映画の感想:カメラを止めるな!

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     話題作をテレビでやっていたのを見た。(一定間隔で現れる書き出し)
     先に前にも書いたことを繰り返しておくと、予算がなくても、有名俳優が出ていなくても、アイデア次第でヒット作は作れるんだ、という本作を受けて散見した感想はアントワネット的だと思う。予算がない、知名度のある人が出ていないので、アイデア頼みになるほかないだけのこと。自主映画の世界では多かれ少なかれ「アイデア頼み」になる。そうそう冴えた発想なんか見つからないから滑るだけのことである。

     

     俺自身がかつて撮ったときには、ちゃんとしたドラマとといえばいいか、特に奇をてらわずに王道的なものを目指して制作したので、結果、ただの無難で見るべき点も特にない内容になってしまった。今から振り返ると相当に勿体ないことをしたと思う。またやればいいではないかともいえるが、あんな面倒で手間のかかることはそうそうできるものではない。本作を見ると、その大変さが少しは伝わるのではないかと思う。

     

     そのアイデアの1つ、というかこの場合はチャレンジと言った方がいいが、冒頭からの40分長回しになる。CGだ何だという時代にあって、金のない現場で「凄い映像」を撮るのは難しいものだが、長回しは自主映画でもチャレンジできる数少ない「凄い映像」である。舞台をやっているとあんなものは簡単に出来ると思いがちなのが、実際そうもいかないことは何度も経験した。

     役者のみならず、撮る側もミスするから舞台に比べると倍以上の失敗要因が潜在している中でのチャレンジになる。5分でも結構大変なのだから、40分は狂気の沙汰といえる。よくこんなことをやったと頭が下がるが、見る側にとっては10分ワンカットだろうが40分だろうが結構どうぜもいいことなので、「凄い」といっても、それはどちらかといえば内輪受け的性格が強く、見ている方は特段価値を感じてくれない。制作側としては寂しいところだ。

     

     まあこれは特殊効果なんかも同様で、「本当っぽく見える」が見る側の基準値なので、不自然な場合に非難を浴びることはあっても、よくできた場合に称賛されることは少ない。昔、印刷屋で働いているときに似たようなことをよく感じた。世間の人は綺麗に刷られた印刷物に慣れてしまっているから基準値がそこにある。このため、イマイチな刷り具合のときに文句はきても、綺麗に出来たと褒めてくれる客は少ない。

     

     本作の場合、長回し一本勝負ではなく、その後の展開のトリッキーなところが評価を集めた部分になろう。同じ話を舞台裏説明とともに二度繰り返す昔の麒麟の漫才を思い出した。大枠では「ラヂオの時間」のごとく、次々起こるトラブルをどう解決するかといったドタバタである。生放送のラジオの場合、止めることが許されないからドタバタが成立する。映画は本来、いくらでも止められるはずが、「止めることが許されない」状況設定を作るための装置が「長回し」という関係性になっている。わざわざやる意味がある部分がうまい設定だと思うが、一方で、さして新味がない展開だという批判は成立するし、ネット上の感想を見るとやはりそういう趣旨の内容が散見した。

     

     この長回しの難点は、一幕モノの芝居と似たようなところがあって、物語の連続性を保つ点にある。
     三谷幸喜の影響もあり、舞台で一幕モノのドタバタを作りたがる人は一定数いる。俺も学生時代は憧れたものだった。それで大抵陥るのが、のりしろ部分の間延びになる。

     場面転換がないということは、最初から最後まで均質な時間が流れるということを意味する。「翌朝」とか「一方そのころ誰それは」といった時間をジャンプする展開が使えないということだ。このため通常ならAの展開からBの展開へ端折ってつなげてしまえるところを、連続的な時間の中でつなげないといけなため、相当うまくやらないと、間延びがする。自作品にしろ人様の作品にしろ、そういう間延びを目の当たりにすると、一幕にこだわらなくていいじゃんと思えてきて、どんどんと目につく鼻につくのアレルギー反応が強くなってしまった。

     

     本作でも、序盤の「40分」のところでいかにもそのような演劇的な、間延びした無意味なやり取りが目に付き、「なんかシンドイ作品だなあ」と思って見ていたら、そこがトリック(?)の1つだと後でわかってなるほどなあと楽しんだ。その点ではほかの人より倍楽しんだような気がする。
     さて、劇中劇の「40分」の中では、一切の妥協を許さない狂気の監督といったようなある種ステレオタイプ的に登場する主人公であるが、実際には妥協だらけの悲哀の中、小さな仕事をソツなくこなして生きてきた存在として描かれている。監督以外の登場人物も妥協する/しないの2種類に分類されている。妥協の事情が所属芸能事務所の都合だったり、当人の賢しらな演劇理論だったり色々なのだけど、大まかにはこの2つに分けられていて、作品に対してどこまでストイックに追究できるかといった点が1つのテーマになっている。

     冷静に見ると、妥協しないというよりは、ラストの組体操なんかが象徴的なように、より高次の妥協を目指しているだけなのであるが、この手の現場で「妥協しない」がさも恰好いいことのように世の中語られることが多いところ、現実は「妥協しない」を選択できる時点で結構な地位にいるということである。

     

     そういう理屈はいえるものの、現実世界の本邦で、本来「妥協しない」を選択できるはずの、金なり権力なりを持っている場にいる面々が制作している作品は、そろいもそろって本作に登場するチャラいプロデューサーの顔がちらつくような企画ばかり。なので本作の主人公が仮にこのゾンビ生中継映画で出世したとしても、この先劇中劇で演じていた「これが映画だよ!」と狂気をばらまく存在にはなれないのだろう。

     

    2017年日本
    監督:上田慎一郎
    出演: 濱津隆之、真魚、しゅはまはるみ


    映画の感想:ルパンVS複製人間

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       新作のマンガを買って読むということがとっくに縁遠くなっている中、今年の初めに1、2巻を読んだのが吉本浩二「ルーザーズ」だった。なかなか面白いのだけど、懐古趣味みたいな内容が面白いというのは、いかにも昔の貯金で生きている現代日本社会といったありさまで複雑な気分になり、かつ、自身が久々に読めたマンガが懐古趣味というのもどうなんだと疑問がむくむく。

       

       この作品の重要登場人物の1人がモンキー・パンチだったので、訃報に接し、作者の吉本氏は作品に必要な証言は全部聞けてるのだろうかと余計な心配をしつつ、物語の序盤で登場する無名の若者が「天寿を全う」的な年齢にとっくになっていた時代を我が身は生きているのだなどと思ったりもしつつだった。


       2巻では、人気マンガ家への地歩を徐々に固めていっているモンキー・パンチに対し、雑誌編集者である主人公が、新雑誌の発刊構想を打ち明けるシーンがある。「(新雑誌では)お前の好きなモン描け!/何が描きたいか言ってみろよ」と迫る主人公に、モンキー・パンチはあれやこれやと脳内でアイデアを探りながら、はたと閃き、興奮と緊張の入り混じった表情で「・・・ルパン」と漏らす。「アルセーヌ・ルパンか・・・・・・?/ちょっと古くねえか・・・・・・?」とピンと来ない主人公に「ジェームズ・ボンドみたいなルパン」だと鼻息荒く言う。聞かされた主人公は「なるほどねえ」と言いつつ、わかったようなわからないような顔をしているのが印象的だ。作中のこの時代、「ルパン三世」はまだ存在しないのだという当たり前の事実に、妙に胸を熱くさせられる。

       

       ルパン三世がまだ存在しない世の中において、「ボンドみたいなルパン」と言われても「島耕作のような渋沢栄一」とでも聞かされているようなものになるのだろうか。完成形を想像するのは難しい。ところで、「まんぷく」で即席めんの構想を萬平が打ち明けても周囲が全く理解できないシーンともカブってくるが、あちらは偽史である。このマンガもどれほど事実に即しているのかは無論のこと不明ながら、息の長い傑作キャラクターですら既存のヒーローを下敷きにしているのだから、発明品はなおさらだ。話が逸れている。

       

       さて追悼企画で急きょ放送された本作を、何度目だと思いつつ見た。改めて思ったのは、映画版第一作からして、敵が巨大過ぎないか?ということだった。最後に出てくる巨大ブロッコリーのサイズのことではなく、核ミサイルすら持っている財力と組織力が、007のスペクターばりだということだ。ヒーローものの敵がインフレする宿命を踏まえると、最初から飛ばし過ぎの感がある。このままいくと、5作目くらいで宇宙にいく勘定になるぞと思ったが、そういえばこの巨大レタスはラストで宇宙に行くのだった。

       

       その非現実的な巨大な敵に説得力を与えているのはマモーの造形であろうが、「永遠の若さをやろう」と言っている人物が結構な異形の相という点ではまったく説得力がない。唯一羨ましいのは頭髪がふさふさな点だけである。だのにまんまと乗っかっている不二子。よほど人を外見で判断しない徳の持ち主か、それとも自分はこうならないという自信家ぶりの現れか。

       

       ところでマモーがことあるごとに、永遠の命だの何だの言っているものの正体はクローン技術を指しているのだが、一方で作品冒頭で絞首刑に遭うルパンは、クローンなのか「本物」なのかといった「火の鳥生命篇」のようなアイデンティティを揺さぶる問いかけもなされている。この時点で、コピーの劣化を持ち出すまでもなく、「永遠」の理屈は破綻している気もする。今の「私」が、クローンとして「私」の死後も生き続けたとして、それは「私」なのか。本作では、大もとのマモー(溶液に浸った巨大ブロッコリー)が登場するので、クローン云々より、結局この保存技術の方が「永遠の生」を担保している。

       

       一方ルパンは、本作以降も映画化され、テレビアニメのシリーズも制作され続け、それらはいずれも監督によって造形がそれぞれ異なっている。本作のルパンと映画第2作の宮崎駿ルパンとは、外見、服装、キャラクター、まあまあ異なるけれども、同じ「ルパン」であり、こちらの方こそクローンに近い存在である(という理屈でいうと、本作で「永遠」に最も執着している不二子の造形が最もバラバラなのは皮肉である)。作者死後も作ろうと思えばいくらでも作れるわけで、永遠のクローンではあるよね。

       

       ところでマモーは、魔術か超能力のような芸当もやってのける存在でもある。そのマモーが見せつける不思議な力に、ルパンはいちいち食って掛かっている。ルパンがこうも科学合理性にこだわるのは、彼自身がしばしばトリックを使うからだろうか。ナポレオンズが割と熱心に超能力否定の論陣を張っているのを思い出した。

       

      1978年日本
      監督:吉川惣司
      出演:山田康雄、増山江威子、小林清志


      マナー警察と天動説

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         というようなことを知人若人の愚痴を発端につらつらと考えたわけだが、己の仕事でも、同じジャンルの話に直面することになった。
         就職試験の論文の採点を依頼されることがたまにある。その設問が外国人観光客関連だったのだけど、学生が書いていた内容が無邪気な偏見の満開桜だった。酷いのになると、「外国人観光客の増加で、日本に麻薬の流入が増える」などと、観光客が全員ヤクの密売人に見えている内容のものも。由々しき事態である。

         

         この学生が、実際にそう思い込んでいる可能性は低いとは思う。社会現象について論じさせると、何を書いていいのかわからずに、思いつきを支離滅裂なまま、とりあえず指定の文字数を埋めるかのようにひたすら並べるだけで済ませようとする学生は多い。結果、書いている当人も「相当あやしい内容」と自覚しているケースが多い。
         とはいえ、放っておくわけにもいかない。いわば連想ゲームで思いついたことを並べているということは、外国人とヤクの売人がこの学生の脳内では(無自覚だとしても)同じ棚に収まっているということになるからだ。

         

         加えてタチの悪いことに、そもそもこの論文の設問に「〜インバウンド需要が見込まれる一方、トラブルも起きている。そのような中〜」などと誘導尋問めいた一節がある。出題者の頭の中も、学生同様無邪気な書棚状態になっている、もしくは明確に偏見を持っていると推察される。この出題者にしてこの解答者ありではないか。これはいかん。

         

         なので、自分が講義を担当しているクラスでも似たような設問で論文課題を書いてもらうことにした。当然トラブル云々の一文は外して。
         案の定、提出者の半数程度がマナー警察になっていた。「彼らも悪気があるわけではなく、文化が違うのが原因だ」などと、一定配慮を見せている分まだマシといえるかもしれないが、それにしても、である。
         講義を終えた帰途、あちらこちらの居酒屋では、いわゆる「新歓コンパ」の時期だからか、酔っぱらった学生が集団で道路をふさいでいたり、騒ぎ倒していたりで、いったいどの口が「マナー」を言うんだという矛盾甚だしい。

         

         別に外国人がすべて清く正し人だといいたいわけではない。観光だけで3千万人も来ている。中にはおかしな人もいるだろうし、学生がいう生活文化のすれ違いによるトラブルの類はもっと件数があろう。俺が引っかかるのは「日本天動説」とでもいえばいいか、とにかく日本社会に絶対の基準があって、あとは異物という発想である。

         例えば学生は、日本人より「マナーのいい」外国人は一切想定していない。基準がこちらにあるから、理論上想定されるはずもない。自分たちだって(「の方が」というのが正確か)馬鹿騒ぎして「マナーが悪い」事実に目がいかないのも、こちら側は基準なのだから必然そうなる。

         

         そういえば、以前大学の食堂で留学生の歓迎会を開いているところと遭遇したことがある。一部を貸し切りで使用していて、俺は残りの席の方で魚フライ定食を食っていた。それで担当課の課長みたいな人があいさつしていて、是非みなさんには日本のよいところを学んでいただき、そして同時に日本の悪いところは見ないようにしてくださいなどと言っていて、俺はアホかこいつはと呆れていた。

         「悪いところは教えてくれ」だろうに。「悪いところ」が具体的な当人の被害だったらどうするんだ。それでなくても大学もあろうところが事実の見らんふりを推奨するなど言語道断である。でもこれが日本天動説の平均的な気分なんでしょうよ。

         

         というわけで次の授業で説諭した。とはいえ学生にしてもマナーしか思いついたことがないから書いたか、もしくはそういう猝枠浪鯏瓩鯑匹鵑世で、明確な主張に基づいているわけではないのがほとんど。本心ではない内容について説教されても馬耳東風であろう。

         しっかし思いつくことが「マナー」ってのもな。法令違反ならともかく、むしろくそくらえじゃん。問題は外国人への偏見等ではなく、気兼ね気兼ねの塊で、不便な方不便な方に帳尻を合わせようとする現代日本社会の特色にこそあるという話かもしれん。


        読者からの注文

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           年度が変わって正月気分の花見シーズンだった。なぜか知人からの誘いが続いた。今夜一杯どう的な急な誘いがすっかり珍しくなっている昨今、「慣れないことをする」ことになってしまったせいか、まんまと体調を崩して、一件不義理をする羽目にもなった。プラスマイナス帳尻だ。

           

           そのうち1人は、最近企業のCMの炎上が続く中で、自身の勤務先でも「チェック体制を強化することになった」という。法務の専門家以外にも、大学の先生なんかにも意見を聞いて炎上につながる要因がないかを探るわけだが、こんな話はあんたがチェックするのが一番早いんじゃないかと言われた。

           

           当人は数少ない当ブログの継続読者。このブログでたまに書いている差別関連の話を読んでの言である。別に俺なんかに尋ねなくても、今時のSNSは、在日外国人や働く女性や体のどこかに障碍がある人などなど自分が普段過ごしている位相とは別のところにいる人々からの直接の指摘がいくらでもあるから、そちらを見ればいいだけのことに思うが、そこはさて置き、俺がそんな話をここでくり返し書いているのは、そういう映画を見たからに過ぎない。なのでとりあえず「グリーンブック」でも「ドリーム」でも見たらどうかと思うのだが、裏を返せば洋画でも見なければ、日本社会の中ではその辺りの感覚を磨くフィクションに触れる機会が極めて限定されているということになる。身近にないから、それなり高学歴で勤務経験の長い大人が少なからず関わっているのに誰も気づかないという事態になるのだろう。

           ま、まったくないわけでもなく、例えば女性差別関連の「あるある」は一部のマンガやそれを原作にしたドラマなどで目にすることはある。そういえばこのブログでも、日本のマンガ作品についてこんなことを書いていた。差別問題についての基礎知識的な内容になっている、と自分で書いて自分で賛辞をつける。

           

           あんたがやれば、と言ったその若人によると、勤務先の会社は炎上しないことばかりに気を取られているといい、「人を傷つけないという本質部分をおろそかにしている」とコボしていた。まあ「会社員が考えることは常に目先の付け焼刃に留まるやれやれ」といった話であるが、「人を傷つけない」というのは考え出すと全部疑わしく思えてきて「これじゃ何も表現できない〜〜」と頭を抱え、迷走の末に松本人志辺りの言に救いを感じて「傷つけない表現なんてこの世にはないんだ!」と薄っぺらに格好よく居直りを決め込むの図が社内で蔓延するのではないかと、長ったらしい心配を勝手にしてしまった。

           

           CMの場合はやはり、ステレオタイプに注意を払うのが最初になすべきことだろう。
           そもそもは、わかりやすさのためにパターン化をするのがステレオタイプの機能である。このパターン化が、固定化された観念と結びつきやすいため、場合によっては差別や偏見や無自覚・無理解につながる。例えば洗剤のCMは、いかにも皿を洗っていそうな人が登場するのがわかりやすく、意外性を狙ってダースベイダーあたりが出てきても、そちらにばかり目がいって、何のCMかわからなくなる恐れがある。ただしその「いかにも洗いそうな人」が30〜40代の女性ばかりだと、性別と役割の固定化を助長するおそれが出てくる。

           

           こういうわかりやすさが固定化したいわゆるパターン化は、フィクションの世界ではしばしば「手垢にまみれた古臭い描き方」となり、「つまらない」とか「いまさら」といった低評価につながる。「金にうるさい男=関西弁」のように、パターン化はしばしば、そう語られる側が辟易していたり、「常人離れして心の美しい障碍者」のように、そんなやつは実際にはそうそういないというケースも珍しくないから、場合によってはそれこそ「人を傷つける」。

           

           逆にいえば、差別を題材として扱うのは、既存の価値観を揺さぶることにつながりやすいことになる。俺がその手の映画を好んで見ているのも、その辺りのトンガリ具合を期待してのことだ。

           

           そして広告でもそういうのが本来ありがたがられる現場ではないの?とも思うのだが、これはおそらく牧歌的な発想なんだろうな。実際は、もっと情けない事情なんだろう、炎上広告の背後にあるのは。なのでチェック体制の強化も結構だが、鈍感に固定化されたイメージに基づく発想が優先されて、斬新なアイデアが出てこない組織の仕組みそのものを考え直した方が効果的だと思う。


          【やっつけ映画評】グリーンブック

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             肌の色にはじまり、何から何まで異なる2人の男が、アメリカ大陸を車で巡りながら、次第に互いへの経緯と友情を深めていく。いってしまえば手垢にまみれた構成ながら、アカデミー賞をにぎわせたのは、差別がテーマになっている点、なのは自明でありつつ、本作で描かれている差別はちょっと込み入っている。なるほどなあと頷きつつ、「音楽の力」についても考えさせられる作品だった。
             何もかも異なる2人の男の友情という点では「最強のふたり」と似ているが、本作の「2人」は、肌の色を基準にすると、あの作品とはちょうど正反対の関係になっている。

             

             イタリア系白人のトニーは(演じているのは北欧系の人だから、あんまりイタリアっぽくない印象)大柄で粗野で口の減らない男で金がない。勤め先のクラブが改装工事で閉鎖されたから一時的に失業中でもある。

             黒人のドクター・シャーリーは、幼いころから音楽の才能に溢れ、留学経験があり、すでにアルバムが売れているのだろう、暮らしぶりは豪華で、ついでに威厳と品格を備えていて口ぶりや物腰は極めて上品だ。彼の音楽仲間は相当に彼を尊敬している。

             

             所得や社会的地位からすると、トニーにとってシャーリーは雲の上の存在だ。しかし舞台は60年代初頭である。ちょうどキング牧師が活動を活発化させているころになるが、ということはこの時代、シャーリーには入店できないレストランや泊まれないホテルが公然とあるということだ。服は売ってくれても試着はさせてくれないし、夜間外出すると逮捕される等々、いたるところに厳然たる線引きがあり、要するに人間扱いされていない。

             

             対するトニーは白人だから、シャーリーのような不当な目には遭わないものの、イタリア系だからアメリカ社会での立場は低い。序盤で「ゴッドファーザー」でも見たような、アウトローと堅気の線引きが曖昧なイタリア系コミュニティの様子が登場する。全体的には貧しい。そしてブルーハーツの歌がごとく、弱い者がさらに弱い者を叩くの法則よろしく、コミュニティの誰も彼もが汚い言葉で黒人を侮蔑する。トニーも御多分に漏れず。

             

             差別の部分はさておき、このトニーは、フィクションに登場する典型的な黒人キャラクターをなぞったような人物といえる。貧しいがたくましくて腕っぷしも強く、がさつで口が減らないが、根はイイやつ。ついでにアメリカ黒人のソウルフードたるフライドチキンが大好物で、対するシャーリーは、育ちがいい上、外国暮らしが長かったので、皿もフォークもなしに素手でかぶりつく作法に困惑しきりである。このシーンなんか、双方の立場が逆だと類型的過ぎて鼻白むことこの上ないことになりそうだ。

             

             トニー本人も、「自分の方が黒人だ」と思っている。貧しいし、イギリス系には蔑まれるし、フライドチキンが好きだ。ついでに差別者のお約束「虐げられているのはこちらだ」ロジックも持ち出してもくる。ただ、シャーリーとの対比だけに限定すれば、2人は比べものにならないくらい所得格差があるから、トニーの「あんたは黒人差別を訴えるが、俺の方があんた以上に犧絞未気譴討い觜人瓩澄廚箸い主張は一見成立しているように見える。

             

             ところがそれがいかに間違っているかが作品の終盤ではっきりと示される。トニーも完全に打ちのめされる説得力で、差別を越えた分かり合いの部分が、ただの口当たりのよい博愛主義だけで済ませていないところにとても感じ入った。才覚と努力でのし上がった結果、いずこにも所属するコミュニティがなくなってしまい、何者ともみなされなくなってしまったという孤独に直面することになったという点、ふと新井将敬を思い出した。政治ではなく音楽の道に進んだことが、シャーリーには幸運だったのか。

             

             その「音楽の力」についてだ。
             音楽には、この世のさまざまな矛盾を解決するパワーをしばしば期待されるところがある。実際そういう側面があるのは間違いないとは思うが、そう単純でもない。

             本作でシャーリーは、アメリカでも特に差別が激しい南部を巡る。南部とはいえ、白人の客が大勢集まり拍手喝采を浴びる。ならば少なくともシャーリー個人は人種の壁を越えられているかというとそうでもなく、会場のホールでは黒人専用の掘立小屋のようなトイレを使うよう言われるし、会場のレストランでは食事を摂らせてもらえない。いずれも会場側に悪意はなく、だってそういう決まりだから、という無色の制度化された差別がそこにはある。あとは「非常事態」さえ加わればアイヒマンの出来上がりである。

             まあつまり、システムが音楽の前に立ちふさがっている構図だ。法的権力をかさにきて、悪意を露骨に差別してくる警察官も、無色ではないものの構造としては似たようなものだ。音楽は実に無力である。

             

             本作では、シャーリーを襲う種々の差別や暴力に対して、色んな種類の対処法が登場する。シャーリー自身は「やり返さない勇気」のジャッキー・ロビンソンと似た信念を持っていて、どんな目に遭っても怒らず我慢してとにかく威厳を保つことで差別と闘ってきたようなのだが、少なくとも短期的にはそれでは解決できないこともある。

             会場側が、演奏家が黒人だと蔑んで粗悪なピアノを用意したとき、トニーは「契約違反だ」と抗議し、それでも聞かないので一発殴る。酒場でシャーリーが差別暴力に絡まれたときには、トニーは「手を放さないと殺すぞ」という威嚇でもって助け出す。警察がシャーリーを捕まえたときは、得意の口八丁と賄賂で釈放させる。

             一方、差別的な警官を怒りに任せて殴れば即逮捕になるから腕力は無力だ。このピンチにものをいったのは、シャーリーがこれまでに培った広範な人脈に基づく政治力、つまりコネだった。「差別じゃなくて、そういう決まりなんです」の無色の差別に対しては、結局「信念」が抗う手段だった。

             

             というわけで音楽の出番はちっともない。シャーリーの強力なコネや信念を形作ったのは音楽によるから、そういう点で音楽の存在は大きいといえるがどうも地味だ。「NO MUSIC NO LIFE」のような華やかな万能感は見当たらない。

             

             このモヤモヤが回収されるのが、黒人クラブの演奏シーンだ。本作の脚本は、出てきた要素をいちいち丁寧に回収する巧さがある。
             これまでの「教養人ぶりたいから聞きに来ているだけ」の上品な白人客とはまるきり異なる客の表情とシャーリー自身の演奏がここでは描かれる。音楽というのは、それ自体に何かあるというよりは、誰に向けて演奏するのかが重要なのだろう。政治家に向けて弾けば、強力なコネが得られるかもしれないし、金持ち相手に演奏すれば、金が得られるかもしれない。市井の共感してくれる人々に向けて演奏すれば・・・、何か大きなうねりを期待したいところだが、さあそれはどうだろう。少なくとも、まったく水と油だった一人と深い友情で結ばれることになるくらいのことはもたらしてくれそうだ。ま、そこにたどり着くには、才能はともかく、めちゃくちゃ練習が要るんだけどね。
             「寂しいときは、自分から先に手を打て」という台詞がやたらと染み入ってしまったことを告白して終わる。

             

            「GREEN BOOK」2018年アメリカ
            監督:ピーター・ファレリー
            出演:ヴィゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ、リンダ・カーデリーニ



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