映画の感想:RBG 最強の85才

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     ドキュメンタリー映画としてはあまりいい出来ではないと思う。ミュージシャンのドキュメンタリーでよく用いられる、当人を知る周囲の人々の称賛的証言を切り貼りつないだようなスタイル。ミュージシャンの場合は薬で死んだり金で揉めたり、大抵こういうダメ人間な部分も描かれるから称賛部分が中和されるが、本作の主人公RBGことルース・ベイダー・ギンズバーグはまったくもって立派な人なので顕彰礼賛要素でほとんどが占められる格好となっている。

     

     でもまあいいんじゃないかな。変な言い方だが、それでバチは当たらんと思うわ。

     

     9人いるアメリカの連邦最高裁判事のうちの1人で、かつ女性の権利拡大に尽力した法律家を題材としている。権利拡大というよりは、女性の権利の平準化とでもいう方が正しい。元からあるものを大きくしたわけではなく、そこにあるはずなのに見らんふりされているものを「ある」と言った爐世鵜瓩覆里如


     本作では「特別扱いを求めているわけではない。私の足を踏みつけているその足をどけろ」という言葉で表現されているが、これと似たようなセリフが「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」にも出てくる。「特別扱いは求めていない。同等の敬意が欲しいだけ」。ルースが女性差別的な法制度と裁判で闘い出す時期と、あの男女対抗テニス試合が開催される時期は概ね同じころである。

     

     このルースは、単に功績を残した法律家というだけでなく、世間からの注目度も高い。特に若い衆を中心に人気がある(一方で、いつ何が起こっても不思議ではない高齢なので、オバマ政権下で引退しなかったことを批判されてもいる。今空席になってしまうと、彼女の信念とは正反対の人をトランプが指名するのは不可避だからだ)。

     なので本作を見てまず思うのは、法律家が法律分野の功績において人気を博しているという事実だ。日本で人気のある法律家がいたとして、「法律の解説がわかりやすい」くらいが今のところ関の山。基本的には法律とはあまり関係のない部分による人気の方が一般的で、その代表例が「茶髪」だから、なんじゃそりゃである。加えて最高裁判事って今誰だよって話でもある。国民審査は「制度としてあるだけまだマシ」程度のものであるのは間違いない。

     

     もちろん、向こうの国民が総じて民度が高いというわけでは必ずしもないだろう。単に「人気があるから好き」というブームに乗っているだけの人とか、キャラが面白いとかのそれこそ「茶髪」と大差ないマインドで拍手を送っている人もいよう。俺が注目したのは国民の反応よりは取り上げる側の姿勢だ。取り上げる側が何をもってちやほやしているのかは、相当次元の違う印象を受けた。

     

     ルースを人気アメコミ映画のヒーローに当てはめたイラストなどに、日本と変わらないバカ騒ぎ感を見出すのは容易いのだが、もうそんな類似の理屈が通用しないほど日本の「取り上げる側」の根本姿勢は違っていると思う。基本は内輪サークルの理屈なので、ルースという存在がその内輪サークル視線でもっては全く捕らえられないのではないかな。つまり、よう扱わん存在なのでは、ってことである。まあ向こうさんのメディア事情が、本作ではあんまりはっきりとはわからないので、どれほど猖められた瓩發里は判断できないのだけど、今の日本メディアが、未明のドキュメンタリーかETV特集、あとはせいぜいニュース番組内のインタビューくらいでしか、それも「奇特な人」という枠でしか扱いきれないというのは断言しておく。

     

     個人的に最も注目したのは夫だった。学生時代、優秀なルースに「かわいげがない」と敬遠する男たちばかりの中、屈託なく接してきたという男前である。最近のアメリカ映画では、女性の優秀さに嫉妬する男をよく扱っているが、全く正反対の存在だ。どうしてそんなことが出来たかといえば自分に自信があったからと作中説明されている。優秀なやつは何でもできるんだなと、この夫に嫉妬してしまいそうになるが、この人、いかにも全く敵がいなさそうな人当たりのよさがあって、できるやつはやっぱり何でもできるんだな。ただただ敬服した。

     

    「RBG」2018年アメリカ
    監督:ベッツィ・ウェスト、ジュリー・コーエン


    【やっつけ映画評】主戦場

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       十三駅の西口を出たとき、七芸に行きそうな人は年齢風体からおおよそ見当がつく。このおじさん、どうせ七芸に行くんだろうと見当づけた人とは大抵エレベーターが一緒になる。どうせ俺も同類なんだろう。
       予想はしていたが、着いたらチケット売り場はごった返していた。その「おおよそ見当がつく」人々の中に内田樹がいて、目が合ったので面識もないのに会釈してしまった。著名人と目が合い会釈したのは石橋凌以来2人目。しかし偉丈夫だなこの人。

       

       「この映画館にこれだけ人が押し寄せるのは初めてでしょうか」と、以前「靖国」を上映したときどこかの記者が館長に無邪気に失礼な質問をして、館長が「何度かあったと思いますが・・・」と困惑しきりだったサマを思い出した。混むときは混む。
       この映画も「靖国」や「ザ・コーヴ」と似たような騒ぎが起きても不思議ではなさそうな内容だが、静かなもんだ。杉田生産性、櫻井よしこ、ケント・ギルバートら、歴史戦などというファンタジックなあの界隈のオールスターが登場する内容だと喧伝されているから、自分たちの主張を代弁する作品だと勘違いしているのかも、と邪推したが、実際そうだったようだ。ついこの前までは好意的にSNSに宣伝を書き込んでいたアレ界隈の人々がそれなりいた模様。推測ではなく邪推止まりだった俺の認識はまだまだ甘かったようだ。


       そんな内容のドキュメンタリーだったら、あちこちのミニシアターで上映するわけないやん、映画なめんな、と呆れたが、そんな内容の本はとっくに大手からも出版され、大手書店で堂々と売られているのだった。彼らの勘違いにも妥当性がある昨今というわけだが、逆に映画界はなぜまだ汚染と無縁でほどほどいられるのだろうかといえば、ドキュメンタリーが売れないからである。

       

       勘違いした人々は、どうせ見ることもなく褒めたり見ることもなく非難したりするのだろうが、本作の場合、特に序盤は制作者がどちらの立場なのかははっきりわからない構成となっている。
       従軍慰安婦をテーマにしたドキュメンタリーだ。カリフォルニア州の少女像を巡る騒動など、最近の動きも含め取材している。この辺りの話は、Twitter等で概要を読んでいたので、見覚えのある名前の人々が登場する様子に「おお、ほんまもんが動いている」と軽く感動した。

       

       日系アメリカ人の監督が知識ゼロの状態から興味をもって取材した、というテイなので、既に述べたように、途中まではどちらに与するともなさそうなタッチで展開していく。それが徐々に歴史ファンタジアン組の主張の穴が崩されて行き・・・、というサスペンス的展開が見事だ。大半がインタビューで構成されている上、英米系のドキュメンタリーがしばしば用いるアニメやCG、トリッキーな編集なんかもあまり目立たず、マイケル・ムーアのように自分がドンドン前に出るわけでもなく、全体に抑制のきいたトーンでここまで惹きつけるのは大したものだ(小林節のくだりは若干失速感を覚えたのだがなぜだろう)。

       


      【やっつけ映画評】バイス

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         トランプが大統領に就任したとき、実は道化を演じているだけで本当はかなりマトモな人間なのではないかという虚しく悲しい希望的観測を口にするコメンテーターが少なからず存在したものだった。そう信じないと怖くて仕方ないからいわゆる正常性バイアスが働いたのだろう。友人の一人が「ビジネスマンやからもっとマトモかと思っていた」と言っていたが、こういうビジネス信仰もあろう。暴言放言を正当化したい己の醜い欲望が共鳴した輩もいよう。「民間の経営感覚」族や「本気本音」族(この2つは大抵重なる)がろくでもないのは、少なくとも大阪にいるとケーススタディに事欠かないから、誰も彼もが呑気に見えて仕方がなかったものだが、当のトランプは前任者のオバマのみならず、同じ共和党のブッシュからも非難されている。


         このブッシュという人は、「呆れた政治家」の旧式モデルといった感がある。「血筋だけで上り詰めたただのバカ」。政治家をこういう紋切り型で捉えて腐すというのが一種の作法だった時代はすっかり遠のいた。本作のブッシュは、本当にただのバカとして登場していて少々懐かしさを覚える。つい牧歌的な印象さえ持ちそうになるが、戦争を2つ起こした大統領でもある。トランプも側近の一部がブッシュ政権時と重なってもおり、今後どうなるかわからないが、現時点では対外戦争よりは内戦を持ち込んだ男といえよう。一方ブッシュは派手によそと戦争をした。このブッシュの隣にいたビッグ・ボス的影の男が本作の主人公だ。


         「副大統領」の「悪徳」といった掛詞がタイトルの意図だろう。ブッシュ政権時に副大統領を務めたディック・チェイニーの伝記映画である。
         ろくでなしが性根を入れ替え、政治家に成り上がっていく物語ながら、でっち上げで戦争を起こしたかなりひどい政権の話でもある。成り上がり物語の爽快さはとくになく、見ていて愉快ではない。このチェイニーが、いったん政界から身を引くところでエンドロールが流れるギャグが劇中にあるが、ここで彼のキャリアが終わっていたら、死ななくてよかった命がたくさんあったという点、ギャグというよりは歴史のイフへの願望だろうな。

         

         チェイニーに対して唯一親近感が湧くのが、娘の「悩み」に対する真摯な姿勢だが、それもラストあたりではひっくり返る。それもこれも含めとにかく後味が悪い。後味が悪いだけならともかく、これが現実だからうんざりもする。なんでこんな辛気臭い現実に金を出して付き合わなければならないのかと、マイケル・ムーアのドキュメンタリーを見たときと同じ倒錯した感想になった(まあ内容的にはまさに「華氏911」と重なる)
         結局彼の原動力はどこにあったのかよくわからない点が不気味ですらある。妻の存在が大きいのは間違いないとして、よき夫、よき父であらんとしたことが、自身を大物政治家に押し上げ、かつ彼の暮らす土地柄・支持者が受け入れるはずもなさそうな「娘の苦しみ」に理解を示すという一見矛盾した行動をとらせたのだろう。

         ただし副大統領就任は、自身の意志でやっている部分が大きいように描かれている。そこにパワーゲームの魅力や、金脈があったのも確かだろうが、結局のところはよくわからない。

         

         9・11同時テロのときに自分が浮足立ったことはよく覚えている。今ではお目にかかる機会もなくなり、本作でも出てこないが、旅客機がビルに突っ込む映像は事件直後は何度もリプレイされた。その衝撃がまず影響し、そしてアメリカ属国民として米国視点の国際情勢把握が標準だと無邪気に思い込んでいたこともあり、素朴に怒りや敵愾心を抱いたものだった。このためアメリカがアフガニスタンを攻撃しても何の疑問も持たなかった。NHKニュースも連日、米軍の軍事作戦をスタジオにでっかい地図を持ち込んで詳細にレポートしていた。

         

         それを横で見ていた同業他社の男が何ふざけたニュースやっとんねんしばくぞこらとか何とか画面に向かって毒づいている。何でよと尋ねると、一般人が割食って死ぬのに米軍の広報気取って何か意味あるかと、呆れ顔で諭してきて、それでようやく俺も冷静になったのだった。ああこうして世論は戦争を支持するのかと腑に落ちもした。

         

         当事国でもないし、現地に知人がいたわけでも取引先があって勤め先が損害くらったわけでもなんでもない何の利害関係もないただの一般会社員が、アゲインストテロリズム的熱狂にずっぽし駆られているとき、当事国の政府中枢を牛耳っていた本作の主人公は、いったい何を考えていたのだろう。
         映画の中では、周囲が激しく動揺する中、一人冷静に己の権限拡大と対外戦争の画策をしているように描かれている。あの状況で恐怖や怒りに駆られることなく打算だけで行動できたとすれば、陰謀論を抜きにすれば恐ろしく「それしかない」男ということになる。まあ、化け物だよね。

         

         アホが大統領をやるとろくなことにならんといわんばかりに、この後政権はひっくり返るが、さらにその後種類の違う困った人がトップになった。本邦でも大まか似たような過程をたどる。アホだ世襲だ漢字読めないだとか言われている傍らで、それをひっくり返す方法を虎視眈々考えていたのがチェイニーよろしく影にいたのだろうかと、本作を見るとそんな想像をしてしまう。

         

        「VICE」2018年アメリカ
        監督:アダム・マッケイ
        出演:クリスチャン・ベール、エイミー・アダムス、スティーヴ・カレル


        映画の感想(ではない):ブラック・クランズマン

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           話の流れで(?)黒人差別がテーマの作品について。

           KKKを扱っているから、重いものをまず想像してしまうが、痛快なタッチだった。刑事モノの痛快さを借りつつ、「私はあなたのニグロではない」でも描かれている、差別の歴史とか、映画における黒人の扱われ方とかを念頭に置いて制作されている節がある。
           おそらく映画マニアほど楽しめる内容だと想像する。過去の黒人映画のオマージュ的な場面があったりで、知っているとニヤリとさせられる仕掛けがあるのだろうと推測するのだが、よく知らないのでわからない。話には聞いたことがある悪名高き「國民の創生」が上映されるシーンがあり、初めて映像を見たのは貴重だった。わかったのはそれくらいか。もしやと思って検索したら、YouTubeで全編見れる。


           黒人差別を巡る問題を、日本社会の中で身近に感じたのは中学生のときだった。外国人指導助手というやつか、とにかく英語の授業に現れたアメリカ人の先生との出会いによってだった。先に脱線しておくと、この先生の前任者は、日系の人だった。今日からアメリカ人の先生が来るらしいと聞かされて、初めて接する外国人にわくわくしていたら、現れたのが宮本隆治アナウンサーみたいな外見の人で、あれえとなった。クラスのほとんどがパックンみたいな先生を想像していたのだろう、若干微妙な空気になり、俺もその発信源の一人だった。

           

           今から振り返ると、アメリカ人=白人→ブッブー不正解、という感覚をあの時代にして先取りしていたとてもよいめぐり逢いだったと思う。無論当時はそんなことまで感じるはずがないのだが、中学生にして「確かにこういうアメリカ人もいるよな」と呑み込めたのは、大河ドラマ「山河燃ゆ」あたりから仕入れた知識だったと思う。


           そういった意外な出会いの次の年に現れたのが黒人女性の先生だった。本作のヒロイン・パトリスに若干似た雰囲気だった記憶がある。あんなにアフロではなかったが、縮れた髪を団子にしていて、脚が長い格好いい体型をしていて、実に陽気なキャラクターで、すぐ人気者になった。何より黒人というのが、いかにもアメリカっぽいじゃないかという前年からの反動も少なからずあったようにも思う。
           その先生が、NHK主催の弁論大会に出場するという。外国人が日本語でスピーチする大会で、放送もされる。うおーすげーとなって、放送日、期待しながらテレビに見入った。いつも陽気なおもしろい先生だから、捧腹絶倒のスピーチを想像していたのだが、語られたのは彼女がこれまで出会ってきた差別の半生だった。あまりのギャップに困惑しきりで思考が停止した。

           


          映画の感想:カメラを止めるな!

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             話題作をテレビでやっていたのを見た。(一定間隔で現れる書き出し)
             先に前にも書いたことを繰り返しておくと、予算がなくても、有名俳優が出ていなくても、アイデア次第でヒット作は作れるんだ、という本作を受けて散見した感想はアントワネット的だと思う。予算がない、知名度のある人が出ていないので、アイデア頼みになるほかないだけのこと。自主映画の世界では多かれ少なかれ「アイデア頼み」になる。そうそう冴えた発想なんか見つからないから滑るだけのことである。

             

             俺自身がかつて撮ったときには、ちゃんとしたドラマとといえばいいか、特に奇をてらわずに王道的なものを目指して制作したので、結果、ただの無難で見るべき点も特にない内容になってしまった。今から振り返ると相当に勿体ないことをしたと思う。またやればいいではないかともいえるが、あんな面倒で手間のかかることはそうそうできるものではない。本作を見ると、その大変さが少しは伝わるのではないかと思う。

             

             そのアイデアの1つ、というかこの場合はチャレンジと言った方がいいが、冒頭からの40分長回しになる。CGだ何だという時代にあって、金のない現場で「凄い映像」を撮るのは難しいものだが、長回しは自主映画でもチャレンジできる数少ない「凄い映像」である。舞台をやっているとあんなものは簡単に出来ると思いがちなのが、実際そうもいかないことは何度も経験した。

             役者のみならず、撮る側もミスするから舞台に比べると倍以上の失敗要因が潜在している中でのチャレンジになる。5分でも結構大変なのだから、40分は狂気の沙汰といえる。よくこんなことをやったと頭が下がるが、見る側にとっては10分ワンカットだろうが40分だろうが結構どうぜもいいことなので、「凄い」といっても、それはどちらかといえば内輪受け的性格が強く、見ている方は特段価値を感じてくれない。制作側としては寂しいところだ。

             

             まあこれは特殊効果なんかも同様で、「本当っぽく見える」が見る側の基準値なので、不自然な場合に非難を浴びることはあっても、よくできた場合に称賛されることは少ない。昔、印刷屋で働いているときに似たようなことをよく感じた。世間の人は綺麗に刷られた印刷物に慣れてしまっているから基準値がそこにある。このため、イマイチな刷り具合のときに文句はきても、綺麗に出来たと褒めてくれる客は少ない。

             

             本作の場合、長回し一本勝負ではなく、その後の展開のトリッキーなところが評価を集めた部分になろう。同じ話を舞台裏説明とともに二度繰り返す昔の麒麟の漫才を思い出した。大枠では「ラヂオの時間」のごとく、次々起こるトラブルをどう解決するかといったドタバタである。生放送のラジオの場合、止めることが許されないからドタバタが成立する。映画は本来、いくらでも止められるはずが、「止めることが許されない」状況設定を作るための装置が「長回し」という関係性になっている。わざわざやる意味がある部分がうまい設定だと思うが、一方で、さして新味がない展開だという批判は成立するし、ネット上の感想を見るとやはりそういう趣旨の内容が散見した。

             

             この長回しの難点は、一幕モノの芝居と似たようなところがあって、物語の連続性を保つ点にある。
             三谷幸喜の影響もあり、舞台で一幕モノのドタバタを作りたがる人は一定数いる。俺も学生時代は憧れたものだった。それで大抵陥るのが、のりしろ部分の間延びになる。

             場面転換がないということは、最初から最後まで均質な時間が流れるということを意味する。「翌朝」とか「一方そのころ誰それは」といった時間をジャンプする展開が使えないということだ。このため通常ならAの展開からBの展開へ端折ってつなげてしまえるところを、連続的な時間の中でつなげないといけなため、相当うまくやらないと、間延びがする。自作品にしろ人様の作品にしろ、そういう間延びを目の当たりにすると、一幕にこだわらなくていいじゃんと思えてきて、どんどんと目につく鼻につくのアレルギー反応が強くなってしまった。

             

             本作でも、序盤の「40分」のところでいかにもそのような演劇的な、間延びした無意味なやり取りが目に付き、「なんかシンドイ作品だなあ」と思って見ていたら、そこがトリック(?)の1つだと後でわかってなるほどなあと楽しんだ。その点ではほかの人より倍楽しんだような気がする。
             さて、劇中劇の「40分」の中では、一切の妥協を許さない狂気の監督といったようなある種ステレオタイプ的に登場する主人公であるが、実際には妥協だらけの悲哀の中、小さな仕事をソツなくこなして生きてきた存在として描かれている。監督以外の登場人物も妥協する/しないの2種類に分類されている。妥協の事情が所属芸能事務所の都合だったり、当人の賢しらな演劇理論だったり色々なのだけど、大まかにはこの2つに分けられていて、作品に対してどこまでストイックに追究できるかといった点が1つのテーマになっている。

             冷静に見ると、妥協しないというよりは、ラストの組体操なんかが象徴的なように、より高次の妥協を目指しているだけなのであるが、この手の現場で「妥協しない」がさも恰好いいことのように世の中語られることが多いところ、現実は「妥協しない」を選択できる時点で結構な地位にいるということである。

             

             そういう理屈はいえるものの、現実世界の本邦で、本来「妥協しない」を選択できるはずの、金なり権力なりを持っている場にいる面々が制作している作品は、そろいもそろって本作に登場するチャラいプロデューサーの顔がちらつくような企画ばかり。なので本作の主人公が仮にこのゾンビ生中継映画で出世したとしても、この先劇中劇で演じていた「これが映画だよ!」と狂気をばらまく存在にはなれないのだろう。

             

            2017年日本
            監督:上田慎一郎
            出演: 濱津隆之、真魚、しゅはまはるみ


            映画の感想:ルパンVS複製人間

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               新作のマンガを買って読むということがとっくに縁遠くなっている中、今年の初めに1、2巻を読んだのが吉本浩二「ルーザーズ」だった。なかなか面白いのだけど、懐古趣味みたいな内容が面白いというのは、いかにも昔の貯金で生きている現代日本社会といったありさまで複雑な気分になり、かつ、自身が久々に読めたマンガが懐古趣味というのもどうなんだと疑問がむくむく。

               

               この作品の重要登場人物の1人がモンキー・パンチだったので、訃報に接し、作者の吉本氏は作品に必要な証言は全部聞けてるのだろうかと余計な心配をしつつ、物語の序盤で登場する無名の若者が「天寿を全う」的な年齢にとっくになっていた時代を我が身は生きているのだなどと思ったりもしつつだった。


               2巻では、人気マンガ家への地歩を徐々に固めていっているモンキー・パンチに対し、雑誌編集者である主人公が、新雑誌の発刊構想を打ち明けるシーンがある。「(新雑誌では)お前の好きなモン描け!/何が描きたいか言ってみろよ」と迫る主人公に、モンキー・パンチはあれやこれやと脳内でアイデアを探りながら、はたと閃き、興奮と緊張の入り混じった表情で「・・・ルパン」と漏らす。「アルセーヌ・ルパンか・・・・・・?/ちょっと古くねえか・・・・・・?」とピンと来ない主人公に「ジェームズ・ボンドみたいなルパン」だと鼻息荒く言う。聞かされた主人公は「なるほどねえ」と言いつつ、わかったようなわからないような顔をしているのが印象的だ。作中のこの時代、「ルパン三世」はまだ存在しないのだという当たり前の事実に、妙に胸を熱くさせられる。

               

               ルパン三世がまだ存在しない世の中において、「ボンドみたいなルパン」と言われても「島耕作のような渋沢栄一」とでも聞かされているようなものになるのだろうか。完成形を想像するのは難しい。ところで、「まんぷく」で即席めんの構想を萬平が打ち明けても周囲が全く理解できないシーンともカブってくるが、あちらは偽史である。このマンガもどれほど事実に即しているのかは無論のこと不明ながら、息の長い傑作キャラクターですら既存のヒーローを下敷きにしているのだから、発明品はなおさらだ。話が逸れている。

               

               さて追悼企画で急きょ放送された本作を、何度目だと思いつつ見た。改めて思ったのは、映画版第一作からして、敵が巨大過ぎないか?ということだった。最後に出てくる巨大ブロッコリーのサイズのことではなく、核ミサイルすら持っている財力と組織力が、007のスペクターばりだということだ。ヒーローものの敵がインフレする宿命を踏まえると、最初から飛ばし過ぎの感がある。このままいくと、5作目くらいで宇宙にいく勘定になるぞと思ったが、そういえばこの巨大レタスはラストで宇宙に行くのだった。

               

               その非現実的な巨大な敵に説得力を与えているのはマモーの造形であろうが、「永遠の若さをやろう」と言っている人物が結構な異形の相という点ではまったく説得力がない。唯一羨ましいのは頭髪がふさふさな点だけである。だのにまんまと乗っかっている不二子。よほど人を外見で判断しない徳の持ち主か、それとも自分はこうならないという自信家ぶりの現れか。

               

               ところでマモーがことあるごとに、永遠の命だの何だの言っているものの正体はクローン技術を指しているのだが、一方で作品冒頭で絞首刑に遭うルパンは、クローンなのか「本物」なのかといった「火の鳥生命篇」のようなアイデンティティを揺さぶる問いかけもなされている。この時点で、コピーの劣化を持ち出すまでもなく、「永遠」の理屈は破綻している気もする。今の「私」が、クローンとして「私」の死後も生き続けたとして、それは「私」なのか。本作では、大もとのマモー(溶液に浸った巨大ブロッコリー)が登場するので、クローン云々より、結局この保存技術の方が「永遠の生」を担保している。

               

               一方ルパンは、本作以降も映画化され、テレビアニメのシリーズも制作され続け、それらはいずれも監督によって造形がそれぞれ異なっている。本作のルパンと映画第2作の宮崎駿ルパンとは、外見、服装、キャラクター、まあまあ異なるけれども、同じ「ルパン」であり、こちらの方こそクローンに近い存在である(という理屈でいうと、本作で「永遠」に最も執着している不二子の造形が最もバラバラなのは皮肉である)。作者死後も作ろうと思えばいくらでも作れるわけで、永遠のクローンではあるよね。

               

               ところでマモーは、魔術か超能力のような芸当もやってのける存在でもある。そのマモーが見せつける不思議な力に、ルパンはいちいち食って掛かっている。ルパンがこうも科学合理性にこだわるのは、彼自身がしばしばトリックを使うからだろうか。ナポレオンズが割と熱心に超能力否定の論陣を張っているのを思い出した。

               

              1978年日本
              監督:吉川惣司
              出演:山田康雄、増山江威子、小林清志


              【やっつけ映画評】グリーンブック

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                 肌の色にはじまり、何から何まで異なる2人の男が、アメリカ大陸を車で巡りながら、次第に互いへの経緯と友情を深めていく。いってしまえば手垢にまみれた構成ながら、アカデミー賞をにぎわせたのは、差別がテーマになっている点、なのは自明でありつつ、本作で描かれている差別はちょっと込み入っている。なるほどなあと頷きつつ、「音楽の力」についても考えさせられる作品だった。
                 何もかも異なる2人の男の友情という点では「最強のふたり」と似ているが、本作の「2人」は、肌の色を基準にすると、あの作品とはちょうど正反対の関係になっている。

                 

                 イタリア系白人のトニーは(演じているのは北欧系の人だから、あんまりイタリアっぽくない印象)大柄で粗野で口の減らない男で金がない。勤め先のクラブが改装工事で閉鎖されたから一時的に失業中でもある。

                 黒人のドクター・シャーリーは、幼いころから音楽の才能に溢れ、留学経験があり、すでにアルバムが売れているのだろう、暮らしぶりは豪華で、ついでに威厳と品格を備えていて口ぶりや物腰は極めて上品だ。彼の音楽仲間は相当に彼を尊敬している。

                 

                 所得や社会的地位からすると、トニーにとってシャーリーは雲の上の存在だ。しかし舞台は60年代初頭である。ちょうどキング牧師が活動を活発化させているころになるが、ということはこの時代、シャーリーには入店できないレストランや泊まれないホテルが公然とあるということだ。服は売ってくれても試着はさせてくれないし、夜間外出すると逮捕される等々、いたるところに厳然たる線引きがあり、要するに人間扱いされていない。

                 

                 対するトニーは白人だから、シャーリーのような不当な目には遭わないものの、イタリア系だからアメリカ社会での立場は低い。序盤で「ゴッドファーザー」でも見たような、アウトローと堅気の線引きが曖昧なイタリア系コミュニティの様子が登場する。全体的には貧しい。そしてブルーハーツの歌がごとく、弱い者がさらに弱い者を叩くの法則よろしく、コミュニティの誰も彼もが汚い言葉で黒人を侮蔑する。トニーも御多分に漏れず。

                 

                 差別の部分はさておき、このトニーは、フィクションに登場する典型的な黒人キャラクターをなぞったような人物といえる。貧しいがたくましくて腕っぷしも強く、がさつで口が減らないが、根はイイやつ。ついでにアメリカ黒人のソウルフードたるフライドチキンが大好物で、対するシャーリーは、育ちがいい上、外国暮らしが長かったので、皿もフォークもなしに素手でかぶりつく作法に困惑しきりである。このシーンなんか、双方の立場が逆だと類型的過ぎて鼻白むことこの上ないことになりそうだ。

                 

                 トニー本人も、「自分の方が黒人だ」と思っている。貧しいし、イギリス系には蔑まれるし、フライドチキンが好きだ。ついでに差別者のお約束「虐げられているのはこちらだ」ロジックも持ち出してもくる。ただ、シャーリーとの対比だけに限定すれば、2人は比べものにならないくらい所得格差があるから、トニーの「あんたは黒人差別を訴えるが、俺の方があんた以上に犧絞未気譴討い觜人瓩澄廚箸い主張は一見成立しているように見える。

                 

                 ところがそれがいかに間違っているかが作品の終盤ではっきりと示される。トニーも完全に打ちのめされる説得力で、差別を越えた分かり合いの部分が、ただの口当たりのよい博愛主義だけで済ませていないところにとても感じ入った。才覚と努力でのし上がった結果、いずこにも所属するコミュニティがなくなってしまい、何者ともみなされなくなってしまったという孤独に直面することになったという点、ふと新井将敬を思い出した。政治ではなく音楽の道に進んだことが、シャーリーには幸運だったのか。

                 

                 その「音楽の力」についてだ。
                 音楽には、この世のさまざまな矛盾を解決するパワーをしばしば期待されるところがある。実際そういう側面があるのは間違いないとは思うが、そう単純でもない。

                 本作でシャーリーは、アメリカでも特に差別が激しい南部を巡る。南部とはいえ、白人の客が大勢集まり拍手喝采を浴びる。ならば少なくともシャーリー個人は人種の壁を越えられているかというとそうでもなく、会場のホールでは黒人専用の掘立小屋のようなトイレを使うよう言われるし、会場のレストランでは食事を摂らせてもらえない。いずれも会場側に悪意はなく、だってそういう決まりだから、という無色の制度化された差別がそこにはある。あとは「非常事態」さえ加わればアイヒマンの出来上がりである。

                 まあつまり、システムが音楽の前に立ちふさがっている構図だ。法的権力をかさにきて、悪意を露骨に差別してくる警察官も、無色ではないものの構造としては似たようなものだ。音楽は実に無力である。

                 

                 本作では、シャーリーを襲う種々の差別や暴力に対して、色んな種類の対処法が登場する。シャーリー自身は「やり返さない勇気」のジャッキー・ロビンソンと似た信念を持っていて、どんな目に遭っても怒らず我慢してとにかく威厳を保つことで差別と闘ってきたようなのだが、少なくとも短期的にはそれでは解決できないこともある。

                 会場側が、演奏家が黒人だと蔑んで粗悪なピアノを用意したとき、トニーは「契約違反だ」と抗議し、それでも聞かないので一発殴る。酒場でシャーリーが差別暴力に絡まれたときには、トニーは「手を放さないと殺すぞ」という威嚇でもって助け出す。警察がシャーリーを捕まえたときは、得意の口八丁と賄賂で釈放させる。

                 一方、差別的な警官を怒りに任せて殴れば即逮捕になるから腕力は無力だ。このピンチにものをいったのは、シャーリーがこれまでに培った広範な人脈に基づく政治力、つまりコネだった。「差別じゃなくて、そういう決まりなんです」の無色の差別に対しては、結局「信念」が抗う手段だった。

                 

                 というわけで音楽の出番はちっともない。シャーリーの強力なコネや信念を形作ったのは音楽によるから、そういう点で音楽の存在は大きいといえるがどうも地味だ。「NO MUSIC NO LIFE」のような華やかな万能感は見当たらない。

                 

                 このモヤモヤが回収されるのが、黒人クラブの演奏シーンだ。本作の脚本は、出てきた要素をいちいち丁寧に回収する巧さがある。
                 これまでの「教養人ぶりたいから聞きに来ているだけ」の上品な白人客とはまるきり異なる客の表情とシャーリー自身の演奏がここでは描かれる。音楽というのは、それ自体に何かあるというよりは、誰に向けて演奏するのかが重要なのだろう。政治家に向けて弾けば、強力なコネが得られるかもしれないし、金持ち相手に演奏すれば、金が得られるかもしれない。市井の共感してくれる人々に向けて演奏すれば・・・、何か大きなうねりを期待したいところだが、さあそれはどうだろう。少なくとも、まったく水と油だった一人と深い友情で結ばれることになるくらいのことはもたらしてくれそうだ。ま、そこにたどり着くには、才能はともかく、めちゃくちゃ練習が要るんだけどね。
                 「寂しいときは、自分から先に手を打て」という台詞がやたらと染み入ってしまったことを告白して終わる。

                 

                「GREEN BOOK」2018年アメリカ
                監督:ピーター・ファレリー
                出演:ヴィゴ・モーテンセン、マハーシャラ・アリ、リンダ・カーデリーニ


                【やっつけ映画評】ROMA/ローマ

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                   仕事終わりに、さっとそこのイオンで晩飯を済ませて、で帰宅してあの資料とこの書類を終わらせて・・・、などと算段を立てながら映画館の横を通ったらば、話題の作品がちょうどの時間に上映だった。自転車操業状態の日々に追い詰められていると、人はしばしばすべてをうっちゃって逃避を試みようとする。俺はレストラン街の中華屋で適当に炒飯をかきこみ、30分後には暗がりに居並んだ座席の1つに深く身を沈めていた。あの作業、この雑務、全部知るか。

                   

                   伝え聞く作品概要から察するに、疲労困憊の身でもあり、そのうち寝るんじゃないかと危惧していたが、終わってみればたいそう感動している己がいた。いやあ、確かにこれは素晴らしい作品だ。

                   とはいえ、何が?と問われるとうまく説明できない。そもそも映画の内容からしてうまく説明できない。

                   

                   メキシコの比較的裕福な家庭で働く家政婦が主人公だ。70年代、冷戦が絶賛継続中のころ、メキシコは韓国や台湾同様、「反共」が全ての存在理由のような独裁政権下にあって、民主化を求める動きときな臭い対立関係にあった。

                   そういう時代が舞台であるが、この辺りの要素は物語の背景にとどまっていて、家政婦クレオと主家の騒々しい家族の日常が綴られていく。そういう中で、いくつか家族やクレオを苦しませる問題事が起きるのだが、BGMがないせいか(ラジオから音楽が流れる場面はある)、全体的に抑揚がなく、静寂な印象を受ける。

                   

                   聞くところによると、監督の幼少期の思い出話がもとになっていて、ここで描かれる物語はほぼ実話らしい。道理で。
                   そう納得したのは、物語の中核を担うはずのいくつかの厄介事と、何てことのない瑣末な要素を等価で並べるような描き方をしていたからだ。飼い犬のうんこがやたらと画面に登場するところとか、狭い空間に無理やり車幅の広い車を通そうとするシーンがくり返し登場するところとか、何かのメタファーなのかとも思ったが、単に事実がそうだったというだけなのかもしれない。個人の人生は割とそういうところがある。例えばかつて大好きだった彼女の顔は忘れかけているのに、好きでもないCMの唄は覚えているとか、記憶の残り具合はしばしば当人の思い入れとは何の整合性もないものだ。

                   

                   そういう「何でもない日常」として綴られる日々の中には、実は既に述べたような政治のかまびすしさがあり、移民白人と先住民との経済システムの中に組み込まれた支配/被支配の構造があり、家政婦との無邪気な思い出として済ますことを許さない重い矛盾が横たわっている。その中でも見終わって俺の中で一番残った沈殿物は、「男はしょうもない」だった。

                   本作に出てくる男は総じてしょうもない。短慮で無責任で、そのくせ口先は大義を語るから、時に人を殺める。まともな男性はたまに出てくる運転手のおじさんと、病院のシーンで登場する医師くらいではないか。いずれもただ職務を遂行しているだけの存在としてだけ登場するから、男は真面目に仕事をする以外に存在意義がないのではないかという気もしてくる。

                   

                   以上のようなことが全部間接的な伏線となって、終盤の出産のシーンでたいそう感動したのだった。映画やドラマで出産のシーンはいくつも見たことがあるが、こんなに心をゆさぶられたのは初めてだった。おそらく何年か後には、本作については出産シーンと飼い犬のうんこしか覚えていない気がするが、これはそういう映画だ。

                   

                  蛇足:画面の中のメキシコは、コロニアル風建築の街に人と車が溢れていて、収拾がつかないほどうるさくて雑然としている。一昨年行ったインドとよく似ていると思いながら見ていたが、メキシコとインドが似ているわけではなく、今の日本社会がこれらと似ていないだけなのだろうと、少子高齢人口減社会を実感した。

                   

                  「ROMA」2018年メキシコ=アメリカ
                  監督:アルフォンソ・キュアロン
                  出演:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ


                  【やっつけ映画評】NO

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                     先日電車に乗っていると、隣で立っている学生らしき男子2人組が、「え?!あそこのツタヤも潰れたの?」などと会話していて、今時の若人の間にもまだレンタルで借りるという文化はぎりぎり残っているのかと意外な気分になった。そういえば、年末にサザンオールスターズがNHKの番組で歌っていたとき、姪が有名曲の大半を知っていて、そのこと自体にも驚いたのだが、レンタル屋でベスト盤のCDを借りてきてスマホで聞いているのだと聞き、また驚いたものだった。ベスト盤を借りるのが入門的には一番手っ取り早いから、というような理由らしい。


                     そういう俺もいまだ配信サービスの類は利用せずにレンタルしている。当該企業は昨今、名簿屋への業態転換、選択と集中による本業切り捨てによって続々店舗を閉じているので、世の中にこういう店がなくなるまでは利用しとけばいいかと開き直りつつ、図書館参入と警察への積極的情報提供の件でとっとと破綻してしまえと矛盾した感情を抱いてもいる。

                     いずれにしても、いざ知名度の低い作品を探そうとすると、着実に環境が痩せ細っているだけに、たどり着くのに苦労する。去年の台湾のときもそうだったし、文豪シリーズでも同様。


                     というわけで仕事で行った先周辺のレンタル屋で在庫を検索して・・・、とやっていると、いまだ古式ゆかしくラインナップが潤沢で、探していた複数作品がまとめて在庫ありなんてこともある。というわけで、文豪とは何の関係もないが、若干マニアックな作品の貸出があったのでついでに借りて見たのである。


                     チリのピノチェト政権が崩壊に至る過程を描いた内容だ。国際社会の圧力で、任期を延長できるかどうか国民投票で決めることになり、体制側、反ピノチェト側双方に15分ずつテレビ放送の枠が与えられる。この枠で政権放送なりCMなりを流して支持を集めようとするわけだが、広告屋の主人公は反体制側に協力することになる。

                     

                     今この手の題材で俺が作るなら、主人公は賛成側でも反対側でもなく、「どちらでもない」側の広告宣伝担当にするな。何を宣伝すればいいのか皆目見当がつかない点に新機軸の可能性をふんだんに感じる。

                     

                     妄想はさて置き、反体制側の宣伝が妙に頭でっかちなのに閉口して、もっと親しみやすいCMを作るべきだと主人公レネは早速陣営の人々と対立する。この点、地球のこっちとあっちでも反体制側の性向が似たようなところは面白い。撮影許可が取れないからか、ゲリラ撮影でロケを重ねていくシーンは自主映画の撮影のようで楽しいのだが、出来たCMは妙にダサい。大口叩いてこれかよと可笑しい。

                     80年代の話なので、時代的な感覚が勝ってダサく見えてしまうところもあろうが、「口当たりのよさそうなメッセージと映像をつないでおけば支持につながる」という発想そのものに問題があるように思う。いわばイメージだけで操縦できるといわんばかりの発想だ。有権者を「何も考えていないアホ」ととらえているともいえる。広告屋とはそんなもの、といえばそうなのかもしれないが、このダサいCMは、作中の登場人物にも批判されている。

                     

                     一方、宣伝チームの別の人間が作ったCMには、なかなかよくできたのもあった。デモ隊を捕まえて警棒で殴っている警官の映像にナレーションや字幕を重ね、殴っている警官も殴られている運動家も、どちらも信念に基づいて行動しており、どちらも愛国者であり、どちらもチリ国民だ、といったメッセージを送っている。民主主義とは何かを端的にうまく示していると思う。レネは、これを作った担当者と今一つソリが合わない様子なのだけど、この反ピノチェトキャンペーンを通じて彼の中で何か変化があったのかが今一つ不明なところはちょっと消化不良だった。さりとてレネの中にゆるぎない強烈な意志があるようにも見えなかったしで。

                     

                     一方体制側は、この15分枠以外にも、通常枠でいくらでも体制よりの内容が放送できると考えているところが興味深かった。日本でも憲法改正の国民投票の際の放送は、国政選挙のようには厳格に規制しないようなことがいわれているが、実施されるとなると、通常の番組も軒並み政権寄りになることは容易に想像がつく。大阪では都構想のときに一度経験済み。チリの場合は、反体制側も本心では諦めているほどピノチェト側が盤石だったので、それだけにどうやら油断があったように描かれているのだが、日本でははてどうなることやら。

                     

                    「NO」2012年チリ/アメリカ/メキシコ
                    監督:パブロ・ラライン
                    出演:ガエル・ガルシア・ベルナル、アルフレド・カストロ、ルイス・ニェッコ


                    映画の感想:ゲーテの恋 君に捧ぐ「若きウェルテルの悩み」

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                       文豪シリーズその3。これもまた邦題が全部を説明している。モリエールから150年後くらいのドイツが舞台だ。主人公はゲーテ。

                       地位を確立する以前の青年期を扱っている点、恋愛が重要な要素である点など「モリエール 恋こそ喜劇」と共通点が多い。今度は、バットマン・ビギンズならぬ若きウェルテル・ビギンズといった内容である。

                       

                       本作のゲーテは、モリエールと異なりどうも頼りない。長身優男で詩が作れることを除けば、後は割と十把一絡げに未熟な若輩者である。「文学なんかくだらない。法律の勉強をしろ!」と頭ごなしに説教してくる父親に、もっとたてつくのかと思いきや、あまり逆らえずに唯々諾々。こうして、父の口利きで裁判所の書記官見習いみたいな職につくため、田舎町に引越すことになる。

                       その町で素敵な美女と恋に落ち・・・という筋立てである。この美女との濡れ場がかなりキレーなエロス具合に仕上がっており、ついつい巻き戻してうっとり鑑賞してしまった。


                       しかし楽しげなのはここまでで、ここから先はツラい三角関係の悲恋である。恋愛がテーマの映画をあまり見ないせいでちっとも耐性がなく、こんなベタな展開やめてれーと、濡れ場から一転斜め見で鑑賞した。昼メロかよと思ったが、「モリエール」と異なり、ある程度は史実に即した内容のようだ。だとすれば、確かに文学作品に昇華しそうな強烈な体験だ。

                       

                       人は惚れて惚れられ、振って振られて成長する。とばかりに悲しい恋(と友人関係)に激しく揉まれて未熟なゲーテが出世作をモノにする筋立ては、痛快なサクセスストーリーであるのだが、「モリエール」と続けて見たせいで、「結ばれる運命にはなかったものの大変に理解のある女性に背中を押されて才能を開花させる」という共通した筋立てに少々白けている自分もいるのであった。男の勝手なロマンというか、なんか都合のいい願望が投影されてるんじゃねえかこれ?というような白け具合である。まあ、嫉妬だな。


                       映画では、諸々あったゲーテが絶望の淵から一気に作品を仕上げるように描かれているが、実際には、この作品が扱っている時期から数年後、とっくにこの田舎町を去ってからようやくこの体験を踏まえて「ウェルテル」を書いたようだ。だよねえ。現実問題そんなに早く仕上げられんよね。と本筋とあまり関係のないところでとても重大な事実を知ったような気になり、自分を慰めるのである。


                      「GOETHE!」2010年ドイツ
                      監督:フィリップ・シュテルツェル
                      出演:アレクサンダー・フェーリング、ミリアム・シュタイン、モーリッツ・ブライブトロイ



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