俺ら河内スタジオ入り
雪が夜になるころ雨に変わり、バンド練習でスタジオインであります。これまで、なんとなく大正のスタジオを使い続けていたけど、大阪南部に住んでいたボーカル、ギターが転勤したので、大正が誰にとっても遠い立地になり、わざわざここに通う必要がなくなった。それに気づいたのが昨年秋のころ。おせーよ、という話であるが、惰性というのはそれくらい継続力の高いものなのである。
というわけで、上新庄のスタジオを新しく訪れた。ボーリング場の2階にひっそりとある。ラウンド1などと違い、中山律子がそこにいそうな昭和の薫りが漂うボーリング場なのであるが、その片隅にこじんまりとある。なかなかの場末感で、なんだか運動部の部室の端っこにひっそりとある軽音部の部室のようである、とかいったら言い過ぎか。何にしろ若返った気にはなる。なんせスタジオの奥には卓球台とビリヤードがある。
さて職場からパリッとスーツ姿で現れた上地は、髪の毛もこざっぱりとしていて、まさに我がバンドの新垣隆といった風情である。唯一譜面が読める、ということもそうだし、何かと存在を消し気味な佇まいというのも重なるところがあろう。大柄で髪の毛が汚らしく、髭面というワタクシ森下河内の鼻歌作曲をカタチにしてきたのはしかし、ギターの中野先生である。さらにいうなら、遠距離恋愛状態の昨今、パソコンでオーケストレーションを組み立てているのはドラムのココロックであり、ただし各パートの細かいところまではわからないので、私も含め、それぞれの楽器の担当者がそれぞれに細部を詰めて、こうして曲が組み上がる。そういうわけで、バンドというのは、全員が何かしら新垣なのであり、佐村河内なのである。ただし誰も己の身に大層な何かを抱えているということを自称してはいない。
さて本日は、随分前にアウトラインはでき上がっているが、まだ誰もまともに演奏できていないという状態の1曲を詰めていく作業を集中して行った。この曲を作詞作曲したのは悟さんで、そうなると我らがバンドの真の新垣は悟さんだということになる。その田中新垣悟さんが作った段階では、歌詞とメロディとコード進行があるだけ。これを編曲していくわけだが、編曲はパクリの集合体で出来上がる。少なくとも我々は、今後も、どれだけ拝借の幅を持っているかという引き出しの数と組合せでしかオリジナリティを伸ばすことはできないだろう。それで十分だとも思っている。それを軽んじるかどうかは人それぞれの価値感であるが、ロックのような商業音楽は、金のうなる現場ほど、あんまりそこはあまりバカにしない立場を取るもんなんである。
そんな話はどうでもよくて、ここにはただひたすら中身を作っていく我々がいるだけである。ただ作ることを楽しめることはある意味とても幸せであるということは、演劇をやっているからわかる。あちらはそういう健全なアマチュアリズムだけではやっていられないからだ。企画だとか売り込みだとか見出しだとか特色だとか、そういうものが物凄く面倒で鬱陶しく感じることが、物を作っているとちょくちょくあるのです。
というわけで、上新庄のスタジオを新しく訪れた。ボーリング場の2階にひっそりとある。ラウンド1などと違い、中山律子がそこにいそうな昭和の薫りが漂うボーリング場なのであるが、その片隅にこじんまりとある。なかなかの場末感で、なんだか運動部の部室の端っこにひっそりとある軽音部の部室のようである、とかいったら言い過ぎか。何にしろ若返った気にはなる。なんせスタジオの奥には卓球台とビリヤードがある。
さて職場からパリッとスーツ姿で現れた上地は、髪の毛もこざっぱりとしていて、まさに我がバンドの新垣隆といった風情である。唯一譜面が読める、ということもそうだし、何かと存在を消し気味な佇まいというのも重なるところがあろう。大柄で髪の毛が汚らしく、髭面というワタクシ森下河内の鼻歌作曲をカタチにしてきたのはしかし、ギターの中野先生である。さらにいうなら、遠距離恋愛状態の昨今、パソコンでオーケストレーションを組み立てているのはドラムのココロックであり、ただし各パートの細かいところまではわからないので、私も含め、それぞれの楽器の担当者がそれぞれに細部を詰めて、こうして曲が組み上がる。そういうわけで、バンドというのは、全員が何かしら新垣なのであり、佐村河内なのである。ただし誰も己の身に大層な何かを抱えているということを自称してはいない。
さて本日は、随分前にアウトラインはでき上がっているが、まだ誰もまともに演奏できていないという状態の1曲を詰めていく作業を集中して行った。この曲を作詞作曲したのは悟さんで、そうなると我らがバンドの真の新垣は悟さんだということになる。その田中新垣悟さんが作った段階では、歌詞とメロディとコード進行があるだけ。これを編曲していくわけだが、編曲はパクリの集合体で出来上がる。少なくとも我々は、今後も、どれだけ拝借の幅を持っているかという引き出しの数と組合せでしかオリジナリティを伸ばすことはできないだろう。それで十分だとも思っている。それを軽んじるかどうかは人それぞれの価値感であるが、ロックのような商業音楽は、金のうなる現場ほど、あんまりそこはあまりバカにしない立場を取るもんなんである。
そんな話はどうでもよくて、ここにはただひたすら中身を作っていく我々がいるだけである。ただ作ることを楽しめることはある意味とても幸せであるということは、演劇をやっているからわかる。あちらはそういう健全なアマチュアリズムだけではやっていられないからだ。企画だとか売り込みだとか見出しだとか特色だとか、そういうものが物凄く面倒で鬱陶しく感じることが、物を作っているとちょくちょくあるのです。
- 2014.02.15 Saturday
- 直列6気筒エノモト
- 12:05
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- by 森下淳士