阿部房次郎

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     「手の込んだ虫干し」こと「ルーブル美術館展」が大阪市立美術館で開催されている。膨大な収蔵品からポスターに使えそうな有名どころを若干と、あとはそれほどでもないものを借りてくれば一定の来館が見込めるありがたい企画だ。それだけにあちこちの美術館に場所を移しつつ定期的に催されている。

     

     「同じ場所で開かれてる『阿部房次郎と中国書画』の方がよっぽど貴重な作品が展示されている!」と知人が唾を飛ばしながら言うので、そちらに惹かれ、仕事で天王寺方面に行く機会があったので鑑賞することにした。

    中央上部、白壁に黒三角屋根の建物が美術館。その手前の建物群がタリーズその他

     

     市立美術館に行くには、天王寺公園を横切る格好になるのだが、ここはひところに比べてすっかり様変わりしている。公園正面の一角は、タリーズだのスパゲッティ屋だのが軒を連ね、商業施設のフードコートのようになっている。都市公園法が変わってこういうことが可能になったとかで、公共財の切り売りが好きな維新政策の象徴のような場となっているのだ。これが「成功例」とされていて、大阪城公園でも、同じような事業が行われている。在阪民放と吉本が関わっているというからより大規模なものといえよう。「維新」の名の通り、官界と財界に区別がない明治の世を彷彿とさせる。

     

     これを支えているのは、税金で公共財を維持することが「無駄」ととらえる考え方だ。公園は維持費がかかる一方で、遊園地のようにそれ自体が利益を生み出すものではないので、そういう風に見なすこともできる。実際には「みんなのもの」なので税金で維持しましょうという話なのだろうし、この「みんなのもの」というのが「公(パブリック)」ということだと思うのだが、「赤字垂れ流し」に見える人が一定程度いるのは、この理屈が世間にさして根付いていないということなのだろう。

     

     思うに、日本の社会で「みんな」というときの「みんな」とは誰か、という問題が大きく作用しているのではないかと思う。「その駐車、あなたはよくてもみんなは困る」とか外国人ジョーク集の「日本人:みんな飛び込んでますよ」とかに代表されるように、実体のない不特定多数として存在し、何かを牽制したり強いたりするときに登場することがしばしばだ。なので個人が何かをやろうとする場合、「みんな」の前では「勝手な行為」となり、結果公園でやれることは静かに談笑するくらいしかなくなる。だったら美味いものを出す店があった方がいいよねとなって、公園が公園であることに価値を感じなくなっても不思議ではない。


     実際の「みんな」というのは「あれをしたい」「これをしたい」という個々人(あるいは団体)の集まりで、「みんなのもの」というのはそれら個人や団体全員のものということになる。公園よりは公民館の方が想像しやすい。各部屋を、趣味のサークルだの何かの勉強会だのが利用していて、それらひっくるめて「みんな」ということだ。無論、個々の欲求はぶつかり合うときもあるから、適当に折り合いをつけたり、場合によってはルールを設ける必要性も生じる。「他のみんな」に一定配慮が必要なのはいうまでもないことだ。

     

     しかしながら公民館の場合、誰が利用しているかといえば、多くは年寄りか演劇のチンピラで、我々演劇のチンピラは各地の公民館の所在地や利用規定には妙に詳しかったりするのであるが、社会の中核を成す層の利用は少数派である。つまり、多くの人は「みんなのもの」を利用することがなく、勤め人なんかがパブリックな施設に思いきりかかわるのは子供が出来たときくらいではないか。だとすると無駄の塊に見える確率はいかにも上がりそうで、これは結局のところ、色々な意味においての社会の豊かさの話になってくる。俺のような田舎者からすると、都市部の都会らしさとは文化資本が整っていることなので、公園に飲食店が並んでいるのは実に貧相に映るのである。馬鹿っぽい言い方をすると、めちゃダサいんだよなあ。(書いているうちに「みんなのアムステルダム国立美術館へ」を思い出したのでリンクを置いておきます)

     

     俺が学生のころの天王寺公園は、ケッタイなカラオケ屋台が並んでいるという風変りな猝唄岾萢儉瓩行われていたものだった。いいとか悪いとかいう前に、何だこのカオスはと、ただ面食らったことを覚えている。あれらが合法的に小奇麗になっただけじゃないのか、と個人的にはつい思ってしまう。

     

     さて、ルーブルのチケットで阿部房次郎も見れるので、せっかく来たしと、まずはルーブルから見た。王や覇者の肖像をテーマにした展示である。本家からどのような手続きで持ち出す収蔵品が決まるのかわからないのだが、借りれるものでもって何かしらのテーマを考えるのは、これはこれで有意義な企画だと思う。ただ、見に来る側は支配者について知りたくて来ているわけではない。これが例えば「ゴッホ展」のような個人の範疇であれば当該芸術家にそもそも興味があって来ているので、仮に有名どころがなくても楽しめる。


     少し前の話だが、出張で福山に行った際に当地の美術館で「岸田劉生展」をやっていて、時間があったので見に行った。有名な「麗子像」はなくても(むしろ麗子像以外を初めて色々見て知れたので)楽しめた。岸田という個人に関心があったからだ。


     だが「ルーブル」だと、「ゴッホ」や「岸田」に比べて括り方が大きい上にとても漠然ともしているので、結果、有名どこを見て「おお」といいたいだけになってしまう。教科書に載っているルイ14世の全身肖像画なんかは、教科書で見たことがある分「おお」となったが、この手の作品は、工業製品のようなものなので何枚も制作されていて、展示はそのうちの1つということらしい。複数あるとにわかにありがたみが下がった気がしてしまうのは勝手な話である。多少興奮したのはアリストテレスの雁首石膏と、ヴォルテールの素焼き像だった。王者より文人に目がいくのは加齢に伴う趣味の変遷だ。

     

     早々に済ませ、2階への階段を上った。

     

     阿部房次郎は関西財界の大物の一人で、彼が収集した中国の書画の展示である。清朝末期からの混乱した時代、中華の名品の多くが国外に流出したのだが、日本の金持ちもしばしばそれらを買い集めた。特に関西の実業家に多かったらしい。加えてエスタブリッシュメントの面目躍如、結構な目利きも多かったようで逸品も少なくない。強欲一点張りというわけでもなく、民国が落ち着けば返還してよいという保存目的の人もいたようだ。全部「ふたつの故宮博物院」からの丸写しである。あれを読んだ個人的なタイムリーさも手伝って足を運んだというのもある。


     こちらは作家の名前もそれほど知っているわけではないので、教科書や本で見た「あれだ!」というような興奮は特にないのだが、知人が言う通り、圧倒される画力の作品も目立った。筆遣いの技術が相当なものだというのが素人目にもありありわかって楽しい。客が少ないのは明らかなのだが、熱心に見ている人が多く、芸術系の大学の学生なのだろうか、メモやスケッチを取りながらの鑑賞が目立った。これを進めた知人と同類の教授が唾を飛ばしながらレポートの課題にでもしたのかもしれない。

     

     そして毎度思うのが、どうしてこのような高度な文明を誇った狎菴聞餃瓩、近代にはものの見事に凋落してしまったのだろうということだった。
     


    二十年弱目の真実

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       NHKのドキュメンタリー番組の書籍で、制作チームの一人が筆をとっている。今一つ興味が持てないでいた。大手新聞が連載記事をベースにまとめた書籍を過去にいくつか読んだことがあるが、テーマの魅力に比べて中身が低温というものばかりだったせいだ。

       会社の名前で出す分、個人の作家が書くノンフィクションと違って、個々の記者の熱量がかき消されるからだ。そもそも日本の新聞記者は熱量を持たない訓練をされている。結果、学者の書く新書、選書の類より無味乾燥な印象を受けるケースもある。しかし、世評が高かったので読んだ。


       かなり読ませる内容だった。特に中盤以降はよく出来た小説のように一気に読んだ。筆力もさることながら、金の力もものをいっている。世界地図版松本清張のように、関係者を訪ねて世界のあちこちへ足を延ばすのだが、個人事業主ライターにはなかなか真似できない。サラリーマンの強みは、旅費交通費の支給、だけではなくて、前払いもしくは遅くとも翌月払いの点だよね。さすが、過去の話については相当の企画制作取材能力を見せる特殊法人である(海外スポーツ以外で「今」の話を的確に取材・放送する部署はこの法人には存在しない)

       

       さて、日本が初めてのPKOで警察官に死者が出たことは、当時リアルタイムで知っていたが(当時のNHKにはニュース部門があった)、その事件発生の背景にあった事情についてはさっぱり知らなかった、という制作側が期待する反応を思い切りなぞる驚きを感じた。
       その警察官たちへの取材が本書のメインを占めるのだが、当時の隊長が主人公の一人である。政府の事なかれやお役所仕事、UNTACの権威主義に翻弄され、時に悔しく惨めな思いもさせられる様子が活写されていて、読んでいるこちらは自ずと感情移入してしまう。それでエピローグに出てくるその後の隊長の経歴を読んで、マジかよと目を見開いた。間接的に知っている人だった。それも「要らん改革ばかりする迷惑な上司」という悪口を聞かされていたから、感情移入がにわかにぐにゃぐにゃと変形してとらえどころが難しくなってしまい困ってしまった。


       この隊長は部下たちの激励と情報連絡手段として部内報をせっせと発行するのだが、そのタイトルが自らの名前を冠した「山崎軍団ニュース」。読みながら、そのネーミングはどうなんだと軽くつっこんでいたものだったが、確かに、部下が閉口するくらい熱心に口を出したがる上司という聞かされた悪評と重なる部分もありやなしや。


      【やっつけ映画評】ボヘミアン・ラプソディ

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         冒頭の20世紀フォックスお馴染みのファンファーレからして「おお」とちょっと感動させられる。見終わった後に妙に元気が出てきたところと、50代以上のおっさんが総じて涙していた点、「ロッキー・ザ・ファイナル」を思い出した。第1作の焼き直しでしかない脚本ながら胸を熱くさせられる見事な作品だったが、本作も同様。おそらくこれ、脚本はそう大した出来ではないと思う。


         大河ドラマの総集編のような、要領よくかいつまんだようなまとまり具合で、要領がいいだけにテーマにとって大事な要素は概ね出ているようには思うが、あまねくなでただけに終わっているような印象を受ける(日本ツアーの成功によって本国イギリスでも逆輸入的に人気が出たという日本のファンが後生大事にしている物語は影も形もない)。監督が途中で変わったらしいので、その辺も影響しているのだろう。バンドの結成〜栄光〜失速〜再生と、15年間くらいを2時間にまとめているのでまあそうなるかあと思いつつ、指折り数えたら我らがバンドも似たような年月がたっているのだった。比べるのもどうかと思うが、「時の流れだけは平等だ」という巷間よく言われる言葉は本当だろうかとつい考え込んでしまった。

        「MUSIC LIFE」1976年3月号。リアルタイムで「日本から逆輸入」をアピールしている。誌面を見る限りでは、クイーンを推しているというよりはロジャー・テイラーを追いかけているだけのような印象も。リアルタイムのファンではないくせに、後付けでこういうのを入手する頭でっかち習性があるわけだが、ようやく陽の目を見たような。

         

         それでも本作は惹き込まれるし胸が熱くなる。いうまでもないが曲の力がそうさせる。冒頭のファンファーレが、いかにもクイーン風エレキギターなところしかりであるし、フレディの孤独と音楽性とのつながりが、脚本としては希薄な描かれ方しかしていないように映るが、それらは歌に全部乗っかっているので、曲が流れるとなんとなく納得させられる。本作はつまり、「ラッシュ」「ボルグ/マッケンロー」と同種の作品ということになろう。


         スポーツにおける試合同様、音楽におけるコンサートは広く人々に見てもらうものだけに(下積み時代はさて置き)映像資料がしっかり残っている。そして映画の物語の大枠はどちらもこのハレ舞台がクライマックスになる。このため、映画のクライマックス制作は、本物をいかになぞるかが重要になる。本作の場合、ライブエイドがそれになるが、元の映像はYouTubeでも確認できる。そしてかなり本物に寄せていることがわかる。

         

         サウンド自体は本物を使用しているが、それ以外は作り物だ。このためやっていることは、はるな愛が以前やっていた松浦亜弥のモノマネと本質的には大差ない。あれとの違いは再現性が超高度な点だ。ステージは、ピアノの上に載っている飲料のカップまで再現しているし、俳優陣は当人にかなりそっくりに仕上げている(個人的にはボブ・ゲルドフが変に似ていて笑った。本作で唯一登場する「クイーン以外の有名ミュージシャン」だけど、ただの電通の人のように登場している)。

         

         本物を再現して何が面白いのかといえば、見ている側が当時を演者側の視点から疑似体験できる点だ。「ラッシュ」あるいは、「ブラックホーク・ダウン」でも似たようなことを書いた。実際の現場とは違って好きにカメラを構えられるように、犖充足瓩鮃イに切り取れる。加えて舞台裏の物語によって人物の内面を知っているから、どういう心持で演奏しているのかが窺い知れる。はるな愛は笑いのために誇張していたが、本作の場合は、バンドの魅力なり歌の力なりを伝えるために一種の誇張をしていたといえる。

         

         俺の場合はリアルタイムでもコアなファンでもなく、19のころ、友人のちょびのアパートで無理やり聞かされたのが最初だった。「『ママ〜』だけ聞いてくれたらいいから」と懇願調に言われ、この世界遺産のような曲と初めて出会った。前奏的合唱が終わり、メインボーカルが「ママ〜」から歌い始めるから、もうちょっと聞かせろよとまんまとちょび君の術中にはまり、「ガリレオ、ガリレオ」って何だろうと考え込んでいた。そのころフレディはとうに死去していたから、当然ライブエイドの映像も、後になってたまたまYouTubeで「へー、やっぱうまいなあ」と見ただけだった。そういう立場からすると、映画によって当該ライブパフォーマンスの価値なり意義なりがようやく理解できるという感動がある。

         

         コアなファンの場合はどうなのだろう。探偵ナイトスクープでたまにある「死んだ父に会いたい」の類の依頼(死んだ家族のそっくりさんと対面する内容)と同じような心境なのだろうか。言ってしまえばただの他人だが、似ているというのは霊力とでもいうような力があるようで、どのケースでも依頼者は号泣して悩みやら言えなかった謝意やらをぶつけている。
        なので面白く感じるかどうかはクイーンのファンの度合いに思い切り比例しそうな作品で、よく知らない人が見た場合、おそらく俺が「ボルグ/マッケンロー」を見たときのような感覚になるのではと想像する。あの作品に比べると、より散漫な内容に映るかもしれないが。まあでも「歌はすごかったなあ」と思う人は多いだろうから、制作側、もっといえば生き残りメンバーにとってはそれで満たされるような気も、と想像するとちょっとつらい。

         

        蛇足:アルバムを売りまくり、チャリティで100万ポンドかき集め、死後には財団まで出来てしまうのだから、おそろしく「生産性」のあるゲイの人だ、と例の落書き言説のおかげで余計なことを考えた。無論それはフレディ一人の力でないことはこの映画で描かれているのだが、だから余計に排除してどうするんだということである。まあ、あれらの人は、自分の好きな人がゲイだったり出自が外国籍だったりしても、それとはパラレルにテンプレのアレな言説を垂れるものだが。要するに自分の頭では何一つ考えとらんのよね。
        つまらん話に逸れたので、蛇足2:フレディが他のメンバーと喧嘩になって「僕がいなければお前は歯医者になって週末にブルースを演奏していた程度だ」などとなじるも、ジョン・ディーコンには「君は・・・、思いつかない」で終わったところに吹き出した。

         

        「BOHEMIAN RHAPSODY」2018年アメリカ
        監督:ブライアン・シンガー
        出演:ラミ・マレック、ジョセフ・マッゼロ、ベン・ハーディ 

         

        可哀想なので、ミュージシャン・ボブ・ゲルドフの雄姿を。「バンド結成の日に遅刻したから誰もやりたがらないボーカルを割り当てられた」と、いかにも後付け臭いエピソードをちゃっかり用意してしまうあたり、電通屋としての才覚が現れてしまっていると思う。

         

        やはり本家も添えておこうか。比類なき歌唱力のおそろしさはは言うまでもなく、ピアノマンとパフォーマーを忙しく行ったり来たりする自由自在さも注目。この曲はハチロクのドラムと、あとなにげにベースのフレーズが心地よい。


        四十の自主手習い

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           ライブどころかスタジオ練習すら遠ざかっているので、久しくベースギターを触っていない。ただの趣味の話につき、触ろうと触るまいと好き好きなのだが、楽器のような「継続は力なり」を地で行く類の趣味は「やらない」がイコール「サボる」に思える程度の罪悪感は漂う。そもそも「趣味」のくせに「やってない」とはどういうことだと矛盾すら感じる。ま、釣り好きが全員浜崎伝助になれるわけではない。その点、浜崎伝助はとても偉大だといえそうなのだが、現実の浜崎級釣り好きは、あんな快活ではなく、むしろ闇か病みくらい感じさせられるヤバめのケースが多い。趣味とは元来そのような悪魔的なものかもしれない。


           ところが先日来、どうしたことかアコースティックギターの練習に余念がない。もう2週間ほど毎日触っている。基本のコードも少しずつ頭に入ってきたし、これまた少しずつスムーズにコードチェンジの運指ができるようになってきている。

           

           そもそもベースを弾き出したのは、弦が少ないから「これならいけるかも」と思ったからで、つまり6本も弦があるギターに最初は挑戦してさっさとわけがわからなくなった経緯による。加えてエレキギターを買った二十歳のころ、5〜6音のコードは「フォークじゃあるまいし」と、ハナから見向きもせず、5度コードばかり練習していた。2音だけのコード(弦2本だけ弾く)でロックではよく使う。初心者がまずぶつかる「Fが押さえられない」も2弦しか使わないので無縁。

           

           あれから二十余年、ようやく基本に立ち返った。5〜6音のコードは、左手はあちこちフレットを押さえないといけないのでややこしいが、右手は「どの2弦を弾くんだっけ?」と考える必要なく、全部をまとめてはじけばいいので楽だ。今更も今更、そんなことを発見している。キース・リチャーズ曰く「ギターはアコギから練習しろ」なのだが、アンプにつながなくても音が鳴るので楽しい、とこれもまた今更中の今更なことを実感している。ちなみに所有のアコギは、昔行きつけの居酒屋で常連客のUDさんから「今日の飲み代払ってくれたらあげる」と言われて5000円足らずで譲り受けた品である。俺と同じく、彼にも今ごろアコギ熱が到来していたりして。

           

           練習が飽きずに続いている理由の1つは、今時は便利なサイトがあるからだ。曲に連動してTAB譜が横にスクロールして、どのタイミングで何を弾くのか教えてくれる仕様が大いに貢献している。曲を流しながら紙の譜面を見るのと大差ないようにも思えるが、視覚的に明示されるのは想像よりは役割が大きいようだ。英文を目で追うより、文節レベルで1個ずつ表示していく方がすんなり理解できると以前、学者か誰かが紹介しているのを読んだことがあって、実際その通りなのだが、あれを思い出した。ただし、サイトの側が全部明示してくるので、曲構成がちっとも頭に入らない。頭の中に全体図ができにくいんだろうな。

           

           まあでも、今はゼロからのスタートなので上達がはっきり実感できる分楽しいんだけど、できるようになるにつれて上昇幅も狭くなるだろうから、そうなってから続くかどうか。振り返ってみると、ベースもそうだった。バンドの曲は、自分でフレーズを考えているだけに弾けることは弾けるのだが、音の悪さはまったく改善していないし、どうすればああいうベースっぽいいい音がなるのが、いまだ全く五里霧中。なのでとりあえず綺麗っぽい音がなるアコギが余計に楽しい。


          自著「書きたくなる〜」その後

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             某大学で、大衆に情報を提供する媒体産業への就労を希望する学生を対象にした授業が開かれている。学生が集まらず不開講続きだったのが、今季はどういうわけか最低人数が集まったとのことで両手で足りる少数の若人を相手に久々の講義をすることに。聞けば多くが2回生で、時代だなあと思う次第。

             

             せっかくのこういう機会なので、最近思っていることを書き留めておこうと以下ダラダラと。

             

             この仕事をまさに業としてやっていたのは10年くらい前のことだ。閉鎖になったのは5年ほど前(現在は既に述べたように、大学への出張講義的なスタイルで、コマ数もぐっと少なくライトに実施したりしなかったり)。かつての受講生は概ね30代、要は現場の中核をなす年代だ。それぞれどうしているのかはいちいち知らない。意に沿わない部署に異動になったり、育休に入ったり、実はもう転職していたり色々だろう。そういう年月がたった上で、現在の、特に放送のありさまを見ていると、なんとなく自身の責任も感じるところがある。

             

             まるで自分が彼らの人格形成に大いに寄与したような物言いだが、別に俺と出会わなくても合格しただろうという人ばかりなので、まさか「俺が育てた」的なみっともないことは考えていない。ただ以前に「否定と肯定」のところで書いたのと同じようなことで、何かの物事に対して関心を持たなかったり、持っているのに積極的に表明しなかったりすることは、その後の時代の流れにちょっぴりは加担している気がする。その程度といえばその程度の責任であり、反省だ。

             

             あの頃、多くの若人諸君が「やりたいこと」として書いてきた典型例の一つが、芸人を使ったニュースなりニュースバラエティなりだった。M−1グランプリ華やかりしころで、現在中堅どころとされる芸人たちが続々と登場していた時期だ。彼らのツッコミのセンス=批評眼をもってすれば、ややこしいニュースも切れ味鋭く分析して、おもしろく視聴者に提供できるのでは、という発想だった。
             まあ、当時としては「誰でもまず真っ先に思いつく」くらいの発想なので、面接対策的な観点からいうとまずこれでは通過しない。せめてもっと内容を詰めていく必要がある。その程度のことは助言したが、この発想自体は積極的には否定しなかった。内心駄目だろうと思っていたのにもかかわらずだ。


             常人には思いつかない芸人の笑いの着眼点というのがニュースにも当てはめ可能なのでは、という発想は俺も考えたことがあったが「あ、これは無理だ」と気づかされたのが松本人志だった。最近、彼がやっているニュースバラエティでの発言がしばしば物議を醸していて、批判的な人の中には「松本も年食って衰えた」と残念がっている元ファンもいるのだが、あの人は急にああいうことを言い出したわけではなく、昔からああいうことは言っていた。週刊誌連載とテレビ番組の伝達力の差だろう。自分の才覚でのし上がってきた人によくある「成らぬは成さぬなりけり」原理主義とでもいうような他者へのまなざしの貧しさが、読んでてすごくつまらなく、隣のリリー・フランキーのエロ話ばかりの人生相談の方が余程スリリングだった。なんぼお笑いで天才ぶりを発揮しても、でけへんこともあるんやなあと、当たり前のことに気づかされたものだった。ついでに学生に「芸人を起用したニュース番組」という記述がブームに達していたころ、爆笑問題が政治バラエティー番組のようなものをやっていて、彼らは普段の漫才が時事ニュースに基づいている分、もう少しできるのかと思ったがそうでもないと感じたものだった。

             

             というわけで、個人的には「無理がある」と判断したのだけど、学生が考えて書いたことを頭ごなしに否定するのもどうかという思いもあり、「僕個人の意見では、大しておもしろいものにはならんよ」くらいは言った記憶があるが、それ以上は言わなかった。こう書くと教育者のような物言いになるけど、実際のところはいかに無理があるか、当時俺が感じていたことを論理的に言語化する作業をサボっただけともいえる。

             くだんの松本の連載を愛読していて「先生も読んだ方がいいっすよ」と猛烈に薦めてきた学生もいた。まあ「ゴーマニズム宣言」を愛読していたころの俺みたいなものだろと思って、あんまり強く否定するのもなあと、やんわりと「あれは実は社会評論としてはすごい手前の話を言っている」くらいのことを諭すにとどめた。これまた説教親父になるべきだったかも、と後付けながら思うのは、あれから10年以上たった今、まんまと情報番組に芸人たちが跋扈して、結構な惨状を呈しているからだ。

             

             影響力のある人が貧しい意見を言って、それに若人が感化されて、というのがあんまりよろしくないなあくらいに思っていたのが、実際は想像以上だった。影響力はある門外漢が素人意見を述べるにとどまらず、大坂の場合は政治、芸能、放送の三者がまるで軍産複合体のような結合を見せるところまできている。ここまでの予想を立てる知見は当然ありもしなかったが、多分よくないだろうなあと思う程度には俺もうっすらとはカッサンドラだったわけで、別に俺が何しようと何の影響力もないことは自明だとしても、統計学みたいな話で自分がもう少し何かしていたら、同時に他でも似たような人がいたんではという少々オカルトがかった発想はつきまとうのである。

             

             もちろん一方で勉強不足だったこともいくらもあった。「バラエティ番組は抗議を恐れて萎縮すべきではない」という言説に対する態度がその際たるものの1つで、これは当時大した問題意識も持てずに呑気に構えていた。お笑いの好きな学生が当時よくこういうことを書いていて、なんでもやりゃあいいとはさすがに思わなかったが、バラエティが危ういところに挑戦すること自体は「努力してしかるべきかなあ」くらいに考えていた。大事なのは委縮か冒険かという二択ではなくて、ちゃんと考えましょうねということで、これをサボってきた結果、居直りや暴論が「ホンネ」の名を頂戴することを大いに助けたと思う。これは完全に勉強不足だったと反省している。

             

             といったことをたまにボサーっと考えるような日々、再びそういうところに関心があるという学生に授業をしろとなると、さて何をすべきだろうかと身構えてしまう。

             今時わざわざ斜陽ともいわれるところを志望するのは、よほど思うところがあって、というわけではまったくなく、10年前と大してかわらず「何だか楽しそう」くらいの様子で、2回生多いので、様子見半分のところもあるようだ。本来はこの程度のノリで全然いいはずなのだが、現状をちゃんと知っているかね、と余計であるはずの老婆心を抱いてしまう。困ったものだ。

             

             問題点が多いというのは、ある意味改善するべきことがたくさんあるということなので、面白いことだと見ることもできる。そういったことメインにすれば、授業の土俵にも現状の問題点を乗せることは可能かもしれない。そんなことを考えて、あれこれ内容を練ってみて、でまあ学生諸君の取り組みのおかげで少しは手ごたえを感じつつこれまでとは違う試行錯誤をやってみて、そしてライトなプログラムなので間もなく終わる。



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