【やっつけ映画評】残像

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     芸術家が2時間、兵糧攻めに遭う物語だ。東西冷戦下、ソ連の属国状態にあるポーランドで、体制に与することをよしとしない反骨の画家兼大学教授が、やがて地位も仕事も絵具も奪われ追い詰められていく。
     同じ時期、敵方であるアメリカでも、映画脚本家が東側のスパイといわれて仕事を奪われている。この「トランボ」と、本作はおおまかには似たような内容だ。海を挟んで対峙する共産主義国家と反共産主義国家で似たようなことが行われているのは皮肉である。反中国しか思想のない人が中国共産党的独裁政権を好んだり、「北朝鮮との話し合い」と聞くと発狂する人の主張が北朝鮮的先軍政治になっていたりするのと同じような構造である。
     しかし「トランボ」がどうにか糧道を確保し生き延びる痛快な話なのに対し、本作はまったくもって小田原城だから、実に重苦しい内容となっている。ソ連がいつ崩壊するのかを考えれば、時代設定(1950年代)からいって主人公の戦いに救いがないのは冒頭から容易に予想がつく。ストーリーに特段起伏があるわけでもない。ハッピーエンドが期待できない地味で重苦しい映画。それでも最後まで惹きつけてしまうのは、これぞ世界的監督の力量か。どうしてこんなことが可能なのか、少しはわかったふりをしたいところだが、正直さっぱりわからない(タイトルに相応しく、色彩が印象的で映像に惹きつけられるから??)。同時代を同じく芸術家として生きた監督自身の怨念のなせる業か。だとすれば、二重に重い。これが遺作になってるし。
     ポーランドは、周囲の強国に幾度となく食い物にされる悲劇的な歴史を歩んでいる。第2次世界大戦でもドイツとソ連に攻め込まれ、ドイツ敗戦後にはソ連の傀儡政権が樹立された。鬼が去ったら別の鬼がやってきた格好で、前にも書いたが、この辺りの歴史を「映像の世紀」なんかで見るととても陰鬱な気分になる。映画は戦後まだ間もない1948年から始まっている。

     本作の主人公ストゥシェミンスキが、トランボと違って食扶持を確保できないのは、トランボが業界団体につまみ出されたのに対して、ストゥシェミンスキの場合は国家に弾かれるからだ。抜け道がない。トランボも、あれはあれで息苦しくなる話だったが、容赦のなさでは本作の方がはるか上をいく。
     トランボをつま弾いたのは、マッカーシーという1人の議員の妄言によって、強制されたわけでもないのに社会全体のムードが形成されていったからである。これは大変に気持ちの悪い現象だが、ムードではなく、国家の制度運用によって閉め出されてしまうのは「気持ち悪い」をはるかに通り越して、絶望と恐怖しかない。イメージ通りの共産主義国家とはいえるが、この場合は全体主義といった方が正確だろう。トランボと対立する人々が総じて敵意丸出しだったのに対し、ストゥシェミンスキの敵方である役人は、紳士的な鷹揚ささえ見せるほど余裕ぶっこいて見えるのも、この仕上がった全体主義システムがあるからこそなのか。改めて、国家というのはいくらでも恐ろしい枠組みになりえるのだと実感させられる。
     トランボが生きるために「宇宙船が現れて、そのうちおっぱいボヨヨーン」というようなくだらない脚本を書いたのと同様、ストゥシェミンスキも金のための仕事をやろうとする(抽象画家は実は写実画も上手いというズッコイ真実がまたここでも見られる)。だが、国のシステムから排除されてしまっているので途中でクビになったり給与がもらえなかったりする。最初から警告に従って膝を屈していればこんな目には遭わずに済んだのでは、という批判は一応成立するが、まあできないだろうね。会社員でも「嫌な仕事」レベルのものはさて置き、自分の良心に反する仕事はさすがに気を病むもので、画家のように自分の名前で勝負していれば尚更だ。そもそもなぜ当局に目をつけられたのかを考えると、言いつけ通り従順になるのは難しい相談である。言いつけを守ったところで安泰が確保されるわけでもない。何かにつけて同じようなことが蒸し返される可能性は容易に想像できる。
     このことはつまり、そこまで強大なシステムが、なぜ一介の画家兼大学教授に過ぎないストゥシェミンスキを恐れるのだろうかという問いに尽きる。
     「影響力」というのはまず浮かぶ。ペンは剣よりと同じく、芸術も時に国家権力を凌ぐ力がある、というイメージはある。ベルリンの壁を壊したのはデビッド・ボウイである(ということに一部ではなっている)。ではストゥシェミンスキの絵は、国民の決起を促すような反逆のメッセージに溢れているかというと、まったくもってそんな作風ではない。抽象画家なので、そもそも何を描いているのかよくわからない。映画の中で彼が学生に語り掛ける台詞では「視覚」という言葉がくり返し登場するので、何かしら人間の視覚なり認識なりが土台にある作品を制作しているのだろうとは想像するが、要するに抽象画で怒りや恐怖を表しているわけではなさそうなのだ(根底の動機付けに反体制的なものがあるのかどうか、いかにもありそうに思えるが、あんまり興味なさそうにも見える。結論、よくわからない)。
     まあ、抽象画は全体主義の中では「退廃芸術」として嫌われるものだが、これもとどのつまりは「よくわからないから」ではないかとも思う。その昔、ジャズやロックが危険視されたのと同じような構造だと思う。

     そうすると政府当局側は何が気に食わないかといえば、ストゥシェミンスキの態度が喧嘩腰というのもあるが、党の方針に従わないから、というそれだけといえばそれだけのことである。為政者が芸術をプロパガンダとして利用したがるのは世の常だが、全体主義ではその傾向が顕著だ。「全体」なるがゆえに、全員同じ方向を向かないと気が済まないのだろう。逆にいえば勝手を許せば全体でなくなるので崩壊する。ストゥシェミンスキに警告してくる役人が紳士的なのも、余裕ぶっこいているのではなく、ストゥシェミンスキに対して具体的な不法行為を咎めているのではないから、なのかもしれない。つまりただただ全体主義からズレているだけの男に対する警告だから、警告する側の動機付けも「それはそうなっている」とアイヒマン的な理由しかないから、とも考えられそうだということだ。

     ここまで書いて、どう終わらせるかが見つからず、そのうちに手つかずになっているうちに世間で似たような出来事があったとニュースで知った。前川氏もあの名古屋の中学校長も、本作の時代のポーランドだったら兵糧攻めに遭って死んでいる。そして文科省は若干40〜50年代ポーランド化しているようだ。ちらつくのは残像ではなくシンゾウだったりする。東西冷戦という大きな国際対立があるわけでなく、独り相撲ならぬ一国相撲で何をやっているのだろう。
     残像というのは、日の丸とか赤十字とか、原色の明確な図柄だとすぐ実感できるが、じっと見つめた後に目を逸らすと、円なり十字なりの元の図柄が何もないところに一瞬浮かぶあの現象を言う。単に錯視するだけでなく、色が補色に反転する。補色というのは正反対の色のことで、赤の場合だと空色っぽい色になる。これが作中で何を暗喩しているのか、正直なところよくわからなかったのだが、現実世界に当てはめたとき、目を逸らしても見えるそれも色が反転して、というのは何かと示唆にあふれた興味深い事実じゃないかね。
    「POWIDOKI」2016年ポーランド
    監督:アンジェイ・ワイダ
    出演:ボグスワフ・リンダ、ゾフィア・ヴィフラチュ、ブロニスワヴァ・ザマホフスカ

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