【巻ギュー充棟】ああ月桂冠に涙

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     大坂なおみの行動が広がりを見せていて、彼女は21世紀のジャッキー・ロビンソンやトミー・スミスになっていくのではないかという印象もあり、今こそ「スゴイニッポン!」「同じ日本人として誇りに思う」の出番ではないかと思うが当然そうはならない(と思ったら、一部そういうことを言っている人もいた模様)。人類全体への問題提起なので民族性に回帰させても意味がないのだが、内弁慶の弱点をよく表しているようにも思う。

     その文脈もあり、さらに中公新書で評伝が出たこともあり、気になって読んだのが本書である。ベルリン五輪男子マラソン金メダリスト、「日本の長距離界」初の金メダリストでもあるランナーの自伝である。

     

     ソウル五輪の前に売れ行きを見込んで出版したのだろう。盧泰愚(当時組織委員長)の序文が寄せられていて、なかなか香ばしい作りになっている。資料価値以上のことをあまり期待せず読み始めたが、ライターの腕がいいのだろう、戦前の半島の様子が活写されており、ベルリン五輪での当人の戦いぶりなんかも手に汗握る筆致で、ノンフィクションとしても読ませる本だった。

     

     驚いたことのひとつは、まず孫氏の見切りの早さである。陸上に打ち込むなんて選択肢が取れそうもない貧困家庭に生まれ育ちながら、才能を見込んだ周囲の支援で人生が転がっていくのであるが、練習に専念できないと見るや、さっさとそこを辞して別の場所を探し求める。不満足でもそこで耐える、という発想は希薄で、悪くいえば実に自分勝手なのだが、そうでないと金メダルなど取れんのかもしれん。
     もうひとつ驚いたのは、ヒトラーと握手をしている点。ヒトラーはジェシー・オーエンスのような黒人メダリストには目もくれなかったのだが、アジア人とは握手したんだな。日独が接近していたから?

     

     孫氏はそのオーエンスや、五輪の記録映画を撮ったことで知られるレニ・リーフェンシュタールとも親交を深めており、やはり金メダリストの地位ってすごいんだなと思わされる。そういうわけで、「栄光のランナー」のスピンオフ作品のようにも読める。

     

     一方、日本国内での地位は低い。当時、日本国内のマラソン大会では孫氏も含めた朝鮮人が上位を占めていた。同じ「日本人」同士、内鮮一体、ともに頑張ろう、などという発想はなく、なるべく半島出身者より本土出身者中心で代表選手を構成しようとセコい画策をしていたようだ。内鮮一体なんて所詮そんなものである。

     

     大日本帝国は、朝鮮半島や台湾を国土としていた分、民族構成の多様さは今のアメリカっぽいところがある。アメリカにおける黒人は「こちらを殺してくるかもしれないアブナイやつ」とみなされ抑圧されるわけだが、当時の日本における朝鮮人は「独立を言い出しかねないアブナイやつ」といったところで、栄冠に輝いた後の孫氏は独立のシンボルになりかねないとして警察にしつこくマークされることになる。しつこく職質されるアメリカの黒人とダブって見えてしまうが、「嫌われる朝青龍」とも少し重なって見えた。

     

     BLMやそれに続く大坂を敵視する日本人がなぜ少なからずいるのか、源流をたどるとこの辺りに行きつくのではないかという気もしてくる。当時、孫氏の優勝に歓喜した日本人はそれなりにいたと思うが、彼の民族アイデンティティの葛藤に想像が及んだ人はどれくらいいたのだろう。大坂の場合、彼女が優勝したことによって、これまで彼女の棄権やBLMについて、他人事のようにしか語れていなかった報道の中にも、ようやく「自分たちの中の差別にも目を向けないといかんのでは」という意見が出始めている。その点では「同じ日本人として誇りに思う」ならぬ「あなたが日本国籍を選んでよかった」とは思う。でも日本社会が孫基禎を改めてとらえなおす、いわばそういうところから始めないといけないんじゃないのかなあ。源流はここなもんで。

     

     本書は孫氏の幼少期から始まっていている。彼の故郷は新義州、つまり北朝鮮側の町である。この時点で戦後の苦難が予想されるわけで、さて孫家はどうなるんだろうと思いながら読んだのだけど、戦後の分断については一応触れられてはいるものの、親族や知人がどうなったのかの説明がほとんどない。いかにも不自然な記述に首を傾げ、ああそうかと序文を寄せた盧泰愚の三文字を見返したのだった。まるで伏線じゃねえか。

     

     ソウル五輪に向かっていた当時の韓国がどういう社会だったかは、「1987」にしっかりと登場する。ああいう時代であれば、こういう記述にならざるを得なかったんだろうな。戦前は日本の警察に口を封じられ、戦後独立しても、やっぱりすべてを語ることはできなかったわけだ(そのあたり、中公新書の評伝を読むと書いているんだろうか。そっちを読んでからまとめて感想を書こうとしたが、とても手が回らなさそうなので本書だけで感想を書いた)。それを考えると、「怖れがあった」といいつつも大坂がしっかりと意思表示をできたことは、それだけでも大変によいことだと思えてしまう。

     

    「ああ月桂冠に涙―孫基禎自伝」講談社1985年


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