【やっつけ映画評】モリエール 恋こそ喜劇

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     コルネイユ、ラシーヌ、モリエール。すでに述べたように、これもまた高校時代、世界史のテスト勉強でただ機械的に名前を覚えたものだった。絶対王政時代のフランス演劇界における三羽烏、程度の理解。何となく似たような音の響きと文字数のリズミカルな具合で覚えやすかったものだが、3人の区別はついていなかった。

     試験上はそれで何の問題もなかったのだが、大学に入ってフランス語を履修したとき、ちょっとした問題と出くわした。授業で読解したのが、彼らフランス演劇界の大家たちについて、200年くらい後のフランスの演劇批評家が書いた文章、についての批評を別の人が書いたという、二重、三重にややこしいテキストだった。元を知らないのに批評を読んでもちんぷんかんぷんである。


     この場合、とりあえずはコルネイユなりラシーヌなりの作品を手に取るか、あるいはそれを解説した入門書の類を読むのが真っ当な学生のありようなのだけど、そんなことすら思いつかないほど薄っぺらかった。

     一人ではとても手に負えないと考えた俺含む友人4,5人が、1人の下宿に集まって協力して訳していった。そこだけは学生ぽい。その作業中に、「こんなものを読んで何になるんだ」と1人がコボすと、別の男が「会社に入ったとき社長から君はモリエールを知ってるかね、って聞かれるかもしれへんやん」と冗談で返していた。あくまで冗談ではあるものの、あのころ我々が、世のエグゼクティブは難解な古典をそらんじて若輩者を威嚇するというイメージを持っていたのは確かだ。世に出てわかったのは、そんな教養人はめったにお目にかからないということだった。

     

     むしろ演劇のチンピラの方が戯曲限定ながら知っている人が多い印象。シェイクスピア、チェーホフ、ブレヒト、ベケットは付き合いのある芝居人が出演していた。特に最初の2人は人気が高い。ただし、かのフランス三人衆には俺個人の芝居ネットワーク上では今のところ縁がない。

     

     というわけで本作を見てお勉強である。
     DVDに収録されていた他作品の宣伝が、どれもこれもつまらなさそうなC級作品ぽいものばかりだったので、まったく期待せずに見た。しかしながら、結論から先にいえばこの映画は結構な傑作だった。

     

     作品解説によると、モリエールが若き日に借金が返せず投獄されるところと、旅芸人としてパリを離れてフランス各地に巡業に出たのは史実通りで、その間に起こった出来事を想像たくましく仕立てたフィクションとの由。モリエールがモリエールになるまでのエピソード0的な物語である。おそらく彼の作品に造詣が深いとニヤリとさせられる演出が散りばめてあると思うのだが、よく知らないので無論気づかない。せいぜい、モリエールが神父に化けたときにテキトーに名乗る偽名「タルチュフ」が、後年、実際に彼が遺した作品からきているという点が気づけた程度。それでも映画自体はかなり楽しめた。

     

     いわばヒーローものになっている。まだ無名ながら演技と脚本には一定の力量があるという設定のモリエールが、その狷端貲塾廊瓩任發辰匿А垢肇肇薀屮襪魏魴茲靴討い構成だ。タイトル通り、全体には喜劇のノリだから、演技力を用いたトラブル解決とは、要するに一種の「化かし合い」である。その手の作品がしばしば「笑いのためにわざわざトラブルになる」といった作為が鼻につくところ、本作の場合はそこまでのドタバタはなく、ほどよい塩梅でストレスなく楽しめた。

     

     一つには時代設定があろう。絶対王政の時代、権力と時間だけはある宮廷貴族たちがサロンに集って、芸術への造詣マウンティング大会を日々繰り広げている。そんないわば虚飾まみれの世界に、才覚以外何も持ち合わせていないモリエールが乗り込んでいく構造だ。パンクロック的な痛快さがここにはある。

     

     その中でも、悪役のドラント伯爵が、ちょうどモリエールの対抗軸となっている。ただの貧乏貴族だが、外見が偉丈夫なのと宮廷にうまく取り入ったコネとを利用して、地位や名誉の欲しい豪商を手八丁口八丁だまくらかし不労所得をかすめとろうとする。いわばちんけな詐欺師野郎なのだけど、「嘘」の使い手という点ではモリエールと同じだ。その「嘘」を、金のために使うか人間真理の追求に用いるかの違いである。この対比が「演劇とは何か」の問につながっている、というのは大袈裟にしても、黒魔術×白魔術の演劇バトルといった面白さがある。

     

     本作でモリエールは、悲劇をやる才能が皆無で、喜劇の才はあるものの、当人は悲劇こそが本当の演劇だというコンプレックスからなかなか抜け出せないでいる。そういう中で、ドラント伯爵その他、色々な人々の主に恋愛を巡るドタバタに巻き込まれていく過程を通じ、当人なりの喜劇(ないしは悲喜劇)を見出していく。ただし、たどり着いた境地がもたらす作品がどういうものだったのかはクライマックスの上演シーンを見てもあまりよくわからない。その点、最後の切れ味不足の印象もあるが、そこはまあ、現実のモリエール作品を見て確かめろということなのだろう。

     

    備忘録1:モリエールが新作を書き上げて劇団員に配るシーン。手渡された本を読み始めた団員が、三々五々クスクス笑い出す様子は激しく頷いた。脚本を書き上げた後、まず訪れる至福の瞬間だ。と経験者風をふかしておく。

     

    備忘録2:モリエールがマダムをまんまと篭絡するシーン。一見、相当に気難しそうな気高いマダムが、モリエールの滑稽な演技に腹を抱えて爆笑する様子が、もう完全にメロメロですやんというのが見え見えで、なんともエロチックだった。この女優、本作出演時で50過ぎてるそうだけど、全然みえんなあ。

     

    「Moliere」2007年フランス
    監督:ロラン・ティラール
    出演:ロマン・デュリス、ファブリス・ルキーニ、ラウラ・モランテ


    試験に出る文豪と映画の感想

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       先日、仕事の関連で「試験に出る文豪リスト」のようなものを作成した。時代と国と作者名、代表作名をただひたすら並べるだけ。やっていて非常に心苦しい。作業の退屈さもさることながら、書き並べているほとんどについてロクに知らないからだ。

       

       ダンテ→神曲、などと高校の世界史(日本史でも同じ作業だが)で覚えたものだが、文化史関連の人物は覚えにくい。一定のストーリー込みで習う権力者の歴史と異なり、文化方面となると「このころの〇〇な社会を背景に△△な芸術運動が盛り上がり」程度の説明の後に名前と作品名が羅列されるくらいにとどまるから、記憶がより機械的になる。

       

       もちろん、作品に触れればすぐ覚えられる。絵を見れば、マネとモネもそれなりに区別して認識できる。文学も論理的にはそうだ。が、絵のようには気軽にいかない。
       手に取ることはそれほど難しいことではない。岩波、ちくま、中公、新潮、最近だと光文社等々の各文庫のリストを眺めれば、教科書に出てくる作品のほとんどは和訳されているのがわかる。関係各位が積み重ねてきた財産に感服することしきりである。なのでアリストファネスにしろトマス=マンにしろ本屋か図書館にでもいけば簡単にお目にかかれるわけだが、正直、読めん。

       中にはスラスラ読めて楽しめるものもあるが、そうでないものも多々。土台、テーマからして読む気がしないものが多い(俺の場合だと、貴族の恋愛なんかがこれに該当するので、結構な数の名作が興味の範囲外になってしまう)。

       

       しかし、百年前、三百年前、何なら二千年以上前の作品が今に伝わるこの人類の蓄積を知らないふりするわけにもいかんだろう。と、考え始めたのが三十歳を過ぎたころからだったと思うが、あれからあまり読んだものは増えていない。なので軟弱な俺は、映画から入ることにした。

       

       映画化された古典はそれなりにある。ただし、「嵐が丘」のように何度も制作されている例もあるが、大抵は古い作品が多いので、とっつきにくかったり入手困難になっていたり。映画だからといっても、案外気軽ではないケースも少なくない。
       もう一つの映画化パターンは、作品ではなく作者を映画化したもので、こちらは割と手法としては新しいのか、最近の作品が多い。俺自身、歴史好きなため、その作者がどんな人間だったのかは興味の湧くところである。

       

       すでに見たものでいうと、「ミッドナイト・イン・パリ」。これは創作おとぎ話だから趣旨が違う。が、ヘミングウェイの魅力が光っている。それから「もうひとりのシェイクスピア」。こちらは別人説を描いているので余計に趣旨が違う。シェイクスピアは完全な脇役であまり登場しない。「ハンナ・アーレント」「マルクス・エンゲルス」の哲学者シリーズは、史実に沿ったフィクションで、哲学者も小説家同様物書きであるから、いわばこういう系統の作品を探して見てみようと考えた。おりしもサリンジャーの映画を上映しているが、間もなく終わりとあってスケジュール的に難しい。


       それでまず見たのが「サルトルとボーヴォワール 哲学と愛」。タイトルで全部説明されている。
       歴史に名を残す2人の思想家・作家の関係を描いた作品だ。思想家の場合、倫理の授業で習うので、著作を読んでいなくとも何を言った人なのか最低限の知識はある。サルトルは実存主義の哲学者で、「実存は本質に先立つ」と「人間は自由の刑に処されている」を覚えておけば概ね試験には正解できる。ボーヴォワールはフェミニストで「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」が有名。この世界的に著名な2人についてまとめて知れるのだから、お得な作品じゃないかと再生したが、30分ほどでギブアップした。


       というのも、サルトルが全くもって気色悪いのである。先日読んだ「82年生まれ、キム・ジヨン」に、教室で配布プリントを後ろの席に回すとき「ニコニコ愛想よく渡してくれる」として俺に気があるとばかりに主人公に付きまとってくる男子が登場するが、あの手の妄想系ストーカー全開の様子でボーヴォワールに接近してくる。

       この大変に気色の悪い男に、彼女も当然嫌悪感を示すのだが、いつの間にか恋に落ちていてボーヴォワールもとんだイカレ者だと2人まとめてついていく気が失せてしまった。

       「新しい愛のかたち」と予告編映像のキャッチコピーにはあるが、確かにある意味新しい。新しいとは理解不能の雅語なのだな。

       

      「Les Amants du Flore」2006年フランス
      監督:イラン・デュラン=コーエン
      出演:アナ・ムグラリス、ロラン・ドイチェ、カル・ウェーバー


      映画の感想:ブリッジ・オブ・スパイ

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         グリーニッカー橋のスパイ交換を題材にした手練れ監督の作品。「リンカーン」や「ペンタゴン・ペーパーズ」等、史実モノを実に巧く作っているのに、いまだにこの監督、俺の中ではジョーズ、ET、インディ・ジョーンズの人である。それで久々にお気軽なSFを見てやろうと、この監督の「レディ・プレイヤー1」を借りてきたが、肌に合わなくて途中でやめた。それでいて本作は楽しんで見た。歴史モノの方が上手いんじゃねえか?と思ったが、単に俺自身の好みに過ぎない気もする。

         

         グリーニッカー橋の話を知ったのは、恥ずかしながら横山秀夫「半落ち」だった。検事が記者に、ヒントとも愚痴ともつかぬ調子で漏らす一言で、こんなことボソっと言われても、俺ぜってーわかんねーよ、と思いながら読んだ覚えがある。
         この検事は「互いの捕虜を交換する取引に応じてしまった」という自己嫌悪を吐露していたのだが、本作を見ると、そういう単純な話ではないということがわかった。歴史をキーワードで済ませないというのは大事っすね。

         

         2015年の制作で、割と最近の作品だ。監督には、この半世紀前の事件に何かしら今に通じる部分を感じるところがあって制作したのだろうと推察するが、今現在、より本作で描かれていることが肌身に迫るように思える。敵/味方の単純な線引き、「敵」を「殺す」以外の選択肢を取るやつはやっぱり「敵」という短絡さ。

         先々まで見据えれば、このソ連のスパイは生かしておく方が得策、という深謀遠慮は三国志だと「格好いい(or侮れない)登場人物」として、同じく「敵だから殺せ」はすぐさま滅びる雑魚として、さんざん出てくるはずなのだけど、現実世界ではしばしば後者が幅を利かせるんだよなあ。三国志にハマる男子は、しばしば自分が孔明ほどではなくても荀くらいの知性はあるとか、関羽ほどではなくても夏侯惇くらいの統率力はあるとか思い込むのだが、俺も君も等しく邢道栄に過ぎないのだよ。

         

         米ソ双方、表向き「諜報?はて何の話でしょう?」という立場を取るので政府同士の話合いにならず、主人公のような一弁護士が冷戦の最前線に立たされるおかしな展開になるのだが、何で一私人のオッサンが国同士の命運を左右するポジションにいるんだという点、実にヒーローもののフィクションぽくはある。そんなことを思って見ていたら、ラストの字幕解説によると、主人公ドノヴァンは今回の手腕を見込まれ、大統領から次の任務を言い渡されたとあるから、完全に007と同じ終わり方である。当然、第2作「ベイエリア・オブ・スパイ」が待たれるわけだが、これはフィクションではないので、よくよく考えるとふざけた話である。政府が陰謀作戦実行して、失敗したら弁護士にケツ拭かせてる格好でしょ、これ。なんじゃそりゃではあるよね。

         

         このドノヴァン、弁護士の本領発揮で、手八丁口八丁な交渉術でソ連、東独を相手に立ちまわるのであるが、そこだけに目を奪われてはいけない。軍人だけでなく、それこそ「自業自得の自己責任」的につかまっちゃった学生の救出についてもまったく譲ろうとしない。国防とかなんとかを超えて、人権守ってナンボでしょ弁護士ってのは、という頑固さが眩しいのである。誰であれ国民を守る、それがホントの国益でしょうよ、という立場は、全員正座して目に焼き付ける部分だと思う。

         

        「BRIDGE OF SPIES」2015年アメリカ
        監督:スティーヴン・スピルバーグ
        出演:トム・ハンクス、ピーター・マクロビー、アラン・アルダ


        映画の感想:ラ・ラ・ランド

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           話題作をテレビ放映でようやく見た。
           予定の管理が雑な男女の物語だった。
           まあ、恋愛は往々にしてこういうくだらないミスによって取返しのつかない結果になるもので、特に若いときほどそうだと思うが、CM明けに画面隅に出ていた惹句には「大人の恋」だとか書いてあった。ちゃんとしろよ大人。

           

           予定がダブルブッキングしたとき、片方はそれをうっちゃって相手のもとに駆け付けたのに対し、片方は自分の都合を優先して後で相手にフォローする方を選んだ。結果は推して知るべしで、この点は恋人関係なり夫婦関係なりで、肝に銘じておく真理のように思った。
           にしても、ご都合主義の感否めず、本作は要所要所でちょこちょこその辺が目立って、世評ほどには感動できなかった。

           一番気になったのは、ヒロインのミアが評価されるところ。オーディションをいくら受けても落選続きなので、いっちょ自前で一人芝居公演を打ってやろうと挑戦するのだけど、客の入りも評価も惨憺たる結果。でもキャスティングの会社からオファーが来る。「わかる人はわかってくれる」という展開なのだけど、じゃあ拾う神は何をわかってくれたのかはサッパリ見えない。

           そもそもミアがどんな作品を演じたのかも全く描かれていない。一方の恋人セバスチャンについては、ジャズを語るし演奏もするし、色々シーンが割かれているのにだ。

           

           男は自分のやっていることを語りたがり、女はそうでもない、という景色はよく見かけるし、俺自身もそれこそmansplaining野郎なので、この非対称は典型的といえばそうなのかもしれないけど、曲がりなりにも男女それぞれの人生と恋、という映画だから、ちょっとどうかしらとは思う。


           一人芝居の客の入りについては、既視感たっぷりで妙にリアリティを感じてしまった。少ない客のうちの結構な割合が友人知人というところ含め。あと、見終わってすぐ客が感想を口走るのは禁忌である。劇場内で「ツマランかった」などという人はさすがにめったにいないが、劇場出た瞬間口にする人はいる。でも周囲の客の中には縁者がふんだんに含まれれているので、最寄り駅から乗った帰りの電車を降りた後か、もしくは居酒屋、喫茶店等々に入店した後かにするのが賢明である、感想を言うのは。

           

          「LA LA LAND」2016年アメリカ
          監督:デイミアン・チャゼル
          出演:ライアン・ゴズリング、エマ・ストーン、カリー・ヘルナンデス


          【やっつけ映画評】私はあなたのニグロではない

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             タイトルがキャッチーだ。黒人が映画等の表現行為の中でどのように消費されてきたのかを詳らかにするドキュメンタリーかと思っていたが、ちょっと違う内容だった。予断が外れることが最近多い。一応、そういう部分もかなり出てくるのだが、別に主題というわけではなく、黒人差別全体の構造を明らかにするという大きなテーマの一部に過ぎない。


             ジェイムズ・ボールドウィンという作家の未完成原稿が元になっている。書籍の映画化というと、最もポピュラーなのは小説を劇映画にするパターン。次によくあるのが、ノンフィクションを劇映画にした作品である。書籍をドキュメンタリーにするケースは、著者や作品のゆかりの地を女優が歩きながら朗読する、なんてのが該当するだろうか。

             本作の場合も種本を有名俳優が朗読している点は共通だが、ナレーションとして流れるだけで、当人はまったく登場しない。あとでクレジットを見て知ったくらいだった。本作を構成する映像は、著者の記述内容に対応したニュースや映画のつなぎ合わせである。これは異色のスタイルではないだろうか。

             

             学生相手の仕事で学者や評論家らの文章を読ませることがある。高校の現代文の試験を思い出してもらえればよいが、多くが形而上的な内容だったり、具体例をあまり伴わずに抽象的な記述を重ねる形で筆を進めている。このため一見すると日常生活には何ら関わりがない話にも思えるのだけど、実は必ずしもそうではない。案外、身近な物事と密接なことを述べていることもしばしばだ。なので学生諸君に「例えば友達なんかと普段こういうことがあるでしょ」なんてな具合に例示する(逆に彼らに考えさせるときもある)。本作がやっていることはこれと似たような当てはめだと思う。


             これは結構他にも転用できる手法ではなかろうか。例えば名著とされる古い書籍の内容が、今の世の中にもバッチリ当てはまっている濃密なものだったとしても、妙に難解で読みにくいというケースだ(哲学系の本が典型例)。その内容に即した映画なりテレビ番組なりの映像を、書籍の該当箇所とともに提示していくと、容易に理解できるだけでなく、スリリングな作品になるかもしれない。

             今時は特に、新興企業の経営者とか、最先端を気取った業者とか学者とかが、100年200年前にとっくに喝破されたような理屈をスカしながら垂れている様子をよく見かけるから、お前ら何周回遅れの最先端やねんというようなドキュメンタリーが作れそう。本作を見ながら、そんなことを夢想した。

             

             ただし本作は、ボールドウィンの同時代の映像が圧倒的に多く使われているから「今にも当てはまる」がわかりやすく可視化されている部分はそれほどない。ついでに出てくる映画は古いものが多いので、オールドファンとかコアな人なら「おお!」と食い入るところ、軟弱者の俺は「へえこんな映画あるんや」程度の受け止め方であった。

             人によってはとうの昔に別のとこかで見聞きしたことのくり返しに思えるのではないかとも想像する。俺もまあまあそうだった。これもひとえに「42」「RACE」「Hidden Figures」「デトロイト」等々、このブログで紹介した黒人差別をテーマにした映画、あるいは「セデック・バレ」「パレードへようこそ」「猿の惑星」等々それ以外の差別なり民族対立なりが含まれる作品を見たおかげだ。

             このボールドウィンの生きた時代(キング牧師やマルコムXと同世代の知人)に比べれば、見る側に色んなことを気づかせる作品が数多く生まれているという点、好転している部分もあるといえる。無論、国際ニュースを見ていると、そう楽観的なことでもないことはすぐにわかるのだけど。

             

             差別ということでいえば、日本にも「あん」だとか古いところでは「ブルークリスマス」とか、よい作品はあるのだけど、数が少ないからか、国民の大部分が見てくれの似通った人間同士の時代が長く続いたからか、鈍感で遅れをとっている。

             つい先日も、日清のCMにおける大坂なおみの描き方が問題になっていた。大企業の依頼で、おそらく大手の広告屋が制作した、つまり優秀な人間がある程度いるはずの現場なのにあれでOKが出てしまう辺り、随分呑気で幼稚で勉強不足だ。そしてお約束のように吉本芸人が「叩きたい病だ」と、「何でも『叩きたい病』に見える病」なコメントしていて、それを一つの意見として取り上げてしまう新聞社(こちらも優秀な人間がそれなりいるはずの企業)も呑気で幼稚で勉強不足だ。

             前にも書いたが、芸人は不謹慎なことをやるという職業柄、日常的に苦情に接していると想像するが、そのせいで筋違いのクレームも意義のあるクレームも、ミソクソ同じに見えるケースが多いのだろう。せめて一度見直してほしいものだが、周囲がそれに同調してどうする。あんたら諭す側だろ。

             

             というわけで、本作の役割もまだまだ大きいようだ。無論、俺も本作で指摘されていることをすべて理解しているわけではないから偉そうなことはいえない。文学的な作りのせいか、まだわかっていないとても大事なことを提示されたような印象も実は受けたのだけれど、それが果たして何なのか、別の映画を見たらまたわかることもあるかもしれないし、半世紀なり一世紀なりの遅れで、ここで指摘されている構図が、モロに今後の日本社会で顕在化してきて実感を伴う理解につながるかもしれない。

             

            「I AM NOT YOUR NEGRO」2016年アメリカ=フランス=ベルギー=スイス
            監督:ラウル・ペック
            ナレーター:サミュエル・L・ジャクソン


            【やっつけ映画評】アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル

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               邦題のサブタイトルが示している通り、ある意味世界で最も有名な女子フィギュア選手トーニャ・ハーディングが主人公の伝記映画だ。ライバルを襲撃して怪我を負わせるという昼メロもびっくりの事件によって歴史に名を残した。ついでにこの被害者のナンシーケリガンも、メダリストなのに「あの事件でやられた人」として名前が定着してしまい同情を禁じ得ない。

               

               スポーツ界でこれに匹敵するスキャンダルを探したが、なかなか思いつかない。ライバルの飲み物に禁止薬物をこっそり入れていたカヌーの選手は、知能犯な分、より陰湿な印象があるが、メダル候補とまではいかないので世間の反応もそこそこだった。
               サッカーW杯で試合中に相手選手の肩に噛み付いたウルグアイのスアレスは、実行犯な上(ハーディングは実行犯ではない)、何億人も見ている大舞台での不正行為ではあるのだが、こうた・ふくたの漫才とカブってしまったせいかケリガン殴打事件ほどの騒ぎにはならなかった。
               同じく試合中に相手の耳を噛みちぎったマイク・タイソンの例もあるが、ボクシングは(サッカーも)ならず者が多そうなイメージがある分、やはりトーニャの方が上を行く。悪役選手などいなさそうなフィギュアの世界だからこそ衝撃だったといえる。この辺りは本作のサブテーマともつながっている。後で触れよう。

               

               事件当時、俺は高校生だった。五輪の舞台で、靴紐がどうのと審判員に泣きながら訴えていた様子も見た覚えがある。苗字がかつての米大統領と同じなので(試験にはあまり出ないが世界史オタクだったので知っていた。周囲をヤクザな友人で固めていたという点では後述する通りトーニャと似ているが、この爐友達疣中が利権を貪っていた点はどこかの首相とも似ている)、ブロンドヘアーの外見も相まって、金持ちの非常識わがまま娘の暴走だと勝手に思い込んでいたものだった。完全に偏見であるが、社会への認識も幼かったといえる。彼女の狼藉の背景にあるのは金持ちの思い上がりではなく、まったく逆の貧困だからだ。

               

               彼女の生まれた環境は「ウィンターズ・ボーン」「スリー・ビルボード」を彷彿とさせる田舎町だ。貧しいだけでなく、ろくでなしだらけ。あの2つの作品にはものすごい迫力の刀自が登場するが、本作でも同じ。トーニャの母が実に恐ろしい。トーニャによれば「モンスター」で、まさにモンスターペアレンツなど可愛いものだと思ってしまうくらいの怪物ぶりだ。全く共感できない方向に強烈に筋が通った女性である。星一徹も霞むほどだ。モンスター母の虐待を受けて育ったトーニャが夫に選んだのが、これまたろくでもないDV男。暴力が次の暴力を呼び込むパターンである。この夫の友人がさらに輪をかけて救いようのないバカの虚言癖で、結局このろくでなしサークルを断ち切れなかったのがトーニャの破滅へと繋がっていく。

               

               健康優良な人だと、トーニャがずるずると関係を保ち続けたことが心底愚かに見えて理解不能ではないかと推察するが、「嫌ならそこを出ればいい」が実行不可能な正解であることはしばしば。トーニャの場合、ウインターズ・ボーンの主人公と違って類まれなる才能を持っていただけに余計につらいものがある。そしてこのライバルを殴打するというベタな犯罪も、実行した連中が途方もなく馬鹿で幼稚だからこそ出来たのだなと本作を見て理解した。

               

               このトーニャ・ハーディングは、伊藤みどりや浅田真央と共通点がある。公式戦でトリプルアクセルを成功させている点だ。伊藤みどりは世界初、トーニャ・ハーディングはアメリカ初の記録となっている。

               トーニャがトリプルアクセルに取り組んだのは、彼女の演技が審査員に受けなかったため一発逆転を狙ったためだ。米国選手は誰も成功していない荒技を決めれば有無を言わせないという思惑だ。彼女のスケートが受けないのは、そもそも素行不良で嫌われているというのもあろうが、劇中の審査員の台詞によれば、審査員が思う理想形とかけはなれているからだそう。フィギュアについてはまったく詳しくないのでその真意はよくわからないのだけど、少なくとも彼女の演技はたをやめぶりというよりはますらをぶりといった感じで、おそらく審査員が求めているのは前者だろう。女性差別の映画と小説に立て続けに接したせいで、これもまたステレオタイプの押しつけに思えてくるが、そこはさておき、何年も前にスケート通を自称する学生から聞いた話を思い出した。

               

               浅田真央が年齢制限で五輪に出れず、議論を呼んでいた時期だった。その学生の主張は「トリプルアクセルが跳べるからという理由で年齢資格を云々するのはフィギュアをジャンプを競う競技だと勘違いしている」で、代表選出を見送ることに賛成だった。それを聞いて当時、なるほどなあと思ったし、その五輪で優勝した荒川静香の演技はこの主張を裏付けるような内容だった。

               だけれども、実際のトーニャの演技を改めてYouTubeで確認すると実況が「グレートパワー&グレートスピード&なんちゃらかんちゃら」と言う通り、違う競技のような雰囲気も感じる。本作の競技シーンはかなり見事な出来栄えなのだけど、誇張ではないとわかった。
               先駆者伊藤みどりは、よりパワフルで、彼女の場合、ダンクシュートも決められそうなくらい縦にも横にも跳んでいる。そのパワーの源なのだろう、レスリング選手のような体つきをしていて、おかげで少なくと俺の周囲の人々は当時、優雅じゃないとか上品じゃないとかの理由であまり好感を持っていなかった。改めて映像を見ると、確かに優雅ではないかもしれないが、この跳躍力だけで圧倒される。あるべき形ではない、とうより、新しい可能性を開いた、というべきではとも思う。トーニャ・ハーディングが素行不良でなく、事件も起こさなかったら、女子フィギュアも今とは違うものになっていたのかしらとも想像した。少なくとも、彼女の後、中野友加里が決めるまで10年現れなかったのは、この事件の副作用のようなものではないのかね。

               

               余談。トーニャが肉体改造するシーンで、「ロッキーがロシア人に勝つためにやったトレーニングよ」と彼女が語るシーンがあり、「クリード供で書いたことと思わぬところでシンクロした。あれ?じゃああのトレーニングは意味があるってことか?と思ったが、トーニャ自身は火あぶりも木こりの真似事もしていなかった。

               

              「I, TONYA」2017年アメリカ
              監督:クレイグ・ギレスピー

              出演:マーゴット・ロビー、セバスチャン・スタン、アリソン・ジャネイ


              【やっつけ映画評】牯嶺街(クーリンチェ)少年殺人事件

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                 昨年、台湾に行く前にある程度まとめて台湾映画を見たのだが、本作は見ることができないでいた。ひとつは4時間もの長尺だからで、帰省したとき偶然にも故郷の映画館(メトロ)で上映していて、これは行かねばと思ったものの、4時間の都合をつけるのは無理だった。

                 2つめは、なぜ帰省先の劇場に行こうとしたのかと関連しているが、DVD等のソフト化がなされていない犖犬虜酩吻瓩世辰燭らである。なんでも、版権を持つ会社が倒産したとかそんな事情らしい。映画あるある、といえばそう。映画は誰のもの?というか、著作権関連の権利とはなんぞやというか、その辺の問題提起としては典型的なケースだろう。とにかく、そういう事情なので上映をやっているときに行くしかない。

                 

                 それがとうとう、ありがたいことにDVD化され、レンタルで見ることができた(狄刑遶瓩世らか台湾映画にしては珍しく、近場のツタヤにたくさん置いていた)。

                 

                 1960年の台北が舞台だから「悲情城市」の続きくらいの時代関係になる。あの映画の冒頭で生まれた赤ん坊と、本作の主人公の少年たちがだいたい同世代になる勘定だ。
                 そして「悲情城市」が、いわゆる本省人を描いていたのに対して、こちらは外省人、つまり国共内戦の結果、大陸から台湾に移住してきた人々の社会である。登場する大人たちはしばしば「青島はドイツが作ったからきれいな街だ」とか「これだから上海人は頭でっかちと言われるんだ」とか、何かにつけて出身都市を懐かしんでいるし、子供たちは「いざ大陸反攻だ」などとふざけあっている。

                 望郷といえばそれまでのことだが、台湾はあくまで仮住まい、という感覚がそこかしこに漂っている。紆余曲折の経緯を抱えて台北で暮らす「外省人社会」が作品の背景となっているわけだ。このあたりは東山彰良「流」とも重なってくる。

                 

                 ついでに彼らが住む住居の多くは日式だ。外国の話なのに画面はしばしば昭和日本になる。屋根裏には日本の軍人が残していった日本刀があったり(それが重要なアイテムにもなっていくのだが)、冷凍庫の金属製製氷皿のような一定世代以上の日本人がノスタルジーを感じる日用品も出てくる。こういう生活史のような歴史の断面が画面のあちこちに当たり前のように登場する点も「悲情城市」と似ていて、日本史が絡んでいる以上、余計に引き付けられる。


                 主人公たちは中学生で、必然学校の場面が多い。学校や制服の雰囲気、抑圧的な教師なんかは、「飲食男女」「あの頃、君を追いかけた」ともよく似ている。ただしこれらの作品と違って、少年たちの荒れ具合がひどい。大人たちが牴晶擦泙き瓩涼呂如∪茲慮通せない不安の中暮らしているせいか。あるいは生活道路を戦車が通行していく軍政真っ只中の殺伐とした空気のせいか。あどけなさだらけの顔つきとした子供たちが、ヤクザの抗争の相似形をなぞって争っている。アンバランスこの上なく、たまに滑稽にすら映る。


                 彼ら非行少年たちは日本の不良同様、群れてグループを形成している。主人公・小四らは「小公園」に属しており、「217」と名乗る派閥と対立している。ネット上の感想で多くの人が述べているのと同じく、俺も当初は、小公園がどうのこうのといきがっている台詞を見て、公園の縄張り争いでもしているのかと思った。「二丁目の人間でもないやつが勝手にこの公園のブランコで遊ぶな」というような。でもそんな可愛い話ではなかった。


                 217は「眷村」のグループだと台詞中で説明されている。眷村とは国民党が大量の移住者向けに作った公営住宅群のようなもので、野島剛によると旨い食堂が多いらしい。確かに217のリーダーがむしゃむしゃ食っている料理はなんだか旨そうではあるが、当人の肉付きがいいからそう見えるだけかもしれない。なんとなく、小公園組の住環境に比べ、217組は貧しい印象を受けるのだが、これは大陸での社会的地位をそのまま反映しているのだろう。大陸全土から集まった異質な人々が、九州と同程度の面積の島で暮らすのだから、差異が圧縮配置されることになるから必然目立つようになる。それがまた対立を生むということだろうか。


                 この小公園と217の対立抗争の中、小四が恋をしたり、兄や親が厄介ごとに巻き込まれたり、恋の相手の小明に不幸が訪れたり、と複数の登場人物のそれぞれの日常が同時並行的に語られる。必然、登場人物が非常に多く、わかりにくい。このごった煮感も「悲情城市」と似ている。ただしあちらよりややこしい。本名と通称の2つが入り乱れて、誰のことを言っているのかわからなかったり(小四も当初は「小学四年生」のことかと思った。「小四を舐めるなよ」という台詞が、まえだまえだの漫才のギャグ「小5舐めんな」と重なったから余計)、子供が全員同じ制服に、似たような髪型なので区別がつきにくい。

                 日本の中学も、髪の規則がうるさく制服着用が一般的だが、生徒の見分けが付きにくくなることをわざわざ課してどうするのだろうと今更ながら教育現場の労働効率に疑問に思った。いや学校だけではない。今時の大学生が就職活動に臨むときのスタイルは、俺のとき以上に統一規格化が激しい。特に女性。喪服の方がまだバリエーションがあるんじゃないかとすら思う(服装というより髪型が大いに貢献しているとは思う点、丸刈り中学と似ている。あとベージュのトレンチコート)。企業側も採用する人をうっかり間違えそうでこれも効率が悪い気がするが、こちらは学校と違って誰かが強制しているわけではない。なので余計に質が悪い。折に触れ、やめようぜくらいの助言はするが、学生は「外野はお気楽ですな」くらいの反応だから難しい。


                 


                【やっつけ映画評】バトル・オブ・ザ・セクシーズ

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                   中学のころ、体育は男女別だった。別といってもグラウンドや体育館のあっちとこっちに分かれているだけだが、とにかく別々だった。この体育の授業が、教育と苦行を混同している内容で、とにかく走る走る。ただそれだけ。指導といえば、実技をわかりやすく教えることではなく、罵倒と懲罰を指していた。


                   俺は短距離走は比較的速い方だったが、中距離以上となるとどうしてみんなそんなハイペースに走れるのか不思議で仕方がないくらい置いて行かれた。心臓に障害でもあるのだろうかと思ったくらい短距離との落差が激しく、肥満体の男子とえっちらおっちら周回することになる。結果、なまじ短距離が速いものだから、教師にはサボっているか、反抗しているかと誤解されてしまう。


                   それであるとき「お前はもう女子と走れ」と命じられた。同じグラウンドで女子も1500m走をしていて、そちらに加えられる。お前なんか女の腐ったやつだ、といったセクシズム丸出しの懲罰だったのか、それとも体力差を考慮した教育的配慮だったのかは知らない。とにかくそれで女子とともにスタートし、予想通り早速4、5人に追い抜かれた。そのうち1人がお尻の丸っこい女子で、中学生で既にエロいことを考えていた年齢だったので、この魅惑の尻についていこうと必死だったがやっぱり引き離された。まあそれでも全体の中では上位の方には入っていたが、あの遠ざかる尻のせいで、男子どころか女子にも勝てんという事実が見事に刻まれ、その点では妙に教育的内容だったような気もする。

                   

                   劇場に見に行き損ねた作品がレンタルされていたので見た。タイトル通り、男女の性別間の戦いを描いている。テニス界の女王と、かつての男子チャンピオン(20歳以上年上のおっさん)の戦いである。

                   

                   予告編で見たことも相まって、そういう内容の映画だろうと予断をもって臨んだら、早速雰囲気がおかしい。女性の権利をはっきり主張する主人公ビリー・ジーンに対し「尊敬します」と言いながら髪をセットする女性美容師。ただでさえ蠱惑的な雰囲気をまとっているのが、あからさまに秋波をウェーブさせてきて、主人公も思い切り反応している。あれれ?と思っているうちに、いかにも過ちが起きそうな思わせぶりな展開になり、予想通りといおうか期待通りといおうかやっぱりベッドイン! 男性の女性蔑視だけがテーマではなく、同性愛もテーマだったとは。テニスファンなら周知の事実だろうけど、よく知らなかったので驚いた。


                   それにしても、周りの勘がよすぎやせんか。ホテルの同じ部屋から同性の二人組が出てきても、通常特段不思議とも思わない気がするのだけど、すぐに周囲は感づく。元々この人が、レズビアンぽい雰囲気だったということだろうか。
                   同性愛浮気をされた伴侶が見せる反応は「ボヘミアン・ラプソディー」のメアリー(フレディの恋人)と同じようなものだった。他人事なので、美女同士のベッドシーンは、あちゃーエロい!とアホ丸出しで堪能したが、さてこれが当事者だったらと考えるとどうなんだろう。持って行き場がないといおうか、自分に足らないものを見せつけられたような気になるというか。想像がつきにくい点も多々だが、それだけに見ていて実にやるせない気分になった。

                   メアリー同様、この夫ラリーも極めてイイやつで、だからこそ余計に見ていて辛い。ラリーはラリーで、バトルオブセクシーズというか悩みオブセクシーズというか。救いは、フレディの相手が、独占欲と依存心の強い「そいつに行ったらアカンで」タイプだったのに対し、ビリー・ジーンの相手は結構まともな女性だった点。

                   

                   さて本作は、差別問題やセクハラの教材としてもよくできている。昨今、様々な職場で業者の作ったセクハラ防止のためのビデオ教材鑑賞だとかセミナーだとかが行われていると思うが、この映画を見てレポート書かせるのが効果的なんじゃないかろうか。商売柄俺もその手のビデオを見たことがあるが、通り一辺の内容で、ぬるい仕事しやがってと画面に向かって毒づいた記憶がある。

                   

                   ビリー・ジーンは相当に頭の良い人なのだろう。どこに問題点があるのかをしっかり見定めていて主張は一貫して合理的である。これに対して、彼女に批判されたり彼女に食って掛かる側は何が問題なのかが今一つわかっていない。毎度おなじみの差別の構図である。
                   例えば冒頭、大会の賞金について、女子が男子よりゼロが1個少ないほど差があることを不当だと協会幹部に訴えるシーン。女子の試合もチケット売上は男子と差がないのだから、この格差はおかしいと、抗議の論旨は実に明快である。

                   これに対して協会幹部のおっさんたちは、男子の方が試合がパワフルで面白いだとか、男子は家族を養わないといけないとか、それっぽい理屈を持ち出し来るも異議への反論にはなっていない。ビリー・ジーンはすかさず「論点が違う」とピシャリ言い放つが、幹部はただただ半笑い。

                   

                   おそらく、主張が理解できないというよりは、そもそも聞いていないのだろう。聞く耳というのは相手に最低限の敬意を払って生まれるものだから、この態度自体が差別そのものでもある。「今日も綺麗だねえ」などと言う幹部に、彼女が「やめて」と釘を指すのも、この文脈でとらえれば、何が問題なのかよりわかりやすいのではないだろうか。

                   

                   あるいは、ビリー・ジーンに喧嘩腰の男性記者(?)が「そんなに男をやりこめたいのか」などと食って掛かるシーン。ここでも彼女は「同等の敬意が欲しいだけ」と端的に「論点」を示す。2人分の座席を1人占めしている男に、1人分空けてくれと要求しているだけなのに、「俺の席を奪うのか」と怒り出すのと同じ。なぜか我は被害者設定になる。これもまた毎度お馴染みの構図だ。


                   ところで性差の問題とは離れるが、これらビリー・ジーンの振舞いの中で「なるほど」と最も教材めいていたのは、解説者の人選のくだりだ。
                   


                  映画の感想:舟を編む

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                     テレビでやっていたのを見たので感想を。
                     出版社の辞書制作の話だ。最初に思ったのは、学園モノみたいだなという違和感である。高校が舞台だと、秀才とドヤンキーがクラスメイト同士といった設定がしばしばあるが、高校の場合は偏差値で輪切りされるので、一時期の兵庫県のような制度でもやっていない限りは現実にはなかなかお目にかかれない。

                     本作の主人公・馬締は、口下手なせいで営業部のお荷物状態だったのが、大学院で言語学を修めたという経歴を買われて辞書編集部にスカウトされる。だけど、こんな人、最初からそこに配属されるんでは? 一方で辞書部門の先輩社員・西岡は、こんなやつ出版社の入社試験に受からんやろというくらいものを知らない。人当たりと要領はよさそうなので、彼こそ営業向けだろう。

                     

                     適材適所をハズすというのは会社ではよくあることだから、秀才とヤンキーの同居よりはあり得る。ついでに、専門的な題材を扱うときにバカを一人登場させておくと、このキャラクターに「どういうこと?」と質問させることによって説明台詞を自然に挿入できる利便性がある。フィクションの定石ではある(のだが、個人的にはウンザリな手法)。まあ辞書作りの途方もない作業のため、時間がどんどん流れてこの違和感自体もすぐに消し飛んでしまうところは、作業の膨大さを間接的に示しているとはいえる。


                     松田龍平に小林薫にと魅力的な役者がそろっていて、中でも晩年の加藤剛が「死期が近づいている」という設定で泣かせる。古臭い編集部の佇まいがインスタ映えなのもあり、それなり楽しめる仕上がりにはなっていると思う。ただ、肝心の題材が全く活かせていない点、かなり拍子抜けした。

                     

                     以前に、辞書作りを志望する学生のインターンシップを題材にしたドキュメンタリーを見たことがある。彼女も院卒だったっけか。かなり優秀な学生で、言葉や文章に対する思い入れも溢れ返っているような人だった。なので試しに語釈を書いてごらんとやらせてみると、素人目にはそれっぽい形で仕上げることができる。だけど担当社員からすると脇がガバ甘な記述で、この説明だとこれが駄目、これが抜けているなどと的確過ぎる指摘が飛んでくる。記憶も朧気だが、確かそんな内容だった。小銭稼ぎの原稿書きとは次元の違う厳密性と、インターネットの普及で存在意義がぐらぐらにぐらついている中での葛藤と模索がひしひしと伝わってきて刺激的な内容だった。

                     

                     というのを見ているので、余計に残念な内容に感じた。辞書作りは、ただただ背景としてしか登場しない。せいぜい既に述べたように、作業の性質上、主人公たちの半生のような長い時間をまたぐ物語になっている点が「辞書ならでは」としてあるだけか。

                     

                     たとえば、馬締が恋をすることで、監修者の「松本先生」が恋の語釈を書けと命じてくるくだり。恋の行く末に応じて語釈が仕上がる流れなのだが、この記述が馬締の恋物語とあまり関係があるとも思えず、肩透かしをくらう。ついでに「読めないラブレター」を書くくだりも、辞書の話なんだから「達筆過ぎて読めない」じゃなくて「言葉が難しくて読めない」であるべきなんでないのかな。それをヒロインかぐやが必死に辞書を引いて理解するでもいいし、オタクの馬締が「言葉を知ってるって、そういうことじゃないよね」と気づくでもいいし、人と思いを寄せあうっていうことと言葉の関係を何やかし示す必要があるでしょう、この設定なら。


                     終始この調子なので、馬締がチャラ男の西岡に「言葉のなんたるかを教わりました」などと頭を下げるシーンも、え?そんなやりとりあったっけ?となってしまうし、「新語や誤用もどんどん載せるぞ」という新辞書の編集方針も忘れたころに台詞にチラっと出てくるだけだし、話運び全体も雑だった。

                     見終わった後で、久々に辞書を引いてみようかしらと思わせられると映画としては成功なんだろうけど、違う意味で引きたくなってしまった。辞書ってもうちょっと面白いものだよね、という確認で。


                     ま、面白い話の運び方なんてのは、辞書引いても載ってないけどね、と書いておけばとりあえずのまとまりがつきそうなものだが、案外そうでもない。例えば「文学」なんてのを引いてみると、結構勉強になる。「新明解国語辞典」限定かもしらんけど。手元にある人は是非。

                     

                    2013年日本
                    監督:石井裕也
                    出演:松田龍平、宮崎あおい、オダギリジョー


                    【やっつけ映画評】クリード 炎の宿敵

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                       「3」「4」と下降線を続けたロッキーシリーズの中で、「4」のドラゴは知名度と説得力(やたら強そうな雰囲気)だけは妙に高い悪役だったと思う。それだけといえばそれだけの作品にも思うが、ひとつ秀でているところがあればそれはいい映画だ。

                       

                       本作は「クリード」の第2作であり、ドラゴのその後でもある。無論、ロッキーシリーズの8作目でもある。ドラゴの説得力に比べると、ドラゴ息子は「クリード」前作の相手と見かけの印象がカブっている気もしてややインパクトに欠ける。冷酷無比な殺人マシーンその2を期待したいところだが、ドラゴが国家の全面バックアップで生み出されたのに対して、息子は貧しい環境で怨念だけでのし上がってきたような設定なので、どうしても泥臭い雰囲気にはなる。ソ連は崩壊したのだなあと改めて。

                       

                       このドラゴ親子を見て、「釣りキチ三平」の20何巻あたりにでてくる、有明海のムツカケ親子を思い出した。地元のムツカケ名人である小次郎に対して、無闇やたらと憎悪をたぎらせるヤバいおっさんと、そのスパルタ教育を受けたかなり人相の悪い息子が三平に挑んでくる。対する三平は父親がいないので、この父子鷹に嫉妬して暗黒面に堕ちてしまうからこちらもこちらで大変だ。いつもの天真爛漫さが消え「父ちゃんのおっぱいでもすってろ!」などと汚い言葉を吐く。ちょうどドラゴ息子に「このファザコン野郎!」と食って掛かるクリードと重なる。そしてヤバいムツカケ親子同様、無闇な憎悪にまみれているドラゴはもちろんのこと、父に盲従する息子も余計に心配になる。

                       

                       ロッキー×ドラゴの戦いは、精神×科学の戦いでもあった。雪原で遭難しかけたり、火あぶりになったり、大木を斧で切り倒したり、あんまりボクシングには意味がなさそうな精神論根性論的トレーニングを積んで鍛えるロッキーに対して、全面バックアップ付のドラゴは体に色々センサーを付けて、様々なトレーニングマシーンを駆使したり、何かのお薬を注射したりしている。スポーツの鍛錬における根性論信仰は日本に限った話ではない事実を目の当たりにする。試合はロッキーがわけのわからん底力を見せ、それにドラゴが混乱するというご都合主義展開を見せるから、結局根性論は作り話の中でしか力を持ちえないということを示しているともいえる。


                       今作では、ドラゴ親子は金がないのでひたすら泥臭く練習するだけである。これに対してロッキーがクリードに授ける鍛錬は、またしても根性論だ。今度は雪原ではなく、灼熱のステップ地帯で熱中症になりながらのロードワークをしたり、(大木が生えていないからか)地面をわけもなく掘ったり、科学的に間違っているか、常識的に意味がなさそうな方法で鍛え上げていく。「接近戦の練習」のように、実際の試合と関連している練習も描かれてはいるが、全体的には何をしているのかよくわからない。

                       それでもクリードの肉体が素晴らしいので、なんとなくそんなものかと見てしまう辺り、今作はドラゴ息子ではなく、クリードにビジュアル的説得力が担わされている。科学的トレーニングが一般化した現代においてはスポ根の生き残る道はないように見えて、現実世界ではやっていないだけにかえってフィクション的な演出としては有効ということを示しているようにも思う。ひっかかるけど。


                       ボクシング部分はこのように、往年のロッキー節をなぞっているのであるが、今作はよくできた家族モノの側面を持っている。子供を授かるクリード夫妻の新米父母の話、ビアンカとクリード母の嫁姑関係、息子との関係改善を望みつつ放棄しつつもあるロッキー、などなど、家族関係の描写が多い。不幸なドラゴ親子と対比させる格好で登場するだけに、全体的には幸せに見えるのであるが、それぞれに色々不安が付きまとっている点では、どちらがいいとは一概に割り切れない。なかなか丁寧な描き方をしていると思う。

                       このうち、赤ん坊がジムで果たす役割は、灼熱の乾燥帯で穴掘りをするよりもよほどボクシングの課題解決に説得力のある要素となっている。また、復讐心に憑りつかれるクリードに、母親が「お父さんを利用するな」と厳しく説教するシーンもよい。子が父を乗り越えるという普遍的なテーマの部分は、文学的な仕上がり具合だ。

                       

                       対して父にしごかれまくっているドラゴ息子は、こちらは母への怨念に憑りつかれている。会話の中だけでの登場かと思いきや、実際登場したからちょっと感動した。「ロッキー4」では、美人だけどいかにも冷血っぽい雰囲気でかなりの印象を残した女優であるが、時が流れ、貫禄のありすぎる佇まいに寒気すらした。

                       この元妻に対してドラゴが見せる表情が実にやるせなく、自分の年齢・立場が息子よりもドラゴ寄りになっているせいもあり、見ていて大変に切なかった。ドルフ・ラングレンて演技巧いんだなあ。筋肉俳優で売り出したのがもったいないくらいだが、筋肉俳優としては結局パッとしなかった悲哀がこの演技力を生んでいるのかもと考えると、塞翁が馬。こちらもこちらで、ただの悪役ではない点、よくできていると思う。

                       

                       さて、前作で、なぜクリードはミュージシャンである恋人の曲で入場しないのだろう?と疑問を書いたが、今作は、この疑問に気づいたのか、ビアンカの曲でクリードが入場してくる。このシーンが、なんだかシュールで、格好いい演出のはずなのだが笑ってしまった。という蛇足で終わる。


                      「CREED II」2018年アメリカ
                      監督:スディーブン・ケープルJr.
                      出演:マイケル・B・ジョーダン、テッサ・トンプソン、シルベスター・スタローン



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