映画の感想・新旧4本

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    ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男

     「バトルオブセクシーズ」を見損ねたので、代わりと言っては何だがでテニスものを鑑賞した。大会5連覇がかかる終始無表情のチャンピオン。ボルグと、暴言の数々で悪童と呼ばれた新星マッケンローの対決、という実際にあったテニスの試合が題材となっている。天衣無縫の天才ハントと精密機械ラウダの対決を描いた「ラッシュ」と似たような話かと思ったら、どちらも付き合いづらい変人同士の対決という点、「完全なるチェックメイト」に重なって見えた。いずれに対しても感情移入できないので少々キツい作品だ。

     対照的な2人だが、子供のときはちょうど正反対だったことが描かれている。ボルグは癇癪持ちの困ったガキで、マッケンローは親のプレッシャーにがんじがらめのいい子ちゃんだった。ボルグはその剥き出しの感情をコントロールすることで強くなり、マッケンローは自分の殻を破ることで才能を開花させたのだろう。こういう天才的な人物はどこかに変人性が伴うものだし、勝利の重圧は常人には想像つかないものだから、ボルグは迷惑なほどの神経質になるしマッケンローは悪態をつく。だけど、大谷サンに代表される今時のいたって大人な爽やさと平然と同居できている選手と比較すると、割に合わないというか、彼らの生きづらさとは何なのだろうと同情してしまう。
     映画は、1980年のウインブルドンを1回戦から追いながら、やがて決勝で相まみえて死闘を演じる2人の生い立ちが、合間合間に差し挟まる構成だ。クライマックスの決勝のシーンは息詰まる緊張感があって見事だが、それまで語られてきた生い立ちの部分、つまり実は癇癪持ちを必死に押し殺してここまできたボルグと、いい子ちゃんを捨てて悪童になったけどそんな自分が好きではないマッケンローにとって、この試合の位置付けとは何なのかはよくわからなかった。冒頭で「この試合が彼らの人生を大きく変えることになった」と大仰に字幕で宣言しているから、余計に「?」が残った。
     毎度のことだが、欧米の映画がこの手の題材をやるときのそっくり度合はえげつない。特にボルグは本人だろこれ。

     

    「BORG/McENROE」2017年スウェーデン=デンマーク=フィンランド
    監督:ヤヌス・メッツ
    出演:スベリル・グドナソン、シャイア・ラブーフ

     


    希望のかなた

    「ル・アーヴルの靴みがき」の監督が、「ル・アーヴル〜」同様、難民問題を扱った作品だ。台詞ではなく映像で伝える技に優れた、教科書のような作品を撮る監督であるが、台詞が少なく淡々としているのですぐに内容を忘れてしまう。「ル・アーヴル〜」も、何か面白かった、くらいしか覚えていない・・・。
     時事性が強く深刻なテーマながら、とにかく抑揚がない。だのに温かくて笑える。特に「Imperial Sushi」のシーンは爆笑してしまった。何がそんなに可笑しいのかよくわからないのだが、登場人物たちが一所懸命なのが笑いを誘うのだろう。
     「フィンランド解放軍」を名乗るレイシストのチンピラ以外、善人と役人しか出てこない。妹の件を除けば何かが大きく前進するわけでもなく、妹だってこの先どうなるかが一番重要なのだがそこは描かれない。この大きな問題を、そこで収めてしまうのか、という描き方はかなり独特だと思うが、それがフィクションの切り口なのだということでもある。
     結局のところは目の前にいる人と人で世界はできているということか。言葉にするといかにも安いが、台詞が少ない映画だから言葉にすること自体分が悪い。ギター弾きが歌うシーンがやけに多いので、詩のような作風ともいえようか。俺にとっては相当に疎い分野であるが、どうにかパクりたい描き方だとも思う。

     難民審査のくだりは、その四角四面さに監督の静かな怒りを感じるが、日本の入管に比べればきちんとマトモな仕事をしているだけに見えてしまう。伝えられている人権侵害をこの監督のように描くことは可能だろうか。

     

    「TOIVON TUOLLA PUOLEN」2017年フィンランド
    監督:アキ・カウリスマキ
    出演:シェルワン・ハジ、サカリ・クオスマネン、イルッカ・コイヴラ

     

    スーパー・チューズデー 正義を売った日
     アメリカ大統領選を題材にした作品だ。民主党の有力候補のもとで選挙スタッフで働く優秀な青年が、清廉潔白な辣腕政治家であるはずの候補者の不正を知ってしまうという筋立てである。
     自らも積極的な政治的発言や活動で知られるジョージ・クルーニーが監督と候補者役を務めているだけに、それっぽい外見も相まって妙に説得力があって期待が高まるところなのだが、クリーンな候補者の裏の顔が実は下半身大胆男だったというのが、今の世相に照らすと矮小に見えてしまう。一人の女性の人生がぶっ壊れているから、重大な事態なのであって、矮小に見えてしまうこっちの感覚がおかしいのだけど。今はそういう時代になっちまってるんですわ、ということは再確認できる。
     最後は「え?終わり??」という締め方だが、これは候補者の不正を告発するかしないか「君ならどうする?」と突き付けているということだろうか。だとすると、口をつぐみそうになる理由は、保身や上昇志向よりは「大義」を設定した方がより悩ましくなったと思う。「確かにこの女性は不幸なことになったが、国のためにはこの男が必要だ」というような理屈である(一応そういう側面も描かれているが、話の展開上隠れてしまっている)。だとすれば、候補者を演じるのは、もっといかにも奔放そうな雰囲気の俳優が演じた方がいいと思う。いや、それよりも、性欲系ではない別の醜聞を設定するべきか。
     アメリカにしろ日本にしろ、従来なら辞任必至の問題が浮上してもそうなっていない理由の一つは、政治家に何か問題が発生して責任を取ることに国民が飽きてしまったということがあると思う。「そりゃあ不適切かもしれないけど、職責を果たすことが優先でしょ」という作用が働き寛容になる。無論、辞任にまでは当たらないものも中にはあるだろうが、一見些細に見えて、これを許してはならないという問題もあるはずで、打つべき釘はしっかり打っておかないと、後でたたって丸ごと崩壊する深刻な事態を招きかねないものである。
     本作の場合は人が死んでいるので看過できない事態なのだが、一見どうでもよく見える失言とか、そんな不祥事の方が問題提起としては有効だったのでは。たかだか7年前の作品だが、政治なり世相なり状況は大きく変わってしまっている。

     

    「The Ides of March」2011年アメリカ
    監督:ジョージ・クルーニー
    出演:ライアン・ゴズリング、ジョージ・クルーニー、フィリップ・シーモア・ホフマン

     


    アンコール!!
     年寄りの合唱団で歌うことを楽しみに生きている病気の妻と、頑迷な夫の物語だ。「007慰めの報酬」で都合よくボンドに(瞬時に)篭絡された上、オイルまみれにされて殺される何一ついいことのない役人を演じた女優が、とてもキュートな音楽教師を演じていて、余計なお世話ながら安堵した。
     夫は妻が病を押して参加することを快く思っておらず、しばしば「妻を守るために」合唱仲間から距離を取らせようとする。妻が没した後は(全く劇的ではない死去のシーンがリアルでちょっとつらかった)自ら進んで孤独を選ぼうとする。その姿に「愛、アムール」を思い出してしまったが、そうならなかったのはつながりだったり歌だったりで、その点「希望のかなた」とも重なってくる。世界は人であり歌なんだな。
     イギリス映画だが、イギリスで合唱というと「ギャレス・マローン」を思い出すが、あれと同様、審査員がやってきて評価が高ければ本選に出れるという大会にこの合唱団はエントリーする。「ギャレス〜」では、合唱の選曲やスタイルというのは幅が広くて自由度が高いものなんだなあと目から鱗だったのだが、それを見たことがある分、クライマックスの「一旦失格になる」流れは要らないんじゃない?と思った。


    「SONG FOR MARION」2012年イギリス
    監督:ポール・アンドリュー・ウィリアムズ
    出演:テレンス・スタンプ、ヴァネッサ・レッドグレイヴ、ジェマ・アータートン


    【やっつけ映画評】スターリンの葬送行進曲

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       邦題がふるっている。スターリン死後の権力争いのドタバタをコメディタッチで描いた作品、という概要によくマッチしている。冒頭に演奏会も出てくるしで。「チャイルド44」同様、ソ連が舞台なのに台詞が英語なのは、ロシアでこんな挑発的な内容が映画に出来るはずもないだろうから諦めるしかない。ただ、コメディにした狙いはいい選択ではなかったのではと思った。


       「清須会議」と似たような話だ。絶対的な独裁者(それはつまり恐怖の支配者でもある)の死後、取り巻きたちが合従連衡しつつ互いを出し抜こうとする。最終的に権力を握るのがフルシチョフというのは知っているが、途中がどうなのかというのは、専門家を除けば余程のロシア好きか社会主義者でなければ知らないのではなかろうか。当然俺もよく知らない。歴史モノの一つの醍醐味は、途中はどうだったのかの臨場感を味わえる点だ。
       単に経緯についての知識を仕入れるということではない。例えば織田や武田が強大な時期に、「実は弱小徳川につくのが結果的には一番有利」とは誰も予測できないわけで、その先の見えなさを後世の人間が実感するのは難しい。フィクションはそれを疑似体験できる点で歴史の解説本とは異なる。なので登場人物が必然の結果に向かうかのように描かれる歴史モノはあまり面白くない。「西郷どん」は割とその印象が強くあまり楽しめない。

       

       本作の場合、後継を争うマレンコフ、ベリヤ、モロトフ、ブルガーニン、カガノーヴィチ、フルシチョフのいずれについても、よく知らない俳優が演じている。知った俳優はピアニストを演じたオルガ・キュリレンコくらい。スターリンの息子ワシーリーを演じた俳優もやけに男前だったが、いずれも脇役だ。要するに、主要プレイヤーに主役っぽい俳優が誰もいないところが、カリスマ死後の先の見えなさをよく表している。

       

       ブラックコメディなので、史実を正確になぞっているわけではないということは見る前から想像はしているが、一方で、ネット情報によれば史実も結構踏まえているようだ(原作が衒学趣味のようにトリビアルな知識を盛り込んだマンガらしい)。例えばラストの裁判〜処刑のシーンについて、「あんな殺し方ありえねー」と感想を書いている人がいたが、ああいう死に方だったという説もあり、それを採用したとみられる。スターリンがぶっ倒れたとき、レコード機に演奏会の録音が載っていたのも本当のことのようだ。
      このような、一見作り話とみえて「実はホント」「実はホント説あり」といった要素が散りばめられているのは、どこまでが本当でどこからが創作か気になりだすから楽しい。「おんな城主直虎」でもよくあった。

       

       このような臨場感を整えた上で、問題はそれらをもって何を描くかだ。
       本作で強調されているのは、共産主義体制がしばしば陥る教条主義的な硬直性や回りくどさ、官僚主義的な責任の押しつけ合い、全体主義的な揚げ足取りといったことがまずある。スターリンの居室で大きな音がするが、勝手なことをして逮捕されたくないので、警備係は様子を見ようとせずにひたすらドアの警護を続ける。やがて発見されまだ息があるものの、医師を呼ぶには閣僚たちの議決がいる。独裁者に触れられるのは閣僚だけなので、その辺に警備の屈強な若者がいくらでもいるのに、オッサンたちがひいひい言いながら巨体を抱えて運ぶ。ところで有能な医師は全員収容所だから、藪医者しかいない――、といった具合である。
       もう一つ強調されているのは、権力争いの醜悪さで、スターリンの娘が到着すると、我先にお見舞い申し上げて歓心を買おうとするといった、わかりやすい出し抜き合いをプレイヤーたちは必死に演じている。

       

       独裁者死後の後継争いというせっかくの題材だが、これら2つはメインにしても仕方がないんじゃないかというのが感想だ。
       先に2つめからいえば、ゴマすりそれ自体を嗤っても安直な権力批判にしかならず、古さを拭えない。

       

       1つめの共産主義体制を嗤う部分は、制作しているのがいわゆる西側諸国になるので、どうしても露悪的に見えて鼻白む。対立していた片方が、相手の愚かさを皮肉るのは党派性がつきまとうからだ。ロシアでは本作が上映中止となり、いかにもロシア政府の閉鎖性を現わしているのだが、旧西側の国に言われてムっとする気分はわかる。西側が完全正義ではないし、西側にだってこの手のお役所的な滑稽さはいくらでもある。「ザーコーヴ」に反発する日本人と似たような感覚だといえる。
       むしろ、今時の世界で問題になっているのは、お役所仕事を徹底的に攻撃した結果起こっている制度の歪みや主旨の喪失だろう。「わたしは、ダニエル・ブレイク」で書いたことが該当する。特に彼らは政府の中枢を担う権力者なので、緊急事態とはいえ法手続きを重視していること自体は、嘲笑するよりその意義を改めて考えてしかるべきだと思う。ま、人命は優先されてしかるべきだと思いつつ、ぶっ倒れているのがスターリンなので助けなくていいんちゃうともつい思ってしまいつつ、であるが。

       

       その点でいうと、ドグマ的だったはずの彼らが、正当な手続きを踏まずイレギュラーな方法で狎亀銑瓩鮗孫圓垢襯薀好箸海修警句とすべき点だろう。恐怖支配の源がいなくなっても、それが継続されてしまう点だ。以下はネタバレになる。

       

       


      【やっつけ映画評】悲情城市

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         子供のころ、NHKで放送していたような記憶もある。少なくともタイトルだけは知っていた(「非情」ではなく「悲情」だというのは最近知った)。が、いざ見ようと思ったら「セデック・バレ」よりも困難だった。台湾映画を代表する作品だと思うが、日本では若干幻の作品と化している。

         

         DVDは通販で買えるがためらう価格である。レンタルはないし、動画配信もネット上の検索では引っかからない。大阪市立図書館は在庫を持っているがリクエスト大好き大阪市民によって結構な順番待ちとなっている。

         

         おとなしく順番を待つしかないのかと思ったら、津の図書館に置いていた。観劇の際に立ち寄ったのは本作目的である。既に書いた事情により、1/3くらいを残して途中でやめたのは、大阪府下でも所蔵があるのを確認していたからでもある。
         というわけで後日、茨木の図書館に行った。津同様レーザーディスクの所蔵で貸出禁止である。館内の視聴コーナーは津のとき同様埋まっているのだろうかと案じつつ、所蔵している中央図書館にいくと視聴コーナーそのものがないという予想外の展開だった。

         

         「いやあ、うちにはもう置いてないんですよ」と、市内の別の図書館での利用を案内された。ただし所蔵はこの中央なので、わざわざ再生機器を置いているところに移送してみることになる。なんのこっちゃ。それにしても事前に電話で聞けばよかった。そう後悔したのは、「中央」という名前の割にはアクセスがやや悪いからで、新駅の総持寺から歩ける距離だと地図で見当をつけていたのが、猛暑もあって無謀な挑戦になってしまったのだった。
         移送の手続きを取って、後日再生機器のある別館を訪れた。開館前に行くべく準備したつもりが少し遅れを取った。案の定、開館と同時に視聴コーナーは占拠されていた。というか、1か所しかないので1人利用の時点で満席となる。電車とバスを乗り継いできているので2時間待つよりほかない。幸いここは図書館なので、時間の活用の仕方はある。休憩がてら、外の喫煙所で煙草を吸っていると、屋根にブルーシートをかけた家屋が目立つのに気付いた。震源地が近いからなあ。

         

         以上のように手間取りながら、大作の鑑賞を終えた。考えてみるとレーザーディスクで映画を見たのは初めてだが、こんなに画像が粗いんだな。VHSと大して変わらん印象だった。そのせいかどうか「本作の影響でロケ地の九份が有名な観光地になった」と語られる説は本当なのだろうか疑わしく思えてしまった。町の印象があまり感じ取れなかった。

         

         大河ロマンの類だ。NHKの歴史モノではなく、海外ドラマでよくある「一家の歴史」を描くテのやつである。冒頭、玉音放送から始まり、台湾から日本人が引き上げていく。半世紀続いた「日本」の時代が終わりを迎え、田舎町の顔役的な一家である林家にも新たな時代が訪れる。この林家と親類や知人らたくさんの登場人物が入れ替わり立ち替わりする込み入った構成だ。「〇〇都市」というタイトルをこれまで演劇で何本か見たことがあり、総じてどれもしょうもなかったが、あれらの演劇がなんとなく理想として思い描いていた世界が本作にはあるのではないかと、演劇的な雰囲気を多少なりとも感じながら見た。まあ単に、登場人物が入れ替わり立ち替わりするところと、視界がカラフルなところが共通しているというだけなのだが。

         

         ある一家(ないしはある町)がたどる波乱に満ちた悲喜こもごも。本作は手短にまとめればこうなる。大河ロマンの定義がまさしくそういうものだろう。その一家なり縁者なりが、実際に起きた歴史的な出来事に翻弄される様子を描くことで、一般人の視点から歴史の激動をリアルタイム的に描くところに魅力がある。本作の場合は、そのような手法で炙り出すテーマが、まさしく「台湾」そのものといっていいだろう。

         


        【やっつけ映画評】花蓮の夏

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           大学在学中に99年に台湾で起きた大地震に遭遇しているので「あの頃、君を追いかけた」と同時代の若者を描いた格好になっているとわかる。被災はするが次の場面ではもう日常に復帰している描き方も共通しているが、作品のタッチはずいぶん異なる。本作はかなり面白く見た。


           若人たちの三角関係を描いている。ただし同性愛を含んでいるのがポイントだ。ちょうど今の日本には図らずしもタイムリーな内容。まあ同性愛への理解云々以前のはるかに幼稚でそれだけに深刻な事態だが。


           主人公ジェンシンは、多動の症状のせいでクラスのトラブルメーカーだったショウヘンの友人になるよう担任から頼まれる。友達が出来ればショウヘンの問題行動もなくなるとの思惑だった。2人は友達同士となりそのまま同じ高校に通うことになる。ショウヘンは、担任の友達作戦が功を奏したのかスポーツの得意な偉丈夫に成長しており、ジェンシンは内気な美青年となっている。ジェンシンと同じクラブの寡黙な女子ホイジャは、ジェンシンのことが好きなのだが、彼はどうやらショウヘンに恋心を抱いていた。ついでにショウヘンはホイジャを意識し始める。

           

           整理すると、ホイジャ→ジェンシン→ショウヘン→ホイジャというじゃんけんの構造になっている。三角関係はそれだけでも当事者はつらいものがあろうが、ジェンシンの場合は同性愛なので余計に大変だ。お気楽なショウヘンが、大学のクラスメイトの女性陣について「でっかい男みてえな女ばっかだぜ」などと軽口をヘラヘラとたたいて無邪気にジェンシンの心を串刺しにする。ホイジャは好きなジェンシンにフラれると同時に、ジェンシンの気持ちを知るだけにショウヘンからの求愛や日常会話にいちいちややこしさがつきまとう。ジェンシンの気持ちも考えなさいよ、と言えればいいのだが、デリケートな秘密につき言えない。


           ただし、ここまでだったら予想の範囲内ではあるところ、本作は一見お気楽なショウヘンにも焦点が当たっているところが見事だった。

           


          【やっつけ映画評】再会の食卓

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             台湾映画ではなく中国の制作だが、テーマは中台の分断である。
             国民党の兵隊として上海から台湾に退却させられた夫・劉燕生と、上海に遺された妻・玉娥。生き別れた2人はそれぞれの地で新たに家庭を築くが、劉が妻に先立たれたのと台湾海峡両岸の雪解けが進んで訪中が可能になったことが重なり、劉が上海の玉娥宅を訪れるところから物語が始まる。実のところ劉は玉娥を台湾に連れて行こうと考えているのだが、玉娥には長年連れ添った夫・陸善民がいるのだった。

             

             分断という歴史の大きな出来事を、個人レベルに焦点を当てる着想は個人的には好物だ。爺さん婆さんの三角関係という構図も面白いし、分断が横たわる分、迫るものがある。なにせ生き別れ当時玉娥のお腹にいた子供が、すっかり禿げあがっているのだ。こんな残酷なことあるかえ。自分も薄毛だからって、禿頭のことを言っているのではない念のため。抑制のきいた演技、特に最も気分が揺れているはずの玉娥の表情が大して変わらないところも、小津映画のような雰囲気を生んでいると同時に迫るものがある。「あの頃〜」のようなライトな台湾ラブストーリーを見た後だから余計に。

             

             ただし、映画は割と拍子抜けする格好で終わる。まず拍子抜けするのは現夫の陸だが、これは拍子抜けというより腰が抜けた、むしろとても面白い展開だと思った。劉のリスタートの思惑に玉娥も惹かれ同意する。しかし陸が何と言うか。いざ切り出そうとすると、実に人のよい陸のいい面がにわかに目についてとても言い出せない(名は体を表す)。そこで劉が意を決して切り出すと、陸は「ええよ」。ええんかい。まるでスリムクラブの漫才だ。あっさり同意する陸の態度は人格がおかしいようにも見えるが、だからこそ分断の時代を経験した年寄りにしかわからない感覚に見えて、これもまた胸を打たれた。

             

             拍子抜けはこの後で、タイトルの割には食事のシーンがあまり印象に残らない上メタファー的な機能も薄かったことと、結局何の変化もないことだ。前者については、同じ「食卓もの」の「恋人たちの食卓」の料理が実に美味そうだったから余計に目についた。だけど後者については、別のことも考えた。

             

             「ええよ」と陸の同意は得たものの、その後いろいろあって、結局劉も玉娥も当初の計画を断念し、劉は一人上海を後にすることになる。結局、中途半端に玉娥の心を揺さぶっただけで何だか可哀想なのであるが、劉や陸にはこれといって変化がなくただの元の木阿弥に見える。また、当初から我関せずの態度を取る玉娥の長男(つまり陸一家の中で唯一劉の血を引く子)は、最後まで劉に心を閉ざしたままで好転もなければ悪化もない。

             

             これを描き方が浅いとくさすのは簡単なのだが、もしかすると中国制作の映画では、この政治的にデリケートなテーマを描くのはこれが限界なのではと思った。そしてさらに深読みすると、上海に残ることに同意したとはいえ未練たっぷりに劉と涙の別れをする玉娥と、諦めを漂わせながら去っていく劉は、大陸と台湾、それぞれのありさまに重なって見えなくもない。
             大陸側は「1つの中国」にこだわり、台湾側は「中国」であることを捨て「台湾」としての独自路線を進もうとする、その政治状況と彼ら元夫婦の姿は割と似ている。だとすると、中国でこんな危なっかしい映画を作った監督の姿勢はにわかに挑戦的に見えてくるのである。

             

            「團圓」2009年中国
            監督:王全安
            出演:盧燕、凌峰、許才根


            【やっつけ映画評】恋人たちの食卓

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               邦題のせいだろう。特に期待せずに見たのだが、とても面白かった。主人公(?)の女優・呉倩蓮が池上季実子に似ていると思いながら見ていたが、そのうち満島ひかりに見えてきた。彼女が80年代風の髪型と化粧をしたらこんな具合になりそう。特に似ているとも思えない2人の女優が呉氏を真ん中に置くとグラデーションでつながる。


               冒頭の料理のシーンから釘付けになる。台湾のかの有名な圓山大飯店で料理長を務めていたという設定の父親が、自宅の台所で宮廷料理的な豪華な中華を調理している姿がテンポよく描かれる。妙に楽しいシーンだ。でかい包丁を細かく扱う器用さに代表されるように、中華は豪快なようで繊細で、そこが映像向けなのかもしれん。宮廷料理っぽいせいか、工程がやけに多く複雑で、そこもまた惹き込まれる。

               

               この引退したシェフ・朱は、妻を亡くした頑固おやじで、年頃の娘三人と同居している。週末は四人でこの豪華料理を囲むのがルールのようで、三人娘のそれぞれの平日の悲喜こもごもが同時並行で進みつつ、定期的に食いきれない豪華な晩餐になる。「三姉妹」がデカい家に同居している点と長女と次女が勝気な点で「海街diary」を思い出した。「小津安二郎のような」という評も目にしたが、あれらの作品と異なり、意外なことにやけに展開が早い。冒頭の調理シーンと同じくスピーディで、そこが本作の大きな魅力だと思う(長女が決意の変貌を遂げるシーンなんか最高)。小津というより、地味にまとめていると見せかけて結構ぶっとんでいる点、川島雄三だと思った。


               家族というのは、特に親が保守的な場合、ルーティンの比重が高い。子供たちが大人になり人格が確立してくると、個人の人生と家族のルールがぶつかりあってくるからそのうち煩わしくなる。とはいえ、こういう家庭の親は家族に対する責任はきちんと果たすから、自身が自身の選択だけで生きて行こうとするのには多少なりとも罪悪感が伴ってくる。特にこの家庭の場合、母親はすでに亡く、父は高齢だから尚更だ。
               

               そういう立ち位置を最も表しているのが、すでに紹介した池上ひかりこと次女の家倩だ。「キャリアウーマン」という言葉がまだ空洞化していないころ、つまり女性の社会進出がまだ新しかったころに男に伍して敏腕ぶりを発揮する優秀な女性で、最初に「家を出ようと思う」と切り出すのも必然に見える。それがどんどん裏切られる展開になっていくわけであるが、男系の色合いが濃い社会では、女性の場合、「結婚する」は「家を出る」と同義であるところがポイントだ。一見時間が止まったような家族だが、結婚によって大きく変動していく。

               

               子供にとっては家族は世界同様、最初からあるものだ。次女の視点に立てば、途中で下に妹が生まれ、母が死去する変化はあったものの、絶対的ともいえる父親がいて、煩わしい姉がいることには子供のころから変わりがない。だから煩わしいと感じると同時に切っても切れない自己存在の確認の場でもあるわけだが、親にとっては自分一人から始まり、伴侶を得て娘が一人ずつ増えていく格好になる。家族はあくまで一つの段階であって、所与の世界ではない。結婚によって家族の構成が大きく変動する中で、父親も一つの決心をするのは自然といえば自然だ。その選択が驚愕のどんでん返しなので家族モノのくせにミステリのような風合いが漂う。「ショックで気を失う」というのは映画やドラマでおなじみの演出ながら、はじめて説得力を感じる卒倒を見た気がした。それくらいのドンデンだった。

               

               こうして父と娘たちそれぞれが自分の道を進み出し、すっかり時間が止まったようだった4人の食卓を終焉を迎える。そういった中で家倩がラスト付近で見せる涙と選択が、家族と食卓(=それまで暮らしてきた家)の関係性をよく表していると思う。面々は誰も死んでいないし、遠くに行ったわけでもないから家族自体は相変わらず存在しているのであるが、今までの食卓がここにあり、これからもあることの意味は、実に煩わしくも憎たらしくもあり、そして同時に美しくもあり愛おしくもある。

               

              「飲食男女」1994年台湾
              監督:アン・リー
              出演:郎雄、楊貴媚、呉倩蓮


              【やっつけ映画評】セデック・バレ

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                 レンタル屋にないので見るのが難しい台湾映画の大作だ。結局図書館の世話になった。昨今、映像作品を所蔵している図書館は珍しくなくなってきているが、レンタル屋には置いていないソフトをきちんと所蔵しておくというのは図書館の役割として重要なんだなあと、普段DVDの蔵書は検索すらしたことがなかったので余計にそう感じた。パブリックってのは、僕らの財産すよ。


                 「海角七號」の監督が、大ヒットで得た金をつぎ込んで、一転して超ハードな作品を仕上げた格好なのが本作だ。実に理想的なやり方じゃないか。「海角」にしろ本作にしろ、その後制作に携わる「KANO」にしろ、日本統治時代の好きな人のようで、全部「日本」が関わっている。そしていずれも長い。「海角」は130分だけど、内容がユルいドタバタなので長く感じた。「KANO」は3時間。そして本作の場合、2部作構成(実質的に前後編)で、いずれも2時間超だから、合計5時間近くある。自然の景色が凄く綺麗な映像と、戦争が絡むあたり、同じく迷惑なくらい長尺の「アラビアのロレンス」と似ている。そして「ロレンス」も、いってしまえば異郷の人々とわかり合えない物語で、本作もしかり。長い。重い。図書館しか在庫を抱えないのも必然とはいえそう。台湾では大ヒットだったそうだけど。

                 

                 日本の統治時代を台湾側から描いた作品といえばそうなのだが、漢民族はあまり登場しない。本作の主人公の名はモーナ・ルーダオで、陳さんや張さんではない。いわゆる原住民族で、実際にその血を引く人々が演じているそうだが、全体的に顔つきが濃く、独自の言葉を話し、農耕民族ですらない。監督は漢族系の人で、彼ら原住民についてあまりちゃんとは知らなかったというから、帝国主義時代の被支配地域で作られた映画とはいえ朝鮮半島のようなシンプルな構図ではない。

                 

                 その原住民たちが植民してきた日本人たちと対立して虐殺事件を起こす。霧社事件と呼ばれる実在の事件が本作のテーマだ。前編(太陽旗)が事件に至るまで。後編(虹の橋)がその後という構成だが、長尺の中で複雑な絡み合いをするような話ではまったくなく、割と単純な物語である。それがここまで長いのはひとえに監督の好奇心を強く押し出しているからだろう。民俗を描いたようなシーンがかなりの割合を占め、セデック族のPVのような感もある。映像的にはかなり魅力的ではあるが、少々しつこさも感じる。今踊ってる場合ちゃうやろと言いたくなる場面とか、何度「虹の橋」と言えば気が済むのかとか、画面に向かってつっこんでしまう部分も無きにしも非ずだった。

                 

                 裏を返せばそれだけ価値観が違う人々だといえる。価値観というより時間の感覚や死生観など何もかもが違うといっていい。この蜂起〜虐殺も彼らにとっては儀式の側面が強いのではないか。なので切迫した場面で踊り出したり同じ言葉を何度も言ったりするように思う。ここで描かれているのは、帝国主義的支配/被支配や、強者による弱者の弾圧といった構図ではなく、文明の衝突のようなものではないだろうか。

                 

                 こういう中で興味深い登場人物が、モーナのライバルであるタイモ・ワリスだ。

                 


                台湾映画あれこれ

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                   台湾映画をいくつか立て続けに見た。これまで「KANO」くらいしか見たことがなかったのは、興味云々というよりは、そもそも視界に入ってきた作品が限られているからで、要するによく知らないせいだ。なので「おすすめ10本!」のようなヤワなサイトから作品名を調べるこことなった。

                   そうして次にわかったのは、日本で見れる台湾映画にはかなりの制限があるという事実で、同じアジアでも韓国映画に比べるとレンタル屋に置いている確率がぐっと落ちる。確認したサイトは、洋画に例えれば1位に「タイタニック」が来ているような超初心者向けだと思うのだが、その10本すらままならない。レンタル屋の閉店が目立って進められている昨今、これはいよいよネット配信サービスの登録かと思ったのだが、そこでも見られないのがあれやこれやの様子。一応日本版DVDの販売はあるのだが、レンタルだの配信だのの市場には乗っかっていないというのは、これはノンフィクションの導入になりそうな一つの発見である。
                   そうこうしていくつかは見れた、そのうちの感想をいくつか。

                  【やっつけ映画評】ラッカは静かに虐殺されている

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                     イスラム国に制圧され犲鹽圻瓩砲覆辰薪垰圓凌諭垢怜綟饋俵譴鯢舛い織疋ュメンタリーだが、見ていて「バタリアン」を思い出した。

                     

                     コメディ風味のB級ソンビ映画という評も見たことがあるホラーである。本作の内容からすると、不謹慎にも思えてきてしまうが、まあお付き合いを。先にオチも含めて「バタリアン」の内容について。軍がひそかに開発したゾンビが間違って移送されて、というご都合主義な展開から、誤って献体の遺体がゾンビ化し、どうにかとっつかまえて焼却処分したところ、その煙が折からの雨で大地にまき散らされ、墓地の遺体が甦ってしまう。こうして町がゾンビだらけになり、にっちもさっちもいかなくなったところで事態を察知した軍がミサイルを発射。町ごと壊滅させて映画は終わる。

                     

                     ゾンビから必死に逃げ回っていた登場人物たちもまるごと破壊される何の救いもないラストである。「それしか方法がなさそうな事態だ」ということが描かれてはいるから、まあそうなるよなあと同意しつつ、結局そんなオチかよ、と工夫のなさに呆れつつ、だったように覚えている。それと同時に、核で全滅させてもキノコ雲から黒い雨が降ったら、また墓場の人々が甦るんじゃないか?とも思ったものだった。「核は燃やすんじゃなくて一瞬で蒸発するんだよ(=だから雨が降っても焼却炉の煙とは結果が違う)」と誰かが得意気に講釈を垂れていた記憶がある。小学生だったはずだが、誰がそんな高度な解釈を披露していたのだろう。

                     

                     以上を前提に本作について。
                     序盤で混乱前のラッカが登場する。普通の地方都市といった趣で、人々が平和に暮らしている様子を見せられるが、その後の展開を知っているだけに、見ていて辛く、かつ貴重な記録でもある。この町に、やがてアサド政権の圧政に抗議する政治運動が波及してきて、激化とともに軍の制圧が始まる。投石する人々に軍が発砲し、という場面は「タクシー運転手」を彷彿させる。しかし本作を見ると、光州事件はまだマシだったとついつい思ってしまう。何せ第三の勢力として、もっと残虐な連中が現れるからだ。統治の揺らぎに乗じて、イスラム国がやってくる。

                     

                     彼らはアサドの圧政からの「解放者」を自称しているが、かつてのドイツにとってのソ連みたいなもので、ナチス政権からの解放者として現れ、代わりに余計にひどい東ドイツを作った。東南アジアにおけるかつての日本軍も解放者を称しつつ、であるから縁遠い現象ではない。とにかく、ラッカを手中に収めたイスラム国は、気に入らない人間をどんどん捕まえて晒し首にしていく(モザイクなしで出てくる)。武器を持った多勢に抗うことは一般人には到底無理だ。でも「服従か死か」の過激で残虐な連中である。白旗を揚げたところで安穏と暮らせるわけでもない。一部の人々は、素人記者としてラッカの様子を撮影し、世界に発信することにする。本作は彼らの戦いを描いている。世界に知れ渡ることで各国首脳が反応し、イスラム国を追い出してもらう、というのが狙いである。

                     

                     もうそれしか方法がないのだ、というのがまずもっての絶望だ。一定数の武装勢力がいて、政府の統治機能が期待できない状況では、そこで暮らす住民にできることは何もない。イスラム国より強い武器を持った勢力を頼むよりほかはない。ただし周辺国や米英等が腰を上げたところで、対策としては爆撃になる。町は荒廃し、住民も巻き添えになる。これが「バタリアン」を思い出した1つめである。

                     

                     ネットを使って撮影した写真や動画をアップしていく報道集団の活動は、必然的にイスラム国にも知られることになる。彼らは死刑宣告を受け、実際に仲間やその家族たちが命を落としていくことになる。「我々が勝つか、皆殺しにされるか」という緊張感の中で、ペンは剣よりならぬ、スマホは銃より強しとばかりに彼らはデジタル端末を使ってラッカの実態を告発していく。今春、学生にスマホをテーマにレポート課題をやらせていたが、ほとんどの学生が「スマホのし過ぎによる睡眠不足」や「歩きスマホの危険性」についてまとめていた一方で、こちらは「告発スマホのし過ぎによる晒し首の危険性」だから、言葉を失う。ドキュメンタリーだから現場の音声を全部拾う分、鼻息がやけに聞こえる映画であるが、それがまた緊張感を生んで寒気がするのである。

                     

                     そうして他国のメディアが取り上げ注目が集まっていくとどうなるかといえば、すでに述べた通りの空爆であるが、当然主人公たちは素直に喜べず、むしろ余計に深刻な顔で頭を抱えることになる。「イスラム国とは人ではなく思想だから、殺しても滅びるわけではない」というのが彼らの考えだ。イスラム国自体が、恐怖の独裁政権を崩壊させたところに出現のきっかけがあるから、指摘は全くその通りである。これが「バタリアン」を思い出したその2で、ミサイルで壊滅させてもまた雨が降って墓場の人々が目覚めるんじゃねえの? いやあ蒸発するから焼却とは、という理屈は核を使用しているわけではないから当てはまらないが、仮に使用して国際政治が認諾したとしても(無理のある仮定だが)、過激派が全部いなくなるとは思えんわね。実際バタリアンも続編が続くのであるが、こちらはただの金の事情。

                     

                     原題は「CITY OF GHOSTS」。「シティ・オブ・ゴッド」のもじりか。双方人がたくさん死ぬ絶望的な街の話だ。冒頭で「ここはゴーストの街だ」というノローグも出てくるが、ゴーストとは主人公たちがいう殺しても死なない「思想」のことか。それともバカ売れしたラブストーリーがごとく、こちらからは見えているけど手が下せない主人公たちの隔靴掻痒をいうのか、逆に向こうからは見られているが、こちらからは存在が見えない恐怖をいうのか。いずれにせよ、あまりいいタイトルとは思えない。というのも、本作の半分は監督が撮った記者の面々への密着映像だが、半分は彼らRBSS(Raqqa is Being Slaughtered Silently=ラッカは静かに虐殺されている)が撮った映像であり、監督の便情感はどうしても抱いてしまう。その点、本作については邦題の方が正解という気がする。配給にはアマゾンが関わっているようで、これは金のゴーストによる便乗か、それとも売れそうにない作品に手を貸すゴーストなりの矜持か。救いのない内容だけに、脇の話に逸れて終わる。

                     

                    「CITY OF GHOSTS」2017年アメリカ
                    監督:マシュー・ハイネマン


                    【やっつけ映画評】タクシー運転手 約束は海を越えて

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                       テロリスト気取りが正義の英雄になってしまう「タクシードライバー」とは正反対に、髪型も服装も全く地味で、不当な抑圧に抗議しているだけがテロリスト扱いされて軍から狙われるタクシー運転手の物語である。軍事政権時代は、南北分断と並んで韓国映画で何度も取り上げられているテーマで、いわゆる鉄板だ。この抑圧と抵抗の時代を経たから、韓国民には政治は変えられるという意識が育ったのだとか、誰かがそんなことを言っていた。文在寅をニュースでしょっちゅう見る東アジア情勢であるが、あの大統領からもそんな雰囲気が漂っていて、延命のために不思議な国語を駆使するだけの本邦の内閣の面々とはダイナミックさにずいぶんと差がある。


                       こういう差は自ずと社会の成熟度に関わってくるだろうから参ってしまう。毎年春先に担当している某大学の授業には今年も留学生が数名いて、余計なお世話だがほっとする。あまり関心できない留学生の集め方をしている大学もあると聞くし、おそらくそうだろうという大学も実際に見たことがあるが、こちらはかなり厳しい条件をへて入学しているので、全員語学レベルは高い。昨年は日本の学生より日本語の文章が上手い空恐ろしいのが一人いたが、今年はそこまでではなくとも、それでもなかなかのレベルである。わざわざ他所の言葉を覚えて来ようとする若人がいるのはめでたいことだ。

                       彼らの中には一見態度が奔放に見えるのもいるのだが、話しかけると総じてやたらと礼儀正しく、ああそうか俺は「先生」だから、彼らの国では「老師」なのかと鏡で白髪をじっと見つめてしまう。このような年長者に礼節を示す若人がいかにも好きそうな連中が、「儒教の国、残念!」みたいな悪口本を書いているのは、党派性がいかにロゴスの不調を生むかという実例だろう。完全に話が逸れた。とにかく彼ら留学生がやってくるのは、この国に学ぶことがあると期待してのことだから、日本も一定以上の成熟国家であるのは間違いない。


                       ただし過去の貯金で生きているという清原的感覚は否めず、分野によってはとっくの昔に残高ゼロになっている。その一つの例が映画界だと思う。是枝裕和がカンヌを獲ったとように、優秀な人は無論いるのだが、少なくとも国内では「脇の方にいる風変りな人」の位置に置かれているのが残高ゼロと評す所以である。大金が動く中央大通りの幅が狭い。

                       

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