「先日仕事で」電車に乗ることが多いです

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     先日仕事で神戸市営地下鉄(海岸線)に乗ろうとしたら、三国志列車がやってきた。JR新長田駅前の鉄人28号像同様、横山光輝の出身地だからそれにあやかって、三国志の装飾がしてある。装飾といっても、マンガのキャラクターの紹介ポスターのようなものが貼ってあるだけだが、登場人物が多いので、ビックリマンチョコのシールのような楽しさがある。自分が乗ろうとした乗降口の横に貼ってあったのは、「呂布」だった。三国志最強の武人、という描かれ方の人物。仕事にも気合が入るというものだ。裏切りをくり返す悪役でもあるのだが、なぜか人気も高い。

     この呂布、横山三国志では、普通に強そうな大柄の男として描かれているが、本宮ひろし「天地を喰らう」では、シルクロード経由で西洋人の血を引いたらしく、碧眼の金髪オールバック、ほとんどハルク・ホーガンだ。さらに「蒼天航路」では身長3〜4メートルほどあるドレッドヘアーで、通過しただけで敵がバタバタ死んでくほぼ化け物のように描かれている。
    いずれもおそらく「突出して強い」という伝承に説得力を見出したかったのだろう。

     ここからまた本の感想だ。
     前から読もうとしてようやく読んだその2である。

     最初に目に留まったのは、「HHhH」この奇妙な装丁とタイトルだ。さすがに副題の「プラハ、1942年」がないと覚えられない。この辺の出版社判断は正解だろう。次にまた本屋で目に留まったとき、帯の文章に面白そうだと思った。そして最後が西加奈子の推薦である。これは少し複雑な話で、西作品の大ファンだから、というのではない。その説明を試しに書いてみたが、長い上に面白くなかったので削除した。とにかく3回目にしてようやく読んだということで、我ながら芝居のDMも送り続けることが大事だと思った。

     ページをめくり出した最初のころは、翻訳モノ特有のとっつきにくさと、この本が騒がれている所以である独特の構成のせいで、2ページほどめくって閉じる、という読み進まなさだった。あやうく諦めるところだった。30歳を過ぎたくらいから、本でも映画でも、「見切る」のが早くなった。あ、俺これダメだ、と思ったらすぐやめてしまう。加齢による辛抱の磨滅と、我慢してもいいことはなかったという経験の積み重ねが理由だが、それでも我慢してよかったと思える結果となったのは、映画「ライフイズビューティフル」以来となった。まあ、我慢すれば他にもあったのかもしれないが。

     とにかく最後の方は、「ページもめくるのももどかしく」の典型で、仕事帰りに快速電車に乗らず、普通電車で座って読みながらゆっくり帰ったくらいだった。この「最後は一気読み」という小説を読む幸福の王道を味わったのはいつ以来だろう。
     
     面白い作品を読むと他が読みたくなるが、画期的なものを読むともう他に触れる気が失せる。そんなことを考えた。

     三国志でいうと、初めて読んだのは横山三国志だが、あまりに面白かった(のと連載中で続きが我慢できなくなり)ので、吉川英治三国志と完訳三国志演義全120話まで読んでしまい、それでも「もっとないか」と水滸伝に手を出したものだった。だが大人になって、大した期待もなく読み出した蒼天航路があまりに画期的だったのにびっくらこいて、以降、それ以外の三国志モノには触れようと思わなくなった。(まあ、大人になるとあんな書割の登場人物ばかりの話には興味がなくなるものだが)
    同様に、本作のせいで、しばらくは歴史モノには食指が動かない気がする。

     「小説にはまだこんな可能性が残っていたのか」と評されているが、書き方はだいぶ変わっている。ナチスの支配下だったプラハで起きた実際の事件が題材だ。語り手である「僕」はこの本の作者本人で、現代の「僕」が本作の書き方に苦悩する場面と、「僕」が語り手を務める歴史の場面の二つによって組み立てられている。楽屋オチにしかならなさそうなこの構成に意味があるのは、「僕」の歴史小説へのアプローチの特殊性が大きい。

     この作者は、とにかく事実だけを書こうとする。現代史なので資料は膨大にある。その人物が政府の要職にあれば、何月何日の何時に何をしていたのか、ある程度把握出来てしまうだろう。写真どころか映像もあるから、姿形や歩き方笑い方までわかるかもしれない。だけど、密室での会話の中身は当然わからないし、散逸焼失した記録もあるだろうから、「場面」を場面として描こうとすれば、何やかしかの創作が入る。当たり前だ。だが作者はその当たり前の手法を忌避する。判明している事実だけを書く。安易な想像は差し挟まない。登場人物を作者の裁量で活き活きと会話させることもない。呂布を描くアプローチとはちょうど正反対といっていい。

     だが事実だけをそのまま書こうとすれば、わかっている事実が切れ切れに存在するだけで、小説として成立するための「流れ」「つながり」が生まれない。なので通常は、ある程度「お前見たんか」というテイで書かないと小説にはならない。本作の作者は、その切れ切れの事実を、流れとしてつなげる媒介者として語り手の「僕」を出している。

     これはノンフィクションでは珍しい手法ではない。作家が単なる水先案内人としてだけでなく、自分自身が主人公として、取材対象を前に迷ったり悩んだり恐れおののいたり、たまに怒ったりする。価値判断の難しい題材や、リアルタイムな題材のため「振り返る」ことが不可能な場合、あるいは全容の概説には興味がない場合によく用いられる。最近だと、マンガだが「いちえふ」あたりもこの手法といっていいだろうし、手前味噌ながら俺も使った。俺の場合は、自分を主人公にしなければ、判明している事実が少なすぎて、取材事実だけを並べても用語集程度の説明にしかならなさそうだったから、というのが大きい。(取材過程があまりにとんちんかんで面白かったから、そのまま書けばオモロイんちゃうか、と思ったからでもある)

     なので本作は、小説なのかノンフィクションなのか、といったジャンルレスな性格が強いのだが、なぜこれが小説になるかといえば、本人が小説を書こうとしているから、というのが一番だと思う。その懊悩や熱い思いが史実と相まってこの作品をドライブさせている。それを担保している仕掛けが、前衛劇のようないくつもの珍しい書き方で、その辺の、狙いと手法の枠組みの一致が、楽屋オチに終わりそうなこの難しい切り口を「画期的作品」たらしめてるんだろう。(ま、でも何だかんだいって、この史実の奇想天外さに因るところはかなり大きいと思うが)

     ここまで根源的なものを問いかけると、他が読めなくなってしまうし、おそらく書けなくなるだろう。新しい枠組みを捻り出して描くことは、物を作る人間としてはこれほど醍醐味のあることもないかもしれない。大抵は失敗する。「この手法、ちょっと新しくてイカしてない?」と見せびらかすスノッブな滑り方をするか、ちっとも理解されない。だが成功したらしたで、待っているのは新たな苦しみということか。

     何にしろ、世界を見渡せば面白いことを考える人間がいくらもいるってことで、本作を訳してくれた高橋さんに勝手に感謝するとする。

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