試験に出る文豪と映画の感想
先日、仕事の関連で「試験に出る文豪リスト」のようなものを作成した。時代と国と作者名、代表作名をただひたすら並べるだけ。やっていて非常に心苦しい。作業の退屈さもさることながら、書き並べているほとんどについてロクに知らないからだ。
ダンテ→神曲、などと高校の世界史(日本史でも同じ作業だが)で覚えたものだが、文化史関連の人物は覚えにくい。一定のストーリー込みで習う権力者の歴史と異なり、文化方面となると「このころの〇〇な社会を背景に△△な芸術運動が盛り上がり」程度の説明の後に名前と作品名が羅列されるくらいにとどまるから、記憶がより機械的になる。
もちろん、作品に触れればすぐ覚えられる。絵を見れば、マネとモネもそれなりに区別して認識できる。文学も論理的にはそうだ。が、絵のようには気軽にいかない。
手に取ることはそれほど難しいことではない。岩波、ちくま、中公、新潮、最近だと光文社等々の各文庫のリストを眺めれば、教科書に出てくる作品のほとんどは和訳されているのがわかる。関係各位が積み重ねてきた財産に感服することしきりである。なのでアリストファネスにしろトマス=マンにしろ本屋か図書館にでもいけば簡単にお目にかかれるわけだが、正直、読めん。
中にはスラスラ読めて楽しめるものもあるが、そうでないものも多々。土台、テーマからして読む気がしないものが多い(俺の場合だと、貴族の恋愛なんかがこれに該当するので、結構な数の名作が興味の範囲外になってしまう)。
しかし、百年前、三百年前、何なら二千年以上前の作品が今に伝わるこの人類の蓄積を知らないふりするわけにもいかんだろう。と、考え始めたのが三十歳を過ぎたころからだったと思うが、あれからあまり読んだものは増えていない。なので軟弱な俺は、映画から入ることにした。
映画化された古典はそれなりにある。ただし、「嵐が丘」のように何度も制作されている例もあるが、大抵は古い作品が多いので、とっつきにくかったり入手困難になっていたり。映画だからといっても、案外気軽ではないケースも少なくない。
もう一つの映画化パターンは、作品ではなく作者を映画化したもので、こちらは割と手法としては新しいのか、最近の作品が多い。俺自身、歴史好きなため、その作者がどんな人間だったのかは興味の湧くところである。
すでに見たものでいうと、「ミッドナイト・イン・パリ」。これは創作おとぎ話だから趣旨が違う。が、ヘミングウェイの魅力が光っている。それから「もうひとりのシェイクスピア」。こちらは別人説を描いているので余計に趣旨が違う。シェイクスピアは完全な脇役であまり登場しない。「ハンナ・アーレント」「マルクス・エンゲルス」の哲学者シリーズは、史実に沿ったフィクションで、哲学者も小説家同様物書きであるから、いわばこういう系統の作品を探して見てみようと考えた。おりしもサリンジャーの映画を上映しているが、間もなく終わりとあってスケジュール的に難しい。
それでまず見たのが「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」。タイトルで全部説明されている。
歴史に名を残す2人の思想家・作家の関係を描いた作品だ。思想家の場合、倫理の授業で習うので、著作を読んでいなくとも何を言った人なのか最低限の知識はある。サルトルは実存主義の哲学者で、「実存は本質に先立つ」と「人間は自由の刑に処されている」を覚えておけば概ね試験には正解できる。ボーヴォワールはフェミニストで「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」が有名。この世界的に著名な2人についてまとめて知れるのだから、お得な作品じゃないかと再生したが、30分ほどでギブアップした。
というのも、サルトルが全くもって気色悪いのである。先日読んだ「82年生まれ、キム・ジヨン」に、教室で配布プリントを後ろの席に回すとき「ニコニコ愛想よく渡してくれる」として俺に気があるとばかりに主人公に付きまとってくる男子が登場するが、あの手の妄想系ストーカー全開の様子でボーヴォワールに接近してくる。
この大変に気色の悪い男に、彼女も当然嫌悪感を示すのだが、いつの間にか恋に落ちていてボーヴォワールもとんだイカレ者だと2人まとめてついていく気が失せてしまった。
「新しい愛のかたち」と予告編映像のキャッチコピーにはあるが、確かにある意味新しい。新しいとは理解不能の雅語なのだな。
「Les Amants du Flore」2006年フランス
監督:イラン・デュラン=コーエン
出演:アナ・ムグラリス、ロラン・ドイチェ、カル・ウェーバー
- 2019.02.26 Tuesday
- 映画評
- 13:04
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- by 森下淳士