【映画評】クライマーズハイ

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     最後のテロップがふるっている。
     「日航機の墜落原因は今も諸説あり、真相究明を望む声は後を絶たない」というような内容。
     そう、日航機の墜落原因は機体のトラブルなどではない。真相を知りたい人は渡辺文樹「御巣鷹山」を見よう。レア過ぎる作品なので当然ツタヤにはないぞ。コアな映画ファンとコアな当ホームページファンしかピンとこないだろうから簡単に説明すれば、真相究明のため、主人公と中曽根がチャンバラを繰り広げる作品である。

     このテロップのおかげで、「ゾディアック」や「殺人の追憶」のような作品にもちょっと見えた。どちらも未解決の殺人事件を追う実話を元にした物語。当然最後まで真犯人はわからないのだが、見えない犯人を追う様には一味違ったスリルがあってゾクゾクっとくる。

     この映画も少し似たようなところはある。作品のクライマックスで、事故原因は「圧力隔壁の破損ではないか?」というネタを引っ掛けた記者が裏取りに走る。裏は取れたともいえるし不十分ともいえる。デスク(記事編集の責任者)である主人公の悠木は悩む。記事をスクープとして打つべきか、慎重に控えるべきか。“新聞記者”の理屈から言えば、これはもうGOだろう。理由は簡単。他社が先に書いたらどうする?そういうことだ。慎重に行こうとして泣きをみた記者はごまんといる。
     ただしこうしてエイヤーで記事を打って、過去世の中にいくつもの誤報が流れたのも事実。少なくとも我が社は手柄より真実を取る。それも職業意識としては正しい。
     どちらにも一定の理屈がある。なので最後のテロップは、史実に配慮する、以上の意味を持ってきて、重い。なのでこの映画、思いっきりそういう方向でまとめるという手もありだったかな、と思った。

     いきなり余談を長々と書いてしまった。横山秀夫のベストセラーの映画化といえば、「半落ち」がタイトルどおり実に半端なまとめ方をした超駄作になっていたのに対し、こちらはかなりプライドを持って臨んだ作品と見え、なかなかの傑作となった。

     例えば絵がいい。実際の現場でロケを敢行したという墜落現場のシーンもさることながら、個人的には最初の社内の喧騒を映した、ちょっと乱暴なカメラワークが、新聞社のドタバタをよく現していて非常によかった(なので余計、自衛隊が仁王立ちするシーンと、アニメかゲームみたいなタイトル文字のアンバランスが引っかかったが)。

     もちろん、小説を映画化するときに付き物の、エピソードの取捨選択には異論も多々あるだろう。残ったエピソードのうち、上役たちが過去の栄光を引きずってるというくだりや、中曽根、福田の両方の花輪が写ってる写真の話など、かなり重要なファクターの扱われ方がどうにも中途半端だったという部分もある。

     その辺りはとりあえず置くとして、映画を見ながら気になったのは「これ伝わるんかな?」という台詞や筋立てだ。

     新聞社の内部というおよそ関係者以外はよく知らない世界を舞台にしているので、わかりにくさは自動的に付きまとう。例えば「何で共同を使うんですか?!」という争い。新聞社志望の学生を相手に、何度か「地方紙にも普通に国会やプロ野球の記事が載ってるけど、誰が書いてるの?」と質問したことがあるが、答えられた学生はほとんどいない。一般の人でわかっている人はどれほどか。

     答えは共同通信(や時事通信)という会社から記事を買っているのである。なので大きな図書館なんかで同じ日付の違う地方新聞を読み比べると、一字一句違わない記事が載っているのがわかる。そして他県の話ならいざ知らず、自社の取材エリア内の話を共同通信の記事で済ませれば、当然現場のプライドは傷がつく(傷がつかないひどい地方紙もたまにある)。なので映画でも言い争っていたというわけだ。

     こんなこと、映画で伝えられるかと言われれば、まあ無理だ。
     妙に説明臭い台詞を出せば、途端にダサくなる。なのでそういうムツカシイ話には触れないという手も浮かぶが、そうなると記者の実情を描く趣旨から遠ざかり、本末転倒となる。
     本作が選択したのは「説明を省く」という力技。何の説明もなく共同がどうしたこうしたと登場人物が会話している。しかし考えてみるとだからこの映画は高い完成度を持ちえたのだろう。もっと言えば「半落ち」にならずに済んだ。

     半落ちの失敗は「説明台詞がウザい」わけではなく、ヒューマンドラマに仕立て上げたからだ。つまりムツカシイ話を噛み砕いて映画化したのだが、その噛み砕き方が陳腐だったため駄作になった。
     日航機墜落の生存者に対する報道合戦が、僕が知った最初の報道被害である。川上さんは二度とマスメディアには登場していない。しかしクライマーズハイの登場人物たちは、そんなところまで辿りつけてすらいない。記者はハイエナという(最近はあまり聞かないが)が、実際には色んなサラリーマン的事情でハイエナにすらなれないというのがこの作品の面白さだ。それを映画にしようとすれば、力技が一番打倒な演出方針だったということなのだろう。

     ひとつ、佐山を演じた堺雅人について言及したい。佐山というキャラは原作を読んだときには「そんなやつおるか」が僕の感想だった。
     横山秀夫の書く記者は往々にして記者という看板を首からこれ見よがしにぶら下げてるような人間が多く、違和感があるというのが僕の感想だ。何の仕事でもそうだろうが、「我は○○でござい」というダンディズムを率先させて被る人間に優秀なのはいない。佐山は主人公の新聞社の現場のエース的存在なので、余計「そんなやつおるか」と鼻に付いたわけだ。
     ところが本作の佐山を見たときは「こんなやつおるわ」と感想が変わった。半笑いで悠木に情勢を報告する姿は、冷静に見れば変態寸前というプロの危うさを地で行っている。「現場に行かなければならないから行った」のが小説版で、「行きたいから行った」というのが映画版といえばわかりやすいか。

     残念なことに、普通にかっこよかった等々力部長のような偉いさんは実際にはほとんどいない、いかにもやりすぎな山崎勉演じる社長のような悪役は、案外いる、というのが僕のサラリーマン感である。悠木のような人間が、たとえ失点とみなされて左遷されようとやがては復帰してくる、そんな世の中になればいいなと思う。

    「クライマーズハイ」2008日本
    監督:原田眞人
    出演:堤真一、堺雅人、田口トモロヲ、でんでん、高嶋政宏、山崎努

    【補遺】
    人間の記憶とは怪しいもので、この映画を見ながら、読んだはずの原作に、そんな話あったっけ?と思い出せないことが多く、結局わざわざ買ってもう一度読んだ(最初は人に借りた)。で、削られてるだけでなく、だいぶ話が変わってたんだなあと知った。で、一番疑問なのは何で息子が外国にいるという設定に変わってたんだろう?ラストの牧場(?)を訪ねるシーンは、妙にダサいシーンだと思うしで。

    【映画評】御巣鷹山

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       街中で「渡辺文樹監督作品」という上映会の告知ポスターを見かけてこれは間違いなく“あの”監督だろうと直感し、折角の機会なので上映会を覗いてきた。何で直感したかといえば、何でというより直感するしかないといった方が正しい。

       NHKスペシャルか「あなたの知らない世界」の題字みたいな物々しい筆書きで「御巣鷹山」のタイトルと、「日本国家の犯罪を問う」と大所高所に構えたコピーがまず目に飛び込む。
       御巣鷹山といえば、あまりに有名な日航機墜落事故の現場。それをタイトルにして映画を作るなんて並大抵の意気込みでは不可能だ。なんてったって500人以上が亡くなった大惨事だし、事故という表現が相応しいのかってなくらい、色んな背景が取材・分析されてたくさん本になってる。代表的な山崎豊子「沈まぬ太陽」なんて5巻もある長編だ。

       の割にはポスターの絵は切り貼りして作ってて明らかにちゃっちい。飛行機の写真の尾翼を破いて貼っつけてスキャンしている、これが(多分)日航機123便なのだろう。付記しておけば、一般には垂直尾翼が折れたのが直接の墜落原因とされている。
       しかしまだこっちはマシで、もう一種類のデザインのポスターは、戦闘機に裸の赤ん坊という、これは全然意味の分からないコラージュで、誰やねんこの赤ん坊は、くらいしか突っ込めない。
       そんなポスターがあからさまに違反広告ですとばかりにあちこちの電柱とか柵とかにくくりつけられてて(かなり頑丈)、加えて一枚ごとに違うコピーが手書きで加えられている。これがさらに意味がわからないことが書いてあるという具合だ。出演者に並ぶ名前も誰も聞いたことがない。記憶の片隅にあった「変な監督」とはこれかと思わざるを得ない。

       察するに、日航機事故の背景に、政治があると告発するような左翼的な映画なのだろう。熱意が空回って、映画としてはデキが悪い、そんな感じではなかろうか。うーん、興味はそそられるが見に行くのはかなり躊躇を覚える。思えばこの時点にして既に監督の術中に落ちていたのだが。

       さて作品であるが、まず監督も言っていたように、音声は結構聞き取りにくい上、口パクの同期が合ってないし、音飛びもする。その上途中でトラぶって上映が中断する。まあある種ライブ的雰囲気を演出しているともいえるのだが。
       カット同士のつながりはかなり出鱈目で、正直これだったら俺の方がまともやんと思ってしまった。
       演技は一部を除き、はっきり言ってドヘタである。これらだけを総合すると、取るに足らないE級、F級映画である。が、不思議とそれだけでは終わらない作品である。

       冒頭、なぜかイランイラク戦争の話からはじまる。どっからパクってきたんだろうというイランの映像に、物々しいナレーションがついて、当時の日本の外交事情を説明する。
       そして物語の始まり。山奥で凍死体が見つかったという導入は、手持ちカメラの映像に、演技してない方言丸出しの台詞が重なり、フェイクドキュメントみたいでなかなかいい滑り出しだ。が、ここから一気にどう捉えていいのかわからない展開に突入する。

       退職警官の剣道の稽古になぜか顔を出した中曽根首相。その会場である山奥の小さな寺に怪しげな男が現れて首相に面会を求める。その名も「渡辺」。無論演者は監督である。
       寺の縁側に現れた中曽根首相は白髪がふさふさという時点で全然似てないのだが、いかにもな悪役面でなかなかいい役者である。縁側に腰掛ける中曽根と、地べたに正座する恰好で対面する渡辺。ほとんど大岡越前で、早くもチャンバラの香りがしてくる。
       渡辺の後ろには微動だにしない剣道着姿の爺さんたちがズラリ整列して座っていて、意味不明だが、様式美なカットではある。そしてかなり強引な展開で中曽根と渡辺が日航機事故の真実について語り合う。

       ヘタな役者が次々登場して結構複雑に時系列が絡み合い、途中、なぜか監督が雪の上で全裸死体の演技をしているシーンをはさみ、渡辺が、変装してまで手に入れた日航機事故の真実が明らかになる。
       この変装を明かすシーンは、ルパン三世がマスクを剥ぐような、古いスパイモノでは御馴染みのシーンを狙っているのだが、パイ投げのクリームを拭っているようにしか見えず、客席からは爆笑が起こった(ただし失笑ではなかった)。

       ここで描かれる日航機事故の真実とは、当時自衛隊が新しく購入した戦闘機が演習で放ったミサイルが日航機123便の尾翼を誤射し、墜落させたというもので、日米関係の事情から全てもみ消された。いわゆる陰謀史観全開である。
       まあ一応事故にまつわる様々な不審な点の辻褄は合っているから、全くの出鱈目というわけでもなさそうではあるが、ムーやワニブックスの臭いはプンプンしてくる。
       上映後、客の一人から「どこからそんな情報を手に入れるんですか」という質問が出たとき、監督が語った「みんな知ってるんだよ、そんなことは。マスコミが書かないだけ」というロジックは、新聞社なんかにトンデモタレコミを持ち込んでくる人と同じ修辞法である。
       なので全然信じる気にはなれないのだが、「偏った見方かもしれませんが、私はそう思ってます」という一応冷静な監督の姿勢はまだ安心できるし、少なくとも自分が信じることを映画にするという熱意は伝わってくる。

       まあ一番熱意が伝わってくるのは、クライマックスのチャンバラシーンで、最初っからこれがやりたかったんだろ、っていうくらい、今までの展開とはうってかわって、カメラワークが結構冴え渡る。
       真実を知る渡辺を葬るため、中曽根の刺客と化した剣道オヤジたちが、木刀で襲い掛かる。渡辺もかなりの使い手で、次々刺客を葬り去る。
       木刀なのになぜか血飛沫ドバーっとなり、渡辺は奮戦するも、しかし衆寡敵せず絶命する。客席からは笑いも起こり、みんな結構楽しんでいるようだ。
       今までの告発はなんだったんだというわけのわからない展開だが、あくまで映画は娯楽という枠組みを守ったともいえる。その意味では、人権センターとかで上演されるような啓発芝居よりははるかにまともである。

       結局のところ、とにかく作って人に見せるということが重要なんだなあと再認識させられた作品、ないしは監督だと思わされた。まあこれがデジタルだったら話も違ってくるんだろうが、技術が手作り感満載で、演技がドヘタでも、フィルムを回して映画を作るのは大変な作業である。それでも映画と名がつけば、人はやってくる。台本はかなり強引な展開で、正直私の方がはるかにマシだが、監督の熱意とエネルギーだけはやけに伝わってくる。酷い映画だったが、客のかなりが楽しげな様子で帰っていたのはそういうところにあるのだろう。私の渡辺文樹初体験は、なかなか感慨深いものとなった。
       次回作は「ノモンハン」らしい。一体どんな内容になるのやら。ちっとも楽しみではないが、またあの怪しげなポスターを見たら、見に行くんだろうなあと思う。

       ちなみに受付には一人の女の子がいて、多分関係者の娘なのだろうその女の子の顔は、明らかにポスターの裸の赤ん坊だった。初対面の子に大きくなったなあという感慨を抱いた。

      【補遺】
      見に行った現場の様子を書いた日記の記事があったはずなのだが、ファイルが見つからない。見つかったらまたアップしておきます。「笑った」と好評だったもので。
      2008年に「ノモンハン」と「天皇伝説」の2つが上映され、結局見に行っている(天皇伝説の方だけ)。受付にはまたもあの少女がいて、大きくなっていた。

      【映画評】黒豹のバラード

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         ヒーローはピンチに現れる。天下泰平両手に花の状況で現れてもすることはない。邪魔なだけである。だから劉邦が項羽を倒すと韓信は殺されたし、地球に怪獣が来なくなったときウルトラマン80も宇宙に帰っていったのである。

         これをあたかも望遠鏡を逆さに覗くように眺めてみると、つまりヒーローの活躍譚とは、窮地に陥った人々が劇的な挽回を望んだ悲痛な叫びなのだということがいえる。
         源氏物語は源一族が藤原一族を追い落としていく物語であるが、歴史はそうではない。全く逆である。だから源氏物語とは源一族の怨念の物語なのだと井沢元彦「逆説の日本史」に書いてあった。

         本作は黒人カウボーイが主人公の痛快な西部劇だ。
         西部劇といえば白人がインディアンを苛める話というのが通例だが、史実、黒人カウボーイもかなりいたらしい。映画の冒頭に語られている。
         別に正確な記録を調べなくても、東海岸で決して幸福ではなかった黒人たちが、もっとすがすがしく生きられる新天地を求めて西へ向かったというのは想像に難くない。
         西部劇といえばジョン・ウェイン、ユル・ブリンナー、クリント・イーストウッド、みんな白人じゃねえか、黒人だってたくさんいたんだぜ、という反発がこの映画を作らせた、ともいえる。

         とはいえ、これを司馬遼太郎あたりが得意の歴史の再評価物語と見てしまうよりも、黒人の怨念の物語だと見る方が面白そうだ。
         つまり敵役の白人至上主義者たちを黄金の弾丸で葬っていく恰好いいジェシー・リーもタイム神父も、当時の黒人たちの窮地を救うべくして生み出されたヒーローなのである。言い換えれば、そんなヒーローは実際いなかったのだ。

         映画の中で、ジェシーの父キング師が黒人による黒人のための町を築いたように、正確なところは知らないが当時黒人の町が西部のあちこちに実際生まれていたとは想像に難くない。そしてキング師が虐殺されたように、あるいは、あらゆる法的、経済的手段を駆使した狡知によって、町のほとんどは滅んでしまった筈だ。なぜなら強いものは常に貪欲だからだ。

         土地や財産、自由や希望などといった前途、あるいは親族眷属友人恋人の命までも奪われた黒人たちが何を考えるか。憎い白人を蹴散らしてくれる痛快なヒーローの登場である。だから本作は怨念が生み出した物語なのである。
         実際の歴史の大波の中では幾多の黒人が辛酸をなめ、ようやく光が見えるまで、長い長い年月を要した。現在でもそれが達成されたかどうかはわからないが、少なくともまだマシな状況が現れるまでに要した時間はいかほどか。
         ヒントは物語中に登場する少年だ。彼がラストで昔を振り返って記者(?)にジェシーの物語を語っているのだが、少年はすっかり老人になっていた。この間、何人のヒーローが現れ消えていったのだろう。

         原題のなにやら間の抜けた感のある英単語は「仲間」の意味である。
         気心の知れた仲間がいて、砂塵を巻き上げ褐色の荒野を馬で駆け抜け、恋人を抱き、黄金の弾丸で父親の仇を粉砕する。なんとも男根主義的なダンディズムに溢れた作品だ。
         男の子には痛快この上なく、納戸の奥に片付けてあったコルトのおもちゃを探し出すかもしれない。しかし女の子の中には手に汗握るどころか欠伸と鼻ちょうちんが出て仕方がないという人も少なくないだろう。
         男にとって恰好いいものは女にとってはどうでもいいものである。カップルで見ようものなら2人の愛に亀裂が入るかもしれない。そういうとき彼氏はこう言おう。彼らは哀しみと痛みの結晶なのだ、と。

        「黒豹のバラード POSSE」1993年 アメリカ
        監督:マリオ・ヴァン・ピープルズ
        出演者:マリオ・ヴァン・ピープルズ 、スティーブン・ボールドウィン 、チャールズ・レイン 、ビッグ・ダディ・ケイン 、ビリー・ゼイン

        【補遺】
        僕の映画評が「運動部屋」という名前で始まったときの最初の映画評の一つだ。考えてみるともう5、6年前に書いた文章で、つまりはギリギリ20代、少しゾッとする。気のせいか、今より文章が上手いような…。

        【映画評】バッドアス!

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           このシリーズでも紹介している西部劇の異色作「黒豹のバラード」で主演・監督を務めたマリオ・ヴァン・ピーブルズの父、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズの物語だ。メルヴィンもまた映画監督であり、初めて黒人がヒーローを演じる映画を撮ったという。本作はその戦いを描いている。

           かつてのアメリカ映画では黒人は臆病で御馬鹿な三の線ばかり演じさせられていたらしい。時は70年代、まだ黒人のバス乗車拒否なんかが公然と行われていた時代でかつ、公民権運動の高まりやブラックパンサー党が台頭した時代である。
           当然映画監督のメルヴィンにも、黒人をもっと違う方法で描きたいという欲望が生まれる。
           この感覚は日本人にしてみれば「ライジング・サン」というB級映画を思い出してもらえばいい。日本人という設定で登場する悪役。どうみても大陸系の顔つきをしていてとても日本人には見えない男が、いわゆる女体盛りの刺身だか寿司だかを食す。
           「外人には所詮日本は理解できない」という優越感の好きな日本人だから、1作2作ならむしろギャグとして笑っていられるだろうが、ハリウッド映画に登場する“日本人”が毎度毎度女体盛りをしていては、さすがにいい加減にしろと怒りたくもなるだろう。

           というわけで、メルヴィンは黒人の黒人による黒人のための映画を作ろうと早速台本を書き始めるが、実験作であるばかりでなく、白人による差別も赤裸々に描いた過激な内容に、大手配給会社は当然手を貸さない。
           なので当時としては珍しい完全自主製作で金をかき集め、スタッフを集め、撮影を決行していく。組合の目を誤魔化すため(アメリカでは芸能絡みの組合がやたらうるさいことはフランク・ザッパの自伝の中にも苦々しく登場するし、このコーナーでも取上げた映画「クレイドル・ウィル・ロック」でも描かれている)彼らの管轄外であるエロ映画と誤解させる苦労話など、興味深いエピソードをふんだんに盛り込んで、メルヴィンのまさしく身を削った奮闘を息子マリオが好演している。

           こうして完成した「スウィート・スウィート・バック」という日本ではあまり知られていない映画は、黒人映画の火付け役となったらしい。
           ドキュメント「バッドアスシネマ」によると、黒人映画は金になると気付いた配給会社と、黒人役者やスタッフの思惑が一致して、「黒いジャガー」などの黒人タフガイが活躍するバイオレンス映画が次々後に続いていく。黒人といえば馬鹿力で性豪でワルで服装が派手という今の我々が持っているステレオタイプはこのころ確立されたようだ。
           なので黒人が映画界で幅を利かせたという一見歓迎すべき現象に対し、公民権運動家らからは「間違ったイメージを売っている」「権利拡大には繋がらない」という批判を受けた。
           そして一気呵成のブームにはアリガチな話で、乱発される黒人映画は質の低下を招き、5年ほどで下火になったようだ。
           タランティーノの面白いのかどうかよくわからない映画「ジャッキー・ブラウン」は、彼が若いころ夢中になった黒人映画へのオマージュとして作られており、「黒豹のバラード」もこの流れに位置していると考えられる。

           さて偉大な父の偉業を、息子が監督し演じるというのは、ちょっと踏み外せばテレビ局が思い出したように特別枠で放送する「○山○男物語」のようなシャンシャン総会ばりの偉人伝になってしまう。いや息子が演じるのだから、それ以下だ。
           この映画が巧妙にそれを避けえたのは、まず1つにはフェイクドキュメントに近いスタイルを取ることで、ある種の<客観性>を得たことだ。
           物語の合間には、監督を支えたスタッフのインタビューのような映像が何度か指し挟まる。黒をバックに、後日語ったという恰好でスタッフ役の登場人物がカメラに向かって“当時”の心境を語るのだ。
           こうすることで、物語は息子ではなく周囲の目線の積み重ねによって組み立てられているように感じさせられる。

           加えて、「スィートスィートバック」にも子役として登場した少年時代のマリオは逆に端役の一人に過ぎない。メルヴィンが映画のためにマリオを犠牲にしようとするシーンがあるなど、それなりにはウエイトのある登場人物ではあるのだが、例えば息子目線から「当時の私は父を…」などと語るようなことはなく、大人の世界にちょっと首を突っ込んだ子供という線引きから出ることはない。
           子供に親の気持ちはわからない。親に子供の気持ちはわからない。そういうことなのだろう。こうしてこの作品は、説得力やリアリティとともに、子が父を礼賛するときに付きまといやすい白け感を回避し得ているのだ。

           メルヴィンの映画は、実話にしては「よくできた話」と言いたくなる形で評価を得ていく。そしてこの映画自体のラストは、これまでさんざんインタビューとして登場してきたスタッフの、当人が現れ、今度は本当のインタビューによって締めくくられる(特にアースウインドファイヤーのロン毛の人が出てくるところは感動した)。

           そしてラスト、本物のメルヴィンが登場し、トレードマークの葉巻をくわえながら悪戯っ子のような笑顔を浮かべて終わる。台詞は何もない。
           だがそれだけに伝わってくるものがある。息子は畏敬の念を持って父の偉業を描き、父はそれを歓迎していると。
           事実を元に物語を構成するときの、また新たな手法を見せ付けられた気がした。

          「BAADASSSSS!」2003アメリカ
          監督:マリオ・ヴァン・ピープルズ
          出演:マリオ・ヴァン・ピープルズ、レイン・ウイルソン、ジョーイ・ブライアント

          【補遺】
          劇団ころがる石の舞台作品「デジタル銀幕フィルモグラフィ」は本作から2つパクった。1つは登場人物のインタビューでもって状況説明やストーリー展開を促す点、もう一つは監督が台本を書いている途中、気分が乗ってきて、過剰にハイになる点だ。ま、それだけの話なんだけど。

          【映画評】かぞくのひけつ

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             「十三で今ロケをやってて・・・」というような話を以前知った人から四方山話で聞いていたのだが、それを忘れかけていたころ上映の運びとなっていた。

             まさしく大阪は十三が舞台の家族モノで、出演者も桂雀々、長原成貴、九十九一、テント、そしてかの大御所ラジオパーソナリティなどなど、コアな大阪芸能人がそろっている。
             こう聞くと、なんだか全てが大阪に収束しているような、関西人だけついてこいみたいなある種のスノッブ臭さを感じ取る人もいるかもしれない。大阪以外から来た人間が初めて関西ローカルを見たときのような気分とでも言おうか。

             しかしこの作品、ほとんどのシーンを十三でロケしてるという触れ込みの割には「ここはスペスシャルな街ですよ」というようなアドマチック天国的押し付けがましさは特になく、「大阪の人情でっせ〜」というようなステレオタイプもない。普通の冴えない街に住む、普通の冴えない家族という視点で描かれていて、好感が持てる。
             現実の街を舞台にした映画だと、ついついその街の特徴的な断片をあざとく切り取ったようなカットを多用したくなると思うんだけど、本作では風景においても人物においてもそれをかなり抑制してしかやっていないから、鼻に付かないのだろう。むしろ十三(大阪のかなりの地区にもあてはまるだろうが)は絵にならない街だなあとつくづく思わされたくらいである。

             (とはいっても、すぐそこにラブホテル群があるところなど、街の特徴を捉えた構成にはなってると思うし、不可思議な薬屋に扮したテントが持ちネタのクモの戦いを披露するなど大阪人なら倍楽しめる仕掛けもある)

             これは「十三で撮った」というより「近所で撮った」映画なんだろうなと思う。別に監督の住所地の話ではない。

             この作品、見るからにあんまり金がかかってない。
             まずこの映像の質感からいって、撮影はデジタルビデオカメラだろうし、移動撮影やクレーン撮影など大掛かりな撮影法を用いてるカットもほとんどない。照明もバリバリ陰影を作り出すような凝ったものではなく、簡素な照明しか使ってないんじゃないかと思う。
             つまり音声以外は今の私の装備でも十分対応できる程度の方法で撮りきってるのである。
             十三は絵にならないとさっき書いたが、逆に言えば絵にするような細工をほとんどせず、あるがままで撮ってるような映像ばかりだし、雑踏の中にはカメラ目線を送っている人間もチラっと見える。ハンドメイドな映画なのだ。

             それでも見てるこっちは自主映画を見るときのような大目に見る姿勢を準備する必要はない。普通に映画館で金払って映画見てる感覚で見れるのである。ひとつには秋野暢子という有名な女優の存在感があるだろう。それ以外のキャストも安定したいい演技をしている。
             しかし今の私がそれ以上に思うのは、映画的修辞法でもって丁寧に組み立てれば、映画は成立するんだなあということだ。誤解を恐れずに言えば「映画は君でも撮れる!」ということをかなりのレベルで実証した作品ではなかろうか。ツボさえ抑えれば近所でカメラ回せば十分撮れる。そのツボが実はかなり難しいのだが。

             この作品が上映されている第七藝術劇場も映画の中に登場する。スクリーンの登場人物が観客と同じ道を通ってこの劇場を訪れるシーンを見たとき、映画作りは彼岸ではなく此岸のことなんだと妙にシンクロしたような気分に襲われた。こんな感覚をもっと世の中に提供したいんだろうなと私自身も思った次第である。

            監督:小林聖太郎
            出演:久野雅弘、秋野暢子、桂雀々、ちすん、谷村美月、テント、九十九一

            【補遺】
            我ながら意気込みが初々しい文章だ。当時の僕は勢いだけで映画を撮ってそのあまりの出来の悪さに二本目を撮ることなんて考えられないでいたのだが、この映画を見てもう一度やってみようと考えたものだ。そうして「ウェルカムホーム曇天カフェ」を制作した。一本目と違い、一応は堂々と人さまに見せられるものが出来たとは思うが、やっぱり映画の壁の高さに再び参ることにもなった。もう一度見てみようかなとも思う。現在DVDがレンタルされている。

            【映画評】太陽

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               ロシア人かどうかは置いておくにしても、この映画を外国人が撮ったのは必然だ。できることなら我ら日本人は「してやられた」と思いたいところだが、「外人にしかできねーよ」と思うのが関の山だろう。

               今更言うまでもないが日本のマスコミでは天皇はタブー視されている。天皇の行幸の際、宮内庁の担当記者もわざわざその地方までやってくるのだが、仕事の半分は敬語での記事の書き方を、よくわかってない地方の記者に教えることである。
               細かいことまでそんな肩の力の入りようだから、皇室関連のニュースは、天皇を畏れ多くとも何とも感じない海外メディアの方が詳しかったりする。なので映画も監督が外人になるのは必然だ。

               もう一つは距離のとり方が難しいということもあるだろう。腫れ物に触らず的な姿勢以外の人の立場はというと、万歳か糾弾かのどちらかが大抵である。あるいは特に一定世代以下なら興味も関心もないという人が圧倒的に多いだろう。
               「日本のいちばん長い日」という映画では、昭和天皇は登場するが、顔は出ない。手だけのアップだったり物陰に隠れていたり、それこそ神聖な感じだ。いろんな深謀遠慮が働いたのだと思うが、そういう政治的意図を別にしても、一登場人物として扱えるのかどうか、制作サイドが距離感というか立ち位置というかを図りかねた結果だと思う。

               とはいえ、昭和天皇は日本史における最重要人物の一人であることは間違いない。知っておかないといけない存在と言えるだろうし、表現者的な視点で見れば、これほど映画の題材として興味をそそられる存在もそうないだろう。
               そういうわけで、昭和天皇を演じきったイッセー尾形は、その演技力以上に日本人としては拍手しないといけないことがいっぱいありそうだ。

               さて本作は、終戦の直前と直後の昭和天皇に焦点を当てて描いている。在位期間が、実在が確認されてる天皇の中では最長らしいから、それくらいポイントを限定しないととても二時間ではまとまらない。それだけでなく、この期間に絞っても尚、様々な出来事があったかなりをこの映画は省略している。
               何よりもいつの間にか戦争が終わっている!特に何の説明もないまま、中盤で天皇が外に出るとすでに米兵が皇居内で戯れてるのだ。
               つまりは玉音放送のシーンがない。空襲の悪夢にうなされるシーンはあるが、原爆が落ちる場面もないし、「日本のいちばん長い日」で描かれることごとくが、ない。
               せいぜい御前会議が多少揉める程度である。マッカッサーが現れても、かの有名な天皇との2ショット写真を撮るような場面もない。

               では何を撮っているか。それを語る前に、カメラの話をする。
               この映画でカメラは積極的な役割を演じない。例えば御前会議のシーン。居並ぶ強面の大臣たちを、よくとられる手法なら移動撮影して順繰りに大臣の顔を舐めるように撮影したり、俯瞰で捉えたり、何しろ帝国の最高意思決定機関であるから、ジャジャーンとばかりにとかく大仰にしたくなるところである。が、なんとも味気ないバストショットの連続である。
               どちらかと言えば北野武の映画のようなに冷めた視点の映画と似ているようにも思うが、あんな風にスタイリッシュな映像というわけでもない。つい買ってしまったパンフには「映像美が云々」というような賛辞が述べられているが、むしろ格好いい構図をわざと外して撮ったように見えるシーンが多い。
               ロシア映画はほとんど見たことがないので、もしかするとこれが定番なのかもしれないが、私にとってはちょっと馴染みがない撮り方だ。

               格好いい映像を排除するとどうなるかと言えば、色んな色が抜け落ちる。大仰な絵で天皇を撮れば、必然そこに出てくる天皇は帝国憲法が定める主権者としての「天皇」ということになる。平たくいえば公人、いや当時は人ではないから、公神か。
               大仰でなければ一個人としての天皇を描ける公算が高くなる。しかしこの人は、公式記録ならいざ知らず、あまりに偉い人だったので素顔はよくわかっていない。なのでこういう、一種あいまいで凝らないカットを多用したのではないかと思う。ヘタに内面に深入りしすぎると嘘くさくなる。かといって冷めた目になりすぎると婉曲に糾弾してしまいかねない。天皇を一人の歴史人物として捉えなおしてみる試みの中で、この映像は必然だったのではなかろうか。

               そういうわけで、映画の中に何が出てくるかというと、ちょっとした何気ないエピソードの連続である。そのいちいちが実際あったことなのかどうか、勉強不足の私にはわからない。だが虚実入り混じるにしても、少なくともきっちり調べた上で作っているなというのは伝わってくる。
               何しろイッセー尾形はかなり似せている。天皇に対して各登場人物が取る態度も日本人ならすんなり理解できる。アメリカのサムライモノのような違和感は全くない。
               マッカーサーに「私はどうなってもいい」と潔いことを言ったとか、皇太子に敗戦の原因を分析した手紙を送ったとか、事実だとされていることも細かく出てくる。
               そうなると、他のエピソードも本当なのかどうなのか気になってくるところだが、大学受験の世界史や日本史で結構なハイスコアを誇った私がいちいち知らないという日本の歴史教育の現状はどうよと、一応人のせいにする駄目だしをしておいて、特に印象に残ったシーンを挙げる。

               昭和天皇は言う。米軍に日本人が残虐な目に遭わされるのではと心配したと。「残虐とは何だ」と詰め寄るマッカーサーに、天皇は言う。「原爆を落とされた」。
               「あれは私の命令ではない」と不機嫌顔のマッカーサーは「じゃあ真珠湾は残虐ではないのか」と反論する。すると天皇は「私の命令じゃない」。

               戦争とは何かが詰まった非常に面白いやり取りだ。一つは戦争はどっちもどっちだということ。そして時には誰だかわからない意志によってなされるということだ。

               話を元に戻すと、陳腐な言い方をすれば「一人の人間としての天皇」を描いたこの作品は、最終的に、「人間宣言」につながっていく。
               昭和天皇が現人神であることを否定して人間宣言したことは一般に知られている。しかしその意味はというとどうだろう。というか歴史というのは往々にして結果を知っている分、その出来事が当時どれほどのインパクトだったのかが後世の人間にはわかりにくい。

               この映画を見て、昭和天皇に感情移入していくうちに、人間宣言の意味、というか天皇にとってどれほどの意味だったのか、がひしひしと伝わってくる。歴史ドラマの意義はそういうところにあるのだろう。こうして無知な日本人の30男は、ロシア人によって一つ勉強させられたのである。

              「太陽 The Sun」2005年 ロシア、イタリア、スイス、フランス合作
              監督:アレクサンドル・ソクーロフ
              出演:イッセー尾形、ロバート・ドーソン、佐野史郎、桃井かおり

              【補遺】
              この評について、「天皇を人間として描く映画になんて興味も何もない。だから見る気もない」というような書き込みが知った人からあった。見ないという人とは議論がかみ合うはずもないので、特に反論もしなかったのだが、多分、「人間として描く」というのを、いわゆるヒューマンもののドラマみたいに想像されたのではないかと思う。本作はそういうヒューマンなテイストは皆無に近い。大体、ヒューマンものというのは名前の割にはちっとも人間を描けてないことが多いから好きではない。
              とはいえ同時に、この人の世代(60オーバー)にとっては、僕らには想像もつかない、身に染み付いた憎悪のようなものがあって、「天皇」と聞いては冷静ではいられないのかな、とも考えた。
              今年(2009)は天皇皇后の結婚50周年らしい。週刊朝日は、題字を下げてまで表紙の頭にそんな文句の見出しを打っていた。なるほど「天皇」というのはあまりに難しいテーマらしい。

              【映画評】プレデター

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                 正月なんかに実家に帰るとついつい屋根裏部屋に片付けているマンガを1巻から最後まで読み返してしまう。時間の無駄も甚だしいが、面白いのだからしょうがない。言うなれば作品にそれだけ読ませる力があるのだ、とは単なるいつまでも幼い自分自身への弁明か。

                 地上波テレビの映画は、深夜枠を除けば大抵実にしょうもないハリウッドアクションの使いまわしで、ちっとも見る気が起こらないのだが、中にはついつい引き込まれてしまう映画もある。本作に関しても、先日一体何度目だと思いながらついつい見てしまった。
                 さすがに映像は古臭い感じがするし、宇宙人(?)の弱点に気付くシーンはやや強引な気がしないでもないが、緊張感を切らさない構成は素晴らしいものがある。で、改めて見て、なぜか岩明均「寄生獣」を思い出した。

                 寄生獣が評価されたのは単なるホラーマンガとしてよくできていただからではない。謎の生命体に次々乗っ取られる人間という古典的なテーマだけなら「遊星からの物体X」の方が怖い。血液検査のシーンなど、子供のころ小便を漏らしきっていたくらいだ。

                 寄生獣の何がよかったのかと言えば、種と種の対決と共存という単なる恐怖から止揚したテーマが上手く描けていたことだろう。人間を襲う寄生獣は人類にとっては大いなる脅威だが、神の視点から見れば既存種と新種の生存競争に過ぎない。加えて主人公の乗っ取りに失敗して右手だけに寄生した「ミギー」(すごい名前)の存在が、共存という可能性を示唆し、作品の視点を安っぽいダーウィニズムに陥らせない。なかなか憎たらしい作品なのである。

                 で、プレデターであるが、別に寄生獣のような哲学的な臭いのする映画ではない。言ってしまえばこれは単なるスリリングな筋肉アクション映画である。
                 仲間が1人また1人と殺されているという古典的な構図を踏襲しながら、シュワルツェネッガーの肉体と当時の映像技術で魅せているだけの作品であるから、匂ってくるのはアメリカ臭だけである。

                 しかしながら、これを種と種の生存競争と捕らえると、ちょっとだけ興味深さも趣を異にしてくる。

                 この宇宙人、なぜ主人公とその仲間を執拗に襲うのか理由はわからない。髑髏を愛でるという猟奇趣味はあるようだが、とにかくわけもなく好戦的である。
                 一方の迎え撃つ米軍兵士だが、これもさっさと逃げればいいのに宇宙人と戦い続ける。中には強敵と戦えることに興奮しているちょっとサイコな隊員もいるし(一瞬にしてやられてしまうのだが)、シュワルツェネッガーも罠を仕掛ける時間があるなら逃げろよという気がしないでもない。
                 まあ「それを言っちゃおしまいだよ」を言わないにせよ、兵士の使命感であったり、仲間を殺された復讐であったり、理由はいかようにも説明がつくのだが、種と種の争いだと考えるとすんなり腑に落ちるものを感じる。

                 実際種がどのように生存競争を繰り広げたかなど誰もわかりはしないだろうが、こうやって互いに未知の生命同士がわけもなく争う様は、生命体の本能ではないのだろうか。主人公の筋肉男が手作りの弓矢を用いるなど、原始的な戦い方を繰り広げるから余計にそう思えてくる。
                 映画では無論主人公が勝つのだが、もし負けていれば、人間はさっさと駆逐されるかどこかに追いやられてひっそりと暮らすことを余儀なくされていたかもしれない。

                 社会学系のつまらん評論をすれば、この時代のアメリカは、最早人類を代表して種の保存のために戦うようにすらなったということか。
                 しかしその後のアメリカが選んだ敵はテロリストであり、宇宙人と比べるとかなりレベルダウンしてしまったようだ。ラストで瀕死の宇宙人へのとどめを刺すことをやめるシュワルツェネッガーの姿に、今からすればやや違和感を感じてしまうこの感覚は、アメリカの変貌をどこかしら現している。

                「プレデター PREDATOR」1987年 アメリカ
                監督:ジョン・マクティアナン 出演:アーノルド・シュワルツネッガー

                【補遺】
                「知らない映画の評ばかりで読む気がしない」と若い衆に言われたことがあり、「知らないんなら見ろよ」と思いつつ、じゃあ知ってる映画で書いてやろうということで書いてみた一本。個人的には割りとよく書けたと思っている。書いてみて思うが、今後プレデターをついつい見てしまうことはなさそうだ。

                【映画評】選挙

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                   昨年(註:2006年)、「とにかく撮ってみよう」を合言葉に何もわからないまま映画を撮影したのだが、「とにかく撮ってみよう」は劇映画よりどちらかというとドキュメンタリーの方がふさわしいように思う。
                   面白いドキュメンタリーに出会うたび、昔出くわしたあの場面、この場面、いずれもカメラ回しておけばよかったなあと、よく後悔する。

                   新聞とかニュースとか、言葉そのものが示しているように、これらの媒体は基本的に何か新たな動きや変化がないと取り上げないし、なによりも記者自身が反応しない。
                   例えば全盲の絵本作家といういかにも新聞テレビが好きそうな人がいたとして、その人をとりあげるのは「新作を出した」「個展を開く」「賞をもらう」など何か<新しい動き>があるときになる。なんでもない日常はなかなか記事になりにくい。
                   ところが我々からすれば、「新作を出す」というのはせいぜい買うか買わないか判断する程度の情報で、よっぽど「日常どう過ごしているのか」に断然興味がいく。カメラ回しておけばよかったなあとはそういう意味である。

                   さてついこの前、知った人から「選挙に出る」と聞かされたときがあった。そのときの私といえば「なるほどそうですか」くらいしか思い浮かぶものはなかった。おかげでこの映画を見て自分の不明を痛いほど感じさせられた。何でこの発想なかったかなあと。

                   選挙に出馬した候補者にくっついてカメラを回しただけ、言ってしまえばそういう映画だ。公選法違反の現場を押さえたとか、そういうニュース性は何もない。選挙にかかわったことのある人間、選挙を取材したことがある人間なら、誰でも知っているはずの“日常”をただ追いかけただけだ。しかしそれが一般人にしてみればどうだろうか、ということだ。

                   こういう場合、誰を主役にするかというのが重要になる。ニュース性ではなく見ていて面白い人であるのがいい。物語性があるかどうかということだ。

                   結論を先に言えば、本作の場合は実に主人公がいい。この人選がこの映画を面白くしている肝心の部分だ。

                   主人公の山内氏は東大卒業後、東京で切手屋を営んでいた鉄道オタクの40歳。一個一個の経歴はなんだか特殊だが、全体的はいたってフツーの一般人である。その彼が、小泉純一郎に憧れて、自民党の公認候補の公募に応募。めでたく選ばれて川崎市議の補選に出ることになる。市議の一人が引退したので、代わりを選ぶというわけだ。

                   この設定がいたって映画には都合がいい。
                   まず主人公はフツーの人で、そのくせ所属は自民党。加えて市議の補選なので、選挙の規模は小さい上に、地元の自民党が彼一人に全力を注ぐ。普通の選挙だと同じ自民からも複数候補者が出るので選挙運動はバラバラになってしまう。しかし今回は山内1人を通せばいいから、現職の市議から神奈川県議から地元選出の衆院議員まで、みんながみんな顔を出す(=映画に登場することになる)というわけだ。
                   その上、この補選と合わせて参院の補選と市長選も同時に行われるトリプル選挙というオマケつきだ。応援の国会議員も大物がやってくる。しまいには小泉本人も現れるから、登場人物には事欠かない。

                   なぜフツーの人が自民から出るのが面白いかといえば、それこそがこの映画の主題につながってくる。
                   「人は一生に一度は砂漠を見るべきだ」とはアメリカ映画「25時」に出てくる台詞だが、私に言わせれば「人は一生に一度は地方議会を見るべきだ」と思う。もちろん地方にもよるが、民主主義の現場の実際が、あまりに馴れ合いセレモニーでホトホトうんざりする。
                   あれは有名な脚本家だったか「地方議会なんて潰してしまえ」とコラムに書いていたが、是非はともかく、気分は全く賛同したくなる。それくらいトホホな様子が繰り広げられる。

                   同じく選挙の現場も、民主主義って何だと頭を抱えさせられることが多い。僕が実際見た選挙の話だが、自民の現職候補が告示日に第一声を挙げる。集まった支援者は全員頭に「必●勝」の鉢巻。演説で何を話すかと言えば「この県をよくします」レベル。何年も議員やってて話すことはそれしかねーのかといいたくなる。これまたトホホなのだ。何を話すかはどうでもよくて、地縁血縁義理人情こそが重要な泥臭い世界である。

                   本作のカメラが追いかけるのは、まさしくそんな「ドブ板選挙」なのだが、候補者の山内氏自身はつい先日までフツーの人だ。彼の憧れの小泉のスマートなイメージとは真逆の世界ばかりを目の当たりにさせられていく。
                   彼はいちいち戸惑って、苦笑いして、愚痴を言う、その姿が観客の抱く感覚と重なって、見ているこちらは引き込まれると、だから映画にとって都合がいい素材なわけである。

                   ドキュメンタリーは大抵数年の撮影期間がある。それくらい撮らないと、撮りたいことが撮れない、ないしは映画に使える面白い場面が貯まらないということだろう。この作品は告示前からのせいぜい1、2ヶ月の間の話だ。なので長期にわたって撮影したものよりも、ちょっと薄味なのは否定できない。それでもオイシイ滑稽な場面がたくさんある。大の大人、それも結構な立場の人間が何人も大汗かいてるから当たり前かもしれない。そんな良くも悪くもエキサイティングな選挙を知らん顔をしているのは何とも勿体ない話である。

                  「選挙」2007年日本
                  監督:想田和弘
                  出演:山内和彦、小泉純一郎、川口順子、石原伸晃、荻原健司、橋本聖子

                  【補遺】
                  あれから一度、友人同士の旅行で「とにかく撮ってみよう」を実践するためビデオカメラを回してみた。実際やってみてわかったことだが、カメラを止めたときに面白いことが起こる、という場面がしばしばあった。ただカメラを回す、といっても非常に難しいものだと思った。

                  【映画評】メタリカ〜真実の瞬間

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                     昨今のドキュメンタリーブームの中にあっても遜色ない傑作だ。と最初に述べておく。メタリカファンのための宣伝Vと思うなかれ。

                     映画に限った話ではないが、ドキュメントの面白さの1つは「そんな現実知らなかった」という驚きだろう。
                     「現代日本にそんな社会問題があったなんて知らなかった」と、特に問題意識が高くない人でも思わされる。そういう面白さだ。だが、社会問題ではなく趣味性の話題を扱ったドキュメントは、知らない人とってはあまり面白くないというちょっと矛盾した現象が起こる。

                     例えばサーフィンを取上げたとあるドキュメント映画。私はサーフィンにはちっとも興味がないが、知られざる魅力に触れてみるのも面白いと期待して見た。
                     のだが、知ってる人は知ってるのだろう、凄腕サーファーが出てきて、既に凄腕と知っているという前提のまま語り始める。こっちはその人がいかに凄いサーファーなのか全然知らないからイマイチなんのことやら付いて行けない。
                     私にとっては涙物に面白かった「エンド・オブ・センチュリー」も、ラモーンズというロックバンドを知らない人をどれだけ取り込めるかは怪しいものだ。そもそもラモーンズを知らない人を想定して作っているわけではないのだろう。
                     
                     しかし本作は違う。メタリカというメタルバンドという、同じく趣味性の強い素材を扱った本作だが、メタルに興味がない人をも惹きつけてしまう傑作だ。その理由は、同時性という構成にある。

                     ロックドキュメントは大抵<過ぎ去りしあの時>を振り返る構成になっている。「エンド・オブ・センチュリー」もそう。ラモーンズという一時代を築いたパンクバンドの足跡を、バンドメンバーやスタッフ、記者、ライバルバンドなどの証言を当時の映像に重ねながら辿っていく。
                     私のようにラモーンズ興隆期がリアルタイムではない(当時小学生)人間にとっては、「あーそういうことがあったのかあ」と発見の積み重ねが楽しいし、リアルタイムで聞いていた人間にとっても「あーそういう実情だったのかあ」と今だから言える真実を知ることが楽しい。ついでに当時のレア映像も手放しで嬉しかったりする。

                     こういう構成だと、ラモーンズのファン以外は、まるで職場の知人の高校の同窓会に無理矢理参加しているようなもので、前提となる共通の土壌がないから楽しみどころがよくわからないというわけだ。
                     ところが本作は違う。2001年から2年間、メタリカに密着して撮影した素材を中心に作っている。つまりメタリカの今を捕らえた内容なのだ。

                     内容紹介に付き合われたし。
                     撮影開始時のメタリカの立場はというと、これまでアルバムを山ほど売って(実に計9千万枚。印税が一枚200円だとしても180億円!ちなみにマドンナは2億枚)No.1メタルバンドの地位を築いてきたけど、ここ最近はちと落ち目、そういう状況である。
                     そんな中、二代目ベースのジェイソンが脱退、新譜の制作に黄色信号が点る。残った3人のメンバーは、ジェイソンが「息が詰まる」と指摘したバンド内の閉塞感を打開すべく、凄腕のセラピスト(月400万円!とはいえ凄腕かどうかは映画を見てもよくわからなかった)と契約し、経緯や理由は明示されていないがこの映画を撮影させることにする。

                     早速、映画「プレシディオの男たち」(B級映画!)でも知られるプレシディオに即席スタジオを作り制作を開始。イイ感じに進んでいくと思われたのもつかの間、ボーカルのジェームズとドラムのラーズが喧嘩をし始める。ロックバンドにとってはお約束のような風景と思わせておいてジェームズはそのまま帰ってこない。どうやらバンド内対立は行くところまで行ってしまったようである。
                     レコーディングは延びるし撮影も延びる。当初は1桁単位で進んでいた「撮影○日目」のテロップも、加速度的に経過していき、ドラムのラーズが「このまま解散するのも覚悟している」と吐露するに至る。

                     注意するべきは、これらの事件は当時のバンドを振り返ってメンバーが語ったことではなく、今カメラの前で起こったことばかりなのだ。だから解散を覚悟したラーズも映画の監督も、この後メタリカがどういう道を辿るのかわかっていない。
                     その剥き出しの生の感情をカメラはしっかりと捉え、メンバーを丸裸にしていく。なのでメタリカの音楽に興味がない人間にも、人間ドラマとしての迫力がこれでもかと伝わってくる。
                     それは「巨大なものを手にした人間の苦悩」という縁遠い世界への興味であり、何かを生み出す難しさというある程度の人が再確認できる喜びであり、チームで何かを成す際の軋轢という大抵の人に当てはまる共感であったりする。

                     加えて大阪人が言うところの「よーできた話やなー」という展開が飽きさせない。
                     ヘタすると「メタリカ〜解散の真実」というタイトルになっていたかもしれない大ピンチだったが、メンバーはその苦境を少しずつ脱していくことに成功し、それに伴い、素人が聞いてもわかるくらい新曲もどんどん研ぎ澄まされていく。
                     そして新ベーシストの加入。ロックバンドだから3人ともキャラは勝手に立っているのだが(特に「エゴなんて捨て去りたいと思っている」と語るパイプ役のギター・カークの大人っぷりには誰もが拍手を送るだろう)、新ベーシスト・ロバートの馬鹿明るいキャラは一際映える。
                     まさしく救世主現る!という感じでバンドに新しい風を吹き込むのだ。ついでに、ほとんどダース・シディアスのごとき所属事務所社長の爺さんや、突っ込みどころ満載のラーズの親父、メタリカとの関係が深まるにつれサングラスをかけるなどチョイ悪ぶっていくセラピストのフィルなど脇役にも役者が揃って話を彩る。

                     こうして難産の新譜はようやく完成し、ラストのツアーのシーンは、大団円と呼ぶに相応しい貫禄のパフォーマンスを見せ付ける。よくできたドキュメントはスリリングなドラマであるが、それを地で行く内容だ。

                     ついでに言うと、もちろんロックファン、メタリカファンにも嬉しい場面が盛り沢山だ。なにせレコーディングの様子がフンダンに出てくるから、手元にあるであろう「St.Anger」がどのように作られたのか、そして収録曲やタイトルはどのように決まったのか、またロバートはどのように加入が決定したか、裏事情がとても興味深い。
                     バンドが長らく消化できなかった初代ベース・クリフの死を(多分)乗り越えた新ベーシストのオーディションシーンは涙物だ。オーディションを受けにきた名だたるベーシストの映像に、クリフのライブ映像が重なり、ラーズは言う。「面白いものだ。今ここにクリフが来ても、俺たちはあいつを取らないかもしれない」。 

                     と熱く語ったが、僕は実は別にメタリカファンではない。一応アルバムは数枚持っているが、それほど聞き込んでいないので、メロディを口ずさめる曲もほとんどない。それでも胸が熱くなるこの作品。カメラの力の成せる技か、メタリカというそもそもの存在感によるものか、二年間という月日の長さなのか。ここは全てを二時間余に封じ込めた監督の腕っ節に脱帽しよう。

                    「メタリカ・真実の瞬間 METALLICA-Some Kind Of Monster」(2004年アメリカ)
                    監督:ブルース・シノフスキー、ジョー・バリンジャー
                    出演:ジェームズ・ヘットフィールド、ラーズ・ウルリッヒ、カーク・ハメット

                    【補遺】
                    劇場で見た作品だが、DVDも買ってしまった。ドキュメンタリーだけに、附録の没映像が抱負で、実に本編より長く収録されていた。中には削るには惜しいかなり面白いシークエンスも多々あった。
                     というか、全体の撮影時間が1600時間を超えたらしいから、それを2時間に収めれば必然面白くなるというものか。面白い作品にしようと思えば取材が膨大に要る。ドキュメンタリーというのはつくづくコストがかかる映画だと思う。

                    【映画評】ニューヨークドール

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                       2004年、なんばHatchにやってきたロックバンド「ニューヨーク・ドールズ」は、オリジナルメンバー5人のうち、2人しかステージ上にいなかった。仲が悪いからでも何でもなく、残り3人は死んでしまっていたから来れるはずもなかったのだ。
                       本作は、その3人のうち、来日間際に逝去したベーシスト、アーサー“キラー”ケインの晩年を追ったドキュメントだ。

                       最近なぜか流行りのロックにまつわるドキュメントだが、50年に渡るロック史の中で、昔からしょっちゅう取上げられてきたテーマがパンクの時代(1970年代中期から80年代初頭)である。なぜかと言えば、当時音楽性においても商業性においても巨大化していたロックが、名も無くテクニックも無く金も無い若者たちによって「俺たちの手に取り戻そう」とばかりに破壊、再生されたという位置づけが、日本史でいえば幕末史のような痛快な青春群像期に当たるからだ。

                       このコーナーでも取上げた「エンド・オブ・センチュリー」のラモーンズや未だキッズに根強い人気のセックス・ピストルズが、このパンクの時代の主役だが、彼らの先駆けとして必ず紹介されるのが、このニューヨーク・ドールズである。

                       どのようにして結成されたのかはよく知らない。パンクものの映画や番組では、彗星のようにテレビに登場し、「衝撃を受けた」と語るピストルズらの証言の中でしか登場しないからだ。
                       とにかく彼らはド派手な「オカマかよ」というような髪型、メイク、服装で暴れ回るという、ロックバンドのステレオタイプの1つの嚆矢となったバンドだ。そしてエポックメイキングな存在にはありがちな話だが、当時は特に評価されることなくさっさと解散したという、マンガ「栄光なき天才たち」にうってつけの人身御供である。

                       キラーの異名を取ったアーサーだが、バンド解散後はものの見事な転落人生を歩み、救いを求めてモルモン教の信者になり、その施設で働いていることが冒頭明かされる。
                       バンドの説明も含め、このあたりの描き方は、客が既に知っていると想定してか、やたら早回しで説明不足だ。間違いなく知らない人にはあんまりわからない。演出もアリガチなビデオクリップを想像させて、ロックに詳しくない客はこの辺で嫌気がさすことも想定される。もっと親切に作ってもよかっただろう。

                       さて「地下鉄通いのロックンローラー」とはハウンドドッグの歌だが、バスで通勤するハゲ頭のアーサーは最早ロックンローラーですらない。職場の同僚のおばちゃんは彼がミュージシャンだったことをどこか信じてない節すらあるが、おどおどと諦観たっぷりに語る彼は確かに宗教家であってもロッカーではなさそうだ。「あの人は今」の取材対象になったとしても、あまりの変わりようにディレクターは没にするだろうと推量される。

                       そんな慎ましい日常に変化が訪れる。ロンドンのロックフェスの幹事(?)になったモリッシーから、再結成して演奏してくれというオファーが来るのだ。ちなみにモリッシーはかつてドールズのファンクラブを作ったという熱烈なファン(オタク)としても知られている。

                       ここからやや退屈だった映画も急展開する。まず質屋に行ってベースを取り返すアーサー。実は自分のベースを質屋に入れて生活のたしにしていたのだが、質流れしないように利息だけは払い続けていたのだ。
                       既にちょっと目頭が潤んでくる逸話だが、アーサーはベースを抱えてニューヨークのスタジオへ行く。
                       アリガチな話で、ボーカルのデビッド・ヨハンセンだけは現在も芸の道で安定収入を得ていて、それがアーサーには妬ましかったのであるが、リハーサルに遅刻してきたデビッド(ボーカルはやっぱり遅刻するのか)を、憎しみと愛情と恐れとが入り混じったような複雑な目で遠目に見るアーサーの表情をカメラは見事捕らえる。
                       「メタリカ」同様、この作品が単なる趣味のロック回顧モノではなくなる瞬間だ。ドキュメントの醍醐味の1つは、誰もが共感するような人間の表情を捉えることにあるのだと感じさせられる。

                       しかし再結成バンドというのはもろ手を上げて歓迎されることはない。金もうけ狙いが見え見え、ノスタルジーがロックぽくない、老いた姿を見たくない、などなどが理由だ。
                       それでも客は押し寄せる。特に当時を知らない世代にとってはどんなに残念であろうが生の姿を見たいものだからだ。ドールズの場合、あまりに短命な上、当時はほとんど理解されなかったこともあり、そういう層は圧倒的に多かったのではないだろうか。

                       時代はとっくに追いついていた。しかし彼らが追いついた時代に応えるには、30年の時を要したのだから、人の縁は難しいというか、やっぱり呪われたバンドだったというか。そして再びスポットと喝采を浴びるという夢を実現したアーサーは、謙虚に神に感謝しながら、ライブから時を経ずして最早この世に未練なしとばかりに病で急死してしまう。
                       果たして彼は敬虔な信者として逝ったのか、あるいはロッカーとして旅立ったのかなどと感傷的なことをつい考えてしまうほど、後半部分は“よくできた”ドラマだった。監督は、デビッドがダミ声で歌うキリスト教の歌(?。よく知らなくてごめんなさい)をエンディングに選んだ。私個人としては、「人格の危機」のような馬鹿ロックを選んで欲しかったのだが、それはパンクのステレオタイプにもたれすぎだろうか。

                       間もなくアーサーの後任に、ドールズの子供でもあるハノイロックスの元ベーシストを迎え、32年ぶり(笑)の新譜が出る。

                      【補遺】
                      ニューヨークドールズの新譜は、なかなか馬鹿にできない出来栄えだった。


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