっちが主や」と言って、妻らしき女性が苦笑していた。どこぞの町で中国人パワーに圧倒されていた正直な感想なのだろう。「日本人」の定義は「自分が何人か特に考える必要のない人」と言ったのは誰だったか。俺もその部類だが、そういう人にとってたまにマイノリティになるのはよいことだと思う。

             空港のコンビニで、いつも買うメーカーの缶コーヒーを買って、「レシートはご入用でしょうか」と若い店員の丁寧なマニュアル言葉を聞いた途端、中国がふっと遠くなった。携帯電話が海外モードから国内モードに切り替わった感じといおうか。こうして旅が終わったわけだが、赤信号でも構うものか、歩きたばこも別にええやんという我田引水は、この後しばらく続いた。


            虹色の霧P(35)最後の満腹晩餐(主食なし)

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               せっかくなので、ホテルのレストランで中華をいただくことにした。満鉄本社に似た白壁に金の装飾が施されたホールに、結婚披露宴のような丸テーブルが並んでいる。山東料理が売りらしい。遼寧省なのに山東とはこはいかに。満鉄の博物館のあの女性係員によると、日本によって、山東半島の都市・青島から大連に多くの中国人が労働力として連れてこられた(既に述べたように説明の仕方はなぜか好意的)というから、その影響だろう。第一次世界大戦のとき、連合国側の日本は、敵国側であるドイツが植民地にしていた青島を占領している。

               メニューには、カエルのようなザ・中華や、なまこ料理など興味は湧くが勇気が出ないものもある。一番の売りはエビのようだが、そこまでの気合もお金もない。地味なものの方が未知の美味さがあるのではないかという予測のもと、汁ありチャプチェのような実に地味な一品を頼んだ。
               店員から筆談で「主食は要らんのか?」と聞かれたが、俺にとってはこれが主食である。この場合の主食とは、主菜のことだろうが、どちらでもいい。もう1軒行きたいから、1品で充分。

               ビールを頼むと「青島か?」と空瓶を指さしながら聞かれた。「どうせ日本人は青島でいいんだろ」と言われてる気もして、否!ここは「地元」だろうと大連ドライビールを選んだが、山東料理だから青島ビールの方が正しいのか。だが、大連ドライは、中国ビールの中では日本人好みの味だと思った。
               このような、ちゃんとしてそうなホテルの料理も、やっぱり満腹になる前に満腹になった。そんなに腹が満タンなわけでもないのに、もう食べられない気分になってしまう。油が悪いのだろうか。

               腹ごなしにブラブラと散歩をして、最後の夜はまたも「看板のない店」とデカデカと看板を掲げている店に入った。店員が「ああ、いらっしゃいませ」と、2回目なのに10年来の常連客を迎えるような笑顔で挨拶してくれる。こうしてまた俺は、ぬるま湯でまったりしてしまう。
               今夜は中国人の客だらけで、日本人はいなかった(逆に落ち着く)。日本料理屋だと、ついビール以外の酒が恋しくなる。日本酒でも頼もうかと思ったら、新地のクラブかというような目の飛び出るような値段だった(行ったことないけど)。ビールの値段は普通なのだが。これは関税のせいか。それとも日本におけるアウディのように、ブランデーばりの高級品として流通しているということか。

               今夜こそ造りを食おうと頼んだのがこちら。ヒラメと、アジのたたきのように見えるのはブリ。どちらも脂がのってて美味かったが、途中で脂に負けてしまった。中華のせいもある。納豆おろしそばでしめようという企みも無理になるくらい、腹だか胸だかがいっぱいになって、「もう帰るんですか?」と残念なお別れになってしまった。ちなみに、あれらの魚の多くは北朝鮮から来ているとのアヤフヤな噂も聞いたことがある。真偽不明。


              虹色の霧P(34)修羅場の喫茶でくつろぐ偽開発区民

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                 旅順といえば、日清戦争のころの旅順虐殺という日本ではあまり知られていない事件があるが、どこに何を見に行くというアテもない。微妙に時間は余っているが、最初に提示した場所は全部行ってもらったので、これにて旅順巡りを終えることとした(本当は二龍山に行くべきだったのだが)。

                 帰途、霧Pは少し晴れたような気もするが、相変わらず天気晴朗ナレドモ視界不明瞭。ホテルに近付くと、張氏は「またいつでも呼んでくれ」(想像)と、名刺をくれた。夜空に星が輝く妙に派手なデザインで、一瞬、夜の店の割引券でもくれたのかと思った。
                ホテルの車返しで満面の笑みで送り出されると、早速ホテルの宿泊客が寄ってきて、張氏は再びどこぞに客を運びに行った。親切ないいおじさんだった。語学力ゼロのせいで少しも会話できなかったのはもったいなかった。

                 とりあえず休憩をしよう。俺はホテルにある、「夏目漱石も訪れた」の流れをくむ店とはまた別の喫茶室に入った。中国茶でも飲むべきところだが、熱いコーヒーが飲みたくて、ついぞ中国で茶を飲むことはなかった。店員が淹れるのを待っていると、昨日の夏目漱石の喫茶店のよく喋るママさんが現れた。「あれ?どこかで会いませんでしたか?」

                 昨日の今日でもう忘れられている。飲食店の主としてそれはどうなんだと思いつつ、14億もいるのだから致し方あるまい。「昨日の朝に」と説明しようとして、口元が忙しいママさんは「開発区の人でしたっけ?」と、誰かと間違えている。経済技術開発区のことだ。地理の試験にも登場する。経済特区と似たような、外国企業を誘致する地区である。大連にも巨大な開発区があって、日本企業も多く進出している。俺似の日本人がいても不思議ではない。なにせこちらは、中途半端に似ている芸能人が多い「似てる器用貧乏」である。

                 「さっき知り合いのおばちゃんがいいものくれたからサービスするよ」とママさんはうれしそうかつ、「ジャーン」と古臭い日本語の効果音とともにトウモロコシを出してきた。それをゆでながら、壁にかかった古い写真を眺めている俺に、「他にもいろいろあるよ」と旅順博物館のミュージアムショップにもあった大連の写真集を出してきて商売を始める(書き忘れていたが、二〇三高地の土産物屋が言う通り、旅順の写真集は博物館には売っていなかった)。

                日本のより、黄色が淡い。

                 2枚で10元の絵葉書だけ付き合った俺は、コーヒーをすすって煙草に火をつけ、吹き抜けの天井を見上げた。ロの字型の建物の、中庭にあたるこの店は、「五色の虹」の筆者である三浦英之氏が、ここ大連に暮らす建国大学の中国人卒業生と面会した場でもある。隣にはあやしげな男が付き添い、昔話が共産党に不利な話になった途端、この男が取材を打ち切ってくる物騒な展開が繰り広げられた場所でもある。

                 その後三浦氏は、このホテルの廊下やエレベーターホールで、公安当局の人間から執拗にバスポートチェックを求められる嫌がらせを受ける。そんな場所で、俺は呑気にトウモロシをむしゃむしゃ食べている。ロビーには警察官が常駐しているが、ソファにもたれてスマホをいじりに夢中という、大阪府警もびっくりのだらしなさ。俺には目もくれない。

                星海湾の海上道路から見えた建物。リゾートマンション? 何にしても、やりすぎ。

                 

                 こちらはただの観光客だから、向こうさんにすればどうだっていいただの雑魚。取材用のビザで入国してデリケートな存在に話を聞く立場とは、そもそも存在の重さが子犬と関脇くらい違うのである。ある線を踏み込んだ人間は、中国政府のイメージに沿った厄介さに翻弄される。開発区で働いている人だって、日々の業務の中で、「なんでこの程度が不許可なの?」というような不気味な閉鎖性の端々にぶつかっているのだろう。以前に仕事でメーカーの人に話を聞いたときも、担当者はそんなことをボヤいていた。
                 日本だってどこの国だって、国家なんてのは時としていくらでも横暴に、あるいは冷血漢になるものだが、この国はその範囲が妙に広い。ただの観光客とはいえ、何かのかみ合わせがおかしくなれば、面倒なことになる。

                 俺が持って行ったガイドブックは、中国側に配慮したような文面になっている印象があるが、これもトラブルを避けるためだと推測する。台湾が大陸とは色違いになっている地図がついていたせいで、別室に呼ばれたという事案をこの本では紹介しているから、日本人が何の疑問も持たないことでも地雷を踏む可能性はあるのである。幸い俺は、持ち物検査とIDチェックで済んだ。それでも十分規制大国ではあるのだが。

                 一方で、日本のように、何かマナー違反をしていないかと人目を気にする必要は皆無だ。その点では気楽な社会でもある。こんな自由奔放な国民の政府が一党独裁というのもおかしな取り合わせだが、古来より支配者層が漢族だろうとモンゴル人だろうと満州族だろうと、知ったことかと暮らしていた歴史があるからこんなものなのか。それとも情報統制がうまいこと機能しているのか。おかしな感じで鼓腹撃壌になっているとはいえそう(日本も結構そうだけど)。まあ、東アジアの国々は、大なり小なり国民が爐上瓩暴晶腓任垢らね、ただし、中国人の場合は、権威をちっとも信用しない面従腹背なしたたかさが強い印象があるが。


                虹色の霧P(33)2つの専攻の交差点

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                   最後は旅順博物館だが、今度は張氏が道に迷った。通行人を見つけては、車を路肩に寄せて道を尋ねる。車を降りずに聞く張氏は、日本なら不審者だろう。そこはあっけらかんとした中国人。聞く方も聞かれた方も何の遠慮もない。こういうおおらかさは好きだ。ただし、地元民の生活に博物館は縁がないようで、知らないのか説明が怪しいのか、何度かUターンし、何人かに尋ねた。

                  少し郊外に出ると、こういう家が多い。

                   ようやくたどり着いた博物館は、日露戦争とも抗日関連とも関係がない。もっと古い時代からの展示に溢れた王道の博物館である。
                   外観からしてなかなか渋いが、元々ロシアが将校クラブの建物として作りかけたのを、日本が博物館として完成させた。成り立ちはやっぱり日露絡みの歴史が横たわる。かの有名な大谷探検隊の発掘品を収蔵しているが、半数以上が日本に持ち帰られたせいで、大谷探検隊の発掘は中国では掠奪扱いになる。そんな言い方されれば、コレクションを持っている龍谷大は黙ってられないだろうし、中国側とて言い分はあろうから、いかにも難儀そうな話につき踏み込まない。突き詰めると発掘品は楼蘭国や高昌国のもののような気もするが、とっくにない国なのでただの戯言である。

                   建物は2つあるが、なんとなく正面っぽい方から入った。またもや水が持ち込み不可らしく、受付のおじさんが、パートのおばちゃんらしき人々に、日本語で水の持ち込み不可は何といえばいいのかをレクチャーしている。

                   展示は商(殷)時代の青銅器から始まる。抗日系の博物館と違い、説明表示もしっかりしている。当地では、初めてまともな博物館に来た。アカデミック的には当たり前の展示をしているだけだが、そうではない博物館ばかり見てきたから、5割増しくらいやけに素晴らしい展示に見える。そして、周時代の、漢字の原型みたいな文字を刻んだ何物かとか、戦国時代の刀銭とか、「教科書で見たやつちゃうん」と言いたくなる展示は、近代史が「昨日のことやないか」と何だか生ぬるく思えてしまう重厚さがある。仏像も、日本ではあんまり興味がないのだが、中国で見るとなかなかの感動がある。最澄も空海も中国で学んだから、仏教の本家(ホントの本家はインドだが)を見たような感覚が新鮮だったのだ。

                  内部も渋い。下に見える巨大な銅鐸ようの物体は、元の時代の鐘。

                   メインはトルファンのミイラになるだろう。暗い個室が設けられ、ガラスケースの中にかっさかさの体が横たわっている。どこへ行っても人がわんさといる中国だが、なぜかここは人がおらず、静かに鑑賞できた。なぜミイラを見ると崇高な気持ちで背筋が伸びるのだろう。

                   隣の別棟は、地元遼寧省の歴史を中心に展示している。必然、万里の長城の外側の辺境の歴史になる。騎馬民族とか、渤海、遼、金といった王朝が並ぶ。金の摩崖仏が印象的だった。念のため書いておくと、黄金の仏像ではなく、金王朝時代の、岩に刻んだ仏像群である。

                   歴史に興味を持った入口は、大方の男子と同じく日本の戦国時代や三国志だった。特に三国志のインパクトは大きく、水滸伝だの史記だの違う時代にも興味が広がり、それで高校で世界史を履修したら、興味は騎馬民族へと移った。東は福岡、西はポーランドでそれぞれ戦争したモンゴル帝国の巨大さとか、元々中国の北にいたのに、ヨーロッパ側に帝国を築いたトルコ人の移動距離とか、東西交易で栄えるサマルカンドとか、各国史ではない「世界史」という名前に相応しい横断的な壮大さが魅力的に映ったのだと思う。卒業も近づいた高校3年のころ、クラスメイトで誰は将来どうなるかと与太話をしているとき、俺の将来は「中央アジアで野垂れ死に」との評だった記憶があるから、傍から見ても、よっぽど好きだったのだろう。

                   それで騎馬民族の研究をしている学科のある大学を選んで受験したのだが、堕落したぬるい学生生活の中、瑣末な手抜かりで目当ての学科に所属できなかった。

                   いったい何のために受験したんだろうと堕落者なりに落ち込んだわけだが、そちらに進んでもおそらくまったく通用しなかった、というのは在学中からうすうす感じていた。中学野球のエースが高校で、高校野球の4番が大学やプロで、「あ、もうこれ以上無理だ」と気づく。よく聞く話だが、それと似たようなものだと思う。ついでにサマルカンドで野垂れ死にする可能性も消えた。

                   結局所属したのは「ユルいから就職活動に有利」という噂だけで選んだ第2希望だった。そこで俺は近代史と出会い、移民とか差別とかコムラ君の嘉義農林とかと出会うわけだが、満洲国はまさしくそのゼミの恰好の対象だった。大学院進学を考えている本気組は、加藤完治の開拓移民とか、後藤新平のなんちゃらとか、そんな題材を卒論に選んでいたものだ。俺はヌルい学生だったのでそんな骨太なテーマは選ばなかったが、すっかりおっさんになって、旧満州国にある中国史の博物館という2つが交差する場にいるのは感慨深い。

                   こちらの別棟では、2階で特別展もやっていた。ハンコの展覧会と、近現代の中国画家の展覧会。ハンコは、日本にもある金印に始まり、歴代王朝の官僚の角印が展示してある。現地人の歴史オタクしか知らなさそうな名前ばかりであんまり興味が湧かない中、唯一、高校世界史にも登場する名前があった。

                   林則徐。イギリスが持ち込んだアヘンを全部没収して焼き払った硬骨の役人である。怒ったイギリスが清朝に戦争をしかけ、ビビった清朝政府に解任されたというやりきれない経歴が、余計に彼をヒーローたらしめている。しかし、麻薬を捨てられて報復するというのも、世界史上、突出して恥知らずな、メキシコの麻薬王もビックリの戦争であるが、アヘンは満洲における日本の重要な収入源でもあったから、あんまり強く言えないところもある。

                  横山先生の描く玉璽と同サイズの林則徐の印。

                   中国画の方は、斉白石という人を筆頭に、19末から20世紀にかけて活躍した画家たちの、花鳥風月を描いた掛け軸が中心なのだが、ざっくりざざっと筆を運んだようなタッチばかり。ただいま日本で大人気の若冲とは正反対の粗っぽさだ。リアリティより雰囲気重視みたいな流行りなのか? あえてそうしているのはわかるが、ヘタじゃねえか?と、ド素人な感想が出てしまう。帰国後、友人の梶山に聞いたら、「斉白石はめちゃ高いよ」とのことだった。ネットのニュースを見ると、「54億円で落札」というAFPの記事があった。「めちゃ高い」どころじゃなかった。

                   向かいには、元の関東軍司令部があった。現在は博物館になっているらしいが、残念ながら休館日なのか閉まっていた。新京時代の司令部に比べるとはるかに質素。アメリカの田舎の役場みたいな佇まいだが、外壁を妙に明るく塗り直したせいか、ラブホテルにも見えてしまう威厳のなさが残念。


                  虹色の霧P(32)してやられて二百三

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                    写真を撮るためだけに立ち寄った旅順駅。ロシア建築の玉ねぎ頭がまぶしい。

                     さて、招かれるまま土産物屋のプレハブ小屋を覗くと、中は広く、かなり色々なものを売っている。店員の女性は日露戦争の写真や資料を収めた図録や、要塞の位置を示した古地図(?)なんかを薦めてくるのだが、店の奥にTシャツがぶら下がっているのが目に入った。
                     「Tシャツも色々ありますよ」
                     俺に脈ありと見た女性は、図録からTシャツへと推薦の矛先を替え、そちらのコーナーへと俺を招いた。趣旨のよくわからないTシャツも並ぶ中、まさかの「二百三高地」と胸にポップな字体で大書した一品があった。嘘から出たまことではないが、本当にあるとは思いもしなかった。「天気晴朗ナレドモ波高シ」と書いたものもある。これですよこれ。こんなとこまで電通が来たのかと言わんばかりの「してやられた」感のある土産物。ええ、してやられましょう、買いましょう。一丁前の値段がするが、お宅の勝ちだ。

                     「中国人にはこれが人気です」と、女性はもう一枚を出してきた。日本、中国、ロシアの国旗に「PEACE」の文字。穿ってみれば皮肉にもとれそうな夢のあるメッセージが洒落ている。米国圏から中ロ圏に鞍替えを促す危険な政治臭を深読みすることもできるところもイカしている。

                     以上、「天気晴朗」はデザインが今一歩なので、残りの2枚を買うことにした。女性はしつこく図録を薦めてくる。「限定5千部で、旅順博物館にも置いてあったけど、あっちのはもう売り切れた」と、消費者心理を巧みについてくるが、思いとどまった。別に買ってもいいのだが、図録は重いし、何より、Tシャツ2枚に図録も買うと、合計金額が本日張氏を貸切りしているタクシー代を上回ってしまう勘定になり、さすがにそれは道義的にアカンのちゃうかと思ってしまったからである。

                     それにしてもまさかのいい買い物だった。満足感とともに周辺をうろうろした。来るときはなかったが、斜面の反対側にはロシアの要塞の一部が残っていた。こちらは結構な急斜面を昇り降りするので息が上がる。ついでにさんざん歩かされたのに、元の慰霊碑前に戻ってきてしまった。


                     だったら途中で右に折れたあそこをまっすぐ下ればいいのかと考え、斜面に整備された階段を一気に下った。すると来たときと同じような舗装された登山道に行き当たったのだが、案内板がないのでどっちに行けば帰れるのかがわからない。帰りは下りになるから、下っている方へ進んだが、やがて上りになった。要するに、右も左もどちらの道も上っている。冷静に考え、来た時と山の斜面が逆になるはずだからと左へ進んだが、進めば進むほど、見たことのない景色だという疑念が強まっていく。無論、ただの山だから確信はない。こうして人は山で遭難するんだな。

                     うっすら恐怖を覚えて引き返し、反対の道を進んだら乃木希典の息子保典の墓が現れた(彼はここで戦死している)。確か、登り口には墓の方向を示す表示があった。そこから考えると、この道であっている。
                     どうにか無事、張氏の待つ駐車場に戻ってこれた。乃木さんに助けられた。「暑いところをよう歩いたなあ」(想像)と笑っている。見れば、俺の履いていたベージュのパンツは、派手におもらしをしたかのように汗で色が変わっていた。



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