【映画評】選挙

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     昨年(註:2006年)、「とにかく撮ってみよう」を合言葉に何もわからないまま映画を撮影したのだが、「とにかく撮ってみよう」は劇映画よりどちらかというとドキュメンタリーの方がふさわしいように思う。
     面白いドキュメンタリーに出会うたび、昔出くわしたあの場面、この場面、いずれもカメラ回しておけばよかったなあと、よく後悔する。

     新聞とかニュースとか、言葉そのものが示しているように、これらの媒体は基本的に何か新たな動きや変化がないと取り上げないし、なによりも記者自身が反応しない。
     例えば全盲の絵本作家といういかにも新聞テレビが好きそうな人がいたとして、その人をとりあげるのは「新作を出した」「個展を開く」「賞をもらう」など何か<新しい動き>があるときになる。なんでもない日常はなかなか記事になりにくい。
     ところが我々からすれば、「新作を出す」というのはせいぜい買うか買わないか判断する程度の情報で、よっぽど「日常どう過ごしているのか」に断然興味がいく。カメラ回しておけばよかったなあとはそういう意味である。

     さてついこの前、知った人から「選挙に出る」と聞かされたときがあった。そのときの私といえば「なるほどそうですか」くらいしか思い浮かぶものはなかった。おかげでこの映画を見て自分の不明を痛いほど感じさせられた。何でこの発想なかったかなあと。

     選挙に出馬した候補者にくっついてカメラを回しただけ、言ってしまえばそういう映画だ。公選法違反の現場を押さえたとか、そういうニュース性は何もない。選挙にかかわったことのある人間、選挙を取材したことがある人間なら、誰でも知っているはずの“日常”をただ追いかけただけだ。しかしそれが一般人にしてみればどうだろうか、ということだ。

     こういう場合、誰を主役にするかというのが重要になる。ニュース性ではなく見ていて面白い人であるのがいい。物語性があるかどうかということだ。

     結論を先に言えば、本作の場合は実に主人公がいい。この人選がこの映画を面白くしている肝心の部分だ。

     主人公の山内氏は東大卒業後、東京で切手屋を営んでいた鉄道オタクの40歳。一個一個の経歴はなんだか特殊だが、全体的はいたってフツーの一般人である。その彼が、小泉純一郎に憧れて、自民党の公認候補の公募に応募。めでたく選ばれて川崎市議の補選に出ることになる。市議の一人が引退したので、代わりを選ぶというわけだ。

     この設定がいたって映画には都合がいい。
     まず主人公はフツーの人で、そのくせ所属は自民党。加えて市議の補選なので、選挙の規模は小さい上に、地元の自民党が彼一人に全力を注ぐ。普通の選挙だと同じ自民からも複数候補者が出るので選挙運動はバラバラになってしまう。しかし今回は山内1人を通せばいいから、現職の市議から神奈川県議から地元選出の衆院議員まで、みんながみんな顔を出す(=映画に登場することになる)というわけだ。
     その上、この補選と合わせて参院の補選と市長選も同時に行われるトリプル選挙というオマケつきだ。応援の国会議員も大物がやってくる。しまいには小泉本人も現れるから、登場人物には事欠かない。

     なぜフツーの人が自民から出るのが面白いかといえば、それこそがこの映画の主題につながってくる。
     「人は一生に一度は砂漠を見るべきだ」とはアメリカ映画「25時」に出てくる台詞だが、私に言わせれば「人は一生に一度は地方議会を見るべきだ」と思う。もちろん地方にもよるが、民主主義の現場の実際が、あまりに馴れ合いセレモニーでホトホトうんざりする。
     あれは有名な脚本家だったか「地方議会なんて潰してしまえ」とコラムに書いていたが、是非はともかく、気分は全く賛同したくなる。それくらいトホホな様子が繰り広げられる。

     同じく選挙の現場も、民主主義って何だと頭を抱えさせられることが多い。僕が実際見た選挙の話だが、自民の現職候補が告示日に第一声を挙げる。集まった支援者は全員頭に「必●勝」の鉢巻。演説で何を話すかと言えば「この県をよくします」レベル。何年も議員やってて話すことはそれしかねーのかといいたくなる。これまたトホホなのだ。何を話すかはどうでもよくて、地縁血縁義理人情こそが重要な泥臭い世界である。

     本作のカメラが追いかけるのは、まさしくそんな「ドブ板選挙」なのだが、候補者の山内氏自身はつい先日までフツーの人だ。彼の憧れの小泉のスマートなイメージとは真逆の世界ばかりを目の当たりにさせられていく。
     彼はいちいち戸惑って、苦笑いして、愚痴を言う、その姿が観客の抱く感覚と重なって、見ているこちらは引き込まれると、だから映画にとって都合がいい素材なわけである。

     ドキュメンタリーは大抵数年の撮影期間がある。それくらい撮らないと、撮りたいことが撮れない、ないしは映画に使える面白い場面が貯まらないということだろう。この作品は告示前からのせいぜい1、2ヶ月の間の話だ。なので長期にわたって撮影したものよりも、ちょっと薄味なのは否定できない。それでもオイシイ滑稽な場面がたくさんある。大の大人、それも結構な立場の人間が何人も大汗かいてるから当たり前かもしれない。そんな良くも悪くもエキサイティングな選挙を知らん顔をしているのは何とも勿体ない話である。

    「選挙」2007年日本
    監督:想田和弘
    出演:山内和彦、小泉純一郎、川口順子、石原伸晃、荻原健司、橋本聖子

    【補遺】
    あれから一度、友人同士の旅行で「とにかく撮ってみよう」を実践するためビデオカメラを回してみた。実際やってみてわかったことだが、カメラを止めたときに面白いことが起こる、という場面がしばしばあった。ただカメラを回す、といっても非常に難しいものだと思った。

    【映画評】メタリカ〜真実の瞬間

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       昨今のドキュメンタリーブームの中にあっても遜色ない傑作だ。と最初に述べておく。メタリカファンのための宣伝Vと思うなかれ。

       映画に限った話ではないが、ドキュメントの面白さの1つは「そんな現実知らなかった」という驚きだろう。
       「現代日本にそんな社会問題があったなんて知らなかった」と、特に問題意識が高くない人でも思わされる。そういう面白さだ。だが、社会問題ではなく趣味性の話題を扱ったドキュメントは、知らない人とってはあまり面白くないというちょっと矛盾した現象が起こる。

       例えばサーフィンを取上げたとあるドキュメント映画。私はサーフィンにはちっとも興味がないが、知られざる魅力に触れてみるのも面白いと期待して見た。
       のだが、知ってる人は知ってるのだろう、凄腕サーファーが出てきて、既に凄腕と知っているという前提のまま語り始める。こっちはその人がいかに凄いサーファーなのか全然知らないからイマイチなんのことやら付いて行けない。
       私にとっては涙物に面白かった「エンド・オブ・センチュリー」も、ラモーンズというロックバンドを知らない人をどれだけ取り込めるかは怪しいものだ。そもそもラモーンズを知らない人を想定して作っているわけではないのだろう。
       
       しかし本作は違う。メタリカというメタルバンドという、同じく趣味性の強い素材を扱った本作だが、メタルに興味がない人をも惹きつけてしまう傑作だ。その理由は、同時性という構成にある。

       ロックドキュメントは大抵<過ぎ去りしあの時>を振り返る構成になっている。「エンド・オブ・センチュリー」もそう。ラモーンズという一時代を築いたパンクバンドの足跡を、バンドメンバーやスタッフ、記者、ライバルバンドなどの証言を当時の映像に重ねながら辿っていく。
       私のようにラモーンズ興隆期がリアルタイムではない(当時小学生)人間にとっては、「あーそういうことがあったのかあ」と発見の積み重ねが楽しいし、リアルタイムで聞いていた人間にとっても「あーそういう実情だったのかあ」と今だから言える真実を知ることが楽しい。ついでに当時のレア映像も手放しで嬉しかったりする。

       こういう構成だと、ラモーンズのファン以外は、まるで職場の知人の高校の同窓会に無理矢理参加しているようなもので、前提となる共通の土壌がないから楽しみどころがよくわからないというわけだ。
       ところが本作は違う。2001年から2年間、メタリカに密着して撮影した素材を中心に作っている。つまりメタリカの今を捕らえた内容なのだ。

       内容紹介に付き合われたし。
       撮影開始時のメタリカの立場はというと、これまでアルバムを山ほど売って(実に計9千万枚。印税が一枚200円だとしても180億円!ちなみにマドンナは2億枚)No.1メタルバンドの地位を築いてきたけど、ここ最近はちと落ち目、そういう状況である。
       そんな中、二代目ベースのジェイソンが脱退、新譜の制作に黄色信号が点る。残った3人のメンバーは、ジェイソンが「息が詰まる」と指摘したバンド内の閉塞感を打開すべく、凄腕のセラピスト(月400万円!とはいえ凄腕かどうかは映画を見てもよくわからなかった)と契約し、経緯や理由は明示されていないがこの映画を撮影させることにする。

       早速、映画「プレシディオの男たち」(B級映画!)でも知られるプレシディオに即席スタジオを作り制作を開始。イイ感じに進んでいくと思われたのもつかの間、ボーカルのジェームズとドラムのラーズが喧嘩をし始める。ロックバンドにとってはお約束のような風景と思わせておいてジェームズはそのまま帰ってこない。どうやらバンド内対立は行くところまで行ってしまったようである。
       レコーディングは延びるし撮影も延びる。当初は1桁単位で進んでいた「撮影○日目」のテロップも、加速度的に経過していき、ドラムのラーズが「このまま解散するのも覚悟している」と吐露するに至る。

       注意するべきは、これらの事件は当時のバンドを振り返ってメンバーが語ったことではなく、今カメラの前で起こったことばかりなのだ。だから解散を覚悟したラーズも映画の監督も、この後メタリカがどういう道を辿るのかわかっていない。
       その剥き出しの生の感情をカメラはしっかりと捉え、メンバーを丸裸にしていく。なのでメタリカの音楽に興味がない人間にも、人間ドラマとしての迫力がこれでもかと伝わってくる。
       それは「巨大なものを手にした人間の苦悩」という縁遠い世界への興味であり、何かを生み出す難しさというある程度の人が再確認できる喜びであり、チームで何かを成す際の軋轢という大抵の人に当てはまる共感であったりする。

       加えて大阪人が言うところの「よーできた話やなー」という展開が飽きさせない。
       ヘタすると「メタリカ〜解散の真実」というタイトルになっていたかもしれない大ピンチだったが、メンバーはその苦境を少しずつ脱していくことに成功し、それに伴い、素人が聞いてもわかるくらい新曲もどんどん研ぎ澄まされていく。
       そして新ベーシストの加入。ロックバンドだから3人ともキャラは勝手に立っているのだが(特に「エゴなんて捨て去りたいと思っている」と語るパイプ役のギター・カークの大人っぷりには誰もが拍手を送るだろう)、新ベーシスト・ロバートの馬鹿明るいキャラは一際映える。
       まさしく救世主現る!という感じでバンドに新しい風を吹き込むのだ。ついでに、ほとんどダース・シディアスのごとき所属事務所社長の爺さんや、突っ込みどころ満載のラーズの親父、メタリカとの関係が深まるにつれサングラスをかけるなどチョイ悪ぶっていくセラピストのフィルなど脇役にも役者が揃って話を彩る。

       こうして難産の新譜はようやく完成し、ラストのツアーのシーンは、大団円と呼ぶに相応しい貫禄のパフォーマンスを見せ付ける。よくできたドキュメントはスリリングなドラマであるが、それを地で行く内容だ。

       ついでに言うと、もちろんロックファン、メタリカファンにも嬉しい場面が盛り沢山だ。なにせレコーディングの様子がフンダンに出てくるから、手元にあるであろう「St.Anger」がどのように作られたのか、そして収録曲やタイトルはどのように決まったのか、またロバートはどのように加入が決定したか、裏事情がとても興味深い。
       バンドが長らく消化できなかった初代ベース・クリフの死を(多分)乗り越えた新ベーシストのオーディションシーンは涙物だ。オーディションを受けにきた名だたるベーシストの映像に、クリフのライブ映像が重なり、ラーズは言う。「面白いものだ。今ここにクリフが来ても、俺たちはあいつを取らないかもしれない」。 

       と熱く語ったが、僕は実は別にメタリカファンではない。一応アルバムは数枚持っているが、それほど聞き込んでいないので、メロディを口ずさめる曲もほとんどない。それでも胸が熱くなるこの作品。カメラの力の成せる技か、メタリカというそもそもの存在感によるものか、二年間という月日の長さなのか。ここは全てを二時間余に封じ込めた監督の腕っ節に脱帽しよう。

      「メタリカ・真実の瞬間 METALLICA-Some Kind Of Monster」(2004年アメリカ)
      監督:ブルース・シノフスキー、ジョー・バリンジャー
      出演:ジェームズ・ヘットフィールド、ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット

      【補遺】
      劇場で見た作品だが、DVDも買ってしまった。ドキュメンタリーだけに、附録の没映像が抱負で、実に本編より長く収録されていた。中には削るには惜しいかなり面白いシークエンスも多々あった。
       というか、全体の撮影時間が1600時間を超えたらしいから、それを2時間に収めれば必然面白くなるというものか。面白い作品にしようと思えば取材が膨大に要る。ドキュメンタリーというのはつくづくコストがかかる映画だと思う。

      【映画評】ニューヨークドール

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         2004年、なんばHatchにやってきたロックバンド「ニューヨーク・ドールズ」は、オリジナルメンバー5人のうち、2人しかステージ上にいなかった。仲が悪いからでも何でもなく、残り3人は死んでしまっていたから来れるはずもなかったのだ。
         本作は、その3人のうち、来日間際に逝去したベーシスト、アーサー“キラー”ケインの晩年を追ったドキュメントだ。

         最近なぜか流行りのロックにまつわるドキュメントだが、50年に渡るロック史の中で、昔からしょっちゅう取上げられてきたテーマがパンクの時代(1970年代中期から80年代初頭)である。なぜかと言えば、当時音楽性においても商業性においても巨大化していたロックが、名も無くテクニックも無く金も無い若者たちによって「俺たちの手に取り戻そう」とばかりに破壊、再生されたという位置づけが、日本史でいえば幕末史のような痛快な青春群像期に当たるからだ。

         このコーナーでも取上げた「エンド・オブ・センチュリー」のラモーンズや未だキッズに根強い人気のセックス・ピストルズが、このパンクの時代の主役だが、彼らの先駆けとして必ず紹介されるのが、このニューヨーク・ドールズである。

         どのようにして結成されたのかはよく知らない。パンクものの映画や番組では、彗星のようにテレビに登場し、「衝撃を受けた」と語るピストルズらの証言の中でしか登場しないからだ。
         とにかく彼らはド派手な「オカマかよ」というような髪型、メイク、服装で暴れ回るという、ロックバンドのステレオタイプの1つの嚆矢となったバンドだ。そしてエポックメイキングな存在にはありがちな話だが、当時は特に評価されることなくさっさと解散したという、マンガ「栄光なき天才たち」にうってつけの人身御供である。

         キラーの異名を取ったアーサーだが、バンド解散後はものの見事な転落人生を歩み、救いを求めてモルモン教の信者になり、その施設で働いていることが冒頭明かされる。
         バンドの説明も含め、このあたりの描き方は、客が既に知っていると想定してか、やたら早回しで説明不足だ。間違いなく知らない人にはあんまりわからない。演出もアリガチなビデオクリップを想像させて、ロックに詳しくない客はこの辺で嫌気がさすことも想定される。もっと親切に作ってもよかっただろう。

         さて「地下鉄通いのロックンローラー」とはハウンドドッグの歌だが、バスで通勤するハゲ頭のアーサーは最早ロックンローラーですらない。職場の同僚のおばちゃんは彼がミュージシャンだったことをどこか信じてない節すらあるが、おどおどと諦観たっぷりに語る彼は確かに宗教家であってもロッカーではなさそうだ。「あの人は今」の取材対象になったとしても、あまりの変わりようにディレクターは没にするだろうと推量される。

         そんな慎ましい日常に変化が訪れる。ロンドンのロックフェスの幹事(?)になったモリッシーから、再結成して演奏してくれというオファーが来るのだ。ちなみにモリッシーはかつてドールズのファンクラブを作ったという熱烈なファン(オタク)としても知られている。

         ここからやや退屈だった映画も急展開する。まず質屋に行ってベースを取り返すアーサー。実は自分のベースを質屋に入れて生活のたしにしていたのだが、質流れしないように利息だけは払い続けていたのだ。
         既にちょっと目頭が潤んでくる逸話だが、アーサーはベースを抱えてニューヨークのスタジオへ行く。
         アリガチな話で、ボーカルのデビッド・ヨハンセンだけは現在も芸の道で安定収入を得ていて、それがアーサーには妬ましかったのであるが、リハーサルに遅刻してきたデビッド(ボーカルはやっぱり遅刻するのか)を、憎しみと愛情と恐れとが入り混じったような複雑な目で遠目に見るアーサーの表情をカメラは見事捕らえる。
         「メタリカ」同様、この作品が単なる趣味のロック回顧モノではなくなる瞬間だ。ドキュメントの醍醐味の1つは、誰もが共感するような人間の表情を捉えることにあるのだと感じさせられる。

         しかし再結成バンドというのはもろ手を上げて歓迎されることはない。金もうけ狙いが見え見え、ノスタルジーがロックぽくない、老いた姿を見たくない、などなどが理由だ。
         それでも客は押し寄せる。特に当時を知らない世代にとってはどんなに残念であろうが生の姿を見たいものだからだ。ドールズの場合、あまりに短命な上、当時はほとんど理解されなかったこともあり、そういう層は圧倒的に多かったのではないだろうか。

         時代はとっくに追いついていた。しかし彼らが追いついた時代に応えるには、30年の時を要したのだから、人の縁は難しいというか、やっぱり呪われたバンドだったというか。そして再びスポットと喝采を浴びるという夢を実現したアーサーは、謙虚に神に感謝しながら、ライブから時を経ずして最早この世に未練なしとばかりに病で急死してしまう。
         果たして彼は敬虔な信者として逝ったのか、あるいはロッカーとして旅立ったのかなどと感傷的なことをつい考えてしまうほど、後半部分は“よくできた”ドラマだった。監督は、デビッドがダミ声で歌うキリスト教の歌(?。よく知らなくてごめんなさい)をエンディングに選んだ。私個人としては、「人格の危機」のような馬鹿ロックを選んで欲しかったのだが、それはパンクのステレオタイプにもたれすぎだろうか。

         間もなくアーサーの後任に、ドールズの子供でもあるハノイロックスの元ベーシストを迎え、32年ぶり(笑)の新譜が出る。

        【補遺】
        ニューヨークドールズの新譜は、なかなか馬鹿にできない出来栄えだった。

        【映画評】シティ・オブ・ゴッド

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           友人のN氏から「めっちゃオモロイから見ろ!」と言われ、会うたび会うたび「見たか」「見たか」と聞かれるのでようやく見た。今後僕と会う人は、「見たか」「見たか」と強烈にこの映画を薦められると思うので気をつけるように。ちなみにブラジル大統領も「面白いから見るように」と言ったそうで、あちらは国家の通達である。ブラジル旅行する機会があったら気をつけるように。

           パンクバンド・ラモーンズの伝記的ドキュメント「エンド・オブ・センチュリー」に、ラモーンズのメンバーが狂信的とも言える熱狂的な歓迎でブラジルのファンに迎えられるシーンがある。
           「当時ブラジルは子供が殺人や麻薬の売買に手を染めるとてもハードな世界だった」とバンド関係者が振り返っていたのだが、まさしくそのブラジルのハードな現実を描いたのが本作だ。とにかく人が死ぬ。

           舞台は神の街と呼ばれるスラム街。カメラマンを夢見る主人公ブスカベの視点を通して、その無法地帯を暴力で支配したリトル・ゼというギャングを中心に、彼の盟友や敵対勢力など様々な人物の物語を列伝的にまとめた構成だ。
           神の街を牛耳るためにためらいもせずバンバン人殺しをするリトル・ゼの狂気にもぞっとするが、そのリトル・ゼに憧れ、平気で銃を持ち薬をさばく年端も行かない子供たちの姿はさらにショッキングだ。貧困が諸悪の根源なんだと簡単に分析することはできるが、既にこのような社会システムがこの街では出来上がっている根深さにはただただ絶望するしかない。

           こう書くとなんだか重〜い見るのもシンドイ映画に思えてくるというものだが、スナッチを彷彿させるスピード感溢れる巧みな展開でぐいぐい引き込まれる、のだがその話は後でする。

           若者や子供同士が殺し合うロック風にいえば<クソッタレの現実>を描くために、本作ではスラム街のボスに話をつけて実際そういう危険な地域でロケを敢行し、役者には演技経験ゼロの貧しい若者ばかりを採用しているようだ。こういう手法はフェイクドキュメントと呼ばれる映画と同じだ。アフガンの少年がイギリスに亡命するまでの長旅を描いた「イン・ディス・ワールド」という映画でも、登場人物は現地採用の素人ばかり。その上台詞は即興なので、演技らしい演技もなくメリハリはない。人によっては眠気を起こすだろうが、それが返ってリアリティを高めている。出演しているのが実際役柄と同じ立場にある“本物”で、台詞回しに芝居臭さがなければより現実っぽいものが描けるというカラクリだ。

           しかし本作ではまた違った手法を取っている。アメリカ映画のように細かいカットを繋いだり、カメラをグルングルン動かした大袈裟なカメラワークを使ったり、実に恣意的な演出である。蛇足ながら互いの列伝が絡み合うストーリー展開も、同じシーンの繰り返しを効果的に使うなど糊しろをしっかり用意して巧みにくみ上げられている。描き方はよく出来た娯楽映画のまさしくそれなのである。

           一人一人の人物は娯楽的なストーリーの中で生きている。そのスピード感溢れる展開の中で人がドンドン殺されていく。1つ1つの死は実に乾いたタッチで表現されていてイチイチ深入りしない。それが貧民街の本来はあってはならない社会システムが日常として出来上がっていることを暗に示している。リトル・ゼが子供たちに殺されたとき、このシステムと娯楽ストーリーが完成する。グイグイ映画に惹き込まれて一気に見終わった後、なんともいえない暗澹たる気分が訪れて「とにかく世界には色々ある」という現実を知らされるのだ。

           複雑に絡み合うストーリー展開、大袈裟なカメラワーク、スピード感溢れる編集、これらいかにもな娯楽的枠組みの中に、くそったれの現実を突っ込んで出来上がった作品は、多くのテレビドキュメントにまるで持病のように付きまとう、客観性、公共性を装った恣意性からくる欺瞞や、重く暗いノリ、笑ってはいけない真面目クサさや説教クサさ、しんみりと頷いて分かったふりをしないといけない後味、などなどを吹き飛ばして、尚我々の前に何かを突きつける。新しい現実の描き方、という大いなる挑戦と受け止めたい。

          「シティ・オブ・ゴッド」 2002年ブラジル
          監督:フェルナンド メイレレス

          【補遺】
          実際、僕がこの映画をやたら人に薦めるということはなかったのだが、役者の黒瀬君からはテレビドラマシリーズも含め、やたら薦められることになった。彼がくれたTVドラマ版のDVDはまだ見てない…。

          【映画評】エンド・オブ・センチュリー

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             ビートルズのジョージ・ハリスンが死んだとき、「これでビートルズはポールとリンゴの2人になってしまった。がーん」という調子のニュースを見ていて、ラモーンズだってボーカルとベースが死んで2人になってんだよ、となぜか妙に腹立たしくて画面に向かって毒づいた記憶がある。ちなみに先ごろギターも死んで、解散済みとはいえバンドは事実上死滅した。

             何で自分がこうもムッとしているのかつらつら考えるに、無論ビートルズに比べて残念ながらニュース価値が低い、という自明のこともあるのだが、ビートルズ好きと公言する人がそもそも嫌いなんだと思い当たった。

             ビートルズが嫌いというわけではない。松村雄策が嫌いというわけでもない(「渋松対談」は愛読している)。あれこれ聞いて「やっぱりビートルズだよなあ」と、それはそれでいい。もっと譲れば「他はよく知らないけど私はビートルズが大好き」それもそれでいい。
             僕が嫌いなのは、「ビートルズの後にビートルズなし」とロクに他を聞いたことがないのにさっさと彼らを到達不能の頂点に位置付けてしまう安直さである。短く言えば権威主義だ。

             日本人(に限るかどうかは知らないが)はこの手の話が好きだ。「黒澤を越える映画監督は」「長嶋を越える野球選手は」「やすきよを越える芸人は」「桜樹ルイを越える女優は」=二度と現れない。
             先人なのだから越えられないのは当たり前、という時点で十分不毛なのだが、後から後から出てくる新しい才能を見らんフリすることで安心している節があるから嫌いなのだ。つまりは探究心がない。なのでこういう人金がたまればベンツ(かベンツ型セダン)の最新型を買う。

             というわけで僕はテレビに向かって毒づいていたのだ。そもそもラモーンズはロック史上、ビートルズ級に偉大なバンドだ、と思っている。少なくともエアロスミスよりは上だ。そんなバンドを描いたドキュメントが本作だ。彼らの代表作から映画のタイトルが取られているので特段世紀末ないしは聖飢魔兇箸牢愀犬呂覆ぁ

             何が偉大なのか。
             偉大な理由その1。ヘタクソでもバンドをやっていいんだと世の若者に教えてくれた。このため、技術よりも意気込み優先の若い力が勃興してロック界にパンクブームが訪れた。パンクブームがピストルズやクラッシュを生み、孫のU2やポリスが世界的に売れ、日本にバンドブームが訪れ、布袋寅泰がギターの大将になり、高岡早紀と「火遊び」をした。

             偉大な理由その2。客が飽きる前に曲を終わらせることを発明した。このため1曲は短いし、すぐサビにいくし、さっさと終わらせるためとにかく速弾きになった。速弾きがメタリカをはじめとするスラッシュメタルを生み、速ければ速いほどいいってんで、日本にヨシキが登場してXが売れ、小泉政権が生まれ、トシが自己啓発セミナーに入信した。

             偉大な理由その3。ロックは革ジャンだという定石を作った。意外に思われるかもしれないが、ロッカーは実はそんなに革ジャンを着ていないし、リストバンドもしてないし、モヒカンでもない。ラモーンズがとにかく革ジャンばっかり着用するもんだからロッカーを自称する人はとにかく革ジャンを買い、ジョニー大倉は夏でも革ジャンを脱がなくなった。

             以上をまとめるとつまり後進に道を拓いたということだ。
             そのくせ当人たちはちっとも売れなかった。イギリスではまあまあ、なぜかブラジルではどかーんと売れたらしいのだが、故国アメリカではついに最後まで売れなかったようである。ビートたけしの映画のように日本ではさっぱりで逆に海外で評価されるというパターンは、日本の恥部としてしばしば引き合いに出される話だが、アメリカでもそういうことはあるようだ。

             売れなかったこともあり、内容は暗い。作品の主眼がバンド内の人間関係にあるからだ。3代目ドラマーのリッチーは「Tシャツの売上を貰っていない」と、未だに金の恨みをぶちまけるし、ボーカルのジョーイとギターのジョニーは、女の取り合いで揉めて、バンドの主導権争いでも揉めた。女を取られたジョーイは、「KKKが彼女を連れ去った」と歌を作ったほど、偏執的に恨んでいたようであるから傍目からは常軌を逸した根に持ちようである。王道ロックバンドだけあって、トラブルも全て王道だ。貧乏な劣等生が成り上がる痛快な物語を期待すると、あまりの暗さに愕然とするので気をつけよう。
             
             しかし、そのためこの映画を見ても「ラモーンズの後にラモーンズなし」と神話にはならない。内容がドロドロの生身だからである。「伝説と呼ばれるヤツらがいた」的な男前列伝には作っていないため、これは巧妙なドキュメントといえる。とはいえ逆にそんないい大人の喧嘩を見て幻滅以外に何があるのかという疑問も一方で湧いてくるかもしれない。

             そこで偉大な理由その4。売れなくても売れなくても続けた。21年間の活動で行ったライブ2200回余。実に3日に一度はライブをしていた計算になる。なぜ売れなくても揉めても続いたのか。
             ジョーイは「次のアルバムは売れるだろう」と思っていた。
             ジョニー曰く「ある時俺はわかったんだ。俺たちはいくらやっても売れないんだって」
             売れていないといっても一見に値するものは、いくらでもあるはずだ。日本人よ、探究心を持て。スナックでホステスに怪しげな「ビートルズ論」を講釈しながらロレックスを見せびらかしている時間を使って、本屋やビデオ屋の人口密度が低いコーナーでじっくり時間を潰してみよう。なんなら芝居小屋に来てもいい。

            「END OF CENTURY」2004年アメリカ

            【やっつけ映画評】パッチギ

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               また仕事柄、の話だが、先日学生の小論文のようなものを読んでいると、テロ対策の必要性を強く論じていた。警察を要所に配置するなどの徹底した対策を取らなければ、いざという時どうするんだというような内容だ。なんとも柔軟性のない話だが、これを読んでいて、フト可哀相だなあという思いが頭をよぎった。

               二十歳前後のころというのは、とかく流行りの考え方に染まりやすい。率先して取り入れることで自分は賢いと思ってしまうものである。この学生の考え方も産経新聞でも開けばいくらでも書いてあるような話で、いわゆる今の右傾化の流れの一端ともいえる。なので可哀相だと思ってしまったのだ。流行の思想が警官の増員とは、なんとも息苦しい時代に青春を迎えてる世代なのだなあと。
               それに比べて私のちょっと上の世代はというと、赤い闘争真っ盛りである。何せ反体制だから、暴れてればいい。先の学生はつまり「暴れるな」と訴えているわけだから、どっちが楽しいかは一目瞭然である。棒振り回して暴れまわっていた世代から、我々の世代は「今の若者は元気がない!」といわれたもので、余計なお世話である。一言でいえば、ズッコイ。楽しい時代に生まれて、ズッコイよなあ、と。ちなみに私の世代は宗教が大流行りで、オウムに入らない学生も、普通に宗教に関心が高い人が多かった。これも何だかあんまり楽しくなさそうだが、警官の腕力を頼まないといけない今よりまだマシかもしれない。
               さてこの映画。そんな“楽しい”時代(60年代後半)の京都を舞台に、高校生の葛藤や恋愛なんかを文字通りイキイキと描いた、近年稀に見る井筒監督の傑作である。井筒監督といえば、口が悪い大阪弁の汚いオッサンというだけの印象だったが、この映画でこちらの態度が一変手のひら返しとなった。
               主人公の康介が通う学校はのっけから楽しそうである。なんせ先生が授業で「毛首席は言った!」と毛沢東著の赤い表紙の本を振り回しながら「革命だ!」と熱弁を振るっている。なんと香ばしい。対立する朝鮮高校の生徒たちも、在日朝鮮人であるから暮らしは貧しいし差別されてるしで、苦しい立場であることはそうなのだが、本人たちはドヤンキーで暴れまわってる。公衆電話を強奪して中の金を抜いて燃やすなんていうワルにも程がある悪事をしても、この映画ではそれ以上は踏み込まない。リーダーのハンソンらが警察に世話になるわけでもなく、町が騒ぎになるわけでもなく、なんともおおらかな時代の空気に満ちている。
               そして康介がハンソンの妹キョンジャに恋をするのだが、ハンソンは康介の高校を目の敵にしているオッカナイ不良…というロミオ&ジュリエット〜ウエストサイド物語と連綿と続く王道物語の系譜をなぞりながら物語は進んでいく。特にキョンジャの魅力といったらないのだが、その後の彼女のありさまを見ると井筒の他に人はいないのかという気になってくる。

               さて本筋のストーリーにはここでは触れない。ここで触れるのは、康介が「イムジン河」を歌うシーンである。大友康平演じる地方ラジオ局のパーソナリティに認められ、ラジオのコンテストに出るよう誘われた康介だが、いざ歌う段になってラジオ局の社員が血相変えて飛び込んでくる。
               イムジン河というこの上品でどこか哀しい歌は、いわゆる放送禁止歌だ。北朝鮮への望郷の思いを歌ったとされるこんなトンデモナイ曲を放送するなんて何事だ!公安様に怒られるぞ!という論旨の激昂を見せる。
               今の時代からすると、何でそこまで怒るのか理解しにくいが、当時はまさしく共産主義が勢いのあった時代。日本でも普通に爆弾テロがあったし、「赤化する!」という理由でアメリカが戦争を起こしたりする時代である。しかし今では共産主義なんてなんのこっちゃである。この社員は滑稽にしか見えない。その時代時代で人々が大切にしていた価値観なんて、そんな程度なのかもしれない。我々は一体何を守ってきたのだろうかと、ちょっと考えさせられる。
               しかしこれが例えば共産主義をテロに置き換えれば今の時代にそのまま当てはまる。タリバンの歌を歌うなんて何事だ!公安様どころか良き市民までも怒ってるぞ!と、そのまんまかそれ以上に同じである。昔共産主義、今テロリズム。所詮は流行りに過ぎないのかもしれない。そして時が流れれば、テロと言えば血相変える時代に滑稽さや違和感が漂うようになるのかもしれない。そのころ支配している恐怖は何なのだろうか。

               ところでイムジン河が放送できないという話は、今は昔のお伽話かと言えばそうでもないらしいから愕然とする。この映画の宣伝のため制作者が放送局を回ったところ、「イムジン河は流せないことになっている」と拒否されたこともあったとか。そう回答した担当者の本心は知るよしもないが、勝手に想像すれば、なぜイムジン河は駄目なのか理由はよく知らないのだろう。知っていればそんな木で鼻をくくるような対応はできないからだ。知らないからこそ特に考えもせず前例に従える。そもそも放送禁止歌なるものが、実はただの思い込みであることは森達也が「放送禁止歌」で明らかにしている。

               そしてまたフト思う。血相変えて放送を止めさせようとした時代と、特段当人の意志は明らかではないが、「そうなっているから」という理由で放送を断る現代。不健全なのはどっちだろう。大友康平が社員に吐く「この世に歌っちゃいけねえ歌なんてねえんだよ!」という、一見大友だからこそ言えるクサい台詞が持つ意味は、実はかなり重いのではなかろうか。
               そしてまた今では、この映画の時代よりは目に耳にすることも少なくなった在日差別もまた、ただ知られなくなっただけなのかもしれない。好ましくないのはどっちなんだろう。そういえば映画の中で、朝鮮高校の生徒の親族らが、康介にこんな風に詰め寄られるシーンがあった。「国会議事堂の石は誰がどこから運んできたか知ってるか」「生駒トンネルは誰が掘ってるか知ってるか」「お前らは知らないまま歳を取っていくんだ」。知らないまま育った男がここでこうして文章を書いている。
              監督:井筒和幸
              出演:塩谷瞬、高岡蒼佑、沢尻エリカ、オダギリジョー、ケンドーコバヤシ、大友康平
              【補遺】
              日付が不明ながら、おそらく2005年ごろのテキスト。改めて読むと隔世の感と相変わらずの感とが同時に押し寄せた。その点、すでに史料となっている。(2017年再掲載)


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