阿部房次郎

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     「手の込んだ虫干し」こと「ルーブル美術館展」が大阪市立美術館で開催されている。膨大な収蔵品からポスターに使えそうな有名どころを若干と、あとはそれほどでもないものを借りてくれば一定の来館が見込めるありがたい企画だ。それだけにあちこちの美術館に場所を移しつつ定期的に催されている。

     

     「同じ場所で開かれてる『阿部房次郎と中国書画』の方がよっぽど貴重な作品が展示されている!」と知人が唾を飛ばしながら言うので、そちらに惹かれ、仕事で天王寺方面に行く機会があったので鑑賞することにした。

    中央上部、白壁に黒三角屋根の建物が美術館。その手前の建物群がタリーズその他

     

     市立美術館に行くには、天王寺公園を横切る格好になるのだが、ここはひところに比べてすっかり様変わりしている。公園正面の一角は、タリーズだのスパゲッティ屋だのが軒を連ね、商業施設のフードコートのようになっている。都市公園法が変わってこういうことが可能になったとかで、公共財の切り売りが好きな維新政策の象徴のような場となっているのだ。これが「成功例」とされていて、大阪城公園でも、同じような事業が行われている。在阪民放と吉本が関わっているというからより大規模なものといえよう。「維新」の名の通り、官界と財界に区別がない明治の世を彷彿とさせる。

     

     これを支えているのは、税金で公共財を維持することが「無駄」ととらえる考え方だ。公園は維持費がかかる一方で、遊園地のようにそれ自体が利益を生み出すものではないので、そういう風に見なすこともできる。実際には「みんなのもの」なので税金で維持しましょうという話なのだろうし、この「みんなのもの」というのが「公(パブリック)」ということだと思うのだが、「赤字垂れ流し」に見える人が一定程度いるのは、この理屈が世間にさして根付いていないということなのだろう。

     

     思うに、日本の社会で「みんな」というときの「みんな」とは誰か、という問題が大きく作用しているのではないかと思う。「その駐車、あなたはよくてもみんなは困る」とか外国人ジョーク集の「日本人:みんな飛び込んでますよ」とかに代表されるように、実体のない不特定多数として存在し、何かを牽制したり強いたりするときに登場することがしばしばだ。なので個人が何かをやろうとする場合、「みんな」の前では「勝手な行為」となり、結果公園でやれることは静かに談笑するくらいしかなくなる。だったら美味いものを出す店があった方がいいよねとなって、公園が公園であることに価値を感じなくなっても不思議ではない。


     実際の「みんな」というのは「あれをしたい」「これをしたい」という個々人(あるいは団体)の集まりで、「みんなのもの」というのはそれら個人や団体全員のものということになる。公園よりは公民館の方が想像しやすい。各部屋を、趣味のサークルだの何かの勉強会だのが利用していて、それらひっくるめて「みんな」ということだ。無論、個々の欲求はぶつかり合うときもあるから、適当に折り合いをつけたり、場合によってはルールを設ける必要性も生じる。「他のみんな」に一定配慮が必要なのはいうまでもないことだ。

     

     しかしながら公民館の場合、誰が利用しているかといえば、多くは年寄りか演劇のチンピラで、我々演劇のチンピラは各地の公民館の所在地や利用規定には妙に詳しかったりするのであるが、社会の中核を成す層の利用は少数派である。つまり、多くの人は「みんなのもの」を利用することがなく、勤め人なんかがパブリックな施設に思いきりかかわるのは子供が出来たときくらいではないか。だとすると無駄の塊に見える確率はいかにも上がりそうで、これは結局のところ、色々な意味においての社会の豊かさの話になってくる。俺のような田舎者からすると、都市部の都会らしさとは文化資本が整っていることなので、公園に飲食店が並んでいるのは実に貧相に映るのである。馬鹿っぽい言い方をすると、めちゃダサいんだよなあ。(書いているうちに「みんなのアムステルダム国立美術館へ」を思い出したのでリンクを置いておきます)

     

     俺が学生のころの天王寺公園は、ケッタイなカラオケ屋台が並んでいるという風変りな猝唄岾萢儉瓩行われていたものだった。いいとか悪いとかいう前に、何だこのカオスはと、ただ面食らったことを覚えている。あれらが合法的に小奇麗になっただけじゃないのか、と個人的にはつい思ってしまう。

     

     さて、ルーブルのチケットで阿部房次郎も見れるので、せっかく来たしと、まずはルーブルから見た。王や覇者の肖像をテーマにした展示である。本家からどのような手続きで持ち出す収蔵品が決まるのかわからないのだが、借りれるものでもって何かしらのテーマを考えるのは、これはこれで有意義な企画だと思う。ただ、見に来る側は支配者について知りたくて来ているわけではない。これが例えば「ゴッホ展」のような個人の範疇であれば当該芸術家にそもそも興味があって来ているので、仮に有名どころがなくても楽しめる。


     少し前の話だが、出張で福山に行った際に当地の美術館で「岸田劉生展」をやっていて、時間があったので見に行った。有名な「麗子像」はなくても(むしろ麗子像以外を初めて色々見て知れたので)楽しめた。岸田という個人に関心があったからだ。


     だが「ルーブル」だと、「ゴッホ」や「岸田」に比べて括り方が大きい上にとても漠然ともしているので、結果、有名どこを見て「おお」といいたいだけになってしまう。教科書に載っているルイ14世の全身肖像画なんかは、教科書で見たことがある分「おお」となったが、この手の作品は、工業製品のようなものなので何枚も制作されていて、展示はそのうちの1つということらしい。複数あるとにわかにありがたみが下がった気がしてしまうのは勝手な話である。多少興奮したのはアリストテレスの雁首石膏と、ヴォルテールの素焼き像だった。王者より文人に目がいくのは加齢に伴う趣味の変遷だ。

     

     早々に済ませ、2階への階段を上った。

     

     阿部房次郎は関西財界の大物の一人で、彼が収集した中国の書画の展示である。清朝末期からの混乱した時代、中華の名品の多くが国外に流出したのだが、日本の金持ちもしばしばそれらを買い集めた。特に関西の実業家に多かったらしい。加えてエスタブリッシュメントの面目躍如、結構な目利きも多かったようで逸品も少なくない。強欲一点張りというわけでもなく、民国が落ち着けば返還してよいという保存目的の人もいたようだ。全部「ふたつの故宮博物院」からの丸写しである。あれを読んだ個人的なタイムリーさも手伝って足を運んだというのもある。


     こちらは作家の名前もそれほど知っているわけではないので、教科書や本で見た「あれだ!」というような興奮は特にないのだが、知人が言う通り、圧倒される画力の作品も目立った。筆遣いの技術が相当なものだというのが素人目にもありありわかって楽しい。客が少ないのは明らかなのだが、熱心に見ている人が多く、芸術系の大学の学生なのだろうか、メモやスケッチを取りながらの鑑賞が目立った。これを進めた知人と同類の教授が唾を飛ばしながらレポートの課題にでもしたのかもしれない。

     

     そして毎度思うのが、どうしてこのような高度な文明を誇った狎菴聞餃瓩、近代にはものの見事に凋落してしまったのだろうということだった。
     


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