映画の感想:ラ・ラ・ランド

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     話題作をテレビ放映でようやく見た。
     予定の管理が雑な男女の物語だった。
     まあ、恋愛は往々にしてこういうくだらないミスによって取返しのつかない結果になるもので、特に若いときほどそうだと思うが、CM明けに画面隅に出ていた惹句には「大人の恋」だとか書いてあった。ちゃんとしろよ大人。

     

     予定がダブルブッキングしたとき、片方はそれをうっちゃって相手のもとに駆け付けたのに対し、片方は自分の都合を優先して後で相手にフォローする方を選んだ。結果は推して知るべしで、この点は恋人関係なり夫婦関係なりで、肝に銘じておく真理のように思った。
     にしても、ご都合主義の感否めず、本作は要所要所でちょこちょこその辺が目立って、世評ほどには感動できなかった。

     一番気になったのは、ヒロインのミアが評価されるところ。オーディションをいくら受けても落選続きなので、いっちょ自前で一人芝居公演を打ってやろうと挑戦するのだけど、客の入りも評価も惨憺たる結果。でもキャスティングの会社からオファーが来る。「わかる人はわかってくれる」という展開なのだけど、じゃあ拾う神は何をわかってくれたのかはサッパリ見えない。

     そもそもミアがどんな作品を演じたのかも全く描かれていない。一方の恋人セバスチャンについては、ジャズを語るし演奏もするし、色々シーンが割かれているのにだ。

     

     男は自分のやっていることを語りたがり、女はそうでもない、という景色はよく見かけるし、俺自身もそれこそmansplaining野郎なので、この非対称は典型的といえばそうなのかもしれないけど、曲がりなりにも男女それぞれの人生と恋、という映画だから、ちょっとどうかしらとは思う。


     一人芝居の客の入りについては、既視感たっぷりで妙にリアリティを感じてしまった。少ない客のうちの結構な割合が友人知人というところ含め。あと、見終わってすぐ客が感想を口走るのは禁忌である。劇場内で「ツマランかった」などという人はさすがにめったにいないが、劇場出た瞬間口にする人はいる。でも周囲の客の中には縁者がふんだんに含まれれているので、最寄り駅から乗った帰りの電車を降りた後か、もしくは居酒屋、喫茶店等々に入店した後かにするのが賢明である、感想を言うのは。

     

    「LA LA LAND」2016年アメリカ
    監督:デイミアン・チャゼル
    出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、カリー・ヘルナンデス


    【やっつけ映画評】私はあなたのニグロではない

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       タイトルがキャッチーだ。黒人が映画等の表現行為の中でどのように消費されてきたのかを詳らかにするドキュメンタリーかと思っていたが、ちょっと違う内容だった。予断が外れることが最近多い。一応、そういう部分もかなり出てくるのだが、別に主題というわけではなく、黒人差別全体の構造を明らかにするという大きなテーマの一部に過ぎない。


       ジェイムズ・ボールドウィンという作家の未完成原稿が元になっている。書籍の映画化というと、最もポピュラーなのは小説を劇映画にするパターン。次によくあるのが、ノンフィクションを劇映画にした作品である。書籍をドキュメンタリーにするケースは、著者や作品のゆかりの地を女優が歩きながら朗読する、なんてのが該当するだろうか。

       本作の場合も種本を有名俳優が朗読している点は共通だが、ナレーションとして流れるだけで、当人はまったく登場しない。あとでクレジットを見て知ったくらいだった。本作を構成する映像は、著者の記述内容に対応したニュースや映画のつなぎ合わせである。これは異色のスタイルではないだろうか。

       

       学生相手の仕事で学者や評論家らの文章を読ませることがある。高校の現代文の試験を思い出してもらえればよいが、多くが形而上的な内容だったり、具体例をあまり伴わずに抽象的な記述を重ねる形で筆を進めている。このため一見すると日常生活には何ら関わりがない話にも思えるのだけど、実は必ずしもそうではない。案外、身近な物事と密接なことを述べていることもしばしばだ。なので学生諸君に「例えば友達なんかと普段こういうことがあるでしょ」なんてな具合に例示する(逆に彼らに考えさせるときもある)。本作がやっていることはこれと似たような当てはめだと思う。


       これは結構他にも転用できる手法ではなかろうか。例えば名著とされる古い書籍の内容が、今の世の中にもバッチリ当てはまっている濃密なものだったとしても、妙に難解で読みにくいというケースだ(哲学系の本が典型例)。その内容に即した映画なりテレビ番組なりの映像を、書籍の該当箇所とともに提示していくと、容易に理解できるだけでなく、スリリングな作品になるかもしれない。

       今時は特に、新興企業の経営者とか、最先端を気取った業者とか学者とかが、100年200年前にとっくに喝破されたような理屈をスカしながら垂れている様子をよく見かけるから、お前ら何周回遅れの最先端やねんというようなドキュメンタリーが作れそう。本作を見ながら、そんなことを夢想した。

       

       ただし本作は、ボールドウィンの同時代の映像が圧倒的に多く使われているから「今にも当てはまる」がわかりやすく可視化されている部分はそれほどない。ついでに出てくる映画は古いものが多いので、オールドファンとかコアな人なら「おお!」と食い入るところ、軟弱者の俺は「へえこんな映画あるんや」程度の受け止め方であった。

       人によってはとうの昔に別のとこかで見聞きしたことのくり返しに思えるのではないかとも想像する。俺もまあまあそうだった。これもひとえに「42」「RACE」「Hidden Figures」「デトロイト」等々、このブログで紹介した黒人差別をテーマにした映画、あるいは「セデック・バレ」「パレードへようこそ」「猿の惑星」等々それ以外の差別なり民族対立なりが含まれる作品を見たおかげだ。

       このボールドウィンの生きた時代(キング牧師やマルコムXと同世代の知人)に比べれば、見る側に色んなことを気づかせる作品が数多く生まれているという点、好転している部分もあるといえる。無論、国際ニュースを見ていると、そう楽観的なことでもないことはすぐにわかるのだけど。

       

       差別ということでいえば、日本にも「あん」だとか古いところでは「ブルークリスマス」とか、よい作品はあるのだけど、数が少ないからか、国民の大部分が見てくれの似通った人間同士の時代が長く続いたからか、鈍感で遅れをとっている。

       つい先日も、日清のCMにおける大坂なおみの描き方が問題になっていた。大企業の依頼で、おそらく大手の広告屋が制作した、つまり優秀な人間がある程度いるはずの現場なのにあれでOKが出てしまう辺り、随分呑気で幼稚で勉強不足だ。そしてお約束のように吉本芸人が「叩きたい病だ」と、「何でも『叩きたい病』に見える病」なコメントしていて、それを一つの意見として取り上げてしまう新聞社(こちらも優秀な人間がそれなりいるはずの企業)も呑気で幼稚で勉強不足だ。

       前にも書いたが、芸人は不謹慎なことをやるという職業柄、日常的に苦情に接していると想像するが、そのせいで筋違いのクレームも意義のあるクレームも、ミソクソ同じに見えるケースが多いのだろう。せめて一度見直してほしいものだが、周囲がそれに同調してどうする。あんたら諭す側だろ。

       

       というわけで、本作の役割もまだまだ大きいようだ。無論、俺も本作で指摘されていることをすべて理解しているわけではないから偉そうなことはいえない。文学的な作りのせいか、まだわかっていないとても大事なことを提示されたような印象も実は受けたのだけれど、それが果たして何なのか、別の映画を見たらまたわかることもあるかもしれないし、半世紀なり一世紀なりの遅れで、ここで指摘されている構図が、モロに今後の日本社会で顕在化してきて実感を伴う理解につながるかもしれない。

       

      「I AM NOT YOUR NEGRO」2016年アメリカ=フランス=ベルギー=スイス
      監督:ラウル・ペック
      ナレーター:サミュエル・L・ジャクソン


      【やっつけ映画評】アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル

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         邦題のサブタイトルが示している通り、ある意味世界で最も有名な女子フィギュア選手トーニャ・ハーディングが主人公の伝記映画だ。ライバルを襲撃して怪我を負わせるという昼メロもびっくりの事件によって歴史に名を残した。ついでにこの被害者のナンシーケリガンも、メダリストなのに「あの事件でやられた人」として名前が定着してしまい同情を禁じ得ない。

         

         スポーツ界でこれに匹敵するスキャンダルを探したが、なかなか思いつかない。ライバルの飲み物に禁止薬物をこっそり入れていたカヌーの選手は、知能犯な分、より陰湿な印象があるが、メダル候補とまではいかないので世間の反応もそこそこだった。
         サッカーW杯で試合中に相手選手の肩に噛み付いたウルグアイのスアレスは、実行犯な上(ハーディングは実行犯ではない)、何億人も見ている大舞台での不正行為ではあるのだが、こうた・ふくたの漫才とカブってしまったせいかケリガン殴打事件ほどの騒ぎにはならなかった。
         同じく試合中に相手の耳を噛みちぎったマイク・タイソンの例もあるが、ボクシングは(サッカーも)ならず者が多そうなイメージがある分、やはりトーニャの方が上を行く。悪役選手などいなさそうなフィギュアの世界だからこそ衝撃だったといえる。この辺りは本作のサブテーマともつながっている。後で触れよう。

         

         事件当時、俺は高校生だった。五輪の舞台で、靴紐がどうのと審判員に泣きながら訴えていた様子も見た覚えがある。苗字がかつての米大統領と同じなので(試験にはあまり出ないが世界史オタクだったので知っていた。周囲をヤクザな友人で固めていたという点では後述する通りトーニャと似ているが、この爐友達疣中が利権を貪っていた点はどこかの首相とも似ている)、ブロンドヘアーの外見も相まって、金持ちの非常識わがまま娘の暴走だと勝手に思い込んでいたものだった。完全に偏見であるが、社会への認識も幼かったといえる。彼女の狼藉の背景にあるのは金持ちの思い上がりではなく、まったく逆の貧困だからだ。

         

         彼女の生まれた環境は「ウィンターズ・ボーン」「スリー・ビルボード」を彷彿とさせる田舎町だ。貧しいだけでなく、ろくでなしだらけ。あの2つの作品にはものすごい迫力の刀自が登場するが、本作でも同じ。トーニャの母が実に恐ろしい。トーニャによれば「モンスター」で、まさにモンスターペアレンツなど可愛いものだと思ってしまうくらいの怪物ぶりだ。全く共感できない方向に強烈に筋が通った女性である。星一徹も霞むほどだ。モンスター母の虐待を受けて育ったトーニャが夫に選んだのが、これまたろくでもないDV男。暴力が次の暴力を呼び込むパターンである。この夫の友人がさらに輪をかけて救いようのないバカの虚言癖で、結局このろくでなしサークルを断ち切れなかったのがトーニャの破滅へと繋がっていく。

         

         健康優良な人だと、トーニャがずるずると関係を保ち続けたことが心底愚かに見えて理解不能ではないかと推察するが、「嫌ならそこを出ればいい」が実行不可能な正解であることはしばしば。トーニャの場合、ウインターズ・ボーンの主人公と違って類まれなる才能を持っていただけに余計につらいものがある。そしてこのライバルを殴打するというベタな犯罪も、実行した連中が途方もなく馬鹿で幼稚だからこそ出来たのだなと本作を見て理解した。

         

         このトーニャ・ハーディングは、伊藤みどりや浅田真央と共通点がある。公式戦でトリプルアクセルを成功させている点だ。伊藤みどりは世界初、トーニャ・ハーディングはアメリカ初の記録となっている。

         トーニャがトリプルアクセルに取り組んだのは、彼女の演技が審査員に受けなかったため一発逆転を狙ったためだ。米国選手は誰も成功していない荒技を決めれば有無を言わせないという思惑だ。彼女のスケートが受けないのは、そもそも素行不良で嫌われているというのもあろうが、劇中の審査員の台詞によれば、審査員が思う理想形とかけはなれているからだそう。フィギュアについてはまったく詳しくないのでその真意はよくわからないのだけど、少なくとも彼女の演技はたをやめぶりというよりはますらをぶりといった感じで、おそらく審査員が求めているのは前者だろう。女性差別の映画と小説に立て続けに接したせいで、これもまたステレオタイプの押しつけに思えてくるが、そこはさておき、何年も前にスケート通を自称する学生から聞いた話を思い出した。

         

         浅田真央が年齢制限で五輪に出れず、議論を呼んでいた時期だった。その学生の主張は「トリプルアクセルが跳べるからという理由で年齢資格を云々するのはフィギュアをジャンプを競う競技だと勘違いしている」で、代表選出を見送ることに賛成だった。それを聞いて当時、なるほどなあと思ったし、その五輪で優勝した荒川静香の演技はこの主張を裏付けるような内容だった。

         だけれども、実際のトーニャの演技を改めてYouTubeで確認すると実況が「グレートパワー&グレートスピード&なんちゃらかんちゃら」と言う通り、違う競技のような雰囲気も感じる。本作の競技シーンはかなり見事な出来栄えなのだけど、誇張ではないとわかった。
         先駆者伊藤みどりは、よりパワフルで、彼女の場合、ダンクシュートも決められそうなくらい縦にも横にも跳んでいる。そのパワーの源なのだろう、レスリング選手のような体つきをしていて、おかげで少なくと俺の周囲の人々は当時、優雅じゃないとか上品じゃないとかの理由であまり好感を持っていなかった。改めて映像を見ると、確かに優雅ではないかもしれないが、この跳躍力だけで圧倒される。あるべき形ではない、とうより、新しい可能性を開いた、というべきではとも思う。トーニャ・ハーディングが素行不良でなく、事件も起こさなかったら、女子フィギュアも今とは違うものになっていたのかしらとも想像した。少なくとも、彼女の後、中野友加里が決めるまで10年現れなかったのは、この事件の副作用のようなものではないのかね。

         

         余談。トーニャが肉体改造するシーンで、「ロッキーがロシア人に勝つためにやったトレーニングよ」と彼女が語るシーンがあり、「クリード供で書いたことと思わぬところでシンクロした。あれ?じゃああのトレーニングは意味があるってことか?と思ったが、トーニャ自身は火あぶりも木こりの真似事もしていなかった。

         

        「I, TONYA」2017年アメリカ
        監督:クレイグ・ギレスピー

        出演:マーゴット・ロビー、セバスチャン・スタン、アリソン・ジャネイ


        【やっつけ映画評】牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

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           昨年、台湾に行く前にある程度まとめて台湾映画を見たのだが、本作は見ることができないでいた。ひとつは4時間もの長尺だからで、帰省したとき偶然にも故郷の映画館(メトロ)で上映していて、これは行かねばと思ったものの、4時間の都合をつけるのは無理だった。

           2つめは、なぜ帰省先の劇場に行こうとしたのかと関連しているが、DVD等のソフト化がなされていない犖犬虜酩吻瓩世辰燭らである。なんでも、版権を持つ会社が倒産したとかそんな事情らしい。映画あるある、といえばそう。映画は誰のもの?というか、著作権関連の権利とはなんぞやというか、その辺の問題提起としては典型的なケースだろう。とにかく、そういう事情なので上映をやっているときに行くしかない。

           

           それがとうとう、ありがたいことにDVD化され、レンタルで見ることができた(狄刑遶瓩世らか台湾映画にしては珍しく、近場のツタヤにたくさん置いていた)。

           

           1960年の台北が舞台だから「悲情城市」の続きくらいの時代関係になる。あの映画の冒頭で生まれた赤ん坊と、本作の主人公の少年たちがだいたい同世代になる勘定だ。
           そして「悲情城市」が、いわゆる本省人を描いていたのに対して、こちらは外省人、つまり国共内戦の結果、大陸から台湾に移住してきた人々の社会である。登場する大人たちはしばしば「青島はドイツが作ったからきれいな街だ」とか「これだから上海人は頭でっかちと言われるんだ」とか、何かにつけて出身都市を懐かしんでいるし、子供たちは「いざ大陸反攻だ」などとふざけあっている。

           望郷といえばそれまでのことだが、台湾はあくまで仮住まい、という感覚がそこかしこに漂っている。紆余曲折の経緯を抱えて台北で暮らす「外省人社会」が作品の背景となっているわけだ。このあたりは東山彰良「流」とも重なってくる。

           

           ついでに彼らが住む住居の多くは日式だ。外国の話なのに画面はしばしば昭和日本になる。屋根裏には日本の軍人が残していった日本刀があったり(それが重要なアイテムにもなっていくのだが)、冷凍庫の金属製製氷皿のような一定世代以上の日本人がノスタルジーを感じる日用品も出てくる。こういう生活史のような歴史の断面が画面のあちこちに当たり前のように登場する点も「悲情城市」と似ていて、日本史が絡んでいる以上、余計に引き付けられる。


           主人公たちは中学生で、必然学校の場面が多い。学校や制服の雰囲気、抑圧的な教師なんかは、「飲食男女」「あの頃、君を追いかけた」ともよく似ている。ただしこれらの作品と違って、少年たちの荒れ具合がひどい。大人たちが牴晶擦泙き瓩涼呂如∪茲慮通せない不安の中暮らしているせいか。あるいは生活道路を戦車が通行していく軍政真っ只中の殺伐とした空気のせいか。あどけなさだらけの顔つきとした子供たちが、ヤクザの抗争の相似形をなぞって争っている。アンバランスこの上なく、たまに滑稽にすら映る。


           彼ら非行少年たちは日本の不良同様、群れてグループを形成している。主人公・小四らは「小公園」に属しており、「217」と名乗る派閥と対立している。ネット上の感想で多くの人が述べているのと同じく、俺も当初は、小公園がどうのこうのといきがっている台詞を見て、公園の縄張り争いでもしているのかと思った。「二丁目の人間でもないやつが勝手にこの公園のブランコで遊ぶな」というような。でもそんな可愛い話ではなかった。


           217は「眷村」のグループだと台詞中で説明されている。眷村とは国民党が大量の移住者向けに作った公営住宅群のようなもので、野島剛によると旨い食堂が多いらしい。確かに217のリーダーがむしゃむしゃ食っている料理はなんだか旨そうではあるが、当人の肉付きがいいからそう見えるだけかもしれない。なんとなく、小公園組の住環境に比べ、217組は貧しい印象を受けるのだが、これは大陸での社会的地位をそのまま反映しているのだろう。大陸全土から集まった異質な人々が、九州と同程度の面積の島で暮らすのだから、差異が圧縮配置されることになるから必然目立つようになる。それがまた対立を生むということだろうか。


           この小公園と217の対立抗争の中、小四が恋をしたり、兄や親が厄介ごとに巻き込まれたり、恋の相手の小明に不幸が訪れたり、と複数の登場人物のそれぞれの日常が同時並行的に語られる。必然、登場人物が非常に多く、わかりにくい。このごった煮感も「悲情城市」と似ている。ただしあちらよりややこしい。本名と通称の2つが入り乱れて、誰のことを言っているのかわからなかったり(小四も当初は「小学四年生」のことかと思った。「小四を舐めるなよ」という台詞が、まえだまえだの漫才のギャグ「小5舐めんな」と重なったから余計)、子供が全員同じ制服に、似たような髪型なので区別がつきにくい。

           日本の中学も、髪の規則がうるさく制服着用が一般的だが、生徒の見分けが付きにくくなることをわざわざ課してどうするのだろうと今更ながら教育現場の労働効率に疑問に思った。いや学校だけではない。今時の大学生が就職活動に臨むときのスタイルは、俺のとき以上に統一規格化が激しい。特に女性。喪服の方がまだバリエーションがあるんじゃないかとすら思う(服装というより髪型が大いに貢献しているとは思う点、丸刈り中学と似ている。あとベージュのトレンチコート)。企業側も採用する人をうっかり間違えそうでこれも効率が悪い気がするが、こちらは学校と違って誰かが強制しているわけではない。なので余計に質が悪い。折に触れ、やめようぜくらいの助言はするが、学生は「外野はお気楽ですな」くらいの反応だから難しい。


           


          教材その2

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             たまたま図書館で韓国の小説を2冊借りてきて読み始めたのだが、今一つ趣味に合わず断念していたところ、話題の本書を書店で見かけて買った。ページ数は少なめだが、背負った罪を自覚させられるような内容だったので、幾度か中断して息を吸ったり吐いたり、うむむと唸っているうちに寝たりして、ようやく読み終えた。読み終えて改めて思ったのは、これは自分の過去を振り替えさせられるからキツいだけでなく、日常の中で目にする嫌なことといちいち重なってくるから陰鬱になるのだということだ。


             「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」を見終わった後だけに、たまたま内容がちょっとカブった。あと「ニュルンベルク合流」から受けた印象とも少々カブった。

             

             タイトルにある女性ジヨン氏の半生を人物事典か冒頭陳述の身上経歴のように(で言い過ぎなら吉村昭のように)無機質な筆致で書き綴っていく内容だ。冒頭、ジヨン氏の体に他人が憑依する不思議な現象が起こり、夫が慌てふためくコミカルな様子が描かれる。このとぼけた雰囲気は、韓国のコメディ映画をほうふつとさせるが、笑えるのはここまで。いったい彼女に何があったのか、を探るため、ジヨン氏の生い立ちが時系列に沿って語られる。ここで明らかにされるのが、男尊女卑社会における矛盾だったり悔しさだったり怒りだったりである。

             

             儒教色が濃い社会のせいか、日本よりも男尊女卑が強い印象を受けたが、せいぜい誤差の範囲で本質的には日本も変わらない。最近でも松本人志しかり(放送に載せられないからカットする、という普段山ほどやっている作業の範疇内にあれが入っていないという感覚が凄い)「SPA!」しかり。もっと日常生活レベルでも、SNSの発達で本書に描かれているのと同種の疑問や憤りを目にすることはいくらでもあるし、それにぶら下がっている男性側の反応も、本書に出てくる景色と似たようなものだ。

             

             大まかには「バトル・オブ・ザ・セクシーズ」で出てくることとも重なるが、映画と違って文章は、より細かなところまで表せるから本書の方が問題提起としては余計に突き刺さる。あちらは割と男性側があからさまに敵意を持っているケースばかりなのに対し、こちらは悪意のない無邪気な女性差別が多い。そして無邪気で悪意のないケースは、わが身にいくらでも覚えがある。

             

             ビリー・ジーンと違ってジヨン氏は、ほとんど言い返すことができないでいるので、読んでるこちらも鬱屈がたまるという困難さもある。だからこそ、ビリー・ジーンのような女性が声を大にすることがいかに意義があり、尊敬すべきことなのだ。そう改めて確認させられるわけだが、あれは彼女がことさらに強かったり、立場があったりするから出来ることで、真似をするのはなかなか難しい。それだけに、言い返せない人が主人公の本書の方が、スカっとはしない代わりに、より共感を得そうには思う(だから売れているのだろう)。

             

             ジヨン氏の不可思議な症状を診断した医師の報告、という形態を取っており、記述の仕方は既に述べたように観察記録のような無機質な調子だ。ちょいちょい出典表記付きで統計データも登場するから余計にレポートか報告書のようで、ドキュメンタリーと小説が同居している格好。「ニュルンベルク合流」とカブっているというのはこういった点である。無機質な文章(案外そうでもないのだが)は、好き嫌いが分かれるところだろうが、個人的には最近、こういったジャンルの枠組みを越えるような読み物に興味があるので楽しんだ。


             

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