再掲:【やっつけ映画評】ブラックホーク・ダウン

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      「身も蓋もない現実」を描くことに最も成功したマンガ家は大友克洋と言われている。言われているというか夏目房之介がそう書いていた。

     つまり、大友のマンガは、登場人物と風景や小道具が差異なく均質化しているというのだ。漢字が多くてわかりにくい。

     例えば、主人公が森の中にいる場面を想定してみよう。主人公は画面の真ん中にいて、その周囲に森を表す記号としての木々が、あくまで主人公を邪魔しないように作者あるいは読者の都合のよいように配置されている。これが従来のマンガだった。描いているのはあくまで人物であり、その場面が森であることがわかればいいわけだ。芝居の大道具のようなものである。

     それに対して、大友は森を――そんな場面が実際あったかどうかは別にして――あくまでリアルに描き、その中にポツネンと主人公を配置した。人物と木々に主従関係はない。登場人物が場面を支配するのではなく、むしろ場面が人物を支配すると、こういうわけだ。

     こういう手法が、圧倒的なリアリティ、つまり身も蓋もない現実を描くことを成功させたのである。ここまで夏目氏の本の丸写しである。

     都会の喧騒の中で孤独を味わっているあなた自身にスポットライトは当たっていない。当たっていると感じているのはあなた自身の感傷だけで、端から見れば無機質な街の中に、十把一からげの取るに足らない現代人が立ち尽くしているだけである。石ころ帽子など被る必要もない。

     こういう大友の描き方が、マンガの表現可能性を大きく飛躍させたのだが、果たして石ころ帽子を既に被ったような、クスリともしない現実を描くことは、物語にとって有用なのだろうか?という問いは当然成立してしまう。

     なぜなら身も蓋もない現実はドラマを生みにくいからだ。現実はつまらない。俺の日常を完璧に描いたマンガを見せられても、母親ですらイビキをかくであろう。

     ただしそれが極めて非日常的な場面であれば、まるごと現実を受け止めること自体が意味を持ってくる。

     本作はそういう意味での圧倒的なリアリティで戦争の場面を丸ごと描いた作品である。が、竜頭蛇尾に終わったいささか残念な作品である、というのが本稿の趣旨だ。

      戦争における身も蓋もない現実とは何か。それはかの有名な「プライベートライアン」の冒頭シーンが端的に現している。要するに容赦なく人が死んでいくのだ。泣きじゃくる戦友に「肺がんで死にたかったぜ」などと苦笑いして血だらけの煙草をくわえる……、なんてなダンディズムを披露する暇もない。第一、戦友にも最期を看取る余裕がない。大砲に破壊される岩や木々と大差なく無価値に死んでいくのである。

     同じようにブラックホークダウンはさらにそれを深化させ、ラストを除けばほぼそのような修辞法で物語を展開している。

     序盤の、ただひたすらごった返す市場のシーンしかり、出撃前にバスケに興じる兵士の横で着々とヘリの整備が進められている場面しかり、常に場面が登場人物を支配している。

     そしてブラックホークの墜落で一転訪れた地獄絵図。ソマリア民兵との市街戦では、出撃前の与太話で登場した人物の誰が死んで誰が生き残ったかさっぱりわからない。ついていくのが必死なほど展開が速いということもあるが、単に顔がドロだらけということもある。

     やや個性的な兵士も何人かは登場するがいちいち深くは掘り下げていないから人間ドラマを期待すると拍子抜けする。が、見るものに戦争の「場面」をドライに丸ごと投げつけることには大いに成功している。

     戦争は悲惨だろうとか愚かだろうとかソマリア民兵側にも言いたいことはあるとか、いちいち場面に製作者の意図は介入しない。ジョシュ・ハートネットであろうがユアン・マクレガーだろうが、登場人物もあくまで戦場という場面の一構成要素でしかないわけで、要するにただ「現実はこんなんだったんですよ」とだけ述べられいてる。ある意味、まるで報道写真家が撮りたいと思っている写真の連続である。映画だからカットは格好いいからだ。

     あとは見る側が考えることで、「戦争はいかん」と思うものもあれば「日本人だけが安穏としていいのか」と産経新聞のようなことを考える人もいるだろうし、それは自由だ。

     とはいえここまで構築した戦争のリアルも台無しになるほどラストはズッコケている。要するに「色々あったけど米軍は男前だった」的な脱糞モノのまとめ方で、やっぱりアメリカ人はそうなのかぁ、と思うしかないのだが、実は既にその伏線は、市街戦の終盤でジョシュ・ハートネットがストロボ弾を置きに行くシーンで現れている。

     上空のヘリに味方のいる場所を知らせるためのストロボ弾を、彼が決死の覚悟で運ぶシーンなのだが、この映画で初めてスローモーションを多用したカットになっているのだ。スローモーションは劇的さを現す常套手段で、つまりは「誰かの時間」を恣意的に表現している。「スポットライトが当たっている」状態というわけだ。初恋の人とばったり再会しても、実際には急に時間の流れが遅くなるなんてことはない。遅くなっているのはあなたの心の中だけで、端から見れば普通の男女がぎこちない会話をしているだけである。スローモーションの中、必死に銃弾をかいくぐるジョシュ・ハートネットの姿は、誰にもスポットが当たらない丸ごとの現実とは対極にあるといえる。この時点で映画はすでにチグハグである。

     製作者側に立った見方をすれば、ドライな現実を繋ぐことを徹底すると、物語が成立しないと考えたのだろう。現実はドラマを生みにくい。ストーリーに起伏のない映画が人気を呼びにくいことと似ている。とはいえこの映画の場合、そういう括り方をしてしまうと、冒頭で高らかに宣言した「これは真実の物語だ」という謳い文句の意味がひっくり返りかねない。果たしてこの場合の「真実」とは戦争の姿なのか、米軍の勇気という一種の政治性なのか。

    「Black Hawk Down」2001アメリカ
    監督:リドリー・スコット
    出演:ジョシュ・ハートネット、ユアン・マクレガー、トム・サイズモア


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