【巻ギュー充棟】東欧革命1989:ソ連帝国の崩壊

0

     かなり以前に書店で見かけて何となく気になっていた本をようやく読んだ。春先、コロナの自宅待機の中、読書するぞ!と思っていたが叶わず、ようやく色々ほっぽり出してかなりの大部を読了した。1/4過ぎたくらいでゴルバチョフが登場してからは一気に読んだ印象。それでも終盤でチャウシェスクが処刑されるくだりで、あれ?あの有名な裁判のシーンはないのか?と思ってしまった。改めて見返すと、序章に書いてあったのをすっかり忘れていたのだった。長い上に登場人物がめちゃくちゃ多くて濃いので、すぐに色々と忘れてしまう。


     とりあえず、ロックの正史においては壁を壊した貢献者ということになっているデビッド・ボウイもブルース・スプリングスティーンも一文字たりとも登場しない。代わりに当時のチェコスロバキアのバンドで政治犯になってしまうThe Plastic People of Universというのが登場する。YouTubeに上がっていたので聞いた。東欧的な雰囲気+共産主義時代の陰鬱な調子で、面白くはあるが、長く聞いていたいとは思えない。本書では「音楽的に優れたバンドではない」「とても革新的とはいえない」と容赦がなさ過ぎる。


     翻訳ものではしばしば見かけるから言語的特徴なだけかもしれないが、この酷評のように、本書は基本的に断定調で文章を綴っており、それが心地いい。新聞記事ではしばしば「らしい」「という」「とみられる」と断定を避ける。100%確定できないことを言い切るのは不正確になるからだ。俺もかつてそういう訓練をつまされたのでこのブログでもしばしばそういう表現を選んでいるし、文章におけるイロハのイなところはあるから、新聞に限らずジャンルによっては書籍でもしばしばそういう書き方をする。

     

     一方本書はほとんどが断定形。お前見たんかっていうくらい断定形である。めちゃくちゃ取材しているから出来る芸当だ。読んでいて心地いいのはその取材量に支えられた確かさを体感できるせいだ。まあ仮にめちゃくちゃ取材したとしてもバンドについて「優れていない」と断定的に書く勇気は俺にはないが。


     公文書+関係者のインタビュー、その他当時の記事等々で判明している事実を、時系列通り、飾り気のない調子でずーっと綴っているだけのはずなのだが、ぐいぐいと引き込まれた。無論、文章や構成のうまさがまずあるのだが、冒頭「本書はハッピーエンドの物語である」と始まっているように、共産圏の抑圧的かつアホらしい体制が、最後は崩壊することを知っているというのが大きい。吐き気や寒気しか覚えないような統治者たちが破局に向かっていく様子に続きが気になって仕方がない。最後に待ち構えるであろう大団円が、この大部の大きな牽引力である。

     

     1980年代末、俺は中学生だったから、リアルタイムでのニュース映像の記憶はある。本書の序盤でブレジネフ死後、アンドロポフ、チェルネンコと、ボスになった途端病死が続いたドタバタが描かれているが、この辺からよく覚えている。確かブレジネフは、死から発表までにタイムラグがあって(wikiによると3日)、その間ソ連の様子が何かおかしいから死んだんじゃねえかという憶測が流れたんじゃなかったっけか。事後に「実はそういう状態だった」と報道されたんだっけ? とにかく父親が「武田信玄に比べるとずいぶん短いな」と軽口をたたいていたのはよく覚えている(おそらく当時、日本の500万人くらいが同じ感想を言ってただろうな)。その後の革命状況については、もちろん大して理解していなかったものの、「何か凄いことになってるなあ」くらいは感じたものだ。その一方で、そこまで不思議な現象には感じていなかった。


     というのも当時の「政治」なり「支配」なりに対する俺の理解が、実に単純だったからである。俺は歴史好きだったので、マンガ日本の歴史だの世界の歴史だのをよく読んでいたのだけど、例えば中国史の場合、強大な権力を持っていたはずの董卓や煬帝が、家臣が裏切ってあっさり殺されハイ終了という事例がある。なのでそれと重ねて「いくらでもあること」と見ていたわけだ。

     

     ところが大人になって社会の仕組みが見えてくるにつれ、ことはそう単純ではないと感じ始める。大体煬帝だって、暗殺自体は唐突な一瞬のこととはいえ、そこに至るまでの諸々が積み重なった結果であり、子供向けに単純化された読み物で単純に理解していただけだ。ワイダ監督の「カティンの森」「残像」で描かれる恐ろしい体制を見ると、これがひっくり返るとは全く想像がつかない。

     それも戦争で外国に負けたわけではなく、市民運動で倒れていったのある。はてどういう事情なのか。こんなことが今更気になった理由は、そもそもの歴史好きに加えて、今の日本社会が当時の東欧のようになっているのではないかと、問題意識として身近になってしまったからだ。

     

     


    【やっつけ映画評】リチャード・ジュエル

    0

       「朝、遅刻しそうだとパンを加えながら慌てて駆けている女子学生が角で男子とぶつかって、というマンガでよくあるやつみたいな」などと若いのが言うのをつい先日目にした。今時の若い衆にもこの「あるある」は生きているんだなと何か発見をしたような気がしつつ、さてそもそも出典は何なのかが気になった。


       wikiの説明では、明確な出どころは確認されいないらしい。「運動会で順位をつけないために手をつないで横並びでゴールテープ」と同じく、都市伝説、要はデマの類ということだ。

       初出として確認されているのは「サルでも描けるまんが教室」で、この作品内ではすでに「あるある」として紹介されている。俺もリアルタイムで読んだ。兄が愛読していて「これ笑える」と見せてきたのだが、不思議なもので、その時点で俺も兄も既視感を覚えながらゲラゲラ笑ったのだった。本当は見たことがないのに、「あるある」と思って笑ったのはどういうメカニズムなのだろう。


       本作で登場する女性記者(実在の人物)が、色仕掛けで捜査官から情報を引き出すシーンは「ステレオタイプを助長する」と非難されている。このステレオタイプは俺も見聞きしたことがある。例えば「レディ・ジョーカー」では、週刊誌記者が「うちの爆弾娘が肉弾戦で凄いネタを取ってきた」などと語る台詞がある。

       これが本作と異なり妙にリアルなのは、男性の週刊誌記者が男性の新聞記者にそう話している(実際のその場面は描かれていない)という点だ。しばしば男性同士が「あいつはそうらしい」と語る。数年前にも知人がそう言うのを聞いて、いまだにソレは生きているのかとちょっと驚くと同時に、知人の生々しいミソジニー側面を知ってしまいたじろいでしまった。

       「体を使ってネタを取る」記者は過去に本当に存在したのだろうか。情報源のおっさんの側がそれを期待して「浮気しよう/縛っていい?」と迫るケースは財務省で1件、実在が確認されている。あと男性記者が賭け麻雀で情報源と犂愀賢瓩鮖って、結局何も記事に書いてない例が1件ある。


       この場合は、デキる女性に対する男性の嫉妬から発せられている&男性側に「女はそうに違いない」という蔑視が手伝う、というメカニズムは想像がつく分「パンの女子」よりは謎めいていないのであるが、本作の主人公リチャード・ジュエルについても、働いているメカニズムは似たようなところがある。


       「アイ,トーニャ」では虚言壁のバカ、「ブラック・クランズマン」では底辺白人至上主義者を演じた俳優が演じている。どちらも大変にそれっぽいというこちらの色眼鏡にかなった風貌の役者であり、本作ではずっと知性はあるものの、何だか危なかったしいところは共通の役どころを演じている。

       FBIが彼を重要参考人としてピックアップしていくプロファイリングという手法は、正味のところ「なんかアヤシイ」というだけの素人かよという捜査に過ぎないのだが、確かに「なんかアヤシイ」説得力はある。残酷なキャスティングである。いかにも友達がいなさそうで、承認欲求は強そうで、自作自演の爆弾事件で英雄になりたそうな外見、という色眼鏡である。

       90年代が舞台だが、今だとさしずめネトウヨを気取って民族差別デマを振りまいてそうな外見、という色眼鏡になる。これも、やたら太っちょのそういうヤツを見たり会ったりしたことがあるわけでもないのに、いかにもソレっぽいと思ってしまうのはなぜなのだろう(例えば「主戦場」の登場人物にこういう外見のは1人もいない)。

       

       決定的な証拠がないので、FBIも逮捕状を取れず、違法な捜査で外堀を埋めていこうとする。その1つとしてFBIが地元紙にリークしメディアスクラムが起きる。これだからマスゴミは、と非難するのは容易いのだが、そういう人は同時にリチャード・ジュエルの無実を信じることもしないんじゃないかしら。おかしなもんだ。単に見えている物事に対して反射的に嫌悪感を抱いているだけだからそうなるんだろうな。

       

       本作が、他の冤罪モノと異なる点の1つは、当人が捜査機関に対して非常に従順である点で、この部分は特に日本社会においては啓発ビデオ的な部分になるのではと思う。

       本邦社会は警察が好きだ。刑事ドラマでは悪徳上司が出てくるのが定番で、不祥事のニュースを見ると「また大阪府警か」と訳知り顔で呆れる割には、治安向上のため警察権力を強化する、なんてな話にはあんまり反対しないし、警察官が路上で男を押さえつけていたら、その男が悪人に違いないと疑いもしない。リチャードの場合は、警察官志望で夢かなわず警備員をやっているという人なので、その思いは余計に強い。

       

       仕事柄、警察官を志す若い衆をちょこちょこ相手にするのだが、悪を懲らしめるヒーローになりたい、といったリチャードのような素朴な憧憬を抱いているのも少なくない。そしてそういう学生はしばしば、シュタージか西部警察かっていうくらい憲法全無視の主張を無邪気にしてくるものだ。多分、リチャードが警官になれなかったのはそのせいだ。事件を通じてその考えが間違っていたことに悟った後の彼の足跡を見るとよくわかる。その点でも、刑事分野での人権を学ぶいい教科書みたいな作品だった。


       FBI側がろくに証拠もないまま立件しようとしている大変に筋悪な事件につき、法廷モノにありがちな敏腕弁護士の機知による大逆転とかの派手な展開は何もない。その地味な話を例によってソツなく重厚なドラマにしてくるタフガイジジイの演出力は、毎度のこととはいえどういうテクニックなのかしらと舌を巻く。

       あやしげな捜査を補うように報道にリークして既成事実化を狙う辺り、松本サリンの河野氏とリチャードは重なるのだけど、あちらをテーマにした「日本の黒い夏―冤罪」は、なんだか甘っちょろい作品だった。記者にフォーカスしたせいかもな、と、本作ではあくまでサブ的要素となっている地元紙とやり合うシーンを見て思った。


      「RICHARD JEWELL」2019年アメリカ
      監督:クリント・イーストウッド
      出演:ポール・ウォルター・ハウザー、サム・ロックウェル、キャシー・ベイツ


      【やっつけ映画評】ドゥ・ザ・ライト・シング

      0

         スパイク・リーの代名詞的な30年ほど前の作品(そして未見)につき、こちらも今見るべきだろうと考えたのが、結構困惑させられる作品だった。警察官が黒人青年を過剰に制圧して窒息死させるとか、「俺は将来この街にビルを建てて不動産オーナーになる」と夢を語る人物が「トランプかよ」と茶化される台詞があるとか、期待通り(後者は予想外だが)妙にタイムリーな部分はあるのだけど。


         大きめの小屋で大人数でやる演劇のような作品だという印象を受けた。といっても大方の人には意味がわからないだろうから説明しよう(前にも書いたかもしれんけど)。
         大きめといっても世間基準では中小のホールだが、俺たちゃ自らを「小劇場」と称しているので、このクラスでも結構な大箱になる。当然使用料金もそれなり嵩むので、客を集めないといけない。その一番手っ取り早い方法が出演者を増やす=知り合いがようけ来てくれる、である。ただし問題は、20人かそこらの役者をどうやって全員出すのかである。20人にそれぞれ役を振ったとしても、歌う、踊る、集団でガヤガヤする、最高裁判所の話をやる、でもない限り、1つの場面にそんなにたくさんの役者を出すのはかなり難しい(酒の席なんかで「通行人Aでいいから出して欲しいわ」と冗談で言ってくる人がいるが、演劇の場合「通行人A」なんていないんだよ)。


         なので、1〜4人程度のグループが右から現れ、いくつか台詞を喋って左に来ていく、といった具合に、舞台上にいる役者を次々と入れ替えていく手法を取る。「麒麟がくる」を借りて説明すると、十兵衛と左馬之助が会話をして「よし尾張に行こう」とソデに消えると、信長と帰蝶が出てきて会話して消える。入れ替わりで東庵と駒が現れ会話してるところに菊丸と藤吉郎が現れて、駒と3人でわちゃわちゃする。たまに朝倉義景が笑いを取る。といったことの繰り返しで展開させる。
         うっかり大河なんか例にとるから重厚なドラマをイメージしそうになるが、そんな筋の通った話なんか書けないor書く気がないというケースがほとんどなので、1つ1つの場面に話らしきものはあっても、全体の流れはそれほど明確ではない。こういうスタイルの常として、役者陣は総じてハイテンションだったりキャラが濃かったりするのだが、話らしい話がない分、各登場人物の行動原理がよくわからないので、なぜ叫んでいたり揉めていたりするのかついていけないこともしばしば。キャラの濃さだけが悪目立ちすることになる。


         本作は、こういう演劇ととてもよく似ている。
         ブルックリンの街、それもせいぜい2〜3ブロック四方くらいの狭い街区を舞台に、そこで暮らす住民たちの1日の様子が描かれている。多くのキャラクターは決まった組合せで登場する上、場所とセットになっていることも多い。場所を移動するキャラクターも何人かいるが、貧しい黒人が多いエリアで多くが失業しているせいか、あまり目的もなく日がなぶらぶらしているだけという様子である。そして出番の多い主要な登場人物は戯画化された特徴を持っている。要するにキャラが濃い。これら各登場人物の日常風景の断片が入れ替わり立ち替わりで展開していき、話らしい話は希薄である。

         

         というわけで、はてこれはどういう映画なんだ?と困惑し、そして昔よく見た演劇そっくりだと思った。問題はすでに紹介したこのスタイルの舞台作品が、俺自身は苦手な点である。なんとなく好かんな〜と思いながら見る羽目になった。
         余談だが監督自身は主人公のムーキーを演じているが、舞台の場合はあまりこういうことはなく、劇団の代表はラジオDJを演じていることが多い。全体を俯瞰するポジションにいて、かつ傍観者、そのくせ妙に目立つ、要するに最もおいしいポジション。俺はそういうお約束を避けたいクチなので、本作でいえばピザ屋の兄弟のどっちかをやると思う。地味かつ比較的台詞が多い損な役。

         

         スパイク・リーといえば当然、差別問題を期待するわけだが、本作で描かれているのは「弱いものがさらに弱いものを」の構図のやつである。イタリア系が黒人を見下し、黒人は韓国人を見下しているが、アングロサクソン系からは総じて見下されている側になる。この街の住民としては1人だけアングロサクソン系白人ぽい若者が一瞬登場するが、「ここは自由の国だよ」とやたら態度が軽やかで、難関大学のやつほど学歴を気にしない図式と同じである。

         一方、警察官はラスト以外は割とのんびりしていて、そこまで威圧的ではなく、むしろ公平な態度を取っている。今問題になっているのは、警察、ひいては大統領自らが差別を撒き散らしているから、それに比べるとずっと牧歌的に見える。

         

         「13th」によると、80年代は(すでに今と同じ警察による犯罪は起こしつつも)今より警察が重武装じゃなかったり刑罰強化の方向性が始まったばかりでその後ほどはひどくなかったのかもしれない。ついでに時代が未来へと向かっている明るさのようなものが今よりもあったはず。なのでかどうか、ラストもDJの「投票に行こう」という台詞で締めくくられており、全体的にはカラっとしている。30年後の今見ると、そのことにまず暗澹たる気分になる。退行しとるやんけ。

         

         8割方ダラダラと展開しながら、最後の最後に一気に緊迫して暴動&死者発生になる展開も、くだんの演劇っぽいのであるが、警察がさして役に立っていない(どころか1人死なせている)のは見逃せないポイントである。普段の鬱憤の積み重ねが、くだらないことで爆発した格好の騒動であるが、結局これを防げるのは行政しかない。警察が役に立つのは、悪ふざけで水をぶっかけるシーンや、爺さんが子供を助けてトラブルになるシーンで場を収める役回りのときだと思った。

         

         


        映画の感想:カーマイン・ストリート・ギター

        0

           ニューヨークのギター工房の1週間を撮ったドキュメンタリーの小品。格好いいタイトルだが、単にその工房の屋号であり、屋号の由来は住所地の名前に過ぎない。十三の十三屋と一緒。

           19世紀の建物の廃材からエレキやアコギを作って販売しているという物語性が面白いのであるが、店主のリックが「考えてみれば廃材使ってギターにするなんておもしろいよな。木材に新たな命を吹き込むんだ」と、自分で映画の趣旨を全部言ってた。それ自分で言うたらあかんやつやん。
           原材料費も抑えられるから合理的経営。ゴミ置き場や火事現場からくすねてくるときもあるというから、横領の薫りも漂うのだがアメリカの刑法はよく知らない。

           

           そういう店に、顧客であるプロのミュージシャンが現れては駄弁って、を繰り返す。よく知らない人ばかりだと思って見ていたら、ジム・ジャームッシュが登場。こいつは何か出てきそうな気がした、と思ったのは、おそらく予告かチラシかで見ていたからだろう。

           音がおかしいと自分のアコギを店主に見せると、弦を交換して解決。「故障かなと思ったら→コンセントはつながってますか?」レベルのトラブルである。弦なんか自分で替えろ。完全に映りに来ただけだな、こいつは。

           

           工房だからルーティン的な動きばかりなのだろう。劇映画のような安定したカットが多く、あまりドキュメンタリーぽくない。話らしい話もないけど、たまにささやかなドラマがあり、あとは木材やギターのうんちくが人によってはおもしろい、という全体の趣がジム・ジャームッシュのようであった。若干鼻につく。

           工房が舞台なのに、制作過程の描き方があまり詳しくない、そのソフトタッチなおしゃれ感のせいだろうな。あとテレキャスタータイプのばっかり出てきて、アコースティックギターも含めたそれ以外のギターがろくに出てこないところも個人的には消化不良。

           

           The Killsのギタリストが、事故で左手中指にマヒが残り中指なしの奏法を研究した、というくだりで、「ネックが太い方がいいよ」と出してきて弾かせると、お〜確かにと当人も感動するシーンが、プロを見せつけてくる数少ない場面だった。このバンドは昔、フェスか前座で見た覚えがある。あとチャーリー・セクストンがすげー格好いいのに驚いた。吉川晃司みたいないい年の取り方をしている。

           

           彼もそうだが、顧客のほとんどが中年以上。店主のリックからしておそらく60をとっくに過ぎているだろうし、劇中の台詞では携帯もPCも持たない頑固者である。つまり、エレキギターもロックも、すっかりそういう世代向けの存在になっているということだ。

           弟子のシンディは台詞によると25歳だから、中卒で舞妓を目指す女子くらいレアな存在に思えてくる。パンクロッカーみたいなアイラインにウルフカットというスタイルも絶滅危惧種だが、ボーイフレンドもモトリークルーみたいな格好をしているから、あんまり友達いなさそうだ。


           とにかくプロのギター弾きが現れては試し弾きしていくわけだが、当たり前の話、全員すごくうまいので、楽器屋の居心地の悪さの重量級を見せられた気分になってそわそわしっぱなしだった(楽器屋で試し弾きしている店員や客は大抵これ見よがしなので、俺のようなへたっぴはいたたまれなくなってすぐ店を出てしまう)。

           まあギターの音の良し悪しも大して聞き分けられないんだけど、今持っている安物が音が悪いのははっきりしているので少々値の張るのが欲しいのは欲しいのであるが、テレキャスターがそんなに好きではないのであまり購買意欲はそそられなかった。

           

          蛇足:削りたてのネックを客がすりすり触るシーンで、リックが「そげが刺さるぞ」と笑うのであるが、父親が口にするの以外で「そげ」という言葉と初めて遭遇した。どっかのおっさんが言ってるならともかく字幕だからちょっと驚いた。ネットの辞書によると関西方言とのことらしいが、はて。

           

          CARMINE STREET GUITARS
          2018年カナダ
          監督 ロン・マン


          【やっつけ映画評】13th 憲法修正第13条

          0

             家にいる時間が長くなる中、いよいよ動画配信の契約をするかと思っていたが、なんだかんだでいまだにしていない。NetflixとAmazonには気になるドキュメンタリーがいくつかあって、儲けている企業の面目躍如な一面がある。本作もそのうちの1つで、4年前の作品だがアメリカでの状勢を受けて注目が集まっている。そのせいか無料公開されていた。無料公開が社会貢献の1つなら、見るのもまた貢献の1つだろうて。


             何せ、予想はしていたが、アメリカの動きに対する日本の報道の語り口の幼稚さといったら。こんなんだから映画を見るだけでも大層立派な行為になってしまう。「デモ擁護=左派」という冷戦構造みたいな頭で逆張りをする連中の惨状はいうまでもない。声を上げることに苦言を呈したいならジャッキー・ロビンソンくらい引き合いに出せ。どうせ知らんやろうから「42」見ろ。


             そしてデモ側に理解を示す番組や記事にもだめだこりゃが目立つ。大卒の選抜者が束になって町山智浩1人に勝てていないんだもんなあ。極めつけがNHK。どうせ「トランプ寄りに作るのが無難だろう」という党派性に基づく判断だったのだろうが、それで当のアメリカから怒られてるから世話はない。保身のためにひたすら媚びへつらってるのに、逆に怒りを買って当の御主人様に殺される北斗の拳のウサを思い出した。我らが公共放送がウサ!国会で証人喚問するレベルだろこれ。

             だもんで、無料公開のドキュメンタリーくらい見ろって話なんである。

             

             タイトルにある合衆国憲法修正第13条の成立過程はスピルバーグの「リンカーン」に詳しい。リンカンの代名詞でもある奴隷解放宣言を恒久化するため憲法修正に奮闘する姿が描かれている。リンカンの主張には正義があるが、修正案を通過させるための強引な手法にはアウトの薫りが漂うところが面白い映画である。

             

             あの作品では今一つ触れられていなかったこの条文の犒雖瓩ら本作は出発している。
             奴隷が解放されれば、「それでも夜は明ける」のラストで「窃盗だ!訴えるぞこの野郎!」と、奴隷を1人失っただけでぎゃあぎゃあわめいていたあの陰湿な農場主なんかは完全なるビジネスモデル崩壊の憂き目に遭う。というわけで条文の穴である「except as a punishment for crime(犯罪の刑罰を除き)」に目をつけ、黒人を次々しょっぴいて犯罪者にすることで、奴隷扱いを継続することになる。
             こうして黒人=犯罪者という図式が作られ、奴隷解放の大義は霞むことになる。「有色人専用」による隔離が常態化してもいく。「それでも夜は〜」のソロモンが、序盤で白人の興行主たちと高そうなレストランで会食するシーンがあるが、その120年後を舞台にした「グリーンブック」では、そういう店に黒人のドクター・シャーリーは入店できないから、むしろ退行しとるがなという話である。


             ここまでが映画の序盤だ。その後、特にレーガン政権以降、この「黒人=犯罪者」の図式が票の獲得のために利用され受刑者が激増していく。この刑事司法部分のいびつな肥大化を本作は主題としている。
             アメリカは建国段階から記録が残る稀有な国とよく言われるが、同じく黒人差別問題も起点がどこなのかがはっきりしているんだなと、ここまでの歴史ダイジェストを見せられて思った。アメリカの場合は建国から現在に至るまで同じ体制が続いているから連続性が明確というのもある。

             とにかく黒人に限らず、現在の差別問題も必ず歴史とセットになっているから、リビジョニストは罪深い。「日本人はどうせ差別を理解できないから、せめて歴史をきちんと教えろ」という指摘を見たことがあるが、近代史をちゃんと押さえておかないと、こういう議論そのものが成立しなくなるのは間違いない。
             ちょうど軍艦島を巡って徴用工の差別は聞いたことがないという島民の証言を掲示して、というニュースがあった。そりゃ差別なんか「聞いたことない」に決まってる。「それでも夜は明ける」の農園主もどうせ「差別なんかなかった」って言うよ。自覚がないし興味もないんだから。なのである意味歴史の実相を伝えてるんだよこれは。

             問題はそれを学術的にどう評価するかであり、この記事みたいに「韓国が問題視する可能性もある」じゃなくてお前が問題視しろという話である。センター長が「政治的意図はなかった」と言う(この場合、正確には「党派的」だろうが)のと同様、「韓国が問題視」も党派的。ろくに意味を持たない。俺はいいけど部長が何て言うかなあじゃねえよ。「政治的意図は」なんて愚にもつかないコメントと同じ土俵に乗ってどうするんだ。記者もデスクもこの映画見ろ。


             NHKも、アメリカに怒られた途端動画を削除して謝罪しているが、「配慮が欠け不快な思いをさせお詫び」だから何が問題なのか完全に無知だと自白している。恥の上塗り。

             環境問題と同じく全世界的な問題だから、よくわかりませーんてのは信用問題にも関わりおたくらの好きな政治的にも非常にマズイんだけどな。その辺のコーチ屋の半額で研修したるよ。全然意味ある内容にできる自信あるし。映画見せるだけやけど。

             

             さて本作は、一応反対の立場の共和党議員らにもインタビューしているのだが、人選に悪意があるのではないかと穿ってみてしまうほど、ツルンとしたいけ好かないのばかりだった。一方、マイケル・ムーアやジョージ・ルーカスが蛇蝎のごとく嫌っている共和党の大物ニュート・ギングリッチが黒人側に理解を示す発言をしているのは「へー」というところだった。ま、マイケル・ムーアの語り口でしかよく知らないからだろうけど。

             

             本作が明らかにしているのは、奴隷制度がなくなった後も、黒人ないしは中南米移民も含めた有色人をスケープゴートにすることによって延命を図ってきた仕組みが形を変えながらずーっと続いてきているということである。
             なのでデモのこの拡大ぶりは何も不思議ではない。一方、全く融和を図るポーズすら見せようとしないトランプも、単に彼が特異な人物というだけでなく、デモ側の主張を受け入れることで失うものがある、というのを物凄く恐れているからなんだろうなとも理解した。100分程度で勉強になった。これ丸パクリして取材しなおすだけで、日本じゃ町山の番組以外では誰も指摘してないことをえぐる特集なり記事なりが出来るじゃん。会議会議で出来たアニメが「ウサ」だから、会議やめて映画見てパクれ。


             合間合間には、ブリッジ的にブラックミュージックが差し挟まれる。あまり詳しくない分野だが、俺でも知ってる名前でいうと、ニーナ・シモン、パブリック・エネミー、アッシャーなど。歌詞にも字幕があって、そこで歌われていることは、まさしく本作で描かれていることそのものだった。無論、だから選んで使っているんだろうけど、つまりは昔から公然と歌われてきたことで、知られざる実相でもなんでもなく、ずっとそうだったということなんだな。これも勉強になった。

             

            「13th」2016年アメリカ
            監督:エヴァ・デュヴァネイ



            calendar

            S M T W T F S
              12345
            6789101112
            13141516171819
            20212223242526
            27282930   
            << September 2020 >>

            selected entries

            categories

            archives

            recent comment

            • お国自慢
              森下
            • お国自慢
              N.Matsuura
            • 【巻ギュー充棟】反知性主義
              KJ
            • 【映画評】キューブ、キューブ2
              森下
            • 【映画評】キューブ、キューブ2
              名無し
            • W杯与太話4.精神力ということについて
              森下
            • W杯与太話4.精神力ということについて
            • 俺ら河内スタジオ入り
              森下
            • 俺ら河内スタジオ入り
              田中新垣悟
            • 本の宣伝

            recent trackback

            recommend

            links

            profile

            search this site.

            others

            mobile

            qrcode

            powered

            無料ブログ作成サービス JUGEM