【やっつけ映画評】人生はシネマティック!

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     第二次世界大戦中のイギリスで戦意高揚のプロパガンダのため、国策映画の脚本を書く物語だ。

     

     脚本をはじめ、文章を書く行為は絵にならないという話は何度か書いた。作業としてはタイプライターを打ち付けているだけなので、マンガのように「描く作業を見ているだけで楽しい」とはならないし、タイプを叩いて紡ぎ出される物語が傑作だったとしても、それをひと目でわからせることはできない。本作の場合は、「作り話を書く」という作業を通じてやり取りされる事柄が、後になって主人公らの実人生と重なってくるという手法でもって、「書くことについて」を巧くテーマとして扱えている。それは言い方を変えればいわゆる「伏線の回収」であり、結果全体としてよく出来た物語となっている。

     まあそれだけだと「綺麗な脚本の佳作」という評価にとどまろうが(ネットの感想はそういうのが多かった)、本作の場合、書くことについての「制約」がもう一つ大きなテーマとしてある。その点、考えさせられるなかなかの傑作だと思う。

     

     主人公を演じるのは、「007慰めの報酬」でボンドに都合よく篭絡されオイルまみれになって殺される何ひとついいことのなかった女優である。「アンコール!!」でいい役をもらえてよかったと安堵していたら、今度は主役だった。
     彼女が演じるカトリンがなぜ政府機関に雇われ脚本を書くことになったかといえば、男が総じて戦地に行っていて人手不足だからである。国民全体が何らかの形で戦争に協力する「総力戦」となった第一次世界大戦では、字義通り女性も動員された。弾薬製造や補給部隊などで貢献したため、戦後の地位向上の大きな追い風になった。同じく総力戦である第二次世界大戦もその第2ラウンドという側面があるが、本作も男社会における女性の戦いとなっている。この「戦時下」と「女性の進出」という2つの要素が脚本制作に大きく影響する。

     

     作るのは戦意高揚プロパガンダ映画だ。制作趣旨からいって、政府からの注文があれこれとつく。「そういうものだ」と割り切って、愚にもつかないような教育素材のようなものを作るならまだしも、曲がりなりにも娯楽作品を作ろうとしているから混乱や反発が生まれる(実際のプロパガンダ映画も、本の紹介文程度でしか知らないが、大抵は一定の娯楽性を意識して作られたようである。そうでないと見てもらえないし)。「エンジンが故障するストーリー展開はわが国の技術力への不安を助長するからダメだ」とか、アメリカの世論を参戦に向かわせるために(この時期まだ米国は参戦していない)「アメリカ人を重用な役で出演させろ」とか、ちょこちょこと横槍が入り、案がボツになったり急な変更を迫られたり、そのてんやわんやで物語は転がっていく。このアメリカ人にタフガイ風味を期待して軍人があてがわれるのだが、演技がド素人で関係者は天を仰ぐ。それだけでなく、戦争中であるため、途中で俳優が出征したりドイツの爆撃で怪我を負ったりで予定していたシーンが物理的に撮影ができなくなったりもする。

     

     このような物理的制約はともかく、前者の政治介入は、一般的には自由な創作の敵である。
     今の日本でも似たようなことはいくらでもある。スポンサーや芸能事務所の意向が話の展開や出演者の決定に影響するなんて話は週刊誌でちらほら見かける。もう少し悲しく生々しい話だと、自治体の助成金で製作費の一部を賄ったため、内容と全く関係なく当該自治体の観光地が作中に登場する羽目になったという話も聞いたことがある。政治介入に比べれば平和だが、構造は同じなので気持ちのいい話ではない。

     

     ただし、制約が発想を生むというのも事実だ。特に政治介入の場合は受け止め方が難しいが、そういう側面があることは否定できない。

     

     例えば明治の新聞人成島柳北は、隠喩だか暗喩だかを駆使して政府批判の論陣を張り、その仕掛けの痛快さでもって読者をつかんだ。当時は讒謗律や新聞紙条例といった言論取締の法律があり、直接政治批判を論じると逮捕されてしまう。このため法に引っかからないための方便として、メタファーやアナロジーを多用したわけだ(それでも捕まったけど)。これは柳北が、ジャーナリストというよりは風流な文人といった方が近い分厚い教養の持ち主だったから可能だった。逆にもし制約がなく自由に政治批判を出来る状況だったら、そこまで注目を浴びたかどうか。少なくとも彼が書いた凝った論説の出番はない。

     

     同様に、文学の世界でも、内容に統制がかかっている状況だからこそ、普段だったら選ばないようなテーマでもって書かれた作品もある。これは「ある」という話を聞いたことがあるだけで具体例は知らない。いかにもありそうだとは思う。いずれにせよ、瓢箪から駒のような話だ。

     

     物理的制約も同様に、それがかえって功を奏すことはある。金も権力もない自主映画なんかまさしく「撮れる範囲内でいかにうまくやるか」の世界だから、話題の「カメラを止めるな」のように、稀に潤沢予算では思いつかないようなアイデアで作品が生まれることもある(元ネタは演劇の作品らしいが、演劇も制約だらけの表現形式で、それが逆に発想を生むといえる。蛇足ながらかの映画については、異例のヒットに、低予算映画の可能性を云々する評も見られるが、ちょっとナイーブじゃないかしらと思った。自主映画なんか金がないからみんなアイデア勝負をしている。ほとんどが不発に終わるだけで。いわばもの凄い奇蹟みたいなものだから、当該作品がいかに素晴らしくても「可能性」を論じてもあまり意味はないと思う。金ないからしゃあなくやってるだけ)

     

     政治介入でいえば本作の場合、「エンジンの故障はNG」についてはこれといった効果をもたらしてはいないが、アメリカ人の起用については元はなかったラストシーンが加わり、それがカトリンの人生に大きく作用しているだけに、制約から生まれた瓢箪から駒の要素が大きい。

     

     そして「クライマックスの変更」だ。男性陣が出征してしまったため、予定していた展開を撮影することが不可能になる。そこで撮影可能な展開に変更されるのだが、このシーンはかなり印象的だった。多少説明が要る。

     

     

     本作内で制作される映画は、ダンケルクの撤退を題材にしている。その点「ダンケルク」のスピンオフのような作品でもあるのだが、あの映画でも描かれているように、英軍の撤退には民間の船が大いに奮闘した。そのうちの一隻に、なんと女性の双子姉妹がいた、という驚きのニュースを耳にし、それを映画にしようと決まるところからカトリンの仕事が始まる。

     

     取材に行くと、噂と実際がかなり異なることにカトリンは翻弄されるのだが、そこはさて置き、いざ脚本制作となると、救援で活躍する役柄に男性をあてがうように指示される。ヒーローを演じるのは男の役割であり、女性はそのヒーローを支える可憐な花の役割だというわけだ。いわゆる性差による役割の固定だ。実際には、姉妹は2人だけで救援に乗り出している。それだけの操船技術と胆力を持っているということなのだが、客が見たいのは男勝りの女性ではなく、格好いいヒーローと恋に決まってるだろう、という理屈でカトリンの「事実と違う」という反論は却下される。

     

     ここにも一つの制約がある。いわゆるステレオタイプだ。しばしば偏見・差別の助長につながるものとして批判される部分であるが、ここでのステレオタイプの制約とは、「うるさく批判してくる人がいる」という理屈ではない。そもそもステレオタイプは、積み重ねの中で生まれてきた定型的手法の側面がある。平たくいえばウケるための法則のようなものだ。周囲の制作陣がカトリンに「男=活躍、女=彩り」という図式を指示するとき、念頭にあるのはウケる脚本の常識とでもいうべきものなのだろう。

     

     だが空襲の激化で予定が狂い、姉妹がトラブルを解決する展開に差し替えられる。あたかも戦争による男性不足でポストを与えられ実力を発揮したカトリンのごとくに(すでに述べたように、本作はこのように劇中脚本と現実世界のシンクロが巧い)。そして映画が完成し、上映されると、女性の観客が「これは私の映画だ」と涙する。これはだから、人手不足という制約が、ステレオタイプという制約を打ち破って、瓢箪から駒の新しい魅力を生み出せたということになる。

     

     本作の時代に比べれば、時代が下るにつれフィクションにおける女性の描き方にも多くのバリエーションが生まれたが、それでも描き方のワンパターンさが指摘されることがある。女性に限らず、人種だったり出自だったり障害者だったり、描かれ方のステレオタイプを批判されることはフィクションの宿命のようなところがある。そしてしばしばその手の指摘は、政治介入と同じく自由な創作を妨げるうるさいものとしてとらえられる。「最近はうるさいですからなあ」とか「ポリコレ」と揶揄するとかがその代表格だ。
    無論、中には見当はずれだったり自己目的化していたり、おかしな批判もあろう(虚構新聞に「嘘はけしからん」とクレームする等)。しかし、多くは作り手側の表現でいえば「消費期限切れ」を指摘しているのだと思う。その手のパターンはもううんざりだ、と思うとき、新しい着想が生まれる。なのでここから先は「マグニフィセント・セブン」で既に書いた話になる。これを「わかってないやつがうるさいことをいうてくる」と捉えてしまうと頭打ちになってしまう。松本人志あたりがいい例だ。

     

     控え目な範囲にとどまっているものの、ほんの少しだけステレオタイプを壊していく本作の映画制作は、時代設定と相まってなかなかの説得力を持っていると思う。ステレオタイプは、フィクション屋にとっては政治介入と同等の忌むべき存在であり、政治介入以上に、そこを避けることで生まれるものがある。

     

     

    蛇足1:映画を作る話は、劇中で作る映画の全容を描けないものだが、本作の場合は劇中作品の映像が比較的多めに出てくるところは好感が持てる。これを見る限りではなかなかスリリングな冒険譚に仕上がっていて、登場人物たちが「いい絵画になるぞこれは」と息巻く様子にも説得力がある。「劇中で作られる映画は全容がわからなくて当たり前」という感覚が、つい劇中劇を整えることをサボらせるものなのだ。これを解決するために俺が考え出した手法は、前回上演した演劇作品を「作る話」で、これだと作中制作される作品は既に全容が存在している。ただし両方見ないと成立しないのだが。


    蛇足2:映画を作る話は「下手な演技」がついて回るのが宿命なのか。「〈下手な演技〉の演技」は砥出恵太やココロックの方が本作より上だと思った。

     

    「THEIR FINEST」2016年イギリス
    監督:ロネ・シェルフィグ
    出演:ジェマ・アータートン、サム・クラフリン、ビル・ナイ


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