映画の感想:カメラを止めるな!

0

     話題作をテレビでやっていたのを見た。(一定間隔で現れる書き出し)
     先に前にも書いたことを繰り返しておくと、予算がなくても、有名俳優が出ていなくても、アイデア次第でヒット作は作れるんだ、という本作を受けて散見した感想はアントワネット的だと思う。予算がない、知名度のある人が出ていないので、アイデア頼みになるほかないだけのこと。自主映画の世界では多かれ少なかれ「アイデア頼み」になる。そうそう冴えた発想なんか見つからないから滑るだけのことである。

     

     俺自身がかつて撮ったときには、ちゃんとしたドラマとといえばいいか、特に奇をてらわずに王道的なものを目指して制作したので、結果、ただの無難で見るべき点も特にない内容になってしまった。今から振り返ると相当に勿体ないことをしたと思う。またやればいいではないかともいえるが、あんな面倒で手間のかかることはそうそうできるものではない。本作を見ると、その大変さが少しは伝わるのではないかと思う。

     

     そのアイデアの1つ、というかこの場合はチャレンジと言った方がいいが、冒頭からの40分長回しになる。CGだ何だという時代にあって、金のない現場で「凄い映像」を撮るのは難しいものだが、長回しは自主映画でもチャレンジできる数少ない「凄い映像」である。舞台をやっているとあんなものは簡単に出来ると思いがちなのが、実際そうもいかないことは何度も経験した。

     役者のみならず、撮る側もミスするから舞台に比べると倍以上の失敗要因が潜在している中でのチャレンジになる。5分でも結構大変なのだから、40分は狂気の沙汰といえる。よくこんなことをやったと頭が下がるが、見る側にとっては10分ワンカットだろうが40分だろうが結構どうぜもいいことなので、「凄い」といっても、それはどちらかといえば内輪受け的性格が強く、見ている方は特段価値を感じてくれない。制作側としては寂しいところだ。

     

     まあこれは特殊効果なんかも同様で、「本当っぽく見える」が見る側の基準値なので、不自然な場合に非難を浴びることはあっても、よくできた場合に称賛されることは少ない。昔、印刷屋で働いているときに似たようなことをよく感じた。世間の人は綺麗に刷られた印刷物に慣れてしまっているから基準値がそこにある。このため、イマイチな刷り具合のときに文句はきても、綺麗に出来たと褒めてくれる客は少ない。

     

     本作の場合、長回し一本勝負ではなく、その後の展開のトリッキーなところが評価を集めた部分になろう。同じ話を舞台裏説明とともに二度繰り返す昔の麒麟の漫才を思い出した。大枠では「ラヂオの時間」のごとく、次々起こるトラブルをどう解決するかといったドタバタである。生放送のラジオの場合、止めることが許されないからドタバタが成立する。映画は本来、いくらでも止められるはずが、「止めることが許されない」状況設定を作るための装置が「長回し」という関係性になっている。わざわざやる意味がある部分がうまい設定だと思うが、一方で、さして新味がない展開だという批判は成立するし、ネット上の感想を見るとやはりそういう趣旨の内容が散見した。

     

     この長回しの難点は、一幕モノの芝居と似たようなところがあって、物語の連続性を保つ点にある。
     三谷幸喜の影響もあり、舞台で一幕モノのドタバタを作りたがる人は一定数いる。俺も学生時代は憧れたものだった。それで大抵陥るのが、のりしろ部分の間延びになる。

     場面転換がないということは、最初から最後まで均質な時間が流れるということを意味する。「翌朝」とか「一方そのころ誰それは」といった時間をジャンプする展開が使えないということだ。このため通常ならAの展開からBの展開へ端折ってつなげてしまえるところを、連続的な時間の中でつなげないといけなため、相当うまくやらないと、間延びがする。自作品にしろ人様の作品にしろ、そういう間延びを目の当たりにすると、一幕にこだわらなくていいじゃんと思えてきて、どんどんと目につく鼻につくのアレルギー反応が強くなってしまった。

     

     本作でも、序盤の「40分」のところでいかにもそのような演劇的な、間延びした無意味なやり取りが目に付き、「なんかシンドイ作品だなあ」と思って見ていたら、そこがトリック(?)の1つだと後でわかってなるほどなあと楽しんだ。その点ではほかの人より倍楽しんだような気がする。
     さて、劇中劇の「40分」の中では、一切の妥協を許さない狂気の監督といったようなある種ステレオタイプ的に登場する主人公であるが、実際には妥協だらけの悲哀の中、小さな仕事をソツなくこなして生きてきた存在として描かれている。監督以外の登場人物も妥協する/しないの2種類に分類されている。妥協の事情が所属芸能事務所の都合だったり、当人の賢しらな演劇理論だったり色々なのだけど、大まかにはこの2つに分けられていて、作品に対してどこまでストイックに追究できるかといった点が1つのテーマになっている。

     冷静に見ると、妥協しないというよりは、ラストの組体操なんかが象徴的なように、より高次の妥協を目指しているだけなのであるが、この手の現場で「妥協しない」がさも恰好いいことのように世の中語られることが多いところ、現実は「妥協しない」を選択できる時点で結構な地位にいるということである。

     

     そういう理屈はいえるものの、現実世界の本邦で、本来「妥協しない」を選択できるはずの、金なり権力なりを持っている場にいる面々が制作している作品は、そろいもそろって本作に登場するチャラいプロデューサーの顔がちらつくような企画ばかり。なので本作の主人公が仮にこのゾンビ生中継映画で出世したとしても、この先劇中劇で演じていた「これが映画だよ!」と狂気をばらまく存在にはなれないのだろう。

     

    2017年日本
    監督:上田慎一郎
    出演: 濱津隆之、真魚、しゅはまはるみ


    コメント
    コメントする








       
    この記事のトラックバックURL
    トラックバック

    calendar

    S M T W T F S
     123456
    78910111213
    14151617181920
    21222324252627
    28293031   
    << July 2019 >>

    selected entries

    categories

    archives

    recent comment

    • お国自慢
      森下
    • お国自慢
      N.Matsuura
    • 「続く」の続き
      KJ
    • 【映画評】キューブ、キューブ2
      森下
    • 【映画評】キューブ、キューブ2
      名無し
    • W杯与太話4.精神力ということについて
      森下
    • W杯与太話4.精神力ということについて
    • 俺ら河内スタジオ入り
      森下
    • 俺ら河内スタジオ入り
      田中新垣悟
    • 本の宣伝

    recent trackback

    recommend

    links

    profile

    search this site.

    others

    mobile

    qrcode

    powered

    無料ブログ作成サービス JUGEM