【やっつけ映画評】カティンの森

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     「残像」が妙に印象に残ったので、同じ監督の著名な作品を見ることにした。監督の名前で作品を選ぶことは俺はあまりしない。大変に楽しんだ作品を見た後、同じ監督の別作品を漁った経験は少ない。なのになぜか、といえば「残像」は作品が面白かったというよりは、何が面白いのかよくわからないが見入ってしまった映画で、そこに監督の怨念のようなものが渦を巻いていると思ったからだ。要するに、ワイダという人が気になったのである。


     タイトル通り、この事件をテーマにしている。名前は有名だが、森で人がたくさん虐殺されて埋められた事件、くらいの乏しい認識しかなく、勉強がてら見た部分もあるが、事件そのもののシーンがないまま残された家族たちの場面が続いていくところが面白い。これは「森で人がたくさん虐殺されて埋められた」という出来事なんだな、と強く再認識した。

     

     第二次世界大戦は、ドイツがポーランドに侵攻したところから始まる。同時に不可侵条約を結ぶソ連もポーランドに攻め入り、分割状態になった。冒頭、ドイツに追われて東へ逃げる民衆が、東から逃げてきた人々と橋の上で出くわす。状況が端的にわかる非常に印象的な場面である。

     

     そうしてポーランド軍兵士は捕虜になり、移送の途中でソ連軍に1万人以上(兵士以外も含む)が虐殺される。この蛮行を暴くのが悪の権化であるはずのナチス・ドイツだから話がややこしい。ついでに犯人側のソ連が最終的にはドイツを破り、ポーランドの牴鯤者瓩箸靴得鏝紊旅餡髪娠弔亡悗錣辰討るから、もひとつややこしい。

     

     映画は、この虐殺で犠牲になった将校の妻を中心に、その家族や生き延びた戦友ら、何らかの形で事件の被害者となった人々が入れ替わり立ち替わりして進んでいく。群像劇のようであるが、あの手法は、様々な登場人物がやがて交差し物語を盛り上げていくのが常なるところ、本作の場合、各自の生きざま死にざまをただ並べただけのような格好になっていて、話が見事に転がっていくというような展開は特にない。というわけで、ひどく散漫で退屈な内容に見えた人もいるだろう。

     

     だけど、事件を起こした側が被害者の国に、この後半世紀弱君臨するわけだから胸のすく物語は期待しようがないのは「残像」と同じだ。

     ここで描かれているのは、ある事実を国家が改竄したときに、何が失われるのかということだと思う。終盤で登場するあの無駄死ににしか見えない青年の暴走〜死が象徴的だ。いかにも若い命を粗末に散らし過ぎに見えて呆れてしまいそうになるが、それだけのことをもたらすということだ。彼以外にも命を散らしたり、自暴自棄になったりする人がいる一方で、膝を屈して生き残りを選ぶ人もいる。共通しているのは、「希望」が失せたということだ。あったものをないと言い出すと、あるべきものも消えるんだなというのがよくわかる。「この人誰だったっけ?」と、途中で混乱してしまうくらい、さして物語を転がすわけでもない総じて脇役っぽいあまたの登場人物のそれぞれの崩壊が生々しく、いちいち深入りしない描き方の分、こちらの感情移入が少ないだけまだ見ていられる。とてもつらい映画だ。

     

     生々しく感じるのは、虐殺の場面が出てこない演出によってリアルタイムな雰囲気が出ているからだろう。各登場人物は誰もその場面を見ていない。確かなことは待ち人が戻らいということと、伝聞で知るおぞましい事件について口にするとその後恐ろしいことになるということだけ。このもどかしさが臨場感を与えている。

     


    【やっつけ映画評】残像

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       芸術家が2時間、兵糧攻めに遭う物語だ。東西冷戦下、ソ連の属国状態にあるポーランドで、体制に与することをよしとしない反骨の画家兼大学教授が、やがて地位も仕事も絵具も奪われ追い詰められていく。
       同じ時期、敵方であるアメリカでも、映画脚本家が東側のスパイといわれて仕事を奪われている。この「トランボ」と、本作はおおまかには似たような内容だ。海を挟んで対峙する共産主義国家と反共産主義国家で似たようなことが行われているのは皮肉である。反中国しか思想のない人が中国共産党的独裁政権を好んだり、「北朝鮮との話し合い」と聞くと発狂する人の主張が北朝鮮的先軍政治になっていたりするのと同じような構造である。
       しかし「トランボ」がどうにか糧道を確保し生き延びる痛快な話なのに対し、本作はまったくもって小田原城だから、実に重苦しい内容となっている。ソ連がいつ崩壊するのかを考えれば、時代設定(1950年代)からいって主人公の戦いに救いがないのは冒頭から容易に予想がつく。ストーリーに特段起伏があるわけでもない。ハッピーエンドが期待できない地味で重苦しい映画。それでも最後まで惹きつけてしまうのは、これぞ世界的監督の力量か。どうしてこんなことが可能なのか、少しはわかったふりをしたいところだが、正直さっぱりわからない(タイトルに相応しく、色彩が印象的で映像に惹きつけられるから??)。同時代を同じく芸術家として生きた監督自身の怨念のなせる業か。だとすれば、二重に重い。これが遺作になってるし。
       ポーランドは、周囲の強国に幾度となく食い物にされる悲劇的な歴史を歩んでいる。第2次世界大戦でもドイツとソ連に攻め込まれ、ドイツ敗戦後にはソ連の傀儡政権が樹立された。鬼が去ったら別の鬼がやってきた格好で、前にも書いたが、この辺りの歴史を「映像の世紀」なんかで見るととても陰鬱な気分になる。映画は戦後まだ間もない1948年から始まっている。

       本作の主人公ストゥシェミンスキが、トランボと違って食扶持を確保できないのは、トランボが業界団体につまみ出されたのに対して、ストゥシェミンスキの場合は国家に弾かれるからだ。抜け道がない。トランボも、あれはあれで息苦しくなる話だったが、容赦のなさでは本作の方がはるか上をいく。
       トランボをつま弾いたのは、マッカーシーという1人の議員の妄言によって、強制されたわけでもないのに社会全体のムードが形成されていったからである。これは大変に気持ちの悪い現象だが、ムードではなく、国家の制度運用によって閉め出されてしまうのは「気持ち悪い」をはるかに通り越して、絶望と恐怖しかない。イメージ通りの共産主義国家とはいえるが、この場合は全体主義といった方が正確だろう。トランボと対立する人々が総じて敵意丸出しだったのに対し、ストゥシェミンスキの敵方である役人は、紳士的な鷹揚ささえ見せるほど余裕ぶっこいて見えるのも、この仕上がった全体主義システムがあるからこそなのか。改めて、国家というのはいくらでも恐ろしい枠組みになりえるのだと実感させられる。
       トランボが生きるために「宇宙船が現れて、そのうちおっぱいボヨヨーン」というようなくだらない脚本を書いたのと同様、ストゥシェミンスキも金のための仕事をやろうとする(抽象画家は実は写実画も上手いというズッコイ真実がまたここでも見られる)。だが、国のシステムから排除されてしまっているので途中でクビになったり給与がもらえなかったりする。最初から警告に従って膝を屈していればこんな目には遭わずに済んだのでは、という批判は一応成立するが、まあできないだろうね。会社員でも「嫌な仕事」レベルのものはさて置き、自分の良心に反する仕事はさすがに気を病むもので、画家のように自分の名前で勝負していれば尚更だ。そもそもなぜ当局に目をつけられたのかを考えると、言いつけ通り従順になるのは難しい相談である。言いつけを守ったところで安泰が確保されるわけでもない。何かにつけて同じようなことが蒸し返される可能性は容易に想像できる。
       このことはつまり、そこまで強大なシステムが、なぜ一介の画家兼大学教授に過ぎないストゥシェミンスキを恐れるのだろうかという問いに尽きる。

      わるいやつほどよくねむる

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         昨年のこの時期も全く更新ができなかったが、今年も同様。2月から首が回らぬ手が足らぬ。大学が春休みに入るので、ここぞとばかりに課外授業が詰め込まれるから、講師屋はあっちゃこっちゃに出向いて朝から晩まで喋り続けることになる。

         

         「ヒトラー、あるいはドイツ映画」という映画があって、7時間超の非常識な長尺で、それも前衛劇のような内容らしい。未見。本で紹介されているのをたまたま目にして、そんな映画があるのかとゾッとしたことがあるのだが、同じくらいの長さ、ずーっと一人で舞台上(教壇上)で演技(講義)しているから、聞いてる彼ら学生は、まるで「ヒトラー〜」の鑑賞者のようなもの好きな若人だなこりゃ。とそんな回りくどいことを想像するくらいには多少落ち着いた。

         

         講義が終わると無茶苦茶疲れている。年々酷くなる。ジムで鍛えるという選択肢が現実味を増している。で、帰宅して、資料作りと添削採点、「時事」の準備(後述)、それと確定申告の作業などなどなど、仕事と雑用があれやこれや。それらを抱えて出張。パソコン持っていったらホテルの客室に備えてあった。時代!

         

         青色申告に切り替えてから2年目。綺麗さっぱり作業工程は忘れているが、少なくとも早めにやっておいた方がいいことくらいはわかっていたので、1月の暇な時期から準備をしていたはずだが、こういう作業は「大体終わった」と思ってからが長い、というのが相場。商売をやっている人に比べれば、はるかに作業はマシだが、なんだかんだ細かく色々間違えるから、手間取る。ついでに昨年書いたように、この手の作業が本当に苦手。

         

         さて国税を巡っては周知のような人事につき、腹が立つから、こういう気分に相応しい曲をBGMにかけようとしていたら、ちょうどいいのが見つかった。「悪い奴ほどよく眠る」。20年前の曲だけど、歌詞は今を生きておる。人の命が軽い、というだけでなく、権利が紙切れのように軽いと表現しているところがよろしい。あいつの言葉がすべてを決めて、朝には現実になる、というのはこれは閣議決定のことだな。まさに何が起きても不思議ではない。そして歌詞中にある「荒れるカルト」というのは、制作年当時は、その数年前に事件を起こしたオウムをイメージしておるのだろうが、現在でいうと、宗教団体ではなくて、カルト宗教化しているWiLL界隈がはまりそう。だって連中「欲を満たすためだけ」だろ?

         

         そうして書類がなかなか仕上がらないうちに、改竄の記事が出て、くだんの長官が辞めて、麻生がなんか言ってる。「ヤツの寝息をかきけして狡猾なからくりを暴くロックンロールサンダー」とは朝日新聞のことであった。そして毎日が続き、死んでいたNHKが動き出した。一人あっぷあっぷとしているうちに、世間がアップデートされている。いつの間にかJRに建設中の新駅が開業していて、新春にコートを買った店が閉店していた。


         改竄どうのこうのというニュースを見ていると、俄然「テキトーでいいじゃん、間違えててもかめへんかめへん」という気分が支配的になり、書類作成が一気に進んだ。お役所に提出する書類って「きちんと正確に書かないといけない」という強迫観念が何よりも作業を重たくしてるんだよね。でも不備があっても、「書き換えといてよ」で済むやんと思うと、重しが取れて手が軽くなる。改竄のおかげでカイザー気分。万人の万人に対する闘争状態になるじゃないか。社会が壊れるぞ。

         

         世の中というのは、こういう些末なことからして「ちゃんとしないと」という善意で回ってるってことで、なんでそんな真面目に考えるかというと、そうやって教えられて育ったからで、なるほど彼らが戦後教育を憎むのは、こういうことだったのかと。ま、ただ今急に何かの変異で飛びぬけた不正が生まれたわけでなく、雪みたいなもんだ。1つ1つは地面に着地した瞬間消え失せるように見えるんだけど、気づいたらドンと積もってる、みたいなもので、それなりの積み重ねの中で必然行き着くところに行き着いた(まだ途中経過かもしれんけど)格好だろう。腰を落ち着けて組み立て直すしかない。

         

         とにかく書類をそろえ終わって仕事の合間を見つけて税務署に行ったらば、予想通り受付に出して一瞬で終わった。商売をしている人だと思うが、周りはどっさり色んな書類を抱えて窓口に立っているが、こちらはクリアケースに収まる数枚程度。子供のころの植物採集を思い出した。図鑑で調べても名前がわからないやつを専門の人が判別してくれる催しが、夏休みの児童会館かどっかで毎年開かれていて、夏休みの宿題で嫌々採集したのを持っていくのだけど、堤防の雑草でテキトーに済ませた己に比して、周囲はマニアックなシダ類なんかをキレーに台紙に張っているのを大量に持っていて、なんというか「この場所と時間は俺のためにあるのではない」という思いを抱いたものだった。説明を要した割には大して関連性のない思い出話だった。あのころは持ち込んでいる標本がショボ過ぎるから隣で母親が「恥ずかしい」を連発していたものだったが、確定申告にショボいも恥ずかしいもない。

         

         ところで俺の仕事的にはこの時期、時事問題試験の対策のために講義がまわってくる。昨年あった出来事をまとめたテキスト類が出版されるのが2月くらい。それを受け取ってひどいときは「来週授業よろしくです」という無茶なスケジュールになる。一応普段から横目では報道を見ているが、横目でしか見ていないので正確には把握していないし、全部を知るわけでもなし、事実上ゼロからのお勉強となる。これが今年はかなり苦痛。なんせ「人づくり革命」なんてなフレーズが太字になっている。今の政権が、出来損ないのキャッチフレーズみたいな政策(?)を乱発しているのは知ってはいたが、まるで歴史の教科書の「目安箱」とか「ナントの勅令」とかみたいに太字になって並んでいるのを見ると、勘弁してくれよという気分にそりゃなる。覚える学生もたまらんわな。ま、逆に覚えやすいといえばそうだけど。ただ学生たちは素直なので「やはり重要なのはおもてなしの精神である」という具合に、思い切り広告屋の作り出すフレーズを真に受けたことを論文に書いてくるから、一番恐れているのはそこでなんである。


         ところで試験用のこういうテキストは、ある課題についてこういう法制度が出来たとかやったとかが羅列されているだけなので、読んでいてもろくに頭に入らない。それで新聞社が出している時事用語解説本とか新聞記事とかを見ると、ああそういうことねとようやく腑に落ちることもしばしば。ブン屋の一日の長を如実に感じられる。ロックンロールライトニングが照らしてるんだろうな。


        【やっつけ映画評】ザ・シークレットマン

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           「大統領の陰謀」の反対側を描く物語。要するに、このおじさんのお話である。

           原題はこの人の名前そのまんま。アメリカ映画では、こういう「半沢直樹」的タイトルは割と多いが、それだと意味がわかりにくいせいか、日本だと「徳川家康」「武田信玄」のように歴史上の人物以外でこういう題をつける習慣がないからか、大抵は差し替えられる(「ランボー」=原題First bloodのような逆のケースも稀にある)。それだったら邦題は、まんま「ディープ・スロート」でいいんじゃないかとも思ったが、同名のエロ映画があるからNGか。というか、そのエロ映画があだ名の由来だけど。登場人物のワイシャツの襟先が軒並みツンツン鋭角に尖っているのがまぶしい作品である。

           

           「大統領の陰謀」で強烈な存在感を放つ情報提供者「ディープ・スロート」が主人公で、題材も当然ウォーター・ゲート事件だ。「陰謀」での主人公だったウッドワードも超脇役ながら登場する(あと、「陰謀」では名前しか登場しない事件関係者も若干名登場する)。夜の立体駐車場が両作の交差点だが、これだけで「キターーー!」と気分が昂揚する。そして、「陰謀」よりもリアルに、いかにも会社連泊が続いてそうなヨレヨレのシャツ姿の若者が現れるのを見て、なぜだか目頭が熱くなった。40過ぎてこの方、涙腺の感覚がすっかりおかしい。この、同じような場面が別視点から再生される様子は、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」あたりのタイムパラドックスものを思い起こさせる。

           

           本作のテーマは、「官僚」とは何ぞや、だろう。「ロシアゲート」などとウォーターゲートになぞらえた疑惑が指摘されているトランプ関連のニュースを見れば、なぜ本作が制作されたのかは想像力を働かせるまでもない。そして本邦にとってもタイムリーな内容だ。
           主人公のマーク・フェルトは、「陰謀」では、「素性も理由もよくわからないがヒントをくれる人」でしかないが、それもそのはずで、作品公開当時はまだ謎の人物のままだったから、これしか描きようがない。フェルトが死の直前に名乗り出たことで明らかになり、本作はその自伝をもとにしている。「高度な情報を知りえるそれなりの立場の男」というくらいは「陰謀」でも想像がつくが、実際にはFBIの副長官だったというから、それなりの立場どころか首脳である。

           

           こういう人が情報をリークしてくる意図は、私怨か世論形成のどちらかと相場が決まっているものだが、フェルトにはどちらも当てはまる。前任の長官がいなくなり、新長官として周囲も当確をささやく中、よそから落下傘的に別の人間が抜擢され、その上フェルトとは考え方が合わない。合わないどころか、完全に大統領側の人間なので、捜査の幕引きを画策してくる。長官がこうだから、副長官が抵抗しようと思えば報道を動かすのは定石ともいえよう。ただし国家公務員としては禁じ手である。本作では機密情報をダダ漏らしているように見えるが、「陰謀」ではヒントをほのめかす具合に描かれている。おそらく後者の方が実態には近いだろう。とにかく捜査の話が新聞にドーンと掲載されるから、部内では当然「漏洩した裏切り者を探せ」ということになり、それと同時に事件潰しは着々と進行する。展開は割に地味だが、この緊迫感に惹き込まれた。

           

           ニクソン大統領がFBIに介入しようとしたのは、前任者の存在が大きい。創設者にして長期独裁を敷いたJエドガー・フーバー長官は、歴代大統領の醜聞を収集して主導権を握る陰湿な人だった。この辺りは「Jエドガー」でも描かれている(同性愛の恋愛劇と出来の悪い老けメイクばかり印象に残っているが)。捜査機関が自身の情報収集能力を濫用しているような格好だから、官僚の暴走といってよい。彼の退場とともに、ニクソンがFBIに首輪をつけようと考えたのは必然だろう。

           

           これは好意的に解釈すれば、軍隊のシビリアンコントロールみたいなもので、強大な権限を持つ国家機関を野放しにしておくわけにはいかず、国民全体の奉仕者として適切に管理されなければならない。
           とはいえ一方で、全てが大統領の下にあるのは、これはこれでいかがなものかという実例が本作の扱っている出来事でもある。己が関与した犯罪の捜査にストップをかけることができてしまっては正義はどこにあるというのか。ニクソン自身、官僚の暴走を防ぐというような崇高な考えのもと首輪をかけにきたのではなく、もっとわかりやすい理由に基づくものだというのは、冒頭、前長官の秘密資料を「よこせ」と言ってくる時点でまるわかりである。

           

           本作の8割以上は、「大統領だろうが誰だろうが犯罪は犯罪として捜査し立件する」という捜査機関の独立性をめぐるフェルトの奮闘が描かれている。じゃあ残りの2割弱は何かといえば、これは後で触れる。


           


          観劇の感想:TERROR

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             久しぶりの観劇。テレビに出ている有名どころがでっかいホールでそれなりの代金取ってやる舞台に限れば、10年ぶりくらいになろうか。「劇団代表者のブログ」という設定にあるまじき間の空き具合。紙媒体の情報誌がなくなって、演劇に限らず、興業の予定を恒常的にチェックすることがなくなったのが大きい。そもそもチェックしようという姿勢が消えているのもある。情報誌が消えてチェックする習慣も消えたからか、それとも加齢のせいか。いずれにせよ、あまりよいことではない。

             

             まあ、大劇場な演劇にはそれほど食指が動かないことも事実。別に小劇場にストイックにこだわっているわけではまったくなく、単に興味が湧く作品とうまいこと出くわしていないだけのことだ。ついでに10年くらい前に見に行ったときは、出演陣も舞台セットも豪華でいかにも金がかかっていたが、安いサイコホラーのような内容で、著しく疑問を覚えながら帰ったものだった。映画ならつまんなくても「お仕事だから」で片が付くが、出演・制作陣にとっても見に来る客にとっても一回性の、高コストな舞台で、どんなモチベーションでこんな帳尻合わせのようなどうってことない作品を作るのだろうかと思ったものだった。当時は一所懸命舞台をやっていたので、俺自身「なんでこれ作ってるんやろ」としばしば生産性のない疑問に取りつかれていたので余計に。

             

             思い出話を書いてしまった。とにかくネットでたまたま見かけてついチケットを予約してしまった。予約したときは暇があったが、いざ当日になると割とそんな場合でもなくなっているあるあるも久しぶり。


             原作がシーラッハというからそれなりおもしろいのだろうと期待しつつ、シーラッハがそれほど好きでもないので、予約して「しまった」になる。「犯罪」しか読んでいないが、古典作家の短編集のような上手さは感じつつ、あまり後味もよくないしでそんなに好きになれなかった。有能な弁護士らしいから、できるやつは何でもできるんだな、ついでにフェルディナント・フォン・シーラッハの「フォン」て貴族の出ってことちゃいますのん、というような醜い嫉妬も手伝いつつ。

             

             今井朋彦、堀部圭亮といった渋い役者が出ているという方が動機付けとしては大きい。実際、二人とも声がよく通って魅力的だった。役どころがテレビでよく振られるのとは違う点も舞台の魅力だよね。マーケティング的には橋爪功が看板だが、物語の中では脇役だった(そもそも主役は誰だ、という類の作品ではあったが)。加えて、この手の大きな劇場でやる公演の割にチラシのデザインがよかったのも後押しした。色々と大人の事情もあるのか、それとも見に来る層に合わせた結果なのか、とにかく大きい劇場でやる作品のチラシは、なんで?といいたくなるほどダサいのが多い。チラシデザインだけは、小劇場の方が圧倒的にセンスのいいものが多い(同じくらい仰天するのも多いが)。

             

             法廷モノである。というよりは模擬裁判に近い。法廷のセットを組んでいるわけではなく、舞台上には椅子と小机くらいしかないが、被告人や証人への質問があり、検察官と弁護人の双方の意見陳述があって、という裁判の進行に乗っ取った構成だ。再現を演じたりはしない。いってしまえば朗読劇のようでもある。かつて自身の劇団作品を評して「立ったり座ったりしながらしゃべってるだけ」と書いたことがあるが、拙作以上に「立ったり座ったりして喋っているだけ」だった。役者が全員手練れなので惹きつけられるが。
             一番のウリは、観客は「参審員」という設定で、観客の投票で有罪/無罪が決まる参加型という点。ドイツが舞台で、ドイツは参審制なのでうまくマッチしている。俺はあまりこのような「参加型」には魅力を感じない、と思っていたが、結果的には色々と考えさせられることとなった。
             このような趣向である以上、作品内容は有罪/無罪が分かれそうな話だというのは予想がつく。
             

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