【やっつけ映画評】誰がハマーショルドを殺したか

0

     ハマーショルドという名前を覚えたのは中学生のころだったか、社会科の図説教材に歴代国連事務総長が顔写真付きで載っていて、それをわけもなく覚えたのが最初だった。社会科が好きになる子供は誰でもそうだと思うが、「歴代何々」の類を覚えることそれ自体が楽しく感じてしまう。ただし試験には出たためしがない。どういう人かも知らないまま年を取り、「映像の世紀」か何かで、謎の墜落事故で死亡していたことをようやく知った。


     「謎の」といっても、おそらく殺されたのだろうという点、謎ではない。ただし、じゃあ誰が何のために、という点では「謎」だ。本作はタイトル通り、そのハマーショルド墜落事故にまつわる陰謀説を取材したドキュメンタリーであるが、最終的にこのタイトルはダブルミーニングのようになっている。

     

     メタ的な凝った構造で映画は始まる。監督が、これから詳らかにしてく取材内容をタイピストに語って文字起こしさせている。ついでに、「この映画は僕が一人でソリティアをしているところから始まる」と、編集の構想を打ち明けると、まさにそういう場面が出てくる。こういう実際の取材映像と、後からしつらえた作りの映像を混ぜる演出は、いかにも今時のドキュメンタリーという印象だ。

     作品導入部のツカミとしてはなかなか気が利いている。引き込まれる演出だ。だけどこのタイピストとのやり取りは、導入の演出というだけにとどまらず、合間合間にしょっちゅう挟まってくる。こうなると、そのうち鬱陶しくなる。加えてなぜか若いのとベテランの2人タイピストがいて、何の説明もなくこの2人が繰り返し入れ替わっている。

     

     ドキュメンタリーと演劇的な作りの部分のバランス。これが功を奏する割合は9:1なんじゃない? 本作は過分。鼻につく、ついでに映画館に来る前に別の用事で猛暑の中をうろついて疲れていたから、眠気に襲われ出して往生した。ま、これは個人的事情。

     

     目が冴えてきたのは、中盤で監督が自省し出す場面だった。断片的な材料はいくつか集まるものの、全体として取材が大して進まない。これでは映画にならない。「そこで僕は演出で誤魔化すことにした」と打ち明けだす。ここまでの映像は作りの部分が過剰でしたという懺悔だ。自覚あったんだな。ついでに作中で自身の作品の評価を語るメタ具合も開き直りがすごい。そして「タイピストがなぜ2人なのか僕にもわからない」。わからんのか。

     

     こういう居直り懺悔で終わっても仕方がない。つまりここからが本題とばかりに、急展開をみせる。重要な証言者との接触に成功し、まるで仕上がった陰謀論のような話が次々明るみに出る。
     この終盤の畳みかけは見事で、すごいもんを見てしまったと感慨も深かった。しかし登場人物が多く、中盤まで寝入りそうになりながら見ていたものだから、誰が誰だったか混乱したままの部分もある。このため珍しくパンフレットを購入した(キリがなくなるのを恐れていつもは買わない)。

     

     見れば佐々木俊尚の評が収録されている。曰く、本作は衝撃の事実を暴いたドキュメンタリーのようだしフィクションのようだし、その意味ではポストトゥルース時代を表象している――。
     賢しらな大学1〜2回生のレポートに筆力を足したような屁みたいな評だ。何ひとつ自分で考えようとしない学生はしばしば、ネットでテキトーに調べたことを書き並べて「確かなことはわからない、しかし一人一人が向き合うことが重要だ」とかなんとか、お前誰やねんという高みからの訓辞を添えてレポートと称して提出してくる。それと変わらん。さぼってんじゃねえよ。どっちかいうとパンフの作成者が。こんな評で納得するな、突き返せ。次の森達也の評も酷いな。思い出話で終わらせてどうするんだ。本稿も思い出話は序盤で終わらせているぞ。似たような手法でやろうとした先達としての分析があるだろうに。


     本作の内容はかなり衝撃的である分、にわかには信じがたい。監督自身も、この映画は闇を暴いたのか陰謀論に乗せられただけなのかと作中自問自答している。実際、完全に裏が取れたとは言い難い。


     しかしそれでもって、嘘か真かの二択でしかとらえられない⇒真実の不確かな時代、ではまるで素人、「宝くじの当選確率は当たる/当たらないの50%」といっているに等しい。これだとマドンナが爬虫類人である可能性もディープステートの存在も5割になってしまう。この点、佐々木の評自身がまさしくポストトゥルース時代を表象しておる。信じる信じないに問いを回収させて考えることを放棄している。


     


    映画の感想:恋する惑星

    0

       香港の掛け値なしの弾圧をニュースで見るにつけ、古い映画が妙に意味を持っているように思えてきてしまった。


       ウォン・カーウァイ(王家衛)がブームになったのは俺が大学生のころだった。映画といえばハリウッドの話題作と「意味不明のフランス映画」、そして日本映画、くらいの貧相な分類しか持ち合わせていなかった田舎者が、都市部の文化ブルジョアたる友人から色々と教えられてちょっとずつ詳しくなっていったころだ。

       

       アジアの新鋭、というような格好で色んな雑誌で大々的に取り上げられていた。まだ韓国映画のカの字も日本にはないころだから、カンフー以外のアジア映画をまず想像できない。ついでに日本映画も俺にはピンと来ていなかったころだから、全く興味が湧かない。ところが俺に色んな映画を教えてくれた友人は「面白い」と言っている。


       「どんなん」と尋ねると「話らしい話はないけど、何かオモロイ」という。こういう感想は映画を色々見れば必然的に顔出す典型的な感想の一つにしか過ぎないのだが、当時の俺は、こういう感想の意味がわからない。それどころか、何かスノッブめいたものを感じて反発すら覚えてもくる。ついでに友人が付け足した「映像は綺麗やな」という感想も、同じく意味不明だった。映像が綺麗というのは、こと映像の話だけに誰にとっても一目瞭然のようで、そうでもない。絵画に詳しくない状態でモネの睡蓮を見せられても、別に汚いとは思わないし、綺麗だとは思うにしても、「で?」という感想の方が先に来てしまう。それと似たようなものだといえば伝わるだろうか。あのころ俺はわかりやすい意味のようなものが伴わないものは理解できなかった坊やだった。

       

       そんなやつが会社を辞めてまで舞台や映画を作ったりしていたのだから我ながら凄いものだ。世間的な評価はろくにないから才能なんかちっとも持ち合わせていないわけだが、「できる」と「好き」は似て非なるものなんだな。


       当時の俺の幼さについては、くだんの友人にもとっくにバレていて、お前は好かんやろうと薦めてはこなかった。後になって同じ監督の「天使の涙」ならお前も面白いと思うんとちゃうかと薦められて、そちらは見た。タバコをやたら吸っていたことと、金城武が女をバイクの後ろに乗せて疾走していたことしか覚えていない。


       あれから20年以上たち、ようやく本作を見た。恋がすれ違う男女が2組出てきて、個々の場面には印象に残るものがありつつ、全体として何だといわれるとよくわからない。それで「何だこれは!」となる初心さはもうないが、でもやっぱりそんなに好きではないなあとは思った。たまたま人から「ガリガリ君のパイン味が美味い」と聞かされて、それを食べながら見ていたら金城武がパイン缶をバカ食いするシーンがあった。ガリガリ君のパインが想像以上に美味かったこともあり、俺の中ではパイナップルを馬鹿食いする映画という収まり方をした。


       このパイン缶のくだりも、日付にこだわってあえて古いものを買うという描き方が村上春樹みたいだと思った。ろくに読んだことがないんだが。なぜ大して読んでいないかというと苦手だからで、仮にも話を書いている人間がそれはどうなんだというコンプレックスに見舞われるのだが、いざ読もうとしてもやっぱり苦手なのだから仕方がない。

       

       脇役たちが多民族多言語で(金城武も語学堪能な一面を見せる)、どういう事情かわからんが何やら物騒な連中が出てくる辺り、いかにも香港だなあというのが面白いのだが、当時熱狂的に支持されたであろう本作が持つ洒落たテイストは、おそらくその後色々な形でさんざん消費されたからだろう、「こういうのが格好いいとされた時代は確かにあったなあ」という文化史を見たような気分になった。

       

       悪く言えば「こういうのこそよい」とされたいかにも90年代な作品であるが、この何も切羽詰まっていない作風が、現在地から見るととても幸せなことだと思う。これ香港返還前の作品なんだよなあ。全体主義国家だといかにも「退廃芸術」として葬られてしまいそうな映画だから、自由の象徴みたいな作風だともいえそう。まあ中国の場合、政府批判を指摘されなければ無事なところがソ連なんかとはちょっと違うところだろうが、この辺の匙加減はよくわからん。

       

       ただしそれは、本作がすっかり過去の作品になっているからで、内容が本作同様恋愛をテーマにした雰囲気先行の作品だったとしても、90年代における本作がごとくどこかが大変に新しかったらやっぱり制作は無理なんじゃないか。新規なものはどこかに批判精神がないと成立しない。そして自由が保障されている体制では、その批判精神の向く先はてんでばらばらだが、抑圧体制になると批判精神は全てそこに向かわざるをえない。人権が蹂躙されているのに「色使いはこうあるべきだ」とかやってる場合ちゃううやろとなってしまうからだ。このため体制側も新規なものには敏感になる。やっぱりワイダ「残像」みたいなことになるんじゃないのかな。

       だもんで、大々的に宣伝している新作映画が、今日から俺はだの糸だの、昔の貯金で生きてますの居直りがすごいわが国は自主抑圧社会なのである。

       

       作中なんどもかかるクランベリーズの「ドリームス」(香港バージョンのカバーだが)も、当時はあんまり好きではなかった。今聞くとこの曲は、ドラムが大変に素晴らしい曲だとわかるが、これはバンドで間近にドラムを聞いてきたせい。クランベリーズのボーカルも亡くなってしまったが、さて。
       後半の主人公である店員女性が、芝居仲間の河上さんにどこかしらうっすら似ていた。

       

      「重慶森林」1994年香港
      監督:ウォン・カーウァイ
      出演:トニー・レオン、フェイ・ウォン、ブリジット・リン


      大声ドラマの感想

      0

         

         一時期、自身のPCでインターネットを見るたび、おっさんの目元のたるみを取り除くという商品の広告が表示されていた。写真が気色悪い不快な広告だったが、風呂場で自分の顔を鏡でしげしげと見つめると、確かに下の瞼がはれぼったくなっているのに気づいた。そういう点ではよくできた広告なのか。買おうとは思わないからそうでもないのか。


         半沢の続編に「おっさんだらけやな」とまず思ったのは、以上の経緯につき目元の三日月に敏感になっていたからだった。頭取に至っては餃子級のたわわぶり。これが北大路欣也だから、たるみも貫禄の証かと思えるのだが、他のおっさんたちがどいつもこいつもパワハラオヤジだから、たるみはやっぱりヤなものに見えて、つい顔をマッサージしてしまった。


         猿之助演じる伊佐山部長に至っては通院を勧めた方がいいのではないかと思われるくらいの常軌の逸しぶりだった。「お・ま・え・の・負・けぇ〜〜」、これは悪役の演出という意図だろうが、憎らしさよりも心配が絶えなかった。
         こういう悪役に仕返しをして留飲を下げるベタで古臭いドラマであるが、そう思いながらつい見てしまうのは池井戸ドラマの常である。しかし、倍返しだ何だのとは無縁に飄々としたまま本社のよさげなポジションについている及川光博が最も優秀なのではないか。


         それにしても半沢は、あんな苦労して周到に準備しなくても、少なくとも伊佐山についてはパワハラ相談室に行けば一発で解決だろう(子会社だから自社内に比べると話はややこしくなりそうだが)。あんなのが正面から戦うべき悪役として扱われているのは、「主人公が格好良くタバコを吸う映像」と正負の方向が違うだけで懸念される悪影響は同質なんじゃないか。少なくとも「あんなのパワハラじゃないすか」と、脇役に言わせるくらいは要ると思うが、そういう台詞は一切ないのであのドラマの世界はパラレルワールドである。


         このちぐはぐな浮世離れ感はツライ。日本企業が世界最高峰の検索エンジンサイトを開発・運営しているという設定同様ツライ。例によって半沢の妻が「仕事に生きる俺様にとって実に都合のいい良妻」で、お花の教室に通っているという設定同様ツライ。


         何よりツライのは、男ばっかの登場人物がわが身を振り返させられる点。自分が過去に書いた作品も、男ばっかで、そういうのしか自分は無理だからと気にしないようにしていたものだったが、それは自己都合の正当化ではないかと本作を見ていると反省させられてくる。

         他にも男ばっかの作品は世の中いくらでもあるけど、本作の場合は以上のような無邪気なちぐはぐさのせいで、それがやけに目立って感じられるんだな。まあとりあえず、これが企業ドラマとして成立してしまうところに日本の銀行=多くの日本企業がパッとしない理由があるんじゃないかしらね。

         

         といいつつ見ている。困ったものだ。前半の悪役たちが退場したわけだが、副頭取まで首になったのに頭取が何事もなかったように鎮座しているのは、これは君側の奸理論ではないのか。そして唐突に補足するけど、維新を半沢のような存在と思っている人は多いが、アレは半沢じゃなくて副頭取やモロタの方だからな。

         

         くだんの検索エンジンを作った会社の社長が、ITの社長のくせに万年筆という古臭いものを使っていると自嘲する場面があったが、万年筆より「社長瀬名某」と書いた黒い名札が置いてある方がよほど気になった。「捜査一係藤堂」じゃあるまいし。


        パリは盆地

        0

           

           盆の帰省は取りやめた。どうせ在宅仕事に追われているからちょうどいいと強がってみるものの、休み気分は抑えがたい。さりとてすることも思いつかず、手元に招待券があったので大阪市立美術館に行った。バロック・ロココ期のフランス絵画を集めたあんまり面白くない展覧会だった。


           ヴェルサイユ宮殿の建築に携わったシャルル・ル=ブランの作品を初めてまじまじと見れたのはよかったが、王室御用達だけあってか、作品としてはあまり魅力を感じなかった。映画「モリエール」で描かれているいけ好かない宮廷サロンの様子が伺えたのはよかった。あと当時、女性の画家もいたのは勉強になった。

           

           翌8/15、近鉄特急の新車両ひのとりに乗車して、高田本山に行くというプランを思いついたが、座席予約の画面を見ているち、すでに埋まっている〇印が何だか疑わしく見えてしまい気が引けてしまう。飛行機の座席前後で感染、というニュースもあったから余計。大して値段の変わらない「プレミアム」が埋まっているから、また今度、せめて別の用事も抱き合わせ出来るときに乗車しようと自分に言い聞かせて断念。近場の西本願寺に行くことにした。


           暑いから外ではマスクを外し、電車内で装着するようにしているが、車内でも暑いからだろう、あごマスクが何人かいる。世の中の人は耳が頑丈なんだな。俺はすぐ痛くなるので、しないんだったら外せよと思ってしまう。あごマスクは20年以上前にはやった延髄ヘルメットに似ている。大学生のころ、原付に乗っている人間はよくヘルメットを延髄にあてていた。整髪が乱れるのが嫌、というかそもそもヘルメットがダサい、だけどノーヘルで警察に捕まるのは避けたい、という矛盾を解決するため生み出された装着方法だが、科学的には何の意味もない。

           


           こちら西本願寺の本願寺派は母方の宗派になる。他の親戚にも本願寺派の家があったはずだから、理屈は一応立つ。東本願寺に比べると京都駅からの距離は若干遠い。着いたころには汗だくだった。
           8/15に実家以外の場所にいるのは、昔舞台で東京にいたとき以来だ。あのとき靖国のコスプレイヤーたちを見たのは勉強になった。こちら西本願寺は平穏そのものだが、いちおう盆の行事はいくつか設定されていた。

           

           ちょうど住職が法話を語っていた。生まれさせていただいて、生きさせていただいて、慈悲の心に触れさせていただいて、などなど、させていただくにもほどがあるさしすせ過剰で話がちっとも頭に入らなかった。「させていただき」をあちこちで耳にするようになってから十数年だが、仏教のような格式高いはずの現場で、こんな新マナーのような言葉遣いを聞くと軽薄さが際立つ。

           

           法話が終わると焼香台が用意された。人々が作る列に俺も並んだ。母方祖母や説明のややこしい親戚のために俺も祈るとしよう。ここではじめて数珠を持ってきていないことに気づいた。墓ではなく寺に来ているので、そもそも数珠を持参すべしという感覚すらなく、人のさしすせそを云々している場合ではなかった。

           

           ところで境内のどこかでは、「ドキュメンタリー沖縄戦 知られざる悲しみの記憶」の上映をしているという。集会場のような場所を想像していたら、自販機を置いた休憩所の片隅にある家庭用テレビで流していただけだった。ちょうど今七芸でやっている劇場公開のドキュメンタリーなのに扱いが酷い。工事中で本尊が壁の向こうに御隠れあそばし、お堂がまるで映画館のようだったから、この壁に投影したらいいんじゃないかと罰当たりなことを考えたり。

           

           向かいには龍谷大の博物館がある。西本願寺=龍谷大=大谷探検隊であるが、お隣東本願寺は大谷派という宗派で大谷大学を持っているから何かこんがらがる。できたのは2011年とのことで、新しいモダンな建物である。


           シルクロードの仏教というようなテーマで、インドの仏像なんかを中心にした展示だった。仏像にはあまり興味がない方だが、ガンダーラ美術の仏像は見ていて楽しい。ソグド文字の古文書なんかもわくわくするところがあるが、シルクロードを専攻するとこういうのを読めるようにならないといけないので、それを想像するとゾッとする。まあフランス絵画より断然楽しんだ。人も少なく大変すばらしい。

           

           昼飯は盆なので、法事の飯のようなランチを食べた。試食品くらいの少量が何種類も盛り付けられた普段は絶対注文しないようなあの手のやつ。暑くて食欲が減退しているからちょうどいい。無論、全然おいしいと思わなかったが法事の飯なのでそういうものである。


          撮影2

          0

            薬師寺

             

            ただの資料写真。修復工事はだいたい終わったってところか。個人的には色が明るい西塔の方が好き

             

            今城塚

             

            西本願寺は絶賛工事中でまるで映画館状態。

             

             



            calendar

            S M T W T F S
              12345
            6789101112
            13141516171819
            20212223242526
            27282930   
            << September 2020 >>

            selected entries

            categories

            archives

            recent comment

            • お国自慢
              森下
            • お国自慢
              N.Matsuura
            • 【巻ギュー充棟】反知性主義
              KJ
            • 【映画評】キューブ、キューブ2
              森下
            • 【映画評】キューブ、キューブ2
              名無し
            • W杯与太話4.精神力ということについて
              森下
            • W杯与太話4.精神力ということについて
            • 俺ら河内スタジオ入り
              森下
            • 俺ら河内スタジオ入り
              田中新垣悟
            • 本の宣伝

            recent trackback

            recommend

            links

            profile

            search this site.

            others

            mobile

            qrcode

            powered

            無料ブログ作成サービス JUGEM