申告は青く、警告は赤い

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     2〜3月は確定申告シーズンである。確定申告についてはすでに何度か書いているが、俺の場合は複数の会社からの支払調書を申告会場に持参して、「何にもわかりまへんねん、えへへ」と頭を掻けば、優秀な税務署職員諸兄が淡々とくれる指示に従って終わり、だった。しかし昨年、「そろそろ青色にした方が・・・」と年配の職員氏から遠慮気味に助言され、今年からブルーサンダー青色申告に切り替えたのだった。

     これを読んでいるごく少数の読者のほとんどがサラリーマンという前提で説明を加えておくと、いわゆる個人事業主の申請を税務署にすると、青色申告になる。青色の方が一般の白色に比べて控除額が大きい反面、書類が繁雑になる。損益計算書とか貸借対照表とかをこさえて提出せねばならない。支払調書を持参して「えへへ」では済まなくなる。

     税務署もよくできたもので、無料の講習会というのを開いてくれる。税理士が基本をあれこれ説明してくれるのだが、要するに会計ソフトを使えば楽ちんだということと、領収書の整理をやってしまえば作業は半分終わったようなものだというのが要点だった。俺の場合、店舗を営んでいるわけではないので、在庫を抱えるわけでもなし、日常的に代金の小銭が出入りするわけでもなしで、そういう事業の人々に比べればずいぶんと単純である。

     それでも、領収書を整理して会計ソフトを買ってきて、いざ入力となると、要領がさっぱりわからず往生した。高校までの勉強はそこそこ出来る方だったし、算数も物理もそれほど苦手意識もなかった方だが、昔から会計だけはどうも駄目だ。古臭い紋切表現でいうところの「じんましんが出る」というやつで、会社員時代も、企業の決算発表とか、経済事件の逮捕起訴とか、よくわからないままテキトーにお茶を濁していたものだった。会計なんて、基本は四則演算しているだけなのに、おかしな話だ。

     公務員家庭という商売とは無縁の環境で育ったせいだと育ちのせいにするのは楽だが、どっちにしたって書類を片付けないと控除が受けられない。たしかにソフトはよく出来ているのである程度はお任せにできるが、当たり前の話、大元の入力自体は自分でやる。金額と、会計処理上の項目を選択するのが基本操作だが、例えば源泉徴収されている収入の入力はどうすればいいんだとか(これは無料講習会でも説明があったが)、わかっていないと入力の仕方すらわからないことも少なくない。ついでに金額の入力も間違ったりで、馬鹿馬鹿しいほど手間取った。それでようやく入力作業を終えて、税務署で提出する書式への書き出しをやると、ソフトが勝手に書式の項目に応じて、あっちの数字とこっちの数字を足したり引いたりして埋めてくれる、はずなのだが、「合計額が合いません」というエラーが真っ赤な文字で表示された。いやいやいやいや、足したり引いたりして書類の帳尻合わせるのはそちらの仕事でしょうが。
     というような不毛なフィードバックを2週間ほど繰り広げてしまった。ほうほうのていとはこのことだ。会計操作でちょろまかせる人は、相当だな。フォトショップでおっさんの写真を美女に変換できるくらいのテクニシャンだという実感である。出来る人間にはわけもない作業という点含め。

     俺ができることといえば、何でもかんでも経費に繰り入れることくらいだろう。税務署の講習会では、「説明を求められて説明できるものだけにしましょう。あとは皆さんの良心です」とのことだった。「良心」といわれると、つい「両親」の顔が浮かんで真面目につけてしまうのが、所詮保守な俺であるのだが、それでも結構色々なものを経費に入れられる制度になっているというのが正直な感想であった。何せ世の中ときたら、「交通費は報酬に含まれております」とか、「宅配費用は報酬に含まれております」とか、せこい事業者が平気でおりますやん。学生のアルバイトなんかだともっとひどい話が転がっているようだけど、それに比べると、国の制度ははるかにマトモだな。そんだけ昨今の世間が、色んなもん捨ててるんだろうな。

     書類をそろえて税務署に持参したら、予想通り一瞬で終わった。商売やってるわけでもなく、所得も大したことないから、税務署側も全然興味がないのだろう。ジャスラックもこの脱力感を見習った方がいいよ。

     後日、還付金の通知が届いたが、額面的には増えるは増えたが、元が元なので、大したことはなかった。期待はしてないといいつつ、がっかりするあたり、自己都合退職の退職金と似ている。がっかりする理由の1つは、青色初心者がしばしば勘違いする「65万円」という謳い文句の意味で、65万円まるまる還ってくるわけではなく、税額対象になる金額から差っ引かれるだけの話なので、当然、還付金の額面は65万円からはずっと少なくなるのだった。


    映画の感想:沈黙-サイレンス-

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       ちょうど見た日に三浦朱門の訃報が流れていた。「ちょうど」というのは、本作の原作者とともに「第三の新人と呼ばれた」と記事に書いてあったからで、このいかにも何も考えていなさそうだった知性の乏しい御仁にも、鋭敏な時期があったのだろうかと、昔の著作を読んだことがないので、少々気になった。学生のころだったか、もう働き出したころだったか、母親が一時期、曽野綾子ともども読んでいて、当時この面倒な放言夫婦についてあまり知らなかったため、何の気なしにチラっと著作を眺めてすぐやめたものだった。

       一方で遠藤周作は、「読まないといけない作家」の入口に位置しているという印象だ。高校のときの読書感想文の課題図書が「海と毒薬」だったというだけのことだが、告発調のテーマ性は、ある意味高校生にはわかりやすかったと思う。さっぱりついていけなかった安倍公房よりかは余程親しみやすかった。といっても内容は重い。「海と毒薬」のときは、友人のショウちゃんが読後に寝入ったら「猫をめった刺しにする夢を見た」と言っていたものだった。俺もゾッとしながら読んだ。それで母親にそんなことを言うと、「沈黙が最も有名で、最も面白い」と言うので読もうとしたが、ある種もっと重そうなテーマにしり込みして結局やめた。

       この映画についても同じで、楽しい作品ではまったくない上、重い内容であるのは見る前からわかりきっているから、だいぶ躊躇した。結局見に行ったのは、義務感のようなものだ。別段、作者に思い入れがあるわけでも、スコセッシ監督のファンというわけでも、宗教的理由があるわけでも何でもないが、「海と毒薬」が課題図書(=宿題)として課せられていたのと同じような位置づけで、見ないといけない映画のような錯覚を覚えてしまったのだった。見に行こうか、だけど重いし長いし、いやでもやはり、と何周か繰り返して、ようやく見た。重い。長い。うーん。

       この重さの種類は、例えばアレッポ空爆の映像を見たときのような重さとはちょっと違う。苛政が日本には無縁だと思うほど能天気ではないつもりではあるが、どうしても距離感は抱いてしまう遠い地の出来事を眺めるときの、いうなれば理屈から来る重さである、この場合は。本作についていえば磔にされるキリシタンのシーンが近い。一方で、「棄教」「転ぶ」を描いた場面は、人が生きる根源的な部分を突かれたような、重いというよりは苦しいという方が正確だった。

       信仰うすき人間(俺もそう)でも、信念くらいは持っている。信念というと、何か大きくて太くて暑苦しいもののような印象になってしまうが、「何となくそれが正しいと思っている」ような日常的なものをどちらかというとここではイメージして述べている。良心といってもいいかもしれない。それを他人から強制されて自ら否定するのは、自己が崩壊するといっても過言ではないほどのダメージを負うものだ。身近なところでは、親を他人から馬鹿にされるのと、濃度は相当違うが、構造は似ている。大して尊敬していなくても、疎ましく思っていたとしても、他人から否定されると、大抵の人は怒る。それもかなり。おそらく、呼吸のようにわざわざ自覚することもない自分自身を構成する根源的な部分を思い切り否定されたような気になるからだと思う。キチジローに漂うあの悲しいような壊れたような感じは、このような自己崩壊を想像させる。

       そういうわけで、信仰篤きバテレンが棄教する様子はかなりの重力が迫ってきて苦しかったのであるが、あまり続けたい話でもないので別のことを考えることにする。 この棄教という行為は、正しいキリスト者であったからこそではなかったかということについてだ。

       宣教師たちは己がいかに痛めつけられても棄教することはないが、自分以外の人々が痛めつけられると棄教した。人々を救うという彼らの立場からすれば、ある意味当然の判断といえる。これが宗教者として判断なのか人間としての判断なのか、その問い自体が愚問なのか、正確なところはよくわからないのだが、少なくとも仮に己の信仰のために周りの信者全員が犠牲になって自分と自分の信仰が守られたとしたとき、宣教師はどんな顔をしているのかちょっと想像できない。信仰心があるから絵を踏むことは躊躇するのだが、以上のようなことを踏まえると、結局信仰心があるからこそ踏みつけたのではないだろうかと思うのである。

       そしてこの信仰を信念に置き換えると、何かとても象徴的な場面に思えてくる。ここでいう信念とは、今度は何かを明確に主張するようなイメージである。1つの文章において、同じ単語の意味がころころ変わるのはムシのいい書き方であるが、まとまらない話をダラダラ書いているせいである。とにかく、人が何かを主張するときに、その主張やその人が信頼に足りうるかどうかは、当人が批判されたときの態度によってある程度判別可能だというヒントでもあろうということだ。さらに「批判を受けて自説を取り下げた」(=棄教)フェレイラが「日本人には所詮神のことはわからない」と周囲を蔑んでいたのも示唆的に見えた。

       そうしてまた話が変わって、踏み絵のシーンについてである。「形だけでよい」と言われているのだから踏めばいいと思う人も多いのではないだろうか。実際そうする人間も登場する。まあそれを頑なに拒むのが宗教だよねえ、私にはわからんけど、と捉える人が大方ではないかと想像するのだが、俺も踏む/踏まないの宗教的な是非はよくわからない。ただこのシーンを見て思い出したのは「やましいことがないならカバンの中身を見せても問題なかろう」の類だ。あれのルーツを見たような気分になった。

       全然まとまらない。上映スケジュールの関係で高槻の映画館で見たのだが、鑑賞後、駅に着くと「高山右近福者に認定!」というのぼりが掲げられているのに気付いた。当地のキリシタン大名が、カトリックの総本山から何だかエラい人に認定されたので、観光PRに活用している格好である。「日本人には所詮神のことはわからない」とフェレイラが毒づいたのも、的を射ていたのかと思えて苦笑した。

      「SILENCE」2016年アメリカ
      監督:マーティン・スコセッシ
      出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、イッセー尾形


      【やっつけ映画評】弁護人

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         「映画を見た」という満足感が十二分に得られる作品だった。重厚なテーマ、だけどグイグイ引き込んでいく展開、何より主演の圧倒される演技。最近、おっさんが本気になる内容の映画はすぐ目頭が熱くなる。退屈してるんだろうな。

         1980年代の韓国が舞台だが、奇しくも今の日本にはタイムリーな内容ともいえる作品だった。

         新人弁護士のソンは、法改正で弁護士が取り扱える業務が拡大したことに目をつけて、先輩弁護士が目もくれない分野で顧客を開拓して大儲けしていく。ところが彼の行きつけの食堂の息子が、反政府活動に関わったという疑いで逮捕されたことから、彼の無罪を勝ち取るため奮闘するというような物語である。

         当時の韓国は、軍事政権がまだ続いている。東西冷戦のさなか、北との対立は現在よりも苛烈で、このため反政府分子=共産主義者=北に通じている人間を取り締まるため、公安警察の活動も非常に活発だ。そういう中で、反政府活動に従事した疑いで捕まった若者の弁護をするのは、いってしまえば当時の軍事政権と真っ向対立する格好になるから、自分の身も何かと危うくなる。顧問弁護士を依頼してきた企業が「裁判から手を引かないと契約しない」と言ってきたり、家に不審な電話がかかってきたり、反共団体から卵を投げつけられたり、事務所が脱税の疑いで捜索されたり、あらゆる妨害が降りかかる。

         ただし、この映画の場合、こういった主人公の受難にはあまり重点は置かれていない。最低限、見る側が不審に思わない程度に出てくるだけで、作品の主軸は、法律とは何か、弁護士とは何かという直球ど真ん中を突いてくる。当然、法廷でのソンの台詞は、法律の条文が出てきたり、公安の横暴を激しく罵倒したり、何かと小難しくかつ感情的でもある。こういうのは、見ている側がついていけなくなったり、白けたりといった危険性をはらんでいると思うが、ぐいぐい惹きつけていく主演の演技力は、呆れるほどだった。本当にすごい役者だ。

         本作がタイムリーに見えるのは、この公安警察の大きな裁量権を規定した国家保安法が、日本で何度もゾンビのように甦る共謀罪と重なってくるからであるが、それ以上に、社会や人々のありようが色々示唆に富んでいるからでもある。

         そのことに触れる前に、本作の構成についてだ。重厚な内容ながら、問題の食堂の息子が逮捕されるまでは、結構時間がかかる。前半は、苦学して弁護士になった主人公の人となりを説明する前フリとなっているが、全体に軽妙なノリで「ライフ・イズ・ビューティフル」を彷彿させるチグハグにも見える。「ライフ〜」はナチスのユダヤ人収容所をテーマにした感動作だが、前半は何の映画かよくわからないまあまあ退屈なドタバタを見せられ、多くの人が困惑したり我慢したりしたものだった(俺調べ)。あれほどキツいわけではなく、笑えたり、ちょっと感動する場面もあったり、特に退屈はしないのだが、妙にバランスを欠くようには感じる。
        この前半の役割は何だろうと考えてみるに、軍事政権の時代とはいえ、わりにフツーな市民生活があったということを示す意味があるのではないかと考えた。
         


        【逸脱の安息日】弘法筆を選ばず

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           仕事上、赤ペンを消費するシーズンになっている。学生が書いたものを添削するために赤ボールペンを使用するのだが、大量に届くとシャーペンの芯のような、ボールペンにあるまじきペースでインクがなくなってしまう。それでコンビニで100円くらいのやつを買って・・・・・・、というのを繰り返していたのだが、近年、以前に比べて量が増えていることもあり、もっと書きやすいちゃんとしたものを選んだ方がいいのではないかと考えるようになった。要は、高いものを試してみようということだ。

           黒のボールペンは、大袈裟にいうと、カバンのようなファッション的位置づけも多少伴うから、1本くらい恰好いいのを持っておこうかという気分にもなりやすいし、何かの機会にそういうのをもらうこともある。だが、赤となると、完全に事務用消耗品というイメージなので、これまであまり「選ぶ」という発想がなかった。せいぜい芯の太さくらい。

           文房具を真剣に吟味するのは、受験以来だ。すっかり「書く」といえばパソコンになっているが、ノートにガリガリ書いているころは、筆記具の合う合わないは死活問題クラスの大問題であった。あれこれ色々なシャープペンシルを試して、最終的には鉛筆になった。鉛筆のころが一番成績が伸びたから、素手でトイレ掃除が好きなおかしな人々の喜びそうな話だが、鉛筆は素手ではないので、血文字が一番にならないと喜ばれないかもしれない。教科書通りの「正しい持ち方」をすると、鉛筆が一番しっくりくるんすよ。ま、全然字は綺麗じゃないんだが。

           会社員のころも、商売柄、筆記具が重要なアイテムだったが、会社支給のやつがいくらでも使えたので(その後経費削減のため管理が厳しくなったが)、こうなると特に気に入ってなくても選ばなくなる。こうしてサラリーマンは飼いならされる。自主映画を撮っているころ、ガンマイクは何がいいのか、テレビ局の知人に尋ねたら、「自分で選んだことのある人間がいないのでわからない」と言われたものだった。

           当時会社には、鉛筆、ボールペン、細いサインペン、色々あった。個々人、好みがわかれるのでこれだけ無駄に種類があったのだろうか。ただし色ペンは太いサインペンしかなかった。これは原稿をパソコンではなく手で書いていたころの名残で、赤や青は、原稿の修正に使うから、太いのが重宝されたのだろう。今となってはあまり使い道がない。

           俺の場合、鉛筆が好きなので、黒ボールペンも、案外この身もふたもないタイプがよかったりするが、ボールペンは少し太い方が字が多少マシになると最近気づいたので、これをよく使うようになっている。酒が飲みたくなる仕様だから、場合によっては仕事がはかどる。

           で、赤ボールペンだが、今のところ、これが一番気に入っている。200円ほどだから大した値段ではないが、安物だったら3、4本は買えるだろうから、それを考えると高級品だ。書き味がかなり違う。仕事もはかどる。

           ここまで書いて、弘法筆を選ばずという言葉が浮かんだ。名人は道具を選ばない、転じて道具のせいにすることを戒める意味だとネットの辞書には出ている。後半はその通りだと思う。ダメなやつはすぐよそのせいにする。俺もこの前、営業の人が得意先に「値下げを求めらちゃって……」とコボしているので、「政治が悪いんだ政治が」と言ったばかりだった。

           だが名人は道具を選ばないというのは本当だろうか。スポーツ選手は自分の道具を相当神経質に「選ぶ」。ちょびっとだけ短くしたり重くしたり。「一投に賭ける」でもそんな話が出てきた。余談だが、大リーガーのロベルト・アロマーが、オールスターでイチローと会ったときにバットを貰い、うれしくなってそれを使いだしたらヒットを量産したという笑い話がある。この場合、道具が凄いのか、アロマーが他人バットでも打てるということか。まあ前者だわなあ。

           名人は、選ばないのではなく、間口が広いのだと思う。ロックバンドの人気のギタリストが、楽器屋で安いギターを手に取って、「これおもろい音出るやん(英語)」とご機嫌に鳴らす、ああいうやつだ。そういえば知人の写真家は、安物のカメラでも「これおもろいやん」と、あれこれご満悦で使っていて、ライカにこだわっている様子は微塵もなかった。

           筆記具でいえば、マンガ家はペン入れの際、Gペン丸ペン以外にも、筆や鉛筆、ボールペン、割りばし、はてはパソコン等々いろいろ使う。この場合は、全員が全員あれこれやっているわけではなくて、各自それぞれの方法論があるだけなので、話は少し違ってくるかもしれないが、どういう方法であっても正道/邪道という観念は特にないというのは共通しているように見える(参考資料「漫勉」)。浦沢直樹も「俺もこれ真似しよう」としょっちゅう言ってるし。
           特にまとめのない話なので、この辺りで仕事に戻るとする。


          好きこそものの

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             漢字の読み間違いが世間をにぎわせているようだ。読み間違い自体は誰でもやらかすのではあるが、音の響きがおもしろいのでさすがに笑う。ついでに爐い弔發離蹈献奪瓩諒弧で間違えているから、あれにうんざりしている人間にとっては積極的に笑いたくもなる。前の二文字と合わせるとリズミカルな四字熟語のような響きがあるが、ちょうど稀勢の里が横綱昇進の口上で定番化している四字熟語を使うとか使わないとかの報道があったので、代わりにこっちが初耳の四字熟語を言っとるやんけ、と勝手に2つをつなげてしまった。

             大人になると、単に「読めない」でなく、思い込みが作用して間違いにも気づかないときがあるからタチが悪い。今でもたまに己の思い込みを発見するときがあるが、多くはパソコンで変換するときに、打ち込んだかな文字列が変換されなくて気づく。具体例を思い出そうとして出てこない。試しにネットで「読み間違えやすい漢字」を検索したら、有名なやつか(例:相殺)、難読漢字(例:海豹)か、マナー講座的な別にええやん的なものか(例:間髪)、だらけだった。「間髪」なんて、もう「オルタナ読み」でいいんじゃないか。

             中には「そんなもん間違うやつおるんや」というのもあった。首相を「しゅそう」と読む人がいるらしい。ホントに? 首相があれだからいるんだろうとつい乱雑に片付けそうになるが、さすがに首相自身は「首相」を読めるでしょ。

             ほしいのは、こういうんじゃないんだよなあ。ネットでひっかかりにくいものの一つが「絶妙の例」だな。まあこの場合は、「俺が過去に間違いに気づいた例」を思い出す例が欲しいだけの、まったく個人的な尺度だから完全なる言いがかりだが。ああ、一個だけ思い出した。「鼻白む」だ。これは変換できなくて知った。「白ける」のせいで、「ろ」じゃなくて「ら」と読んでいた。幸いなことに書くときにしか使ったことがない言葉なので、恥をかかずに済んだ。

             テレビでよく耳にするのは「直截」だ。言葉の種類からいって、ニュースなんかでコメントする識者くらいしか使わないから、余計に目立つ。そう思って試しに「ちょくさい」で変換したら変換できてしまった。ネットの辞書でみると、「慣用読みでちょくさいとも」とあるから、オルタナ読みか。「慣用」と書いてあるのでわざわざ新造語を使う必要がない。

             「OK」は、反知性主義で知られる米大統領アンドリュー・ジャクソンが「All Correct」を「Oll Korrect」と間違えたことに由来があるという説があるが、今回の件もゆくゆくはその手の新語として定着する可能性もなきにしもあらず。

             というような豆知識を書いたが、こういう行為も結構怖い。自慢げに披露して思い切り間違っているということもあるからだ。大抵は飲み会の席で偉そうに披露して、周囲が「へえ」で終わる程度のものだから、店を出るときには言った方も言われた方も忘れているので被害は少ない。なぜか俺の場合、ドヤ顔で披露した相手が自分よりそのことについて詳しかったという、穴があったら Want to Hideな場面に何度も遭遇しているが、より恐ろしいのは俺の場合、大学で教える立場だから、ここでハズすと、これは恥の話ではなく、単純にマズい。そういえば、昔、舞台の脚本に使ったこの手の豆知識的なものが、思い切り間違っていたということもあった。

             ちなみに「OK」を検索すると、ウィキペディアでも「すんませんでした」と言いたくなるくらい、色々細かいことが書いてある。こういう事情で最近のテレビ番組では、何かというと「諸説あります」と画面の端に出てくるが、本当に諸説ある場合いざ知らず、「危険なのでまねしないように」と同様のただのアリバイ作りで表示している気配が漂ってくる。

             縁あって、ここ数年、学生相手に世界史だの地理だのを教えている。センター試験よりはやや簡単なレベルの試験対策なので、説明しないといけないことはたかが知れている。山川の教科書でおつりがくる程度だ。ただ、教える側としては、試験には出ない部分も、やはり広く深く知っておく必要がある。俺の場合、大学を4年で卒業しただけのド素人だから、追加で勉強しないといけないことも多々ある。それで時間を見つけては関連書籍を読むわけだが、そうすると、今までの理解が微妙に違っていることに気づかされることも少なくない。

             こうなると、これまで「習得した知識」だと思っていたものが、本当にあっているのか段々疑心暗鬼になる。それだけではなく、これまで気にしたこともないことが急に疑問に思えてきたりする。例えば、イギリスの歴史ではチャールズ1世とチャールズ2世という王様が登場する。この両者の血縁関係は何だろうか。これまで考えたこともなかった。多分親子だろうという思い込みのせいだろうが、フランスのルイ16世は、ルイ15世の息子ではない(孫)。フランス革命の解説書なんかでその事実を知ると、心中「げげっ、そうだったのか」と狼狽しつつ、はてチャールズの場合はどうなんだろうと急に気になり出す。

             いずれも試験対策には全く無用の知識である。知らなくても授業は成立する。だけど偉そうに教壇に立つのだから、そこはやはり責任感というものがあろう。過去には別の科目で授業準備をサボったせいで、それこそ漢字の読み間違いのような赤っ恥をかいたこともある。もうひとつは、歴史の場合は個人的に好きなので、より詳しくなりたいという趣味的欲求が責任感を後押しする。好きこそものの・・・・・・、この場合なんだろうか。

             というわけで、間違いを犯すのは、そのこと自体よりも、それを生み出す姿勢の方が遥かに問われるというわけだ。まして、くだんの大統領や、その他諸氏のように、自ら嘘や根拠不明の犹実瓩鮨當阿垢襪里蓮△修里海伴体の罪悪もさることながら、己の信条のように高らかに掲げていることについても、実のところは当人自身、大して興味がないということになる。興味があることは大事にするもんだ。問題はそこなんだよなあ。



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