【映画評】かぞくのひけつ

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     「十三で今ロケをやってて・・・」というような話を以前知った人から四方山話で聞いていたのだが、それを忘れかけていたころ上映の運びとなっていた。

     まさしく大阪は十三が舞台の家族モノで、出演者も桂雀々、長原成貴、九十九一、テント、そしてかの大御所ラジオパーソナリティなどなど、コアな大阪芸能人がそろっている。
     こう聞くと、なんだか全てが大阪に収束しているような、関西人だけついてこいみたいなある種のスノッブ臭さを感じ取る人もいるかもしれない。大阪以外から来た人間が初めて関西ローカルを見たときのような気分とでも言おうか。

     しかしこの作品、ほとんどのシーンを十三でロケしてるという触れ込みの割には「ここはスペスシャルな街ですよ」というようなアドマチック天国的押し付けがましさは特になく、「大阪の人情でっせ〜」というようなステレオタイプもない。普通の冴えない街に住む、普通の冴えない家族という視点で描かれていて、好感が持てる。
     現実の街を舞台にした映画だと、ついついその街の特徴的な断片をあざとく切り取ったようなカットを多用したくなると思うんだけど、本作では風景においても人物においてもそれをかなり抑制してしかやっていないから、鼻に付かないのだろう。むしろ十三(大阪のかなりの地区にもあてはまるだろうが)は絵にならない街だなあとつくづく思わされたくらいである。

     (とはいっても、すぐそこにラブホテル群があるところなど、街の特徴を捉えた構成にはなってると思うし、不可思議な薬屋に扮したテントが持ちネタのクモの戦いを披露するなど大阪人なら倍楽しめる仕掛けもある)

     これは「十三で撮った」というより「近所で撮った」映画なんだろうなと思う。別に監督の住所地の話ではない。

     この作品、見るからにあんまり金がかかってない。
     まずこの映像の質感からいって、撮影はデジタルビデオカメラだろうし、移動撮影やクレーン撮影など大掛かりな撮影法を用いてるカットもほとんどない。照明もバリバリ陰影を作り出すような凝ったものではなく、簡素な照明しか使ってないんじゃないかと思う。
     つまり音声以外は今の私の装備でも十分対応できる程度の方法で撮りきってるのである。
     十三は絵にならないとさっき書いたが、逆に言えば絵にするような細工をほとんどせず、あるがままで撮ってるような映像ばかりだし、雑踏の中にはカメラ目線を送っている人間もチラっと見える。ハンドメイドな映画なのだ。

     それでも見てるこっちは自主映画を見るときのような大目に見る姿勢を準備する必要はない。普通に映画館で金払って映画見てる感覚で見れるのである。ひとつには秋野暢子という有名な女優の存在感があるだろう。それ以外のキャストも安定したいい演技をしている。
     しかし今の私がそれ以上に思うのは、映画的修辞法でもって丁寧に組み立てれば、映画は成立するんだなあということだ。誤解を恐れずに言えば「映画は君でも撮れる!」ということをかなりのレベルで実証した作品ではなかろうか。ツボさえ抑えれば近所でカメラ回せば十分撮れる。そのツボが実はかなり難しいのだが。

     この作品が上映されている第七藝術劇場も映画の中に登場する。スクリーンの登場人物が観客と同じ道を通ってこの劇場を訪れるシーンを見たとき、映画作りは彼岸ではなく此岸のことなんだと妙にシンクロしたような気分に襲われた。こんな感覚をもっと世の中に提供したいんだろうなと私自身も思った次第である。

    監督:小林聖太郎
    出演:久野雅弘、秋野暢子、桂雀々、ちすん、谷村美月、テント、九十九一

    【補遺】
    我ながら意気込みが初々しい文章だ。当時の僕は勢いだけで映画を撮ってそのあまりの出来の悪さに二本目を撮ることなんて考えられないでいたのだが、この映画を見てもう一度やってみようと考えたものだ。そうして「ウェルカムホーム曇天カフェ」を制作した。一本目と違い、一応は堂々と人さまに見せられるものが出来たとは思うが、やっぱり映画の壁の高さに再び参ることにもなった。もう一度見てみようかなとも思う。現在DVDがレンタルされている。

    【映画評】太陽

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       ロシア人かどうかは置いておくにしても、この映画を外国人が撮ったのは必然だ。できることなら我ら日本人は「してやられた」と思いたいところだが、「外人にしかできねーよ」と思うのが関の山だろう。

       今更言うまでもないが日本のマスコミでは天皇はタブー視されている。天皇の行幸の際、宮内庁の担当記者もわざわざその地方までやってくるのだが、仕事の半分は敬語での記事の書き方を、よくわかってない地方の記者に教えることである。
       細かいことまでそんな肩の力の入りようだから、皇室関連のニュースは、天皇を畏れ多くとも何とも感じない海外メディアの方が詳しかったりする。なので映画も監督が外人になるのは必然だ。

       もう一つは距離のとり方が難しいということもあるだろう。腫れ物に触らず的な姿勢以外の人の立場はというと、万歳か糾弾かのどちらかが大抵である。あるいは特に一定世代以下なら興味も関心もないという人が圧倒的に多いだろう。
       「日本のいちばん長い日」という映画では、昭和天皇は登場するが、顔は出ない。手だけのアップだったり物陰に隠れていたり、それこそ神聖な感じだ。いろんな深謀遠慮が働いたのだと思うが、そういう政治的意図を別にしても、一登場人物として扱えるのかどうか、制作サイドが距離感というか立ち位置というかを図りかねた結果だと思う。

       とはいえ、昭和天皇は日本史における最重要人物の一人であることは間違いない。知っておかないといけない存在と言えるだろうし、表現者的な視点で見れば、これほど映画の題材として興味をそそられる存在もそうないだろう。
       そういうわけで、昭和天皇を演じきったイッセー尾形は、その演技力以上に日本人としては拍手しないといけないことがいっぱいありそうだ。

       さて本作は、終戦の直前と直後の昭和天皇に焦点を当てて描いている。在位期間が、実在が確認されてる天皇の中では最長らしいから、それくらいポイントを限定しないととても二時間ではまとまらない。それだけでなく、この期間に絞っても尚、様々な出来事があったかなりをこの映画は省略している。
       何よりもいつの間にか戦争が終わっている!特に何の説明もないまま、中盤で天皇が外に出るとすでに米兵が皇居内で戯れてるのだ。
       つまりは玉音放送のシーンがない。空襲の悪夢にうなされるシーンはあるが、原爆が落ちる場面もないし、「日本のいちばん長い日」で描かれることごとくが、ない。
       せいぜい御前会議が多少揉める程度である。マッカッサーが現れても、かの有名な天皇との2ショット写真を撮るような場面もない。

       では何を撮っているか。それを語る前に、カメラの話をする。
       この映画でカメラは積極的な役割を演じない。例えば御前会議のシーン。居並ぶ強面の大臣たちを、よくとられる手法なら移動撮影して順繰りに大臣の顔を舐めるように撮影したり、俯瞰で捉えたり、何しろ帝国の最高意思決定機関であるから、ジャジャーンとばかりにとかく大仰にしたくなるところである。が、なんとも味気ないバストショットの連続である。
       どちらかと言えば北野武の映画のようなに冷めた視点の映画と似ているようにも思うが、あんな風にスタイリッシュな映像というわけでもない。つい買ってしまったパンフには「映像美が云々」というような賛辞が述べられているが、むしろ格好いい構図をわざと外して撮ったように見えるシーンが多い。
       ロシア映画はほとんど見たことがないので、もしかするとこれが定番なのかもしれないが、私にとってはちょっと馴染みがない撮り方だ。

       格好いい映像を排除するとどうなるかと言えば、色んな色が抜け落ちる。大仰な絵で天皇を撮れば、必然そこに出てくる天皇は帝国憲法が定める主権者としての「天皇」ということになる。平たくいえば公人、いや当時は人ではないから、公神か。
       大仰でなければ一個人としての天皇を描ける公算が高くなる。しかしこの人は、公式記録ならいざ知らず、あまりに偉い人だったので素顔はよくわかっていない。なのでこういう、一種あいまいで凝らないカットを多用したのではないかと思う。ヘタに内面に深入りしすぎると嘘くさくなる。かといって冷めた目になりすぎると婉曲に糾弾してしまいかねない。天皇を一人の歴史人物として捉えなおしてみる試みの中で、この映像は必然だったのではなかろうか。

       そういうわけで、映画の中に何が出てくるかというと、ちょっとした何気ないエピソードの連続である。そのいちいちが実際あったことなのかどうか、勉強不足の私にはわからない。だが虚実入り混じるにしても、少なくともきっちり調べた上で作っているなというのは伝わってくる。
       何しろイッセー尾形はかなり似せている。天皇に対して各登場人物が取る態度も日本人ならすんなり理解できる。アメリカのサムライモノのような違和感は全くない。
       マッカーサーに「私はどうなってもいい」と潔いことを言ったとか、皇太子に敗戦の原因を分析した手紙を送ったとか、事実だとされていることも細かく出てくる。
       そうなると、他のエピソードも本当なのかどうなのか気になってくるところだが、大学受験の世界史や日本史で結構なハイスコアを誇った私がいちいち知らないという日本の歴史教育の現状はどうよと、一応人のせいにする駄目だしをしておいて、特に印象に残ったシーンを挙げる。

       昭和天皇は言う。米軍に日本人が残虐な目に遭わされるのではと心配したと。「残虐とは何だ」と詰め寄るマッカーサーに、天皇は言う。「原爆を落とされた」。
       「あれは私の命令ではない」と不機嫌顔のマッカーサーは「じゃあ真珠湾は残虐ではないのか」と反論する。すると天皇は「私の命令じゃない」。

       戦争とは何かが詰まった非常に面白いやり取りだ。一つは戦争はどっちもどっちだということ。そして時には誰だかわからない意志によってなされるということだ。

       話を元に戻すと、陳腐な言い方をすれば「一人の人間としての天皇」を描いたこの作品は、最終的に、「人間宣言」につながっていく。
       昭和天皇が現人神であることを否定して人間宣言したことは一般に知られている。しかしその意味はというとどうだろう。というか歴史というのは往々にして結果を知っている分、その出来事が当時どれほどのインパクトだったのかが後世の人間にはわかりにくい。

       この映画を見て、昭和天皇に感情移入していくうちに、人間宣言の意味、というか天皇にとってどれほどの意味だったのか、がひしひしと伝わってくる。歴史ドラマの意義はそういうところにあるのだろう。こうして無知な日本人の30男は、ロシア人によって一つ勉強させられたのである。

      「太陽 The Sun」2005年 ロシア、イタリア、スイス、フランス合作
      監督:アレクサンドル・ソクーロフ
      出演:イッセー尾形、ロバート・ドーソン、佐野史郎、桃井かおり

      【補遺】
      この評について、「天皇を人間として描く映画になんて興味も何もない。だから見る気もない」というような書き込みが知った人からあった。見ないという人とは議論がかみ合うはずもないので、特に反論もしなかったのだが、多分、「人間として描く」というのを、いわゆるヒューマンもののドラマみたいに想像されたのではないかと思う。本作はそういうヒューマンなテイストは皆無に近い。大体、ヒューマンものというのは名前の割にはちっとも人間を描けてないことが多いから好きではない。
      とはいえ同時に、この人の世代(60オーバー)にとっては、僕らには想像もつかない、身に染み付いた憎悪のようなものがあって、「天皇」と聞いては冷静ではいられないのかな、とも考えた。
      今年(2009)は天皇皇后の結婚50周年らしい。週刊朝日は、題字を下げてまで表紙の頭にそんな文句の見出しを打っていた。なるほど「天皇」というのはあまりに難しいテーマらしい。

      バッセン

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         浜崎さんが左耳が聞こえなくなったと報知新聞にやけにでかく載っていた。世界を見れば片腕のないドラマーってのもいるくらいですから、まあ頑張ってくださいという話ですが、聞くところによると箱根駅伝の選手は左耳が難聴になるらしいです。沿道の声援ですね。スポーツの観客が多いのは結構なこと、とばかりも言ってられないということですか。難しいですね。

         正月は姪っ子とそりで遊んでいたんだけど、雪景色を見ていると、カメラを回したくなってきます。スバラシイ心がけです。

         大阪に戻ろうと駅で切符を買うため並んでいると、どの自販機の客も何だかトロ臭くて、そうこうしているうちに特急が行ってしまう。舌打をしていると幼馴染のショウチャンから電話。乗り過ごしたおかげで久々会うことが出来て、塞翁が馬を地で行く展開である。

         ショウチャンは教師をしていて、仕事の話を聞くのが面白い。なんというか悩みや葛藤が生産的というか。僕の前の会社の人間の話は、先日の舞台の台本が子供じみているように見えるくらい吐き気のしそうな話題が目立つので、ショウチャンの話は素直に「頑張ってるなー」と嬉しさ半分、羨ましさ半分である。現場の教師は奮闘している。義家なんかに教育を語らせるまでもないぞ。

         それはさておき、ショウチャンとバッティングセンターに行く。古臭い、これまたカメラを回したくなるような雰囲気の店であるが、マシンの下につけられたプロ選手の名前の看板がこれまた渋い。「野茂」「佐々木」「桑田」…、これだけならまだ「古」で終わるかもしれないが、「正津」「横山」というのが鎮座しておる。コアな中日ファンとコアな広島ファンだけがかろうじて知る名前か。しかし地元民にはヒーローの名前である。いいなー、このチョイス。やっぱりカメラが欲しくなります。

        【映画評】プレデター

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           正月なんかに実家に帰るとついつい屋根裏部屋に片付けているマンガを1巻から最後まで読み返してしまう。時間の無駄も甚だしいが、面白いのだからしょうがない。言うなれば作品にそれだけ読ませる力があるのだ、とは単なるいつまでも幼い自分自身への弁明か。

           地上波テレビの映画は、深夜枠を除けば大抵実にしょうもないハリウッドアクションの使いまわしで、ちっとも見る気が起こらないのだが、中にはついつい引き込まれてしまう映画もある。本作に関しても、先日一体何度目だと思いながらついつい見てしまった。
           さすがに映像は古臭い感じがするし、宇宙人(?)の弱点に気付くシーンはやや強引な気がしないでもないが、緊張感を切らさない構成は素晴らしいものがある。で、改めて見て、なぜか岩明均「寄生獣」を思い出した。

           寄生獣が評価されたのは単なるホラーマンガとしてよくできていただからではない。謎の生命体に次々乗っ取られる人間という古典的なテーマだけなら「遊星からの物体X」の方が怖い。血液検査のシーンなど、子供のころ小便を漏らしきっていたくらいだ。

           寄生獣の何がよかったのかと言えば、種と種の対決と共存という単なる恐怖から止揚したテーマが上手く描けていたことだろう。人間を襲う寄生獣は人類にとっては大いなる脅威だが、神の視点から見れば既存種と新種の生存競争に過ぎない。加えて主人公の乗っ取りに失敗して右手だけに寄生した「ミギー」(すごい名前)の存在が、共存という可能性を示唆し、作品の視点を安っぽいダーウィニズムに陥らせない。なかなか憎たらしい作品なのである。

           で、プレデターであるが、別に寄生獣のような哲学的な臭いのする映画ではない。言ってしまえばこれは単なるスリリングな筋肉アクション映画である。
           仲間が1人また1人と殺されているという古典的な構図を踏襲しながら、シュワルツェネッガーの肉体と当時の映像技術で魅せているだけの作品であるから、匂ってくるのはアメリカ臭だけである。

           しかしながら、これを種と種の生存競争と捕らえると、ちょっとだけ興味深さも趣を異にしてくる。

           この宇宙人、なぜ主人公とその仲間を執拗に襲うのか理由はわからない。髑髏を愛でるという猟奇趣味はあるようだが、とにかくわけもなく好戦的である。
           一方の迎え撃つ米軍兵士だが、これもさっさと逃げればいいのに宇宙人と戦い続ける。中には強敵と戦えることに興奮しているちょっとサイコな隊員もいるし(一瞬にしてやられてしまうのだが)、シュワルツェネッガーも罠を仕掛ける時間があるなら逃げろよという気がしないでもない。
           まあ「それを言っちゃおしまいだよ」を言わないにせよ、兵士の使命感であったり、仲間を殺された復讐であったり、理由はいかようにも説明がつくのだが、種と種の争いだと考えるとすんなり腑に落ちるものを感じる。

           実際種がどのように生存競争を繰り広げたかなど誰もわかりはしないだろうが、こうやって互いに未知の生命同士がわけもなく争う様は、生命体の本能ではないのだろうか。主人公の筋肉男が手作りの弓矢を用いるなど、原始的な戦い方を繰り広げるから余計にそう思えてくる。
           映画では無論主人公が勝つのだが、もし負けていれば、人間はさっさと駆逐されるかどこかに追いやられてひっそりと暮らすことを余儀なくされていたかもしれない。

           社会学系のつまらん評論をすれば、この時代のアメリカは、最早人類を代表して種の保存のために戦うようにすらなったということか。
           しかしその後のアメリカが選んだ敵はテロリストであり、宇宙人と比べるとかなりレベルダウンしてしまったようだ。ラストで瀕死の宇宙人へのとどめを刺すことをやめるシュワルツェネッガーの姿に、今からすればやや違和感を感じてしまうこの感覚は、アメリカの変貌をどこかしら現している。

          「プレデター PREDATOR」1987年 アメリカ
          監督:ジョン・マクティアナン 出演:アーノルド・シュワルツネッガー

          【補遺】
          「知らない映画の評ばかりで読む気がしない」と若い衆に言われたことがあり、「知らないんなら見ろよ」と思いつつ、じゃあ知ってる映画で書いてやろうということで書いてみた一本。個人的には割りとよく書けたと思っている。書いてみて思うが、今後プレデターをついつい見てしまうことはなさそうだ。

          【映画評】25時

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             シカゴの代表曲で「素直になれなくて」というCMでもしょっちゅう使われている歌がある。ピアノを主軸にしたバラードで、耳にしたことがある人も多いだろう。このじっくり聞かせるベタな愛の歌のラストをご存知だろうか。CMでしか聞いたことがない人は一度ベスト盤ででも聞いてみるといい。ラストでいきなり何事が起こったかといわんばかりにパパラパパパラパ!とラッパの音がファンキーに盛り上がって、お祭り気分のまま終わる。せっかくの静かな歌も台無しってなくらいで、戸惑うこと間違いない。

             さて、本作のラストもどう捉えたらいいのか、とりあえず困惑した人も多いだろう。別にパパラパパパラパ!とラッパがはじけるわけではないのだが、いずれにせよ不可思議なラストである。

             社会派映画の急先鋒スパイク・リーとアメリカンヒストリーXの主演、エドワード・ノートンによる映画なだけに、また黒人がシバかれる話か?差別と憎しみか?と思ってしまうのだが、そうではない。リーにしては異色作といえばいいのか(ところでリーなどと略する方法は一般的なのか?)個人の内面でじっくり見せる静かな映画である。

             ノートン演じるモンゴメリーは、ヘロインの密売で懲役7年の判決を受ける。その収監直前の苦悩の24時間を描く。
             といっても特段特別なことをするわけでもなく、親友に不安や絶望を吐露しながらクラブで飲み明かすとかその程度である。せいぜい彼を麻薬取締局にタレ込んだ裏切り者は誰かということがちょっと気になるくらいでこれと言って大きな展開はない。モンゴメリーの後悔や焦燥、彼を見送る親友の苦悩などでじっくり見せる人間ドラマといえば分かりよいだろうか。
             余談だが、娑婆を去ることに耐えられないモンゴメリーが、ムキになってニューヨークに対して罵詈雑言を浴びせるシーンはケッサクだ。ジアンビーがステロイド使用を証言した今、イタリア移民は彼のバットを愛用し続けているのだろうか。

             こういう映画のパターンとして、ラストでは主人公が多少の心境の変化を垣間見せながら淡々と刑務所に入って終わりというのが定番であろう。「ショーシャンク」のようにいきなり痛快な脱獄劇になるというテもないではないかもしれないが、モンゴメリーは無実の罪というわけではないので、いきなり劇的な展開をすればこれまでの丁寧な筆致で積み重ねた友人恋人同士の微妙な心理描写は一体何なんだとなってしまう。

             ところが本作のラストはそんな予想とは全然違った。刑務所までモンゴメリーを送る車中で、ハンドルを握る彼の父親がなんと逃亡を促す。「さあ『西へ行く』と言え!」。するとほんとに西に行き始め、おいおいと思ってる間にモンゴメリーは西部の田舎町で第二の人生を歩み始め、時が流れておっさんになり、子沢山になり、「そういう終わり方かあ」などとようやく見てるこっちが平静を取り戻したころに、モンゴメリーは夢から覚めてやっぱり刑務所に向かう車の中。
             ところで車はおとなしく刑務所に行ったのかあるいは西に逃げたのか、それがよくわからないままにエンドロールが流れ出す。無論、単に私が車がどっちに向かったのかのヒントを見落としただけ、ということでなければという話だが。

             結局この不可思議な夢のようなラスト部分が、収監直前の24時間にプラス1時間の話で「25時」ということになるのだろうが、果てさて一体どういう意味だったのだろうと気になって仕方なかった人も多いだろう。原作の小説では明らかになっているのだろうか?興味はあるが、多分読みはしないだろうから、ここから先はそれを無視して進める。

             終わり方は綺麗に腑に落ちる方が、良し悪しは別にするとしても、親切である。サスペンス物で謎を提示するだけして解決もせず終わってしまっては、馬鹿にされたような気さえする。
             しかし例えば本作にとってモンゴメリーがおとなしく収監されるかどうかは物語全体の中でどれほど重要かといえば、それほどでもない。物語の中の本旨ではないといえばいいか。なのでこの今ひとつ綺麗とは言いがたいラストも、直後はさすがに戸惑ったものの、エンドロールが終わるころには「なるほど変わった終わり方だねえ」と割りにすんなり受け入れることができた。

             極論すれば物語は果たして必ず綺麗に終わる必要があるのか、と言うこともできる。人生は常に腑に落ちるようにできているわけではない。というかラストが特にないのが日常というものである。取り留めの無いやり取りの途中で、実際にはやり取りは続いているが、物語としてはここで一旦終わる、とばかりにブチリと区切ってみてはどうだろうか。それはそれで作品としての1つの区切り方ではないだろうか。

            「25時 THE 25TH HOUR」2002年 アメリカ
            監督:スパイク・リー
            出演:エドワード ノートン 、フィリップ・シーモア・ホフマン 、バリー・ペッパー

            【補遺】
            これを書いたのは2005年くらいだったと思うが、今の僕は、ラストはやっぱり綺麗につけた方が親切で、かつ微量でいいから救いがある方がより親切、という考え方になっている。プツっと終わるラストも個人的には好きなのだが、まずウケないということを身をもって体験したことも多々ありで。
            ジェイソン・ジアンビーは2009年、ヤンキースから古巣アスレチックスへ移籍したと聞いた。


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