再放送

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     ここしばらく「アルジェの戦い」を思い出していた。アルジェリア独立を題材にした古い映画である。主人公たちが当地を植民地支配するフランス軍に対して、これといった有効打を与えられないまま映画が終わる、とみせかけて最後の最後で何の説明もなく唐突に燎原の火のごとく反乱が広がったところで終わる。フィクションでは本宮ひろし作品以外ではあり得ない、取ってつけたもいいところの話の閉じ方であるが、史実をもとにした作品につき、なんかそういうもんかと納得してしまったものだった(「天地を喰らう」も「赤龍王」も、もとをたどれば歴史なのだが)。


     ちょうど黒川定年延長が、この「アルジェの戦い」のラストを思い起こさせたのである。モリカケ桜、どれも世論の反応はそこまででもなく、「民主主義を諦めた国」と評する意見もあったくらいなのに、ここにきてにわかに非難が激しくなった。少々意外というか唐突というか、そんな風な印象があの映画とカブって見えたのである。

     

    この写真も3年前の今頃

     

     特に芸能人が次々意見を表明したのが大きいのだが、日本の場合、ハリウッドスターなんかと違ってそもそも政権批判の類を口にすることは相当に珍しい。だもんでたまにやるとまるで禁忌を犯したかのごとく叩かれるわけだが、なぜ口を開きにくいかといえば「芸能人はなぜ干されるのか?」で詳らかにされているような所属会社との奴隷的契約が影響しているのだろう(今回はそのうち1人が「かわいらしい女子」的雰囲気の人だったので女性蔑視も手伝っている)。生殺与奪を誰かにガッツリ握られている状況では、当たり障りのないことしか発言しにくいものである。政権に近い会社の所属タレントが、政権寄りの発言を積極的にするのも、その裏焼きのようなものである。

     

     就職試験の集団討論というやつで、「若者の投票率を上げるにはどうすればよいか」がしばしばテーマになるが、芸能人の奴隷的契約を是正していくのが1つの方策なのかもね、と報道を見ながら思った。


     それにしても、なぜ盛り上がったのがモリや桜でなく黒川延長なのだろう。ひとつにはコロナ対策のポンコツぶりが下地を作ったからだろうが、検察ってやっぱ人気あんのかな。正義の牙城、みたいな。
     犖〇_革瓩砲茲訐府と検察の対立ならば、お隣の文在寅政権ですでに起こっている。「運命」を読むとよくわかる。「アベガーのお前らの好きな文政権でもやってることだ」と応援団の人々はいえばいいと思う。これまでくそみそに見下してきたことで保たれてきた自我が混線するのか、それとも得意の手のひら返しで平然とできるのか。まずはパラレル韓国SFでおなじみの武藤外務省に書いてほしいのだが。

     ちなみに文在寅の場合、政府が検察に手を付けようとしているところまでは似ているが、党派性を排除しようとしている点、黒川延長とはちょうど正反対の行為になると思うが、そういう本質部分をネグることこそ彼らの十八番だし。

     

     捜査機関は味方につければ頼もしいし、敵にすればいおそろしい。軍隊と似ているが、軍隊の場合は敵に回すとクーデターという超法規的な現象が起こるのに対し、捜査機関の場合は法治主義の枠内で葬られることになるので、ある意味余計におろそろしい。

     なのでどうにか首に輪っかを付けたがる政治家が現れるのも必然である。そういう暗闘を描いた1つが「ザ・シークレットマン」である。FBIを牛耳ろうと人事に干渉してくるニクソン大統領と、ウォーターゲート事件をどうにか立件しようとするFBIとの闘いがテーマだ。「大統領の陰謀」のB面みたいな作品だが、「陰謀」が正義と特ダネをひたすら希求するカラっとした内容なのに対し、こちらは必ずしもそうではない。歯止めのきかない捜査機関の弊害も描いているからである。


     権力はあれば使いたくなるものだし、それが「悪との闘い」になればなおさら。そこに上意下達の支配構造が加われば道理をひっこめ無理を通すことも厭わなくなる。代表的なものが冤罪で、これをテーマにした作品はいくつもあるが、このブログでは以前に「証人の椅子」を取り上げた。

     検察というのは昔から大変におそろしい組織であり、当時の社会はそれを知っていたのではないか。そんな仮説を当時考えたのだが、そこへいくと現代社会はお人よしである。黒川が消えても黒川的な人はいくらでもいる。反対表明をしたOBの人々の中にも、「黒川と対立する黒川」も含まれていたかもしれない。法案が撤回に追い込めれば素晴らしいことだが、でも河井は無論、佐川はどうするんの、桜はどないなんの、という結果を待たないと、最終的な評価はできないんじゃないかしらというところで、やっぱり話はモリに戻るわけである。


     まあそうはいっても世論の反応が薄いまま色々とまかり通ってきたこれまでの流れが変わったのはよいことである。ただし「アルジェの戦い」はそれで大団円となるわけではなく、今につながるはじまりに過ぎないというような感想を当時書いた。同様に、現政権がいよいよコケたとしても、後を伺っているのがサ市・吉村だからな。何だよサ市って。ガ島じゃあるまいし。維新が次にくれば、ブラジルと同じパターンである。周回遅れもいいところだ。ついでに予想した通り、雰囲気で自粛していたものが雰囲気で解除の方向になっているし。

     

     さて再放送でどうにかやりくりしているテレビを真似して、再放送的にこの文章を書いている。「JIN」の再放送も終わってしまった。最終盤は佐分利医師のおもしろい台詞がいくつか目立つのだが、その第一位が「三角は何がしたかったんでっか」である。三角は仁への逆恨みをこじらせ陰謀をしかけてくる医者であるが、戊辰戦争に突入していく社会の激動の中(ついでに最終回も迫っている中)でしょっぼい陰謀をしかけてきてストーリーの邪魔でしかない。まさに「何がしたいんやお前」である。

     社会がどう激変しようと、庶民は目の前のしょうもない保身に一所懸命なんだよなあ、などと当時見たときは思ったものだが、まさか同じようなことを首相がやる場面に遭遇するとはな。

     

     咲と切ない別れの後、救いになるエピローグを届けるのは、「忘れてはいけない」と咲が手紙という記録にとどめるからで、やっぱり記録って大事だよねと、これも当時は抱かなかった感想。

     そのいわゆる時空を超えたラブレターに号泣する仁は、モノローグで「俺はこの日の気持ちを忘れてしまうのかもしれないが、この日の夕日の美しさは忘れない」とか何とかぬかすのであるが、記録しろよ!

     仁は物語の都合上だろうが「高校時代地理を選択したので日本史をろくに知らない」という設定である。なので龍馬暗殺阻止には異様な執念を燃やすが、同時に暗殺される中岡慎太郎については歯牙にもかけない。多分知らないのだろう。結果、命の選択という医者にあるまじき行為をしている。フランスから失意の帰国をしたのはカズだけではない。やっぱ歴史は大事だよね。


    【やっつけ映画評】アルジェの戦い

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       鹿島が善戦したレアル・マドリードの監督は、かの有名なジダンだったが、この人がアルジェリア移民の出身というのも知られた話だ。試合で点を決めたFWのベンゼマも、ジダンと同じフランス代表選手で、アルジェリア移民の出だとか。地図を見れば、関係性はすぐに想像がつく。

       アフリカ大陸の、大雑把にいうと左上に位置するこの国は、地中海を挟んで、フランスの対岸にあたる。ローマ帝国の支配ののち、長らくイスラム帝国の勢力圏だったが(高校世界史にはムラービト朝という日本人にはどこか親しみの湧く名前が登場する)、19世紀にフランスの支配を受けるようになった。この映画の台詞の中でさんざん登場する「130年間」という年月は、1830年にシャルル10世がアルジェリアに侵攻したのを指す。ルー大柴にちょっとだけ似たこの時代錯誤の王様は、七月革命によって退位するが、アルジェリアのフランス支配は既出の通り130年続くことになる。この映画は、フランス支配からの独立に至ったアルジェリア戦争を題材にしている。

       日本で「戦後」といえば、「第2次世界大戦の後」を意味するが、フランスではアルジェリア戦争の後を指す、と何度かあちこちで読んだ記憶がある。「へー、そういうもんか」くらいにしかこれまで捉えていなかったが、この映画を見ると、「戦後」というその気分が、何となくわかったような気分になれた。

       1966年の映画というから、まあまあ古い映画である。あえていえば、「古臭い」と感じる部分も微妙にある。爆発とか殴り合いとかのアクションの部分で、画面のつながりが若干ぎこちなかったり、明らかに殴っていなかったりする。こういうのは昔の映画ではよく見かけることで、特殊効果に毒されすっかり慣れ切った身からすると、稚拙に見えてしまう。「古臭い」というのはそういうことだ。

       だが、本作全体のエネルギーからすると、これらは実に瑣末なことだ。一言でいえば圧倒される作品だった。この見る側にも覚悟のいりそうな力強さは、「七人の侍」や「ゴジラ」、同年代制作の作品でいうと、「日本のいちばん長い日」(1967年)あたりを思い出す。共通点は、関わった人間が総じて実際の戦争を経験している点である。その鬱積といおうか、韓国風に「恨」といえばいいのか、うまくいえないがそんな激情が作らせたという点、実に「戦後的」だと思った。本作の監督はイタリア人だが、フランスとも縁が深く、ついでに第2次世界大戦中はレジスタンスだったらしい。

       作中にも、監督と似たような人物が登場する。アルジェリア民族解放戦線(FNL)を壊滅させるため送り込まれたフランス軍のマシュー中佐だ。物語上は敵役になるが、この人物の魅力が、主人公らしき主人公のいないドキュメンタリータッチの作品をまとめ上げていると思う。

       会見に臨んだマシューは、集まった報道陣に、君らがアルジェリアの支配を望むのなら、批判をするなと言う。つまり、マシューらフランス軍はあくまで鉄人28号のようなもので、コントローラーを握っているのは国民だというわけだ。国民が支配の継続を望むなら、苛烈な掃討作戦をやるし、望まないなら撤退する。ていのいい言い訳に聞こえないこともないが、マシューの場合は諦観という方がよさそうだ。ほんの10数年前は、レジスタンスをしていたというからだ。ナチスと戦うため、地下に潜り猗鷙臻ヽ萋悪瓩鯏験していたかつての自分は、FNLとどこが違うというのか。それが今や過去の自分の同類を追い回す立場にいる。こうして、ナチスは消えたがフランスの戦争はまだ続いている。それも表裏逆転して。

       その上、アルジェリアだけではなく、インドシナで、エジプトで、このころのフランスは植民地支配の清算のような分の悪い戦争を戦いっぱなしなのである。年表をみれば、互いが近接していることはすぐにわかるが、マシューのような人物がしっかり描かれていることで、すべてがねじれながら連続している時代の雰囲気のようなものが、わかったような気分になれたということである。

       さて、本作の登場人物たちは、一様に救いがない結末をたどる。フランス側の勝利、革命の灯は消え失せた、と思わせておいて、ラストで唐突に国民が一斉に蜂起して独立に至る。この唐突さと、取って付けたような感じは、まるで掲載誌の都合ないしは作者の都合で急に終了する連載マンガのようだ。実話かつドキュメンタリー的な作風だから成立する不思議な終わり方だったが、「ラストシーンの先に私たちの犖什澂瓩ある」というチラシの煽り文句が指しているように、「終わっていない」からこそ成立する終わり方なのだと思う。

       FLNのメンバーの中で、かなり血気盛んで武闘派のアリに、年配の同志が言う。革命をなしとげるのはとても難しくて大変だが、一番大変なのは独立した後なのだと。事実、独裁者を打倒したり、他国の支配を追い払ったりした国が、その後もゴタゴタとしたケースは珍しくはない。主導権争いや大国の思惑などが次なる混乱を呼び込むこともしばしば。アルジェリアも御多分に漏れずである。フィクションに終わりはあるが、現実には終わりがない、ということだが、本作の場合は、ラストが終わりらしい終わりになっていない分、この自明のことが鑑賞後にズシンと響くのである。

       

      「LA BATTAGLIA DI ALGERI」1966年イタリア・アルジェリア
      監督:ジッロ・ポンテコルヴォ
      出演:ブラヒム・ハギアグ、ジャン・マルタン、ヤセフ・サーディ



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