【映画評】実録・連合赤軍 あさま山荘への道程

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     「実録」という単語をタイトルに冠するなんて、今時エロビデオやVシネでもなかなかお目にかけないセンスだなあと思っていた(そういえばこの監督はエロと暴力が得意なんだっけ)が、確かに実録という名にふさわしい、欲張りな映画である。

     冒頭、60年代の安保闘争から始まる経緯がダイジェストでつづられ(この辺の実映像に、作り映像が挟まる構成が、NHK大河ドラマのストーリーを端折る語りの場面みたいで、正直かなりダサいとは思った)、「あさま山荘への道程」とタイトルにあるように、連合赤軍の過激派たちがあさま山荘に向かうところで映画は終わるのかと思いきや、みっちりもっちりあさま山荘事件のシーンもやってしまう妥協を許さない気持ちいいくらいの詰め込みぶりである。

     まさに実録であるが、実録たる所以はそれだけではなく、ここが本作の素晴らしい点であるが、「一体何があったのか」を予断を交えず描き切ろうとしているところにある。

     武力革命を企てる共産主義の過激派が、山小屋にこもって同士討ちのリンチ殺人を繰り広げる。……。今の人間からすれば、生類憐れみの令みたいなもので理解不能にしか見えないんだが「狂ってやがるぜ」という感想をとりあえず置いといて色んな事実とか背景とかを見つめていると、「なるほどそういうことか」と見えてくるものがある。

     彼らの言っていることが理解できる、という意味ではない。全共闘という言葉を知ったのが中学生のころ流行った「僕らの七日間戦争」というくらいの軟弱な僕であるから、左巻き用語は特に疎い。絶望的なくらいの断絶すら感じる。

     だけど、言葉の意味はわからないが、彼らの行為が個人的な体験と妙にシンクロする場面が散見して嫌な汗はいっぱいかいた。

     例えば連合赤軍のメンバーが談笑している場面。和やかムードに水どころか氷をさすようにリーダーの森が椅子を蹴って激昂する。「おい!銃の管理がなってないぞ!」。
     実際銃の管理はなってなかったから、談笑していた部下たちは小さくなるしかない。これなんぞ、前に勤めていた会社そのまんまで、その日の仕事を終えてくつろいでいると上司がゴミ箱を蹴って「やい森下!」と本日の失態に始まり僕の勤務態度なりなんなりをなじりだす。
     失態を犯したのは事実だし、実際勤務態度はなってなかったから言い返す言葉はない。にしてもそこまで怒鳴る話かよ、とも思う。上司が怒鳴るのはイライラしてるとかもあるんだろうが、自分でも冷静に諭せない=どうしていいのかわからない、だからとりあえず怒鳴るのである。

     あるいはリンチが始まり出したころの場面。みんなリーダーを恐れ下を向いて雰囲気は最悪な中、リーダーの駄目出しは「何でお洒落してんだ」とかどんどん矮小化していく。しかし誰も「そんなんどうでもええやん」などとは当然言い出さず、「そうだそうだ」とみんな同調する。
     雰囲気が悪い劇団の練習現場でたまに見かける光景である。

     別に思い出話がしたいわけでなく、こういう30年以上前の話を見せられたのに、今の自分と重なることを思い起こさせるこの作品は、いい映画だと思う。

     ところで何で誰も「どうでもええやん」と言わないかといえば、そんなこと言ったら怒られる、というのも当然あるが、どんな矮小なことであれ、広い意味では“正しいこと”を言っているからだ。

     日本を変えるにしろ、いい芝居を作るにしろ、“正しいこと”はイメージしやすい。だがいざそれを実現するための方法は何かと言われれば、そんなことは誰にもわからない。
     やり方がわからないからとりあえず一個ずつ前進みますか、と考えられるのが大人の知恵というやつだろう。
     だが知恵がない人々は性急にコトを運ぼうとする。しかしやり方がわからない。なのでとりあえず駄目出しを探して全体を“正しく”しようとする。連合赤軍の場合は、だから殺人が起きた。それが僕の理解だ。正しいことは突き詰めれば殺し合いが起きる。

     先日も「より良い世の中にするため国民一体となって戦争の問題に目を向けるべきだ」と学生が文章に書いているのを読んだ。
     国民一体なんて、まさしくそのメンタリティが集団自決を呼んだことに彼は気付いていない。
     連合赤軍の人間にとっての正しいことは、我々にとっての正しいことではない。そんな“間違った”正しいことを希求したから彼らは殺し合いになったのだろうか。もしそう考えてるのだとしたら、今の世の中はこの学生を笑えない。

    「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」2008年日本
    監督:若松孝二
    出演:坂井真紀、ARATA、並木愛枝、地曳豪、佐野史郎

    【補遺】
     京大西部講堂での上映会に行った。建物がボロい木造で、かつ寒いというのが映画内と重なって、かなりバーチャル上映会だった。
     ここに監督も来ていたのだが、講演を聴いて、めちゃめちゃ左巻きなので驚いた。映画からは赤軍の人間へのシンパシーを感じないからだ。そのバランス感覚は凄い。
     本稿でも書いたが、僕は左巻きの世界にとことん疎い。世代的なものだけでなく、田舎者だからだと思う。周りの大人に、こういう世界の話をする人や、臭いを漂わせる人すらいなかったからだ。よっぽど戦争の方が身近に感じる。この映画を見て感じたもう一つのことは、自分がやっぱりつくづく田舎で育ったんだなあということだ。
     まあおかげでフラットな気分で映画を見ることは出来た。上映会はさながら「闘士」の同窓会で、彼らには映画がどう見えたのか気になるところだ。僕はどうにもこういう人々が苦手なのだが、それというのも、俺こそが真の左翼という臭いをぷんぷんさせているからだ。
     連合赤軍の至った顛末のおかげで、その後の日本では市民運動が盛り上がらなくなったようにも思う。何でも前の世代にするのは卑怯だけど、この世代から「今の学生は学生運動もしない」と嘲られたことの恨みはある。さて彼らにはこの映画はどう見えたか。単なる同窓会の肴だったら今度はこっちが哂ってやろうと思う。

    【映画評】刑務所の中

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       「原作を読んでから見た方がいいよ」「原作は全然面白いよ」と、小説なりマンガなりを土台にした映画はよく言われてしまう。

       最悪だと思う例が「ネバーエンディングストーリー」だ。この重厚な話をさてどうやって2時間に収めたのだろうかと疑問を抱きながらさて見てみると、全く収まっていなかった。逆にその開き直りに脱帽するが、それなら潔く「続く」とでもしておけばいいものを、いじめっ子に仕返しして終わり、というあまりにあまりなく括り方。科学的に口をあんぐりさせたのは、あれを見たときが初めてだと思う。

       逆に原作を越えた、と作家本人にまで言わしめたのが、「砂の器」である。野村芳太郎はハンセン病に焦点を当てる代わりに推理部分を大幅にカットした。それが評価された。だけど中には原作の方が推理物として面白かったと思う人がいるかもしれない。

       監督が「こう変えたい」と思う意志もあるし、映像にするときの技術的な問題もあるし、原作と映画はなかなか一致しない。いずれにせよ、そうして出来た結果が「良い」と評価されるか、「悪い」と酷評されるかというのも、監督業の醍醐味の一つなのだろう。

       ところが崔洋一「刑務所の中」は、非常に原作のマンガに忠実なるがゆえに逆に新鮮だった。

       どれくらい忠実かというと、まず台詞が細かいどうでもいい台詞にいたるまで、かなり原作マンガの通りである。だから当然登場人物も同じで背格好が似てる役者を揃えている。
       「リング」や「ぼくらはみんな生きている」でも御馴染みの、キャラの性別が入れ替わることもない。まあ同じ監房に女性がいたら違うドラマが生まれてしまうが。
       また短編集的構成をとっているのもマンガと同じ。セットもかなり同じである。
       二級受刑者、という人が映画を見に行くシーンがあって、原作では「許されざるもの」だったのが「キッズリターン」になっていて、崔監督と北野監督が友人なのかどうか知らないけど、そういう内輪的遊びなのかと思っていたら、原作を読むと、ちゃんとキッズリターンを見た旨のことが書いてある。なかなか周到にトレースしているのだ。

       ただし、原作の各話が継ぎ接ぎされてまとめられている部分もあったり、原作では第一話だった「それじゃさま懲罰房」が最終話になっているという違いはある。通りがいいように構成をまとめなおしたのだろう。あるいは、原作にはない、主人公が服役する前の拳銃不法所持の場面や、元々は軽く触れられているだけの「ティッシュマンの虚言癖」について詳しく描いているといった、独自色の部分もあるにはある。

       それはさておき、ここでその忠実さが生み出してしまった疑問について書いてみたい。

       刑務所の中のそもそもの面白さは、緻密な刑務所内の描写である。作者の花輪和一氏の類稀なる記憶力によって、北海道の某刑務所の内部がどうでもいい部分まで忠実に(本当に忠実かどうかは犯罪でも犯さぬ限りわからないが)再現されている。
       しかしマンガだからこそ面白い内部のリアルさも、映像でやるとかすんでしまうのではないだろうか。
       なぜなら本当らしいセットが組まれていることが、基本的に映画の中では前提条件になっているからだ。

       その昔、「新幹線大爆破」という高倉健主演のサスペンス映画の傑作があったが、国鉄の協力が得られず、撮影用に新幹線を忠実に再現したらしい。「へーこの新幹線は作り物か!」というオドロキが映画の本筋とは別に湧いてくる。そういう例もあるにはあるが、「刑務所の中」を見て「へー、これ作り物か」と思う観客はいない。実際の刑務所で撮影するわけがないとみんなわかっているからだ。

       なのでマンガでの一番の面白さが、この映画では行き場がなくなってしまったようにも思う。忠実なる再現がアダにもなったのだろうか。
       しかしこれ以上考えると映画とはなんぞやということにまで話がさかのぼりそうな気がしてきたのでこの辺でやめておく。

      刑務所の中 2002年 日本
      監督:崔洋一 原作:花輪和一 出演:山崎努 、香川照之 、田口トモロヲ 、松重豊

      【補遺】
       だいぶわかりにくかったので大幅に書き直した。「やめておく」で終わってるので改めて続きを考えようとしたが、思いつかない。思いつかないどころか、常人は知ることがない刑務所の中を描いた映画を元にして、常人には知ることがない刑務所の中を映像化したんだから、それだけで十分面白いじゃないかと全然逆のことを考え出した。

      【映画評】殺人の追憶

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         未解決事件をモデルにした映画だ。なので結局犯人はわからない。見ている方は迷宮入りだと知っているのに、犯人は結局誰かわからないと知っているのに、それでも惹き込まれてしまう、そういう力強さが評価された作品である。単純にいえば刑事の挫折を描いた人間ドラマだ。

         とはいえその刑事が無茶苦茶だから、人によっては今ひとつ共感できないかもしれない。私もそうだった。
         無茶な刑事といってもハミダシデカというわけではない。捜査が稚拙なのだ。
         現場保存はできない、鑑識はサボる、証拠はでっち上げる、取調べに拷問は当たり前、誘導尋問で無理矢理自白させる、などなど。こんな捜査で「迷宮入りして挫折しました」って、そりゃ当たり前だろ、と思いたくもなる。
         ソウルからやってきた凄腕っぽいソ刑事も、しまいには自分の思い込みに従って、クロの材料が素人目にも足りない容疑者を「このクズ野郎」とばかりに思いっきり殴ったり蹴ったりする。なのでここに出てくる刑事はみな多かれ少なかれ推定有罪で弁明の機会も与えず容疑者を殺してしまう大門軍団と大差ない。

         といっても別に彼らが特別というわけではなさそうだ。多分当時(1980年代)の韓国警察の実態に基づいて描いているのであろう。拷問で自白させるシーンなどは、日本の冤罪事件を追ったドキュメントを思い出させる。我々にとってもそれほど異次元の話ではない。
         ついこの間も再審請求が認められた事件がニュースで紹介されていたが、当時の日本の警察の捜査もこんなものだったのだろう。

         昔の警察の捜査は、目撃者探しと刑事の勘と自白である。
         近所の人が誰それが怪しいと言い、刑事がその人物を見た時、何かがピンと来たら、後は自白させるだけである。なので一番モノを言うのは刑事の第六感であり、証拠ではない。

         本作に登場するパク刑事も「人を見る目」が自分の武器だと自負している。いわば刑事は職人なのだが、そういう意味では占い師とあまり変わりない。占いは外れるときもあることは勿論のこと、信じない相手には通用しない。なのでこの映画に登場する<最重要参考人>とも言うべき怜悧な顔つきの若者も、ついに自白させることはできなかった。

         現在では捜査はすっかり科学的になった。科学的というのはつまり、ヤマさんでないとわからない勘、ではなく、誰でも反証可能なものに頼っているということである。なので刑事は職人ではなくなった。古株の警察官はよく「今の若い刑事はすっかりサラリーマン化した」と嘆いているが、それは科学捜査の必然の結果なのである。

         この事件の犯人に、多分パク刑事らの古い捜査方法は通用しない。いかにも怪しい人間からは何も浮かんでこない、犯人は必ず現場に戻るわけでもない、決定的な物証は残さない、そのくせ妙に劇場型犯罪を繰り広げる。
         こういういわば新手の犯罪に対応するため、今の警察はサラリーマン化した刑事を大量動員する物量作戦を展開している。
         少しでもかかわりのあることは、怪しかろうがいかにも関係なさそうであろうが全部潰す。あたかも5・7・5の17文字を順列組み合わせで全ての俳句を列挙するかのような途方もない作業を繰り返す、そんな捜査をしているようだ。

         無論それがより正しい方法なのかどうかはわからないが、今はそれが正しいと信じられていると。なのでこの映画で言えば、殺人とリクエスト曲の関連性が伺えれば、「推理小説の読みすぎだ」と笑うこともなく、機械的に放送局に送られたハガキを調べるだろうし、事件の始まった時期に村に引っ越してきた人間が何人いるかなど、とっくのうちに調べているだろう。

         この映画のパク刑事やソ刑事の挫折感とは、こういう過渡期に淘汰される者が抱いた虚無感を代表しているのだろう。
         「工場が機械化されれば仕事を奪われる」と恐れた人々が機械を破壊して回ったラッダイト運動だとか、明治新政府に刀を奪われた侍だとか、歴史を振り返ればいくらでも思いつく。結局は時代の波に抗いきれるものではないという点で、彼ら刑事たちには挫折しかなかった。

        「殺人の追憶」2003年韓国
        監督:ポン ジュノ
        出演者:ソン・ガンホ 、キム・サンギョン 、キム・レハ 、ソン・ジェホ

        【補遺】
         取調べの様子をビデオ録画するかどうかが議論になっている。僕はするべきだと思う。可視化されると、取調べに支障を来たすという反論もある。確かに犯罪者には狡賢い人間も少なくないだろうから、紳士的な取調べでは真実に辿りつけないこともあるだろう。でもそれも含めて可視化すりゃいいと思う。その取調べは、テクニックの一つか、それとも単なる脅迫か。全部裁判で検証すればいい。「以下のような取調べは駄目です」と警察庁がマニュアルを作る方がよっぽど不健全だ。

        【映画評】半落ち

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           結婚式で大学時代の友人たちと久々再会し、二次会の後仲間同士で夜の京都に繰り出した。ひと目で式帰りとわかるいでたちの三十男が7、8人群れてはしゃいでいる。傍らで見ればみっともないことこの上ないが、わかっちゃいるけど楽しくてしょうがない。
           こういうのを知り合いの女性に言わせると、「男の子の秘密基地」だそうで、なるほどと思った。

           男の子というのは大抵秘密基地を持っていて、仲間しか基地に入ることはできない。俺たちは有資格者だ、という連帯感が気分を昂揚させる。大人になった僕らは野ッ原を不法占拠することはなくなったが、やってることはオッサンになりかけた今も「秘密基地」と変わらない。

           物凄く大雑把に分析すると、男社会なんてものは結局秘密基地の主導権争いである。
           基地の主導権を奪われた、それならそんなたわいもない基地などさっさと捨てて外に出ればいいようなものだが、それはできない。勝ち組は勝ち組で自分が支配している世界が、ただの草木の寄せ集めであることに気付かない。
           ついでに言うとだから女性はいつまでたっても混ぜてもらえない。女は秘密基地の喜びを共有できないどころか、それが草木で出来ただけのチッポケなものだってことを知っている節があるからだ。

           横山秀夫の小説は、秘密基地に生きる男たち、それも主導権を奪われた負け組の物語であることが多い。
           警察や検察、新聞社といった秘密基地は、いつもしょうもない人間に支配されていて、主人公たちは逃げ出そうかとも思うのだが、もう少しこの基地で頑張ってみようとしょっぱく奮闘する。その様が恰好つけ過ぎだという批判は否定できないものの、どの作品でもなかなか活写されている。横山作品の醍醐味はそこにあると思う。

           「半落ち」も同じだ。
           一応出世頭の志木刑事も、キレ者の佐瀬検事も、皆しょうもない上司に秘密基地を牛耳られ、それでも誇りを保とう必死になる。
           ところが事件の犯人である梶警部は違う。妻を殺してなお生きることを選択した梶警部は、いわば基地を追われた男なのに、なぜか志木や佐瀬たちより泰然としている。彼の事件に関わる記者や弁護士らの男たちは、だからこそ梶という男に惹かれていくのである。

           さて小説を読んで、映画をクサす作業も何だかつまらないのではあるが、やっぱり言いたい。つまんねえ映画にしやがったなあ。
           いかに面白い作品を土台にしたところで、それを映画化する知恵が日本映画にはどうも欠けているようである。

           文句は色々あるが、最大の問題点は記者の中尾洋平を女に変更したことだ。その名も中尾洋子。
           鶴田真由の演技が見ていられないのはここではそんなに大きな問題ではない。性別を変更したこと自体が物語構成を大きく崩してしまった。端的に言えば秘密基地が壊れてしまったのだ。

           世の女性はそう怒らずに先を読まれたし。
           中尾洋平は記者なので当然梶を裁く側ではなく、むしろ梶の供述を捏造した捜査側の欺瞞を暴こうとする。その目的はある程度達成されるものの、いわば組織のくだらない論理に翻弄された末の結果であるから本人に達成感はない。結局は梶に惚れるしかない志木や佐瀬と同じ負け組なのだが、「中尾洋子」はそうではない。

           中尾洋子の役割は、いわば狂言回しだ。狂言回しだから同じ穴には住まない。あくまで真実を探る第三者として描かれる。
           なので、狂言回し・中尾洋子によって用意された舞台装置の中で登場人物はいずれもストーリーを繰る駒に成り下がり、そもそもの役割は希薄になってしまった。
           「秘密基地に拘泥する者と追われても尚潔い者」という物語の根本をなす構成がぶち壊しになってしまっているのだ。

           映画は多くの人が楽しめる総合娯楽らしい。先日読んだ新作映画の紹介文にそうあった。長い小説は読むのに骨が折れるが映画ならまだ楽に見られる。だから売れた小説は映画化によってさらなる市場拡大を狙う。
           商業上の要請で生まれる映画は往々にして無難でいようとする。なので男ばっかりの登場人物構成より女性がいた方が華があるだろうってんで、6人のうち1人を女にするし、梶が沈黙を守る理由という“ヒューマンドラマ”(この表現もどうにかならないでしょうか)に重点を置く。映像は癖のない明かりを均等にまわした分かりやすいカットに努める。
           要は何の冒険も挑戦もない。こうして出来上がった作品に何の意義があるのだろうか。

          「半落ち」2003年日本
          原作:横山秀夫 監督:佐々部清
          出演:寺尾聰、鶴田真由、國村隼、伊原剛志、柴田恭兵

          【補遺】
          「半落ち」はオチが唐突だと批判されることが多い。伏線は一応巡らしてあると思うのだが、それでも「唐突だ」とか「伏線が弱い」とか言われるのは、梶が守ろうとした「真実」の色合いが、物語のパズルの中に綺麗に当てはまらないからだろう。
           だけど個人的にはそこはあまり気にならなかった。主人公が順繰りに入れ替わる構成や、本稿で書いた秘密基地な部分が面白く感じたからだ。
           この映画の監督は、このオチの違和感をどうにかして埋めようとしたのだろう。なので梶と妻の愛情の部分をやたらと描いて物語を構成する要素のパワーバランスを調整しようとしたのだと思う。
           しかし原作の風変わりな構成や、男臭いテイストを、映画にどうあてはめていくかを考えた方が、よほど魅力的で新しい映画になったのではないだろうか。それだけに残念だ。

          【映画評】それでもボクはやってない

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             裁判官が木槌を持っていると思ってる人は多いんじゃなかろうか。外国映画なんかで見かける「静粛に!トントン!」というアレは、実は日本の裁判官は持っていない。いや本当は持っていてよっぽど腹に据えかねたときにはもしかして出てくるのかもしれないが、私は見たことがない。
             ことは木槌なら飲み屋の雑学レベルの話だが、裁判について大抵の人はほとんど何も知識がない。それで日常生活にさしたる支障はないとつい思ってしまうのだが、問題は我々が暮らすこの現代日本は法治国家という制度を採っているということだ。

             痴漢冤罪の実話を基にした作品だ。無実なのに痴漢の犯人にされたという話は、ニュースなどでたまに見かける。痴漢は被害者の証言くらいしか証拠がないため、「この人痴漢です」と名指しされてしまえば、人違いであっても犯人にされてしまう誤解が起きやすいのだ。
             26歳フリーターの主人公・金子も、同じように電車で女子高生に痴漢をしたとして逮捕され、いくら否定しても刑事も検事も信じてくれない。やがて裁判になり、判決に至る。それらの過程で、日本の司法制度の問題点が浮き彫りになる。そういう内容だ。

             裁判が出てくる日本映画はそれほど珍しくないが、これでもかとばかりにとことん実態をリアルに活写したという点では出色の裁判モノだろう。というか、裁判の実態を再現することにのみ力を注いだ映画といっても過言ではない。

             監督は周防正行。「Shall weダンス」で知られるように、コメディの監督というイメージがあっただけに意外な気もしたが、当人曰く「知らない世界に主人公が飛び込むという点ではこれまでの作品と同じ」。
             確かに金子は裁判についてまったくの無知で、自分の身に何が起こったのか理解するのにも多少時間がかかっているくらいだ。
             ただし従来の周防作品と違って、知らない世界で戸惑う主人公の成長なりドラマなりは特にない。まあ被告人にされて成長も何もあったものじゃないが、金子が逮捕→送検→起訴→勾留→裁判という経過を辿らされる様をただひたすら描く。そしてその過程の一々が、相当取材を重ねたと見えて、ニヤリとするくらいの細かい演出が行き届いているのだ。

             脱線を承知でいくつかを順に紹介すると、恫喝してくる刑事と懐柔してくる刑事の交互の取調べ(非常にテレビドラマ臭いが、実際にそうするようだ)。
             一方、こっちは理知的でスマートなのかと思いきや、やっぱり恫喝してくる検察官(検察官の恫喝の方がいやらしいとも聞く)。それも副検事という細かい設定(罰則の軽い事件の場合は検事より一階級下の副検事という年配の人が担当する)。警察も検察もパソコン供述を筆記している点。
             民事専門の弁護士の事務所はモダンで格好よく、刑事をやってる弁護士の事務所は雑然としてて古臭い(刑事事件は基本儲からない)。被害者対策に興味があるので被告人の弁護には気が進まないという若い弁護士。
             お公家様のような裁判官の風貌(あの役者は何者なのだろう)。なぜか気さくな書記官(ホンマになぜか気さくな人が多い)。
             法廷でペン回しをやめない若い検事(個人的には一番ヒットした)。
             こ汚い格好の傍聴マニア。
             巧妙に居眠り?をする裁判官(巧妙なので居眠りかどうかわからないが話を聞いてないようにしか見えない)。
             などなど、本筋と直接関係ないところ部分もかなり気を遣っていると見え、仕事でいくつか裁判を傍聴したことがある私としては、かなり既視感を覚えたものだ。

             それはさておいても、法律用語だらけの難解なやりとりもそのままで裁判は進んでいく。誇張もなければ書き下しもない。だいたいカメラワークからしてちっとも凝っていない。司法制度の問題点を突く趣旨の作品であるから、へたな演出を避け、より実態そのままに、ということなのだろう。

             ただしそれだと客に伝わらない可能性もあるわけで、かなりの冒険だったのではないかと勝手に不安になる。
             実は柳町光男以来、鑑賞後に監督にじかに話を聞く機会を得たのだが、その辺りについて質問すると、「分からない部分があれば、それも含めて刑事裁判の実態ということだ」となんとも明快な回答だった。補足すると、一応台本はギリギリまでわかりやすくするため何度も書き直したらしい。

             確かに合間合間で弁護士や法律に詳しい支援者、訴訟マニアが登場人物に分かりやすく説明する台詞がはさまれるから、ある程度は分かりやすく見ることができる。それもテリーマンのようなあからさまな説明挿入ではなく、あくまで物語の流れを止めずに観客に補足説明を示せている。当人は「夢中で作ったらうまくこうなった。方法論は自分でもわからない」と言うが、一言でいえばこれが年季ということなのだろう。

             もうひとつ指摘すれば、趣旨を貫徹するために余計なものはほとんど省いたということがある。

             この映画は、主人公の苦悩を多少は描いているものの、出来事の不条理に比べれば圧倒的に少ない。家族や友人にいたってはほとんど内面には触れられておらず、例えば別れた彼女役の鈴木蘭々がなぜ支援者に加わっているのか、何もわからない。
             もしこの映画の中にかなり重いシーンがあるのではと警戒している人がいたら、安心していい。家族が泣き喚くようなシーンはほとんどない。なので逆に裁判それ自体に集中して見入ることができるのだ。

             果たしてそれが劇映画なのか、と言われればそんなことはわからない。少なくとも、日本では法廷内撮影は禁止だから、ノンフィクションでは描けないということは言える。

             裁判というのは、相当人類の歴史と知恵が詰め込まれた産物だと思う。現代人の感覚でいくと、裁判を公開するのは何だかプライバシーの侵害のような気がするだろうし、悪人を弁護するなんてとんでもないことに見えるかもしれない。
             先日も「殺人犯を弁護するなんて、ホンマ腹が立つ悪徳弁護士や」とオッサンとオバハンが会話しているのを耳にした。この場を借りてオッサンとオバハンに説明すると、それが弁護士の仕事というのがひとつ。そして悪徳弁護士は刑事事件の弁護なんて汚れ仕事はやらない。環境破壊や大量リストラを繰り返す大企業の顧問でシッポリ稼いでマセラティを乗り回す。これが本当の悪徳弁護士だ。
             なぜそういう“庶民感覚”からズレがちな側面が裁判には多いかといえば、例え誰かが傷つこうと裁判は公開しないと、例え10人殺した鬼畜であっても弁護する人間がいないと、「駄目だ」ということを既に人類が学んできたからである。
             しかし現代の、何でも単純化して捉えようとする風潮、近道でええ格好しようとする効率的な倫理観の前では、いかにももろく崩れてしまいそうな取り越し苦労に襲われる。
             加えてそれを担っている賢いはずの人々が、余計にそれらの叡智をないがしろにしているようなのだ。だからこそ、この映画の存在意義は果てしなく大きい。

            「それでもボクはやってない」2007日本
            監督:周防正行
            出演:加瀬亮、役所広司、瀬戸朝香、もたいまさこ、山本耕史

            【補遺】
             最後のくだりは要らないような気がしたが、一応残した。
             試写会で見たのだが、監督への質問コーナーというのがあり、直に質問する機会を得た。僕が書く台本はよく「難しい」とクレームがつくので、その辺の助言も暗に求めた質問だったのだが、「実にイイ質問ですねえ」と監督から褒められたので、本稿では妙に監督を持ち上げている。
             後日、役所広司が出ている胃薬の宣伝を見て気付いたのだが、説明台詞を説明臭くさせてないのは、役者の力が大きい。胃薬の効能を説明しているだけなのに役所は格好いい。これが実力というやつなのだろう。
             


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