【やっつけ映画評】トランボ ハリウッドに最も嫌われた男

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     創作意欲が旺盛すぎる脚本家の話で、創作意欲の刺激をもらおうとして鑑賞した。意欲を他人からもらおうとしてどうするんだという気もするが、まあいいじゃないか。それで見てみると、内容がやたらとタイムリーで、別のことを考えさせられることとなった。


     「みかんの丘」の項で、「ライフ・イズ・ビューティフル」における戦争の終わりについて触れた。日本においても、国土がまる焼けになってたくさんの人が死んだが、抑圧の時代は過ぎ去った。第二次大戦の終わりは、ドラマでは光が戻ってくるようなイメージで大抵描かれる。ただし大陸の日本人には地獄の始まりだったのと同様に、次なる抑圧が猛威を振るった国はあった。東欧諸国ではナチスからの解放者だったはずのソ連が新たな支配者として君臨し、新時代の到来を寿いだ中国、北朝鮮も自己批判の嵐が吹く。この、鬼が去っても次ぎの鬼がまた抑圧してくる様子は、「映像の世紀」あたりで見ると本当に辛気臭くて病みそうになる。そして共産圏だけでなく、アメリカにおいても密告社会がやってくる。赤狩り、マッカーシズムというやつで、そんな時代が本作の舞台だ。

     

     俳優時代のレーガン大統領が、このころ「アカ」の密告に精を出していたのは知られた話だ。ウォルト・ディズニーもしかり。自社の従業員による待遇改善要求に対して「不平を並べる前に努力しろ」と、今時のネット関連企業の役員のような残念な演説をしているから、そりゃ熱心に赤狩りに協力する。本作ではジョン・ウェインがその役回りとして登場している。そのころ日本でも、死線をくぐって生き延びた満洲帰りの映画人が、「アカ」と蔑まれていた。


     こういう監視密告排斥運動で炙り出されるのは、ほとんどが無関係な人だというのはアメリカでもソ連でも、日本でも中国でも同じである。ついでに、共産主義の駆逐を高らかに叫ぶ議員が、身内を縁故採用しまくっているくだりは苦笑した。意図的に敵を作り出す人間は、同時にせっせと仲間に利益誘導するのである。脱税で捕まっている分まだ本邦よりマシだが。強姦の逮捕状は、握りつぶしてもうおしまいかい。こんな警察庁に新しい武器をあげちゃってるよ。

     

     トランボは共産党員だと作中述べられている。だから彼が投獄され映画界から干されたのも一定の理由がある、という立場から、本作がトランボを無辜の市民として描いていることに批判があるらしい。本作はまさにそのような批判が何をもたらすのかを表しているようにも思うが、共産主義を信奉するのとソ連のスパイであることは次元が異なる。社長や部長に批判的な社員が総じて他社に情報を流すわけではなく、むしろやらない方が普通だ。で、実際に情報を流すのはトランボではなくトランプだったりするから、やはり切り分けて考えるべきことである。国が内心に踏み込むとどうなるか、実にタイムリーな内容だ。いきいきするのは鼻持ちならない連中ばかりで、大義を味方にやたらと鉈を振るうが、それで得られたもの(スパイの検挙等)とのアンバランスを考えると、やはりどうかしている。


     本作が面白いのはしかし、それらの政治に対して、本業で抵抗する点だ。裁判で戦うべきだという仲間の主張を退け、トランボはひたすら脚本を書き続ける。目的は証言を拒んで干された自身や仲間の生活保障、つまり金のためだが、口を封じられた脚本家が脚本で抗う構図である。といっても、別に「蟹工船」や「弁護人」のような脚本を書くわけではなく、B級映画を中心とした娯楽作品だ(それと同時に「ローマの休日」のようなアカデミー作品も名前を隠して書く)。このB級映画の社長が、「トランボを使うとどうなるかわかるだろうな」とばかりにジョン・ウェインの手下から警告されたときの反応が、本作で最もおもしろい場面だった。自虐的な武闘派というのを初めて見た。

     

     金のために、「異星人がやってきておっぱいボヨヨーン」(富永一郎か)といったくだらない脚本を書くことは、マッカーシズムに対する直接的な戦いにはならない。このためトランボに反発する仲間も出てくる。ついでに共産主義者からすると、資本主義に魂を売ったようにも見える。マッカーシズム自体も、いつの間にか下火になり、トランボは解放されるという展開だから、彼が作品を通じて何か強烈なメッセージを発し、それが世論を動かし自らを復権させたというわけではない。

     

     だけど考えてみると、この場合は「金」が何よりも反抗になるのだと思う。危険分子だと本業を奪われれば名誉とともに食扶持も失う。このためある者は膝を屈し、ある者は追い詰められて、退場するか死を選ぶ。バカ娯楽作品であれ、書き続け金を得るのはこの場合、生き残ることを意味する。そして彼らを追放した側は、実のところは共産主義の脅威というのはほとんどとっかかりのようなものでしかなく、異分子を排除したいだけだ。これは赤狩りに限らず、口をふさごうとする連中に共通する性向である。だからこそ、生き残ることそれ自体に意味がある。「スパルタカス」はメッセージ性が強い作品だが、それを堂々とやらせようとする人間が現れたのも、生き残ったからだろう。

     

     「スパルタカス」は公開当時、日本における「靖国」や「ザ・コーブ」なんか遥かに超えて上映を巡って結構な騒動があったらしい。知らんかった。世界史に興味を持った中学生のころ、大河ドラマを見るような気分でテレビで見た記憶がある。過ぎ去ってしまえばそんなもの。ほとんど忘れ去られた映画のような印象すらある。
     問題は日本の場合は「過ぎ去るのかどうか」にある気がしないでもないが、とにかくやることやれることをやるしかないってことだよな。寂しい結論だけど。

     

    「TRUMBO」2015年アメリカ
    監督:ジェイ・ローチ
    出演:ブライアン・クランストン、ダイアン・レイン、エル・ファニング 


    【やっつけ映画評】ウィーナー 懲りない男の選挙ウォーズ

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       邦題が合っていないような気がしたのは、この題からまず想像したのがドクター中松氏や羽柴誠三秀吉氏のような、落ちても懲りずに出馬する「泡沫候補」だったからだ。だが本作の主人公アンソニー・ウィーナーは、民主党の若手下院議員で、激情的な弁舌でそれなりに地位を築いてきた政治家だ。よくわからないおもしろいおじさんではない。(そういえば、ドクター中松はミサイルをUターンさせられる装置を開発したんじゃなかったっけ。今こそ彼の出番だよなあ)


       それで何が「懲りない」かというと、下半身スキャンダルで、「懲りずに選挙に出る」ではなくて、「懲りずに醜聞を重ねる」という意味だった。厳密には、ビル・クリントンの「不適切な関係」とは異なり、よいしょコメンテーターの「準強姦容疑」とも異なり、メールだかSNSだかで全裸や局部の写真を女性に送ったり、卑猥な会話をしたりといったメタ下半身なスキャンダルだったらしい。


       「らしい」というのは、本作ではそこの説明がハッキリ明確には語られていないからで、これは後で触れる。
       いずれにせよ本作は、妻子ある身で、よその女複数人と形而上的にエロいことをしていたことがバレて失職したのが、市長選に出馬して返り咲きを狙う、その様子に密着したドキュメンタリーである。

       

       市長選では、序盤優位に支持を集めるも、失職後の謹慎(?)期間中にも同じことをしていたのがバレて苦境に立たされる。そういう意味では確かに「懲りない男」である。「選挙ウォーズ」というよりは、ひたすら「火消」に追われていたのだが、それでもアメリカの選挙の様子が活写されているところは興味深かった。

       

       さて、なかったはずの日報が出てきても、大嘘ついて学芸員を罵倒しても、白紙領収書でもドリルの目的外使用でも逮捕状のもみ消しでも特区を巡る疑獄案件でもだーれも進退を問われることがない一方で、女性関連では一発レッドカード(他に色々ありすぎてほとんど忘れられている印象多々)というのがただ今本邦の倫理観のようであるが、アメリカでもそこは似たようなところがあるようだ。ウィーラーは「イクメン」を偽装していたわけでも、ストーカーだったわけでもないが、送っていた写真が強烈なのと、その手のサイト上で名乗っていた名前が「カルロス・デンジャー」と間抜けだったことも付録で付け加わって、大炎上してしまった。

       これが他のことだったらどうだったのだろう。まあフリン補佐官は名前のダジャレ感と違って、ロシアと通じていたのが問題になって辞任していたわけだが、ウィーナーの市長選支持率の急降下から想像するに、少なくとも下半身醜聞は同じくらいダメージがでかいということなのだろう。最近では、告発者たる文科省の元高官が、いかがわしげな店に通っていたと、それこそ首相の好きな「印象操作」のいかがわしい記事を報じた件が評判(親会社の体たらくのせいで傘下の球団も13連敗してしまった)だが、ウィーナーの場合は残念ながら本当に助平なメッセージを発信していたからあてはまらない。


       さて、ある行為に対してだけ衝動が抑えきれないということが、人にはしばしばあり得る。別に助平な話や犯罪に限らずだ。説教親父の側面を持つ三宅久之は、モデルガンを見ると「ムラムラきてしまい」つい購入してしまうのだと生前、例の日曜昼下がりの番組で吐露していた。自分のそういう駄目な部分を自嘲できる感覚があるなら、時事問題についてのあれやこれやのコメントも、もう少し別の視座を提供できてしかるべきだったのではないかと思うが、とにかくそういう癖があったらしい。内田樹は鞄を見ると同じようなものを持っていても買ってしまうとツイートしていた。俺の場合はというと、スーパーの半額シールを見ると食いきれないのに買ってしまう。各段に安い物件なのが悲しいところだ。
       ウィーナーの場合、ネット情報によれば、その後も同種の行為を繰り返したというから、卑猥なコミュニケーションに対する抑えきれない欲求があるのだろう。買い物と性的衝動を同等に扱っていいのかはわからない。少なくとも、買い物衝動で地位を失う可能性は低い。性的衝動も、内輪で平和的に済むなら好きにすればいい。恋人のパンツをかぶりたい衝動なら社会的にはセーフだが、不特定多数のパンツをかぶりたくなると身を滅ぼす。後者の場合、どうやってそれを回避する、ないしはさせればいいのだろう。

       

       このドキュメンタリーは、ウィーナーのエロコミュニケーション癖を、選挙違反や贈収賄のような「過去に犯した過ち」と位置づけ、真正面から取り上げることはしていない。すでに述べたように、スキャンダルの内容からして、下品なこともあってか、作品内では間接的でぼやかした説明しかしていない。だが、以上のようなことを踏まえると、踏み込むべきはそこだったのではないかという気がする。
       選挙違反や贈収賄を「やらかしてしまった」のと、性的衝動を「やらかしてしまった」のとでは、メカニズムがかなり異なると思う。後者の場合、もしかすると当人の意志だけコントロールするのはどうにも困難な点があるのではと想像されるから、どうすればエロ衝動から逃れられるかを探っていくのは意味のあることではないかと思う。まあ、一番「過去のこと」にしたいのは他ならぬ当人だが、制作陣は、ただの非難や粗さがし、笑いもの扱いではなく、大真面目にウィーナーのエロ側面を追及、いや追究すべきだったのではないか。選挙戦という作品の趣旨からは大きく脱線するが、同じくマズい性衝動のコントロールに苦しんでいる人には、いい内容になったかもしれない。

       

      蛇足:ウィーナーが選挙運動中、自身に批判的な有権者に絡み、その様子がワイドショー的に報道されるのだが、実はその有権者がウィーナーに差別発言をぶつけていて(ウィーナーはユダヤ系)、「これはこいつが悪い」と司会者がコメントしているのが印象的だった。日本だとおそらく丸ごとボツになると思う。

       

      「WEINER」2016年アメリカ
      監督:ジョシュ・クリーグマン、エリース・スタインバーグ
      出演:アンソニー・ウィーナー、フーマ・アベディン、ヒラリー・クリントン


      映画の感想、破滅型天才についての2本

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        ベストセラー 編集者パーキンズに捧ぐ
         トマス・ウルフという無名の物書きが、一気にベストセラー文豪に成り上がる実話を描いた作品だ。タイトル通り、彼を世に送り出した名編集者との関係性を中心に描かれる。
         そんな作家知らんぞマズい、と慌てたが、長らく日本では絶版状態だったようだ。映画公開のせいか、最近また復刊したみたい。
         登場人物の心理描写をねちねち書くのでとにかく長くなるという作風にちょっとシンパンシーを覚えたが、仕上がった原稿が、廃品回収の新聞束のような分量(それもいくつも箱入りで)になるから、長すぎるにもほどがある。この名編集者の「名」たる所以は、とにかくこれを「読んだ」ということだろうな。当然のように、こんな長い奇天烈な作品を描くウルフは、声がでかく不規則発言の多い奇人変人破滅型である。実直な編集者と奇人作家の組合せは、フィクションだったらボツにしたくなるベタさだが、実話というからしょうがない。毎度のことながら、破滅型は嫉妬が湧くから嫌いだ。それでも見れたのは役者の演技に尽きると思う。
         演技といえば、ウルフの恋人の神経症的愛情も、恐怖を覚えた見事な演技だった。こちらは怖すぎてあまり直視できなかった。ネットで調べたら、18歳年上の既婚者だったとある。マクロンか。
         長すぎる原稿だから、とにかく削れと言われたウルフは時に反発しながらどんどん削っていく。前にも書いたが、文章を書く作業は、作画や作曲に比べてちっとも絵にならない。本作の中でも、ウルフの作品の断片が朗読で示されるが、何が面白いのか魅力はほとんど伝わらなかった。それくらい小説は映像の題材としては分が悪い。そういう中で、この削る作業だけは物書きシーンとしては面白かった。この映画自体も徹底的に削って作ったのだろう、えらくシンプルだ。その徹底したさまが潔くてよい作品だと思う。
         当たり前だけど、削るためには長く書かないといけないんだけどね。削られることはツラいことだが、それ以前に長大な文章を書くこと自体についおののいてしまう。やり出すと調子づいて自動的にそうなるのだが。
        「GENUIS」2016年イギリス
        監督:マイケル・グランデージ
        出演:コリン・ファース、ジュード・ロウ、ニコール・キッドマン

        ジャニス:リトル・ガール・ブルー
         ジャニス・ジョップリンは、ジャニス・ジョップリンかジョニス・ジャップリンか名前は稀に混乱するものの(冗談で言っているうちに一瞬どっちか見失う)、歌声は一度聴いたら忘れられない。超個性的だ。年齢的にいって俺の場合は当然、とっくに死んでから知った歌手だが、その伝説化してしまった人が、リアルに動いているさまを見られるという点で興味深いドキュメンタリーであるものの、それだけしか見る価値はない凡庸な作品でもあった。
         早世した天才を描くドキュメンタリーではしばしばみられる傾向だと思う。ムード優先といったらいいのか。志位委員長みたいな表現になるが、あんまりキチっとしてないんだよなあ。
         何の「キチっと」が欲しいのか考えてみたが、臨場感といえばいいのか、個々の事実の再現性といえばいいのか。一応時系列通り話は進んでいくのだが、「当時何がどうだったか」と「今から振り返る」があまり区別されず、曖昧なまま展開していく。結果、特に何も明らかにならない。「一人の女性としての“ジャニス・ジョプリン”を浮かび上がらせる」という、文面にすると妙にダサい作品紹介の惹句をそのままなぞっただけという感想になった。こうして歴史が伝説として消費される。知りたいのは事実なんだが。ま、それでも作品が成立してしまうのが音楽ドキュメンタリーの特長であり陥穽である。この人の場合、歌声が凄すぎるから、余計に。
        蛇足:彼女が若くして死んだのは、薬物によると推定されているが、本作を見るとこの当時のアメリカでロックをやっていて、薬物を避けて通るのはかなり難しいという印象を受けた。その点だけ、時代の臨場感を感じることができた。

        「JANIS:LITTLE GIRL BLUE」2015年アメリカ
        監督:エイミー・バーグ

        映画の感想:ハドソン川の奇跡

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           「誰が監督か」で映画を選ぶことはあまりないのだけど、クリント・イーストウッドは例外で、大抵よくできていて面白いから内容に食指が動かなかったとしても手に取る。本作は邦題のせいでつい後回しにしてしまっていたが、結局のところは期待通りだった。個々の登場人物にそれほど深入りするわけでもなく、演出もどちらかといえば淡々とした方だと思うが、航空機のシーンは何だったらパニック映画以上に手に汗握らされるものがあり、何気ない脇役の様子にもグッとくるところがあった。ただ、「ジャージーボーイズ」のとき同様、面白かったということ以上の感想があまり出てこない。それではつまらんので、頑張って何かを書いてみようと思うが、やはりあまりまとまらない。
           美談のその後を描いている。航行不能になった機体を川に着水させ、あわや墜落大惨事を見事回避したベテラン機長が、その判断の是非を運輸安全委員会的な組織に追及されるお話だ。飛行機つながりで思い出したのは、ユナイテッド航空のブッキング&暴行騒ぎだった。知れば知るほど酷い出来事だったが、日本のニュースでは「海外おもしろハプニング」のようなノリで紹介しているところもあった。「乗客側が無茶を言っている」という前提に立てば、最後ノビた状態で運ばれる様子は、ハプニング映像として笑えるものと映っただろう。よく知らないでニュースの軽重を判断すると、どえらい火傷につながることがある。
           本作の題材であるハドソン川の着水も、第一印象で終わらなかったという点で、似通った部分がある。無理やり関連付けているが。
           生死を分ける判断は、仮に成功してもストレスが後を引くと想像する。そこへ来て「あんたの判断は間違いだ」と指摘されれば、精神の平衡を失いかねない。ついでに「コンピューターのシミュレーションでは、近隣の空港に引き返せた」と言われて、自分が正しかったとどこまで貫けるものか。「自分を信じる」とはよく言うが、権威ある委員の面々から結果は明白ですよなどと口々に詰め寄られてしまえば、自分を信じること自体が自分を追い詰めかねない。それを考えると二重の意味で、よくもまあご無事で、と感嘆してしまう。
           詰め寄る側は、本作においては悪役になるが、英雄的行為であっても、その判断が妥当かどうかをきっちり検証しようとする辺り、ただ今の本邦を鑑みると、ついつい「法の支配が羨ましい」と思ってしまう。美談止まりでそれ以上を知らなかったことについても、やっぱりテレビで伝えるってデカいよなあと、すっかりテレビで伝えないのが標準になり、たまにやると「お」となる現状と重ねてしまう。困ったものだ。

           おそらく、機長がクロなら、英雄が一転、カリスマ詐欺のように叩かれていただろうから、結果を知ってたような気がする。シロだという判断の方がめでたいはずだが、とっくに英雄になってしまっているのでニュースにはならない。そんなことを推測すると、これだから報道はというため息が聞こえてきそうになるが、だからフィクション屋の出番があるんだよなあと俺自身は思う。
          「SULLY」2016年アメリカ
          監督:クリント・イーストウッド
          出演:トム・ハンクス、アーロン・エッカート、ローラ・リニー

          【やっつけ映画評】栄光のランナー/1936ベルリン

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             古典学者、数学者、天文学者を演じる学問俳優ジェレミー・アイアンズが、五輪の委員を演じる作品だが、今回は脇役である。いつものバサバサの白髪をオールバックに整髪して眼鏡に髭だったから最初気づかなかったが、声でわかった。歌手以外で外国人の声を聞き分けられたのは初めてかもしれない。ベルリン五輪ボイコットを頑強に反対する役どころだが、その熱意にうっかり感動すると、後で裏切られる。


             たまたま出演俳優が重なったから、裏口から話を始める恰好になってしまった。裏口に回るよう命じられる本作のある意味犖事瓩淵薀好箸鯣蘰ったつもり。


             原題「RACE」がシンプル過ぎるせいか、ゴテゴテとした邦題になっている。おかげで「競走」と「人種」の掛詞が消えてしまった。ならば代わりを考えるしかあるまい整いました。人種差別とかけまして、100メートル走と解きますそのこころはどちらもだいたい重病/十秒ですねずっちです。とにかくタイトル通り、1936年のベルリン五輪にまつわる伝説的走者の物語で、差別が大きなテーマとなっている。


             スポーツと差別といえば、以前に「42〜世界を変えた男」について書いた。本作も、ジェシー・オーエンスというアメリカの黒人ランナーが主人公なので、シャワーを使うなとかその手の差別と出くわすことになる。彼を擁護するコーチのラリーに対して、差別的なアメフト部の監督が「なぜ面倒を起こすんだ」と説教してくる「差別する側が、される側に、お前が話をややこしくしている」とのたまう構図も、いつも見る景色で、当然「42」とも重なってくる。

             

             ただし今回は、汚い言葉を吐いてくる相手チームや観客だけが相手ではない。ナチスが絡んでくるから、話はもっと巨大で複雑になる。公然と差別をしている政権が絡む五輪に、選手団を派遣するのは差別に加担する行為に映るから、選手たちは思い切り政治に巻き込まれる。加えて、ドイツが五輪開催を優先して人種融和をアピールしたため、ジェシーたちは現地で大歓迎を受け、本国のように白人と別室を指定されることもないというねじれ現象を体験するから話はより複雑でもある。ついでに幅跳びでジェシーと熱戦を繰り広げるドイツの好敵手ロングは、「優秀なアーリア人」として過度な優遇(というか優生)にさらされ困惑している。


             スポーツと差別の話は、先日佐藤琢磨の件があってタイムリーになってしまっているが、「42」であらかた書きたいことは書いたので、ここではスポーツとそのメッセージについて考えてみたい。

             

             アメリカの五輪委は、学問俳優演じるブランデージ会長の尽力(ないしは談合)によって、大会参加を決める。だが、黒人の権利獲得を訴える団体は、ジェシーに抗議の辞退をするよう求める。メダル最有力候補が大会参加をボイコットすることで、ナチス批判、ひいては自国の黒人差別批判につながると期待するからだ。

             

             それに対してジェシーの父は、強烈な反論をぶつける。曰く、ボイコットしても「誰も(差別の問題には)気づかない」。置物のように一言も発しないキャラだったのが、急に鋭いことを言うから余計強烈に刺さる。出場した選手がたくさんメダルを持ち帰るから、ジェシーはむしろ非難されるとも言う。

             

             ボイコットがメッセージになりにくいのは、自ら不戦敗を選ぶ行為がそもそもスポーツの本旨とは相容れにくいからだろうか。絶大な効果をもたらしたボイコットの例としては、ブラジルのサッカー選手ロマーリオの一件がある。家族を誘拐されたロマーリオが、このままだとW杯に出場しないと宣言した途端に犯人が見つかった。結果、出場しているからボイコット未遂ではあるが、ジェシーの周辺が期待したのも、本質的にはこれと同じ構図だろう。出なければ勝てないので、国民が本気を出して、事態が好転する図式だ。だが、誘拐犯が逮捕されて解決されたのと同様(とまではいえないだろうが)、ナチスは少なくとも五輪期間の人種融和は認めているし、誘拐犯逮捕と違って、米社会の人種差別解消は巨大で根深すぎる問題だ。ポイントは、父親自身が「誰も気づかない」と言っているように、差別の問題がとても困難なのは、差別している側に自覚がない(上に正当化する)ことだ。

             

             では勝てば効果はあるのか。本作ではヒトラーは台詞のない端役なので彼が何を感じたのかは明確には描かれないが、代わりにゲッベルスはジェシーの活躍に「思ってたのと違う!」とばかりに苛立ちを爆発させる。ドイツ人の偉大さを宣伝するはずが、蔑んでいた黒人にまんまとメダルをさらわれる。ざまあみろと胸のすく場面だが、この男が宗旨替えするはずはない。党是を捨てるようなものだし、優生ファンタジーに憑りつかれた差別者が、見たくないものを見ないのは今の日本を見ればよくわかる。

             

             そういう極端な連中は置いておいても、本国アメリカの人間の意識が変わるかといえばどうだろう。
             象徴的なのは、ラストのリレーにまつわる悲しいシーンだ。ゲッベルスの圧力に屈したブランデージ会長は、リレーに出場予定だったユダヤ系2選手を降ろすよう指示する。当然すったもんだあって、代わりにジェシーらが出場することになるが、彼らの活躍によってアメリカは優勝する。この歓喜の瞬間、ユダヤ差別に屈したことを考えた人は、どれくらいいただろう。この指摘が細かいことをつついているように響くのは、スポーツは「結果がすべて」だからである。結果がすべてだから、コーチのラリーは優秀な走者たるジェシーを肌の色で差別しない(それでも白人だから気づかないことをジェシーに指摘され何度か凹むのだが)。それと同時に、結果がすべてで人種は関係ないから差別の話は霞むことにもなる。ジェシーの父親が言うように、「誰も気づかない」のは勝っても同じなのだ。

             

             このためラストで、黒人に閉ざされた扉は英雄のジェシーにも開かれることはない。ドアマンに悪意があって妨害しているわけではなく、規則で決まっているからだ。壁の厚さを端的に示した象徴的な場面だ。唯一の救いは白人少年が憧れの目でサインを求めてきたことで、彼が大人になるころには時代も変わるのだろうかという期待を持たせて映画は終わる。
             実際には彼が大人になったころ、また一人のスポーツ選手が相変わらずの差別と闘うのだった。その選手は、本作の200メートル走のシーンで、ジェシーとトップを争うチョイ役の弟である。ベルリン五輪男子200メートル走銀メダリスト、マシュー・ロビンソンの弟が、「42」の主人公ジャッキー・ロビンソンである。彼もまた、ジェシーと同じく、差別が制度化されている社会で、じっと耐え抜き実績を出し続ける方法でもって静かな抵抗を続けた。公然と反旗を翻すのは、トミー・スミスやモハメド・アリの時代まで待たなければならない。

             

            「RACE」2016年アメリカ、ドイツ、カナダ
            監督:スティーヴン・ホプキンス
            出演:ステファン・ジェームズ、ジェイソン・サダイキス、ジェレミー・アイアンズ


            映画の感想:ある天文学者の恋文

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               「リスボンに誘われて」で古典学者、「奇蹟がくれた数式」で数学者を演じたジェレミー・アイアンズが、今度は天文学者を演じている。アクション俳優ならぬ学問俳優。世間的には「ダイ・ハード3の人」らしいが、全然覚えていないので、「何かと教授の人」というイメージがついた。


               「リスボン」では、妻に逃げられた不器用な男で、何かを期待させてやまない眼科医の前でもただ朴訥しており、「奇蹟」では無神論者で恋愛自体に興味がない。だが本作では、冒頭から美女と接吻している。接吻、キス、というより、子供のころ使っていたブッチュという表現がぴったりの濃厚なやつである。そのせいかどうか、全体的にアカデミックな雰囲気が希薄だった。


               そもそもこの映画をみようと思ったのは、予告編で示されているプロットに興味を抱いたからだ。夜空に輝く星は、何万年だの何億年だのかけて地球に到達した光なので、実はもうとっくに消滅してなくなっている星もある。でも夜空では煌々としている。そして天文学者であるエドは、病で死して後も、恋人のエイミーに手紙やメールやプレゼントを送り続けてくる。あたかも消えてなくなっても輝いている恒星のように。という図式が面白そうに思えたのだ。

               

               だが、この比喩は、予告編製作者の後付けではないかと疑いたくなるくらい、使い方が下手くそだった。安いロマンス小説のようだ、と思ったが、読んだことがないので取り下げる。

               老教授と若い女子学生の恋という時点で、男の、ないしは監督の、みっともない欲望を垂れ流しているようで全然感情移入できなかったのだが、世の中にはそういうカップルもいるだろう。俺も、教授と付き合っているという女子学生と過去に出会ったことがあるからそれほど珍しくないのかもしれない。なのでこの年の差カップルには目をつむるとしても、やしきたかじんのおかげで、死を前にした初老の男が若い女と懇ろになると、ついきな臭いことを想像させられてしまうがこれも余計な話である。

               

               問題は舞台装置としての天文学の扱いである。「死んでもう会えない」という以上にこの時間差を活用できていないのは致命的だ。ついでに小道具としての天文学の扱いもおざなりで、「かに星雲」「ヒッグス粒子」など、名詞が台詞の中に出てくる程度。俺は天文学の専門知識などちっとも持ち合わせていないが、名詞レベルでお茶を濁しているのは門外漢にも伝わるようで、「ホントっぽさ」の欠如は妙に白けるものなんだなあと、専門を扱う作り話のむつかしさを感じた。

               

               恒星を扱いながら構成がマズい。ならば、もっとこーせーというのを書いてみたいと思う。
               星の光は、太古に発せられたものがようやくこちらに届いたものだとしても、輝いて見えること自体は、今現実のことだ。本作には、この「今」がない。いやあるにはある。エイミーの抱えている問題=母親との不和の解決である。一応これが話を転がす狷罩瓩箸靴得瀋蠅気譴討い襪里世、どうにも後付け感が漂う。エドとエイミー、2人の話ではなく、エイミーと第三者の話だからだろう。過去から来た光=死後の贈り物が、同時に「今現在」となるためには、2人の間の何事かが動かなければならない。これもあることはある。指導教官たるエドのメッセージに従って予習や研究を進めることで、エイミーは成績優等の表彰を受ける。だったら恋愛じゃなくて、師弟愛の方が腑に落ちる。ラブストーリーにしたいなら、エイミーの気持ちの何事かが変化する必要があると思うが、そうなると、「6年付き合った」らしいこの父娘レベルの年の差カップルではあんまり説得力が出ない。エドの、それこそ恒星のような巨大な包容力(と同時にバイオレンス臭もうっすら漂う束縛)によってエイミーは守られているという一方的な関係性だからだ。長年連れ添った妻の方がよほど面白くなりそうだ。
               まあこのブログも常に日付をちょろまかした時間差掲載なので、ささやかに星の光のようなものだ、という自虐でお茶を濁して終わる。

               

              「LA CORRISPONDENZA」2016年イタリア
              監督:ジュゼッペ・トルナトーレ
              出演:オルガ・キュリレンコ、ジェレミー・アイアンズ、ショーナ・マクドナルド


              映画の感想:ネブラスカ ふたつの心をつなぐ旅

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                 30代前半のころは、こういう映画を好んで見ていた気がする。ジム・ジャームッシュあたりと似ている作風だ。モノクロなので余計そう感じた。それがすっかり苦手になってしまっていた。退屈だなあと、子供のような感想が先に立つ。このまま年を取ると、間口の狭い頑固爺が出来上がるのかも。本作は、頑固爺と息子の物語である。


                 100万ドルが当選したといういかにもインチキくさい手紙を受け取った老父ウディが、どうしても発送元に行って100万ドルを受け取ろうとする。見るに見かねた息子デービッドが車に乗せて、モンタナ州からネブラスカ州まで1500キロくらいのドライブに出かける。ロードムービーかと思ったが、そういうわけでもない。ネブラスカがこの父親の故郷で、今でも親戚が暮らしている。中盤以降は、その親戚や旧友たちとのやり取りが中心になるので、タイトル通り、ネブラスカ州の暮らし、といった内容だ。


                 ネブラスカという場所は、アメリカ人にとっては、退屈の場所の代名詞のような地域だと、町山智浩が雑誌の記事で書いていた記憶がある。映画に出てくる景色も、実に退屈だった。グーグルストリートビューで、ネブラスカの適当な郊外を見ると、ロケ地と勘違いしそうな場所がすぐに出てくる。畑と倉庫くらいしかないような場所だ。


                 そういった世界で暮らす人々は、ちっとも希望がない。ウディの兄の息子たち、デービッドにとっては従兄弟に当たる兄弟は、二人ともいかにも教養のなさそうな太っちょで、失業している。粗野だが生気はない。パブで出会うウディの旧友たちも同様。田舎のダメな部分を体現したような、人をねたむか陰口に淫するか、あるいはおこぼれにあずかろうとするか。いずれにしても下か横ばかり見ているような様子である(唯一、ウディの元恋人だったという女性だけがマトモで救われる)。


                 こういう土地柄を見せられると、インチキだろうと何だろうと、100万ドルをくれるという案内を何が何でも確かめに行こうとするウディの頑なさの源泉が垣間見える。ラストでデービッドから意図を問われ、ホロリとさせられる理由を語っているが、おそらくウディは、この希望のない場所で生き抜くため、昔からずーっとそうしてきたのだろう。インチキ話にすがらなくても、ささやかな希望を持てることがあるなら、それに全力で向かっていくべきなのだと、こっぱずかしいことを割と本気で思わされた作品だった。

                 

                「NEBRASKA」2013年アメリカ
                監督:アレクサンダー・ペイン
                出演:ブルース・ダーン、ウィル・フォーテ、ジューン・スキッブ


                映画の感想:シェフ 三ツ星フードトラック始めました

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                   子供のころ読んだ「もりたろうさんのじどうしゃ」という絵本を思い出す内容だった。
                   車が好きだったのと、主人公の名前が自分の苗字とちょっとカブっていたのとで、買ってもらった絵本だった。郵便配達員のもりたろうさんが、退職を機に運転免許を取って自家用車を買おうとするのだが、高くて手がでない。1台だけオンボロの中古が格安で売っていたのでそれを買って修理して乗り回す。レトロな車体がとにかく魅力的でわくわくする作品だった。何度も読み返したものだったが、ラストだけ腑に落ちなかった。


                   もりたろうさんが、銀行に寄った際、銀行強盗と鉢合わせし、車を奪われてしまう。しかし車に居残っていた愛犬の活躍で、強盗は車ごと川に落っこちて御用となる。ただし車は大破。落ち込むもりたろうさんに銀行の支配人が「あなたのおかげで助かりました」とポーンと新車を買ってくれ、最後のページはもりたろうさんがすげー高級車に乗ってめでたしめでたしというような絵だったと記憶している。

                   レストアしたオンボロ中古が、リタイアした善良な金のない爺様と相まって、とてもイカした夢のあるマシンだったはずなのに、高級車もらってめでたしって、そりゃないよ。言葉にすれば、このようなモヤモヤを子供なりに抱いたものだった。

                   

                   自他ともに認める一流シェフが、オーナーや評論家と衝突して店を辞め、屋台のトラックを始める。その過程でつながりの薄かった息子とも心を通わせて行き・・・・・・、という明るい物語である。シェフが主人公の映画は何本か見たことがあるが、なぜかあまり食い物がうまそうでない作品ばかりだったのが、本作に関してはやたらとうまそうだった。そのうまい料理がヒットしていく様子がテンポよく描かれ、それなりに楽しめる展開だが、自分の店を構えるラストは、「もりたろうさん」の、結局高級車かよというのと同じ感想になった。

                   

                   多忙を理由に子供と向き合うことをサボってきた主人公が、屋台の創業から営業まで息子に手伝わせることを通じて初めて父親らしいことをする。父親としての自覚も生まれてきた矢先に開店である。この男は再び多忙を理由に息子をほったらかしにするのではないかと思ってしまった。
                   まあ、子供の方は、この屋台の経験で確実に成長しているから、こちらの心配とは裏腹に、勝手にたくましく育っていくのかもしれない。だとすると、余計にこの、料理に対して真摯なこと以外、人格的にもあまりいいところがない主人公に対して、どうせこの先も都合よく周りに支えられて楽しく暮らすのだろうと嫉妬がメラメラとしてくるのだった。

                   

                  「CHEF」2014年アメリカ
                  監督:ジョン・ファヴロー
                  出演:ジョン・ファヴロー、ジョン・レグイザモ、ボビー・カナヴェイル


                  【やっつけ映画評】みかんの丘

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                     ツタヤの棚を物色していると、若い二人連れの男の方が「この映画おもろいで、最高やで、お前絶対好きやで、めっちゃ泣けるで」とさかしらに傍らの女子に薦めながら、「ライフ・イズ・ビューティフル」を手に取っていた。二人ともチンピラ風味の風体だったので、つい「意味わかって泣いてんのかな」と偏見を抱え込んでしまった。実際には彼の台詞は「、」のところでもう少し間があった。言葉をあれこれ重ねていた様子から察するに、男は彼女に自分のお気に入りに興味を持って欲しくて、あれこれアピールした結果、「泣ける」というカテゴライズに到達したのだろう。「泣ける」に分類された途端、価値が暴落した気がするのは価値観の話だから置いておくとして、この映画が「泣ける」のは、最後に戦争の終わりがあって、大事な人が死ぬ悲しみはあれど、後味爽やかな未来を感じられるからだろう。英語がこれほど希望に満ちた言語に聞こえる映画は、今のところ他に経験がない。


                     本作は、戦争をテーマにしつつひたすら地味な作品だが、ラストあたりで落涙した。「泣ける」というのとはちょっと違う。何だろうと考えて、「悔しい」が一番近いと思った。

                     

                     タイトルを一続きで読むと「みかん農家」に聞こえる。ジャケットも主人公イヴォがみかんを収穫している様子の写真だが、実際には農家ではなく、みかんを入れる木箱を作る人だった。みかんは隣で暮らすマルゴスが栽培している。ちょっとややこしい。
                     舞台はコーカサス(カフカス)地方だ。といっても馴染みがない。トルコの北、黒海とカスピ海に挟まれた地域で、アルメニア、アゼルバイジャン、ジョージアなどの旧ソ連各国がある。何かと争いが絶えないきな臭いエリアでもある。ラグビーの人気上昇で、強国のジョージアは知名度が上がってきている。以前はグルジアといったが、ロシアと仲が悪いので、向こうさんの要請で、ロシア語読みのグルジアから英語読みのジョージアに変わった。ウィキペディアによると戦前はジョルジアと言ったそうである。名前の読みがコロコロ変わるのは大国に翻弄されている証ともいえる。2008年には、南オセチアを巡ってロシアと戦争になったので、日本のニュースでもしばしば取り上げられていたが、詳細を理解している人は少ないと思う。俺も仕事の要請で新聞記事とかテレビとかで多少学習したが、あんまりよくわかっていない。どうしてもロシアが相手だと、アメリカ属国民としてはジョージアに同情してしまうが、ことはそう単純でもない、というのが本作を見ると伝わってくる。

                     

                     舞台はジョージアの西にあるアブハジアだ。ジョージアからの独立を宣言しているが国際的には一部の国にしか承認されていない。すぐ西にはソチがある。ジョージアを挟んで東側には、一時期さんざんニュースに出ていたチェチェン共和国がある。こちらはロシアに属しているので独立国ではない。この辺りは、色々な民族がいるということであるが、結果きな臭くなっている。

                     

                     本作は、このアブハジアにおける紛争がモチーフになっている。木箱を作る爺さんのイヴォと、みかんを作るマルゴス、ジョージアの兵士ニカ、チェチェンの傭兵アハメドが主要登場人物だ。イヴォとマルゴスはエストニア人で、多くがこの地域に移住してきたという歴史の説明が作品冒頭になされている。ただし、それ以外の説明はちっともないので、とにかく民族が入り乱れたややこしげな戦争が起こっているという状況だけが伝わってくる。

                     

                     ニカを含むジョージアの兵士とアハメドたちアブハジア側の兵士が戦闘になり、この2人だけが生き残る。大けがをしているので、イヴォは2人を自宅に担ぎ込んで養生させるが、その結果、敵同士が1つ屋根の下にいることになる。

                     

                     まるで「ノーマンズランド」や「JSA」のような設定だが、多少の罵り合いはあるものの、2人とも「この家では殺させない」というイヴォの指導を忠実に守るので、大事には至らない。戯画化されたような設定ながら、あまり抑揚のない地味な展開だ。
                     戦争中な上、敵同士が同居することになるため、空気は始終殺伐としている。そのため、登場人物が笑うシーンは妙に印象的だ。本作では笑うシーンが3回ある。そのうち2回は、笑った直後に爆発なり何なりで緊張が走る。ああこれが戦争なんだなあと痛感させられる。常に殺伐としている上、ちょっとでも幸せがあるとすぐに打ち砕かれる。そうして、誰が何のために、あるいは誰一人として得をしないまま、まったく不条理に登場人物たちは命を落とす。ようやく、ちょっとだけ、笑うことができたというのにだ。

                     

                     ここには、いよいよ滅びる悪もなければ、終焉を告げる善玉もいない。祖国を守るという大義すら、民族と歴史が入り乱れて成立しない。最後に襲来する「敵」も、実際のところは敵かどうかよくわからない。終わりすらも見えない泥沼だ。こういう状況が、何だかとても悔しくて、涙があふれてきたのだった。

                     

                     なので、最後の「違いなんてあるのか?」「違いはない」(=民族の違いに意味なんてあるのか、ないよ、の意)というやり取りで示されるシンプルな真理の再確認が、やたらと重い説得力をもって胸に迫った。その後に交わされる3度目の笑いだけが、本作の中での唯一のささやかな希望だった。達観しても、諦観が混じっても、あきらめるわけにはいかないのだと教えてくれているような。

                     

                    「MANDARIINID」2013年エストニア=ジョージア
                    監督:ザザ・ウルシャゼ
                    出演:レムビト・ウルフサク、エルモ・ニュカネン、ギオルギ・ナカシゼ


                    【やっつけ映画評】奇蹟がくれた数式

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                       商業施設等に設けられた喫煙所では、行き場を無くした煙草のCMが液晶モニターで流されていることがある。先日は「アイデアが降ってくるなんて嘘だ」というコピーが印象的な動画を立て続けにあちこちで見た。デザイナーだったか、正確には覚えていないが、とにかくその手のアイデア勝負とみなされていそうな職業の兄ちゃんが、行き詰って頭を掻きむしりながら悶絶し「考えて考えて、それでも駄目なら空を見る(かつ一本吸う)」という内容。「アイデアが降ってくる」という慣用句は素人考えで、実際には不細工にのたうち回って考え抜いた先に出てくるものだと、いかにも現場が知っているホントの話っぽいコピーである。


                       「考えて考えて」はその通りだと思うが、でもアイデアは降ってくるものだと俺自身は思う。「湧いてくる」ないしは「飛んでくる」かもしれないが、とにかく、外からもたらされるものだ。そして、かのCMは、アイデアは自分自身でひねり出すものだということを前提としている点で、ちょっと引っかかる。いいアイデアは独力で生み出されるものではない、という話は前にも書いた。オカルトめいているが、個人を超えた何ものかがもたらしていると思う。そういう立場からすると、このCMのコピーは、不細工な自分をさらけ出した謙虚な内容にみえて、実のところは傲慢で独善的といえる。


                       本作は、このひらめきが題材となっている。
                       インドの天才数学者を描いた実話だ。主人公の、まさに「天才」という姿が面白かった。


                       ラマヌジャンは、イギリス植民地下のインドで、独学で数学を学び、その知識でどうにか職を得ようとあちこちでたらいまわしにされている。その後、手紙を受け取ったケンブリッジ大学の数学者ハーディに認められ、渡英するのだが、天然の彼には「証明」という概念が存在しなかった。

                       

                       批判に必要なのは対案ではなく根拠だが、数学には証明が必要だ。直角三角形の底辺と高さの各2乗の合計が、斜辺の2乗の合計と一致するという公式は、3と4と5を当てはめれば、ホラ成立するでしょ、では足りない。無限にあるどんな直角三角形でも成立することを計算式で表さなければ正当とは認められない。

                       

                       こんなことは日本だと中学、高校の算数で、そういうものだと教えられて問題を山ほど解かされるので、証明の必要性には何の疑問も持たない。算数の嫌いな生徒なら「何でこんなことしないといけないんだ」と反発するだろうが、この場合は勉強の存在そのものを否定しているので別の話になる。ラマヌジャンの場合は、独学で身につけた分「答え」はすぐにひらめくのに、そこに至る道筋を精緻に組み立てることができない(もしくは価値を感じていない)。名選手が指導者になれないパターンを思い出す。天才的な感覚で難しい技術を実現できているので、いざ後進に説明しようとしても、言語化することができない。

                       

                       ハーディは、ラマヌジャンに証明の必要性を説く。証明なしで公式だけを発表しても誰も本当だとは信じてくれないからだ。しかしラマヌジャンは、どんどんひらめくものだから、自説の証明を後回しにして「また見つけました!」と無邪気にはしゃぎ、ハーディを苛立たせる。
                       証明の必要性に目がいかず、それどころか「先生は私のいうことを信じないのか」と痴話喧嘩のようにムキになるラマヌジャンは、まるで素人で、この点だけとれば、高校数学止まりの俺以下ともいえる。


                       でもここでちょっと考えた。なぜ彼は証明をなかなか受け入れないのだろうか。
                       象徴的な台詞がある。特に学のなさそうな妻から、数学とは何かを問われ、ラマヌジャンは見えない色で書いた絵のようなものだという。彼にとって数学は芸術のようなものだということなのだろう。
                       芸術に証明は要らない。むしろ作者当人が説明するのは野暮という世界でもある。絵に限らず、優れた作品は理屈抜きで人をとらえる。中にはミロのように何がいいのか理解が難しいものもあるが、その場合は評論家が説明する。

                       

                       ラマヌジャンに証明を求める態度は、彼にとっては「この絵の何がいいのかお前の言葉で説明しろ」と言われているに等しいということなのだろうか。だとすれば、なかなかの屈辱である。公式が正しいことは、彼自身が知っている。なぜなら公式を思いついたのは彼自身ではなく、ナマギリ神というヒンドゥー教の神様だからで、ラマヌジャンはこの神から教えてもらっているだけだと自分では思っている。ほらやっぱりアイデアは外から来るもんじゃないか。

                       

                       ラマヌジャンの生み出した公式は、彼の死後、ずいぶん後になって後進の手よって証明されたとラストで説明がなされている。まるで生きている間は周囲からちっとも理解されなかったゴッホのようである。だったら逆に、芸術家が自分の芸術を自分で「証明」してもいいのではないかという気がするが、どうにも成立する気がしない。その点、不利なのか有利なのか。

                       

                       ラストでは重ねて、彼の生み出した公式が、現在ブラックホールの研究に役立っているとも述べられているが、ブラックホール研究でもインド人が大きくかかわっている。本作の舞台からおよそ10年後、チャンドラセカールという優秀なインド人がブラックホール理論を提唱するが、指導教官であるエディトンに頭ごなしに否定された。アインシュタインの相対性理論が正しいことを観測で証明した偉大な科学者だったが、若手の教育には全く不向きな人だったようである。そこへいくとハーディの偉大さは図抜けて見えて、とにかくすごい先生だったんだなあと思うことしきりであった。

                       

                      「THE MAN WHO KNEW INFINITY」2016年イギリス
                      監督:マット・ブラウン
                      出演:デーヴ・パテル、ジェレミー・アイアンズ、デヴィカ・ビセ



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