【映画評】殺人の追憶

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     未解決事件をモデルにした映画だ。なので結局犯人はわからない。見ている方は迷宮入りだと知っているのに、犯人は結局誰かわからないと知っているのに、それでも惹き込まれてしまう、そういう力強さが評価された作品である。単純にいえば刑事の挫折を描いた人間ドラマだ。

     とはいえその刑事が無茶苦茶だから、人によっては今ひとつ共感できないかもしれない。私もそうだった。
     無茶な刑事といってもハミダシデカというわけではない。捜査が稚拙なのだ。
     現場保存はできない、鑑識はサボる、証拠はでっち上げる、取調べに拷問は当たり前、誘導尋問で無理矢理自白させる、などなど。こんな捜査で「迷宮入りして挫折しました」って、そりゃ当たり前だろ、と思いたくもなる。
     ソウルからやってきた凄腕っぽいソ刑事も、しまいには自分の思い込みに従って、クロの材料が素人目にも足りない容疑者を「このクズ野郎」とばかりに思いっきり殴ったり蹴ったりする。なのでここに出てくる刑事はみな多かれ少なかれ推定有罪で弁明の機会も与えず容疑者を殺してしまう大門軍団と大差ない。

     といっても別に彼らが特別というわけではなさそうだ。多分当時(1980年代)の韓国警察の実態に基づいて描いているのであろう。拷問で自白させるシーンなどは、日本の冤罪事件を追ったドキュメントを思い出させる。我々にとってもそれほど異次元の話ではない。
     ついこの間も再審請求が認められた事件がニュースで紹介されていたが、当時の日本の警察の捜査もこんなものだったのだろう。

     昔の警察の捜査は、目撃者探しと刑事の勘と自白である。
     近所の人が誰それが怪しいと言い、刑事がその人物を見た時、何かがピンと来たら、後は自白させるだけである。なので一番モノを言うのは刑事の第六感であり、証拠ではない。

     本作に登場するパク刑事も「人を見る目」が自分の武器だと自負している。いわば刑事は職人なのだが、そういう意味では占い師とあまり変わりない。占いは外れるときもあることは勿論のこと、信じない相手には通用しない。なのでこの映画に登場する<最重要参考人>とも言うべき怜悧な顔つきの若者も、ついに自白させることはできなかった。

     現在では捜査はすっかり科学的になった。科学的というのはつまり、ヤマさんでないとわからない勘、ではなく、誰でも反証可能なものに頼っているということである。なので刑事は職人ではなくなった。古株の警察官はよく「今の若い刑事はすっかりサラリーマン化した」と嘆いているが、それは科学捜査の必然の結果なのである。

     この事件の犯人に、多分パク刑事らの古い捜査方法は通用しない。いかにも怪しい人間からは何も浮かんでこない、犯人は必ず現場に戻るわけでもない、決定的な物証は残さない、そのくせ妙に劇場型犯罪を繰り広げる。
     こういういわば新手の犯罪に対応するため、今の警察はサラリーマン化した刑事を大量動員する物量作戦を展開している。
     少しでもかかわりのあることは、怪しかろうがいかにも関係なさそうであろうが全部潰す。あたかも5・7・5の17文字を順列組み合わせで全ての俳句を列挙するかのような途方もない作業を繰り返す、そんな捜査をしているようだ。

     無論それがより正しい方法なのかどうかはわからないが、今はそれが正しいと信じられていると。なのでこの映画で言えば、殺人とリクエスト曲の関連性が伺えれば、「推理小説の読みすぎだ」と笑うこともなく、機械的に放送局に送られたハガキを調べるだろうし、事件の始まった時期に村に引っ越してきた人間が何人いるかなど、とっくのうちに調べているだろう。

     この映画のパク刑事やソ刑事の挫折感とは、こういう過渡期に淘汰される者が抱いた虚無感を代表しているのだろう。
     「工場が機械化されれば仕事を奪われる」と恐れた人々が機械を破壊して回ったラッダイト運動だとか、明治新政府に刀を奪われた侍だとか、歴史を振り返ればいくらでも思いつく。結局は時代の波に抗いきれるものではないという点で、彼ら刑事たちには挫折しかなかった。

    「殺人の追憶」2003年韓国
    監督:ポン ジュノ
    出演者:ソン・ガンホ 、キム・サンギョン 、キム・レハ 、ソン・ジェホ

    【補遺】
     取調べの様子をビデオ録画するかどうかが議論になっている。僕はするべきだと思う。可視化されると、取調べに支障を来たすという反論もある。確かに犯罪者には狡賢い人間も少なくないだろうから、紳士的な取調べでは真実に辿りつけないこともあるだろう。でもそれも含めて可視化すりゃいいと思う。その取調べは、テクニックの一つか、それとも単なる脅迫か。全部裁判で検証すればいい。「以下のような取調べは駄目です」と警察庁がマニュアルを作る方がよっぽど不健全だ。

    【映画評】半落ち

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       結婚式で大学時代の友人たちと久々再会し、二次会の後仲間同士で夜の京都に繰り出した。ひと目で式帰りとわかるいでたちの三十男が7、8人群れてはしゃいでいる。傍らで見ればみっともないことこの上ないが、わかっちゃいるけど楽しくてしょうがない。
       こういうのを知り合いの女性に言わせると、「男の子の秘密基地」だそうで、なるほどと思った。

       男の子というのは大抵秘密基地を持っていて、仲間しか基地に入ることはできない。俺たちは有資格者だ、という連帯感が気分を昂揚させる。大人になった僕らは野ッ原を不法占拠することはなくなったが、やってることはオッサンになりかけた今も「秘密基地」と変わらない。

       物凄く大雑把に分析すると、男社会なんてものは結局秘密基地の主導権争いである。
       基地の主導権を奪われた、それならそんなたわいもない基地などさっさと捨てて外に出ればいいようなものだが、それはできない。勝ち組は勝ち組で自分が支配している世界が、ただの草木の寄せ集めであることに気付かない。
       ついでに言うとだから女性はいつまでたっても混ぜてもらえない。女は秘密基地の喜びを共有できないどころか、それが草木で出来ただけのチッポケなものだってことを知っている節があるからだ。

       横山秀夫の小説は、秘密基地に生きる男たち、それも主導権を奪われた負け組の物語であることが多い。
       警察や検察、新聞社といった秘密基地は、いつもしょうもない人間に支配されていて、主人公たちは逃げ出そうかとも思うのだが、もう少しこの基地で頑張ってみようとしょっぱく奮闘する。その様が恰好つけ過ぎだという批判は否定できないものの、どの作品でもなかなか活写されている。横山作品の醍醐味はそこにあると思う。

       「半落ち」も同じだ。
       一応出世頭の志木刑事も、キレ者の佐瀬検事も、皆しょうもない上司に秘密基地を牛耳られ、それでも誇りを保とう必死になる。
       ところが事件の犯人である梶警部は違う。妻を殺してなお生きることを選択した梶警部は、いわば基地を追われた男なのに、なぜか志木や佐瀬たちより泰然としている。彼の事件に関わる記者や弁護士らの男たちは、だからこそ梶という男に惹かれていくのである。

       さて小説を読んで、映画をクサす作業も何だかつまらないのではあるが、やっぱり言いたい。つまんねえ映画にしやがったなあ。
       いかに面白い作品を土台にしたところで、それを映画化する知恵が日本映画にはどうも欠けているようである。

       文句は色々あるが、最大の問題点は記者の中尾洋平を女に変更したことだ。その名も中尾洋子。
       鶴田真由の演技が見ていられないのはここではそんなに大きな問題ではない。性別を変更したこと自体が物語構成を大きく崩してしまった。端的に言えば秘密基地が壊れてしまったのだ。

       世の女性はそう怒らずに先を読まれたし。
       中尾洋平は記者なので当然梶を裁く側ではなく、むしろ梶の供述を捏造した捜査側の欺瞞を暴こうとする。その目的はある程度達成されるものの、いわば組織のくだらない論理に翻弄された末の結果であるから本人に達成感はない。結局は梶に惚れるしかない志木や佐瀬と同じ負け組なのだが、「中尾洋子」はそうではない。

       中尾洋子の役割は、いわば狂言回しだ。狂言回しだから同じ穴には住まない。あくまで真実を探る第三者として描かれる。
       なので、狂言回し・中尾洋子によって用意された舞台装置の中で登場人物はいずれもストーリーを繰る駒に成り下がり、そもそもの役割は希薄になってしまった。
       「秘密基地に拘泥する者と追われても尚潔い者」という物語の根本をなす構成がぶち壊しになってしまっているのだ。

       映画は多くの人が楽しめる総合娯楽らしい。先日読んだ新作映画の紹介文にそうあった。長い小説は読むのに骨が折れるが映画ならまだ楽に見られる。だから売れた小説は映画化によってさらなる市場拡大を狙う。
       商業上の要請で生まれる映画は往々にして無難でいようとする。なので男ばっかりの登場人物構成より女性がいた方が華があるだろうってんで、6人のうち1人を女にするし、梶が沈黙を守る理由という“ヒューマンドラマ”(この表現もどうにかならないでしょうか)に重点を置く。映像は癖のない明かりを均等にまわした分かりやすいカットに努める。
       要は何の冒険も挑戦もない。こうして出来上がった作品に何の意義があるのだろうか。

      「半落ち」2003年日本
      原作:横山秀夫 監督:佐々部清
      出演:寺尾聰、鶴田真由、國村隼、伊原剛志、柴田恭兵

      【補遺】
      「半落ち」はオチが唐突だと批判されることが多い。伏線は一応巡らしてあると思うのだが、それでも「唐突だ」とか「伏線が弱い」とか言われるのは、梶が守ろうとした「真実」の色合いが、物語のパズルの中に綺麗に当てはまらないからだろう。
       だけど個人的にはそこはあまり気にならなかった。主人公が順繰りに入れ替わる構成や、本稿で書いた秘密基地な部分が面白く感じたからだ。
       この映画の監督は、このオチの違和感をどうにかして埋めようとしたのだろう。なので梶と妻の愛情の部分をやたらと描いて物語を構成する要素のパワーバランスを調整しようとしたのだと思う。
       しかし原作の風変わりな構成や、男臭いテイストを、映画にどうあてはめていくかを考えた方が、よほど魅力的で新しい映画になったのではないだろうか。それだけに残念だ。

      【映画評】それでもボクはやってない

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         裁判官が木槌を持っていると思ってる人は多いんじゃなかろうか。外国映画なんかで見かける「静粛に!トントン!」というアレは、実は日本の裁判官は持っていない。いや本当は持っていてよっぽど腹に据えかねたときにはもしかして出てくるのかもしれないが、私は見たことがない。
         ことは木槌なら飲み屋の雑学レベルの話だが、裁判について大抵の人はほとんど何も知識がない。それで日常生活にさしたる支障はないとつい思ってしまうのだが、問題は我々が暮らすこの現代日本は法治国家という制度を採っているということだ。

         痴漢冤罪の実話を基にした作品だ。無実なのに痴漢の犯人にされたという話は、ニュースなどでたまに見かける。痴漢は被害者の証言くらいしか証拠がないため、「この人痴漢です」と名指しされてしまえば、人違いであっても犯人にされてしまう誤解が起きやすいのだ。
         26歳フリーターの主人公・金子も、同じように電車で女子高生に痴漢をしたとして逮捕され、いくら否定しても刑事も検事も信じてくれない。やがて裁判になり、判決に至る。それらの過程で、日本の司法制度の問題点が浮き彫りになる。そういう内容だ。

         裁判が出てくる日本映画はそれほど珍しくないが、これでもかとばかりにとことん実態をリアルに活写したという点では出色の裁判モノだろう。というか、裁判の実態を再現することにのみ力を注いだ映画といっても過言ではない。

         監督は周防正行。「Shall weダンス」で知られるように、コメディの監督というイメージがあっただけに意外な気もしたが、当人曰く「知らない世界に主人公が飛び込むという点ではこれまでの作品と同じ」。
         確かに金子は裁判についてまったくの無知で、自分の身に何が起こったのか理解するのにも多少時間がかかっているくらいだ。
         ただし従来の周防作品と違って、知らない世界で戸惑う主人公の成長なりドラマなりは特にない。まあ被告人にされて成長も何もあったものじゃないが、金子が逮捕→送検→起訴→勾留→裁判という経過を辿らされる様をただひたすら描く。そしてその過程の一々が、相当取材を重ねたと見えて、ニヤリとするくらいの細かい演出が行き届いているのだ。

         脱線を承知でいくつかを順に紹介すると、恫喝してくる刑事と懐柔してくる刑事の交互の取調べ(非常にテレビドラマ臭いが、実際にそうするようだ)。
         一方、こっちは理知的でスマートなのかと思いきや、やっぱり恫喝してくる検察官(検察官の恫喝の方がいやらしいとも聞く)。それも副検事という細かい設定(罰則の軽い事件の場合は検事より一階級下の副検事という年配の人が担当する)。警察も検察もパソコン供述を筆記している点。
         民事専門の弁護士の事務所はモダンで格好よく、刑事をやってる弁護士の事務所は雑然としてて古臭い(刑事事件は基本儲からない)。被害者対策に興味があるので被告人の弁護には気が進まないという若い弁護士。
         お公家様のような裁判官の風貌(あの役者は何者なのだろう)。なぜか気さくな書記官(ホンマになぜか気さくな人が多い)。
         法廷でペン回しをやめない若い検事(個人的には一番ヒットした)。
         こ汚い格好の傍聴マニア。
         巧妙に居眠り?をする裁判官(巧妙なので居眠りかどうかわからないが話を聞いてないようにしか見えない)。
         などなど、本筋と直接関係ないところ部分もかなり気を遣っていると見え、仕事でいくつか裁判を傍聴したことがある私としては、かなり既視感を覚えたものだ。

         それはさておいても、法律用語だらけの難解なやりとりもそのままで裁判は進んでいく。誇張もなければ書き下しもない。だいたいカメラワークからしてちっとも凝っていない。司法制度の問題点を突く趣旨の作品であるから、へたな演出を避け、より実態そのままに、ということなのだろう。

         ただしそれだと客に伝わらない可能性もあるわけで、かなりの冒険だったのではないかと勝手に不安になる。
         実は柳町光男以来、鑑賞後に監督にじかに話を聞く機会を得たのだが、その辺りについて質問すると、「分からない部分があれば、それも含めて刑事裁判の実態ということだ」となんとも明快な回答だった。補足すると、一応台本はギリギリまでわかりやすくするため何度も書き直したらしい。

         確かに合間合間で弁護士や法律に詳しい支援者、訴訟マニアが登場人物に分かりやすく説明する台詞がはさまれるから、ある程度は分かりやすく見ることができる。それもテリーマンのようなあからさまな説明挿入ではなく、あくまで物語の流れを止めずに観客に補足説明を示せている。当人は「夢中で作ったらうまくこうなった。方法論は自分でもわからない」と言うが、一言でいえばこれが年季ということなのだろう。

         もうひとつ指摘すれば、趣旨を貫徹するために余計なものはほとんど省いたということがある。

         この映画は、主人公の苦悩を多少は描いているものの、出来事の不条理に比べれば圧倒的に少ない。家族や友人にいたってはほとんど内面には触れられておらず、例えば別れた彼女役の鈴木蘭々がなぜ支援者に加わっているのか、何もわからない。
         もしこの映画の中にかなり重いシーンがあるのではと警戒している人がいたら、安心していい。家族が泣き喚くようなシーンはほとんどない。なので逆に裁判それ自体に集中して見入ることができるのだ。

         果たしてそれが劇映画なのか、と言われればそんなことはわからない。少なくとも、日本では法廷内撮影は禁止だから、ノンフィクションでは描けないということは言える。

         裁判というのは、相当人類の歴史と知恵が詰め込まれた産物だと思う。現代人の感覚でいくと、裁判を公開するのは何だかプライバシーの侵害のような気がするだろうし、悪人を弁護するなんてとんでもないことに見えるかもしれない。
         先日も「殺人犯を弁護するなんて、ホンマ腹が立つ悪徳弁護士や」とオッサンとオバハンが会話しているのを耳にした。この場を借りてオッサンとオバハンに説明すると、それが弁護士の仕事というのがひとつ。そして悪徳弁護士は刑事事件の弁護なんて汚れ仕事はやらない。環境破壊や大量リストラを繰り返す大企業の顧問でシッポリ稼いでマセラティを乗り回す。これが本当の悪徳弁護士だ。
         なぜそういう“庶民感覚”からズレがちな側面が裁判には多いかといえば、例え誰かが傷つこうと裁判は公開しないと、例え10人殺した鬼畜であっても弁護する人間がいないと、「駄目だ」ということを既に人類が学んできたからである。
         しかし現代の、何でも単純化して捉えようとする風潮、近道でええ格好しようとする効率的な倫理観の前では、いかにももろく崩れてしまいそうな取り越し苦労に襲われる。
         加えてそれを担っている賢いはずの人々が、余計にそれらの叡智をないがしろにしているようなのだ。だからこそ、この映画の存在意義は果てしなく大きい。

        「それでもボクはやってない」2007日本
        監督:周防正行
        出演:加瀬亮、役所広司、瀬戸朝香、もたいまさこ、山本耕史

        【補遺】
         最後のくだりは要らないような気がしたが、一応残した。
         試写会で見たのだが、監督への質問コーナーというのがあり、直に質問する機会を得た。僕が書く台本はよく「難しい」とクレームがつくので、その辺の助言も暗に求めた質問だったのだが、「実にイイ質問ですねえ」と監督から褒められたので、本稿では妙に監督を持ち上げている。
         後日、役所広司が出ている胃薬の宣伝を見て気付いたのだが、説明台詞を説明臭くさせてないのは、役者の力が大きい。胃薬の効能を説明しているだけなのに役所は格好いい。これが実力というやつなのだろう。
         

        【映画評】クライマーズハイ

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           最後のテロップがふるっている。
           「日航機の墜落原因は今も諸説あり、真相究明を望む声は後を絶たない」というような内容。
           そう、日航機の墜落原因は機体のトラブルなどではない。真相を知りたい人は渡辺文樹「御巣鷹山」を見よう。レア過ぎる作品なので当然ツタヤにはないぞ。コアな映画ファンとコアな当ホームページファンしかピンとこないだろうから簡単に説明すれば、真相究明のため、主人公と中曽根がチャンバラを繰り広げる作品である。

           このテロップのおかげで、「ゾディアック」や「殺人の追憶」のような作品にもちょっと見えた。どちらも未解決の殺人事件を追う実話を元にした物語。当然最後まで真犯人はわからないのだが、見えない犯人を追う様には一味違ったスリルがあってゾクゾクっとくる。

           この映画も少し似たようなところはある。作品のクライマックスで、事故原因は「圧力隔壁の破損ではないか?」というネタを引っ掛けた記者が裏取りに走る。裏は取れたともいえるし不十分ともいえる。デスク(記事編集の責任者)である主人公の悠木は悩む。記事をスクープとして打つべきか、慎重に控えるべきか。“新聞記者”の理屈から言えば、これはもうGOだろう。理由は簡単。他社が先に書いたらどうする?そういうことだ。慎重に行こうとして泣きをみた記者はごまんといる。
           ただしこうしてエイヤーで記事を打って、過去世の中にいくつもの誤報が流れたのも事実。少なくとも我が社は手柄より真実を取る。それも職業意識としては正しい。
           どちらにも一定の理屈がある。なので最後のテロップは、史実に配慮する、以上の意味を持ってきて、重い。なのでこの映画、思いっきりそういう方向でまとめるという手もありだったかな、と思った。

           いきなり余談を長々と書いてしまった。横山秀夫のベストセラーの映画化といえば、「半落ち」がタイトルどおり実に半端なまとめ方をした超駄作になっていたのに対し、こちらはかなりプライドを持って臨んだ作品と見え、なかなかの傑作となった。

           例えば絵がいい。実際の現場でロケを敢行したという墜落現場のシーンもさることながら、個人的には最初の社内の喧騒を映した、ちょっと乱暴なカメラワークが、新聞社のドタバタをよく現していて非常によかった(なので余計、自衛隊が仁王立ちするシーンと、アニメかゲームみたいなタイトル文字のアンバランスが引っかかったが)。

           もちろん、小説を映画化するときに付き物の、エピソードの取捨選択には異論も多々あるだろう。残ったエピソードのうち、上役たちが過去の栄光を引きずってるというくだりや、中曽根、福田の両方の花輪が写ってる写真の話など、かなり重要なファクターの扱われ方がどうにも中途半端だったという部分もある。

           その辺りはとりあえず置くとして、映画を見ながら気になったのは「これ伝わるんかな?」という台詞や筋立てだ。

           新聞社の内部というおよそ関係者以外はよく知らない世界を舞台にしているので、わかりにくさは自動的に付きまとう。例えば「何で共同を使うんですか?!」という争い。新聞社志望の学生を相手に、何度か「地方紙にも普通に国会やプロ野球の記事が載ってるけど、誰が書いてるの?」と質問したことがあるが、答えられた学生はほとんどいない。一般の人でわかっている人はどれほどか。

           答えは共同通信(や時事通信)という会社から記事を買っているのである。なので大きな図書館なんかで同じ日付の違う地方新聞を読み比べると、一字一句違わない記事が載っているのがわかる。そして他県の話ならいざ知らず、自社の取材エリア内の話を共同通信の記事で済ませれば、当然現場のプライドは傷がつく(傷がつかないひどい地方紙もたまにある)。なので映画でも言い争っていたというわけだ。

           こんなこと、映画で伝えられるかと言われれば、まあ無理だ。
           妙に説明臭い台詞を出せば、途端にダサくなる。なのでそういうムツカシイ話には触れないという手も浮かぶが、そうなると記者の実情を描く趣旨から遠ざかり、本末転倒となる。
           本作が選択したのは「説明を省く」という力技。何の説明もなく共同がどうしたこうしたと登場人物が会話している。しかし考えてみるとだからこの映画は高い完成度を持ちえたのだろう。もっと言えば「半落ち」にならずに済んだ。

           半落ちの失敗は「説明台詞がウザい」わけではなく、ヒューマンドラマに仕立て上げたからだ。つまりムツカシイ話を噛み砕いて映画化したのだが、その噛み砕き方が陳腐だったため駄作になった。
           日航機墜落の生存者に対する報道合戦が、僕が知った最初の報道被害である。川上さんは二度とマスメディアには登場していない。しかしクライマーズハイの登場人物たちは、そんなところまで辿りつけてすらいない。記者はハイエナという(最近はあまり聞かないが)が、実際には色んなサラリーマン的事情でハイエナにすらなれないというのがこの作品の面白さだ。それを映画にしようとすれば、力技が一番打倒な演出方針だったということなのだろう。

           ひとつ、佐山を演じた堺雅人について言及したい。佐山というキャラは原作を読んだときには「そんなやつおるか」が僕の感想だった。
           横山秀夫の書く記者は往々にして記者という看板を首からこれ見よがしにぶら下げてるような人間が多く、違和感があるというのが僕の感想だ。何の仕事でもそうだろうが、「我は○○でござい」というダンディズムを率先させて被る人間に優秀なのはいない。佐山は主人公の新聞社の現場のエース的存在なので、余計「そんなやつおるか」と鼻に付いたわけだ。
           ところが本作の佐山を見たときは「こんなやつおるわ」と感想が変わった。半笑いで悠木に情勢を報告する姿は、冷静に見れば変態寸前というプロの危うさを地で行っている。「現場に行かなければならないから行った」のが小説版で、「行きたいから行った」というのが映画版といえばわかりやすいか。

           残念なことに、普通にかっこよかった等々力部長のような偉いさんは実際にはほとんどいない、いかにもやりすぎな山崎勉演じる社長のような悪役は、案外いる、というのが僕のサラリーマン感である。悠木のような人間が、たとえ失点とみなされて左遷されようとやがては復帰してくる、そんな世の中になればいいなと思う。

          「クライマーズハイ」2008日本
          監督:原田眞人
          出演:堤真一、堺雅人、田口トモロヲ、でんでん、高嶋政宏、山崎努

          【補遺】
          人間の記憶とは怪しいもので、この映画を見ながら、読んだはずの原作に、そんな話あったっけ?と思い出せないことが多く、結局わざわざ買ってもう一度読んだ(最初は人に借りた)。で、削られてるだけでなく、だいぶ話が変わってたんだなあと知った。で、一番疑問なのは何で息子が外国にいるという設定に変わってたんだろう?ラストの牧場(?)を訪ねるシーンは、妙にダサいシーンだと思うしで。

          【映画評】御巣鷹山

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             街中で「渡辺文樹監督作品」という上映会の告知ポスターを見かけてこれは間違いなく“あの”監督だろうと直感し、折角の機会なので上映会を覗いてきた。何で直感したかといえば、何でというより直感するしかないといった方が正しい。

             NHKスペシャルか「あなたの知らない世界」の題字みたいな物々しい筆書きで「御巣鷹山」のタイトルと、「日本国家の犯罪を問う」と大所高所に構えたコピーがまず目に飛び込む。
             御巣鷹山といえば、あまりに有名な日航機墜落事故の現場。それをタイトルにして映画を作るなんて並大抵の意気込みでは不可能だ。なんてったって500人以上が亡くなった大惨事だし、事故という表現が相応しいのかってなくらい、色んな背景が取材・分析されてたくさん本になってる。代表的な山崎豊子「沈まぬ太陽」なんて5巻もある長編だ。

             の割にはポスターの絵は切り貼りして作ってて明らかにちゃっちい。飛行機の写真の尾翼を破いて貼っつけてスキャンしている、これが(多分)日航機123便なのだろう。付記しておけば、一般には垂直尾翼が折れたのが直接の墜落原因とされている。
             しかしまだこっちはマシで、もう一種類のデザインのポスターは、戦闘機に裸の赤ん坊という、これは全然意味の分からないコラージュで、誰やねんこの赤ん坊は、くらいしか突っ込めない。
             そんなポスターがあからさまに違反広告ですとばかりにあちこちの電柱とか柵とかにくくりつけられてて(かなり頑丈)、加えて一枚ごとに違うコピーが手書きで加えられている。これがさらに意味がわからないことが書いてあるという具合だ。出演者に並ぶ名前も誰も聞いたことがない。記憶の片隅にあった「変な監督」とはこれかと思わざるを得ない。

             察するに、日航機事故の背景に、政治があると告発するような左翼的な映画なのだろう。熱意が空回って、映画としてはデキが悪い、そんな感じではなかろうか。うーん、興味はそそられるが見に行くのはかなり躊躇を覚える。思えばこの時点にして既に監督の術中に落ちていたのだが。

             さて作品であるが、まず監督も言っていたように、音声は結構聞き取りにくい上、口パクの同期が合ってないし、音飛びもする。その上途中でトラぶって上映が中断する。まあある種ライブ的雰囲気を演出しているともいえるのだが。
             カット同士のつながりはかなり出鱈目で、正直これだったら俺の方がまともやんと思ってしまった。
             演技は一部を除き、はっきり言ってドヘタである。これらだけを総合すると、取るに足らないE級、F級映画である。が、不思議とそれだけでは終わらない作品である。

             冒頭、なぜかイランイラク戦争の話からはじまる。どっからパクってきたんだろうというイランの映像に、物々しいナレーションがついて、当時の日本の外交事情を説明する。
             そして物語の始まり。山奥で凍死体が見つかったという導入は、手持ちカメラの映像に、演技してない方言丸出しの台詞が重なり、フェイクドキュメントみたいでなかなかいい滑り出しだ。が、ここから一気にどう捉えていいのかわからない展開に突入する。

             退職警官の剣道の稽古になぜか顔を出した中曽根首相。その会場である山奥の小さな寺に怪しげな男が現れて首相に面会を求める。その名も「渡辺」。無論演者は監督である。
             寺の縁側に現れた中曽根首相は白髪がふさふさという時点で全然似てないのだが、いかにもな悪役面でなかなかいい役者である。縁側に腰掛ける中曽根と、地べたに正座する恰好で対面する渡辺。ほとんど大岡越前で、早くもチャンバラの香りがしてくる。
             渡辺の後ろには微動だにしない剣道着姿の爺さんたちがズラリ整列して座っていて、意味不明だが、様式美なカットではある。そしてかなり強引な展開で中曽根と渡辺が日航機事故の真実について語り合う。

             ヘタな役者が次々登場して結構複雑に時系列が絡み合い、途中、なぜか監督が雪の上で全裸死体の演技をしているシーンをはさみ、渡辺が、変装してまで手に入れた日航機事故の真実が明らかになる。
             この変装を明かすシーンは、ルパン三世がマスクを剥ぐような、古いスパイモノでは御馴染みのシーンを狙っているのだが、パイ投げのクリームを拭っているようにしか見えず、客席からは爆笑が起こった(ただし失笑ではなかった)。

             ここで描かれる日航機事故の真実とは、当時自衛隊が新しく購入した戦闘機が演習で放ったミサイルが日航機123便の尾翼を誤射し、墜落させたというもので、日米関係の事情から全てもみ消された。いわゆる陰謀史観全開である。
             まあ一応事故にまつわる様々な不審な点の辻褄は合っているから、全くの出鱈目というわけでもなさそうではあるが、ムーやワニブックスの臭いはプンプンしてくる。
             上映後、客の一人から「どこからそんな情報を手に入れるんですか」という質問が出たとき、監督が語った「みんな知ってるんだよ、そんなことは。マスコミが書かないだけ」というロジックは、新聞社なんかにトンデモタレコミを持ち込んでくる人と同じ修辞法である。
             なので全然信じる気にはなれないのだが、「偏った見方かもしれませんが、私はそう思ってます」という一応冷静な監督の姿勢はまだ安心できるし、少なくとも自分が信じることを映画にするという熱意は伝わってくる。

             まあ一番熱意が伝わってくるのは、クライマックスのチャンバラシーンで、最初っからこれがやりたかったんだろ、っていうくらい、今までの展開とはうってかわって、カメラワークが結構冴え渡る。
             真実を知る渡辺を葬るため、中曽根の刺客と化した剣道オヤジたちが、木刀で襲い掛かる。渡辺もかなりの使い手で、次々刺客を葬り去る。
             木刀なのになぜか血飛沫ドバーっとなり、渡辺は奮戦するも、しかし衆寡敵せず絶命する。客席からは笑いも起こり、みんな結構楽しんでいるようだ。
             今までの告発はなんだったんだというわけのわからない展開だが、あくまで映画は娯楽という枠組みを守ったともいえる。その意味では、人権センターとかで上演されるような啓発芝居よりははるかにまともである。

             結局のところ、とにかく作って人に見せるということが重要なんだなあと再認識させられた作品、ないしは監督だと思わされた。まあこれがデジタルだったら話も違ってくるんだろうが、技術が手作り感満載で、演技がドヘタでも、フィルムを回して映画を作るのは大変な作業である。それでも映画と名がつけば、人はやってくる。台本はかなり強引な展開で、正直私の方がはるかにマシだが、監督の熱意とエネルギーだけはやけに伝わってくる。酷い映画だったが、客のかなりが楽しげな様子で帰っていたのはそういうところにあるのだろう。私の渡辺文樹初体験は、なかなか感慨深いものとなった。
             次回作は「ノモンハン」らしい。一体どんな内容になるのやら。ちっとも楽しみではないが、またあの怪しげなポスターを見たら、見に行くんだろうなあと思う。

             ちなみに受付には一人の女の子がいて、多分関係者の娘なのだろうその女の子の顔は、明らかにポスターの裸の赤ん坊だった。初対面の子に大きくなったなあという感慨を抱いた。

            【補遺】
            見に行った現場の様子を書いた日記の記事があったはずなのだが、ファイルが見つからない。見つかったらまたアップしておきます。「笑った」と好評だったもので。
            2008年に「ノモンハン」と「天皇伝説」の2つが上映され、結局見に行っている(天皇伝説の方だけ)。受付にはまたもあの少女がいて、大きくなっていた。

            【映画評】黒豹のバラード

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               ヒーローはピンチに現れる。天下泰平両手に花の状況で現れてもすることはない。邪魔なだけである。だから劉邦が項羽を倒すと韓信は殺されたし、地球に怪獣が来なくなったときウルトラマン80も宇宙に帰っていったのである。

               これをあたかも望遠鏡を逆さに覗くように眺めてみると、つまりヒーローの活躍譚とは、窮地に陥った人々が劇的な挽回を望んだ悲痛な叫びなのだということがいえる。
               源氏物語は源一族が藤原一族を追い落としていく物語であるが、歴史はそうではない。全く逆である。だから源氏物語とは源一族の怨念の物語なのだと井沢元彦「逆説の日本史」に書いてあった。

               本作は黒人カウボーイが主人公の痛快な西部劇だ。
               西部劇といえば白人がインディアンを苛める話というのが通例だが、史実、黒人カウボーイもかなりいたらしい。映画の冒頭に語られている。
               別に正確な記録を調べなくても、東海岸で決して幸福ではなかった黒人たちが、もっとすがすがしく生きられる新天地を求めて西へ向かったというのは想像に難くない。
               西部劇といえばジョン・ウェイン、ユル・ブリンナー、クリント・イーストウッド、みんな白人じゃねえか、黒人だってたくさんいたんだぜ、という反発がこの映画を作らせた、ともいえる。

               とはいえ、これを司馬遼太郎あたりが得意の歴史の再評価物語と見てしまうよりも、黒人の怨念の物語だと見る方が面白そうだ。
               つまり敵役の白人至上主義者たちを黄金の弾丸で葬っていく恰好いいジェシー・リーもタイム神父も、当時の黒人たちの窮地を救うべくして生み出されたヒーローなのである。言い換えれば、そんなヒーローは実際いなかったのだ。

               映画の中で、ジェシーの父キング師が黒人による黒人のための町を築いたように、正確なところは知らないが当時黒人の町が西部のあちこちに実際生まれていたとは想像に難くない。そしてキング師が虐殺されたように、あるいは、あらゆる法的、経済的手段を駆使した狡知によって、町のほとんどは滅んでしまった筈だ。なぜなら強いものは常に貪欲だからだ。

               土地や財産、自由や希望などといった前途、あるいは親族眷属友人恋人の命までも奪われた黒人たちが何を考えるか。憎い白人を蹴散らしてくれる痛快なヒーローの登場である。だから本作は怨念が生み出した物語なのである。
               実際の歴史の大波の中では幾多の黒人が辛酸をなめ、ようやく光が見えるまで、長い長い年月を要した。現在でもそれが達成されたかどうかはわからないが、少なくともまだマシな状況が現れるまでに要した時間はいかほどか。
               ヒントは物語中に登場する少年だ。彼がラストで昔を振り返って記者(?)にジェシーの物語を語っているのだが、少年はすっかり老人になっていた。この間、何人のヒーローが現れ消えていったのだろう。

               原題のなにやら間の抜けた感のある英単語は「仲間」の意味である。
               気心の知れた仲間がいて、砂塵を巻き上げ褐色の荒野を馬で駆け抜け、恋人を抱き、黄金の弾丸で父親の仇を粉砕する。なんとも男根主義的なダンディズムに溢れた作品だ。
               男の子には痛快この上なく、納戸の奥に片付けてあったコルトのおもちゃを探し出すかもしれない。しかし女の子の中には手に汗握るどころか欠伸と鼻ちょうちんが出て仕方がないという人も少なくないだろう。
               男にとって恰好いいものは女にとってはどうでもいいものである。カップルで見ようものなら2人の愛に亀裂が入るかもしれない。そういうとき彼氏はこう言おう。彼らは哀しみと痛みの結晶なのだ、と。

              「黒豹のバラード POSSE」1993年 アメリカ
              監督:マリオ・ヴァン・ピープルズ
              出演者:マリオ・ヴァン・ピープルズ 、スティーブン・ボールドウィン 、チャールズ・レイン 、ビッグ・ダディ・ケイン 、ビリー・ゼイン

              【補遺】
              僕の映画評が「運動部屋」という名前で始まったときの最初の映画評の一つだ。考えてみるともう5、6年前に書いた文章で、つまりはギリギリ20代、少しゾッとする。気のせいか、今より文章が上手いような…。

              【映画評】バッドアス!

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                 このシリーズでも紹介している西部劇の異色作「黒豹のバラード」で主演・監督を務めたマリオ・ヴァン・ピーブルズの父、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズの物語だ。メルヴィンもまた映画監督であり、初めて黒人がヒーローを演じる映画を撮ったという。本作はその戦いを描いている。

                 かつてのアメリカ映画では黒人は臆病で御馬鹿な三の線ばかり演じさせられていたらしい。時は70年代、まだ黒人のバス乗車拒否なんかが公然と行われていた時代でかつ、公民権運動の高まりやブラックパンサー党が台頭した時代である。
                 当然映画監督のメルヴィンにも、黒人をもっと違う方法で描きたいという欲望が生まれる。
                 この感覚は日本人にしてみれば「ライジング・サン」というB級映画を思い出してもらえばいい。日本人という設定で登場する悪役。どうみても大陸系の顔つきをしていてとても日本人には見えない男が、いわゆる女体盛りの刺身だか寿司だかを食す。
                 「外人には所詮日本は理解できない」という優越感の好きな日本人だから、1作2作ならむしろギャグとして笑っていられるだろうが、ハリウッド映画に登場する“日本人”が毎度毎度女体盛りをしていては、さすがにいい加減にしろと怒りたくもなるだろう。

                 というわけで、メルヴィンは黒人の黒人による黒人のための映画を作ろうと早速台本を書き始めるが、実験作であるばかりでなく、白人による差別も赤裸々に描いた過激な内容に、大手配給会社は当然手を貸さない。
                 なので当時としては珍しい完全自主製作で金をかき集め、スタッフを集め、撮影を決行していく。組合の目を誤魔化すため(アメリカでは芸能絡みの組合がやたらうるさいことはフランク・ザッパの自伝の中にも苦々しく登場するし、このコーナーでも取上げた映画「クレイドル・ウィル・ロック」でも描かれている)彼らの管轄外であるエロ映画と誤解させる苦労話など、興味深いエピソードをふんだんに盛り込んで、メルヴィンのまさしく身を削った奮闘を息子マリオが好演している。

                 こうして完成した「スウィート・スウィート・バック」という日本ではあまり知られていない映画は、黒人映画の火付け役となったらしい。
                 ドキュメント「バッドアスシネマ」によると、黒人映画は金になると気付いた配給会社と、黒人役者やスタッフの思惑が一致して、「黒いジャガー」などの黒人タフガイが活躍するバイオレンス映画が次々後に続いていく。黒人といえば馬鹿力で性豪でワルで服装が派手という今の我々が持っているステレオタイプはこのころ確立されたようだ。
                 なので黒人が映画界で幅を利かせたという一見歓迎すべき現象に対し、公民権運動家らからは「間違ったイメージを売っている」「権利拡大には繋がらない」という批判を受けた。
                 そして一気呵成のブームにはアリガチな話で、乱発される黒人映画は質の低下を招き、5年ほどで下火になったようだ。
                 タランティーノの面白いのかどうかよくわからない映画「ジャッキー・ブラウン」は、彼が若いころ夢中になった黒人映画へのオマージュとして作られており、「黒豹のバラード」もこの流れに位置していると考えられる。

                 さて偉大な父の偉業を、息子が監督し演じるというのは、ちょっと踏み外せばテレビ局が思い出したように特別枠で放送する「○山○男物語」のようなシャンシャン総会ばりの偉人伝になってしまう。いや息子が演じるのだから、それ以下だ。
                 この映画が巧妙にそれを避けえたのは、まず1つにはフェイクドキュメントに近いスタイルを取ることで、ある種の<客観性>を得たことだ。
                 物語の合間には、監督を支えたスタッフのインタビューのような映像が何度か指し挟まる。黒をバックに、後日語ったという恰好でスタッフ役の登場人物がカメラに向かって“当時”の心境を語るのだ。
                 こうすることで、物語は息子ではなく周囲の目線の積み重ねによって組み立てられているように感じさせられる。

                 加えて、「スィートスィートバック」にも子役として登場した少年時代のマリオは逆に端役の一人に過ぎない。メルヴィンが映画のためにマリオを犠牲にしようとするシーンがあるなど、それなりにはウエイトのある登場人物ではあるのだが、例えば息子目線から「当時の私は父を…」などと語るようなことはなく、大人の世界にちょっと首を突っ込んだ子供という線引きから出ることはない。
                 子供に親の気持ちはわからない。親に子供の気持ちはわからない。そういうことなのだろう。こうしてこの作品は、説得力やリアリティとともに、子が父を礼賛するときに付きまといやすい白け感を回避し得ているのだ。

                 メルヴィンの映画は、実話にしては「よくできた話」と言いたくなる形で評価を得ていく。そしてこの映画自体のラストは、これまでさんざんインタビューとして登場してきたスタッフの、当人が現れ、今度は本当のインタビューによって締めくくられる(特にアースウインドファイヤーのロン毛の人が出てくるところは感動した)。

                 そしてラスト、本物のメルヴィンが登場し、トレードマークの葉巻をくわえながら悪戯っ子のような笑顔を浮かべて終わる。台詞は何もない。
                 だがそれだけに伝わってくるものがある。息子は畏敬の念を持って父の偉業を描き、父はそれを歓迎していると。
                 事実を元に物語を構成するときの、また新たな手法を見せ付けられた気がした。

                「BAADASSSSS!」2003アメリカ
                監督:マリオ・ヴァン・ピープルズ
                出演:マリオ・ヴァン・ピープルズ、レイン・ウイルソン、ジョーイ・ブライアント

                【補遺】
                劇団ころがる石の舞台作品「デジタル銀幕フィルモグラフィ」は本作から2つパクった。1つは登場人物のインタビューでもって状況説明やストーリー展開を促す点、もう一つは監督が台本を書いている途中、気分が乗ってきて、過剰にハイになる点だ。ま、それだけの話なんだけど。

                【映画評】かぞくのひけつ

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                   「十三で今ロケをやってて・・・」というような話を以前知った人から四方山話で聞いていたのだが、それを忘れかけていたころ上映の運びとなっていた。

                   まさしく大阪は十三が舞台の家族モノで、出演者も桂雀々、長原成貴、九十九一、テント、そしてかの大御所ラジオパーソナリティなどなど、コアな大阪芸能人がそろっている。
                   こう聞くと、なんだか全てが大阪に収束しているような、関西人だけついてこいみたいなある種のスノッブ臭さを感じ取る人もいるかもしれない。大阪以外から来た人間が初めて関西ローカルを見たときのような気分とでも言おうか。

                   しかしこの作品、ほとんどのシーンを十三でロケしてるという触れ込みの割には「ここはスペスシャルな街ですよ」というようなアドマチック天国的押し付けがましさは特になく、「大阪の人情でっせ〜」というようなステレオタイプもない。普通の冴えない街に住む、普通の冴えない家族という視点で描かれていて、好感が持てる。
                   現実の街を舞台にした映画だと、ついついその街の特徴的な断片をあざとく切り取ったようなカットを多用したくなると思うんだけど、本作では風景においても人物においてもそれをかなり抑制してしかやっていないから、鼻に付かないのだろう。むしろ十三(大阪のかなりの地区にもあてはまるだろうが)は絵にならない街だなあとつくづく思わされたくらいである。

                   (とはいっても、すぐそこにラブホテル群があるところなど、街の特徴を捉えた構成にはなってると思うし、不可思議な薬屋に扮したテントが持ちネタのクモの戦いを披露するなど大阪人なら倍楽しめる仕掛けもある)

                   これは「十三で撮った」というより「近所で撮った」映画なんだろうなと思う。別に監督の住所地の話ではない。

                   この作品、見るからにあんまり金がかかってない。
                   まずこの映像の質感からいって、撮影はデジタルビデオカメラだろうし、移動撮影やクレーン撮影など大掛かりな撮影法を用いてるカットもほとんどない。照明もバリバリ陰影を作り出すような凝ったものではなく、簡素な照明しか使ってないんじゃないかと思う。
                   つまり音声以外は今の私の装備でも十分対応できる程度の方法で撮りきってるのである。
                   十三は絵にならないとさっき書いたが、逆に言えば絵にするような細工をほとんどせず、あるがままで撮ってるような映像ばかりだし、雑踏の中にはカメラ目線を送っている人間もチラっと見える。ハンドメイドな映画なのだ。

                   それでも見てるこっちは自主映画を見るときのような大目に見る姿勢を準備する必要はない。普通に映画館で金払って映画見てる感覚で見れるのである。ひとつには秋野暢子という有名な女優の存在感があるだろう。それ以外のキャストも安定したいい演技をしている。
                   しかし今の私がそれ以上に思うのは、映画的修辞法でもって丁寧に組み立てれば、映画は成立するんだなあということだ。誤解を恐れずに言えば「映画は君でも撮れる!」ということをかなりのレベルで実証した作品ではなかろうか。ツボさえ抑えれば近所でカメラ回せば十分撮れる。そのツボが実はかなり難しいのだが。

                   この作品が上映されている第七藝術劇場も映画の中に登場する。スクリーンの登場人物が観客と同じ道を通ってこの劇場を訪れるシーンを見たとき、映画作りは彼岸ではなく此岸のことなんだと妙にシンクロしたような気分に襲われた。こんな感覚をもっと世の中に提供したいんだろうなと私自身も思った次第である。

                  監督:小林聖太郎
                  出演:久野雅弘、秋野暢子、桂雀々、ちすん、谷村美月、テント、九十九一

                  【補遺】
                  我ながら意気込みが初々しい文章だ。当時の僕は勢いだけで映画を撮ってそのあまりの出来の悪さに二本目を撮ることなんて考えられないでいたのだが、この映画を見てもう一度やってみようと考えたものだ。そうして「ウェルカムホーム曇天カフェ」を制作した。一本目と違い、一応は堂々と人さまに見せられるものが出来たとは思うが、やっぱり映画の壁の高さに再び参ることにもなった。もう一度見てみようかなとも思う。現在DVDがレンタルされている。

                  【映画評】太陽

                  0
                     ロシア人かどうかは置いておくにしても、この映画を外国人が撮ったのは必然だ。できることなら我ら日本人は「してやられた」と思いたいところだが、「外人にしかできねーよ」と思うのが関の山だろう。

                     今更言うまでもないが日本のマスコミでは天皇はタブー視されている。天皇の行幸の際、宮内庁の担当記者もわざわざその地方までやってくるのだが、仕事の半分は敬語での記事の書き方を、よくわかってない地方の記者に教えることである。
                     細かいことまでそんな肩の力の入りようだから、皇室関連のニュースは、天皇を畏れ多くとも何とも感じない海外メディアの方が詳しかったりする。なので映画も監督が外人になるのは必然だ。

                     もう一つは距離のとり方が難しいということもあるだろう。腫れ物に触らず的な姿勢以外の人の立場はというと、万歳か糾弾かのどちらかが大抵である。あるいは特に一定世代以下なら興味も関心もないという人が圧倒的に多いだろう。
                     「日本のいちばん長い日」という映画では、昭和天皇は登場するが、顔は出ない。手だけのアップだったり物陰に隠れていたり、それこそ神聖な感じだ。いろんな深謀遠慮が働いたのだと思うが、そういう政治的意図を別にしても、一登場人物として扱えるのかどうか、制作サイドが距離感というか立ち位置というかを図りかねた結果だと思う。

                     とはいえ、昭和天皇は日本史における最重要人物の一人であることは間違いない。知っておかないといけない存在と言えるだろうし、表現者的な視点で見れば、これほど映画の題材として興味をそそられる存在もそうないだろう。
                     そういうわけで、昭和天皇を演じきったイッセー尾形は、その演技力以上に日本人としては拍手しないといけないことがいっぱいありそうだ。

                     さて本作は、終戦の直前と直後の昭和天皇に焦点を当てて描いている。在位期間が、実在が確認されてる天皇の中では最長らしいから、それくらいポイントを限定しないととても二時間ではまとまらない。それだけでなく、この期間に絞っても尚、様々な出来事があったかなりをこの映画は省略している。
                     何よりもいつの間にか戦争が終わっている!特に何の説明もないまま、中盤で天皇が外に出るとすでに米兵が皇居内で戯れてるのだ。
                     つまりは玉音放送のシーンがない。空襲の悪夢にうなされるシーンはあるが、原爆が落ちる場面もないし、「日本のいちばん長い日」で描かれることごとくが、ない。
                     せいぜい御前会議が多少揉める程度である。マッカッサーが現れても、かの有名な天皇との2ショット写真を撮るような場面もない。

                     では何を撮っているか。それを語る前に、カメラの話をする。
                     この映画でカメラは積極的な役割を演じない。例えば御前会議のシーン。居並ぶ強面の大臣たちを、よくとられる手法なら移動撮影して順繰りに大臣の顔を舐めるように撮影したり、俯瞰で捉えたり、何しろ帝国の最高意思決定機関であるから、ジャジャーンとばかりにとかく大仰にしたくなるところである。が、なんとも味気ないバストショットの連続である。
                     どちらかと言えば北野武の映画のようなに冷めた視点の映画と似ているようにも思うが、あんな風にスタイリッシュな映像というわけでもない。つい買ってしまったパンフには「映像美が云々」というような賛辞が述べられているが、むしろ格好いい構図をわざと外して撮ったように見えるシーンが多い。
                     ロシア映画はほとんど見たことがないので、もしかするとこれが定番なのかもしれないが、私にとってはちょっと馴染みがない撮り方だ。

                     格好いい映像を排除するとどうなるかと言えば、色んな色が抜け落ちる。大仰な絵で天皇を撮れば、必然そこに出てくる天皇は帝国憲法が定める主権者としての「天皇」ということになる。平たくいえば公人、いや当時は人ではないから、公神か。
                     大仰でなければ一個人としての天皇を描ける公算が高くなる。しかしこの人は、公式記録ならいざ知らず、あまりに偉い人だったので素顔はよくわかっていない。なのでこういう、一種あいまいで凝らないカットを多用したのではないかと思う。ヘタに内面に深入りしすぎると嘘くさくなる。かといって冷めた目になりすぎると婉曲に糾弾してしまいかねない。天皇を一人の歴史人物として捉えなおしてみる試みの中で、この映像は必然だったのではなかろうか。

                     そういうわけで、映画の中に何が出てくるかというと、ちょっとした何気ないエピソードの連続である。そのいちいちが実際あったことなのかどうか、勉強不足の私にはわからない。だが虚実入り混じるにしても、少なくともきっちり調べた上で作っているなというのは伝わってくる。
                     何しろイッセー尾形はかなり似せている。天皇に対して各登場人物が取る態度も日本人ならすんなり理解できる。アメリカのサムライモノのような違和感は全くない。
                     マッカーサーに「私はどうなってもいい」と潔いことを言ったとか、皇太子に敗戦の原因を分析した手紙を送ったとか、事実だとされていることも細かく出てくる。
                     そうなると、他のエピソードも本当なのかどうなのか気になってくるところだが、大学受験の世界史や日本史で結構なハイスコアを誇った私がいちいち知らないという日本の歴史教育の現状はどうよと、一応人のせいにする駄目だしをしておいて、特に印象に残ったシーンを挙げる。

                     昭和天皇は言う。米軍に日本人が残虐な目に遭わされるのではと心配したと。「残虐とは何だ」と詰め寄るマッカーサーに、天皇は言う。「原爆を落とされた」。
                     「あれは私の命令ではない」と不機嫌顔のマッカーサーは「じゃあ真珠湾は残虐ではないのか」と反論する。すると天皇は「私の命令じゃない」。

                     戦争とは何かが詰まった非常に面白いやり取りだ。一つは戦争はどっちもどっちだということ。そして時には誰だかわからない意志によってなされるということだ。

                     話を元に戻すと、陳腐な言い方をすれば「一人の人間としての天皇」を描いたこの作品は、最終的に、「人間宣言」につながっていく。
                     昭和天皇が現人神であることを否定して人間宣言したことは一般に知られている。しかしその意味はというとどうだろう。というか歴史というのは往々にして結果を知っている分、その出来事が当時どれほどのインパクトだったのかが後世の人間にはわかりにくい。

                     この映画を見て、昭和天皇に感情移入していくうちに、人間宣言の意味、というか天皇にとってどれほどの意味だったのか、がひしひしと伝わってくる。歴史ドラマの意義はそういうところにあるのだろう。こうして無知な日本人の30男は、ロシア人によって一つ勉強させられたのである。

                    「太陽 The Sun」2005年 ロシア、イタリア、スイス、フランス合作
                    監督:アレクサンドル・ソクーロフ
                    出演:イッセー尾形、ロバート・ドーソン、佐野史郎、桃井かおり

                    【補遺】
                    この評について、「天皇を人間として描く映画になんて興味も何もない。だから見る気もない」というような書き込みが知った人からあった。見ないという人とは議論がかみ合うはずもないので、特に反論もしなかったのだが、多分、「人間として描く」というのを、いわゆるヒューマンもののドラマみたいに想像されたのではないかと思う。本作はそういうヒューマンなテイストは皆無に近い。大体、ヒューマンものというのは名前の割にはちっとも人間を描けてないことが多いから好きではない。
                    とはいえ同時に、この人の世代(60オーバー)にとっては、僕らには想像もつかない、身に染み付いた憎悪のようなものがあって、「天皇」と聞いては冷静ではいられないのかな、とも考えた。
                    今年(2009)は天皇皇后の結婚50周年らしい。週刊朝日は、題字を下げてまで表紙の頭にそんな文句の見出しを打っていた。なるほど「天皇」というのはあまりに難しいテーマらしい。

                    【映画評】プレデター

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                       正月なんかに実家に帰るとついつい屋根裏部屋に片付けているマンガを1巻から最後まで読み返してしまう。時間の無駄も甚だしいが、面白いのだからしょうがない。言うなれば作品にそれだけ読ませる力があるのだ、とは単なるいつまでも幼い自分自身への弁明か。

                       地上波テレビの映画は、深夜枠を除けば大抵実にしょうもないハリウッドアクションの使いまわしで、ちっとも見る気が起こらないのだが、中にはついつい引き込まれてしまう映画もある。本作に関しても、先日一体何度目だと思いながらついつい見てしまった。
                       さすがに映像は古臭い感じがするし、宇宙人(?)の弱点に気付くシーンはやや強引な気がしないでもないが、緊張感を切らさない構成は素晴らしいものがある。で、改めて見て、なぜか岩明均「寄生獣」を思い出した。

                       寄生獣が評価されたのは単なるホラーマンガとしてよくできていただからではない。謎の生命体に次々乗っ取られる人間という古典的なテーマだけなら「遊星からの物体X」の方が怖い。血液検査のシーンなど、子供のころ小便を漏らしきっていたくらいだ。

                       寄生獣の何がよかったのかと言えば、種と種の対決と共存という単なる恐怖から止揚したテーマが上手く描けていたことだろう。人間を襲う寄生獣は人類にとっては大いなる脅威だが、神の視点から見れば既存種と新種の生存競争に過ぎない。加えて主人公の乗っ取りに失敗して右手だけに寄生した「ミギー」(すごい名前)の存在が、共存という可能性を示唆し、作品の視点を安っぽいダーウィニズムに陥らせない。なかなか憎たらしい作品なのである。

                       で、プレデターであるが、別に寄生獣のような哲学的な臭いのする映画ではない。言ってしまえばこれは単なるスリリングな筋肉アクション映画である。
                       仲間が1人また1人と殺されているという古典的な構図を踏襲しながら、シュワルツェネッガーの肉体と当時の映像技術で魅せているだけの作品であるから、匂ってくるのはアメリカ臭だけである。

                       しかしながら、これを種と種の生存競争と捕らえると、ちょっとだけ興味深さも趣を異にしてくる。

                       この宇宙人、なぜ主人公とその仲間を執拗に襲うのか理由はわからない。髑髏を愛でるという猟奇趣味はあるようだが、とにかくわけもなく好戦的である。
                       一方の迎え撃つ米軍兵士だが、これもさっさと逃げればいいのに宇宙人と戦い続ける。中には強敵と戦えることに興奮しているちょっとサイコな隊員もいるし(一瞬にしてやられてしまうのだが)、シュワルツェネッガーも罠を仕掛ける時間があるなら逃げろよという気がしないでもない。
                       まあ「それを言っちゃおしまいだよ」を言わないにせよ、兵士の使命感であったり、仲間を殺された復讐であったり、理由はいかようにも説明がつくのだが、種と種の争いだと考えるとすんなり腑に落ちるものを感じる。

                       実際種がどのように生存競争を繰り広げたかなど誰もわかりはしないだろうが、こうやって互いに未知の生命同士がわけもなく争う様は、生命体の本能ではないのだろうか。主人公の筋肉男が手作りの弓矢を用いるなど、原始的な戦い方を繰り広げるから余計にそう思えてくる。
                       映画では無論主人公が勝つのだが、もし負けていれば、人間はさっさと駆逐されるかどこかに追いやられてひっそりと暮らすことを余儀なくされていたかもしれない。

                       社会学系のつまらん評論をすれば、この時代のアメリカは、最早人類を代表して種の保存のために戦うようにすらなったということか。
                       しかしその後のアメリカが選んだ敵はテロリストであり、宇宙人と比べるとかなりレベルダウンしてしまったようだ。ラストで瀕死の宇宙人へのとどめを刺すことをやめるシュワルツェネッガーの姿に、今からすればやや違和感を感じてしまうこの感覚は、アメリカの変貌をどこかしら現している。

                      「プレデター PREDATOR」1987年 アメリカ
                      監督:ジョン・マクティアナン 出演:アーノルド・シュワルツネッガー

                      【補遺】
                      「知らない映画の評ばかりで読む気がしない」と若い衆に言われたことがあり、「知らないんなら見ろよ」と思いつつ、じゃあ知ってる映画で書いてやろうということで書いてみた一本。個人的には割りとよく書けたと思っている。書いてみて思うが、今後プレデターをついつい見てしまうことはなさそうだ。


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