陶器と投球

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     というわけで、中之島香雪美術館「中国のやきもの」展に。
     タイトル通り、中国ど真ん中の展示。こう並べられると、やはり白地に青の絵付けの皿が普通のものに見えてしまうからいい加減なものである第二章。


     陶磁器は、自分が普段使いしているところを想像して欲しくなるものを好んで見ているだけなので、自身の生活とは縁遠いカメや壺の類はあまり興味がわかない。なので、この器欲しいな…、と眺めているだけに終わるわけだが、今回は1点だけ、水差しみたいな茶道具の色がやけに綺麗でじーっと眺めていた。あまりに見入っていたからか、「綺麗よねえ」と隣で見ていたおばちゃんが話しかけてきた。


     これらこの美術館の収蔵品は朝日新聞の創業者・村山龍平のコレクションをベースにしている。展示の中には「川崎重工の創業者が持っていたけど金融恐慌で村山家に所蔵が移った壺」なるものもあって、近現代史のまつわり感が濃い。この時代の財界の人間は総じて中国陶磁器好きなので、この手の展覧会は必然戦前史に並行する。そしてこれもまた「日中関係史」が記すごとく、中国美術には詳しいけど中国についてはよく知らないという事実の現れだと思う。

     

     この村山は先日の「いだてん」に一瞬だけ登場していた。第2部の主人公・田畑を「顔がいい」と採用を決める鶴の一声を言うだけのチョイ役であったが、「第1回の甲子園大会で始球式を務める袴&麦わら帽のジジイの写真」のあの当人としてよく知られていると思う。


     この「いだてん」は半分惰性で見ていたのだけど、萩原健一が出てきたところで「見ててよかった」と思った。遺作になったからこっちが勝手に価値をかさ上げしているところはあるにせよ、何だこの恐ろしい迫力。テレビで俳優を見てかっけーと思ったのはいつ以来だろう。電話で名前を名乗って座っただけの演技なのに、どうやったらこんな存在感を出せるのだろうと考えると、必然、やっぱ無軌道ぶりが要るんじゃねえかとつい思っちゃうよね。でも違うんだな。それが正しかったら、他にもっと格好よくなる勘定になるアウト人生な人間はいくらでもいる。じゃあ何だと言われると、わかるかよ。

     

     半分惰性と書いたが、実のところ最近は割と面白く見ていた。序盤がキツく感じてしまったのは、展開が複雑だとか戦国じゃないとか、模範解答いっちょ上がりな芸能記事の陳腐な分析とは全く別の理由で、単に主人公の金栗四三が好きになれなかったからだ。気が回らないかなり幼稚な人のくせに周りからそれで許されているところが、自分のダメな部分(もしくは会社員時代の同期のK)を思い出してイライラさせられたのだった。

     

     それが女学校に赴任することになってからは面白く見た。スポーツを通じて女子学生を変えていくところは、「コッホ先生と僕らの革命」を彷彿とさせる。そういえばあの映画でも、当時のドイツには「スポーツ」はなく、精神修養的な体操だけがあったとしていて、「いだてん」の肋木教官と同じ情景が描かれている。貴族の息子がサッカーというお下品な競技に興じていくさまや、その父親が激怒して主人公である教師を妨害してくるのも同じ展開だった。


     スポーツはルールさえ理解すれば、どこの国の人間だろうと同じ舞台で戦えるという点で元来グローバルな存在である。勝つためにはローカルを捨てないといけないこともしばしばで、日本式泳法にこだわっていた連中が五輪で惨敗してあっさりクロールに宗旨替えする場面はその一例だ。そして単に競技についてだけでなく、社会の価値観を揺るがすこともある。

     異形の化物扱いされて自己を否定されてきた人見絹江がその才能を開花させていくくだりは、日本人がメダルを取ることとは別次元の意義があり、この辺りのドラマは胸が熱くなる。演じている役者も狼のような鋭い雰囲気を出していてかなり格好いい。ショーケン以外にもいたな。格好いいのが。


     というような、もしかすると啓蒙思想よりも「平等」の理解に役立ちそうな側面があるはずのものが、「体育会系」=上下関係という構図に飲み込まれていったところを見ると、ローカルの価値観侮りがたしである。「美」は普遍的なもののようでいて、明朝の焼物がオスマン帝国に渡ると宝石があしらわれるみたいなものか。

     美術の場合は別に好き好きの話だし、面白がればいいだけのことだろうが、こちらスポーツの場合は、結果生み出されていることが暴行だったりパワハラだったりするからなあ。

     このドラマは日本のスポーツの発展に尽力した人々の物語ではあるものの、だからといって日本の日本のとそこばかり着目するのはスポーツの本義みたいなところからズレてくるのだろう。その点、オリンピック憲章は大事なこと書いてるよね。


    【やっつけ映画評】コッホ先生と僕らの革命

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       以前に大阪市の論文試験を紹介したが、大阪府の論文試験も興味深い。
       長いのでリンクhttp://www.pref.osaka.lg.jp/jinji-i/saiyo/26may_ronbun.htmlにしておくのでご覧になっていただきたい。
       さてどうだろう。この「Aさん」の主張は、容認側の意見として代表的なものを手堅くまとめた内容だ。よく目にするだけに陳腐な意見に見える人もいるだろうし、確かになあと共感する人もいるかもしれない。いずれにせよ、問題文に従って論理的に反論しようとするとなかなか難しい。

       本作は、予告編、チラシのデザイン、ストーリー紹介等々から想起されるイメージを、ほどほどなぞったベタな展開をみせる。最初反発していた生徒は、次第に主人公たるコッホ先生を慕うようになり、一方で今でいうPTA側と他の教員は彼を嫌い、排除しようとし――、とまあベタだ。コッホ先生を何とか擁護しようとする校長は、船越英二(@熱中時代)に見えてきたものだった。これで、「保護者の顔色を伺い過ぎる小者の教頭」と、「最初は教育観の違いから小うるさい学年主任が最後は暗に協力してくる」の二つがあれば完璧だった気がするが、とにかく大まかには予想通りのベタな展開を辿る。それでいて、全くチープになることなく非常に面白かった。

       一つには、毎度お馴染みの「実話に基づく」の力だろうが、何より、教育はどうあるべきかというテーマが時代や国を問わず普遍的に感じるからだと思う。いやもしかすると、こんな話はドイツと日本にはぴったりくる話でも、他の国ではそうではないのかもしれないが。

       それこそ、大阪府の論文試験のような話だ。英語教師として赴任したコッホは、教育の一貫としてイギリスから持ち帰ったサッカーという見たこともない球技を生徒にやらせる。コッホがサッカーを通して伝えたいのはフェアプレーの精神なのだが、敵国生まれの珍奇な球遊びに、周りの大人は反発する。何より、彼らが重んじるのは規律や序列だから、自由と平等を体現しようとするサッカーが危険に見えるのだ。

       本作が面白いのは、彼ら大人が懸念する牋影響瓩、コッホ着任後の子供たちに現れている点だ。この学校の生徒は、軍隊式に統制が取れていて実に行儀がいい。何しろ、規律を乱せば棒でたたかれるし、退学にもなる厳しさだ。折り目正しく教員に礼節を尽くす(にしても、あの変な挙手の仕方は何なのだろう)。それがコッホにサッカーを教わると、子供らしく伸び伸び自由闊達になり、教師に悪戯をするわゲスト講義(?)にやってきた軍人に悪態をつくわ、しつけのたががゆるんでくる。大阪府の論文に登場するAさんも、それみたことかと溜飲を下げるやもしれない。

       むろんコッホはそのようなことは奨励していない。彼らの態度を咎め、それはフェアプレー精神に反すると、彼の信念に基づきながら説教を垂れるのであるが、彼の教育がもたらした副産物であるのは間違いない。では、やはりコッホ以外の他の教師のように、子供を棒でたたくのがよいのかどうか。いまだに試験問題になるのだから、多くの現代人にとっても難しい問題なのだといえる。

       ところで秩序はともかく、序列とは何か。これは歴史的なお話である。本作が、誕生したばかりのドイツ帝国を舞台にしているその時代背景と関連している。
       ドイツという国が誕生したのは比較的新しい。いや、いわゆる「国」という概念が成立したのが17世紀になってのことから、というのが教科書的なお話なのだが、とにかくフランスやイギリスに比べ、ドイツの前身プロイセンは、近代化という点で遅れをとっていた。先日のイギリスの総選挙で、史上2番目に若い二十歳の国会議員が誕生したが、ニュースによると史上1番目は、17世紀にいたという13歳の議員らしい。元服か、という年齢だが、驚きはどちらかというと17世紀に既に議員がいたというその歴史だ。フランスもすでにこの時点でフランス革命から九十年ほど経過している。

       というわけでプロイセンは、トップダウンで急ピッチで近代国家作りを進めた。日本史でいうところの富国強兵であり殖産興業であり、そして社会契約論をベースとした近代的法治国家の制度設計である。こうして急速に力をつけたプロイセンは、ナポレオン3世率いるフランスとの戦争に勝利し、ドイツ帝国の樹立を宣言する。つまりいけいけどんどんの新興国。劇中、コッホが何度も割ってしまう額縁の肖像画は、皇帝ヴィルヘルム一世のものだが、出来たばかりの帝国だけに、このような統一のアイコンが積極的に必要だったのだろう。日本も同じだったが、こういうとき、「遅れをとっている」という劣等感と、「俺たちはもうかつての強国を超えた」という自負心の相反する二つがまじりあって、むやみやたらと排他的攻撃的になる。おかげで英語などという敵性言語をなぜ勉強せねばならんのだ、となるし、オランダのような「弱小国」は鼻で笑って馬鹿にする。

       本作に関係があるのは、この近代国家の制度設計のうち、「帝国教育条例」と翻訳されている教育制度だ。義務教育みたいなもので、富裕層の子供も労働者階級の子供も、同じ教室で学ぶ。大人たちが「教育の実験」などと揶揄混じりに呼んでいることから、彼らには目新しくかつ目障りな制度だ。なぜなら同じ教室に分際をわきまえない労働者風情が机を並べているからだ。なのでクラスの番長格であるハートゥングの父はコッホに噛みついていると同時に、実のところは帝国条例をクサしているのだろう。彼はユンカーなのか何なのか、とにかく地元の名士=支配者層である。彼のような旧体制における上位の人間が反発するのはわかるが、教育者の側もこのハートゥング父と対立しない。それは彼が学校の後援会長的重要人物だから、というのもあるだろうが、彼らの教育観がハートゥング父とは対立しないからだろう。序列が秩序と規律に親和性が高いのは、平等を謳うコッホがクラスに牋影響瓩鬚發燭蕕靴燭海箸領⊂討として明白である。

       別に歴史の知識をひけらかしたくてこんな話をしたのではない。これは遠い昔のお話か?という問いかけをしたかったからであり、この話は問いかけだけにとどめておく。

       現代人の価値観からいえば、大半の人がコッホに共感するだろう。しかし、コッホのやり方は、遠回りをする。効率が悪い。棒でたたいた方が手っ取り早い。しかし、それでは子供の側に失われてしまうもの、ないしは決して得られないものがあるということを本作は暗に示していると思う。そして昨今語られる教育改革的なお話の多くは、効率のよさを求め、効率の悪いものを捨てる。
       この映画を踏まえると、大阪府の論文のAさんへの反論の材料に事欠かないわけだが、最後の一つだけ付け足しておくと、「親が叩いていいといっているからやっていい」という理屈は、「親が駄目だといったらやってはいけない」になる。そして、コッホの授業は親からは非難ゴウゴウだった。

      原題 DER GANZ GROE TRAUM
      製作年 2011年
      製作国 ドイツ
      監督:セバスチャン・グロブラー
      出演:ダニエル・ブリュール、ブルクハルト・クラウスナー、ユストゥス・フォン・ドーナニー


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