【やっつけ映画評】共犯者たち

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     「共犯者たち」。確かにそんな内容なんだけど、ちょっと格好良過ぎやしないすかね。虎の意を受けて威を借るスネ夫たちがこれでもかと登場しては、総じて取材から逃げ回る様子が延々と繰り返される杉田某大会状態。こんな連中に「共犯者」なんて、ちょっと格好よさげな表現は勿体ない。「逃げ回る恥知らずたち」くらいがちょうどじゃないかしら。

     

     李明博〜朴槿恵政権がマスコミ対策に躍起になった事実は、彼女が失脚した後、日本でも知られる話となった。政権に批判的と目される芸能人のリストが作られ、レギュラー番組を失った芸人がいたり、「1987」もそんな状況下で神経尖らせながら制作されたと聞く。
     本丸は当然報道部門で、主要放送局では閣僚の不正を暴いたり政策の問題点を追及するような部門の閉鎖、番組の打切り、政権を批判したキャスターの降板等々が相次ぐことになる。NHKに限られる日本と異なり、いずれのテレビ局も、公益法人や公社が株主だったりで公共放送の性格を持つ分、政治が介入しやすい仕組みになっていることが背景としては大きいようだ。極端な例では李明博の側近だった人が社長に就任しているケースも紹介されているから「芸能人リスト」よりも介入の仕方が結構あからさま。いわゆる「息のかかった人」を経営陣なり株主の公益法人の理事に送り込むことで、矜持のある社員を制作部門、報道部門から追い出し、骨抜きにしていく。

     

     だけど本当に原因はトップの人事だけなのかしらと疑問には思った。
     本作で示される風景は、日本でも既視感がたっぷりだ。経営陣に息のかかった人間を送り込むことで、組織は政権の不正を追及する記者を追い出し、政権に批判的なニュースはひたすらネグって天気等のあたりさわりのなさそうな話題にことさらに時間を費やす。全部NHKで見たよ。こうなっている最大の理由は、官邸周辺からの圧力があり、その空気を先回りしてくみ取って、命じられていないことまでせっせと精を出すそれこそ忖度茶坊主幹部がいるからであるが、「一部の不心得者が大多数の良識ある職員の口を封じている」というわけでは決してない。現場にも現状を肯定している人が少なからずいるからこその実態のはずだ(職員個人の政治信条が問題なのではない。与党支持だろうと野党支持だろうと、ニュースをネグるのは別次元のことだ)。

     

     理由はいくつか考えられて、一つは田崎のスシローさんみたいに、政局情報のキャッチと禅問答の解読しかやったことがないので政権の振舞いが常軌を逸してきても同じ姿勢しかとれないケース。いわゆる正常化バイアスのようなものが働いて、異常事態なのに従来通用していた枠内でしか物事を把握できないので結果、思考回路が御用記者風味になってしまう。ただ、韓国の場合は弾圧と民主化の歴史が激しかった歴史を持つ分、この手の人は少ないかもしれない。

     

     もう一つは「ペンタゴン・ペーパーズ」でも描かれていたが、権力者にくっついているうちに同化してしまったり信仰のような感情を抱いたりしてしまうケース。ブラッドリーのような優秀な記者でも、ケネディという人気者の政治家にくっついていると色んなものを見らんふりしてしまうのだから、いくらでもこうなることは考えられる。そりゃまあケネディみたいな人気者ならわからんでもないが、李明博や朴槿恵ってそんなカリスマ性あったっけ?という疑問もつきまとうが、強引なやり方を好む政治家と記者は、通底する部分がありがちだと思う。朝の話を昼のニュースに、という高速自転車操業を日々繰り返す仕事な上、ある程度物事に白黒つけないと商品にならないから、必然せっかちで強引になる。そうすると法令に四角四面かつ何事も慎重な公務員が無能に見えてきて、彼らをこき下ろす政治家がとても有能で正しく見えてくる。そこにシンプルな正義感が加わると、いっちょあがりである。こちらは韓国にもいくらでもいそうな気はするけど、どうなんだろう。

     

     映画の中に、そういう人も一部出てきはするが、背景的にちらっと映っているだけでインタビュー等の積極的な形では登場しない。このため上部構造×下部構造の対立のような図式しか示されないが、果たしてそれが正確な姿なんだろうか? ま、長々書いた割には、こちらは脇の話の、ただのふとした疑問。

     

     政権側からの介入によって現場が変質していく様子を見ていると、報道のあるべき姿を改めて考えさせられてしまう。こちらが本題。
     


    映画の感想:シン・ゴジラ

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       テレビでやっていた話題作をようやく見た。なかなか面白く見たけど、ネットの書き込みを見ると酷評してる意見もかなりあって、へえ〜とこちらも興味を持った。怪獣映画の定石をなぞってないことから来る不満だろうか。ランボーみたいなものかね。2,3を見て派手な爆発を期待して1を見たら全然違う妙に重いドラマだった、みたいな。あんまり詳しいジャンルではないのでよくわからん。

       1作目をある程度トレースしている内容だと思う。天災と人災が混じったような形でわけのわからん巨大生物が首都をぶっ壊して、政府が右往左往する中で一般庶民が割を食う。そして、見てるこっちはろくに理解できない化学(薬学)によって解決に導く。大枠は大体一緒で、何やら社会的なメッセージが込められてそうなところも同様。災害をドキュメンタリー的に描くあたりも共通で、人間ドラマ的な部分はちっともない。日本映画でよくやらかしがちな「今そんなことしてる場合ちゃうやろ」という登場人物同士のじゃれ合いや、メロドラマがなかったのは個人的には大変によかった。
       
       問題は「ほんとっぽさ」という説得力になる。「君の名は。」でも書いたが、東日本大震災のせいで、こういう巨大な災厄はいくらでもあり得るという感覚が身についてしまったため、巨大生物が暴れまわるという事態も、そんなに夢物語には感じなくなっている。制作者自体もああいうにわかに信じがたい事態が推移していく様子をリアルタイムで見ているから、本当っぽく作る方法論は2011年以前の業界よりは断然出来上がってしまっているとはいえそうだ。

       だとすると、テレビニュースの雰囲気なんかはかなりほんとっぽさがあったが、一庶民の「もうだめだ」という絶望的な恐怖(震度5以上の地震になると「あ、これ死ぬかも」という諦めと恐怖みたいなの感じますやん。ああいうの)は希薄だった。震災という現実があっただけに、デリケートで描きにくいようには思うが、思い切り政府側からの視点で描いている分、国民の描き方が薄いとなまじ社会的メッセージを漂わせている分、どうしても気持ち悪いことにはなるよね。といっても一般庶民A男とB子のサイドストーリーは要らないので、なかなか難しいところではあるだろうが。

       首相以下、政府の対応が話の中心なので、こういうのはテキトーに誤魔化すと途端に安っぽく嘘っぽくなるので大変だ。本作の場合はかなりホントっぽく作っていると思うが、今の政権のお陰で、こういうのはホントっぽく作ると嘘くさくなるジレンマに陥っている。

       「上陸することはあり得ない」と記者会見で断言してすぐ上陸して歩き出す場面なんか、実際だったら「あり得ない」には「あり得る」の意味も含まれるとかなんとか国語閣議決定がなされるのだろうかとか、「私がいつそんなこと言いましたか」とメメント記憶喪失状態になるのだろうかとか、余計なことを妄想してしまう。本作に限らず「半島を出よ」なんかも今から見るととても牧歌的に見えてしまうくらい、シミュレーション型のフィクションは現在、作るのが大変に難しくなっている。由々しき事態だ。政治はせめてホントっぽくやってくれよと切に願う。

       解決策の科学的な部分も、意味はようわからんが、なんやらホントっぽい具合に進行していく点よかったと思うが、そういう中にあって嫌でも悪目立ちするのが石原さとみが演じる米国高官の役だった。他がある程度ちゃんと作られているので、これはいったいどういうことなのだろうと著しく困惑させられた。なんだこの小劇場でよく見る風の安いキャラは?ってことです。

       あれこれとリアリティを担保するための材料をそろえ、吟味するセンスを持っていても、日系外国人、あるいはある種の女性に対してだけ突出した現状認識のゆがみがあるということなんすかね。ないしはバイリンガルへの強烈な怨念。あるいは俺が他の要素を買い被りすぎ? それとも、何かの意図を持ったあえての演出なんだろうか。

       だとすると何だろう。「こんな日米間を取り持ってくれる米政府の人間なんて実際はいませんよ」ということを、あえてのチープなキャラ設定に込めたのだろうか。それだと何となく腑に落ちる。そう考えると、主人公も、主人公というだけでなんとなく受容してしまっていたが、冷静に考えるとあんなやついねえだろ、という気はしてくる。官僚かと思って見てたら政治家だったし。ああいう風味のペテン師ならいるだろうけど(進次郎とか)。だとすれば、これもまた「こんな都合のいいリーダーいませんよ」というメッセージなのかもしれない。なるほど、スパイスがきいていていい映画じゃないか。

      2016年日本
      監督:樋口真嗣
      出演:長谷川博己、竹野内豊、石原さとみ

      【やっつけ映画評】あん

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         名優の死によって、にわかに必見の作品に見えてきた。
         そういうわけで自宅で鑑賞したのだが、見始めてすぐどら焼きが食いたくてたまらなくなってしまった。食い物を扱う映画は珍しくないが旨そうに見えるのは思いのほか少ないものである。この時点で「とてもよい作品だ」と結論づけてよさそうな気がする。

         

         いずれにせよ、とりあえずどら焼きだ。スーパーに駆け込み、隣で見切り品になっていた黒糖饅頭(半額シール添え)も付け足して、あんこだらけの兵站を整え準備万端、仕切り直して再生した。そしたら今度は、仕事終わりの主人公が、渋い雰囲気のそば屋で天ざるを食い始めて「マジか」と完全に置いて行かれた気分になった。こちらも口の中が甘くなっているところへきて、「天ざる」とは。

         この調子で、甘い―しょっぱいの無限ループが繰り返される恐怖の映画か、何度スーパーを往復せなばならないのかと思ったが、この後登場したのは、ぜんざい―昆布のひとくだりで済んだので助かった。

         

         無口な菓子屋と不思議な雰囲気の婆様の短い付き合いを描いた静かな作品だ。もう一人、高校生にしかみえない女子中学生が絡んでくるが、居場所のなさという喪失を抱えているところがどら焼き店主と一致している。一方、婆様は似ているようでいてまったく異なるというのがポイントだろう。

         

         一見すると奇人変人にも思える婆様を、店主が一気に敬愛するようになるきっかけが「美味いあんこ」なのだが、冷静に振り返るとまるで「美味しんぼ」のような安易な展開だと思う。だが、まったくそう映らなかったのが、あんこという素材の説得力かもしれない。

         二十年ほど前、エアロスミスが新譜のツアーで来日した際、「ニュースステーション」に出演し、久米宏が「日本の食べ物で気に入ったものはあるか」と質問した。くっだらねえ質問するなあと思ってみていたら、メンバーが口々に「アズゥキィ」「azuki」と答えて、質問した当人も俺も面食らっていた。まさかの回答。ボーカルが「甘く似た茶色いビーンズがlegendaryにcoolだねyeah」(記憶想像訳。この人は歌うように喋り、時にホントに歌い出す)と説明を付け加えた。「王者」が枕詞につくロックスターをもうならせる力があんこにはあるのかと、結果的に面白い質問になったのだった。

         

         さて本作はハンセン病を扱っている。個人的に多少なりともかかわりがあった題材なので、心中色々とざわつきながら見た。本作で印象的に登場する「手」も、あれと同じような手をいくつも見たことがある。おかげで、監督の意図とは別の、何でもないカットで不意に涙に襲われた。本作を「面白かった」と言っていた知人に、どこそこの場面で泣いたと言ったら「そんなシーンありましたっけ??」との反応だったから、それくらい頓珍漢な落涙だったわけだが、年を取ると涙もろくなるというのは、つまりところ経験の積み重なりということなんでしょうな。ある意味困ったことだ。

         

         ほとんど忘れ去れた感すらある病気だけに、「あの人らいなんでしょ」と差別してくる大家の振舞いはちょっと苦しく感じたのだが、「私も本当はこんなこと言いたくないんだけど、でもね」と差別を正当化してくるロジックだとか、社会的な力関係によってそれを黙認せざるを得ない苦しさだとかはリアルで、店主の静かな悔し涙は迫るものがあった。この俳優、演技巧いんだな(今更)。そして差別に対して悟りの境地に達しているかのごとく対処する元患者の様子も、これまたいつか見た景色で、ここら辺の話は「ふたたび」のところで書いた。

         

         店主が差別を止められないのは、自分の人生がどん詰まりなせいだ。そして、どら焼き屋に居場所を求める女子中学生は、家庭がどん詰まりの様子である。二人とも落ち着く先がない喪失感に苛まれているわけだが、一方であんこ名人の徳江さんは、「居場所だけはある」という対比になっている。

         病気で隔離された経緯により、生活保障は国が面倒をみることになっており、療養所に居残る限りは路頭に迷うことはない。ただし彼女の10代、20代、30代、40代、50代はここから一歩たりとも出ることは許されなかった。だから預かった小鳥もすぐ逃がしてしまう。言わずもがな、この美味いあんこは、居場所だけは保障されている長い長い時間の中で生まれた名人芸である。その知られざる天才が世に出、人に伝わったというのは、何かを作るという行為の先にある幸せとしてこれ以上のものはない。

         

         非常に困難とはいえ、論理的には自由にどこでも行ける2人とは、徳江の立場は天地ほど違うのである。本作で描かれているのはそのような残酷な対比で、まったく異なる1人と2人が心とあんこを通わせるから、実に尊い軌跡となるのだ。それがわかったからこそ、ラストで無口な店主は似合わない大声を出して客を呼ぶのだろう。

         

        2015年日本
        監督:河鹹照
        出演:樹木希林、永瀬正敏、内田伽羅


        映画の感想:華氏119

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           本作の監督は、「アポなし突撃取材」が枕詞につくことが多く、実際、監督自身が映画の主人公となってどう立ち回るのかが展開を生んでいる作品もある。ただ、本作の前作に相当する「華氏911」は、必ずしもそうではなく、そして本作も突撃していくシーンはそれほどない。どちらかというと編集のうまさで見せる映画になっているように思う。

           政治なり政府なりが相手だと、さすがの監督も体当たりできる相手や場がそんなにないということだろうか。州知事の家に水を撒くシーンが象徴的で、笑えるシーンながら、同時に無力感も押し寄せてくる。突撃取材が炙り出せることが少ない。だからこそ余計にか、見ていて絶望的な気分が支配的になってしまい、どうしてわざわざお金を払ってこんな辛気臭いものを見に来ているのだろうと八つ当たりのようなことまで考えてしまった。


           編集の妙の点で1つメモしておくと、ヒトラーとの類似性を指摘するくだりは巧いと思った。
           前にも書いたと思うが、独裁的なスタンスの元首に対してヒトラーを持ち出して批判するのは、説得力を持ちにくい(「戦前回帰だ!」の批判に似ている)。安直に見えるからで、なぜ安直に見えるかといえば、「独裁」⇒「ヒトラー」と、類似のさせ方が大雑把に映るからだ。ついでに当人の特徴的な外見や喋り方、あるいは狂気の突出ぶりのせいで、極めて稀なケースの為政者にも思えてしまうことも影響しているように思う。あんな悪魔みたいなのはそうそう出ないだろ、と例外のように見えてしまっている人も多いのではなかろうか。


           しかし、民主制下の選挙で地位を獲得していった点や、当時の社会が今とそう変わらず、汽車や自動車、マスメディアや通信網がとっくにあった点を考えると、似たようなのが出てくる可能性は織田信長やナポレオンよりは遥かに高い。

           そして実際に登場した場合、当人はおそらくちょび髭でもタラちゃん頭髪でもなく、なんなら女性かもしれないから、わかりやすく似ていることなどありはしない。「支持を集める手法や世論の受け止め方が似ている」というような、共通点はしっかり比較考察しないと見えにくいに違いない(そしてヒトラーとの類似性を言う人は、ちゃんと細かい点を比べた上で指摘していることが多い)。

           こういった個々の類似点の考察を、学者のインタビューのつなぎ合わせのような文字レベルにとどめず、映像編集で見せている点は映画屋の面目躍如だと思った。

           

           余談のつもりが長くなってしまった。さて本作の本題は、トランプ批判というよりは「民主主義のあり方とは何ぞや」といった点にある。トランプかヒラリーかという2択に意味を見出せなかったいわゆる無党派が一番の多数派を占める中で誕生したトランプ大統領は、投票しなかった人々のうちの少なくない層に不利益やら不愉快やらを提供している。嫌な言い方をすれば、投票をサボった結果である。


           だったら次は自ら立候補しよう、次はちゃんと投票しよう、と中間選挙に向けて有権者が慌ただしく動き出すのが映画の終盤で、辛気臭い気分も少しは晴れてくる展開だ。結果はついこの前出て、映画に登場している新人候補の中には日本の報道でも当選が報じられた人もいる。つまりは「不断の努力」というやつだろうが、日本の場合は立候補するにも課題山積で、そちらの話は「黙殺」に譲る。


           「どうせ誰がやったところで変わりやしない」という投票に行かない理由の最たるものは、本当に「変わりない」ときだけギリギリ正当性を持つ。「変わりがある」ときに無投票を選んでも、その変化をとどめる効果はまったくない。そして「変化」はよい方向だけとは限らない。ある層にとって「よい」ことは、別の層には「悪い」ことになることがしばしばだから、「どうせ」と知らぬ顔をしているうちにひどい状況になっている可能性はいくらでもある。無論、同時に高笑いしている人もいる勘定になるが、候補者は投票しない人を配慮する必要がないので、無関心を決め込んでいるうちにとても過ごしやすい社会になっている可能性は極めて低い。


           その一つの例として本作でかなりの尺を割いて取り上げているのがミシガン州の水道の問題で、この話題だけで作った方がいいんじゃないのか?と思うくらい酷い話である。汚染水で病気になった住民が抗議しても柳に風なのが、汚染水で製造ラインに支障が出たGMの抗議はすぐ対応するのがとてもわかりやすく象徴的なシーンとなっている。

           

           話は逸れるが、水ビジネスは水が命に直結するものだからか、この件以外でも節度のない強欲ぶりが顕著に可視化されている。こんなものは10年前から指摘されていたはずだが、要するに南米で焼き畑が終わってしまったから自国を食い物にしたということだろうか。そうしてまた随分な時間差で日本に上陸してきている。外来種の流入には極めて神経質なくせに、こういうときには発揮されない。

           

           というわけで、サボったり諦めたりしても仕方ないですよ、というのが本作のメッセージなのだが、そこに「政党」を絡めて問いを発しているからもうちょっとだけ複雑な話にはなる。ただ、アメリカの場合は政党と議員の関係が、日本に比べてはるかに緩いのでまだ柔軟さが期待できる分マシともいえそうなのだが。
           この監督は、いつもナレーションで観客に呼びかけてくるのだが、今作はいつもに増して悲痛にも聞こえる言葉の選び方をしていたのが、やけに印象に残った。

           

          「FAHRENHEIT 11/9」2018年アメリカ
          監督:マイケル・ムーア


          【やっつけ映画評】ボヘミアン・ラプソディ

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             冒頭の20世紀フォックスお馴染みのファンファーレからして「おお」とちょっと感動させられる。見終わった後に妙に元気が出てきたところと、50代以上のおっさんが総じて涙していた点、「ロッキー・ザ・ファイナル」を思い出した。第1作の焼き直しでしかない脚本ながら胸を熱くさせられる見事な作品だったが、本作も同様。おそらくこれ、脚本はそう大した出来ではないと思う。


             大河ドラマの総集編のような、要領よくかいつまんだようなまとまり具合で、要領がいいだけにテーマにとって大事な要素は概ね出ているようには思うが、あまねくなでただけに終わっているような印象を受ける(日本ツアーの成功によって本国イギリスでも逆輸入的に人気が出たという日本のファンが後生大事にしている物語は影も形もない)。監督が途中で変わったらしいので、その辺も影響しているのだろう。バンドの結成〜栄光〜失速〜再生と、15年間くらいを2時間にまとめているのでまあそうなるかあと思いつつ、指折り数えたら我らがバンドも似たような年月がたっているのだった。比べるのもどうかと思うが、「時の流れだけは平等だ」という巷間よく言われる言葉は本当だろうかとつい考え込んでしまった。

            「MUSIC LIFE」1976年3月号。リアルタイムで「日本から逆輸入」をアピールしている。誌面を見る限りでは、クイーンを推しているというよりはロジャー・テイラーを追いかけているだけのような印象も。リアルタイムのファンではないくせに、後付けでこういうのを入手する頭でっかち習性があるわけだが、ようやく陽の目を見たような。

             

             それでも本作は惹き込まれるし胸が熱くなる。いうまでもないが曲の力がそうさせる。冒頭のファンファーレが、いかにもクイーン風エレキギターなところしかりであるし、フレディの孤独と音楽性とのつながりが、脚本としては希薄な描かれ方しかしていないように映るが、それらは歌に全部乗っかっているので、曲が流れるとなんとなく納得させられる。本作はつまり、「ラッシュ」「ボルグ/マッケンロー」と同種の作品ということになろう。


             スポーツにおける試合同様、音楽におけるコンサートは広く人々に見てもらうものだけに(下積み時代はさて置き)映像資料がしっかり残っている。そして映画の物語の大枠はどちらもこのハレ舞台がクライマックスになる。このため、映画のクライマックス制作は、本物をいかになぞるかが重要になる。本作の場合、ライブエイドがそれになるが、元の映像はYouTubeでも確認できる。そしてかなり本物に寄せていることがわかる。

             

             サウンド自体は本物を使用しているが、それ以外は作り物だ。このためやっていることは、はるな愛が以前やっていた松浦亜弥のモノマネと本質的には大差ない。あれとの違いは再現性が超高度な点だ。ステージは、ピアノの上に載っている飲料のカップまで再現しているし、俳優陣は当人にかなりそっくりに仕上げている(個人的にはボブ・ゲルドフが変に似ていて笑った。本作で唯一登場する「クイーン以外の有名ミュージシャン」だけど、ただの電通の人のように登場している)。

             

             本物を再現して何が面白いのかといえば、見ている側が当時を演者側の視点から疑似体験できる点だ。「ラッシュ」あるいは、「ブラックホーク・ダウン」でも似たようなことを書いた。実際の現場とは違って好きにカメラを構えられるように、犖充足瓩鮃イに切り取れる。加えて舞台裏の物語によって人物の内面を知っているから、どういう心持で演奏しているのかが窺い知れる。はるな愛は笑いのために誇張していたが、本作の場合は、バンドの魅力なり歌の力なりを伝えるために一種の誇張をしていたといえる。

             

             俺の場合はリアルタイムでもコアなファンでもなく、19のころ、友人のちょびのアパートで無理やり聞かされたのが最初だった。「『ママ〜』だけ聞いてくれたらいいから」と懇願調に言われ、この世界遺産のような曲と初めて出会った。前奏的合唱が終わり、メインボーカルが「ママ〜」から歌い始めるから、もうちょっと聞かせろよとまんまとちょび君の術中にはまり、「ガリレオ、ガリレオ」って何だろうと考え込んでいた。そのころフレディはとうに死去していたから、当然ライブエイドの映像も、後になってたまたまYouTubeで「へー、やっぱうまいなあ」と見ただけだった。そういう立場からすると、映画によって当該ライブパフォーマンスの価値なり意義なりがようやく理解できるという感動がある。

             

             コアなファンの場合はどうなのだろう。探偵ナイトスクープでたまにある「死んだ父に会いたい」の類の依頼(死んだ家族のそっくりさんと対面する内容)と同じような心境なのだろうか。言ってしまえばただの他人だが、似ているというのは霊力とでもいうような力があるようで、どのケースでも依頼者は号泣して悩みやら言えなかった謝意やらをぶつけている。
            なので面白く感じるかどうかはクイーンのファンの度合いに思い切り比例しそうな作品で、よく知らない人が見た場合、おそらく俺が「ボルグ/マッケンロー」を見たときのような感覚になるのではと想像する。あの作品に比べると、より散漫な内容に映るかもしれないが。まあでも「歌はすごかったなあ」と思う人は多いだろうから、制作側、もっといえば生き残りメンバーにとってはそれで満たされるような気も、と想像するとちょっとつらい。

             

            蛇足:アルバムを売りまくり、チャリティで100万ポンドかき集め、死後には財団まで出来てしまうのだから、おそろしく「生産性」のあるゲイの人だ、と例の落書き言説のおかげで余計なことを考えた。無論それはフレディ一人の力でないことはこの映画で描かれているのだが、だから余計に排除してどうするんだということである。まあ、あれらの人は、自分の好きな人がゲイだったり出自が外国籍だったりしても、それとはパラレルにテンプレのアレな言説を垂れるものだが。要するに自分の頭では何一つ考えとらんのよね。
            つまらん話に逸れたので、蛇足2:フレディが他のメンバーと喧嘩になって「僕がいなければお前は歯医者になって週末にブルースを演奏していた程度だ」などとなじるも、ジョン・ディーコンには「君は・・・、思いつかない」で終わったところに吹き出した。

             

            「BOHEMIAN RHAPSODY」2018年アメリカ
            監督:ブライアン・シンガー
            出演:ラミ・マレック、ジョセフ・マッゼロ、ベン・ハーディ 

             

            可哀想なので、ミュージシャン・ボブ・ゲルドフの雄姿を。「バンド結成の日に遅刻したから誰もやりたがらないボーカルを割り当てられた」と、いかにも後付け臭いエピソードをちゃっかり用意してしまうあたり、電通屋としての才覚が現れてしまっていると思う。

             

            やはり本家も添えておこうか。比類なき歌唱力のおそろしさはは言うまでもなく、ピアノマンとパフォーマーを忙しく行ったり来たりする自由自在さも注目。この曲はハチロクのドラムと、あとなにげにベースのフレーズが心地よい。


            映画の感想:三度目の殺人

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               テレビでやっていたのを録画しながら見始めたら、結局最後まで見てしまった。


               法廷モノの類になろうが、監督名からしていわゆる法廷ミステリではないことは概ね想像がつく。もつれた糸が綺麗にほどけて「な、なるほど!」だの「お前が犯人だったか!」だの膝を打つような展開は最初から期待していない。そしてやはりそういう具合の内容だった。予想がつくことではあったが、もやもやとした。といっても狄秦雖瓩わからないからもやもやとしたというわけではない。

               

               殺人事件を扱っているのに、真相が今一つハッキリしない。こういう作品には結構ヒステリックな拒否反応があるもので、本作についてネットのレビューを見たら、高評価とゼロ査定に割とはっきりと分かれていた。正解を示さずに終わることは、〆酲,鉾燭靴討い襦↓謎解きが思いつかなかったくせに「別にそこで勝負してへんし」と居直りながら格好つけている、といった反発を覚えるのだろう。その気持ちはわからんでもない。俺も過去に解決のはっきりしない殺人モノを見てフラストレーションがたまったことはある。この´△鵬辰┐董△錣らなかった俺がアホなのか?と不安に苛まれ「あれ?わっかんなかったかなー」と残念がって見せる制作側(←大抵幻聴だが、一度だけ直に耳にしたことがある)が一番わかってないんじゃないかと不安が怒りに変化しもする。どうも殺人を扱う作品は、自ずと定まっている枠組みのようなものがあって、そこから逸脱すると激しく拒絶されるようだ。

               

               だけど、実際の裁判では作法違反のミステリみたいなことはある。ちょっとだけ刑事裁判を傍聴した経験があるが、それでも狄深足瓩良坡里さに直面したことがあるから、世の中全体で見るとどれほど多いことになるのか。

               

               例えば、殺人の被告人2人が別々に審理されていて、互いに全く矛盾する判決が出ていたケースだ。詳しく覚えていないのだが、確か「どちらが主犯か」について、双方の判決で認定された役回りが、パラレルワールドのように異なっていたと記憶している。それぞれの法廷で出された証拠・証言が異なるからということらしいのだが、単に裁判官がこんがらがって勘違いしただけなんでは?と穿ちたくもなる2つの判決だった。

               

               もう一つは、控訴審で違うことを主張し出したケースだ。本作同様、強盗殺人の強盗部分を否認したんだっけか。これもまた記憶が不確かなのだが、とにかく被告人の主張としては自身の性的志向に関わる話なので一審では恥ずかしくて伏せていたが、二審では真実を告白しますと、そんな事情だった。一審の判決によるとこの被告人は、犯行時に若干不可解な行動をとっているのだけど、新たに持ち出してきた性的な部分をあてはめると、推理小説みたいにキレーに各々のピースが結びついて、一審判決とは別のストーリーが見事に成立する。結局、判決では「証拠がないので信用できない」と一蹴されてしまったのだが。

               

               どちらのケースも、背筋が幾分か寒々としたのを覚えている。恐怖を覚えること自体が意外だったのだが、事実がよくわからないものに出くわすのは、結果が殺人という重大事ということもあって、結構怖いものなんだなと理解したものだった。黒澤明「羅生門」(芥川龍之介「藪の中」)と同種の恐怖だろうか。映画、小説と異なり、作り話ではないせいだろうか、余計にゾゾーっとしたものだ。

               

               


              【やっつけ映画評】15時17分、パリ行き

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                 何気なく借りた2本の映画に、偶然にも濃密な関係性があった、という話を書く。
                 1本はすでに述べた「人生はシネマティック!」。もう1本は「15時17分、パリ行き」だ。以下、「シネマティック」、「パリ」と表記する。


                 「シネマティック」はすでに紹介したように、「ダンケルクの撤退を題材とした映画」を作るという筋立てだ。「ダンケルク」でも描かれているように、英軍の撤退には多くの民間の船が協力している。「ダンケルク」では1隻に代表させているが、実際には何百もの船が活躍した。「シネマティック」では、その中の双子の女性が乗り込んだ漁船を題材にしようとする。「なんと!女性が勇敢にも船に乗って兵隊を何人も救ったらしいぞ」と、政府の情報部局が映画化の可能性を感じ、主人公のカトリンを取材に差し向けるのだが、実態は全くの期待外れだと判明する。双子の姉妹が舟を出したまでは事実だが、途中で故障してしまい、ダンケルクには着いていない。噂だけが独り歩きしてしまい、事実のショボさがバレると恥をかくというので、姉妹は新聞取材はすべて断り、身を隠すように暮らしているくらいだ。

                 

                 これを娯楽映画にするには無理があるから、脚本化にあたっては、あくまで事実をもとにしたフィクションということで、話に尾ひれはひれをつける格好でドラマチックに仕立て上げていく。ダンケルクには着くことにするし、そこでイケメンとのロマンスがあったり、仲間が命を落としたりもする。実際にはイケメンも死者もいない。姉妹はまあまあシニアで、見かけも性格も地味だが、若く美人という設定になる。これが思い切り男目線のステレオタイプに基づいていることはすでに書いた。

                 

                 こういう作業は珍しくないどころか、三国志と三国志演義の関係に代表されるように、事実(歴史)を題材としてフィクション作るときの常套手段とすらいえる。華々しい盛り上がりを付け加えるだけではなく、繁雑な部分を省略することもある。どちらも目的はわかりやすく&「おもしろく」するところにあるだろう。

                 

                 「おもしろく」と「」をつけて表記したのは、おもしろくする脚色の価値観が時代とともに変わっていくからだ。個人的な印象の話に過ぎないが、飾り立てるよりはなるべく事実に即して描くのを重視する、というように実話の扱い方は変わっていったように思う。「シネマティック」の中で、主人公の先輩脚本家たるバックリーは、「おもしろい脚本の定石」を得意気に説諭するが、そこで語られる脚色は、今となっては実に陳腐に聞こえる。一方で「ダンケルクまで行けなかった」というのはそれはそれでむしろ面白いんじゃないか?と思ってしまうのだが、これとて要は、「事実に近い方が面白い」と捉える現代の価値観に俺もしっかり染まっているからだ。

                 

                 この「事実になるたけ沿う」と鼻につくくらい押しつけがましくやっているのがキャスリン・ビグローだと思う。「デトロイト」の項でも書いたが、この監督は、ドキュメンタリー風味の映像で、救いのはない実話を救いのないまま描き、時にエンドマークをつけることすら拒む。むしろドキュメンタリーの方がまとまりをつけようとする分、ちゃんと終わりがあるもので、その点ドキュメンタリーよりも剥き出しの生身の雰囲気が漂うのだが、なんだか過剰にすら映ってしまう。まあ、題材が毎回目を背けたくなるような現実を扱うだからだろうとは思う。

                 

                 で、「パリ」だ。

                 この作品は、パリ行きの列車内で実際に起こったテロ事件を扱っている。閉鎖状況の中で、テロリストとどう対峙するのか、「エグゼクティブ・デシジョン」や「ダイハード」のヒーロー無し版のようなものを想像していたら全然違った。予備知識なしで見たのでびっくらこいた。イーストウッド監督は、ソツなくうまく作る人、くらいに思っていたが、誤解だったようだ。すごい映画だこれは。

                 

                 


                【やっつけ映画評】人生はシネマティック!

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                   第二次世界大戦中のイギリスで戦意高揚のプロパガンダのため、国策映画の脚本を書く物語だ。

                   

                   脚本をはじめ、文章を書く行為は絵にならないという話は何度か書いた。作業としてはタイプライターを打ち付けているだけなので、マンガのように「描く作業を見ているだけで楽しい」とはならないし、タイプを叩いて紡ぎ出される物語が傑作だったとしても、それをひと目でわからせることはできない。本作の場合は、「作り話を書く」という作業を通じてやり取りされる事柄が、後になって主人公らの実人生と重なってくるという手法でもって、「書くことについて」を巧くテーマとして扱えている。それは言い方を変えればいわゆる「伏線の回収」であり、結果全体としてよく出来た物語となっている。

                   まあそれだけだと「綺麗な脚本の佳作」という評価にとどまろうが(ネットの感想はそういうのが多かった)、本作の場合、書くことについての「制約」がもう一つ大きなテーマとしてある。その点、考えさせられるなかなかの傑作だと思う。

                   

                   主人公を演じるのは、「007慰めの報酬」でボンドに都合よく篭絡されオイルまみれになって殺される何ひとついいことのなかった女優である。「アンコール!!」でいい役をもらえてよかったと安堵していたら、今度は主役だった。
                   彼女が演じるカトリンがなぜ政府機関に雇われ脚本を書くことになったかといえば、男が総じて戦地に行っていて人手不足だからである。国民全体が何らかの形で戦争に協力する「総力戦」となった第一次世界大戦では、字義通り女性も動員された。弾薬製造や補給部隊などで貢献したため、戦後の地位向上の大きな追い風になった。同じく総力戦である第二次世界大戦もその第2ラウンドという側面があるが、本作も男社会における女性の戦いとなっている。この「戦時下」と「女性の進出」という2つの要素が脚本制作に大きく影響する。

                   

                   作るのは戦意高揚プロパガンダ映画だ。制作趣旨からいって、政府からの注文があれこれとつく。「そういうものだ」と割り切って、愚にもつかないような教育素材のようなものを作るならまだしも、曲がりなりにも娯楽作品を作ろうとしているから混乱や反発が生まれる(実際のプロパガンダ映画も、本の紹介文程度でしか知らないが、大抵は一定の娯楽性を意識して作られたようである。そうでないと見てもらえないし)。「エンジンが故障するストーリー展開はわが国の技術力への不安を助長するからダメだ」とか、アメリカの世論を参戦に向かわせるために(この時期まだ米国は参戦していない)「アメリカ人を重用な役で出演させろ」とか、ちょこちょこと横槍が入り、案がボツになったり急な変更を迫られたり、そのてんやわんやで物語は転がっていく。このアメリカ人にタフガイ風味を期待して軍人があてがわれるのだが、演技がド素人で関係者は天を仰ぐ。それだけでなく、戦争中であるため、途中で俳優が出征したりドイツの爆撃で怪我を負ったりで予定していたシーンが物理的に撮影ができなくなったりもする。

                   

                   このような物理的制約はともかく、前者の政治介入は、一般的には自由な創作の敵である。
                   今の日本でも似たようなことはいくらでもある。スポンサーや芸能事務所の意向が話の展開や出演者の決定に影響するなんて話は週刊誌でちらほら見かける。もう少し悲しく生々しい話だと、自治体の助成金で製作費の一部を賄ったため、内容と全く関係なく当該自治体の観光地が作中に登場する羽目になったという話も聞いたことがある。政治介入に比べれば平和だが、構造は同じなので気持ちのいい話ではない。

                   

                   ただし、制約が発想を生むというのも事実だ。特に政治介入の場合は受け止め方が難しいが、そういう側面があることは否定できない。

                   

                   例えば明治の新聞人成島柳北は、隠喩だか暗喩だかを駆使して政府批判の論陣を張り、その仕掛けの痛快さでもって読者をつかんだ。当時は讒謗律や新聞紙条例といった言論取締の法律があり、直接政治批判を論じると逮捕されてしまう。このため法に引っかからないための方便として、メタファーやアナロジーを多用したわけだ(それでも捕まったけど)。これは柳北が、ジャーナリストというよりは風流な文人といった方が近い分厚い教養の持ち主だったから可能だった。逆にもし制約がなく自由に政治批判を出来る状況だったら、そこまで注目を浴びたかどうか。少なくとも彼が書いた凝った論説の出番はない。

                   

                   同様に、文学の世界でも、内容に統制がかかっている状況だからこそ、普段だったら選ばないようなテーマでもって書かれた作品もある。これは「ある」という話を聞いたことがあるだけで具体例は知らない。いかにもありそうだとは思う。いずれにせよ、瓢箪から駒のような話だ。

                   

                   物理的制約も同様に、それがかえって功を奏すことはある。金も権力もない自主映画なんかまさしく「撮れる範囲内でいかにうまくやるか」の世界だから、話題の「カメラを止めるな」のように、稀に潤沢予算では思いつかないようなアイデアで作品が生まれることもある(元ネタは演劇の作品らしいが、演劇も制約だらけの表現形式で、それが逆に発想を生むといえる。蛇足ながらかの映画については、異例のヒットに、低予算映画の可能性を云々する評も見られるが、ちょっとナイーブじゃないかしらと思った。自主映画なんか金がないからみんなアイデア勝負をしている。ほとんどが不発に終わるだけで。いわばもの凄い奇蹟みたいなものだから、当該作品がいかに素晴らしくても「可能性」を論じてもあまり意味はないと思う。金ないからしゃあなくやってるだけ)

                   

                   政治介入でいえば本作の場合、「エンジンの故障はNG」についてはこれといった効果をもたらしてはいないが、アメリカ人の起用については元はなかったラストシーンが加わり、それがカトリンの人生に大きく作用しているだけに、制約から生まれた瓢箪から駒の要素が大きい。

                   

                   そして「クライマックスの変更」だ。男性陣が出征してしまったため、予定していた展開を撮影することが不可能になる。そこで撮影可能な展開に変更されるのだが、このシーンはかなり印象的だった。多少説明が要る。

                   

                   


                  【やっつけ映画評】1987、ある闘いの真実

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                     歴史上の大きな出来事をフィクションの題材にする場合、どこをどう切り取るかが重要になる。重要というか出発点ないしは作品テーマそのものだが、切り取り方をしっかり考えないと内容も長さも収拾がつかなくなる。

                     最も代表的でシンプルな切り取り例が「主人公を誰にするか」だろう。ここで以前に紹介した作品でいえば、ニクソン時代のアメリカについて、ウォーターゲート事件を取材した記者の立場から描いたのが「大統領の陰謀」で、FBIの側から描いたのが「ザ・シークレットマン」、ウォーターゲート事件に至る前を「陰謀」の記者の上司や社長を主役に描いたのが「ペンタゴン・ペーパーズ」、辞任後のニクソンをテレビ司会者の視点から描いたのが「フロスト×ニクソン」、当人の伝記映画が「ニクソン」といった具合である。


                     欧米の映画だと、この切り取りバリエーションがやたらと多いのがナチスやヒトラーになるだろう。いまだに新作が生まれている。韓国映画でこれに匹敵するのが南北分断や軍政時代だ。本作同様、全斗煥時代の抑圧を扱った作品には「弁護人」「タクシー運転手」があり、「殺人の追憶」も時代設定は同じだ。軍政とはあまり関係のない内容ながら、当時の殺伐とした空気が全体をじんわり支配しており、これもまた軍政時代の切り取り方の1つとみてとれる。

                     

                     本作は、全斗煥時代の韓国を舞台に、聴取中の参考人の不審死を巡って、隠蔽を計る警察と真実を暴こうとする検察官の戦いを描くことで軍政時代をえぐったミステリー、かと思ったら全然違った。


                     タイトル通り、1987年の韓国を描いている。切り取り方でいえば、かなりの大枠大風呂敷だ。誰か1人の生きざまや何か1つのトピックでもって軍政時代を象徴させるというような堅実で手慣れた手法ではない。まるで素人のような欲張りなくくり方を、破綻なくまとめ上げている。その上娯楽性も十二分にあるから恐ろしい傑作だ。実在の人物含め、かなり多くの登場人物が入り乱れる構成だが、このこと自体が韓国社会が身をもって知りえた抵抗の形を示しているのだと思う。

                     


                    【やっつけ映画評】判決、ふたつの希望

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                       予告編を見て面白そうだと思って早速見に行った、予告から抱いた印象とはかなり異なる内容で、予想以上に複雑な作品だった。「ただ、謝罪だけが欲しかった」というキャッチコピーは、片面しかとらえていない。

                       

                       重いテーマを扱っているが、「実話に基づく」ではない。今時重厚な作品の多くは「実話に基づく」だらけにつき、作り話はかくあるべしと見せつけられた点は心地いい。
                       といっても物語は、現実世界のシンドイ問題をしっかりトレースしている。民族や宗教の争いを、個人レベルに落とし込んだらどうなるかという構成は「ノー・マンズ・ランド」と似ているが、深い絶望で終わるあの作品とは異なり、希望が描かれているので助かる。なぜあちらは絶望で、こちらは希望なのか、という点が本作の大きなポイントでもある。

                       

                       法廷モノだ。中盤以降の法廷シーンは、「弁護人」「否定と肯定」とダブって見える緊迫した展開を見せる。民族や差別の問題が絡むから、特に後者と重なるが、ただし法廷モノと聞いて予想するのとはかなり異なる。本作における舞台装置としての裁判所の使い方は、かなりおもしろいと思った。大袈裟にいうと「なるほど、そうきたか」だが、別にトリックストーリーというわけではない。


                       発端は理解に苦しむ喧嘩から始まる。舞台はレバノン。正直、よく知らない国だ。地図で場所は示せるから日本人の平均よりかはよく知っている方になるかもしれない。知った人間に言わせると、料理が相当美味しいらしい。ベイルートで暮らす四十男のトニーが、自宅ベランダの草木に水をやっていたところ、この住宅街の補修工事にやってきたヤーセルとトラブルになる。

                       このいざこざは、互いの態度がちっともついていけなくて面食らう。今時の若手漫才師がよく使うツッコミでいえば「情緒どないなっとんねん」と言いたくなるトニーの態度(薬物中毒者かと思った)に、思春期のガキじゃあるまいしというヤーセルの強情さが加わり、些細なもめごとが大袈裟になる。とにかくヤーセルがトニーに「クソ野郎」と罵声を浴びせたことで、トニーは謝れ!と迫ることになる。

                       

                       予告編の印象や「謝罪が欲しかった」というコピーから、マジョリティのヤーセルの罵倒に、マイノリティのトニーが怒った、という話かと思ったら逆だった。トニーはレバノンではマジョリティ側になるキリスト教徒で、ゴリゴリの極右政党の党員でもある。一方のヤーセルはパレスチナ難民で、トニーが支持する極右から排斥を訴えられている側になる。

                       

                       さて。なかなか謝らないヤーセルにトニーはキレて差別的な言葉を浴びせる。これにカッとなったヤーセルはトニーを殴打して怪我を負わせてしまい、結果告訴されて裁判になる。原題「L'INSULTE」は侮辱という意味で、この互いの罵倒を指しているのだろう。
                       民事と刑事が混じった審理形式のようで、日本のような検察官対弁護士ではなく、当人同士の訴訟で有罪無罪を争うようだ。一審では互いに弁護士をつけず、トニーが敗訴しヤーセルは無罪放免。舞台は控訴審へ移り、ここから話が大きくなっていく。

                       

                       注目したい点は2つだ。1つは、トニーやその支持者(既に述べたようにレバノン社会では多数派側)が「やつらは優遇されている。疎外されているのはこっちだ」という在特会のようなロジックで自己正当化している点だ。以前からそのような主張の極右政党を支持しているが、自身が傷害の被害者となり、加害者は一審で無罪になっているから、「自分たちこそが虐げられている」というロジックに確信を深めることとなっている。この点は後で触れる。
                       もう一つは、法廷モノでありながら、裁判は主役ではない点だ。ヤーセルは一審段階から殴打自体は認めているし有罪でいいと思っている。トニーが求めているのは訴追でも賠償でもなく謝罪だが、裁判の仕組み上謝罪をするしないではなく有罪無罪が争われるのでトニーの要求には直接答えられるものではない。ある意味、落とし前をつけさせるというメンツのために仕方なく裁判という手段を選んでいるように見える。ヤーセルが謝れば、トニーは法廷には訴え出ていない。

                       

                       だが民族対立の構図を象徴しているような裁判だから、控訴審はニュースにもなり、法廷の外では双方の立場に寄った外野同士が沸騰して衝突が勃発する。レバノンは南隣にイスラエルがいるためパレスチナ難民も多いのだが、単に国民×難民という対立図式があるだけなく、歴史的にレバノンはイスラエルと戦争しており、パレスチナ難民を否定することは「憎きイスラエルを利する」と考える層もいる。なので余計にややこしく盛り上がるわけだ。しまいにトニーが党員の極右政党は「うちの主張ではない」とニュース番組で釈明するし、大統領まで出てきて国を潰す気かと2人に説教する。大統領が会社の部長か校長先生くらいのノリで登場するから不条理コメディのようにすら見えるが、コメディではないので不条理な深刻さだけがあることになる。

                       

                       要するに、個人と個人の争いだったはずのことが、民族対民族ないしは党派対党派のような対立に主語が拡大してしまったということだが、考えてみれば差別なり差別発言なりは相手を個人ではなく「ヨソモノ」や「別の党派」と大づかみで見ることによって引き起こされるものだから、拡大したというよりは、この事件の背景が炙り出されたといった方が正しい。

                       

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