【やっつけ映画評】アーティスト
自分が舞台作品を作るときに、台詞に頼り過ぎだなあと前々から思っていた。客が物語を理解して、登場人物に共感したり反発したりしてくれるためには、状況説明その他様々な要素を工夫を凝らしてちりばめないといけないわけだけど、それをすぐ台詞に頼る。説明くさくならないような腐心はするけど、そもそもその台詞は必要不可欠なのかという問いは省略してしまう。
あるいは役者の演技というのは、台本の行間を埋めるようなものだけど「そこの台詞はもう少しゆっくりと」みたいな具合に台詞を軸とした発想でしか組み上げられない。これはいまいち面白くないなあと煩悶している。そこへきてこの無声映画である。
無声映画から音声付きのトーキーに移行する時代(1930年前後)を舞台に、無声映画にこだわるハリウッドスターの悲哀を、無声映画で表した作品である。
登場人物たちは普通に会話しているが、そのいちいちが文字で起こされるわけではない。要所要所だけ字幕のカットが差し挟まれる。だから何を言っているのかほとんどの台詞について正確なところは伝わらない。だけどそれで十分事足りてしまう。
むしろ、字幕多過ぎるなと思ったくらいだ。あそこの場面、別になくても伝わるだろう。いや、ない方が伝わるだろう。そんな思考に染まってしまうくらい、作り手側のペースに乗せられてしまった。何とも心地いい作品だ。
だけどふとわが身を振りかえると、返答を「うん」にするか、「ああ」にするか、「そうだな」にするか、無言でうなづくか、どれにすればいいのだ〜〜、と頭を抱えて脚本を書いていた自分が馬鹿馬鹿しくなってしまうから困る。メラビアンの法則というほとんど都市伝説のようなインチキ言説にも真理があるなとつい思ってしまう。
台詞のほとんどはなくても伝わる。
日常生活を振り返れば、改めて確認するまでもない真実といえばそう。だけどそういう真理ほど気づくとギクリとさせられる。
無声映画は自主映画の世界ではそんなに珍しい方法ではない。音声というのは、かなり面倒な要素で、同時録音で撮影していると撮影現場周辺の雑音(救急車とか学校のチャイムとか電子ノイズとか空調の音とか)によるNGは非常に多い。
NGでなくても、気になる環境音と気にならない環境音というのがあったり、音ってのは本当にデリケートだなと思わされる。なのでいっそ無声映画にしてしまえば楽だぞという発想はすぐ湧いてくる。自主映画では珍しくないというのはそういう事情に拠ると思われる。
だけど、「あえて無声映画だからこそ」という部分がつい欲しくなるのが性である。無声映画だからこそできること。これを考えること自体は、必要なことだと思うが、大抵は「どや感」が付きまとう。どうだ、俺の「あえて無声」の発想は面白いだろう、という押しつけがましさである。
この作品にはそれがない。「無声だとこんなことができちゃうぞ」というこれみよがしの仕掛けはない。無声ならではの仕掛けはあるにはある。終盤の「BANG!」という字幕の使い方なんかは、トリッキーでうまいなあと思ったが、せいぜいが控え目である。
じゃあ本作は、ただ音がないだけの作品かというとそうでもない。無声だからこそ、の最大のキモは、臭くならないということだろうなあと思った。
この映画、会話が普通に聞こえていたら、ただの臭い話になるはずだ。音声がないからこそ、「これは作り話の世界だ」という認識が強烈に刻まれて、どっぷり浸かってしまう。世界に浸かると客個人の現実感はなりを潜めるから、臭くても成立する。なるほど、これこそが銀幕の世界というやつかもしれない。大スペクタクル巨編とかでもないのに、映画館で見たことがとても贅沢な気分になったのもきっとそのせいだ。
音声のない世界は現実とは異なる世界だ。主人公はその内なる世界に拘泥し、閉じこもってしまいかねないところにまで追いつめられる。この主人公は、確かに芸術家だ。アーティストというタイトルは的を射つつ皮肉にも響く。
「The Artist」2011アメリカ
監督:ミシェル・アザナヴィシウス
出演者:ジョン・グッドマン、ベレニス・ベジョ、ミッシー・パイル、ジェームズ・クロムウェル
- 2012.04.18 Wednesday
- 映画評
- 18:22
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- by 森下淳士