ウニを最初に食べた人

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     前掲書では、満洲国建国後、移民した日本人が使っていたピジン、つまりこの場合は日本型中国語が紹介されている。そのほとんどは満洲国崩壊に伴い消えてしまったのだけど、生き残った言葉もいくつかあると読んでいて感じた。子供のころ使っていた意味不明の言葉と同じ文字列のものがあったからで、これは別にこの本に明記しているわけではなく、自分の幼少期を振り返って勝手にルーツを見つけた気になっただけという話である。

     

     子供の使う言葉、特にローカルなわらべ歌の類に歴史が刻まれているというのは「マスター・キートン」でも出てくるそれこそ「あるある」だろう。この本もそんな話から始まっている。


     アメリカ英語の成り立ちを分野ごとに追いかけていく内容だ。どちらかというと、「言葉」を切り口にしたアメリカ史の本といった方がいいかもしれない。英語圏の人なら単語等の話も「へえ〜、なるほど」と楽しめるのかもしれないが、高校英語止まりの身にはよく知らないマニアックな単語や言い回しがかなりを占めるので、その部分はろくについていけない。せいぜい、ロックバンドのバンド名や曲のタイトルなんかに使われているよくわからない英語の意味と成り立ちをいくつか確認できたくらいか。


     一方で歴史の話はとても興味深く読める。この著者は、網羅的なテーマを面白く書くのが滅法巧い。視点はマクロ的なくせに、小噺のような細かい話が随所に盛り込まれ、ついでにアングロサクソンお得意の皮肉が利いていてところどころ吹き出してしまう。例えば、アメリカ建国史の始祖たるピルグリムファーザーズは、乗り込んだ新大陸の大地や海がとても食べ物に恵まれていたのに、ヨーロッパから持ち込んだ食べ物以外ちっとも口に入れようとせず「豊穣の地で餓死しかけた」とか。また、7/4が独立記念日である必然性がないことや、タイヤで有名なグッドイヤーの秘話(悲話)など、それぞれはトリビアルに面白い話ながら、結構バラバラに見える種類の要素を破綻なくまとめていく技量がものすごい。


     このピルグリム・ファーザーズは、新大陸に移り住むという相当な冒険心で未知の大地に上陸したくせに、誰も鋤や鍬を持ってこなかった(その代わりに歴史の全集は持参していた)サバイバル能力に著しく欠けた人々だったらしく、結果全滅しかけたところをインディアンに助けられてどうにか生きながらえたらしいのだが、インディアンたちとどうやって意思疎通したかというと、英語を話せるインディアンがいたからだという。

     どうして遠く離れた地に、そんなご都合主義のバイリンガルがいたかというのは本書に譲るが、これを読んでふと思いついたことがある。ウニを食べるたび、「初めてウニを食べた人はどうやってこれが実は食べれると判断したのか」と、決まって誰かが言い出すこの長年の疑問の答えだ。「食べたことのある人に教えてもらった」が正解ではないか。

     

     こんな辻褄の合わないことを考えたのも、言葉をさかのぼっていくと何かと拡散していくと知ったからだ。
     北米はイギリス人以外にもフランス人やスペイン人が入植していた地域であり、もともとインディアンがおり、建国後も欧州各地から移民が押し寄せたから、アメリカ語は英語をベースとしつつも、これらの人々の言葉が混ざり合って出来ている。さらにイギリス人と一口にいっても方言があるから均一な英語を話していたわけでもなく、ついでにイギリスの先住民たるケルト由来の言葉もあったりする。

     そういうわけで、単語の意味が変遷するだけでなく、綴りや発音も時代によって大きく変わってきた上、過去にいくほどバリエーションが豊富になる(録音技術のない時代の発音がなぜわかるのか、については結構面白い)。これはおそらく、移動網や通信網、あるいは公教育の発展と関係しているのだろう。これらの発展によって〈標準語〉は確立・定着していっただろうから、これらが乏しい時代には、言葉の均一性はどうしたって下がる。

     

     なので日本語でも、ある言葉が「本来の意味と違って使用されている」と、よく文化庁や雑学本や教養バラエティ番組が指摘しているが、「本来の意味」とは、果たして確定しているものなのかという疑問が湧いてくる。「〇〇の本当の意味は◇◇なのに、テレビなんかでもよく△△の意味でつかっている」というとき、まるで昭和のころくらいまでは「本当の正しい意味」で使われ続けていたのに、最近になって言葉の乱れで違う意味になっている、といわんばかりのニュアンスが漂うものだが、そんな固定された岩盤のようなものは果たしてあるのか、と思ってしまう。そういう俺も、この手の国語雑学本の原稿を依頼されて書いたことがあるのだが。

     

     そして発音の変遷を見ていると、「正しい発音」にうるさい人が教条主義的に見えてしまう原因も見えてくるというものだ。まあ俺の場合は、教師もクラスの全員も思い切り訛りのある日本語を話している中で「正しい発音」とか言っている時点で、どこか不条理演劇だったものだ。

     

     「正しい発音」を練習することは、その言語に対する敬意、理解にも通じるから大切なことではあるにせよ、本書によれば時代によって相当に異なる上、英語の場合は世界のあちこちで公用語にもなっていてその国の訛りで発音されているだけに、1つの型を正解として示すのはそれはそれで問題がある(そもそもアメリカ語自体、イギリス人にはまったく理解不能だった時期もあるらしい)。まあ結局のところは通じるか通じないかだよね。

     

     俺の場合は、旅行や旅行者の道案内くらいでしか英語を話す機会はなく、大抵通じるので、ま、このカタカナ発音でいっか、くらいに開き直っているのだが、中国語発音はひとつも通じなかったので、「背後」を「せご」と読むのと大して変わらず、修正の必要性は大いにある。ほぼ諦めているが。


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