【やっつけ映画評】再会の食卓

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     台湾映画ではなく中国の制作だが、テーマは中台の分断である。
     国民党の兵隊として上海から台湾に退却させられた夫・劉燕生と、上海に遺された妻・玉娥。生き別れた2人はそれぞれの地で新たに家庭を築くが、劉が妻に先立たれたのと台湾海峡両岸の雪解けが進んで訪中が可能になったことが重なり、劉が上海の玉娥宅を訪れるところから物語が始まる。実のところ劉は玉娥を台湾に連れて行こうと考えているのだが、玉娥には長年連れ添った夫・陸善民がいるのだった。

     

     分断という歴史の大きな出来事を、個人レベルに焦点を当てる着想は個人的には好物だ。爺さん婆さんの三角関係という構図も面白いし、分断が横たわる分、迫るものがある。なにせ生き別れ当時玉娥のお腹にいた子供が、すっかり禿げあがっているのだ。こんな残酷なことあるかえ。自分も薄毛だからって、禿頭のことを言っているのではない念のため。抑制のきいた演技、特に最も気分が揺れているはずの玉娥の表情が大して変わらないところも、小津映画のような雰囲気を生んでいると同時に迫るものがある。「あの頃〜」のようなライトな台湾ラブストーリーを見た後だから余計に。

     

     ただし、映画は割と拍子抜けする格好で終わる。まず拍子抜けするのは現夫の陸だが、これは拍子抜けというより腰が抜けた、むしろとても面白い展開だと思った。劉のリスタートの思惑に玉娥も惹かれ同意する。しかし陸が何と言うか。いざ切り出そうとすると、実に人のよい陸のいい面がにわかに目についてとても言い出せない(名は体を表す)。そこで劉が意を決して切り出すと、陸は「ええよ」。ええんかい。まるでスリムクラブの漫才だ。あっさり同意する陸の態度は人格がおかしいようにも見えるが、だからこそ分断の時代を経験した年寄りにしかわからない感覚に見えて、これもまた胸を打たれた。

     

     拍子抜けはこの後で、タイトルの割には食事のシーンがあまり印象に残らない上メタファー的な機能も薄かったことと、結局何の変化もないことだ。前者については、同じ「食卓もの」の「恋人たちの食卓」の料理が実に美味そうだったから余計に目についた。だけど後者については、別のことも考えた。

     

     「ええよ」と陸の同意は得たものの、その後いろいろあって、結局劉も玉娥も当初の計画を断念し、劉は一人上海を後にすることになる。結局、中途半端に玉娥の心を揺さぶっただけで何だか可哀想なのであるが、劉や陸にはこれといって変化がなくただの元の木阿弥に見える。また、当初から我関せずの態度を取る玉娥の長男(つまり陸一家の中で唯一劉の血を引く子)は、最後まで劉に心を閉ざしたままで好転もなければ悪化もない。

     

     これを描き方が浅いとくさすのは簡単なのだが、もしかすると中国制作の映画では、この政治的にデリケートなテーマを描くのはこれが限界なのではと思った。そしてさらに深読みすると、上海に残ることに同意したとはいえ未練たっぷりに劉と涙の別れをする玉娥と、諦めを漂わせながら去っていく劉は、大陸と台湾、それぞれのありさまに重なって見えなくもない。
     大陸側は「1つの中国」にこだわり、台湾側は「中国」であることを捨て「台湾」としての独自路線を進もうとする、その政治状況と彼ら元夫婦の姿は割と似ている。だとすると、中国でこんな危なっかしい映画を作った監督の姿勢はにわかに挑戦的に見えてくるのである。

     

    「團圓」2009年中国
    監督:王全安
    出演:盧燕、凌峰、許才根


    【やっつけ映画評】恋人たちの食卓

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       邦題のせいだろう。特に期待せずに見たのだが、とても面白かった。主人公(?)の女優・呉倩蓮が池上季実子に似ていると思いながら見ていたが、そのうち満島ひかりに見えてきた。彼女が80年代風の髪型と化粧をしたらこんな具合になりそう。特に似ているとも思えない2人の女優が呉氏を真ん中に置くとグラデーションでつながる。


       冒頭の料理のシーンから釘付けになる。台湾のかの有名な圓山大飯店で料理長を務めていたという設定の父親が、自宅の台所で宮廷料理的な豪華な中華を調理している姿がテンポよく描かれる。妙に楽しいシーンだ。でかい包丁を細かく扱う器用さに代表されるように、中華は豪快なようで繊細で、そこが映像向けなのかもしれん。宮廷料理っぽいせいか、工程がやけに多く複雑で、そこもまた惹き込まれる。

       

       この引退したシェフ・朱は、妻を亡くした頑固おやじで、年頃の娘三人と同居している。週末は四人でこの豪華料理を囲むのがルールのようで、三人娘のそれぞれの平日の悲喜こもごもが同時並行で進みつつ、定期的に食いきれない豪華な晩餐になる。「三姉妹」がデカい家に同居している点と長女と次女が勝気な点で「海街diary」を思い出した。「小津安二郎のような」という評も目にしたが、あれらの作品と異なり、意外なことにやけに展開が早い。冒頭の調理シーンと同じくスピーディで、そこが本作の大きな魅力だと思う(長女が決意の変貌を遂げるシーンなんか最高)。小津というより、地味にまとめていると見せかけて結構ぶっとんでいる点、川島雄三だと思った。


       家族というのは、特に親が保守的な場合、ルーティンの比重が高い。子供たちが大人になり人格が確立してくると、個人の人生と家族のルールがぶつかりあってくるからそのうち煩わしくなる。とはいえ、こういう家庭の親は家族に対する責任はきちんと果たすから、自身が自身の選択だけで生きて行こうとするのには多少なりとも罪悪感が伴ってくる。特にこの家庭の場合、母親はすでに亡く、父は高齢だから尚更だ。
       

       そういう立ち位置を最も表しているのが、すでに紹介した池上ひかりこと次女の家倩だ。「キャリアウーマン」という言葉がまだ空洞化していないころ、つまり女性の社会進出がまだ新しかったころに男に伍して敏腕ぶりを発揮する優秀な女性で、最初に「家を出ようと思う」と切り出すのも必然に見える。それがどんどん裏切られる展開になっていくわけであるが、男系の色合いが濃い社会では、女性の場合、「結婚する」は「家を出る」と同義であるところがポイントだ。一見時間が止まったような家族だが、結婚によって大きく変動していく。

       

       子供にとっては家族は世界同様、最初からあるものだ。次女の視点に立てば、途中で下に妹が生まれ、母が死去する変化はあったものの、絶対的ともいえる父親がいて、煩わしい姉がいることには子供のころから変わりがない。だから煩わしいと感じると同時に切っても切れない自己存在の確認の場でもあるわけだが、親にとっては自分一人から始まり、伴侶を得て娘が一人ずつ増えていく格好になる。家族はあくまで一つの段階であって、所与の世界ではない。結婚によって家族の構成が大きく変動する中で、父親も一つの決心をするのは自然といえば自然だ。その選択が驚愕のどんでん返しなので家族モノのくせにミステリのような風合いが漂う。「ショックで気を失う」というのは映画やドラマでおなじみの演出ながら、はじめて説得力を感じる卒倒を見た気がした。それくらいのドンデンだった。

       

       こうして父と娘たちそれぞれが自分の道を進み出し、すっかり時間が止まったようだった4人の食卓を終焉を迎える。そういった中で家倩がラスト付近で見せる涙と選択が、家族と食卓(=それまで暮らしてきた家)の関係性をよく表していると思う。面々は誰も死んでいないし、遠くに行ったわけでもないから家族自体は相変わらず存在しているのであるが、今までの食卓がここにあり、これからもあることの意味は、実に煩わしくも憎たらしくもあり、そして同時に美しくもあり愛おしくもある。

       

      「飲食男女」1994年台湾
      監督:アン・リー
      出演:郎雄、楊貴媚、呉倩蓮


      【やっつけ映画評】セデック・バレ

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         レンタル屋にないので見るのが難しい台湾映画の大作だ。結局図書館の世話になった。昨今、映像作品を所蔵している図書館は珍しくなくなってきているが、レンタル屋には置いていないソフトをきちんと所蔵しておくというのは図書館の役割として重要なんだなあと、普段DVDの蔵書は検索すらしたことがなかったので余計にそう感じた。パブリックってのは、僕らの財産すよ。


         「海角七號」の監督が、大ヒットで得た金をつぎ込んで、一転して超ハードな作品を仕上げた格好なのが本作だ。実に理想的なやり方じゃないか。「海角」にしろ本作にしろ、その後制作に携わる「KANO」にしろ、日本統治時代の好きな人のようで、全部「日本」が関わっている。そしていずれも長い。「海角」は130分だけど、内容がユルいドタバタなので長く感じた。「KANO」は3時間。そして本作の場合、2部作構成(実質的に前後編)で、いずれも2時間超だから、合計5時間近くある。自然の景色が凄く綺麗な映像と、戦争が絡むあたり、同じく迷惑なくらい長尺の「アラビアのロレンス」と似ている。そして「ロレンス」も、いってしまえば異郷の人々とわかり合えない物語で、本作もしかり。長い。重い。図書館しか在庫を抱えないのも必然とはいえそう。台湾では大ヒットだったそうだけど。

         

         日本の統治時代を台湾側から描いた作品といえばそうなのだが、漢民族はあまり登場しない。本作の主人公の名はモーナ・ルーダオで、陳さんや張さんではない。いわゆる原住民族で、実際にその血を引く人々が演じているそうだが、全体的に顔つきが濃く、独自の言葉を話し、農耕民族ですらない。監督は漢族系の人で、彼ら原住民についてあまりちゃんとは知らなかったというから、帝国主義時代の被支配地域で作られた映画とはいえ朝鮮半島のようなシンプルな構図ではない。

         

         その原住民たちが植民してきた日本人たちと対立して虐殺事件を起こす。霧社事件と呼ばれる実在の事件が本作のテーマだ。前編(太陽旗)が事件に至るまで。後編(虹の橋)がその後という構成だが、長尺の中で複雑な絡み合いをするような話ではまったくなく、割と単純な物語である。それがここまで長いのはひとえに監督の好奇心を強く押し出しているからだろう。民俗を描いたようなシーンがかなりの割合を占め、セデック族のPVのような感もある。映像的にはかなり魅力的ではあるが、少々しつこさも感じる。今踊ってる場合ちゃうやろと言いたくなる場面とか、何度「虹の橋」と言えば気が済むのかとか、画面に向かってつっこんでしまう部分も無きにしも非ずだった。

         

         裏を返せばそれだけ価値観が違う人々だといえる。価値観というより時間の感覚や死生観など何もかもが違うといっていい。この蜂起〜虐殺も彼らにとっては儀式の側面が強いのではないか。なので切迫した場面で踊り出したり同じ言葉を何度も言ったりするように思う。ここで描かれているのは、帝国主義的支配/被支配や、強者による弱者の弾圧といった構図ではなく、文明の衝突のようなものではないだろうか。

         

         こういう中で興味深い登場人物が、モーナのライバルであるタイモ・ワリスだ。

         


        台湾映画あれこれ

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           台湾映画をいくつか立て続けに見た。これまで「KANO」くらいしか見たことがなかったのは、興味云々というよりは、そもそも視界に入ってきた作品が限られているからで、要するによく知らないせいだ。なので「おすすめ10本!」のようなヤワなサイトから作品名を調べるこことなった。

           そうして次にわかったのは、日本で見れる台湾映画にはかなりの制限があるという事実で、同じアジアでも韓国映画に比べるとレンタル屋に置いている確率がぐっと落ちる。確認したサイトは、洋画に例えれば1位に「タイタニック」が来ているような超初心者向けだと思うのだが、その10本すらままならない。レンタル屋の閉店が目立って進められている昨今、これはいよいよネット配信サービスの登録かと思ったのだが、そこでも見られないのがあれやこれやの様子。一応日本版DVDの販売はあるのだが、レンタルだの配信だのの市場には乗っかっていないというのは、これはノンフィクションの導入になりそうな一つの発見である。
           そうこうしていくつかは見れた、そのうちの感想をいくつか。

          【やっつけ映画評】ラッカは静かに虐殺されている

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             イスラム国に制圧され犲鹽圻瓩砲覆辰薪垰圓凌諭垢怜綟饋俵譴鯢舛い織疋ュメンタリーだが、見ていて「バタリアン」を思い出した。

             

             コメディ風味のB級ソンビ映画という評も見たことがあるホラーである。本作の内容からすると、不謹慎にも思えてきてしまうが、まあお付き合いを。先にオチも含めて「バタリアン」の内容について。軍がひそかに開発したゾンビが間違って移送されて、というご都合主義な展開から、誤って献体の遺体がゾンビ化し、どうにかとっつかまえて焼却処分したところ、その煙が折からの雨で大地にまき散らされ、墓地の遺体が甦ってしまう。こうして町がゾンビだらけになり、にっちもさっちもいかなくなったところで事態を察知した軍がミサイルを発射。町ごと壊滅させて映画は終わる。

             

             ゾンビから必死に逃げ回っていた登場人物たちもまるごと破壊される何の救いもないラストである。「それしか方法がなさそうな事態だ」ということが描かれてはいるから、まあそうなるよなあと同意しつつ、結局そんなオチかよ、と工夫のなさに呆れつつ、だったように覚えている。それと同時に、核で全滅させてもキノコ雲から黒い雨が降ったら、また墓場の人々が甦るんじゃないか?とも思ったものだった。「核は燃やすんじゃなくて一瞬で蒸発するんだよ(=だから雨が降っても焼却炉の煙とは結果が違う)」と誰かが得意気に講釈を垂れていた記憶がある。小学生だったはずだが、誰がそんな高度な解釈を披露していたのだろう。

             

             以上を前提に本作について。
             序盤で混乱前のラッカが登場する。普通の地方都市といった趣で、人々が平和に暮らしている様子を見せられるが、その後の展開を知っているだけに、見ていて辛く、かつ貴重な記録でもある。この町に、やがてアサド政権の圧政に抗議する政治運動が波及してきて、激化とともに軍の制圧が始まる。投石する人々に軍が発砲し、という場面は「タクシー運転手」を彷彿させる。しかし本作を見ると、光州事件はまだマシだったとついつい思ってしまう。何せ第三の勢力として、もっと残虐な連中が現れるからだ。統治の揺らぎに乗じて、イスラム国がやってくる。

             

             彼らはアサドの圧政からの「解放者」を自称しているが、かつてのドイツにとってのソ連みたいなもので、ナチス政権からの解放者として現れ、代わりに余計にひどい東ドイツを作った。東南アジアにおけるかつての日本軍も解放者を称しつつ、であるから縁遠い現象ではない。とにかく、ラッカを手中に収めたイスラム国は、気に入らない人間をどんどん捕まえて晒し首にしていく(モザイクなしで出てくる)。武器を持った多勢に抗うことは一般人には到底無理だ。でも「服従か死か」の過激で残虐な連中である。白旗を揚げたところで安穏と暮らせるわけでもない。一部の人々は、素人記者としてラッカの様子を撮影し、世界に発信することにする。本作は彼らの戦いを描いている。世界に知れ渡ることで各国首脳が反応し、イスラム国を追い出してもらう、というのが狙いである。

             

             もうそれしか方法がないのだ、というのがまずもっての絶望だ。一定数の武装勢力がいて、政府の統治機能が期待できない状況では、そこで暮らす住民にできることは何もない。イスラム国より強い武器を持った勢力を頼むよりほかはない。ただし周辺国や米英等が腰を上げたところで、対策としては爆撃になる。町は荒廃し、住民も巻き添えになる。これが「バタリアン」を思い出した1つめである。

             

             ネットを使って撮影した写真や動画をアップしていく報道集団の活動は、必然的にイスラム国にも知られることになる。彼らは死刑宣告を受け、実際に仲間やその家族たちが命を落としていくことになる。「我々が勝つか、皆殺しにされるか」という緊張感の中で、ペンは剣よりならぬ、スマホは銃より強しとばかりに彼らはデジタル端末を使ってラッカの実態を告発していく。今春、学生にスマホをテーマにレポート課題をやらせていたが、ほとんどの学生が「スマホのし過ぎによる睡眠不足」や「歩きスマホの危険性」についてまとめていた一方で、こちらは「告発スマホのし過ぎによる晒し首の危険性」だから、言葉を失う。ドキュメンタリーだから現場の音声を全部拾う分、鼻息がやけに聞こえる映画であるが、それがまた緊張感を生んで寒気がするのである。

             

             そうして他国のメディアが取り上げ注目が集まっていくとどうなるかといえば、すでに述べた通りの空爆であるが、当然主人公たちは素直に喜べず、むしろ余計に深刻な顔で頭を抱えることになる。「イスラム国とは人ではなく思想だから、殺しても滅びるわけではない」というのが彼らの考えだ。イスラム国自体が、恐怖の独裁政権を崩壊させたところに出現のきっかけがあるから、指摘は全くその通りである。これが「バタリアン」を思い出したその2で、ミサイルで壊滅させてもまた雨が降って墓場の人々が目覚めるんじゃねえの? いやあ蒸発するから焼却とは、という理屈は核を使用しているわけではないから当てはまらないが、仮に使用して国際政治が認諾したとしても(無理のある仮定だが)、過激派が全部いなくなるとは思えんわね。実際バタリアンも続編が続くのであるが、こちらはただの金の事情。

             

             原題は「CITY OF GHOSTS」。「シティ・オブ・ゴッド」のもじりか。双方人がたくさん死ぬ絶望的な街の話だ。冒頭で「ここはゴーストの街だ」というノローグも出てくるが、ゴーストとは主人公たちがいう殺しても死なない「思想」のことか。それともバカ売れしたラブストーリーがごとく、こちらからは見えているけど手が下せない主人公たちの隔靴掻痒をいうのか、逆に向こうからは見られているが、こちらからは存在が見えない恐怖をいうのか。いずれにせよ、あまりいいタイトルとは思えない。というのも、本作の半分は監督が撮った記者の面々への密着映像だが、半分は彼らRBSS(Raqqa is Being Slaughtered Silently=ラッカは静かに虐殺されている)が撮った映像であり、監督の便情感はどうしても抱いてしまう。その点、本作については邦題の方が正解という気がする。配給にはアマゾンが関わっているようで、これは金のゴーストによる便乗か、それとも売れそうにない作品に手を貸すゴーストなりの矜持か。救いのない内容だけに、脇の話に逸れて終わる。

             

            「CITY OF GHOSTS」2017年アメリカ
            監督:マシュー・ハイネマン


            【やっつけ映画評】タクシー運転手 約束は海を越えて

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               テロリスト気取りが正義の英雄になってしまう「タクシードライバー」とは正反対に、髪型も服装も全く地味で、不当な抑圧に抗議しているだけがテロリスト扱いされて軍から狙われるタクシー運転手の物語である。軍事政権時代は、南北分断と並んで韓国映画で何度も取り上げられているテーマで、いわゆる鉄板だ。この抑圧と抵抗の時代を経たから、韓国民には政治は変えられるという意識が育ったのだとか、誰かがそんなことを言っていた。文在寅をニュースでしょっちゅう見る東アジア情勢であるが、あの大統領からもそんな雰囲気が漂っていて、延命のために不思議な国語を駆使するだけの本邦の内閣の面々とはダイナミックさにずいぶんと差がある。


               こういう差は自ずと社会の成熟度に関わってくるだろうから参ってしまう。毎年春先に担当している某大学の授業には今年も留学生が数名いて、余計なお世話だがほっとする。あまり関心できない留学生の集め方をしている大学もあると聞くし、おそらくそうだろうという大学も実際に見たことがあるが、こちらはかなり厳しい条件をへて入学しているので、全員語学レベルは高い。昨年は日本の学生より日本語の文章が上手い空恐ろしいのが一人いたが、今年はそこまでではなくとも、それでもなかなかのレベルである。わざわざ他所の言葉を覚えて来ようとする若人がいるのはめでたいことだ。

               彼らの中には一見態度が奔放に見えるのもいるのだが、話しかけると総じてやたらと礼儀正しく、ああそうか俺は「先生」だから、彼らの国では「老師」なのかと鏡で白髪をじっと見つめてしまう。このような年長者に礼節を示す若人がいかにも好きそうな連中が、「儒教の国、残念!」みたいな悪口本を書いているのは、党派性がいかにロゴスの不調を生むかという実例だろう。完全に話が逸れた。とにかく彼ら留学生がやってくるのは、この国に学ぶことがあると期待してのことだから、日本も一定以上の成熟国家であるのは間違いない。


               ただし過去の貯金で生きているという清原的感覚は否めず、分野によってはとっくの昔に残高ゼロになっている。その一つの例が映画界だと思う。是枝裕和がカンヌを獲ったとように、優秀な人は無論いるのだが、少なくとも国内では「脇の方にいる風変りな人」の位置に置かれているのが残高ゼロと評す所以である。大金が動く中央大通りの幅が狭い。

               


              半分でやめた。

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                 思い切り途中からなのだが、なんとなく「半分、青い。」を見たら面白くて録画して見続けていた。東京篇になって興味が薄れてしまい、その後はあまり見ていない。
                 興味を持ったのは、主人公の年齢設定が俺の兄と同じで、つまり同世代の懐かしさというのがまずある。どうやら自分が生きていた時代は、現在との連続性の中で生きていた分、今とあまり大差ないように受け止めてしまう傾向があるようで、見始めた当初は「こんな古臭かったっけ」と思ったものだった。だが、よくよく振り返るとあんなものだったように思う。友人の「ブッチャー」の髪型なんかはなかなか絶妙で、ああいう出来損ないのLAST GIGSみたいな髪型をしていた男子は多かった。俺もおおむねあんな具合だった。

                 というような、言われてみればあんなんだったという感覚に惹きつけられたのが入口だった。こういう現代史的な舞台設定は、なまじっか「時代を象徴するもの」を知っている分、あれこれ盛り込みたくなるのだが、しばしば鼻について制作者の狙いほど共感できなかったり逆効果になることもある。共感する/しないに大きく作用するのは、個々人の個人史だと思うので、作り手側にしてみればしったこっちゃあないのだが、たっぷり調べて控え目に使用するというのがコツなのだろうと思う。


                 特に懐かしく感じたのは地域の豊かさといえばいいのか、その点だ。例えば主人公は就職先が決まった後、近所で知り合いのおばちゃんが営んでいるテーラーでスーツをしたてる。これはイタリア製だからいいものよ、などと言いながらおばちゃんは試着を見てウエストをもう少し搾った方がいいなどと調整するのであるが、モノを買うときに、近所に個人経営の専門店があって、品ぞろえは大したことがないのだが、扱っているものはまあまあ上質で融通も利く、という世界は、少なくとも地方都市ではもはや失われた景色だ。都会のごく一部だけで残っているくらいではないだろうか。

                 俺はこのドラマと同じく地方都市の産で、このドラマと違って商店街がある歴史的な町ではない昭和の新興住宅地の育ちであるが、それでも個人商店の類は当時たくさんあった。飲食と美容室の残存率は高いが、それ以外の業種はほとんど消えた。彼らがもっていたささやかな市場を、大手のチェーンが全部さらっていった格好だ。それを望んだのは商店主以外の地域住民で、住宅地だとその傾向はより強くなるよね。そうしてこのドラマの主人公たちが大人になって、新自由主義的な価値観を強く支持していくから、律くんたちはこの商店街がつぶれていくことにやがて賛同していくことになるのだろうと想像すると見ていてツラいものがある。

                 

                 この律くんという男子は、東大がDやE判定で、それで京大にすると言いだすので、おいおい受からんぞと冷や冷やしたが、結局東京の私立に行くことになった。実家は地方のプチブルで、洋館風の内装をした家に上品なナリをした父母がいる。「地方にこんなやついるか」というネット上の感想を見、ちょっと前にはこんな記事が話題になっていた。この記事の筆者も、「地方にこんな金持ちいるかよ」と、同じような感想を抱きそうだが、俺の感覚では当時こういう家は地方にもいくらもいたと思う。

                 実家の近所にも、目立って豪邸というわけではないが、自家用車はドイツ車、くらいの家はあった。所得と学力には特段相関関係はうかがえず、大して勉強できないのもいたし、妙に出来たのもいた。「マクドナルド」と言われても何のことかさっぱりわからないくらい「(当時の)都会的なもの」とはとんと縁のないまちだったが、豊かな社会を生きていたのだろうと思う。

                 

                 さきほどの記事は大いに賛否を読んだようだが、文化格差の部分は俺も昔から感じていたことである。このドラマでいうと、律くんのような若者が、進学で東京にいくか京都にいくかと考えるのは、俺自身にも身に覚えのある選択で、こうしてふるさとを離れた人も実際大量にいたわけだが、一方で主人公のように「漫画家を志して東京に行く」という地方在住の18歳は、ちっともピンとこない。そういう人もすくなからずいたろうし、大学進学者よりは少ないだろうから当たり前ともいえるのだけど、都市部の在住者に比べ「そういう発想自体を持てるかどうか」はかなり差があるとは思う。

                 主人公も、たまたま憧れの漫画家に会う機会があったから、その道に進むという選択肢が見えたわけで、つまりそのような機会や可能性との距離が、リアリティを持てるかどうかに大きくかかわるのである。

                 

                 というわけで、東京篇にはさして興味が持てず、主人公があのまま農協に就職して、傍ら家でマンガを描き続け・・・、という展開だと今も怠りなく録画していたと思う。
                 


                【やっつけ映画評】マルクス・エンゲルス

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                   鑑賞のためスカイビルにある映画館に行ったところ、結構な数の観光客がいた。中華系以外も多数いてかなり人気のようだ。いずれも展望台目当てなのだが、「エレベーター乗り場は3F」と表示があるものの、3F行きのエスカレーターは、吹き抜けを登っていくため実質2階がなく、最初に現れる床が2階なのか3階なのかわかりにくい。結果、間違えて4階まで行き「???」となる人々も少なくなく、目の合った何人かとは身振り手振りで教えてやった。せめて韓国人くらいには、「あっちだよ」くらいの超カタコト韓国語を披露したいと欲張ったが何も出てこなかった。

                   それで本作を見たら、登場人物たちによる多言語が飛び交うこと飛び交うことのフライボール革命。いや、本作の主人公を考えると革命という言葉を軽く使うと危ういか。とにかくマルクスなど「英語勉強しなきゃなあ」と言っているうちに、場面が変わるとやたらと流暢に喋る上「イギリス人風にいえばhand in gloveさ」と、慣用句まで使いやがる。やんなっちゃうねえ。


                   原題「若きカール・マルクス」の通り、30になるかならんかくらいまでのマルクスが主人公の伝記モノだ。実在の画家や音楽家の伝記映画は珍しくないが、哲学者というのは「ハンナ・アーレント」以来。あちらはひたすらタバコ吸いながら難しい話をし続ける内容だったが、本作は議論だけでなく、労働者にぶん殴られたり官憲に追い回されたりと、なかなかエキサイディングだ。
                   おそらく左翼運動華やかりしころを生きた人々にとっては、青年期のビートルズかローリング・ストーンズの伝記映画でも見ている気分なんだろうと想像しながら見た。有名なエピソードを映像で再現しているところにニヤリとしつつ、「何だ、知ってる話しか出てねーじゃんかよ」とか「あの話は省略かよ」とかボヤきつつ。そんなことを感じたのは、マルクス単独の話というよりエンゲルスとのバディものみたいになっているからで、その辺りがバンドを連想させたのだろう。見終わって、やけにワインが飲みたくなったが、微妙に体調がすぐれなかったのでぶどうジュースで誤魔化した。似て非なるものだった。


                   ちょうど仕事で産業革命についてさも知ったように説明してきた帰りだったので、マンチェスターの紡績工場がスクリーンにどーんと出てくる様子は圧倒された。やがて共産主義を生み出すことになる資本主義の矛盾が、肌感覚で伝わってくる様子は興味深い。そのような社会問題を前に、ジャーナリスティックに2人が行動していくので、劇映画が成立する。その点、哲学者が主役の映画というよりは、「ペンタゴン・ペーパーズ」に近い。実際マルクスは新聞で書いてたし。ついでにマルクスが必要以上に喧嘩腰で相手を批判する結構面倒ななヤツなのだが、その辺りはシャーロック的でもある。

                   

                   映画は、共産党宣言を著す場面がクライマックスとなっているが、あの文章の妙な力強さの雰囲気は映画の中にもよく出ていると思う。マルクスの他の著作もそうだが(というほど読んでないが)、やたらと力強い。漢文的な洋式的修辞法かつ、演説のようなアジテーションもありつつ、現実や学識も押さえている。要するに物凄く頭がいいのだろうと思う。シャーロック的振舞いになるのも、その頭脳明晰さによるのだろう。

                   

                   映画はここで閉幕するため、その後彼らが仕上げた共産主義が怪物になる様子は描かれない。エンドロールには、抵抗運動を中心とする歴史映像が使われているが、暴力的な社会主義指導者は登場しない。このため、その後の恐怖政治化の検証もなく顕彰しかないのは今更だという批判も成立する。一応、論的を叩き潰さないと気が済まないマルクスの態度とか、総会でかなり強引に看板のすげ替えを実行するエンゲルスの振舞いとか、その後の共産主義団体が歩む萌芽は見て取れなくもない。元気のいい若者を、おっさん連中が面白がって好きにさせたら足元救われた、というのも社会主義国の建国史にもみられる現象である。まあ何主義であろうと政治はそんなものだが。

                   

                   ただ、共産主義が全体主義になるという批判もすでに今更なところはあって、その崩壊をとっくに人類は目の当たりにしている。どちらかといえば、本作で描かれていることは、古くてかつタイムリーな内容になっているというのが、少なくとも日本においては当てはまる。

                   高プロの旗を振っている経済団体の面々と、本作に登場する工場の経営者はぴったりと重なって見える。時計の逆回し現象であるが、労働行政がなかったころの人間と、とっくにある時代の人間が同じことをいっているのだから、低賃金長時間労働でないと経営が成り立たないと自ら無能を吐露しているトホホ度合は増している勘定になる。そうするとマルクスみたいに喧嘩腰でモノを言うしかない気はしてくる。冒頭、森で木の枝を拾うのは窃盗かという問いが出てくるが、水道民営化をした国では雨水も企業の所有になったから遠い昔の話ではない。こうなってしまうと、そりゃ暴れるしかないよ下々のみなさんたる我々は。必要以上に噛み付く15の夜的彼の態度に、やむかたなしと妥当性を皮膚感覚として感じれてしまう我らが社会の現在地点がやるせない作品でもある。


                  「Le jeune Karl Marx」2017年フランス=ドイツ=ベルギー
                  監督:ラウル・ペック
                  出演:アウグスト・ディール 、シュテファン・コナルスケ、ヴィッキー・クリープス


                  【やっつけ映画評】ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書

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                     今度はこのおじさんが主人公(の一人)の作品。蝶ネクタイ姿だが話のわかるいい上司という、蝶ネクタイに対する己の偏見を再確認させられる「大統領の陰謀」の重要な脇役だ。本作では普通のネクタイ姿である。一方他の登場人物で蝶ネクタイの男がいたが、こちらは算盤勘定で主人公側に異を唱える役どころ。元の木阿弥、蝶ネクタイはヤなやつに再び収まるの巻であった。


                     かの上司ベン・ブラッドリーは、なぜあんなに腹が据わった様子で若い2人を全面的に後押しできたのか。それがわかる気がしながら本作を見ていた。要するに内容としては「大統領の陰謀:エピソードゼロ」だと感じていたのが、ラストがまさしくそうなっていて、いやはや実にシビれた。まるで「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のような終わり方だが、「続く」の先は40年前の映画なのだから、30年前にタイムスリップするあの作品を超えている。ラストの意味がわからず「続編があるのか?」と思った人は、あるにはあるが午前10時の映画祭かBS日テレくらいでしか上映(放送)の機会はないのと思うでご注意を。


                     本作でのワシントン・ポストは「特ダネ」を抜かれる側だ。ベトナム戦争についての政府の嘘を裏付ける機密文書をスクープしたのはニューヨーク・タイムズで、ポストはこの時点で煙の一筋もつかんでいない。エース記者の姿が最近見えないので「何か掴んでいるのでは」と探りを入れるセコいことまでやっている。それもむべなるかなポストの立ち位置は「地方紙」で、人も足りなければ金もない。オフィスの様子もどことなく辛気臭い。「陰謀」ではすっかりモダンな赤いデスクになっているが、家具を買い換えられる前の物語だ。


                     抜かれたら抜き返せ、とばかりにここからポストの反撃が始まるのだが、本作は新聞記者の物語でありつつ、意外なことに取材のシーンはあまりない。問題の文書を手に入れる過程はスリリングに描かれてはいるが、逆に言えばそれくらい。じゃあほかは何かといえば、報道するかしないかの判断が物語の主軸となっている。もう少し格好よく言えば、敵はライバル大手紙ではなく、ニクソン政権の横暴ないしは歴代政権の欺瞞なのである。

                     

                     先にスクープしたタイムズは、国家機密の漏洩を理由に発行停止の処分をくらってしまった。抜き返すチャンスといえばそうだけど、追随すればポストも同じ目に遭う危険性がある。もしそうなると、株式上場をしたばかりという不安定な経営基盤が一気に崩れ去るかもしれない。だけど日和見で記事をひっこめれば、何人かの記者は退職すると息巻いている。


                     この難局に立たされた、お嬢様育ちで気のいいだけが取り柄、だけに見える女社長がもう一人の主人公だ。場面が切り替わって彼女が登場するたび晩餐会か昼食会ばかりしているような人が、「殺伐」がアイデンティティのような男社会臭のきつい新聞社の社長を務めているのが面白い。「女=か弱い」という古典的偏見をなぞっているだけでなく、世襲の弊害をも体現しているような、そんな人に見えるのを見事に裏切ってくるからだ。

                     

                     政権を揺るがす記事と、会社の経営の二項対立は、外野からは「書くべし」以外答えのない、わかりきった問題に見える。ただし本作で何度か描かれる編集部門以外の人々の作業を見ていると、それも結構な思い上がりに思えても来る。活版の職人が版を組んで印刷機にかけ、仕上がった新聞を輸送部門の人がトラックに積み込み配送する。新聞は情報産業でありつつ、装置産業でもある。印刷や配送のいわゆるブルーカラーの人々にとって、紙面の内容はどれほど興味のあるものなのか。

                     印刷屋での勤務経験がある身からすると、社長に限らず、業界の人は総じて印刷内容には全く目がいかず、刷りやすいか刷りにくいかでしか見ていないものだった。推測するに、売れる記事なら大歓迎、会社がつぶれる記事は御免被るといったところか。戦争に絡む記事なので身近に従軍者がいる場合は話はまた別かもしれないが、とにかくこの場面を見ていると、編集は会社の一部門に過ぎないことがよくわかる。同時に、ブラッドリーは所詮その一部門の責任者でしかなく、社長とは背負っているものの大きさがまるで違うことが明白だ。

                     


                    【やっつけ映画評】カティンの森

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                       「残像」が妙に印象に残ったので、同じ監督の著名な作品を見ることにした。監督の名前で作品を選ぶことは俺はあまりしない。大変に楽しんだ作品を見た後、同じ監督の別作品を漁った経験は少ない。なのになぜか、といえば「残像」は作品が面白かったというよりは、何が面白いのかよくわからないが見入ってしまった映画で、そこに監督の怨念のようなものが渦を巻いていると思ったからだ。要するに、ワイダという人が気になったのである。


                       タイトル通り、この事件をテーマにしている。名前は有名だが、森で人がたくさん虐殺されて埋められた事件、くらいの乏しい認識しかなく、勉強がてら見た部分もあるが、事件そのもののシーンがないまま残された家族たちの場面が続いていくところが面白い。これは「森で人がたくさん虐殺されて埋められた」という出来事なんだな、と強く再認識した。

                       

                       第二次世界大戦は、ドイツがポーランドに侵攻したところから始まる。同時に不可侵条約を結ぶソ連もポーランドに攻め入り、分割状態になった。冒頭、ドイツに追われて東へ逃げる民衆が、東から逃げてきた人々と橋の上で出くわす。状況が端的にわかる非常に印象的な場面である。

                       

                       そうしてポーランド軍兵士は捕虜になり、移送の途中でソ連軍に1万人以上(兵士以外も含む)が虐殺される。この蛮行を暴くのが悪の権化であるはずのナチス・ドイツだから話がややこしい。ついでに犯人側のソ連が最終的にはドイツを破り、ポーランドの牴鯤者瓩箸靴得鏝紊旅餡髪娠弔亡悗錣辰討るから、もひとつややこしい。

                       

                       映画は、この虐殺で犠牲になった将校の妻を中心に、その家族や生き延びた戦友ら、何らかの形で事件の被害者となった人々が入れ替わり立ち替わりして進んでいく。群像劇のようであるが、あの手法は、様々な登場人物がやがて交差し物語を盛り上げていくのが常なるところ、本作の場合、各自の生きざま死にざまをただ並べただけのような格好になっていて、話が見事に転がっていくというような展開は特にない。というわけで、ひどく散漫で退屈な内容に見えた人もいるだろう。

                       

                       だけど、事件を起こした側が被害者の国に、この後半世紀弱君臨するわけだから胸のすく物語は期待しようがないのは「残像」と同じだ。

                       ここで描かれているのは、ある事実を国家が改竄したときに、何が失われるのかということだと思う。終盤で登場するあの無駄死ににしか見えない青年の暴走〜死が象徴的だ。いかにも若い命を粗末に散らし過ぎに見えて呆れてしまいそうになるが、それだけのことをもたらすということだ。彼以外にも命を散らしたり、自暴自棄になったりする人がいる一方で、膝を屈して生き残りを選ぶ人もいる。共通しているのは、「希望」が失せたということだ。あったものをないと言い出すと、あるべきものも消えるんだなというのがよくわかる。「この人誰だったっけ?」と、途中で混乱してしまうくらい、さして物語を転がすわけでもない総じて脇役っぽいあまたの登場人物のそれぞれの崩壊が生々しく、いちいち深入りしない描き方の分、こちらの感情移入が少ないだけまだ見ていられる。とてもつらい映画だ。

                       

                       生々しく感じるのは、虐殺の場面が出てこない演出によってリアルタイムな雰囲気が出ているからだろう。各登場人物は誰もその場面を見ていない。確かなことは待ち人が戻らいということと、伝聞で知るおぞましい事件について口にするとその後恐ろしいことになるということだけ。このもどかしさが臨場感を与えている。

                       

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