本と映画の感想:「豪腕」「コンカッション」

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     発売してすぐくらいに買ったが、書くまでもない事情でなかなか読み進められなかった。帯に荒木大輔氏絶賛と書いてあるが、作中荒木も登場するから読者の推薦というより出演者の告知である。故・上甲正典氏が登場するところもちょっと感動した。別にファンというわけではなく、よく取材しているなあと。作中で亡くなっているから、かなり晩年の取材に相当する。

     

     投手の肘についてのノンフィクションだ。先日来、何かと話題のダルビッシュが以前にケガで長期離脱していたことは知られているが、そのとき彼も受けていたトミー・ジョン手術についてである。UCLという肘の腱が断裂する大けがに対して、手首等、別のところにある腱を移植して再生させる手術で、最初に執刀を受けた投手の名前を冠している。1974年のことである。

    投手が肘を壊して手術を受ける、というのは、農家が腰痛になったり漫画家が痔になったりするのと同レベルにとらえられそうな話である。つまりは「職業病」という理解だ。実際職業病で、普通の人間は腕を高速で振り回すことなどしないから、そんな箇所の腱は損傷しない。

     

     本書の筆者がこれを問題視したのは、ひとつはその件数だ。ウィキペディアで検索するだけも結構なプロ選手が名前を連ねていることが確認できる。中には高校生のころ受けたという選手もいるから、マイナーで終わった人やプロになれなかった人も含めるとかなりの数に上るだろう。現在ワールドシリーズを戦っている両チームでいえば、ダルのほか、ドジャースのヒルやアストロズのモートンも受けているし、ソフトバンクの和田もそうだ。古いところだとキリがなくなるが、ユニークなところでは強打者のホセ・カンセコで、大負けしている試合でマウンドに立ち(メジャーではたまにあるファンサービスでイチローも青木も経験あり)、結果肘を痛めてこの手術を受けた。

     

     もう一つの問題点は、予防策がわからない点だ。何度もUCLが破損する人もいれば、びくともしない人もいる。投げ過ぎがよくないことは概ねその通りのようなのだが、具体的にはよくわかっていない。メジャーの場合、日本よりはるかに投球数の管理が厳しいが、今一つ効果を上げているとはいいがたい。厳格に管理してもダメなときはダメなようである。投球フォームについても同様で、本書で紹介されているが、マット・ハービーなんか「理想的な物凄く綺麗なフォーム」といわれていたのに故障して手術を受けた。薄毛とその対策にちょっと似ている。不潔にしておくのは頭髪によくなさそうだが、ろくに風呂に入らないくせにフサフサな人がいるように、先発投手としてバンバン投げてもちっとも支障がない人もいる。

     

     なにしろ現時点ではよくわかっていないことなので、本書もそれほど切れ味鋭い内容ではないのだが、それでも特に根拠もない信仰のような日本球界の投球観には改めて首を傾げるしかない問題提起ができているし、一方で前代未聞の方法で実績を上げているコーチが紹介されていて興味深い(と同時にニセ科学的なあやしげな類も登場する)。「通説」という以上には根拠のないコーチの指導をことごとく無視し、大いに嫌われながら自分なりの練習法・投球法を追究してメジャーにまで上り詰める(のにまさかのドローンで指を怪我してワールドシリーズに出れなかった)バウアーの意義ある経歴も登場している。とにかく筆者は、これだけたくさんの選手が同じ怪我をしているのに(同時に当人のキャリアと球団の億単位の投資がふいになっているのに)球界の対応は不十分ではないのかを疑問を呈している。もちろん何もしていないわけではないので球界の姿勢もそこまで責められるわけでもないだろうが、問題の深刻さに比べるとぬるいとはいえるかもしれない。

     

     それで表題の映画についてだ。こちらも「職業病」の告発という点では似ている。ただしかなり深刻だ。
     アメフト選手が試合でのぶつかり合いを重ねるうち、脳に障害が生まれる病気を発見した解剖医の実話である。タイトルは脳震盪の意味だ。毎度地球を救う大雑把な役回りを演じているウィル・スミスが実直な医師を地道に演じている貴重な作品でもある。この人演技上手いんだなと気づかされた。

     

     幻聴や記憶障害、鬱病を発症し、しまいに自殺してしまうからただ事ではない。最初の患者に「どうしたんだ元気だせよ」と激励していた元チームメイトが、後で「うおー聞こえる!」と暴れ出して死んでしまったり、主人公に対して「藪医者風情が口を出すな」と罵倒してきた元選手が後に発症して「俺はもう駄目だ!」と自殺したり、感染系のホラーのようで(主人公が医者なので「きりひと讃歌」を思い出したが)ぞっとさせられた。毎度おなじみのシリアスな役どころで出ているアレック・ボールドウィンに、でもこの人トランプを茶化すコメディやってんだよなあとその広すぎる振幅を想像してついおかしくなるところが数少ない救いである。

     

     この解剖医オマルの発見は、NFLという巨大産業に立てつく構図である。大企業が保身のためにはいくらでも厚顔無恥になるさまは本邦でもすっかりおなじみになっているが、FBIまで出てくるからおだやかではない。それでもオマルや協力者が節を曲げないのは、劇中の台詞を借りれば「サイエンス」のひと言に尽きる。科学が「ここに問題がある」と示している以上、いかに政治が跳梁跋扈、口を閉ざそうとしてきても、あるものはあるというわけで、この辺りの価値観はガリレオのころから変わっていない。

     

     そんな事実があれば国民的娯楽であるNFLは立ち行かなくなる。ときに人間の思惑を打ち砕いてしまう残酷な事実を提示するのが科学であるが、人はしばしばそのような破壊的な事実を憎み代わりに虚偽を大切にするのだと、この前見た現代文の試験問題の文章に書いてあった。特に政治や経営は人の営みの範囲内のことであるから、科学に比べて余計にそうなりやすいのだろう。ただいまの日本はその傾向がひどすぎて、ニュースを見ても本屋の新刊書棚を見ても、希望的観測の独走ぶりが不条理コントの域にまで達している感がある。その態度がどういう結果を生むのかは本作を見るまでもなく自明のことなのだが。

     

    「CONCUSSION」2015年イギリス、オーストラリア、アメリカ
    監督:ピーター・ランデスマン
    出演:ウィル・スミス、アレック・ボルドウィン、アルバート・ブルックス


    映画の感想:アウトレイジ三部作

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       新作の公開が迫っているからだろう。テレビでやっていた「アウトレイジ」の1と2を見た。1は以前に見たことがあったが、あえて続きを見たいとも思わず、2は今回初めて見た。簡単な感想を先に書いておくと、1はストーリーのためにわざわざ話をややこしくしている印象を受けてしまい、そのせいか、簡単に殺し過ぎやろと白けてしまったと記憶している。

       

       2作目(正確には「ビヨンド」)は、1より娯楽性の面でうまく作られているのだろう、俺自身はヤクザ映画が好きではないのだが、ついつい引き込まれてしまった。大物俳優だろうと誰だろうと、さっさと不細工に死んでしまうところは、これは権威を獲得した監督だけが許される作り方だ。え?この人もう死ぬの?という意外性はなかなか出せるものではない。高橋克典なんか台詞が一つもなかった(のに映えるから、やはり主役をやる俳優というのは大したものだ)。どんどん死ぬ=続編のたびに俳優が入れ替わるため、全体を通じて強面俳優見本市なところがある。個人的に、出てほしい強面は誰だろうと想像してみたが、真っ先に思い浮かんだのが春風亭昇太だったのは完全に「おんな城主直虎」の影響だ。

       

       普通だったら感想はこれで終わってしまうところだが、時節柄、妙にタイムリーに感じてしまったので続きを書いておこうと思う。ここから先は遠慮なくネタバレだ。

       


      【やっつけ映画評】The NET 網に囚われた男

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         南北分断を舞台作品のような身の丈サイズにまとめたよくできた作品だった。監督は、ぬるい南北の描き方をした「レッド・ファミリー」をプロデュースした人だが、本作はあちらとはうってかわって訴えかけるものが迫ってきた。政局の話で吹っ飛ぶことそれ自体が象徴しているような、狂気の沙汰のミサイル騒ぎにあった日本にとっては、恰好の教材ではないかと思う。


         船の故障で韓国側の海域に流されてしまった北朝鮮の漁師ナム・チョルが、スパイの疑いで韓国側に拘束され尋問される。取調官は「アカ」に憎悪を抱く暴力男で、警護役の青年は、その違法な取調べを非難する。「宇宙人王さん」を彷彿とさせる構造に、「善良な漁師と思わせといて実はスパイでした」といったチンケなサスペンスだったらどうしようかと思ったが、まったくそういう話ではなくて安堵した。

         

         チョルがスパイであれば大事だが、そうでなければ次に待つ手続きは「転向」、つまり亡命である。善良な同胞を狂気の国に戻すわけにはいかない。そういう理屈だ。韓国側に渡ってしまったこと自体が罪に問われるかもしれないと考えると、送還するのは人道的な点からも問題があることになる。だがチョルにとって大切なのは家族と平穏に暮らしていたこれまでの生活である。ソウルの豊かさにも、自由を保障する西欧型民主国家にもさして興味がない。

         

         国民が餓死しているのに軍事開発と政敵粛清に明け暮れる世襲の独裁国家と、国民主権の憲法を戴く民主国家、どちらがまともなのかは考えるまでもないが、後者が正しいからといって、望んでもいない人間に家族を捨てても亡命しろと強要するのは、これはこれでイデオロギーの暴力だから、国家主席にマンセーと言うのと構造的にはあまり変わらない。ただし、チョルが今後も祖国で家族と平穏に暮らせる保障がない分、当人の意志を曲げてでも亡命を、と考える「部長」や「室長」の立場に全く合理性がないわけではない。チョルの立場を最大限尊重しようとする警護の青年は、最も正しく見える立場ながら、同時にお人よしであり、無責任だと非難することも可能だろう。


         チョルの言葉を借りれば、この「もどかしさ」が本作の推進力である。取調官は人格的にも仕事へのスタンスも相当問題があると言わざるを得ないが、一応チョルは交戦中の国からやってきた人間であるし、疑わしくなければないほど余計に疑わしいという矛盾を抱えたのがスパイという存在である以上、彼の疑心暗鬼に全く合理性がないわけではない。加えて、結局スパイかそうでないのかよくわからない脇役も登場する。本作は、このような疑わしさの要素をいくつか散りばめながら、それでもシロかクロかのサスペンスに話の本筋をブレさせていない点で見事である。

         

         こんな国家間のややこしい話を、コンパクトにまとめられているのは、チョルの人物造形が大きい。
         チョルは、実直で目鼻も利くなかなか魅力的な人間である。いたってマトモであるという描き方自体が、本作を成立させている重要な要素だ。一人のマトモな男であるからこそ、警護の青年はシンパシーを抱いたのだろうし、取調官はスパイだと疑いを深めたのだろう。「狂気の独裁国家に洗脳されたロボット」というようなステレオタイプだと彼らの態度もまた違ってきた可能性があるし、そもそも作品として成立しない。

         

         政府がいかにおかしな状態であっても、市井の人間の現状はまた別の話である。チョル自身は、抑圧国家の面倒な部分を適当に避けながら地味に地道に暮らしている。おそらく南北の対立にも特段興味がない。日々の暮らしに精一杯で、政治には無関心。どこにでもいる普通の人である。その彼を「洗脳されている」と思い込む韓国側の人間は、色眼鏡で見ているという点である意味彼ら自身が狎脳瓩気譴討い襦2K修兵萃幹韻砲靴討眤崚戮違うだけで構図は同じだ。チョルが警護の青年だけに心を開くのは、この若者だけがチョルを対等な一人の人間と見ているからで、こんなことが特別になるほど、半島の分断は悲劇だということだ。
        (以下ネタバレ)
         


        【やっつけ映画評】わたしは、ダニエル・ブレイク

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           仕事柄、公務員になりたいという学生諸君と接することが多い。何となくそれしか進路が想像できないという引き算的発想の若者もいれば、何かしら生まれ育った地域や困っている人々の力になりたいという見上げたホスピタリティの持ち主もいる。

           後者の学生の多くは、ボランティア活動に参加していて、その種類は多岐に渡っている。催事の運営スタッフや、地域のまちおこし支援、高齢者や障害者、貧困家庭の児童を支援する活動などなどである。彼らの話を具体的に聞くと、必然、何も考えていなかった己の学生時代を振り返る羽目になるから困る。加えて福祉系のボランティアの場合、聞いているこちらの気が滅入ってくるほどシビアな現場を踏んでいることもしばしばだ。特に高齢者福祉ボランティアの場合、ろくでもない人生を送っている身だけに将来のわが身だという気もしてきてしまう。一方で、そんな現場に自分の将来を託そうとする若人がいること自体は明るい話にも思えるから、ついそっちに目を逸らして気分を和ませようとしてしまう。


           本作も、低所得者の救いのない現実を題材に扱っていて、いかにも気が滅入りそうな映画である。だが、主人公たちが国の制度等々に翻弄される一方で、周囲の人々は皆それぞれに温かく救われる。救われはするのだが、ただ現実は変わらないから救われると感じるのは話題を逸らせているだけのようにも思う。


           ベテラン大工のダニエルは、心臓を患い医者から働くことを止められている。このため公的支援に頼っているのだが、「就労可能で受給資格なし」と認定されてしまう(今までもらえていたのが急に打ち切られたようだ)。ダニエルは不服申立を望むが、審査には時間がかかる。このため職安からは、求職活動をして求職手当をもらうよう命じられるのだが、この手続きの煩雑さにダニエルは振り回される。

           

           この物語を公務員叩きだと受け取るのは容易い。職安の職員は高圧的で融通が利かない。一方、本作に登場する市井の人々は多かれ少なかれマトモないい人が多い。ダニエルの隣人の一見チャラチャラしてそうな青年は、案外気のいい若者だし、フードバンクの女性たちには胸が打たれる。もう一人の主人公であるシングルマザーのケイティが商店で万引きして捕まると、店主は彼女の困窮ぶりに人情裁きを見せる。ダニエル自身、ケイティに気安く手を差し伸べ彼女と子供たちのよき支えとなっている。一般市民がみんな善良なのに、役所の人間は一様に石頭で偉そうで一から十までお役所仕事の塊である。

           

           他の映画でもいくつか目にしたことがあるが、イギリスの公務員も日本とよく似ているという印象がある。本作も同様で、既視感のある景色だけに、余計「これだから役人は」と本邦の実状と重ね合わせて呆れてしまう。公務員叩きの好きな人なら余計に膝を打つだろう。

           

           だが、ここで描かれている現状は、公務員叩きの結果生まれた状況だと思う。つまりは有権者がそれを選択したのである。

           

           お役所は古くから、その権威と四角四面さから何かと嫌われがちな存在であるが、そこに加えて「無駄が多い」「地位が特権的」「給与に見合う仕事をしていない」「民間企業では考えられない」といった批判が繰り返されてきた。石原慎太郎、小泉純一郎、政権交代時の民主党、橋下徹――、20世紀末以降、人気を集めてきた政治家、政権は、少なからずこれらの官僚批判で世論の喝采を浴びてきたといえる。結果、公務員の人件費削減も含めた歳出削減が進められた。当初は巨大なハコモノや道路やダムなどの土木分野がやり玉に挙げられていたが、そのうち「合理化」のターゲットは、あらゆる分野に広がっていった。行政のスリム化、といえば恰好いいが、実際のところは職務放棄である。

           

           というのも、爛好螢牴臭瓩梁仂櫃砲覆襪里蓮企業の理屈に当てはまらないものか、企業に任せれば利権になるものかのどちらかだからだ。例えば公園は何の儲けも生み出さない。短絡的に無駄とみなすことは可能だ。そしてものによっては一等地に広大な土地を有しているから、企業に切り売りすれば儲けになる。図書館もしかり。生活保護のような「ただ損するだけ」に見える事業は縮小される。最近では「シルバーパスをやめて学割にすれば」とAI知事が言っていたのも同じような文脈だ。イギリスでも大まかには似たような現状なのは、日本語に訳されているニュースを見るだけでも窺い知れる。企業の理屈でとらえられないものが「無駄」になると、必然公務員の仕事はほとんどなくなる勘定になる。無論、実質ゼロにはできないから、少ない資源できりもりすることになる。

           

           ダニエルが翻弄されるいくつもの出来事のうち、例えば問合せの電話が2時間近く待ってようやくつながること(その間の電話代は自分負担)や、あらゆる申請がネット経由でしか受け付けないことは、人員不足や民間委託など、人件費削減の結果だろう。職安の人間が一様に高圧的で融通が利かないのも人が少ないせいで忙しくイライラしているせいかもしれないが、効率化が背景にあると思う。職安にやってくるあらゆる人々に対し、ケースバイケースで親身になっていては時間がかかる。効率的に処理するためには、あらゆる事案を大枠で分類してマニュアル的に進めて行くのが速い。

           実際職員たちは、ダニエルにしろケイティにしろ利用者の話を一切聞こうとしない。マニュアル化された手続を一方的に通知して従わせようとする。その態度自体が十分に高圧的なのだが、「こっちの言い分も聞けよ」と必然反発も生まれるから、余計に職員側も「支援が不受理になりますよ」「処罰対象になりますよ」などと高圧的を越えて脅迫的にすらなる。不幸なすれ違いだ。

           

           唯一例外的に何かと人間的な対応を見せる職員アンは上司から「例外的なことをするな」と叱責される。彼女は年齢からいってベテラン職員と推察される。そもそも親切な人なのだろうが、かつてのやり方から今のやり方にうまく割り切って合わせられないのではないかとも思う。

           そもそもダニエルが今まで受給していた支援を打ち切られたのも、歳出削減のあおりを食ったのだろう。ダニエルの事情には同情するし、職安の職員も怒りが湧くが、いずれも有権者の選択の結果だ、というのは繰り返しておきたい。公務員叩きの結果生まれた余計に四角四面な公務員だとすれば、何という矛盾だろう。

           

           さて、ここでラストについてである。
           


          【やっつけ映画評】ドリーム

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             以前に軽く触れた映画を、早速というかようやくというか、とにかく見た。素晴らしい傑作を飛行機の小さな画面で見なかったのは賢明だったが、ほぼ満席で最前列しか空いておらず、上目遣いで2時間過ごす羽目に。飛行機とどっこいどっこいとは言いたくないが、かなりおかしな疲れ方をした。大手の映画館の最前列はろくなものではない。京都みなみ会館を見習ってほしい。

             

             本国では「ラ・ラ・ランド」を超える興行収入だったというが、日本の公開はしばらく未定の状態が続き、この時期まで遅れた。町山智浩によると、主役3人を演じる役者がいずれも知名度が低いのと、テーマが差別問題だったから、ということらしい。ついでに邦題「ドリーム 私たちのアポロ計画」がひどすぎると非難され(アポロ計画は物語と無関係)「ドリーム」に変更になるという珍しい騒ぎとなった。これらは色々と象徴的だと思うので、そういう話を書こうと思うのだが、何気なくWikiを見てみると、本作で描かれている主人公たちの苦境は、事実よりも誇張されているらしい。書こうとした話の前提がちょっと揺らぎかねない余計な発見だった。感想が渋滞してしまう。ま、順を追って述べて行こう。

             

             原題は「HIDDEN FIGURES」という。figureはおそらく「人」と「計算」の掛詞だろう。主人公たちはまさしく隠された人々だし、数字が塗りつぶされた数式を渡されるシーンがあるし、未知の領域の計算という答えの見えない作業に挑む物語だからだ。
             60年代、コンピューター導入直前のNASAが舞台だ。電算機がないので膨大な計算を人力で行っている(ただし作品中盤でIBMが導入され、計算係のリストラ問題が物語に絡み合う)。その計算係に勤務する3人の黒人女性が主人公だ。トイレもバスも黒人専用が設けられた差別が社会制度化している時代に、彼女たちは歯ぎしりしながらそれでも才能を開花させていく。その姿が実に恰好よく痛快だ。頭脳版「42」といったところか。「働く女性が格好いい」というと、日本ではこの手のお寒い紋切記号はよく見るものの、地に足がついた本作の恰好よさは、フィクションではあまり類を見ない気がする。

             あとこれは余談だが、数学が出てくる映画(「グッド・ウィル・ハンティング」「イミテーション・ゲーム」「奇蹟がくれた数式」等々)でおなじみのチョークをカツカツ鳴らしながら数式で黒板を埋めていく様子に憧れる。俺にとっては意味不明の記号でみるみる埋め尽くされていくのと、授業の板書のようにわかっていることを掲示するのではなく、自分の思考をぶつけているところにワクワクする。

             

             さて頭脳版「42」と述べたが、主人公たちは肌の色だけではなく女性差別も関わってくるから倍だ。それも単に被差別要素が多いというだけではない。黒人野球選手の場合、野球選手であること自体は(実力を見くびられることはあっても)疑われていない。だが彼女たちの場合、そもそも「超頭脳明晰だ」ということを想定すらされていない。例えば、主人公の一人キャサリンがNASAで高度な計算をやっていると聞かされた軍人のジムは「女がそんな難しい仕事を?」とまず驚くし、資格を取るため数学のクラスに現れたメアリーに、教師は「ご婦人向けの授業ではないんだが…」と困惑する(おそらくメアリーがカルチャースクールと勘違いしてやってきたと思ったのだろう)。この二人に悪意はない。だが十分に色眼鏡である。もしキャサリンが、それこそベネディクト・カンバーバッチみたいな外見の男性なら、ジムも「へえーあんた凄いね!」とただ感心したに違いない。

             

             このような男目線は俺もやらかしている。自覚したのがいくらかあるから無自覚なのはもっとあるだろう。NASAの男性たちは陽気なジムと違って陰湿・殺伐として見えるが、彼らも入口はジムと同じ「無自覚」だ。それが結果、いじめのように見えるのは、悪意というよりは「制度化」が絡んでくるからだと思う。
             


            【やっつけ映画評】帰ってきたヒトラー

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               武部元幹事長の元弟兼息子、現大阪万博招致委特別顧問が、ヒトラーの顔をあしらったTシャツを着てテレビに出て、主に海外ニュースになっていた。ヒトラーが「NO WAR」と言っている「逆説的反戦メッセージ」なのか「ブラックジョーク」のつもりなのか、いずれにせよ「とんがっててクール」と評価されることを期待したデザインなのだろう。記憶にあるだけでもアイドルの衣装とかサッカーの応援旗とか、似たような話はいくつもあって、そういった日本の社会状況を含めて主に海外メディアで報道されている。

               

               これらは要するに、当事者たちが何を問題視されているのかピンと来ていないから繰り返されているのだと思う。本作はその点、恰好の教材といえそうだ。

               

               本作の映画のフライヤーには、元々タイトルが書いてあった箇所に「笑うな危険」という煽り文句が書いてある。確かに危険だ。主にそういう話をダラダラ書こうと思う。


               ずっと気になっていた本だった。先延ばしにしているうちに映画化され文庫化され映画がレンタル屋に並び、ようやく背中を押されてまずは本を読んだ。なぜレンタル屋のDVDが決定打になったのか、我ながらちょっと興味深い。小説から入ったのは、先に見かけたのが本の方だったからに過ぎないが、映画を先に見てしまうと読まなかったような気がする。本を読み、映画を見て、本を先に読んでおいてよかったと思った。


               タイトル通り、ヒトラーが現代に甦る物語だ。本では2011年、映画では2014年となっている。一種のタイムトリップものだが、なぜ甦ったのかは特に書いていないから、不条理ものでもある。年齢や状況からして、最期、燃やされたときにワープしてきたということなのだろう。そういえばヒトラーの遺体は見つかっていないんだっけか。まあ、燃やされる前に拳銃で自殺しているのだが。
               とにかく、甦った彼は、周囲からはヒトラーそっくり芸人と思われる。顔から立ち居振る舞いからしゃべる内容まで、従来の同業者とは比べものにならないほどあまりに犹ている瓩里如芸能プロダクションが(映画ではテレビ局が直接)契約を申し出てきてテレビにデビューする。

               

               ヒトラーの一人称で書かれているのが最大の特徴だ。彼は目の前の現実に当初は困惑するものの、元々頭のいい人間だからか状況を冷静に受け止めていきつつ、理解の仕方にいちいちヒトラー的なバイアスがかかり、おかしな飲み込み方をする。その様子がブラックジョークとして読み手を引っ張っていく。タイムトリップものの場合、特に古い時代から来た人間は新時代のあれこれに頓珍漢な解釈を施して笑いを誘うのが定番だが、本作の場合はその定番がおそろしく独特といえばいいだろうか。

               

               彼の一人称を読むのは、本や映画やテレビから仕入れた知識をなぞる作業でもあった。作者の取材量は、安いコラージュなど鎧袖一触、圧倒的で頭が下がる。かなりトリビアルな話もいくつも使われていると想像する。それくらい徹底して書ききっているからこそ、ドイツで出版できたのだろう。思いつき自体は安直に映るかもしれないが、作品として仕上げていく過程は、相当に分厚い。

               

               さて、そのようなヒトラーの狂気の一人称に笑いながら、作中人物たちが芸人だと信じて疑わない様子(彼が「ヒトラーの演技」以外全く見せず、いわゆる「素を見せない」様子に「世界観が徹底している」とか「ロバート・デ・ニーロとかのメソッドなんでしょ」とか感心してくる等々)にニヤニヤしながら読んでいると、ふと作者の壮大な罠に気づいたのである。

               

               自分自身も、「芸」だと思い込んでいる作中人物と変わらないということ、もっといえば読者自身がタイムスリップしてきた生身のヒトラーを前にニヤニヤしているのだということをだ。もしかすると俺がもっと若かったら「あれ?案外いいこと言うやん」くらい思っていたような気もする。中にはそういう読者もいたかもしれない。

               

               よく指摘されることで、作中でもヒトラーが語っているが、彼はクーデターで政権を獲得したわけではなく選挙で選ばれて上り詰めた。投票した有権者がことさらトチ狂っていたわけでもなく、一方で嫌う有権者もたくさんいた。「ヒトラー暗殺、13分の誤算」でもそのような過渡期の様子が活写されている。当初は「バカとその取り巻きのバカが騒いでいるだけ」だと思っていたのが、いつの間にか統治者として君臨し、バカだと嗤っていた側は隅に追いやられる。

               

               本作の中でも、一人だけヒトラーの犒櫚瓩鮠个錣覆た擁が登場する。ヒトラーの秘書を務める若い女性の祖母で、「あれはブラックジョークだよ」となだめる孫に、「あのときもみんな笑っていた」と反論する。とても印象深い良い台詞だと思う。
               その「あのとき」の怖ろしさを読者自身も疑似体験させられるのが本書の仕掛けだと思う。何せ、甦ったヒトラーは本物なのだ。「笑うな危険」。ホントにそうだと思う。

               

               映画化において難しいのは、ヒトラーを俳優(=当人とは別の人)が演じるほかない点だ。「ヒトラー芸人とみせかけて本人」という大前提が崩れてしまう。別にこの主演俳優が悪いわけではなく、構造上、その他大勢のヒトラー芸人と同類になってしまう。
              もちろん、書籍の方だって本物ではない。書いているのは作者だ。いわば超高度なヒトラーのモノマネをやっているだけだから、こちらもヒトラー芸人と大枠では構造は同じだ。だけど、おかしな言い方だが錯覚させられる説得力は文字の方が圧倒的に高い。

               

               映画では、冒頭、ドキュメンタリー風の映像の中で雑談するヒトラーが登場する。照明の具合やカメラの手ぶれの具合による演出で、なるほどその手があったかと膝を打った。これだと本当っぽさが増す。だけど、このような演出をしているのは一部だけで、大方のシーンは普通のフィクションの安定したカットだった。何か意図があって使い分けている風だったが、あまり功を奏しているようには思えなかった。全体的にドキュメンタリー風味にした方が、いい意味で不気味さが増したのではと思うのだが。
               また映像にメリハリをつける狙いだろう、ヒトラーと出会ったテレビマンは、早速ドイツ各地に彼を連れまわし、様々な景色にヒトラーが放り込まれるが、これは作中でヒトラー自身が否定している「総統が〇〇をする」という「安直なテレビ企画」と同じノリではないのかと思った。

               

               というような引っかかりもありつつ、全体的には面白かった。小説を映画にするとはどういう作業なのか、割と模範的な教材ともいえそう。大枠では同じで、大胆な改変はない。省略の仕方とか、映像向きにするためのちょっとした改変とか、登場人物の交通整理とか、勉強になる。ラストは結構違うが、「終わらせ方」としてはおおむね同じだ。

               

               さてこのラストについて述べるとする。

               


              【やっつけ映画評】ガンジー

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                 少々古い映画をわけあって見た。有名な偉人の伝記映画だ。必然、長い。途中休憩がある。演説、行進、逮捕収監、のくり返しだが、なぜだか飽きることなく最後まで楽しめた。ひとつには敵のような味方のような、微妙な関係性のジンナーのお陰だろう。妙に存在感のあるいい俳優だった。

                 

                 子供のころ読んだ、偉人読み物を概ねなぞったような内容だった。冒頭早速暗殺者に狙撃されるが、最期の言葉が「おお神よ」だったところとか、そこから一気に時間がさかのぼって、南アの列車でちゃんと切符を買って一等車に乗ったのに出て行けと迫られるところとか、塩の行進とか、子供のころの記憶がよみがえった。冒頭いきなり死んで、時間がさかのぼる構成、かつ長いとなると「アラビアのロレンス」を思い出す。両作品とも、見終わってから冒頭を見直すと、その後出てくる登場人物が揃っていて楽しい。

                 

                 先に、お馴染み山川の教科書に沿って歴史を軽くさらっておくとする。17世紀以降、インド支配を強めていったイギリスは、19世紀になると英国王がインド皇帝を兼任する「インド帝国」が樹立された。主要な地域をイギリスが直接統治する格好である。第一次世界大戦では、戦後の自治拡大を人参として多くのインド人が戦争に駆り出されることになったが、いざ戦争が終わると、日本の治安維持法のようなローラット法が制定されて独立運動の取締りを強化する見事な手のひら返しを見せた。二度と世界大戦を起こさないよう設立されたばかりの国際連盟では、戦争を防ぐための原則として「民族自決」が唱えられているのにだ。南アでインド人の権利拡大に成果を収めたガンジーが帰国するのはこのころである。最終的に、第二次世界大戦後にインドは独立するが、ヒンドゥー教とイスラム教の対立からパキスタンが分離独立することになった。そのリーダーがジンナーだ。ガンジーはあくまで統一インドにこだわったが、その姿勢がイスラム寄りとみなされヒンドゥー教の過激派に暗殺された。

                 

                 ガンジーといえば「非暴力不服従」だ。つい「非暴力」の方に目が行くので、平和裏な、秩序だった政治運動だと思ってしまいそうになるが、本作を見ると、全く違うとわかる。確信犯として何なら挑発的に法律を破る。確信犯という言葉の正しい使い方そのもので、イギリス側からすれば、過激な累犯者である。必然、この映画では、ガンジーはとても頑固に描かれている。南アではインド人の身分証携帯に抗議して、警察の警告を無視して身分証を焼き払う。それで警察にド突かれても、燃やすことをやめない。インドでは、警官がデモ隊を狙撃する「アムリットサルの虐殺」の後、さすがにやりすぎだとイギリス人の統治者たちがンジーに謝罪するが、「インドを支配していること自体が間違いです」と、大前提のもっとデッカイことを持ち出して、虐殺の話をちっとも聞こうとしない。

                 

                 そう、ガンジーにとっては大前提が問題なのだ。暴力を否定するのは、作中「(復讐の連鎖で)キリがなくなる」とか「治安強化の口実をイギリスに与える」とかの理由を語っているが、暴力自身が大前提に照らして不法行為だからでもあるのだろう。一方で、近代国家が帝国主義によってよその国を支配するのは大前提として不法だから抗議をやめない。彼が破る法制度は、不当な法制度だからこそ、確信犯で猊塰々坩扠瓩鬚笋襪里任△襦この辺り、悪法も法なりと毒杯を煽ったソクラテスとは随分異なるようにも思えるし、前提を重んじる点では形が違うだけで同じであるようにも思えるし、ついでにガンジーは逮捕を告げられるとはいどーぞとあっさり収監される。そのくせ裁判で保釈が決まっても保釈金の支払いは拒否する。

                 

                 こんなことを取り巻きの数人とやるならともかく、大勢のインド人を巻き込んで貫くから驚異的な指導力だ。残念ながら一部に警官を虐殺する人々も現れるが、民族アイデンティティが高揚した集団心理をここまでコントロールできているだけでも奇蹟といえよう。

                 

                 これを踏襲した例が、アメリカの公民権運動で、彼らは「黒人お断り」の座席や場所にわざと陣取って、制度の不法を訴えた。こういう行動に対して、多数派側(この場合白人)は、ルール違反を咎める。そのルールがおかしいと訴えての行動だから、両者は平行線になるのだが、このような現象は日本でもしばしば見かける。訴えは妥当だとしても方法は問題アリでしょ、という具合である。先日も、車いすの人が飛行機に乗る際に起きたトラブルに対して、そんな意見がネットを流れていた。別にこういう手法が絶対的に正しいと決まっているわけではないが、さかしらな狎杵性瓩鮃崋畤發譴訌阿法△匹Δ靴討修Δい手段に出たのか想像力は欲しいところである。本作のガンジーは、まさにそんな愛ある姿勢を教えてくれる。

                 

                 ただし、彼のこのような戦法は、イギリス相手だから可能だったようにも思う。最大の帝国主義国家であると同時に、法の支配を重んじる元祖議会制国家でもある。ガンジーの挑発的運動に対して苦虫をかみつぶしながらも理性的に対応している。彼を殺害しなかったのは、殺せば余計にややこしいことになるからと恐れたからだろうが、そういう判断が働くこと自体が理性的といえる。

                 

                 一方で相手が狂気じみていたり、感情的だったり、発想が短絡的だったりすると、この戦法はあまり有効ではないのではないかと推測する。例えばガンジーは、取材に来た記者から「ヒトラーに対しても非戦を貫くのか」と尋ねられ、あまり明確な回答をしていない。あのような男にガンジーの戦法が通用するのかどうか。あるいは、独立後の宗教対立を収めることはできなかった。ヒンドゥーVSイスラムの宗教対立と、積み重なった鬱憤も重なって、感情が爆発しているからだろう(ま、元をたどるとイギリスの狡猾な分断統治の結果なのだが)。

                 ついでにこんな話もある。インドはイギリスの植民地だったが、ヴァスコ=ダ=ガマ以降、一部の地域はポルトガル領だった。独立インドはこの地を返却するよう迫るがポルトガルが聞き入れないので、一部の人が非暴力の抗議行動を行ったところ、殺されてしまっている(以上wikiよりとってつけた豆知識)。

                 

                 こう考えると、ガンジーの奇蹟が奇蹟であることは、世界にとっては不幸なことだ。気が滅入るので身近なところに話を戻すと、先ほどの車いすの男性のケースは、航空会社が理性的対応を見せた分、ずいぶんとマシな話といえる。一方で、外野には批判をしている人がいるわけだが、宗教対立でも民族対立でもなく、むしろ自分が将来車いすになるかもしれない可能性を考えれば、自分の利益を代弁してくれただけで何の対立もないはずなのだが、おお神よ。

                 


                「GANDHI」1982年イギリス、インド
                監督:リチャード・アッテンボロー
                出演:ベン・キングズレー、キャンディス・バーゲン、エドワード・フォックス


                【やっつけ映画評】マグニフィセント・セブン

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                   リメイク作品は元作品と比較されるのが避けられないが、元と比べてあれやこれやというのは無粋であるという人もいる。これはこれで楽しめばいい。それも一つの妥当な意見だ。大抵、元作と比べる場合、あれが駄目だこれが弱くなったと文句を並べ立てることに終始しやすいので、そんな不景気な話をするくらいなら、単独で楽しんだ方が建設的ともいえる。ただ本作を見てまず思い出して比べたのは、「荒野の七人」よりも「黒豹のバラード」だった。


                   「荒野の七人」については、ずいぶん前に評を書いた。掲載の日付は2008年だが、実際に書いたのは2003年ぐらいのことだったと思う。評を書き出した最初期の文章だが、特に付け加えることはない。要点だけ示すと、「荒野」はダンディズムを楽しむための映画だということだ。そして本作の場合、「荒野」におけるこのカッコよさだけを、さらにひたすら追求した内容になっているといえる。


                   大枠は同じだ。悪党に苦しめられる非力な村の衆が、凄腕ガンマンを雇い、七人集まった彼らがワルを撃退する。ただし、違う部分の方が多い。最も話題になったのは、リーダー役(ユル・ブリンナー演じるクリスに対応)を黒人のデンゼル・ワシントンが演じるなど、七人の人種民族がバラバラな点であるが、これは後で触れる。


                   物語もかなり異なるが、まず気付くのは悪党の設定だ。金採掘のため、暴力で村人の土地を廉価で買いあさるヤクザ企業。札束パワーで保安官を抱き込んでいるため誰も逆らえない相当のワルである。自由と資本主義をことさらに振りかざす男という設定が、リアリティを感じさせるようでいて、「荒野」のカルベロのように一定の分がある理屈を示すような人物とは全く異なり、ひたすらに悪だ。その容赦ない悪党ぶりを見せられた後で、いかにも凄腕っぽい背中が酒場に現れる。ベタだ。ベッタベタにベタだ。そして同時にシビれる。待ってましたの、いよ!男前!である。

                   

                   この冒頭が象徴するように、本作は全編にわたり、ひたすらに恰好よさを描く内容となっている。こんな男子の妄想のような映画が今時成立していること自体が奇蹟のような気もするが、結果、元作にあった色々な要素は除外され、それが一部の人には非難の的ともなっている。

                   

                   で、「黒豹のバラード」だ。これもかなり以前、評の書き始めのころに触れた作品だ。同じく2008年の日付になっているが、実際に書いたのは2003か4年のころである。読み返してみたが、稚拙で恥ずかしい。井沢に司馬に、引き合いに出している作家の名前も香ばしくて少々ゾッとした。
                   「黒豹」は、ガンマンたちが全員黒人という、既存の西部劇のアンチテーゼを思い切り示したような映画だ。黒人ガンマンという点で今作とちょっとだけカブっているが、金採掘だったか鉄道利権だったか、とにかく土地の収奪が悪役の目的だったのも同じで、何より、ひたすらに恰好よさを描いている点が共通だ。
                   その恰好よさは、「黒豹」の方が上をいっていると俺自身は思う。服装、設定、演出。例えば、主人公のジェシーは、仇である白人至上主義者に黄金の弾丸を撃ち込んでいく。普通の弾よりも苦痛がひどくてのたうち回って死ぬという、ほんまかいなという設定だ。ガンマンの中で俺が最も好きなタイム神父は、やおら懐中時計を取り出して相手に突き付け「ティクタクティクタク」と敵方の寿命をカウントしてから発砲する。その手続きは要るのか、というようなけれん味がシビれる。6人が馬を並べて夕焼けの構造平野を駆け抜けていく雄大なシーンは、おそらく今作も意図して真似ているのではと想像させられる。


                   さてこのような点からガンマンの人種民族がバラバラという今作の特徴を考えてみたい。
                   


                  【やっつけ映画評】ハクソー・リッジ

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                     戦争映画は、特に軍人が主人公の場合、後味が悪いことが多い。いかに正義の名のもとであろうとも、敵を殺す行為の中では自分自身も「不正義の敵と変わりない」と相対化されてしまうから、よしんば敵をやっつけたとしても、ドラゴンや悪魔を倒したときのように喜びや栄光だけに浸れるわけではない。戦争モノの場合の後味の悪さは、そのまま作品の醍醐味ともなる。この点、「敵」と戦う物語ながら、戦争映画は冒険活劇ではない。「地獄の黙示録」は当初の脚本では、ラストは主人公が陽気に機関銃をぶっぱなして終わりだったそうであるが、実際には陰惨なラストになった。同じくベトナム戦争を扱った諸作品の中では代表格となっている「プラトーン」は、「悪」を倒す主人公が、ラストでただただ爽やかな顔をしているので、冒険活劇ではあっても戦争映画としては不満が残る。


                     本作の凄惨な戦闘シーンとよく比較される「プライベート・ライアン」は、冒頭の血まみれに比して後味はそれほど悪くない。未熟者のライアンを救う物語だからだろう。近代以降の戦争は、祖国の防衛もしくは抑圧からの解放を口実に火蓋が切られると相場が決まっているが、少なくとも戦争を始めた側の場合、そんなものは為政者のプロパガンダか非当事者の希望的観測ファンタジーの中にしかない。実際の現場が正義の美名だけで割り切れるものでは全くないことは一目瞭然であるだけに、社会主義や反戦思想の持主でなくとも、「何だこれは」と疑問や矛盾ややり切れなさを感じてしまうものだ。従軍日記や従軍体験を読んだり聞いたりすると、程度や語り口の違いはあれど、そのような懊悩が漏れ出ているのはおおむね共通している。

                     

                     これは戦争を仕掛けられた側も、少なからず同じところがある。どこかの国が攻めてきたら、これは戦うしかない。その国の無法を前に、むざむざやられるわけにはいかない。ただし襲来するのは狂ったヒトラー当人ではなく、為政者に命令されてそれに従った人々である。嫌でも矛盾は感じざるを得ない。ちなみに「プライベート〜」冒頭、オマハビーチのドイツ軍の容赦ない攻撃を可能にしたのは、事前にロンメルが砦を作り、浜辺にあのよくわからない柱を埋めた効果だが、彼自身はナチス党員ではなく、ついでにヒトラー暗殺計画への関与を疑われて自殺に追い込まれた。

                     

                     本作の場合、日本が攻撃した側で、アメリカは攻撃された側になるのだが、戦争も終盤につき、アメリカが日本の領土に上陸し、日本は防戦側だからややこしい。ついでに海上を抑えている分、アメリカが圧倒的に有利なはずだが、日本軍の脅威の粘りに恐怖すら抱いている。フラフラ、ボロボロなのにタオルを投げない矢吹丈に「こいつは何のために戦っているんだ」と恐れおののくホセ・メンドーサのごとくである。

                     

                     実際、戦闘のシーンが始まると、「プライベート〜」のように凄惨なだけでなく、「ブラックホーク・ダウン」のように誰が死んで誰が生き残ったかさっぱりわからない忙しい演出で、ついでに「敵」が同胞であることも手伝って、本当に何のために戦っているのか心底わからない気分になった。

                     

                     こういう不条理な状況をとっくり見せられた中では、主人公の特異さは際立ってくる。
                     本当に変わった人だ。実在の人物デズモンドは、信仰心の篤さに家庭の事情も加わって、志願兵のくせに銃を持たない主義を貫こうとする。衛生兵志望だから、ということだが、衛生兵も武器をとらなければ衛生業務どころではない。当然上官は「は?」と面食らう。銃を持たないのなら志願しなければいい。まるでカレー屋に入店して「カレーライス、カレー抜きで」と注文するようなものだ。「何しに来たんだ?お前」である。

                     

                     この、周囲から迫害されても信仰を貫く当たり、演じている俳優が同じなだけに、嫌でも「沈黙」とカブる。あちらと比べ、デズモンドはさらにひ弱風の青年であるが、宣教師よりもさらに強情っぱりで面白い。

                     

                     それで色々曲折を経てデズモンドは沖縄に上陸するのだが、銃の有無に関わらず、彼自身もやはり「何だこれ?」と多いなる矛盾の前に絶望し、茫然としてしまう。それでもデズモンドは衛生兵としての本分を果たそうとする。それも過剰に。「祖国を守るのに銃なしでどうやってやるのだ?」という至極まっとうな爛螢▲螢坤爿瓩料阿任蓮∪鐐茲忙臆辰靴燭い銃はとらないデズモンドは、ただの能天気な勘違い若人にしか見えない。しかし、実はそうではないという強烈なアンチテーゼがまぶしい。

                     

                     この風変りな実話を可能にしたのは、デズモンドの態度を完全否定しなかった上官たちの姿勢だ。デズモンドの言い分を一応聞こうとしている時点で、結構な驚きだった。命令違反で軍事法廷にかけられるから、それなり相当の波紋を広げる行為であり、反発している人間も少なからずいるものの、いざ従軍することが決まると、上官はきちんと決定通りの扱いをして、特に排除することもない。この多様なあり方を受容する米軍の態度。そりゃ日本は負けるわ、と思ってしまう。結局この変人を認めたことが功を奏するわけだし。まるで孟嘗君の昔話のようだ。

                     

                     しかし、銃を持たないのが信条だという人間を、組織に加えることは可能なのだろうかと自分に問うてみた。演劇だったらどうだろう。舞台をよいものにするには、全員一致協力しなければならない。その現場でデズモンドのような変人の存在を受け入れることは可能だろうか。
                     つらつら考えて、遅まきながら気が付いた。彼は主張がヘンテコなだけで、衛生兵としての務めは過剰なくらい果たしている。上官でさえまねのできない勇気を発揮している。発露の仕方がおかしなだけで、使命感はとても大きい。こんなわかりきったことに時間差でようやく気付いたのも、俺自身がやる気の発露に異性体があることと、やる気がないことを混同していたからだろう。日本の社会が陥りがちな狭量さに己もしっかり染まっていたというわけだ。あんたと同じ表情はしないが勇気があるのはあんたと同じ。この重要で基本的なことを忘れないようにしなければ。

                     

                     

                    「HACKSAW RIDGE」2016年アメリカ=オーストラリア
                    監督:メル・ギブソン
                    出演:アンドリュー・ガーフィールド、サム・ワーシントン、テリーサ・パーマー


                    【やっつけ映画評】LIFE!

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                       雄大な自然が連続する映像に、おとぎ話めいた軽快な物語が楽しい作品だ。行方不明のネガの所在について「そこに入っているというのはやめてくれ」と願っていたのに、やっぱりソコにあったのがガッカリだった点を除けばよい作品だった。それ以上の何か感想を言おうとすると、「タダ者ではない男」を演じたときのショーン・ペンの「タダ者でなさ」が尋常ではない、くらいしか思いつかないが、作品の舞台設定が写真誌「LIFE」の出版社なので、「写真」について少々考えた。ショーン・ペン演じる写真家のショーンが、せっかく現れたユキヒョウを撮らなかったのはなぜか、という話だ。


                       目的のものにいざお目にかかったときに、シャッターを切らないというのは、話としてはわかりやすく美しい。雄大な景色のような何か美しいものが目の前にあったとき、それを目に焼き付けることに比して、写真を撮る行為は下位に置かれがちだからだ。一方で、是非はともかく、素人臭い発想だとも思う。カメラマンにすれば、シャッターを切ることは、見ることと同等に尊い行為のはずである。何しろそれが生業だ。「俺にとって好きな瞬間ならカメラに邪魔されたくない。大切な瞬間を楽しむ」。台詞としてはカッコいいが、あんた何屋だよという言い草でもある。


                       写真撮影という行為は、しばしば嫌われる。一つはその記録性から、撮られること自体に不都合がある場合だ。秘匿性の高い場所(軍事施設など)、プライバシーの問題がある場所(裁判所など)、もっと卑近な例では後ろめたい事情があるケース(不倫カップルなど)もこれに含まれる。
                       もう一つは野次馬性で、撮ってる行為がまるで楽しんでいるように見えるから、場合によっては喧嘩になる。知った人間で、水害現場で撮影していたら、目の前で沈没している車の持ち主が食って掛かってきてカメラを壊されそうになったのがいる。
                       三番目は、これがここでの主題なのだが、美術館や博物館のケースだ。日本の場合、この手の施設は撮影禁止が相場だが、理由は何か。

                       

                       権利関係がまずある。何百年も前に作者が死んで著作権が消滅していても、所有権の問題がある。ただしこの場合は、展示している側に裁量権がある場合もあるから、最近では写真撮影可の施設もたまにある。スマホで撮影→SNSにアップ、が定番の昨今にあっては、効果的な宣伝が期待できる。いかにも初心者臭い鑑賞姿勢だが、そういう人にこそ広く訪れてほしいというなら敷居を下げる(誤用)という点で余計に効果的といえよう。
                       もちろんこんなのは少数派だ。では権利関係以外にどのような問題があるかといえば、大抵は「他の人に迷惑」がある。フラッシュ撮影はともかく、しかし実際「迷惑」はどれほどのものだろうか。スマホだと音が鳴るので迷惑といえなくもない。一眼レフの類なら「シャラ」というだけなので大した音はしない。まあ神経質な人なら気にするだろうが。三脚を使わなければことさら場所を占拠するというわけでもなし、あとは場所取りでもめるくらいだろうか。全員撮りだすと、メディアスクラムの報道陣のように、場所取りで小競り合いが起きそうな気はする。仮に見ているうちの数人が撮っているだけなら、物理的な「迷惑」はそれほどでもなさそうだ。

                       

                       それで一度、飲み会のときに出席者の1人だった学芸員の男と議論になり、結局彼が口にしたのは「個人的にはじっくり見てほしいというのがある」から撮影には否定的とのことだった。これもしかし、ファインダーを覗いている方がじっくり見ているといえなくもない。いざ撮ろうとすれば、それこそじっくり見ないとちゃんと撮れないからだ。しかし彼のように、見ることと撮ることは別の行為だというのが大方の受け止め方だろう。

                       

                       写真は作品の中に、作家がいたりいなかったりする。
                       例えばスポーツ選手の一瞬の表情を捕らえたような写真には、撮影者は「撮影した人」としてしか存在しない。選手の側は、撮っている人間がいることはわかっているし、一挙手一投足にシャッターが切られているくらいの推測はしているが、撮られた瞬間に実際に「撮られている」という実感はない。なにせカメラマンは巨大な望遠レンズで遠くから狙っている。
                       一方で、被写体が明らかに撮影者を意識している場合もある。どこぞの村の少年少女を撮ったような写真で、子供がレンズに照れて笑っているような場合、画面の中に撮影者も存在していることになる。

                       

                       これと似ているのは小説だろうか。作中に作者自身が作者として登場することは、たまにある。太宰治とか司馬遼太郎とか。ズッコケ三人組シリーズもそうだった。ただし、特に現代の作品では稀にしかお目にかからない書き方だ。一度憧れてそういう文体で応募作を書いたことがあるが、人から「スベってる」と指摘され普通の地の文に戻した。
                       映画は写真の連続で出来た動画だが、フィクションの場合は撮影者はそこにいないテイで作られるのが一般的だ。たまにカメラに向かってモノローグの類を語り出す演出があるが、この場合は撮影者に言っているというより、観客に向かって喋っている。ドキュメンタリーの場合は、写真と同じで撮影者はいたりいなかったりする。テレビのドキュメンタリーでは、作り手側は極力「登場」しないような手法で制作されるが、マイケル・ムーアのように自らが主演男優のように登場する方法もある。

                       

                       これが「見る」と「撮る」の違い、本作でいえば、ユキヒョウを撮らなかった理由に関わっていそうだ。
                       ユキヒョウの撮影は、スポーツ選手と同じで、遠くから撮影する。さらにスポーツ選手と違って、野生動物はこちらの存在がバレたら撮影にならないから、撮影者は極力存在を消さなければならない。結果、作品に撮影者自身は「いない」ということになる。撮れば自分は「消える」。しかし撮らなければ、自分はたしかにそこにいて、希少な動物と時空を共有している。ショーンがせっかく遭遇した希少なユキヒョウを「撮らない」と決めたとき、今がその大事な瞬間だと実に楽しそうな顔をしたのは、そのような事情かと推察できる。


                       同様に展示作品を撮影するのは、そこに当人が存在しなくなるからこそ「じっくり見る」をしていないという理屈になる。ただし、展示品はユキヒョウと違ってこちらの存在を知られると逃げられるというようなことはない。村の子供が撮影者に向かって照れている写真のように、撮影者が被写体に語り掛けながらシャッターを切れば、写真の中に自分も存在することになる。というわけで、被写体(作品)にしっかり語り掛けながら撮ると、「見る(=そこにいる)」と「撮る」は交差してくる。ま、屁理屈だが。

                       

                      「THE SECRET LIFE OF WALTER MITTY」2013年アメリカ
                      監督:ベン・スティラー
                      出演:ベン・スティラー、ショーン・ペン、クリステン・ウィグ



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