【やっつけ映画評】あまくない砂糖の話

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     妻の影響で健康志向の生活をする男が、2か月間、砂糖を採り続けるという「スーパーサイズ・ミー」と似たような人体実験を自らに課すドキュメンタリーだ。「スーパーサイズ・ミー」はファストフードを食い続ける内容だが、あれらの商品にも砂糖がたくさん使われているので、実験結果はまあまあカブっていた。
     大学生のころ、6畳クーラーなしの暑い下宿で涼を取るため、30数円の輸入物のコーラを毎日のように飲んでいたら、中毒のようになってゾっとしたことがある。コーラの上、輸入物だから、あやしげな何かの成分のせいだろうと思ったのだが、何のことはない、犯人は砂糖だった。そんな昔話を思い出しながら見たが、本作の実験がユニークなのは、その方法である。

     一旦私事になるが、今春、某大学の授業でも、学生諸君に実験をしてもらった。無論、健康を害する人体実験ではない。ある大枠のテーマに基づいて、こちらからいくつか大まかな案を示し、あとは各自で自由に考えてもらった。来期も同じことをするかもしれないので、一例だけぼやかして挙げると「ネットの情報は嘘だらけで本の方が正確で信頼できる」というのは本当かどうか、実際に自分で何かを比較して検証する。
     こういう場合に重要かつ難題なのは、実験の方法をどうするかだ。ネット上のある特定の記事と、類似テーマの特定の本を比べて、どちらの内容がいいとか悪いとかだけ比べても、ただの記事評、書評にしかならない。かといって、ありとあらゆる全部の記事、全部の本を比較するのは壮大過ぎて手に負えない。さらには、内容の正確さをどのように測定するのかも考えなければ、ただ比べた感想だけ述べてもアンケートにとどまってしまう。
     いずれも難しいので、ユニークな手法を考え出せた人は若干名にとどまり、大半の学生はユーチューバーの「〇〇をやってみた」レベル(ないしはそれ以下)で終わっていた。俺の兄は、中学のころの自由研究で様々な繊維を燃やして「くさい」「かなりくさい」「普通」と感想を書いた表を作って提出して、理科の先生から「やり直し」と命じられていたが、まあそんな感じの内容だった。その後、改心したのか妙に面白そうな全然別の実験をやって、何かの表彰を受けたが、先日親父から「あれは半分以上ウラがやった」と衝撃の事実を聞かされたものだった。夜中に何度も起きて観測しないといけなかったので、子供には無理だったのだ。
     その点、本作は、実験をやるとはどういうことかを考える初歩のテキストとして参考になるといえる(ちょいちょい演出過剰なところは鼻についたが。難解な話の説明などにコミカルなアニメを使う等の手法は近年のドキュメンタリーでよく見られるが、本作の場合はそのポップさを見せびらかし過ぎ)。単に砂糖を大量摂取して調べるわけではない。従来悪役にされてきた脂肪や高カロリーとの比較のため、実験に様々な条件をつける。平均摂取量の「1日スプーン40杯」分を、低カロリー等、健康志向を謳った食品や濃縮還元ジュース、スムージーなどから主に採る。炭酸飲料やチョコバーは避ける。チョコレートのスナック菓子をむしゃむしゃ食べて体がおかしくなっても原因が霞むからだ。ついでに、今までやっていた運動もそのまま続ける。そうして体の変化を専門家に計測してもらう。結果、摂取カロリーがこれまでの生活と同等かそれ以下にとどまっているのに、みるみる太り、体調もスッキリしなくなる。
     手が込んでいるが、いざ実験をやるとなればこうなるよなあ、とユーチューバー止まりの学生をたくさん見た後だったので、感心しながら見た。実際、体の不調が顕著になったのち、砂糖業界の御用学者的な研究者に取材にいくと「何の成分であれ採りすぎは体によくない」と見事に話を逸らせていたのだが、実験方法に照らすと彼の主張は的外れとなる。
     ただ、当人の実験よりも、アメリカの現状を取材した場面の方が面白かった。例えば「ウインターズ・ボーン」的な貧困地域で暮らす青年は、歯がボロボロで、原因は炭酸飲料(マウンテンデュー)の飲みすぎ。俺が子供のころ、炭酸飲料は歯を溶かすとかいって、コーラか何かに漬けた歯が、ナイフでスライスできるくらい柔らかくなる実験をテレビで見た記憶がある。パオロ・マッツァリーノ「昔はよかった病」によると「すべて極端な実験による恣意的なもの」だったようだ。ところが、その極端で恣意的な行為が日常になっている人間がいるとは。この青年は、1日10本以上飲むらしいが、これくらい飲むと歯を漬け込んでいるのと似た状況になると作中登場する歯科医が指摘している。
     この青年がこうなったのは、親の無知のせいだろうし、もっとさかのぼれば貧困のせいでもあるだろう。やはり巨大食品会社には、啓発の責任があるようにも思うが、食い物の話はあやしげな説がすぐに現れては消えるのでややこしい。数年前の授業でも、「〇〇が危険!」の類のネット情報をまんまと鵜呑みにしてレポートを書いてきた学生が少なからずいたものだった。まあとりあえずは、それぞれ偏らずほどほどに摂取するというので8割方正解とするしかない。
     それでも最近、腹が出てきたこともあり、本作に倣い試しに甘いものは買わないことを試してみることにした。よくよく振り返ると、ついついナイススティックや塩豆大福を買ってしまうことが最近目立っていたような気もするからだ。甘い物がことさら好きという自覚はなかったが、やってみると軽い禁断症状のようなものが出てくる。本作によれば、砂糖は気分や思考力の低下を招くらしいが、今のところ甘いものを控えて頭が冴えてくる実感はない。残念。
    「THAT SUGAR FILM」2015年オーストラリア
    監督:デイモン・ガモー

    【やっつけ映画評】AMYエイミー

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       早世した歌手エイミー・ワインハウスのドキュメンタリーだが、ミュージシャンのドキュメンタリーは大抵、関係者のインタビューと当時のライブ映像やテレビ番組等で構成されるところ、売れる前からも含めた大量のプライベート映像で構成されていた。2000年代に活躍した人だから、普通に大量の映像が残っているということか。スマホで動画を撮るのが日常になっている昨今、こういう構成のドキュメンタリーは今後も出てきそうだが、画面が縦になっている映像ばかりになりそう。
       逆にインタビュー映像はほとんどなく、当時の映像に重ねて関係者の回想がナレーション的に重ねられる。この手法は前に見たと思ったら、同じ監督の作品だった。今回はアイルトン・セナのときとは違って、死去したのがそう昔でもない上、個人的には歌声と外見(と海外お騒がせセレブとして情報番組で紹介されていたこと)くらいしか知らなかったので、単純に「へえ〜」と思いながら見た。そして、結末は死が待っているとわかっている点は、セナのとき同様だった。
       端的にいって辛い内容だった。太く低い声を響かせる野性味あふれるたぐいまれなる才能が、短命という時点で「破滅型」というレッテルが思い浮かぶが、表層的には大体そんな感じだった。両親の不和のせいで、やたらと愛情を求める性向、運命の相手と感じる恋人がチンピラのろくでなしなところ、大量の酒と薬物等々。ただし「表層的」と書いたのは、心底では、これは労災だと思って見たからだ。

       ミュージシャンの早世とレコード会社の責任について論じる文章を初めて読んだのは、ブラインド・メロンのときだったと記憶している。ボーカルが自殺したバンドだが、その1年前にカート・コバーンが自殺しているので、相次ぐロックスターの早死にを、個人の問題ではなく社会問題としてとらえようとした内容の記事だった。あまり覚えていないが、カート・コバーンの場合、年間300ステージくらいやっていたとの記載があったから、過労自殺だったのだろう。
       エイミーの場合は、本作によると、薬と酒と拒食症で、医者から相当危険な状態だと警告されている中、ある日突然死んでいたという状況だった。どうしてそうなったかというのは、本作で2時間かけて説明しているが、単純にまとめれば注目されることからくるストレスないしはプレッシャーだ。ついでに父親が何かとダメなやつで、娘の健康より仕事を優先させる。顔がうっすら百田尚樹に似ていることも手伝って無性に腹立たしく見たが、当人にも言い分はあろうから、本作だけで断罪するのはやめておく。顔の話は言いがかりだが、眉毛の形が似ている。
       才能のある人間が精神的に不安定というのは皮膚感覚では多い印象があるが、実際に相関関係があるのかどうかはさて置き、別に健康優良児だとしても、注目されて過度にストレスをため込むことはいくらでもあろう。特に彼女の場合は、大勢の前で歌いたいわけではなく、歌を作りたかったというのが動機だから、「見られる商売を自分で選んでいる」という指摘は酷だ。
       だったらレコード会社は、もっとすべきことがあったんじゃないのかと思えて仕方がないのだが、セナのときと同様、インタビューは声のみだから、しばしば登場するレコード会社のCEOが、どんな顔をして過去を振り返っているのかがよくわからない。別に誰が悪いのかを探り出す趣旨の作品ではないとはいえ、「偉大な才能の早すぎる死」という、ある意味犲まりのいい疉舛方だけをしても、これじゃあ死を消費するだけで終わりはしないかね。
      「AMY」2015年イギリス、アメリカ
      監督:アシフ・カパディア

      【やっつけ映画評】手紙は憶えている

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         「ラスト5分の衝撃」という煽り文句がついていた。こういうのは大抵後味が悪い。バッドエンドだということもあるし、このラストのどんでん返しのためだけに2時間付き合わされたのかという虚しさもある。
         それでもアウシュビッツサバイバーである老人が、ナチの生き残りを見つけ出して殺そうとするという筋書きに惹かれて見ることにした。で、後味は悪かった。ただし前者のみの「悪さ」で、後者の虚脱は感じなかった。この仕掛けは、ちょっと無理があると思うから、ミステリとしてはB級なのかもしれないが、題材が題材だけに考えさせられる部分はいくつかあった。

         

         先にあらすじを述べておく。妻を亡くしアメリカの老人ホームで暮らすゼヴは認知症で、1日たつと記憶を失う。そのゼヴに、ホームの友人であるマックスが密命を与える。自分たちがいたアウシュビッツで、管理業務に従事していたナチの生き残り(=家族を殺した実行犯である仇)が、名を偽りアメリカで暮らしていることがわかった。その偽名ルディ・コランダーに該当する人物は4人に絞られているので、4人に面会した上で、当人だと確かめられたら殺害する。ゼヴは認知症であるため、計画のすべてをマックスが手紙にしたため、それを懐にしまってゼヴは復讐の旅に出る。

         

         記憶がなくなることと足腰が覚束ないことを除けば、ゼヴは思慮深く、見てくれが偉丈夫なことも手伝ってか周囲も親切で、旅は比較的順調に進む。要所要所で小さなトラブルに見舞われるものの、あまり尾を引くことなく解決するので、どちらかというと淡々と安心して見ていられる。そうして1人また1人と面会していくのだが、人違いである別のルディ・コランダーたち(各自なにがしかの形でナチスドイツとのかかわりがある)にもそれぞれの人生が簡潔ながらも印象的に描かれている。とにかく話の都合上、爺さんばかり出てくるのだが、全員演技が見事だ。

         

         印象的だったのは、外れのルディの1人の息子だ。父の影響でナチ信者になっている。ゼヴが「父の旧友」だと勘違いするや、徐々にナチへの称賛を重ねだし、目の前の爺さんがナチ嫌いという可能性は微塵も考えないその能天気な振舞いが、日本の右翼しぐさの人々と重なって見えた。実のところナチを称賛する彼の父親も、SSや突撃隊といったいわば当事者ではなく、軍の料理人という周辺者だったというのも妙にリアルだった。

         

         さて以下からは、衝撃のラストというのに触れて行く。

         


        【やっつけ映画評】大統領の陰謀

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           楽天の嶋風にいうと、見せてくれよ報道の底力を、というような昨今、改めてこの古典的作品がタイムリーになっている印象がある。アメリカでは、トランプのロシア蜜月疑惑が本作のテーマたるウォーターゲート事件になぞらえている意見も散見しており、本邦ではロッキードになぞらえてアッキードという新語も見られる。そのうちカッケードに発展するのかどうかは当たるもカッケ。

           会社員時代に本作を見たとき、オフィスの椅子が洒落ていること以外は、アメリカも日本も記者の仕事はあまり変わらないもんだと思ったものだった。ダスティン・ホフマン演じるバーンスタイン記者がジャケットにチノパンというスタイルなのも含め。服屋で茶色いジャケットを見つけたので、それと青のシャツとあわせて相方のウッドワード記者を気取った若気の至っていた年頃だった。

           「スポットライト」のところで以前も書いたが、あちらの方が記者自身も自らに突き付けられるものがある分奥行が深いと思う。本作は、ひたすら「ハイエナ」としての記者が描かれている。前にも書いた気がするが、ハイエナは実際見ると、なかなかに誇り高き獣だ。今必要なのは、このハイエナ記者だろう。現場各位への敬意と激励をこめて、本作の内容を紹介したい。

           

          1)眠っていても電話はワンコール以内に取る。

          俺の場合は主にサボって昼寝しているときの対策として必要な作法であったが、「速報性命」を掲げる短気な職場だけに、電話も一瞬で取るのが常識となる。達人になると、鳴る前に取ると言われるが、このウッドワード記者は入社9か月目らしいのに、コール音なしで電話に出ていた。作品冒頭から敏腕を予感させる場面である。

           

          2)ペンとメモがすぐ手に取れるポジショニング

          散らかっていても、メモだけはすぐ取れなければならない。「ほぼ手ぶら」を意味する「財布とケータイだけ持って」という慣用句は、「財布とケータイとペンとメモを持って」になる。

           

          3)記事はとにかく1段落目

          課長より部長、局長より知事、「幹部」より「側近中の側近」、よりエラい地位の人間を出せるかどうかでニュース価値が決まる。なのでエラいやつが記事の内容的には脇役だったとしても、冒頭から登場させなければならない。別の担当者がその1段目を見て見出しをつけるので、時に誤報のような見出しが躍り、ゾッとさせられる。

           

          4)文章を直されることは受け入れる

          少し前のことだが、知人から、職場の同僚が書いたという宣伝用の文章を見せられた。ムード優先で宣伝文句としては再考を要する文面だと思ったが、知人曰く「俺も指摘したけど、これが自分の文章スタイルだと言って聞く耳を持たん」とのことだった。これでは筆力は向上しない。
           ただし、無記名の新聞社の場合、上司、上司の上司、上司の上司の上司が遠慮節操なくギタギタに改変する傾向があるので、これはこれで、当人の成長、やる気、責任の所在、最終的な読みごたえの点で問題がある。稀に署名付きなのに上司が勝手に書き加えてエラい迷惑をこうむるというケースがある。あれは本当に困る。

           

          5)取材は時に手あたり次第

          知っていそうな人間をさっさと見つけて要領よく事実確認をするのが取材の基本であるが、そう都合よくいかないときは、可能性のあるものをしらみつぶしにするしかない。これをさぼると、役所の言うことを右から左へ垂れ流しているだけのムーディ勝山報道になる。「スポットライト」は、これをサボっていたのでしっぺ返しをくった話と理解している。

           

          6)ヒントをほのめかす取材源が言うことは意味がわからない

          秘密をベラベラ話してくれる都合のいい人間はなかなかいないものだが、たまにヒントをくれる人間がいる。守秘義務等で直接的に説明できないため、いわゆる禅問答的に比喩や表情で何かをにおわせてくるのだが、大抵意味はわからない。

           

          7)情報源は受動的
          重要な事実を知っている人間で、多少なりとも協力的な人間がいたとしても、こちらが手ぶらだと何も教えてくれない。こちらから情報をぶつけて初めて答えが返ってくる。じゃあその自前の情報はどっからとってくればいいのか、投資で儲けるためにまず1千万円用意しましょう的な話に聞こえて、疑問が当然湧くのだが、俺に聞かれても困る。

           


          映画の感想:哭声

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             國村隼の演技が凄いらしい韓国映画、という予備知識しかない状態で見に行った。韓国映画+「凄い演技」、ついでにこんなタイトルなら、息の詰まるような重厚なドラマかと勝手に想像していたら、息の詰まるようなオカルトものでびっくりした。これは夢に出てくるぞと思いながら帰宅したが、やっぱりそうなった。夢で逢えましたね隼さん。

             

             評価の非常に高い作品だが、個人的にはあまり楽しめなかった。世評と個人的感想にギャップがあると、何か見落としたかつかみきれなかったかと、そわそわ臆病になる。今回については、一晩考えた末、面白くはなかったと結論づけた。このもやもやした感じは「宇宙人王さんとの遭遇」で書いたこととだいたい重なる。

             

             韓国の片田舎の山村で不審死が度重なる。家族の一人が残りをみんな刺殺するような陰惨な事件。容疑者は気がふれて、湿疹が出ていて、しまいに自分も自殺なり奇病なりで死んでしまうという共通点がある。そして、村の外れには、オカルトめいた噂の尽きない不可思議な日本人が暮らしている。そしてこの山村(谷城という地名で、タイトルと同じコクソン(곡성)と読む。國村サンも音読みすればコクソンだが、韓国語では残念ながらククチョンという読みになる、と半端な知識をひけらかす)で制服警察官として勤務する主人公の周辺でも奇怪なことが続き、やがて娘が何かに憑りつかれたように奇行にはしりだす。

             

             こうストーリーを概説すると、いかにも陳腐に見えてしまう。何度か書いているが、韓国映画は手垢のついたような話でも傑作にしてしまう力があるが、本作に関してはちょっと違う。ジャンル分けを拒むように、何のテの映画なのか簡単に色分けさせない演出で展開していく。内容もよくわからず見に行ったせいで、なるたけオカルト映画だと認めたくなかった(だって怖いじゃん)俺の個人的願望も手伝っている可能性はあるが、それだけではないと思う。

             

             序盤で見せるコミカルな掛け合いのような場面の多彩さもあるが、それぞれのジャンルの文法のようなものをあちこちでちょっと外しているという印象がある(ただし、登場人物がいちいち手際が悪かったり、運動神経が鈍かったりするのは、オカルトものやホラーもの定番の一種のご都合主義なので、そこは見ていてイライラした)。

             

             例えば、國村隼の描き方や演技がそう。何者か、何を考えているのかもよくわからない謎の日本人として登場する。表情が実に乏しいのも、不気味な男という設定上必然なのだが、無表情が怖いというわけでもなく、とにかく無表情で、自宅を壊されても飼い犬を虐められても、怒るでも笑うでもなく、ただそこにいる。主人公たち「こちら側」が、勝手に色々と思い込んで怖れているだけである。ついでに覚悟を決めた主人公たちが襲い掛かると、謎めいた男のはずなのに、普通に慌てた様子で逃げるし。

             

             そういうわけで、やはりこれはオカルトの形を借りつつ、人を疑うことの恐ろしさや罪深さを描き出す文学作品なのかと思わせておいて、どうもやはり違うようなという、しまいまで不思議な作品だった。

             

             ただその結末が、思い返せば思い返すほど、「宇宙人王さん」と同じ図式で不愉快だったので、説明しようとすると同じことのくり返しになる。なので残りは全部、そちらに譲る

             

             一点だけ。「敵か味方かわからないが、どうやら人間ではない魔界(?)から来たっぽい若い女」が、冷たい表情と生意気な言葉遣いでツンケンしているのは、よくある書き割りだと思った。

             

             

            「곡성」2016年韓国
            監督:ナ・ホンジン
            出演:クァク・ドウォン、ファン・ジョンミン、國村


            映画の感想:沈黙-サイレンス-

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               ちょうど見た日に三浦朱門の訃報が流れていた。「ちょうど」というのは、本作の原作者とともに「第三の新人と呼ばれた」と記事に書いてあったからで、このいかにも何も考えていなさそうだった知性の乏しい御仁にも、鋭敏な時期があったのだろうかと、昔の著作を読んだことがないので、少々気になった。学生のころだったか、もう働き出したころだったか、母親が一時期、曽野綾子ともども読んでいて、当時この面倒な放言夫婦についてあまり知らなかったため、何の気なしにチラっと著作を眺めてすぐやめたものだった。

               一方で遠藤周作は、「読まないといけない作家」の入口に位置しているという印象だ。高校のときの読書感想文の課題図書が「海と毒薬」だったというだけのことだが、告発調のテーマ性は、ある意味高校生にはわかりやすかったと思う。さっぱりついていけなかった安倍公房よりかは余程親しみやすかった。といっても内容は重い。「海と毒薬」のときは、友人のショウちゃんが読後に寝入ったら「猫をめった刺しにする夢を見た」と言っていたものだった。俺もゾッとしながら読んだ。それで母親にそんなことを言うと、「沈黙が最も有名で、最も面白い」と言うので読もうとしたが、ある種もっと重そうなテーマにしり込みして結局やめた。

               この映画についても同じで、楽しい作品ではまったくない上、重い内容であるのは見る前からわかりきっているから、だいぶ躊躇した。結局見に行ったのは、義務感のようなものだ。別段、作者に思い入れがあるわけでも、スコセッシ監督のファンというわけでも、宗教的理由があるわけでも何でもないが、「海と毒薬」が課題図書(=宿題)として課せられていたのと同じような位置づけで、見ないといけない映画のような錯覚を覚えてしまったのだった。見に行こうか、だけど重いし長いし、いやでもやはり、と何周か繰り返して、ようやく見た。重い。長い。うーん。

               この重さの種類は、例えばアレッポ空爆の映像を見たときのような重さとはちょっと違う。苛政が日本には無縁だと思うほど能天気ではないつもりではあるが、どうしても距離感は抱いてしまう遠い地の出来事を眺めるときの、いうなれば理屈から来る重さである、この場合は。本作についていえば磔にされるキリシタンのシーンが近い。一方で、「棄教」「転ぶ」を描いた場面は、人が生きる根源的な部分を突かれたような、重いというよりは苦しいという方が正確だった。

               信仰うすき人間(俺もそう)でも、信念くらいは持っている。信念というと、何か大きくて太くて暑苦しいもののような印象になってしまうが、「何となくそれが正しいと思っている」ような日常的なものをどちらかというとここではイメージして述べている。良心といってもいいかもしれない。それを他人から強制されて自ら否定するのは、自己が崩壊するといっても過言ではないほどのダメージを負うものだ。身近なところでは、親を他人から馬鹿にされるのと、濃度は相当違うが、構造は似ている。大して尊敬していなくても、疎ましく思っていたとしても、他人から否定されると、大抵の人は怒る。それもかなり。おそらく、呼吸のようにわざわざ自覚することもない自分自身を構成する根源的な部分を思い切り否定されたような気になるからだと思う。キチジローに漂うあの悲しいような壊れたような感じは、このような自己崩壊を想像させる。

               そういうわけで、信仰篤きバテレンが棄教する様子はかなりの重力が迫ってきて苦しかったのであるが、あまり続けたい話でもないので別のことを考えることにする。 この棄教という行為は、正しいキリスト者であったからこそではなかったかということについてだ。

               宣教師たちは己がいかに痛めつけられても棄教することはないが、自分以外の人々が痛めつけられると棄教した。人々を救うという彼らの立場からすれば、ある意味当然の判断といえる。これが宗教者として判断なのか人間としての判断なのか、その問い自体が愚問なのか、正確なところはよくわからないのだが、少なくとも仮に己の信仰のために周りの信者全員が犠牲になって自分と自分の信仰が守られたとしたとき、宣教師はどんな顔をしているのかちょっと想像できない。信仰心があるから絵を踏むことは躊躇するのだが、以上のようなことを踏まえると、結局信仰心があるからこそ踏みつけたのではないだろうかと思うのである。

               そしてこの信仰を信念に置き換えると、何かとても象徴的な場面に思えてくる。ここでいう信念とは、今度は何かを明確に主張するようなイメージである。1つの文章において、同じ単語の意味がころころ変わるのはムシのいい書き方であるが、まとまらない話をダラダラ書いているせいである。とにかく、人が何かを主張するときに、その主張やその人が信頼に足りうるかどうかは、当人が批判されたときの態度によってある程度判別可能だというヒントでもあろうということだ。さらに「批判を受けて自説を取り下げた」(=棄教)フェレイラが「日本人には所詮神のことはわからない」と周囲を蔑んでいたのも示唆的に見えた。

               そうしてまた話が変わって、踏み絵のシーンについてである。「形だけでよい」と言われているのだから踏めばいいと思う人も多いのではないだろうか。実際そうする人間も登場する。まあそれを頑なに拒むのが宗教だよねえ、私にはわからんけど、と捉える人が大方ではないかと想像するのだが、俺も踏む/踏まないの宗教的な是非はよくわからない。ただこのシーンを見て思い出したのは「やましいことがないならカバンの中身を見せても問題なかろう」の類だ。あれのルーツを見たような気分になった。

               全然まとまらない。上映スケジュールの関係で高槻の映画館で見たのだが、鑑賞後、駅に着くと「高山右近福者に認定!」というのぼりが掲げられているのに気付いた。当地のキリシタン大名が、カトリックの総本山から何だかエラい人に認定されたので、観光PRに活用している格好である。「日本人には所詮神のことはわからない」とフェレイラが毒づいたのも、的を射ていたのかと思えて苦笑した。

              「SILENCE」2016年アメリカ
              監督:マーティン・スコセッシ
              出演:アンドリュー・ガーフィールド、アダム・ドライバー、イッセー尾形


              【やっつけ映画評】弁護人

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                 「映画を見た」という満足感が十二分に得られる作品だった。重厚なテーマ、だけどグイグイ引き込んでいく展開、何より主演の圧倒される演技。最近、おっさんが本気になる内容の映画はすぐ目頭が熱くなる。退屈してるんだろうな。

                 1980年代の韓国が舞台だが、奇しくも今の日本にはタイムリーな内容ともいえる作品だった。

                 新人弁護士のソンは、法改正で弁護士が取り扱える業務が拡大したことに目をつけて、先輩弁護士が目もくれない分野で顧客を開拓して大儲けしていく。ところが彼の行きつけの食堂の息子が、反政府活動に関わったという疑いで逮捕されたことから、彼の無罪を勝ち取るため奮闘するというような物語である。

                 当時の韓国は、軍事政権がまだ続いている。東西冷戦のさなか、北との対立は現在よりも苛烈で、このため反政府分子=共産主義者=北に通じている人間を取り締まるため、公安警察の活動も非常に活発だ。そういう中で、反政府活動に従事した疑いで捕まった若者の弁護をするのは、いってしまえば当時の軍事政権と真っ向対立する格好になるから、自分の身も何かと危うくなる。顧問弁護士を依頼してきた企業が「裁判から手を引かないと契約しない」と言ってきたり、家に不審な電話がかかってきたり、反共団体から卵を投げつけられたり、事務所が脱税の疑いで捜索されたり、あらゆる妨害が降りかかる。

                 ただし、この映画の場合、こういった主人公の受難にはあまり重点は置かれていない。最低限、見る側が不審に思わない程度に出てくるだけで、作品の主軸は、法律とは何か、弁護士とは何かという直球ど真ん中を突いてくる。当然、法廷でのソンの台詞は、法律の条文が出てきたり、公安の横暴を激しく罵倒したり、何かと小難しくかつ感情的でもある。こういうのは、見ている側がついていけなくなったり、白けたりといった危険性をはらんでいると思うが、ぐいぐい惹きつけていく主演の演技力は、呆れるほどだった。本当にすごい役者だ。

                 本作がタイムリーに見えるのは、この公安警察の大きな裁量権を規定した国家保安法が、日本で何度もゾンビのように甦る共謀罪と重なってくるからであるが、それ以上に、社会や人々のありようが色々示唆に富んでいるからでもある。

                 そのことに触れる前に、本作の構成についてだ。重厚な内容ながら、問題の食堂の息子が逮捕されるまでは、結構時間がかかる。前半は、苦学して弁護士になった主人公の人となりを説明する前フリとなっているが、全体に軽妙なノリで「ライフ・イズ・ビューティフル」を彷彿させるチグハグにも見える。「ライフ〜」はナチスのユダヤ人収容所をテーマにした感動作だが、前半は何の映画かよくわからないまあまあ退屈なドタバタを見せられ、多くの人が困惑したり我慢したりしたものだった(俺調べ)。あれほどキツいわけではなく、笑えたり、ちょっと感動する場面もあったり、特に退屈はしないのだが、妙にバランスを欠くようには感じる。
                この前半の役割は何だろうと考えてみるに、軍事政権の時代とはいえ、わりにフツーな市民生活があったということを示す意味があるのではないかと考えた。
                 


                【やっつけ映画評】アルジェの戦い

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                   鹿島が善戦したレアル・マドリードの監督は、かの有名なジダンだったが、この人がアルジェリア移民の出身というのも知られた話だ。試合で点を決めたFWのベンゼマも、ジダンと同じフランス代表選手で、アルジェリア移民の出だとか。地図を見れば、関係性はすぐに想像がつく。

                   アフリカ大陸の、大雑把にいうと左上に位置するこの国は、地中海を挟んで、フランスの対岸にあたる。ローマ帝国の支配ののち、長らくイスラム帝国の勢力圏だったが(高校世界史にはムラービト朝という日本人にはどこか親しみの湧く名前が登場する)、19世紀にフランスの支配を受けるようになった。この映画の台詞の中でさんざん登場する「130年間」という年月は、1830年にシャルル10世がアルジェリアに侵攻したのを指す。ルー大柴にちょっとだけ似たこの時代錯誤の王様は、七月革命によって退位するが、アルジェリアのフランス支配は既出の通り130年続くことになる。この映画は、フランス支配からの独立に至ったアルジェリア戦争を題材にしている。

                   日本で「戦後」といえば、「第2次世界大戦の後」を意味するが、フランスではアルジェリア戦争の後を指す、と何度かあちこちで読んだ記憶がある。「へー、そういうもんか」くらいにしかこれまで捉えていなかったが、この映画を見ると、「戦後」というその気分が、何となくわかったような気分になれた。

                   1966年の映画というから、まあまあ古い映画である。あえていえば、「古臭い」と感じる部分も微妙にある。爆発とか殴り合いとかのアクションの部分で、画面のつながりが若干ぎこちなかったり、明らかに殴っていなかったりする。こういうのは昔の映画ではよく見かけることで、特殊効果に毒されすっかり慣れ切った身からすると、稚拙に見えてしまう。「古臭い」というのはそういうことだ。

                   だが、本作全体のエネルギーからすると、これらは実に瑣末なことだ。一言でいえば圧倒される作品だった。この見る側にも覚悟のいりそうな力強さは、「七人の侍」や「ゴジラ」、同年代制作の作品でいうと、「日本のいちばん長い日」(1967年)あたりを思い出す。共通点は、関わった人間が総じて実際の戦争を経験している点である。その鬱積といおうか、韓国風に「恨」といえばいいのか、うまくいえないがそんな激情が作らせたという点、実に「戦後的」だと思った。本作の監督はイタリア人だが、フランスとも縁が深く、ついでに第2次世界大戦中はレジスタンスだったらしい。

                   作中にも、監督と似たような人物が登場する。アルジェリア民族解放戦線(FNL)を壊滅させるため送り込まれたフランス軍のマシュー中佐だ。物語上は敵役になるが、この人物の魅力が、主人公らしき主人公のいないドキュメンタリータッチの作品をまとめ上げていると思う。

                   会見に臨んだマシューは、集まった報道陣に、君らがアルジェリアの支配を望むのなら、批判をするなと言う。つまり、マシューらフランス軍はあくまで鉄人28号のようなもので、コントローラーを握っているのは国民だというわけだ。国民が支配の継続を望むなら、苛烈な掃討作戦をやるし、望まないなら撤退する。ていのいい言い訳に聞こえないこともないが、マシューの場合は諦観という方がよさそうだ。ほんの10数年前は、レジスタンスをしていたというからだ。ナチスと戦うため、地下に潜り猗鷙臻ヽ萋悪瓩鯏験していたかつての自分は、FNLとどこが違うというのか。それが今や過去の自分の同類を追い回す立場にいる。こうして、ナチスは消えたがフランスの戦争はまだ続いている。それも表裏逆転して。

                   その上、アルジェリアだけではなく、インドシナで、エジプトで、このころのフランスは植民地支配の清算のような分の悪い戦争を戦いっぱなしなのである。年表をみれば、互いが近接していることはすぐにわかるが、マシューのような人物がしっかり描かれていることで、すべてがねじれながら連続している時代の雰囲気のようなものが、わかったような気分になれたということである。

                   さて、本作の登場人物たちは、一様に救いがない結末をたどる。フランス側の勝利、革命の灯は消え失せた、と思わせておいて、ラストで唐突に国民が一斉に蜂起して独立に至る。この唐突さと、取って付けたような感じは、まるで掲載誌の都合ないしは作者の都合で急に終了する連載マンガのようだ。実話かつドキュメンタリー的な作風だから成立する不思議な終わり方だったが、「ラストシーンの先に私たちの犖什澂瓩ある」というチラシの煽り文句が指しているように、「終わっていない」からこそ成立する終わり方なのだと思う。

                   FLNのメンバーの中で、かなり血気盛んで武闘派のアリに、年配の同志が言う。革命をなしとげるのはとても難しくて大変だが、一番大変なのは独立した後なのだと。事実、独裁者を打倒したり、他国の支配を追い払ったりした国が、その後もゴタゴタとしたケースは珍しくはない。主導権争いや大国の思惑などが次なる混乱を呼び込むこともしばしば。アルジェリアも御多分に漏れずである。フィクションに終わりはあるが、現実には終わりがない、ということだが、本作の場合は、ラストが終わりらしい終わりになっていない分、この自明のことが鑑賞後にズシンと響くのである。

                   

                  「LA BATTAGLIA DI ALGERI」1966年イタリア・アルジェリア
                  監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
                  出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ


                  映画の感想・ビリギャル

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                     テレビでやっていたのを、横目で見ているうち、最後まで見てしまった。ひとつには主役の女優の魅力によるところが大きい。この女優、「正統派だ」と、何がどう正統なのか正統でないのかもよくわからないまま呼びたくなる。もうひとつは、自分の受験時代を思い出したからで、机の片隅に受験票を置くところとか、模試の結果の表が給与計算書のように電算機の数表だらけのところとか、懐かしいなあとついノスタルジーに浸ってしまった。弟が、主人公の模試の結果を見せられて「すげー」と驚くシーンがあるが、野球しかしてこなかったという設定だから、あんな数表だらけの書類から「結果がよい」と即時につかみ取るのは難しいのではないかと思った。あと、缶コーヒーでお腹を壊すのは不運だったが、そもそも缶コーヒーを飲むと小便がしたくなるので、試験前に飲むものではない。塾の先生は大人の常識としてそれくらいは助言するべきだったと思う。

                     さて懐かしいついでに昔話を徒然なるまま書くことを許されたし。本作の中で唯一時代を感じたのは、合格発表がインターネットということくらいだった。俺のときはテレックスつまり電報だった。開いたら番号がなかったのでもう一年勉強することになった。田舎には予備校がないので、合格もしていないのに都市部に出る。それで2回目は、大学が電車で行ける距離だったので、せっかくだからと合格発表は直に掲示板を見に行くことにした。志望校を上げようかしらと思うくらい成績がよくなっていたので、見る前から結果はわかっていた。「あ、あった」くらいなもんである。入部勧誘のため合格者を胴上げしているアメフト部の人々が、俺に遠慮気味に合否を尋ねてきた。喜んでいるわけでも落胆しているわけでもない、どっちとも取れぬ顔をしていたからだろう。合格してますよと返答すると、「自分めちゃめちゃ冷静やんけ」と呆れられた。これが人生で関西弁で突っ込まれた第1回目だった。

                     それで同じ大学の別学部を受けていたK君という当時の友人と合流すると「アカンかった」と泣き顔だった。何と声をかければいいのか無論わからず、くだらない慰めを言ったのだと思うが、そのK君はどうしたかというと、滑り止めで受けていた私立大へ入学した。それが本作に登場する慶応大学で、まったくもって嫌味にしか響かない話である。一般的なネームバリューは関西の国立大より慶応の方が断然上で、本作も「慶応」だから成立しているような気もする。それでなぜK君は泣き顔だったかというと、前にも書いたが、我が田舎の場合、全国全部がフラットに見えるというのと、親方日の丸をありがたがる民族性のゆえである。

                     さて、間もなく受験シーズンだからこその放映だったのだろうか。朝日新聞で、大学受験が近づくと、著名人が自分の受験を振り返る連載が載る(毎年なのかその年だけだったのか知らない)。基本的には、スポーツ選手とか芸術系の人とかばかりで、例えば「東京大学卒、通産省を経て参議院議員の川口順子さん」みたいなド真ん中(?)の人は出てこない。「大学受験」とか「偏差値」とかとはあんまり関係なさそうなジャンルで名をなした人が「あの勉強の日々があったからこそ今がある」と振り返るような内容である。東大京大や早慶を出て、省庁の官僚や大企業の勤め人になった人の話は見かけない。何となく嫌味に響くからだろうか。スポーツの場合でこのような企画をやるならプロ選手や五輪選手が選ばれるだろう。山中伸弥が「私は今もマラソンをしています」と読者に呼びかけるような内容は、1回くらいはあっても面白いだろうが、毎回それだと何の連載かわからなくなる。でも勉強の場合は、山中先生が運動を語るような内容がメインになる。

                     まあそれだけ勉強とか学歴というのはデリケートな話題だということなのだろうが、しかしこういう「偏差値30台からの大逆転」のような本は、出ると毎度まあまあ売れる。一方で「体育「1」だったボクが金メダルを取るまで」みたいな本は見たことがない。「弱くても勝てます」という高橋秀実のノンフィクションがあるが、思い出せたのはあれくらい。「弱小野球部の快進撃」は野球漫画の定番だが、大抵スゴい選手が1人はいる中、この本を読むと、特にそういう選手がいなくても、ある程度までは結果は出せるのだということがわかる。ただし、英単語の読み方もわからなかった生徒が、英語のテストで偏差値70まで行くのと同種の話なのかどうかはよくわからない。とにかく、勉強の話は忌避されがちな反面、スポーツよりは、やったら出来る範囲が広いのではないかという印象が、これらのことを踏まえるといえるような。まあ、学歴分断社会と言われている昨今、勉強するとかしないとか以外の問題が大きい中で、本作の成功譚を無自覚に称揚するのは危うい。一方で、努力することは尊いという爽やかな真実が、能天気に語られる世の中でなければならんと思う。

                     スポーツと比較したついでに、本作を見て思い出したのは、上原善広のノンフィクション「一投に賭ける」だった。溝口和洋というやり投げの選手を取材した本で、溝口の一人称で語られるロングインタビュー、ないしは自伝の代筆のような、珍しい書き方の本だった。(余談。ジョー・トーリ「さらばヤンキース」は、著者名がトーリ監督本人なのに、三人称で書いているこれも不思議な本だった)

                     この本が、一人称を選んだ意図は読むとわかる。「求道者」という言葉がぴったりの、本当に「やりを遠くに飛ばすこと」しか考えていない人だからだ。日常の行為全部がやり投げとつながっていて、それと関係のないものには一切興味を示さない。逆に練習そのものは、本当にやり投げに役立つのかどうかいちいち検証する。その突き詰めた感じは、読んでいて息苦しくなるほどだ。でも結局、そうなれるかどうかが結果につながるのだと思う。他のことにうつつをぬかしたり、自分の方法を見つけられない人は、伸びない。その程度が、この溝口氏の場合は極端だ、というだけのことだとは思う。

                     この映画の主人公も、「そうなれた」というのが大きい。一心不乱に勉強して、勉強に関係ないことをしないために、髪を切ってダサい服装をする。勉強のし過ぎで授業ではほとんど寝ているのを、母親が担任に叱られるのだが、「娘は朝まで勉強している。いつ寝ればいいのか」と母は言う。不条理コントのような反論だが「高校の授業は捨てる」というのが彼女の見つけた方法論なのだろう。性根が曲がっていると見えつつ、寝ることを容認したこの嫌味な担任も、その点では立派な教師だと思う。

                     本作の主人公のモデルとなった女子生徒については、「元々賢いのが、サボっていただけ」という批判がネット上には溢れている。それについてどうこう言うつもりはない。ちなみに溝口氏の場合、やり投げを始めた理由もいい加減なものだし、最初はダラダラやっていた。それがあるとき、ちょっとしたきっかけで求道者になってしまった。結果を出せるレベルに達せられるかどうかは、何の分野にしろ、いつ、どこで何かのきっかけや出会いが入あるかどうかということなのだろう。ついでに溝口氏がなぜ、木村政彦ばりの狂気じみたトレーニングを積んだのかといえば「才能に恵まれなかったから」という。才能とはこの場合、主に身長のことで、国際舞台で戦うには小さい部類に入るから、それを補う練習量や作戦が必要だったということだ。その身長は180センチ。日本人の成人男性とすれば高身長の部類になる。「もともと才能があるだけ」をどうとらえるかは、この話をどうとらえるか、でもあると思う。

                    「映画ビリギャル」2015年日本

                    監督:土井裕泰

                    出演:有村架純、伊藤淳史、野村周平


                    映画の感想:高倉健2つ

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                      「君よ憤怒の河を渉れ」

                       「高倉健に嫉妬する田中邦衛が自分と重なって見えて頭を抱えちゃったよ」と知人がしみじみ語るので、本作が気になって見ることにした。その結果、全然別の作品だとわかった。当人が勘違いしていたのか、俺の聞き間違いか、この際どちらでもいいが、とにかく違った。田中邦衛は出ていたがチョイ役だった。何より「嫉妬」とか「自分と重なる」とか、そんな人間の典型を描くような作品ではまったくなかった。

                       強盗強姦の濡れ衣を着せられた検察官・杜丘は、逃亡し真実を突き止めようとするも、警察の包囲網が迫り…、というような王道といえばいいのか、とにかくよくあるパターンのサスペンスだ。古いフィクションは警察の描き方が雑で嘘っぽい、という偏見からすると、(刑事が常時拳銃を携帯している点を除けば)なかなかホントっぽい描き方になっている。杜丘を追い込む刑事を演じる原田芳雄も待ってましたの芳雄節で抜群に恰好いい。

                       期待をもって見ていたら、まずはBGMに耳を疑った。逃亡劇にはちっとも似つかわしくない街ブラロケのような能天気な曲調。これはもしや、無実の罪を着せられた男の悲哀を嗤う映画なのだろうか、というくらい強烈な印象を与えてくる。そして、狡猾な芳雄刑事に追い詰められ、杜丘大ピンチ!という場面。こういう場合、主人公がどこに隙を見つけて逃げ出すのかについて、鑑賞者は固唾をのむわけだが、まさかヒグマが乱入してくるとは思わなかった。ヒグマが明らかに着ぐるみなのは、もうこの際ご愛敬でいいというくらいの意外すぎる展開だ。芳雄、豪快に引っかかれて死にそうになってるし。

                       さらには新宿に潜伏していることがばれ、大量動員された制服警官や私服刑事が杜丘を追い詰めるシーン。ヒロインに電話で助けを求めると、「私がなんとかします!」と妙案ありとばかりに快諾する。こういう場合も鑑賞者はどのような策を講じてくるのか固唾をのむわけだが、すでに頭のどこかではトンデモ展開を予想している。それがまさか「大量の馬」だとは思わなかった。疾走してくる馬群に大混乱になる警察と新宿の群衆。うち一頭にヒロインが颯爽とまたがっていて、杜丘はどうにか難局を脱するのだった。矢吹丈かよ
                       このほかにもツッコミどころ満載の豪快な展開を見せる本作だが、こういうノリの映画のいいところは、黒幕を容赦なく射殺してしまうところだ。この冤罪の背後には大物政治家がいるのだが(杜丘はこの大物の虎の尾を踏んだから消されかけたという構図だが、踏んだ尾の正体がこれまた汚職とかそんなレベルではない全く予想外の代物だった)、この黒幕の関与を証明する証拠はない。こういう場合、主人公の名誉は回復されるもののホントの悪はのうのうとしている、現実ってのは世知辛いね、というのがオチの常道だが、本作の場合は「証拠はあるのか、うははは」「うるせえ!バキューン」(←芳雄)で片が付く。あー、すっとした。時間を返せ。

                       ちょっと面白いと思ったのは、これくらいデカい悪になると、発砲した芳雄を立件すると藪蛇になるので、むしろウヤムヤにされやすい、つまり殺して正解だったということで、ちょっとした発見だった。そして冤罪は晴れたが、杜丘が逃亡中に犯した罪(無免許飛行機操縦など笑)はちゃっかり問われているのは新鮮だった。

                       あとこの可哀想な黒幕が「皇紀2635年の歴史と伝統を忘れて日本を社会主義化しようとする不定の輩に残らず思い知らしてやる」と語る台詞は、日本会議の存在に注目が集まる今見ると、ある意味感慨深かった。現代は、そんな薬学に頼らなくても、世の中あんたの望むようになってきているよと言いたくなったが、本作公開から40年くらいたっているので、この黒幕も年齢的にとっくに死んでいる。社会を「変える」のは時間がかかる。今すぐどうにかしたいなら、薬学に頼れってことか?

                      1976年日本

                      監督:佐藤純弥

                      出演:高倉健、中野良子、原田芳雄

                       

                      「ブラック・レイン」

                       昔2回ほど見たような記憶がある。ただのなんてことない刑事モノだと思っていたが、知った人がこの映画がいかに傑作かを力説していたので、では確かめてみようと改めて鑑賞した。改めて見ると、確かに面白い作品だ。子供時分に見たからと言い訳しつつ、不明を恥じつつ。そして、改めて見てみると、かの有名な、阪急梅田駅のコンコースをバイクが走るシーンで、バイクに乗っているのは松田優作ではなかったと気づいた。優作演じる佐藤の部下だった。これは國村準なのだろうか?

                       本作の面白い部分は、その知人を筆頭に、多くのファンが指摘している通りで、異文化の人間同士が互いを尊重することで成長する点だ。日本の刑事代表である松本は、独断専行的なニックを苦々しく思いつつ、最後は逸脱行為に出る。一方アメリカ刑事の代表であるニックは、同僚の仇でもある悪役の佐藤を、殺すとにおわせて逮捕することを選ぶ。こういう価値観のすっかり成立してしまったオッサンの、確立したはずの価値観が揺らぎを見せると、個人的にはビビっとくる。そしてこういうことが面白いと感じるようになったのは、三十もとっくに過ぎてからだったように思う。

                       さて、ニックと同僚のチャーリーが、大阪に到着したばかりのときに見せる態度は、ほとんど進駐軍である。無論、見たことはないので勝手なイメージだが、「なんで英語を話せるやつがいないんだ!」と言いつつ、英語が通じないのをいいことに、バカにしくさった態度を取る。世界の覇権言語を母語にしている人間の驕りがうまく出ている。都市部の人間は「なんでセブンイレブンがないんだ!」とか平気で言うが、それと同じだ。今時は、スターバックスコーヒーも全国にあるそうだが、都銀は現在でも往々にして地方都市にはないのでご注意を。

                       一方の松本は、実直でクソ真面目な男だから、馬鹿にした態度は取らないのだが、彼の上司はアメリカから来た刑事2人をかなり馬鹿にしている。部外者にウロウロされたくないという縄張り意識もあろうが、アメリカ人なんかみんなチンピラというようなアリガチな偏見が、こちらもうまく出ていると思う。だからこそ、2人の友情と、その象徴的なシーンであるラストが活きてくるのだが、お辞儀で謝意を示そうとするニックに、「親友同士はこうするもんだ」と松本がアメリカ式の握手を求めているところがポイントである。日本万歳流行りに欠けているのは、松本のこの態度だろう。お辞儀スゴいで喜んでどうする。

                       さて、タイトルは、若山富三郎演じるヤクザのボス菅井が、ニックに語る台詞の中に登場する。菅井が「黒い雨」と評するのは、「日本を堕落させたアメリカ式民主主義」のことである。その点、「憤怒の河」と相通じる部分が垣間見えて興味深かった。

                      「BRACK RAIN」1989年アメリカ

                      監督:リドリー・スコット

                      出演:マイケル・ダグラス、高倉健、アンディ・ガルシア



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