【やっつけ映画評】みかんの丘

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     ツタヤの棚を物色していると、若い二人連れの男の方が「この映画おもろいで、最高やで、お前絶対好きやで、めっちゃ泣けるで」とさかしらに傍らの女子に薦めながら、「ライフ・イズ・ビューティフル」を手に取っていた。二人ともチンピラ風味の風体だったので、つい「意味わかって泣いてんのかな」と偏見を抱え込んでしまった。実際には彼の台詞は「、」のところでもう少し間があった。言葉をあれこれ重ねていた様子から察するに、男は彼女に自分のお気に入りに興味を持って欲しくて、あれこれアピールした結果、「泣ける」というカテゴライズに到達したのだろう。「泣ける」に分類された途端、価値が暴落した気がするのは価値観の話だから置いておくとして、この映画が「泣ける」のは、最後に戦争の終わりがあって、大事な人が死ぬ悲しみはあれど、後味爽やかな未来を感じられるからだろう。英語がこれほど希望に満ちた言語に聞こえる映画は、今のところ他に経験がない。


     本作は、戦争をテーマにしつつひたすら地味な作品だが、ラストあたりで落涙した。「泣ける」というのとはちょっと違う。何だろうと考えて、「悔しい」が一番近いと思った。

     

     タイトルを一続きで読むと「みかん農家」に聞こえる。ジャケットも主人公イヴォがみかんを収穫している様子の写真だが、実際には農家ではなく、みかんを入れる木箱を作る人だった。みかんは隣で暮らすマルゴスが栽培している。ちょっとややこしい。
     舞台はコーカサス(カフカス)地方だ。といっても馴染みがない。トルコの北、黒海とカスピ海に挟まれた地域で、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアなどの旧ソ連各国がある。何かと争いが絶えないきな臭いエリアでもある。ラグビーの人気上昇で、強国のジョージアは知名度が上がってきている。以前はグルジアといったが、ロシアと仲が悪いので、向こうさんの要請で、ロシア語読みのグルジアから英語読みのジョージアに変わった。ウィキペディアによると戦前はジョルジアと言ったそうである。名前の読みがコロコロ変わるのは大国に翻弄されている証ともいえる。2008年には、南オセチアを巡ってロシアと戦争になったので、日本のニュースでもしばしば取り上げられていたが、詳細を理解している人は少ないと思う。俺も仕事の要請で新聞記事とかテレビとかで多少学習したが、あんまりよくわかっていない。どうしてもロシアが相手だと、アメリカ属国民としてはジョージアに同情してしまうが、ことはそう単純でもない、というのが本作を見ると伝わってくる。

     

     舞台はジョージアの西にあるアブハジアだ。ジョージアからの独立を宣言しているが国際的には一部の国にしか承認されていない。すぐ西にはソチがある。ジョージアを挟んで東側には、一時期さんざんニュースに出ていたチェチェン共和国がある。こちらはロシアに属しているので独立国ではない。この辺りは、色々な民族がいるということであるが、結果きな臭くなっている。

     

     本作は、このアブハジアにおける紛争がモチーフになっている。木箱を作る爺さんのイヴォと、みかんを作るマルゴス、ジョージアの兵士ニカ、チェチェンの傭兵アハメドが主要登場人物だ。イヴォとマルゴスはエストニア人で、多くがこの地域に移住してきたという歴史の説明が作品冒頭になされている。ただし、それ以外の説明はちっともないので、とにかく民族が入り乱れたややこしげな戦争が起こっているという状況だけが伝わってくる。

     

     ニカを含むジョージアの兵士とアハメドたちアブハジア側の兵士が戦闘になり、この2人だけが生き残る。大けがをしているので、イヴォは2人を自宅に担ぎ込んで養生させるが、その結果、敵同士が1つ屋根の下にいることになる。

     

     まるで「ノーマンズランド」や「JSA」のような設定だが、多少の罵り合いはあるものの、2人とも「この家では殺させない」というイヴォの指導を忠実に守るので、大事には至らない。戯画化されたような設定ながら、あまり抑揚のない地味な展開だ。
     戦争中な上、敵同士が同居することになるため、空気は始終殺伐としている。そのため、登場人物が笑うシーンは妙に印象的だ。本作では笑うシーンが3回ある。そのうち2回は、笑った直後に爆発なり何なりで緊張が走る。ああこれが戦争なんだなあと痛感させられる。常に殺伐としている上、ちょっとでも幸せがあるとすぐに打ち砕かれる。そうして、誰が何のために、あるいは誰一人として得をしないまま、まったく不条理に登場人物たちは命を落とす。ようやく、ちょっとだけ、笑うことができたというのにだ。

     

     ここには、いよいよ滅びる悪もなければ、終焉を告げる善玉もいない。祖国を守るという大義すら、民族と歴史が入り乱れて成立しない。最後に襲来する「敵」も、実際のところは敵かどうかよくわからない。終わりすらも見えない泥沼だ。こういう状況が、何だかとても悔しくて、涙があふれてきたのだった。

     

     なので、最後の「違いなんてあるのか?」「違いはない」(=民族の違いに意味なんてあるのか、ないよ、の意)というやり取りで示されるシンプルな真理の再確認が、やたらと重い説得力をもって胸に迫った。その後に交わされる3度目の笑いだけが、本作の中での唯一のささやかな希望だった。達観しても、諦観が混じっても、あきらめるわけにはいかないのだと教えてくれているような。

     

    「MANDARIINID」2013年エストニア=ジョージア
    監督:ザザ・ウルシャゼ
    出演:レムビト・ウルフサク、エルモ・ニュカネン、ギオルギ・ナカシゼ


    【やっつけ映画評】奇蹟がくれた数式

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       商業施設等に設けられた喫煙所では、行き場を無くした煙草のCMが液晶モニターで流されていることがある。先日は「アイデアが降ってくるなんて嘘だ」というコピーが印象的な動画を立て続けにあちこちで見た。デザイナーだったか、正確には覚えていないが、とにかくその手のアイデア勝負とみなされていそうな職業の兄ちゃんが、行き詰って頭を掻きむしりながら悶絶し「考えて考えて、それでも駄目なら空を見る(かつ一本吸う)」という内容。「アイデアが降ってくる」という慣用句は素人考えで、実際には不細工にのたうち回って考え抜いた先に出てくるものだと、いかにも現場が知っているホントの話っぽいコピーである。


       「考えて考えて」はその通りだと思うが、でもアイデアは降ってくるものだと俺自身は思う。「湧いてくる」ないしは「飛んでくる」かもしれないが、とにかく、外からもたらされるものだ。そして、かのCMは、アイデアは自分自身でひねり出すものだということを前提としている点で、ちょっと引っかかる。いいアイデアは独力で生み出されるものではない、という話は前にも書いた。オカルトめいているが、個人を超えた何ものかがもたらしていると思う。そういう立場からすると、このCMのコピーは、不細工な自分をさらけ出した謙虚な内容にみえて、実のところは傲慢で独善的といえる。


       本作は、このひらめきが題材となっている。
       インドの天才数学者を描いた実話だ。主人公の、まさに「天才」という姿が面白かった。


       ラマヌジャンは、イギリス植民地下のインドで、独学で数学を学び、その知識でどうにか職を得ようとあちこちでたらいまわしにされている。その後、手紙を受け取ったケンブリッジ大学の数学者ハーディに認められ、渡英するのだが、天然の彼には「証明」という概念が存在しなかった。

       

       批判に必要なのは対案ではなく根拠だが、数学には証明が必要だ。直角三角形の底辺と高さの各2乗の合計が、斜辺の2乗の合計と一致するという公式は、3と4と5を当てはめれば、ホラ成立するでしょ、では足りない。無限にあるどんな直角三角形でも成立することを計算式で表さなければ正当とは認められない。

       

       こんなことは日本だと中学、高校の算数で、そういうものだと教えられて問題を山ほど解かされるので、証明の必要性には何の疑問も持たない。算数の嫌いな生徒なら「何でこんなことしないといけないんだ」と反発するだろうが、この場合は勉強の存在そのものを否定しているので別の話になる。ラマヌジャンの場合は、独学で身につけた分「答え」はすぐにひらめくのに、そこに至る道筋を精緻に組み立てることができない(もしくは価値を感じていない)。名選手が指導者になれないパターンを思い出す。天才的な感覚で難しい技術を実現できているので、いざ後進に説明しようとしても、言語化することができない。

       

       ハーディは、ラマヌジャンに証明の必要性を説く。証明なしで公式だけを発表しても誰も本当だとは信じてくれないからだ。しかしラマヌジャンは、どんどんひらめくものだから、自説の証明を後回しにして「また見つけました!」と無邪気にはしゃぎ、ハーディを苛立たせる。
       証明の必要性に目がいかず、それどころか「先生は私のいうことを信じないのか」と痴話喧嘩のようにムキになるラマヌジャンは、まるで素人で、この点だけとれば、高校数学止まりの俺以下ともいえる。


       でもここでちょっと考えた。なぜ彼は証明をなかなか受け入れないのだろうか。
       象徴的な台詞がある。特に学のなさそうな妻から、数学とは何かを問われ、ラマヌジャンは見えない色で書いた絵のようなものだという。彼にとって数学は芸術のようなものだということなのだろう。
       芸術に証明は要らない。むしろ作者当人が説明するのは野暮という世界でもある。絵に限らず、優れた作品は理屈抜きで人をとらえる。中にはミロのように何がいいのか理解が難しいものもあるが、その場合は評論家が説明する。

       

       ラマヌジャンに証明を求める態度は、彼にとっては「この絵の何がいいのかお前の言葉で説明しろ」と言われているに等しいということなのだろうか。だとすれば、なかなかの屈辱である。公式が正しいことは、彼自身が知っている。なぜなら公式を思いついたのは彼自身ではなく、ナマギリ神というヒンドゥー教の神様だからで、ラマヌジャンはこの神から教えてもらっているだけだと自分では思っている。ほらやっぱりアイデアは外から来るもんじゃないか。

       

       ラマヌジャンの生み出した公式は、彼の死後、ずいぶん後になって後進の手よって証明されたとラストで説明がなされている。まるで生きている間は周囲からちっとも理解されなかったゴッホのようである。だったら逆に、芸術家が自分の芸術を自分で「証明」してもいいのではないかという気がするが、どうにも成立する気がしない。その点、不利なのか有利なのか。

       

       ラストでは重ねて、彼の生み出した公式が、現在ブラックホールの研究に役立っているとも述べられているが、ブラックホール研究でもインド人が大きくかかわっている。本作の舞台からおよそ10年後、チャンドラセカールという優秀なインド人がブラックホール理論を提唱するが、指導教官であるエディトンに頭ごなしに否定された。アインシュタインの相対性理論が正しいことを観測で証明した偉大な科学者だったが、若手の教育には全く不向きな人だったようである。そこへいくとハーディの偉大さは図抜けて見えて、とにかくすごい先生だったんだなあと思うことしきりであった。

       

      「THE MAN WHO KNEW INFINITY」2016年イギリス
      監督:マット・ブラウン
      出演:デーヴ・パテル、ジェレミー・アイアンズ、デヴィカ・ビセ


      【やっつけ映画評】あまくない砂糖の話

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         妻の影響で健康志向の生活をする男が、2か月間、砂糖を採り続けるという「スーパーサイズ・ミー」と似たような人体実験を自らに課すドキュメンタリーだ。「スーパーサイズ・ミー」はファストフードを食い続ける内容だが、あれらの商品にも砂糖がたくさん使われているので、実験結果はまあまあカブっていた。
         大学生のころ、6畳クーラーなしの暑い下宿で涼を取るため、30数円の輸入物のコーラを毎日のように飲んでいたら、中毒のようになってゾっとしたことがある。コーラの上、輸入物だから、あやしげな何かの成分のせいだろうと思ったのだが、何のことはない、犯人は砂糖だった。そんな昔話を思い出しながら見たが、本作の実験がユニークなのは、その方法である。

         一旦私事になるが、今春、某大学の授業でも、学生諸君に実験をしてもらった。無論、健康を害する人体実験ではない。ある大枠のテーマに基づいて、こちらからいくつか大まかな案を示し、あとは各自で自由に考えてもらった。来期も同じことをするかもしれないので、一例だけぼやかして挙げると「ネットの情報は嘘だらけで本の方が正確で信頼できる」というのは本当かどうか、実際に自分で何かを比較して検証する。
         こういう場合に重要かつ難題なのは、実験の方法をどうするかだ。ネット上のある特定の記事と、類似テーマの特定の本を比べて、どちらの内容がいいとか悪いとかだけ比べても、ただの記事評、書評にしかならない。かといって、ありとあらゆる全部の記事、全部の本を比較するのは壮大過ぎて手に負えない。さらには、内容の正確さをどのように測定するのかも考えなければ、ただ比べた感想だけ述べてもアンケートにとどまってしまう。
         いずれも難しいので、ユニークな手法を考え出せた人は若干名にとどまり、大半の学生はユーチューバーの「〇〇をやってみた」レベル(ないしはそれ以下)で終わっていた。俺の兄は、中学のころの自由研究で様々な繊維を燃やして「くさい」「かなりくさい」「普通」と感想を書いた表を作って提出して、理科の先生から「やり直し」と命じられていたが、まあそんな感じの内容だった。その後、改心したのか妙に面白そうな全然別の実験をやって、何かの表彰を受けたが、先日親父から「あれは半分以上ウラがやった」と衝撃の事実を聞かされたものだった。夜中に何度も起きて観測しないといけなかったので、子供には無理だったのだ。
         その点、本作は、実験をやるとはどういうことかを考える初歩のテキストとして参考になるといえる(ちょいちょい演出過剰なところは鼻についたが。難解な話の説明などにコミカルなアニメを使う等の手法は近年のドキュメンタリーでよく見られるが、本作の場合はそのポップさを見せびらかし過ぎ)。単に砂糖を大量摂取して調べるわけではない。従来悪役にされてきた脂肪や高カロリーとの比較のため、実験に様々な条件をつける。平均摂取量の「1日スプーン40杯」分を、低カロリー等、健康志向を謳った食品や濃縮還元ジュース、スムージーなどから主に採る。炭酸飲料やチョコバーは避ける。チョコレートのスナック菓子をむしゃむしゃ食べて体がおかしくなっても原因が霞むからだ。ついでに、今までやっていた運動もそのまま続ける。そうして体の変化を専門家に計測してもらう。結果、摂取カロリーがこれまでの生活と同等かそれ以下にとどまっているのに、みるみる太り、体調もスッキリしなくなる。
         手が込んでいるが、いざ実験をやるとなればこうなるよなあ、とユーチューバー止まりの学生をたくさん見た後だったので、感心しながら見た。実際、体の不調が顕著になったのち、砂糖業界の御用学者的な研究者に取材にいくと「何の成分であれ採りすぎは体によくない」と見事に話を逸らせていたのだが、実験方法に照らすと彼の主張は的外れとなる。
         ただ、当人の実験よりも、アメリカの現状を取材した場面の方が面白かった。例えば「ウインターズ・ボーン」的な貧困地域で暮らす青年は、歯がボロボロで、原因は炭酸飲料(マウンテンデュー)の飲みすぎ。俺が子供のころ、炭酸飲料は歯を溶かすとかいって、コーラか何かに漬けた歯が、ナイフでスライスできるくらい柔らかくなる実験をテレビで見た記憶がある。パオロ・マッツァリーノ「昔はよかった病」によると「すべて極端な実験による恣意的なもの」だったようだ。ところが、その極端で恣意的な行為が日常になっている人間がいるとは。この青年は、1日10本以上飲むらしいが、これくらい飲むと歯を漬け込んでいるのと似た状況になると作中登場する歯科医が指摘している。
         この青年がこうなったのは、親の無知のせいだろうし、もっとさかのぼれば貧困のせいでもあるだろう。やはり巨大食品会社には、啓発の責任があるようにも思うが、食い物の話はあやしげな説がすぐに現れては消えるのでややこしい。数年前の授業でも、「〇〇が危険!」の類のネット情報をまんまと鵜呑みにしてレポートを書いてきた学生が少なからずいたものだった。まあとりあえずは、それぞれ偏らずほどほどに摂取するというので8割方正解とするしかない。
         それでも最近、腹が出てきたこともあり、本作に倣い試しに甘いものは買わないことを試してみることにした。よくよく振り返ると、ついついナイススティックや塩豆大福を買ってしまうことが最近目立っていたような気もするからだ。甘い物がことさら好きという自覚はなかったが、やってみると軽い禁断症状のようなものが出てくる。本作によれば、砂糖は気分や思考力の低下を招くらしいが、今のところ甘いものを控えて頭が冴えてくる実感はない。残念。
        「THAT SUGAR FILM」2015年オーストラリア
        監督:デイモン・ガモー

        【やっつけ映画評】AMYエイミー

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           早世した歌手エイミー・ワインハウスのドキュメンタリーだが、ミュージシャンのドキュメンタリーは大抵、関係者のインタビューと当時のライブ映像やテレビ番組等で構成されるところ、売れる前からも含めた大量のプライベート映像で構成されていた。2000年代に活躍した人だから、普通に大量の映像が残っているということか。スマホで動画を撮るのが日常になっている昨今、こういう構成のドキュメンタリーは今後も出てきそうだが、画面が縦になっている映像ばかりになりそう。
           逆にインタビュー映像はほとんどなく、当時の映像に重ねて関係者の回想がナレーション的に重ねられる。この手法は前に見たと思ったら、同じ監督の作品だった。今回はアイルトン・セナのときとは違って、死去したのがそう昔でもない上、個人的には歌声と外見(と海外お騒がせセレブとして情報番組で紹介されていたこと)くらいしか知らなかったので、単純に「へえ〜」と思いながら見た。そして、結末は死が待っているとわかっている点は、セナのとき同様だった。
           端的にいって辛い内容だった。太く低い声を響かせる野性味あふれるたぐいまれなる才能が、短命という時点で「破滅型」というレッテルが思い浮かぶが、表層的には大体そんな感じだった。両親の不和のせいで、やたらと愛情を求める性向、運命の相手と感じる恋人がチンピラのろくでなしなところ、大量の酒と薬物等々。ただし「表層的」と書いたのは、心底では、これは労災だと思って見たからだ。

           ミュージシャンの早世とレコード会社の責任について論じる文章を初めて読んだのは、ブラインド・メロンのときだったと記憶している。ボーカルが自殺したバンドだが、その1年前にカート・コバーンが自殺しているので、相次ぐロックスターの早死にを、個人の問題ではなく社会問題としてとらえようとした内容の記事だった。あまり覚えていないが、カート・コバーンの場合、年間300ステージくらいやっていたとの記載があったから、過労自殺だったのだろう。
           エイミーの場合は、本作によると、薬と酒と拒食症で、医者から相当危険な状態だと警告されている中、ある日突然死んでいたという状況だった。どうしてそうなったかというのは、本作で2時間かけて説明しているが、単純にまとめれば注目されることからくるストレスないしはプレッシャーだ。ついでに父親が何かとダメなやつで、娘の健康より仕事を優先させる。顔がうっすら百田尚樹に似ていることも手伝って無性に腹立たしく見たが、当人にも言い分はあろうから、本作だけで断罪するのはやめておく。顔の話は言いがかりだが、眉毛の形が似ている。
           才能のある人間が精神的に不安定というのは皮膚感覚では多い印象があるが、実際に相関関係があるのかどうかはさて置き、別に健康優良児だとしても、注目されて過度にストレスをため込むことはいくらでもあろう。特に彼女の場合は、大勢の前で歌いたいわけではなく、歌を作りたかったというのが動機だから、「見られる商売を自分で選んでいる」という指摘は酷だ。
           だったらレコード会社は、もっとすべきことがあったんじゃないのかと思えて仕方がないのだが、セナのときと同様、インタビューは声のみだから、しばしば登場するレコード会社のCEOが、どんな顔をして過去を振り返っているのかがよくわからない。別に誰が悪いのかを探り出す趣旨の作品ではないとはいえ、「偉大な才能の早すぎる死」という、ある意味犲まりのいい疉舛方だけをしても、これじゃあ死を消費するだけで終わりはしないかね。
          「AMY」2015年イギリス、アメリカ
          監督:アシフ・カパディア

          【やっつけ映画評】手紙は憶えている

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             「ラスト5分の衝撃」という煽り文句がついていた。こういうのは大抵後味が悪い。バッドエンドだということもあるし、このラストのどんでん返しのためだけに2時間付き合わされたのかという虚しさもある。
             それでもアウシュビッツサバイバーである老人が、ナチの生き残りを見つけ出して殺そうとするという筋書きに惹かれて見ることにした。で、後味は悪かった。ただし前者のみの「悪さ」で、後者の虚脱は感じなかった。この仕掛けは、ちょっと無理があると思うから、ミステリとしてはB級なのかもしれないが、題材が題材だけに考えさせられる部分はいくつかあった。

             

             先にあらすじを述べておく。妻を亡くしアメリカの老人ホームで暮らすゼヴは認知症で、1日たつと記憶を失う。そのゼヴに、ホームの友人であるマックスが密命を与える。自分たちがいたアウシュビッツで、管理業務に従事していたナチの生き残り(=家族を殺した実行犯である仇)が、名を偽りアメリカで暮らしていることがわかった。その偽名ルディ・コランダーに該当する人物は4人に絞られているので、4人に面会した上で、当人だと確かめられたら殺害する。ゼヴは認知症であるため、計画のすべてをマックスが手紙にしたため、それを懐にしまってゼヴは復讐の旅に出る。

             

             記憶がなくなることと足腰が覚束ないことを除けば、ゼヴは思慮深く、見てくれが偉丈夫なことも手伝ってか周囲も親切で、旅は比較的順調に進む。要所要所で小さなトラブルに見舞われるものの、あまり尾を引くことなく解決するので、どちらかというと淡々と安心して見ていられる。そうして1人また1人と面会していくのだが、人違いである別のルディ・コランダーたち(各自なにがしかの形でナチスドイツとのかかわりがある)にもそれぞれの人生が簡潔ながらも印象的に描かれている。とにかく話の都合上、爺さんばかり出てくるのだが、全員演技が見事だ。

             

             印象的だったのは、外れのルディの1人の息子だ。父の影響でナチ信者になっている。ゼヴが「父の旧友」だと勘違いするや、徐々にナチへの称賛を重ねだし、目の前の爺さんがナチ嫌いという可能性は微塵も考えないその能天気な振舞いが、日本の右翼しぐさの人々と重なって見えた。実のところナチを称賛する彼の父親も、SSや突撃隊といったいわば当事者ではなく、軍の料理人という周辺者だったというのも妙にリアルだった。

             

             さて以下からは、衝撃のラストというのに触れて行く。

             

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