【やっつけ映画評】トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

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     創作意欲が旺盛すぎる脚本家の話で、創作意欲の刺激をもらおうとして鑑賞した。意欲を他人からもらおうとしてどうするんだという気もするが、まあいいじゃないか。それで見てみると、内容がやたらとタイムリーで、別のことを考えさせられることとなった。


     「みかんの丘」の項で、「ライフ・イズ・ビューティフル」における戦争の終わりについて触れた。日本においても、国土がまる焼けになってたくさんの人が死んだが、抑圧の時代は過ぎ去った。第二次大戦の終わりは、ドラマでは光が戻ってくるようなイメージで大抵描かれる。ただし大陸の日本人には地獄の始まりだったのと同様に、次なる抑圧が猛威を振るった国はあった。東欧諸国ではナチスからの解放者だったはずのソ連が新たな支配者として君臨し、新時代の到来を寿いだ中国、北朝鮮も自己批判の嵐が吹く。この、鬼が去っても次ぎの鬼がまた抑圧してくる様子は、「映像の世紀」あたりで見ると本当に辛気臭くて病みそうになる。そして共産圏だけでなく、アメリカにおいても密告社会がやってくる。赤狩り、マッカーシズムというやつで、そんな時代が本作の舞台だ。

     

     俳優時代のレーガン大統領が、このころ「アカ」の密告に精を出していたのは知られた話だ。ウォルト・ディズニーもしかり。自社の従業員による待遇改善要求に対して「不平を並べる前に努力しろ」と、今時のネット関連企業の役員のような残念な演説をしているから、そりゃ熱心に赤狩りに協力する。本作ではジョン・ウェインがその役回りとして登場している。そのころ日本でも、死線をくぐって生き延びた満洲帰りの映画人が、「アカ」と蔑まれていた。


     こういう監視密告排斥運動で炙り出されるのは、ほとんどが無関係な人だというのはアメリカでもソ連でも、日本でも中国でも同じである。ついでに、共産主義の駆逐を高らかに叫ぶ議員が、身内を縁故採用しまくっているくだりは苦笑した。意図的に敵を作り出す人間は、同時にせっせと仲間に利益誘導するのである。脱税で捕まっている分まだ本邦よりマシだが。強姦の逮捕状は、握りつぶしてもうおしまいかい。こんな警察庁に新しい武器をあげちゃってるよ。

     

     トランボは共産党員だと作中述べられている。だから彼が投獄され映画界から干されたのも一定の理由がある、という立場から、本作がトランボを無辜の市民として描いていることに批判があるらしい。本作はまさにそのような批判が何をもたらすのかを表しているようにも思うが、共産主義を信奉するのとソ連のスパイであることは次元が異なる。社長や部長に批判的な社員が総じて他社に情報を流すわけではなく、むしろやらない方が普通だ。で、実際に情報を流すのはトランボではなくトランプだったりするから、やはり切り分けて考えるべきことである。国が内心に踏み込むとどうなるか、実にタイムリーな内容だ。いきいきするのは鼻持ちならない連中ばかりで、大義を味方にやたらと鉈を振るうが、それで得られたもの(スパイの検挙等)とのアンバランスを考えると、やはりどうかしている。


     本作が面白いのはしかし、それらの政治に対して、本業で抵抗する点だ。裁判で戦うべきだという仲間の主張を退け、トランボはひたすら脚本を書き続ける。目的は証言を拒んで干された自身や仲間の生活保障、つまり金のためだが、口を封じられた脚本家が脚本で抗う構図である。といっても、別に「蟹工船」や「弁護人」のような脚本を書くわけではなく、B級映画を中心とした娯楽作品だ(それと同時に「ローマの休日」のようなアカデミー作品も名前を隠して書く)。このB級映画の社長が、「トランボを使うとどうなるかわかるだろうな」とばかりにジョン・ウェインの手下から警告されたときの反応が、本作で最もおもしろい場面だった。自虐的な武闘派というのを初めて見た。

     

     金のために、「異星人がやってきておっぱいボヨヨーン」(富永一郎か)といったくだらない脚本を書くことは、マッカーシズムに対する直接的な戦いにはならない。このためトランボに反発する仲間も出てくる。ついでに共産主義者からすると、資本主義に魂を売ったようにも見える。マッカーシズム自体も、いつの間にか下火になり、トランボは解放されるという展開だから、彼が作品を通じて何か強烈なメッセージを発し、それが世論を動かし自らを復権させたというわけではない。

     

     だけど考えてみると、この場合は「金」が何よりも反抗になるのだと思う。危険分子だと本業を奪われれば名誉とともに食扶持も失う。このためある者は膝を屈し、ある者は追い詰められて、退場するか死を選ぶ。バカ娯楽作品であれ、書き続け金を得るのはこの場合、生き残ることを意味する。そして彼らを追放した側は、実のところは共産主義の脅威というのはほとんどとっかかりのようなものでしかなく、異分子を排除したいだけだ。これは赤狩りに限らず、口をふさごうとする連中に共通する性向である。だからこそ、生き残ることそれ自体に意味がある。「スパルタカス」はメッセージ性が強い作品だが、それを堂々とやらせようとする人間が現れたのも、生き残ったからだろう。

     

     「スパルタカス」は公開当時、日本における「靖国」や「ザ・コーブ」なんか遥かに超えて上映を巡って結構な騒動があったらしい。知らんかった。世界史に興味を持った中学生のころ、大河ドラマを見るような気分でテレビで見た記憶がある。過ぎ去ってしまえばそんなもの。ほとんど忘れ去られた映画のような印象すらある。
     問題は日本の場合は「過ぎ去るのかどうか」にある気がしないでもないが、とにかくやることやれることをやるしかないってことだよな。寂しい結論だけど。

     

    「TRUMBO」2015年アメリカ
    監督:ジェイ・ローチ
    出演:ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、エル・ファニング 


    本の感想:満映とわたし

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       某大学で留学生を相手にしている話は以前に書いたが、彼らと軽く話す機会があったので、出身を聞いた。いずれも中華系の名前なのだが、そう思わせておいて実はアメリカ人だったOh!先入観!、というようなことを若干期待していたのだが、少なくともその日話せた人に限れば全員中国人だった。ただし出身省はバラバラで、沿岸部から内陸部から、全員違う地域から来ていた。立地からいって、必然関西出身者が多数を占める大学だが、留学となると、話も変わってくるんだなと思いつつ、地球規模で見ればアジアの大学だからやっぱり一地方に偏っているともいえる。


       それで面白かったのが、彼らのうちの男子2人だった。1人は広東省出身。彼に出身を尋ねると、今時のネットスラングでいうところの「広東省ですキリッ」という返答だった。彼がたまたまそういうパーソナリティなのか、それとも都会人プライドか孫文プライドでもあるのか。なぜか日本語読みしない省だから特別といえば特別である。
       対照的に、もう一人の男子は遠慮気味に「東北の、方です・・・・・・」と口ごもる。もしや東北地方はコンプレックスでもあるのだろうか、まるで「東京の方から来ました埼玉県民」のような高度な日本語でぼやかしてくる(俺が揶揄しているわけではなく当の埼玉の人がそう自虐していたのを目の当たりにしたことがあると断っておく)。
       「東北の方」とはどこか。3分の1の確率の当てずっぽうで「吉林省?」と尋ねると、見事正解した。調子づいてつづけざまに「長春?」と、吉林省ではそれしか知らない省都の名をぶつけると、この男子はハウッと息をのんで「知ってるのですか?!行ったことがあるのですか?!」とうれしそうだった。日中国交正常化45周年の今年、草の根親善にひとつ貢献してしまった。政府が揉めても民草は仲良くするのである。昨年中国に行ったのが、初めて日常で役に立った気がする。

       

       さてその長春であるが、旅では順序が逆になって悔やむことがある。帰ってきてから旅番組でその地域の名店を紹介しているのを見るとか、そのような話だ。そして本書「満映とわたし」も、読んでから行くべきだったという感想がまず先に立った。
       長春で最も興味を持って訪れたのは満映(現・長影)だったのは以前に書いた通り。その満映に勤務していた技術者の手記をもとにしたノンフィクションだ。10代で映画の編集部門に見習いとして勤務しはじめ、有名監督とも出会いながら激動の人生を送ったこの女性は、NHKの朝ドラの主人公にぴったりだと思いながら読み進めたが、題材が鋭利過ぎて無理だった。いや、今だからこそこの鋭利さがフィクションには要るよね。


       特に映画に思い入れがあるわけでもない少女が、父の死で困窮した家族を支えるために、たまたま人の紹介で縁のあった撮影所で兄とともに働き始める。序盤は溝口健二、伊藤大輔、伊丹万作と有名監督が登場していてそれだけで楽しい。伊藤大輔がどういう人柄なのか知らなかったが、気遣いのある魅力的な大人として登場している。一方、エッセイ集が手元にある伊丹万作は、神経質で近寄りがたい様子で描かれていて若干寂しい。さらに注目したのは坂根田鶴子で、後に満映で女性監督となる彼女は、「RON」の田鶴ていのモデルといわれている。ただし田鶴ていと異なり、男装で男言葉でしゃべる人だったとある。男社会で生き残るために武装していたのだろう。

       

       その伊丹万作に関連して興味深いのは、本書の主人公・岸が「新しき土」の編集に参加していたことだ。日独防共協定締結後に生まれた日独合作の国策映画である。原節子が主演で、このせいで彼女はゲッベルスとも面会している。こんな映画史というより近現代史的な作品に関わっていることも興味が尽きない。ついでに、編集という作業が工芸職人的な性格を持っていた時代の作業内容も、パソコンでクリックドラッグの編集しかしたことがない人間とってはとても面白かった。一発勝負の技術と神経が要る作業に比べたら、たまにPCがフリーズするくらい屁みたいなもんよね。嫌だけど。


       というような楽しい読み物ぶりは前半までで、後半からは苦難の連続がものすごくて、ボリュームは普通の本だが、読了までには何度も休憩が必要だった。
       昭和20年8月15日にどこにいたのかが、戦争を生き残った日本人にとっては決定的な分かれ道となる。この時代を扱った本ではよくそんなことが指摘されたり、痛感させられたりする。戦中戦後を扱った、それこそNHKの朝ドラにおなじみの物語では、大抵玉音放送とともに暗い時代が終わる。国内ではそうだった。国土はまる焼けで、縁者もたくさん亡くし、食べるのもままならない状況だったとしても、少なくとも抑圧は消え去る。

       

       ところが大陸ではここからが地獄の始まりだった。まだましだったのは現在の韓国側にいた日本人で、財産を失って茫然自失の人ばかりだったと聞くが、それでも多くがさっさと帰国できた。ソ連が攻め入った北朝鮮側や満洲は悲惨だった。本書においても、ここからが本編の始まりともいえる。

       

       細かく書くとキリがないが、印象的なのは、渦中での判断の難しさだ。震災のときに、ニュースを見れる他地域の人間に比べ、現場で被災した側は、テレビが入らないから状況がさっぱりわからない。あれと似たような話といえばよいか。日本が敗北し、まずソ連が現れ、次に中国内の国共内戦に巻き込まれる。動くのが正解か、とどまる方が生き残れるのか。それだけではなく、共産党が何者かわからない状況で、心ある中国人から「新中国の建設に協力してくれ」と言われれば、使命感も湧くというものだ。

       

       こうして岸以下、内田吐夢ら満映のスタッフの多くは、何年もこの地に滞在することになる(北朝鮮も含め、あっちゃこっちゃ行かされるのだが)。政治に翻弄され、何度も惨めな扱いを受け、ただでさえ冬は全部凍り付く極寒の中、本当によく生き残ったと思う。岸はさっさと自殺した理事長の甘粕正彦は「卑怯だ」というが、それも頷ける。この点、甘粕の死後まもなく終わる「RON」も、本書に比較すれば牧歌的な内容と思わざるを得ない。
       加えて、中国側からの苛烈な扱いの多くに、日本人が積極的にかかわっていたという事実に気が滅入る。戦前アカと蔑まれた共産主義の日本人は、中国共産党がイニシアティブを握ることで、いわば勝ち組になる。その一部が、岸らに牙をむく格好だ。何でも「サヨク」のマジックワードで片付けたがる昨今の右翼しぐさの連中は、よだれを垂らして喜びそうなエピソードだが、こういう手合いこそ、本作のような状況になれば、積極的に同胞を切り捨てるのさ。

       

       本書がドラマ向きだと思ったのは、このような苦難の果てにそれでも希望が待っていたからだ。しんどい話の連続で、彼女たちが映画人だったことも忘れかけたころ、国共内戦の終結で国内が落ち着いてきたことに伴い、岸は中国人技師の養成に取り組むと同時に、作品制作にも協力することになる。彼女が関わった作品のうち、最も中国内で有名なのが「白毛女」という映画だという。
       「そこまで有名ならもしかしてあるんじゃないか」と、俺は一旦本を閉じて、引き出しに仕舞っていたとある絵葉書セットを引っ張り出し、繰った。長影の展示が知らない映画ばかりで興味を持ちにくかったと以前に書いたが、それでもミュージアムショップで往年の作品ポスターを印刷した絵葉書のセットを買っていたのだ。1つも知らない作品なのに、買ってどうするんだと内心思いもしたが、ろくな土産物が売っていない中国の観光地にあって、初めてマトモな商品を見たからというのが理由としては大きい(二百三高地Tシャツと出会うのは後のこと)。
       そして、やはりあった。

       全然見る気の起こらないデザインだが、ポスターの複製品が手元にあることに、じわじわと感動してくる。買ったはいいが見向きもしなかったこの何気ない一枚に、そこまでの歴史が詰まっていたのかを今さらにして知り、そして本で読んだことの実感が何倍に増してくる感覚だ。


       当時の中国では、日本人が制作に関わっているのを公にすることはできず、クレジットはされなかったという。ずいぶん後になり、戦争の記憶が遠のくころ、彼女が編集したという事実が中国内でも正式に公表されるようになった。この当時の中国の態度を了見が狭いと嘲ることはできない。終戦から8年後、念願かなってようやく帰国できた元満映スタッフたちは、「アカ」とみなされ爪弾きに遭う。「アカ」じゃなかったから現地で苦労したのにね。


       このような濃密な歴史が二国間に横たわっているというに、今にあんまりつながっている気がしないのは、とても残念だというしかないが、「そうでもないぞ」と反論する現場の人間は、想像よりはいるはずだ、とも思っている。


      【やっつけ映画評】ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ

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         邦題が合っていないような気がしたのは、この題からまず想像したのがドクター中松氏や羽柴誠三秀吉氏のような、落ちても懲りずに出馬する「泡沫候補」だったからだ。だが本作の主人公アンソニー・ウィーナーは、民主党の若手下院議員で、激情的な弁舌でそれなりに地位を築いてきた政治家だ。よくわからないおもしろいおじさんではない。(そういえば、ドクター中松はミサイルをUターンさせられる装置を開発したんじゃなかったっけ。今こそ彼の出番だよなあ)


         それで何が「懲りない」かというと、下半身スキャンダルで、「懲りずに選挙に出る」ではなくて、「懲りずに醜聞を重ねる」という意味だった。厳密には、ビル・クリントンの「不適切な関係」とは異なり、よいしょコメンテーターの「準強姦容疑」とも異なり、メールだかSNSだかで全裸や局部の写真を女性に送ったり、卑猥な会話をしたりといったメタ下半身なスキャンダルだったらしい。


         「らしい」というのは、本作ではそこの説明がハッキリ明確には語られていないからで、これは後で触れる。
         いずれにせよ本作は、妻子ある身で、よその女複数人と形而上的にエロいことをしていたことがバレて失職したのが、市長選に出馬して返り咲きを狙う、その様子に密着したドキュメンタリーである。

         

         市長選では、序盤優位に支持を集めるも、失職後の謹慎(?)期間中にも同じことをしていたのがバレて苦境に立たされる。そういう意味では確かに「懲りない男」である。「選挙ウォーズ」というよりは、ひたすら「火消」に追われていたのだが、それでもアメリカの選挙の様子が活写されているところは興味深かった。

         

         さて、なかったはずの日報が出てきても、大嘘ついて学芸員を罵倒しても、白紙領収書でもドリルの目的外使用でも逮捕状のもみ消しでも特区を巡る疑獄案件でもだーれも進退を問われることがない一方で、女性関連では一発レッドカード(他に色々ありすぎてほとんど忘れられている印象多々)というのがただ今本邦の倫理観のようであるが、アメリカでもそこは似たようなところがあるようだ。ウィーラーは「イクメン」を偽装していたわけでも、ストーカーだったわけでもないが、送っていた写真が強烈なのと、その手のサイト上で名乗っていた名前が「カルロス・デンジャー」と間抜けだったことも付録で付け加わって、大炎上してしまった。

         これが他のことだったらどうだったのだろう。まあフリン補佐官は名前のダジャレ感と違って、ロシアと通じていたのが問題になって辞任していたわけだが、ウィーナーの市長選支持率の急降下から想像するに、少なくとも下半身醜聞は同じくらいダメージがでかいということなのだろう。最近では、告発者たる文科省の元高官が、いかがわしげな店に通っていたと、それこそ首相の好きな「印象操作」のいかがわしい記事を報じた件が評判(親会社の体たらくのせいで傘下の球団も13連敗してしまった)だが、ウィーナーの場合は残念ながら本当に助平なメッセージを発信していたからあてはまらない。


         さて、ある行為に対してだけ衝動が抑えきれないということが、人にはしばしばあり得る。別に助平な話や犯罪に限らずだ。説教親父の側面を持つ三宅久之は、モデルガンを見ると「ムラムラきてしまい」つい購入してしまうのだと生前、例の日曜昼下がりの番組で吐露していた。自分のそういう駄目な部分を自嘲できる感覚があるなら、時事問題についてのあれやこれやのコメントも、もう少し別の視座を提供できてしかるべきだったのではないかと思うが、とにかくそういう癖があったらしい。内田樹は鞄を見ると同じようなものを持っていても買ってしまうとツイートしていた。俺の場合はというと、スーパーの半額シールを見ると食いきれないのに買ってしまう。各段に安い物件なのが悲しいところだ。
         ウィーナーの場合、ネット情報によれば、その後も同種の行為を繰り返したというから、卑猥なコミュニケーションに対する抑えきれない欲求があるのだろう。買い物と性的衝動を同等に扱っていいのかはわからない。少なくとも、買い物衝動で地位を失う可能性は低い。性的衝動も、内輪で平和的に済むなら好きにすればいい。恋人のパンツをかぶりたい衝動なら社会的にはセーフだが、不特定多数のパンツをかぶりたくなると身を滅ぼす。後者の場合、どうやってそれを回避する、ないしはさせればいいのだろう。

         

         このドキュメンタリーは、ウィーナーのエロコミュニケーション癖を、選挙違反や贈収賄のような「過去に犯した過ち」と位置づけ、真正面から取り上げることはしていない。すでに述べたように、スキャンダルの内容からして、下品なこともあってか、作品内では間接的でぼやかした説明しかしていない。だが、以上のようなことを踏まえると、踏み込むべきはそこだったのではないかという気がする。
         選挙違反や贈収賄を「やらかしてしまった」のと、性的衝動を「やらかしてしまった」のとでは、メカニズムがかなり異なると思う。後者の場合、もしかすると当人の意志だけコントロールするのはどうにも困難な点があるのではと想像されるから、どうすればエロ衝動から逃れられるかを探っていくのは意味のあることではないかと思う。まあ、一番「過去のこと」にしたいのは他ならぬ当人だが、制作陣は、ただの非難や粗さがし、笑いもの扱いではなく、大真面目にウィーナーのエロ側面を追及、いや追究すべきだったのではないか。選挙戦という作品の趣旨からは大きく脱線するが、同じくマズい性衝動のコントロールに苦しんでいる人には、いい内容になったかもしれない。

         

        蛇足:ウィーナーが選挙運動中、自身に批判的な有権者に絡み、その様子がワイドショー的に報道されるのだが、実はその有権者がウィーナーに差別発言をぶつけていて(ウィーナーはユダヤ系)、「これはこいつが悪い」と司会者がコメントしているのが印象的だった。日本だとおそらく丸ごとボツになると思う。

         

        「WEINER」2016年アメリカ
        監督:ジョシュ・クリーグマン、エリース・スタインバーグ
        出演:アンソニー・ウィーナー、フーマ・アベディン、ヒラリー・クリントン


        本の感想:帝国議会

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           大日本帝国憲法下での国会(正確には帝国議会)がどのようなものだったかをわかりやすくまとめた本だった。話の種類からいって、制度の変遷等、巨視的機械的な話に流れそうなところ、個々の議員に焦点を当てつつ、時には「歴史学者の分を超えているが」と著者自身の推測を述べるところも含め、人間味も盛り込んだ記述が読み物としてもなかなかだった。

           

           「戦前回帰という批判をよく聞くが、帝国憲法下の議会の方が今より遥かにまとも」というような趣旨の発言を、どこかの学者がしていたのを目にしたのが本書を手にした動機付けとしては大きい。もしかすると、戦前は米国属国の永続敗戦論的ではなくて曲がりなりにも主権国家という趣旨なのかもしれないが、本稿の趣旨はそこではない。

           復古主義的な政治団体・宗教団体が背後にいる現政権のおかげで、戦前のあれこれを肯定するのが最近のトレンドとなっている。結果、森友のようなけったいな学校法人も登場したわけだが、問題が明るみに出ると、やたらと称揚していたその界隈の人々は一斉に手のひらを返し、手のひら返しをされて失望した籠池氏も宗旨替えした。この一件が明らかにしているのは、誰も本気で中身を称揚しているわけではないということで、「戦前的なものを否定する戦後的なもの」がただ嫌いなだけだという底の浅い話である。

           

           ずいぶん前になるが、俺自身も仕事でその手の人の御高説を拝聴する羽目になったことがある。とある社会問題について話していたのが、段々論旨が雑になり、しまいに「修身の復活が必要だ」という話になっていた。言い出したこの女性は、おそらく修身を読んでいない。何しろ、女の多弁はよくないから静かにしなさいというようなことが書いてある。シングルマザーで経営者という現代ならどちらかというと格好いい立場だと思うが、修身が想定している女性像とは全く一致しない。それでも賛意を示すのは既に述べたようなただのムード的な話だろう。まあひたすら説教臭い内容だから、その点では趣味に合うのかもしれないが。

           

           一方で、これらを批判する際に「戦前的だ」というだけでは、本質的には同じになってしまうから注意が要る。かくいう俺も偉そうにいえるほど何かを知っているわけでもない。そういうわけで、ふむふむと興味深く読んだ。
           日本の場合、フランス革命などとはかなり異なり、明治維新から議会開設までは20年ほど期間がある。要はそれだけ後回しにされたということで、「先にやるべきことがほかにある」と当時の有司専制な人々が判断したといえる。乱暴にまとめれば、議会が何ものなのかあまりよくわからないまま先送りにし、ようやくできたということだ。帝国憲法にも、議会に関する条文は20ほどあるが、これがそもそも何なのかが書いていない。(現在の憲法の場合は「国権の最高機関」とある)。

           

           ここからが本書の内容だが、そんなあやふやな船出の後、議員たちが手探りであるべき議会の形を模索していくさまがひしひしと伝わってくる。当初は「議員」と名乗るのが恥ずかしい風潮があり、名刺には本業や元職を肩書として刷っていたというから、いわばマイナスからの出発である。その姿はなかなかアツい。今と違って、殴り合いがすぐ起きるような野蛮な部分もあり、議会の常として改善策が骨抜きになったり、ぐだぐだな部分も当然あるが、全体としてはよりよい議会政治を希求していく矜持があったということはいえる。それも首相や内閣に関する規定すらない憲法を戴く中でだ。

           

           軍の暴走も帝国崩壊も防げなかったため、結果論からすればダメな議会だったことになるが、過程においてはたしかに、どこかの学者の発言通りだと思う。敗戦によって、軍国主義等とともにこれらの蓄積も吹っ飛んだ印象がある。残念なことだ。
           現在、民主主義とか法の支配とか、結局誰もわかってないまま来た結果こんなんなっちゃってるといいたくなる世相である。必死に模索した時期はたしかにあったということは、戦前が嫌いな人は無論のこと、好きな人こそ襟を正して眺めてほしいものである。期待するだけ無駄だけど。何せそもそもが興味がないからね実のところ、彼ら彼女らは。


          映画の感想、破滅型天才についての2本

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            ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ
             トマス・ウルフという無名の物書きが、一気にベストセラー文豪に成り上がる実話を描いた作品だ。タイトル通り、彼を世に送り出した名編集者との関係性を中心に描かれる。
             そんな作家知らんぞマズい、と慌てたが、長らく日本では絶版状態だったようだ。映画公開のせいか、最近また復刊したみたい。
             登場人物の心理描写をねちねち書くのでとにかく長くなるという作風にちょっとシンパンシーを覚えたが、仕上がった原稿が、廃品回収の新聞束のような分量(それもいくつも箱入りで)になるから、長すぎるにもほどがある。この名編集者の「名」たる所以は、とにかくこれを「読んだ」ということだろうな。当然のように、こんな長い奇天烈な作品を描くウルフは、声がでかく不規則発言の多い奇人変人破滅型である。実直な編集者と奇人作家の組合せは、フィクションだったらボツにしたくなるベタさだが、実話というからしょうがない。毎度のことながら、破滅型は嫉妬が湧くから嫌いだ。それでも見れたのは役者の演技に尽きると思う。
             演技といえば、ウルフの恋人の神経症的愛情も、恐怖を覚えた見事な演技だった。こちらは怖すぎてあまり直視できなかった。ネットで調べたら、18歳年上の既婚者だったとある。マクロンか。
             長すぎる原稿だから、とにかく削れと言われたウルフは時に反発しながらどんどん削っていく。前にも書いたが、文章を書く作業は、作画や作曲に比べてちっとも絵にならない。本作の中でも、ウルフの作品の断片が朗読で示されるが、何が面白いのか魅力はほとんど伝わらなかった。それくらい小説は映像の題材としては分が悪い。そういう中で、この削る作業だけは物書きシーンとしては面白かった。この映画自体も徹底的に削って作ったのだろう、えらくシンプルだ。その徹底したさまが潔くてよい作品だと思う。
             当たり前だけど、削るためには長く書かないといけないんだけどね。削られることはツラいことだが、それ以前に長大な文章を書くこと自体についおののいてしまう。やり出すと調子づいて自動的にそうなるのだが。
            「GENUIS」2016年イギリス
            監督:マイケル・グランデージ
            出演:コリン・ファース、ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン

            ジャニス:リトル・ガール・ブルー
             ジャニス・ジョップリンは、ジャニス・ジョップリンかジョニス・ジャップリンか名前は稀に混乱するものの(冗談で言っているうちに一瞬どっちか見失う)、歌声は一度聴いたら忘れられない。超個性的だ。年齢的にいって俺の場合は当然、とっくに死んでから知った歌手だが、その伝説化してしまった人が、リアルに動いているさまを見られるという点で興味深いドキュメンタリーであるものの、それだけしか見る価値はない凡庸な作品でもあった。
             早世した天才を描くドキュメンタリーではしばしばみられる傾向だと思う。ムード優先といったらいいのか。志位委員長みたいな表現になるが、あんまりキチっとしてないんだよなあ。
             何の「キチっと」が欲しいのか考えてみたが、臨場感といえばいいのか、個々の事実の再現性といえばいいのか。一応時系列通り話は進んでいくのだが、「当時何がどうだったか」と「今から振り返る」があまり区別されず、曖昧なまま展開していく。結果、特に何も明らかにならない。「一人の女性としての“ジャニス・ジョプリン”を浮かび上がらせる」という、文面にすると妙にダサい作品紹介の惹句をそのままなぞっただけという感想になった。こうして歴史が伝説として消費される。知りたいのは事実なんだが。ま、それでも作品が成立してしまうのが音楽ドキュメンタリーの特長であり陥穽である。この人の場合、歌声が凄すぎるから、余計に。
            蛇足:彼女が若くして死んだのは、薬物によると推定されているが、本作を見るとこの当時のアメリカでロックをやっていて、薬物を避けて通るのはかなり難しいという印象を受けた。その点だけ、時代の臨場感を感じることができた。

            「JANIS:LITTLE GIRL BLUE」2015年アメリカ
            監督:エイミー・バーグ


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