【やっつけ映画評】否定と肯定

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     ホロコースト否定本を書いている男と、ユダヤ系アメリカ人の歴史学者の法廷闘争。と聞いて想像する内容とは違う箇所も多々ある作品だった。

     

     原題は「denial」。否定という意味だが、ホロコーストの否定だけではなく、複数の意味を持たされていることが明かされる。そこを踏まえると、邦題の「否定と肯定」も味わい深いタイトルに思えてくる。


     大学で教鞭をとるデボラは、イギリス人でホロコースト否定論者のアービングに訴えられる。自著でアービングを嘘つきだと断じたのが名誉毀損だというのだ。歴史の真偽を法廷で争うという特異な事件でありつつ、作品内容としては法廷劇が中心というのが本作のミソであると思う。

     

     アービングは既視感のある男だ。今時のある種の人々とよく似ている。10年以上昔の実話がベースなので、時系列からいえば「信長が信成に似ているのではなく信成が信長に似ているのだ」という類の話になるのだが、とにかく彼の振舞いは近頃の「歴史戦」に淫している面々と重なる点が多々ある。

     例えば冒頭、デボラに「私と議論しろ」と公衆の面前で持ちかけておいて自分の言いたいことだけを隙間なくまくし立てるところとか、痛いところを突かれると半笑いでやり過ごすところとか、あと生き証人に対していくらでも恥知らずになれる点は、サンフランシスコでも同じようなことをやった「歴史戦」な日本人がいると聞き及んでいる。水泳を練習すると体が逆三角形になるのと同様、この類の破廉恥な主張を嬉々として散布すると、アービングのごとき手つき顔つき口ぶりになる医学的な理由でも存在するのだろうか。というくらいの重なりようだった。まあこれ、劇映画なので、少なくとも顔つき口ぶりについては、俳優による演技ではあるのだが(本人の映像をyoutubeでちらっと見たが物凄く似ている演技というわけではなさそう)。

     

     このような人が語る「真実」の裏付けとなる「歴史家がひた隠す史実」とか「資料」とかは、陰謀論と似たところがあり、一見すると筋が通っていて「え?ホント?!」と驚かされることも少なくない。だが実のところは本家の専門家にとっくに判定が下されていることがしばしばで、鵜呑みにすると恥をかく。よく言えば、江戸川乱歩「化人幻戯」がごとく、ミスリードに踊らされた上ひっくり返される推理小説のようなカタルシスをえることができるともいえる。ユダヤ問題については教科書程度のことしか知らないので、いったいどんな「真説」が語られ、どう覆されるのかを期待していたら、映画の本筋は別のところだった。

     

     というのもこの裁判で問われるのは、史実の確認ではなく、名誉毀損にあたるかどうかにあるからだ。つまり、アービングが意図的に史料や証言、証拠を歪曲して解釈したり無視したりして主張を組み立てていることが明らかにできれば、デボラの「嘘つき」という評価は、名誉毀損に当たらないと立証できることになる。ホロコーストはあった=アービングは嘘つきだ、という図式とは大まかには似ているが、正確には異なる論法を用いるというわけだ。

     

     このため期待した「論争」は断片的にしか登場しない。例えば冒頭、デボラの講演会(?)に参加したアービングは質疑応答タイムで挙手し「ヒトラーの命令書は存在しない(からホロコーストなんてでっち上げだ)。見つけたやつには1000ドルやるぞ!」とネジがはずれたようにまくし立てるが、映画の中では「命令書」についてそれ以上の言及はない。

     おかげで見た後、気になってしまい、帰りの電車でネットを見るうち、そういえばとマルコポーロ事件が気になりだした。ウィキペディアを読んだら、問題の記事についての紹介にはアービングの受け売りではないかという内容が書かれていて、やっぱりかと思わされた。

     当時の俺は大学の教養課程にいて、歴史の専攻に進もうと考えていたくせにこの事件については大して興味も持たない腑抜けであった(覚えているのは「ゴーマニズム宣言」の作者が作中で「UFO本を読んで本気にするのと同じ」と評していたことくらいで、あれは全く当を得ている指摘だと今になれば思う)。厚顔無恥に責任転嫁すれば、当時の日本社会も似たようなもので、どこに問題があるのかよくわからないまま臭いものにふたをした格好で終わらせていた。改めてウィキの説明を見ても、何を謝っているのかわからなかった先般のフジテレビのホモオダ問題と同じで、十年一日とはこのことだ(ついでに当該記事の筆者と思しき同名人のブログにも行き当たってしまったが、これまた十年一日の内容だった)。そのツケが今の日本に訪れている。当時完全なる他人事のように詳しく知ろうともしなかった俺もささやかにその一翼を担ったといえよう。

     

     裁判に話を戻そう。争点はアービングの主張の方法論にある。ついでに、審議の過程で裁判官が「アービングが反ユダヤ主義を心底信じていたなら意図的にはならないのではないか」とデボラの弁護士に質問するシーンもあり、裁判というのは論点の設定が非常に細かい行為なのだと思わされる。このためしばしば報道側は、わかりやすさを優先して大まかに記事をまとめる。といってもそこまで乱暴なことはしない。ギリギリ間違いではないレベルでかみ砕くのが職業スキルでもある。

     ただし読者や視聴者はかみ砕いた内容をより大まかに理解するので、下手をすると間違った内容が流布することにもなりかねない。アービングのような人は、ただでさえセンセーショナルなことを主張している上、わかりやすい短いセンテンスで組み立てるので、込み入った話になればなるほど有利になる。専門家にとっくに判定されたことがいつまでも「歴史家が無視する真実」として命脈を保つ理由のひとつもここにあろう。一番の理由は「そうだと信じたい」からで、正確な検証など実は全く興味がないからなのだが、とにかく以上のような事情で弁護団からすれば、アービングは厄介な相手になる。


     必然的に、戦い方にも工夫がいるわけだが、その作戦に当のデボラも困惑する。なにしろデボラにも、生き証人にも証言を求めないからだ。彼女も、歴史論争を期待して見に来た俺と同じイメージで裁判を捉えていたということだろう。細かく立てた論点と作戦にはデボラも生き証人も不要、かつ何なら侮辱される危険があるから、弁護団の主張には筋が通っている。のだが、デボラは不満たらたらである。前述の裁判官の指摘に対して「裁判所が反ユダヤ主義に毒されてるなんて」とコボしているから、あまり理解していないフシもうかがえる。とはいえ被告であるから、黙ったまま法廷に座り続けることになる。

     まるで自己存在の「否定」であるが、そう思い込むことは弁護団を「否定」していることになる。この辺りにタイトルのダブルミーニング、トリプルミーニングがかかっている。


     もちろん一番の意味はアービングの主張する「否定」であるが、この否定について、ラストでデボラ自身が語る指摘がとても重要だ。
     議論はいくらでもすべきで、色んな主張はあっていいが、自明なこともある。地球は丸く、エルビス・プレスリーは死んでおり、ホロコーストも同じ。そのような自明なことを否定する主張は議論の俎上に乗るべきものではないということだ。これは神の存在を否定するなという類の話ではなく、とっくに証明されているからということなのだが、これは歴史に限らず、学術研究は常に先人の実績を前提として積み上げられるので、そこを安易に否定すると議論そのものが成り立たないということでもある。

     もちろん、定説を覆すのは研究の醍醐味であり存在意義でもあるが、それにしたって先行研究はしっかり踏まえなければならない。そこらへんを適当にすっ飛ばして自分の趣味に合うセンセーショナルな結論に飛びつくのは馬鹿にした行為である。歴史フィクションにしたって、先行研究をしっかり踏まえた上での大胆な解釈をしているから「直虎」は傑作たりえているのである。歴史書がそこをテキトーにつまみ食いしては話にもならない。

     

     ところが粗雑な主張も、しばしば拮抗した両論のように扱われることがしばしばだ。本作に沿えば「ホロコースト肯定論者」vs「否定論者」という図式である。報道はしばしばこのような手法をとる。よくわからない物事については、五分五分で扱っておけばとりあえず安全だという発想からなのだが、実のところは五分五分にしている時点で片方に大きく下駄を履かせていることも少なくない。邦題「否定と肯定」がこのような立場からつけられたタイトルだとすれば非常に醜悪な選択になるが、おそらくは作中、デボラの姿勢の変化を通じて示される否定することと肯定することのそれぞれを指しているのだろう。

     

     既に述べたように、デボラは弁護団の戦法に困惑する。そして厳しくなじりもする。自分が「否定されている」と感じたから、弁護団を「否定」したのだろう。教養ある学者とはいえ、相手を否定せずに肯定することがいかに難しいかということでもある。これが遺産相続の裁判ならともかく、自分の専門でもある歴史が事件の主軸であるから尚更だ。

     そしてアービングのような「〇〇はなかった/実は□□だった」論者やそのシンパ(本作でも裁判所の外で気勢を上げるスキンヘッドのグループが登場する)も、自分たちが否定されているという疎外妄想を埋め合わせるツールとして暴論に賛同するケースが多い。その点、デボラも彼らと一部で重なる部分がある。「英雄と評価できるのは後世の人間だけで、今この場で戦っているうちは恐怖しかない」というような台詞も語られるが、怖いからこそ相手への否定に反射させた自己肯定に、人はしばしば逃げてしまうのだと思う。

     

     しかし彼女がアービングや取り巻きと異なるのは、相手を肯定して受入れ、自分が間違っていたと思ったときには謝罪したことである。その点本作は、肯定の難しさと大切さを示しているともいえる。邦題が味わい深いとも書いたのは、ラストを見ながら以上のようなことを考えたからである。


    蛇足:弁護団のリーダーを務めた役を演じた俳優が、「SHERLOCK」のモリアーティの人だったので、しばらく「こいつは裏切るんちゃうか」と思いながら見てしまった。悪役俳優が悪人だと思い込む子供のような思考回路であるが、かように肯定とは難しい。

     

    「DENIAL」2016年アメリカ=イギリス
    監督:ミック・ジャクソン
    出演:レイチェル・ワイズ、トム・ウィルキンソン、ティモシー・スポール


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