【やっつけ映画評】ラッカは静かに虐殺されている

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     イスラム国に制圧され犲鹽圻瓩砲覆辰薪垰圓凌諭垢怜綟饋俵譴鯢舛い織疋ュメンタリーだが、見ていて「バタリアン」を思い出した。

     

     コメディ風味のB級ソンビ映画という評も見たことがあるホラーである。本作の内容からすると、不謹慎にも思えてきてしまうが、まあお付き合いを。先にオチも含めて「バタリアン」の内容について。軍がひそかに開発したゾンビが間違って移送されて、というご都合主義な展開から、誤って献体の遺体がゾンビ化し、どうにかとっつかまえて焼却処分したところ、その煙が折からの雨で大地にまき散らされ、墓地の遺体が甦ってしまう。こうして町がゾンビだらけになり、にっちもさっちもいかなくなったところで事態を察知した軍がミサイルを発射。町ごと壊滅させて映画は終わる。

     

     ゾンビから必死に逃げ回っていた登場人物たちもまるごと破壊される何の救いもないラストである。「それしか方法がなさそうな事態だ」ということが描かれてはいるから、まあそうなるよなあと同意しつつ、結局そんなオチかよ、と工夫のなさに呆れつつ、だったように覚えている。それと同時に、核で全滅させてもキノコ雲から黒い雨が降ったら、また墓場の人々が甦るんじゃないか?とも思ったものだった。「核は燃やすんじゃなくて一瞬で蒸発するんだよ(=だから雨が降っても焼却炉の煙とは結果が違う)」と誰かが得意気に講釈を垂れていた記憶がある。小学生だったはずだが、誰がそんな高度な解釈を披露していたのだろう。

     

     以上を前提に本作について。
     序盤で混乱前のラッカが登場する。普通の地方都市といった趣で、人々が平和に暮らしている様子を見せられるが、その後の展開を知っているだけに、見ていて辛く、かつ貴重な記録でもある。この町に、やがてアサド政権の圧政に抗議する政治運動が波及してきて、激化とともに軍の制圧が始まる。投石する人々に軍が発砲し、という場面は「タクシー運転手」を彷彿させる。しかし本作を見ると、光州事件はまだマシだったとついつい思ってしまう。何せ第三の勢力として、もっと残虐な連中が現れるからだ。統治の揺らぎに乗じて、イスラム国がやってくる。

     

     彼らはアサドの圧政からの「解放者」を自称しているが、かつてのドイツにとってのソ連みたいなもので、ナチス政権からの解放者として現れ、代わりに余計にひどい東ドイツを作った。東南アジアにおけるかつての日本軍も解放者を称しつつ、であるから縁遠い現象ではない。とにかく、ラッカを手中に収めたイスラム国は、気に入らない人間をどんどん捕まえて晒し首にしていく(モザイクなしで出てくる)。武器を持った多勢に抗うことは一般人には到底無理だ。でも「服従か死か」の過激で残虐な連中である。白旗を揚げたところで安穏と暮らせるわけでもない。一部の人々は、素人記者としてラッカの様子を撮影し、世界に発信することにする。本作は彼らの戦いを描いている。世界に知れ渡ることで各国首脳が反応し、イスラム国を追い出してもらう、というのが狙いである。

     

     もうそれしか方法がないのだ、というのがまずもっての絶望だ。一定数の武装勢力がいて、政府の統治機能が期待できない状況では、そこで暮らす住民にできることは何もない。イスラム国より強い武器を持った勢力を頼むよりほかはない。ただし周辺国や米英等が腰を上げたところで、対策としては爆撃になる。町は荒廃し、住民も巻き添えになる。これが「バタリアン」を思い出した1つめである。

     

     ネットを使って撮影した写真や動画をアップしていく報道集団の活動は、必然的にイスラム国にも知られることになる。彼らは死刑宣告を受け、実際に仲間やその家族たちが命を落としていくことになる。「我々が勝つか、皆殺しにされるか」という緊張感の中で、ペンは剣よりならぬ、スマホは銃より強しとばかりに彼らはデジタル端末を使ってラッカの実態を告発していく。今春、学生にスマホをテーマにレポート課題をやらせていたが、ほとんどの学生が「スマホのし過ぎによる睡眠不足」や「歩きスマホの危険性」についてまとめていた一方で、こちらは「告発スマホのし過ぎによる晒し首の危険性」だから、言葉を失う。ドキュメンタリーだから現場の音声を全部拾う分、鼻息がやけに聞こえる映画であるが、それがまた緊張感を生んで寒気がするのである。

     

     そうして他国のメディアが取り上げ注目が集まっていくとどうなるかといえば、すでに述べた通りの空爆であるが、当然主人公たちは素直に喜べず、むしろ余計に深刻な顔で頭を抱えることになる。「イスラム国とは人ではなく思想だから、殺しても滅びるわけではない」というのが彼らの考えだ。イスラム国自体が、恐怖の独裁政権を崩壊させたところに出現のきっかけがあるから、指摘は全くその通りである。これが「バタリアン」を思い出したその2で、ミサイルで壊滅させてもまた雨が降って墓場の人々が目覚めるんじゃねえの? いやあ蒸発するから焼却とは、という理屈は核を使用しているわけではないから当てはまらないが、仮に使用して国際政治が認諾したとしても(無理のある仮定だが)、過激派が全部いなくなるとは思えんわね。実際バタリアンも続編が続くのであるが、こちらはただの金の事情。

     

     原題は「CITY OF GHOSTS」。「シティ・オブ・ゴッド」のもじりか。双方人がたくさん死ぬ絶望的な街の話だ。冒頭で「ここはゴーストの街だ」というノローグも出てくるが、ゴーストとは主人公たちがいう殺しても死なない「思想」のことか。それともバカ売れしたラブストーリーがごとく、こちらからは見えているけど手が下せない主人公たちの隔靴掻痒をいうのか、逆に向こうからは見られているが、こちらからは存在が見えない恐怖をいうのか。いずれにせよ、あまりいいタイトルとは思えない。というのも、本作の半分は監督が撮った記者の面々への密着映像だが、半分は彼らRBSS(Raqqa is Being Slaughtered Silently=ラッカは静かに虐殺されている)が撮った映像であり、監督の便情感はどうしても抱いてしまう。その点、本作については邦題の方が正解という気がする。配給にはアマゾンが関わっているようで、これは金のゴーストによる便乗か、それとも売れそうにない作品に手を貸すゴーストなりの矜持か。救いのない内容だけに、脇の話に逸れて終わる。

     

    「CITY OF GHOSTS」2017年アメリカ
    監督:マシュー・ハイネマン


    【やっつけ映画評】タクシー運転手 約束は海を越えて

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       テロリスト気取りが正義の英雄になってしまう「タクシードライバー」とは正反対に、髪型も服装も全く地味で、不当な抑圧に抗議しているだけがテロリスト扱いされて軍から狙われるタクシー運転手の物語である。軍事政権時代は、南北分断と並んで韓国映画で何度も取り上げられているテーマで、いわゆる鉄板だ。この抑圧と抵抗の時代を経たから、韓国民には政治は変えられるという意識が育ったのだとか、誰かがそんなことを言っていた。文在寅をニュースでしょっちゅう見る東アジア情勢であるが、あの大統領からもそんな雰囲気が漂っていて、延命のために不思議な国語を駆使するだけの本邦の内閣の面々とはダイナミックさにずいぶんと差がある。


       こういう差は自ずと社会の成熟度に関わってくるだろうから参ってしまう。毎年春先に担当している某大学の授業には今年も留学生が数名いて、余計なお世話だがほっとする。あまり関心できない留学生の集め方をしている大学もあると聞くし、おそらくそうだろうという大学も実際に見たことがあるが、こちらはかなり厳しい条件をへて入学しているので、全員語学レベルは高い。昨年は日本の学生より日本語の文章が上手い空恐ろしいのが一人いたが、今年はそこまでではなくとも、それでもなかなかのレベルである。わざわざ他所の言葉を覚えて来ようとする若人がいるのはめでたいことだ。

       彼らの中には一見態度が奔放に見えるのもいるのだが、話しかけると総じてやたらと礼儀正しく、ああそうか俺は「先生」だから、彼らの国では「老師」なのかと鏡で白髪をじっと見つめてしまう。このような年長者に礼節を示す若人がいかにも好きそうな連中が、「儒教の国、残念!」みたいな悪口本を書いているのは、党派性がいかにロゴスの不調を生むかという実例だろう。完全に話が逸れた。とにかく彼ら留学生がやってくるのは、この国に学ぶことがあると期待してのことだから、日本も一定以上の成熟国家であるのは間違いない。


       ただし過去の貯金で生きているという清原的感覚は否めず、分野によってはとっくの昔に残高ゼロになっている。その一つの例が映画界だと思う。是枝裕和がカンヌを獲ったとように、優秀な人は無論いるのだが、少なくとも国内では「脇の方にいる風変りな人」の位置に置かれているのが残高ゼロと評す所以である。大金が動く中央大通りの幅が狭い。

       


      半分でやめた。

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         思い切り途中からなのだが、なんとなく「半分、青い。」を見たら面白くて録画して見続けていた。東京篇になって興味が薄れてしまい、その後はあまり見ていない。
         興味を持ったのは、主人公の年齢設定が俺の兄と同じで、つまり同世代の懐かしさというのがまずある。どうやら自分が生きていた時代は、現在との連続性の中で生きていた分、今とあまり大差ないように受け止めてしまう傾向があるようで、見始めた当初は「こんな古臭かったっけ」と思ったものだった。だが、よくよく振り返るとあんなものだったように思う。友人の「ブッチャー」の髪型なんかはなかなか絶妙で、ああいう出来損ないのLAST GIGSみたいな髪型をしていた男子は多かった。俺もおおむねあんな具合だった。

         というような、言われてみればあんなんだったという感覚に惹きつけられたのが入口だった。こういう現代史的な舞台設定は、なまじっか「時代を象徴するもの」を知っている分、あれこれ盛り込みたくなるのだが、しばしば鼻について制作者の狙いほど共感できなかったり逆効果になることもある。共感する/しないに大きく作用するのは、個々人の個人史だと思うので、作り手側にしてみればしったこっちゃあないのだが、たっぷり調べて控え目に使用するというのがコツなのだろうと思う。


         特に懐かしく感じたのは地域の豊かさといえばいいのか、その点だ。例えば主人公は就職先が決まった後、近所で知り合いのおばちゃんが営んでいるテーラーでスーツをしたてる。これはイタリア製だからいいものよ、などと言いながらおばちゃんは試着を見てウエストをもう少し搾った方がいいなどと調整するのであるが、モノを買うときに、近所に個人経営の専門店があって、品ぞろえは大したことがないのだが、扱っているものはまあまあ上質で融通も利く、という世界は、少なくとも地方都市ではもはや失われた景色だ。都会のごく一部だけで残っているくらいではないだろうか。

         俺はこのドラマと同じく地方都市の産で、このドラマと違って商店街がある歴史的な町ではない昭和の新興住宅地の育ちであるが、それでも個人商店の類は当時たくさんあった。飲食と美容室の残存率は高いが、それ以外の業種はほとんど消えた。彼らがもっていたささやかな市場を、大手のチェーンが全部さらっていった格好だ。それを望んだのは商店主以外の地域住民で、住宅地だとその傾向はより強くなるよね。そうしてこのドラマの主人公たちが大人になって、新自由主義的な価値観を強く支持していくから、律くんたちはこの商店街がつぶれていくことにやがて賛同していくことになるのだろうと想像すると見ていてツラいものがある。

         

         この律くんという男子は、東大がDやE判定で、それで京大にすると言いだすので、おいおい受からんぞと冷や冷やしたが、結局東京の私立に行くことになった。実家は地方のプチブルで、洋館風の内装をした家に上品なナリをした父母がいる。「地方にこんなやついるか」というネット上の感想を見、ちょっと前にはこんな記事が話題になっていた。この記事の筆者も、「地方にこんな金持ちいるかよ」と、同じような感想を抱きそうだが、俺の感覚では当時こういう家は地方にもいくらもいたと思う。

         実家の近所にも、目立って豪邸というわけではないが、自家用車はドイツ車、くらいの家はあった。所得と学力には特段相関関係はうかがえず、大して勉強できないのもいたし、妙に出来たのもいた。「マクドナルド」と言われても何のことかさっぱりわからないくらい「(当時の)都会的なもの」とはとんと縁のないまちだったが、豊かな社会を生きていたのだろうと思う。

         

         さきほどの記事は大いに賛否を読んだようだが、文化格差の部分は俺も昔から感じていたことである。このドラマでいうと、律くんのような若者が、進学で東京にいくか京都にいくかと考えるのは、俺自身にも身に覚えのある選択で、こうしてふるさとを離れた人も実際大量にいたわけだが、一方で主人公のように「漫画家を志して東京に行く」という地方在住の18歳は、ちっともピンとこない。そういう人もすくなからずいたろうし、大学進学者よりは少ないだろうから当たり前ともいえるのだけど、都市部の在住者に比べ「そういう発想自体を持てるかどうか」はかなり差があるとは思う。

         主人公も、たまたま憧れの漫画家に会う機会があったから、その道に進むという選択肢が見えたわけで、つまりそのような機会や可能性との距離が、リアリティを持てるかどうかに大きくかかわるのである。

         

         というわけで、東京篇にはさして興味が持てず、主人公があのまま農協に就職して、傍ら家でマンガを描き続け・・・、という展開だと今も怠りなく録画していたと思う。
         


        【やっつけ映画評】マルクス・エンゲルス

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           鑑賞のためスカイビルにある映画館に行ったところ、結構な数の観光客がいた。中華系以外も多数いてかなり人気のようだ。いずれも展望台目当てなのだが、「エレベーター乗り場は3F」と表示があるものの、3F行きのエスカレーターは、吹き抜けを登っていくため実質2階がなく、最初に現れる床が2階なのか3階なのかわかりにくい。結果、間違えて4階まで行き「???」となる人々も少なくなく、目の合った何人かとは身振り手振りで教えてやった。せめて韓国人くらいには、「あっちだよ」くらいの超カタコト韓国語を披露したいと欲張ったが何も出てこなかった。

           それで本作を見たら、登場人物たちによる多言語が飛び交うこと飛び交うことのフライボール革命。いや、本作の主人公を考えると革命という言葉を軽く使うと危ういか。とにかくマルクスなど「英語勉強しなきゃなあ」と言っているうちに、場面が変わるとやたらと流暢に喋る上「イギリス人風にいえばhand in gloveさ」と、慣用句まで使いやがる。やんなっちゃうねえ。


           原題「若きカール・マルクス」の通り、30になるかならんかくらいまでのマルクスが主人公の伝記モノだ。実在の画家や音楽家の伝記映画は珍しくないが、哲学者というのは「ハンナ・アーレント」以来。あちらはひたすらタバコ吸いながら難しい話をし続ける内容だったが、本作は議論だけでなく、労働者にぶん殴られたり官憲に追い回されたりと、なかなかエキサイディングだ。
           おそらく左翼運動華やかりしころを生きた人々にとっては、青年期のビートルズかローリング・ストーンズの伝記映画でも見ている気分なんだろうと想像しながら見た。有名なエピソードを映像で再現しているところにニヤリとしつつ、「何だ、知ってる話しか出てねーじゃんかよ」とか「あの話は省略かよ」とかボヤきつつ。そんなことを感じたのは、マルクス単独の話というよりエンゲルスとのバディものみたいになっているからで、その辺りがバンドを連想させたのだろう。見終わって、やけにワインが飲みたくなったが、微妙に体調がすぐれなかったのでぶどうジュースで誤魔化した。似て非なるものだった。


           ちょうど仕事で産業革命についてさも知ったように説明してきた帰りだったので、マンチェスターの紡績工場がスクリーンにどーんと出てくる様子は圧倒された。やがて共産主義を生み出すことになる資本主義の矛盾が、肌感覚で伝わってくる様子は興味深い。そのような社会問題を前に、ジャーナリスティックに2人が行動していくので、劇映画が成立する。その点、哲学者が主役の映画というよりは、「ペンタゴン・ペーパーズ」に近い。実際マルクスは新聞で書いてたし。ついでにマルクスが必要以上に喧嘩腰で相手を批判する結構面倒ななヤツなのだが、その辺りはシャーロック的でもある。

           

           映画は、共産党宣言を著す場面がクライマックスとなっているが、あの文章の妙な力強さの雰囲気は映画の中にもよく出ていると思う。マルクスの他の著作もそうだが(というほど読んでないが)、やたらと力強い。漢文的な洋式的修辞法かつ、演説のようなアジテーションもありつつ、現実や学識も押さえている。要するに物凄く頭がいいのだろうと思う。シャーロック的振舞いになるのも、その頭脳明晰さによるのだろう。

           

           映画はここで閉幕するため、その後彼らが仕上げた共産主義が怪物になる様子は描かれない。エンドロールには、抵抗運動を中心とする歴史映像が使われているが、暴力的な社会主義指導者は登場しない。このため、その後の恐怖政治化の検証もなく顕彰しかないのは今更だという批判も成立する。一応、論的を叩き潰さないと気が済まないマルクスの態度とか、総会でかなり強引に看板のすげ替えを実行するエンゲルスの振舞いとか、その後の共産主義団体が歩む萌芽は見て取れなくもない。元気のいい若者を、おっさん連中が面白がって好きにさせたら足元救われた、というのも社会主義国の建国史にもみられる現象である。まあ何主義であろうと政治はそんなものだが。

           

           ただ、共産主義が全体主義になるという批判もすでに今更なところはあって、その崩壊をとっくに人類は目の当たりにしている。どちらかといえば、本作で描かれていることは、古くてかつタイムリーな内容になっているというのが、少なくとも日本においては当てはまる。

           高プロの旗を振っている経済団体の面々と、本作に登場する工場の経営者はぴったりと重なって見える。時計の逆回し現象であるが、労働行政がなかったころの人間と、とっくにある時代の人間が同じことをいっているのだから、低賃金長時間労働でないと経営が成り立たないと自ら無能を吐露しているトホホ度合は増している勘定になる。そうするとマルクスみたいに喧嘩腰でモノを言うしかない気はしてくる。冒頭、森で木の枝を拾うのは窃盗かという問いが出てくるが、水道民営化をした国では雨水も企業の所有になったから遠い昔の話ではない。こうなってしまうと、そりゃ暴れるしかないよ下々のみなさんたる我々は。必要以上に噛み付く15の夜的彼の態度に、やむかたなしと妥当性を皮膚感覚として感じれてしまう我らが社会の現在地点がやるせない作品でもある。


          「Le jeune Karl Marx」2017年フランス=ドイツ=ベルギー
          監督:ラウル・ペック
          出演:アウグスト・ディール 、シュテファン・コナルスケ、ヴィッキー・クリープス


          【やっつけ映画評】ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書

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             今度はこのおじさんが主人公(の一人)の作品。蝶ネクタイ姿だが話のわかるいい上司という、蝶ネクタイに対する己の偏見を再確認させられる「大統領の陰謀」の重要な脇役だ。本作では普通のネクタイ姿である。一方他の登場人物で蝶ネクタイの男がいたが、こちらは算盤勘定で主人公側に異を唱える役どころ。元の木阿弥、蝶ネクタイはヤなやつに再び収まるの巻であった。


             かの上司ベン・ブラッドリーは、なぜあんなに腹が据わった様子で若い2人を全面的に後押しできたのか。それがわかる気がしながら本作を見ていた。要するに内容としては「大統領の陰謀:エピソードゼロ」だと感じていたのが、ラストがまさしくそうなっていて、いやはや実にシビれた。まるで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような終わり方だが、「続く」の先は40年前の映画なのだから、30年前にタイムスリップするあの作品を超えている。ラストの意味がわからず「続編があるのか?」と思った人は、あるにはあるが午前10時の映画祭かBS日テレくらいでしか上映(放送)の機会はないのと思うでご注意を。


             本作でのワシントン・ポストは「特ダネ」を抜かれる側だ。ベトナム戦争についての政府の嘘を裏付ける機密文書をスクープしたのはニューヨーク・タイムズで、ポストはこの時点で煙の一筋もつかんでいない。エース記者の姿が最近見えないので「何か掴んでいるのでは」と探りを入れるセコいことまでやっている。それもむべなるかなポストの立ち位置は「地方紙」で、人も足りなければ金もない。オフィスの様子もどことなく辛気臭い。「陰謀」ではすっかりモダンな赤いデスクになっているが、家具を買い換えられる前の物語だ。


             抜かれたら抜き返せ、とばかりにここからポストの反撃が始まるのだが、本作は新聞記者の物語でありつつ、意外なことに取材のシーンはあまりない。問題の文書を手に入れる過程はスリリングに描かれてはいるが、逆に言えばそれくらい。じゃあほかは何かといえば、報道するかしないかの判断が物語の主軸となっている。もう少し格好よく言えば、敵はライバル大手紙ではなく、ニクソン政権の横暴ないしは歴代政権の欺瞞なのである。

             

             先にスクープしたタイムズは、国家機密の漏洩を理由に発行停止の処分をくらってしまった。抜き返すチャンスといえばそうだけど、追随すればポストも同じ目に遭う危険性がある。もしそうなると、株式上場をしたばかりという不安定な経営基盤が一気に崩れ去るかもしれない。だけど日和見で記事をひっこめれば、何人かの記者は退職すると息巻いている。


             この難局に立たされた、お嬢様育ちで気のいいだけが取り柄、だけに見える女社長がもう一人の主人公だ。場面が切り替わって彼女が登場するたび晩餐会か昼食会ばかりしているような人が、「殺伐」がアイデンティティのような男社会臭のきつい新聞社の社長を務めているのが面白い。「女=か弱い」という古典的偏見をなぞっているだけでなく、世襲の弊害をも体現しているような、そんな人に見えるのを見事に裏切ってくるからだ。

             

             政権を揺るがす記事と、会社の経営の二項対立は、外野からは「書くべし」以外答えのない、わかりきった問題に見える。ただし本作で何度か描かれる編集部門以外の人々の作業を見ていると、それも結構な思い上がりに思えても来る。活版の職人が版を組んで印刷機にかけ、仕上がった新聞を輸送部門の人がトラックに積み込み配送する。新聞は情報産業でありつつ、装置産業でもある。印刷や配送のいわゆるブルーカラーの人々にとって、紙面の内容はどれほど興味のあるものなのか。

             印刷屋での勤務経験がある身からすると、社長に限らず、業界の人は総じて印刷内容には全く目がいかず、刷りやすいか刷りにくいかでしか見ていないものだった。推測するに、売れる記事なら大歓迎、会社がつぶれる記事は御免被るといったところか。戦争に絡む記事なので身近に従軍者がいる場合は話はまた別かもしれないが、とにかくこの場面を見ていると、編集は会社の一部門に過ぎないことがよくわかる。同時に、ブラッドリーは所詮その一部門の責任者でしかなく、社長とは背負っているものの大きさがまるで違うことが明白だ。

             


            【やっつけ映画評】カティンの森

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               「残像」が妙に印象に残ったので、同じ監督の著名な作品を見ることにした。監督の名前で作品を選ぶことは俺はあまりしない。大変に楽しんだ作品を見た後、同じ監督の別作品を漁った経験は少ない。なのになぜか、といえば「残像」は作品が面白かったというよりは、何が面白いのかよくわからないが見入ってしまった映画で、そこに監督の怨念のようなものが渦を巻いていると思ったからだ。要するに、ワイダという人が気になったのである。


               タイトル通り、この事件をテーマにしている。名前は有名だが、森で人がたくさん虐殺されて埋められた事件、くらいの乏しい認識しかなく、勉強がてら見た部分もあるが、事件そのもののシーンがないまま残された家族たちの場面が続いていくところが面白い。これは「森で人がたくさん虐殺されて埋められた」という出来事なんだな、と強く再認識した。

               

               第二次世界大戦は、ドイツがポーランドに侵攻したところから始まる。同時に不可侵条約を結ぶソ連もポーランドに攻め入り、分割状態になった。冒頭、ドイツに追われて東へ逃げる民衆が、東から逃げてきた人々と橋の上で出くわす。状況が端的にわかる非常に印象的な場面である。

               

               そうしてポーランド軍兵士は捕虜になり、移送の途中でソ連軍に1万人以上(兵士以外も含む)が虐殺される。この蛮行を暴くのが悪の権化であるはずのナチス・ドイツだから話がややこしい。ついでに犯人側のソ連が最終的にはドイツを破り、ポーランドの牴鯤者瓩箸靴得鏝紊旅餡髪娠弔亡悗錣辰討るから、もひとつややこしい。

               

               映画は、この虐殺で犠牲になった将校の妻を中心に、その家族や生き延びた戦友ら、何らかの形で事件の被害者となった人々が入れ替わり立ち替わりして進んでいく。群像劇のようであるが、あの手法は、様々な登場人物がやがて交差し物語を盛り上げていくのが常なるところ、本作の場合、各自の生きざま死にざまをただ並べただけのような格好になっていて、話が見事に転がっていくというような展開は特にない。というわけで、ひどく散漫で退屈な内容に見えた人もいるだろう。

               

               だけど、事件を起こした側が被害者の国に、この後半世紀弱君臨するわけだから胸のすく物語は期待しようがないのは「残像」と同じだ。

               ここで描かれているのは、ある事実を国家が改竄したときに、何が失われるのかということだと思う。終盤で登場するあの無駄死ににしか見えない青年の暴走〜死が象徴的だ。いかにも若い命を粗末に散らし過ぎに見えて呆れてしまいそうになるが、それだけのことをもたらすということだ。彼以外にも命を散らしたり、自暴自棄になったりする人がいる一方で、膝を屈して生き残りを選ぶ人もいる。共通しているのは、「希望」が失せたということだ。あったものをないと言い出すと、あるべきものも消えるんだなというのがよくわかる。「この人誰だったっけ?」と、途中で混乱してしまうくらい、さして物語を転がすわけでもない総じて脇役っぽいあまたの登場人物のそれぞれの崩壊が生々しく、いちいち深入りしない描き方の分、こちらの感情移入が少ないだけまだ見ていられる。とてもつらい映画だ。

               

               生々しく感じるのは、虐殺の場面が出てこない演出によってリアルタイムな雰囲気が出ているからだろう。各登場人物は誰もその場面を見ていない。確かなことは待ち人が戻らいということと、伝聞で知るおぞましい事件について口にするとその後恐ろしいことになるということだけ。このもどかしさが臨場感を与えている。

               


              【やっつけ映画評】残像

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                 芸術家が2時間、兵糧攻めに遭う物語だ。東西冷戦下、ソ連の属国状態にあるポーランドで、体制に与することをよしとしない反骨の画家兼大学教授が、やがて地位も仕事も絵具も奪われ追い詰められていく。
                 同じ時期、敵方であるアメリカでも、映画脚本家が東側のスパイといわれて仕事を奪われている。この「トランボ」と、本作はおおまかには似たような内容だ。海を挟んで対峙する共産主義国家と反共産主義国家で似たようなことが行われているのは皮肉である。反中国しか思想のない人が中国共産党的独裁政権を好んだり、「北朝鮮との話し合い」と聞くと発狂する人の主張が北朝鮮的先軍政治になっていたりするのと同じような構造である。
                 しかし「トランボ」がどうにか糧道を確保し生き延びる痛快な話なのに対し、本作はまったくもって小田原城だから、実に重苦しい内容となっている。ソ連がいつ崩壊するのかを考えれば、時代設定(1950年代)からいって主人公の戦いに救いがないのは冒頭から容易に予想がつく。ストーリーに特段起伏があるわけでもない。ハッピーエンドが期待できない地味で重苦しい映画。それでも最後まで惹きつけてしまうのは、これぞ世界的監督の力量か。どうしてこんなことが可能なのか、少しはわかったふりをしたいところだが、正直さっぱりわからない(タイトルに相応しく、色彩が印象的で映像に惹きつけられるから??)。同時代を同じく芸術家として生きた監督自身の怨念のなせる業か。だとすれば、二重に重い。これが遺作になってるし。
                 ポーランドは、周囲の強国に幾度となく食い物にされる悲劇的な歴史を歩んでいる。第2次世界大戦でもドイツとソ連に攻め込まれ、ドイツ敗戦後にはソ連の傀儡政権が樹立された。鬼が去ったら別の鬼がやってきた格好で、前にも書いたが、この辺りの歴史を「映像の世紀」なんかで見るととても陰鬱な気分になる。映画は戦後まだ間もない1948年から始まっている。

                 本作の主人公ストゥシェミンスキが、トランボと違って食扶持を確保できないのは、トランボが業界団体につまみ出されたのに対して、ストゥシェミンスキの場合は国家に弾かれるからだ。抜け道がない。トランボも、あれはあれで息苦しくなる話だったが、容赦のなさでは本作の方がはるか上をいく。
                 トランボをつま弾いたのは、マッカーシーという1人の議員の妄言によって、強制されたわけでもないのに社会全体のムードが形成されていったからである。これは大変に気持ちの悪い現象だが、ムードではなく、国家の制度運用によって閉め出されてしまうのは「気持ち悪い」をはるかに通り越して、絶望と恐怖しかない。イメージ通りの共産主義国家とはいえるが、この場合は全体主義といった方が正確だろう。トランボと対立する人々が総じて敵意丸出しだったのに対し、ストゥシェミンスキの敵方である役人は、紳士的な鷹揚ささえ見せるほど余裕ぶっこいて見えるのも、この仕上がった全体主義システムがあるからこそなのか。改めて、国家というのはいくらでも恐ろしい枠組みになりえるのだと実感させられる。
                 トランボが生きるために「宇宙船が現れて、そのうちおっぱいボヨヨーン」というようなくだらない脚本を書いたのと同様、ストゥシェミンスキも金のための仕事をやろうとする(抽象画家は実は写実画も上手いというズッコイ真実がまたここでも見られる)。だが、国のシステムから排除されてしまっているので途中でクビになったり給与がもらえなかったりする。最初から警告に従って膝を屈していればこんな目には遭わずに済んだのでは、という批判は一応成立するが、まあできないだろうね。会社員でも「嫌な仕事」レベルのものはさて置き、自分の良心に反する仕事はさすがに気を病むもので、画家のように自分の名前で勝負していれば尚更だ。そもそもなぜ当局に目をつけられたのかを考えると、言いつけ通り従順になるのは難しい相談である。言いつけを守ったところで安泰が確保されるわけでもない。何かにつけて同じようなことが蒸し返される可能性は容易に想像できる。
                 このことはつまり、そこまで強大なシステムが、なぜ一介の画家兼大学教授に過ぎないストゥシェミンスキを恐れるのだろうかという問いに尽きる。

                【やっつけ映画評】ザ・シークレットマン

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                   「大統領の陰謀」の反対側を描く物語。要するに、このおじさんのお話である。

                   原題はこの人の名前そのまんま。アメリカ映画では、こういう「半沢直樹」的タイトルは割と多いが、それだと意味がわかりにくいせいか、日本だと「徳川家康」「武田信玄」のように歴史上の人物以外でこういう題をつける習慣がないからか、大抵は差し替えられる(「ランボー」=原題First bloodのような逆のケースも稀にある)。それだったら邦題は、まんま「ディープ・スロート」でいいんじゃないかとも思ったが、同名のエロ映画があるからNGか。というか、そのエロ映画があだ名の由来だけど。登場人物のワイシャツの襟先が軒並みツンツン鋭角に尖っているのがまぶしい作品である。

                   

                   「大統領の陰謀」で強烈な存在感を放つ情報提供者「ディープ・スロート」が主人公で、題材も当然ウォーター・ゲート事件だ。「陰謀」での主人公だったウッドワードも超脇役ながら登場する(あと、「陰謀」では名前しか登場しない事件関係者も若干名登場する)。夜の立体駐車場が両作の交差点だが、これだけで「キターーー!」と気分が昂揚する。そして、「陰謀」よりもリアルに、いかにも会社連泊が続いてそうなヨレヨレのシャツ姿の若者が現れるのを見て、なぜだか目頭が熱くなった。40過ぎてこの方、涙腺の感覚がすっかりおかしい。この、同じような場面が別視点から再生される様子は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」あたりのタイムパラドックスものを思い起こさせる。

                   

                   本作のテーマは、「官僚」とは何ぞや、だろう。「ロシアゲート」などとウォーターゲートになぞらえた疑惑が指摘されているトランプ関連のニュースを見れば、なぜ本作が制作されたのかは想像力を働かせるまでもない。そして本邦にとってもタイムリーな内容だ。
                   主人公のマーク・フェルトは、「陰謀」では、「素性も理由もよくわからないがヒントをくれる人」でしかないが、それもそのはずで、作品公開当時はまだ謎の人物のままだったから、これしか描きようがない。フェルトが死の直前に名乗り出たことで明らかになり、本作はその自伝をもとにしている。「高度な情報を知りえるそれなりの立場の男」というくらいは「陰謀」でも想像がつくが、実際にはFBIの副長官だったというから、それなりの立場どころか首脳である。

                   

                   こういう人が情報をリークしてくる意図は、私怨か世論形成のどちらかと相場が決まっているものだが、フェルトにはどちらも当てはまる。前任の長官がいなくなり、新長官として周囲も当確をささやく中、よそから落下傘的に別の人間が抜擢され、その上フェルトとは考え方が合わない。合わないどころか、完全に大統領側の人間なので、捜査の幕引きを画策してくる。長官がこうだから、副長官が抵抗しようと思えば報道を動かすのは定石ともいえよう。ただし国家公務員としては禁じ手である。本作では機密情報をダダ漏らしているように見えるが、「陰謀」ではヒントをほのめかす具合に描かれている。おそらく後者の方が実態には近いだろう。とにかく捜査の話が新聞にドーンと掲載されるから、部内では当然「漏洩した裏切り者を探せ」ということになり、それと同時に事件潰しは着々と進行する。展開は割に地味だが、この緊迫感に惹き込まれた。

                   

                   ニクソン大統領がFBIに介入しようとしたのは、前任者の存在が大きい。創設者にして長期独裁を敷いたJエドガー・フーバー長官は、歴代大統領の醜聞を収集して主導権を握る陰湿な人だった。この辺りは「Jエドガー」でも描かれている(同性愛の恋愛劇と出来の悪い老けメイクばかり印象に残っているが)。捜査機関が自身の情報収集能力を濫用しているような格好だから、官僚の暴走といってよい。彼の退場とともに、ニクソンがFBIに首輪をつけようと考えたのは必然だろう。

                   

                   これは好意的に解釈すれば、軍隊のシビリアンコントロールみたいなもので、強大な権限を持つ国家機関を野放しにしておくわけにはいかず、国民全体の奉仕者として適切に管理されなければならない。
                   とはいえ一方で、全てが大統領の下にあるのは、これはこれでいかがなものかという実例が本作の扱っている出来事でもある。己が関与した犯罪の捜査にストップをかけることができてしまっては正義はどこにあるというのか。ニクソン自身、官僚の暴走を防ぐというような崇高な考えのもと首輪をかけにきたのではなく、もっとわかりやすい理由に基づくものだというのは、冒頭、前長官の秘密資料を「よこせ」と言ってくる時点でまるわかりである。

                   

                   本作の8割以上は、「大統領だろうが誰だろうが犯罪は犯罪として捜査し立件する」という捜査機関の独立性をめぐるフェルトの奮闘が描かれている。じゃあ残りの2割弱は何かといえば、これは後で触れる。


                   


                  【やっつけ映画評】スリー・ビルボード

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                     娘をレイプのうえ殺された母親が、道路脇の立て看板3枚に「捜査はどうなってる」と警察を挑発するような意見広告を載せるところから始まる物語だ。住民全員が顔見知りのようなアメリカのド田舎で、クセの強い登場人物たちが入れ替わり立ち替わりして展開していく。印象的な導入だが犯人捜しのミステリではない。意外な展開が目立つが、トリック仕立てがメインディッシュの物語というわけでもない。ネジのはずれたようなキャラが目立つが、ドタバタのサイコホラーでもない。むしろ文学的な作品だった。終わったときは正直「?」となったが、後からじわじわ感じ入るところが出てきた。とはいえやはりわからないことも多い。

                     

                     劇中、相手からバレバレのヒントを出されているのに「すんません全然わかりません」と大ボケをかますギャグのようなシーンがあるが、俺はこの人物を嗤えない。おそらく何かの意味があるのだろう、思わせぶりな舞台装置は色々あったように思うが、そのほとんどは意味がわからず、気づけてもいない部分も少なくないだろう。その点で「裏切りのサーカス」を思い出した。

                     

                     あの映画は、「諜報部員の中に裏切り者がいる」という謀略モノの王道のような設定ながら、容疑者が最初から限られているので誰が「モグラ」であってもあまり驚きがなく、ミステリ要素にそれほど魅力があるわけではない。どちらかといえば、ハードボイルド的といえばいいのか、諜報員たちの生きざま死にざまが見せる重量感を楽しむ作品だと思うが、ただし、伏線は見事に貼っている、らしい。二回見たけど、よくわかんなかった。

                     

                     とはいえ本作の舞台は、英国諜報員のエリートたちの高そうなスーツや高そうな学歴や高度な政治的駆け引きとは全く無縁だ。何も楽しくなさそうな田舎町で、登場人物も総じてロクでもない。田舎の閉じた殺伐とした雰囲気が「ウインターズ・ボーン」と似ている。あの窒息しそうな雰囲気に比べれば、本作はまだカラっとしているが、かの物凄い迫力の刀自とカブる登場人物が本作には2人も出てくる(個人的にはネジのはずれたような十九の女子が最も不気味に感じたが)。

                     

                     看板を立てたことが物議を醸し、時間が止まったような田舎町に波風が立つ。それどころか物凄いスピードで各登場人物を取り巻く状況も変化していく。この予測のつかない展開が現しているのは、人は変わるということだと思う。変わったわけではなく、元からあった内面が表に出ただけかもしれないが(広告屋のにいちゃんは明らかにそう)、主人公格の娘を殺された母親と、差別的な警官はかなり大きな変化――それもよい方に――を見せている。一定の年齢に達した人間はそうそう変化するものではない上、まるで時間が止まったような田舎町でのことだから、余計にこの変化は感動的で、本作の一番の見どころはこの辺りだと思うのだが、変化をもたらしたものは、はて何だろう。

                     

                     直接的には途中で届く3通の手紙だ。そしてこの手紙をもたらした原因をさかのぼると3枚の立て看板にたどり着く。つまり看板が差出人に変化をもたらして手紙を生み、この手紙が登場人物たちを変えていくわけだ。共通点は何かといえば、直接相手に語り掛けている点だ。

                     

                     手紙はそもそも誰か個人が別の誰か個人に語り掛けるものだ。一方で看板は不特定多数に訴える装置だが、この物語の場合は個人名をあげて訴えている。お陰で中傷だと思われてトラブルになるのだが、少なくとも名指しされた当人にとっては手紙のようなものだろう。これに対して本作に登場するテレビ報道は実に扱いが軽い。報道はマスメディアの名の通り、不特定多数に発信するものでありかつ、しばしば「差出人」の主体が曖昧な伝達装置でもある(「今後の行方が注目されます」のような受身形の定型句がその代表的な現れ)。なので手紙のような好ましい変化はもたらさず、騒動に油を注ぐ程度である。

                     

                     ということを踏まえながらさてラストである。
                     


                    【やっつけ映画評】デトロイト

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                       この監督の作品を見るのはこれで3作目。「ハート・ロッカー」で一躍有名になってからしか存じ上げないが、いずれも重いテーマな上、神も仏もないありさま(と拷問)をドキュメンタリー風味で描くから、見るのは腰が引ける。寒さのせいか、気分がすぐれず何もはかどらないので見に行った。殺伐としすぎていて、逆説的に「元気がもらえる」かもしれんと考えたのだが、さてどうだったろう。自分でもよくわからん。どうもこの監督は、俺にとって興味深いテーマを、俺にとっては好きじゃない具合に仕上げる。

                       

                       警察官による黒人射殺がテーマだ。今でもよくニュースになっていて後を絶たない。最近はスマホ普及のおかげで、警察側の正当防衛主張が大嘘とわかる映像が明るみに出ることもあるが(にしても警官は無罪になるボーンインザUSA)、ということは昔からそうだったんだろうなと思わされる。本作は「昔からそうだった」の実話だ。

                       

                       1967年にデトロイトで起きた暴動の最中、モーテルの窓から黒人青年がふざけて陸上のスタート用ピストルを撃ったことで、発砲と誤解した市警察がモーテルになだれ込んでくる。宿泊客は全員壁に立たされ、「銃はどこだ」「知らねえ」ボコッ、「撃ったのは誰だ」「俺じゃねえ」ボコッ、の特別公務員暴行陵虐罪が延々と続く。暴動取締の応援に来ていたと思しき州警察の警官が「人権侵害がひどすぎる」とドン引きするほどだ(そしてその良心派警官が厄介事に巻き込まれたくないと目を逸らす地獄絵図)。

                       

                       市警の警察官が過度に暴力的に振舞うのは、彼ら猴撞深圻瓩黒人だからだ。嘘つきの犯罪者に違いないという思い込みと、隙を見せると殺されるという恐怖心に因るのだろう。いずれも大元にあるのは差別だが、警官たちは、汚い侮蔑の言葉を吐く等の直截的な差別的言動を誰もとらない点(嘲笑するシーンは少しあるが)が説得力を生んでいる。彼らは(内心は黒人を蔑んでいたとしても)職務に忠実なだけのつもりなのだと思う。なので話が複雑になる。まあ差別の話は毎度そうだ。結果、半世紀前の話ながら、五十年一日状態で今に直結している格好になる。監督がこの古い話を持ち出してきた理由もその辺りにあるのだろう。今やる意気込みは、先日NHKがやっていた赤報隊の番組と同じで、その心意気は素晴らしい。

                       

                       示唆に富む場面はいくつかある。主犯格の警察官は、序盤で暴行に乗じた窃盗犯を射殺しているが、合理的理由が全くない状況での発砲なので、さすがに上司も咎めてくる。だが面倒くさいのか、適当に理由をでっち上げて黙殺する。結局彼を不問に付したことが、より大きな事件につながっていくわけだ。たがが緩む、というのはこういうことなんだな。特に警察は権限と銃を与えられているから、暴動という特殊な状況下でも、原理原則四角四面は重要なのだ。

                       

                       現場近くで勤務する警備員のディスミュークスは、警察官に職質を受ける黒人のなだめ役のような立ち回りを普段からしているように描かれている。このため「お前は白人の犬かよ」と罵られるが、反発するより生き抜くことを選べと諭す。この頼れる男っぽい大人なキャラクターのディスミュークスも、この事件の現場では出る幕がない。黒人たちを救おうと隙間を見つける努力はいくつかするが、立場上警察側に立たざるを得ないし、状況も不用意な行動を許さない。要するに傍観者になってしまう。結果、彼には皮肉な運命が待ち受ける。不正を傍観すると、やがては自分に返ってくるということだ。じゃあどうすればいいのかといわれると、さっぱり何もわからないから難しい。正義を貫こうとした人物は射殺されたしで。

                       

                       このように、問題提起の多い作品だが、救いのない実話を扱っているだけに、内容は救いがない。変にどこかでスカっとさせる演出を入れると途端に説得力がなくなるだろうから、制作側の狙いからいってもこういう物語になるだろう。

                       それでも、見た人に差別について考えてもらうというメッセージ性からすると、はて効果的なのだろうかとは考えた。

                       

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