映画の感想(ではない):ブラック・クランズマン

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     話の流れで(?)黒人差別がテーマの作品について。

     KKKを扱っているから、重いものをまず想像してしまうが、痛快なタッチだった。刑事モノの痛快さを借りつつ、「私はあなたのニグロではない」でも描かれている、差別の歴史とか、映画における黒人の扱われ方とかを念頭に置いて制作されている節がある。
     おそらく映画マニアほど楽しめる内容だと想像する。過去の黒人映画のオマージュ的な場面があったりで、知っているとニヤリとさせられる仕掛けがあるのだろうと推測するのだが、よく知らないのでわからない。話には聞いたことがある悪名高き「國民の創生」が上映されるシーンがあり、初めて映像を見たのは貴重だった。わかったのはそれくらいか。もしやと思って検索したら、YouTubeで全編見れる。


     黒人差別を巡る問題を、日本社会の中で身近に感じたのは中学生のときだった。外国人指導助手というやつか、とにかく英語の授業に現れたアメリカ人の先生との出会いによってだった。先に脱線しておくと、この先生の前任者は、日系の人だった。今日からアメリカ人の先生が来るらしいと聞かされて、初めて接する外国人にわくわくしていたら、現れたのが宮本隆治アナウンサーみたいな外見の人で、あれえとなった。クラスのほとんどがパックンみたいな先生を想像していたのだろう、若干微妙な空気になり、俺もその発信源の一人だった。

     

     今から振り返ると、アメリカ人=白人→ブッブー不正解、という感覚をあの時代にして先取りしていたとてもよいめぐり逢いだったと思う。無論当時はそんなことまで感じるはずがないのだが、中学生にして「確かにこういうアメリカ人もいるよな」と呑み込めたのは、大河ドラマ「山河燃ゆ」あたりから仕入れた知識だったと思う。


     そういった意外な出会いの次の年に現れたのが黒人女性の先生だった。本作のヒロイン・パトリスに若干似た雰囲気だった記憶がある。あんなにアフロではなかったが、縮れた髪を団子にしていて、脚が長い格好いい体型をしていて、実に陽気なキャラクターで、すぐ人気者になった。何より黒人というのが、いかにもアメリカっぽいじゃないかという前年からの反動も少なからずあったようにも思う。
     その先生が、NHK主催の弁論大会に出場するという。外国人が日本語でスピーチする大会で、放送もされる。うおーすげーとなって、放送日、期待しながらテレビに見入った。いつも陽気なおもしろい先生だから、捧腹絶倒のスピーチを想像していたのだが、語られたのは彼女がこれまで出会ってきた差別の半生だった。あまりのギャップに困惑しきりで思考が停止した。

     

     当時、黒人差別というのはとっくに知識としては知っていたが、それが目の前の人にも当てはまっていたというのは少なからず衝撃であったわけだが、それと同時に、ここは日本だし、という感覚も存在していた。アメリカならいざ知らず、日本でそんなものはないだろうと。ユダヤ人差別同様、知識としては知っていても、全く実感がないから自分が差別する理由もない。そんな感覚だ。
     だもんで、彼女の訴えは、百科事典の知識として脳内に収まり、リアルな問いかけとしては全く響かなかった。感覚としては「国賠訴訟の原告団の悲痛な訴え」と似たようなものか。原告団がしばしば金目的などと嘲られるのと同様、あの先生がたまたま人気者だったからしんみりしただけで、そうでなかったら「差別差別とうるせーなー」くらいの反発を覚えていたかもしれない。


     コトはそう単純ではなく、また縁遠いわけでもないということを目の当たりにするのが、「ちびくろサンボ」だった。描かれ方が差別的だとして絶版になる一方、それへの反発も盛り上がって、そのうち「言葉狩り」なる表現も生まれたころだ。高校生のころだったか。前後関係の記憶がアヤフヤなのだけど、おぼろげな記憶では筒井康隆の断筆以前にすでにこの手の問題になぜだか俺は興味を持っていた記憶がある。

     

     均質性の強い地域で、堅実な親のもとで育った環境のせいだろう、他者へのまなざしに鈍感なまま成長したせいで、サンボ絶版けしからん側に組していた。高校生の背伸び感的には、差別を糾弾する側を批判する方が、ものがわかってるっぽくて格好良く思えたというのもある。ここからいえるのは、目の前の米国人に対して悪意も敵意もなく、むしろ好意しかなかったとしても、それは差別だと言われたときにすぐさま犢舁的に疊刃世靴茲Δ箸垢觧兩そのものに、根深く複雑にする源泉があるのだな。すでに述べたように、俺がNHKであの先生のスピーチを聞いたとき、自分には無関係な話をしていると思ったんだ。

     

     それである日、地元の市立図書館に行ったとき、まさにこの絶版問題を扱った本を見つけ、興味を覚えて手にとった。タイトルを全く覚えていないのだが、改めて思いつくままの単語で検索したら見つかった。今更ながら検索精度の日進月歩には驚かされる。
    ジョン・G.ラッセル『日本人の黒人観―問題は「ちびくろサンボ」だけではない』。おそらく、ここまで説明的なタイトルだったせいで当時の俺は手に取ったのだろう。著者の名前で検索したら講演会の映像が出てきた。あれから30年近くたって、ようやく顔と声を知った。


     タイトルと装丁からして、「サンボ」擁護側への反論的な内容であることは容易に想像がつくと思うのだが、自分とは反対のスタンスの人の主張を書いた本を手にした当時の俺は案外思慮深い高校生だったのかもしれない。10代のころの記憶はどれもロクなものがないが、数少ない手前味噌に浸れる過去である。そして、図書館機能の面目躍如にも思える話でもある。たまに気になる書籍(の中で置いてそうなもの)を小規模書店で買おうかと立ち寄ることがあるのだが、ジャンク本が書棚を占拠しているさまから漂う終末感といったらない。少なくとも図書館くらいは知性教養との遭遇の場として機能してほしいと切に願うが、儲からないことに公費を使わないことが善、みたいな倒錯状況が続く中ではおそらく虚しい願望である。


     前掲書の内容で記憶に残ったのが、ステレオタイプに基づく表現の話だった。当時の俺の感想としては「わかったようなわからなかったような」程度で、ガーンと頭を打たれるような衝撃を受けたわけでも、目から鱗の刮目開眼に至ったわけでもなかった。とはいえ「何だか大事なことを言っているようだ」くらいの受け止め方はしていた。その証拠に、大学に入りこの本をもう一度読んでいるのだった。
     劇団で脚本を書くようになったこととか、あるいは当時まだ萌芽期だったマンガ論に興味を持ち夏目房之介の本なんかを読んだこと辺りが影響し、フィクションにおけるステレオタイプについて関心が高まったからだった。


     有名どころでは手塚治虫で、差別を徹底的に嫌ったマンガ家だが「ジャングル大帝」等の原住民の描き方が差別的だと指摘されたのはよく知られた話だ。昨年、台湾に行った後「きりひと讃歌」を読み直したが、あの作品に登場する「高砂族」もアウトな描き方である。これもまたステレオタイプな描き方という点で前掲書の指摘する問題とばっちり重なるわけだが、当時の俺は、理屈としては把握できてはいても、納得にはまだ遠かったと記憶している。俺にとってこの構図が最初に腑に落ちたのは、人種民族の話ではなく言葉だった。


     舞台の台本を書くようになると、嫌でもステレオタイプな「台詞日本語」と対峙することになる。女性の「わ」、博士の「じゃよ」、驚くときの「何!」、呆れるときの「ったく」、中国人の「アルヨ」、こういった記号的な台詞は、現実にそんなやつはいないという点で手垢がついて臭いという印象が先立つので「あえて」を狙うならともかく、なるたけ回避しようとする。パッパラパーの学生劇団時代、どこまで実践できたかは怪しいが、類型的な台詞回しは傍ら痛し、くらいの感覚はあった。俺の場合はそこに方言も加わることになる。


     俺は地方都市の出なので、関西に出てきた当初、しばしば「訛ってる」と言われたものだが、それを言う人間が話しているのが関西弁というこれまた「標準」とは見なされない言葉だった。その上なぜか演劇になると「台詞は標準語」と特に疑いもなく信じ込んでいる人が多く、アクセント事典をいちいち持ち出して確認したり、「ンガ」と鼻濁音を練習していたりする。普段「チんちん(「ピンポン」に同じ)、てなんやねん、ちんチん(「安心」に同じ)やろ」などと関西標準を押し付けてくる連中だけに、やけに滑稽でアホくさく見えたものだった。
     このため俺の中で「標準」が相対化され、フィクションの登場人物はそもそもなんで一様に均質化された言語を喋っているのだろうと疑問に思えてきた。NHKドラマのような地域性を前面にした作品でなくとも、現実世界を題材に取るなら、そこにわけもなく方言混じりの言葉を話す人間がいてもいいだろうし、大阪が舞台だとして全員が関西弁である必要もない。当然、「金にうるさい→関西弁」のような類型と結びつけるのもダッセーじゃんと思うようになる。この「ダッセーじゃん」は、やがて現実への無頓着さに対する苛立ちになっていった。それでようやく理解した。毎度毎度無頓着に、判で押したような同じモデルで描かれ続ければ、そりゃあ腹も立つ。

     

     で、ようやく映画の話に戻ると、本作でも「言葉」が割と重要な要素になっている。白人至上主義者に成りすました主人公が、電話でKKKの大物と話すシーンで、「俺が白人だって何でわかるのか」と尋ねると、この幹部は「話し方でわかる。黒人はもっとこういう話し方をする」と黒人の喋り方を真似て見せる。それを電話で聞きながら、主人公は必死に笑いをこらえるのだが、笑っている理由はまずこいつがすっかり騙されているからだろう。だが、もう一つ「黒人の話し方」そのものへの嗤いかしらとも思った。実際にそんな人間いないのに、知ったかぶりでステレオタイプをなぞってやがる。そんな滑稽さが笑えて仕方なかったのかもと想像した。昭和のドラマの関西弁をホントの関西弁だと思っている人、みたいな。ま、俺が本作で知ったかぶりできたのはそんなところ。
    テープでくっつけただけの隠しマイクが、いつはがれてバレるのかとずっと冷や冷やしていたが、杞憂だった。

     

    「BLACKKKLANSMAN」2018年アメリカ
    監督:スパイク・リー
    出演:ジョン・デヴィッド・ワシントン、アダム・ドライバー、トファー・グレイス


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