映画の感想:卒業

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     なまめかしい脚がどーんと手前に配置された写真で有名な古典。今更見た。作品の知名度以上に場面写真がここまで有名な作品も珍しいのではないか。まあ俺が内容をほぼ何も知らないのに写真を知っているというだけのことだが、この写真から想像される展開で半分。残り半分はやばめのストーカー展開だった。正直、なんだこれは、という感想になった。


     いかにも甘っちょろい雰囲気の大学卒業したての若人ベンジャミンが、色気あるマダムに誘われるのだが、いよいよエロいことになるまでには結構長くてじらされる。そのくせいざそういうことになると、濡れ場は特に描かれず肩透かし。ついでにあの有名な写真は、脚線美で誘惑しているのではなく、口論になって帰り支度をしている場面なのだった。

     その点、「E.T.」のポスターの指合わせにちょっと似ている。「そんなシーンはない」というわけでもないのだが、ポスターからイメージされるのとは角度も意味合いもだいぶ違う。本作の場合、結局その場では仲直りして再び服を脱ぎ出すので誘惑効果はあったのかもしれないが。


     その後、マダムの娘と恋に落ちるというおぞましハードな三角関係になり、虻蜂取らず。それでも娘にぞっこんのベンジャミンは付きまとい行為に勤しむ。
     冒頭のシーンによると、彼は卒業の際に親戚や父親の友人が集まって祝賀パーティーを開くような家の産である。世襲議員の家ってこんな感じなのかしら、と、鼻持ちならなさが先に立つのだが、その偏見を裏切らない青二才ぶりのまま話が展開していくので、自身の若いころと重なる部分もないではないが、好感なり共感なりはちっとも持てない。それがストーカーとくれば何をかいわんや。一体これは何の映画だったのだろうと頭を抱えてしまった。


     おそらく本作は、公開当時ならおもしろかったのだが、今となってはその魅力を感じるのは難しいということなのだと思う。ネット上の記事を見ると、公開当時の関口宏の談として「ベンジャミンはもうひとりの僕だった」と紹介しており、全然格好よくない未熟さと危うさばかりが目に付く駄目ぶり&それがゆえの発露としての花嫁強奪という無鉄砲ぶりに、等身大の若者的な共感を抱いたということなのだろう。もしかすると俺がもっと若かったら面白く見たのかもしれないが、未熟な主人公というモチーフはすっかり定番化したところがあるから陳腐に思ったかもしれない。


     こういうことはそれほど珍しいことではない。このブログで取り上げた映画だと、「第三の男」「ある日どこかで」が当てはまる。公開当時に放っていた(と伝え聞く)輝きを今感じるのは難しい。

     ある作品が、時とともに色あせて見えていくのは寂しいことではあるのだが、それだけならまだマシなんだなとここ最近の国際ニュースを見ていると思わされる。

     

     

     「風と共に去りぬ」は個人的には何の思い入れもなく、一度テレビでやっているのを見始めて、主人公にちっとも感情移入できずすぐやめたくらいだ。その後、原作小説が面白おかしく酷評されている文章を読んで、じゃあもう見んで構わんかと結論づけた。

     ただし母親はこの作品が相当好きだったようで、実家には古い箱入りの書籍があるし(なので幼少期からタイトルだけは知っていた)、くだんのボロクソ書評の話を簡単に紹介したら割とマジに憤慨していたものだ。

     存命だったら配信停止のニュースに何を思ったのだろうと想像し、おそらく「時代が違う」とかの凡庸な反論を聞かされるだけだろうなとも思った。あの作品の場合「時代を超える不朽の名曲」扱いになっているからこそ、「時代が違う」が通用しない。ちょうどネットのニュースで「ローリングストーン誌が選ぶ、史上最高のアカデミー受賞・ノミネート作品15選」という記事があって、コロナ禍の中お薦めする旧作という趣旨なのだけど、トップで紹介していたのが「風と共に去りぬ」だった。わざとかなこれ。間抜けなニュースだ。


     作り手がしばしば時代の枠内でしか発想できないのはその通り。差別は絶対に許されないと表明していた手塚治虫も、黒人や台湾原住民の描き方がアウトなのは前にも書いたし、有名な話だ。現代の価値基準で過去作品を判定するのはいかがなものか的指摘には一定の道理がある。
     とはいえ総じて無罪になるわけではないことは、色々な人が色々な指摘をしているわけだが、俺が思うのは「時代が違う」の類の指摘は、時代というものを年表的にとらえ過ぎている点で実態に即していないのではないかという疑念である。年表的とは、1868を境に左を「江戸時代」として赤く塗り、右を「明治時代」として青く塗るような、あたかも社会も人も何もかもがそこできっぱり分かれるような捉え方である。


     志村けんが逝去した後、彼のギャグのうちセクハラ的な部分が昔から苦手だった旨のツイートをいくつか見かけた。お笑いは「昔OKが今アウト」を抱える代表格だと思うが、このツイートからわかるのは堂々と放送されていた時代にもすべて許されていたわけではなく、異議を唱える人(=アウトになって以降の時代の価値観を表明する人)はいたということだ。
     俺も高校生のころ、若手時代のダウンタウンの「あ研究家」の漫才を見て、面白いことを考える人がいるもんだと感心しながら見ていたが、最後に「フィリピン」と言うところで少々興醒めした覚えがある。この漫才に限らず、彼らのギャグの中にはいくつか「フィリピン」を笑いの対象にしているものがあり、当時は許容されていたということだろうが、思春期の俺からすると、当時の社会にあったアジア諸国を見下す態度について、なんとなく嫌だなくらいの感覚はあった。


     人様のことばかりではない。自分の過去の舞台作品にだってダサい無理解がある。その中には全く無自覚なもののあれば(教師の描き方がステレオタイプだとか、あんな女いねーよとか)、何か古臭くてダサいなと自覚しながら他に差し替える労を惜しんでそのままにしたもの(同性愛の描き方がステレオタイプ)もある。いずれも反省しているからその後勉強した。つまり、作り手だって薄々勘づいているパターンも世の中にはあるんじゃないのかしらってこと。

     

     以上のように、違和感のない時代/ある時代がパッキリと分かれているわけではなく、誤差として顧みられなかったかまともに取り合うようになったかの違いである。「風と共に去りぬ」で助演女優賞を受賞しながら不当な扱いを受けたハティ・マクダニエルについて、当時から何かを思っていた人はそれなりにいたのだろう。

     

     本作の場合、「アメリカン・ニューシネマ」とカテゴライズされているように、当時としては新しい価値観を描いてみせた作品であり、若い衆を中心に「新しい」と敏感に反応したのだから、逆「風と共に去りぬ」のような側面があるといえる。そして(おそらく)当時は新鮮だった部分がやがて定番化していくことによって、後代の人間には「なんだこりゃ」になるのは願ったり叶ったりといえばそうなのかもしれない。
     ここまで書いて、古い作品が後の時代にああだこうだ論じられるのは、それが批判的なものであっても作品にとっていいことなのではという気がしてきた。違う角度から論じられる分「当時は高評価だったとしても今はわけわからんな」より余程マシなのかも。掌返しで全然まとまっていない。終わる。


    「The Graduate」1967年アメリカ
    監督:マイク・ニコルズ
    出演:アン・バンクロフト、ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス


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