【映画評】キューブ、キューブ2

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      「2」は当たるが面白くない。
     映画の場合ほぼ必ず当てはまる。「1」が成功すれば映画会社は二匹目のどじょうを狙う。客も1の面白さを期待して映画館を訪れる。だから興行的には成功するが内容は大抵の場合、トホホである。

     結論からいえばカルト的なヒット作となった「キューブ」の続編「キューブ2」もこの法則に漏れなかった。内容はトホホである。トホホの原因というか教訓は、「どこまで説明するか」ということである。

     物語の世界でどこまで説明するかは結構難しい。説明が不足すれば不満が残る。謎めいた仕掛けについて、ハナから説明する気もなさそうな作品は、消化不良どころか強烈な不快さえもたらしかねない。とはいえ説明過多なのも興ざめだ。無粋というやつである。

     「キューブ」はそういう点では絶妙の説明し具合である。

     立方体の部屋が延々と連続した謎の施設に閉じ込められた男女数人。餓死の危険もさることながら、部屋によっては刃物や毒薬が飛んできて危険極まりない。どこが危険な部屋でどこがそうでないかなどに実は法則性があって、これが程よい謎となってストーリーを盛り上げるが、結局のところこの施設が何なのか、これは最後までよくわからない。

     登場人物の推測によれば、どうやらこの巨大施設が公共事業だということ、そして人が使わないと無駄になるから彼らは連れてこられたということらしく、TVタックルもビックリの恐るべき無駄公共工事である。カナダの公共工事も日本と同じかと、これはこれでかなり興味深い話なのだがそれはさておき、とはいえこの巨大施設について、あくまでこの程度の推測しか説明はされない。

     というのも、この施設が何かということはあまり物語にとって意味がないからである。

     登場人物の一人が言う。「俺もさ、誰も彼もがシステムの一部なんだ。俺は設計し、君は見回る。君が言った通り、目の前を見るしかない。全体は誰にも見えない。人生は複雑だ。俺たちがここにいるのは人生を制御できないからだ」。

     つまり陳腐を恐れながら言えばキューブは社会の暗喩である。
     この台詞を言う人物は、勤務先から言われるまま、それが何かわからずキューブの一部分の設計に加わっていた。自分の行為が、風が吹けば桶屋が儲かる式に実はどこかで誰かに深刻な影響を与えているかもしれない。そんなことは誰にもわからない。この映画は巨大システムと化した現代社会をキューブに象徴させながら、そこでもがく人間を巧みに描く。

     なんだか説教臭そうな内容に思えてくるかもしれないが、例えば足手まといな知恵遅れの青年を連れて行くかどうかという議論は、単純だが面白い。ヒューマニズムか、マキャベリズムかという問いだ。そしてその青年が説得力を持った方法で活躍する場面は単なるトリックにとどまらない(展開としては結構バレバレだが)。

     話が逸れたが、キューブが社会の暗喩であるということは、この施設が何なのかを安易に説明すれば、社会全体を説明していることにもつながってしまい、「世の中はそんなに単純じゃないやろ」と安っぽく思われてしまいかねないといえる。

     とはいえ世の中には本作を見て消化不良だったもいるのだろう。キューブの盛り上げ要素となったトリックの部分に注視した人は、一体これが何なのかはやっぱり気になるというものである。

     だから2ではその説明を試みた。これが結局大失敗となったわけである。
     2も基本的な構造は同じ。立方体の謎の施設に連れてこられた複数の男女。わけのわからない事態に混乱しながら脱出方法を探る。同じように危険な部屋もあり、登場人物同士の内ゲバが起こるのも同じ。ただし今回は四次元立方体ということで、時間軸の概念が加わる。なので別の時間軸を生きるもう一人の自分が現れたり、目の前でそのもう一人の自分が死んだりミイラになっていたりする。時間の流れが早い部屋やスローな部屋もあり、アイデアとしてはなかなか面白い。登場人物にもそれぞれ謎めいた背景があり、ストーリーはかなり入り組んでいる。

     しかし逆にこのためトリックストーリーが先行して、登場人物の行動の必然性がトリック以上にはあまりない。代表的なのが人喰いに走る人物で、この人何でそうなっちゃったのか唐突でよくわからない。単に空腹だったから?

     2の場合は、こうやってトリックストーリーに終始しているだけに、これが何なのかを説明する必要に迫られたとも言える。

     さてそこまで謎が謎を読んだこの施設は一体何やねん。これを説明しないと収拾がつかない。デビッド・リンチじゃあるまいし、ってわけで説明を求められ、脚本家の思惑はどうであれ、実に苦し紛れに陰謀説で片付いてしまった。

     陰謀論、二文字でいうと「組織」というこの便利な存在は、ほぼ間違いなく物語を陳腐にする。どんなに強大な組織がいようと、それで全て支配できるほど世の中は狭く、単純ではないからだ。
     物語における謎、トリックストーリーは、果たして主役になれるのだろうか。なかなか難しい命題であるが、とにかく2は作らぬに越したことはないらしい。

    「CUBE」1997年 カナダ
    監督:ヴィンチェンゾ・ナタリ 出演者:モーリス・ディーン・ウィント 、ニコール デボアー 、D ヒューレット

    「CUBE2 HYPERCUBE」2002年 アメリカ
    監督:アンドレイ・セクラ 出演者:ケリー・マチェット 、ジェラント・ウェイ・デイビス


    【映画評】ビフォアサンセット

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        映画で続編を作るのは難しい。更なる金もうけをあてこんで作ってみたはいいが、二匹目のドジョウはいない。

       せいぜいが最初っから二作目を作ることを想定していたスターウォーズにしろ、ロードオブザリングにしろ、いわゆる超大作がなんとかこの呪縛から逃れてはいるのだろうが、それにしたってスターウォーズは2(エピソード5)までは見れても後は酷いもんである。「to be continued」とラストで大胆にも予告したバックトゥザフューチャーシリーズも、結局やらない方が名作になれただろうとは思う。そういえば同じ名前のJ-ROCKバンドは一体どこへ行ったのやら。余談だが、バックトゥ〜は2が一番儲かって、3が一番儲からなかったらしい。分かりやすい話だ。

       続編のパターンはいくつかある。まず、主人公が新しい任務や事件に出会うというアクション映画で多いパターンだ。007のように、うまいこと再生産システムが確立できればいいのだが、ランボーにしろ、ダイハードにしろ、大抵は話がインフレ現象を起こして終いに阿呆くさくなる事態に陥る。

       もう1つが設定は同じで、主人公が替わるパターン。「キューブ2」が典型的で、前作と同じ舞台を用意しつつも、前作より面白い謎や仕掛けを用意しないといけないので、大抵は話が破綻する。

       そしてまさしくその後を描くパターン。物語には終わりがあるという公理を覆す行為なので、語るだけヤボだったという事態に陥りやすい。負け犬球団を脱して栄光を掴んだインディアンズの選手たちはどうなったの?というのは知りたいことではあるだろうが、やっぱり知る必要はなかったという結果になっている。

       さて本作品は、「恋人までの距離(ディスタンス)」という恥かしい邦題の映画の続編である。元々の題は、「ビフォア・サンライズ」で、今度は「ビフォア・サンセット」という分かりやすいタイトルだ。配給会社が勉強したのか、あるいはアメリカの配給会社から釘を刺されたのか、今回は恥かしい邦題はつかなかった。

       この作品はパターンで言えば3番目に相当する。前作で、言ってしまえば行きずりの恋に落ちた男女はラストで再会を約束して終わる。果たして二人は再会したのかどうなのか、とても気になるところではあるが、それは視聴者の心の中で、と浜村純風にまとめておくのが作り手ないしは受け手としては妥当な選択だろう。1年後二人は再会しましたメデタシ、でも、実は2人は会えませんでしたガーン、にしろ、どっちにしろ白ける可能性はかなり大であるから、相当挑戦的な映画であるといっていい。結論というか評価を先に書いてしまえば、そこらへんをなかなか見事にクリアした佳作である。

       舞台は「あれから9年後」というもうちょっとで渡辺美里の歌になりそうな設定だ。丁度前作が作られたのは9年前なのでそれに合わせたという意味もあるのだろう。

       男も女もそれぞれそれなりに歳を食って、パリで再会する。男はあと二時間もしないうちに飛行機に乗らないといけない。その限られた時間、2人はパリの街を歩きながら延々喋り続け、特に何事も起こることなく終わる。前作と同じパターンなのだが、それでもラストでクライマックスのあった、もう1つ言えば、日の出までの話だけど、日が昇ってからの話もちょっとはあった前作に比べ、「飛行機なくなるわよ」「知ってる」という会話で唐突にエンドロールになり、日没にすら至らない今作は何も起こらないこと甚だしい。私はなかなか楽しんだが、それでも「終わりかよ」と口に出してしまった。なので戸惑った人も多かったのでは?という疑問があり、「佳作」と評した。

       では少なくとも私は何が面白かったのかといえば、「恋愛とは傍から見れば平坦だけど、当人たちにとってはドラマチックだ」という前作で見事に描いたことを、再びうまいこと提示してきたからだ。
       男は言う。「僕は銃や暴力とも無縁で、国際陰謀やヘリの墜落も無縁だ、ありふれた人生だが主観ではとてもドラマチックだ」。まさしく小欄で以前述べたようなことをズバリ言い当てたような台詞で、大抵の人には当てはまる人生観だろう。誰にでも当てはまることだからこそ共感も呼べるというわけだ。

       勿論、旅先で誰かと恋に落ちた経験のある人は、まあ旅っていうのはそういうもんだから、そんなに珍しくはないかもしれないけど、その相手と9年たって再会するなんてことはあんまりないかもしれない。あったらあったで過去の火遊びが蘇ってくるだけで迷惑だという人もいるだろう。それでも、昔の恋を忘れられないというのは大抵誰でもそうだろうし、過ぎ去ったはずの昔話化していた恋が、再び何らかのリアリティを持って心を支配してきたという人もいるだろう。男はこの9年間、未練を消化できずにいて、女はとっくに過ぎ去ったはずの話が、実は自分も傷ついていたことを知る。そして男は「君と会えてよかった」とばかりにこの街を去り、女は相変わらずここで生活していく。何だか自分の人生にもかするようなかすらないような。そんな些細なドラマと共感がとても心地いい作品なのだ。

       9年たって生まれたこの続編。逆に言えば、9年かかってようやく続きが出来たということなのだろう。監督もインタビューで「直後の話を描くつもりはなかった」というようなことを述べているが、やはり物語の「その後すぐ」を作るのは、相当に無理がある作業なのかもしれない。問題は9年前の話を誰が覚えているんだということだと指摘できなくもないが、人生なんて割かしあっという間である。外タレバンドなんぞは普通にそういうことをやっていて、プロディジーは昨年6年ぶりに、ストーンズは8年ぶりに新譜を出した。15年たっても何も出ないガンズアンドローゼズはとっくに狼少年化しているが、それでも出せばそれなりに売れるだろう。10年たたないうちに忘れ去られるようでは、最初っから続編なぞ不要なのである。

      「ビフォア・サンセット BEFORE SUNSET」2004年アメリカ
      監督:リチャード・リンクレイター
      出演:イーサン・ホーク 、ジュリー・デルピー


      【映画評】恋人までの距離(ディスタンス)

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         「邦題で損をしている映画」といわれている。原題は直訳すれば「日の出前」。なんだか島崎藤村みたいで内容を誤解される恐れがあるから、別の題をつけるという選択肢が仮に正しいとしても、あまりにダサいタイトルである。原題をそのままカタカナ表記にする今の手法もどうかと思うが、「こんなのが今の世の中ウケますよ」という猿知恵は、時代の経過とともにあっさり色あせる。ビデオ屋で借りるとき、凄く恥かしかった。

         ドラマチックな恋がした〜いという女性は少なくないのだろうが、それほどみなさんが普段しているのはクスリともしない恋愛ばかりなのだろうか。そりゃ死んだと思った男が記憶喪失になって現れたり、愛の告白をしようと男がダンプに突っ込んだり、なーんて経験をしている人はまずいないだろうが、それなりに話のネタになるくらいの恋くらい、健全な男女であれば誰しもしているのだ。

         特に意識したことなかった異性がある日急に素敵に見えたという、1993年に局地的にヒットした歌の歌詞のような場合もあるだろうし、初対面の異性と不思議なくらい意気投合したということもあるだろう。こいつ俺のこと好きなんちゃうか、と思わせるフトした仕草にドキリとしたり、いざ告白しようとするときの緊張感も(結果OKであれば)それなりにドラマチックで楽しい。要は恋愛というのは、それ自体がそもそもドラマに富んだ行為なのだ。

         それに気付かず、つい記憶喪失の青年との再会を夢見てしまうのは、当人に妄想壁があるということを除けば、彼女たち(もしくはちょっとイタい彼氏たち)が願望の拠り所としているラブストーリーが基本的に色んなことが起こりすぎだからである。好きになった、だけでは話がもたないから、三角関係四角関係は当たり前、誰か死ぬのも当たり前、場合によってはタイムスリップも宇宙人もアリてな具合である。こういう陳腐な展開の何に憧れるんでしょうかね。個人的には歳のせいか、こういう構図の何が面白いのかよくわからなくなってきた。

         本作は、そういう余計な話が一切ないという点で、異色の恋愛モノといえる。旅先のウィーンで出会う男女、という設定がちょっと「冷静と情熱の間」チックで寒いといえなくもないが、その他はいたってシンプルである。

         旅の男が、同じ列車に乗り合わせた女をナンパし、ウィーンで途中下車して昼過ぎから夜明けまで過ごす、それだけの話だ。別にそこで昔の恋人がバッタリ出てきて話がヤヤコシクなったりとか、2人が大喧嘩して別行動に出たところでロシアマフィアの人さらいが彼女を拉致し、なんてこともない。ただ2人が、たまに地元の変な人と出会いながら、会話を続けて、そのうち互いに惹かれあっていく、というそれだけのストーリーである。これが実に面白い。恋愛はそれ自体、勝手にドラマであるということをうまくすくいあげた作品なのである。特にハラハラすることもないから、ゆったり腰掛けジャスミン茶でもすすりながら、男女の心の機微をうふふとしっぽり味わえるというわけだ。

         男はナンパをした方だから、彼女に気があるのは自明だ。とはいえどこまで本気なのかはよくわからない。女はナンパに乗った時点で脈アリとみても良さそうなのだが、序盤で唐突に「キスしたい?」と聞いてくるあたり、からかってるのかどうかよくわからない。2人は互いに距離を測りかねているのか人生についての話を延々と続け、口説き文句は特に出てこないので、好きなのかどうかもはっきりしなくなってくるのだが、大抵惚れあう男女の始まりはこんなもんだと思い出させる。

         しかし期限は迫ってくる。始発の時刻には、彼はアメリカに、彼女はフランスにそれぞれ帰る予定なのだ。このまま夜を終わりたくない。当然のごとく互いに盛り上がり…、キャーってなもんである。ラストは「まあそりゃそうだわな」と、理屈で見えにくくなっていた必然の選択肢を取るからなかなか清々しい。

         多少胸をかきむしられる部分がないではないが、涙が溢れて止まらないということもない。いってしまえば地味なラブストーリーだが、ここまで面白いのはなぜだろう。答えは既に書いた。恋愛というのはそもそもがそれなりにドラマチックだと思い出させてくれるからであり、それを成功させている、微妙な役者の息遣いや、細部まで作りこんだ演出であろう。目立った話のない話は面白い。それに気付くと見る映画の幅もぐっと広がるよ。ということで、私も新しいコヒを見つけにウィーンにでも旅立つとします。

        「恋人までの距離(ディスタンス) BEFORE SUNRISE」1995年 アメリカ
        監督:リチャード・リンクレイター
        出演:イーサン・ホーク 、ジュリー・デルピー 、エルニ・マンゴールド


        【映画評】ショコラ

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            俺が小学校高学年のころ、「キン肉マン」が最も人気のあるマンガの一つだった。しかし俺の母親はこのマンガを嫌悪していた。理由はよく知らない。生理的に好かなかったのだと思う。なので母親に遠慮して俺は暫くキン肉マンを読まずにいた。くそ真面目な子供だったのである。

           単純に一人でやせ我慢しているだけならいいのだが、感情がねじれて「こんなマンガはくだらない」と読んでもないのにクラスメイトに吹聴していた。結果、流行に抗し切れなくなったとき、俺は母親からもクラスメイトからも隠れて読む羽目になった。で、読んでみたら面白い。「禁断」のマンガだったから余計面白かった。ひょっとしたら「得をした」ともいえなくもないが、要するにクソ真面目は余計な回り道をするものなのである。――蛇足だが、大人になって読み直してみたら、巷間言われてるほどの面白さはもはや感じなくなっていた。

           もっといい例が呉智英の本にあった。とあるモノ書きが、小人プロレスを観戦した。周りの客はゲラゲラ笑っているのに、このモノ書きは笑うことができない。あからさまに差別的な見世物に、彼の人権意識あるいは道徳、良識ががストップをかけるのである。結局彼は何かの調子で笑うようになり、「笑われるショーに生きる小人を認めるべきだ」と結論付けるのだが、金払って見てるんだから笑えばえーやん、という至極単純な答えに辿り着くまでこれまた余計な遠回りをしたというわけである。ゴチエイ曰く、人間は人権イデオロギーとは整合関係にはありはしない。うまいことを言う。

           ショコラに登場する村長も、余計な回り道をする。厳格な戒律が支配するフランスの片田舎に、ある日旅の母娘がやってきてチョコレート店を開く。丁度村は断食の期間にあたるため、これが厳格が服を着て歩いているような村長の神経を逆撫でする。村長にとってさしずめチョコは悪魔の誘惑である。頑なな「良識」でもって村長は、あの手この手でチョコ屋を妨害するのだが、奮闘も虚しく村民が一人また一人と悪魔の虜になっていく。ヤケクソでチョコ屋に不法侵入する村長だが、何かの拍子に口に入ったチョコは、これが至極単純に甘くて美味しかった。キン肉マンと同じように、もしかすると得をしたといえなくもないのだが、クソ真面目が余計な遠回りをさせたというわけである。チョコの甘さに気付いたときの、村長の曰く言い難いやるせない表情と嗚咽が、良識という檻の強固さを感じさせてやまなかった。名演技である。ジョニー・デップの相変わらずの悪っぽい魅力にだけ目を奪われず、この村長を見て欲しいと書き留めておく。

           しかしここまで述べておいて何なのだが、戒律よりも個人の素直な欲求に従うことをよしとするこの映画が示した物語も、一方では危なげであることも我々は知っている。猿の惑星の猿たちは、欲望のままに生きて、ついには絶滅してしまった人間たちの轍は踏むまいと、人間が生きた記録が残る場所を「禁断の地」と名づけて封印し、戒律でもって猿たちを統治した。もしそこにチョコ屋が現れたら猿たちはどうするのだろう。ちなみに仏教の4本柱、円、戒、律、密の中で、浄土真宗の開祖・親鸞が最も詳しく学んだのが戒、すなわち戒律である。浄土真宗は俗世間ではなんでもアリと見られていることが多い。結局親鸞は戒律と欲望の合間をどう埋めることに成功したのか?残念ながらそこまで勉強家ではないから、あとは読者に委ねる。

          【映画評】カミュなんて知らない

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             初めて自分が見た映画の監督に話を聞けるという機会に恵まれた、私にとってはちょっとした記念的な作品だ。とはいうものの、作品自体は消化不良で、特にお薦めもしない。

             大学生のいわゆる青春群像劇というような話だ。監督が大学で映画の講義を持ったときの体験がベースになっているらしい。大学の授業の一環で学生たちが映画を撮る、その製作過程で演出を巡る意見の衝突とか恋愛トラブルとか色々あって…、という今時の若者の青春、という話だけには終わらない。

             というのも撮る映画の題材が、実際にあった高校生による殺人事件を題材にしているからである。
             「人を殺してみたかった」という理由で婆さんを殺害した当時高校生の男は、ここに登場する大学生と同世代に当たる。そういう設定であるから、どこか重たいものが作品自体に付きまとう。
             「ブラックエンペラー」「十九歳の地図」など若者を描くことに一定の造詣の深さを体現してきた柳町光男監督作品なだけに当然何かを期待する。なのにその描き方、扱い方には、疑問符が付きまとってしょうがない。

             混乱を呼ぶラストの演出法自体を問題にしているわけではない。

             この作品のラスト、学生たちは田舎の民家を借り、殺害シーンを撮影する。学生劇団から呼んできたという設定の「池田」演じる高校生の犯人が、婆さんをかなづちで殴り、包丁で刺す、かなり生々しい場面だ。このシーンが混乱を呼んでいるのが、その池田が役に入り過ぎたのか、本当に婆さん役の女優を殺しているようにも見える展開になるからだ。

             もしそうだとしたらちょっとイタダケナイ陳腐な展開。「うわーキッツイなー」と見ていたら、やっぱり演技だよこれ、と思わされるシーンがあり、しかしやっぱり本当に殺してるようにも見えるシーンがあり、どっちやねんと客の混乱が頂点に達したところで、学生たちが血糊を雑巾がけして後片付けしている場面にエンドロールが重なって終わる。

             血糊を掃除してるからやっぱ演技やったんや、と素直に安心できないのは、破綻した演出に原因がある。
             監督役の「カット!」の声がかかり、そのシーンの撮影が終わったはずなのに池田はスタッフの見ていないところで殺す演技を続けている。
             或いはカットが変わった際、その場所に本来いるべきスタッフの姿がなぜかなく、なのでそこは“撮影現場”ではなく“殺人現場”にしか見えないような錯覚を受ける。
             これらの絵を真っ正直に捉えれば、どう考えても「全部演技でした」では説明がつかない。なので観客は混乱したまま「結局あれなんだったんだ?」と映画館を後にすることになる。

             勿論監督が混乱を呼ぶためあえて破綻させているのである。完璧な整合性を求める本格推理ファンのような潔癖な人であれば到底受け入れられない演出であろう。
             監督が語ったところを意訳すれば、本来の監督である柳町が撮っている場面なのか、或いは学生監督が撮っている設定の場面なのか、つまり劇なのか劇中劇なのか、客が見ている映像が一体どちらなのか、わざと境界線を破綻させることで、映画としての1つの面白さ、ギミックを提示したということだ。「信用できない語り手」の亜種とでも言えばいいのだろうか。

             それ自体はそういうものだと丸ごと飲み込んで楽しめばいい。好きか嫌いかという意見は別にして、映画が常に整合性を持ってカットをつなげなければならないというルールはない。勿論そういう逸脱は大いに危険な賭けであるから、面白いと受け止めていいんじゃないかと少なくとも思わせる監督の技量はたいしたものだといえるだろう。

             とはいえそういうカラクリのみでこの場面が撮られたとしたのなら、一体「少年による殺人」という、今の日本社会が病理と捉えているテーマは一体どこへ行ってしまうのであろう。
             混乱を呼ぶ確信犯的演出と、少年による殺人という人々が何かを期待するタイムリーなテーマは果たして結びつくのか、結びつくならそこで提示したいことは何なのか。監督の回答は「作品が全てだよ」にとどまった。

             そもそもこの作品には呑み込みにくい部分が多い。学生の映画製作を指導する教授の「イイ歳こいて」と諌めたくなる虚しい横恋慕や、登場人物にモテまくりの松川が結局監督を降板する尻すぼみな悲劇、その悲劇の原因と見られる吉川ひなの演じる情念の濃すぎる女の松川突き落とし疑惑、どれもストーリー上、何にも収斂しない、必要なのかどうかもよくわからないエピソードに溢れている。
             一方「殺害のとき少年は興奮していたのか冷静だったのか」という演出を巡る学生同士の激論が結局どうなったのか特に語られないなど、犯人と同世代の彼らが、理解し難い動機で殺人を犯した少年の心理とどう重なり合うのか突っ込んだ部分は示されない。

             殺人を犯した動機を怠惰な学生生活に求めるとか、すぐに分かりやすい理由をつけたがる今の報道を見れば、人間の理解しにくい部分に拙速に説明を施すことの安っぽさはすぐに気付かされる。それに比べればこの映画ははるかにマトモだろう。
             とはいえ、卑屈な(皮肉な)言い方をすれば、凡人には到底理解しづらい描き方でもって、何かを示したのか示さなかったのかもよくわからない作品を撮ることに、僕は特段意味を見出せないでいる。

            「カミュなんて知らない」2005日本
            監督:柳町光男
            出演:柏原収史、吉川ひなの、前田愛、中泉英雄、黒木メイサ

            【補遺】
            とある学生から「でも学生の日常はリアルに描けてますよ」と言われた。後日、仕事で京都の有名私大に行くと、確かにこの映画の世界を見ているような感覚に襲われた。そういう意味ではなかなか大した映画だと思う。
            何で僕が監督と話す機会があったかというと、監督の講演会とその後の飲み会に参加したからだ。飲み会での監督との会話の中に、いくつかかなりイラっとくることがあり、なので本文はかなり冷静に書いたつもりだが、多少キツい内容になっているのはそんな事情があったことを、もう何年も前の話だし、付記しておく。
            ただ、監督の講演はかなり役立った。見るも無残な「13年後」から「曇天カフェ」に大いにレベルアップできたのはこの講演を聴いたことが大きい。ただし監督は「デジタルなんて映画じゃない」って言ってたけど(笑)

            【やっつけ映画評】シアトリカル

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                唐十郎率いる唐組の2007年上演作品が出来るまでを追いかけたドキュメンタリーである。何よりラストが見事だった。ドキュメンタリーのくせに(?)ミステリばりのどんでん返しがあるとでも言おうか。
               なるほどなあと溜飲を下げる人も多い一方で、「だまされた!」と怒り出す人も中にはいるかもしれない。

               なるほどなあというのは、主役が舞台人だからこその終わり方という捉え方だ。「なるほど唐さんは骨の髄まで舞台の人だ」。ファンはそう思うんじゃなかろうか。特段ファンでない僕もそう思った。

               怒り出すというのは、つまるところ「やらせやないか!」ということだ。本当だと思ってたらヤラセだったというのは単純に腹が立つ。

               とはいえ、もっと深読みしてみれば(監督が意図したかどうかはわからないが)結果的にこのラストは、「ドキュメンタリーとはそういうもんなんだよ」という大いなる挑発になっていると思う。

               ドキュメンタリーは「あるがままの事実を映し出すべきもの」ではなく、監督の主観で作るべきものである。僕のひねくれ意見でも何でもなく、ほとんど定義に近い事実だ。

               これは別に「所詮この世は嘘だらけ」という思春期的な厭世観ではない。
               まず「主観にしかなり得ない」という引き算的な話が一つ。撮影ならば何にカメラを向けるか、編集ならばどこを残してどれを没にするか。全部主観だ。

               もう一つは主観だからこそ面白いというスタンスだ。

               ドキュメンタリーの取材対象は白黒判断が付きにくいものである場合がほとんどだ。「ゴミはゴミ箱に」みたいな判りきった話だったらそもそもカメラを持ち出すまでもない。判断がつかない話を戸惑いながら取材する、その監督の戸惑いが画面に現れると、見ている方は余計戸惑っているから画面の向こうに共感を覚えて、「面白い」と感じることができる。
               こういう作り手の思考回路を極力無機質化して公平中立にばかり目が行くから新聞やNHKニュースは面白くないと言われてしまう。

               ただし物事にはバランスがあるから、あんまり作り手が顔を前に出しすぎると、見てる方は「お前ちょっとは引っ込めよ」と鬱陶しくなったり、選挙演説のような独善性を感じて白けてしまったりしてしまう。なので取材対象からちょっと距離を置いたり、反対意見の人を登場させたり、いわゆる客観性というのを盛り込む。客観的であるというのは別にルールではなくて、主観を面白いと思ってもらうためのツールだ。

               多少長くなったが、ドキュメンタリーに対する僕のざっくりとした理解はこういうところだ。じゃあ主観とやらせはどこに線引きがあるかというと、わかりきったことのような気もするし、考え出すとキリがない話のような気もする。

               話を本作に戻すと、唐という人は、舞台にいないときに素の人間なのか、それでもフィクションを生きているのかよくわからない人のようだ。
               劇団員と楽しく酒を飲んで馬鹿話をしてリラックスしてるかと思いきや、しまいには芝居の話になり、とうとう次回作の稽古が始まってしまう。いきなり走り出したかと思うとシャワー室に飛びこみ服をきたまま湯を浴びだす。劇団員が慌てて止めるも「お前らもやれ!」と無理矢理巻き込み「これが役者だ!」とガハハハ笑い出す。
               ON・OFFの区別がないというか、もっと単純に言えば奇人変人だ。なのでカリスマ性があるのだろうが、こういう人と向き合っても、一体何がホントなのかわからなくなるに違いない。

               そういう監督の主観をまんまぶつける方法論として、ああいうドンデンな終わり方は非常に面白くてわかりやすいと感服させられた。

               しかしそうなると、あそこでシャワーを浴びてたのも、監督にいきなりブチ切れして大喧嘩が始まったのも、全部作りだったの?という混乱とちょっとした寂しさが訪れる。そこはもう仕方がない。付き合う相手(唐)が悪かった、というよりほかないだろう。

               話は脱線して以下蛇足。内容が内容だったので、映画館では芝居仲間にばったり出くわした。鑑賞後話をしていると「一般の人が見てわかるのかしら」といっちょ前な疑問を抱き、「あれが芝居人の日常だと思われたら困るワ」(劇団員は芝居してるか酒飲んでるかで、ある意味とてもお気楽に見える)と政治家のような文句も言っていた。

               何の分野にしろ広い意味で「取材を受けた側」に含まれる人は、大抵こう思うもんだが、大丈夫。大方の内容は一般の人に通じるから、「自分は当事者なので倍楽しめる」とプラスに考えれば済む話だし、誤解への危惧というのも、誤解の可能性は半分は本当だから自分を律していけばよいと、それだけの話である。

               で僕はというと、唐が演出しているシーンで、僕も割と似たようなこと言ってるなあとちょっと得意気になったり、金がないといいつつやはり劇団としては金もマンパワーも全然あるところに「やっぱりああじゃないとなあ」と思い知らされたりした。
               少なくとも、台本を大事にするところ(若干気持ち悪いくらいみんな大事にしている)と台詞をさっさと覚えてるところは見習って、役者に檄を飛ばそうかと。ま、玄関の整頓にやたら時間をかけるシーンなど、個人的にはちっとも共感できないところもあったが。

              「シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録」2008年日本
              監督:大島新


              【映画評】ホテル・ルワンダ

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                 ホテルナントカというタイトルだと、過ぎ去った青春ないしはちょっと癒されるお洒落なイイ話みたいな香りがしてくるが、この作品の場合、まさしくアフリカのルワンダという国のホテルが舞台になっているという、「猿の惑星」と同じ文法構造のダイレクトな意味のタイトルに過ぎず、いくら見てもちっとも青春も癒しもない。癒しがないどころか、タイトルと同じストレートさで人がいっぱい死ぬんで、むしろ見るのにとてもエネルギーを消費した。

                【映画評】ノー・マンズ・ランド

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                   戦争映画の白眉だ、と最初に言い切ってしまっていいと思う。

                   監督はまさしくこの映画で描かれたボスニアとセルビアの戦争に従軍したようだ。監督はボスニア人だ。とはいえ「どっちもどっち」という視点は揺ぎ無い。案外そういう戦争映画は思い当たらない。米軍が恰好いいか、米軍がベトナムで悪いことをしたか、どちらかである。まあ作っているのがアメリカ人だから仕方がない。

                   遠いところの戦争なら「どっちもどっち」と簡単に言えるかもしれない。イスラエルとパレスチナを見ればわかる。とはいえ近い戦争だとそうもいかない。太平洋戦争をどっちもどっちと言える日本人がどれほどいるか。日本が悪い、そういっておけば一番早く話が終わる。別に俺は大東亜戦争肯定派ではない。

                   中間地帯の塹壕で孤立したボスニア人とセルビア人。そして地雷を設置されて身動きが取れない瀕死の怪我人。ボスニア人がセルビア人に銃を突き付け、「どっちが仕掛けた?」と威力で“自白”させれば、やがて形勢逆転したセルビア人が、今度は逆に銃を突き付け同じ質問をする。半分冗談のようなやり取りだが、戦争とはつまりそんなものである。
                   「うんざりだ。クソがしたい」と瀕死の怪我人はこぼすが、それが国民感情の代弁と感じるのはこっちが日本人だからかもしれない。というのも末端の国民でもある、塹壕で孤立する2人は民族憎悪に浸かりきっていて最後まで和解はないからだ。


                  【映画評】グッパイ!レーニン

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                     日本の歴史を勉強するとき、あたかも現在がゴールのような錯覚を受ける。無論今から先の話は歴史ではなく未来なのだが、封建主義や帝国主義、ファシズムという愚かしい体制を経てようやく最高の体制たる民主主義に辿り着きました、というような一種の大団円でもって狩猟生活から始まる日本の歴史が締めくくられる。
                     そういう感覚を抱いてしまうという話だ。子供のころは「ああ、今の世の中に生まれてよかった」と胸をなでおろしたものである。

                     とはいえ自分の子供の将来を案じる若い父母は多い。子供の学力の話ではなく、未来に対する先行き不安というやつだ。

                     これは別に今に始まったことでもなく、千年前には「末法の世」と言われて人々は先行き不安がっていたと歴史の授業で習った。逆に先日読んだ本によると、江戸の町民は実にお気楽な生活を送っていたという。つまり時代の流れと、世の中のよさは、比例関係にあるわけでも何でもない。現在は歴史の教科書のゴールではあっても、人類のゴールではない。

                     給食を残す子供に「アフリカには恵まれない子供がいて」と説教するこの理屈の何が癇に障るかといえば、アフリカの子供が不幸かどうか我々にはわかりようもないということだ。自分のいる場所が絶対善と思い込むことは大いなる誤解である。

                     この映画は、そんな自分たちを取り巻く「絶対正しいと思い込んでいた価値観」がある日崩壊した人たちの物語だ。

                    【映画評】100万ドルのホームランボール

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                       1985年、僕んちの近所にある県営球場という冴えない野球場(現在は改築して綺麗になってる)に中日ドラゴンズがドサ周りでやってきて、僕は兄貴と、友達のフジッコとともに外野席で試合を見ていた。

                       それが何回裏のことだったかは覚えていない。中日の主砲ケン・モッカ(現在は大リーグの監督になったり解雇されたり)がかっ飛ばした白いボールは、明らかにこちらに向かって飛んできた。

                       「ホームランボールが取れる!」

                       周りの大人も子供もワラワラと集まってきた。しかしかなりの人間が着地直前でボールを見失った。ちょっとしたもみ合い。あれ、ボールはどこ?顔を上げると、騒ぎをよそに、ちょっと離れたところに立っていたフジッコがそのボールを掴んで、通天閣のビリケンそっくりなで得意気にニヤニヤしていた。

                       本作もホームランボールの取り合いを題材にしている。ただしそのボールは、記録のかかった特別なシロモノだ。その貴重な白球を「取ったのは俺だ」と主張する2人の中年男の醜くも可笑しい顛末を追いかけたドキュメントである。

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