タワレコでCDを買ってポスターを貰う、という行為を百年ぶりくらいに経験した。貰ったポスターが、全然飾る気が起きない内容だったというのも含め、ほとんどタイムスリップしたような感慨を覚えた。
ローリングストーンズの新譜だ。アマゾンではとっとと「入荷待ち」になっていた。俺が訪れたタワレコも、店頭の棚にあったのは最後の1枚だった。我も我もと中年以上のおっさんたちが買い求めたのだろう。心なしか微笑ましく眺められているような若い店員の反応を見て思った。
キャラメルやたばこと同じ要領で、透明の包装を剥がして、書籍の帯に相当する背表紙みたいな厚紙を歌詞カードのところに収納し直す。そういえばこんなんだったな、と感慨を覚えるくらい「CD購入」が久々だった。
それで早速聞こうと思ったが、意外な展開でBUCK-TICKばかり聞くことになった。文字通り、舞台上で亡くなったようなものだ。こういうのはしばしばステージに立つ人間の理想とされているが、見ている側のショックは大きいからあんまりいいことでもない。それにしても、80過ぎのじじいが新譜を出したかと思えば、50代が急逝か。
櫻井敦司は、「自分と同じ名前の著名人」として認識した最初の人だった。科学的には渡辺篤史の方を先に見ているはずだが「髭のおっさん」としてしか認識していなかったので「最初」には計上されない。
そして櫻井氏についていえば「こんなやつが名前が一緒とは心外だ」と思ったものだった。バンドブームに乗って出てきたキワモノの1つにしか思えなかったからだ。まさかそれが現在まで生き残るとは、当時誰が予想できたのか。ダイヤモンドバックスの比ではないくらい予想外だ。
解散どころかメンバーチェンジもなく、コンスタントに新譜を出し、武道館で定期的に公演し、というのを続けて36年。かなりの実績だ。バンドブームのころの連中で、これと肩を並べられるのはいない。解散(or解散→復活)がほとんど。であるからして、彼らの実績に匹敵するのはサザンオールスターズくらいだと思うが、サザンと異なり聞き手を選ぶようなナリや曲調だから、そこまで知られていない。
俺の同世代の印象だと、「まだやってたの?」くらいの反応だと思う。訃報の記事で紹介されている曲は「Just One More Kiss」「悪の華」「Jupiter」等、いずれもバンドブームのころの代表作。報道機関の本社のデスクだと俺と同世代なので、若い記者に「お前バクチクっていったらJust One More Kissに決まってるだろ」のように講釈を垂れている図が浮かぶ。正味のところはそこで記憶が止まっているだけだろう。その後たくさん曲を発表しているのに、20代のころに出した曲しか記事に使われないのは気の毒だ。
俺もファンではないが、周囲の人間よりは聞いてきた部類になる。高校の同級生で後に三区から立候補した男がファンで、彼の影響でいくつか聞きかじった。この友人はバンドのボーカルをやっていて、文化祭で当然バクチクをやるのかと思ったら、ウケないと判断したのだろうか、結局暴威をやっていた。
大学のとき、劇団で同じだった河崎の母親がファンで、よく河崎(の母)から新譜のCDを借りていた。俺の場合、周囲の人でファンを公言していたのはこの2人だけだった。30代のころ、マリリンマンソンのライブに行ったら、バクチクが前座で、ライブで初めて彼らを見た。自分よりも若い女性ファンが多かったので、ちゃんと新規の客をつかんでるのかと感心した。女性陣の「あっちゃーん!」という歓声が飛び交う中にいるのは、悪くない経験だった。隣にいた中村氏は退屈そうにしていた。
特にそこまで好きでもないのだが、尊敬はしている。初期のころの彼ら、というかまさに櫻井氏は、とても下手だった。それでステージ上で堂々としていた肝っ玉には敬服するが、歌は聞けたものではなかった。それが継続は力なりを地で行くがごとく、年を重ねてすっかり上手くなった。同じ人間が歌う同じ曲のビフォアアフターがYouTubeで簡単に比較できるので、上手い/下手なボーカルとは、どこに差があるのかがよくわかる稀有なサンプルになっている。
下に参考例をつけた。知ったような物言いを加えておくと、この曲を作った時点で、作り手の脳内では下のような音が流れているのだが、技術がないのでアウトプットが上のようになってしまう。長くやっていると、脳内で鳴っている音を具現化できるようになるんだな。
逆にいえば、これでデビューできているのがブームというもので、見栄えがいいとか、変わったことをやっているとか、なにがしかインパクトがあればデビューさせる。「選択と集中」とは正反対の原理で動いていた。その結果、すぐ消えそうなキワモノに見えた彼らが現れ、そして生き残ったというのは、とても教訓めいている。
うまくなっただけではなく、新しく発表する曲が毎度一定の鮮度を守っていたのも大したものだと思う。作ってる当人ができた作品に驚く、というのがいまだに持続しているのだろう。どれだけ技術が高くても、自分の作品に驚かなくなると、受け手側にもとても退屈に響く。解散前のバンドの作品はたいていそんな具合になる。メンバーの仲が良いというのが、こういう制作過程によい影響を与えてきたのだろう。
やけに顔立ちが整っている年齢不詳の御仁も、60を前にさすがに年相応の部分が混じり始めていた。ここからどういう風に年を取っていくのか興味があったんだけどなあ。
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リーグ優勝決定戦は、アがアストロズ×レンジャース、ナがフィリーズ×ダイヤモンドバックスになった。フィリーズ以外は、南部の屋根付き球場チームである。ア・リーグはテキサス対決だが、直線距離で370キロくらい離れている。函館〜厚岸くらい。北海道は広いな。東京〜京田辺市くらい。わかりにくい。
アストロズがホームで2連敗の後、敵地で3連勝し、そしてまたホームで2連敗してレンジャースが勝った。これはレンジャースにしても、ホームで負けて敵地で勝ったことになるのだが、アストロズはシーズン通して本拠地での勝率が低かったから、アストロズの方が逆内弁慶だったということだ。2019年のナショナルズ戦以来。やはりあのヘンテコな形の球場は選手も嫌いなんじゃねえか。
とにかく7戦まで行ったからよかった。アストロズは、アルトゥーベ、アルバレスが活躍したし、レンジャースもガルシアを筆頭に、シミエン以外は各自それなりに打っていた。つまり、ドジャースやブレーブスと違ってようやくプレーオフらしい試合を見た。ただし、6、7戦はワンサイドゲームでスリリングさはなかった。
ナでは、フィリーズ打線が、ドジャースがまったく打てなかったギャレンをあっさり攻略、ドジャースの何をやってるんだ感が余計に強まる結果となった。昨年のパドレス戦同様、肝心のところで打つハーパーは、ほんまもんだなあと思ったが、ホームに戻ってきた6、7戦では急に存在感がなくなっていた。
打ちまくっていたカステヤノスが打てなくなるのは想定内としても、シュワーバー、ターナー、ハーパーの3人そろって打てなくなっていた。急にブレーブスの呪いにでもかかって怖い夢でも見たのだろうか。こちらも7戦までもつれたのはよいのだが、最後の2戦はあまり面白い試合ではなかった。
フィリーズといえば「熱烈なファン」というのが定型句だが、そのせいかダイヤモンドバックスの優勝セレモニーに居残った客がほとんどいなかった。観客総出のサイレントトリートメント無観客試合のよう。あまりのガラガラぶりが極端で笑った。
というわけで今季のワールドシリーズは、レンジャース×ダイヤモンドバックスとなった。誰が予想できるんだこんなもん。ダイヤモンドバックスには、10月にオフシーズンの予定を立てていた選手もいたというから、当の本人たちがまったくの予想外の由。必然、こちらも去年以上に興味の持ちようが難しい。やはり現行のプレーオフ制度は面白くない。
レンジャースは勝てば初チャンピオンだから、これはこれでよいのだが、観客席にジョージ・ブッシュがいるから萎える。
ダイヤモンドバックスは、これといって目立つ選手がおらず、せいぜい新人王の呼び声高いキャロルくらい。このメンツでどうやって勝ち上がったのだろうという点、2007年のロッキーズに似ているが、小技でいつの間にか同点〜逆転している戦い方は2015年のロイヤルズ風だ。
やはりせめてどっちかは100勝チームじゃないと、何の試合なのかがかすむなあ。結局、威勢のいい名前のチームが残ったから、やはり一番おそろしげな名前のダイヤモンドバックスが優勝するという予想にしておこう。
ガザが再びかまびすしくなっている。若いころ、宗教は怖いなあとか愚かだなあとか愚にもつかぬ感想とともに横目で眺める程度だった。
現在は、「あなたムスタファよ!」と言われたころよりは、ちょっとはものを知った上でニュースを見ている。岡真理氏の講演も映像で見た。上記リンク先、十二支一周前の自分の書いたことを久々に読み返したが、自分の若干の成長を確認できた。
まず思ったのは、EUや加盟諸国の、政府、報道も含め、想像したより浅はかということだった。もう少し慎重で理性的なのかと思ったら、違った。9.11の直後の雰囲気とよく似ていると思った。西ヨーロッパの先進国メディアが、日本のメディアと変わらないような条件反射的な奥行きのない報道をしているのを見せられると、だいぶ精神的にキツいものがある。ただし、アメリカも含め、市民が即座にデモをしたりなんたりで、これらの動きを批判しているのはさすが先進国だと思った。
ネタニヤフ政権が極右のろくでなしなのはわかっていたが、喋っている内容が、まるでカルト宗教でイカれているとしかいいようがない。ついでに国民にも、SNSで嬉々として自演の差別動画を投稿しているのがいる。人間だれしも持っているが普通は隠す醜い部分を、まったく隠さずここまであからさまに開陳できるのは、それだけ関係性が一方的に優位にあるからだろう。この醜悪さは遺体の映像よりもある意味キツい。愚かな国民は外からだとこう見える、というのは他山の石でもある。
極右というのは、宗教上の排他性とワンセットになるのがパターンなようで、現在の日本だと統一協会がまさにあてはまる。これは戦前も同じで、本書は戦前の軍人たちに、オカルトが蔓延していた実態を紀伝体式でまとめている。知らない話だらけだった。
戦前に新興宗教のイメージがあまりないのは、それこそまさに「教科書が教えない」で、日本史の教科書に登場しないからだ。改めて確認したが、山川の教科書に、大本教は登場しない。松本清張を筆頭に、戦前を舞台にしたノンフィクションやフィクションを通じて、実はかなり盛んだったと知ったのは、30をとっくに過ぎてからのことだったように思う。
登場する軍人は、秋山真之や石原莞爾のような大物もいるが、ほとんどはよく知らない将校ばかりだ。彼らがハマるの1つがユダヤ陰謀論だから、イスラエル建国の源流に、うっすら間接的に絡んでいることになる。実態としてはネトウヨが受け売りをばらまくのと同じレベルのようだが。
他は日ユ(日猶)同祖論、大本教とその分派など。いずれも竹内文書を信じていて、日本(天皇)を宇宙の中心に据えているところが共通している。『虹色のトロツキー』に格好よく登場する安江仙弘が、竹内文書をありがたがるおっちょこちょいだったのは初めて知った。
ただし、安江がそうであるように、本書に登場する軍人たちが、日本の政治や軍事を動かす中心をなしていたわけではなく、どちらかというと傍流だらけだ。オカルト活動が問題視されて出世コースから脱落したり、そもそもそこまで出世頭ではなかったりの人が多い。石原莞爾は有名だが、東條英機と対立してわきに追いやられたから同じく傍流みたいなものだ。小磯国昭は首相になるが、敗戦直前のころの首相だからオカルトが炸裂する間もなかったようだ。
そうすると、「軍人の一部におかしなのがいた」で終わってしまう話なのだが、戦前日本の軍事・政治に宗教性がなかったということにはならない。本書に登場する軍人たちの世界観の中心には、至高の存在として天皇がおり、天皇自身がその聖性を否定していないので、いわば巨大な宗教組織の端っこに一部異端の人がいた、くらいの構造である。
本書は最後に昭和天皇をもってきており、結局、ことの中心はここなんだなと再確認させられた。タイトルを見直したら、最初からここに焦点があることがわかる。
自民族中心と他民族蔑視の極右的な視点は、当時の政府中枢、軍部中枢だけでなく、多くの国民も共有していた。当時スマホとSNSがあったら、イスラエル国民のような恥知らずの自演動画を投稿していた国民は一定数いたはずだ。日本はそれで戦争に負けた。その残滓を克服できなかったため、現在は経済が凋落している。
かたやイスラエルは、当時の日本と異なり、国際的に孤立していない。このため敗北することもなければ、残虐行為が裁かれることもないだろう。ただし極右カルトに実務能力がないのは世界共通のようで、何も解決させることはできない。醜い動画を作っている連中が、最終的に報われることもまたないだろう。ただし、本書に登場する軍人たちが総じて長命だったように、パレスチナ人と異なって長生きだけはするんだろうな。
「戦争とオカルティズム 現人神天皇と神憑り軍人」藤巻一保 二見書房2023年
地区シリーズが終了し、舞台はリーグ優勝決定シリーズに移行した。100勝以上したオリオールズ、ブレーブス、ドジャースはいずれも姿を消し、テレビでは「予想外の展開」と評していた。
嘘をつけ。ワイルドカードが勝ち上がることはよくあること。ついでにブレーブスは去年もフィリーズに負けたし、ドジャースだって、相手が違うだけで同地区2位に負けたのは去年と同じだった。今年初めて見始めたのならともかく「予想外」と言ってる人間は去年もちゃんと見ている。予想外だと言いたいなら正しく「去年と同じ結果になるとは予想外」と言うべきだ。こういう文脈を無視して、「100勝チームが敗退→意外」という単純素朴な感想に従うのが正しいとするテレビのお約束芸みたいなものが本当に嫌いだ。
オリオールズは藤浪を外したが、出場したリリーフ勢がまるで藤浪の代わりを務めるかのように制球を乱しまくっていた。そこの?穴?を埋めても仕方がないぞ。打線は多少意地を見せたが、自慢の投手陣が機能せず、3戦スイープ敗退。
それにしても、絆創膏だらけで現れた藤浪が、「転んだ」と語っていたのは、「ドラマに登場するベタな台詞」の典型のようで笑ってしまった。多分、親友か恋人のために夜の盛り場で喧嘩でもしたのだろう。絆創膏だらけで公の場に現れた人は、赤城徳彦以来、16年ぶり2人目。
ブレーブスは記録ずくめの1番打者と本塁打王の2人の打撃が沈黙。ライリー、ダーノウの地味勢が活躍して1勝はしたものの、フィリーズ計20点に対して7点しか取れなかったから、打線の不発ぶりもいいとこだった。
ドジャースも、打線を引っ張る1、2番が不発で、全試合2点ずつしか取れず、相手を零封できる投手もいないため全敗。「打てずにあっさり負ける」の度合が昨年よりひどく、昨年以上にロバーツが迷走するいとまもなかった。
アストロズはツインズに勝利したが、このカードはどちらも地区優勝チームなので、どっちが勝とうと?番狂わせ?扱いにはならない。
さて、どうして100勝チームがこうもあっさり敗退するのだろう。
ワイルドカードシリーズに出なくていいシードのチームは、5日間休みになるので休みすぎの悪影響が出たのでは、と現地では早速、クライマックスシリーズ導入期に日本でなされた議論と同じことになっている。日本だと、最初のうちこそいわゆる「下剋上」がよく起きてたが、その後は1位チームが勝ち抜けるのが普通になった。1位チームに与えられる1勝アドバンテージの効果が大きいってことかしら?
システムの是非はともかく、100勝以上したチームが、接戦の末敗北したならともかく、どうしてこうも無様に負けるのか、その原因が知りたい。「5日空いたから」「100勝もすると油断が生まれるから」とか、それっぽい理由は語られているが、いずれも根拠はない。「予想外!」といいつつ、根拠のない説でその原因考察が終わってしまうのは、結局のところ、勝負事なんだからそんなものだ、科学実験じゃあるまいし明確な原因なんてない、と思っているからだろう。
だけど、こういう不思議に、何か未知の原因があるのでは、と考えるやつがいる、それもめちゃ賢い経歴を持ってるやつがそんなアホなことを考える、というのがアメリカ社会なのだと、この20年ほどで学んだ。
とりあえず、シーズンをぶっちぎったチームは、シャンパンファイトを辞めたらどうか。オリオールズなど地区優勝の前に、プレーオフ進出確定の段階からシャンパンを掛け合っていて藤浪が戸惑っていた。お預けにして、「祝いてえ」という渇望感を持ったままプレーオフに臨んだ方がいいのでは。これもまったく根拠のない思いつきだ。酒をかけ合うという乱痴気のやり方は、なんだか古臭い文化のように見えてきたとは思う。
]]>どこまで具体化しているのか知らないが、聞いてて楽しかった。とんと耳にしなくなった種類の話だったからだ。ひと言でまとめてしまうと「夢がある」。この表現だとにわかに陳腐に見えてしまう。そこで改めて考える。「夢がある」とはどういう状況をいうのだろう。
本作は、タイトル通り、馬に夢をかける話だ。退屈な日常を変えたいと、主人公が馬主を目指し、その夢が転がりだすと周りもハッピーになっていく。こういう説明だといかにもチンケな?イイ話?に映ってしまうが、とてもわくわくする面白い映画だった。
主人公が大まか同世代なので、冒頭で述べたような事情も手伝って、夢を求める部分にとても共感したからだと思う。俺がもっと若かったら、「まあうまく作られた佳作だな」くらいの感想だったかもしれない。
ウェールズの田舎町が舞台だ。陰鬱な空と、草原の青さの組み合わせが、いかにもイメージ通りの風景で惹きつけられる。
ジャンは、早朝からスーパーで働き、夜はパブに勤めている。夫ブライアンは日がなテレビと会話しており夫婦の会話は乏しい。劇中の台詞では、ブライアンはどうやら体を壊して無職になっているようだ。田舎だから家はデカいのだが、全体に貧しさが漂っている。
ジャンの両親はかなり高齢で、寝たきりではないものの、様子見が欠かせない。同居できればジャンももう少し楽なのだが、ブライアンとの折り合いが悪いのでそうもいかない。子供については明確な説明がないが、とにかくこの場にはいない。
ジャンはある時、馬主になることを思い立つ。過去にはドッグレースや鳩レースで優勝した経験があることに加え、田舎町なので家畜を飼うことに不思議がないといった環境であるため、かなり突飛な発想ではあるが、あまり違和感はない。
彼女はまず貯金をはたいて牝馬を購入した。競馬の馬主となるには、この牝馬に競走馬を生ませるわけだが、そのためには血統のいい牡馬の種付けが必要で、当然高額だ。そこでジャンは村人と組合を作って共同で馬主になることを提案する。
複数人が出資し、レースで入賞すればリターンを分配するというわけだ。集まったのは、いずれも中年か高齢の、所得もあまりなさそうな人々。唯一大卒エリートっぽい税理士のハワードは、過去に共同馬主やって失敗した経験があり、「レースで勝てる確率はほとんどないからリターンを期待するな」という。では馬主になるメリットは何だと言えば、「夢」だという。
村人たちは同意し、馬主組合が設立されることになる。彼ら村人がリターンに期待している様子はない。中年以上のメンバーばかりだから、おそらくは期待外れに終わる可能性の方を高く見積もっているだろう。だが楽しそうだ。もちろん「ひょっとしたらひょっとするかも」くらいは脳裏をよぎってワクワクしてはいそうだが、彼らはもっと手前の段階でワクワクしている。
1つには、カレンダーに書き入れる予定ができたこと。もう1つは、金の使い道が生まれたことだ。いずれも、そういうカットがちらっと差し挟まれているが、これが妙に印象的だった。
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当時のブッシュ政権は、遺族が航空会社を提訴してこれら大手が倒産に追い込まれるという事態を避けるため、国が補償すると決めた。主人公である弁護士ファインバーグは、この制度に遺族が同意し申請するよう取り計らう仕事に従事する。無給なので、テロ後のあの雰囲気に背中を押され、居ても立っても居られなくなったのだろうと推察するが、なんでもアメリカの弁護士は年に一定時間は無給の仕事を請け負うものらしい。
中学生のときだったか、事故死か労災死かした人の遺族が損害賠償を求めて――、というニュースを見て、人が死んだことに対して金を払えというのはおかしな話ではないかと思ったことがある。疑問を親にぶつけたら、親父が「金しか解決方法がないからや」と実にあっさりした返答を言い、言われてみればそれもそうかと妙に納得した覚えがある。
ファインバーグも、これと同じような考えをもっている。あまりに予想外の不幸な出来事によって命を奪われるという不条理極まりない現実に対して、何をどうしたって遺族が納得いくことはなく、それこそどうにかできるのは「金しかない」。その「どうにかできる」部分である金について考えましょうよと、彼はそういう提案をしていき、説明会は非難轟轟、大荒れとなる。
この場面で、「ふざけるな!」とファインバーグに怒りをぶつけた一人が、「このユダヤ野郎」と言った途端、それまで同調していた他の遺族たちが一瞬でその男に「おい!」と詰め寄ったのは、さすがアメリカだと思った。
死者は残念ながら甦らないという点で、ファインバーグの提案は、一見?現実的?であるのだが、反発する遺族の気持ちも当然だ。ではどうすればよいのか、どこでファインバーグは間違えたのか、手短にいってしまえばそれは、フェイストゥフェイス、ハートトゥハートで、何の意外性もない展開である。いくらでもチンケな感動秘話に堕してしまいそうだが、そうはなっていない。ここが作品としてのポイントであり、社会のありようを考える上でも重要だと思った。
1人1人に向き合うことの必要性として、まず被害者は実に多様だという点がある。
「被害者1000人ではなく、1人の被害者が千通りある」というような物言いが、災害犠牲者や戦争犠牲者に対してなされることがある。まことその通りだとは思うが、これを言っている当人は、「千通り」をイメージできているだろうか。
事故や事件で死んだ場合の損害賠償額は、遺失利益という考え方で決定される。不慮の死によって勤め上げれば得られたであろう収入を失ったわけだから、その遺失分を定められた計算式によって算出する。こうして算出された額が「少ない」と不満を覚えるケースはあるだろうが、そこを脇に置けば、各自に合わせた補償額が決定される理屈になる。だが現実はもう少しややこしい。
被害者に隠し子がいた場合、その子供には補償は支払われるのか。被害者や遺族が不法移民だったらどうか。被害者に事実婚状態の同性パートナーがいたらその人はもらえるのか。遺失利益は障害がある人だと低く見積もられるがその計算は本当に妥当なのか。
こういった各自それぞれの特殊な事情が本作には登場する。被害の舞台が世界貿易センタービルだから、被害者の年齢層は現役世代に限られるだろうが、だからといって被害者が全員?一般的な?会社員とは限らないのである。
企業の場合、こういう特異なケースは利益にならないと判断すれば違法でない限り無視してしまえるが、行政の仕事はそうはいかない。このため公共的な施策は対象者の幅をどれくらい想定できるかが非常に重要になる。現政権は、その辺りの能力を欠いている上、統一協会という国教によって「あるべき家庭像」が固定的なので、政策内容をハズしまくる。
話が逸れた。
では計算式が高度に設計されていて、レアなケースにも十分配慮した額面が算出できるなら問題はないのかといえば、そうではない。人情としてそれでも不十分だろうとは直観的に何となくわかるが、具体的にどう不足なのか、本作を見て考えさせられた。
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自身の作品の興行収入がさっぱりな映画監督ジワンには、夫と大学生の息子がいて、夫は偉そう&妻の仕事を快く思っていない。息子は可愛げがあるが、夫婦の不仲に対して、母を責めることが多い。仕事が認められず家庭内では孤独。そこに古い映画の修復依頼が舞い込む。
京都文化博物館みたいなフィルムアーカーブ施設が60年代の映画の公開を検討しているのだが、一部音声が抜け落ちており、吹替で補いたいという。『女判事』という当時としては珍しい女性監督が、女性の解放をテーマに制作した作品らしい。同じ女性監督であるジワンにとっては先達になる。作業を始めると、フィルムに一部欠落箇所があることも判明し、ジワンは作品の脚本や欠落部分のフィルムを探しに、当時を知る生き残りに取材を進めていく。
こういう具合のストーリー紹介を読んで、面白そうと感じると同時に難しそうだとも思った。以前も書いたが「映画制作」をテーマにした内容は難しい。劇中に登場する映画をどれくらい紹介すべきかという問題があるからだ。短すぎるとピンとこないし、長すぎると2本立ての映画を見せられたようになってしまう。
本作の場合、『女判事』の扱いはかなり雑だった。これは実在する作品で、監督は韓国で2番目の女性監督らしい。そういういきさつがあるだけに余計に扱いが雑に感じたわけだが、本作の場合、『女判事』以外も、登場する要素の扱いが雑だったり、うまく扱いきれなかったりしている。
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劇場で見るべき映像の作品だから、30年遅れだったが結果オーライだった。役者の美少年が、パトロン的なジジイに性被害に遭うというとてもタイムリーな要素もあった。タイムリーというが、ジャニーズの件も、単に今ようやく報道されるようになっただけで、最初の暴露本が出てから35年なのだった。
中華民国〜日中戦争〜国共内戦〜文革という気が休まらない時代を生きた京劇役者を描いている。1920年代末の生まれと思われるが、この世代は少年時代に満洲事変、十九二十歳で日中戦争、戦後に国共内戦になるから二十代はまるまる戦争で、40前後の成熟期に文化大革命を経験する勘定になる。生まれを呪いそうな世代だ。江沢民、李鵬はこの世代、といっても参考にもならんが。
激動の時代を市井の人間の視点から描いているという点で『悲情城市』と似ている(長さも)。本作の場合は市井の人間とはいえ京劇俳優なので、画面が何かと派手になり、その美しさが見どころとなっている。
この映像美に加え、レスリー・チャン演じる主人公の女形俳優としての妖艶さが作品を牽引するわけだが、振り返ってみると、「激動の時代を生きた人間の一代記」というジャンルが押さえておきたい定番どころをしっかり押さえた手堅い内容だと思うものの、ストーリー自体はそこまでよくできた物語というわけではない。
娼婦が自身の子供を京劇の劇団に託していくところから物語が始まる。この幼児が、強烈な印象を残す天才子役ぶりなのだが、俺は完全に女児だと思っていた。成長して思春期になったくらいを演じているのも、綺麗な顔立ちの細身の少年なので、女子が男子のふりしてるという設定なのかと思っていた。京劇の台詞で「女」というべきところを「男」と間違えるという象徴的な要素が何度か繰り返し登場するが、性別を勘違いしている俺は二重に混乱した。
この成人してからの芸名(?)程蝶衣は、相棒である「石頭」こと段小楼に思慕を抱いており、いわゆる性的マイノリティとしての生きづらさがテーマとなっている。この蝶衣のつらさはよく描けており、歴史の激動と相まって作品に大きなうねりを生み出しているのだけど、一方の小楼はほぼ何も考えてなさそう。
豪放磊落を気取る男性にはありがちな無頓着さとはいえるが、最後まで何も考えていなさそうなのはどうかと思った。これが、手堅いだけの脚本という印象になった最も大きな要素だと思う。蛇足だが、小楼の結婚によって二人の間に亀裂が走り、この後彼らはそれぞれの人生を歩み始めるのかと思いきや、ずーっと近くにいるので中国のくせに狭いなと思ってしまった。
4組とも、2連勝で終了し、3戦目にもつれることはなかった。ブルージェイズのガーズマン、レイズのエフリン、ブリュワーズのバーンズ、いずれも打たれた一方、フィリーズのウィーラー、レンジャーズのイバルディはエースらしい投球だった。短期決戦でのこういう出来不出来の読めなさを見せられるにつけ、プレーオフは壮大なくじ引き大会であるという仮説の信憑性をまたも確認する結果となった。
レイズの敗因は、1戦目でデビルレイズのユニホームを着て臨んだことだ。「デビル」を外して「レイズ」にチーム名を改めたことによって勝ち出したという歴史を忘れたらしい。歴史をないがしろにするものは敗れ去る。見たまえ今の日本社会を。だいたいあのユニホームはダサいじゃないか。
ブルージェイズは、彼らに敗因があるというよりは、ツインズのコレアが活躍したことが大きい。カッコツケマンがかっこいいプレーを連発したので、必然勢いづく。
マーリンズは、単にフィリーズが強かった。ブリュワーズは…、何してんだお前ら。
改めてヤグラを見返すと、青チームが軒並み負けている。そうか今年は青が弱いのか。レンジャーズも青いけど、ここは赤が混じっているから残った。青に勝つのは黄色だというのが、三国志ではおなじみの知識だが、黄色を含むレイズやブリュワーズは敗退しているので、五行説はあてはまらない。北米だし。
ではブレーブス×フィリーズは、赤の分量が多いフィリーズが勝つかといえばそれは早計。勝つのはブレーブスである。だってブレーブス強いじゃん。
ドジャース×ダイヤモンドバックスは、青チームのドジャースが負けるかといえばそれは早計。勝つのはドジャース。だってドジャース強いじゃん。
オリオールズ×レンジャーズは、青がないオリオールズが勝つかといえば、これはそう。だってオリオールズ強いじゃん。
アストロズ×ツインズ。これだけわからない。例年ほど強くないアストロズと、印象より強いツインズ。前田の出来次第じゃないか、と安易に転嫁しておく。
一目見てわかるように、今季のポストシーズンは、動物由来のチーム名が多い。これらの動物で最も強そうなのは「ガラガラヘビ」のダイヤモンドバックスだが、それを言い出すと武装してそうな名前のブレーブスやレンジャーズが強いということになり、さらにいえば「よける人」のドジャースが最強ではないかという頓智か説話のようになる。そして「宇宙」はこの手の議論をすべて無効にしてしまう。アストロズのせいで名前を云々すると白けるところに行きつく。
MLBのチームで動物名なのは案外少ない。あとはタイガース、カブス、カージナルス。ジャイアンツも含め、強そうな名前があまり強くないシーズンだった。以前も書いたが、ホームランが出た際の祝賀儀式が勇ましいところは今季ことどとく弱かった。エンジェルスの兜を筆頭に、マフィアのホワイトソックス、バイキング風兜のレッズ、モリのマリナーズも最後は敗退した。逆にホースで水を飲むオリオールズ、チーズ型の帽子のブリュワーズなどバカっぽいところは勝ち進んでいる。
これを踏まえると、名前が勇ましくないブルージェイズ、オリオールズ、ブリュワーズ、ドジャースが有利といえる。
ア・リーグ
タンパベイ・レイズ×テキサス・レンジャーズのTレ対決。つい東レを思い出す。レイズは、勇ましい名前だったデビルレイズをやめてレイズ(光)に変更したら強くなったという実績がすでにあるので、レンジャーズには分が悪い。
レイズのアロサレーナの腕組みポーズが話題になり、これは勇ましいのでマイナス要因だが、レンジャーズのシーガーはローマ皇帝のような外見をしていて自動的に勇ましいのでやはりレンジャーズが不利。
ミネソタ・ツインズ×トロント・ブルージェイズもT対決である。ツインズは本拠地の街の愛称のようなものが由来。ブルージェイはスズメみたいに街中に生息する小鳥とのこと。都市とスズメで両チームの相性はよさそうであり、引き分けになってしまいそうだ。投手力にはそれほど差がないので、打力で上回るブルージェイズが有利、と普通の分析に逃げる。
まあア・リーグの場合は、アストロズ以外ならどこが勝ち抜けても面白い。もしレイズがリーグ優勝した場合、相手はダイヤモンドバックスだと、最も歴史が浅いチーム同士の対戦となる。マーリンズが相手だと、どっちもフロリダのチームなので、ヤンキース×メッツのサブウェイシリーズよりちまちました印象を受けるが、実際には300キロほど離れている。
ナ・リーグ
片方の山が東地区のクライマックスシリーズのようになっている。この組み合わせならもうブレーブスが勝ち抜けでいいのではと興醒めする。現行のシステムはこうなる可能性はそれなりにあるのではないか。ア・リーグも直前まで、片方の山がオリオールズ、レイズ、ブルージェイズのクライマックスシリーズになりかけていた。ああでも、今季は地区同士の直接対決は少ないから、クライマックスシリーズとは違うのか。
ブレーブスは昨季、フィリーズ相手にいいところなくあっさり敗れた。同じ轍は二度踏まんだろうから、マーリンズの方が足をすくわれそうな印象もある。
フィリーズ×マーリンズは、地元民の愛称×カジキの対決なので、後者の方が勇ましく見えるが、地元愛の方が厄介な方向に勇ましいのでマーリンズが勝つ。そしてブレーブスは一見勇ましい名前だが、白人に迫害された哀しきインディアンたちを指しているのでやはりブレーブスが勝つか。これで負けたら、ガーディアンズ同様、名称変更の検討を開始した方がよい。
もう一方の山は、ブリュワーズがダイヤモンドバックスに勝利。そしてやっぱり柳に風のドジャースが勝利する。プレーオフには劇的に弱いドジャースだが、今季は圧倒的なエースがいないので、監督ロバーツの悪癖「中継ぎを信頼せず先発を突っ込む」を発動させる条件が整っておらず、そうなると負ける要因がぐっと減る。リーグ優勝決定戦は、ブレーブス・オルソン×ドジャース・フリーマンの足長対決となる。
それにしても、どうして中地区はあんなに順位が入れ替わったのか、あるいはマリナーズは急に強くなったのか、納得のいく解説を目にしたことがない。アメリカの報道だとあるのかと思って検索したが、うまいこと見つからなかった。そのうちのたまたま見かけた記事のひとつは、今季のエンジェルスについて「大谷、トラウトのキャリアを台無しにしており、ほとんど組織犯罪だ」と酷評していた。
アメリカのメディアが辛辣なことには驚かないが、アメリカ社会は会話においては京都人のような婉曲表現を好むのだと、現地で働いている日本人のTwitterでしばしば見かける。確かに、インタビューなんかで選手を悪しざまにいう監督はおらず、怒っていてもかなり遠回しな言い方をするもので、日本の監督の方がよほどキツい。メディアの言葉はこれとちょうど逆になる。日本の場合、内輪感が強いからこうなるんだろう。
ナ西
序盤、まさかのダイヤモンドバックスが首位に立ち、常勝ドジャースは低迷していたが、いつの間にやら首位になり、そのまま優勝したのはさすがというほかない。
一方のダイヤモンドバックスは、したたかなジャイアンツにも抜かれ、このまま終わるのかと思ったが持ち直した。打の中心キャロル、投の中心ギャレンのキャギャコンビの活躍が目立った。めちゃくちゃ言いにくいので誰もそんな呼び方はしていない。
パドレスはガッカリだった。連敗したかと思うと11点くらいとって勝ち、また連敗といった弱いチームの典型のようなシーズンだった。なぜか終盤に連勝して勝率5割に戻し、ジャイアンツを追い抜いたが、おせーよというほかない。移籍後ぱっとしてなったスネルが、今季は復活してサイヤング賞確実と言われているが、ダルビッシュは昨季のようには輝けず、何より大金はたいた重量打線が機能しなかった。チーム解体が指摘されているが、まずは編成部門を組み立て直すべきだろう。
ナ中
五胡十六国並みに栄枯盛衰が激しかった地区。パイレーツが首位というまさかの展開で幕を開けたが、案の定といおうか中盤までには失速。かわってレッズがデラクルーズら若手の台頭で首位に立ったが、こちらも長持ちできず。結局経験値に勝る老獪なブリュワーズが優勝した。
「惜しかった」レッズと、「期待外れだった」パドレス、「酷かった」ヤンキース、いずれも82勝80敗で勝ち星が並んでいた。数字は無粋というべきか、印象による評価なんていい加減だというべきか。
カブスは中盤までパッとしなかったが、大詰めにきて鈴木が調子を上げるのに合わせて勝利を重ね、ワイルドカード圏内をキープした。ところが土壇場でプレーオフ進出を逃してしまった。大詰めにきての対戦相手がブレーブスだったから間が悪かった。
鈴木は、ブレーブスとの初戦で痛恨のエラーをしてしまい、結局このカードを3連敗してしまった。いかにも鈴木のせいっぽいのだが、ワンエラーで負けるような接戦だとブレーブスには勝てんのだよ。ブレーブス時代は嫌な場面で打つ曲者臭の強かったスワンソンが、チャンスでことごとく凡退していたから多分彼のせいちゃうかな。
不振過ぎてドジャースをお払い箱になったベリンジャーが復活したのは朗報だった。素人目にはちっとも当たる気のしなかったアッパースイングをやめていたから、素人目が正しかったということだろう。
この戦国な地区にあって、カージナルスは安定して最下位だった。話題は人気者のウェインライトの引退→歌手デビューだけだった。彼の国歌斉唱は、イイ声で巧い方だと思うが、歌手になるといわれると途端に微妙なアラに耳がいって下手に聞こえる。プロはやはり大したものなんだな。
ウェインライトの引退試合では、対戦相手レッズのベテラン、ボットーが審判に抗議して退場になっていた。彼も引退が噂されているというが、退場したまま引退という場合、まるでジダンのような幕切れだ。
ナ東
ここ数年のブレーブスは強いが、今年は特に強すぎた。大谷より10本多く本塁打を打ったオルソンと、「すごい打者」の代名詞「40本塁打40盗塁」ならぬ40本塁打70盗塁を記録したアクーニャJr.の2人に注目が集まっているが、彼らがいなくても優勝していたと思う。強力な若手投手陣の多くは、ドラフトの下位で採った選手だというから、だいぶ進化したスカウト&育成システムを構築してるんだろう。
フィリーズは序盤は低迷していたが、ハーパーの復帰もあってワイルドカードのトップとなった。打率1割台のシュワーバーが、単打より本塁打の方が多いと話題になっていた。結局単打の方が1本だけ多かったようだが、1割台&本塁打40台は史上初とのこと。こういう選手は通常7番くらいに置くと思うが、打順は1番。誰もが岩鬼を思い浮かべる。監督は間違いなく『ドカベン』の愛読者だろう。
マーリンズは、打率4割達成が騒がれたアラエズの打率下降(といっても首位打者だが)とともに失速した。主戦投手のアルカンタラを欠き、アルカンタラの影武者のようなペレスも欠く中で、どうにかワイルドカードに滑り込んだのは見事。
パドレスとガッカリ賞を争うメッツにあって、千賀の好投は数少ない希望。大谷より安定していた。ショウォルター監督は事実上のクビとのことだが、この人は「辞めた後チームが優勝する」でおなじみなので、遠くないうちメッツがブレーブスを撃破するだろう。
]]>ア中
ガーディアンズとの入れ替わりは多少あったものの、ツインズがほぼ首位をキープした。ツインズ以外は勝率5割を切る一方、ア東は全チーム5割以上という状況が長く続くいびつな状態が目立った。今季は地区同士の対戦を減らしたので、中地区のレベルの低さがより一層明らかになってしまった格好。ナ・リーグのチーム含め、地区の組み合わせを変更した方がよいのではないか。
ツインズ前田が手術からようやく復帰。再度のケガもあった中ではよくやった方。プレーオフでは、ドジャース時代同様中継ぎに回される公算のようだが、ドジャース時代の悔しさを少しでも晴らせれば。
ガーディアンズは、エンジェルスが補強失敗によって売りに出した選手を獲得したが、いずれもパっとせず、ガーディアンズにとってもエンジェルスにとっても哀しい結果になってしまった。
ガーディアンズのラミレス×ホワイトソックスのアンダーソンによるボクシングが、この中地区の一番の話題だった。選手同士が口論からつかみ合いになるのは珍しいことではないが、口論になったらなぜか2人ともファイティングポーズをとって間合いを取り出し、これにつられて間に入って止めていた審判もレフリーのポジションに移動している様子が可笑しかった。
昨年のプホルスのごとく、今季で引退のカブレラが終盤にきて活躍し出し、そのせいかタイガースが2位に浮上した。ただし勝率は4割台だが。ファーストの守備の際に、出塁した選手にちょっかいを出すことで有名なカブレラであるが、大谷の陳子をつっついていたことがあり、やってることに古臭さが漂っていた。著名人の訃報の際の定型句に「1つの時代が終わった」があるが(小谷野敦が「どんだけたくさん時代があるんだ」と批判していた)、カブレラの引退によって陳子をつつく時代は終わったといえる。
ア東
レイズの開幕13連勝で始まったが、昨季若手の活躍が目立ったオリオールズが予想以上の強さを発揮し追い抜くと、それ以降は順位をキープし優勝した。藤浪はかなりラッキーな移籍となったわけだが、まったく打てる気がしないときと、まったくストライクが入らないときの高低差はまだ完全には克服できていないので、プレーオフでどれくらい登板機会があるか。
レイズは、マクナラハン、ラスムッセンの若干苗字の難しい主戦投手2人がケガで、フランコが刑事事件疑惑でそれぞれ離脱したから、むしろよくやった方。まあレイズは誰が欠けてもあまり戦力がダウンしない、裏を返すと中心選手がいないのに強い不思議なチームなのだが。
ブルージェイズは一時失速したが、後半は安定してワイルドカード獲得。菊池も渡米後ようやくにして先発らしい働きができたのは何より。プレーオフでも先発登板できるかどうか。
低迷していてもそのうち勝ち出すことでおなじみのヤンキースに、今季はとうとうその機会は訪れなかった。ヒデキの呪いが順調に醸成されておる。最下位&負け越しが懸念された中、それらをどうにか回避したところで多少のヤンキースらしさを見せた。まあ、最下位&負け越しのレッドソックスが定期的に訪れる「らしさ」を発揮したという方が正確だろうが。クビにしたヒックスが、移籍先のオリオールズではのびのびプレーしていたので、ヤンキースは球団内の雰囲気があまり好ましくない状況なのでは。
レッドソックスは開幕から低迷していて、一時はちょっと持ち直したが、結局元の木阿弥で終わった。吉田以下、野手にはそれなりにいい選手はいるはずなんだが、投手陣がエンジェルス並みだった。大型移籍で注目されたものの、ケガで存在を忘れ去られていた感のあるトレバー・ストーリーが戻ってきたのはよいのだが、大して活躍していなかった。
訃報
シーズン最終戦の日に、ティム・ウェイクフィールドの訃報が伝えられた。俺がナックルボールというものを初めて見た投手だった。
パイレーツ時代、シーズン後半から現れ、先発すれば勝つという山本昌と同じデビューの仕方をした。日本の新聞(共同の配信?)では当初、「超スローカーブ」と表現されていて、スローカーブだったら今中だって投げるやんと思ってテレビで見たら、全然違う球だった。
早すぎる死である。ともにレッドソックスの86年ぶり優勝を支えたカート・シリングが脳腫瘍だと病名をバラして顰蹙を買っていたようだ。スティーブ・バノンのフェイクニュースサイトを嬉々としてリツイートしている陰謀論者に成り下がった阿呆だが、こういうときだけホントのこと明かすんだな。
当時キャプテンだったジェイソン・バリテック(捕手)が涙ながらにインタビューに答える映像がレッドソックスのTwitterに投稿されていたが、彼はウェイクフィールドのナックルを捕れなくて違うやつがキャチャーをやってたんじゃなかったっけ。
名投手の惜しまれる死に「1つの時代が終わった」。それを言うなら現役引退のときだろう。
数日前のこと。
朝、臀部に激痛がして起き上がれなかった。姿勢や手をつく位置を微妙に変えたりなんたりでどうにか立ち上がったものの、今度は座るのに一苦労、座ったら座ったで立つのに大仕事。
ただし、これは過去にも二度ほど経験があって、半日もしないうちに痛みは消えていた。今回もどうせ、と思っていたが、3日たっても快癒せず医者に行った。ケガ人リスト入り。これで私も晴れてエンジェルスの一員になれた。処方された漢方を飲んだら1日でかなりマシになった。この漢方を、エンジェルスにもご紹介したい。
昔、アレックス・ロドリゲスがケガをしたとき、日本のスポーツ紙が「臀部の故障」と書いたのを、医者でMLBコラムニストの李啓充が「臀部じゃなくて股関節だ」と和訳の間違いを指摘していた。それを読んだとき、確かに臀部なんて故障しねーだろと思ったものだったが、臀部は故障するのだった。
医者は「身に覚えは?ないですか、まあ後から思い出しますよ」と言い、その予言通り、1つ思い当たった。2日前に実家に帰省し、ママチャリではないどちらかというとスポーツタイプの自転車に乗っていた。普段使ってなさそうな尻の筋肉をいかにも使いそうだ。前にも一度、実家で同じ症状になったこともあるから(そのときはすぐ治った)、原因は多分あれだろう。改めてグーグルマップで距離を計測したら6〜7キロくらいしか走ってないからまさかというところだが、2日遅れで痛くなるというのが時間差的にはいかにも中年のリアルである。
尻の負傷によってせっかくエンジェルス入りできたのに、今季のMLBのレギュラーシーズンが終了した。最終戦までプレーオフ進出決定や順位確定がもつれ込む、接戦の目立つシーズンだった。
ア西
レンジャーズが独走していたが、ケガ人もあって失速する一方、したたかなアストロズがいつの間にか順位を上げていた。マリナーズはトレード期限で売り手側に回ったはずだが昨季同様、終盤から元気になって三つ巴となった。
エンジェルスにすれば、トレード期限の大型補強で三つ巴の一角に入る皮算用だったが、マリナーズにそのポジションをまんまと奪われてしまった。サバイバル映画のように一人また一人とケガで脱落していき、終盤には大谷も脱落。補強のためマイナー落ちしていたフレッチャーやウォルシュが昇格して、去年のラインナップのようになっていた。これだけケガ人が出たのは球団に問題があると考えるべきで、GMと監督を首にした方がよい。(その後、監督だけクビになったと報道あり)
三つ巴のまま、どのチームにも優勝の可能性がある状態で最終戦までもつれ込んだ。惜しくもマリナーズはあと一歩で敗退した。満塁のときの打率がドカベン山田太郎並みの6割超えだったクロフォードのマンガのような活躍が目立ったが、1.2塁だか2,3塁だかの状況では凡打に倒れていた。満塁のときしか活躍しないようだった。これはこれで使いにくそうだ。
終盤で盛り返して首位に返り咲いたレンジャーズだったが、シーズン最終戦でアストロズに首位を奪われワイルドカードに転落してしまった。昨年のメッツのようだ。やはりこの両チームは似ている。ついでに首位打者だったはずのコーリー・シーガーも、最終試合でレイズのディアスに抜かれてしまった。こーりゃーしがたがないでぃあす。
逆に、低迷していたはずなのに、最後の最後で優勝したアストロズは、何とも憎たらしいチームだ。球界一の細長い男タッカーが打点王なので、監督の打線の組み方がうまくいったのだろう。
]]>連休でにぎわう北区梅田1番1号(ラビリンスなしFAKEあり)
くだんの陽気な店主に誘われ、森達也とジュンク堂書店員の対談というのが梅田であり、顔を出した。この書店員の福嶋氏という人も、名前は何度か見かけたことがあるそれなり知られた人で、そちらにも興味があった。
書店の一角にあるスペースが会場で、参加者は劇団ころがる石並みのこじんまりとしたものだった。見るからにいかにもな人たち、それはつまり店主から誘われたに違いない人々が多数を占めていた。こういう内輪感も小劇場の客席のようだ。あまり好きではない。冬だったらスーツでも着て「仕事をサボって来ている一般のファン」を装いたいところだ(全体に服装にあまり頓着しないラフないでたちが相場の人々なので)、と思ったがやらない方がいい。昔々、仕事帰りにスーツで観劇に行ったら、「内輪でない一般の人が来てくれた!」と思われて、主宰がわざわざ挨拶に来たりの歓迎を受けて、やばい、関係者だとバレたら逆恨みされそうだと逃げるように帰ったことがある。
監督も客席を見まわし、「どうやらお知り合いの方が多そうなので、もうこのまま(店主の店に)移動してビール飲みながらでもいいですが」などと軽口を言っている。
対談の議題は、監督が以前に上梓した小説『千代田区一番一号のラビリンス』だったが、すでに述べたように『FAKE』以来、氏の作品は書籍も含め一切触れてきていないので、当然一文字も読んでいない。一文字も読んでいないのに来ている。ラノベみたいな設定で、天皇制という氏らしいテーマを扱ったような内容との由。発想自体は面白そうだ。
氏のこういう場に顔を出すのは2回目。前回は15年前なので、佐伯祐三展と同じスパンだった。テレビではたまに見かけているので特段久しぶりという感覚もなかったが、ついついまったく変化のない毛量に目が行ってしまった。
この福嶋氏は、結構なベテランで、晩年のいとしこいしのような柳に風といった雰囲気だった。多分、当人は何も狙っていないのに、トボけた話しぶりが面白くて聴衆がドっとウケる、そんな魅力的な人だった。
さて会の終盤では、『福田村事件』の話になった。実際の事件を扱いつつ創作が多くを占めることへの批判について、ストーリー上あまり必要とは思えない性描写が目立つ点についてなど説明があった中、報道の話にもなった。
福嶋氏が、新聞社の場面だけ妙に現代的で浮いている印象があったが、あれはわざとか、といった質問を投げかけ、監督がそれに答えた。恩田の衣装はモガを意識しすぎてやり過ぎたなどと述べた後、部長の造形に言及した。
監督の意図としては、売れる/売れないが部長の判断基準としてあったといい、持論に続けた。「なぜ夜のバラエティはくだらないんだ」「なぜニュースは大谷ばかりやるんだ」といえば、売れる(視聴率が取れるから)からであり、逆にいえばそれを求める大衆の要請だ。マスコミがマスゴミであるなら、皆さんもゴミということだ。
聞きながら、そういやこの人、昔からこういう理屈を語ってたなと思い出し、そのたび首を傾げていたことも思い出した。当たっている部分もあるだろうが、少なくとも今の状況分析・現状認識としては甘いと思う。まず話を双方向にしている分、鶏―卵になってしまい話が進まないという問題点があるが、そこはさておく。
この日は日曜だったので、朝に「サンデーモーニング」を放送していた。「風をよむ」という名物的な位置づけのコーナーがある。毎週、異なるテーマでニュース番組としては長めの15分ほどを使って、残り10分弱でコメンテーターが1人ずつコメントする。
このコーナーは最近、しょっちゅうウクライナでの戦争をとり上げているが、「売れるから」が理由だとは考えにくい。国際報道を売りにした番組というわけでもない。国内に利害関係が少ないいわば無難なテーマだからというのが最も可能性が高そうな理由だ。先週もウクライナ情勢で、「ジャニーズじゃねえのかよ」と鼻白んだわけだが、このコーナーにこういう肩透かしはよくあることだ。(これはこれで、戦争をコンテンツとして消費している。それもかなりいびつな形で)
本日はジャニーズの性加害問題をやっていたが、自社も含めたテレビの問題にはまったく触れていなかった。この日ジャニーズをとり上げたことも、自社には触れなかったことも、当然どちらも「売れる」が判断根拠ではない。そしてこういう姿勢はジャニーズの件に限ったことではない。
ところでこの「風をよむ」は、毎度高校生の受験用小論文や、小器用な学生のレポートを思い出す。テーマに関係のありそうなことを次々並べて話を広げ、定型句のような格好でまとめる。学生と違って事実の正確性には慎重だが、発想はよく似ている。
今回はジャニーズをテーマとしながら、日本は全体に人権について国際的に遅れているとして、LGBT関連の法律が原案よりショボい内容になったこと、入管の問題、ジェンダーギャップ指数最下位レベルの問題といった、人権の後進性を並べて、「日本社会の恥の文化」がどうのこうのというユルい学者のコメントを添えて「大きな変化が今、求められています」と締めくくっていた。
このいっちょ上がり感は、レポート採点時のいらいらを思い出す。本題とは別の事象に共通点を見出して横断的に考察することは重要な行為だが、並べるだけなら学生でもできる。あんたがた一応プロでしょ。(森達也風にいうと、学生は写し鑑で、テレビがこうだから真似をしている)
一番似ているのは、原稿を書いている当人の不在である。学生のレポートはしばしば自分が存在しない。例えばまとめに「以上、〇〇という事実が確認できた。しかし××という疑問も残ったため、今後の課題とする必要がある」などと、追加で調べる気など微塵もないのに平気で書く。そうやって書けばまとめっぽくなることは認識していても、それを書いている自分についてはまったく認識していないからである。
ジャニーズをテーマにしながら自社に触れないのは、自己に都合の悪いことは見らんフリをするという人類共通の思考回路の結果であると同時に、自分が存在しないからだとも思う。つまり、売れる/売れないの以前に、勉強が足りないということである。
さて質疑応答となり、真っ先に挙手した人が、今回の対談のテーマである小説についてではなく、『福田村事件』について聞いていた。作中のあるシーンについての意図を問うたのだが、監督は、見た人が考えるべきことだと思うから監督が答えのように言うのはあまり好きでないといい、でもそんなこと言われると困っちゃいますよねと恐縮して、実は撮影の都合でそうなったと、演出ではなく物理的事情の結果だと説明した。「ほら、白けた答えになっちゃうでしょ」と監督は言うが、こういう裏話はおもしろいものだ。「名場面として有名なあのシーンは、実は単に〇〇の都合でそうなっただけ」というのは名作あるあるエピソードだろう。
サイン会になり、いかがなものかと思ったが、まあいいやと居直って小説の方ではなく、映画のパンフレットに書いてもらった。これはこれで映画のパンフの相場価格の倍するんだからいいじゃないか。森達也のサインをもらうのは2度目。前回は混雑していたので、遠慮して時間短縮のため当人の名前だけ書いてもらったが、今回は当方の名前も書いてもらった。そしてパンフのページをめくって寄付者一覧を示して「僕こっちにも名前があります」と言い、監督は痛く恐縮して礼をいってくれた。まあ半分以上、これ目的で来ていた。我ながら下品な人間だと思う。だって誉めて欲しいやん。
福田村事件の登場人物の中で、不満が残ったのがピエール瀧演じる新聞社の「部長」だった。
この映画に新聞社が登場しているのは、虐殺の背景を描く上で欠かせない存在(デマの流布に加担した)であることに加え、今のメディアが抱える問題を問うという意図もある。監督自身がそう言っている(そもそも事件の映画化自体が、現在への問題提起ではあるのだが)。
そのせいか、新聞社の登場人物3人は妙に現代人ぽい。社会問題を扱ったフィクションでは、新聞社の登場人物はしばしば作品から浮く傾向があるが、記者組の主役である恩田を演じている役者のおかげでだいぶ収まりがよくなってはいる。
ただし、対する上司の「部長」の描き方は、今のメディアに物申す的な意図に照らして、描き方が十分といえるかどうか。
部長は恩田に、犯人不詳の凶悪事件の場合は、「主義者か不逞鮮人の仕業か」という締めをつけるよう指示したり、震災後に「朝鮮人が放火や爆弾所持をしている」という内務省の通達を鵜呑みにしていたりする。ただし、どこまで本気で言っているのかは怪しい風で、本心とは別に、新聞社の幹部として仕方なく言っているようにも見える。政府や読者の不興を買わないためにはそうするしかない、といったような?大人の事情?に屈服するような諦観。まずイメージするのはそんなところだろうか。
だが、今のメディアに物申すという目的で彼らを登場させているのであれば、ちょっと違うんじゃないかなあ。この場合、部長=今のメディアになるわけだが、現実に今メディアの現場(の主流)にいる人々に比べると、部長の振舞いは、だいぶ「初期症状」とでもいうのか、実際にはもっとわけのわからない具合に重症だと思う。
監督の森達也によるノンフィクションにはしばしば、テレビ局社員たちが口にする「そういうことになっている」という理屈が登場する。「いやあ、趣旨はわかりますが、こういうのはできないことになってるんですよ」といった、根拠や主語が不明なロジックで自身の企画がボツにされる。言ってる当人は、大人の事情で本心を隠してそう言っているわけではなく、あまり疑問を持たない様子で、何なら偉そうで高圧的な口ぶりなときさえある。せめてこれくらいの感じで描くべきだったと思う。
目下のメディアの問題としてはジャニーズの件がある。特にテレビ局は、問題の片棒を担いだ当事者の1人だから、頬かむりしてなかったことにすることでやり過ごそうとしている。
この話は、論点が多く根も広く深い。1人の男の「鬼畜の所業」だけが問題なのではない。おそらくこの問題を真正面から取り組むと、伊丹万作の予言から日本社会はかなり軌道修正されるような、それくらい重大な話にも思える(ジャニーズがすべての闇の中心にあるとかそういうことではなく、これと共通した構造を持つ問題は他にもいっぱいあって、焦点が当たったのがジャニーズだということ)。だからこそ、政府の感度が鈍いのだろう。
新聞もまた然り。テレビやスポーツ新聞ほどの共存関係や利害関係はないはずだが、どうして今までネグってきたのか。それを大真面目に問い始めると、あれもこれも「同じ構図だ」となって、管理職が処分されるだけでなく、何が起こってるのかついてこれない記者もいっぱい出てきそうだ。すでに「フランス革命が起きたとき、貴族の多くは何が起こってるのかさっぱり理解できなかった」とはこういう感じだろうかというチンケな記事をいくつか見た。
というわけで、本作における部長は、恩田の主張を認めると、色々なことが崩壊してしまうのではないかと恐れるくらいで描くのがよかったのではないか。
大正時代は「大正デモクラシー」という言葉がある通り、民主主義(民本主義)を求めた時期で、本作でも豊原功補演じる村長が、デモクラシーの重要性を説いている。ただし、大正デモクラシーの結実である普通選挙を実施したときの首相である加藤高明が、大隈内閣の外相時代に対華21カ条要求を主導したように、デモクラシーの推進側と対外硬は同居していて、これは政党の源流である自由民権運動のころからそうだった。
だから本作の部長が、「不逞鮮人」云々について何かもっともらしい理屈で正当化や内面化しているのはいくらでもあり得る。自分の差別意識にはまったく無頓着で、恩田の主張がひとつも理解できないように描いてもよかったのではと思う。そういうやつ、今の報道機関にも結構おるやろ。
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はなから陰惨な内容とわかってるものをなぜに好き好んでわさわざ、と思いつつも、吾輩は出資者様なので行かねばならんのである。そしてまた売布(めふ)に来てしまった。阪急沿線で仕事&時間がちょうどよかったからだ。また売布に来る機会はあるにしても1年後とかだろうと思ったが2か月もたたないうちだった。余はメフメト2世ならぬ、売布また2月であるぞよ。
意外にも娯楽作品のように引き込まれ、長さを感じなかった。重たい歴史を扱いながら、きっちり魅せてくるスピルバーグのようだ。どこか是枝とカブって見えがちな人だが、是枝作品より俄然よかった。ドキュメンタリー屋としては有名な監督の初の劇映画(個人的には『FAKE』以降、書籍も含め全然触れてこなかった人でもある)にしては手練れのような出来だった。出資者の一人として余は大いに安堵したのであるよ。
寄付額が多いとエンドロールに名前が出る仕様になっており、本編終了後に大量に流れていく名前を珍しく凝視した。映画屋とか作家とか、有名どころの名前もちらほら。その中に知人の名前を2人見つけた。1人は現在は付き合いがないので、変わった形で消息を知ったことになる。
もう1人は、こちらは一部では著名人たる居酒屋店主。翌日、仕事の帰りに店に顔を出し、エンドロールに名前出とりましたやんというと、(映画は)どうやった?というので、娯楽性が高くて意外だったと答えたら、せやろそこがええやろ!と嬉しそうにした後、でもなあのテーマでエンタメにしてるのがけしからんいうとるアホな左翼がおんねんなどと、悪口を言うときに俄然活き活きとするおばちゃんの典型のような様子で内ゲバ発言をしていた。
そういう批判を呼ぶのは史実を扱ったフィクションの宿命だが、本作についていえば、制作側もそれを想定した上で、居直らずに、劇映画でどこまで出来るかしっかり考えたのだろうということは窺えた。
ところでパンフレットには、寄付者全員の名前が載っている。人数が多いので虫眼鏡が要るフォントサイズだ。誰か知り合いはいるかと眺め、知った名があった。が、あいつが見た新作封切はたぶん「フォレスト・ガンプ」が最後だから同姓同名の他人だろう。蛇足ながら私の名は同姓同名の本人です。
話を戻すと「重いテーマなのに娯楽性」というのは、難しいことをなるべく親しみやすくわかりやすくといった学生のプレゼンのようなことではない。学生諸君はすぐ「専門用語を簡単な言葉に置き換えたりしてわかりやすく発表しました!」というアピールを書いてくるが、それって単に自分がわかる範囲で済ませてるだけなのではと疑念がよぎる。大学の専門課程なんだから、学術用語を正確に用いていかにわかるように書くかのが大事なんじゃないのかね。
本作は、題材だけ拝借してあとは歴史ガン無視戦闘アクションとか、「殺害に手を染めた彼にも家族が…ひゅーららー」なメロドラマとか、そういう娯楽化ではない。いわば「用語を正確に用いたわかりやすい文章」のような仕上がりになっている、と書くと、史実を題材に扱ったフィクションなので誤解を生みそうだ。
「あのテーマでエンタメにしてるのがけしからん」がどういう意味なのかは知らない。本作の登場人物やエピソードの大半は創作だろうから、デリケートな素材を扱いながら(事件自体以外にも、被差別部落出身の人々のほか、ハンセン病の人物もチラっと登場する)作り話が多いというのは同意しない人もそれなりにいるだろう。明快な答えがある話でもないが、フィクションには歴史学やジャーナリズムとは別の役割がある、ということと、1つ1つの創作部分についてどこまで誠実に考えるかが重要だ、ということはいえる。フィクション屋の言い分といえばそうだが。
実際に目にした批判としては、関東大震災時の虐殺をテーマにしながら、朝鮮人ではなく香川県民が被害に遭った事件を扱うことへの疑問があった。
言わんとすることはわかる。朝鮮人虐殺がことの核心だし、映画にする動機の中に、間違いなく当世の歴史修正やコリア系への差別が入っているから、本事件が題材なのは肩透かしにも映る(ついでにタブー扱いして逃げたようにも映る)。
しかし、劇映画としてまとめる上では、本事件を題材として選択したのは正解だった、というのが見終わった感想。問題は、誰が殺されたのかではなく、どうして殺したのかだからだ。被害者の属性が何であれ、殺害動機の根底ないしは殺害を後押しした構造は同じだからだ。それを小さな村を舞台にする、イコール限られた登場人物で描くのは、ドラマとして描く上では常道といえる(もちろん、東京から離れた場所だと拾えない要素もある。それらを作品に盛り込むために東京の場面も合間に挟まるが、脚本上は、新聞記者の恩田が都合よくワープしている印象もあり、あまり巧いとは思えない)。
本作は殺害に至る動機とその背景を丁寧に描いており、その中に虐殺全体の問題点を位置付けている。劇映画の場合、これは自ずと個々の登場人物や場面を丁寧に描くことにつながる。そのような脚本を、演者が見事に演じており、その演技が本作の娯楽性をなしている。例えば永山瑛太演じる行商人のリーダーは、狡さと人情と肝っ玉を備えたいかにもマンガの主人公っぽいキャラだが、被差別民として生き抜いてきた結果そうなっているということが描かれており、作品にフィットしている。単に見やすくするため格好いいヤツを出したわけではない。
最も印象に残ったのは、水道橋博士演じる在郷軍人会の長谷川だ。虐殺側の中心人物、いわば悪役だが、こちらも丁寧な造形となっている。勇ましさと臆病が同居する典型といったところだが、最後に発する台詞がとても印象に残った。
このことと通底する話だが、気色悪くしているもう1つが、どう表現していいのか、大谷の立ち位置を勘違いしている点だ。大谷が活躍したというニュースに張本勲が「参ったか」と言ったことが何度かあったと記憶している。この感覚に顕著だ。「参ったか」というのは、「アメリカよ参ったか」くらいの意味で、MLBに対して「どーだNPBは凄いだろう」という趣旨だ。つまり大谷が道場破りに行っているような感覚なわけだが、大谷にしろ千賀にしろ、道場破りではなく、その道場に入門している。
張本に限らず、日本のメディアの伝え方は似たようなものだ。「700人のガイジンに挑むたった1人の天才日本人」みたいな図式。村一番の秀才が東大に入って教授に評価されたら「ウチの村が東大をねじ伏せた」と言ってるみたいなものだ。
この視点から抜け落ちているのは、他所からやってきているのは日本の選手だけではないということ。そして、そもそも受け入れられているという事実である。何度も書いているが、「アメリカが大谷を認めた」と喜ぶだけの態度は、受け入れている側の視点が抜け落ちている。自慢話か自分語りばかりする人の話みたいなものだ。
一応補足すると、MLBには外国人枠がない。スターティングメンバ―にアメリカ人が1人もいないケースもある。何国人とか関係なく、すごい選手のプレーを見る場としてファンもとらえている。このため相手チームの選手やファンが「大谷には参った」と思うことはあっても、NPBに参ったと思うことはない。受け入れている側の視点が抜けているのは、結局のところ、大谷を見ていてもMLBは見ていないということだから、いびつさが漂うことになり、気色悪くなる。
さて今季の大谷は本塁打王の獲得が確実視されているが、後半戦で失速するという一昨年の課題は改善できないまま、ケガで出場できていない。監督のネビンは「明日明日詐欺」状態を続けている(決定権が誰にあるのかが不明瞭なのはチームとして疑問だと井口が批判していたのは解説者としてちゃんと仕事してる)。一昨年は惜しくも逃したから、タイトルを取れるのはいいことだが、このまま全休となった場合、残りの選手は何をしているんだということにもなる。
そういう中、ケガで長期離脱していたジャッジが猛追しているのには期待している。シーズン序盤、自身の記録を塗り替える勢いで打っていた大谷について「記録は破られるためにあるし、彼はスゲーから是非超えてくれ」などと格好いい応対をしていたジャッジだが、最終的に「ハイ俺の勝ち〜」となったら、大変憎たらしくて格好いいことになる。ヤンキースは今季プレーオフに進出できないから、どんどん打ってもらって構わん。もし大谷を抜いたら、それはそれで「やっぱMLBはすげえな」になるから、よいことだ。そして仮にそうなっても、「張本よ参ったか」とジャッジは言わない。
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わかりやすい指標としてはWARがある。この指標自体はわかりにくいが、要するに勝利に対する貢献度合いを示している。打者大谷はア・リーグではトップだが、両リーグ全体では4位。彼の上にいるベッツ、アクーニャJr.、フリーマンは、確かに打線の牽引力という点では大谷の上をいく。(あとベッツとフリーマンは、大谷を凌ぐ人格者なんじゃないか)。ただし大谷を超える本塁打を打っているオルソンより、キム・ハソンの方が値が高いので、WARという指標はピンとこないところはある。(キム・ハソンはとてもいい内野手だよ)
投手では大谷は19位で、11位の千賀の方が上。これは試合での印象通りで、日本の投手では今季、千賀の安定感は頭一つ抜けている。これら投打のランキング両方に名前が出ている時点で物凄いことではあるが、伝える側が、それぞれの実績を、まるでナンバー1のように語るのはおかしかろう。すごいやつ、魅力的な選手はほかにもごろごろいる。まあ今季のエンジェルスも、なかなか無様に優勝争いから脱落したから、余計にギャップが目立ってしまうところはある。大谷が本塁打を打ち、トリプルプレーまで飛び出したのに敗北を喫するという無様な中、「大谷選手が今日もホームランを打ちました!」などと伝えられてもなあ。
ところで今更だが、打者と投手を兼ねることはチームにとってどれくらいプラスになるのだろう。MLBはベンチ入りできる選手が少ないので、投手をできる人間が1人増えるのはプラスだ。ただしこの場合のプラスは、理屈上、内外野両方できるユーティリティープレーヤーと同じだ。あるいは投手の次に「打撃がいまいちでも仕方がない」と思われている捕手の強打者と同じか。
野暮な指摘ではあるが、自治体予算なみの金額が動くビジネスなので、獲得を考える球団はこういう勘定はいくらでもしているし、向こうの報道も似たようなものだ。
今季、トレード期限でチームが大谷を出さなかった理由の1つに、見合う条件がなかったことが伝えられているが、ユニコーンたる彼を、以上のような野暮な算盤勘定で評価すると、自ずと不釣り合いにしか見えないオファーになるのではないか。
野暮な話は特にスポーツ報道においては嫌われる。そのような精神性で語られることはカルト的自己啓発セミナーと大差なくなるから、気色悪くもなる。
同じようなことを感じる人間は他にもいるようで、週刊ポストにも大谷礼賛報道の気色悪さについての記事が出ていた。ただし内容はめちゃしょうもなかった。テンプレ的な礼賛に疑問を呈するテンプレ的な記事。共通点は、作っている側が、どちらもよくわかっていないという点か。
まず礼賛が気色悪いというが、これは大谷に限ったことではない。政治のニュースなんか公報状態で余程こちらの方が見るに堪えない。スポーツニュースと違って伝える側がはしゃいでない分、わかりにくいだけだ。
スポーツに限っても見るに堪えないことが多い。盆に実家で女子サッカーのW杯を見ていた。男子と違って見やすい印象を受けて、なんでだろうと思っていた。理由は、中継の解説をスタジオだけでやっていたからだ。「はい、こちら〇〇スタジアムではご覧のように」などと現地のレポーターはいなかった。「日本代表は世界トップクラスなのに誰も来てないのはおかしい」と指摘する海外メディアの記事を見たが、それはその通りとはいえ、おかげで中継が大変落ち着いていて見やすかった。放送局が全力を出すとろくになことにはならない。
立浪ドラゴンズの低迷について、評論家らがその原因や対策を指摘しているような記事をいくつか見たが、パワハラに全然触れていないので、こちらは気色悪いというよりは閉口している。星野の暴力を美談にしてきた側にも責任がある。
さて大谷について何か引っかかる点があるかといえば、特に見当たらない。これは日本の他のMLB選手も同様で、例えば千賀のインタビューの受け答えは謙虚で真面目で知的だ。せいぜい鈴木誠也がインタビュー嫌いなんだろうなという応対だが、それでも最低限の受け答えはしている。取材対応やパーソナリティという点では、イチローの方がよほど賛同しにくい。このためイチローにまつわる礼賛的な報道は気色悪く感じたことはある。
大谷の場合、プレースタイルの特異さに加えて、爽やかさや可愛らしさでもプロスポーツ選手の中では稀有な存在となっている。イチローもブレイク直後は、ただの純朴な青年という雰囲気だったが、テレビで鬱陶しいくらいチヤホヤされて、自己防衛のために鎧を身につけたのだと思う。清原が過度にオラついていたのも自己防衛だったと思うが、大谷はそういうポーズを全く必要としていない様子なので、見てくれだけでなく、振舞いも含め、ファンを惹きつけている。その分、伝える側がメロメロになってもやむを得ない部分はあるとは思う。
それでも礼賛が気色悪く感じる点があるとすれば、まず1つめは実績への評価だ。彼がMLBのトップクラスの選手であるのは疑いないが、ナンバー1かというとそうでもない。投手と打者を兼任している、それも相当高いレベルで、というのは(今のところ)唯一無二だが、その珍しさが評価を押し上げているところはある。
MLBも終盤。ドジャース(ナ西)とブレーブス(ナ東)はプレーオフ進出当確だが、他はまだ混戦模様だ。
そういう中で、衝撃のニュースが伝えられた。そう、ストラスバーグ引退表明、については誰も驚かない。鳴り物入りでナショナルズに入り、故障を避けるために超厳格な球数制限をした。そのシーズンの上限に達したら、ポストシーズンは投げないという、なかなか哲学的な論点を提示したことで知られる。
そこまでしてるのに怪我だらけで、まともに活躍したのは1年のみ。ただしその1年はワールドシリーズ優勝&シリーズMVP獲得。ジジイになるまで投げ続ける鉄腕ぶりを発揮しながらワールドシリーズ優勝には縁がなかったノーラン・ライアン(若手時代に一度あるが、当時はまだゴマメだった)と比べて、どちらがよいキャリアだったといえるのか。まあ球団にとっては元はとったと思うしかない。
衝撃のニュースとは、そう、レイズのワンダー・フランコが性加害疑惑で半分クビ状態になったこと、についてはそこそこ驚いた。以前から素行不良が指摘されていたので、そこそこなのだが。
小柄ながら速筋の塊、みたいな佇まいが、連戦連勝のころのマイク・タイソンを彷彿とさせ、見ていて楽しい選手であった。破滅型までタイソンに似せてどうするのだ。刑事裁判でどうなろうとMLBは厳罰を下す可能性が高いので、MLBでのキャリアは終わったとみられており、すでにバウアーに続く日本行きも指摘されている。ただしフランコの場合、バウアーと異なり相手が中学生くらいの子供なので、少なくとも大洋時代の経緯がある横浜は獲らないんじゃないか。
衝撃のニュースとは、そう、ドジャースのウリアスが2度目のDV逮捕、については呆れたが、こういうのはどれくらい自分で是正できるものなのだろう。こちらもバウアーコースの可能性があるが、しばき上げ星野イズムの継承者・立浪ドラゴンズがいいんじゃないか。
衝撃のニュースとは、そう、ダルビッシュの離脱。最近調子が今一つだったが、やはり体の問題だったか。パドレスはエンジェルス同様、ゲームオーバー感が漂っており、まあ無理なさらずということで。
さて先月のことだが、久しぶりの知人から誘いがあり、昼飯を食うなどしていたときのこと。オオタニさんについて「実際のところどうなんだ」と尋ねられた。当人は野球に関心がない。メディアでのとり上げられ方が礼賛一方で気色悪く感じているといい、そういう趣旨の質問だった。
昼食を終え、土産に買うという「りくろーおじさん」の行列に並ぶのに付き合っているときだったので、「まあ、実績が物凄いのは確かだけど……」程度のことしかいえない間に行列が進んで、そこで話が終わっていた。
しかし、バカ映画でほどほどよくできていると、何でこれを作ろうと思ったのだろう?と、かえって疑問に感じてしまう。破綻しているバカ映画の方が、「とにかく作りたかったんだろうな」と同意しやすい。
強大な力を持つ宇宙人が、地球を滅ぼすか否かを審査するため、無作為に選んだ1人に全能の力を授ける。これをどう使うかによって地球人の倫理をはかるというわけだ。
この発想はかなりイギリス的で、大英帝国による植民地支配を正当化した当時の理屈と似ている。おそらくそれを皮肉った設定なのだと思うが、一等国には未開の地域を文明化する使命があるとか、そんな理屈で支配を正当化した。日本の場合は、江戸の社会がそれなりに成熟・安定していたことに加え、外交交渉に当たった幕臣が、思いのほか欧米側と堂々と渡り合ったことが幸いした。
そうして冴えない教師であるニールがその被験者に選ばれ、全能の力を手に入れることになる。願い事をいって手を軽く振るとその通りになるというなんともお気楽な設定である。
この力をどう活用すればいいのかわからないのが凡人の哀しいサガ、というのがこういう場合のお約束だ。『ドラえもん』ののび太と同じだが。最初に自身のパワーを自覚するのが、生徒が荒れまくっている自分のクラスに対して「宇宙人に滅ぼされてしまえ」と言ったときで、途端にピンポイント爆撃みたいなのが教室を襲って全員即死する。このやたらめったらなブラックジョークがいかにもイギリス映画だと思った。
こうして力の存在に気づいたニールは、自分の体をムキムキにするとか、自分を嫌う校長を優しくするとか、階下に住む美女の部屋を覗くとか、当初はクソしょうもないことにしか使えない。はて自分だったらどうだろうと考えて、真面目なものを2つほど思いついたが、そんなことをここで書いても虚しいだけ。あえていえば「増毛」。やっぱり馬鹿馬鹿しいものになるな。
本作の笑いのポイントは、願いの文章表現が曖昧だと、思った通りの結果にならない点だ。例えば生徒が全員死亡した結果に動揺したニールは、ハタと解決方法を思いついて「死者を全員よみがえらせろ」と言って右手を振るのだが、そうするとあちこちの墓場や死体安置所から死者がよみがえる。これも『ドラえもん』に似たような話があったが(「ねがい星」だっけ?)、あれよりも本作の方が、?誤解?の精度が高い。
「死者を全員よみがえらせろ」が、生徒だけではない全部の死者をよみがえらせるというのは、単に言葉足らずというわけでなく、個人の発想と「全能」の広さの違いだと思う。ニールは、自分の生活圏内だけで発想しているに対して、全能の力は全能だけに、世界中が対象となるということだ。
例えば「女性にもてたい」と、この全能パワーを使った場合、凡人の発想としては、2〜3人くらいから好かれる程度、多くても10人程度のイメージだと思うが、「全能」なので、世界中の女性が対象範囲となり、とんでもなく収拾がつかないことになるに違いない。(全宇宙じゃなく「世界中」に留まるのは、地球人を対象とした実験だから)
ニールは「宇宙人の襲撃はなかったことにする」と言い直してようやく解決するのだが、このような「なかったことにする」の実現は、ストーリー展開上は苦しくなる。どんなピンチが起きてもこれで解決してしまうからだ。中盤は、種々のトラブルに、ニールが「なかったことにする」という解決を選ばずに、わざわざまどろっこしい方法を取ろうとしているようになってしまい、苦しかった。
それでもどうにか作品として成立していたのは、何が正しいのかは簡単にはわからないことを示した点にあるだろう。
あれやこれやのドタバタで、自分の力を己の欲望ではなく世界の人々のために使おうと考えたニールは、世界の飢餓問題の解決や、戦争の撲滅などを訴えて右手を振る。しかし因果の鎖はややこしいもので、1つの問題をなくすと別の問題が起きる。人間が全能になるのは難しいというわけだ。一見理屈に合わないような出来事も、人間ごときにはわからない神の思し召しがあるに違いないと考える、あれの逆のようなことだ。(この、願ったことの実現の結果、別の悪いことが起きるくだりも、イギリス流のやけくそバカジョークになっている。ニールが「戦争が起こる理由をなくせ」と命じると、各国が理由なく戦争を始めるという展開になるのだが、「ギリシアがニュージーランドに宣戦布告」「バルバトスが全世界に宣戦布告」とか、確かにまったく理由がなさそうな戦争が起こって爆笑した)
ニールだけではない。この実験を行っている宇宙人自身も、何が正しいのかを判定する基準を明確に持っているわけではないことが示されている。考えてみれば、全能の力でもって隣の美女宅を覗き見するのは下劣な行為だとすぐわかるが、世界平和を願った結果戦争が起きてしまうことについてはどう判定していいのかよくわからない。
主人公にとっても宇宙人にとっても扱いきれない力は、映画制作者にとっても扱いきれない。ラストでニールが、力を捨てることを選ぶのは、それしか終わらせ方がないので最初から予想がつくことではあるが、それがどういう結果につながるのかについては多少の意外性があった。あるものをなしにするのにも、因果の鎖が働くのは、言われてみればその通りだった。
それにしても、ヒロインがおっさん上司から、昇進と引換に男女の関係を迫る典型的なセクハラが、チャリンコをパクられたのと同じくらいのトラブルとして登場しているのは、隔世の感があった。2015年の映画でこれとは、metoo運動ってのは相当なインパクトがあったんだなあと改めて痛感させられた。
「Absolutely Anything」2015年イギリス
監督:テリー・ジョーンズ
出演:サイモン・ペッグ、ケイト・ベッキンセール、サンジーブ・バスカー
博物館群から離れた場所にあるので、今まで見たことがなかった
時間があったので上野に向かった。田舎者が東京で時間を持て余すと上野に行くくらいしか思いつかない。国立なのに金欠というので話題の科学博物館を初めて訪れた。常設展が、1日では見切れないくらいだと聞いていたが、実際そうだった。これらの膨大な標本が金欠で管理できないというのであれば、解決策はすでに大阪府が提示している。駐車場に隠しておけばよい。
大英博物館なんかがエジプト辺りから持ち帰った(強奪した)文化財を返却しない理由の1つに、現地側が適切に管理できるのか疑わしい、というのがある。日本もおかしな格好でそのような状態になっている。
せっかくなので市谷に移動して、大日本印刷がやっている活字博物館(市谷の杜 本と活字館)を覗いた。あっちこっちに「DNP」の看板を掲げた巨大なビルが建っているDNP村のようなエリアで、この会社がこんなにデカいとは知らなかった。
昔、講師の契約をしていた会社がこのDNPに買収されて傘下に収まったのだけど、巨大なビル群を見るにつけ、惑星とホクロくらいの差異を感じる。なんでこんな馬鹿でかい会社が、あんなちっこい会社を買おうと思ったのだろう。案の定さっさと手放していた。
さて、本好きに加えて新聞屋勤務、印刷屋勤務の経験がある身なので、活字には多少の興味がある。新聞屋も印刷屋もオフセット印刷だったので活字との縁はなかったが、活版でないと印刷できないのが一部あり、そういう注文が来ると活版印刷機を持っている同業者に依頼しに行ったものだった。
どういう注文かといえば和紙の印刷で、文人気取りのおっさんとかがまれに和紙の名刺を注文する。受け取った台紙と原稿をその同業者のところへ持っていくと、当時70代くらいと思しき爺様が「やっときます」と受け取る。その奥の方に、確かに活字の棚が見えたのだが、印刷するところは見たことがなかった。
活字の仕組みは知っていたが、版をどうやって作るのかはよく知らなかった。一番の疑問は、空白部分をどうしていたのかで、今回ようやくその疑問が解けた。写真は、右の名刺の版だが、こうやって版を組み上げる。集めたパーツを紐で縛り、印刷機の固定具にはめ込んで印刷するようだ。
行間の空白部分を埋めている金属片をクワタというらしいが、そういえば新聞屋の古株の人は、「クワタ」という用語を使っていたと思い出した。活版の空白のことではなく、そこから転じて、何かの記号を指していたような覚えがあるが、記憶があやしい。
係りの人々が優秀で、こちらも多少の知識がある分、聞きたいこともいくつかあって、会話が楽しかった。そしてカフェコーナーには悪乗りもいいところのメニューが置いてあった。シアンやマゼンダの再現はよくできている割には、やはり黒い飲み物は再現が難しいんだな。
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神奈川県庁
九段会館
もう1つは神奈川県庁で、こちらは帝冠様式のコレクション収集である。帝冠様式のビルの写真を集め始めたのも、満洲国時代に日本がたっぷり建築したのを中国で見たのがきっかけだ。翌日には、東京の帝冠様式の代表である九段会館も撮影できた。コレクションがたまってきた。
京都市京セラ美術館
愛知県庁
名古屋市役所
高雄駅(台湾)
旧高雄市役所
旧台湾銀行高雄支店
旧関東軍司令部。その他の満洲国帝冠様式についてはこちら
この歴史博物館がある辺りは、下のような古い建築物が多く、横浜と聞いたときにイメージする通りの街並みだ。そのビルのイメージの中に帝冠様式は入っていないだろう。だって悪趣味だもんな。
20代のころだったか、大学の友人が横浜に勤務していたので遊びに訪れ、仕事中の彼の自転車を借りてこのあたりをサイクリングしたものだった。その友人とも今回、酒を飲んだ。場所は横浜ではなく新橋だったから、何の感慨も湧かなかったが。
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旧横浜正金銀行本店
旧横浜正金銀行長春(新京)支店
旧横浜正金銀行大連支店
アクセスと値段との折り合いから、川崎駅前の安ホテルを予約していた。川崎駅は初めて降りた。駅の周辺が平べったく、直線道路が縦横に直行していて、地方の県庁所在地に過剰に人が集まったような雰囲気だ。俺がここのホテルを選んだのと同程度の、「ただの都合」で住んでいる人だらけで、川崎そのものに目的があって混雑しているというわけではなさそうな、ちょっと不思議な印象を受けた。
翌朝、千賀の投球をテレビで何球か見物し、横浜方面に出かけた。県立歴史博物館で開催していた関東大震災展が目的だが、半分以上は建物の撮影が目的だった。1つはこの博物館。もとは横浜正金銀行の本店だった建物。横浜正金のビルは、中国に旅行したとき、長春や大連でも見かけたものだった。それら支店の本店だった建物なのでちょっと感慨を覚える。
正金とは、金本位制のもとで国が発行していた金貨(正貨)のことで、貿易の決済に用いられたから、それを扱う銀行は、必然的に植民地に居を構えることになったのだろう。それにしても、大連支店は本店より立派だな。
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伯母がよく送ってくれていたので、鳩サブレはかなり身近な菓子だ。昔はすぐ首の辺りで割れてしまって、不吉な形状になったものだったが、その後、袋をちょっとだけ改良した結果、割れにくくなった、ということを知っているくらいには、しょっちゅう食べていた。
焼き菓子というイメージの割には日持ちしない。油断するとすぐ賞味期限が過ぎて、湿気ていたり、油が酸化したりして不味くなったりする。さりとて伯母がデカい缶で送ってくるものだから食べきれない、周囲に配ると、最初は喜ばれたが、そのうち「また?」みたいに飽きられてしまった。
だけど伯母が元気なくなると届かないので、食べる機会がない。八幡宮の休憩所&食堂に「鳩サブレ」と案内が出ていたが、箱売りだった。1枚売りにしてくれたら、間違いなく買って食ってたが。
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親戚の御機嫌伺に何度か来ているが、その割にはロクに観光をしたことがない。せっかくなので、初めて鶴岡八幡宮を訪れた。駅から少し歩いたところにあるが、大通りの中央を貫く参道を通っていくのが楽しいので、あまり距離は感じない。鎌倉大仏は10年以上前に行ったことがあるが、あちらは普通の狭い&交通量は多い道路を歩いていくので結構疲れた覚えがある。
まあ、何ということもない大きめの神社といったところだが、山の中腹にあるので見晴らしはいい。鳩がシンボルなことで有名だが、まったく警戒心のない実物の鳩もいて、鳩サブレみたいな鳩の写真が撮れるのは楽しかった。
神社に対する信仰心も敬意もなくなっているので、お参りせずに去ろうとしたが、伯母が昔、俺や兄貴のために「毎日八幡様に参っている」と言っていたのを思い出した。話がいちいち大袈裟な人なので、「毎日」は誇張だと思うが、それにしたってたまには逆にこっちが祈るべきだろう。そう思いなおして手を合わせた。
駅に引き返した。さて昼飯をどうしたものだろう。「親戚あるある」だと思うが、伯母夫婦は何かとかさ高く、訪れると5人分くらいの巨大な寿司桶が出てきたり、ホールのケーキが2つ出てきたりする(そして自分たちはほとんど手をつけない)。しかし今回は伯母も病気だからそんな歓待もなかろう。とは推測するものの、侮ってはいけないという警戒心も働く。結局駅前のルノアールで、アイスコーヒーとプリンだけ口にした。それにしても、ひと心地つくと、自分が暑さでめちゃくちゃ消耗していることに気づく。メニューにOS-1があったら、間違いなく注文している。
江ノ電に乗って、閑静な住宅街を歩いた。近くの海ではヨットがいくつもいて、何というのか、要するに鼻持ちならないエリアである。田舎の地味な家庭の産である自分に、こんなところで暮らす親戚がいるというのが不思議だ。
電話で話したときにはだいぶ具合が悪そうだったので、まあまあ緊張しながらの訪問となったが、案外元気でほっとした。なんでも、昨日から急に調子がよくなってきて、訪問が一昨日だったらろくに相手もできなかっただろうとのことだった。これも南無八幡大菩薩の御利益か。
盆に親父の実家(伯母の実家でもある)を訪れたとき、居合わせた親戚一同と「鎌倉に持っていくから」と撮った写真があり、それをA4にプリントアウトして持っていった。それをやたらと喜んで眺めていたので、写真というのはいいものだなと思った。
ただし、兄貴を親父に、兄貴の娘(大学生)を兄貴の妻に、従妹の娘(小1くらい)を兄貴の娘に、それぞれ見間違い、親父(自分の弟)を指さし、これは誰だと怪訝な顔をしていた。それが親父だと言ったら、「こんな花咲爺さんみたいに!」とひとしきり驚き、伯父が「ぼくらだってよぼよぼの爺さん婆さんじゃない」と呆れている。
せっかくなので写真を撮ろうと、セルフタイマーで伯母伯父と撮影したが、伯母は病気のせいでやたらやつれてるし、俺は俺でフケてるし、写真てのはよくないもんだなと思った。
警戒していた歓待は、ビール2缶とおにぎり2つで収まった。だけど暑さと飲酒で脱水気味。鎌倉駅に戻ったところでポカリスエットを買ったら、一気に飲み干してしまった。鎌倉のポカリは美味いな!
]]>小田原駅前
江ノ電鎌倉駅
鎌倉
鎌倉
東京駅前。新調したスマホは夜景に強い。AIが補正しているせいなので、写真というよりグラフィックか
鎌倉に伯母がいて、もう90近い。5月くらいに入院して見舞いに行こうと思ったが、コロナの関係で病院の面会制限が厳しく諦めた。世間的には「終わった」感の演出がかなり成功を収めているが、さすがは病院である。ようやく退院したので見舞いに行った。
せっかくの機会なので、新横浜経由ではなく、小田原経由にした。名古屋でひかりに乗換え、小田原で下車し、上野東京ラインで大船、みたいなルート。小田原で下車したのは初めてだったが、乗換時間も15分くらいしかなかったので、駅前の北条早雲像を撮影しただけで観光は終了。それにしても「小田原城」くらいしかキーワードのなさそうな町にも外国人観光客が多い。
神奈川県の横断を、新幹線以外でやるのは初めて。このため車窓の景色を飽きずに見ていたが、茅ケ崎くらいから普通の景色になってきて退屈だと思っているうちに大船に着き、そこから乗り換えた。
日本史の授業で、「鎌倉は三方を山に囲まれているため防御に優れ」云々と習ったものだが、訪れるたびにそれを実感する。電車はせまっ苦しいところを走っていく。車だと道が狭い&ルートが限られているのでかなり混む。ついでに観光客も絶えないので電車も混む。平日だからまだマシな方だ。
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朝起きたらプリゴジンが死んでいた。あまり驚かないし、同情するような御仁でもないが、世界中から「どうせ殺される」と思われていた中で案の定、ということについて、当人はこの間何をどう考えていたんだろう。それで本作を見に行ったというわけではない。
まったく関係ないが、同じころ、北米ではオオタニサンのUCLが損傷していた。全然休んでいないので何かしらのトラブルを予測していたファンも多いのではと思うが、ここまでの大怪我になったという点ではプリゴジンよりは驚きがある。なんだかプリゴジンには悪い、とはならんな、すまんが。しかし海洋放出の件含め、大谷が最も大きなニュースになっているのはさすがにどうかしていると思う。
みなみ会館が閉館するという。せっかく改装したのに。俺も『クラッシャージョウ』以来行ってなかったから、なんだか申し訳ない。そして前から見ようと思っていて見れていなかった本作を上映するというので行った。
古い映画をわざわざ劇場で見るのは贅沢なことだ。世評が高い作品で、確かに面白かった。古いということも手伝ったと思うが、「映画を見た」という後味が非常に強かった。
第二次世界大戦の独ソ戦を扱っている。大戦中の各戦闘の中で、最も死者が多かったことで知られる。だが映画自体はそこまで壮大なつくりではない。上空から俯瞰で撮ったような絵が少なく、1つの中隊しか出てこないので、扱っている範囲はかなり限定的だ。主人公はドイツ軍だが、最前線の戦闘を扱っているためか、ナチス色は薄い。
第二次世界大戦はイデオロギー色の強い戦争だが、前線の兵士の多くは、それらにちっとも興味がなかったと何かで読んだ覚えがある。実務に忙殺されていれば自ずとそうなるわな。本作には鍵十字はチラっと出てくるが、ハイルヒトラーの敬礼はまったく出てこない。
ついでに言語の問題も手伝っていたと思う。
本作の配給は西ドイツとイギリスで、原作はドイツ人による実話をもとにした小説だが、監督も主演もアメリカ人で、ドイツ軍という設定の登場人物たちは英語を話している。敵軍のソ連兵はロシア語を話しているから、結構ちぐはぐだ。こういうのは白けてしまいそうなものだが、本作の場合は、かえってどの戦争にも当てはまりそうな普遍性を出せているようにも見えた。西部劇でおなじみの役者が主役のドイツ兵を演じている分、ナチスものの映画というよりは、戦争一般の映画という毛色が強い印象を受けたといえばいいか。
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本作も、おそらく見た人の多くは現実世界の物事(多くは自分やその周辺の人々のあれこれ)と重ね合わせ、胸がスッキリしたり、逆に胸に手を当て考え込んでしまったり、あるいは何かのニュースを思い浮かべて「まさにアレと同じだ」などと制作者の慧眼に感服したりしたと思う。そしてその中には、制作側が狙った通りのものもあれば、想定していなかったものもある。
そういう中で、原爆とおかしなシンクロをしてしまったのは想定外だっただろう。本作同様、話題作となっている『オッペンハイマー』と、本国アメリカでの公開日がカブったとかで、本作の主人公バービーとキノコ雲を掛け合わせた画像がSNS上で出回り、本作の公式アカウントがその画像に好意的な反応をしたため、その不見識が非難を浴びた。
説明に手間のかかる話だ。別に本作に原爆が登場するわけではない。全然関係ないデリケートな話題に首を突っ込んで自爆したような騒動である。ただし、女性とキノコ雲がセットにされるのはアメリカではよくあることらしい。セクシーさに対する感情の盛り上がりと爆発を掛け合わせるような発想で、考えてみればビキニはまさしくその代表だ。
原爆を、いわゆる「ネタ」として扱うのは、特に欧米で見られる無理解な発想で、いまだにその発想が生きていることに驚きはしないが、がっかりはする。こういうのはその都度抗議をしていくしかないが、この逆を考えられる姿勢が現代の日本社会にどれくらいあるかは相当疑わしい。つまり、原爆をネタとして扱ったときに、被爆当事者やその国から抗議が来たとして、「いや、ネタやん」「何年前の話や」「原爆が戦争を早く終わらせた」「絶対悪と決めつけるのはむしろ正当ではない」などと反論されると、怒りを覚える人は日本には多いと思うが、そういうような反論を逆に日本の側もしている。
アジア諸国に対してだけではない。ちょうど先日、コミケでナチのコスプレをした大学生の団体が謝罪していたが、SNS上のこの謝罪の投稿に対する反応は、まさに「いや、ネタやん」と「絶対悪を決めつける側こそナチ」だらけだった。『ナチスは「良いこと」もしたのか?』のますますの増刷の必要性を感じる。
そして本作には、「私にはユダヤ人の友人がいる」という台詞がジョークとして登場する。当該団体は歴史の研究会らしいので、この台詞のどこがどのようにジョークなのか、文脈に沿って800字程度で説明せよ。この追試は、原爆写真展への後援を見送った佐世保市教委にも課しておこう。この報道が出たタイミングと、本騒動がバッチリ重なったというだけだが。
さて、ナチのコスプレがなぜダメなのかは、原爆のネタ化における立場を逆にすれば理解しやすいわけだが、こういう「逆にする」手法はフィクションでもよく用いられている。本作がまさしくそれで、こんな風に本作は色々とシンクロする。正確には俺がそのように勝手につなげているだけなのは、すでに冒頭で述べた通り。
主人公のバービーは、多数のバービーとともに、バービーランドで楽しく暮らしている。バービーにはボーイフレンドのケンがいるが、バービーの添え物的な立場でしかない。これはもともとの玩具がそうなっているからだが、ケンの立場は現実世界の女性を象徴している。つまり、世の女性がしばしば味わう気分を、特に男性にとってケンを通じてわかりやすく提示されている格好である。
2人は、諸事情で現実世界をさまようことになるが、女性が中心のバービーランドと異なり、現実世界は男性中心。バービーは困惑し、ケンは逆に自信を持つようになる。例えばバービーの製造元であるマテル社の役員室には男性しかおらず、以前話題になった「かながわ女性の応援団」状態になっている。それだけでなく、バービーは街中で、男性たちから助平な目でジロジロ見られ、尻まで触られる。
ちょうど大阪の音楽フェスで、出演者が観客から胸を触られたという事件が起きたばかりだから、妙にタイムリーになってしまった。案の定、露出の多い服装で客に近寄った方が悪いとかなんとか、痴漢を擁護する意見が少なからずあり、中には身分を公にしているSNSで発言している手合いもいた。本作に登場する男性陣はどれもかわいいものである。
俺が思い出したのは『アメリカを変えた夏 1927年』のエピソードだ。本書によると、着陸したリンドバーグや本塁打を打ったベーブ・ルースに対して、当時の人々は飛行機の部品やバットをもぎ取ろうとして殺到したとある。これと一緒なんじゃないか。日本だけ19世紀のままだ。
長嶋茂雄が引退するとき、球場のフェンス際を一周してファンに御礼を言いたいと長嶋が希望したところ、そんなことをすれば客が乱入してきて大変なことになると球団側は反対したと、昔なんかのテレビ番組で見た覚えがある。結局希望が通り、懸念した混乱も起きなかったのだが、長嶋に触ってはいけないことは半世紀前に学習しても、女性歌手を触ってはいけないことは学習していなかったらしい。国連人権理事会は常駐にした方がいいんじゃないのか。「新しい戦前」ならぬ「新しい占領期間」だ。
話が逸れた。本作は、玩具の世界の描き方は非常によくできている。確か『ドラえもん』に、ミニカーに乗る話があって、あれを読んだときに自分のミニカーを眺めて「運転したいなあ」と思ったんだけど、あのときの懐かしい感覚を思い出した。バービーで遊んでいた人なら尚更だろう。俺はよく知らない玩具だが、知っていたら笑ったり感動したりする場面もいくつもあったのだろうと思う。
液体が出てこず、マイムで済ませているのもいかにも玩具の世界っぽいが、同時に演劇のようでもある。そういえば、バービーがマテル社の社員に追いかけられるシーンや、グロリアの長尺の見事な演説の場面のように、いかにも演劇の演出のようなシーンも目立った。確かに、人形とドールハウスで遊ぶのは、演劇と似たような世界である。
こんな具合に、玩具の世界の映画化という点ではかなりの出来で、そのような非現実世界の装置でもって、現実世界の問題点をえぐっていくというテーマ性も面白い。ただ、こういうのは結構難しいものなんだなと改めて思い知らされた面もあった。
男女格差という現実世界の問題点を扱うだけに、どうしても現実世界の「あるある」を持ち込むことになるのだが、バービーという玩具の設定を借りてそういうことを浮き彫りにしていくはずが、どうしても現実の「あるある」の方に引っ張られてしまう。
例えば、「マンスプをするケン」「弾き語りでオリジナルソングを歌うケン」はいずれも男性の痛々しい「あるある」で、声を殺してかなり笑ったのだが(身に覚え?もちろんあるさ!)、単体としてはよくできていて笑えても、玩具の世界を借りて戯画化するという文脈にはどれくらいハマっていたか。
現実世界で暮らす少女サーシャは、かなりトガったおもしろ登場人物であるが、バービーランドに行ってからは、すっかり影が薄くなっていた。これは彼女のキャラが玩具の世界にはうまくフィットせず、活かし方が見つからなかったからだろう。
さて現実世界のあれこれを盛り込んだだけに、童話のように「その後、バービーは幸せに暮らしましたとさ」では終われなくなってしまったところ、見事に終わらせていた。これでしっかり帳尻は合ったと思う。
「Barbie」2023年アメリカ
監督:グレタ・ガーウィグ
出演:マーゴット・ロビー、ライアン・ゴズリング、ケイト・マッキノン
暦と台風の関係で、今年の帰省ラッシュは前倒しになった。こちらは兄に合わせるだけなので、自ずと世間の標準と一致することになる。ギリギリ指定席を買えた。ホームでは、「すでに自由席、指定席とも満席です」とアナウンスが流れていて、自由席の客は指定席も含めたデッキに行くよう案内しているのだが、不思議なことに自由席車両に並んでいる人々はそのままそこに並び続けている。指定席のデッキ目的で移動する人はごくわずか。
隣の席の若人は、座席のポケットに、紙のバインダーを何部か差し込んでいた。薄青とか薄オレンジの紙のバインダーを今時使っているのは教員だろうか。そのうち観念したようにスマホを片付け、テーブルを出してバインダーを広げてシャーペンを握った。ちらっと横目で伺ったら、「クラスだより」などと書いてあるのが視界に入ったから、御名答であった。
そんなアナログだから労働負担がどうのという話になるのだ、と言うのは簡単だが、すでに出来上がっているシステムがあるだろうから、現場任せで変えられるようなものではないし、現場任せになっていなかったら辞めたり寝込んだり死んだりする教員はおらんだろ。
到着して、近場の店に昼飯を食いに行った。当然、カツ丼おろしそばセット。久々の店だったが、あれ?こんなにミニサイズだったっけ。900mlパックと同じ現象だろうか。
諸事情で、ちょっとゆっくり目に帰宅しようと思っていたので、周辺を少しうろつくことにした。ド晴天でクソ暑いが、青空が映えるのは数少ないイイことだ。そして真昼間だが誰も人がいない。休日になると官庁街がゴーストタウンになるというのは、東京でもそんなものだったりする。ましてや地方都市。簡単に『28日後』みたいな人のいない景色が撮れる。
さてしかし、グーグルマップによるとこの辺に岡田啓介の像があるはずだが見当たらない。もしやと思って検索したら、7、8年前に駅前に移転していた。帰省のたびに、「なんか像が立っている」程度には認識していたやつだった。ハゲ、ヒゲ、和服、ついでに杖もついているから、江戸時代のよく知らん茶人か文人の誰かだと勝手に思って特に気にも留めていなかった。写真を撮りに行ったが、気に留めている人は誰もいない。そもそも岡田って誰?という話だろうし。
円内は、二・二六事件のときに首相と間違えられて殺された義弟の松尾伝蔵。こちらも元々母校にあったのを岡田の隣に移転した。元陸軍の軍人で、日露戦争やシベリア出兵に従軍。日露戦争は俺の曽祖父とその弟も従軍しており、松尾と同じ師団なので同僚みたいなものか。
以前に福山での仕事のとき、ペリー来航の際の老中阿部正弘について、「福山城のとこの銅像の人です」と説明したら、学生は一様に「そんな像あったっけ」という顔をしていたものだが、地元民はそんなものである。
阿部に比べると、知名度ではさらに劣りそうな岡田であるが、岡田内閣は、天皇機関説事件というネトウヨの精神運動のような与太に屈して国体明徴声明を発したことで知られる。実にタイムリーな内閣といえる。8月という季節柄にもぴったりで、郷土の空襲だけ語り継いでもしゃあないよ。その前段にこそ失敗の教訓があるんだから。
秀才で常識人、清貧、酒豪という県民の鑑みたいなおっさんで、安倍、菅と違って、もともとはそっち側ではなかったのが(岡田の立場は美濃部側であり、回顧録では「自分のやるべきことは、こういう独裁的な動きを押さえて立憲主義を守っていくことにあった」と振り返っている)、どうして間違えたのか、正確には、間違えざるを得なくなった当時の社会はどのようなものだったのか、教育的価値はかなり高いと思うけどね。昔読んだときに比べ、今回顧録を見直すと、今との共通点が強い分、肌触りがだいぶ違う。現行版は解説が戸高一成だが、手元にある2001年版は解説が森村誠一だった。これまたタイムリーな。
翌日は、数年ぶりに親父の実家に墓参りに行った。従兄とも久々に会った。60過ぎてるはずだが、まったくそんな風に見えない。とても穏やかな性格で、話し方もゆっくりしているので、時間が流れるのが遅いのかもしれない。標準時では60過ぎだが、当人時間では40過ぎみたいな。頭髪がふさふさなだけでなく、ツヤツヤしてるしなあ。すぐそこに目が行く。
帰りにやってるのかどうかさっぱりわからない、香川のうどん屋のような商売っ気のない店で蕎麦を食い、晩飯の買い物に、たまに行く美味しい肉屋に寄った。色んな種類を100グラムずつ注文して、チョビっとを色々食うという種類の贅沢を試みたわけだが、肉100グラムというのはミカン1個分くらいのかさなので、色々注文した割にはトータルの分量は知れている。少ないかもという少々の不安と、哀しいかなこれで十分という予測が同居したわけだが、やはり十分な量だった。
さて台風が来るというので早々に引き上げたわけだが、あえて遅めの電車にして、再び地元の映画館で『マリウポリ 7日間の記録』を見た。撮影中に監督が親ロシア側につかまって殺され、妻とスタッフが遺された素材を編集して仕上げたという曰くつきのドキュメンタリーである。そういうハードな制作過程な上、そもそも渦中の戦地に乗り込んで人々の日常に迫ったという意気込みには頭が下がる。このため大変感想が書きにくいのであるが、すでに述べた制作経緯が最もインパクトがデカい映画だ、という感想にとどまった。毎日、雷が激しく鳴っている、くらいの爆発音の中で、人々が日常を過ごしている様子はとても印象的だったが。
終わって飯時なので、近くにある地元有名チェーンの本店で晩飯を食おうと思ったら、人気ラーメン店くらいの行列ができていて驚愕だった。感覚的には天下一品やココイチに行列ができているようなもんだろうか。当然、並んでまで食うもんじゃないだろと思えてしまって辞去した。
道路の対岸にあるのは全国チェーンの焼鳥屋の本店。こちらは昔から混んでいる。
結局別の店で目的のメニューを食べた
「Mariupolis 2」2022年リトアニア/フランス/ドイツ
監督:マンタス・クベダラビチウス
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作中「映画音楽は最も巨大になった」旨の発言をしている人が出てくる。「20世紀最大の音楽ジャンルといえば」と問われると、ついビートルズだのマドンナだの、あるいは美空ひばりとか、とにかく歌手が中心をなす形態を想像するが、最も人口に膾炙したという点では、確かに、映画音楽のような気がする。
最も有名な映画音楽というと、「スター・ウォーズ」あるいは「ロッキー」になるのかな。日本限定だと「仁義なき戦い」だろうか。あれは音楽というより効果音といった方がいいかもしれないが。
明確に「それ」とは認識していなくても、曲に触れると「なんか聞いたことある」と思う頻度が歌謡曲より高いのは間違いなさそう。歌詞がない分、汎用性が高く、色んな場面で使いまわされているからだ。
これはつまり、商業的に成功した分野ということだ。『テノール』の評で、ロックとかラップとかの商業音楽を演奏する人は、古典音楽を否定しないし、むしろしばしばパクっているということを書いたが、逆にクラシックは商業音楽を格下に見る傾向がある。少なくとも、本作の主人公であるエンニオ・モリコーネのころは根強かった。
そういえば佐村河内騒動のときも、彼が作ったとされていた交響曲は「一般大衆にウケがいいベタな曲調だ」と、クラシック界での評価は高くなく、こういうお高くとまったような態度が騒動の背景にあるのではと分析している音楽家がいた。現代でも、商業性を格下に見る感覚はまだ残っているのだろう。
モリコーネは、名門音楽院を卒業した経歴から、当人も「生活のためにしゃあなくやる」くらいの感覚で映画音楽をやり始めた。ところが才能があったのでどんどん依頼が舞い込むようになり、とんとん拍子に業界の第一人者になっていく。だが、音楽院の恩師や同窓生からは「金に魂を売った」的に見なされ、当人にもかなりコンプレックスがあったようだ。外野の素人からすれば、悩む理由は何一つないから、人間の苦しみは色々だと心底思わされる。
当人の希望や自己評価と、他人が寄せる期待や評価が矛盾するというのは、芸術分野ではよくある話。モリコーネの場合はそれだけでなく、自身の希望や事故評価が、そのまま映画音楽でも発揮されている。「矛盾」と「一致」が共存する、いわば二重の矛盾によって映画音楽の新機軸が生み出されたというのがおもしろい。おかげで彼はパイオニアになったのだと思う。
例えばモリコーネは、「メロディは出尽くしている」と、今後のあるべき音楽としての展望を見ていない。そのくせ当人は印象的な旋律を作る能力に長けている。モリコーネは、「メロディの次」に位置づけられる前衛的な実験音楽を好み、楽器とは見なされない物体の音を取り込んだり、単純な音階の繰り返しを取り入れたりしている。これが「新しい」と評価される素地となる(携わった映画が、いずれも予算不足でオーケストラが使えなかったという事情もあったらしい)。つまり、本当はやりたくないことも、本当にやりたいことも、いずれも彼は才能があり、そして映画音楽はどちらも欲しがる雑食性があったということだ。
だが、結局は自分が慣れた旧来の方法を変えられないだけに過ぎない、といわれると、あんまり否定できない。
とにかく、毎度おなじみのレンタル屋に行ったら、閉店のお知らせが貼り出してあった。今更驚きはしない。よく続いた方だろう。
こういう状況と本作は、重なる点がある。
舞台(ハリウッド)と長尺(3時間)である点は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」と似ている。あちらは1960年代のハリウッド、本作は1920年代のハリウッド。どちらも「古き良き」と語られがちな時代で、そこも似ている。役者も一部カブっている。
あちらは何だかよくわからないダラダラした展開ながらなぜか見てしまう不思議な作品だったが、本作は特に前半はゴージャスなスペクタクルながら、全体的には割と退屈だった。「前半はド派手で刺戟的ながら、時代が下った後半は退屈」というのは、「あの時代はよかった」という懐古趣味にそのまま直結している。
60年代に比べると、20年代は映画界における有為転変が激しい。
ハリウッドが映画の都として踏み出すのは1910年代のことだ。この辺の話は『映像の世紀』でもよく説明されている。エジソンの独占を嫌った人々が、彼の目が届かない西海岸に拠点を移し、晴天が多いのが撮影条件的にも恵まれているという事情も加わり、間もなく映画製作の中心地となった。
20年代はアメリカ経済が好調だった時期で、映画にしろ、車、野球など、アメリカ的なものが大きく発展した時代でもある。富を得た映画関係者は、夜な夜な乱痴気騒ぎを繰り返し、しまいに地域住民から疎まれて、「役者お断り」という不動産物件も現れたとか。本作の冒頭は、まさにこのハリウッド勃興期の乱痴気が描かれている。
だがこういう何でもアリの無軌道は、長続きはしないのが常だ。巨大産業に成長すれば、周囲の目も厳しくなる。ついでに20年代は世界恐慌とともに終わるので、経済的にも辛気臭くなった30年代には、派手な遊びもナリをひそめることになる。
この時期のもう一つの大きな変化は、無声映画からトーキーへの転換である。映像を音声付で撮影できるようになったことで、この大変革に対応できない役者は落ちぶれていくことになる。こちらは『アーティスト』とテーマがカブっているが、あの映画が俳優だけに焦点を当てていたのに対して、本作は、字幕担当の人が首になったり、初期の録音の難しさが描かれていたり、周辺についても描かれている。
録音の難しさについては、『ようこそ映画音響の世界へ』でも説明されていた。マイク性能の問題で、収音できる範囲が狭いため、ドッキリ番組のカメラのように、セットのあちこちにマイク隠して撮影に臨んだらしい。
本作ではマイクは天井にぶら下がっているだけだが、音を拾える範囲の都合で、役者が台詞を言う位置が厳密に定められることになり、これまでは存在しなかった音声NGに役者やスタッフがイライラさせられる。
このシーンはしつこいくらいNGがあるので、ウンザリした人もいるのではと思うが、個人的には冒頭の乱痴気スペクタクルの場面よりはるかに面白かった。
風の音を拾うからと空調を止めて暑い中で撮影するとか、役者はちゃんと演じているのに、周りのスタッフが余計な音をたててしまってNGになるとか、「これは一生終わらないのでは」と錯覚するくらいNGが続くと、OKテイクが撮れたときにまるでクランクアップしたかのように全員でハイタッチしてしまうとか、身に覚えがある要素が多かったからだ。ま、逆にいえば、内輪受けのシーンということなんだろうが。
さてこの映画技術の大転換によって落ちぶれるのが、大物俳優だったジャックだが、どうして彼が笑いものになるのかはうまく表せていなかった。モデルとなった実例の人の場合、声が見栄えとアンバランスに甲高かったせいで人気を失ったらしいのだが、演じているブラッド・ピットは見栄えと釣り合った声質である。「実は台詞回しが超大根だった」というのなら声は普通でもトーキーが命取りになりそうだが、そういう演出にもなっていなかった。苦し紛れか、評論家にそれっぽい理由を語らせていたけどだいぶ苦しい。
仕事を失ったことで自分を見失っていくジャックの喪失の演技は見事だった。人気者が地位を失ったというだけではない。自分の慣れ親しんだものが新しいものによって駆逐されたとき、慣れ親しんだものに思い入れが強いと、まるで自分まで用無しになったような錯覚を覚える。さすがにレンタル屋という形式の消滅にそこまで思うことはないが、うっすら漂う寂しさの質自体はどこか共通しているように思う。
主人公ウナは運び屋で、ワケアリの人やモノを、指定の場所で受け取り、指定の場所まで運ぶ。運転技術が物凄いという設定で、冒頭のシーンでは、釜山の路地裏を旧型のBMWで縦横無尽に駆け抜け、ヤクザ(?)の追跡を振り切るカーアクションが描かれている。
ただし、車の運転技術の高度さだけでは話がもたないのだろう。犯罪に巻き込まれ、警察や殺し屋に追われるようになると、随所でウナの機転やアクションが描かれ、それによって話を転がしている。不意の襲撃を受けたときに備え、敵を煙に巻くようなトラップを仕掛ける機知を見せたり、屈強な男相手に、いまどきのテクニカルなプロレスラーのごとく、複雑な技を使って堂々と渡り合ったり、とにかく色々と能力が高い。
一介の運転手なのに、どうしてこんなスパイ大作戦かマスター・キートンのようなサバイバル能力と戦闘能力を持っているのか。そこに説得力を持たせるための背景が、ウナが北朝鮮からの脱北者だという設定である。
こういうときに、ああいうミステリアスな閉鎖国家は便利だ。家族をすべて失ってしまうような地獄とすぐ隣り合わせであるような、極めて深刻な社会状況も相まって、そういう地獄を生き延びて、命からがら亡命してきたという経歴なら、ヤクザを撃退する程度の能力を備えていても不思議ではないように見えてしまう。
だけど、こういう利用の仕方はいかがなものかとは思う。
確かに、生きるか死ぬかの状況を潜り抜ければ、ちょっとやそっとでは動じない肝っ玉とか、生き残るためのいくつかの機転くらいは身につきそうな気はする。ただし、特殊部隊のような戦闘能力はさすがに身につかないだろう。もしかすると兵役を済ませた韓国人男性の方が、よほどその手の技術は身につけているのではないか。『クロッシング』に登場する父親は、サッカーが得意なことを除けば、これといって特殊なスキルの持ち合わせなどないごく普通のパパであった。あれが脱北者の実態であろう。
そして韓国社会には、それなりの数の脱北者が生活している。検索して出てきた新聞記事によると3万3千人ほどとのこと。人口比ではわずかだが、決して少なくはない。それらの中で、ウナのような能力を持つ人がどれくらいいるのか。ほとんどが、持っていたとしても常識的な範囲内のスキルにとどまるに違いない。
そういう実態に照らすと、脱北者というだけで突出した戦闘力を持つという設定は、「インド人だからめっちゃ数学が得意」とか「ブラジル人だから超絶サッカーが巧い」とかと同じく、ステレオタイプまみれのアウトな表現なのではという気がした。何年かすると、少なくとも「設定が古い」と思われることになるんじゃないかしら。「金に汚いという設定のキャラが、関西弁を話す」のと似たような具合に。(これまで学生相手に「ステレオタイプ」について解説する機会が何度かあったが、それこそ「設定が古い」はさすがに消えていくので、年齢差があると通じなくなる。「パソコンが得意な人は感情表現が乏しい」は、昨年まだ通じた)
「子供の軽率さによってピンチを招く」という安易な展開がごく控え目にしかなかったのはよかった。この辺はさすが。あと、ウナが、強くたくましくかつ感情表現薄めのキャラなのだが、「そのくせ実は母性たっぷり」みたいな描き方になっておらず、誰でも持ち合わせている程度の博愛主義に収まっているのもよかった。
「특송」2022年韓国
監督:パク・デミン
出演:パク・ソダム、ソン・セビョク、チョン・ヒョンジュン
例えば犯人の造形。言動の少々おかしな知能犯を演じるのが、ツルっとした顔つきの20代(?)男子というのがステレオタイプどまんなか。こういう感じのサイコ野郎は食傷気味だなあ。ソン・ガンホ演じる刑事の片腕的な刑事が、能天気&直情径行でどうもどんくさく、こんな刑事おらんやろと妙に目障り。「あれ?日本のテレビ局制作にありがちなダメなエンタメ作品かしら」といぶかしんだが、持ち直した。
時勢を反映して、航空パニックといってもハイジャックや機体トラブルではなく、感染症、正確にはバイオテロが題材になっている。コロナのせいで『新感染』よりもリアルになっているように見えた。
例えば、作品序盤では感染→即死くらいの強毒性を発揮していたウイルスが、途中からはそうでもない点。かつてならいかにもご都合主義に映っただろう。
感染後に無残に死ぬくらいの強毒性でないと、周りが恐怖を覚えない分、パニック映画としては成立しにくい。さりとて「強い感染性と毒性」だと乗客全員がさっさと死んでしまうので話がもたない。
結局、特に説明もなく「残りの人はゆっくり体力が衰える」という展開になんとなくなっている。完全にご都合主義であるが、コロナの実態を踏まえると実際にもこんな感じかもしれないと思う。密閉空間にいるのに、どういうわけか各自の感染にタイムラグがあり、さらに症状にも差が出る。コロナでいくつも実際に観測された現象だ。
回復後の様子に差があるのもいかにも。こちらは一応、そうなった理由について軽く言及があったが、コロナでも、罹患後の症状にはかなりの個人差があり、人によっては後遺症に長く苦しんでいる一方、快復後はぴんぴんしている人も珍しくない。ところで肺は回復しない臓器なので、重い肺炎から快復しても肺は損傷したままという。
このように、妙にリアルに感じる点がある分、実際これが日本で起きたらどうなるのだろうと考えてしまう。以下ネタバレ。
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買おうと思って、うっかり出遅れたらもう軒並み売り切れていた。多分、個々の書店では2〜3冊しか仕入れてないから、ちょっと話題になるだけで一気に売り切れる。だから人気小説家の新作が売り切れるほどの売れ行きではないと思うが、それでもちょっとした現象なんじゃないのか。
何しろ岩波ブックレットだ。知人が紀伊国屋で、岩波ブックレットはどこに置いてるか店員に尋ねたら、TACかLECのパンフレットと勘違いされたようだ。そのくらい知名度が低いシリーズだ。あの超一流書店紀伊国屋の店員が知らないくらいだからね!
まあ、知らないだけで、たまにヒットはあるのだろう。以前に「この映画館がここまで満員になるのは初めてですか」と七藝の館長に質問してた報道陣を思い出した。「いや、何回かあったと思いますが」と、なぜか自信なさそうにしどろもどろとしていた館長の好感度たるや。
正確には、本が売れること自体が「現象」ではなく、すでに起きている「現象」が動因となって出版された本だ。その現象とは「ナチスは良いこともした」という言説の流行・定着である。
「あのナチス(ヒトラー)」が、「失業対策などによってドイツ人の生活向上を進めた」という言説は、今に始まったことではなく、昔から言われていることだ。たいていは「そのような政策で大衆の支持をつかんで独裁体制を確立した」と、続きがある。この「続き」を切り離して、「内政に成果を出した」という部分を強調するのは、歴史の書籍やテレビ番組ではやらないだろうから、インターネットの発展によって、そこだけ取り出す言説が流行り出したのかと想像する。
実際、この本の企画背景には、SNS上の言説があったようだ。というか、著者の1人田野大輔のTwitterでは、本書の問題提起そのまんまの人々が田野に粘着している様子が日々観測できる。
氏はいちいち「そうではないということを本書で明らかにしています」「そのことについては本書で説明しています」などと返答している。本の中で述べていることが、現在進行形で本の外で展開している。本の読者が本の中に迷い込む『はてしない物語』ではなく、本の著者が本の外で本の世界に対面させられる「逆はてしない物語」のようになっている。
それにしても、「ただのしょぼい爺さんかと思ったら実はイップマンだった」というマンガでしか起きえないような場面が、SNS上ではいくらでも起きている。「じじいが実はイップマン」だと、一瞬でとっちめられて「わーん」と逃げていくのがオチだが、学者に絡みつく場合は、自分がとっちめられていることがわからない(わかろうとしない)ので、トンチンカンなマウントをいつまでもとり続ける。
こういう本があると、これを読めで終わるので、まことによい企画だと思う(こういう連中はまず読まないのだが、中には自分の誤りに気づく転機になるのも稀ながらいるだろう)。本書の内容は、ナチ関連のまともな書籍には多かれ少なかれ書いてあることが多いが、こうやって改めてそれこそを主題にしてまとめるのは重要だ。法律学者の人は「権利と義務はトレードオフではない」を書いて欲しい。それこそLECのパンフレットコーナーの隣で売るとよい。あと教養バラエティ番組の取材被害に遭った学者全員の共著で、『ボーっとしているのはむしろチコちゃん』を頼む。
この「イップマンに絡む身の程知らず」を何人も観察するにつけ、ものを知っていく際に陥ってしまう誤謬には色々なパターンがあると気づかされる。ベーコンはそれをイドラと呼んだ。「種族」「洞窟」「市場」「劇場」の4つのイドラに加え、個人的に気になっているのは、相対化したがる態度である。賢しらな人間に多い傾向なので、優等生のイドラとでも呼んでおこうか。
自分も身に覚えがある。初期の映画評では、そういうスタンスでまとめているものも少なくない。「物事の両面を捉える」というのは評価を考える際の基本なので、いわば入門篇みたいな話だ。そこでとどまってもしゃあないよというのは、ソクラテスがソフィストを批判したときから指摘されているはずだが、人類はいうほど成長しないようだ。相対化するところで満足して終わってしまうケースは多い。というわけで仁和寺法師のイドラと呼んでも差し支えない。
「ナチを絶対悪としてしまうのは、絶対善とした当時のドイツ人と同じ思考停止だ」とでもいっておくと、割と鋭いことを言っている気分になれる。これは身の程知らずの有象無象に限らない。東浩紀や町山智浩のように、文章を書いて金を貰えている立場でも、(ナチとは別の分野の諸問題について)これと同種のロジックにとどまった物言いをしていることがある。単著は出せていないが、雑誌等に署名の記事は出せているくらいの物書きだと、これしか持ち芸がないのがわんさといる。要は編集者連中が、石清水の手前の神社にとどまっているということだ。
先日友人と喋っているとき、彼が確か山下達郎ファンではなかったかと思い出し、山下達郎の醜態について持ち掛けると、ガッカリした旨、無念そうに語りながら、「でもあの松尾さんて人もどうかと思う」と言う。松尾氏の言い分に信用できない点があるとか批判が的外れというのであれば(ないしは山下にも理があるというのであれば)、「彼も彼でおかしい」という対比は成立するが、そうではないので論理破綻している。
この友人は、以前何人かで維新のおかしさについて話していたときも、維新ではない別の県の知事の名前をあげて「あちらもタイガイだ」などと言っていた。彼は別に維新支持ではない。どうしていちいちこういう相対化をしてしまうのか。新聞記者のように両論併記したがる「バランス作法」が染みついているのかもしれない。何の話題でも自分の守備範囲に持ち込みたがるやつなので、そのせいのようにも思う。
例えば俺が「MLBにこんな面白い選手がいる」という話をすると、「昔のヤクルトにいた誰それと似てる」のように、「詳しくないMLBの話」を「詳しいNPBの話」に置き換える。これと同じく、「維新のおかしさ」を「より詳しく知っている首長のおかしさ」に置き換える。
これは山下達郎の例には一見当てはまらないのだが、「何が起きているのかよくわからない事態」を、「お互いそれぞれ言い分があるよく見かける口論」に置き換えていると考えると腑に落ちる。
ヒトラーの犯罪については学校の授業で習うし、歴史番組でも映画でもそのように語られるから、その「悪」はよく知られている。これを覆す「良いこと」が提示されると、にわかに話が難しくなるから、「絶対悪だとして異論を封じるのはおかしい」と知ってるレベルのロジックで終わらせる。こういうことだろうか。すぐ恋愛に例えて説明する人はたいてい教養がなく、例えに使える「知ってること」が恋愛しかないという、あれと似たようなことか。(アウトバーンを「良いこと」として切り取りたくなる心的構造の問題点については本書に譲る)
本書は、アウトバーンに代表される「良いこと」が、誇大広告だったりナチが始めたわけではなかったり、あるいはその目的が実に極右的であったりといったことを明らかにしながら、いずれも「良いこと」とは言い難いことを明らかにしていく。
つまりは、相対化する前に個々の事実そのものに向き合って、それを細かく確認していくことが重要だということである。こう書くとものすごく当たり前に映る。
やはり、よくわからないものを得意分野に置き換えることで相対化が生じているという仮説は、いい線いっているかもしれない。優等生のイドラ、仁和寺のイドラ改め、ヤクルトのイドラとしようか。まったく意味がわからんな。
2023年岩波書店
著:小野寺拓也、田野大輔
本作の主人公の1人、ファロン・フォックスは、トランス女性として女子格闘技に参戦した人だ。格闘技の「不公平」は、命にもかかわるからサッカーどころではない。彼女の正当性はどういった具合なのかが気になって見た。
フォックス選手は、『メジャーさん』に登場した多くのトランス女性と異なり、外見ではわからない。一般の女性よりは体格がイカついが、格闘家なので普通だ。彼女よりガタイのいい対戦相手が登場しているくらいだ。
では「不公平」の問題はどうなのかというと、「五輪基準を満たしているので何の問題もない」という専門家の意見が紹介されるくらいで、あまり詳しくは説明されなかった。とにかくスポーツ界はとっくに「元男だから不公平だ」という原始のレベルを通り過ぎており、色んな検討を経て、トランス選手も含めた基準作りが進められているらしい。
この程度のことはわかったのだが、それ以上はよくわからず物足りなかった。こういった基準のために、セメンヤのような難しい事例も出てきており、そしてそれも含めた次なる検討が重ねられているだろうからもっと知りたいのだが自分で本を借りて勉強しろという話だろうはいわかりました。
本作は、フォックスの苦悩やその気高さに焦点をあてている。そして同時並行して登場するもう1人が大学バスケの選手テレンス・クレメンスだ。
最初はトランス男性かと思ったが、そうではなく、ゲイの選手だった。
ラピノーやナブラチロワのように、レスビアンを公言している女子アスリートはそこまで珍しくはないが、男子の場合は現在もレアケースだ。本作には、ゲイであることがバレたことで、奨学生を取り消され、ついでにこれまでの学費の請求書まで届いたという酷いケースが紹介されている。
男子の場合、『大いなる自由』のヴィクトールと同じく、自分が性のターゲットになるのではと恐れ出すので、ロッカールームでの着替えやシャワーで同席するのを拒むようになる。
こういう事態がやすやすと想像がつくから、テレンスは自身のセクシャリティを隠す。だけど、黙っていれば済む話とはならない。男子同士、彼女の話や猥談が自ずと発生するので、そういう場合にいちいちはぐらかす必要がある。結果、「ノリの悪いやつ」になり浮いてしまう。じゃあテキトーに「おっぱい最高」とかいって合わせればいいかというとそういうわけにもいかないだろう。その居心地の悪さは想像がつく。
例えば年かさの人間だらけの場で、「最近の若いやつはなってない」のようなチンケな話になったとき、そんな与太には乗りたくないから応答はぞんざいになる。頭ごなしに否定して波風立てることはしたくないが、さりとてポーズでも同調するのは抵抗がある。こういう場面でやんわりと「それは違う」と周囲に納得させるように話を持っていく器用な人もいて尊敬するが、そんな技術がなければキツい時間を過ごすことになる(マイルドな事例に置き換えたが、実際には、もっと「勘弁してくれ」と言いたくなるキツい話題に付き合わされた)。1日だけでも疲れるから、毎日のように続くとなると、想像するだけで陰鬱だ。おそらくテレンスはこれと似たような日々を過ごしていたのだと思う。
フォックスの葛藤、テレンスの苦悩を見ているうちに、なんだか『42』を見ているような錯覚を覚えた。存在自体が罵声を浴びる。この場にはふさわしくない、ふさわしい場(トランスだけで対戦するような場)でやるべきだなどと言われる、シャワーを使うことのトラブルを恐れる、全部『42』に出てくる。かつて「肌の色」だったものが、今度は性志向、性自認に差し変わって、また同じようなことを繰り返している。
テレンスの刺激となった存在が、NBAのジェイソン・コリンズだ。北米四大スポーツで初めて同性愛をカミングアウトした。当時のオバマ大統領やスター選手であるコービー・ブライアントが彼の勇気を讃えたから、テレンスにとっては希望だ。一方で、自分はこんなに立派になれないというプレッシャーにもなっただろう。『大いなる自由』に登場するレオは、屈しないハンスのように自分がなれないことで死を選んだと推察される。
テレンスが駄目元で(おそらくSNSで)悩み相談をコリンズに送ると、なんと当人がやってくる。ああ、これがスーパースターなんだなあ。とんでもなく格好いい選手だ。コリンズは、物腰柔らかく、テレンスの苦悩に耳を傾け、おしつけることなくただし端的に要点を言う。かなり頭のいい人のようだ。ただ、意志の強さと協調性を両立させる彼の姿勢は、ジャッキー・ロビンソンがやったこととかなり同じなんだよな。やっぱり『42』を繰り返しているんだ。
ただし、実力と人格で周囲を黙らせた背番号42番と異なり、フォックスの場合は実力を発揮すると「それ見たことか」につながってしまうので余計に困難だ。彼女が敗れたとき、むしろ安堵したという支持者もいたんじゃないのかなあ。まあ42も、実力を出したらすぐ周りが認めたわけではなく、特に一軍半の選手には恨まれただろうから、同じといえば同じか。
作中、露骨に嫌悪感をぶつけてきて警備員につまみ出されている明らかヤベー客が出てくるが、あいつも別に「不公平だから」罵倒しているわけではなく、とにかくそういう存在が嫌だから騒いでいるだけだ。どう見てもそう。だから公平/不公平というのは、それっぽい補強材料でしかなく、真ん中にあるのはやはり差別だ。フォックスは戦うほかなく、こちらはただ応援するだけだ。
「Game Face」2015年アメリカ/ベルギー
監督:マイケル・トーマス
アメリカのトランス差別と長く戦い続けてきたビッグママみたいな人が主人公のドキュメンタリーだ。タイトルはその人の名前である。メジャー・グリフィン・グレイシーという彼女の半生と、その活動によって救われたという人々との証言でつづられている。
アメリカ社会でトランスが犯罪者になる構造がつまびらかにされていて、文字通り勉強になった。
自分が生まれたときの性別と「違う」と言い出すと、親が彼/彼女らを勘当して家を追い出す。親の保護がなくなるので、生きていく選択肢は限られる。メジャーさんの場合は大学進学できたようだが、異性装が犯罪だった時代なので、女装した途端に寮を追い出され、大学もクビになった。結果、困窮する。
トランスの場合、ホルモン治療などの医療費がかかる分、余計に金銭の問題が切実になる。困窮すると犯罪との距離が近くなる。?はみ出し者?になってしまっている分、チンピラとの接点も増えてしまうのだろう。
ついでにアメリカの場合、ニクソン政権以降の厳罰傾向に加え、刑務所の民営化も手伝って収監者が増える一方なので、余計に服役の可能性が高い。これは黒人差別にも当てはまる話だから、『憲法修正第13条』でも指摘されている。
刑務所に入ると暴力が待っている。腕力だけではなく、性暴力も込み。トランスの受刑者が保護を訴えると、刑務所側は独房に移すことで「保護した」と位置付ける。国連の基準では15日以上の独房収容は拷問になるらしい。つまりそれだけ精神を削る。日本では入管で同種の人権侵害が観測できる。こういう事情で刑務所で心身に深刻なダメージを受ける。
メジャーさんは受刑者に手紙を書くなど、孤立無援のトランスの人々を支援する活動を長年続けている。彼女を称賛するトランスの人々のほとんどが黒人で、そして歯がない人が目立つ。すでに述べたようなメカニズムのせいだ。白人のトランスや裕福なトランスは本作にはほとんど登場しない。
面白かったのが、ストーンウォールの反乱の逸話だ。アメリカで同性愛が合法になるきっかけとなったゲイの抵抗運動の始まりに位置づけられる事件だが、その現場にメジャーさんもいたのだという。彼女によれば「反乱」で活躍したのはトランスの人々らしいのだが、現在では「同性愛の人々の抵抗運動」という語られ方をしていて、トランスはいないことになっていると彼女は憤慨している。「弱いものがさらに弱いものを」の差別あるあるだ。
このメジャーさんという人は、後世に語り継がれるべき凄い人だと圧倒されたが、それ以上に、最後に説明される「撮影中の死者」に圧倒された。戦争映画並みに死んどるやないか。暴力によって死んだ人が多くを占める。病気の人もいるが、医者が診察を嫌がるなど、差別による間接的殺人なのだとメジャーさんは怒っている。
以前に、カルーセル麻紀がインタビューで、「友人の多くが自殺した」と語っていたのを思い出した。自分の周辺でも、かつての同窓生(顔と名前を知るくらいの関係性)で死を選んだ人間が何人かいるが、その中にはセクシャリティの問題で追い詰められたケースもあったのかもと今更思った。
差別は生死に関わる問題だというのが日本社会では今一つ理解されていない。先日も、性自認が複雑だったと思しき芸能人が死を選んでいた。報道では「誹謗中傷があった」なんて言われていて、相変わらずこういうときに「差別」という言葉を使いたがらない。この若者に浴びせられた言葉は、文字通りの誹謗中傷もあるが、多くは、それにはあてはまらない?理性的な批判?だったんではないか。その内容は完全な差別だが「誹謗中傷」には当てはまらない。「誹謗中傷」は問題を半分しか捉えない表現であり、ことの本質をハズしている。この本作のラストは、差別と死との関連を端的に示している場面であり、とりあえず記者は全員見るべきだと感じた。
ラストでは、メジャーさんに替わってイベントの指揮を執る若者が登場する。演説内容も漂わせている雰囲気も、いかにも理知的なリーダーといった感じで希望がある。事実、メジャーさんが若いころに比べれば、多少はマシになっている部分もあるだろう。
しかし一方で、近年のアメリカでは宗教保守派の巻き返しが起きている。映画祭の別の作品では、白人の比較的富裕な家庭に生まれ、かつ親も理解に努めているトランスの子供に、宗教保守派の政策が牙をむく現代の様子を取材していたが、時間がなくて見れなかった。映画祭の視聴期間が短けーよ。その宗教保守派の劣化版みたいな統一協会が我が国の国教だから、この先日本で起こることの学習のために見ておきたかったが。
「Major!」2015年アメリカ
監督:アナリース・オフェリアン
気づかないうちに上映期間が始まり、そして終わっていた。帰省したらやっていたので見に行った。劇中「時差」の話が出てくるが、上映期間にも時差がある。フィルムならいざしらず、今時はデジタルデータを使って上映しているから、地域巡回のように上映期間に地域差があるのはなぜだろう。まあ、見れたからむしろありがたかったのだが。
予告編から想起される、ほぼそのままの内容だった。ラップが得意な青年(フランス映画だからおそらく北アフリカにルーツがあると思しき外見)が寿司屋のデリバリーでオペラの学校を訪れると、受講生の男が侮辱してくるので、オペラの真似をして「こんなの俺でもできるぜ」とばかりに見事な歌声を披露する。それを見た教員が惚れこんで、オペラのレッスンにスカウトする。そんなような予告内容。ベタな展開で、登場人物もやや類型的、苦しい展開もいくつかあり、傑作とは言い難いが、音楽を題材にした映画はクライマックスがよければ帳尻が合う。なかなか感動した。
ちょうどフランスで警察への抗議に端を発した騒動が起きているから、冒頭はタイムリーだ。夜の街頭でスマホ片手にラップの歌詞を練っていたアントワーヌは、薬の売人だと疑われて職質を受ける。移民の多い地区で暮らすアラブ系(?)だから、警官も濃いめの色眼鏡で見てくる。友人たちは、多くが何をしているのかわからないダラけた様子。隣町の連中との覇権争いもあり、『レ・ミゼラブル』ほどではないが、いかにもな貧困区域である。
これに対して、オペラ学校の関係者は白人しかおらず、総じて所得が高い。仲良くなるジョセフィーヌは、自宅にステージがあるほど大金持ちの家の生まれだし、しょっちゅうパーティを開いているのもいかにもだ。
高校時代、関西の有名私立校(生徒に富裕家庭の子供が多いことで知られる)にクラブの遠征で行ったとき、ホテルの宴会場を借りた歓迎会が開かれた。「ホテルの宴会場」というのがこちらにはまったくない発想で、同じ高校生にはまったく思えなかったものだ。メンバー全員ぎこちなく過ごし、しまいに彼らは自分たちだけでバカ騒ぎし始め、我々はそれをぽかーんと傍観していた。あれを思い出した。
最初に「スシ野郎」などと絡んでくるマキシムも、家が大口の寄付者らしいことが台詞で説明されている。終盤で協力的な態度を見せる理由「ライバルである君とは万全の状態で勝負したい」も、騎士道精神みたいなものだ。恵まれた環境ですくすく育ったのだろう。だからこそ、ライバルとは見なしていない序盤は、平気で見下してくる。
オペラへの傾倒は、こういった社会の上部層に加わることを意味する。成り上がりという点では痛快だが、成り上がったところで「同じ」とは見なされないのが、差別的社会構造には付き物だ。さらに元いた世界とは断絶してしまうことも多い。
本作でアントワーヌが孤立する様子を見て最初に思い出したのは新井将敬だったが、同じ話は『グリーンブック』で既に書いていた。当時のアメリカ黒人としては相当な立身出世を果たしたドクター・シャーリーも、自身が属するコミュニティがないという孤独を、「俺の方が貧乏だから俺の方が差別されている黒人だ」と相対化を口にするトニーにぶつけている。
本作では、この「元いたコミュニティとの断絶」の描き方がちょっと苦しい。オペラがなぜ毛嫌いされるのか不明だからだ。以下はネタバレ。
同性愛が犯罪だったころのドイツを舞台にしている。しかしチラシの写真は、男性カップルが愛し合っている様子ではない。本作のユニークな点を端的に表している場面選択になっている。
主人公のハンスは同性愛の罪で何度か刑務所に入る。そのたび、おそらく何かの凶悪犯罪で長期の懲役刑に服役していると思しき牢名主的なヴィクトールと再会する。この2人の不思議な友情関係を描いている。
冒頭、ハンスの「違法行為」を撮影した証拠映像が出てくる。汚い公衆便所で、密かな逢瀬を楽しんでいる様子を赤裸々に隠し撮りしている映像だ。違法行為なので、こんな場所でしか会えないということだろうし、違法行為なのでこそこそとするしかないのだが、おかげでいかにも犯罪をやっているようなあやしげで要警戒な雰囲気に映る。なるほど、法律が犯罪を作るのだなと思わされる。
ハンスは表情が乏しく、何を考えているのかわからない得体の知れない様子だ。このため見ているこちらも、主人公に対して感情移入しにくい。テーマは思いし、展開も地味。だけどなぜか引き込まれた。ことさらテンポがよいというわけでもないと思うのだが、しっかり観客を捕まえてくる。この演出の仕組みを誰か解説してくれんかなあ。
同室になったヴィクトールは、ハンスの罪状を知って激しく嫌悪する。背後にあるのは恐怖である。相手が同性愛者だから、いつ自分にハレンチ行為をしてくるかと怯えるわけである。女性はしばしば男性に対してこういう恐怖を抱いていると思うが、男性側が女性に対してそのような恐怖を抱くことは少ない。その分、余計に怖く感じてしまうのだろう。
そのくせヴィクトールは、性欲の発散に窮して「頼む助けれくれ!」とハンスに陳子を愛撫するように求めてくるから勝手なものだ。以前、鴻上尚史がアエラの人生相談で「どうしたらモテるか」という大学生からの相談に「競争率の低いブスを狙え」(意訳)と幼稚な助言をしていたが、これと同じく「格下と見なしている相手ならイケる」という発想だろう。「いや、誰でもいいわけじゃないし」という、ハンスの妥当過ぎる反応がおかしい。
ただしその一方で、同性愛が合法になった後のシーンでは、「誰でもいいのでは」と疑問に思わされる。無罪放免となったハンスがゲイクラブに行くと、客たちがあっちこっちで助平な行為に興じている。『トム・オブ・フィンランド』でも、同性愛者がやたらと淫乱である様子が描かれている。これは違法だったことの反動だろうか。
いずれにせよ、人を愛することと乱交みたいな行為に興じるのはやはり違うのではという疑問が湧く。おそらくハンスも同様の違和感を覚えたのだろう。白けた表情でクラブを後にすると、ひとつの決断をする。このラストは要するに、愛とは何だという問題提起なのだと思う。
ヴィクトールは、武闘派野郎にアリガチで、妙に優しいところがある。特に、ハンスが絶望の淵に立たされたときに黙って彼を強く抱きしめるシーンは、結構ぐっときた。それがチラシの写真の場面。ハンスにとっては嫌な奴のくせに、人の悲しみはしっかり汲み取れるんだな。
2人はヘンテコな友情を築いていくのだが、ヴィクトールはヴィクトールで、長期収容でメンタルがやられているため、ハンスに依存していき、友情なのか愛情なのかよくわからない感情を抱くようになっていく。
以前にも感想を書いたテレビドラマ『あなたがしてくれなくても』は、その後何度か見逃したものの、一応最終回まで見た。結局、ただの四角関係の恋愛ドラマでしかなく、当初のテーマであったはずの「セックスレス」も、後半は姿を消していた。
精神的な親愛の情と体の関係は果たしてセットなのかという問いはおもしろいと思ったが、そういう内容にはなっていなかった。本作の方が、設定が相当重いのだが、この問いをうまくドラマに仕立てていた。逆にいえば、これくらいの重たさがないと物語にはできないテーマなのかもね。
「Große Freiheit」2021年オーストリア/ドイツ
監督:セバスティアン・マイゼ
出演:フランツ・ロゴフスキ、ゲオルク・フリードリヒ、アントン・フォン・ルケ
やっている映画館が限られていた。阪急の売布神社という渋い駅で降りて、目の前のデカい公民館みたいな建物の中にこじんまりとした映画館がある。エレベーターに乗ろうとしたら、「銀髪、痩身」のシニア女性と一緒になり、その完璧なお約束ぶりに笑いそうになった。こういう社会問題を扱った映画の観客に占める銀髪痩身シニア女性の割合は極めて高い。あとリュックに帽子、チェックシャツのおっさん。
話題作の宣伝で、若い女性あたりが、「〇〇最高!」とかいう演出は最近見かけなくなったが、こういう辛気臭いテーマの作品の宣伝を、銀髪痩身シニア女性(とリュックに帽子のおっさん)を集めて、「哲学、最高!」とか言ってもらう演出はどうだろう。
タイトルから勝手に中3か高校生くらいをイメージしていたが、小学校(男子小学校)が舞台だった。声変わりもしていないようなあどけない児童たちと「哲学」という取り合わせに、早すぎやせんかとちょっと困惑してしまう。原題は「若きプラトン」だが、プラトンはそんなに出てこない。アリストテレスやヘラクレイトスが言ったことはチラっと登場するが、高校倫理のような授業をしているわけではない。
教師が児童に賛否の分かれそうな問いかけをして、子供たちが各自意見を述べていく様子が映し出されている。このディスカッション系の授業が主題かと思ったら、そういうわけでもなく、カメラは校長を主人公に、学校の色々な場面をとらえている。教育現場ならではの種々のトラブルを通じて描かれているのは、この校長の教育理念のようなもので、それはつまり、他人の意見を尊重するということである。
校長がこういう教育に力を入れるのは、舞台が北アイルランドのベルファストだからだ。
高校地理の教科書レベルの補足をしておくと、ベルファストはイギリスの連合王国を構成する北アイルランドの首府。20世紀になってアイルランドがイギリスから独立する際、北アイルランドだけがイギリスへの残留を決め、20世紀末まで内戦になった。本作では、王党派、共和派という表現になっているが、前者がいわばイギリス派で後者がアイルランド派になる。ベルファストというと、ついつい『マスター・キートン』を思い出すが、あのマンガでは内戦が「過去」として描かれているが、本作を見ると、現在も根深い対立が続いていることを痛感させられる。
当たり前だが、映画『ベルファスト』と同じ街並みが出てくる。あちらはモノクロでフィクション、こちらはカラーでドキュメンタリー、加えて空撮が混じるから、町の雰囲気がよりわかる。同じ規格の住宅がびっしりと規則的に並んでいるから、どえらい人口密度に見える。マンションが林立している方が密度的には高いはずだが、こちらの方がより閉塞感を覚える。壁が作られるほど住民が対立しているからだ。
かつての内戦のころの映像も出てくるが、半世紀前の町の様子と現在とで、装甲車の有無以外、あまり違いがない。映画の舞台となっている地域はあまり裕福ではなさそうで、薬物やそれに伴う犯罪に手を染める若者が少なくないことが作中でも触れられている。内戦の後遺症だろう。
こういう辛気臭い状況につき、尾を引く対立構造を終わらせることが最重要だと校長たちは考えているようだ。小学校でこれをやっているというのは、それだけ切実ということなのだろう。「やられたらやり返せ」と父親から教えられたからやり返したと弁明する児童が登場していることからも、その切迫感が伝わってくる。校長ら教員たちは、「相手を認める」「そこから考える」ということをまず自ら地道に実践していく。
18世紀のフランスが舞台で、西洋の油絵を意識した映像になっている。合間にいくつか、「静物画」で画像検索して出てくる絵そのもののようなカットが差し挟まっている。これが自然となじむような映像作りになっていて、見ていて面白い。画家が実際に見た様子を見るような錯覚を覚える。
そういえば静物画も、食材を描くことはあっても、料理を描くことはあまりない。描いてるうちに冷めてマズくなるからか、あるいは色鮮やかな料理は画家の身分ではお目にかかれなかったからか、それとも題材として面白味を感じないからだろうか。
料理の映像を見て「わあ〜」とか言ってる日本のテレビ番組はちっとも面白くない。たまに手持ち無沙汰に任せて夜にテレビをつけると、少なくとも2局は、ラーメンとか揚げ物とかの映像が出てくる。出演者も作り手も、誰も面白いとは思っていないに違いない。一体誰が見るのだろうと思うが、「何も考えずに見れるから」辺りが、この場合の「面白さ」なのだろう。その点、「26世紀青年」に出てくる、「おっさんの裸の尻を延々映している映画」と大差ない。
昔、「うまい店を探し回るのも結構だが、グルメにうつつを抜かすと国が亡ぶぞ」と知人に言われたことがある。フランスの格言だというのだが、出所不明で本当にそんな格言があるのかも不明。だけど、「グルメにうつつを抜かして傾国」というのはこれのことだろうかと、「料理のアップと出演者のワイプ」番組を見ていて思った。
一方で、ザッピングしているうちに「きょうの料理」に出くわすと、つい興味をそそられる。10個みて1個自分で作ったらいい方だと思うから、勉強したくて見ているわけではない。過程が見ていて面白いからだろう。映画の映像としての面白さも、作る過程にはあっても出来上がりにはあまりないということか。
フランス貴族の料理人だった主人公のマンスロンが、主人と揉めて首になる。発端は、指示にないオリジナル料理を勝手に提供したこと、そして、ジャガイモとトリュフを使った料理を出したことだ。監督によると、この時代、料理人に求められるのは決まった料理を決まった通りだすことで、創作料理ではない。固定的な身分社会の一つの顕れということらしい。
ジャガイモは、16世紀ごろ、南米アンデス地域を侵略したスペイン人によってヨーロッパにもたらされたものの、食用にはなかなか定着しなかったと『コロンブスの不平等交換』に書いてあった。毒があるし、見栄えも今よりデコボコが激しく、色もずっとくすんでいた。見た目がハンセン病の症状と似ているからというので、病原とみなされ、フランスでは17世紀、ハンセン病を理由にジャガイモの栽培を禁止した地域もあった(フーコー(の解説本)によると、ルネサンス期の?科学?は、見た目の類似性に着目する)。
スペインの隣国フランスには早い時期に伝播したが、以上のような事情で、貧困層の食べ物だった。身分の高い人間の食卓にジャガイモを出すことは、侮辱に当たるとされたようだ。
一方で、絶対王政の戦争期にジャガイモは食糧として重宝されるようになり、特に戦争の絶えないドイツ地域で浸透した。多少畑を荒らされても栽培への影響が少なく、貯蔵も楽だったからだ。そしてドイツから逆輸入のような格好で、ルイ16世の庇護のもと、フランスでも栽培が盛んになった。このジャガイモ政策を推進したパルマンティエは、フランスの偉人として駅名や料理名にもなっている。
長々引用したのは、前に読んだ本の内容と映画の内容がシンクロしたのが嬉しいからだが、こういった実際の歴史を踏まえて作られた架空の物語だから、紹介することにも意味があろう。
冒頭でマンスロンが作ったジャガイモ料理を貴族が嘲る場面で、「俺たちゃドイツ人じゃねーっつーの」というセリフがあるが、時代考証的にはまこと正しい。何しろ本作が舞台としているのは、フランス革命前夜の時代であるから、国王はルイ16世である。ジャガイモが「ハンセン病の原因&貧乏人やドイツ人の食い物」と侮蔑される対象から、主要な栄養源に転換されていくまさに過渡期。本作ではまったく触れられていないが、マンスロンがジャガイモに着目したのは、実は超最先端のイケてる発想なのである。そして古典的な田舎貴族にはその価値観はまだ知られていないということだ。
「食の価値は、貴族にしか理解できず、無知蒙昧な庶民には無理」というのが、マンスロンの主人、シャンフォール公爵の持論なのだが、実はこの時点でこの理論は破れている。食の価値を決めるのは、科学と食欲である。
ちなみに監督によると、この時代の価値観として、上にある食材ほど神に近いからと尊ばれたらしい。つまり、飛ぶ鳥の肉は最も神聖。木の実もしかり。小麦は腰の高さくらいに成るから、普通。これに対してジャガイモ、トリュフは地下で生育するから地獄の食い物というわけだ。
最初にマンスロンのジャガイモ&トリュフ料理にケチをつけ皿を投げ捨てるのが聖職者のおっさんというは、こういうのを意図している。最近、トリュフ味のポテトチップが流行りで何だったら他より高価なくらいだ。この聖職者のおっさんからすると、卒倒しそうな世界だな。
この聖職者が皿を投げたことがきっかけとなって、先ほどまで旨い旨いと貪っていた会食の出席者(貴族たち)も、「そういや最初から何か味がボヤけてると思った」などとトミイ副部長のように掌返しをする。マンスロンは料理人としての大きな侮辱を受けた上に、「俺たちを不愉快にさせたから謝れ」と侮辱の上乗せまでされる。この場面の貴族たちは、ことさら露悪的に描かれているので、「フランス革命はよ来い!」と、見ているこっちも腹が立ってくる。
こうして首になり、実家の掘っ立て小屋に引っ込んだマンスロンだが、やがて世界初のレストランを開業する。金さえ払えば誰もが食卓について同じ料理を食べることができる。人は権利において平等という人権宣言を地で行く食のフランス革命というのが監督の狙いのようだ。
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スピルバーグ一家をモデルにしたこのフェイブルマン一家は、確かにドラマになりそうな風変りな部分がある。特に、かつてピアニストを目指していたという母親は、芸術家のステレオタイプをなぞったような割とぶっとんだ人だ。この人の存在によって、技術者である生真面目な父も、相対的に変わり者に見えてしまう。
だが、家族というのは多かれ少なかれ風変りに見えるものだ。外形的には何の変哲もなく見えても、独自のルールや習慣、信仰がある。他所の家族は「我が家とは違う」と映るからおかしく見えるが、やがて「我が家もおかしい」と気づくようになる。そして家族の構成員それぞれの人生があるから、これまた一見似たような属性の家族でも、自ずとそこにはまったく異なる暮らしがある。
例えばフェイブルマン家は、食事のとき、紙のテーブルクロスの上で紙皿で食べ、終わったら皿だの残飯だの全部をクロスで包んで捨てる。恐らく爪が自慢の母の意向だろう。最初は、クリスマスの風習かと思ったが、ただの「我が家の慣習」だった。これ自体は変わっている(し、母親の性格が現れていて面白い)と思うが、こういう他人から見るとケッタイな部分は、どこの家にもある。
ただしそこは手練れの監督、いかにも面白く描いてしまう。食後の始末の描き方も、これみよがしに「変でしょ、オモロイでしょ」とはせず、ちょうどよい塩梅でさらっと登場している。特典映像のインタビューで、「自伝にはしたくなかった。どこの家にもありそうな共感を生む作品にしたかった」と述べているが、自分や自分の家族を描きながら、他人の物語のような距離感を保っているのは、さりげなさすぎて気づきにくいが、さすがの巧さだと思う。
さりげない巧さといえば、主人公(子供時代のスピルバーグ)が友達と8ミリカメラで撮る映画の映像もそうだ。実物がYouTubeで見れるというので見たが、「13歳でこれを撮ったのか」という驚きはあっても、出来としては見れたものではない。劇中で登場するそれは、実物をトレースして作り直しているのだが、素人っぽさを残しつつ、劇中で見せられても、劇中観客と同様に楽しめる最低限の質は担保している。見比べると本当に絶妙にキレイに仕立て上げているのがわかる。全編にわたってこういう具合で仕上げられているのが本作なのだろう。
人はだれでも1本は小説を書けるというような物言いがある。自分の人生を書けば1つくらいはドラマが書けるという意味だ。すでに述べたように、どこの家もそれぞれそれなりに風変りだから、確かに理屈としては成立するが、それはやはりなかなか技術の要る行為だと本作を見ると思う。
「The Fabelmans」2022年アメリカ
監督:スティーブン・スピルバーグ
出演:ミシェル・ウィリアムズ、セス・ローゲン、ポール・ダノ
中国映画のレベルはすっかり上がってきている。韓国映画同様、日本がまったく歯が立たなくなる日もすぐそこだ。とはいえ政府が検閲をしてくるのによい映画が生まれることには大いに引っかかる。ラストが今一つなのを予想していたのも、実際そうだったので安堵したのも、そのためだ。
検閲のないはずの日本の現状が余計に残酷に映りもする。せめて邦題くらい気を利かせて意地を見せてほしいところだが、このダサさが日本の現在地点。最初タイトルだけ見たとき、キリスト教会についての洋画かと思った。アストロズの応援に行くのが定番になっているシスターの一団の物語とか。それはそれで見たいぞ。
交通事故で両親が他界し、幼稚園児の長男・安子恒が遺される。このチビを、親戚一同から半ば押し付けられるように預かる二十歳そこそこの男児の姉・安然。わがままな弟に翻弄されイラつく然だが、やがて2人は心を通わせ…、という説明だとまったく面白さが伝わらない。
然は看護師として働く傍ら、大学院進学を目指している。そんなところに、お前の弟なんだから面倒を見ろと親戚一同からエラそうに言われる。そりゃあ反発するだろう。それにしても、然はあまりに険悪すぎないか、と困惑するかもしれない。この、引いてしまうくらいの安然の反発の背景にあるのが、悪名高き一人っ子政策である。
一人っ子政策の結果、生まれた子供が男子だと「当たり」、女子だと「はずれ」になった。生まれたのが女子だった場合、夫婦はあの手この手で2人目を持とうとしたことが『一人っ子の国』では明らかにされている。然の親、正確にはおそらく父親は、生まれた長女が足に障碍があると嘘をついて、国から2人目を作ってよいお墨付きを得たらしい。そうやって出生そのものを否定された格好の然は、高校卒業後は親と距離を取って生きてきたようだ。特に序盤の、過剰にイラついているように見える然の態度は、そりゃそうなるわと頷ける。
そういうわけで、邦題をつけるなら「一人っ子の弟」、いや「一人っ子の姉」だ。父親にとっての一人っ子は、然ではなく子恒の方だ。一見矛盾していて、意味を知るとゾっとする。いいタイトルだ我ながら。
ちなみに作中では「一人っ子政策」についてはまったく語られない。いかにも検閲の国っぽい。ただし明らかにそうだとわかる描き方をしてるし、中国人が見れば当然わかるはず。線引きがよくわからん。
弟の子恒は、いかにも「小皇帝」らしくわがままにふるまう。まあ親が突然いなくなったのだからやむを得ない、と然が大らかに受け止めるのは無理だろう。そもそも若いし、院試を控えて余裕もない。
ところがこの弟、かなり賢い。キツい態度を取る然に、有名な曹植の七歩詩(兄弟の対立を嘆く内容)をそらんじて「どうしていじわるするの」とたしなめる。神童みたく言うのではなく、あくまで子供の喋り方で言うから笑える。なるほど古典を重んじる態度が傑作を生むんだな。ちなみに俺は漢詩といえば、七歩詩しか知らん。それにしてもこの天才子役っぷりは、今後の人生の適切なサポートを心配してしまう。
この子恒の賢さが、終盤の意外な展開をもたらしている。なるほど、そういう展開かあ!と舌を巻いたが、韓国映画だとこれをラストに活かして見事にエンドマークをつけるのだろう。
それにしても、本作に登場する男は、子恒以外ロクなのがいない。然の恋人は、こちらも「一人っ子の男子」として甘やかされて育ったのだろう、その好影響と悪影響が垣間見える。やさしくてイイやつなのだが、肝心の場面で然を守れない。
然の叔父(関係性がよくわからなかったが、然の母と苗字が同じだったので、母の弟だとわかった。夫婦別姓は便利だ)は、本作のもう1人のおもしろキャラだ。賭け事ばかりやってるダメ男のくせに、たまに格好いいところを見せる寅さん的なおいしいキャラかと思いきや、やっぱりダメ男だった。
父の姉である伯母の夫にいたっては、態度がエラそうなだけでなく、極めて残念な事実が明かされて、こいつは真性のクソ野郎だった。然の父も虐待父だったし、一番マトモな大人の男が、然の両親を死なせたトラックのドライバーというのがなんとも皮肉。
一方、伯母とのやり取りはものすごく胸に迫った。然に対して、「姉なんだから」「女なんだから」と古式ゆかしい家族観男女観を押し付けてくる旧世代、と然には映っているのだが、実は、というのがぐっと来た。
おそらく一人っ子政策以前に生まれた世代だと思うのだが、この政策の有無にかかわらず男女差は存在し、そこが問題の根幹であることをきっちり指摘した格好だ。ハズさない見事な脚本だ。この伯母が、本心を明かすきっかけとなる転院のくだりも印象的だった。蛇足だが、このシーンで然が着ているピンクフロイドのTシャツ、あれは欲しい。
以上、脚本も演技もよく出来ていて、日本と似ていつつ違いがある現代中国の日常風景が見れるのも興味深い。それだけにラストが大いに引っかかるわけだが、日本だとこのラストの方がウケる気もする。描かれている諸問題に鈍感な人の割合は中国より高いから(ジェンダーギャップ指数、日本125位、中国107位)この終わり方に感涙するんじゃない。「家庭」が政府公認の最重要の宗教倫理だしな。
「我的姐姐」2021年中国
監督:殷若?
出演:張子楓、金遥源、朱媛媛
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「仕事上読まないといけない本」に追われていたので、趣味性の強い本を読みたくなった。見事に趣味でしかなさそうな副題と表紙。表紙の人はタイトル通り「普通じゃない人」の代表格だが、デビッド・ボウイの伝記ではない。
変わった構成だ。1955年から1995年まで、1年ごとに章立てされている。その1年を1人or1組のロックスターに焦点を当てて記述している。1955年はリトル・リチャード、66年はエルヴィス・プレスリー、67年はクオリーメン(ビートルズの前身)、といった具合。
プレスリーは66年と77年に2度登場するし、ビートルズは、62年リンゴ・スター、68年ポールマッカートニー、80年ジョン・レノンという章立てなので、クオリーメンを入れて計4回登場するが、他は1回だけ(脇役として登場する場合もあるが)。話の都合上、幼少期やデビュー当時などの「その章の年」意外にも触れている場合があるが、基本的にはその年のボウイなり、プリンスなりを記述している。要するに、1年ごとに主人公が入れ替わるロックの通史だ。
面白い趣向だと思うが、ビル・ブライソン『アメリカを変えた夏 1927年』のような連続したドラマ性とまではいかなかった。1章ごとに気楽に読む分にはよいが、章が進むほど引き込まれるというようなことはなかった。「各々の年を特徴づける逸話を追っていく中で、次第に一つの大きな物語としてのポピュラー・ミュージックの年代記が形作られていく」と出版社の紹介文にはあるが、そのような狙いが成功したかどうかは微妙かなあ。
ロックスターは語られ方の定型が仕上がっていることがしばしば。ビートルズの宝石ジャラジャラやオジー・オズボーンのコウモリのように、逸話が独り歩きして正確性が怪しくなっている場合もある。こういうのを史実に基づき記述し、再評価するのは面白いし大事なことだ。1年ごとの記述だと、「当時どのように見えていたのか」というリアルタイムの臨場感を意識した記述になるので、定型化された語られ方とも無縁になる。本書はこういった歴史書的な信頼感があって、読んでいて心地よい。
ただ、冒頭で著者が提示している論点、ロックスターはどのようにして消えたのかについては、あまりよくわからなかった。最終盤に思い出したようにこの論点が出てきて、ネット時代の変容に話をつなげて片付けているだけのような印象を受けた。
マイケル・ジャクソンの小児性愛疑惑について触れていたが、この問題に触れるのなら、この簡単な記述量ではことの重大性と釣り合ってないのでは。カート・コバーンの自殺については、間違いなく音楽業界の問題(簡単にいえば労災を防げていない)があるはずだが、情緒的な記述にとどまっていた。いずれも著者が音楽雑誌業界の人という点での限界ではないかしら、と思った。「業界内の人」はどうしても業界内の理屈や視界に思考が囚われてしまう。日本だと顕著だが(その極北が新聞社政治部)、イギリスにもやはりあるんだろう。
「Uncomon People」勁草書房 2023年
著:デビッド・ヘップワース
訳:伊泉龍一
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原題を直訳すると「ヴァン湖会議」。一般にはヴァンゼー会議として知られている。そんなに知られてはいないし、俺もよく知らなかったけど。ナチス時代に、ハイドリヒが招集した会議で、名前は開催地にちなむ。各省庁の局長だの次官だのの実務者級の高官が集まって、ユダヤ人の絶滅について総合的な方針が確定した会議という位置づけらしい。会議時間は90分で、その前後のシーンも合わせて110分ほどの作品だから、実時間通りに進行していく一幕ものになっている。
というわけで、ひたすらに会議をしているだけの内容だ。「十二人の〜」のような推理もの的要素は皆無。「日本のいちばん長い日」のように並行した色々な動きが描かれるわけでもない。ひたすらただの会議な上に、出席者のうち名前を知ってたのはハイドリヒとアイヒマンくらい。あとは誰が誰やら。まあ特徴的な外見の人が多いので区別はつくが、詳しい説明はせずに遠慮なく話が展開していく。ついでに好きになれるような人物は誰もいない。ユダヤ人の虐殺については全員が同意しているからだ。
特にハイドリヒの右側に座っている薄毛のおっさんは、最もやべー台詞を言うのだが、演者は体調を崩しやせんかと心配になった。悪役を演じるのは役者の醍醐味だろうが、さすがに差別だらけの台詞を言うのは精神的にキツそう。
そして鑑賞後にwikiを見たら、このオットー・ホフマンというナチ親衛隊の高官は、天寿を全うしているのだった。何でやねん。ついでに全員のwikiを確認した。このホフマンや、女性の速記係を含め、計4人が80年代まで生きた。逆にいえば、戦後の戦犯法廷で死刑になるような重要人物は少なく(一部いる)、出席者の地位もそこそこだったということだろう。議長のハイドリヒは間違いなくナチの中心人物だが、この男が出席者の中では最も早死にというのが皮肉というか何というか。詳しくは『HHhH』参照。
にしても「殺す正当性」のような差別を小賢しく並べ立てる割には、皆「最終解決」とか「特別処置」とかの婉曲表現を使って、誰も「殺す」とは言わないのが滑稽だ。
閑話休題。
元になっているノンフィクションの訳書のタイトルが、そのまま映画のタイトルになっているから、責めを負うべきは出版社か。どっちにしろ、ダサいところのレベルではない間違いだ。こういうの、元作側から訴えられりゃいいのに。
#MeToo運動の原因となった一連の事件を取材した記者2人が主人公の実話。記者のバディといえば『大統領の陰謀』だが、あちらがワシントンポストの男性2人なら、こちらはニューヨークタイムズの女性2人。オフィスの天井がやたら高いのだが、冬の寒さは大丈夫なのかね。
性被害は、取材行為が二次加害になりかねないデリケートな問題だ。加えて『スポットライト』のごとく、「前に証言したのに記事にならなかった」という不信から証言を拒む人もいる。そして何より大きいのが、被害を訴えて和解になった際に秘密保持に合意したという法的な壁だ。このため取材には応じないか、応じても記事化を拒むケースばかり。そういう中で、ミーガンとジョディの2人が粘り強く取材を続けていく。
これといってトリッキーな展開はない。1人だけディープスロートみたいなおっさんがいて、彼とのやり取りがいかにも記者ものの王道を行くようなスリルが多少漂っているくらい。主眼は、記事化の同意に踏み切る女性たちの決断にある。各自それぞれの思いから記者の要求に応える判断をしていて、その三者三様十人十色的な様子に感じ入る。そんな作品になっている。
本題とは別に印象的だったのは、取材者側の登場人物が総じて優秀なことだ。『スキャンダル』と違って、セクハラ問題に無理解な同僚や上司は登場しない。ついでに、いわゆるサラリーマン的な社内の理屈で足を引っ張られたり後ろから刺されたりという展開もなく、ただただ、優秀な人間がするべきことをしている。
あまりに理想的な職場なので、これはホンマなんか?とつい思ってしまった。たまたま主人公2人の上司がそうだった、ないしは、内部の話は美化して描いているという可能性を考えてしまうが、「え?職場ってそんなもんでしょ?違うの?」と不思議な顔をされてしまう可能性も考えてしまった。会社=無駄な会議、保身の指令、足の引っ張り合いという発想が、とっくに旧世紀の野蛮人の思考になっているという可能性である。「おいアメリカでは一家に一台車とテレビがあるらしいぞ」のごとく。あるいはもっと古く「おいメリケンは将軍を入れ札で決めるらしいぞ」のごとくかもしれん。まあ、このワインスタインの事件に対して構造的な問題を感じ取れる人間が上役を務めている職場だと、自ずと職場環境もよくなりそうだとは思う。
一連の取材のうち、裏取りに決定的な役割を果たす一人が、すでに述べたディープスロート風のおっさんである。このおっさんが重要な資料を提供するのだが、その経緯が印象的だ。
4月だったか、K氏と共通の知人Y氏が大阪に異動してきたので、おっさん3人でピクニックに行きましょうやと提案した。「久々だから一席設ける」だと芸がないというか、違うことをしてもいいんじゃないかコロナだし、くらいの発想である。「おっさん3人でピクニック」というフレーズが我ながら笑える。
却下された。しばらく出張続きだったY氏が一段落して、夜に梅田辺りでと、芸のないことをいう。それで、駅から少々離れるがモロッコ料理の店を予約した。
梅田に出るなら、用事を抱き合わせようと携帯屋で壊れかけのスマホを新調することにした。近所にも携帯屋はあるが、たまにはこういうのもいいだろう。車に興味のない人が代理店でテキトーに値段と用途だけで選ぶがごとく、スマホに興味がないので家電屋で吟味するという発想がない。
さすが近所の店と違って、広々としたしゃれた店内で、あか抜けた感じの店員が対応してくれた。1時間が1.5時間くらいで終わると予想し、それだとモロッコ料理屋の予約時間までまあまあ時間が空くから、ほかに何か用事なかったっけなどと考えていたのだけど、2.5時間もかかって遅刻確定になってしまった。椅子を立ったとき、2.5時間の映画を見た後と同じ腰の疲れを感じて、その疲労感の類似性に少し感動した。
「スマンちょっと遅れる!」と慌てた様子で電話してきたY氏の方が先に店に着いてしまっていた。平謝りで到着。Y氏によると、携帯の機種変更はなんだかんだでかなり時間を要するものだということらしいが、5年前なので忘れていた。
ただし時間がかかった大きな原因は、IDとパスワードを入力する作業に何度も間違えたせい。今までのやつと、入力方式が微妙に違っていたことに加え、老眼のせいでどこが間違っているのかもよくわからず、若い店員に「私が変わりに入力しましょうか」と言われてしまった(それでもパスワードはこちらで入力しないといけないのであまり意味はなかった)。
悲しい話だ。ただしその悲しさや恥辱を誤魔化すために、若者相手に「いやあ、てへへ」と言い訳自虐を語ってはいけない。お待たせしましてすみません、くらいにとどめ、あとは悲しみ恥辱を一人で抱え込むのみである。
Y氏は、なぜわざわざ駅から遠い店なんだお前はそんなにモロッコ料理が好きなのかと不思議そうな顔をする。「テキトーな居酒屋は嫌なので」と答えると、「一生のうちの食事回数には上限があるからとかそういうやつ?」と食道楽スノッブが言いそうな理屈を持ち出してくるから頑強に否定した。理由は2つあって、1つは自炊ばかりしているので自分でも作れるような料理は嫌だからで、もう1つは人と酒を飲む機会が大変少ないのでこういう機会は貴重だからということで、何でこんなことをムキになって説明しているんだ俺は。「ベルベル人シェフの店」という謳い文句が大変魅力的じゃないか。
「で、最近は、演劇は」
「やってません」
「映画はもう撮らんの」
「あんな手間のかかる面倒なこと、やれたことの方が奇蹟です」
「それで今は染め物職人かいな」
とY氏は、さっそく着ていった佐伯のTシャツ@一点ものの辛子色バージョンを見て苦笑している。
送れてK氏が到着した。職場から出ようとするタイミングで仕事の問い合わせが来たとかで、その間の悪さに大変ご立腹だった。本をあげたら喜んでもらえたのでよかった。とうとう「同じ本を2冊買う」をやってしまっていたのだった。自分が読書家の部類だとは思っていたが、買ったことを忘れてうっかりもう1冊買うという「読書家あるある」を今までやったことがなかったので、ようやく一人前になったような気はした。さらに上級者になると「持っていることは確実なのだが、探す手間が惜しいので買う」をやるらしい。この場合はPDFにしてしまえば解決する。
ジンバブエのソムリエの映画を見たせいで、ワインが飲みたくて仕方がない。いうても地中海料理だし、勝手なイメージで、モロッコの白ワインは甘口でジュースみたいなガブ呑みできそうなやつじゃないか。店員に尋ねたら「置いてるモロッコの白は全部辛口です」。はい偏見解消。
開館した大阪中之島美術館に初めて(ようやく)行った。
「佐伯祐三展」。前にも見たが、初めて見に行くにはちょうどいい画家だろう。大阪出身の画家なので。「15年ぶりの大回顧展」という謳い文句を見て、まさか前に観たのが15年前か?と驚いたが、本ブログを検索したらその通りだった。2008年に行っている。「あれがもう15年前」というよりは、「2008年から15年たっている」ということにピンと来ていない。
前回の自分の記述を読み返すと、結構感動している風な内容になっている。確かにそういう記憶はある。今回は「今一つ」という感想で終わった。
前回は、画家の一生をたどりながら見たという感覚が強かったが、今回はそこが希薄だった。加齢のせいで新鮮な驚きと縁遠くなってしまったせいかもしれない。そのくせ「年を取ると涙もろくなる」は本当なんだよなあ。
最近は美術展に行く目的が「Tシャツを買う」になっている。本展覧会は、有名な郵便配達員の絵を、線画のイラストにリライト(リドロー?)したデザインで、なかなかよくできている。買って帰ってさっそく着たら、色が悪いと気づいた。クラフトの封筒のような薄い茶色。ちょうど自分の皮膚の色と同じなので、裸に郵便配達員の絵を描いているような、どうかしている(=同化している)輩に見えてしまう。
早速染めた。
ここ数日、久々に染色をしていた。最初に染め物に手を染めたのは何年前だったのだろうと検索したら6年前だった。どこか安堵した。あれから何度かやって、失敗もしたので多少は要領を覚えたような気がする。
市販の染料は、英国のダイロンと、京都の「みやこ染め」の2種類が売っている。後者の方が色の種類が豊富で値段も安い。ただし、ダイロンの方が綺麗に染まって持ちもいいような気がするが、こちらの染め方の問題かもしれない。
いずれのメーカーも、熱湯を用いるのとぬるま湯でよいのとの2種類がある。みやこ染めはどちらも値段は一緒だが、ダイロンは両者の価格差がまあまあある。ついでにダイロンは、ぬるま湯の場合は使う塩の量が格段に多い。塩は触媒として作用するらしいのだが、触媒は本体の量より少ないイメージがあるところ、水戸泉ばりに投入しないといけない。熱湯を使う方のは、大さじ3杯程度なので、「触媒」のイメージに近い量で済む。ただし、熱湯だと用意するのがやや面倒だし、染めるのも厄介。熱いから。
染料を溶かした湯の中に衣類を投入したら、洗濯のごとくしっかり揉んだ方がよい。説明書にもそう書いてあるが、これまではついサボってしまっていた。説明書の指示通り、しっかり揉み込みかき混ぜていくと、綺麗に染まる。染め終わったら、一旦すすいで、今度は色止め剤に浸す。結構面倒くさい。
同化していた佐伯のTシャツは、期待通り、なかなかいい具合の辛子色になった(黄色が元の黄土色と混じって少しくすんだ具合になる)。黄ばんだ白シャツを藍に染めたら、想定外のしゃれた具合になった。繊維の違いで、襟と袖口、ボタン周りがあまり染まらなかったせい。
ジンバブエがムガベの独裁によって経済・社会が崩壊し、その混乱を逃れて南アフリカ共和国に脱出した難民4人が主人公だ。4人は祖国では何の面識もなく、それぞれの経緯の中でたどり着いた職業がたまたま同じだった。まさに数奇な運命。これまでの人生ではまったく知らなかったワインの魅力に取りつかれ、テイスティングの勉強をしていく。そしてテイスティングの国際試合に出場する姿をカメラは追いかけていく。
これといってドラマチックな展開はない。最もドラマチックなのは、国を脱出する過程だが、そこはカメラは回っていないので、ニュース映像と当人の回想で表現されるのみだ。それでも引き込まれたのは、4人の魅力だろう。一様に真面目で賢く、行動力がある。どこで死んでもおかしくなかったような苦難の中で、運よく手を差し伸べてくれる人と出会って生き残ることができた。その幸運を身に染みてわかっているから、過去を振り返るときには感情があふれてくるし、現在に対しては謙虚で真摯になっている。見ているこちらはぐっとくる。
何かというと「支えてくれた人に感謝」という定型句を口にする昨今、彼らを生き延びさせた救いの手という感動話が好きな人は多いと思うが、国策として手を差し伸べないとしているのが日本であり、それを強化しようとしているのが目下の日本である。
南アフリカの、特にヨハネスブルクは治安の悪さで有名で、本作でも、「妻が自転車パクられた」くらいのトーンで「妻が強盗に遭った」と語るシーンがある。なかなかハードだなあと思わされるが、それでも個人として生きていけている時点でずいぶんマトモな社会だと思ってしまう。
大真面目に排他主義を追求しているのならまだ筋は通るが、そういうわけでもない。そもそも審議過程がぐちゃぐちゃで、こういうのって国会議員だと、法案の内容とは別に、見過ごせないものなんじゃないかと思うが、そうでもないらしい。
例えば新聞の場合、ろくでなしのクズみたいな人であっても、その人物の名前を間違って掲載するのは大失態になる。仕事で接したことのある、やくざと区別がつかないような品のない地方議会の議員(自民)も、議会運営の手続きの類には結構厳密でうるさかったような覚えがあるが、いまどきの国会は違うのか。
「こういう真面目で能力がある人なら大歓迎だ」と、恥知らずなことをさもイイことを言っているように語る人もいるが、彼らは祖国ではワインのワの字も知らなかったという点でこの理屈は成立しない。
彼らが祖国では何をしていたのかはちっとも語られないのでよくわからないが、「私がやっていた仕事は南アフリカでは白人しか就けない仕事だった」というセリフがあるので、もしかするとそれなりの仕事をしていたのかもしれない。だが、南アフリカで白人を押しのけて迎えられるほどの凄腕というわけではないから、やはり先のロジックは成立しない。
そもそもその人がどういう可能性があるのかなど一顧だにしない審査しかやっていない。ジンバブエといういかにも貧しそうな国から来た肌の黒い人という時点で、入管側の態度も想像がつくというものだ。
4人は南アフリカではなく、ジンバブエの代表として国際大会に参加することが認められ、金がないのでクラウドファンディングで費用をそろえてフランスに乗り込むのだが、チームのコーチに迎えたフランス人がとにかく面倒な御仁だ。当人も「面倒な人間」と自認しているのだが、人の話を最後まで聞かずにすぐ口を挟むことを悪びれもせず、「これが自分だ」と堂々としていられるのは、いったいどういう神経をしているのだろう。とにかく邪魔な人だ。
初出場の4人は、ダークホースになるという期待される展開もなく敗れ去るのだが、本作を見ていると、よっぽどサッカーくじを当てる方が簡単なのではと思うくらい、テイスティングで正解するのはいかにも難しそう。なので、挑めているという時点で尊敬する。
そしてエンドロールが終わった後で後日談が語られるのだが、4人は次の大会でコーチを置かずに挑んだら、一気に順位を上げていた。敗因はやはりあいつか。
蛇足:南アフリカの山脈の、ザ・古期造山帯な台形が見事で印象的だった。ジンバブエの農村が、当方の浅はかなイメージと異なり、非常に緑豊かで、人類がこの辺の出身だということになんとなく合点がいった
「Blind Ambition」2021年オーストラリア
監督:ワーウィック・ロス、ロバート・コー
しかしサブカル雑学所的な哲学の本でも見ればわかることだが、哲学者の言った言葉や提示した概念は、それほどイイ話とは映らない。それどころか、わかりきったような凡庸な指摘に見えることもある。
実際には、その有名な台詞なり概念なりに至るまでのプロセスがスリリングで面白い。ついでに哲学はしばしば「その後の常識」を作ったものなので、「当時の常識」を踏まえた上でその思想のプロセスを捉える必要もある。
本作には、サルトルがところどころで引用されているが、全体がサルトル的な内容で、かつ、彼のインパクトが垣間見える時代状況を描いているのではないかと思った。といっても著作は1冊も読んだことがなく、100分de名著で確認しただけだが。
家政婦としてつましい生活を送っているミセス・ハリスことエイダは、勤務先の金持ちの家で見たクリスチャンディオールのドレスに一目惚れする。第二次世界大戦で行方不明になっていた夫の死亡通知が届き、ただ生きるためだけのような虚しい暮らしをおくっていたエイダは、ディオールのドレスを買うという目標を抱いたことで急に元気になる。
この感覚は、以前にギターを買ったときの顛末と重なるから、よくわかる。生活以外の目的で金を使うのは楽しいものだ。彼女の場合はもっと高額だから、当人が「夢」と語るのも大袈裟ではなかろう。
その買い物の過程で、寅さん風のドタバタ人情喜劇が起こる楽しい作品だ。ストーリーに起伏を作るためだろうが、このエイダはちょいちょい軽率で、そこが少々イライラさせられるのだが、一見か弱そうな初老の女性が、周りを巻き込んでいく様子は痛快だし、ハッピーエンドのつけ方もうまい。
問題は、当時のディオールは、一般客は相手にしておらず、貴族とか資本家とかの上流階級の招待客にしか服を売らない閉鎖的なビジネスモデルだったことだ。当然、庶民中の庶民であるエイダは、鼻持ちならない店員と、さらに鼻持ちならない顧客に、奇異と哀れみの目で見られながら門前払いを食らいそうになる。
服は古来から身分と直結するため、身分によって身にまとえる素材や色に制限があったというのは、洋の東西を問わずである。現代でも、服がカブると少々気まずい。これは考えてみると不思議な話で、本の場合は、同じのを買っていたら趣味が同じだということだから話が合うことはあっても「恥ずかしい」はない。もし恥ずかしい場合は、それはその本の内容が恥ずかしい場合に限る。
ギターの場合は、バンド内で音色の同じギターを使っても仕方がないという物理的な理由から、同じギターは忌避される。時計の場合は、よくわからん。車の場合は、車種によっては本と同じで仲良くなる。昔、フェアレディZに乗っていたとき、洗車場で声をかけられ、Zオーナーの会みたいなのに誘われ参加したことがある。もっと高額な、嫌味ったらしい車種だとまた違ったんだろうか。
とにかく服の場合は、仲のいい関係であってもカブると恥ずかしい。ペアルックという例外があるが、好意的にとらえる人は少数派だろう。身分制社会なら、当然上位層は下々とカブることはプライドが許さないから規制をかけることになる。ディオールの商売も、これの延長線上にあるのだろう。
ただしこのやり方、金持ち保守層が一定程度いなければ経営が傾く。本作では、戦後の不景気を反映して、パリの街頭で労働者のデモが行われているシーンが何度も登場するが、これが古典的な富裕層の没落を象徴しているようだ。こうして保守層にとっての古き良き時代は終わりを告げるというのが、本作は示している。
印象的なシーンがある。保守側を代表するディオール社のマダム・コルベールは、「あなたはドレスを仕立てて、それでそうするのだ」と問う。エイダは「あのドレスは私の夢だ」と答えると、「その夢のドレスを手に入れてどうするのかと聞いている」と問いを重ね、エイダは答えられない。
エイダにすれば「欲しいから買う」でいいじゃないか、それでどうするかは、後で考えればいいということになる。これはまさしくサルトル的だと思った。本質(=ドレスの用途)より実存(=ドレスを手に入れること)が先立つというわけだ。
ディオールのトップモデルであるナターシャが、仕事を辞めようとしている様子は、意図して明白にサルトルとともに語られる。彼女の行動は、「自分の好きなように判断すればよい」という点で、これまたサルトル的である。なるほどかの哲学者が登場した時代は、このような時代の転換点だったのだなあと思わされるが、実はそう単純ではない。
ナターシャが煌びやかなモデルの地位を捨てたがるのは、見られるだけの仕事にうんざりしているかつ、他にやりたいことがあるからだ。この彼女の態度が突き付けている問題は、現在にあっても乗り越えられているとは言い難い。かなりの美貌の役者が演じているので、日本社会だと特に、見バの問題とすぐにごっちゃにされて、まともな議論が成立しなさそうな様子が容易に想像できる。
コルベールとエイダのやり取りもしかり。現代の、ビジネスや恋愛を語る文脈では、明らかにコルベールの方に分がある。それはスタートに過ぎず、ゴールではないという理屈である。スタートに過ぎないものをゴールだと思い込むのは愚かなことだとされる。保守的なコルベールの方が、現代的な文脈では正しく映るのはなかなか複雑だ。
ついでに本作のハッピーエンドは、コルベールのような保守層がいるからこそできたことだ。以下、ネタばれ。
「もう3年も仕事がない」と作中でコボしている中年俳優のエチエンヌは、授業とか会社の研修(?)とか、演劇に派生したような仕事をあれこれ受注して食いつないでいる。刑務所もその一つなのだろう。詳しい経緯は述べられていないが、とにかく新任の講師として刑務所の矯正教育的な授業に臨む。受刑者の若い男性5人は、授業が始まっても軽口が絶えず、じゃあやってみろとエチエンヌが促すと下を向く。こういう口ほどにもない臆病さはいかにもだ。
エチエンヌの演劇授業を見て、『こちら葛飾区亀有公園前派出所』で、両津がプラモデルの作り方を指導して非行少年を更生させる話を思い出した。ややこしい少年たちに、スパルタをほどこすと立ち直るという、しばき上げの発想が根底にある単純な話だが、「プラモを作る」という点でギャグが成立している。両津は、少年たちのプラモの作り方がなっていないことだけを問題視して、ガミガミと口うるさく正しい作り方を叩き込んでいく。
エチエンヌも同じ。とにかく演劇のことしか頭にない芝居馬鹿のおっさんのようで、そのせいで私生活や人間関係もそこそこ破綻している。こういう人なので、受刑者5人の来歴にはまったく興味がなく、演技ができていないと怒り散らすし、できていると大いに喜ぶ。こういう愚直さに受刑者も引っ張られて、演劇の面白さに惹かれていく。
演目に「ゴドーを待ちながら」を選んだ理由が、「受刑者は常に待ち続けているから」というのは露悪的にも思えるが、受刑者たちはのめりこんでいく。古典的傑作にはおそらくそういう力があるんだろう。プラモと違って文学は、人間の生き死にを描くから、演じることを通じて人生観が変わっていくというのは説得力がある。
メンバーの中には字が読めないのもいる。学がない人にとっては、戯曲の台詞はしゃべったことのない言葉遣いだらけだろう。そういうのを口にするのは、新しいツールを手に入れるような、かなりの刺激があるのではと想像する。自分の内面の「うまく言えないこの感じ」を台詞が代弁しているというか。夜に刑務所内に響き渡るデカい声で台詞を言い合うシーンは印象的だった。
ただし、「下手な演技」の演技はやはりプロの役者には難しいとみえて、最初から素人臭さは希薄だった。今のところ、戸出君を上回る下手な演技は見たことがない。ただ、舞台上でアドリブに走ってそれが客にウケたことで調子にのって楽屋オチに走るシーンは、素人あるあるでリアルだった。学生劇団はこういうのやりがち。俺も身に覚えあり。
さて、こういう既存の物語を借景する場合、主人公たちが借景元の作品とシンクロするのがお約束というか、この場合は義務のようなものだ。「ゴドー」を演じる彼ら自身が「ゴドー」のようになっていくということだ。それが、まさかこういう格好になるとは。以下ネタバレ。
賢い人間は、多忙とか将来への不安とかで子供をもうけることに躊躇する一方、バカな人間は後先考えず計画性なしに子供をつくる。このためだんだんと世の中がバカばっかりになり、26世紀にはバカしかいない状態になる。こういうブラックジョークで始まるディストピアものだ。
軍に勤める主人公は、すべてが平均点だからテストにはちょうどいいと、人体の冷凍実験の被験者に選ばれる。1年間冷凍するはずが、軍内部のスキャンダルに伴うドタバタで完全に存在を忘れられ、目覚めたら26世紀だった。
未来を予言しているとされている点は、まず大統領が、粗雑な言葉で聴衆を煽るのが得意な男という点。当然トランプが頭に浮かぶ。元人気プロレスラーという設定も、多少トランプとかすっている。
公共部門の赤字を埋め合わせるため、企業の資本をどんどん入れていったら社会が壊れたという設定も、いかにもだ。物語の中核となる、「なぜこの未来ではスポーツドリンクしかなく水がないのか」というカラクリも、いかにもアメリカあるあるというか、資本主義あるあるといった感がある。
人々が、ケツが揺れている映像だけで大笑いして満足している様子は、いまどきのショート動画を彷彿とさせる。ほかにもいくつか、「未来を言い当てた」と読み取ることができそうな要素があるが、いずれも過大評価というか後付けというか「今の文脈に当てはめて読み解くこともできる」ということに過ぎないと思う。この映画がすごいというより、今の現実がすごいという方が正しい。
本作が今一つなのは、「バカ」の描き方が一様な点だ。登場するバカは、全員ただの酔っぱらいにしか見えない。確かにこういう言動の登場人物は、アメリカ映画ではよく見かけるから、これがアメリカにおける「バカ」のステレオタイプなのだろうか。にしても、街頭のごろつきと、医師や法律家が同じような振舞いをするのは描き方が単調だ。色々な種類のバカを提示できると、あーいるいるこういう人、という「あるある」を楽める内容になったのではと思う。
かなり以前に、未来予測はカッサンドラしかできない特殊能力ではなく、我々みんな多少なりともカッサンドラであるということを書いた。「この問題を放置しておけばやがてドエライ問題が起きる」という可能性は多かれ少なかれ気づいていても、面倒だとか保身だとかの諸事情でほったらかしにする。そして本当に問題がおきると、「まさかこんなことが」という顔を作るが、実際のところは前から予想していた。例えばこんな具合。
なので20年前の映画で今が予測されていた、というのは裏を返すと、20年前にはすでに萌芽はあったということだ。であるから、今現在、色々な分野で危惧されていることは、ないしはよい変化として期待されているものも含め、20年後に現実となるということである。
では本作が制作された時点で、トランプのような人間が大統領になることが予測できたかというと、できていない。2016年の大統領選の時点でトランプ勝利を予測していたのは少数だった。
トランプのような人自体は特別でもなんでもない。ああいう節度のない人はいくらでもいる。想像がつかなかったのは、そういう人間を支持する人がこれほど多かったのかという点である。トランプ支持者というと、赤い帽子をかぶって当人と同様に品のない白人のおっさんが目に浮かぶかもしれないが、全員がそういうわけでもなく、中にはかなりスマートに見える人もいる。
安倍晋三なんかもそうで、ああいう人の話を聞かない上に、聞いたかと思えばどうしてそうなるのという受け取り方をする人はそこまで珍しくない。それを、例えばブン屋のような、一応はエリート層に当たる人々があそこまで支持するというのはなかなか予想のつきにくかったことだと思う(圧力があったといわれているし、そういう面も間違いなくあろうが、好きだったという方が圧倒的に原因としては大きいに違いない)。
というわけで、本作の描き方でもっとも引っかかったのは、全員が酔っぱらったようなバカだと、大統領も同類になるという部分だ。ついでにこの大統領は、主人公が賢いとみるや、問題の解決を委ねる。彼の側近も同様。こんな風に、相手の能力を認めている点で、バカではないといえる。
実際のバカは、主人公の意見に対して、「わかってないなあ」という余裕の半笑いをわざとらしく湛えながら、借りてきた言葉で主人公の意見の?荒唐無稽さ?をあざ笑い、そして当人は何も解決できないどころか余計に悪くする。そしてそれを見ている周囲の人間も、それに疑問を感じない。これが現実。
「無知の知」とはよく言ったものだ。もっともえらいのはソクラテスだったということで。
「IDIOCRACY」2006年アメリカ
監督:マイク・ジャッジ
出演:ルーク・ウィルソン、マーヤ・ルドルフ、ダックス・シェパード
ジャニーズの問題が取り沙汰されているから、たまたまタイムリーになった。虐げられ方の種類は違うが。あちらは、社長が地位を利用して自分の欲求を満たしていたというパターン。こちらは自分の欲望というよりは会社の利益のために食い物にされた児童労働の典型のような話だ。ただ、本作ではあまり描かれていないが、実際には本作の主人公であるジュディ・ガーランドも、MGMの社長から胸を触られていたと、『映像の世紀』で紹介されていた。
子供時代から映画に出演し、親しみの持てる雰囲気と歌声で一気にスターになった人だ。リアルタイムでは知らない。世評ではそういう語られ方をしている。体型維持のためろくに食べさせてもらえず、過密スケジュールをこなすために薬物を与えられていた。そういう少女時代の回想を挟みながら、すっかり中年になったジュディのうまくいかない日々を描いている。
薬物の影響でトラブルメーカーのようになってしまい、この時点ではとっくに解雇されている。場末のクラブみたいなところでショーをやって稼いでいるが、生活は苦しいし、仕事は夜が中心になるので子育ても難しい。元夫からは、お前には無理だからこっちに子供をよこせと迫られている。元夫が心配するのも無理はないと思わされるくらい、当人はかなり危なっかしい。体も心も不安定で、すぐ人を好きになる一方で、裏切ってはいけない人間を裏切ってしまう。だけど、それもこれも児童労働の後遺症だから気の毒だ。
彼女に限らず、子供時代に人気者になった役者や歌手は、その後人生が暗転するケースが非常に多い。日本の場合、一応児童労働の規制の観点から、就労時間等の制限はあるようだが、実態としてはおかしくなってしまう人がいくらでもいるから社会的な対応が必要だ。だけどいまだに「人気子役」のテレビでの扱われ方は相も変わらず無邪気な様子で見ていられない。そこに加えてジャニーズ。正確には、ジャニーズの問題にまともに対応できないテレビを筆頭とした業者の面々を見ていると、自主規制は期待できそうにもない。
ジュディの場合はただし、スポットライトを浴びるのが好きで仕方がないというのがポイントだ。自分を食いつぶした産業だが、この仕事自体は好きなんだな。スターの矜持というような希望にも見えるし、DV配偶者から離れられない類の矛盾にも映るし、どう考えたらいいんだろう。
本作の場合は、スターの社会的役割を描くことで1つの評価を提示している。ジュディの大ファンだというゲイの男性2人組とのやり取りのシーンは、短いがかなり印象的だった。彼女の代表曲である『Over the Rainbow』は、LGBT運動の象徴である虹色の旗の由来と位置付けられている。ジュディが同性愛を公言していたというわけではなく、歌詞の内容が響いたということらしいが、本作でのジュディは、この男性2人に対してとても優しい。終始あぶなっかしいくせに、こういうところではとても格好よく振舞える。これがスターというものだろう。
誰かの生きる希望になるのはスターの社会的存在意義のようなものだろう。先日も、ガンから復帰したホワイトソックスのヘンドリクスがマウンドに向かったときの盛り上がりはかなりのものだった。歓声の中にはガン患者、元患者、その家族がそれなりの数含まれていたに違いない。
ジュディの場合は、生きる希望というよりは、死のうとする人に死ぬことをやめさせる力という方が正確な気がする。少なくともこの男性ファン2人の場合はそうだった。スポーツ選手と比べ、歌手の場合は、こういうマイナス方向の防波堤になるようなケースが多い印象がある。勝手なイメージだが。ただしそういう人は、自分は早死にという場合が多いんじゃないか。やるせない話だ。
それにしても、主役は当人のそっくりだった。洋画の伝記モノは毎回思うが、当人への似せ方がものすごい。
「Judy」2019年イギリス
監督:ルパート・グールド
出演:レニー・ゼルウィガー、ジェシー・バックリー、フィン・ウィットロック
ナ東はブレーブスが快走し、昨季土壇場で寄り切られたメッツがどうにか追いかけている。バーランダー、シャーザーの元タイガースコンビはあまりあてにならず、千賀が繰り上がりエース状態。昨季ワールドシリーズに出場したフィリーズは、ハーパーの離脱もあって低迷。復帰はしたが、今のところソレールとアラエズが打ちまくっているマーリンズの方に勢いがある。アルカンタラにもう少し元気があれば面白いのだが。チゾムは完全に忘れ去られている。
ナ中は、スタートダッシュのパイレーツが、春の椿事に終わらず上位をキープしている。期待の若手オニール・クルーズが骨折で離脱したが、あまり影響がない。チェジマン&ベジファンの韓国コンビの活躍を期待したが、チェジマンは出番がなく、メジャー残留も危うくなってきたか。
このパイレーツと首位を争っているのがブリュワーズ。本塁打後のパフォーマンスにかぶるのはチーズ型の帽子(?)。これくらいバカっぽい方が好感が持てる。エンジェルの兜、ロイヤルズの鉄仮面など、雄々しいのはやりすぎに思えてあまり好きではない。一番ヤリすぎなのはヤリのマリナーズだけど。一番わけがわからんのは、ホースで水を飲むオリオールズだが、いかにもアメリカっぽい馬鹿馬鹿しさでよろしい。そういえばブルージェイズのジャケットは、袖を通している様子を見るたび、肩を脱臼するんじゃないかと心配になったものだったが、廃止になった。
昨季、おっさん2人のラストイヤーを地区優勝で飾ったカージナルスは、おっさんロスのせいか低迷。ノーラン・ゴーマンという、齋藤さんとこの劇団みたいな名前の若手に当たりが出てきたが、チームは浮上しきれていない。
WBC以降、日本のメディアはヌートバーの動向をやたらと報道するようになっており、付録のように「元巨人」の肩書から逃れられないマイコラスもついてくる。田舎臭い血統主義だ。わが故郷もすぐ「ゆかりの人物」をことさらありがたがる傾向があるが、田舎はだいたいこんな感じだ。首都圏だと、実績の有無だけで注目の有無が変わる。これが国際的な話になると、日本全体が「血統・ゆかり大好き」の田舎者になる。ヌートバーに限らず、鈴木も大谷も4タコだったらその日のニュースで取り上げなくてもいいと思うし、余程レイズ×オリオールズとか、ドジャース×ブレーブスとかの方が気になる。
ナ西も、スタートダッシュのダイヤモンドバックスが、意外にも脱落せずに上位をキープしている。出遅れたドジャースだったが、やはりいつの間にか首位になっていた。注目は若手のアウトマン。野球選手としてはだいぶひっかかる苗字だが、ネイティブの感覚ではどうなんだろう。
問題は大型補強のパドレスである。タティースが復帰するのに合わせたように、ずるずる下位に沈んで、ロッキーズと最下位争いするくらい無様なことになっている。昨季のソトに加え、ボガーツ、カーペンター、オドーアと、東からかき集めた有名どころが並ぶ打線は、いかにも寄せ集めという印象が漂う。セイバーメトリクス登場以前の金持ち球団(主にメッツ)によく見られた構図だが、2020年代にもなってこれでは、ダイナソーズに改名した方がよさそうだ。
3月末日に「終わっった〜」と思っていた仕事が終わらなかった。そこに毎春恒例の仕事が重なり、いつの間にか1つ年を取っていた。ペネロペ・クルスよおめでとう。ついでに北村有起哉とアーロン・ジャッジも仲間に入れておこう。そしていつの間にか5月も終わりだ。
ジャッジがケガで離脱していた間にヤンキースは最下位あたりをうろうろしていた。戻ってきたら勝ち出したので、さすがいてもいなくても一緒のスタントンとは役者が違う。
1年目の吉田もすでにチームの顔となっている。当初吉田の打率とアスレチックスの勝率がどっこいどっこいだったが、吉田はうまく対応し始め、レッドソックスの調子も上向いた。赤髭ターナー、リス頬デバースの、あまり話が合わなさそうな3人が中軸を構成する魅力的な打線で、トレバー・ストーリーは完全に忘れ去れている。しかし東はレイズがぶっちぎりで、レッドソックスは勝率5割を超えているのに下位に沈んでいる。ア東はしかし、オリオールズが注目。昨季、再建中のトンネルから抜け出した印象があったが、今年はそのまま勢いを増している。
一方、ア中は、東から星を奪われている第三世界状態で、首位のツインズ以外、4チームが勝率5割を切っている。今季から同地区対決の数が減ったせいで、地区ごとの不均衡がいよいよ表面化してきて、甲子園大会の予選のようになってきている。ア東と2チームほど入れ替えた方がいいんじゃないか。タイガースが意外と健闘して2位につけているが、負け越している。
ア西は、スタートダッシュに成功したレンジャーズが意外に好調をキープ。今季の移籍の目玉デグロームが順当にケガ人リスト入りし、昨季移籍のシーガーも定位置のケガ人リスト入り。それでもイバルティの完投連発等で首位をキープしている。GMは両者の脱落を織り込み済みでチーム編成をしたのだろう。じゃあ採らんでええやん。
アストロズは、WBCでアルトゥーベが死球骨折した影響か低迷していたが、アルトゥーベの回復とともに上位に浮上した。さすがいてもいなくても一緒のスタントンとは役者が違う。ピッチクロックの導入で、2、3個多い投球モーションが使えず普通になってしまうと注目されたルイス・ガルシアは、トミージョン手術となり、ピッチクロックどころではなくなってしまった。腕をぶらぶらさせていたのがやはり負担だったのだろうか。
エンジェルスは、レンのつく選手だらけで今季はレンジェルスだといったが、レンドーンは定位置の「出たり出なかったり」。レンヒーフォは、今一つ不振で、安定しているのはレンフローのみ。このためレンジェルスにはなりきれていない。
ネトやモニアックら新顔も台頭してきてオオタニサンは楽しそうだが、投手陣にケガが多く、勝率5割あたりをうろうろ。このままだと7月には大谷放出もあり得るだろうが、もういっそ大谷は、半期ずつ移籍してはどうか。15年で30球団に移籍できるから、年齢からいってちょうどだろ。前半戦は下位チームに所属して戦力と集客に活力を与え、後半戦は上位チームに移籍してポストシーズンを戦う。名付けて一人ワイルドカード制。全員幸せだろこれで。最後にまたアナハイムに戻って引退すればよい。
それはそうと、兜かぶせ役のフィリップスが本塁打して自ら被るところを見たかったが、マイナー落ちしてしまった。バウアー容疑で出場停止となった山川の代わりに西武が採らんかな。全然打たないけど、イメージは超クリーンだからうってつけ。
上昇した吉田の打率と異なり、勝率1割台が続くアスレチックスは、黒星のシーズン記録を更新するのではないかといわれている。2人まではビシっと抑えても、3人目になると暴投が始まる藤波は、ほとんど芸風みたいになってきている。今のところフィリップスが登板するのと大して変わらないんじゃないかという防御率だが、あまり気にする様子もなく堂々とマウンドに上がっているように見えるところが尊敬する。
マリナーズは、本塁打後のパフォーマンスに用いる槍の先っちょがツンツンで危なっかしい。
『あなたがしてくれなくても』。ラジオで紹介しているのを聞いて、途中から見始めた。2組のセックスレス夫婦が主役。片方は、妻が仕事に夢中で夫の求めを断る。もう片方は、夫が自分勝手な淡泊キャラで妻の求めに応じない。で、このソデにされている側の2人が職場の同僚で、互いが同じ悩みを抱えていると知り仲良くなる。
テーマや設定はおもしろい(元はマンガというからさもありなん)。だけど途中から、ただの不倫ドラマのようになってしまい興味が失せた。配偶者との夜の生活がないことで疎外感を感じているのに、一方でこの同僚同士は精神的なつながりだけで充足してしまって、配偶者に体を求める感情が相対化されるという方が面白いのでは。
瑣末なことだが、1組目の夫婦の「忙しい妻」の忙しい職場(出版社)の描き方がとても紋切り型でキツい。物語上は大した問題ではないのだが、「多忙な職場のデキる社員」のこのステレオタイプな感じをなぞろうとする人や職場って、現実世界で結構見かけませんかね。見ていてこっぱずかしいだけでなく、そういう職場・人ほど、話が通じにくかったり無駄が多かったりで、仕事をする上で邪魔になることが多い。だから、こういう描き方はやめてほしいと切に願う。フィクションの影響ってバカにできないと思うのですよホントに。
『家族だから愛したんじゃなくて、愛したのが家族だった』。これは大変すばらしい。原作の岸田氏がnoteに書いている記事が、たまにTwitter上で話題になっており、いくつか読んだことがある。家族のドタバタを、読ませる文章で書いている。それがドラマになるというから、興をそそられて見たが、外国映画に感じる「新しさ」と同じようなものがあってとてもよろしい。
真っ先目につくところでは、「ダウン症の弟」をダウン症の青年が演じているところ。実際にその障害を持っている役者が演じるというのが、最近のトレンド。これは20世紀だと、「ダウン症」と明示されずに、どこかしら様子が異なる明るい弟、くらいで描かれていたと思う。というのも、ダウン症ではない人にダウン症の人の特徴を演じるのは無理で、似せれば似せるほど悪意のあるモノマネのようになってしまう。というわけで、誤魔化すしかなくなる。
車いすの母は、車いすの役者が演じているわけではないが、歩けていた時期のシーンもあるからこれはやむを得ない。最初磯野貴理子かと思ったら坂井真紀だった。いつの間にかこの人も演技が巧くなっていた。病気の後遺症で車いすになってしまい、世間の無邪気な差別に直面するシーンは丁寧に描かれていた。こんな程度のことは、車いすの人間が身近にいたり、福祉をちょびっとでも勉強したり、あるいは骨折でしばらく杖生活になったりすれば誰でも見知るようなありふれた現実だと思うが、少なくない人が知っていることと、フィクションで描かれることの間には結構な距離がある。テレビだと尚更。
主人公・七実のおもしろたくましキャラが物語を牽引するのが『家康』と正反対。家康の100倍頼りになるたくましさだ。演じる役者はかなり演技が巧い。この七実の演技と演出が生み出しているキャラは、元のコラムより面白い。というのも、元のコラムは著者とイコールだから、自分が自分を書く場合には生まれない客観的な視点が作用するからだと思う。無論、役者と演出がそろって初めてできることだ。大抵は自分が自分を描いている方が「枠にはまらないそのまま」になるので面白い。演出担当は女性か。なんか納得した。
ここ数年、大河ドラマを見た後、Twitterの感想を見るのが習い性になっていた。たまに史実的な補足を書いている人がいたり、自分では気づかなかった細かい演出について指摘している意見があったりで、「インターネットの集合知」というのを身近なところで感じれるのがなかなか楽しい。
もちろんドラマ自体が面白いことが条件だ。『どうする家康』は今のところ今一つの出来。Twitterで誉めている感想を読んでも、皆さんお優しいですねと思ってしまう。ただ、よく見るとクサす方のハッシュタグもあって、そちらを見ると異論がいっぱいある。それらに目を通すと、クサすのも、これはこれで難しい作業なんだなと思わされた。「おもんない」という意見自体がおもんないという皮肉をいっぱい目撃した。そういえば映画の感想サイトも、★1をつける人の感想は大抵粗雑だもんな。
近年の大河ドラマは、最新の研究成果を踏まえて、お約束的な描き方を避ける傾向がある。今作もそれは共通していて、今川家の人質時代は、通説と異なり家康はかなり大事に扱われていたとか、武田勝頼は偉大な父の前にかすむ凡庸な息子ではなく、父親を凌ぐ名将だったとか、新しい描かれ方が散見する。ナレーションが、通説的な「神君家康」を語り、実態はそれとはだいぶギャップのある頼りない様子を描いているという全体の構成も、新規性を狙った野心を感じさせる。
ただしそういう歴史の扱い方とは別に、ドラマの描き方自体は日本のドラマのダメの典型をなぞっていると思う。それも、そのダメ典型を「よいもの」として扱っているから余計に見ていていたたまれない。代表的なところでは、危機が迫っているときほど時間の流れがゆっくりになるやり取りが多い点。古くは「宇宙戦艦ヤマト」における、敵が迫っているときに「古代君」「雪」「古代君」「雪」と、しっぽりいちゃつくあれに代表されるパターン。こういうのは、演出が陳腐でキツいという以上に、「王道だから好きでしょこういうの」くらいのよかれ感でやっているんだろうなあという制作サイドのハズし具合がキツい。
ところで今作の明智光秀は、半沢直樹の悪役のような小物中間管理職風味で、本能寺は起きないという設定なのだろうかと思わされる。半沢の悪役は、半沢は虐めても、頭取にはたてつかない。
同じNHKの『グレースの履歴』。こちらは役者の演技力だけで惹きつけるような出来で、結構見入った。滝藤賢一の、「突然の事故で妻を失った愛妻家の夫」のじわーっとした演技が真に迫っていて、それだけで『家康』にはない安心感があって最終回まで付き合わされたような具合だった。
物語的には佳作といったところ。全部妻の掌で踊っているだけという展開は、腑に落ちず。あとラストで妻のデジカメに保存されている写真を見るシーンは、旅の前にまず見るだろと、野暮と自分に言い聞かせても気になって仕方なかった。辻褄合わせくらいは欲しい。
何より、旅の途中で出会う若い女性が、滝藤演じる主人公にかすかに惚れているという設定がキツかった。妻を失い絶望している男が、若い女に惚れられた途端に妻を忘れそうになり自己嫌悪、という話ならまだぎりぎりアリかなあとは思うが、主人公はこの恋心に気づいていないか、あるいはうっすら気づいているもののまったく歯牙にもかけていない様子。それがまた制作者の願望を投影しているようでキツい。
若い女性との恋愛に正面切ってぶつかっていく勇気なぞ微塵もないが、好きとは思われたいという虫のよさ。「尊敬される」で満足しとけよ。薄毛になると他人の薄毛に敏感になるのと同様、自分がおっさんになると、他人のおっさんぶりに敏感になる。この女性を演じていた若い役者にも、「キモい脚本やな」とうっすら思われていたんとちゃうか。
この若者の祖父という設定で登場していた宇崎竜童の役名が「仁科」だった。「仁科です」という名乗りが、「西野です」に聞こえたので、また西野かよ、と思ってしまった。「ハゲタカ」の旅館の主人の役名ね。
宇崎竜童みたいな格好つけた男が、格好悪い役(西野屋の主人)を演じるとかなり格好よくなるものだが、格好いいキャラを演じると途端にダサくなるな。
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江戸期の歌舞伎調、講談調の絵がまったく好きではないのですぐ見終わった。講談調の絵というのも変な表現だが、講談本の挿絵によく見られるタッチのこと。講談の言葉遣いそのままに、人物の描き方も決まりきっていて面白くないんだよなあ。江戸や上方の絵師ではないせいか、タッチが少々泥臭いのが面白かったのと、大地震の記録として描いた絵が興味深かった。
「ピカソとその時代」(国立国際美術館)。ピカソ、ブラック、マティスといった人気者が集まる企画だったので、平日なのに人が多かった。ブラック以外は撮影可だった。撮影可だとつい撮ってしまうが、ピカソはデカい絵が多く、デカい絵は、写真に撮っても今ひとつな印象。映画館同様、デカい画面は、デカい様をその場で楽しむのがよい。無論ついでに写真撮るけど。
ピカソの作品の周囲は人だかりができていたが、ルオーの展示コーナーになると、急に混雑が解消されていた。気持ちはわかる。
こういう展覧会は、グッズ売り場のTシャツが楽しみなのだが、なかった。ジャコメッティの細人間をシルエットにした図柄の筆入れが売っていて、この図柄をTシャツにプリントしてくれるだけでいいんだが。
「修理のあとのエトセトラ」(中之島香雪)。所蔵品の修復を紹介した内容。掛け軸や木造、陶器、刀剣等の破損や汚れを修復する方法や、前後の比較なんかを展示していて見ごたえがあった。ただし、修復の方法の説明は、半分も意味がわからなかった。
学生の一団がいて、ちょっと懐かしい気分になった。大学生のころ、毎週どこかの展覧会にいっては、作品を鑑賞してレポートを書くという授業があって、遠足気分で参加していた。目の前の学生のグループが、それと重なって見えたのだった。聞けば、修復を学ぶゼミの所属とのこと。今時だと、修復をやっている工房に就職する大学生もそれなりいるらしい。そういや『ハチミツとクローバー』の主人公もそうだったな。
京阪特急に乗って京都に。京阪の特急はほんとによく寝れる。国立博物館の親鸞展。仏教美術はあまり興味がなく、その遠足ゼミでもよく仏像を見たものだったが、結局何が面白いのかよくわからなかった。このためろくに興味がなかったが、意外と楽しんだ。
一番は、親鸞直筆の文書が結構残っていること。教科書に題名が載っているような古い書物は、往々にして現物は残っておらず、写本だけが伝わっているというのが定番で、著者の直筆というのは初めて見たように思う。親鸞の『教行信証』に加え、蓮如の『歎異抄』も直筆が残っているのか。
親鸞の生涯を伝える絵伝もなかなか面白かった。絵金と違って、人物がいきいきと描かれている。どこかユーモラスでかわいらしくもある。いかにも布教に長けてた真宗という感じのポップさだ。ただ、掛け軸、巻物の多くは、修復がいるんじゃないかと、香雪を見た後だったので気になった。
展示室の端に、ストレッチャーに横たわった人と看護師らしき人がいたので、鑑賞の途中で倒れたのかと思ったら、もともと寝たきりの鑑賞者だったようだ。介助者に案内され、親鸞像の前に横付けしたストレッチャーから、じっと鑑賞していた。さすが宗教だなあと思った。
俺は蓮如の勢力圏の産だから、父方も母方も真宗だ(宗派は違うが)。両親とも信心深くはなく、親戚も似たようなものだが、それでも倫理観ないしは生活習慣の根底に真宗が横たわっている雰囲気はあった。子供のころの父親の実家の雰囲気なんかをどこかしら感じながら見た。そういうわけで、親父に図録を送ってやろうとグッズ売り場をのぞいたら、親鸞Tシャツが売っていた。マンガ風の親鸞の顔は悪くないが、黒というのが芸がなくて気に入らない。だけどジャコメッティTシャツがなかったので、これで我慢するかと買った。
締切までに仕事を終わらせ、次の仕事がどっさり届くちょうど間に日に、ここしかない!とばかりに遊びに出かけた。美術館に行くくらいしか思いつかない。
「恐竜図鑑」。恐竜の絵の変遷をたどる趣旨なので、化石や骨格ではなく絵画展である。「実は羽毛が生えていたらしい」というので21世紀の恐竜はカラフルに描かれるようになっているが、こういう変遷は、19世紀末に恐竜の化石の発掘が進められて以降、繰り返されてきたらしい。俺世代が子供のころに図鑑で見た恐竜の絵は、チャールズ・ナイトとズデニェク・ブリアンという2人の画家によって描かれてもの、もしくはその真似だった。たった2人か、というのは驚きだが、パブリックイメージの構築が1つの作品に拠っているというのはそんなに珍しいことでもない。
恐竜の絵というのは、ヨーロッパ絵画の写実技法と、ヨーロッパが築いてきた自然科学と科学的なものの見方、そして世界を制していく奢った冒険心が全部乗っかったような美術だなあと思った。
恐竜といえば、気鋭の恐竜学者というような位置づけでNHKのドキュメンタリーでも取り上げられていた小林氏という学者を、「兄の高校の同窓生」という文脈で知った。そして兄が激しく嫉妬していて、50もとうに過ぎてアホかこいつはと呆れた。
高校卒業後に入学した大学の知名度を比べると、兄の方がかなり格上なので、高校時代の学力はだいぶ開きがあったと推測する。ついでに小林氏が役者や政治家ではなく理系の専門職というのが大きいのだろう。兄もメーカーで開発業務に従事してきたから、大雑把には似たような土俵だけに、「ま、負けた〜〜」と痛切に感じるんだろう。
その兄は50を過ぎてから転職した。その会社を選んだ決め手はアメリカでの販路拡大を狙っている事業内容だったそうで、この春知らないうちにアメリカ出張に行っていた。アメリカで学んだ小林氏に対抗しているに違いない。嫉妬を原動力に変換してちょびっと実現にこぎつけてるから大したもんだ。連休で帰省したときに「ボストンの吉田に次ぐ県民の米国進出だ」と言ったら、うるせえ黙れと言われた。
話が逸れた。恐竜の化石発掘の黎明期に活躍した1人が女性だと知ったのが一番勉強になった。
隣では、ゴッホに関連した展覧会をやっているようで、若人を中心にそこそこの行列ができていた。なんでもゴッホの絵を壁一面に投影したりで、体感できるという趣旨の、展覧会というよりはアトラクションだった。「今は《体感する》が重要なんです」とさかしらに語る広告代理店の口調が脳裏をよぎった。
まあ、鑑賞するだけだと何が楽しいのかわからないという若人は多いと思う。嫌味たらしい口ぶりだが、半分は嫌味で半分は学生と接する際の実感。俺も中学生のころまで小説を読めなくて、ゲームブックばかり読んでいたから似たようなものだ。中2か中3のときに『三国志演義』と『水滸伝』を読んで、あれが大部の読み物を初めて読了した体験だった。ま、中学生のころの話なんだけど。
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スキャンする本は、背表紙の接着部分(縦書きの書籍の場合、頁の右端)を断裁機で切り落とし、ページをバラバラにした上で、スキャナーに通す。レンタルしたスキャナーだと、100ページ(50枚)くらいを載せることができ、そこそこの速さで読み取ってくれる。
この一連の作業の中でまず面倒なのが本の断裁だ。最初から糊付け部分を切ってしまえるわけではなく、まずカッターで大まかに分割する。俺は百数十頁ごとに分ける。新書だと2〜3等分、厚めの文庫だと4等分くらい。その上で、綴じた接着部分を切断する。最初から一気に断裁しないのは、事務用品レベルの断裁機だと、直角には切れないから。単純な断面図で表すとこんな具合になる。
左の赤線のように、本に対して直角に切れれば問題ないが、実際には右のようになる。これはだいぶ誇張した図だが、イメージとしてはこういう風に、本に対して斜めに刃が入る。どうして斜めになるのかは説明が繁雑になるので省略。一気に何ページも切ると、下にあるページほど歯が内側に入ってくるので、本文が欠けてしまうことにもなりかねない。そもそも何百ページも一気に切れない。これまでの感覚では百数十ページくらいが妥当。このためまずは、カッターで切り分ける。
かつて勤めていた印刷屋の断裁機は、コピー用紙だと千枚くらいは余裕で切れたし、断面も概ね直角だった。それでも社長に言わせると紙屋の断裁機よりははるかにショボいとのこと。一度だけ見たことがあるが、紙屋の断裁機は全紙サイズを四つ切だの八つ切だのにして印刷屋に卸すから、そもそも馬鹿でかくて、ちょっとゾッとする。とにかく業務用のやつは、大量にまっすぐ切れるので、断裁作業はストレス解消になる。このレンタルの事務用品はそこまでのものではないので、あまり気持ちよくもない。
閑話休題。マンガの場合、特に近年のマンガは、ノドまで目いっぱい紙面を使って描くので、接着面のギリギリを切る必要がある。このため、50ページずつくらいで断裁しないとコマの端が欠けてしまんじゃないかと、カッターで分割する段階で手数が多くなる。そしてあまりにギリギリで断裁すると、糊付けの部分が残って、頁同士がくっついたままになる。綺麗にくっついているとスキャナーに2枚通しになるだけで済むが、一部だけくっついた状態だと、1枚目がスキャナーを通過中に2枚目を引っ張る格好になり、うまくスキャナーを通過できずに紙詰まりを起こす。ページの内側を切れば糊付け部分が残る可能性は減るが、あまり内側だとコマの端が欠ける。絶妙な本のセット位置を見つけるのも多少の試行錯誤を迫られる。
さらに断裁作業は、木を切ればおがくずが出るのと同じで紙粉が出る。これは避けられない。しょっちゅう掃除機をかけたが、出るものは出る。印刷屋のときも、ベタの上に紙粉が乗るとそこだけインクが乗らず、ピンホールになってしまうというんで「しっかりチェックしろ」とうるさく言われたものだった。
スキャンの場合、スキャナーのガラス面に紙粉が乗ると、縦に線が入ることになる。書籍なら、あまりに太い線でない限りは「まあいいか」なのだが、マンガだと絵の上に線が乗るから、極細であっても気になる。専用の薬剤でガラス面を掃除してスキャンをやり直すことになる。かなり手間だった。古いマンガだと、紙が劣化してるから紙粉の量が多く、掃除したばかりなのに線が入ってイライラさせられる。
今後、実家のマンガを随時PDF化して減らしていこうと思ったが、以上のような面倒くささのため、二の足を踏む。
今回スキャンしたマンガは、まず手塚治虫の愛蔵版。初発の単行本ではない分、躊躇なく解体できるというのが理由。それから、『銀河鉄道999』と『宇宙海賊キャプテンハーロック』。松本零士が死んだときに、本ブログに何か書こうとしたけど、久しく読んでいないので読み直してから書こうか、と実家から持ち出していた。
こちらは少年画報社のコミックス版なので、解体するのは躊躇したが、場所をとって邪魔なのでスキャンした。しかし資源ゴミに出すのに躊躇してしまった。そこでふと気づいた。もしかして断裁後のコミックスは売れるのではないか。検索してみると、同じことを考える人間はいるもので、いくつか出品があったが、まったく売れていなかった。
だいたい断裁していない『999』の全巻セットも予想よりもはるかに安かった。捨てるべし。
スキャンして気づいたが、『999』も『ハーロック』も、黒ベタのページがやたらと多い。宇宙が舞台だからだが、毎回毎回、いっぱいベタを塗るのは手間だったんだろうなあ。