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     観劇。近場だと西宮と滋賀、そして津での公演がある。日程に迷っているうち売り切れになり、強制的に津に行くことになった。観劇のためにちょっと遠出。なかなか贅沢じゃないか。


     大阪から津までのルートは近鉄特急が一般的だと思うが、乗ったことのない路線でいこうと、JRで京都方面に向かった。京都は素通りして草津で草津線に乗り換える。背もたれが垂直の古式ゆかしい車両で伊賀方面に南下。車両は鄙びているが沿線は新しめの宅地が多い。ほとんどの客は貴生川で降りるがそこからさらに南下して柘植に到着。ここから関西線に乗り換える。さすがに緑が濃い。多少風も涼しくて旅行気分も出てくるのだが、それで嬉しがって写真を撮っているうちに亀山行き車両が俺を置いて出発進行してしまった。時刻表を見間違えて、もっと余裕があると勘違いしていた。

     

     次が来るのはちょうど1時間後。やってもた・・・。いい写真が撮れていれば少しは大義名分も立とうものだが、大したものは撮っていない。とりあえず外に出た。目の前に喫茶店があり、仕方がないので本来津で食べる予定だった昼飯をとることにした。火野正平がこころの風景にとうちゃこする前に、なんてことない喫茶店でなんてことないカレーを食うのと同じパターンだ。そう考えると少しは気がまぎれる。
     客が俺しかおらず、入店するなりエアコンにスイッチを入れたので長居するのも申し訳なく、食べ終わってアイスコーヒーをさっさと飲んで出た。観光案内板を見ると楽しげな史跡等いくつか書いてあるが、こういう賑やかなイラスト風地図を真に受けて「じゃあちょっと寄り道するか」と歩き出すと日が暮れる。

     

     おとなしく駅のベンチで読書しているうち汽車が来た。
     緑を切り裂いて延びる単線は、すぐにも鹿か猪が飛び出してきそう。残念ながら季節柄蝶は飛んでいない。容赦ない山中なので駅間が長いから、やがてうつらうつらとしてきて、気づいたら亀山に着いていた。
     今度は時間を間違えずに無事乗り換え。ここから先は周囲が開けて人間の営みが景色の中に復活する。途中で高校生が大量に乗ってきてすっかりうるさくなると、間もなく行く手にビルが見えて津に着いた。
     来訪するのは母親の納骨以来だ。JRと近鉄が接続する要衝ながら県庁所在地とは思えないこじんまりした雰囲気で味がある。味といえば、炊き込みご飯を当地では味ご飯と呼ぶそうだが、我が家でもそうだった。これは真宗高田派的なつながりの何かなのだろうか。
     駅前には味ご飯ではなく鰻の香ばしい煙が立ち込めていた。昼飯がカレーだったことに対してにわかに後悔が立ち込める。三重県は牛にしろ鰻にしろ、あるいは伊勢海老、真珠、とにかく値の張りそうなものが有名だが、鰻絶滅キャンペーン絶賛開催中のわが国であるから、贅沢四天王(今名付けた)の一角は、昨今なかなか大変そうである。

     

     開演までまだ相当に時間がある。俺は近鉄で一駅移動し、津新町で降りた。JRの本社エリアが違う地域まで来たのに、日常利用している私鉄に乗っているというのは不思議な気分である。さすが路線延長日本一の私鉄だ。
     さてこちらも高度成長期のような味のある駅前であるが、ここから少し歩くと城跡と官庁街がある。その一角にあるのが図書館で、熱中症の被害が相次ぐ昨今、おとなしく空調の効いた屋内で時間つぶし。の予定が、目的の視聴覚コーナーが満席だった。
     怖れていた事態が・・・、と途方に暮れてベンチに佇む間に一気に空いた。事前に所蔵をネットで確認していたある作品を見つけ出し、閲覧を申し出る。レーザーディスクという鰻より先に絶滅したメディアにつき、棚から探すといっても中古レコード屋を物色するような手つきになった。LDだと借りたところで見れないから必然ここで視聴することになる。というかそういう事情のせいだろう、そもそもLDは貸出禁止でついでに俺は市民でも通勤者でもないので借りれない。だが肝心の図書館の再生機械はいつまでもつのだろう。

     

     2時間40分の大作である。LDだと収まらないから3枚組になる。3枚目に移ったところで、時間があやしくなってきたのと疲れたのとで視聴を終了した。自分で操作するのではなく、すべて係の人がやっているので「こらえ性ないんかい」と思われていそうで申し出るのがやや恥ずかしい。だけどヘッドホンなので耳が痛いし、椅子も普通のただの椅子なので映画館のようにはいかない。
    そのころ国会では、枝野幸男が同じく2時間40分の長広舌を披露していた。フィリバスターというには短いのかもしれないが、少なくとも図書館で視聴できる時間より長い。我ながら情けない。いや時間が迫っているのだから仕方がないじゃないか。

     

     津まで戻ってバス停へ。すでに演劇ファンと思しき風体の人々(第七藝術劇場に来る層と概ね一緒の風体)であふれだしている。特にこの西口の駅前ロータリーは主要駅とは思えないくらいロータリーが狭苦しい。夕方のラッシュと重なりバスが現れても一周して乗り場に来るまで時間のかかること。ようやく乗り込み宅地を抜け、でかいコンクリート群に到着した。地方都市でよくある文化ゾーン的な再開発であろう。博物館だのホールだのが林立している。少々複雑な構造をしている巨大な建物の奥に、目的の中ホールはあった。


    W杯備忘録、というよりK氏備忘録

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       直前によくわからない理屈で監督が解任となったせいで、引っかかりを覚えながら日本代表を応援していたファンも多いようで、身の回りにも同様の知人が何人かいる。ただ、FIFA自体が汚職まみれだと以前にこの本で読んだり、開催国のその後が「つわものどもがゆめのあと」になっているとテレビで見たりなので、JFA云々にとどまらず、W杯そのものについて、何かしら釈然としないものを覚えてしまう。といいつつ見てしまっていた。


       今回はドイツ×メキシコを筆頭に、強豪の苦戦が目立って面白く見た。まあ4年たつからね。例えばドイツなんか前回優勝メンバーと顔ぶれは結構共通しているから、いざ始まってしまうと前回大会がついこの前のことのように錯覚してしまうが、MLBの2014年はワールドシリーズがジャイアンツ×ロイヤルズで、両チームとも去年、今年とパッとしない。4年てのはそういう時間なんだろう。

       一次リーグでアルゼンチンを華麗に撃破したクロアチアに目を奪われ、トーナメントでこれまたアルゼンチンとマンガみたいな試合をしたフランスにくぎ付けになり、結局この2チームが決勝で相まみえたのだが、アルゼンチン戦以降はさして面白くなかったフランスが、さして面白くない勝ち方で優勝した。優勝するチームというのはこういう底意地の悪さみたいなのがあるよね。モドリッチは我らがナカノッチに似ていると思って見ていたが、ロシア戦のときプーチンにも見えた。ロシアの脅威の粘りは元首の幻影に恐怖を覚えたからかしらとくだらないことを考えてしまった。あと大変申し訳ないのだが、イングランドのケインは破廉恥記者の山口某にうっすら似ていると思ってしまった。

       

       WSと違ってW杯は32とはいえ世界中のチームが集まるから、若人相手に世界史や地理の講釈を垂れている身からすると格好の教材に映る。五輪の方が圧倒的に参加国は多いが、W杯は団体競技かつ一種目だけの激突なせいか、教材的印象は五輪より強い。主には名前の雰囲気(言語圏に通じる要素)や肌の色とその構成であるが、今大会ではその他、スイスのシャキリが罰金を受けた政治メッセージ的ポーズとか、プッシーライオットの乱入とか、表彰式でプーチンだけ即座に傘が出てくるところとか、勉強になる事件も多かった。

       そういえば、フランス代表がアフリカから優秀な選手をかき集めていてズルいというような頓珍漢なコメントがネット上で話題になっていたが、大阪人をかき集める強豪校と勘違いしている。知人K氏がいうには、シャルル10世がアルジェリア遠征をしたとき(1830年)からW杯優勝を超長期的に見据えた強化策の成果ということらしいのだが、かき集め型の強豪校を抱える地域は、卒業生をどうにかとどめる政策を進めていけばフランス化を実現できるといえる。

       

       さて抑えのエースが不在のせいで逆転負けを喫した日本だが、現場の頑張りは大いに称賛されるべき一方で、JFAについては大いに議論の余地があるのはあまたの人が指摘している通り。つまり「それはそれ、これはこれ」であるが、この言葉は大抵、何かをウヤムヤにするときに使われるような気が。色々言われたポーランド戦について、知人K氏が「西野朗が馬淵史郎になった日」と評していたのだが、基準が世界大会より甲子園にある氏の観点に敬服したのでここにメモしておくとする。あれはしかし、普段やったことのないことをやった分、やり方が下手で余計に目立ったということかしら。よく知らないので勝手な想像だが。


      手作業

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         仕事で来ているワイシャツが、総じて古くなってきた。擦り切れとか型崩れとかが目に付く。それで何枚か買うことにした。夏のノーネクタイが定着している昨今、ネクタイなしでもサマになるシャツを選ぶわけだが、相変わらずボタンダウンが嫌いで、色シャツも汗が目立つので敬遠。自ずと選択肢が絞られるわけだが、なぜかボタンダウン以外の白シャツはボタンも白いのが多い。ネクタイなしだと白シャツに白ボタンは締まりがない気がして、そうすると自分で換えるしかない。シャツを買った足でユザワヤに向かい、ボタンを物色することになる。ポイントは、ボタンの色だけでなく、付ける糸の色との組み合わせが生じるところ。例えば濃紺のボタンにオレンジの糸でつけると、アストロズみたいで格好いいじゃないか。


         なぜこういうお金をもらえるわけでもない地味な作業は向きになって集中してしまうのだろう。全部で5枚ほどのボタンを付け替えた。我ながら何をしているのだろうと思いつつ、一定の自己満足も味わいつつ。
        そうして仕事にいったときに、スタッフの女性陣に「これ付け替えたんすよ」なんて言って、人は見かけによらず意外にマメな一面もアピールをする自分がなんともあさましい。

         

         DIYついでに、靴底も補修した。
         人より足が疲れやすいと思っているので、先日アシックスの足を計測するサービスを受けることにした。仕事終わり等の足が臭気を放っている状態だとさすがに失礼だろうと、休みの日に直行したらば、「むくんでいる状態の方がいいのに」と口惜しそうにするプロフェッショナルオタクぶりがすさまじい係の人に感服しながら計ってもらった。

         すると自覚している披露症状からなんとなく予想していたが、足の骨格の角度が一部、平均値より大きくズレている点があるとわかった。それを矯正する格好で中敷きを調整してもらうと多少なりともマシになると痛感したのであるが、靴の健康側面についてとても神経質なプロフェッショナルオタク店員氏に、医者か看護婦の説教のような助言を受けているうちに感化されてきて、普段履いている靴の底のすり減りを放っておくことがとてつもない罪悪に思えてきた。疲れやすい分、補修屋に持っていこう持って行こうと考えて後回しになっていた。

         

         それでホームセンターに行くと、自前で出来るパテのようなものが売っている。使ってみると、補修屋ほどではないにせよ、それなりサマになる格好ですり減りが元に戻った。履き心地もずいぶん復活している。これは素晴らしいと、またボタンのごとくムキになり、持っている靴をことごとく補修した。履き心地だけでなく、直したこと自体の充足感が物凄い。なんだろうこれは。


        成長分野の文章

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           普段やっている仕事の多くは資格試験の対策で、使うテキストは基本的に教科書というよりは問題集になる。過去問を集めた内容だが、どれくらい最新の問題を入れて更新するか、その頻度は業者によって結構差がある。年によって内容にそう大きな変化があるわけでもない科目の場合(ほとんどがそうだけど)、20年くらい前のものばかり取り揃えて平気なところもある。入替作業自体面倒くさいし、著作権の絡みで費用も発生するからそうなる。


           大手になるとプライドもあろうから、例年積極的に最新の問題を入れてくる。それでそこから依頼を受けて、いただいた問題集を開けると、国語的な問題で使われている長文に、どうやら昨年度は日本バンザイ利権的な文章が使われていたようだと知った。いよいよ浸食してきた。


           大学や高校の入試問題でも、国語の長文に使用される文章に一定の傾向があるのは昔から指摘されている通りである。それは例えばすぐ朝日新聞からとってくる安直さだったり、一部の物書きに集中するこれまた安直さだったりだが、承諾が得やすい/得にくいという大人の事情以外にも、問題文に使いやすい文章があるというのは間違いない。読みやすい文章、読みにくい文章は受験者の層に応じて重宝されたり回避されたりするし、専門語の解説のようなあまりに個別具体的な文章も使いにくい。文中に絶妙の比喩を用いていると、そこに傍線をつけて意味を問う定番の設問が作りやすかったりもする。

           

           ただそれだけでなく、やはり内容の面白さはある程度選別基準に入っているのではないかとも思う。少なくとも俺が担当している資格試験の場合、過去問の文章は特に新しいやつに関していうと面白いものが多い。西洋の庭園は〜これに対して日本は、みたいな高校生のころにさんざん読まされた逆オリエンタリズム全開のような文章は、20年くらい前の問題だとよく見るが、ここ10年以内ではあまり見ない。このため、まったく更新のない問題集で講義を依頼されると、授業準備がこの上なく苦痛になる。俺自身が読んでいて面白くないからだ。もしかすると問題作成者の読解力も昨今は落ちているので、かつては受験国語の定番だった小林秀雄なんかは敬遠されているのかもしれん。書いてることが意味不明なので問題が作れないとか。まさかね。


           ま、どうせ読むなら多少なりとも目からうろこの文章の方がよいだろうし、俺も助かる。作成者が己の趣味で選んでいたとしても、以上のような事情につき、それはそれでいいことだとも思う。特にある程度読解できる学生が相手の場合、試験としては大して難しくもないから問題を解くだけだと緊張感が維持できない。「この一見実生活とは関係のなさそうな高尚な御高説も、実は皆さんの生活に当てはまるんだよ例えばね」なんて水を向けて、おぉなるほど!なんてことになればしめたものである(というこちらの思惑通りにはならないことの方が圧倒的に多いが)。あるいは読めない学生の場合も、内容が知的好奇心を刺激する方が、読書の入口としてはよい刺激になるというものだ(というこちらの思惑通りにならないことの方が圧倒的に多いが)。

           

           という幸福な時代は短かったということか。もちろん、どの文章も内容が常に正しく完全なはずはない。時代に合わなくなったケースもある。自国の歴史文物を再評価するのが重要なことであるのは言うまでもない。ただしバンザイ利権がこれらと大きく異なるのは論旨が粗雑なことだ。幼稚といってもいい。例えていえば、日本の野球は世界一だと誇る基準が「MLBに認められた」になっている矛盾と同じような構図である。その矛盾に無自覚に書いているのか、それとも売れることしか考えておらず内容は当人にとってもどうでもいいものとしてしか書いていないのか、いずれにせよ、「ここで書いていることの矛盾に気づいた?」という他山の石としては格好の教材とはいえるものの、問題文としての一種の権威を帯びて扱われるのはどうかと思う。無邪気なバンザイは無邪気な差別偏見につながるから、余計に警戒心は働くのであるが、それと同時に、この粗雑な文章を問題文に使った作成者の知性と姿勢を大いが大いに疑わしくなるのも、これはこれで深刻である。


          舌が肥える

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             「舌が肥える」という言葉は、プラスマイナスどちらの意味だろうか。辞書でも二通り紹介されている。モノの違いがわかるようになるというプラスの意味と、好みが贅沢になるというどちらかというとマイナスの意味合いを込めた使い方だ。
            知らないことだらけだった若いころは、前者の意味がケースとして多かった。大阪のたこ焼き、香川のうどん、高知のカツオ、どれも最初食べたときは、これまで食べたものとのあまりの違いに心底驚いたものだったが、しかしこれはモノ自体があまりに違うので、舌が肥えるという話かどうかは疑わしい。

             

             ここ何年かは、人と酒を飲みに行く機会がひところに比べてぐっと少なくなったため、外で何か美味いものを食う食事芸人みたいな行為は縁遠くなったのだけど、それと反比例するように舌の肥えを実感している。基本的には地味な食材についてで、これまで気にもとめなかった違いが急に気になりだすという形として現れている。

             

             例えば去年くらいから、俺は料理酒を変えた。これまでは、合成清酒を使っていた。いわゆる「料理酒」より安い酒である。日本酒版発泡酒みたいなもので、清酒風だが清酒ではないので税金の関係で安い。調味料だから、こんなもので構わないだろうと使っていて、長年特に不都合も感じていなかった。
             しかし、昨年くらいから、自分で作った煮物がやたらとマズく感じ出し、原因(=マズさの味成分)を考えるに、これは料理酒のせいではないかと結論づけ、安物の清酒に切り替えた。多少値段は上がることになるが、マズいのだから仕方がない。結果、マシな味付けになった。
             そういえばこんなこともある。納豆は、発酵のせいか、冷蔵庫に長々と入れっぱなしにしていても案外大丈夫で、消費期限ではなく賞味期限と書いてある通り、期限をとっくにすぎても昔は平気で食べていた。ところが何年前からだろう、そう昔ではないのだが、古い納豆は豆がジャリジャリして歯ごたえが気持ち悪くなるということに気づいてしまい、それ以来古い納豆が嫌いになった。昨年出張でホテルの朝食をいただく機会が何度かあったが、バイキングの納豆がまさしくそうなっていたので、二度と取らなくなった。周囲は気にせず食べている人が多いので、己が過度に神経質に思えてきていい気分はしないのだが。

             

             それで最近困っているのが、朝食のパンだ。朝はトーストに、その日の気分と冷蔵庫の中身によって、卵が乗ったりハムが乗ったり何もなかったりする。この食パンに対しても、昨年くらいから段々と嫌気がさしてきた。昔は業務スーパーの60円くらいのやつで平気だったが、やがて受け付けなくなり、10年ほどは大手の百数十円のやつをその日の安売り次第で買っていたのだが、それも限界が近づいているようだ。それで少々値の張るパン屋の食パンを買ってみたり、大手の商品でも若干高額なライ麦パンだの玄米パンだのを買ったりする。すぐに売り切れると評判の店の食パンも食べてみた。いずれも100何十円食パンより美味しいのだが、エンゲル係数はかさんでくる。昨今は、エンゲル係数がかさむのは経済成長の現れらしいから(これは閣議決定されてないんだっけ?)立派な行為なのかもしれん。

             

             それである日気づいたのは「マーガリンをバターに変える」である。元凶はパンでなくマーガリンなのかもしれない。と考えて、改めて値段に少々びくつきながらバターを買ってみたが、予想通りカチカチで塗りにくい塗りにくい。それでマーガリンと混ぜたやつを試すと、味と扱いやすさがちょうどよかった。これなら、元の食パンに戻してもよさそうな気がする。

             

             昔母親と買い物に行ったときに、安売りや半額シールには目もくれず、居並ぶ商品の中でも高めのもの(例えば80円の豆腐の隣にある130円くらいの豆腐)を躊躇なくカゴに放り込んでいく様子を見て、はぁ〜自分は食に関しては金持ちのボンだったのかと驚いたことがある。父親を筆頭に、気に入った商品を食い続けたがる保守的な性向のせいで、「いつもの豆腐と違う」等と文句を言われるのが面倒でそうしていたと理解していたのだが、今の俺と同じく「気にならなかったはずの差異が妙に気になりだした」せいだったのかもと想像した。つまりは、この親にしてこの子というだけのことかもしれん。



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