タワレコでCDを買ってポスターを貰う、という行為を百年ぶりくらいに経験した。貰ったポスターが、全然飾る気が起きない内容だったというのも含め、ほとんどタイムスリップしたような感慨を覚えた。
ローリングストーンズの新譜だ。アマゾンではとっとと「入荷待ち」になっていた。俺が訪れたタワレコも、店頭の棚にあったのは最後の1枚だった。我も我もと中年以上のおっさんたちが買い求めたのだろう。心なしか微笑ましく眺められているような若い店員の反応を見て思った。
キャラメルやたばこと同じ要領で、透明の包装を剥がして、書籍の帯に相当する背表紙みたいな厚紙を歌詞カードのところに収納し直す。そういえばこんなんだったな、と感慨を覚えるくらい「CD購入」が久々だった。
それで早速聞こうと思ったが、意外な展開でBUCK-TICKばかり聞くことになった。文字通り、舞台上で亡くなったようなものだ。こういうのはしばしばステージに立つ人間の理想とされているが、見ている側のショックは大きいからあんまりいいことでもない。それにしても、80過ぎのじじいが新譜を出したかと思えば、50代が急逝か。
櫻井敦司は、「自分と同じ名前の著名人」として認識した最初の人だった。科学的には渡辺篤史の方を先に見ているはずだが「髭のおっさん」としてしか認識していなかったので「最初」には計上されない。
そして櫻井氏についていえば「こんなやつが名前が一緒とは心外だ」と思ったものだった。バンドブームに乗って出てきたキワモノの1つにしか思えなかったからだ。まさかそれが現在まで生き残るとは、当時誰が予想できたのか。ダイヤモンドバックスの比ではないくらい予想外だ。
解散どころかメンバーチェンジもなく、コンスタントに新譜を出し、武道館で定期的に公演し、というのを続けて36年。かなりの実績だ。バンドブームのころの連中で、これと肩を並べられるのはいない。解散(or解散→復活)がほとんど。であるからして、彼らの実績に匹敵するのはサザンオールスターズくらいだと思うが、サザンと異なり聞き手を選ぶようなナリや曲調だから、そこまで知られていない。
俺の同世代の印象だと、「まだやってたの?」くらいの反応だと思う。訃報の記事で紹介されている曲は「Just One More Kiss」「悪の華」「Jupiter」等、いずれもバンドブームのころの代表作。報道機関の本社のデスクだと俺と同世代なので、若い記者に「お前バクチクっていったらJust One More Kissに決まってるだろ」のように講釈を垂れている図が浮かぶ。正味のところはそこで記憶が止まっているだけだろう。その後たくさん曲を発表しているのに、20代のころに出した曲しか記事に使われないのは気の毒だ。
俺もファンではないが、周囲の人間よりは聞いてきた部類になる。高校の同級生で後に三区から立候補した男がファンで、彼の影響でいくつか聞きかじった。この友人はバンドのボーカルをやっていて、文化祭で当然バクチクをやるのかと思ったら、ウケないと判断したのだろうか、結局暴威をやっていた。
大学のとき、劇団で同じだった河崎の母親がファンで、よく河崎(の母)から新譜のCDを借りていた。俺の場合、周囲の人でファンを公言していたのはこの2人だけだった。30代のころ、マリリンマンソンのライブに行ったら、バクチクが前座で、ライブで初めて彼らを見た。自分よりも若い女性ファンが多かったので、ちゃんと新規の客をつかんでるのかと感心した。女性陣の「あっちゃーん!」という歓声が飛び交う中にいるのは、悪くない経験だった。隣にいた中村氏は退屈そうにしていた。
特にそこまで好きでもないのだが、尊敬はしている。初期のころの彼ら、というかまさに櫻井氏は、とても下手だった。それでステージ上で堂々としていた肝っ玉には敬服するが、歌は聞けたものではなかった。それが継続は力なりを地で行くがごとく、年を重ねてすっかり上手くなった。同じ人間が歌う同じ曲のビフォアアフターがYouTubeで簡単に比較できるので、上手い/下手なボーカルとは、どこに差があるのかがよくわかる稀有なサンプルになっている。
下に参考例をつけた。知ったような物言いを加えておくと、この曲を作った時点で、作り手の脳内では下のような音が流れているのだが、技術がないのでアウトプットが上のようになってしまう。長くやっていると、脳内で鳴っている音を具現化できるようになるんだな。
逆にいえば、これでデビューできているのがブームというもので、見栄えがいいとか、変わったことをやっているとか、なにがしかインパクトがあればデビューさせる。「選択と集中」とは正反対の原理で動いていた。その結果、すぐ消えそうなキワモノに見えた彼らが現れ、そして生き残ったというのは、とても教訓めいている。
うまくなっただけではなく、新しく発表する曲が毎度一定の鮮度を守っていたのも大したものだと思う。作ってる当人ができた作品に驚く、というのがいまだに持続しているのだろう。どれだけ技術が高くても、自分の作品に驚かなくなると、受け手側にもとても退屈に響く。解散前のバンドの作品はたいていそんな具合になる。メンバーの仲が良いというのが、こういう制作過程によい影響を与えてきたのだろう。
やけに顔立ちが整っている年齢不詳の御仁も、60を前にさすがに年相応の部分が混じり始めていた。ここからどういう風に年を取っていくのか興味があったんだけどなあ。
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リーグ優勝決定戦は、アがアストロズ×レンジャース、ナがフィリーズ×ダイヤモンドバックスになった。フィリーズ以外は、南部の屋根付き球場チームである。ア・リーグはテキサス対決だが、直線距離で370キロくらい離れている。函館〜厚岸くらい。北海道は広いな。東京〜京田辺市くらい。わかりにくい。
アストロズがホームで2連敗の後、敵地で3連勝し、そしてまたホームで2連敗してレンジャースが勝った。これはレンジャースにしても、ホームで負けて敵地で勝ったことになるのだが、アストロズはシーズン通して本拠地での勝率が低かったから、アストロズの方が逆内弁慶だったということだ。2019年のナショナルズ戦以来。やはりあのヘンテコな形の球場は選手も嫌いなんじゃねえか。
とにかく7戦まで行ったからよかった。アストロズは、アルトゥーベ、アルバレスが活躍したし、レンジャースもガルシアを筆頭に、シミエン以外は各自それなりに打っていた。つまり、ドジャースやブレーブスと違ってようやくプレーオフらしい試合を見た。ただし、6、7戦はワンサイドゲームでスリリングさはなかった。
ナでは、フィリーズ打線が、ドジャースがまったく打てなかったギャレンをあっさり攻略、ドジャースの何をやってるんだ感が余計に強まる結果となった。昨年のパドレス戦同様、肝心のところで打つハーパーは、ほんまもんだなあと思ったが、ホームに戻ってきた6、7戦では急に存在感がなくなっていた。
打ちまくっていたカステヤノスが打てなくなるのは想定内としても、シュワーバー、ターナー、ハーパーの3人そろって打てなくなっていた。急にブレーブスの呪いにでもかかって怖い夢でも見たのだろうか。こちらも7戦までもつれたのはよいのだが、最後の2戦はあまり面白い試合ではなかった。
フィリーズといえば「熱烈なファン」というのが定型句だが、そのせいかダイヤモンドバックスの優勝セレモニーに居残った客がほとんどいなかった。観客総出のサイレントトリートメント無観客試合のよう。あまりのガラガラぶりが極端で笑った。
というわけで今季のワールドシリーズは、レンジャース×ダイヤモンドバックスとなった。誰が予想できるんだこんなもん。ダイヤモンドバックスには、10月にオフシーズンの予定を立てていた選手もいたというから、当の本人たちがまったくの予想外の由。必然、こちらも去年以上に興味の持ちようが難しい。やはり現行のプレーオフ制度は面白くない。
レンジャースは勝てば初チャンピオンだから、これはこれでよいのだが、観客席にジョージ・ブッシュがいるから萎える。
ダイヤモンドバックスは、これといって目立つ選手がおらず、せいぜい新人王の呼び声高いキャロルくらい。このメンツでどうやって勝ち上がったのだろうという点、2007年のロッキーズに似ているが、小技でいつの間にか同点〜逆転している戦い方は2015年のロイヤルズ風だ。
やはりせめてどっちかは100勝チームじゃないと、何の試合なのかがかすむなあ。結局、威勢のいい名前のチームが残ったから、やはり一番おそろしげな名前のダイヤモンドバックスが優勝するという予想にしておこう。
ガザが再びかまびすしくなっている。若いころ、宗教は怖いなあとか愚かだなあとか愚にもつかぬ感想とともに横目で眺める程度だった。
現在は、「あなたムスタファよ!」と言われたころよりは、ちょっとはものを知った上でニュースを見ている。岡真理氏の講演も映像で見た。上記リンク先、十二支一周前の自分の書いたことを久々に読み返したが、自分の若干の成長を確認できた。
まず思ったのは、EUや加盟諸国の、政府、報道も含め、想像したより浅はかということだった。もう少し慎重で理性的なのかと思ったら、違った。9.11の直後の雰囲気とよく似ていると思った。西ヨーロッパの先進国メディアが、日本のメディアと変わらないような条件反射的な奥行きのない報道をしているのを見せられると、だいぶ精神的にキツいものがある。ただし、アメリカも含め、市民が即座にデモをしたりなんたりで、これらの動きを批判しているのはさすが先進国だと思った。
ネタニヤフ政権が極右のろくでなしなのはわかっていたが、喋っている内容が、まるでカルト宗教でイカれているとしかいいようがない。ついでに国民にも、SNSで嬉々として自演の差別動画を投稿しているのがいる。人間だれしも持っているが普通は隠す醜い部分を、まったく隠さずここまであからさまに開陳できるのは、それだけ関係性が一方的に優位にあるからだろう。この醜悪さは遺体の映像よりもある意味キツい。愚かな国民は外からだとこう見える、というのは他山の石でもある。
極右というのは、宗教上の排他性とワンセットになるのがパターンなようで、現在の日本だと統一協会がまさにあてはまる。これは戦前も同じで、本書は戦前の軍人たちに、オカルトが蔓延していた実態を紀伝体式でまとめている。知らない話だらけだった。
戦前に新興宗教のイメージがあまりないのは、それこそまさに「教科書が教えない」で、日本史の教科書に登場しないからだ。改めて確認したが、山川の教科書に、大本教は登場しない。松本清張を筆頭に、戦前を舞台にしたノンフィクションやフィクションを通じて、実はかなり盛んだったと知ったのは、30をとっくに過ぎてからのことだったように思う。
登場する軍人は、秋山真之や石原莞爾のような大物もいるが、ほとんどはよく知らない将校ばかりだ。彼らがハマるの1つがユダヤ陰謀論だから、イスラエル建国の源流に、うっすら間接的に絡んでいることになる。実態としてはネトウヨが受け売りをばらまくのと同じレベルのようだが。
他は日ユ(日猶)同祖論、大本教とその分派など。いずれも竹内文書を信じていて、日本(天皇)を宇宙の中心に据えているところが共通している。『虹色のトロツキー』に格好よく登場する安江仙弘が、竹内文書をありがたがるおっちょこちょいだったのは初めて知った。
ただし、安江がそうであるように、本書に登場する軍人たちが、日本の政治や軍事を動かす中心をなしていたわけではなく、どちらかというと傍流だらけだ。オカルト活動が問題視されて出世コースから脱落したり、そもそもそこまで出世頭ではなかったりの人が多い。石原莞爾は有名だが、東條英機と対立してわきに追いやられたから同じく傍流みたいなものだ。小磯国昭は首相になるが、敗戦直前のころの首相だからオカルトが炸裂する間もなかったようだ。
そうすると、「軍人の一部におかしなのがいた」で終わってしまう話なのだが、戦前日本の軍事・政治に宗教性がなかったということにはならない。本書に登場する軍人たちの世界観の中心には、至高の存在として天皇がおり、天皇自身がその聖性を否定していないので、いわば巨大な宗教組織の端っこに一部異端の人がいた、くらいの構造である。
本書は最後に昭和天皇をもってきており、結局、ことの中心はここなんだなと再確認させられた。タイトルを見直したら、最初からここに焦点があることがわかる。
自民族中心と他民族蔑視の極右的な視点は、当時の政府中枢、軍部中枢だけでなく、多くの国民も共有していた。当時スマホとSNSがあったら、イスラエル国民のような恥知らずの自演動画を投稿していた国民は一定数いたはずだ。日本はそれで戦争に負けた。その残滓を克服できなかったため、現在は経済が凋落している。
かたやイスラエルは、当時の日本と異なり、国際的に孤立していない。このため敗北することもなければ、残虐行為が裁かれることもないだろう。ただし極右カルトに実務能力がないのは世界共通のようで、何も解決させることはできない。醜い動画を作っている連中が、最終的に報われることもまたないだろう。ただし、本書に登場する軍人たちが総じて長命だったように、パレスチナ人と異なって長生きだけはするんだろうな。
「戦争とオカルティズム 現人神天皇と神憑り軍人」藤巻一保 二見書房2023年
地区シリーズが終了し、舞台はリーグ優勝決定シリーズに移行した。100勝以上したオリオールズ、ブレーブス、ドジャースはいずれも姿を消し、テレビでは「予想外の展開」と評していた。
嘘をつけ。ワイルドカードが勝ち上がることはよくあること。ついでにブレーブスは去年もフィリーズに負けたし、ドジャースだって、相手が違うだけで同地区2位に負けたのは去年と同じだった。今年初めて見始めたのならともかく「予想外」と言ってる人間は去年もちゃんと見ている。予想外だと言いたいなら正しく「去年と同じ結果になるとは予想外」と言うべきだ。こういう文脈を無視して、「100勝チームが敗退→意外」という単純素朴な感想に従うのが正しいとするテレビのお約束芸みたいなものが本当に嫌いだ。
オリオールズは藤浪を外したが、出場したリリーフ勢がまるで藤浪の代わりを務めるかのように制球を乱しまくっていた。そこの?穴?を埋めても仕方がないぞ。打線は多少意地を見せたが、自慢の投手陣が機能せず、3戦スイープ敗退。
それにしても、絆創膏だらけで現れた藤浪が、「転んだ」と語っていたのは、「ドラマに登場するベタな台詞」の典型のようで笑ってしまった。多分、親友か恋人のために夜の盛り場で喧嘩でもしたのだろう。絆創膏だらけで公の場に現れた人は、赤城徳彦以来、16年ぶり2人目。
ブレーブスは記録ずくめの1番打者と本塁打王の2人の打撃が沈黙。ライリー、ダーノウの地味勢が活躍して1勝はしたものの、フィリーズ計20点に対して7点しか取れなかったから、打線の不発ぶりもいいとこだった。
ドジャースも、打線を引っ張る1、2番が不発で、全試合2点ずつしか取れず、相手を零封できる投手もいないため全敗。「打てずにあっさり負ける」の度合が昨年よりひどく、昨年以上にロバーツが迷走するいとまもなかった。
アストロズはツインズに勝利したが、このカードはどちらも地区優勝チームなので、どっちが勝とうと?番狂わせ?扱いにはならない。
さて、どうして100勝チームがこうもあっさり敗退するのだろう。
ワイルドカードシリーズに出なくていいシードのチームは、5日間休みになるので休みすぎの悪影響が出たのでは、と現地では早速、クライマックスシリーズ導入期に日本でなされた議論と同じことになっている。日本だと、最初のうちこそいわゆる「下剋上」がよく起きてたが、その後は1位チームが勝ち抜けるのが普通になった。1位チームに与えられる1勝アドバンテージの効果が大きいってことかしら?
システムの是非はともかく、100勝以上したチームが、接戦の末敗北したならともかく、どうしてこうも無様に負けるのか、その原因が知りたい。「5日空いたから」「100勝もすると油断が生まれるから」とか、それっぽい理由は語られているが、いずれも根拠はない。「予想外!」といいつつ、根拠のない説でその原因考察が終わってしまうのは、結局のところ、勝負事なんだからそんなものだ、科学実験じゃあるまいし明確な原因なんてない、と思っているからだろう。
だけど、こういう不思議に、何か未知の原因があるのでは、と考えるやつがいる、それもめちゃ賢い経歴を持ってるやつがそんなアホなことを考える、というのがアメリカ社会なのだと、この20年ほどで学んだ。
とりあえず、シーズンをぶっちぎったチームは、シャンパンファイトを辞めたらどうか。オリオールズなど地区優勝の前に、プレーオフ進出確定の段階からシャンパンを掛け合っていて藤浪が戸惑っていた。お預けにして、「祝いてえ」という渇望感を持ったままプレーオフに臨んだ方がいいのでは。これもまったく根拠のない思いつきだ。酒をかけ合うという乱痴気のやり方は、なんだか古臭い文化のように見えてきたとは思う。
]]>どこまで具体化しているのか知らないが、聞いてて楽しかった。とんと耳にしなくなった種類の話だったからだ。ひと言でまとめてしまうと「夢がある」。この表現だとにわかに陳腐に見えてしまう。そこで改めて考える。「夢がある」とはどういう状況をいうのだろう。
本作は、タイトル通り、馬に夢をかける話だ。退屈な日常を変えたいと、主人公が馬主を目指し、その夢が転がりだすと周りもハッピーになっていく。こういう説明だといかにもチンケな?イイ話?に映ってしまうが、とてもわくわくする面白い映画だった。
主人公が大まか同世代なので、冒頭で述べたような事情も手伝って、夢を求める部分にとても共感したからだと思う。俺がもっと若かったら、「まあうまく作られた佳作だな」くらいの感想だったかもしれない。
ウェールズの田舎町が舞台だ。陰鬱な空と、草原の青さの組み合わせが、いかにもイメージ通りの風景で惹きつけられる。
ジャンは、早朝からスーパーで働き、夜はパブに勤めている。夫ブライアンは日がなテレビと会話しており夫婦の会話は乏しい。劇中の台詞では、ブライアンはどうやら体を壊して無職になっているようだ。田舎だから家はデカいのだが、全体に貧しさが漂っている。
ジャンの両親はかなり高齢で、寝たきりではないものの、様子見が欠かせない。同居できればジャンももう少し楽なのだが、ブライアンとの折り合いが悪いのでそうもいかない。子供については明確な説明がないが、とにかくこの場にはいない。
ジャンはある時、馬主になることを思い立つ。過去にはドッグレースや鳩レースで優勝した経験があることに加え、田舎町なので家畜を飼うことに不思議がないといった環境であるため、かなり突飛な発想ではあるが、あまり違和感はない。
彼女はまず貯金をはたいて牝馬を購入した。競馬の馬主となるには、この牝馬に競走馬を生ませるわけだが、そのためには血統のいい牡馬の種付けが必要で、当然高額だ。そこでジャンは村人と組合を作って共同で馬主になることを提案する。
複数人が出資し、レースで入賞すればリターンを分配するというわけだ。集まったのは、いずれも中年か高齢の、所得もあまりなさそうな人々。唯一大卒エリートっぽい税理士のハワードは、過去に共同馬主やって失敗した経験があり、「レースで勝てる確率はほとんどないからリターンを期待するな」という。では馬主になるメリットは何だと言えば、「夢」だという。
村人たちは同意し、馬主組合が設立されることになる。彼ら村人がリターンに期待している様子はない。中年以上のメンバーばかりだから、おそらくは期待外れに終わる可能性の方を高く見積もっているだろう。だが楽しそうだ。もちろん「ひょっとしたらひょっとするかも」くらいは脳裏をよぎってワクワクしてはいそうだが、彼らはもっと手前の段階でワクワクしている。
1つには、カレンダーに書き入れる予定ができたこと。もう1つは、金の使い道が生まれたことだ。いずれも、そういうカットがちらっと差し挟まれているが、これが妙に印象的だった。
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当時のブッシュ政権は、遺族が航空会社を提訴してこれら大手が倒産に追い込まれるという事態を避けるため、国が補償すると決めた。主人公である弁護士ファインバーグは、この制度に遺族が同意し申請するよう取り計らう仕事に従事する。無給なので、テロ後のあの雰囲気に背中を押され、居ても立っても居られなくなったのだろうと推察するが、なんでもアメリカの弁護士は年に一定時間は無給の仕事を請け負うものらしい。
中学生のときだったか、事故死か労災死かした人の遺族が損害賠償を求めて――、というニュースを見て、人が死んだことに対して金を払えというのはおかしな話ではないかと思ったことがある。疑問を親にぶつけたら、親父が「金しか解決方法がないからや」と実にあっさりした返答を言い、言われてみればそれもそうかと妙に納得した覚えがある。
ファインバーグも、これと同じような考えをもっている。あまりに予想外の不幸な出来事によって命を奪われるという不条理極まりない現実に対して、何をどうしたって遺族が納得いくことはなく、それこそどうにかできるのは「金しかない」。その「どうにかできる」部分である金について考えましょうよと、彼はそういう提案をしていき、説明会は非難轟轟、大荒れとなる。
この場面で、「ふざけるな!」とファインバーグに怒りをぶつけた一人が、「このユダヤ野郎」と言った途端、それまで同調していた他の遺族たちが一瞬でその男に「おい!」と詰め寄ったのは、さすがアメリカだと思った。
死者は残念ながら甦らないという点で、ファインバーグの提案は、一見?現実的?であるのだが、反発する遺族の気持ちも当然だ。ではどうすればよいのか、どこでファインバーグは間違えたのか、手短にいってしまえばそれは、フェイストゥフェイス、ハートトゥハートで、何の意外性もない展開である。いくらでもチンケな感動秘話に堕してしまいそうだが、そうはなっていない。ここが作品としてのポイントであり、社会のありようを考える上でも重要だと思った。
1人1人に向き合うことの必要性として、まず被害者は実に多様だという点がある。
「被害者1000人ではなく、1人の被害者が千通りある」というような物言いが、災害犠牲者や戦争犠牲者に対してなされることがある。まことその通りだとは思うが、これを言っている当人は、「千通り」をイメージできているだろうか。
事故や事件で死んだ場合の損害賠償額は、遺失利益という考え方で決定される。不慮の死によって勤め上げれば得られたであろう収入を失ったわけだから、その遺失分を定められた計算式によって算出する。こうして算出された額が「少ない」と不満を覚えるケースはあるだろうが、そこを脇に置けば、各自に合わせた補償額が決定される理屈になる。だが現実はもう少しややこしい。
被害者に隠し子がいた場合、その子供には補償は支払われるのか。被害者や遺族が不法移民だったらどうか。被害者に事実婚状態の同性パートナーがいたらその人はもらえるのか。遺失利益は障害がある人だと低く見積もられるがその計算は本当に妥当なのか。
こういった各自それぞれの特殊な事情が本作には登場する。被害の舞台が世界貿易センタービルだから、被害者の年齢層は現役世代に限られるだろうが、だからといって被害者が全員?一般的な?会社員とは限らないのである。
企業の場合、こういう特異なケースは利益にならないと判断すれば違法でない限り無視してしまえるが、行政の仕事はそうはいかない。このため公共的な施策は対象者の幅をどれくらい想定できるかが非常に重要になる。現政権は、その辺りの能力を欠いている上、統一協会という国教によって「あるべき家庭像」が固定的なので、政策内容をハズしまくる。
話が逸れた。
では計算式が高度に設計されていて、レアなケースにも十分配慮した額面が算出できるなら問題はないのかといえば、そうではない。人情としてそれでも不十分だろうとは直観的に何となくわかるが、具体的にどう不足なのか、本作を見て考えさせられた。
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自身の作品の興行収入がさっぱりな映画監督ジワンには、夫と大学生の息子がいて、夫は偉そう&妻の仕事を快く思っていない。息子は可愛げがあるが、夫婦の不仲に対して、母を責めることが多い。仕事が認められず家庭内では孤独。そこに古い映画の修復依頼が舞い込む。
京都文化博物館みたいなフィルムアーカーブ施設が60年代の映画の公開を検討しているのだが、一部音声が抜け落ちており、吹替で補いたいという。『女判事』という当時としては珍しい女性監督が、女性の解放をテーマに制作した作品らしい。同じ女性監督であるジワンにとっては先達になる。作業を始めると、フィルムに一部欠落箇所があることも判明し、ジワンは作品の脚本や欠落部分のフィルムを探しに、当時を知る生き残りに取材を進めていく。
こういう具合のストーリー紹介を読んで、面白そうと感じると同時に難しそうだとも思った。以前も書いたが「映画制作」をテーマにした内容は難しい。劇中に登場する映画をどれくらい紹介すべきかという問題があるからだ。短すぎるとピンとこないし、長すぎると2本立ての映画を見せられたようになってしまう。
本作の場合、『女判事』の扱いはかなり雑だった。これは実在する作品で、監督は韓国で2番目の女性監督らしい。そういういきさつがあるだけに余計に扱いが雑に感じたわけだが、本作の場合、『女判事』以外も、登場する要素の扱いが雑だったり、うまく扱いきれなかったりしている。
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劇場で見るべき映像の作品だから、30年遅れだったが結果オーライだった。役者の美少年が、パトロン的なジジイに性被害に遭うというとてもタイムリーな要素もあった。タイムリーというが、ジャニーズの件も、単に今ようやく報道されるようになっただけで、最初の暴露本が出てから35年なのだった。
中華民国〜日中戦争〜国共内戦〜文革という気が休まらない時代を生きた京劇役者を描いている。1920年代末の生まれと思われるが、この世代は少年時代に満洲事変、十九二十歳で日中戦争、戦後に国共内戦になるから二十代はまるまる戦争で、40前後の成熟期に文化大革命を経験する勘定になる。生まれを呪いそうな世代だ。江沢民、李鵬はこの世代、といっても参考にもならんが。
激動の時代を市井の人間の視点から描いているという点で『悲情城市』と似ている(長さも)。本作の場合は市井の人間とはいえ京劇俳優なので、画面が何かと派手になり、その美しさが見どころとなっている。
この映像美に加え、レスリー・チャン演じる主人公の女形俳優としての妖艶さが作品を牽引するわけだが、振り返ってみると、「激動の時代を生きた人間の一代記」というジャンルが押さえておきたい定番どころをしっかり押さえた手堅い内容だと思うものの、ストーリー自体はそこまでよくできた物語というわけではない。
娼婦が自身の子供を京劇の劇団に託していくところから物語が始まる。この幼児が、強烈な印象を残す天才子役ぶりなのだが、俺は完全に女児だと思っていた。成長して思春期になったくらいを演じているのも、綺麗な顔立ちの細身の少年なので、女子が男子のふりしてるという設定なのかと思っていた。京劇の台詞で「女」というべきところを「男」と間違えるという象徴的な要素が何度か繰り返し登場するが、性別を勘違いしている俺は二重に混乱した。
この成人してからの芸名(?)程蝶衣は、相棒である「石頭」こと段小楼に思慕を抱いており、いわゆる性的マイノリティとしての生きづらさがテーマとなっている。この蝶衣のつらさはよく描けており、歴史の激動と相まって作品に大きなうねりを生み出しているのだけど、一方の小楼はほぼ何も考えてなさそう。
豪放磊落を気取る男性にはありがちな無頓着さとはいえるが、最後まで何も考えていなさそうなのはどうかと思った。これが、手堅いだけの脚本という印象になった最も大きな要素だと思う。蛇足だが、小楼の結婚によって二人の間に亀裂が走り、この後彼らはそれぞれの人生を歩み始めるのかと思いきや、ずーっと近くにいるので中国のくせに狭いなと思ってしまった。
4組とも、2連勝で終了し、3戦目にもつれることはなかった。ブルージェイズのガーズマン、レイズのエフリン、ブリュワーズのバーンズ、いずれも打たれた一方、フィリーズのウィーラー、レンジャーズのイバルディはエースらしい投球だった。短期決戦でのこういう出来不出来の読めなさを見せられるにつけ、プレーオフは壮大なくじ引き大会であるという仮説の信憑性をまたも確認する結果となった。
レイズの敗因は、1戦目でデビルレイズのユニホームを着て臨んだことだ。「デビル」を外して「レイズ」にチーム名を改めたことによって勝ち出したという歴史を忘れたらしい。歴史をないがしろにするものは敗れ去る。見たまえ今の日本社会を。だいたいあのユニホームはダサいじゃないか。
ブルージェイズは、彼らに敗因があるというよりは、ツインズのコレアが活躍したことが大きい。カッコツケマンがかっこいいプレーを連発したので、必然勢いづく。
マーリンズは、単にフィリーズが強かった。ブリュワーズは…、何してんだお前ら。
改めてヤグラを見返すと、青チームが軒並み負けている。そうか今年は青が弱いのか。レンジャーズも青いけど、ここは赤が混じっているから残った。青に勝つのは黄色だというのが、三国志ではおなじみの知識だが、黄色を含むレイズやブリュワーズは敗退しているので、五行説はあてはまらない。北米だし。
ではブレーブス×フィリーズは、赤の分量が多いフィリーズが勝つかといえばそれは早計。勝つのはブレーブスである。だってブレーブス強いじゃん。
ドジャース×ダイヤモンドバックスは、青チームのドジャースが負けるかといえばそれは早計。勝つのはドジャース。だってドジャース強いじゃん。
オリオールズ×レンジャーズは、青がないオリオールズが勝つかといえば、これはそう。だってオリオールズ強いじゃん。
アストロズ×ツインズ。これだけわからない。例年ほど強くないアストロズと、印象より強いツインズ。前田の出来次第じゃないか、と安易に転嫁しておく。
一目見てわかるように、今季のポストシーズンは、動物由来のチーム名が多い。これらの動物で最も強そうなのは「ガラガラヘビ」のダイヤモンドバックスだが、それを言い出すと武装してそうな名前のブレーブスやレンジャーズが強いということになり、さらにいえば「よける人」のドジャースが最強ではないかという頓智か説話のようになる。そして「宇宙」はこの手の議論をすべて無効にしてしまう。アストロズのせいで名前を云々すると白けるところに行きつく。
MLBのチームで動物名なのは案外少ない。あとはタイガース、カブス、カージナルス。ジャイアンツも含め、強そうな名前があまり強くないシーズンだった。以前も書いたが、ホームランが出た際の祝賀儀式が勇ましいところは今季ことどとく弱かった。エンジェルスの兜を筆頭に、マフィアのホワイトソックス、バイキング風兜のレッズ、モリのマリナーズも最後は敗退した。逆にホースで水を飲むオリオールズ、チーズ型の帽子のブリュワーズなどバカっぽいところは勝ち進んでいる。
これを踏まえると、名前が勇ましくないブルージェイズ、オリオールズ、ブリュワーズ、ドジャースが有利といえる。
ア・リーグ
タンパベイ・レイズ×テキサス・レンジャーズのTレ対決。つい東レを思い出す。レイズは、勇ましい名前だったデビルレイズをやめてレイズ(光)に変更したら強くなったという実績がすでにあるので、レンジャーズには分が悪い。
レイズのアロサレーナの腕組みポーズが話題になり、これは勇ましいのでマイナス要因だが、レンジャーズのシーガーはローマ皇帝のような外見をしていて自動的に勇ましいのでやはりレンジャーズが不利。
ミネソタ・ツインズ×トロント・ブルージェイズもT対決である。ツインズは本拠地の街の愛称のようなものが由来。ブルージェイはスズメみたいに街中に生息する小鳥とのこと。都市とスズメで両チームの相性はよさそうであり、引き分けになってしまいそうだ。投手力にはそれほど差がないので、打力で上回るブルージェイズが有利、と普通の分析に逃げる。
まあア・リーグの場合は、アストロズ以外ならどこが勝ち抜けても面白い。もしレイズがリーグ優勝した場合、相手はダイヤモンドバックスだと、最も歴史が浅いチーム同士の対戦となる。マーリンズが相手だと、どっちもフロリダのチームなので、ヤンキース×メッツのサブウェイシリーズよりちまちました印象を受けるが、実際には300キロほど離れている。
ナ・リーグ
片方の山が東地区のクライマックスシリーズのようになっている。この組み合わせならもうブレーブスが勝ち抜けでいいのではと興醒めする。現行のシステムはこうなる可能性はそれなりにあるのではないか。ア・リーグも直前まで、片方の山がオリオールズ、レイズ、ブルージェイズのクライマックスシリーズになりかけていた。ああでも、今季は地区同士の直接対決は少ないから、クライマックスシリーズとは違うのか。
ブレーブスは昨季、フィリーズ相手にいいところなくあっさり敗れた。同じ轍は二度踏まんだろうから、マーリンズの方が足をすくわれそうな印象もある。
フィリーズ×マーリンズは、地元民の愛称×カジキの対決なので、後者の方が勇ましく見えるが、地元愛の方が厄介な方向に勇ましいのでマーリンズが勝つ。そしてブレーブスは一見勇ましい名前だが、白人に迫害された哀しきインディアンたちを指しているのでやはりブレーブスが勝つか。これで負けたら、ガーディアンズ同様、名称変更の検討を開始した方がよい。
もう一方の山は、ブリュワーズがダイヤモンドバックスに勝利。そしてやっぱり柳に風のドジャースが勝利する。プレーオフには劇的に弱いドジャースだが、今季は圧倒的なエースがいないので、監督ロバーツの悪癖「中継ぎを信頼せず先発を突っ込む」を発動させる条件が整っておらず、そうなると負ける要因がぐっと減る。リーグ優勝決定戦は、ブレーブス・オルソン×ドジャース・フリーマンの足長対決となる。
それにしても、どうして中地区はあんなに順位が入れ替わったのか、あるいはマリナーズは急に強くなったのか、納得のいく解説を目にしたことがない。アメリカの報道だとあるのかと思って検索したが、うまいこと見つからなかった。そのうちのたまたま見かけた記事のひとつは、今季のエンジェルスについて「大谷、トラウトのキャリアを台無しにしており、ほとんど組織犯罪だ」と酷評していた。
アメリカのメディアが辛辣なことには驚かないが、アメリカ社会は会話においては京都人のような婉曲表現を好むのだと、現地で働いている日本人のTwitterでしばしば見かける。確かに、インタビューなんかで選手を悪しざまにいう監督はおらず、怒っていてもかなり遠回しな言い方をするもので、日本の監督の方がよほどキツい。メディアの言葉はこれとちょうど逆になる。日本の場合、内輪感が強いからこうなるんだろう。
ナ西
序盤、まさかのダイヤモンドバックスが首位に立ち、常勝ドジャースは低迷していたが、いつの間にやら首位になり、そのまま優勝したのはさすがというほかない。
一方のダイヤモンドバックスは、したたかなジャイアンツにも抜かれ、このまま終わるのかと思ったが持ち直した。打の中心キャロル、投の中心ギャレンのキャギャコンビの活躍が目立った。めちゃくちゃ言いにくいので誰もそんな呼び方はしていない。
パドレスはガッカリだった。連敗したかと思うと11点くらいとって勝ち、また連敗といった弱いチームの典型のようなシーズンだった。なぜか終盤に連勝して勝率5割に戻し、ジャイアンツを追い抜いたが、おせーよというほかない。移籍後ぱっとしてなったスネルが、今季は復活してサイヤング賞確実と言われているが、ダルビッシュは昨季のようには輝けず、何より大金はたいた重量打線が機能しなかった。チーム解体が指摘されているが、まずは編成部門を組み立て直すべきだろう。
ナ中
五胡十六国並みに栄枯盛衰が激しかった地区。パイレーツが首位というまさかの展開で幕を開けたが、案の定といおうか中盤までには失速。かわってレッズがデラクルーズら若手の台頭で首位に立ったが、こちらも長持ちできず。結局経験値に勝る老獪なブリュワーズが優勝した。
「惜しかった」レッズと、「期待外れだった」パドレス、「酷かった」ヤンキース、いずれも82勝80敗で勝ち星が並んでいた。数字は無粋というべきか、印象による評価なんていい加減だというべきか。
カブスは中盤までパッとしなかったが、大詰めにきて鈴木が調子を上げるのに合わせて勝利を重ね、ワイルドカード圏内をキープした。ところが土壇場でプレーオフ進出を逃してしまった。大詰めにきての対戦相手がブレーブスだったから間が悪かった。
鈴木は、ブレーブスとの初戦で痛恨のエラーをしてしまい、結局このカードを3連敗してしまった。いかにも鈴木のせいっぽいのだが、ワンエラーで負けるような接戦だとブレーブスには勝てんのだよ。ブレーブス時代は嫌な場面で打つ曲者臭の強かったスワンソンが、チャンスでことごとく凡退していたから多分彼のせいちゃうかな。
不振過ぎてドジャースをお払い箱になったベリンジャーが復活したのは朗報だった。素人目にはちっとも当たる気のしなかったアッパースイングをやめていたから、素人目が正しかったということだろう。
この戦国な地区にあって、カージナルスは安定して最下位だった。話題は人気者のウェインライトの引退→歌手デビューだけだった。彼の国歌斉唱は、イイ声で巧い方だと思うが、歌手になるといわれると途端に微妙なアラに耳がいって下手に聞こえる。プロはやはり大したものなんだな。
ウェインライトの引退試合では、対戦相手レッズのベテラン、ボットーが審判に抗議して退場になっていた。彼も引退が噂されているというが、退場したまま引退という場合、まるでジダンのような幕切れだ。
ナ東
ここ数年のブレーブスは強いが、今年は特に強すぎた。大谷より10本多く本塁打を打ったオルソンと、「すごい打者」の代名詞「40本塁打40盗塁」ならぬ40本塁打70盗塁を記録したアクーニャJr.の2人に注目が集まっているが、彼らがいなくても優勝していたと思う。強力な若手投手陣の多くは、ドラフトの下位で採った選手だというから、だいぶ進化したスカウト&育成システムを構築してるんだろう。
フィリーズは序盤は低迷していたが、ハーパーの復帰もあってワイルドカードのトップとなった。打率1割台のシュワーバーが、単打より本塁打の方が多いと話題になっていた。結局単打の方が1本だけ多かったようだが、1割台&本塁打40台は史上初とのこと。こういう選手は通常7番くらいに置くと思うが、打順は1番。誰もが岩鬼を思い浮かべる。監督は間違いなく『ドカベン』の愛読者だろう。
マーリンズは、打率4割達成が騒がれたアラエズの打率下降(といっても首位打者だが)とともに失速した。主戦投手のアルカンタラを欠き、アルカンタラの影武者のようなペレスも欠く中で、どうにかワイルドカードに滑り込んだのは見事。
パドレスとガッカリ賞を争うメッツにあって、千賀の好投は数少ない希望。大谷より安定していた。ショウォルター監督は事実上のクビとのことだが、この人は「辞めた後チームが優勝する」でおなじみなので、遠くないうちメッツがブレーブスを撃破するだろう。
]]>ア中
ガーディアンズとの入れ替わりは多少あったものの、ツインズがほぼ首位をキープした。ツインズ以外は勝率5割を切る一方、ア東は全チーム5割以上という状況が長く続くいびつな状態が目立った。今季は地区同士の対戦を減らしたので、中地区のレベルの低さがより一層明らかになってしまった格好。ナ・リーグのチーム含め、地区の組み合わせを変更した方がよいのではないか。
ツインズ前田が手術からようやく復帰。再度のケガもあった中ではよくやった方。プレーオフでは、ドジャース時代同様中継ぎに回される公算のようだが、ドジャース時代の悔しさを少しでも晴らせれば。
ガーディアンズは、エンジェルスが補強失敗によって売りに出した選手を獲得したが、いずれもパっとせず、ガーディアンズにとってもエンジェルスにとっても哀しい結果になってしまった。
ガーディアンズのラミレス×ホワイトソックスのアンダーソンによるボクシングが、この中地区の一番の話題だった。選手同士が口論からつかみ合いになるのは珍しいことではないが、口論になったらなぜか2人ともファイティングポーズをとって間合いを取り出し、これにつられて間に入って止めていた審判もレフリーのポジションに移動している様子が可笑しかった。
昨年のプホルスのごとく、今季で引退のカブレラが終盤にきて活躍し出し、そのせいかタイガースが2位に浮上した。ただし勝率は4割台だが。ファーストの守備の際に、出塁した選手にちょっかいを出すことで有名なカブレラであるが、大谷の陳子をつっついていたことがあり、やってることに古臭さが漂っていた。著名人の訃報の際の定型句に「1つの時代が終わった」があるが(小谷野敦が「どんだけたくさん時代があるんだ」と批判していた)、カブレラの引退によって陳子をつつく時代は終わったといえる。
ア東
レイズの開幕13連勝で始まったが、昨季若手の活躍が目立ったオリオールズが予想以上の強さを発揮し追い抜くと、それ以降は順位をキープし優勝した。藤浪はかなりラッキーな移籍となったわけだが、まったく打てる気がしないときと、まったくストライクが入らないときの高低差はまだ完全には克服できていないので、プレーオフでどれくらい登板機会があるか。
レイズは、マクナラハン、ラスムッセンの若干苗字の難しい主戦投手2人がケガで、フランコが刑事事件疑惑でそれぞれ離脱したから、むしろよくやった方。まあレイズは誰が欠けてもあまり戦力がダウンしない、裏を返すと中心選手がいないのに強い不思議なチームなのだが。
ブルージェイズは一時失速したが、後半は安定してワイルドカード獲得。菊池も渡米後ようやくにして先発らしい働きができたのは何より。プレーオフでも先発登板できるかどうか。
低迷していてもそのうち勝ち出すことでおなじみのヤンキースに、今季はとうとうその機会は訪れなかった。ヒデキの呪いが順調に醸成されておる。最下位&負け越しが懸念された中、それらをどうにか回避したところで多少のヤンキースらしさを見せた。まあ、最下位&負け越しのレッドソックスが定期的に訪れる「らしさ」を発揮したという方が正確だろうが。クビにしたヒックスが、移籍先のオリオールズではのびのびプレーしていたので、ヤンキースは球団内の雰囲気があまり好ましくない状況なのでは。
レッドソックスは開幕から低迷していて、一時はちょっと持ち直したが、結局元の木阿弥で終わった。吉田以下、野手にはそれなりにいい選手はいるはずなんだが、投手陣がエンジェルス並みだった。大型移籍で注目されたものの、ケガで存在を忘れ去られていた感のあるトレバー・ストーリーが戻ってきたのはよいのだが、大して活躍していなかった。
訃報
シーズン最終戦の日に、ティム・ウェイクフィールドの訃報が伝えられた。俺がナックルボールというものを初めて見た投手だった。
パイレーツ時代、シーズン後半から現れ、先発すれば勝つという山本昌と同じデビューの仕方をした。日本の新聞(共同の配信?)では当初、「超スローカーブ」と表現されていて、スローカーブだったら今中だって投げるやんと思ってテレビで見たら、全然違う球だった。
早すぎる死である。ともにレッドソックスの86年ぶり優勝を支えたカート・シリングが脳腫瘍だと病名をバラして顰蹙を買っていたようだ。スティーブ・バノンのフェイクニュースサイトを嬉々としてリツイートしている陰謀論者に成り下がった阿呆だが、こういうときだけホントのこと明かすんだな。
当時キャプテンだったジェイソン・バリテック(捕手)が涙ながらにインタビューに答える映像がレッドソックスのTwitterに投稿されていたが、彼はウェイクフィールドのナックルを捕れなくて違うやつがキャチャーをやってたんじゃなかったっけ。
名投手の惜しまれる死に「1つの時代が終わった」。それを言うなら現役引退のときだろう。
数日前のこと。
朝、臀部に激痛がして起き上がれなかった。姿勢や手をつく位置を微妙に変えたりなんたりでどうにか立ち上がったものの、今度は座るのに一苦労、座ったら座ったで立つのに大仕事。
ただし、これは過去にも二度ほど経験があって、半日もしないうちに痛みは消えていた。今回もどうせ、と思っていたが、3日たっても快癒せず医者に行った。ケガ人リスト入り。これで私も晴れてエンジェルスの一員になれた。処方された漢方を飲んだら1日でかなりマシになった。この漢方を、エンジェルスにもご紹介したい。
昔、アレックス・ロドリゲスがケガをしたとき、日本のスポーツ紙が「臀部の故障」と書いたのを、医者でMLBコラムニストの李啓充が「臀部じゃなくて股関節だ」と和訳の間違いを指摘していた。それを読んだとき、確かに臀部なんて故障しねーだろと思ったものだったが、臀部は故障するのだった。
医者は「身に覚えは?ないですか、まあ後から思い出しますよ」と言い、その予言通り、1つ思い当たった。2日前に実家に帰省し、ママチャリではないどちらかというとスポーツタイプの自転車に乗っていた。普段使ってなさそうな尻の筋肉をいかにも使いそうだ。前にも一度、実家で同じ症状になったこともあるから(そのときはすぐ治った)、原因は多分あれだろう。改めてグーグルマップで距離を計測したら6〜7キロくらいしか走ってないからまさかというところだが、2日遅れで痛くなるというのが時間差的にはいかにも中年のリアルである。
尻の負傷によってせっかくエンジェルス入りできたのに、今季のMLBのレギュラーシーズンが終了した。最終戦までプレーオフ進出決定や順位確定がもつれ込む、接戦の目立つシーズンだった。
ア西
レンジャーズが独走していたが、ケガ人もあって失速する一方、したたかなアストロズがいつの間にか順位を上げていた。マリナーズはトレード期限で売り手側に回ったはずだが昨季同様、終盤から元気になって三つ巴となった。
エンジェルスにすれば、トレード期限の大型補強で三つ巴の一角に入る皮算用だったが、マリナーズにそのポジションをまんまと奪われてしまった。サバイバル映画のように一人また一人とケガで脱落していき、終盤には大谷も脱落。補強のためマイナー落ちしていたフレッチャーやウォルシュが昇格して、去年のラインナップのようになっていた。これだけケガ人が出たのは球団に問題があると考えるべきで、GMと監督を首にした方がよい。(その後、監督だけクビになったと報道あり)
三つ巴のまま、どのチームにも優勝の可能性がある状態で最終戦までもつれ込んだ。惜しくもマリナーズはあと一歩で敗退した。満塁のときの打率がドカベン山田太郎並みの6割超えだったクロフォードのマンガのような活躍が目立ったが、1.2塁だか2,3塁だかの状況では凡打に倒れていた。満塁のときしか活躍しないようだった。これはこれで使いにくそうだ。
終盤で盛り返して首位に返り咲いたレンジャーズだったが、シーズン最終戦でアストロズに首位を奪われワイルドカードに転落してしまった。昨年のメッツのようだ。やはりこの両チームは似ている。ついでに首位打者だったはずのコーリー・シーガーも、最終試合でレイズのディアスに抜かれてしまった。こーりゃーしがたがないでぃあす。
逆に、低迷していたはずなのに、最後の最後で優勝したアストロズは、何とも憎たらしいチームだ。球界一の細長い男タッカーが打点王なので、監督の打線の組み方がうまくいったのだろう。
]]>連休でにぎわう北区梅田1番1号(ラビリンスなしFAKEあり)
くだんの陽気な店主に誘われ、森達也とジュンク堂書店員の対談というのが梅田であり、顔を出した。この書店員の福嶋氏という人も、名前は何度か見かけたことがあるそれなり知られた人で、そちらにも興味があった。
書店の一角にあるスペースが会場で、参加者は劇団ころがる石並みのこじんまりとしたものだった。見るからにいかにもな人たち、それはつまり店主から誘われたに違いない人々が多数を占めていた。こういう内輪感も小劇場の客席のようだ。あまり好きではない。冬だったらスーツでも着て「仕事をサボって来ている一般のファン」を装いたいところだ(全体に服装にあまり頓着しないラフないでたちが相場の人々なので)、と思ったがやらない方がいい。昔々、仕事帰りにスーツで観劇に行ったら、「内輪でない一般の人が来てくれた!」と思われて、主宰がわざわざ挨拶に来たりの歓迎を受けて、やばい、関係者だとバレたら逆恨みされそうだと逃げるように帰ったことがある。
監督も客席を見まわし、「どうやらお知り合いの方が多そうなので、もうこのまま(店主の店に)移動してビール飲みながらでもいいですが」などと軽口を言っている。
対談の議題は、監督が以前に上梓した小説『千代田区一番一号のラビリンス』だったが、すでに述べたように『FAKE』以来、氏の作品は書籍も含め一切触れてきていないので、当然一文字も読んでいない。一文字も読んでいないのに来ている。ラノベみたいな設定で、天皇制という氏らしいテーマを扱ったような内容との由。発想自体は面白そうだ。
氏のこういう場に顔を出すのは2回目。前回は15年前なので、佐伯祐三展と同じスパンだった。テレビではたまに見かけているので特段久しぶりという感覚もなかったが、ついついまったく変化のない毛量に目が行ってしまった。
この福嶋氏は、結構なベテランで、晩年のいとしこいしのような柳に風といった雰囲気だった。多分、当人は何も狙っていないのに、トボけた話しぶりが面白くて聴衆がドっとウケる、そんな魅力的な人だった。
さて会の終盤では、『福田村事件』の話になった。実際の事件を扱いつつ創作が多くを占めることへの批判について、ストーリー上あまり必要とは思えない性描写が目立つ点についてなど説明があった中、報道の話にもなった。
福嶋氏が、新聞社の場面だけ妙に現代的で浮いている印象があったが、あれはわざとか、といった質問を投げかけ、監督がそれに答えた。恩田の衣装はモガを意識しすぎてやり過ぎたなどと述べた後、部長の造形に言及した。
監督の意図としては、売れる/売れないが部長の判断基準としてあったといい、持論に続けた。「なぜ夜のバラエティはくだらないんだ」「なぜニュースは大谷ばかりやるんだ」といえば、売れる(視聴率が取れるから)からであり、逆にいえばそれを求める大衆の要請だ。マスコミがマスゴミであるなら、皆さんもゴミということだ。
聞きながら、そういやこの人、昔からこういう理屈を語ってたなと思い出し、そのたび首を傾げていたことも思い出した。当たっている部分もあるだろうが、少なくとも今の状況分析・現状認識としては甘いと思う。まず話を双方向にしている分、鶏―卵になってしまい話が進まないという問題点があるが、そこはさておく。
この日は日曜だったので、朝に「サンデーモーニング」を放送していた。「風をよむ」という名物的な位置づけのコーナーがある。毎週、異なるテーマでニュース番組としては長めの15分ほどを使って、残り10分弱でコメンテーターが1人ずつコメントする。
このコーナーは最近、しょっちゅうウクライナでの戦争をとり上げているが、「売れるから」が理由だとは考えにくい。国際報道を売りにした番組というわけでもない。国内に利害関係が少ないいわば無難なテーマだからというのが最も可能性が高そうな理由だ。先週もウクライナ情勢で、「ジャニーズじゃねえのかよ」と鼻白んだわけだが、このコーナーにこういう肩透かしはよくあることだ。(これはこれで、戦争をコンテンツとして消費している。それもかなりいびつな形で)
本日はジャニーズの性加害問題をやっていたが、自社も含めたテレビの問題にはまったく触れていなかった。この日ジャニーズをとり上げたことも、自社には触れなかったことも、当然どちらも「売れる」が判断根拠ではない。そしてこういう姿勢はジャニーズの件に限ったことではない。
ところでこの「風をよむ」は、毎度高校生の受験用小論文や、小器用な学生のレポートを思い出す。テーマに関係のありそうなことを次々並べて話を広げ、定型句のような格好でまとめる。学生と違って事実の正確性には慎重だが、発想はよく似ている。
今回はジャニーズをテーマとしながら、日本は全体に人権について国際的に遅れているとして、LGBT関連の法律が原案よりショボい内容になったこと、入管の問題、ジェンダーギャップ指数最下位レベルの問題といった、人権の後進性を並べて、「日本社会の恥の文化」がどうのこうのというユルい学者のコメントを添えて「大きな変化が今、求められています」と締めくくっていた。
このいっちょ上がり感は、レポート採点時のいらいらを思い出す。本題とは別の事象に共通点を見出して横断的に考察することは重要な行為だが、並べるだけなら学生でもできる。あんたがた一応プロでしょ。(森達也風にいうと、学生は写し鑑で、テレビがこうだから真似をしている)
一番似ているのは、原稿を書いている当人の不在である。学生のレポートはしばしば自分が存在しない。例えばまとめに「以上、〇〇という事実が確認できた。しかし××という疑問も残ったため、今後の課題とする必要がある」などと、追加で調べる気など微塵もないのに平気で書く。そうやって書けばまとめっぽくなることは認識していても、それを書いている自分についてはまったく認識していないからである。
ジャニーズをテーマにしながら自社に触れないのは、自己に都合の悪いことは見らんフリをするという人類共通の思考回路の結果であると同時に、自分が存在しないからだとも思う。つまり、売れる/売れないの以前に、勉強が足りないということである。
さて質疑応答となり、真っ先に挙手した人が、今回の対談のテーマである小説についてではなく、『福田村事件』について聞いていた。作中のあるシーンについての意図を問うたのだが、監督は、見た人が考えるべきことだと思うから監督が答えのように言うのはあまり好きでないといい、でもそんなこと言われると困っちゃいますよねと恐縮して、実は撮影の都合でそうなったと、演出ではなく物理的事情の結果だと説明した。「ほら、白けた答えになっちゃうでしょ」と監督は言うが、こういう裏話はおもしろいものだ。「名場面として有名なあのシーンは、実は単に〇〇の都合でそうなっただけ」というのは名作あるあるエピソードだろう。
サイン会になり、いかがなものかと思ったが、まあいいやと居直って小説の方ではなく、映画のパンフレットに書いてもらった。これはこれで映画のパンフの相場価格の倍するんだからいいじゃないか。森達也のサインをもらうのは2度目。前回は混雑していたので、遠慮して時間短縮のため当人の名前だけ書いてもらったが、今回は当方の名前も書いてもらった。そしてパンフのページをめくって寄付者一覧を示して「僕こっちにも名前があります」と言い、監督は痛く恐縮して礼をいってくれた。まあ半分以上、これ目的で来ていた。我ながら下品な人間だと思う。だって誉めて欲しいやん。
福田村事件の登場人物の中で、不満が残ったのがピエール瀧演じる新聞社の「部長」だった。
この映画に新聞社が登場しているのは、虐殺の背景を描く上で欠かせない存在(デマの流布に加担した)であることに加え、今のメディアが抱える問題を問うという意図もある。監督自身がそう言っている(そもそも事件の映画化自体が、現在への問題提起ではあるのだが)。
そのせいか、新聞社の登場人物3人は妙に現代人ぽい。社会問題を扱ったフィクションでは、新聞社の登場人物はしばしば作品から浮く傾向があるが、記者組の主役である恩田を演じている役者のおかげでだいぶ収まりがよくなってはいる。
ただし、対する上司の「部長」の描き方は、今のメディアに物申す的な意図に照らして、描き方が十分といえるかどうか。
部長は恩田に、犯人不詳の凶悪事件の場合は、「主義者か不逞鮮人の仕業か」という締めをつけるよう指示したり、震災後に「朝鮮人が放火や爆弾所持をしている」という内務省の通達を鵜呑みにしていたりする。ただし、どこまで本気で言っているのかは怪しい風で、本心とは別に、新聞社の幹部として仕方なく言っているようにも見える。政府や読者の不興を買わないためにはそうするしかない、といったような?大人の事情?に屈服するような諦観。まずイメージするのはそんなところだろうか。
だが、今のメディアに物申すという目的で彼らを登場させているのであれば、ちょっと違うんじゃないかなあ。この場合、部長=今のメディアになるわけだが、現実に今メディアの現場(の主流)にいる人々に比べると、部長の振舞いは、だいぶ「初期症状」とでもいうのか、実際にはもっとわけのわからない具合に重症だと思う。
監督の森達也によるノンフィクションにはしばしば、テレビ局社員たちが口にする「そういうことになっている」という理屈が登場する。「いやあ、趣旨はわかりますが、こういうのはできないことになってるんですよ」といった、根拠や主語が不明なロジックで自身の企画がボツにされる。言ってる当人は、大人の事情で本心を隠してそう言っているわけではなく、あまり疑問を持たない様子で、何なら偉そうで高圧的な口ぶりなときさえある。せめてこれくらいの感じで描くべきだったと思う。
目下のメディアの問題としてはジャニーズの件がある。特にテレビ局は、問題の片棒を担いだ当事者の1人だから、頬かむりしてなかったことにすることでやり過ごそうとしている。
この話は、論点が多く根も広く深い。1人の男の「鬼畜の所業」だけが問題なのではない。おそらくこの問題を真正面から取り組むと、伊丹万作の予言から日本社会はかなり軌道修正されるような、それくらい重大な話にも思える(ジャニーズがすべての闇の中心にあるとかそういうことではなく、これと共通した構造を持つ問題は他にもいっぱいあって、焦点が当たったのがジャニーズだということ)。だからこそ、政府の感度が鈍いのだろう。
新聞もまた然り。テレビやスポーツ新聞ほどの共存関係や利害関係はないはずだが、どうして今までネグってきたのか。それを大真面目に問い始めると、あれもこれも「同じ構図だ」となって、管理職が処分されるだけでなく、何が起こってるのかついてこれない記者もいっぱい出てきそうだ。すでに「フランス革命が起きたとき、貴族の多くは何が起こってるのかさっぱり理解できなかった」とはこういう感じだろうかというチンケな記事をいくつか見た。
というわけで、本作における部長は、恩田の主張を認めると、色々なことが崩壊してしまうのではないかと恐れるくらいで描くのがよかったのではないか。
大正時代は「大正デモクラシー」という言葉がある通り、民主主義(民本主義)を求めた時期で、本作でも豊原功補演じる村長が、デモクラシーの重要性を説いている。ただし、大正デモクラシーの結実である普通選挙を実施したときの首相である加藤高明が、大隈内閣の外相時代に対華21カ条要求を主導したように、デモクラシーの推進側と対外硬は同居していて、これは政党の源流である自由民権運動のころからそうだった。
だから本作の部長が、「不逞鮮人」云々について何かもっともらしい理屈で正当化や内面化しているのはいくらでもあり得る。自分の差別意識にはまったく無頓着で、恩田の主張がひとつも理解できないように描いてもよかったのではと思う。そういうやつ、今の報道機関にも結構おるやろ。
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