【映画評】猿の惑星

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     申年だからか、テレビで「猿の惑星」をやっていた。そこで一筆。

     「宇宙人」とは「人」なのだろうか、と大学生のころ考えたことがある。

     つまりボイジャー二号が積んでいるメッセージを理解し、ついでにボイジャー二号が何者かを理解できる知的生命体が宇宙のどこかにいたとして、彼の姿がドラクエのスライムみたいだったら、それは「人」なのか?ということだ。

     無論、生物学上のヒトではない。しかしそのスライムが「市民政府二論」をそらんじてみせたら、人権なるものが発生するのだろうか?殺せば殺人になるのだろうか?大体、そんなスライム相手に殺意が起こるのだろうか?結婚くらいはできるかもしれない。何しろ宅間と獄中結婚する女性もいるくらいである。スライムの方がまだ愛嬌があると考える地球人がいても不思議ではない。

     理解頂けたかどうかわからないが、とにかく大学生のころ、これはもしかすると哲学界を揺るがす命題を発見したのではないかと有頂天になって、猫形の「宇宙人」と地球人の若者が恋に落ちるという脚本を書いたが、単なる美女と野獣の焼き直しと思われたか、あんまり理解されず非難轟々だった。
     無論脚本自体がヘタクソだったからなんだが、その後間もなく、遥か昔に藤子F不二雄が「ミノタウロスの皿」という作品で似たようなテーマを鮮やかに描いていることを知り、二重のショックを受けたものだ。

     さて、猿の惑星である。
     もはや「衝撃的ラスト」の内容だけが知らているカビの生えた古典のように受け取られているのではないかと思われる作品だが、もし「衝撃のラスト」を知らなくて、この場で明かされることが嫌な読者はここで読むのをやめられたし。

     ボウリング・フォー・コロンバインでは、すっかり老害の象徴のように登場するチャールトン・ヘストン演じる、タフガイ宇宙飛行士・テイラーは、不時着した惑星の支配者である猿に迫害される。

     周知のとおり、この星は猿が人間を支配しているのだ。しかし猿の中にも聡明な学者、ジーラとコーネリアスがいて「テイラーは下等な『人間』とは違い、『猿』に近い高等な生物ではないか?」と考える。
     とはいえザイアス議長はじめ、頭の固い政府要人は一笑にふして認めない。神に選ばれし猿が、人間などという野蛮な生き物と同じなはずがない、とこういうわけだ。

     ついでにコーネリアスは「猿が人間から進化した『進化論』などという邪説」を唱えたとして起訴される。要するに欧米人がかつてやったことを猿に当てはめて相対化している構造になっているわけで、SFでは基本的でかつ効果的な修辞法を用いているのである。

     問題はここからだ。改めて本作品を見て思うに、ジーラら猿の学者は、「人間」(この場合、我々の感覚からすると猿に相当する)の人権も認める前衛さがある一方で、テイラーの立場は、猿の絶対優位性を信じて疑わないザイアス議長らと、どうやらあまり違わないのである。

     ジーラは「どうしてテイラーが人間の姿をしているというだけで認めないのか」と訴える。
     彼女によれば猿も人間も運動機能は大差ない。脳の若干の差異だけで猿は言葉が話せ、人間は話せないというのだ。前言の「人間の姿」を、「ユダヤ人」「黒人」「在日朝鮮人」に置き換えた場合得られるニュアンスに近い意味合いで彼女はそう主張していると解される。
     彼女の場合はさらに、民族、人種どころか種を越えているから一層オルタナティブである。

     一方のテイラーはというと、彼を「突然変異の化け物」「動物」と呼ばわる政府要人に対して「俺は人間だ!」と叫ぶ。そして問う。「なぜ猿が人間を支配するなんてことになったんだ?」。

     進化論の証拠を見つけようとするコーネリアスが、真実を得るために禁断の地を発掘するのに対し、テイラーはあくまで、人間の優位性の証明のために発掘に協力する。
     つまりテイラーにとって「宇宙人」(「ミノタウロスの皿」の場合、牛。冒頭のたとえ話の場合、スライム)は「人」ではないのだ。衝撃のラスト――砂浜に埋もれた自由の女神像を前に「人間なんてみんな死んでしまえ!」と絶叫するテイラーの呪いは、一体全体誰に向けられているのだろうか。

     ちなみにテイラーは、猿に捕らわれた人間の中にいた美女とともに旅をするのだが、果たして猿の惑星に住む美女と、実際我々は恋に落ちることができるのだろうか?よくわからない。「ミノタウロスの皿」では、主人公が恋した美女はラストで牛に食われてしまい、救助艇の中で主人公が得たのは「待望のステーキ」だった。

     本作は、あまた続編が作られたことでも知られている。「続」ではその後のテイラーがミュータントと戦うという続編にアリガチなド壺に落ちていくのだが、「新」では今度はコーネリアスとジーラが、人間が猿を支配する現在の地球に降り立つというオルタナティブ度が増す構成になって、そのまま「征服」「最後」と続いていく。おもしろいかどうかは別にして、人間の存在証明に一石を投じた意味で、本シリーズはSFの一つの役割をいかんなく発揮した古典といえるだろう。

    Planet of the Apes 1968年アメリカ
    出演:チャールトン・ヘストン、モーリス・エヴァンス、キム・ハンター


    【補遺】
     書き出しの「申年」から考えるに、7年も前に書いたのかと考えると、ゾっとする。
     「ミノタウロスの皿」のあらすじは以下。
     牛の惑星に不時着した地球人である主人公は美女と出会い恋に落ちる。だが、その美女は地球でいうところの家畜(牛ならぬウスと呼ばれている)で、やがて牛に食われる運命にある。主人公はなんとかやめさせようと奔走するが……、というような短い話でもって、人間とそれ以外を分ける境界線のあいまいさを鋭くエグる内容になっている。
     この作品は、周知の通りの牧歌的な藤子F不二雄の絵のタッチが、逆に功を奏している。写実性に乏しい分、地球人と牛とウスが均質化しているからだ。これを実写映画にしてしまうと、グロ過ぎてうまく伝わらないかもしれない。そう考えると第9地区もアニメの方がよかったかもと思えてくる。
     どうでもいい余談だが、僕の親父は公開当時、映画館で本作を見ていて、ラストにただならぬ衝撃を受けたらしく、ちょっと羨ましい。それまで邦画しか興味なかったのが、一気に洋画ファンになったのだとか。

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