【やっつけ映画評】バトル・オブ・ザ・セクシーズ

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     中学のころ、体育は男女別だった。別といってもグラウンドや体育館のあっちとこっちに分かれているだけだが、とにかく別々だった。この体育の授業が、教育と苦行を混同している内容で、とにかく走る走る。ただそれだけ。指導といえば、実技をわかりやすく教えることではなく、罵倒と懲罰を指していた。


     俺は短距離走は比較的速い方だったが、中距離以上となるとどうしてみんなそんなハイペースに走れるのか不思議で仕方がないくらい置いて行かれた。心臓に障害でもあるのだろうかと思ったくらい短距離との落差が激しく、肥満体の男子とえっちらおっちら周回することになる。結果、なまじ短距離が速いものだから、教師にはサボっているか、反抗しているかと誤解されてしまう。


     それであるとき「お前はもう女子と走れ」と命じられた。同じグラウンドで女子も1500m走をしていて、そちらに加えられる。お前なんか女の腐ったやつだ、といったセクシズム丸出しの懲罰だったのか、それとも体力差を考慮した教育的配慮だったのかは知らない。とにかくそれで女子とともにスタートし、予想通り早速4、5人に追い抜かれた。そのうち1人がお尻の丸っこい女子で、中学生で既にエロいことを考えていた年齢だったので、この魅惑の尻についていこうと必死だったがやっぱり引き離された。まあそれでも全体の中では上位の方には入っていたが、あの遠ざかる尻のせいで、男子どころか女子にも勝てんという事実が見事に刻まれ、その点では妙に教育的内容だったような気もする。

     

     劇場に見に行き損ねた作品がレンタルされていたので見た。タイトル通り、男女の性別間の戦いを描いている。テニス界の女王と、かつての男子チャンピオン(20歳以上年上のおっさん)の戦いである。

     

     予告編で見たことも相まって、そういう内容の映画だろうと予断をもって臨んだら、早速雰囲気がおかしい。女性の権利をはっきり主張する主人公ビリー・ジーンに対し「尊敬します」と言いながら髪をセットする女性美容師。ただでさえ蠱惑的な雰囲気をまとっているのが、あからさまに秋波をウェーブさせてきて、主人公も思い切り反応している。あれれ?と思っているうちに、いかにも過ちが起きそうな思わせぶりな展開になり、予想通りといおうか期待通りといおうかやっぱりベッドイン! 男性の女性蔑視だけがテーマではなく、同性愛もテーマだったとは。テニスファンなら周知の事実だろうけど、よく知らなかったので驚いた。


     それにしても、周りの勘がよすぎやせんか。ホテルの同じ部屋から同性の二人組が出てきても、通常特段不思議とも思わない気がするのだけど、すぐに周囲は感づく。元々この人が、レズビアンぽい雰囲気だったということだろうか。
     同性愛浮気をされた伴侶が見せる反応は「ボヘミアン・ラプソディー」のメアリー(フレディの恋人)と同じようなものだった。他人事なので、美女同士のベッドシーンは、あちゃーエロい!とアホ丸出しで堪能したが、さてこれが当事者だったらと考えるとどうなんだろう。持って行き場がないといおうか、自分に足らないものを見せつけられたような気になるというか。想像がつきにくい点も多々だが、それだけに見ていて実にやるせない気分になった。

     メアリー同様、この夫ラリーも極めてイイやつで、だからこそ余計に見ていて辛い。ラリーはラリーで、バトルオブセクシーズというか悩みオブセクシーズというか。救いは、フレディの相手が、独占欲と依存心の強い「そいつに行ったらアカンで」タイプだったのに対し、ビリー・ジーンの相手は結構まともな女性だった点。

     

     さて本作は、差別問題やセクハラの教材としてもよくできている。昨今、様々な職場で業者の作ったセクハラ防止のためのビデオ教材鑑賞だとかセミナーだとかが行われていると思うが、この映画を見てレポート書かせるのが効果的なんじゃないかろうか。商売柄俺もその手のビデオを見たことがあるが、通り一辺倒の内容で、ぬるい仕事しやがってと画面に向かって毒づいた記憶がある。

     

     ビリー・ジーンは相当に頭の良い人なのだろう。どこに問題点があるのかをしっかり見定めていて主張は一貫して合理的である。これに対して、彼女に批判されたり彼女に食って掛かる側は何が問題なのかが今一つわかっていない。毎度おなじみの差別の構図である。
     例えば冒頭、大会の賞金について、女子が男子よりゼロが1個少ないほど差があることを不当だと協会幹部に訴えるシーン。女子の試合もチケット売上は男子と差がないのだから、この格差はおかしいと、抗議の論旨は実に明快である。

     これに対して協会幹部のおっさんたちは、男子の方が試合がパワフルで面白いだとか、男子は家族を養わないといけないとか、それっぽい理屈を持ち出し来るも異議への反論にはなっていない。ビリー・ジーンはすかさず「論点が違う」とピシャリ言い放つが、幹部はただただ半笑い。

     

     おそらく、主張が理解できないというよりは、そもそも聞いていないのだろう。聞く耳というのは相手に最低限の敬意を払って生まれるものだから、この態度自体が差別そのものでもある。「今日も綺麗だねえ」などと言う幹部に、彼女が「やめて」と釘を指すのも、この文脈でとらえれば、何が問題なのかよりわかりやすいのではないだろうか。

     

     あるいは、ビリー・ジーンに喧嘩腰の男性記者(?)が「そんなに男をやりこめたいのか」などと食って掛かるシーン。ここでも彼女は「同等の敬意が欲しいだけ」と端的に「論点」を示す。2人分の座席を1人占めしている男に、1人分空けてくれと要求しているだけなのに、「俺の席を奪うのか」と怒り出すのと同じ。なぜか我は被害者設定になる。これもまた毎度お馴染みの構図だ。


     ところで性差の問題とは離れるが、これらビリー・ジーンの振舞いの中で「なるほど」と最も教材めいていたのは、解説者の人選のくだりだ。
     


    映画の感想:舟を編む

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       テレビでやっていたのを見たので感想を。
       出版社の辞書制作の話だ。最初に思ったのは、学園モノみたいだなという違和感である。高校が舞台だと、秀才とドヤンキーがクラスメイト同士といった設定がしばしばあるが、高校の場合は偏差値で輪切りされるので、一時期の兵庫県のような制度でもやっていない限りは現実にはなかなかお目にかかれない。

       本作の主人公・馬締は、口下手なせいで営業部のお荷物状態だったのが、大学院で言語学を修めたという経歴を買われて辞書編集部にスカウトされる。だけど、こんな人、最初からそこに配属されるんでは? 一方で辞書部門の先輩社員・西岡は、こんなやつ出版社の入社試験に受からんやろというくらいものを知らない。人当たりと要領はよさそうなので、彼こそ営業向けだろう。

       

       適材適所をハズすというのは会社ではよくあることだから、秀才とヤンキーの同居よりはあり得る。ついでに、専門的な題材を扱うときにバカを一人登場させておくと、このキャラクターに「どういうこと?」と質問させることによって説明台詞を自然に挿入できる利便性がある。フィクションの定石ではある(のだが、個人的にはウンザリな手法)。まあ辞書作りの途方もない作業のため、時間がどんどん流れてこの違和感自体もすぐに消し飛んでしまうところは、作業の膨大さを間接的に示しているとはいえる。


       松田龍平に小林薫にと魅力的な役者がそろっていて、中でも晩年の加藤剛が「死期が近づいている」という設定で泣かせる。古臭い編集部の佇まいがインスタ映えなのもあり、それなり楽しめる仕上がりにはなっていると思う。ただ、肝心の題材が全く活かせていない点、かなり拍子抜けした。

       

       以前に、辞書作りを志望する学生のインターンシップを題材にしたドキュメンタリーを見たことがある。彼女も院卒だったっけか。かなり優秀な学生で、言葉や文章に対する思い入れも溢れ返っているような人だった。なので試しに語釈を書いてごらんとやらせてみると、素人目にはそれっぽい形で仕上げることができる。だけど担当社員からすると脇がガバ甘な記述で、この説明だとこれが駄目、これが抜けているなどと的確過ぎる指摘が飛んでくる。記憶も朧気だが、確かそんな内容だった。小銭稼ぎの原稿書きとは次元の違う厳密性と、インターネットの普及で存在意義がぐらぐらにぐらついている中での葛藤と模索がひしひしと伝わってきて刺激的な内容だった。

       

       というのを見ているので、余計に残念な内容に感じた。辞書作りは、ただただ背景としてしか登場しない。せいぜい既に述べたように、作業の性質上、主人公たちの半生のような長い時間をまたぐ物語になっている点が「辞書ならでは」としてあるだけか。

       

       たとえば、馬締が恋をすることで、監修者の「松本先生」が恋の語釈を書けと命じてくるくだり。恋の行く末に応じて語釈が仕上がる流れなのだが、この記述が馬締の恋物語とあまり関係があるとも思えず、肩透かしをくらう。ついでに「読めないラブレター」を書くくだりも、辞書の話なんだから「達筆過ぎて読めない」じゃなくて「言葉が難しくて読めない」であるべきなんでないのかな。それをヒロインかぐやが必死に辞書を引いて理解するでもいいし、オタクの馬締が「言葉を知ってるって、そういうことじゃないよね」と気づくでもいいし、人と思いを寄せあうっていうことと言葉の関係を何やかし示す必要があるでしょう、この設定なら。


       終始この調子なので、馬締がチャラ男の西岡に「言葉のなんたるかを教わりました」などと頭を下げるシーンも、え?そんなやりとりあったっけ?となってしまうし、「新語や誤用もどんどん載せるぞ」という新辞書の編集方針も忘れたころに台詞にチラっと出てくるだけだし、話運び全体も雑だった。

       見終わった後で、久々に辞書を引いてみようかしらと思わせられると映画としては成功なんだろうけど、違い意味で引きたくなってしまった。辞書ってもうちょっと面白いものだよね、という確認で。


       ま、面白い話の運び方なんてのは、辞書引いても載ってないけどね、と書いておけばとりあえずのまとまりがつきそうなものだが、案外そうでもない。例えば「文学」なんてのを引いてみると、結構勉強になる。「新明解国語辞典」限定かもしらんけど。手元にある人は是非。

       

      2013年日本
      監督:石井裕也
      出演:松田龍平、宮崎あおい、オダギリジョー


      【やっつけ映画評】クリード 炎の宿敵

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         「3」「4」と下降線を続けたロッキーシリーズの中で、「4」のドラゴは知名度と説得力(やたら強そうな雰囲気)だけは妙に高い悪役だったと思う。それだけといえばそれだけの作品にも思うが、ひとつ秀でているところがあればそれはいい映画だ。

         

         本作は「クリード」の第2作であり、ドラゴのその後でもある。無論、ロッキーシリーズの8作目でもある。ドラゴの説得力に比べると、ドラゴ息子は「クリード」前作の相手と見かけの印象がカブっている気もしてややインパクトに欠ける。冷酷無比な殺人マシーンその2を期待したいところだが、ドラゴが国家の全面バックアップで生み出されたのに対して、息子は貧しい環境で怨念だけでのし上がってきたような設定なので、どうしても泥臭い雰囲気にはなる。ソ連は崩壊したのだなあと改めて。

         

         このドラゴ親子を見て、「釣りキチ三平」の20何巻あたりにでてくる、有明海のムツカケ親子を思い出した。地元のムツカケ名人である小次郎に対して、無闇やたらと憎悪をたぎらせるヤバいおっさんと、そのスパルタ教育を受けたかなり人相の悪い息子が三平に挑んでくる。対する三平は父親がいないので、この父子鷹に嫉妬して暗黒面に堕ちてしまうからこちらもこちらで大変だ。いつもの天真爛漫さが消え「父ちゃんのおっぱいでもすってろ!」などと汚い言葉を吐く。ちょうどドラゴ息子に「このファザコン野郎!」と食って掛かるクリードと重なる。そしてヤバいムツカケ親子同様、無闇な憎悪にまみれているドラゴはもちろんのこと、父に盲従する息子も余計に心配になる。

         

         ロッキー×ドラゴの戦いは、精神×科学の戦いでもあった。雪原で遭難しかけたり、火あぶりになったり、大木を斧で切り倒したり、あんまりボクシングには意味がなさそうな精神論根性論的トレーニングを積んで鍛えるロッキーに対して、全面バックアップ付のドラゴは体に色々センサーを付けて、様々なトレーニングマシーンを駆使したり、何かのお薬を注射したりしている。スポーツの鍛錬における根性論信仰は日本に限った話ではない事実を目の当たりにする。試合はロッキーがわけのわからん底力を見せ、それにドラゴが混乱するというご都合主義展開を見せるから、結局根性論は作り話の中でしか力を持ちえないということを示しているともいえる。


         今作では、ドラゴ親子は金がないのでひたすら泥臭く練習するだけである。これに対してロッキーがクリードに授ける鍛錬は、またしても根性論だ。今度は雪原ではなく、灼熱のステップ地帯で熱中症になりながらのロードワークをしたり、(大木が生えていないからか)地面をわけもなく掘ったり、科学的に間違っているか、常識的に意味がなさそうな方法で鍛え上げていく。「接近戦の練習」のように、実際の試合と関連している練習も描かれてはいるが、全体的には何をしているのかよくわからない。

         それでもクリードの肉体が素晴らしいので、なんとなくそんなものかと見てしまう辺り、今作はドラゴ息子ではなく、クリードにビジュアル的説得力が担わされている。科学的トレーニングが一般化した現代においてはスポ根の生き残る道はないように見えて、現実世界ではやっていないだけにかえってフィクション的な演出としては有効ということを示しているようにも思う。ひっかかるけど。


         ボクシング部分はこのように、往年のロッキー節をなぞっているのであるが、今作はよくできた家族モノの側面を持っている。子供を授かるクリード夫妻の新米父母の話、ビアンカとクリード母の嫁姑関係、息子との関係改善を望みつつ放棄しつつもあるロッキー、などなど、家族関係の描写が多い。不幸なドラゴ親子と対比させる格好で登場するだけに、全体的には幸せに見えるのであるが、それぞれに色々不安が付きまとっている点では、どちらがいいとは一概に割り切れない。なかなか丁寧な描き方をしていると思う。

         このうち、赤ん坊がジムで果たす役割は、灼熱の乾燥帯で穴掘りをするよりもよほどボクシングの課題解決に説得力のある要素となっている。また、復讐心に憑りつかれるクリードに、母親が「お父さんを利用するな」と厳しく説教するシーンもよい。子が父を乗り越えるという普遍的なテーマの部分は、文学的な仕上がり具合だ。

         

         対して父にしごかれまくっているドラゴ息子は、こちらは母への怨念に憑りつかれている。会話の中だけでの登場かと思いきや、実際登場したからちょっと感動した。「ロッキー4」では、美人だけどいかにも冷血っぽい雰囲気でかなりの印象を残した女優であるが、時が流れ、貫禄のありすぎる佇まいに寒気すらした。

         この元妻に対してドラゴが見せる表情が実にやるせなく、自分の年齢・立場が息子よりもドラゴ寄りになっているせいもあり、見ていて大変に切なかった。ドルフ・ラングレンて演技巧いんだなあ。筋肉俳優で売り出したのがもったいないくらいだが、筋肉俳優としては結局パッとしなかった悲哀がこの演技力を生んでいるのかもと考えると、塞翁が馬。こちらもこちらで、ただの悪役ではない点、よくできていると思う。

         

         さて、前作で、なぜクリードはミュージシャンである恋人の曲で入場しないのだろう?と疑問を書いたが、今作は、この疑問に気づいたのか、ビアンカの曲でクリードが入場してくる。このシーンが、なんだかシュールで、格好いい演出のはずなのだが笑ってしまった。という蛇足で終わる。


        「CREED II」2018年アメリカ
        監督:スディーブン・ケープルJr.
        出演:マイケル・B・ジョーダン、テッサ・トンプソン、シルベスター・スタローン


        【やっつけ映画評】共犯者たち

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           「共犯者たち」。確かにそんな内容なんだけど、ちょっと格好良過ぎやしないすかね。虎の意を受けて威を借るスネ夫たちがこれでもかと登場しては、総じて取材から逃げ回る様子が延々と繰り返される杉田某大会状態。こんな連中に「共犯者」なんて、ちょっと格好よさげな表現は勿体ない。「逃げ回る恥知らずたち」くらいがちょうどじゃないかしら。

           

           李明博〜朴槿恵政権がマスコミ対策に躍起になった事実は、彼女が失脚した後、日本でも知られる話となった。政権に批判的と目される芸能人のリストが作られ、レギュラー番組を失った芸人がいたり、「1987」もそんな状況下で神経尖らせながら制作されたと聞く。
           本丸は当然報道部門で、主要放送局では閣僚の不正を暴いたり政策の問題点を追及するような部門の閉鎖、番組の打切り、政権を批判したキャスターの降板等々が相次ぐことになる。NHKに限られる日本と異なり、いずれのテレビ局も、公益法人や公社が株主だったりで公共放送の性格を持つ分、政治が介入しやすい仕組みになっていることが背景としては大きいようだ。極端な例では李明博の側近だった人が社長に就任しているケースも紹介されているから「芸能人リスト」よりも介入の仕方が結構あからさま。いわゆる「息のかかった人」を経営陣なり株主の公益法人の理事に送り込むことで、矜持のある社員を制作部門、報道部門から追い出し、骨抜きにしていく。

           

           だけど本当に原因はトップの人事だけなのかしらと疑問には思った。
           本作で示される風景は、日本でも既視感がたっぷりだ。経営陣に息のかかった人間を送り込むことで、組織は政権の不正を追及する記者を追い出し、政権に批判的なニュースはひたすらネグって天気等のあたりさわりのなさそうな話題にことさらに時間を費やす。全部NHKで見たよ。こうなっている最大の理由は、官邸周辺からの圧力があり、その空気を先回りしてくみ取って、命じられていないことまでせっせと精を出すそれこそ忖度茶坊主幹部がいるからであるが、「一部の不心得者が大多数の良識ある職員の口を封じている」というわけでは決してない。現場にも現状を肯定している人が少なからずいるからこその実態のはずだ(職員個人の政治信条が問題なのではない。与党支持だろうと野党支持だろうと、ニュースをネグるのは別次元のことだ)。

           

           理由はいくつか考えられて、一つは田崎のスシローさんみたいに、政局情報のキャッチと禅問答の解読しかやったことがないので政権の振舞いが常軌を逸してきても同じ姿勢しかとれないケース。いわゆる正常化バイアスのようなものが働いて、異常事態なのに従来通用していた枠内でしか物事を把握できないので結果、思考回路が御用記者風味になってしまう。ただ、韓国の場合は弾圧と民主化の歴史が激しかった歴史を持つ分、この手の人は少ないかもしれない。

           

           もう一つは「ペンタゴン・ペーパーズ」でも描かれていたが、権力者にくっついているうちに同化してしまったり信仰のような感情を抱いたりしてしまうケース。ブラッドリーのような優秀な記者でも、ケネディという人気者の政治家にくっついていると色んなものを見らんふりしてしまうのだから、いくらでもこうなることは考えられる。そりゃまあケネディみたいな人気者ならわからんでもないが、李明博や朴槿恵ってそんなカリスマ性あったっけ?という疑問もつきまとうが、強引なやり方を好む政治家と記者は、通底する部分がありがちだと思う。朝の話を昼のニュースに、という高速自転車操業を日々繰り返す仕事な上、ある程度物事に白黒つけないと商品にならないから、必然せっかちで強引になる。そうすると法令に四角四面かつ何事も慎重な公務員が無能に見えてきて、彼らをこき下ろす政治家がとても有能で正しく見えてくる。そこにシンプルな正義感が加わると、いっちょあがりである。こちらは韓国にもいくらでもいそうな気はするけど、どうなんだろう。

           

           映画の中に、そういう人も一部出てきはするが、背景的にちらっと映っているだけでインタビュー等の積極的な形では登場しない。このため上部構造×下部構造の対立のような図式しか示されないが、果たしてそれが正確な姿なんだろうか? ま、長々書いた割には、こちらは脇の話の、ただのふとした疑問。

           

           政権側からの介入によって現場が変質していく様子を見ていると、報道のあるべき姿を改めて考えさせられてしまう。こちらが本題。
           


          映画の感想:シン・ゴジラ

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             テレビでやっていた話題作をようやく見た。なかなか面白く見たけど、ネットの書き込みを見ると酷評してる意見もかなりあって、へえ〜とこちらも興味を持った。怪獣映画の定石をなぞってないことから来る不満だろうか。ランボーみたいなものかね。2,3を見て派手な爆発を期待して1を見たら全然違う妙に重いドラマだった、みたいな。あんまり詳しいジャンルではないのでよくわからん。

             1作目をある程度トレースしている内容だと思う。天災と人災が混じったような形でわけのわからん巨大生物が首都をぶっ壊して、政府が右往左往する中で一般庶民が割を食う。そして、見てるこっちはろくに理解できない化学(薬学)によって解決に導く。大枠は大体一緒で、何やら社会的なメッセージが込められてそうなところも同様。災害をドキュメンタリー的に描くあたりも共通で、人間ドラマ的な部分はちっともない。日本映画でよくやらかしがちな「今そんなことしてる場合ちゃうやろ」という登場人物同士のじゃれ合いや、メロドラマがなかったのは個人的には大変によかった。
             
             問題は「ほんとっぽさ」という説得力になる。「君の名は。」でも書いたが、東日本大震災のせいで、こういう巨大な災厄はいくらでもあり得るという感覚が身についてしまったため、巨大生物が暴れまわるという事態も、そんなに夢物語には感じなくなっている。制作者自体もああいうにわかに信じがたい事態が推移していく様子をリアルタイムで見ているから、本当っぽく作る方法論は2011年以前の業界よりは断然出来上がってしまっているとはいえそうだ。

             だとすると、テレビニュースの雰囲気なんかはかなりほんとっぽさがあったが、一庶民の「もうだめだ」という絶望的な恐怖(震度5以上の地震になると「あ、これ死ぬかも」という諦めと恐怖みたいなの感じますやん。ああいうの)は希薄だった。震災という現実があっただけに、デリケートで描きにくいようには思うが、思い切り政府側からの視点で描いている分、国民の描き方が薄いとなまじ社会的メッセージを漂わせている分、どうしても気持ち悪いことにはなるよね。といっても一般庶民A男とB子のサイドストーリーは要らないので、なかなか難しいところではあるだろうが。

             首相以下、政府の対応が話の中心なので、こういうのはテキトーに誤魔化すと途端に安っぽく嘘っぽくなるので大変だ。本作の場合はかなりホントっぽく作っていると思うが、今の政権のお陰で、こういうのはホントっぽく作ると嘘くさくなるジレンマに陥っている。

             「上陸することはあり得ない」と記者会見で断言してすぐ上陸して歩き出す場面なんか、実際だったら「あり得ない」には「あり得る」の意味も含まれるとかなんとか国語閣議決定がなされるのだろうかとか、「私がいつそんなこと言いましたか」とメメント記憶喪失状態になるのだろうかとか、余計なことを妄想してしまう。本作に限らず「半島を出よ」なんかも今から見るととても牧歌的に見えてしまうくらい、シミュレーション型のフィクションは現在、作るのが大変に難しくなっている。由々しき事態だ。政治はせめてホントっぽくやってくれよと切に願う。

             解決策の科学的な部分も、意味はようわからんが、なんやらホントっぽい具合に進行していく点よかったと思うが、そういう中にあって嫌でも悪目立ちするのが石原さとみが演じる米国高官の役だった。他がある程度ちゃんと作られているので、これはいったいどういうことなのだろうと著しく困惑させられた。なんだこの小劇場でよく見る風の安いキャラは?ってことです。

             あれこれとリアリティを担保するための材料をそろえ、吟味するセンスを持っていても、日系外国人、あるいはある種の女性に対してだけ突出した現状認識のゆがみがあるということなんすかね。ないしはバイリンガルへの強烈な怨念。あるいは俺が他の要素を買い被りすぎ? それとも、何かの意図を持ったあえての演出なんだろうか。

             だとすると何だろう。「こんな日米間を取り持ってくれる米政府の人間なんて実際はいませんよ」ということを、あえてのチープなキャラ設定に込めたのだろうか。それだと何となく腑に落ちる。そう考えると、主人公も、主人公というだけでなんとなく受容してしまっていたが、冷静に考えるとあんなやついねえだろ、という気はしてくる。官僚かと思って見てたら政治家だったし。ああいう風味のペテン師ならいるだろうけど(進次郎とか)。だとすれば、これもまた「こんな都合のいいリーダーいませんよ」というメッセージなのかもしれない。なるほど、スパイスがきいていていい映画じゃないか。

            2016年日本
            監督:樋口真嗣
            出演:長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ

            【やっつけ映画評】あん

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               名優の死によって、にわかに必見の作品に見えてきた。
               そういうわけで自宅で鑑賞したのだが、見始めてすぐどら焼きが食いたくてたまらなくなってしまった。食い物を扱う映画は珍しくないが旨そうに見えるのは思いのほか少ないものである。この時点で「とてもよい作品だ」と結論づけてよさそうな気がする。

               

               いずれにせよ、とりあえずどら焼きだ。スーパーに駆け込み、隣で見切り品になっていた黒糖饅頭(半額シール添え)も付け足して、あんこだらけの兵站を整え準備万端、仕切り直して再生した。そしたら今度は、仕事終わりの主人公が、渋い雰囲気のそば屋で天ざるを食い始めて「マジか」と完全に置いて行かれた気分になった。こちらも口の中が甘くなっているところへきて、「天ざる」とは。

               この調子で、甘い―しょっぱいの無限ループが繰り返される恐怖の映画か、何度スーパーを往復せなばならないのかと思ったが、この後登場したのは、ぜんざい―昆布のひとくだりで済んだので助かった。

               

               無口な菓子屋と不思議な雰囲気の婆様の短い付き合いを描いた静かな作品だ。もう一人、高校生にしかみえない女子中学生が絡んでくるが、居場所のなさという喪失を抱えているところがどら焼き店主と一致している。一方、婆様は似ているようでいてまったく異なるというのがポイントだろう。

               

               一見すると奇人変人にも思える婆様を、店主が一気に敬愛するようになるきっかけが「美味いあんこ」なのだが、冷静に振り返るとまるで「美味しんぼ」のような安易な展開だと思う。だが、まったくそう映らなかったのが、あんこという素材の説得力かもしれない。

               二十年ほど前、エアロスミスが新譜のツアーで来日した際、「ニュースステーション」に出演し、久米宏が「日本の食べ物で気に入ったものはあるか」と質問した。くっだらねえ質問するなあと思ってみていたら、メンバーが口々に「アズゥキィ」「azuki」と答えて、質問した当人も俺も面食らっていた。まさかの回答。ボーカルが「甘く似た茶色いビーンズがlegendaryにcoolだねyeah」(記憶想像訳。この人は歌うように喋り、時にホントに歌い出す)と説明を付け加えた。「王者」が枕詞につくロックスターをもうならせる力があんこにはあるのかと、結果的に面白い質問になったのだった。

               

               さて本作はハンセン病を扱っている。個人的に多少なりともかかわりがあった題材なので、心中色々とざわつきながら見た。本作で印象的に登場する「手」も、あれと同じような手をいくつも見たことがある。おかげで、監督の意図とは別の、何でもないカットで不意に涙に襲われた。本作を「面白かった」と言っていた知人に、どこそこの場面で泣いたと言ったら「そんなシーンありましたっけ??」との反応だったから、それくらい頓珍漢な落涙だったわけだが、年を取ると涙もろくなるというのは、つまりところ経験の積み重なりということなんでしょうな。ある意味困ったことだ。

               

               ほとんど忘れ去れた感すらある病気だけに、「あの人らいなんでしょ」と差別してくる大家の振舞いはちょっと苦しく感じたのだが、「私も本当はこんなこと言いたくないんだけど、でもね」と差別を正当化してくるロジックだとか、社会的な力関係によってそれを黙認せざるを得ない苦しさだとかはリアルで、店主の静かな悔し涙は迫るものがあった。この俳優、演技巧いんだな(今更)。そして差別に対して悟りの境地に達しているかのごとく対処する元患者の様子も、これまたいつか見た景色で、ここら辺の話は「ふたたび」のところで書いた。

               

               店主が差別を止められないのは、自分の人生がどん詰まりなせいだ。そして、どら焼き屋に居場所を求める女子中学生は、家庭がどん詰まりの様子である。二人とも落ち着く先がない喪失感に苛まれているわけだが、一方であんこ名人の徳江さんは、「居場所だけはある」という対比になっている。

               病気で隔離された経緯により、生活保障は国が面倒をみることになっており、療養所に居残る限りは路頭に迷うことはない。ただし彼女の10代、20代、30代、40代、50代はここから一歩たりとも出ることは許されなかった。だから預かった小鳥もすぐ逃がしてしまう。言わずもがな、この美味いあんこは、居場所だけは保障されている長い長い時間の中で生まれた名人芸である。その知られざる天才が世に出、人に伝わったというのは、何かを作るという行為の先にある幸せとしてこれ以上のものはない。

               

               非常に困難とはいえ、論理的には自由にどこでも行ける2人とは、徳江の立場は天地ほど違うのである。本作で描かれているのはそのような残酷な対比で、まったく異なる1人と2人が心とあんこを通わせるから、実に尊い軌跡となるのだ。それがわかったからこそ、ラストで無口な店主は似合わない大声を出して客を呼ぶのだろう。

               

              2015年日本
              監督:河鹹照
              出演:樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅


              映画の感想:華氏119

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                 本作の監督は、「アポなし突撃取材」が枕詞につくことが多く、実際、監督自身が映画の主人公となってどう立ち回るのかが展開を生んでいる作品もある。ただ、本作の前作に相当する「華氏911」は、必ずしもそうではなく、そして本作も突撃していくシーンはそれほどない。どちらかというと編集のうまさで見せる映画になっているように思う。

                 政治なり政府なりが相手だと、さすがの監督も体当たりできる相手や場がそんなにないということだろうか。州知事の家に水を撒くシーンが象徴的で、笑えるシーンながら、同時に無力感も押し寄せてくる。突撃取材が炙り出せることが少ない。だからこそ余計にか、見ていて絶望的な気分が支配的になってしまい、どうしてわざわざお金を払ってこんな辛気臭いものを見に来ているのだろうと八つ当たりのようなことまで考えてしまった。


                 編集の妙の点で1つメモしておくと、ヒトラーとの類似性を指摘するくだりは巧いと思った。
                 前にも書いたと思うが、独裁的なスタンスの元首に対してヒトラーを持ち出して批判するのは、説得力を持ちにくい(「戦前回帰だ!」の批判に似ている)。安直に見えるからで、なぜ安直に見えるかといえば、「独裁」⇒「ヒトラー」と、類似のさせ方が大雑把に映るからだ。ついでに当人の特徴的な外見や喋り方、あるいは狂気の突出ぶりのせいで、極めて稀なケースの為政者にも思えてしまうことも影響しているように思う。あんな悪魔みたいなのはそうそう出ないだろ、と例外のように見えてしまっている人も多いのではなかろうか。


                 しかし、民主制下の選挙で地位を獲得していった点や、当時の社会が今とそう変わらず、汽車や自動車、マスメディアや通信網がとっくにあった点を考えると、似たようなのが出てくる可能性は織田信長やナポレオンよりは遥かに高い。

                 そして実際に登場した場合、当人はおそらくちょび髭でもタラちゃん頭髪でもなく、なんなら女性かもしれないから、わかりやすく似ていることなどありはしない。「支持を集める手法や世論の受け止め方が似ている」というような、共通点はしっかり比較考察しないと見えにくいに違いない(そしてヒトラーとの類似性を言う人は、ちゃんと細かい点を比べた上で指摘していることが多い)。

                 こういった個々の類似点の考察を、学者のインタビューのつなぎ合わせのような文字レベルにとどめず、映像編集で見せている点は映画屋の面目躍如だと思った。

                 

                 余談のつもりが長くなってしまった。さて本作の本題は、トランプ批判というよりは「民主主義のあり方とは何ぞや」といった点にある。トランプかヒラリーかという2択に意味を見出せなかったいわゆる無党派が一番の多数派を占める中で誕生したトランプ大統領は、投票しなかった人々のうちの少なくない層に不利益やら不愉快やらを提供している。嫌な言い方をすれば、投票をサボった結果である。


                 だったら次は自ら立候補しよう、次はちゃんと投票しよう、と中間選挙に向けて有権者が慌ただしく動き出すのが映画の終盤で、辛気臭い気分も少しは晴れてくる展開だ。結果はついこの前出て、映画に登場している新人候補の中には日本の報道でも当選が報じられた人もいる。つまりは「不断の努力」というやつだろうが、日本の場合は立候補するにも課題山積で、そちらの話は「黙殺」に譲る。


                 「どうせ誰がやったところで変わりやしない」という投票に行かない理由の最たるものは、本当に「変わりない」ときだけギリギリ正当性を持つ。「変わりがある」ときに無投票を選んでも、その変化をとどめる効果はまったくない。そして「変化」はよい方向だけとは限らない。ある層にとって「よい」ことは、別の層には「悪い」ことになることがしばしばだから、「どうせ」と知らぬ顔をしているうちにひどい状況になっている可能性はいくらでもある。無論、同時に高笑いしている人もいる勘定になるが、候補者は投票しない人を配慮する必要がないので、無関心を決め込んでいるうちにとても過ごしやすい社会になっている可能性は極めて低い。


                 その一つの例として本作でかなりの尺を割いて取り上げているのがミシガン州の水道の問題で、この話題だけで作った方がいいんじゃないのか?と思うくらい酷い話である。汚染水で病気になった住民が抗議しても柳に風なのが、汚染水で製造ラインに支障が出たGMの抗議はすぐ対応するのがとてもわかりやすく象徴的なシーンとなっている。

                 

                 話は逸れるが、水ビジネスは水が命に直結するものだからか、この件以外でも節度のない強欲ぶりが顕著に可視化されている。こんなものは10年前から指摘されていたはずだが、要するに南米で焼き畑が終わってしまったから自国を食い物にしたということだろうか。そうしてまた随分な時間差で日本に上陸してきている。外来種の流入には極めて神経質なくせに、こういうときには発揮されない。

                 

                 というわけで、サボったり諦めたりしても仕方ないですよ、というのが本作のメッセージなのだが、そこに「政党」を絡めて問いを発しているからもうちょっとだけ複雑な話にはなる。ただ、アメリカの場合は政党と議員の関係が、日本に比べてはるかに緩いのでまだ柔軟さが期待できる分マシともいえそうなのだが。
                 この監督は、いつもナレーションで観客に呼びかけてくるのだが、今作はいつもに増して悲痛にも聞こえる言葉の選び方をしていたのが、やけに印象に残った。

                 

                「FAHRENHEIT 11/9」2018年アメリカ
                監督:マイケル・ムーア


                【やっつけ映画評】ボヘミアン・ラプソディ

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                   冒頭の20世紀フォックスお馴染みのファンファーレからして「おお」とちょっと感動させられる。見終わった後に妙に元気が出てきたところと、50代以上のおっさんが総じて涙していた点、「ロッキー・ザ・ファイナル」を思い出した。第1作の焼き直しでしかない脚本ながら胸を熱くさせられる見事な作品だったが、本作も同様。おそらくこれ、脚本はそう大した出来ではないと思う。


                   大河ドラマの総集編のような、要領よくかいつまんだようなまとまり具合で、要領がいいだけにテーマにとって大事な要素は概ね出ているようには思うが、あまねくなでただけに終わっているような印象を受ける(日本ツアーの成功によって本国イギリスでも逆輸入的に人気が出たという日本のファンが後生大事にしている物語は影も形もない)。監督が途中で変わったらしいので、その辺も影響しているのだろう。バンドの結成〜栄光〜失速〜再生と、15年間くらいを2時間にまとめているのでまあそうなるかあと思いつつ、指折り数えたら我らがバンドも似たような年月がたっているのだった。比べるのもどうかと思うが、「時の流れだけは平等だ」という巷間よく言われる言葉は本当だろうかとつい考え込んでしまった。

                  「MUSIC LIFE」1976年3月号。リアルタイムで「日本から逆輸入」をアピールしている。誌面を見る限りでは、クイーンを推しているというよりはロジャー・テイラーを追いかけているだけのような印象も。リアルタイムのファンではないくせに、後付けでこういうのを入手する頭でっかち習性があるわけだが、ようやく陽の目を見たような。

                   

                   それでも本作は惹き込まれるし胸が熱くなる。いうまでもないが曲の力がそうさせる。冒頭のファンファーレが、いかにもクイーン風エレキギターなところしかりであるし、フレディの孤独と音楽性とのつながりが、脚本としては希薄な描かれ方しかしていないように映るが、それらは歌に全部乗っかっているので、曲が流れるとなんとなく納得させられる。本作はつまり、「ラッシュ」「ボルグ/マッケンロー」と同種の作品ということになろう。


                   スポーツにおける試合同様、音楽におけるコンサートは広く人々に見てもらうものだけに(下積み時代はさて置き)映像資料がしっかり残っている。そして映画の物語の大枠はどちらもこのハレ舞台がクライマックスになる。このため、映画のクライマックス制作は、本物をいかになぞるかが重要になる。本作の場合、ライブエイドがそれになるが、元の映像はYouTubeでも確認できる。そしてかなり本物に寄せていることがわかる。

                   

                   サウンド自体は本物を使用しているが、それ以外は作り物だ。このためやっていることは、はるな愛が以前やっていた松浦亜弥のモノマネと本質的には大差ない。あれとの違いは再現性が超高度な点だ。ステージは、ピアノの上に載っている飲料のカップまで再現しているし、俳優陣は当人にかなりそっくりに仕上げている(個人的にはボブ・ゲルドフが変に似ていて笑った。本作で唯一登場する「クイーン以外の有名ミュージシャン」だけど、ただの電通の人のように登場している)。

                   

                   本物を再現して何が面白いのかといえば、見ている側が当時を演者側の視点から疑似体験できる点だ。「ラッシュ」あるいは、「ブラックホーク・ダウン」でも似たようなことを書いた。実際の現場とは違って好きにカメラを構えられるように、犖充足瓩鮃イに切り取れる。加えて舞台裏の物語によって人物の内面を知っているから、どういう心持で演奏しているのかが窺い知れる。はるな愛は笑いのために誇張していたが、本作の場合は、バンドの魅力なり歌の力なりを伝えるために一種の誇張をしていたといえる。

                   

                   俺の場合はリアルタイムでもコアなファンでもなく、19のころ、友人のちょびのアパートで無理やり聞かされたのが最初だった。「『ママ〜』だけ聞いてくれたらいいから」と懇願調に言われ、この世界遺産のような曲と初めて出会った。前奏的合唱が終わり、メインボーカルが「ママ〜」から歌い始めるから、もうちょっと聞かせろよとまんまとちょび君の術中にはまり、「ガリレオ、ガリレオ」って何だろうと考え込んでいた。そのころフレディはとうに死去していたから、当然ライブエイドの映像も、後になってたまたまYouTubeで「へー、やっぱうまいなあ」と見ただけだった。そういう立場からすると、映画によって当該ライブパフォーマンスの価値なり意義なりがようやく理解できるという感動がある。

                   

                   コアなファンの場合はどうなのだろう。探偵ナイトスクープでたまにある「死んだ父に会いたい」の類の依頼(死んだ家族のそっくりさんと対面する内容)と同じような心境なのだろうか。言ってしまえばただの他人だが、似ているというのは霊力とでもいうような力があるようで、どのケースでも依頼者は号泣して悩みやら言えなかった謝意やらをぶつけている。
                  なので面白く感じるかどうかはクイーンのファンの度合いに思い切り比例しそうな作品で、よく知らない人が見た場合、おそらく俺が「ボルグ/マッケンロー」を見たときのような感覚になるのではと想像する。あの作品に比べると、より散漫な内容に映るかもしれないが。まあでも「歌はすごかったなあ」と思う人は多いだろうから、制作側、もっといえば生き残りメンバーにとってはそれで満たされるような気も、と想像するとちょっとつらい。

                   

                  蛇足:アルバムを売りまくり、チャリティで100万ポンドかき集め、死後には財団まで出来てしまうのだから、おそろしく「生産性」のあるゲイの人だ、と例の落書き言説のおかげで余計なことを考えた。無論それはフレディ一人の力でないことはこの映画で描かれているのだが、だから余計に排除してどうするんだということである。まあ、あれらの人は、自分の好きな人がゲイだったり出自が外国籍だったりしても、それとはパラレルにテンプレのアレな言説を垂れるものだが。要するに自分の頭では何一つ考えとらんのよね。
                  つまらん話に逸れたので、蛇足2:フレディが他のメンバーと喧嘩になって「僕がいなければお前は歯医者になって週末にブルースを演奏していた程度だ」などとなじるも、ジョン・ディーコンには「君は・・・、思いつかない」で終わったところに吹き出した。

                   

                  「BOHEMIAN RHAPSODY」2018年アメリカ
                  監督:ブライアン・シンガー
                  出演:ラミ・マレック、ジョセフ・マッゼロ、ベン・ハーディ 

                   

                  可哀想なので、ミュージシャン・ボブ・ゲルドフの雄姿を。「バンド結成の日に遅刻したから誰もやりたがらないボーカルを割り当てられた」と、いかにも後付け臭いエピソードをちゃっかり用意してしまうあたり、電通屋としての才覚が現れてしまっていると思う。

                   

                  やはり本家も添えておこうか。比類なき歌唱力のおそろしさはは言うまでもなく、ピアノマンとパフォーマーを忙しく行ったり来たりする自由自在さも注目。この曲はハチロクのドラムと、あとなにげにベースのフレーズが心地よい。


                  映画の感想:三度目の殺人

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                     テレビでやっていたのを録画しながら見始めたら、結局最後まで見てしまった。


                     法廷モノの類になろうが、監督名からしていわゆる法廷ミステリではないことは概ね想像がつく。もつれた糸が綺麗にほどけて「な、なるほど!」だの「お前が犯人だったか!」だの膝を打つような展開は最初から期待していない。そしてやはりそういう具合の内容だった。予想がつくことではあったが、もやもやとした。といっても狄秦雖瓩わからないからもやもやとしたというわけではない。

                     

                     殺人事件を扱っているのに、真相が今一つハッキリしない。こういう作品には結構ヒステリックな拒否反応があるもので、本作についてネットのレビューを見たら、高評価とゼロ査定に割とはっきりと分かれていた。正解を示さずに終わることは、〆酲,鉾燭靴討い襦↓謎解きが思いつかなかったくせに「別にそこで勝負してへんし」と居直りながら格好つけている、といった反発を覚えるのだろう。その気持ちはわからんでもない。俺も過去に解決のはっきりしない殺人モノを見てフラストレーションがたまったことはある。この´△鵬辰┐董△錣らなかった俺がアホなのか?と不安に苛まれ「あれ?わっかんなかったかなー」と残念がって見せる制作側(←大抵幻聴だが、一度だけ直に耳にしたことがある)が一番わかってないんじゃないかと不安が怒りに変化しもする。どうも殺人を扱う作品は、自ずと定まっている枠組みのようなものがあって、そこから逸脱すると激しく拒絶されるようだ。

                     

                     だけど、実際の裁判では作法違反のミステリみたいなことはある。ちょっとだけ刑事裁判を傍聴した経験があるが、それでも狄深足瓩良坡里さに直面したことがあるから、世の中全体で見るとどれほど多いことになるのか。

                     

                     例えば、殺人の被告人2人が別々に審理されていて、互いに全く矛盾する判決が出ていたケースだ。詳しく覚えていないのだが、確か「どちらが主犯か」について、双方の判決で認定された役回りが、パラレルワールドのように異なっていたと記憶している。それぞれの法廷で出された証拠・証言が異なるからということらしいのだが、単に裁判官がこんがらがって勘違いしただけなんでは?と穿ちたくもなる2つの判決だった。

                     

                     もう一つは、控訴審で違うことを主張し出したケースだ。本作同様、強盗殺人の強盗部分を否認したんだっけか。これもまた記憶が不確かなのだが、とにかく被告人の主張としては自身の性的志向に関わる話なので一審では恥ずかしくて伏せていたが、二審では真実を告白しますと、そんな事情だった。一審の判決によるとこの被告人は、犯行時に若干不可解な行動をとっているのだけど、新たに持ち出してきた性的な部分をあてはめると、推理小説みたいにキレーに各々のピースが結びついて、一審判決とは別のストーリーが見事に成立する。結局、判決では「証拠がないので信用できない」と一蹴されてしまったのだが。

                     

                     どちらのケースも、背筋が幾分か寒々としたのを覚えている。恐怖を覚えること自体が意外だったのだが、事実がよくわからないものに出くわすのは、結果が殺人という重大事ということもあって、結構怖いものなんだなと理解したものだった。黒澤明「羅生門」(芥川龍之介「藪の中」)と同種の恐怖だろうか。映画、小説と異なり、作り話ではないせいだろうか、余計にゾゾーっとしたものだ。

                     

                     


                    【やっつけ映画評】15時17分、パリ行き

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                       何気なく借りた2本の映画に、偶然にも濃密な関係性があった、という話を書く。
                       1本はすでに述べた「人生はシネマティック!」。もう1本は「15時17分、パリ行き」だ。以下、「シネマティック」、「パリ」と表記する。


                       「シネマティック」はすでに紹介したように、「ダンケルクの撤退を題材とした映画」を作るという筋立てだ。「ダンケルク」でも描かれているように、英軍の撤退には多くの民間の船が協力している。「ダンケルク」では1隻に代表させているが、実際には何百もの船が活躍した。「シネマティック」では、その中の双子の女性が乗り込んだ漁船を題材にしようとする。「なんと!女性が勇敢にも船に乗って兵隊を何人も救ったらしいぞ」と、政府の情報部局が映画化の可能性を感じ、主人公のカトリンを取材に差し向けるのだが、実態は全くの期待外れだと判明する。双子の姉妹が舟を出したまでは事実だが、途中で故障してしまい、ダンケルクには着いていない。噂だけが独り歩きしてしまい、事実のショボさがバレると恥をかくというので、姉妹は新聞取材はすべて断り、身を隠すように暮らしているくらいだ。

                       

                       これを娯楽映画にするには無理があるから、脚本化にあたっては、あくまで事実をもとにしたフィクションということで、話に尾ひれはひれをつける格好でドラマチックに仕立て上げていく。ダンケルクには着くことにするし、そこでイケメンとのロマンスがあったり、仲間が命を落としたりもする。実際にはイケメンも死者もいない。姉妹はまあまあシニアで、見かけも性格も地味だが、若く美人という設定になる。これが思い切り男目線のステレオタイプに基づいていることはすでに書いた。

                       

                       こういう作業は珍しくないどころか、三国志と三国志演義の関係に代表されるように、事実(歴史)を題材としてフィクション作るときの常套手段とすらいえる。華々しい盛り上がりを付け加えるだけではなく、繁雑な部分を省略することもある。どちらも目的はわかりやすく&「おもしろく」するところにあるだろう。

                       

                       「おもしろく」と「」をつけて表記したのは、おもしろくする脚色の価値観が時代とともに変わっていくからだ。個人的な印象の話に過ぎないが、飾り立てるよりはなるべく事実に即して描くのを重視する、というように実話の扱い方は変わっていったように思う。「シネマティック」の中で、主人公の先輩脚本家たるバックリーは、「おもしろい脚本の定石」を得意気に説諭するが、そこで語られる脚色は、今となっては実に陳腐に聞こえる。一方で「ダンケルクまで行けなかった」というのはそれはそれでむしろ面白いんじゃないか?と思ってしまうのだが、これとて要は、「事実に近い方が面白い」と捉える現代の価値観に俺もしっかりはまっているからだ。

                       

                       この「事実になるたけ沿う」と鼻につくくらい押しつけがましくやっているのがキャスリン・ビグローだと思う。「デトロイト」の項でも書いたが、この監督は、ドキュメンタリー風味の映像で、救いのはない実話を救いのないまま描き、時にエンドマークをつけることすら拒む。むしろドキュメンタリーの方がまとまりをつけようとする分、ちゃんと終わりがあるもので、その点ドキュメンタリーよりも剥き出しの生身の雰囲気が漂うのだが、なんだか過剰にすら映ってしまう。まあ、題材が毎回目を背けたくなるような現実を扱うだからだろうとは思う。
                      で、「パリ」だ。

                       

                       この作品は、パリ行きの列車内で実際に起こったテロ事件を扱っている。閉鎖状況の中で、テロリストとどう対峙するのか、「エグゼクティブ・デシジョン」や「ダイハード」のヒーロー無し版のようなものを想像していたら全然違った。予備知識なしで見たのでびっくらこいた。イーストウッド監督は、ソツなくうまく作る人、くらいに思っていたが、誤解だったようだ。すごい映画だこれは。

                       

                       

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